伝統板・第二

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賢者の一日一言(R3年5月) - 夕刻版

2021/05/02 (Sun) 00:01:12

このスレッドでは、過去に紹介した次のスレッドから、
日々の言葉の数々を再度紹介してまいります。

(1)伝統板・第二「祝福神~宇宙賛歌日めくりカレンダー」(小林正観)(5月のみ)
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7860110

(2)伝統板・第二「『一日一語』(森 信三) 」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6714587

(3)伝統板・第二「佐藤 一斎・一日一言」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7938814

(4)伝統板・第二「中江藤樹・一日一言」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7939087

(5)伝統板・第二「ひかりの一日一言50~埋蔵されたる力」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7859655


賢者の一日一言《1日》


(1)【 5月1日 】 《宇宙賛歌・日めくり1日》

   【祝福神】

   うれしい

   たのしい

   しあわせ

   あいしてる

   だいすき

   ありがとう

   ついてる

     (https://ananda358.com/kobayashiseikan/calendar-001/ )

・・・

(2)【 5月1日 】

   われわれ人間は「生」をこの世にうけた以上、
   それぞれ分に応じて、一つの「心願」を抱き、
   最後のひと呼吸までそれを貫きたいものです。

・・・

(3)【 5月1日 】 勇気のみなもと

   敬は勇気を生ず。

                      (言後録 八八)334

   【訳】

   尊敬の念があれば、そこから勇気が湧き出てくる。

    〇吉田松陰は『士規七則』の中で、「士の道は義より大なるはなし。
     義は勇に因(よ)りて行なわれ、勇は義に因りて長ず」と言っている。

・・・

(4)【 5月1日 】 人の異見を聞く

   惣(そう)じて悪心(あくしん)悪行(あくぎょう)の人も
   いまだいましめをきかざるうちは、猶(なお)悪(あく)をあらため善(ぜん)に
   うつるべきたのみあれば、其(その)罰(ばつ)すこしゆるし。

   異見(いけん)を聞(き)てあらためざる時は、
   その悪かたく定(さだま)るゆえに、其罰すみやかなるものなり。

               (「鑑草」巻之一 孝逆之報)

   【訳}

   おおよそ悪心、悪行の人も
   いまだ戒めを聞かされていないうちは、なお悪をあらため善に
   移ることのできる期待があるので、その神罰はすこしゆるい。

   (しかし)

  人の異見を聞いてなお改めないときは、その悪心かたく定まっているゆえに、
   その神罰はすみやかにくだされるのである。

    ○例話~年十八で嫁いだ李氏は、しゅうと・しゅうとめによく孝行をつくした。
        家は貧しくて朝夕の食事も満足でなく、わが身は食べなくても
        両親にはよく勧めた。

        その嫁の孝心に天帝は感激されて、両親の寿命を延ばし、
        嫁には大金をあたえて幸福に過ごした。

        その隣の嫁は、口が達者でいつもしようと.
        しゅうとめに逆らっていたので、
        李氏はいつもその嫁に異見をしたものの、聞き入れようとはしない。

        ついにはその家に落雷して焼き殺された。

・・・

(5)《1日 新たに発掘する力》

   新たに目覚める時が来たのである。
   今が時である。
   今が新生の時である。

   私たちは五官を通して物質界と接触して生活している。
   しかし、それが私たちの生命(せいめい)のすべてではないのである。
   私たちは魂を通して、目に見えない不可知の世界と
   連関して生活をしているのである。

   そして目に視える物質界の生活は、
   その不可視の世界の大いなる力に支えられているのであり、
   その不可視の世界の一部分を成しているのである。

   それに目覚めることが、真に「新たに生まれる」ことである。

   ウィリアム・ジェームズは心理学と哲学と宗教とを日常生活に
   結びつけることに成功した最初の学者であったが、

   「人間は平常は自分の内にある力の25%しか使用していないのであって、
    あとの75%はそれを自覚したときあらわれる」

   と云うことを説いたのである。

   「人間・神の子」その真理はこの”埋蔵されたる力”が
   自分の内にあることに目覚めるための根本的真理である。

       「眞理」第9巻生活篇第13章(P344~345) より

           <感謝合掌 令和3年5月1日 頓首再拝>

賢者の一日一言《2日》 - 伝統

2021/05/02 (Sun) 19:50:44



(1)【 5月2日 】 《宇宙賛歌・日めくり2日》

   【生まれてくれてありがとう】

   この時代、
   この宇宙に、
   この銀河に、
   この太陽系に、
   この地球に

   あなたが
   生まれてくれて
   ありがとう。

     (https://ananda358.com/kobayashiseikan/calendar-002/ )

・・・

(2)【 5月2日 】

   多少能力は劣っていても、
   真剣な人間の方が最後の勝利者となるようです。

・・・

(3)【 5月2日 】 寝食を慎む

   能く寝食を慎むは孝なり。

                        (言後録 九三)339

   【訳】

   毎日の食事と睡眠を慎んで健康を保っていくのは孝行である。

    〇『孝経』には「身体髪膚これを父母に受く。
      敢えて希少毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり。
      身を立て道を行ない名を後世に揚(あ)げて、
      以て父母を顕わすは孝の終りなり」とある。

・・・

(4)【 5月2日 】 生活のすべてに

   孝行というは 舅姑(しゅうとしゅうとめ)によくつかえるのみにあらず、
   貪瞋痴(とんじち)の三どくをのぞきすて、慈悲柔和の心を明(あきらか)にし、
   節を守り、子におしえ、奴(やっこ)になさけふかく、すぎわいのかせぎをつとめ、
   かりそめにもいつわりをいわず、無道(ぶどう)をはたらかざるにいたるまでも
   皆孝行なり。

                   (『鑑草』巻之一 孝逆之報)

   【訳]

   孝行というのは、しゅうと・しゅうとめによく仕えるだけではなく、
   貪欲・瞋恚(しんい)・愚痴の三毒をのぞき捨てて、慈悲と柔和の心を明らかにし、
   節義をまもり、子に(聖賢の)道を教え、召使いには情けぶかく接し、
   生計のかせぎをつとめ、かりにも人に偽りをいわず、
   道理にはずれるのをおこなわないことまでも、すべて孝行なのである。

     ○貪瞋痴~ふかい欲、怒り、ぐちの三毒。仏教用語

・・・

(5)《2日 吾が生命(せいめい)の神秘さに目覚めよ》

   人間の内部の不可視の力は常に私たちの肉体の消耗を補充し、損傷を修復し、
   生理作用を内部から調節しつつあるのである。

   この不可視の力を欠如しては人間は生活できない。
   この不可視の力は、人間に宿っている神の力である。

   私たちはこの内部の不可視の力を礼拝し、
   この内部の不可視の力に感謝しなければならないのである。
   それは”神の力”であるとともに”人間の生命力”である。

   肉体は「人間そのものではなく、この生命力がそれ自身を表現するための
   器官であり、道具であり、媒介であるに過ぎない。」

   生長の家の光明宣言の第一ヶ条に、
   「吾等は宗派を超越し、生命(せいめい)を礼拝し、生命(せいめい)の法則に
    随順して生活せんことを期す」
   と書かれているのは其のためである。

   生命(せいめい)は「神」である。
   私たちの「生命(せいめい)」そのものが「神」である。

   それに目覚めるのが新生である。

         「眞理」第9巻生活篇第13章(P345~346) より

           <感謝合掌 令和3年5月2日 頓首再拝>

賢者の一日一言《3日》 - 伝統

2021/05/03 (Mon) 19:04:11


(1)【 5月3日 】 《宇宙賛歌・日めくり3日》

   【努力】

   努力しつつ、
   宇宙に呪いを
   いう人は、

   宇宙を敵にし、
   自分だけで
   戦っている。


   努力せずとも、
   宇宙に感謝を
   いう人は、

   宇宙を味方に
   宇宙とともに
   生きている。

  (https://ananda358.com/kobayashiseikan/calendar-003/ )

・・・

(2)【 5月3日 】

   毀誉ほうへんを越えなければ、
   一すじの道は貫けない。

・・・

(3)【 5月3日 】 箴言は心の鍼

   箴(しん)は鍼(しん)なり。
   心の鍼(はり)なり。

   非幾(ひき)纔(わず)かに動けば、
   即便(すなわ)ち之(これ)を箴すれば可(か)なり。
   増長するに至りては、則ち効を得ること或いは少なし。

   余、刺鍼(ししん)を好む。
   気体(きたい)稍(やや)清快ならざるに値(あ)えば、
   輒(すなわ)ち早く心下(しんか)を刺すこと十数鍼(しん)なれば、
   則ち病未だ成らずして潰(かい)す。
   因(よ)って此(こ)の理(り)を悟る。

                      (言後録 九一)337

   【訳】

   箴言(戒めの言葉)は、心に刺す鍼のようなものである。

   わずかにでも心に不善のきざしが生じたときには、
   箴言の鍼を打ち込めばよい。
   不善の心が大きくなってしまってからでは、効能は少ないだろう。

   私は鍼を打つのが好きで、気分が少しでもすぐれないことがあると、
   すぐに十数本の鍼を眼にの下にに打つ。

   すると、病気になる前に癒えてしまう。
   このことから、この道理を悟ったのである。

・・・

(4)【 5月3日 】 善悪の報い三十年

   凡(およそ)善悪のむくい大(たい)りゃく三十年をかぎりとあれば、
   あしたに善をなして夕(ゆうべ)にむくいをまつあやまりを
   よくわきまえるべき事なり。

                   (『鑑草』巻之一 孝逆之報)

   【訳]

   おしなべて、善悪の報いは、おおよそ三十年を限りとするとあるので、
   朝に善行をなして、夕べにその報いを期待するようなあやまりを、
   しっかりと識別することである。

・・・

(5)《3日 神聖なる求め》

   「 求めよ、さらば与えられん、叩 けよ、さらば開かれん。
    目を開いて見よ、見出(みいだ)さん 」 である。

   私たちの生命(いのち)の中には 「 神聖なる求め 」 と云う
   “ 聖なる追求 ” が宿っているのである。

   それは自分の生命の本源に対する憧憬(あこがれ)であり、
   郷愁(きょうしゅう)である。
   私たちの宗教心がそれである。

   そして、求め、叩き、ついに眼を開いて見出すことになるのである。

   静かに坐(ざ)して肉体の眼を瞑(つぶ)り、澄心(ちょうしん)し、
   心の眼をひらいて 生命(いのち)の本源に呼びかけるのである。

   「 わが魂の底の底なる神よ、無限の力 湧(わ)き出(い)でよ 」
   低声(こごえ)で静かに幾回(いくかい)も繰返すのである。

   「 わが魂の底の底なる神よ、無限の力 湧き出でよ 」
   毎日この “ 聖なる求め ” を続けるならば、
   ついに自己の生命の内なる不可視の力に直接対面する時が来るのである。

   この不可視の力に抗(さから)ってはならない。
   この不可視の力に導かれて進むとき、一切のものは成就するのである。

        「眞理」第9巻生活篇第13章(P346~347) より

           <感謝合掌 令和3年5月3日 頓首再拝>

賢者の一日一言《4日》 - 伝統

2021/05/04 (Tue) 21:49:43



(1)【 5月4日 】 《宇宙賛歌・日めくり4日》

   《宇宙賛歌・日めくり4日》

   【喜ばれる】

   この世に生まれた目的は、

   「喜ばれる存在になること。」

   「喜ばれる存在」の喜びは、
   「自分が喜ぶ」喜びとは
   比べられない大きさ。

  (https://ananda358.com/kobayashiseikan/calendar-004/ )

・・・

(2)【 5月4日 】

   《三つのことば》 
     
   「人を先にして己を後にせよ」
   「敵に勝たんと欲するものはまず己に克て」
   「義務を先にして娯楽を後にせよ」

・・・

(3)【 5月4日 】 君子と小人の分かれ道

   君子(くんし)は自ら慊(けん)し、小人(しょうじん)は則ち自ら欺く。

   君子は自ら彊(つと)め、小人は則ち自ら棄(す)つ。

   上達(じょうたつ)と下達(かたつ)は、一つの自字(じじ)に落在(らくざい)す。

                         (言後録 九六)342

   【訳】

   立派な君子は自分の行為に満足しないが、
   つまらない小人は自らを偽(いつわ)って自分の行為に満足する。

   君子は自ら励み勉めて向上しようとするが、
   小人は本心をないがしろにして自暴自棄になる。

   向上するか堕落するかは、ただ「自」の一字に落ち着くのである。

・・・

(4)【 5月4日 】 父母・舅姑は福神

   福善禍淫の善は孝行をもって本とす。
   がるがゆえに孝行の誠ある人禍(わざ)いを得たるためし、
   かぞえるにいとまあらず。

   しかるときは父母舅姑は人人(にんにん)家ごとの福神(ふくじん)なり。

                   (『鑑草』巻之一 孝逆之報)

   【訳]

   福善禍淫の善とは、孝行を根本としているのである。
   そのゆえに、孝行のまことある人の幸福を得た前例は、
   かぞえることができない。

   そういうときは、父母やしゅうと・しゅうとめは、
   すべて家々の福神といえるのである。

    ○福善禍淫~「書経』商書・湯詰篇。「善に福いし、淫に禍いす」と詠む。

・・・

(5)《4日 何故日常生活に問題が起こるか》

   私たちが、無我になり、一切の利己的観念や、肉体的な情欲や、
   物質的な貪欲にわずらわされることなく、最も自然な生活になるとき、
   法《そのまま》の生活が来(きた)るのである。

   これを自然法爾(じねんほうに)の生活と言う。

   私たちの無我がくずれるとき、利己的になるとき、肉体的な情欲や、
   物質的な利欲の念に駆(か)られるとき、其処に不安が生じ、悩みが生じ、
   一切の厄難がむらがり来(きた)る。

   外なる神は人間を罰しないけれども、人の内なる神は、その自然の発露を
   物質的な肉体的な欲望によって隠覆(いんぷく)せられるがゆえに、
   恰も、燦(さん)として輝く太陽を黒雲(くろくも)が蔽い隠して
   暴風吹きすさぶが如く暗澹たる現実界があらわれるのだ。

   日常生活の色々の面倒な問題はこうして現れる。

   常に”内なる神”の”導き”又は”囁(ささや)き”に従って生活しているか、
   それを無視して勝手な生活をしているかを反省せよ。

       「眞理」第9巻生活篇第13章(P347) より

           <感謝合掌 令和3年5月4日 頓首再拝>

賢者の一日一言《5日》 - 伝統

2021/05/06 (Thu) 00:02:04


(1)【 5月5日 】 《宇宙賛歌・日めくり5日》

   【有頂天】

   周りの評価で
   一喜一憂
   するから
   すぐ落ち込んで
   すぐ有頂天に
   なる。

   以上でも
   以下でも
   無い私。

  (https://ananda358.com/kobayashiseikan/calendar-005/ )

・・・

(2)【 5月5日 】

  ①一度思い立ったら石にしがみついてもやりとげよう

  ②ホンのわずかな事でもよいから、他人のためにつくす人間になろう。

・・・

(3)【 5月5日 】 活学

   道は固(もと)より活(い)き、学も亦(また)活く。

   儒者の経解(けいかい)に於けるは、釘牢縄縛(ていろうじょうばく)して、
   道と学とを并(あわ)せて幾(ほとん)ど死せしむ。

   須(すべか)らく其の釘(てい)を抜き、
   其の縛(ばく)を解き、蘇回(そかい)するを得(え)しめて可(か)なり。

                           (言後録 一〇二)348

   【訳】

   道は脈々と息づいており、学問もまた活きている。

   ところが、儒者が経書を解釈すると、あたかも堅牢に釘付けしたり、
   縄で縛り上げて身動きできなくしてしまう。
   これでは道も学問も死んだも同然である。

   早くその釘を抜き、その縄をほどいて、生き返らせてやるとよい。 

・・・

(4)【 5月5日 】 不孝は最大の罪

   不孝は王法三千第一のつみなれば、冥律(みょうりつ)もまたかくのごとし。

   かるがゆえに不孝の人は或は人間の刑罰をこうむり、或は雷火のせめにあえり。

                    (『鑑草』巻之一 孝逆之報)

   【訳】

   不孝は、君主のさだめたかず多くの法律のうち、最大の罪ゆえに、
   神罰もまたこのようである。

   それゆえに、不孝の人は、あるいは人間(社会)の刑罰をこうむり、
   あるいは(神明である)雷火の責めにあうことになる。
 
・・・

(5)《5日 愛と法則としての神》

   私たちが”内部の神”の法則を破るとき、法則が自働的に自己処罰するのである。
   それは全くオートメーション的に自働的に制御するようになっていて、
   神が私たちを有意志的に処罰するのではないのである。

   神は愛であって、愛憎の念によって恵みを与える者と、
   罰を与えるものと差別をつけたまうことはない。

   神は「愛」であるがゆえに「法則」を通して働きたまうのである。
   法則はそれを知ることによって、それに随うことも出来れば、逆らうことも出来、
   人間の自由にゆだねられているのであるが、

   高圧電気に触れれば傷つくように、私たちは法則を逆用して傷つくのであるが、
   その高圧電気を順用すれば、大いなる電動力や、化学変化や、
   物理的変化も可能となるのである。

   神は”宇宙を貫く法則”として全く従順に私たちの導く方向に
   ”自分自身”を委(まか)していられるのである。

             「眞理」第9巻生活篇第13章(P348) より

           <感謝合掌 令和3年5月5日 頓首再拝>

賢者の一日一言《6日》 - 伝統

2021/05/07 (Fri) 00:33:50


(1)【 5月6日 】 《宇宙賛歌・日めくり6日》

   【宇宙の倍返し】

   他人の
   悪口3分で、
   言われる悪口
   6分間。

   他人の
   称賛3分で、
   言われる称賛
   6分間。

   律儀な
   宇宙の倍返し。

     (https://ananda358.com/kobayashiseikan/calendar-006/ )


・・・

(2)【 5月6日 】

   高すぎない目標をきめて必ず実行する。
   ここに「必ず」とは、唯の一度も例外を作らぬ──
   という心構えをいうのである。

・・・

(3)【 5月6日 】 怒りと欲を抑える

   忿熾(いかりさかん)なれば則ち気暴(あら)く、
   欲多ければ則ち気耗(もう)す。

   忿を懲(こ)らし欲を塞(ふさ)ぐは、
   養生(ようじょう)においても亦(また)得(う)。

                      (言後録 九七)343

   【訳】

   怒りが盛んになれば気が荒々しくなり、
   欲が多ければ気が消耗する。

   だから、怒りや欲望を抑えるのは、心身の修養である。 

・・・

(4)【 5月6日 】 夫に背く思い

   背夫(はいふ)の念おこる時は、神明の照覧おそろしく、
   うき名のたち、あさましきむくいにあうのみならず、
   その親兄弟までのはじをさらさん事をつくづく、思いこらして、
   その念をのぞきすつべし。

                  (『鑑草』巻之二 守節背夫報)

   【訳】

   夫に背く思いがおこるときは、
   神明がそのすべてを照覧していることをわきまえ、
   浮名が世間にたって、浅ましい報いにあうだけでなく、
   その親兄弟にいたるまで、恥をさらしてしまうことをつくづく思いいたして、
   それをのぞき捨て去ることである。

・・・

(5)《6日 自己内在の無限智に呼びかけること》

   「智(ち)」が「愛」と結合して働くとき、
   本当に愛を完全に実現することができるのである。

   「智(ち)」の欠乏したる「愛」は盲愛となり、溺愛となり、
   執愛となって、相手を傷つける。

   智慧によって法則を知り、それを順用することによってのみ、
   完全な幸福を自分も得、他(た)にも与えることができるのである。

   善か悪か知らないでやったとて、汽車(列車)の来るときに踏切を
   横断したら傷つくし、毒薬を飲んだら死ぬのである。

   私たちは「智(ち)」を磨かなければならない。
   生長の家は科学に反対するのではないのである。
   しかし、科学も、霊智的直感によって新しき理論や事実の発見が
   行なわれるのである。

   どんな科学者でも、一日一回は静坐して、自己の内に宿る
   「不可視のもの」に呼びかけなければならない。

   ”吾が魂の底の底なる神よ。無限の力湧き出でよ”

   と繰り返し繰り返し念ずるのは簡単にしてよき方法である。

        「眞理」第9巻生活篇第13章(P348~349) より

           <感謝合掌 令和3年5月6日 頓首再拝>

賢者の一日一言《7日》 - 伝統

2021/05/08 (Sat) 00:14:06


(1)【 5月7日 】 《宇宙賛歌・日めくり7日》
  
   【二人】

   雲が寄って
   行った山、
   山が呼んで
   いた雲。

   互いに
   選び選ばれた
   二人。

      (https://ananda358.com/kobayashiseikan/calendar-007/ )

・・・

(2)【 5月7日 】

   百円の切符が九十八円で買えないことは、
   五円で買えないのと同じである。
   もの事は最後の数パーセントで勝敗が決する。

・・・

(3)【 5月7日 】 中和を保つ

   心に中和を得(う)れば、則ち人情皆順(したが)い、
   心に中和を失えば、則ち人情皆乖(そむ)く。

   感応(かんおう)の機は我に在り。
   故に人我(じんが)一体、情理(じょうり)通透(つうとう)して、
   以て政(まつりごと)に従うべし。
  
                         (言後録 一〇三)349

   【訳】

   心が平静で偏らず節度を保っていれば、人の感情はみな自分に従ってくるが、
   心が中和を失えば、人の感情はみな自分から離れて行く。

   人々が感応するきっかけは自身の中にあり、人と我の心が一つになり、
   人情と道理が通じて、初めて政治を執(と)ることができるのである。

・・・

(4)【 5月7日 】 宮女の栄華①

   人間の生楽(せいらく)は、身やすく、心たのしむにきわまれり。

   宮女の栄華というべき事は、只(ただ)いつくしき衣裳を着かざり、
   味(あじわ)いいみじき食物(しょくもつ)をくうのみなり。

   これは見たるところの心よきのみにして、さして楽(たのしみ)とするにたらず。

                  (『鑑草』巻之二 守節背夫報)

   【訳】

   人間の人生の楽しみは、身心の安楽にゆきつくのである。

   (とりわけ)宮中につかえる女性の栄華というのは、ただうつくしい衣裳を着かざり、
   おいしい料理を食べるだけである。

   これは目に見えるところの心のよさだけであって、格別の楽しみとはいえないのである。

・・・

(5)《7日 宗教と科学との相互扶助性》

   私たちが若しあまりに利己的にならず、肉体的情欲や、物質的欲望に
   ひっかからないならば、人生はそんなに苦痛でも困難でも複雑でも
   ないである。

   虚心坦懐、則天去私、心を空(むな)しくして、胸を坦(たいら)かにし、
   私を去り、天に則(のっと)るようにすれば、道はおのずからひらけるのである。

   宗教と科学とは別方面から宇宙の法則に近づこうとするのである。
   そして窮極は一致する。

   宗教は無我になることによって”行動の倫理”に私たちを導くし、
   科学は、無我になることによって”自然界の法則”に私たちを近づかせる。

   しかし宗教なき科学は、行動に倫理性を失うから、発見された自然界の法則を
   逆用することになって、人間自身を却って大破壊に
   導く危険があるのである。

   原子力の戦争利用の如きはそれであって、
   行動に倫理性を欠いた科学の末路の悲惨さを物語るものである。

       「眞理」第9巻生活篇第13章(P349~350) より

           <感謝合掌 令和3年5月7日 頓首再拝>

賢者の一日一言《8日》 - 伝統

2021/05/09 (Sun) 00:08:22


(1)【 5月8日 】 《宇宙賛歌・日めくり8日》

   【自分でいきているようだけど】

   自分でいきて
   いるようだけど、

   水も空気も太陽も
   木の葉のひとつも
   作れない。

   どれひとつ、
   なにひとつ、
   なければ
   生きられない。

       (https://ananda358.com/kobayashiseikan/calendar-008/ )

・・・

(2)【 5月8日 】

   「義務を先にして、娯楽を後にする」──

   たったこの一事だけでも真に守り通せたら、
   一かどの人間になれよう。

・・・

(3)【 5月8日 】 心の安否を問う

   人は皆身の安否を問うを知れども、
   而(しか)も心の安否を問うことを知らず。
   宜しく自ら問うべし。

   能(よ)く闇室(あんしつ)を欺かざるや否や、
   能く衾影(きんえい)に愧(は)じざるか否や。
   能く安穏(あんのん)快楽を得るや否やと。

   時時(じじ)是(か)くの如くすれば、心便(すなわ)ち放(はなれ)ず。

                      (言後録 九八)344


   【訳】

   人は皆、体の安らかであるかどうかを問うことは知っているが、
   心が安らかであるかどうかを問うことを知らない。
   ぜひとも自らの問うてみるべきである。

   「暗いところでも身を慎んで良心を欺くようなことをしていないかどうか。
   人の見ていないところでも品行を汚すようなことがないかどうか。
   自分の心が安穏で気分よくたのしんでいるかどうか」と。

   時々このようにわが身を省みるようにすれば、
   心は決して放縦にはならないものである。

・・・

(4)【 5月8日 】 宮女の栄華②

   いやしき衣食も常にきなれ食(くい)なれぬれば、
   我身(わがみ)の暖(あたたか)に口のやすんずる‘ところはかりなし。

                  (『鑑草』巻之二 守節背夫報)

   【訳】

   貧しい衣食であっても、つねに着なれ、食べなれていれば、
   自分のからだを暖かくし、食事も満足するところ計りきれないものがある。

・・・

(5)《8日 宗教と精神科学》

   宗教の教える”行動の倫理性”と云うものは最近の精神科学の発見した
   「心の法則」と全く一致するものがあるのである。

   「与えよ、さらば与えられん」とか

   「なんじら人を裁くな、己(おの)がさばく審判(さばき)にて己(おのれ)も
   さばかれ、己(おの)がはかる量(はかり)にて己(おのれ)も量(はか)らるべし」とか、

   「何ゆえ兄弟の目にある塵(ちり)を見て、おのが目にある尚一層大なる異物を
   認めぬか」などは、其のもっとも尤(いう)なるものである。

   此の世界は「動・反動の法則」によって支配されているのである。

   鏡に映る姿のように、自分が手を挙げれば、鏡の中の映像も手を上げる。

   自分が相手を審けば、自分も審かれるのであり、
   自分他人の欠点を挙げれば自分もまた他(た)から自分自身の欠点を挙げて
   攻撃せられるのである。

   これが最近の精神科学の発見した心の法則であり、
   同時に釈迦やキリストが教えたところの真理である。

         「眞理」第9巻生活篇第13章(P350~351) より

           <感謝合掌 令和3年5月8日 頓首再拝>

賢者の一日一言《9日》 - 伝統

2021/05/10 (Mon) 01:10:48


(1)【 5月9日 】 《宇宙賛歌・日めくり9日》

   【恩】

   過去が積み重なって
   現在に至ったこと、

   過去の全てに
   感謝すること。

   全ての「因」に
   感謝する
   「心」が「恩」。

     ( https://ananda358.com/kobayashiseikan/calendar-009/ )

・・・

(2)【 5月9日 】

   睡眠は必要に応じて伸縮自在たるべし。

   「何時間寝なければならぬ」というような固定観念をすて、
   必要に応じては五時間・三時間はもとより、
   時には徹夜も辞せぬというほどの覚悟が必要。

・・・

(3)【 5月9日 】 百年、再生の我れなし

   百年再生の我(わ)無し。其(そ)れ曠度(こうど)すべけんや。

                         (言後録 一〇九)355

   【訳】

   百年後再び生まれてくる自分ではない。
   一日一日を空しく過ごしてはならない。

     〇山本有三は、その著「路傍の石」の中で、
      「たった一人しかない自分を、たった一度しかない一生を、
       ほんとうに生かさなかったら、
       人間、生まれてきた甲斐がないじゃないか」
      と言っている。 

・・・

(4)【 5月9日 】 節を守ること

   それ節(せつ)を守る事は誠に有(あり)がたきためしなれ共(とも)、
   その子に道をおしえざれば、至善の心行(しんぎょう)にあらず、
   故に其(その)報(むく)いも又(また)うすし。

                  (『鑑草』巻之二 守節背夫報)

   【訳】

   いったい、節義を守ることは、まことにありがたいためしであるけれども、
   その子に(聖賢の)道を教えなければ、
   この上ないりっぱな善の心とおこないにはならない。
   ゆえにその報いもまた薄いのである。

・・・

(5)《9日 自己が霊的実在であることに目覚めよ》

   人間は単に肉体ではない。
   それでは肉体と精神との結合体であるかと云うと、そうでもない。

   人間は「霊」である。

   「霊」が物質的世界にあるはたらきをせんがためにその直接的道具として
   作ったのが肉体であり、「霊」が物質世界に対処せんがために”眼”となり、
   レーダーとなるために作ったのが精神である。

   肉体は霊の従僕となり、道具としての役目をはたさんがために忠実であるのが、
   肉体の使命である。

   人間は誤って「肉体」を人間自身だと思いあやまり、
   「霊」がアベコベに「肉体」の欲望に奉仕しようとする。
   そして「自分がしたいことをするのが何が悪い」などと放言する。

   そしてそれを「新しいモラルの追求」だなどと高尚ぶった理論づけをする者が
   あるけれども、彼は自己自身が「霊」であると云うことを知らないのだ。

   人間が霊であると知るとき人間は始めて行動に倫理性を獲(う)るのである。

       「眞理」第9巻生活篇第13章(P351~352) より

           <感謝合掌 令和3年5月9日 頓首再拝>

賢者の一日一言《10日》 - 伝統

2021/05/11 (Tue) 02:21:30


(1)【 5月10日 】 《宇宙賛歌・日めくり10日》
 
   【あなたと私】

   銀河の太陽二〇〇〇億

   そのうち
   ひとつの
   太陽系。

   よくぞ選んだ
   この地球。

   ともに選んだ
   あなたと私。

     (https://ananda358.com/kobayashiseikan/calendar-010/ )

・・・

(2)【 5月10日 】

   目覚むれば 力身内に 湧きいづる この不思議さよ 何といふべき

   せめてわが 命果てなむ 際だにも これの不思議を 畏みてあらな

・・・

(3)【 5月10日 】 和と介

   寛懐(かんかい)にして俗情に忤(さから)わざるは和なり。
   立脚して俗情に堕(お)ちざるは介(かい)なり。

                         (言後録 一一一)357

   【訳】

   ゆったりとくつろいだ心持で、俗世間の流れに逆らわないのが「和」である。
   自分の足場をしっかり定めて、俗世間の流れに巻き込まれないのが「介」である。

・・・

(4)【 5月10日 】 貧乏を恥じる①

   人間は義理をもって命(いのち)の根とし、福(さいわ)いの種(たね)とし、
   一生の楽(たのし)みとするものなれば、まずしく、いやしきことは
   恥るところにあらず、くるしむところにあらず。

                  (『鑑草』巻之二 守節背夫報)

   【訳】

   人間は、人としての道を踏みおこなうのを命の根とし、幸福の種とし、
   一生の楽しみとするゆえに、貧乏の生活などはなんら恥じるものではない。
   (また)苦しむものでもない。

・・・

(5)《10日 人間の主体は霊である事を自覚せよ》

   人間は「霊」である。
   「霊」こそ人間であり、久遠に神聖なる「神の生命(せいめい)」の受胎である。
   肉体はそこに「霊」が受胎したところの「神の宮」に過ぎない。

   「宮」も大切であり、清潔に保存しなければならないが、
   「霊」は一層大切である。

   「霊」は「神の生命(せいめい)」であるから永遠そのものである。
   それは不滅である。神聖である。
   それが「人間」である。

   その「人間」が「肉体」を道具として使う。
   その道具を動かすための媒介となるようなエネルギーが「精神」である。
   「霊」は「精神」を媒介として、
   自分の肉体を目的通りに操作するのである。

   ところがその媒介になる「精神」がくるっていたり、正しくなかったりすると、
   肉体は「霊」の目的意志通りに動かなくなる。

   「精神」が「霊」の媒介であると云う使命をわすれて、
   肉体の奴隷になったりすることがある。

   人間の主体を先ず自覚せよである。

      「眞理」第9巻生活篇第13章(P352~353) より

           <感謝合掌 令和3年5月10日 頓首再拝>

賢者の一日一言《11日》 - 伝統

2021/05/12 (Wed) 01:34:02


(1)【 5月11日 】 《宇宙賛歌・日めくり11日》

   【浮き沈み】

   浮こうと
   頑張ると
   沈む。

   沈もうと
   チカラを抜くと
   浮かぶ。

   「身を捨てる」と
   浮かぶ。

   浮き沈みの
   不思議。

     (https://ananda358.com/kobayashiseikan/calendar-011/ )



・・・

(2)【 5月11日 】

   食事をするごとに心中ふかく謝念を抱くは、
    真人の一特徴というべし。
    それだけに、かかる人は意外に少ないようである。

・・・

(3)【 5月11日 】 不苟と不愧

   不苟(ふこう)の字、以て過を寡(すくな)くすべし。
   不愧(ふき)の字、以て咎(きゅう)に遠ざかるべし。

                         (言後録 一一ニ)358

   【訳】

   事をおろそかにしないという意味の「不苟」の字を心に置いて行なえば、
   失敗を少なくできる。

   良心に恥じるところがないという意味の「不愧」の字を心に置いて行なえば、
   他人から非難されることから遠ざかることができる。

・・・

(4)【 5月11日 】 貧乏を恥じる②

   かりそめにも不義無道の事ははずかしき事にして、
   身をうしない禍をまねく本なれば、恐れてのぞきさるべきことなり。

                  (『鑑草』巻之二 守節背夫報)

   【訳}

   かりにも不義・無道のおこないをなせば、じつに恥ずかしいことであって、
   身をうしない、禍いをまねく原因となり、おそれて取りのぞくことである。 

・・・

(5)《11日 病気は神からの電話である》

   「肉体」は、人間の主体である「霊」の道具であるから、
   「肉体」が逆に主導権を握って「霊」の目的に背反するならば、
   これは重大な反逆だと言わなければならない。

   それは重大な倒錯でもある。

   それでも「肉体さかんなれば霊に克つ」であって、
   霊からの制裁がやって来ることはない。

   制裁がやって来てもそれを撥ね返してしまうからである。

   しかし「肉体」は物質であるから、それが「霊」からエネルギー補給が
   なくなるとき、それは次第に消耗し、衰弱して来る。

   そのときに「霊」は精神を媒介として肉体に反省を求めるのである。
   それが病気の姿をもってあらわれる。

   グレン・クラーク博士は「病気は神からの電話である」と
   言っているのもそのためである。

   外からの神は肉体に電話をかけるのではないが、
   わが内にある「神の子」なる自分が、自己処罰を肉体に
   加えて病気をあらわすことがある。

       「眞理」第9巻生活篇第13章(P353~354) より

           <感謝合掌 令和3年5月11日 頓首再拝>

賢者の一日一言《12日》 - 伝統

2021/05/12 (Wed) 19:23:04


(1)【 5月12日 】 《宇宙賛歌・日めくり12日》

   【ソワカ】

   ソワカの
   実践。

   掃除と

   笑いと

   感謝。

      (https://ananda358.com/kobayashiseikan/calendar-012/ )

・・・

(2)【 5月12日 】

   朝起きてから夜寝るまで、
    自分の仕事と人々への奉仕が無上のたのしみで、
    それ以外別に娯楽の必要を感じない──というのが、
    われわれ日本人のまともな庶民の生き方ではあるまいか。

・・・

(3)【 5月12日 】 君子は善を好み、悪を憎む

   人は多く己(おのれ)の好む所を話し、己の悪(にく)む所を話さず。

   君子(くんし)は善を好む、故に毎(つね)に人の善を称(しょう)す。
   悪を悪む、故に肯(あえ)て人の悪を称せず。

   小人(しょうじん)は之に反す。

                         (言後録 一一六)362

   【訳】

   世間の人はたいてい、善悪にかかわりなく自分の好きな話をして、
   自分の嫌う話はしないものである。

   一方、君子というのは善を好むから、いつも人善行を褒め称(たた)える。
   また悪を嫌うから、人の悪行を褒めたりはしない。

   小人はこの反対である。

・・・

(4)【 5月12日 】 淫乱の心行

   淫乱の心行(しんぎょう)は
   かならず地獄の責(せめ)をうける事を、
   よくよくわきまえいましむべし。

                  (『鑑草』巻之二 守節背夫報)

   【訳]

   みだらな欲望の心とそのおこないは、
   かならずさまざまな苦悩のとがめを受けることになり、
   しっかりとそのことを理解し、戒めることである。 

・・・

(5)《12日 「霊」のみが「本当の人間」である》

   完全なる幸福と健康とは、人間の主体であるところの「霊」と、
   その延長であるところの「肉体」とが、「精神」を媒介として
   完全にその目的と行動とが一致したときに得られるのである。

   即ち肉体が完全に「神の宮」として、霊的目的に奉仕したとき
   得られるのである。

   すべての、肉体の生理作用は、人間緒主体たる「霊」がそれを
   自働制御操縦装置としてつくったのであるから、それは大体自働的に
   働いているのであるが、その原動力は「霊」から来るのである。

   「霊」は宇宙大生命(神)の一部分であるから、
   肉体の自働装置を動かす原動力は、神から来るのであるとも言える。

   若し、「霊」が肉体から来るならば、
   肉体の装置は如何に完全であっても、それは生理作用をいとまなくなる。

   肉体は単なる「脱(ぬ)け殻(がら)」となるのである。

   「霊」のみが「本当の人間」である。

       「眞理」第9巻生活篇第13章(P354~355) より

           <感謝合掌 令和3年5月12日 頓首再拝>

賢者の一日一言《13日》 - 伝統

2021/05/14 (Fri) 01:16:05


(1)【 5月13日 】 《宇宙賛歌・日めくり13日》

   【世のため人のために働く人】

   世のため人のために
   働く人を
   喜ばせたい。
   応援したい。

   神様の立場
   としては
   そう考える
   でしょうね、
   きっと。

      (https://ananda358.com/kobayashiseikan/calendar-013/ )


・・・

(2)【 5月13日 】

   「下学して上達す」──
    下学とは日常の雑事を尽すの意。

    それゆえ日常の雑事雑用を軽んじては、
    真の哲学や宗教の世界には入りえないというほどの意味。


・・・

(3)【 5月13日 】 知っているかわからないもの

   誣(し)う可からざる者は人情にして、
   欺(あざむ)くべからざる者は天理なり。

   人皆之を知る。
   蓋(けだ)し知りて而(しかも)も未だ知らず。

                        (言後録 一一七)363

   【訳】

   偽ることのできないのは人の心であり、
   欺くことのできないのは天の道理である。

   人は誰でもこのことを知っている。
   しかし、知っているように見えて、
   実は本当にわかっているとは言えない。 

・・・

(4)【 5月13日 】 勧善も守節

   守節(しゅせつ)というは、両夫(りょうふ)にまみえず
   寡(やもめ)のみさおを守るのみにあらず、
   平生(へいぜい)其(その)夫(おっと)の過(あやまち)をいさめ、
   其(その)善(ぜん)をすすめなすを、守節の常とす。

               (『鑑草』巻之二 守節背夫報)

   【訳]

   守節というのは、ふたりの夫に仕えず、やもめの操を守るだけでなく、
   平生その夫の過ちをいさめて、その善行をすすめるのを守節のつねとする。
 
・・・

(5)《13日 大生命と霊的波動を協調すること》

   「霊」のみが「本当の人間」であり霊のみが活力の源泉であるから、
   私たちは常に「霊」から活力を汲むことが必要である。

   それは常に神想観して、「神より無限の生命力が流れ入る」と
   想念しなければならない。

   肉体と云う自働装置は或る程度””蓄電池”のように活力を蓄積しており、
   また食物によって物質的エネルギーは補給されるようになっているけれども、
   その活力の蓄積には限りがあり、

   人間の生きるのは、単なる物質的えねギーの循環だけでは不可能であるから、
   霊的エネルギーの補給を大生命に仰ぐようにする必要があるのである。

   そのためには、大生命の霊的波動(愛)と、波長を合わす生活を
   送らなければならない。

   即ち「愛」の念を起こし、「愛」を生活に実践しなければならない。
   「愛」を実践したとき、「愛」の心を起こしたとき、
   人間は一層健康となるのである。

           「眞理」第9巻生活篇第13章(P355) より

           <感謝合掌 令和3年5月13日 頓首再拝>

賢者の一日一言《14日》 - 伝統

2021/05/15 (Sat) 00:33:25


(1)【 5月14日 】 《宇宙賛歌・日めくり14日》

   【風と流れ】

   迷った時、
   風が吹いて
   いますか。

   川が流れて
   いますか。

   「風」と「流れ」が
   答えを
   示しています。

        (https://ananda358.com/kobayashiseikan/calendar-014/ )

・・・

(2)【 5月14日 】

   「五十にして天命を知る」──というが、
   知という限り、まだ観念的なものが残っている。

   それ故「六十にして耳順う」の境に到ってはじめて
   真理の肉体化がはじまるともいえよう。

・・・

(3)【 5月14日 】 知と行

   知は是れ行(こう)の主宰にして乾道(けんどう)なり。
   行は是れ知の流行にして、坤道(こんどう)なり。
   合して以て体躯(たいく)を成せば則ち知行なり。
   是れ二にして一、一にして二なり。

                      (言後録 一ニ七)373

   【訳】

   知は行を司どるものであって、天の道である。
   行は知から流れ出たものであって、地の道である。

   これらが合わさって身体をつくり上げているのであり、
   すなわち我々には知と行という二つの働きがあって、
   これらは二つで一つであり、一つであるが二つでもある。

・・・

(4)【 5月14日 】 神明の照覧

   たくみをもって人間をだまさんと思える人も、神明(しんめい)の照覧は、
   かくすべきてだてなき事を、わきまえいましめるべし。

                  (『鑑草』巻之二 守節背夫報)

   【訳]

   たくらみによって、人間をだまそうと思う人も、神明の照覧にたいしては、
   隠すべき手立てのないことをわきまえ、戒めなければならない。


・・・

(5)《14日 愛は性的愛好ではない》

   愛は時として誤って伝えられる。
   愛は単なる情欲ではない。
   また性的愛好でもない。

   情欲や性的愛好は純粋なる愛ではないのである。

   情欲や性的愛好は、自分の悦びや快楽のために
   相手を自己に奪いとろうとする。

   併し純粋の愛は、他(た)の人の悦びや快楽のために
   自己を相手に献(ささ)げようとするのである。

   愛は自己抛棄である。
   自分の中が”空っぽ”になることである。
   自分の中が”空っぽ”になったとき、神が私たちの中を満たすのである。

   瀕死の病人で、「今まで自分の生活があまりに利己的であった。
   これらか感謝のために、人を悦ばす愛行のみを致しましょう」と
   決心したとき、忽然と其の重病から癒されたと云う実例があるのも
   其の為である。

   神は凡(あら)ゆる善きものの本源であり、
   愛は凡(あら)ゆる生ける者の活力の源泉である。

   神に結ばれている時、長い眼で見れば勝利である。

        「眞理」第9巻生活篇第13章(P356) より

           <感謝合掌 令和3年5月14日 頓首再拝>

賢者の一日一言《15日》 - 伝統

2021/05/15 (Sat) 23:28:28


(1)【 5月15日 】 《宇宙賛歌・日めくり15日》

   【随喜功徳】

   喜んでいる
   あなたを
   喜んでいる私。

   喜んでいる
   私を
   喜んで
   くれる
   あなた。

   喜ぶだけで
   徳を積む、
   随喜功徳。


      (https://ananda358.com/kobayashiseikan/calendar-015/ )

・・・

(2)【 5月15日 】

   真人と真人とが結ばれねばならぬ。
    現在わたくしが最も努力しているのは、
    縁のある真人同士を結ぶことです。

・・・

(3)【 5月15日 】 継続が力となる

   虚羸(きょるい)の人は、常に補剤(ほざい)を服す。
   俄(にわ)かに其の効を覚えざれども、
   而(しか)も久しく服すれば自(おのずか)ら効有り。

   此(こ)の学の工夫も亦(また)猶(な)お是(か)くの如し。

                        (言後録 一ニ一)367

   【訳】

   虚弱な人は、いつも滋養の薬を服用している。
   これは服用すればすぐに効果が現われるというものではないが、
   長い間飲み続ければ自然と効能が表れるものである。

   心を高める学問の工夫もこれと同じで、
   努力を絶やさないでいると、必ず効果が表れてくるものである。

    〇宋の黄山谷は「士、三日書を読まざれば則(すなわ)ち
     理義胸中に交わらず、便(すなわ)ち覚ゆ、
     面目憎むべく語言味無きを」と言っている。

・・・

(4)【 5月15日 】 善悪の報い

   善悪(ぜんあく)のむくい、かげの形(かたち)にしたがうごとくなれば、
   よのつれの妬毒(とどく)には又(また)よのつれのむくい有(あり)。
   よく心(こころ)をつけておそれつつしむべし。

                  (『鑑草』巻之三 不嫉妬毒報)

   【訳]

   善悪の(おこないの)報いは、人影がその人の形につきしたがうように、
   世間でよくあるねたみには、また世間でよくあるような報いがある。
   しっかりと心に受け止めて、おそれつつしむことである。

・・・

(5)《15日 神を常に憶念せよ》

   肉体の物質的力や、脳髄から出る精神的力などが
   迚(とて)も及ぶことができない不可知の不可思議の力が、
   「霊」的方面を開発することによって現れて来るのである。

   この霊的力を開発する道は、
   それに対して常に「精神」を振り向けることによるのである。

   「精神」が「霊」と「肉体」との媒介となるのである。
   「衆生、仏を憶念すれば、仏衆生を憶念しまう」と云うのはそれである。

   されば、心をもって、
   つとめて自己の生命(せいめい)の本質に喚(よ)びかけよ。

   喚(よ)びかけなくとも常に神はその生命(せいめい)の流れを
   ラジオの電波のように、到るところに放送していられるのであるけれども、
   波長が合わなければ、現実にには、それを受け取ることができないのである。

   「喚(よ)びかけ」たり、「憶念する」ことは、大生命の本源に
   波長を合わせることになるのである。

   道を歩いている時にも神に呼びかけよ。
   仕事に向かう時にも神に呼びかけよ。

       「眞理」第9巻生活篇第13章(P356~357) より

           <感謝合掌 令和3年5月15日 頓首再拝>

賢者の一日一言《16日》 - 伝統

2021/05/16 (Sun) 21:28:55


(1)【 5月16日 】 《宇宙賛歌・日めくり16日》

   【幸の海】

   「海」のなかに
   住む魚は
   「海」の姿が
   わからない。

   「幸」のなかに
   住む人は
   「幸」の姿が
   わからない。

   「日常」こそが
   「幸」の海。


       (https://ananda358.com/kobayashiseikan/calendar-016/ )

・・・

(2)【 5月16日 】

   世間的に広くは知られていないけれど、
    卓れた人の書をひろく世に拡める──
    世にこれにまさる貢献なけむ。

・・・

(3)【 5月16日 】 九思三省

   孔子の九思(し)、曽子の三省(せい)、
   事有る時は是を以て省察(せいさつ)し、
   事無き時は是を以て存養(そんよう)し、
   以て静坐(せいざ)の工夫と為(な)す可し。

                      (言後録 一ニ八)374

   【訳】

   孔子は修養の方法として
   「視には明、聴には聡、色には穏、貌(かたち)には恭、
    言(ことば)には忠、事には敬、疑には問、忿(いかり)には難、
    得る見ては義を思う」

   という九思を挙げ、曽子は一日に三度、忠信不習についてわが身を
   省みたというが、
   我々も何か事あるときはこれらに倣(なら)って反省し観察し、
   何もないときは本来の良心を失わないように養い、
   それを静坐をする際の工夫とすればよい。

・・・

(4)【 5月16日 】 子孫の繁昌

   子孫のはんじようをば、人(ひと)ごとにねがうところなれども、
   不嫉(ふしつ)の徳(とく)によって此(この)福(さいわ)いを
   うる事をわきまえず。

                  (『鑑草』巻之三 不嫉妬毒報)

   【訳]

   子や孫の繁栄は、だれしも願うところであるが、
   人をねたむことのないおこないによって、
   幸福を得ることができるという道理を知らない。

・・・

(5)《16日 肉体は人間ではない》

   人間は食物(しょくもつ)を摂取してそれを消化器で消化し、
   更にそれを吸収して血液中の養分として全身に搬(はこ)ぶのである。

   しかしその栄養分の何元素を何処に搬(はこ)び、如何なる位置に排列して
   人体の組織にするかを指導する「知性」は、人間の内部にある「霊」である
   のである。

   肉体それ自体は一種の自働機械に過ぎない。
   それを使用するのは「霊」である。

   肉体は一種の煉瓦建築物のようなものである。
   煉瓦は搬(はこ)ばれて来る。
   それは消化器を通して栄養分が肉体構成の材料として
   搬(はこ)ばれて来るようなものだ。

   しかし幾ら煉瓦を其処に積み上げても、それは建造物にはならない。
   それを一定の設計に従って配列して行くことが必要である。

   設計は設計家の知性によって行われ、その指導の下(もと)に
   多くの工人(こうにん)が働くのである。

   多くの工人(こうにん)は人体に於いては細胞である。
   その設計を指導するのは「霊」である。

   「霊」が人体である。

      「眞理」第9巻生活篇第13章(P357~358) より

           <感謝合掌 令和3年5月16日 頓首再拝>

賢者の一日一言《17日》 - 伝統

2021/05/18 (Tue) 00:42:00


(1)《宇宙賛歌・日めくり17日》

   【捨てる後半生】

   求めて探して
   手に入れる
   前半生、

   放して捨てて
   行くだけの
   後半生。


   捨てるほどに
   軽くなる。


     (https://ananda358.com/kobayashiseikan/calendar-017/ )


・・・

(2)【 5月17日 】

   心はみえないから、
    まず見える躰の方から押さえてかからねばならぬ。

   それ故心を正そうとしたら、
    先づ躰を正し物を整えることから始めねばならぬ。

   クツをそろえること一つが、
   いかに重大な意味をもつか分からぬような人間は、論ずるに足りない。

・・・

(3)【 5月17日 】敬以て動静を貫く

   静を好み動を厭(いと)う、之(これ)を懦(だ)と謂(い)い、
   動を好み静を厭う、之を躁(そう)と謂う。

   躁は物を鎮(しず)むる能(あた)わず、
   懦は事を了(りょう)する能わず。

   唯(た)だ敬(けい)以て動静を貫き、
   躁ならず懦ならず、然(しか)る後(のち)
   能(よ)く物を鎮め事を了す。

                      (言後録 一三一)377

   【訳】

   静を好んで動を嫌う者、これを臆病者、ものぐさ者といい、
   動を好んで静を嫌う者、落ち着きのない者という。

   慌て者は物事を鎮静することができないし、
   臆病者は物事を成し遂げることができない。

   ただ、慎み深く、動にも静にも偏ることなく、
   慌てず、怖気(おじけ)づかない者にして初めて
   物事を鎮、成就することができるのである。

    〇曽国藩には「冷に耐え、苦に耐え、煩に耐え、閑に耐え、
     激せず、繰(さわ)がず、競(きそ)わず、随(したが)わず、
     以て大事を成すべし」 の四耐四不がある。

・・・

(4)【 5月17日 】 万物は一心の変化

   万物みな一心の変化なれば、一念(いちねん)の住(じゅう)する
   ところはみなその形(かたち)を生(しょう)ず。

                 (『鑑草』巻之三 不嫉妬毒報)

   【訳]

   万物は、すべて(人間の)一心の変化なのであるから、
   ふかく心に念ずるところのものは、すべてその形となって生まれるのである。

・・・

(5)《17日 潜在意識の役割に就いて》

   「霊」が人間であり、「肉体」はその使命遂行の道具であり、
   肉体の構造過程を指導するのは「霊」であるが、
   それは「潜在意識」を媒介として、
   肉体を構築する工人(こうにん)が監督せられる。

   「霊」は設計者であり、潜在意識は現場監督の技師であり、
   細胞は工人(こうにん)である。

   人間の「霊」は神の分霊であるから、人体を完全に設計しているので
   あるけれども、潜在意識と云う技師は時々「自分考え」をもっていて、
   「霊」が本来設計した通りに工人(こうにん)を指導しない事がある。

   潜在意識が憎しみの念や、悲しみの念や、自暴自棄の自己破壊の念に
   かられている時には、それによって指導が歪められ、設計通りに
   肉体と云う建造物が出来上がらない事がある。

   潜在意識の中につみ重ねられている悪念や迷いの念は
   仏教で所謂(いわゆ)る「悪業」として作用して、
   生まれつきの奇形児などを生ずる事にもなる。

      「眞理」第9巻生活篇第13章(P358~359) より

           <感謝合掌 令和3年5月17日 頓首再拝>

賢者の一日一言《18日》 - 伝統

2021/05/18 (Tue) 23:43:11


(1)【 5月18日 】 《宇宙賛歌・日めくり18日》

   【たくさんの幸せ】

   100年に一度の幸せは
   100年に一度。

   10年に一度の幸せは
   10年に一度。

   毎分・毎秒の
   幸せを探せば
   たくさんの
   幸せ。

   聞こえる幸せ、
   話せる幸せ、
   歩ける幸せ。


        (https://ananda358.com/kobayashiseikan/calendar-018/ )

・・・

(2)【 5月18日 】

   挙手は、行動的な「しつけ」の第一であって、
    断乎たる決意の表明ともなる。

   挙手についてはまず
   (1)五本の指をそろえ、
   (2)ついで垂直に上げること
   (3)そして最後に俊敏に!!──という三つが大事。

・・・

(3)【 5月18日 】 無字の書を読む

   学は自得するを貴ぶ。
   人は徒(いたず)らに目を以て字有るの書を読む。
   故に字に局(きょく)して、通透(つうとう)するを得ず。

   当(まさ)に心を以て字無きの書を読むべし。
   乃(すなわ)ち洞(とう)して自得する有らん。

                         (言後録 一三八)384

   【訳】

   学問は本心において体得することが大事である。
   ところが、世の中の人はいたずらに目で文字で書かれた書物を読むだけである。
   そのため、文字に囚(とら)われて、その背後にある物事の道理を
   見通すことができない。

   心眼を開き、文字の書かれていない書、
   すなわち実社会の諸々の事象を読み解いて、
   自らの修養とするべきなのである。
   そうすれば、悟りを得て自らの本心に体得することができるだろう。

     *洞~深い悟り

・・・

(4)【 5月18日 】 慈悲ふかい神明

   それ神明(しんめい)はきわめて慈悲ふかくましまして、
   あやまちをくい、善にうつる事をよろこび給う。

                  (『鑑草』巻之三 不嫉妬毒報)

   【訳]

   そもそも神明は、きわめて慈悲ふかくいられので、
   (その人のおかした)あやまちを悔い、善に移ることを
   喜びとしているものである。 

・・・

(5)《18日 宗教は何故病気を治し得るか》

   或る婦人が楽しい気持ちで、美味(おい)しく食事をとっている。

   其の時に電話がかかる。
   「貴方の良人が自働車に今衝突して重傷を負って生命(せいめい)は
    危篤に瀕している」と電話は告げる。

   彼女の顔色は忽ち青褪め、食事は殆ど咽喉(のど)を通らなくなり、
   身体(からだ)はふるえる。

   このように精神と云うものは肉体の生理作用に影響するのである。

   常に何かの心配を持ちつづけている人の肉体は虚弱であり、
   慢性病にかかり、血液に毒素を生ずるので皮膚に斑点やシミが生じて
   容貌が衰えて来るのは当然のことである。

   あまりに心配したために一晩中に頭髪がすっかり真っ白になったと云う
   実話があるのも不合理ではない。

   多くの病気は、常にその最初の根元が精神の不調和にあることは、
   最近の精神身体医学が明らかにしつつあるところである。

   宗教が心を根本的に整える効果がある以上、宗教的悟りによって
   病気が治っても不思議ではない。

       「眞理」第9巻生活篇第13章(P359~360) より

           <感謝合掌 令和3年5月18日 頓首再拝>

賢者の一日一言《19日》 - 伝統

2021/05/20 (Thu) 01:51:28


(1)【 5月19日 】 《宇宙賛歌・日めくり19日》

   【力をぬく】

   自分がたいした
   ものと思えば
   力が入る。

   たいしたもの
   じゃないと思えば
   力が抜ける。


   風に揺らぐ
   花のように
   力が抜けていると
   美しい。


      (https://ananda358.com/kobayashiseikan/calendar-019/ )

・・・

(2)【 5月19日 】

   「腰骨を立てる」ことは、
   エネルギーの不尽の源泉を貯えることである。

   この一事をわが子にしつけ得たら、
   親としてわが子への最大の贈り物といってよい。

・・・

(3)【 5月19日 】 読書の心構え

   精神を収斂(しゅうれん)して、以て聖賢の書を読み、
   聖賢の書を読みて、以て精神を収斂する。

                      (言後録 一三〇)376

   【訳】

   心を引き締めて聖人・賢者の書物を読み、
   聖人・賢者の書物を読んで心を引き締める。
   これは修養のための読書の心構えである。

・・・

(4)【 5月19日 】 心を善に移す

   過(あやま)ちあらん人は、第一其(その)心(こころ)を善(ぜん)にうつして、
   禍(わざわ)いをまぬがれ、福(さいわ)いをえんとつとめるべき事(こと)なり。

                  (『鑑草』巻之三 不嫉妬毒報)

   【訳]

   過ちをおかした人は、まずなによりもその心を善にうつして、
   わざわいをまぬがれ、幸福を得ようとつとめるべきである。

・・・

(5)《19日 肉体は常に新たに造られている》

   慢性病があるからとて、肺臓が空洞になっているからとて
   恐れることはない。

   肉体は、造られつつあるのであって、一度出来てしまったら毀すより
   ほかに改造の余地がないと云うような固定したものではない。

   どんな固い鉄の棒でも、コンクリートの塊でも、それは吾々の感覚面に
   固いとして感じられるだけのものであって、実はその中の分子は
   間断なく自由運動しているものであることが物理学によって証明されている。

   その自由運動をつづける分子が、ひとたび肉体の中に入り、「霊」の設計の
   範囲内に移され、潜在意識の指導のサークル内に置かれると、その分子の
   自由運動は、潜在意識の指導の下(もと)に置かれ、肉体を健全に補填し
   構造する位置に配置せられ、肺臓の空洞は埋められ
   肉体を健全に構造するに役立たない成分や分子は体外に排泄せられる。

   先ず心を調(ととの)えて正しき位置に養分を配置するようにすれば
   健康体が再生する。

       「眞理」第9巻生活篇第13章(P360~361) より

           <感謝合掌 令和3年5月19日 頓首再拝>

賢者の一日一言《20日》 - 伝統

2021/05/20 (Thu) 18:26:52


(1)【 5月20日 】 《宇宙賛歌・日めくり20日》

   【おかげさま】

   おかげさま

   影のように
   寄り添って
   いる
   何者か。

   おかげさま。
   おかげさま。


       (https://ananda358.com/kobayashiseikan/calendar-020/ )

・・・

(2)【 5月20日 】

   息子を一生に三度叱るか、

   それとも一生に一度も叱らぬか、

   父親にはこのような深い心の構えがなくてはなるまい。

・・・

(3)【 5月20日 】 月を看る、花を看る

   月を看(み)るは、清気(せいき)を観るなり。
   円缺(えんけつ)晴翳(せいえい)の間(あいだ)に在(あ)らず。

   花を看るは、生意(せいい)を観るなり。
   紅紫(こうし)香臭(こうしゅう)の外に存す。

                        (言後録 一四〇)386

   【訳】

   月を眺めるのは、清らかな気を観賞するのである。
   円(まる)くなったり、欠けたり、翳(かげ)ったりするのを見るのではない。

   花を見るのは、生き生きした花の心を観賞するのである。
   花びらの紅や紫といった色、香りや匂いの外にこそ見るべきものがある。

・・・

(4)【 5月20日 】 万物一原①

   万物(ばんぶつ)一原(いちへん)の理(ことわ)りなるゆえに、
   本来(ほんらい)吾(われ)と人(ひと)との差別(さべつ)なし。

                  (『鑑草』巻之三 不嫉妬毒報)

   【訳]

   万物(は一つの根源から生まれたという)一原の道理であるゆえに、
   もともと自分と他人というような差別などは存在しないのである。 

・・・

(5)《20日 肉体は永遠に老いないのが原則である》

   肉体の古き細胞はそのエネルギーを消耗して死滅し、
   常に新しき細胞がそれと交代して正しき位置に配置せられる。

   だから、肉体は日に日に新たに造られれると言って好い。

   それは皮膚の傷を見ても明らかである。
   指先の皮膚に傷をしても、単に新しく皮膚と云う被膜がビニールを
   かぶせたように出来るだけではなく、指紋までも元の通りに復旧する。

   これは単に新しき栄養分が取って代ると云うだけではなく
   微妙なる「知性」が、その栄養分を配置する時に細かい点に至るまで
   指導しているのだと云うことが判る。

   だからこの指導さえ誤らなかったならば、肉体は常に健全であり、
   新しく若々しくあるのが当然であるのである。

   生命(せいめい)は神より来たり、
   神は永遠に老いないのであるから
   生命(せいめい)も永遠に老いないのであう。

   肉体も日に新生しつつあるから肉体も永遠に老いないのが原則である。
   人間は霊肉ともに若いのである。

       「眞理」第9巻生活篇第13章(P361~362) より

           <感謝合掌 令和3年5月20日 頓首再拝>

賢者の一日一言《21日》 - 伝統

2021/05/21 (Fri) 19:01:25


(1)【 5月21日 】 《宇宙賛歌・日めくり21日》

   【神と仏とよき友と】

   自分の力より
   もっと大きな
   力たち。

   応援・支援を
   してくれる、
   神と仏と
   よき友と


     (https://ananda358.com/kobayashiseikan/calendar-021/ )

・・・

(2)【 5月21日 】

   山深く 来しとあらねど この寺に 山鴬の声 聞きにけり

   はつはつに 楓の若葉 萌え出でて これのみ寺の 明るかりけり

・・・

(3)【 5月21日 】 日常の工夫

   時時に提撕(ていぜい)し、時時に警覚し、
   時時に反省し、時時に鞭策(べんさく)す。

                        (言後録 一四ニ)388

   【訳】

   我々は、時々精神を奮い起こし、時々戒め悟り、
   時々自らを省み、時々自らを鞭打たなければならない。 

・・・

(4)【 5月21日 】 万物一原②

   かるがゆえに、ねたみて人(ひと)をにくみ害(そこ)なうは、
   我身(わがみ)のためを思うににたれども、
   畢竟(ひっきょう)ぱおのれが身(み)をにくみそこなうなり。

                  (『鑑草』巻之三 不嫉妬毒報)

   【訳}

   それゆえに、ねたんで人をにくみ傷つけるのは、
   わが身をまもるためを思うに似ているけれども、
   結局は自分の身をにくみ傷つけていることになるのである。

・・・

(5)《21日 実在の人間を見よ》

   神は存在の第一原因である。
   寧(むし)ろ存在の第一原因を神と云うのである。

   そして神は完全であり、神の智慧も完全であるから、
   その智慧によって設計され構成せられた此の世界も完全である。
   従って不完全と云うものは存在する余地がない。

   此の完全なる世界を”実相の世界”又は”実在界”と呼ぶ。
   そして”実在界”に住む完全なる人間を”実相の人間”と云う。

   しかし神は霊であるから、神の造りたまえる
   「実相の世界」も「実相の人間」も、共に霊的実在であるから、
   物質を感覚する道具なる五官の感覚では感ずることはできない。

   私達の感覚は、その霊的実在が、
   時間空間のスクリーン(銀幕)に投映された「影」を見て、
   それを物質として固定化して感じるに過ぎない。

   私たちは「影」そのものだけを見て、それを実在だと感じてはならない。
   「影」を象徴として其の奥にある霊的実在(神の国)を
   霊的人間(神なる人)を見よ。

        「眞理」第9巻生活篇第13章(P362~363) より

           <感謝合掌 令和3年5月21日 頓首再拝>

賢者の一日一言《22日》 - 伝統

2021/05/23 (Sun) 00:07:47


(1)【 5月22日 】 《宇宙賛歌・日めくり22日》

   【現象】

   愚痴や泣きごとが
   好きな人には、

   それを多く
   言わせる
   現象が降り注ぐ。


   「ありがとう」が
   好きな人には、

   それを多く
   言わせる
   現象が降り注ぐ。

       (https://ananda358.com/kobayashiseikan/calendar-022/ )

・・・

(2)【 5月22日 】

   現世的に恵まれると、
    美も宗教もわからぬ人間となる。

    何となれば、共に世の薄倖な人びとに与えたまう
    天の恩恵だからである。

・・・

(3)【 5月22日 】 時宜を得る

   草木の移植には必ず其(そ)の時有り。
   培養には又其の度(ど)有り。

   太(はなは)だ早きこと勿れ。
   太だ遅きこと勿れ。

   多きに過ぐること勿れ。
   少なきに過ぐること勿れ。

   子弟の教育も亦(また)然(しか)り。

                     (言後録 一四七)393

   【訳】

   草木の移植には、必ずそれに合った時期がある。
   草木を育てるために与える肥料にも適度な程合いというものがある。

   早すぎてはいけないし、遅すぎてもいけない。

   多すぎてもいけないし、少なすぎてもいけない。

   子弟の教育合もこれと同じである。

・・・

(4)【 5月22日 】 孝養まめやか

   子(こ)の明徳(めいとく)あきらかなれば、
   かならず孝行(こうこう)誠(まこと)あるゆえに、
   たといその子の福分(ふくぶん)うすくして貧賎(ひんせん)なり
   といえども、その孝養まめやかにして、親のこころ安楽なるものなり。

                  (「鑑草』巻之四 教子報)

   【訳]

   子の明徳が明らかならば、かならず孝行のまことあるゆえに、
   たとえその子の生まれつきの幸運がうすく、貧乏であった
   としても、その孝養が誠実なことから、親の心は安楽になるものである。

・・・

(5)《22日 現象界に不幸が起こって来る原因》

   実在の完全な人間が、そして実相世界の完全な状態が、時間・空間の
   映写幕の上に映って来る過程に於いて、心のレンズが曇らされても、
   物質の映写幕に歪曲(ゆがみ)が起こっても、
   其処には不完全な映像があらわれて来る。

   心のレンズが曇るということは、心の持ち方の不正や、感情の過度の興奮や、
   抑圧された嫌悪、嫉妬、憤怒等の潜在意識であって、此れ等が、
   現象界にあらわれる状態(事件及び健康状態)を歪んだものにするのである。

   物質の映写幕の歪曲(ゆがみ)とは、毒物を摂取するとか、
   自働車が衝突するとか云うことである。

   いずれの原因からでも現実界に故障が起こって来る可能性があるのであるが、
   毒物を摂取したり、自働車が衝突したりするのは、結局、自己の潜在意識の
   中に、罪悪意識や、自己処罰観念や、自己破壊意識や、攻撃精神があるのが
   自己に反映して来たのである。

       「眞理」第9巻生活篇第13章(P363~364) より

           <感謝合掌 令和3年5月22日 頓首再拝>

賢者の一日一言《23日 - 伝統

2021/05/23 (Sun) 19:35:29


(1)【 5月23日 】 《宇宙賛歌・日めくり23日》

   【味方】

   地球が味方、

   宇宙が味方、

   神様が味方、

   みんなが味方、

   みんなの味方。


      (https://ananda358.com/kobayashiseikan/calendar-023/ )


・・・

(2)【 5月23日 】

   真の鑑識眼は、最初のうちは、
    最上のもの一つに徹することによって得られる。

   いたずらに比較考量している限り、
   ついに物事の真に徹するの期なけむ。

・・・

(3)【 5月23日 】 心学としての読書 ①

   読書も亦(また)心学なり。
   必ず寧静(ねいせい)を以てして、躁心(そうしん)を以てする勿(なか)れ。
   必ず沈実(ちんじつ)(ふしん)を以てして、浮心を以てする勿れ。
   必ず精深(せいしん)を以てして、粗心(そしん)を以てする勿れ。
   必ず荘敬(そうけい)を以てして、慢心を以てする勿れ。

                     (言後録 一四四)390

   【訳】

   読書もまた心を高める学問である。
   だから、必ず安らかな心で読み、騒がしい心で読んではいけない。
   必ず落着いた心で読み、浮わ着いた心で読んではいけない。
   必ず精(くわ)しく深く究(きわ)める心で読み、粗雑な心で読んではいけない。
   必ず厳(おごそ)かで慎んだ心で読み、驕(おご)り高ぶった心で読んではいけない。

・・・

(4)【 5月23日 】 孝養とぽしい

   子(こ)の明徳(めいとく)くらければ、孝心)こうしん)まことなきゆえに、
   たといその子の福分(ふくぶん)あつくして富貴(ふうき)なりといえども、
   孝養(こうよう)まめやかならざれば、
   親(おや)のこころよろこび安(やすん)ずるところなし。

                  (「鑑草』巻之四 教子報)

   【訳]

   子(こ)の明徳(めいとく)がくらければ、孝心のまことないゆえに、
   たとえその子の生まれつきの幸運あつく、富貴であったとしても、
   その孝養が不誠実なことから、親の心はよろこび安らかになることがない。 

・・・

(5)《23日 攻撃精神を中和しましょう》

   他(た)を攻撃する精神を起こす場合には自分も傷つくのである。
   度々(たびたび)自動車を衝突させた運転手が生長の家に入信して、
   「天地一切のものと和解する」心境になったとき、

   少しも自分の操縦する自動車が衝突しなくなった実例もあれば、
   いつでも朝の顔剃る時顔を傷つけていた人が『生命の實相』を読んで
   心境が一変するとそれ以後、全然カミソリで顔を傷つけなくなった
   実例もある。

   このようなことは内臓にも同様に起こるのであって、
   内臓の粘膜に潰瘍を起こすのも、癌腫を発生するのも、
   心の中に何か攻撃精神があって、
   それが内臓に具象化して来ることが多いのである。

   攻撃精神は色々の形で私たちの潜在意識の中に巣食っているものである。
   それは獅子身中の虫のように人間を傷つける。

   愛と、同情と深切と、理解と、隣人に対する献身の心とが、
   その攻撃精神を中和して人間を健康に引き戻すのである。

        「眞理」第9巻生活篇第13章(P364~365) より

           <感謝合掌 令和3年5月23日 頓首再拝>

賢者の一日一言《24日》 - 伝統

2021/05/24 (Mon) 19:18:36



(1)【 5月24日 】 《宇宙賛歌・日めくり24日》

   【最短の悟り】

   最短の悟りは3秒。

   過去の全てを
   受け入れる。
   1秒。

   現在の全てを
   受け入れる。
   2秒。

   未来の全てを
   受け入れる。
   3秒。


       (https://ananda358.com/kobayashiseikan/calendar-024/ )

・・・

(2)【 5月24日 】

   美的な創造感覚と、
    蓄財利殖の能力とは両極的なものです。

   天二物を与えず──ですネ。

・・・

(3)【 5月24日 】 心学としての読書 ②

   孟子は読書を以て尚友と為せり。
   故に経籍(けいせき)を読むは、
   即(すなわ)ち是れ厳師・父兄の訓(おしえ)を聴くなり。

   史子(しし)を読むも、亦即ち明君(めいくん)賢相(けんしょう)・
   英雄英傑と相(あい)周旋(しゅうせん)するなり。
   其れ其の心を清明(せいえみ)にして以て之(こ)れと対越せざるべけんや。

                     (言後録 一四四)390

   【訳】

   孟子は、読書をもって古人を親しい友とするものとした。
   したがって、聖人の言葉が書かれた書物を読むとことは、
   厳しい先生や父兄の訓戒を聞くのと同じである。

   歴史書や諸子百家の書を読むのも、
   賢明な君主や宰相、英雄豪傑と交際するのと同じである。
   そういうわけで、読書するときは、心を清明にして、
   これらの人たちと向かい合う気持ちで読まなければいけない。

・・・

(4)【 5月24日 】 わが子に宝を

   子(こ)を愛するときは、
   かならずその子に宝(たから)をあたえんことをねがわざるはなし。

   しかはあれど、天下第一の宝(たから)のある事をわきまえざる故に、
   徒(ただ)に世間(せけん)のたからをあたえんとのみねがいて、
   性命(ぜいめい)のたからをあたえんと願(ねがう)こころなし

                  (「鑑草』巻之四 教子報)

   【訳]

   子を愛するときは、かならずその子に宝をあたえることを願うものである。

   そうはいうものの、(親は)世界第一の宝のあることを知らないゆえに、
   たんに(金銀などの)世間の宝をあたえようとのみ願い、
   性命の宝をあたえようと願う心はないのである。

・・・

(5)《24日 愛は平和を持ち来す力》

   愛は世界に於ける最も大(だい)なる平和を齎(もたら)す力である。
   愛なきところに、単に理論や正しきのみのあるところには
   平和は来らないのである。

   理論は各々(おのおの)の立場から相手の立場を真直ぐに横切るのである。
   各々は正しく主張し。そしてその理論は交叉して互いに激突する。
   理論ばかりの世界には調和はあり得ないのである。

   愛のみが反対の立場のものを包容して互いの立場許しながら
   調和と平和を持ち来(きた)すのである。

   神は愛であり、愛は神であり、神は生命(せいめい)であるから、
   愛のあるところに神は来(きた)りたまい、其の人の生命(せいめい)は
   生き、病(やまい)は癒やされるのである。

   キリストは「汝ら互いに相(あい)愛せよ、愛する処に我はいるなり。」
   「若し汝等互いに相(あい)愛せば、すべての人、汝等をわが弟子なりと
    知らん」 といみじくも教えているのである。

   キリスト教国と云う名(な)、レッテルだけの国が戦争をするのである。

        「眞理」第9巻生活篇第13章(P365) より

           <感謝合掌 令和3年5月24日 頓首再拝>

賢者の一日一言《25日》 - 伝統

2021/05/25 (Tue) 19:40:54


(1)【 5月25日 】 《宇宙賛歌・日めくり25日》

   【全てが自分の思いのとおり】

   思い通りに
   ならないなんて、
   そんな不遜な
   傲慢な。


   呼吸ができて、
   日差しを浴びて、
   出かけて話して、
   食事ができて、
   全てが自分の
   思いのとおり。

       (https://ananda358.com/kobayashiseikan/calendar-025/ )

・・・

(2)【 5月25日 】

   美術品の場合、倦きがこないということが良否の基準となる。
    つまり倦きがこないとは、
    作品に人為の計らいがないせいで、
    それだけ天に通じる趣きがあるといえよう。

   同時にこれは、ひとり芸術品だけでなく、
   人間一般にも通じることでしょう。

・・・

(3)【 5月25日 】 可愛い子には旅をさせよ

   草木の萌芽(ほうめ)は、必ず移植して之(こ)れを培養すれば、
   乃(すなわ)ち能(よ)く暢茂(ちょうも)条達(じょうたつ)す。

   子弟の業(ぎょう)に於けるも亦(また)然(しか)り。
   必ず之をして師に他邦(たほう)に就(つ)きて其の槖籥(たくやく)に資せしめ、
   然(しか)る後(のち)に成る有り。

   膝下((しっか)に碌碌(ろくろく)し、
   郷曲(きょうきょく)に区区(くく)たらば、
   豈(あ)に暢茂条達の望(のぞみ)有らんや。

                     (言後録 一四六)392

   【訳】

   草木の芽生えたら必ず移し植えてこれを育てるようにすると、
   よく伸び茂って枝葉が広がっていく。

   子弟の学業においてもこれは当てはまる。
   必ず子弟を他国へ出して師について学ばせ、
   よく鍛錬して初めて学業が成るのである。

   いつまでも父母のもとでごろごろしていたり、
   郷里でこせこせしたりしていて、どうして草木が生長するように
   学業がの成就する見込みがあるだろうか。
   とてもではないが、その望みはない。

    *暢茂~のび茂る。
     条達~木の枝がのびること。

     槖籥~鍛冶ふいごの外箱と内菅、
        転じて鍛錬

     碌碌~人にしたがうこと。凡庸。
     郷曲~田舎
     区区~こせこせするさま。

   (槖籥:https://yasushiito.hatenadiary.org/entry/20090804/1249311600 )

・・・

(4)【 5月25日 】 天下第一の宝①

   それ天下の宝(たから)二つあり。
   人人(にんにん)の心(こころ)の中に
   明徳(めいとく)と名づけたる無価(むけ)の宝あり。
   これを性命(せいめい)のたからと云(いい)、天下第一の宝(たから)なり。

                  (「鑑草』巻之四 教子報)

   【訳]

   いったい、この世界の宝にはふたつある。
   すべての人の心に、明徳と名づけた他の物とくらべることのできない宝がある。
   これを性命の宝ともいい、世界で第一番の宝である。

・・・

(5)《25日 暗黒(やみ)は決して存在しない》

   暗黒(やみ)は存在するように見えても、
   そんなものは存在しないのです。
   其処には光の欠乏があるばかりです。

   暗黒(やみ)を消すには一層巨大な暗黒(やみ)を持って来て
   覆ても消えるものではありません。

   ”光の欠乏”でしかない暗黒(やみ)は、
   光をつぎ込んだら消えるのです。

   あなた病気がそんな形をしているにせよ、
   それはあなたの潜在意識の中になる攻撃精神や、憎しみや、怒りや、
   嫉妬などと云う愛の欠乏から起っているのですから、

   憎みや嫉妬や憤(いきどお)りを捨てて、赦しと愛とをあなたの心に
   注ぎ込むようにすれば、その病気は消えてしまうのです。

   どうしても赦し得ない心も『生命の實相』を読んで「敵本来なし」の
   真理を知れば赦し得るようになるのです。

   若し、あなたの潜在意識の中に自己処罰の念があるために、
   病気を起しているのでしたら、『生命の實相』を読んで
   「人間本来神の子であり、本来罪なし」と云う真理を知れば
   自ずから自己処罰の念が去って病気が消えてしまうのです。

          「眞理」第9巻生活篇第13章(P366) より

           <感謝合掌 令和3年5月25日 頓首再拝>

賢者の一日一言《26日》 - 伝統

2021/05/26 (Wed) 23:47:17


(1)【 5月26日 】 《宇宙賛歌・日めくり26日》

   【ありがとう】

   ありがとう
   一千回でつぎつぎの奇跡。

   ありがとう
   一万回でたくさんの奇跡。

   奇跡が多すぎて
   嬉しくて、
   またまた
   言ってしまう
   「ありがとう」。


     (https://ananda358.com/kobayashiseikan/calendar-026/ )

・・・

(2)【 5月26日 】

   感覚を新鮮にするには、
    つねに異質的なものを媒介として自己を磨く必要がある。

    でないと感覚はいつしか鈍磨して、
    マンネリ化する傾向がある。

・・・

(3)【 5月26日 】 子供の教育 ①

   子を教うるには、愛に溺れて以て縦(じゅう)を致(いた)す勿(なか)れ。
   善を責めて以て恩を賊(そこな)う勿れ

                        (言後録 一五九)405

   【訳】

   子供を教育するには、溺愛してわがままにさせてはいけない。
   善行を強いて親子の情愛を損(そこ)なってはいけない。

     〇『孟子』には
      「父子善を責むるは恩を賊うの大なるものなり」とある。

・・・

(4)【 5月26日 】 天下第一の宝②

   この宝(たから)をよくたもちぬれば、
   その心(こころ)常(つね)にたのしみ、何事も皆心にまかせ、
   世間(せけん)の宝も福分(ふくぶん)にしたがってあつまり、
   子孫(しそん)もこれによって繁昌(はんじょう)し、
   当来(とうら)かならず天に生ず。

                  (「鑑草』巻之四 教子報)

   【訳]

   この(天下第一の)宝をしっかりと保持していけば、
   その心はつねに楽しみとなり、なにごともすべて心のままになり、
   世の中の宝も自分の福分にしたがって集まり、
   子や孫もこれによって繁栄し、
   来世にはかならず天に生まれるのである。

・・・

(5)《26日 外見で人を審(さば)いてはならない》

   他(ひと)を赦しなさい。
   赦さない心は縛る心です。

   相手を縛る前に、そのあなたの心はあなたの中にあるのですから、
   先ず自分自身を縛ってしまうことになる。

   その結果、あなたの生理作用は縛られ、病気が起こってきます。
   関節の不自由や、身体(からだ)の或る部分の硬直などは
   其の縛る心によって起こって来るのです。

   また赦さない心は相手を刺し又は打ち、痛めたい心ですから、何かと
   衝突する出来事を起こしたり、痛みを伴う病気などを起こします。

   他(ひと)を赦せば自分が赦されるのです。
   腹が立って仕方がない時には、相手の立場になって考えてあげなさい。

   また、五官で見える外見をその人の本当の相(すがた)だと考えることを止めて、
   外見の奥にある実相は「神の子」で完全だと云うことを心の眼で見てあげなさい。

   外見の悪い相(すがた)は汚れた風呂敷のようなものです。
   風呂敷の中に立派な「神の子」と云う実相があるのです。

          *『真理』第九巻「生活篇」(P367)より

           <感謝合掌 令和3年5月26日 頓首再拝>

賢者の一日一言《27日》 - 伝統

2021/05/28 (Fri) 00:25:41


(1)【 5月27日 】 《宇宙賛歌・日めくり27日》

   【損得勘定】

   邪心に野心に下心、
   損得勘定
   あってもよろし。

   どんなに良いこと
   知ってはいても、
   やらねば何も、
   知らぬと同じ。

   いつもありがとうございます。


      (https://ananda358.com/kobayashiseikan/calendar-027/ )

・・・

(2)【 5月27日 】

   石が分かるということは、
    物がわかり出した一徴標といってもよい。
    というのは、
    相対界を離れた証拠ともいえるからである。

・・・

(3)【 5月27日 】 子供の教育 ①

   忘るること勿れ。
   助けて長(ちょう)ぜしむること勿れ。
   子を教うるにも亦此の意を存(ぞん)すべし。
   厳(げん)にして慈。是れも亦子を待つに用いて可(か)なり。

                     (言後録 一六〇)406

   【訳】

   孟子は、浩然(こうぜん)の気(天地間にみちている元気)を養う方法として、
   「いちもそれを心に留めて、忘れてはいけないい。
   早く育て上げようと焦って、助長してもいけない」と言っている。

   子供を教えるにもこのような心を持つべきだ。

   厳格でありながら慈愛の情を持つというのは、
   これも子供を扱ううえでよいことである。

・・・

(4)【 5月27日 】 天下第ニの宝①

   金銀(きんぎん)珠玉(しゅぎょく)、天子(てんし)諸侯(しょこう)の位を
   世間(せけん)の宝(たから)と云(いい)、
   天下第二のたからなり。

                  (「鑑草』巻之四 教子報)

   【訳]

   金銀・珠玉や天子・諸侯の位を、世間の宝といい、
   (これは)世界で第二番目の宝である。

・・・

(5)《27日 何故(なぜ)戦争は 止(や)まないか》

   何故、戦争や馬鹿馬鹿しい闘争が繰返されるのでしょうか。

   少し考え深い人なら戦争は引合わぬ商売だと云うことがわかる筈なのです。

   此の引合わぬことをするのは 人類の自己処罰意識から来るのです。

   人間は “ 神の子 ” であり “ 本来無罪 ” の自覚に到達することができず、
   人類の潜在意識の中に “ 自分は罪人(つみびと)だから戦争でもして
   自(みずか)ら傷つけることによって自己処罰しなければならない ”
   と云うような観念が抜け切らないからなのです。

   罪の観念は 罪を招(よ)び、大量殺人と云う自己処罰の罪悪を犯すことになるのです。


   だから根本的な平和運動は、

   「人類は互いに神の子として兄弟であるから仲好くしなければならない」

   と自覚すると共に 

   「人類は神の子として本来無罪である。神のみが創造主(つくりぬし)であり、
    神は罪をつくらないから、罪は無いのだ 」

   という教えを人類に出来るだけ早く弘(ひろ)めるようにしなければならぬのです。

         *「真理」第9巻生活篇(P368)より

           <感謝合掌 令和3年5月27日 頓首再拝>

賢者の一日一言《28日》 - 伝統

2021/05/28 (Fri) 22:28:02


(1)【 5月28日 】 《宇宙賛歌・日めくり28日》

   【念】

   「念」を入れて生きる。

   「念」の文字を
   分解すると
   「今」の「心」。

   今、目の前にいる人を
   大事にし、
   今、目の前に
   あることを
   大事にすること。


     (https://ananda358.com/kobayashiseikan/calendar-028/ )

・・・

(2)【 5月28日 】

   わたくしには何も出来ませんが、
    ただ人さまの偉さと及び難さを感じる点では、
    あえて人後におちないつもりです。

・・・

(3)【 5月28日 】 子供の教育 ③

   子を易(か)えて教うるは、固(もと)より然(しか)り。
   余謂(おも)えらく、
   三つの択(えら)ぶ可き有り、
   師択ぶ可し、友択ぶ可し、地択ぶ可し」と。

                     (言後録 一六一)407

   【訳】

   昔の人は子供を取り替えて教えたというが、誠に結構なことである。

   自分が思うに、3つの選ぶべきものがある。
   それは「先生を選べ、友を選べ、よい土地を選べ」ということである。

・・・

(4)【 5月28日 】 天下第ニの宝②

   明徳(めいとく)明らかなる人これをうれば、その福(さいわ)いめでたく、
   天下(てんか)の人(ひと)皆そのめぐみにうるおえり。

   明徳くらくして是(これ)をうれば、その身の苦しみと成(なり)、
   或は身(み)をころし国(くに)をうしなう災(わざわ)いこれよりおこれり。

                  (「鑑草』巻之四 教子報)

   【訳]

   明徳の明らかな人が、このような世間の宝を得たならば、その幸福めでたく、
   世界の人々もみなその恵みを受けることができる。

   (しかし)明徳をくもらした人が、このような世間の宝を得たならば、
   それは身の苦しみとなり、あるいは身をころし国をうしなう
   災いが、もたらされるのである。

・・・

(5)《28日 ”実在の延長”としての善と”迷い”の表現としての幻影》

   私たちは、正しい確(かた)い信仰をもって生活せねばなりません。
   正しい確(かた)い信仰とは、ただ善のみ実在であって、
   悪は存在しないと云う強く動かない信仰です。

   これは、創造主(つくりぬし)なる神は唯一(ただひと)つであり、
   決して悪はつくらないという神への深い信頼から来る信仰です。

   すべての悪は人類の主観がつくった幻影に過ぎないのです。
   あなたは「客観的にあらわれている事物を幻影(まぼろし)などとは
   思われない」と言われるかも知れません。

   併し具体的な形はすべて結果であって原因ではないと云うことです。

   心が原因者であって、心が計画するとおり具体はあらわれるのです。
   正しい心があらわした具体なら本物ですが、迷っている心があらわした
   具体ならば、それは”妄想のあらわすところ”即ち幻影に過ぎないのです。

   実在をしっかり見詰めて実在をあらわした具体ならば、
   それは実在の延長として本当にあるのです。

   実在でない悪を心に描いて現わしたものは単なる幻影でしかないのです。

         *「真理」第9巻生活篇(P369)より  

           <感謝合掌 令和3年5月28日 頓首再拝>

賢者の一日一言《29日》 - 伝統

2021/05/29 (Sat) 19:43:51


(1)【 5月29日 】 《宇宙賛歌・日めくり29日》

   【菩薩】

   好意や善意を
   全て受けられる
   人は「菩薩」の域。

   今度会うときは、
   「菩薩」に
   なっていて
   ください。

   あなたに、
   好意や善意の
   雨を降らせたい。


     (https://ananda358.com/kobayashiseikan/calendar-029/ )

・・・

(2)【 5月29日 】

   すべて物事は、
    その事の真髄への認識と洞察が根本で、
    真に認識に徹したら、動き出さずにはいられぬはず。

   ところで認識への手引きは
   ヤハリ生きた書物でしょうね。

・・・

(3)【 5月29日 】 不才な君子と多才な小人

   君子にして不才無能なる者之(こ)れ有り。
   猶(な)お以て社稷(しょしょく)を鎮(しず)むべし。
   小人(しょうじん)にして多才多芸なる者之れ有り。
   秖(まさ)に以て人の国を乱(みだ)るに足(た)る。

                     (言後録 一六六)412

   【訳】

   徳のある立派な君子でありながら、才能のない人がいる。
   それでもなお国家を鎮めることができる。

   人格の劣る小人なのに、多芸多才な人がいる。
   そのような人は国を乱すだけである。

     天保四年、正月下旬記す

   (秖(まさ):https://kanji.jitenon.jp/kanjiv/10833.html )


・・・

(4)【 5月29日 】 天下第ニの宝③

   如意宝珠(にょいほうじゅ)の明徳(めいとく)は、
   人人(にんにん)目具足の物なれば、

   上(かみ)天子より下(しも)庶人(しょじん)にいたり、
   上(かみ)聖人より下(しも)凡夫にいたるまで、もとめればうる物なり。

                  (「鑑草』巻之四 教子報)

   【訳]

   物事が自分の意のままになる不思議な明徳は、
   すべての人(の胸のうち)に具わっているものゆえに、

   上は天子より、下は庶民にいたるまで、
   (また)上は聖人より、下は凡夫にいたるまで、
   求めようとすれば、だれでも得ることができるものである。 

・・・

(5)《29日 ”実在の世界”に新生せよ》

   ”実在の世界”を眺めましょう。
   其処は常に光風霽月(こうふうせいげつ)であって、
   愛と智慧と生命(せいめい)と悦びと平和とが
   満ちているのです。

   すべて善なるもののみが充満しているのです。

   その実在の世界は今此処にあるのです。

   ただ五官はそれを見ることができず、
   それを知るのは直覚認識によってです。

   これを仏教では”悟り”と言うのです。

   そして直覚認識によって”善のみを充満する世界”を知り、
   それを見詰めるようにしていますと、その延長が現実の世界にも
   あらわれて来て、五官の感覚に認められる世界にも、
   愛と智恵と生命と悦びと平和との満ちた状態があらわれて来るようになるのです。

   それが新生活への出発であり、旧世界から新世界への誕生なのです。

   その新世界に於いて、あなたは豊かなる神の後嗣者(あとつぎ)として
   ゆたかなる能力を、智慧を、生命(せいめい)を、
   愛を与えられているのです。

         *「真理」第9巻生活篇(P370)より  

           <感謝合掌 令和3年5月29日 頓首再拝>

賢者の一日一言《30日》 - 伝統

2021/05/31 (Mon) 00:19:57


(1)【 5月30日 】 《宇宙賛歌・日めくり30日》

   【蓮】

   泥の中から
   蓮が咲く。

   泥が濃いほど
   みごと咲く。

   苦悩が濃いほど
   人生は大きく
   花開く。


     (https://ananda358.com/kobayashiseikan/calendar-030/ )

・・・

(2)【 5月30日 】

    一、腰骨を立て
    二、アゴを引き
    三、つねに下腹の力を抜かぬこと

   同時にこの第三が守れたら、
   ある意味では達人の境といえよう。

・・・

(3)【 5月30日 】 人情は水の如し

   人情は水の如し。

   之(こ)れ)して平波(へいは)穏流(おんりゅう)の如く
   ならしむるを得たりと為す。

   若し然(しか)らずして、之を激し之を壅(ふさ)がば、
   忽(たちま)ち狂瀾(きょうらん)怒濤(どとう)を起さん。
   懼(おそ)れざるべけんや。

                     (言後録 一六九)415

   【訳】

   人情はあたかも水のようなものである。

   そのため、これを静かな波や穏やかな流れのようにさせるのが
   最も的を射たやり方である。

   もしそうせずに、これを怒らせたり塞(ふさ)ぎ止めたりしたならば、
   たちまちのうちに荒れ狂う大波が巻き起ってしまう。
   懼れ慎まなくてはならないことだ。

     〇これは人との交際における心構えである。

・・・

(4)【 5月30日 】 幼少の教え

   幼少(ようしょう)の時には、父母(ふぼ)、めのとなどの
   心行(しんぎょう)を教(おしえ)の根本とす。

   さて其子(そのこ)の悪念(あくねん)をひきうごかし、
   悪(あく)にならわざるように、用心第一なり。

                  (「鑑草』巻之四 教子報)

   【訳]

   幼少のときには、父母や乳母などの
   心とおこないを、教育の根本とする。

   さて、その子の悪念を引きうごかし、
   悪に親しまないようにすることが、心くばりの第一である。

・・・

(5)《30日 愛は人の悪を見ず》

   人の悪を見ず、審(さば)かず、その善き処ばかりを見て、
   それを尊敬し、称嘆するのが愛である。

   愛が人の中に宿るとき、その人は柔らかくして強くなる。
   そう云う愛に貫かれた人の正しい主張は何人(なんぴと)も
   抗することができないものである。

   そう云う人の愛の行くところ其処は必ず調和があらわれる。

   愛なくして利害の衝突するところ、調和を求めても
   決して調和はあらわれて来ないのである。

   愛は利害関係を超える。
   利益になるから愛するのではないのである。

   愛するがゆえに愛するのであり、
   愛するために損になっても愛するのが本当の愛である。

   これは夫婦関係でも国と国との関係でも同じことである。

   利害関係に終始している限りに於いて永久に平和は来たらないのである。
   利害関係の誘惑はサタンである。

   人類が純粋の愛で結びつき、利害関係を超越したとき本当の平和は訪れきたる。

         *「真理」第9巻生活篇(P370~371)より  

           <感謝合掌 令和3年5月30日 頓首再拝>

賢者の一日一言《31日》 - 伝統

2021/06/01 (Tue) 01:19:10


(1)【 5月31日 】 《宇宙賛歌・日めくり31日》

   【倍の投げ掛け】

   「未熟な私」が
   人を傷つけたときは、
   その倍の”投げ掛け”を
   しましょう。

   「未熟な私」が
   迷惑をかけたときは、
   その倍の”投げ掛け”を
   しましょう。

   「未熟な私」の「倍投げ」を
   宇宙はきっと
   喜んでいます。

       (https://ananda358.com/kobayashiseikan/calendar-031/ )

・・・

(2)【 5月31日 】

    真理の 化身とや いはめ幻の 時に顕(た)ちきて われを導く

    一人の 隠者の心 幽けくも 追ひ求めてぞ ひと世過ぎしか

・・・

(3)【 5月31日 】話し相手を選ぶ

   能(よ)く人の言を受くる者にして、
   而(しか)る後(のち)に与(とも)に一言(いちげん)すべし。

   人の言を受けざる者と言うは、翅(ただ)に言を失うのみならず、
   秖(まさ)に以て尤(とが)めを招かん。
   益無きなり。

                     (言後録 一六八)414

   【訳】

   よく人の言葉を受け入れる者であれば、
   初めてその人と言葉を交わしてもよい。

   人の言葉を受け入れない者と言葉を交せば、
   ただ言葉を無駄にするだけではなく、
   かえってそれによって言葉の過ちを招くことになる。
   まったく益のないことである。

     〇俗語に「物言えば唇寒し秋の風」というのがある。

   (秖(まさ):https://kanji.jitenon.jp/kanjiv/10833.html )

・・・

(4)【 5月31日 】 心の教え

   子におしえると云(いう)事(こと)を
   あさく心(こころ)得(え)たる人は、
   心のおしえある事(こと)をわきまえず。

                  (「鑑草』巻之四 教子報)

   【訳]

   (幼少時の)子どもに教育するということを軽く思っている人は、
   心の教えがあるということをじゅうぶんに知らない。

・・・

(5)《31日 愛を与えれば魂の底から悦びが湧いてくる》

   若し、私たちの生活に何か不満足や不平の感じが起こるならば、
   それは「愛」が欠乏しているからです。

   「愛」を受けることが欠乏しているばかりでなく、
   「愛」を与える事が欠乏しているのです。

   このような状態を改善するには、先ず誰かに自分自身の「愛」を
   「深切」を与えることを実践することです。

   其処から不思議な喜びが魂の底から湧き上がってくるのです。

   「愛」を与えられないのは、こちらが「愛」を与えないからです。
   しかし自分が「愛」を与えているのに、その人は私に「愛」を
   与えてくれないと嘆く人もあるでしょう。

   それは愛を与えているのではなく、其の人に執着しているのです。
   執着は「愛」ではなく、「ねばり附き」ですから、
   相手に窮屈な感じを与え、相手は自分から離れ去ろうとするものなのです。

   愛するとは其の人の幸福のために 何も求めないで 自分を放ち去ることです。

         *「真理」第9巻生活篇(P371~372)より  

           <感謝合掌 令和3年5月31日 頓首再拝>

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