伝統板・第二

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真理の生活 ⑩ - 伝統

2021/05/01 (Sat) 02:51:39

《深切丁寧と云うこと》

        *「光明道中記」5月はじめの言葉 より

どんなに『生命の實相』を読んでも、法話を聴いても、
それが日常生活の茶飯事にすら顕れるようにならなければ駄目である。

聴いただけで生活に顕れて来ない真理は、
名前を聞いただけで食べない料理と同じ事である。
それでは吾等の生命は餓えて了うしか仕方がない。

「深切丁寧」と云うことが道を行ずる上に第一のものである。
「深切丁寧」とは、凡てのものを深く愛し、切に礼する心である。
一枚の紙も、一粒の米も、深く愛し、切に礼することによって生きてくるのである。

不健康とは、深く愛し、切に礼する心の欠乏である。

物質を不親切に、無造作に、抛げやりに扱うと云うことを、
物質に執われない美徳のように思っている人があるかも知れぬが、
実はそれこそ、一切のものを観るに「物質」として観ているのであるから、
却って其の人は唯物論者であり物質観に捉えられているのである。

すべての事物を見るに、一塵のうちにも仏の国土あり、如来説法したまうと見るとき、
日常生活の茶飯事にも深切丁寧が滲潤する。

この意味に於て「行」が大切である。

・・・

<関連>

(1)伝統板・第二「真理の生活 ①」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6971129

(2)伝統板・第二「真理の生活 ②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7583747

(3)伝統板・第二「真理の生活 ③」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7707100

(4)伝統板・第二「真理の生活 ④」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7796617

(5)伝統板・第二「真理の生活 ⑤」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7854421

(6)伝統板・第二「真理の生活 ⑥」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7934282

(7)伝統板・第二「真理の生活 ⑦」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7988886

(8)伝統板・第二「真理の生活 ⑧」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8016563

(9)伝統板・第二「真理の生活 ⑨」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8061815

           <感謝合掌 令和3年5月1日 頓首再拝>

《人間運命の弱小は自己欺瞞に過ぎぬ》 - 伝統

2021/05/03 (Mon) 02:39:50


        *「光明法語」(5月3日)より

神の子であるところの人間が、
そんなに弱小なる運命に定められていると思うのは
自己欺瞞に過ぎないのである。

自己欺瞞を去れ。
汝は神の子ではないか。

人間は自分自身の運命を斯くの如く限ってはならないと同時に、
他の人の運命も限ったり縛ったりしようと望んではならないのである。

誰をも害しない、誰をも束縛しない
自分の伸びる道があると云うことを信じなければならない。

自己の運命をよくするためには、
悪は存在すると云う人類の通念に縛られず、
現象の形に惑わされないようにせねばならぬ。

           <感謝合掌 令和3年5月3日 頓首再拝>

《朝起きて先ず為すべきことを》 - 伝統

2021/05/05 (Wed) 04:52:49

     *『人生の秘訣365章』第3篇(P83~84) より

朝起きたならば、何よりも先ず、自分の心の調律を為すべきである。

實相無限に完全なる世界に波長を合わし、
實相無限の智慧に波長を合わし、
實相無限の愛に波長を合わし、

實相無限の供給に波長を合わし、
實相無限の歓喜の世界に波長を合わし、
實相無限の調和の世界に波長を合わすようにすべきである。

それが神想観の実修である。

かくして實相無限の調和に波長を合わすとき、
心も身体(からだ)もともに最も力みのない状態となり、
凝りや偏りはなくなり、心も身体も疲れることなく、
何事も適確な判断をもって迅速に行うことができるようになるのである。

           <感謝合掌 令和3年5月5日 頓首再拝>

《本当に豊かなる生活とは》 - 伝統

2021/05/06 (Thu) 04:52:32


          *「真理」第9巻生活篇(P27)より

人間は物質ではないから、その人の生活の豊富さはその人の肉体の目方に
よって量(はか)ることはできないのです。

体重二十貫を超える人でも 魂の生活の痩せている人もありますし、
体重九貫五百匁(め)でも豊富な精神生活を送っている人もあります。

また其の人間の生活の豊富さは所有する物質の分量によって量られるものではありません。
物質は実に簡素な生活を送りつつ 魂の豊富な生活を送ったガンジーのような人もあります。

生活の豊富は、人間は霊であるから物質的幅でも長さでもなく、目方でもない。
それは眼に見えない 魂の深さによって量られるのです。

食欲と性欲と所有欲と睡眠欲とをどんなに豊かに生かしましても、
善意や深切や愛や純潔や 魂の美や永遠なるものへの希望と憧憬とのない
生活は豊かでない生活と謂うべきです。

           <感謝合掌 令和3年5月6日 頓首再拝>

常に穏やかな心で、穏やかな言葉で - 伝統

2021/05/08 (Sat) 02:22:33


           *『白鳩』(昭和39年7月号)より

周囲のちよいとした刺戟に対して直ぐに腹を立てたり、
鋭い激しい言葉で応答するのは、その人の魂が練れていない証拠である。

私たちは毎日の神想観中に、自分が “神の子” たるにふさわしく、
如何なる時にも 心の平和を失わないで、最も適当な処置を、
その時、その場、その人に対して行い得るように、

神想観中に、明確な智慧と、温かい愛情とを神から授けられるように祈り、
そのような智慧と愛とに既に満たされている自己を心に描いて
瞑想するようにしなければならない。

そのような瞑想を私たちが毎日つづけるとき、
私たちは常に穏やかな心で、穏やかな言葉で、どんな環境にも
対処することができるようになり、自己の周囲に天国浄土が実現するのである。


誰かがあなたに損害を与えたとき、またあなたの権利を侵害したとき、
またあなたに属するものを奪ったとかいう場合に、
あなたは昂奮したり、腹を立てたり、相手を呪ったりしてはならないのです。

自分の感情が顛倒していたら、その時行う行為は、
‘してはならない’顛倒〈さかさま〉の事を行うことになり、
結果は益々悪くなるばかりなのです。

自分に損害を与えた相手を祝福しなさい。 
その人がやはり “神の子” であって “悪い人” でない事を念じなさい。 

その人と “心の世界” に於いて既に調和している事を念じなさい。 
あなたが “心の世界” に於いて完全に一切の人と調和するとき、
あなたに損害を与える人は自然に消えてしまうのであります。


http://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p4.html#item79
07/26/13--08:37

           <感謝合掌 令和3年5月8日 頓首再拝>

霊感多きで、慢心するなかれ - 伝統

2021/05/13 (Thu) 04:45:10


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月13日)」より

『伝燈録』巻八、南泉普願の章に
「南泉いわく、『老僧修行のちからなくして、鬼神に覰見(ちょけん)せらる』」とある。

南泉和尚が修行の力なくして鬼神(霊界の諸霊たち)からまだ姿が見えたので、
鬼神からいろいろの霊力を授かっていたのを恥じるというのである。

人の病気を霊力で治しえたからとて、
その人の心境が、そしてまた修行がすばらしいというのではないという意味である。

道元禅師は『正法眼蔵』行持の巻、五祖の章に、このことを注釈して

「向来の仏祖のなかに、天の供養をうくるおおし。しかあれども、
すでに得道のとき、天眼およばず、鬼神たよりなし。そのむねあきらむべし」

と悟しておられるのである。

今までの仏教の教祖のなかに、天人級の諸霊の供養をうけて、
いろいろ神通力を発揮した者もあるけれども、真実、仏道の悟りを得たならば、
天人の霊眼にも見えないし、鬼神すなわち諸霊の憑(かか)り来ることはない。

その深き意義を明らかに考究せよという意味である。

いろいろの予言ができたり、病気治しができたり、天眼通がひらけたりするのは、
ある階級の諸霊の感応によって得られるのであるから、
まだ最高級の悟りに達していないのだから注意せよと道元禅師は言われたのである。


そして道元禅師は、五祖の章の結末を

「しるべし、無修の鬼神に覰見せらるるは、修行のちからなきなり」

と叱咤していられる。

本全集『生命の實相』第九巻の「霊界篇」にあるヴェッテリニの霊告によっても、
低級の霊は人間界の雰囲気の近くに生活しているから、現実界にあらわれる以前に
地上に渦巻く雰囲気を感知して、高級霊よりもいっそうよく予言などが的中するのだ
と示されている。

高級霊はおおむね地上の物事に執着しないから地上の人びとを訪れることなく、
おおむね低級霊が地上の人々を訪れるのである ―― もっともそれはそれぞれの
霊的因縁によることであり、それぞれの使命のあることであるが ―― 
したがって霊感などがあまり多くあることを慢心してはならないのである。

むしろ霊感多き人は南泉和尚のように

「老僧修行のちからなくして鬼神に覰見せらる」と

修行の足らざるを反省すべきである。

道元禅師は、行持の巻第十五に伽藍の守護神が

「われきく覚和尚この山に住すること十余年なり。
つねに寝堂に到りて和尚を見んとするに能わず」

と嘆いたと書いている。

  ・・・

*覰見(ちょけん)=うかがい見る

           <感謝合掌 令和3年5月13日 頓首再拝>

自分を「公な存在」に常に置き換えること - 伝統

2021/05/18 (Tue) 03:37:20


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月18日)」より

神は自己自身を実現するために「我(われ)」を創造(つく)り給うたのであると信ぜよ。
しかしてわが欲することは神御自身が実現するために必要なことであると信ぜよ。

これが信念の世界において、神と自己とが一つになる道である。
わが欲することを神が嘉(よみ)し給うかどうかわからないなどとは思うな。

「我(われ)」が欲することは神の嘉し給うところのことであると信ずるために
第一に必要な条件は「個我(こが)」をいったん破壊してしまわなければならぬ。
自分がまず「公的な存在」になってしまっておくことが前提である。

「我(われ)」というものが「公的な存在」になっていないでいながら、
「我(わ)が欲するところのものは神が必ず成就し給うところだ」などと信じても、
ある程度までは信念の力で押し切れるが、
ナポレオンのように最後にウォーターローの戦いで敗れるだろう。

自分を「公(おおやけ)な存在」に常に置き換えること。
一度「公(おおやけ)な存在」に置き換えておいても、
いつの間にか「私的(してき)な存在」に置き換わっていることがあるから注意せよ。

           <感謝合掌 令和3年5月18日 頓首再拝>

《正しく仕事を為す態度》 - 伝統

2021/05/19 (Wed) 04:48:29


       *『人生の秘訣365章』第6篇(P149) より

神は無限の力であり、神のみが唯一の力であり給うのである。

自己が“神の子”であり、自己の“生命(せいめい)”は
“神の生命(せいめい)”が宿っているのであることを知るならば、
それを正しい方向に使用する限りに於いて、
自分の希望達成に妨礙となる何物もあり得ない事は当然であるのである。

“神の生命(せいめい)”が自己の生命(せいめい)として宿っているのであるから、
神のみこころに適う方向に行動しなければ、自己矛盾に陥って、
希望が成就しなくなるおそれがあるのである。

仕事をなすのに、正しい仕事を選び、正しい心の態度によって
それを遂行することが必要である。

他(た)の人が何と批評しようと、批評は人にまかせよ。

あなたは毎日、何らかの人類のためになる
(人類全部でなくとも、そのうちの一人又は数人のためでも可い)
仕事を為すように心懸けよ。

それがあなたの仕事の方向を正しくし、
心境を正しくするのに役立つことになるのである。

           <感謝合掌 令和3年5月19日 頓首再拝>

【お役に立つ人になること】 - 伝統

2021/05/21 (Fri) 04:39:37


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2016年12月30日)より

   (石川洋氏の心に響く言葉より…)

   《偉くならなくていい
    立派にならなくていい
    お役に立つ人になることである》

   生まれてくるときには
   赤子は掌(たなごころ)をにぎりしめている

   そのこぶしを開くとき
   人間の活動が始まるのである

   結んで開く生命の躍動である


   問題は何と結ぶかである

   楽な生き方と手を結ばないこと
   うまい話しに手を出さないこと
   利の多い仕事に手を染めぬこと

   結び方を間違うと自滅の道を歩む
   心して無慾の縁を選ぶことである

   よい仕事に汗をかくことである

      <『生きるんだよ』春陽堂>

         ・・・

石川洋氏のお師匠さんである西田天香さんの言葉がある。

■どうせ死ぬ命である。
 一切のために一番よい事をなるだけして死ぬがよい。

■求める心は淋しい。捧げる心は豊かである。

■世界の行きづまりは、感謝を忘れたうぬぼれの累積である。

■いかなる強い考えも考えは弱い。
 いかなる弱い実行も実行は強い。

■金の力だけで仕事をしている人は、金がなくなった時、無能者となる。

■多く知って行わぬより、少なく知って実行するがよい。
 他を責めるより、おのれを省みるがよい。

■眼につくのは枝葉であるが、直さなければならないのは根元である。

■危ないのは責められている時ではなく、誉められている時である。


どんな崇高な理念であろうと素晴らしい考えを持っていようと、
それを実行しなかったら、それは無いのと同じ。


人のお役に立つこと。

人に喜んでもらうこと。

楽な生き方と手を結ばないこと。

うまい話しに手を出さないこと。

利の多い仕事に手を染めぬこと。



『覇道(はどう)とは、努力少なくして、「利」多い道
 王道とは、努力多くして、「利」少ない道』

人生の王道を歩みたい。

           <感謝合掌 令和3年5月21日 頓首再拝>

《仕事に最高能率を発揮するには》 - 伝統

2021/05/23 (Sun) 04:56:41


          *「眞理」第2巻基礎篇第14章(P379~380)より

若(も)しあなたが、「自分の仕事は中々苛烈な仕事ですよ」と
自分の仕事の辛(つら)さを訴えたり、一所懸命努力している
と云うようなことを自慢らしく云うようなことだったら、

あなたは余り、その仕事には能率の好(よ)い
仕事家ではない証拠だと云わねばなりません。

すぐれたる運動選手は自分の練習をつらい仕事だと言ったり、
「一所懸命努力している」などとは言いません。

「つらい」とか「えらい」とか「一所懸命だ」とか
心の中で無理な緊張のある間は、
あなたの生命力は100%発揮せられないのです。

真に深い興味と熱情をもってやれるような仕事なら、
《つらい》ことも、《えらい》ことも、一所懸命に力むこともない。

その時一層浪費なく生命力が発揮されるのです。

           <感謝合掌 令和3年5月23日 頓首再拝>

【世の中で起こることは、すべて必然】 - 伝統

2021/06/04 (Fri) 12:24:11


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2021.04.19)より

   (舩井幸雄氏の心に響く言葉より…)

   ◆世の中で起こることは、すべて必然

     世の中で起こることは、すべて、必然的に起きています。

     失敗も例外ではありません。

     運が悪い、たまたま悪い偶然が重なってしまった
     という見方がありますが、それは、ことの必然性を
     自分が認識していないだけであって、
     本当は、すべて起こるべくして起こっているのです。

     さらにいえば、これもサムシング・グレートの采配(さいはい)です。

     失敗しなければ、失敗しないための工夫も生まれません。

     つまり、サムシング・グレートは、
     私たちに失敗から何かを学ばせるべく、
     あえて失敗をさせるようです。

           (「本物」になるクセづけ)より



   ◆まずは肯定し、必然だと思うこと

     たとえ身を切られるほど悲しいことでも、
     まずは肯定し、必然だと思ってみることです。

     そのうえで、全身全霊をかけてことにあたり、
     よき未来を確信するようにしていれば、
     自ずと道は開けていくもののようなのです。

           (「本物」になるクセづけ)より



   ◆悪いことはよくなるために起きる

     世の中に生起することはすべて必要必然です。

     工業化社会がもたらした矛盾も必要だから起こったことだし、
     近代の行き詰まりも、景気の低迷や地価の下落も、
     すべて必要必然のことだといえます。

     悪いことはよくなるために起きるといってもいいでしょう。

     ただし、その「よくなるようにできている」システム
     =天地自然の理を作動させるには、

     人間がいのちのはたらきに素直に耳を傾け、
     その原理に沿って生き直すことを始めなくてはいけません。

              (百匹目の猿)



   ◆自分に起こることは、自分が源泉

     私は、自分に起こることは、すべて自分が源泉だと考えています。

     そう思えば、状況を変えるには自分が変わればいいだけですから、
     すぐに対策を考えられます。

           (「本物」になるクセづけ)

 
    <『未来を変えるクセづけ』海竜社 https://amzn.to/3anOPvY  >

         ・・・

世の中で起こることは、振り子のようなもので、
右に大きく振れたら、左に大きく戻る。

悪いことが起きたら、いいことが起こるということ。


「起こることは、すべて必然、必要」だと思うことは、
すべてを肯定し受け入れるということ。

「なるほど、そうなんだ」と納得すること。


また、逆にいいことが起きた時は、
その「福」や「幸」を散じることをすること。

幸田露伴はそれを
「幸福三説(惜福、分福、植福)」と言った。

●「惜福」とは、その「福」を使い尽くしてしまわないこと。

 成功したとしても有頂天になったり、傲慢にならず、
 謙虚であることであり、出しゃばったり、あえて自ら目立ったりしないこと。

●「分福」とは、自分の福を独り占めしないで、人に分け与えること。

●「植福」とは、将来のため、後世のために、自分の福の種を蒔いておくこと。

 福の種とは、謙虚になってさらに、勉強したり、
 新たなことを研究したりすること。


世の中で起こることは、すべて必然、必要なことと、
肯定し、すべてを受け入れ…

肚をくくり、覚悟を決め、淡々として、ことにあたりたい。

           <感謝合掌 令和3年6月4日 頓首再拝>

【人の話を熱心に聴くことの意味】。 - 伝統

2021/06/05 (Sat) 12:17:00


      *メルマガ「人間力」(2021.4.27)より
 
シスター・鈴木秀子さんの
『致知』5月号の連載「人生を照らす言葉」の
一部からの紹介になります。
───────────────────

(鈴木)

日本のカトリック系大学で
教鞭を執ったある神父の伝記に、
こういうことが書かれてあります。

この神父は、大勢のグループを相手に神様の話をしていました。

するといつも最前列、
中央の席に座って肯きながら
熱心に聴いている高齢の女性の姿が目に留まりました。

神父はいつもその女性の姿に励まされるように
講演をしていました。

ある時、講演会の主催者に

「あの女性のおかげで私は話し続けることができました。
 あの方はどういう人なのですか」

と質問したところ、

 「あの女性は全く耳が聞こえないんです。
  じっと顔を見ているだけなんですよ」

という答えが返ってきて、
神父は大変驚いたといいます。

その高齢の女性が手話を通して言うには

「私は耳は聞こえないけれども、じっと相手の顔を見ていれば、
 その人が言っていることが真実かどうかがよく分かります。

 だから、神父さんの話を信じる気持ちになったんです」と。

これを聞いた神父は

「ああ、この女性の心の美しさによって自分の心もまた美しくされた」

と心打たれたというのです。


私がかつてアメリカで
アクティブ・リスニング(傾聴)の大切さを学んでいた時にも、
似たような話がありました。

講演の名手と呼ばれる男性がいて、
ある人が

「どうしてそんなに上手に話せるのですか」

と質問しました。

彼はもともと話し下手で、人前でスピーチをすることは苦手でした。

しかし、後ろのほうでいつもこちらを見ながら
熱心に聴いてくれている人がいることに気づいて、
その人だけを意識して話をするうちに、
いつしか話力が身についてきたのだといいます。

そして彼もまた、
熱心に話に耳を傾けてくれていたその人が
耳が不自由であることを後で知るのです。


この2つの実話から分かるように、

人の話を熱心に聴くことは、

その人の中の「ほんとうに美しいもの」を

引き出す不思議な力があります。

           <感謝合掌 令和3年6月5日 頓首再拝>

生活が本当になったとき心が落ちつく - 伝統

2021/06/06 (Sun) 04:26:48


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月6日)」より

生活が本当になったとき心が落ちつく。
心が落ちつかない間は、自分の生活が据わるべき処に据わっていないからである。

機械でも据わるべきところへ据わったら、震動も少ないし、摩擦も少ないし、
心棒が焼けつくということもないのである。

心を落ちつけるのも大切であるが、心の方からばかり抑えつけても不安が去らないのは、
生活が落ちつくべきところに落ちついていぬのである。
ごまかしの生活をしながら心ばかり落ちつかせようと焦ってもしかたがない。

正しい生活、悔いのない生活、いつ死んでもよい生活をしていたら、
どんなことがあっても落ちつけるのである。

           <感謝合掌 令和3年6月6日 頓首再拝>

西郷隆盛 十の「訓え」 - 伝統

2021/06/07 (Mon) 12:00:27


       *Web:今日も良いことがあるように(2021/06/06)より抜粋

一 迷ったときは、「損得」でなく「善悪」で判断せよ。

二 「正道」を行ない、それを楽しめ。

三 「分をわきまえる」ほど、強くなる。

四 「勇気」だけは、誰にも負けてはならない。

五 理不尽は理不尽のままでよい。自分が理不尽なことをせねばよい。

六 「恩」は返せ。「恨み」は晴らせ。

七 「当たり前」とは、不測の事態が起こること。

八 自分を大事にしすぎるな。すべての悪事はそこから生じる。

九 恥は堂々とかけばいい。

十 「天」に問え。

  (https://lucky.t-nakai.work/2021/06/06/essay-12/

           <感謝合掌 令和3年6月7日 頓首再拝>

自分で無いものを同一視してしまう愚かな自惚れと慢心 - 伝統

2021/06/09 (Wed) 12:20:51


       *Web:宇宙の兄弟たちへ(2021年6月8日)より

人間は自分ではないものを自分と同化させて、
うぬぼれてしまうことがあります。

自分自身と外にあるものを錯覚して
慢心してしまうことがあるのです。

たとえばお金持ちであることを自慢する人がいたとします。

お金持ちだから他人より優れているという考えは
間違ったものです。

なぜならお金はあなた自身では無いからです。

お金は自分の外にある物であり、他が作り出して
今は自分のところに集まっているに過ぎません。

他にも学歴や勤め先を自慢する人もいます。

どこそこの学校に入学したとか、就職したなどは自慢になりません。

なぜならあなたは大学でもなく会社でも無いからです。

自分の外にある大学や会社などを、
自分と錯覚して慢心してしまっているだけです。

他にも子供を自慢したり、肩書を自慢することもあるでしょう。


そのように、ひとは自分の外にある物と自分とを混同して、
錯覚してうぬぼれることがあります。

それらはコバンザメが、張り付いている魚の大きさを
自分の事のように自慢しているようなものです。

いくら付いている魚が、大きくて強いサメであろうが、
コバンザメはコバンザメです。

本当に誇れるものというのは、
自分自身から出たものでなければいけません。


例えば、お金に関して言えば、
他の人が浪費している中で、遊びに使わず一生懸命働いて
貯めて得たのであれば、そうした真面目さは
自らのものなので誇りになるでしょう。


優秀な大学を出たのであれば、
その大学に入れたことが自慢なのではなくて、
勤勉に努力したことは自らのものですので誇りに思うべきです。


そのように、外にある物を自分と錯覚して
うぬぼれてしまうことが多いですが、
本当に誇りとするものは、
自分のうちにあるものと分からなくてはいけません。

しょせん、外のものは自分自身ではないのですから。

https://www.spacebrothers.jp/2017/06/blog-post_75.html

・・・

<参照>

伊勢ー白山 道(2021-04-26)
生きている途中は、善意を持つことが最大事だった
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/5a3155564c47f7746639e9d2c8bdb6ba

           <感謝合掌 令和3年6月9日 頓首再拝>

日常生活できまる奥さんの《ねうち》 - 伝統

2021/06/15 (Tue) 06:25:56


        *『女性の幸福365章』(P218)より

“日々是好日”の生活は、何の変哲もない米飯(べいはん)が
噛みしめれば噛みしめるほど味のあるように、
そのなんの変哲もないところに悦びがあるのである。

悲しみが来るのは、
必ずその生活が追求してはならないものを追求していたことを教えてくれる
“ゴー・ストップ”的薬剤として来るのである。

心の方向と行いの方向とをかえれば、間もなく悲しみは去るであろうけれども、
心の向き方と行いの向き方とをかえない限りは悲しみは去らないのである。

日常生活の何の変哲もない生活が歓喜(かんき)に満たされるのが
本当の“神の子”の生活である。

           <感謝合掌 令和3年6月15日 頓首再拝>

「打てば響け」 - 伝統

2021/06/19 (Sat) 04:49:55


         *谷口輝子先生著『新版女性の書』(P142~143)より

「打てば直ちに響け」と私は男性にも女性にも云いたい。

三つ打てば三つ響き、五つ打てば五つ響くことは当然であるけれども、

世の中には、三つ打てば一つ響き、五つ打てば二つ響く人が思いの他に多い。

私はむしろ、三つ打てば五つ響き、五つ打てば七つ響いて欲しいと提言する。

打つ人の心を素直に有難く受けたならば、
三対三の当然以上のものをもって応え得ると思う。

これは単なる言葉の上の返事のことのみではなく、
人生を生きるについて、凡ゆる方面に於いて
三対一の人の環境は暗く不和であり、三対五の人の環境は明るく順調である。

           <感謝合掌 令和3年6月19日 頓首再拝>

最初の魂の非難にきけ - 伝統

2021/06/20 (Sun) 04:52:26


       *「光明法語」(6月20日)より

最初は自分の罪におののくが、それに慣れてくると何ともなくなる。
次には罪の行為(おこない)が楽しくなり、
しまいにはそれが度(たび)かさねぬとおれぬようになる。

習慣と云うものは、恐ろしいものである。

先ず最初に罪に近づかぬことである。
罪とは実相の円満完全さをツツミ隠した思いであり行為(おこない)である。
それが実相そのものでないと云うことは、魂の最初の戦(おのの)きでわかるのである。

最初に、第一印象で、魂が非難するところのものは行なわぬがよいのである。

第一念で良いと思うことは善いことが多い。

           <感謝合掌 令和3年6月20日 頓首再拝>

善き友と交わること - 伝統

2021/06/21 (Mon) 02:33:27


       *「光明法語」(6月21日)より

見る姿・形は一種の暗示となって吾々の魂の中に投げ込まれるのである。

友だち又は知人の悪しき範例(おてほん)を見ていると、
その悪しき姿が自分の潜在意識内のレコードとなり、
縁を得ればその通りの悪しき姿が自分の行為(おこない)に現れてくる。

善き友と交わり、善き友の行為(おこない)を見、善き友の言葉をきく事は、
目に見えぬ無限の宝を内に積むことになるのである。

潜在意識の中にあるよき想念は、無限のよき宝であると云うのは、
其処から無限の善きものが湧き出るからである。

すべて心に入りたる物はやがて形となって顕れて来る。

           <感謝合掌 令和3年6月21日 頓首再拝>

決意をもって断じて行え - 伝統

2021/06/22 (Tue) 04:45:34


       *「光明法語」(6月22日)より

「断じて行えば鬼神も避く」と諺(ことわざ)は言う。
道は、決然たる意志の前にはその扉を開く。
道がなければ自分が道を造れば好い。

キリストは「我は道なり」と言った。
八方が塞がっても上方はあいているのだ。
上方は神に通ずる道である。道なき時には神に頼れである。

不可能を可能にかえ得るものは決意である。
「意志の教育こそは吾人存在の目的である。
断乎たる決意ある者の前には常に時と機会とが待っている」とエマーソンは言っている。

世界を動かす梃子(てこ)は意志の力である。

        <感謝合掌 令和3年6月22日 頓首再拝>

目覚めの言葉 - 伝統

2021/06/23 (Wed) 03:49:00


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月23日)より

朝目を覚ましたとき、その疲労感に捉われるな。
多くの病人は、半睡半覚状態における身体の《だるい》感じを
「病気の執拗(しつこ)いためである」と錯覚しているのである。

「身体(からだ)の《だるい》のは同じ姿勢で長く寝ていたからである」と信ぜよ。

そして

「今後自分には善きことばかりが来るのである。
自分は神の子であり、神に祝福されたるものであるから、
常にいっそう幸運は訪れ、常にいっそう健康になるのである」

と瞑目のまま低声(こごえ)をもって繰り返し念ぜよ。

必ずその言葉の力のとおりになるのである。

           <感謝合掌 令和3年6月23日 頓首再拝>

与えられたる恩恵に目覚めるとき、今此処が天国 - 伝統

2021/06/24 (Thu) 04:34:38


       *「光明法語」(6月24日)より

誰にでも自己の天国があるのである。

自分の脚下を見、真に自分に与えられたものを享受し
これを生かし働かすとき、其処に天国は現れるのである。

必ずしも富めるのが天国ではない。
富めるが為に財産税にて首をくくれる人がある。
富めるがために強盗を怖れて不眠症になる人もある。

貧しき者偶々(たまたま)富みて脚下を忘れ、
婦人に弄(もてあそば)れて不治の病いを得るものあり、
人格をそこなう者あり、富は必ずしも天国の条件ではないのである。

諸君が今此処に於いて与えられたる恩恵に目覚めるとき
天国は今此処にあるのである。

        <感謝合掌 令和3年6月24日 頓首再拝>

「今」を有難く受け生かす - 伝統

2021/06/25 (Fri) 03:01:32


       *「光明法語」(6月25日)より

天国は手をつっこんで奪うことは出来ない。
天国は縁(ふち)まで満ちた杯の如きものである。

手を突込んではその悦びはこぼれてしまう。
天国は覆(くつがえ)してはならない。
天国は床に流れて姿を没するであろう。

天国はただ素直にそれに口をつけて静かに飲むべきものである。

静かにのめば、全身に平和と柔らぎとは来り、心は悦びに満たされ、
恍惚として酔い、美しき光景を見、七宝集まり来り、
全てのよき友集い来るを見るであろう。

「今」を有難く受け生かす者に非ずば天国に入ることは出来ない。

        <感謝合掌 令和3年6月25日 頓首再拝>

《自己の絶対価値を信じて個性を伸ばせ》 - 伝統

2021/06/26 (Sat) 04:56:09


       *『人生の秘訣365章』第6篇(P151~152) より

他(た)と比較して、自分の相対価値を求めるな。
比較するとき現在の待遇が腹立たしくなったり、不平の念が起ったり、
劣等感に責められたりすることになるのである。

あなたは神の個性的な自己実現として
他(た)と比較のできない絶対価値をもっているのである。

自己が絶対価値をもち、自己が比較を絶した価値のものであることを
自覚して、常に神想観して、神の智慧につながって行動すれば、

他の人ではできない、自己でなければ出来ない
独特の、個性ある進展を示すことができるようになるのである。


神に導かれたる個性ある独特の進展をすることは、
如何に個性を伸ばすとも、他(た)と不調和となり、
全体の発展をこわす事にはならないのである。

時計の各個の部分品が、他(た)と異る形をしながら、
それが設計されたる本来の個性ある形に精確に作られておればおるほど、
その時計が一層精確に運転するようになるのと同じように、

一つの会社又は団体でも、個性ある人材が適材適所に於いて、
その人でなければ他(た)の人には到底できない個性ある優秀な仕事を
してくれるとき、その会社又は団体は一層栄えるようになるのである。

        <感謝合掌 令和3年6月26日 頓首再拝>

時間を大切にせよ - 伝統

2021/06/29 (Tue) 02:57:29


       *「光明法語」(6月29日)より

「小人閑居して不善をなす」と云う諺あり。
徳足らざる者仕事なく閑(ひま)でいる事は誘惑に対して隙を与えることになる。

「何事をも為さず」と云うのも又「行為(おこない)」の一種であって、
「悪をなす行為(おこない)」よりも一層悪である。

忘れられたる知識は復習によって回復されるが、
働かずに忘れられたる時間は如何なる方法によっても回復の道がないのである。

時間は生命であり、生命は何ものよりも高価なるものである。
無駄に時間を捨てる者は金貨を捨てて歩くよりも尚悪いのである。

生命(いのち)は向上するか、然(しか)らざれば向下するかである。

        <感謝合掌 令和3年6月29日 頓首再拝>

真理の前に跪(ひざまづ)く - 伝統

2021/07/01 (Thu) 04:56:25


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月1日)より

深海の中に棲む魚(うお)は盲(めしい)である。
暗(やみ)のみを心に思い浮かべているからである。

光を見る心になったときわれわれに眼ができ、
美しい世界がわれわれの周囲に展開したのである。

思想することは自由である。
幸福になるように、あるいは不幸になるように。
けれどもそれは各人の選択である。

ただひと筋に光明思想に随(つ)いて来るものは幸いである。

すべてのものがわが内にある。本当にある。本当にある。
ただそれだけを知ればよいのである。
ただそれだけを直視すればよいのである。

思想として、宗教として、哲学として、生長の家はすべてのすべてである。
このほかにもっと何かよいものがあるかと思ってさ迷い出るものは、
エデンの楽園にいてエデンの楽園をさ迷い出(い)ずるものである。

いろいろ変わった思想のものを読んで、思想を混乱させればさせるだけ、
自分の運命が混乱してくる。

罰を当てるのではないが、いろいろお蔭を戴いてから去ったものの運命が
それほど花々しくないのは、その人自身の思想が混乱しているからである。

元の思想に還ればまた幸福がその人のために甦ってくるのだが、
いったん光明思想を去った者が元の思想に還ることは負けたような気がして
正直に懺悔の心を表白することができない。

そこでその人はいつまでもグズついて不幸の中に身をまかせているのである。

真理の前に跪(ひざまづ)くことは、
不幸の中に身をまかせていることよりも
いっそう勇敢なことであることを知らなければならない。

         <感謝合掌 令和3年7月1日 頓首再拝>

未来の自分が見ている - 伝統

2021/07/02 (Fri) 03:52:03


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2011-03-19)より

   (相田みつを氏の心に響く言葉より…)

   浄玻璃の
   鏡の前に立つまでは
   秘めておきたし
   あのことも
   このことも

           (相田みつを)



仏教では
浄玻璃(じょうはり)の鏡というのがある


亡くなってあの世に行く前に
誰もが一度は浄玻璃の鏡の前に立つそうだ

すると
生まれてから死ぬまでの間の
人に与えた喜びと人に与えた悲しみが
走馬灯のように、一瞬にしてその鏡の中に再現される


かつての阪神大震災の直後に、
一杯5000円のラーメンを売った店があるという。
街が復興したとき、そのラーメン店は倒産した。

自宅の水道やガスが早く復帰したので、
近所の人たちに無料で自宅のお風呂を開放した会社社長がいた。
その会社は、10年後に売上、利益とも5倍に成長したという。


誰もが、絶望的になるような、天災や、震災にあったとき、
人間のほんとうの値打ちがわかる。

5年後、10年後になったとき、はたして今の自分の行動を、
胸を張って、自分の子供や、後の世の人たちに話せるだろうか。


自分の利や得のためだけの行為は、
今はわからなくても、未来の自分は見ている。

「浄玻璃の鏡に立つまでは…」


今こそ、人の道に恥じない行動をとりたい。

・・・

<参照>
伊勢ー白山 道(2021-06-25)
未来の自分が観ています
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/e78d3e52e720bc3a76aaab1464efa41a

         <感謝合掌 令和3年7月2日 頓首再拝>

日常生活の些事にも“神の子”を実践せよ - 伝統

2021/07/03 (Sat) 03:10:47


        *『生長の家』(昭和47年3月号)より

物質界の事物や法則について知らない事があっても、
その人の人間の品等を上下するものではない。

唯、知識ゆたかなものは世俗から尊敬せられたり、
世俗の財貨を得たりするのに便宜であるだけである。 

しかし “心の法則” を知らない者は
 『教養がない』 ということになるのである。 

更に、 “人間・神の子” 又は 『人間・則仏身』 の真理を
知らないものは、いくら世俗の名誉があり財貨があっても、
また所謂る “教養” があっても、
魂の聖なる高さに達することはできないのである。

『人間・神の子』 の真理は、簡単明瞭であって、
子供にもすぐわかる、少しもむつかしい事はない。 

しかしその “神の子の心” になり、 
“神の子” としての行為を毎日実践して、それを重ねて行かなければ、 
“神の子” の実相はあらわれないのである。

それは恰も、朝顔の種子を見て 『これは朝顔の種子だ』 とわかる。 
それは子供にもわかることだが、それがわかるだけでは
朝顔の美しい花は咲かないのである。 

それを土に埋めて肥料を施し、毎日水を潅ぐという簡単な仕事だけれども、
その簡単な実践を毎日繰返し重ねて行くことによって
美しい朝顔の花を咲かせることができるのである。

『朝顔の種子』 は 『真理』 に喩えたのである。 

『人間・神の子』 の真理は唯、知っただけでは、
ただ種子を大切に保存しているだけである。 

その “神の子” たる真理を、
神は愛であるから、愛を毎日の生活と出来事とに、
小事といえども繰返し実践して行くところに、 
“神の子” として美しい実相が現実に花咲くことになるのである。

中途半端な知識は却って失敗の因になるのである。 
運転免許を受けたばかりのカー・ドライバーが、
高速道路を速力一ぱい走らせて、カーブの処でハンドル回転の加減がわからず、
ついにガード・レールを突き破って墜落して重傷を負ったり、
死んだりするのがある。 

これは自動車運転に関する中途半端な 『知』 しかもっていないからである。

中途半端な 『知』 を完全な 『知』 にまで完成するには、
繰返し、小さな実行を積み重ねて行くがよいのである。

         <感謝合掌 令和3年7月3日 頓首再拝>

「ハイ」と「否」 - 伝統

2021/07/04 (Sun) 06:14:33


        *「光明法語」(7月3日、7月4日)より

七月三日の法語 「ハイ」の「無限力

   最も重き言葉は最も簡単なる言葉である。
   それは「ハイ」の一語である。
   一切の事物は「ハイ」の一語にて成就する。

   汝、使命を感ぜんか、唯「ハイ、ハイ」とのみ言え。
   然してこれを實行せよ。然(しか)らば必ず成就せん。

   「ハイ」とは決意である。使命に対する決意である。
   如何なる困難も、吾使命を感ぜんか、
   「ハイ」の決意にてその困難はきり拓(ひら)かれ、坦々たる大道となる。

   「ハイ」は汝を自由ならしめる。
   「ハイ」は實相その儘である。

・・・

七月四日の法語 「否定」の威力

   「ハイ」に対する最も簡単にして最も偉大なる力は、「否!」である。

   汝病気ならんか、「否!」と断じて言うべし。
   病いすなわち必ず癒えん。

   汝に不幸来(きた)らんか。
   「否!」と言うべし。如何なる不幸も汝を傷つける事は出来ない。

   最も自由なる人は自己の好まざることに対して断じて「否」と言う。
   かかる人には如何なる不幸も近づく事が出来ない。

   世界は如何なる「幸福」でも「不幸」でも自由に販売しているところの
   百貨店だと言える。
   それを求める貨幣は「決意」である。

         <感謝合掌 令和3年7月4日 頓首再拝>

道は自己の「真剣」の中にあり - 伝統

2021/07/06 (Tue) 04:14:39


      *「光明道中記」(7月6日《至誠身を献ぐる日》)より

【遊女マグダレーナは一切を真理(キリスト)の
 足下に漑(そそ)いだのであります。(『完成の聖書』】


達磨大師の法を嗣(つ)いだ人が第二祖の慧可禅師である。
少(わか)くして出家し洛陽竜門の香山(こうざん)にいたり
永穆寺(えいぼくじ)の僧となる。

諸法を歴遊し、三十二歳再び香山に帰って参禅瞑想すること八年、
あまり宇宙の真理を瞑想し過ぎたので、
「頂骨(ちょうこつ)為(ため)に変じて五峰(ごほう)の
 秀出(しゅうしゅつ)せるに似たるものあるに到れり」
と言うから、瞑想のために骨相が変り、五峰が突々(とつとつ)
として聳えているようにろ頂骨が盛り上って来たものらしい。

真理を求めるには八年参禅して真理を瞑想して骨相まで変る
 ―― この意気が欲しいと思う。

慧可四十歳の時、達磨大師が嵩山(すうざん)に
巡錫(じゅんしゃく)せられたのを機会に、
嵩山(すうざん)の少林寺を訪れて入室を乞(こ)えども許されない。

終夜雪の中に過して翌暁(よくあけがた)に至るも尚(なお)許されない。
そこで慧可はみずから左の肱(ひじ)を切断して、
入室を許されずんば死すとも此処を去らずの
赤誠(せきせい)を披瀝(ひれき)したので、
とうとう入室を許されたのである。

今は、生長の家の道場に入ることの易きこといかばかりぞや。
それだけに真剣味ありや。
真剣味ある者は幸いなり。

道は自己の「真剣」の中にあり。
漫然と来(きた)って漫然と聴き、漫然と批評し去る者は愚かなるかな。
自分の心だけのものしか見えず聴えずである。

            <感謝合掌 令和3年7月6日 頓首再拝>

毎日を楽しくワクワク生きる2つのコツ(竹田和平氏の教えから) - 伝統

2021/07/10 (Sat) 03:50:09


       *Web:今日も良いことがあるように(2021/01/31)より抜粋

(1)ワクワク生きるコツはニコニコにあり

(2)「扉を開けるごとにいいことがある」と言い聞かせる。

  ①朝、一歩外に出るときも「いいことがあるぞ!」と思う。

  ②別の部屋に行くとき「この扉を開けるといいことがある!」と思う。

            ・・・

【ニコニコ扉を開けると、ワクワクするいいことがある】

この扉を開けたら、いいことがある。

今日は、どんないいことが起こるのかな。

どんないい人に出会えるのかな。

どんないい話を聞けるのかな。

楽しいことがある。

失敗して勉強になることもあるぞ。

ピンチになってスリリングなこともあるかもしれない。

そうやって、結局、最後はうまくいく。


きっといいことがある!

そう思いながら、扉を開けるのです。

そう考えながら、一歩を踏み出すのです。

たぶん、その人の目は輝いています。

顔もたぶんニコニコ。

自分がニコニコしていると、出会う人もニコニコになります。

気持ちがいい。あいさつもすがすがしい。会話もはずむ。

楽しくなって、ワクワクしてくる。


https://lucky.t-nakai.work/2021/01/31/custom-2/

            <感謝合掌 令和3年7月10日 頓首再拝>

《食べ物の霊的成分をのがしてはならない》 - 伝統

2021/07/11 (Sun) 04:54:24


          *「真理」第9巻生活篇(P166~167)より

私たちの頂く食物は
唯(ただ)の物質の塊(かたまり)ではないのであります。

物質的成分は分析したら分(わか)ります。

けれども分析してもわからないところの不可知の成分が(霊的成分が)
それには、神から与えられているのであって、

単に物質的成分の見地から、”此の食物には何々の栄養分が足らぬから”
などと考えて不平の心を起こすときには、その霊的成分を吸収し得ずして、
最も人間にとって必要な成分を逃(の)がしてしまうことになるのであります。

お食事の最中に心配や不安や憎みや恐怖心を起さないで、
なるべく食物が神から来た賜物(たまもの)であり、
無限の生かす力がこの中に蔵(かく)されているので、

”今それを吸収させて頂いているのであり、ありがとうございます”

と念じながらいただくのがよいのです。

問題があって、心が落著(おちつ)かなければ
食前に心が落著(おちつ)くまで祈ってからお喫(あが)りなさい。

            <感謝合掌 令和3年7月11日 頓首再拝>

《寝床にまで昼の悩みを持ち越しては》 - 伝統

2021/07/12 (Mon) 04:49:51


          *「真理」第9巻生活篇第5章(P124)より

「その日の悩みはその日にて足れり。」
決して其の日の悩みを寝床まで持ち越しますまい。
どんな荒波も時が経過したら鎮まる時が来るのです。

それと同じく、あなたの身辺に起った荒波のような煩(わずら)いも、
結局は鎮まるときが来るのです。
あなた自身の心を鎮めることが第一です。

あなたの心が鎮まれば、周囲に起った混乱は結局は
自壊作用を起して鎮まってしまうほかはないのです。

どんな混乱のときにも、唯一ヶ所、あなたの生命(せいめい)の奥の中枢に、
恰も「台風の眼」のように少しも混乱しない「中心」があるのです。
それが「実相の《あなた》」です。

どんな混乱のときにも此の「実相の自分自身」にしがみつきなさい。

其処から心の平和と調和と不動心を見出しなさい。

「わが魂の底の底なる神よ。無限の力湧き出でよ」

この神呪(しんじゅ)を繰り返し繰り返し御念じなさい。

            <感謝合掌 令和3年7月12日 頓首再拝>

日常生活に道を現す日 - 伝統

2021/07/13 (Tue) 04:07:17


          *「光明道中記」(7月13日)より

【本当の美しさと云うものは
深切な愛の行(おこな)いの内にこそ輝くものであります。
                  『生命の實相』第十五巻)】

五祖弘忍の弟子に慧能と云う米搗男(こめつきおとこ)があった。
日常生活、事々物々禅であることを気着かぬ人は慧能を学ぶが好いのである。

禅とは変な、日常生活に適用せぬような
奇警(きけい)な警句を吐いて問答し、
奇行怪言(きこうかいげん)相手を翻弄するの
妙(みょう)を得ることだと思っていれば、
それは大変な間違である。

米を搗(つ)くのが禅であり、掃除をするのが禅であり、
飯を炊(た)くのが禅であり、茶を淹(い)れるのが禅である。

禅と茶との一致の妙用に達したのが茶道である。

茶道を手先の袱紗(ふくさ)《さばき》や、
足の踏出し方の足先の技巧だと思っている人は
いつまで経っても「茶の淹れ方」に過ぎぬのであって
「茶道」には達せぬのである。

「茶の淹れ方」は茶道の師匠の免許までも得るほどに稽古出来ていてさえも、
日常の坐作進退方(ほう)にかなわず、

御飯を焚(た)いても硬軟その所を得なかったりするのでは何にもならぬ。

御飯たくことが茶道なのである。
御菜(おさい)を煮ることが茶道なのである。

一芸に名人と謳(うた)われるような人は
何をやらせても直ぐ、骨(こつ)を体得する。

「道」は万(すべ)てに通ずるが、
「手先の技巧」ではすべてに通ずることは出来ぬのである。
心得べきことである。

            <感謝合掌 令和3年7月13日 頓首再拝>

道が生活に生きる日 - 伝統

2021/07/15 (Thu) 04:54:02


          *「光明道中記」(7月15日)より

【世話をする人も世話される人も皆一つの神から出ている。(『生命の實相』第八巻)】


手近なことが当り前に順序整うて出来るようでないとその人に道が生きていないのである。

人間が飯を食う、至極当り前なことである。
当り前が道なのである。

飯を食うことを物質を食うかの如く思っている人があるかも知れぬが、
道がそこに行じられているのである。
行住坐臥そこに道が行じられていなければならぬ。

「道を歩いているときにも神の子が歩いていると思え」と「智慧の言葉」に書いてあるのは、
歩いていても、坐っていても臥(ね)ていても道になり切れと云うことである。
行住坐臥、道になり切るのが生長の家の生活である。

それは茶道に一致する。

吾等の生活は行住坐臥「道」であり、「禅」であり、茶道でなければならぬのである。
先ず下駄を揃えることから茶道は始まる。
茶道の極意はすべてに亘(わた)って所を得させることである。

大調和である。
清和である。清(せい)は整(せい)であり、整えるである。

無駄を省いて、而(しか)もそれ以上に整理の道がないほどに一切の行持(ぎょうじ)が、
茶碗一つ、袱紗(ふくさ)一つ、に到るまで、
簡単にして、あれほど整理された取扱方(とりあつかいかた)はないのである。

            <感謝合掌 令和3年7月15日 頓首再拝>

道を歩む日 - 伝統

2021/07/16 (Fri) 06:38:41


          *「光明道中記」(7月16日)より

【世界は公平で自分の心だけのものを投げ返す。
 之(これ)を生長の家では「心の法則」と言う。(『生命の實相』第八巻)】


趙州(じょうしゅう)和尚の「飯を食ったら茶碗を洗え」の公案は
『生命の實相』に書いてあるから茲(ここ)には再び書かないが、
趙州和尚は常にこう云う導き方をした人である。

ある時一人の修行僧が趙州和尚を訪ねて道をたずねた。

「道は牆(かき)の外にあり」
(《そら》其処に道があるじゃないか)と趙州は答えた。

「そんな詰(つま)らない道のことじゃありません。
 人間の歩む大道(たいどう)のことです」
と修行僧は言った。

「そうか、そんな大道か。大道なら都(みやこ)の長安に通じているよ」
と趙州は答えた。

道とか大道とか言っても、そんな抽象的なものが道ではないのである。
道は具体的なものである。
生活に如実に実現しなければならないのである。

人類愛だなどと言いながら、
手近にいる家族と仲好く出来ないようなことでは道が大地についていない。
それは空中楼閣に過ぎないのである。

手近なところに道がある。
1枚の紙、鉛筆の削り方、筆箱の整理、茶碗を洗う、
廊下を拭く、便所を掃除する、
すべて道ならざるはないのである。

至道無難(しいどうぶなん)唯揀択(ただけんじゃく)を嫌う
とはよく言ったものである。

            <感謝合掌 令和3年7月16日 頓首再拝>

知的に理解できないからといって、必ずしも否定はできない - 伝統

2021/07/17 (Sat) 02:17:16


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月17日)より

今の段階において、われらが知的に理解しえないものといえども、
必ずしも存在を否定することはできない。

野蛮人には電子も、電波も、ラジオも知的に理解しうるものはない。
しかし、われらはそれを知的に理解しうるのである。

人類がもっと知的に進歩してきた時には、現在「奇蹟」と認められている物事も、
ただ尋常茶飯事としてわれらは驚かぬようになるであろう。

それはあたかも、われらが、野蛮人の驚くラジオ・セットを尋常茶飯事として
少しも驚かないのと同じことである。

            <感謝合掌 令和3年7月17日 頓首再拝>

《憎みに対して憎みを報復してはならない》 - 伝統

2021/07/18 (Sun) 04:55:00


          *「眞理」第2巻基礎篇第13章(P359)より

憎みに対して憎みを報復するならば、こちらが、
相手と同じ低いレヴェルに墜落して行くことになるのである。

憎みに対して愛を報いるならば
自分は一層高き魂の境地にのぼるのである。

自分が墜落しながら
他(た)を高きに救済することは出来ないのである。

自分が溺れてしまっては、溺れる者を引き上げることは出来ない。
自分が泳ぎの達人になり、
濁流に流されない者とならなければならない。

自分を高める行動によらずして
他(た)の人を高めることは絶対出来ない。

物を持ち上げるには、自分の手を挙げねばならないのである。

若し相手が貴方を憎むのに対して、貴方が憎みを感ずるならば、
貴方の内に、相手の憎みを誘い出す処の同じ波長が
潜在している証拠であって相手を責める資格はないのである。

            <感謝合掌 令和3年7月18日 頓首再拝>

他を賤しめ軽んずることなかれ - 伝統

2021/07/19 (Mon) 03:00:24


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月19日)より

ひとの優劣を自分の尺度で推し測ってはならない。
自分が愚劣な心を持つから、ひともまた愚劣であろうと思ってはならない。

自分が動物的な欲望の支配下にあるから、
ひともまたかくのごとくであろうと思ってはならない。
自分のうちに悩みがあるから、世界中の人はすべて悩んでいるのだと思ってはならない。

本当に他人の偉大さがわかる者は、自己がそれだけ偉大であるのである。
自分の魂の高揚しただけのものを、われわれは他において見るのである。

釈尊のすぐれた人格を知る者は、自己のうちに存在する釈尊がそれを知るのである。
釈迦やキリストといえども、時には悩み、苦しんだであろうと考える者は、
聖者を引きずり下ろして自己と同等のレベルに置こうとする卑怯者である。

彼は一種のエディプス・コンプレックスの虜囚(とりこ)なのである。
自分よりすぐれた者の存在を知ることが、
自己の驕慢心にとってたえがたい屈辱感になるのである。

われわれは、かくのごとく、ひとを引きずり下ろす醜(みにぐ)き心を去り、
自己があくまでも向上して、美しき人類の理想を成就することによって
聖者と等しきレベルにまで到達しなければならないのである。

大海に溺れつつあるある者どもが、お互いに他を引き下ろして、それによって、
自己が浮き上がろうとするのは醜悪である。

他を賤しめ軽んずることによって、
ひそかに自己を偉大ならしめようと努力するくらい
みじめな動物的行為はないのである。

他を軽んずることは、自己を軽んずることである。
他を醜くすることによって、まっさきに自己が醜くなるのである。

『従容録』には自分の口を血に染めて他人に吹きかけると書かれている。

常不軽菩薩は、すべての人々を仏様(ほとけさま)だと言って拝んだのである。
釈尊は山川草木国土有情非情すべてことごとく仏なりと観ぜられたのである。
わたしだけが偉大だとも、彼だけが仏で、他は俗物だとも観じたのではなかったのである。

われわれはすべての人々を自己と同等のレベルにまでコキ下ろす劣悪を知っている。
しかしさらにそれよりやや進歩した劣悪として、特定の人々のみを尊敬するが、
他はことごとく”うじ虫”奴(め)らであると思う愚かさを知るのである。

それはただ、自己のうちに、他の偉大さをみとめる美点のあることを誇示し、
それによって自己を偉大ならしめ、さらに他を軽んずる快感をも
同時にむさぼろうとする鵺(ぬえ)的存在である。

山川草木皆これ仏であると拝む仏様からは縁の遠い人々である。

            <感謝合掌 令和3年7月19日 頓首再拝>

《心に剣(つるぎ)を持ってはならない》 - 伝統

2021/07/20 (Tue) 02:40:13


        *「眞理」第2巻基礎篇第13章(P362~363)より

「汝の剣(つるぎ)を鞘(さや)に収めよ。
 剣(つるぎ)をとる者は剣(つるぎ)によって滅びる」

とキリストが教えたのは、
必ずしも物質の剣(つるぎ)のことだけではないのである。

最も恐るべきは物質の剣(つるぎ)ではなくして、
心の剣(つるぎ)であるのである。

原子爆弾と雖(いえど)も、それが人類を傷つけるように働くのは、
民族相互間の憎み(心の剣)を通してである。

すべての憎みと怒りとその他(た)の悪しき感情は
「実相」を知らないところから起るのである。

どんなに悪人であるかのごとくその人が見えようとも、
悪人は本来無いのである。
すべての人々が善人であるのが実相である。

そして、如何に悪人に見えようとも、神想観をして、

「貴方は神の子で私に愛をもっていらっしゃいます。有難うございます」

と感謝しておれば、真に愛深き善人となって現れて来るのである。

            <感謝合掌 令和3年7月20日 頓首再拝>

《取越し苦労を止めましょう》 - 伝統

2021/07/24 (Sat) 04:24:38


          *「真理」第9巻生活篇第5章(P124~125)より

多くの人の人々の心配は謂わば「取越し苦労」と云うものです。
来るか来ないか分からないうちに心配して心を苦しめているに過ぎないのです。

「死」さえも、それがおとづれて来たときには、
静かなる調和でしかありません。

「死」に近づく道中の「取越し苦労」のみが却って苦しいに過ぎません。

一切の悩みは、恐れずに近づいてみたならば
それは結局「無」だと云うことがわかるのです。

何故なら「悩み」と云うものは「実在界」には「無い」からです。

どんな悲しみも苦しみも、通過して振り返ってみたらば
「咽喉もと過ぐれば熱さを忘れる」ほどのことに過ぎないのです。
何故なら、それは永遠の存在ではないからです。

神のみが、ただ善のみが、幸福のみが永遠の存在なのです。

「神」の眼で見るならば何処にも不幸はないのです。

その「神」があなたの内に宿っているのです。

            <感謝合掌 令和3年7月24日 頓首再拝>

謙遜・深切丁寧 - 伝統

2021/07/25 (Sun) 02:38:26


      *『光明道中記(7月24日《万事謙遜に出来る日》)』より

 【驕慢とは「実相我」を隠蔽し「肉体我」を強調する誤れる自尊である。
                     (『生命の實相』第七巻)】

徳山和尚が円熟してそのまま素直に有難い境地になっていた頃の逸話は
『無門関解釈』に書いて置いた。

「碧巌録」の第四則に出て来る徳山和尚はその若い頃のことである。

徳山、姓は周氏、支那の蜀の人、大変な学者で、
殊(こと)に「金剛経」に精通していたので
周金剛又は金剛王と云う別称(べつのな)を以て
人から称(よ)ばれていたほどの人である。

最初からの禅僧ではなく、当時支那の南方に禅学が盛んに行われていたので、
自分の「金剛経」の知識で悉く禅の道場破りをしてやろうと云う意気込みで、
笈(おい)にうんと「金剛経」の註釈書(ちゅうしゃくしょ)を入れて旅立った。

ほう洲(ほうしゅう)と云う州まで行き、
その山の下で餅売(もちうり)の婆さんに
「おい、今その餅を食うからくれ」と言った。

その語調が如何にも高慢らしいので、餅売の婆さん、徳山和尚に言った。

「餅はあげないこともありませんが、
 私の問に対する答が出来なかったら、あげることは出来ません。

『金剛経』の中(うち)に
『過去は過ぎ去ったから無い。”今”と言って一定の時を捉えたら、
 それはもう過去になっているから無い。未来はまだ来ないから無い』

 とあります。

 あなたは『今』その餅を喫(た)べられませぬよ。
 あなたは其の餅を何時(いつ)食べるのです」

と訊いた。


・・・

        *『光明道中記(7月25日《深切丁寧の日》)』より

【大我は無数の個我を包容し生かしつつそれ自身は絶対的存在なのである。
 大我を「神」と称し、個我を「神の子」と称する。 (『生命の實相』第九巻)】


物凄い勢いで、南支那一円の禅道場をかい撫(な)でに論破して歩こう
と思っていた青年気鋭の徳山も、山の掛茶屋(かけちゃや)の餅売の婆さんに
問答をし掛けられて、眼を白黒させて、餅を食わないで逃げ出してしまった。

餅売の婆さんは彼を看送って、
「まだそんな事では修行は足らぬ。
 竜潭と云う偉い先生がいるから其処で修行せよ」と言った。

徳山は青年気鋭のその心の角がとれていない。
竜潭和尚のところへ行くと、早速例の癖が出た。

『竜潭竜潭と云うが、来て見れば何のことじゃ、竜も見えず、潭も見えず』
と大声に呼ばわった。

『汝親しく竜潭に到るや』

実にやわらかい親しみのある声が屏風(びょうぶ)の陰からした。

竜潭と徳山では段がちがう。
(心の眼を開けば此処が此の儘竜潭であり、竜宮城である。)
気鋭の徳山もまいってしまって礼拝せずにはいられなかった。

生(なま)さとりの者ほど偉そうに悟りを振り回すが、
悟ってしまった者は誰にでも慇懃丁寧(いんぎんていねい)に
挨拶することが出来るのである。

その慇懃丁寧の中に神が現れ、仏が現れているのである。
徳山も思わず竜潭を礼拝したのだ。

『夜に入って来られよ』と竜潭の優しい声がする。

            <感謝合掌 令和3年7月25日 頓首再拝>

丁寧深切 ―― 礼拝 - 伝統

2021/07/27 (Tue) 02:18:57


        *『光明道中記(7月26日《光を内に見出す日》)』より

【全体として調和した生活を営むのが「生長の家」の生活である。
                     (『生命の實相』第八巻)】


徳山は、約束した通り夜になって竜潭(りゅうたん)をたずねて教えを受けた。
教えを受けて帰ろうとすると、竜潭は親切に弟子を見送って出た。
手には手燭(てしょく)を持って足許(あしもと)を照らしながらである。

「外は暗いから気をお着けなさいよ」と云って、
竜潭は手燭を徳山に渡そうとした。

徳山はその手燭を受け取ろうとするとき、
竜潭はフッとその手燭の火を吹き消した。

そこは黒暗々であった。
一切無であった。

差別界のものは、ただ相対的に斯く見えるだけであった。
徳山は悟ったと思った。

その徳山の悟りが、どの程度のものであったかはその悟ったと称する直後、
為山(いさん)老師の法堂へ跳び込んで行って
『東より西に過ぎ、西より東に過ぎ、顧視(こし)して無無と云って出ず』
と碧巌録第四則にある記事で、略々(ほぼ)勘破(かんぱ)することが出来る。

碧巌録の編集者、雪竇(せっちょう)はこれを批評して
『勘破了也(かんぱしおわれりや)』と言っている。

悟ったほどのものがこんな乱暴な無作法なことをする筈はないのである。

徳山自身も『これは可(い)かぬわい』と気がついた。
そこで『威儀を具(そな)えて再び入(い)って相見(あいまみ)ゆ』とある。

挨拶を終わると、徳山は坐具(しきもの)を手にして、先ず『和尚』と言った。
問答の気合(きあい)である。――


・・・

        *『光明道中記(7月27日)』より
         ~心の角(かど)を除去(とりさ)る日

【観世音菩薩でも夜叉に対しては夜叉の形相を以て現れる。
                    (『生命の實相』第十五巻)】


為山老師は、問答の気合いを感じて、
払子(ほっす)を取って泰然と構えようとするとき、
徳山は、『カーッ』と一喝すると、そのまま袖(そで)を払って
法堂を出て往(い)った。

こんな事を禅の修行だとか、道場破りだとか思っている者があったりするから、
禅などと云うものは、吾々日常生活には何の関係もないことだと思いまちがえられ、
十年禅林にいて修行しても、実生活を生かす道を知らない。

禅臭い禅は何にもならない。禅が実生活に生きるのが真禅だ。

為山老師はその晩、弟子たちが集ったとき
『あの新参の若僧は何処へ行ったのかな?』と訊いた。

「風呂敷を背負ってどんどん向こうへ行きました」弟子の首座(かしら)が答えた。
これは甚だ善い回答である。

当たり前のことが当たり前に答えられるのが悟りである。為山老師は、

「徳山は頭が良いが気の毒なものだ。
 調和の中に真理があると云うことを知らないのだ。
 あれは独り偉がりであって、弧峰頂上に向かって
 草庵を盤結(はんけつ)して仏を呵(か)し、
 祖を罵(ののし)り去ることを始めるだろう』と嘆かれた。

呵(せめ)るのが禅ではない。丁寧深切 ―― 礼拝が禅である。

            <感謝合掌 令和3年7月27日 頓首再拝>

神のない快楽 - 伝統

2021/07/28 (Wed) 02:42:43


    *『生命の實相』第38巻幸福篇(下)(7月28日)より

神のない快楽は、根を切った切花のようなものである。

やがてそれは打ち萎(しお)れ、どす黒い苦い苦しみに変わってゆくものである。

         <感謝合掌 令和3年7月28日 頓首再拝>

「自分を生きる」ということの真実の意味 - 伝統

2021/07/29 (Thu) 02:51:37


        *Web:かんながら(2021年07月26日)より

何を指針にして生きていますか。

親や教師や人の目が指針になっていませんか。

刷り込まれた倫理や道徳が指針になっていませんか。


これらに主導権を渡してしまうと、決して心の満足は得られません。

何かが違うという感覚を持ちながら生きることになります。


なぜそうなってしまうかと言えば、本当の自分を見失ってしまったから。

自分という存在を、他者の意見によって作ってしまったからです。


これが昨日の瞑想会でお話しした「偽の中心」です。


瞑想の本来の目的は、本当の自分の中心を再発見すること。

それは自分が宇宙全体だったことの気づきです。


そのとき初めて人は自らの直感を指針として生きることができます。


誰に命令されることも支配されることもありません。

社会全般がどんな正しさを持っていようと影響されません。

自らの光が、そして自らの真意が拠り所となります。


これが釈迦が最後に伝えたという

「自らを拠り所にせよ」(自灯明)

の意味です。



「自灯明」という言葉を聞いて、多くの人は
偽の中心を持ったまま自分を拠り所にしようとします。

その自分は他者の意見の寄せ集めであり、
迷いと怖れに翻弄されていて定まるところがありません。

だから拠り所になどできるわけがないのです。


全体としての自分を発見して初めて人は、
自灯明を生きることができます。

そしてその時、本当の個性が開花します。


偽の中心を持った状態は、真の個性ではなく借り物の個性、
すなわち社会用の仮面を生きることになります。

繰り返しますが、そのような状態では、
いかに社会的に成功しようと決して満足を得ることはできません。


満足とは本当の個性を生きることだからです。


社会人の生き方は、みんな似たように見えます。

目には生気がなく、まるでロボットのようです。


本当は一人一人が極めて個性的なのです。

それが総じて、宇宙的秩序による人類の開花に繋がります。


イミテーションからリアリティへ。


これが人生の究極目的であり、喜びに至る唯一の道です。

https://abetoshiro.ti-da.net/e11990838.html

         <感謝合掌 令和3年7月29日 頓首再拝>

打てば響くが仏道なり - 伝統

2021/07/31 (Sat) 04:08:33


        *『光明道中記(7月31日 打てば響く生き方の日)』より

【所を得ていない状態は、まだ実相が現れていないのであります。
                       (『生命の實相』第十五巻)】

「打てば響く」と云う語(ことば)があるが、
何でも打てば響くような応答が出来なければならない。

剣道の極意も、猶予なく瞬間を捉えて、その刹那に打ち込むところにある。
同じ動作をやっても、機会を失ったら何にもならないのである。

「汝は是れ慧超」と云う語(ことば)も別の機会に言ったら
別の意味を有(も)ったことになるであろう。

「如何なるか是れ仏」の問いに対して『お前は慧超だ』と発止と応えたところに、
仏が仏であり、お前は始めから慧超であるように、
仏が仏であり、始めから成仏しているのが仏であり、
衆生本来仏であると云う意味なども、この端的の語(ことば)の中に一切が
引くるめられているのである。

楠木正成公がまだ若かった頃、奈良の春日山に参詣した途上で一人の雲水に遇った。
その雲水に正成公が「仏教の妙密(みょうみつ)の極意を教えて下さい」と頼んだ。

すると、その老僧はそれに応えないで、
「正成! 」とあらためて楠公の名を呼んだのである。
「ハイ」と楠公は覚えず応えた。

「そこだ、仏教の極意は、そこに何の妙密がある? 」と老僧は言った。

『爾来(じらい)兵を用いること自在無礙、恰(あたか)も自己の手足をつかうが如し」
とは楠公自身の述懐である。

打てば響くが仏道である。

         <感謝合掌 令和3年7月31日 頓首再拝>

足を踏みしだくこと - 伝統

2021/08/01 (Sun) 04:35:12


          *「光明道中記」(P238)

上位は下位を下属せしめなければならぬ。
天は地を覆い、地は天を載せなければならない。

吾々はそれを日々行じなければならないのである。
先ず自分自身にそれを行じなければならぬのである。
心に行じ、身に行じ、体に行じなければならぬのである。

真理の実践である。

人々は姿勢を軽んずるが、まず真理は自分の最も近いところの自分の身の形(姿勢)に
上位をして完全に下位を下属せしめていることを実現しなければならないのである。

姿勢の根本は腰にあって腹の膨大にはない。
腰は後屈を忌む。即ち腰くだけを忌むのである。

併し足の位置整わずして意志の力にて腰のみを正しく《立てる》(屈み腰の反対)
ことには、到底長時間は耐えられない。

腰を正しく立てるには左足の足蹠(つちふまず)が会陰部(えいんぶ)を下より覆い、
左足の甲全体を右足の足蹠(あしうら)によって下より覆い右足の足趾(ゆびさき)は
左足の外側踝(くるぶし)に稍々(やや)触れる位に重ね、足全体を完全に全身の下位
にあり、隠れしめねばならぬ。

会陰は一切の陰になる部位(足を含む)と相会し隠れて了うのである。
肛門は足蹠又は踵(かかと)よりに後部に落ちる。

斯くの如く坐して腰を前方へ張出す如くして腰部に上体の支点を置き、
その上に上体を垂直にフウワリと位置せしめるろ頂部を天上に釣り上げられる如き
気持ちで坐せば、自(おのずか)ら肩の力が落ちて、

上位、下位の真理が如実に行ぜられるのである。

         <感謝合掌 令和3年8月1日 頓首再拝>

【礼儀正しくふるまうこと】 - 伝統

2021/08/05 (Thu) 04:47:08


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2021.03.09)より

   (シンク・シビリティ氏の心に響く言葉より…)

   些細なふるまいに気をつけるだけで周囲の反応や評価が変わる、
   本当にそんなことがあるのだろうか、
   と思っている人がいるかもしれない。

   だが本当に変わるのだ。

   デューク大学バスケットボールチームのヘッドコーチ、
   マイク・シャシェフスキーはかつて、1992年
   バルセロナオリンピックで金メダルを獲得した
   「ドリームチーム」のアシスタントコーチを務めたが、

   その時にこんな体験をしたという。

   ドリームチームにはスーパースターが
   多数、参加していたが、なんといっても
   最高のプレーヤーは、マイケル・ジョーダンだった。


   マイケル・ジョーダンは、青をシンボルカラーとする
   ノースカロライナ大学チャペルヒル校の出身である。

   デューク大学のライバルだ。

   そういう理由もあり、コーチKの異名を持つシャシェフスキーは、
   ジョーダンが自分に対して、どういう態度を取ってくるか
   興味を持っていた。

   コーチである自分に果たして
   敬意をもって接してくるのか、そうでないのか。

   シャシェフスキーは自分もある程度の名声を
   勝ち得ているとは思っていたが、スーパースターであり、
   生ける伝説でもあるマイケル・ジョーダンとは
   比較にならないこともよく知っていた。


   最初の練習が終了したあと、ジョーダンは、
   ソフトドリンクを飲んでいたコーチKに歩み寄ってきた。

   自分がデューク大学の関係者であることについて
   何か言うつもりなのでは、とシャシェフスキーは思った。

   ところがジョーダンの言葉は意外なものだったので驚いた。


   「コーチ、30分ほど、単独での動きを練習したいと
    思っているんですけど、つき合っていただけますか?」

   そうジョーダンは言ったのだ。

   2人はそのあと、しばらくともに練習をし、
   それが終わるとジョーダンは心から感謝している
   という態度で礼を言ったという。


   「お願いします」と「ありがとう」。

   誰かに丁寧に何かを頼み、そして、してもらったことに
   心からお礼を言う…ごく単純なことだ。

   しかし、まさにその単純で小さな行動が、
   コーチKにとても強い印象を与えることになったのである。

   シャシェフスキー自身はこんなふうに言っている。


   その時の遠征には、色々なことを学ぶ機会がたくさんあったが、
   中でも最も大事だったのが、そのジョーダンとの間の出来事だ。

   私は今でもその時のことを思い出すと、

   感動で体が震える。

   ああいうことがあると、どんなチームでも力が倍加されるだろう。


   ジョーダンは、自分はスーパースターなのだから、
   特別扱いされるべきだ、と思っても不思議はなかったし、
   そうしても誰も責める人はいなかっただろう。

   だが、実際のジョーダンはそうではなかった。

   そのチームでは、誰ひとり、特別でいるべきではない、
   全員が重要なのだということを、彼はよくわかっていた。


   ジョーダンは私を「コーチ」と呼び、命令口調ではなく、
   何かを「お願いする」という丁寧な話し方をした。

   そして、私が彼の頼みに応えたらきちんと礼を言った。

   なんと素晴らしいことだろうか。

   これはマイケル・ジョーダンが
   非常に優れた人物であることの証拠だと思う。

   ジョーダンのような位置にいる人が
   こういう態度を取ることには大きな意味がある。


   ほんの些細なふるまいがなぜそれほど大事なのか。

   それを理解するには、
   人間がどういう人に好感を持つかを考えてみるといいだろう。

   それについては世界中の研究者が調査をしている。


   これまでに、人間の200種類を超える行動特性が調査の対象となっている。

   その中でも特に重要だとわかったのが、
   「温かさ」と「有能さ」の2つだ。

   この2つが、他人に与える印象を大きく左右する。

   この2つがほぼすべてと言ってもいい。


   良い印象にしろ、悪い印象にしろ、
   この2つでその90パーセントが決まってしまうからだ。

   あなたが誰かに「温かい」「有能」という印象を
   与えることができれば、
   その人はあなたを信頼する可能性が高い。

   あなたを信頼してくれた人とは良好な人間関係を築くことができる。

   その人はあなたが何かをする時に、
   おそらくそれを支持し、応援してくれる。


   ただひとつ注意しなくてはいけないことがある。

   「温かさ」と「有能さ」は
   相反する特性と思われがちだということだ。

   たとえば、「あの人は確かに優秀だけれども、
   あの人のために働きたいとは思わない」。

   あるいは「彼女はとても親切で優しいけれど、
   さほど頭が良いとは思えない」などと言われがちだ
   ということである。


   「この人は実は、有能な上に温かい」と思ってもらうことは可能である。

   そのためにできることはひとつしかない。

   「礼儀正しくふるまうこと」である。

      <『「礼儀正しさ」こそ最強の生存戦略である』
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          ・・・

相手が温かいかどうかの判断を下すのに要する時間は、
わずか33ミリ秒という短さだという。

1秒は、1000ミリ秒だから、0.033秒ということになる。

文字通り、一瞬の間にわかってしまうということだ。

そして、怖いのは、一度そういう判断を下すと、
その人を簡単には許さないこと。


温かいと感じてもらう第一歩は「笑顔」。

そして、傾聴の姿勢だ。

「うなずき、あいづち、おどろきの表情」という、
傾聴の三動作を多用すること。

また、いうまでもないが、年下であろうが年上であろうが、
丁寧な言葉と「愛語」を使うこと。

愛語とは、人の心をほっこりさせるような温かい言葉。


礼儀正しくふるまうことは人生において、とても大事なこと。

         <感謝合掌 令和3年8月5日 頓首再拝>

「証上の修」 - 伝統

2021/08/08 (Sun) 04:56:04


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月8日)より抜粋

『生命の實相』によって自分の「生命の実相」が、
神そのままの分け”いのち”にて完全なることを知り、信仰的にそれを信ずるとも、
神想観を修しなければ、その実相の完全さが実現しないことがある。

道元禅師はこれを「証上の修」と説いた。
悟った上での修行であって、修行して悟ろうとするのではない。
悟ったればこそ修行せざるにはいられないのである。

真宗でも、どうしないでも救ってくださっている阿弥陀仏の慈悲を感ずるがゆえに、
南無阿弥陀仏と称えずにはいられないのである。
やはり証上の修である。

         <感謝合掌 令和3年8月8日 頓首再拝>

倶(とも)に泣く - 伝統

2021/08/09 (Mon) 04:47:33


      *「光明道中記」(8月8日《倶(とも)に泣く日》)より

【家庭を本当に愛しないものは、本当に神を愛しているのではない。
                  (『生命の實相』第ニ巻)】
 
「倶(とも)に泣く」と云う感じは自他一体の感じであるから、
しみじみと有難く感じられる。

「咎める」と云う感じは自他分離の感じであるから、
有難く感じられないのである。

「倶に泣く」と云う感じは、軽蔑感から来るのではなく、
本来あるべき筈(はず)の尊厳の境地を尊ぶことを前提として、
その墜落をともに悲しむのであるから、
素直にすらすらと受け入れられる。

人間がよくなるためには自尊の念を必要とする。

自尊がなければ自暴に陥る。
自暴に陥れば改善とか改悛とかいうことはあり得ない。
自尊は他敬によって養われるのである。

「咎める」言葉が不結果を招く原因は、
こんな所にもあることが判るのである。

人の悪を咎めるよりも、
自己が倶に泣く愛の欠乏していることを恥じよ。

「愛」の中にこそ聖泉がある。

それは智慧が如何に斫(き)り開いても
発見することの出来ないところの聖泉である。
その聖泉に身をひたすとき、一切の不完全は癒されるのである。

みんなと倶に泣こう。

悲しめる人は倶に泣くことによって癒されるであろう。
多くの病める人も倶に泣くことによって癒されるであろう。

       <感謝合掌 令和3年8月9日 頓首再拝>

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