伝統板・第二
神癒 ⑥ - 伝統
2021/04/22 (Thu) 04:58:14
《速やかに治らぬ場合には》
*『 生長の家 』(昭和26年4月22日の法語)より
愛念を起しても忽(たちま)ち病気が治らなくても
悲観してはならない。
現象に 「 念 」 が具象化するには
それ相応の時間と現象的過程とを要するのである。
あなたの病気が形にあらわれたのも、
あなたが病気にふさわしい 「 念 」 を起してから
相応の時間をかけて現実化して来たのであるから、
今度はその逆のコースを行くのである。
常に間断なく人を愛せよ、仕事を愛せよ。
人に感謝せよ、仕事に感謝せよ。
常に間断なく善きこと楽しきことのみを想(おも)えよ。
悪しきこと悲観すべきことを心より放ち去れ。
病気の症状を心より放ち去れ。
もっとひどくなるかと恐怖する勿(なか)れ。
「 既にもう治っているのだ 」 と念ぜよ。
それは間もなく実現せん。
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12233407.html (消滅)
・・・
<関連Web>
(1)光明掲示板・第二「神癒への原理 (10739)」
→ http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2065 (消滅)
伝統第二「光明掲示板・第二「神癒への原理 (10739)」」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7823515
(2)光明掲示板・第三「神癒」
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=243
(3)光明掲示板・伝統・第一「神癒 (68)」
→ http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=42
(4)伝統板・第二「神癒①」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6458999
(5)伝統板・第二「神癒②」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6910051
(6)伝統板・第二「神癒③」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7640600
(7)伝統板・第二「神癒 ④」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7820270
(8)伝統板・第二「神癒 ⑤」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7989682
<感謝合掌 令和3年4月22日 頓首再拝>
《「 心 」 の安静が 「 実相 」 の完全さを歪みなく現象する》 - 伝統
2021/04/23 (Fri) 04:46:36
*『 生長の家 』(昭和26年4月23日の法語)より
安静療法を必要とする病気もあるが、
安静の内、もっとも大なる安静は 心の安静であるのである。
心の安静のうち最も大なる安静は 神想観であるのである。
瞑目(めいもく)して
「 神の大いなる癒す力 全身に流れ入り、既にわれは癒されたのである 」
と念ずるときほど心の安静を得ることは 他(ほか)にないのである。
すべての癒す力の根元は 内部の 「 完全なる実相 」 である。
その実相を完全に現象化する力は
「 心 」 と云う歪(ゆが)みないレンズである。
「 心 」 が平静を失えば、いくらあなたの実相が完全であっても、
現象的には不完全にあらわれて来るのである。
だから何よりも先ず 「 心 」 の安静を得ることが必要である。
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12235748.html (消滅)
<感謝合掌 令和3年4月23日 頓首再拝>
利己主義は病気の元 - 伝統
2021/05/04 (Tue) 04:31:28
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月4日)」より
「虫のよい」という言葉がある。
自分だけのことばかり考えて、人のことを考えない利己主義者の別名である。
病気を治してほしいなどと訴えてくる人にこういう虫のよい人が多い。
利己主義者は全体生命と隔離されているから、全体生命(大生命)が流れ込んで来ない。
それが病気のもとなのである。
虫のよさはまた不平の本である。
虫のよさが治ったら病気の三分の一くらいは治るだろう。
「あなたは利己主義だ」と言われてハッと気がついて神経衰弱の治った人がある。
<感謝合掌 令和3年5月4日 頓首再拝>
雰囲気が病気を癒す - 伝統
2021/05/12 (Wed) 03:37:40
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月12日)」より
病気の治るまでに、病気の雰囲気を去ることが必要である。
雰囲気が病気を造り、雰囲気が病気を癒す。
幸運の来るまでに幸運の雰囲気を作ることが必要である。
部屋を浄(きよ)め、窓を開き、ガラスを拭き、門前を浄め、
よきお客様が来るような気持ちでせっせと働いておれば、幸運はたずねて来るのである。
不運な人にかぎって、
ルンペンしか泊まってくれないような見苦しい雰囲気をその身辺に作っている。
「床を取り上げて起きよ、しかして、汝の周囲を浄めよ。」
<感謝合掌 令和3年5月12日 頓首再拝>
病気を癒す瞑想法 - 伝統
2021/06/02 (Wed) 02:23:44
*Web:宇宙の兄弟たちへ(2021年2月13日)より
病気の癒しをもたらす瞑想法を紹介いたします。
病気の治療はきちんと病院に行かれてしていただきたいですが、
その補助として実践されるとよいと思います。
特にストレスや心理的な問題での不調の癒しに役立つでしょう。
基本的な方法は「軟酥の法」といって白隠禅師という方が
考えられた健康によいとされる瞑想法ですが、
それをすこしアレンジしたものになります。
まず鼻から息を吸って、
口からゆっくり吐き出す深呼吸を数回くりかえします。
身体の緊張が解けてリラックスでしたら、
次に頭上に握りこぶしくらいの光の玉をイメージします。
この光の玉は天から贈られた恵みと慈愛の光の塊だとイメージします。
光の玉がゆっくりと降りていき、頭頂部を癒し、
次には眉間へと降りていき、
次には口元→喉→両手→胸→お腹→下腹部→仙骨→両足からつま先までと、
ゆっくりと全身が光のエネルギーで満ちていくのをイメージいたします。
全身を光が満ちているのをイメージしながら、
しばらくそれを感じていましょう。
感謝の気持ちを抱きながら、愛の光に包まれているイメージです。
そうして最後は「ありがとうございました」っと感謝して終わります。
はじめるときにも、守護霊様などにお願いしておくのもよいでしょう。
この瞑想法は基本的なもので、
その後に様々な瞑想に移行するときにも、
まずはじめに行うほうがよいものです
https://www.spacebrothers.jp/2014/07/blog-post_19.html
・・・
<参照>
白隠禅師 ―健康法と逸話
直木公彦(著)
日本教文社刊
https://www.ssfk.or.jp/p/a/106056.htm
要点を、Web:読書レビュー:白隠禅師―健康法と逸話 から
以下に抜粋し紹介します。
(1)瞑想のコツ
心をととのえて、丹田に落ち着けることで病は治る。
(2)「あり方」が大切
①成功しても慢心せず、正念工夫を続けよ。
②表面的な凄さではなく、内面や本質的な価値を大事にしよう!
(3)心は生きもの
①心は観念を食べ、未来を作っていく生きものだ。
②心は「観念」=物事をどのように捉えているか をインプットして、
それを未来という形でアウトプットしているのだ。
③ネガティブな観念ばかり持っている人は人生もネガティブになってしまう。
ポジティブな観念を持っている人には、ポジティブな未来が待っている。
http://blog.livedoor.jp/ozkr1/archives/52125439.html
<感謝合掌 令和3年6月2日 頓首再拝>
善き想念を描いておれば病気は消える - 伝統
2021/06/18 (Fri) 04:46:49
*『 生長の家 』(昭和26年5月30日の法語)より
~現象は結果に過ぎない
人は想念する(考える)ところのものとなるのである。
神は想念することによって宇宙を創造した。
創造されたる宇宙は結果であって原因ではない。
しかし結果を目的として想念したのではないのであって、
想念されたるものを「 観(み)る心 」が「 認識の形式 」を通して
「 物質宇宙 」として観るのである。
人もまた想念するところのものを肉体にあらわすが、
それは肉体にあらわそうと故意(ことさら)に想念しないでも、
ただ、何の気なしに想念していたことが肉体にあらわれて
病気となったりするのである。
病気を治すのはその逆を行けばよいのである。
病気を治そうと思わないでも善き想念を描いておれば病気は消える。
(http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110)
<感謝合掌 令和3年6月18日 頓首再拝>
病者へは、思念より真理を理解せしめよ - 伝統
2021/06/19 (Sat) 04:58:40
*「光明道中記」(6月19日)より
【心が完全に人間の実相を映す時、肉体人間は本来の完全さを顕現する。
(『生命の實相』第四巻)】
凡(およ)そ利己のために思念すべきものではないし、
また他の利己心を満足せしむるために思念すべきではない。
病者に癒しの思念をするのも同じである。
自分の栄誉や利益のために人に思念して癒してもならないし、
病者が利己のためにその寿命の存続をねがっている場合にも思念してはならないのである。
病者を癒さんとするならば、
先ず今後利己のためにはその「生命」を使用しないことを誓わしめるべきである。
病者の魂の転向が完全であるならば神の生命流れ入りて、
其の時よりその病いは癒え始めるであろう。
此方(こちら)の「我(が)」の思念の力で、
病者に健康の念を送ってもその病は癒える事はある。
けれども若し、それが動機となって相手の魂が救われることがなく、
病気を馬鹿にする気になって、生きている間じゅう
相手が一層利己的な生活をつづけるならば、
癒したことは善事か悪事か疑問である。
重荷は理由なくして人の魂の上から卸(おろ)してやるべきではない。
重荷はみずから運んで行き、彼の魂が重荷を軽く扱うことが出来るようにこそ
誘導すべきである。
思念よりも真理を理解せしむるようつとめよ。
思念するならば「あなたの心には神の愛が満ちている」と思念せよ。
<感謝合掌 令和3年6月19日 頓首再拝>
病が癒えない6種類の人 - 伝統
2021/06/23 (Wed) 03:52:44
*「光明道中記」(6月23日《食堂楽しき日》)より抜粋
【形あるものは心の世界に形を持続する力がなくなった時
速やかに崩壊し始める。 (『生命の實相』第四巻)】
病気を癒そうと思って神想観をしながら、癒えないと云う人には6種類ある。
(1)「病気を癒そう」と思って神想観をするために、常に、
「病気、病気」と心に念じて絶えることがないのである。
(2)家族のうちに反対観念者があって、
そんなことで治るものかと強く念じている場合。
(3)憎んでいる人を赦していない場合。
(4)何か未来のことに取越苦労のある場合。
(5)心が焦(あせ)っている場合。
(6)死に切っていない場合
―― 換言すれば利己心を殺し切っていない場合。
利己心を殺し切った者には恐怖心はないのである。
恐怖心は利己心から来るのである。
<感謝合掌 令和3年6月23日 頓首再拝>
日々、無限無尽の有難さが感じられるようになると、病は癒える - 伝統
2021/07/14 (Wed) 03:03:50
*「光明道中記」(7月14日《平凡淡々有り難き日》)より
【一つに成ったところに「道」がある。(『生命の實相』第十一巻)】
或る時、趙州(じょうしゅう)和尚は弟子たちに示して、
「至道無難(しいどうぶなん)唯揀択(ただけんじゃく)を嫌う」と教えた。
至道は大道(たいどう)である。天地の道である。
無難(ぶなん)は、難しいことは何もないと云うことである。
天地の大道は何もむつかしいことはない。
平々凡々のところに天地の道があるのである。
或る小学生は、眼鏡(めがね)を割ったら前方が見えないで家へ帰れないから、
親に学校へ迎えに来て貰ったと云う程に強度の近眼であったが、
或る生長の家誌友に、
朝起きたら自分の寝床を畳むこと、
机の上を綺麗に始末すること、
父母に毎朝、洗顔の水を金盥(かなだらい)に汲(く)むこと
の3つを実行するように教えてそれを実行せしめたら、そ
の近眼が癒えてしまったのである。
まことに平々凡々が道なのである。
ただ「揀択(けんじゃく)」
―― あれが好き、これが嫌いと、
揀(え)り択(この)みをすることが可(い)かぬのである。
そのまま素直になったとき、万事が道にかなうのである。
道は病気になるものではないから、
吾々の生活が平々凡々何の変哲もないところに
無限無尽の有難さが感じられるようになれば、
その生活は道に乗ったのであるから、病気は自(おのずか)ら癒えるのである。
<感謝合掌 令和3年7月14日 頓首再拝>
すべてのところにまします神の癒しを受けよ。 - 伝統
2021/08/04 (Wed) 04:22:42
*「光明道中記」(8月4日《常に神を憶う日》)より抜粋
【「幸福」とは神の実現である。そのほかに人間の幸福はない。
(『生命の實相』第十一巻)】
神の”いのち”なるわが”たましい”は、
神と偕(とも)に常に此処に立っていることを
知らねばならぬ。恐れることはひとつもあり得ないのである。
われは神と偕であるからである。
神はすべてのところにましますが故に
その癒しもすべてのところにましますのである。
癒しと云うのは病気を認めての語(ことば)であるが、
これはただ病気をみとめている人々に対してのみ言うところの
方便的語(ことば)に過ぎないのである。
癒しと云うのは神の創造の顕現であり、
神の完徳(まったきとく)が現象世界面に
あらわれて来ることに過ぎないのである。
だから吾等が神の完き創造の
”ちから”と”めぐみ”と智慧とをみとめるならば、
病気のみならず、あらゆる事件に神の癒しは与えられるのである。
不幸に傷つきたる人々よ、神の癒しを受けよ。
<感謝合掌 令和3年8月4日 頓首再拝>
「静(せい)」の力を受ける - 伝統
2021/08/06 (Fri) 04:48:00
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月6日)より
「静(せい)」のうちにあずける時、そこに「聖(せい)」なる癒しの力があらわれる。
「静(せい)」は「生(せい)」であり、「清(せい)」であり、「聖(せい)」であり、
生かしであり、清めである。
絶対安静療法などのことを言っているのではない。
心がただ委(まか)せきりになって、全托の心境に万事を委ねるのである。
絶対安静療法などなどと言って身体(からだ)を安静にしても、
心が「静(せい)」になりきらない者は、
「静(せい)」の生かす力を受けることはできないのである。
我(が)の力による力みを捨てること。
静かに静かに、自分が委(まか)せきりになっているかどうか。
無理はないか。焦りはないか。
ひたすら歓びのある心持に落ちつけるとき、活動していても、活動していなくとも、
「静(せい)」の力を受けることができるのである。
<感謝合掌 令和3年8月6日 頓首再拝>
「自分は健康だ」との観念を徹底させる - 伝統
2021/08/07 (Sat) 04:34:41
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月7日)より
健康を破壊してどうしても快復し難いのは、
その人が「自分は健康を損なった」という
観念にしがみついているからである。
いろいろの療法や、思念や、聖典読誦が功を奏さないのは、
一方に「自分は病気だから、こうして治そう」というように、
「自分は病気だから」の観念に固くしがみついて、
それと相撲をとっているからである。
「病気はない」は真理であり実相であるから、
その健康なる実相を招(よ)び出そうとしながら、
「自分は病気だから」という考えの上にいつまでも足踏みしているようなことでは
「病気はない」の観念を招(よ)び出すことはできないのである。
「自分は病気だから」の観念を抛擲(ほうてき)して、端的に、
「自分は健康だ」の観念に置き換えたらその病気は癒えるのである。
ではその方法はいかん?
それは、すでに自分は健康である、完全に創造されている
との前提の下に神に感謝するのである。
合掌神想観をなして、次の如く神に感謝すべきである。
「神はすべてのすべてであり、完(まつた)き生命(いのち)であり、
完(まつた)き叡智(みちえ)であり、完(まつた)き聖愛(みあい)である。
すべてのもののうちに神の生命(いのち)は生き、
神の叡智(みちえ)は充ち、神の聖愛(みあい)は満ちている。
その例に漏れず自分のうちにも神の完(まつた)き生命(いのち)、
完(まつた)き叡智(みちえ)、完(まつた)き聖愛(みあい)は充ち、
それによって自分は完全に健康に生かされているのである。
自分は今まったく完全に健康に生かされているのでございます。
ありがとうございます。ありがとうございます。
自分は今まったく完全に健康に生かされているのでございます。
ありがとうございます。ありがとうございます。・・・」
こう、現に今健康で”ある”ところの思いに浸りきって、
如実にそれを実感して本当に感謝の言葉を述べることは、
「自分は今病気だから、治すために・・・」
などという考えを一転せしめる力がある。
最後の
「今まったく完全に健康に生かされている、ありがとうございます」
の言葉をできるだけ実感せまる調子で、心のうちに幾回でも、
その実感が徹底するまで繰り返すがよいのである。
<感謝合掌 令和3年8月7日 頓首再拝>
懺悔はどうして病気を治すか - 伝統
2021/08/19 (Thu) 04:53:27
*「真理」第9巻生活篇(P137)より
親が懺悔の心を起したら、子供の病気がこんな風に治るのである。
懺悔と云うのは、わけもわからないで無暗に「すみません」とか
「私が悪うございました」とか言ってあやまrことではなにのである。
真理の光に照らされて、自分の今までの心の持ち方や行いが間違っていたことが、
ハッキリわかって、その間違っていた心や行いを「まことに申し訳ありません」と
キッパリ捨てようと決心することである。
つまり「間違い」を「間違い」だと知ったことはそれだけその人の「智(ち)」が
明らかになり、以前より高い心境になったことであり、その「間違い」を
再びいたしますまいと念ずることは、既にその人が間違いの生活の中にないことで
あり、従って自然に、「間違い」の反映としての病気が治ることになるのであります。
親が懺悔の心を起して子供の病気が治るのは、
子供は親の心の影であるからであります。
<感謝合掌 令和3年8月19日 頓首再拝>
《病気を治すには》 - 伝統
2021/09/26 (Sun) 04:56:00
*「眞理」第2巻基礎篇第8章(P220~221)より
吾々は潜在意識の中にある色々の病的観念によって、
それが肉体的病気として《あらわれる》。
病気が《あらわれる》と云うことは、
人間が「本来病気でない、健康だ」と云うこととは矛盾しない。
「本来健康の実相(じっそう)」の上に
「病的観念」が二重写しになっているだけである。
その「病的観念」を拭(ぬぐ)い去りさえすれば、
本来の「完全なる実相(じっそう)」があらわれて来るのであるから、
決して、肉体の症状がどうであろうと、そんなことを考えてはならない。
「病気は無い」のであるから「病気を治そう」と考えてもならない。
「病気を治そう」と考えると、直(す)ぐ「病気」を
心に描くから病気は消えない。
ただ「完全なる実相」だけを見れば好いのである。
「完全なる実相」を見ることによってすら「治そう」と思ってはならない。
「治そう」と云う思いは、既に病気をつかんでいる心であるからである。
《ただ》「《既に》完全である」とのみ見なければならない。
「ただ」である。
<感謝合掌 令和3年9月26日 頓首再拝>
「病気は心の影」との懺悔が徹底したとき、病気は消える - 伝統
2021/10/07 (Thu) 04:57:15
*「光明法語」(10月7日《病気は心の影》)より
病気が自他の肉体に現われても、
肉体は霊の最高顕現であるから病気に罹ったなどと思うな。
その病気を「自分の心の影」だと見よ。
神の霊の完全なる顕現である肉体に、自分の誤れる「心の影」として
不完全なる状態をあらわして済みませぬと謝り切れ。(これ懺悔である)。
そして瞑目合掌精神を統一して完全なる神人(ゴットマン)の実相 ――
霊にして霊光遍照する自己の体を観よ。(正しき観である)。
この懺悔が徹底したときに、肉体の奥にある完全なる霊的実相が顕現して
病気は消えてしまうのである。
<感謝合掌 令和3年10月7日 頓首再拝>
宇宙の大自療力 - 伝統
2021/10/12 (Tue) 04:58:18
*『生命の實相』幸福篇下第三十八巻(10月12日)より
宇宙には無限の癒す力が充ち満ちているのである。
祈りと思念とはその無限の癒す力に接触する道である。
どんなに砂塵や煤煙が濛々と立ち騰(のぼ)っても
しばらくのうちに空気が澄みきってゆく力、
どんなに土砂降りで泥や塵芥が海中に押し流されても、
それを浄(きよ)らかな澄みきった海水に変化する力、
皮膚や筋肉に負傷しても下からそれを再生する不可思議な自療力
―― 考えれば宇宙にはいたるところに、
自療力(みずからなおすちから)が充ち満ちているのである。
しかし皮膚や筋肉や内臓に故障が起こっても
それを自療してゆく力の起こる人と起こらない人とがあるのはなぜであろうか。
それは宇宙の大自療力をみずから認めないで拒(こば)んでいるからである。
<感謝合掌 令和3年10月12日 頓首再拝>
《自然良能を盛んにするには》 - 伝統
2021/10/13 (Wed) 05:02:50
*「眞理」第2巻基礎篇第8章(P227~228)より
吾々の内部にいて吾々の生理作用を営ましめている力は
「内在の神」であるのである。
それを物質を「生命(せいめい)」にかえ、
無機物を「考える力」に変ずる不思議なる力である。
この「内部の神」は常に内よりわが「肉体」と云う道具を修理し、
栄養を与え、若返らしつつあるのである。
吾々は常にその力を認めて感謝するようにしなければならない。
認めて感謝するとき内部に宿る神の力は
一層完全に働いて自然良能が盛んになるのである。
それは、神は感謝したら余計働きたまうと云うような意味ではない。
神は常に働きていたまうが、感謝の念が足らぬため、
その働きに波長が合わず完全に顕(あらわ)れないと云う意味である。
すべて感謝は相手と心の調和を得(う)る道である。
<感謝合掌 令和3年10月13日 頓首再拝>
すべて有り難く受け流して行けば病気は消える - 伝統
2021/10/19 (Tue) 05:00:45
*「光明道中記」(10月19日《心配のなくなる日》)より
【心配、取越苦労、憤怒などは恐怖心の変形である。(『生命の實相』第十二巻)】
「善を思わず、悪を思わず、正与麼(しょうよも)のとき、那箇(いかん)かこれ
明上座(みょうじょうざ)が本来の面目(めんぽく)」
これは慧明に六祖慧能大師が与えられた一喝であった。
善悪愛憎に因えられ、これが可(い)かん、あれが可かん
と言っている間は通力を失った状態であるから
本当の大善は出て来ないのである。
「心の狭い善人」は生長の家ではいたく排撃せられるのである。
これが善い、これが悪いと云う人が
多く肺病にかかって血を喀(は)いたりするのである。
善いも悪いもない、其処へ出てきたものをその儘受け流す、
次に出てきたものも、そのまま受け流す。
これが神妙不動智の極意である。
「ああ血がこんなに出たから、もう駄目だ」などと考えたら、
もう血に心が因えられたから通力を失って一層健康が悪くなるのである。
「血が出た。オーライ」「熱が出た。オーライ」「痰が出た。オーライ」
別にいつまでもそれに心を引掛けていないで、
出たのは出たとして、それ以上何も嘆かぬ。
出るものが出たら、あとはサッパリするものである。
心が引掛らねば、生命は「生きる力」なのだから必ず生きる。
血が出た、痰が出た、熱が出た ―― に是非、善悪を引っ掛けて、
心がいつまでも思煩(おもいわずら)うところに病気も長引く。
すべて有り難く受け流して行けば病気は消える。
<感謝合掌 令和3年10月19日 頓首再拝>
《欲しい》と《たい》を捨てれば不思議に病気が治ることがある - 伝統
2021/10/20 (Wed) 04:51:07
*「光明道中記」(10月20日《「欲しい」を捨てる日》)」より
【自分を本当に愛する事が出来る者は、本当に隣人を愛する事が出来る。
(『生命の實相』第二巻)】
善悪愛憎に捉われると云うことは、
「斯くあり《たい》」「斯うし《たい》」「逢い《たい》」
「見《たい》」「食べ《たい》」などの「《たい》」に囚われることである。
この「《たい》」が心にある間は、その人はどうしても「《たい》国」の囚人で、
本当の自由も極楽もその人にはあり得ないのである。
天理教では此の「《たい》」を
「惜しい」「欲しい」などの八つに別けて、八つの埃と言っている。
「たい」が心の病気であり、心の病気が肉体に投影して肉体の病気となるのである。
時々私に病気の相談を持ち掛けてくる人がある。そんな人に私が
「あなたは心に不平ばかり持っているから、そう云う不平を捨てなさい」
と言うことがある。
すると益々相手は不平らしい顔附をして、
「私は別に不平の心を有(も)っていませぬ」と言う。
「併しあなたは、もう少し斯うし《たい》、
斯うして《欲しい》と思うことがあるでしょう」と
言いますと、「それはあります」と言われる。
その斯うして《欲しい》、斯うあり《たい》が、あなたの気が附かない不平であって、
それが心が善悪愛憎に囚われているので、生命力が自由を得ないで病気に罹っている。
その「こうして《欲しい》、こうあり《たい》」の
《欲しい》と《たい》を捨てれば不思議に病気が治ることがあるものである。
<感謝合掌 令和3年10月20日 頓首再拝>
《病気になりたい意志を捨てよ》 - 伝統
2021/10/28 (Thu) 04:57:24
*「眞理」第2巻基礎篇第9章(P250)より
キリストは病人を癒やす場合に、
「汝、癒やされることを欲するや」と病人自身にたずねているのです。
病気が治るためには、
「治りたい心」「癒されんと欲する心」がなければならないのです。
「病気の方が都合がよい」
「病気だと生存競争の烈しい世界から逃れていることが出来る」
「病院へ行けば嫌いな人間の顔をみなくとも済む」
「病気だと厭(い)やな仕事をしないで済む」
「良人の愛情がなくなったから、病気になって死んだ方がましだ」
こう云うように、
「病気」の世界へ疎開し、逃避して行きたい心があるときは
中々病気が治らないのです。
「病気」を自分で内部から製造しているからです。
このような「病気になりたい心」を完全に捨て、
人生の責任を完全に背負う決心をして、
「神は必ず癒やしたまう」と信じて背水の陣を布いて起ち上るとき、
その人の病いは癒やされるのであります。
<感謝合掌 令和3年10月28日 頓首再拝>
「本当の汝」を呼び戻せ! - 伝統
2021/11/04 (Thu) 04:53:51
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月4日)より
なんじの愛の乏しきことを嘆け。
なんじの心の審判(さばき)の満ちたることを嘆け。
なんじの心に虚偽(いつわり)の満ちたることを嘆け。
真理がなんじの心のうちに未だ顕れざることを嘆け。
本物を蔽(おお)い隠す泥棒のみ主人顔をして
なんじのうちに幅を利かせていることを嘆け。
なんじの物質精神を嘆け。
「本当の汝」はいずこにいるぞ。
それでもなんじは「真理」を悟ったというか。
『生命の實相』を読んだというか。
いな、いな、いな、断じて。
真理はなんじの中(なか)にいないのである。
「《本当の汝》」は汝の中にいないのである。
「本当の汝」をなんじの中に呼び戻せ。
なんじは癒ゆるであろう。
<感謝合掌 令和3年11月4日 頓首再拝>
人を癒やすために自分を癒やせ - 伝統
2021/11/06 (Sat) 04:50:08
*「光明法語」(11月6日の法語)より
人を癒やす為には、自分の心の中の病気を消す事が必要なのである。
医者が手を放したとき、治る見込みがないと言ったとき、
色々の民間治療家や有名な博士がいずれも失敗したと云うとき、
それをきかされて「不治」を自分も連想するようでは相手を癒やす資格はない。
かかる不治の不安が光明思想をする人を捉えたとき、
先ず思念者は自分自身の想念の歪みを癒やさねばならないのである。
先ず人間は神の子であり、神が霊的実在であるが如く
自分も亦霊的実在である事を念ぜよ。
<感謝合掌 令和3年11月6日 頓首再拝>
その儘病気が治るようになっている - 伝統
2021/11/14 (Sun) 04:49:37
*「光明道中記」(11月14日《執着が無くなる日》)より
【雑念妄想は神想観を妨げず。雑念妄想そのまま実相を念ずれば好い。
(『生命の實相』第九巻)】
下痢あり、嘔吐あり、それがそのまま健康なのである。
凡夫はそれに囚(とら)われて囚人となり、
聖人は囚(かこい)の外に出てそれを見ているだけである。
「何じゃ、そんなことなら生長の家へ入るのではなかった。
生長の家に入れば現実に病気が治るのか思っていた」と
不平を言う者は率爾者(あわてもの)である。
実際病気が軽減し治っているのである。
尤(もっと)も生長の家が治すのではない。
人間には自然療能と云う大生命力が宿っていて、
その儘病気が治るようになっているのである。
そして下痢あり、嘔吐あり、それがそのまま健康であると云うのは、
下痢も嘔吐も自然療能と云う大生命力の働きであるからである。
凡夫は自然療能力が霹靂(へきれき)の如くはためくのを見て戦慄し、
自己に宿る生命力を萎縮せしめて病気を更に増悪せしめるが、
悟った人はそれを有難いと見て感謝して恐れないから、
自然療能力を益々増大するのである。
されば生長の家に入ってその真理の一端を知らされれば、
生長の家へ入らない前よりも病気に罹らなくなり、
なっても速やかに治癒に赴(おもむ)く。
けれども病気にならないことが「悟」に必ず付随すると思っている人は、
必ず終るべき肉体の寿命が終ろうとする時、
「自分は依然として悟れなかった」と
切歯扼腕(せっしやくわん)しなければならぬであろう。
<感謝合掌 令和3年11月14日 頓首再拝>
皮膚にも内臓の粘膜にもどんな炎症もあり得ない - 伝統
2021/11/22 (Mon) 03:06:53
*「光明法語」(11月22日の法語)より
~神の愛の抱擁を思念せよ
更に次の如く思念せよ。
「神の愛の抱擁は優しいのである。
無限の優しさ、無限のこまやかな愛情をもって私を抱擁し給うが
故に、私の皮膚は直接この無限に優しい細(こまや)かな
神の愛に触れているのである。
だからどんなイライラしさも、
どんなブツブツもどんな炎症も潰瘍も存在しない。
神の愛と平和とはわが全身に流れ入って満ち給うが故に、
わが全身には神の愛と平和とが満ち充ちているのである。
だからわが内臓の粘膜にもどんな炎症もあり得ないのである・・・」
<感謝合掌 令和3年11月22日 頓首再拝>
人の病いを癒すには - 伝統
2021/11/23 (Tue) 04:49:44
*「光明法語」(11月23日の法語)より
他の人の病いを癒す為には、自己の名前や、報酬や、虚栄や、
それらすべての利己的なものを捨てなければならぬ。
そして彼を本当に愛しなければならぬ。
自己の為に彼を愛する利己的な愛では足りないのである。
彼自身の為に彼を愛しなければならぬのである。
この愛の中に高まり入るとき
「汝等互いに相愛せよ。愛するところに吾はいるなり」と言われた
イエスの無限の癒す力と一つになる事が出来る。
この時吾らは神の愛と一体となり、無限の力の源に触れるのである。
<感謝合掌 令和3年11月23日 頓首再拝>
彼の心の悩みを自己にとる事 - 伝統
2021/11/24 (Wed) 04:59:46
*「光明法語」(11月24日の法語)より
人の病いを癒さんとする時、先ず彼の名前をとなえ、
彼の悩みを心に思い浮かべて可哀相だと思う事が必要である。
そう思わなくとも治る事があるが、この方が一層効果があるのである。
何故なら、それは洗濯屋が《よごれ》物をお客様からとって来る様に、
相手の悩みを自分にとって来るからである。
この「悩みの洗濯物」は「悩みのよごれ水」で洗い浄めても綺麗には
ならないから、一旦自己にとり来った「心のよごれ」は
「全然悩みのない思念の水」で洗い浄める事が必要である。
<感謝合掌 令和3年11月24日 頓首再拝>
ラザロを復活させたイエス - 伝統
2021/11/25 (Thu) 04:58:11
*「光明法語」(11月25日の法語)より
イエスは死して4日、既に腐臭芬々たるラザロを蘇生せしめられた時に
「イエス涙を流し給えり」と聖書にある。
その家族の悲しみを自分の悲しみにまで摂取し給うたのである。
その次には「死せるに非ず、活けるなり」と仰せられた。
人の悲しみを自分に受取った上はもう「悲しみの水」では、
その悲しみを洗い流すことは出来ない。
今度は、悲しみを見ず、死を見ず、病いを見ず、ただ死せるに非ざる
「活けるラザロの実相」を見られたのである。
その時ラザロは復活した。
<感謝合掌 令和3年11月25日 頓首再拝>
彼の悩みを洗浄する法 - 伝統
2021/11/26 (Fri) 04:49:58
*「光明法語」(11月26日の法語)より
人の病い(悩み)等を清めるのも洗濯するのと同じである。
「治す人」は洗剤の如きものである。
洗剤は一度「洗濯物」から自分自身にその《よごれ》を摂(と)り、
自分自身が《よごれ》なければならぬ。
これが「可哀相」だと思う事にあたる。
次には少しも「《よごれ》のない水」を、豊富に濺(そそ)いで
その《よごれ》を捨ててしまわなければならぬ。
「《よごれ》のない水」とは、光明思念である。
病いのことを少しも思わず、神のみが実在であること、
神の世界に一切の罪は存在せずと思念するのである。
<感謝合掌 令和3年11月26日 頓首再拝>
相手の病いを治す思念 - 伝統
2021/11/27 (Sat) 04:51:15
*「光明法語」(11月27日の法語)より
更に彼が神の子であること、神の肖像(にすがた)としてつくられたる
完全なる存在であること、その全身が物質に非ずして霊的存在であること、
如何なる欠乏も、病気も、不完全も悩みも存在しないのであって、
ただ神の愛と平和と完全さとのみが存在すると云うことを思念して、
その思念者が完全平和の心境になり得たとき、
乃ち相手は癒されていると云うことになるのである。
相手に念を送るのではなく、自分自身に摂取した念を浄めるのである。
自他は一体であるからである。
<感謝合掌 令和3年11月27日 頓首再拝>
柔和なる者、汝は地を嗣(つ)がん - 伝統
2021/11/28 (Sun) 04:50:45
*「光明法語」(11月28日の法語)より
「すみません。私が悪かったのです。貴方は神の子で完全な方でありますのに」
と妻が良人に詫びる気になった時、その妻自身の病気が治ったり、
良人の重病が治ったり、愛児の病気が治った実例はたくさんある。
それは「(心の)貧しき者は幸いなるかな、神の国は汝のものなり」
と云うのにも当る。
傲(おご)れる者は、神を求めず、神に縋(すが)る気にもなれない。
ただそれは氷山の水面上の部分の硬さに信頼するものであるからである。
氷山が融(と)けて来たとき海の水の広大さが判るのである。
<感謝合掌 令和3年11月28日 頓首再拝>
物質の世界、精神の世界、霊の世界、実相の世界 - 伝統
2021/11/30 (Tue) 04:48:34
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月30日)より
人間は4つの世界に住んでいるのである。
それを概括して、物質の世界、精神の世界、霊の世界、
さらに実相の世界に住んでいるのである。
物質の世界においては物質の法則が働く。
われわれは空気を呼吸せずに生活することはできないのである。
水を飲まないでは生きることはできないのである。
この面では物質の法則がわれわれに作用する。
この方面を無視することはできないのである。
だからわれわれは自然科学の研究を無視するものではない。
しかしながら、自然科学はまだ発達の途上にあるのである。
昨日(きのう)の良薬は今日(きょう)の無効薬となりつつある。
治療の方法も日進月歩しつつある。
日進月歩するということは昨日の是が今日の否となるということにすぎない。
われわれは科学的研究の成果を無視することはできないが、
全的にそれのみに頼ることはできないのである。
科学者は海水の成分と科学的にまったく同一の成分の塩水を造ることはできるけれども、
この精確な成分の塩水中では海中棲物(せいぶつ)は育たないのである。
この世界には、現在の科学者の未だどうしても発見しえない生命に必要な
ある要素が存在するのであって、科学的に構成要素は同一なるビタミンB1であっても、
米糠のビタミンB1とは現在の科学者には未知のある要素において異なるのであって、
これは臨床効果においても見られるところである。
さらに人間の一面は精神的なものであって、いかに医療を加えても、
心のうちに恐怖や心配や悲しみや、ある人に対する憤(いきどお)りや憎しみを
捨てないでいるかぎりにおいては、薬効があらわれないことがしばしばあるのである。
それにもかかわらず、現代の医学が人間の物質的面のみに注目して不用意に
その病気の恐るべき名称や今後の帰趨を言葉にあらわすために、
患者は不要の恐怖心配にとらわれて生活力を萎縮せしめ、かかる不用意なる医者の
診断がなかったならば、もっと長生きしたであろうと思われる患者を
急速に死に導いてゆく実例も多いのである。
これなどは、医者の言葉の暴力によって、人間を気死せしめたと言うべきであって、
言葉の暴力は、人間の法律上では罰せられないかもしれないけれども、
神の掟の前には腕の暴力も言葉の暴力もその人を害した程度にしたがって、
「罪あり」と認めらるべきものである。
さらに人間は霊的存在であって、霊の故障によって起こる病気は、
物質治療も、精神治療も結局は効果をあらわさないのであって、
霊そのものを悟りに導く方法が必要なのである。
生長の家の神想観や聖経の読誦によって病気が治る場合があるのは、
本人の精神状態に及ぼす心理的効果も与(あずか)って力があるけれども、
その人の本霊の悟りと、その人の守護霊(祖先霊を含む)の悟りの向上による
ところが多いのである。
医療や心理学的暗示療法などが効果をあらわさないところの脊椎カリエスや、
癲癇の発作が聖経の読誦で全治してしまう実例の多いのも、
これらの病気が霊的障礙であるからである。
顕微鏡によってのみ見える微生物の世界に、病原体を発見するにやぶさかでない
現代の医学が、なぜ肉眼で見えないという理由だけで霊の障害による病源を
研究することを迷信視しようとするのであろうか。
さらに人間は実相の世界において、永遠不滅の存在であるのであり、
それを悟ることによって現象界のいっさいの苦悩の上に超出できるのである。
<感謝合掌 令和3年11月30日 頓首再拝>
《癒えない病気はないと信ぜよ》 - 伝統
2021/12/15 (Wed) 05:02:24
*「眞理」第2巻基礎篇第9章(P251)より
神にとっては癒やし得ざる病気などと称さるる病気はないのである。
神は「大生命」であるからである。
そしてあなたは「大生命」の噴出口であるからです。
では何故に人間は病気になるのであるか。
「病気の方が都合がよい場合」
「非常な感情的ショックを受けた場合」
「腹が立ったり、人を憎んでいる場合」
「誰かを許さない場合」等に於いて、
自ら発した「心のモヤモヤ」が雲の如く、
人間の、「完全健康」の実相を蔽(おお)いかくして、
奥底には「完全健康の実相」がありながら
病気のすがたをあらわしているのであります。
だから
「病気になりたい意志」を捨て、
「腹が立ち憎んでいる人を許し」
感情に受けたショックを「愛」によって繃帯(ほうたい)するならば、
表面を蔽うている雲の如き「心のモヤモヤ」は消え、
病気は癒やされるのである。
<感謝合掌 令和3年12月15日 頓首再拝>
「何でもクヨクヨするな」 - 伝統
2021/12/20 (Mon) 05:06:53
*「光明道中記」(12月20日《大調和の日》)より
【躓いたがために落ちる人もあれば、躓いたがために落ちる前に気がつく人もある。
(『生命の實相』第十一巻)】
人間は自分の生活が不自然な為に病気になるばかりではなく、
自分が不自然な思いをもつことによって病気になるばかりではなく、
その時代の人類の思想を反映して病気になるものでもある。
人間の思想が波動であること、そして人間の心が、
非常に鋭敏な波動受信機であると云うこと。
斯う云うことを考えめぐらせて見れば、その世紀の人類の思想が吾々を病気にもし、
健康にもするものであることが明らかになるであろうと思う。
人間のように鋭敏(デリケート)な感受機関を有しない動物でさえも、
周囲の精神波動に感じて病気になるのは、山野の獣(けもの)が病気にならないのに、
家に飼(か)うと、手厚い保護(実は「心配」と云う病的念波)を受けながらも
病気になる事実で明かである。
この理論で行くならば、家庭に病人を無くするには、
やはり周囲の精神波動を浄(きよ)めねばならぬのは明らかである。
病気を心に思いすぎる精神習慣の人は、その習慣を改めなければならない。
誰も病気のことなど思わず、常に快活にしているように努め、
家庭の空気が光明化するような明るい読み物を常に読まねばならぬ。
「何でもクヨクヨするな」
この言葉を病人の多い家庭に捧げる。
<感謝合掌 令和3年12月20日 頓首再拝>
愛と赦しと感謝によって、汝の病は消える - 伝統
2021/12/22 (Wed) 05:03:28
*「光明道中記」(12月22日《完全解放の日》)より
【本当の明るさは真理と愛と智慧とから来るのみである。(『生命の實相』第八巻)】
本当の智慧は神と和解しなければ得られないのである。
神に和解するとは全き信仰を以て神の愛を信じることである。
神の完全を信じることである。
神の造りたまいし世界に悪が存在しないことを信ずることである。
不安があるのはまだ神を本当に信じているのではない。
既に癒されているのである。
「汝の罪赦されたり、立ちて歩め」と云うのは、
キリストが二千年前のみに言われた言葉のみではない。
常に神は吾々に対(むか)って「汝の罪赦されたり、立ちて歩め」と
仰せられているのである。
この言葉を信ずるものは幸いなるかな。
汝の罪は赦されているのである。
されば吾れもまた神が吾れを赦したまいし如く、
すべての人の罪をも赦さねばならない。
一切の怒(いかり)の想い、一切の怨みの想い、一切の憎みの想いを
愛と赦しとによって書き換え、更にそれを感謝によって光を点じなければならない。
然るとき汝の病は消えるであろう。
或る日道場へ訪れた山形県の一婦人が5歳の小児が生まれてから
少しも歩むことも物言うことも出来なかったが、『生命の實相』を読み、
その教に照らされて、不仲であった母親に感謝の心を起した時、
初めてその小児は歩み出し、ものを言い出したと言った。
<感謝合掌 令和3年12月22日 頓首再拝>
すべてを赦し、感謝して眠りに入る - 伝統
2021/12/23 (Thu) 04:59:47
*「生命の實相」第38巻幸福篇下巻(12月23日)より
わたしの『光明の生活法』の本の携帯版が気持ちのよい形で、
そんなどぎつい装飾もなしに、ととえば夜しずかに降りて
万物をうるおしてくれる夜露のように質素な、そして典雅な形で出た。
常にこの書を携帯していちいちその生活法どおり実行する者は幸いである。
この生活法を常に実行している者は常に健康であるに相異ない。
不健康とは、生活が不健康であり、
思いが不健康であることの反映であるに過ぎない。
人間の実相(そのまま)は健康であるからである。
わたしは『光明の生活法』の中で
就寝前の15分間の神想観の方法を説いておいたが、
それを病気の治癒に応用する場合に特に注意すべきことは、
就寝前に、その日、またはそれまでの日において
呪っていた人々を釈(ゆる)し、憤(いきどお)っていた人々を宥(ゆる)し、
憎んでいた人々を恕(ゆる)し、自分の好まない人たち、反感ある人たちと
その過失とをことごとく赦して眠ることである。
眠っている間に最も多くの癒しの神力(自然療能)は進行するのである。
「私はもうあの人を憎んでいない。」
あの人があの時ああいう態度に出たことは、
かえってわたしにとって必要なことだったのである。
わたしが彼を憎んでいたのは、わたしの観察眼が狭いために、
あの人がああいう態度に出たことを、
自分に害があるように思って思いちがいしていたにすぎないのである。
本当はあの人がああしてくれたので、わたしの《ため》になったのである。
わたしはあの人に感謝する。何某(なにがし)よ、わたしはあなたに感謝する。
本当に感謝する。
わたしはあなたに感謝し、あなたを祝福するものである。
ありがとうございます。ありがとうございます。
こう、精神を静かに調(ととの)えながら、繰り返し繰り返し念じて、
全き平和の心境に達したとき寝てしまうのである。
一日の最後の時間を赦しと感謝とで満たすこと、
それは健康に重大な関係があるのであるが、健康に関係がなくとも、
それはそのままありがたいことではないか。
寝床(ねどこ)に入(い)れば、
すぐ次のごとく念じて感謝のうちに熟睡に入(い)るべきである ――
「枕よ、ありがとう。寝床(ねどこ)よありがとう。蒲団よ、ありがとう。
寝巻よ、ありがとう。空気よ、ありがとう・・・」と
なんでも周囲に見出され、思い浮かべられるすべてのものに
感謝の言葉を心のうちに唱えながら眠りに入(い)るのである。
こうすれば不眠症の人でも直ちに熟睡に入(い)ることができるものである。
<感謝合掌 令和3年12月23日 頓首再拝>
神のコトバを素直に受ける - 伝統
2021/12/27 (Mon) 04:59:49
*『精神科学』(昭和48年12月号)より
イエスはその神癒能力に限りがなかったように、色々の病気を治し、
或は死者を蘇生せしめたりしているのであるが、
彼はその奇蹟的治癒又は蘇生を
「自分がした」 とはいわないで
「われみずからにては何事をも為し得ず、
天の父われにいまして御業を為さしめ給うのである」
といっているのである。
だから、イエス自身は、自分の治癒能力を強化する
霊的ヴァイブレーター 〈霊的振動器〉 になるような修行を
してはいないのである。
彼は弟子から離れてひとり山にのぼって祈るようなことをしているが、
これは天の父と交通するためだったのである。
彼の治癒能力は彼の肉体力又は幽体又は霊体の力ではなく、
天の父から出ずるものであったから限りがないのであった。
イエスによる治癒は、
信仰治癒 〈Faith healing〉 であったといえるのである。
それ故にイエスは治病の目的で遣わされた弟子が、
その治癒に失敗して帰って来たときに
「汝ら信仰うすき者よ」 といっているのである。
そしてイエスは霊的治療能力を増強するためのメソッドについては、
弟子に対しては何事も教えていないのである。
実相無病の立場からは
「癌は治らない難症だというような」 ことはないのである。
神のつくらないところの病いは、癌であろうとも、
それは本来ないのだから、完全円満な実相のみを想念すれば、
そんな迷妄の産物は自然に消えるのである。
それが消えないのは、「神のつくり給うた世界にはどんな病気もないのだ」
という信仰の欠乏 又は 薄弱によるのである。
神想観すなわち
「神のつくり給うた実在の世界には円満完全な実相のみ独在する」
ということを信じ、その円満完全な実相のみを観ずる瞑想法によって、
その独在する実相を静かに観ずるのに、
何やら上手、下手とか、コツとか秘訣とかいうものがあるかというと、
そのコツは‘ある’といえば‘ある’が、
‘ない’といえば‘ない’のである。
それは静かに瞑想する力を強化する
というようなやり方のコツはないのである。
自己の凝念すなわち精神集注 〈Concentration〉 によって、
実相 ― 完全な姿を凝視すると、その完全な相が凝念によって、
患者に移入されて、患者が健全になるというやり方もあるのである。
― これは “コツが‘ある’といえば‘ある’”
という方のやり方であるが、
自力的要素が強いために術者又は治療家は自分のエネルギーを
消耗して疲れるのであり、
その治癒力も、自分のエネルギーの消耗によって限界がある。
しかし 「コツは‘ない’といえばコツは‘ない’」
という方のやり方には、コツというような人為的な巧者工夫は
一切入り来らないのであって、『創世記』 第1章の終りにある
「神そのつくりたるものを見給いけるに甚だ善かりき」 とある通りに、
「神の創造には“善”あるのみなのだ」 と神が仰せられたら、
その通り素直に 「ハイその通りでございます」 と
その神のコトバを素直にそのまま幼な児の心をもって
承認し受けるだけのことである。
素直に “神から与えられたもの” を受けるのには、
凝念は要らないのである。
私の著書の 『人類無罪宣言』 の144・145頁には
次のように書いている。 ――
「祈るとは、神に対して絶えず 『われを忘れ給うな』 と
警告するためではありません。 人間の方が神を思い出すためなのです。
祈っても祈らなくとも、神想観をしてもしなくても、
人間が神の子であることに変りはないのです。
それだのに、われわれが神想観をして 『お前は神の子である』
と自分自身に呼びかけ
『ハイハイ、私は神の子でございます、ありがとうございます』
とお受けするのは、
われわれ人間の方が神を忘れないようにするためであって、
神に 『われを忘れ給うな』 と警告するためではないのであります。
神は愛であり、全智でありすべてのものを知り尽くし、
すべての幸福をわれわれに与え給うている
―― もう決算はきまっているのです。
もう決算報告書は書かれているのです。
〈注。 「神その造りたるすべてのものを視たまけるに甚だ善かりき」〉
決算報告書を前にして祈ってみたところがその決算は殖えもしないし、
減りもしないのです。
ただわれわれの役目は神から与えられた決算報告書を
正しく算出することなのです。
『お前は神の子である。』
『ハイハイさようでございます。』
『お前に無限億万円が与えてある。』
〈注。 これは金額のことではない。 無限の幸福の比喩である〉
『ハイハイ確かにさようでございます。』
これが正しい算出でありまして、これが祈りであり、神想観であります。
与えられた勘定書を精確に承認することが神想観であり、祈りであります。」
https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/38de700b6fdba45f6cffb034c4df8d73
<感謝合掌 令和3年12月27日 頓首再拝>
《洪水に出遭って中風が治った》 - 伝統
2021/12/28 (Tue) 04:35:19
*『理想世界』(昭和45年9月11日の法語)より
神戸の大洪水のあった頃、光明思想普及会(日本教文社の前身)の
重役兼不動産貯蓄銀行の重役だった井上喜久麿氏は中風で
下半身不随で寝ていられた。
洪水の第一日目は、井上さんのお宅はそれほど浸水しなかったのであった。
洪水の翌朝になって隣組の婦人会から、罹災して家を失い避難している人達に
「御飯の炊き出しの奉仕のために集まるように」という呼び出しがあったので、
井上喜久麿さんの奥さんは炊飯の奉仕のために朝早くから出かけて往った。
ところがその後、六甲山の山水が決壊し噴出して山津波が襲って来たので、
急激にその辺一帯の水嵩が増して、井上氏宅へもドット洪水が襲って来た
のである。そして間もなく一階は床上浸水の危険に曝されて来たのである。
細君は罹災者の炊飯の奉仕に往って誰もいない。
井上氏は中風で、一階に一人寝ているのだ。
このままでいたら井上氏は水没して溺死する筈であった。
井上氏は刻々水嵩が増して来る水を見ているうちにその心が極限状態に
達したのである。自分が起ちあがらなければ溺死するよりほかは道がない
と思った瞬間に氏は起き上がった。
そして濡れては大変だと思われる重要品を柳ごおりにつめて、
幾度も階下から二階に搬んだ。
それ切り氏の両脚の不随は治ってしまったのであった。
ギリギリの極限状態に置かれた時、自分が半身不随だということを
忘れてしまって、病気の観念が、今までのように自分を縛ることが
出来なくなったとき中風がケシ飛んでしまったのだった。
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7916166
<感謝合掌 令和3年12月28日 頓首再拝>
《感謝と調和は一切の病気を癒やす》 - 伝統
2022/01/20 (Thu) 05:02:29
*「眞理」第2巻基礎篇第9章(P257~258)より
多くの病気は家庭の不調和から起るのである。
何よりも大切なのは夫婦の調和と云う事である。
新潟県新津市の小野澤さんは膿胸(化膿性肋膜炎)にかかって、
それが段々重症になり膿胸(のうきょう)が肺臓の方へ穿孔(せんこう)して、
毎日膿(のう)が肺臓から口腔の方へ三合位づつ排泄されるのであった。
身体(からだ)を仰臥(ぎょうが)しても横臥(おうが)しても、
身体(からだ)を水平にしている限り、
肋膜(ろくまく)に溜っている膿が肺臓から気管の方へ間断なく流れ出るので、
咳が激しく出て一睡も出来ないので、
身体(からだ)を傾斜面にもたらせ辛うじて僅(わず)かな睡眠をとっていた。
医者は何回も死の宣告をしたし、
或る日、ラジオ・ドクターの放送をきいていると、
膿胸が肺臓の方へ穿孔したのは絶対に治らないと云っていた。
小野澤さんはもう死を覚悟したが、
その時、絶対に妻に感謝し決して腹立てまいと決心して
ひたすらそれを実行したのである。
私が長岡市から新発田市へ行く途中、新津に立ち寄ると
小野澤さんは私を出迎えてこんな話をせられたのである。
絶対に医学では治らない先孔性膿胸が、
妻に絶対感謝を実行することによって治ったのである。
小野澤さんの信仰の深さと、絶対感謝の実践とには頭が下がるのである。
甲府市で昨年十月講習があったときには、
山梨県北巨摩郡小笠原村の三澤梅子さん(26歳)が親を恨んでいた
その精神葛藤から自分の肺結核が起こったと云うことを悟り、
絶対に父母に感謝することを実践した結果、
それが完全に治った体験を発表された。
尊いことである。
父母に絶対感謝し、夫婦が完全に調和したとき
膿胸や結核が治ると云う事実は、
物質医学で治らない難症にかかっている人たちにとっての
福音だと云うことが出来るのである。
医学で治らないで悩んでいる人々は一応自分の心持を反省して見て、
あらゆる人に絶対感謝し、周囲の一切のものに一日じゅう
「ありがとうございます」と感謝することを実践して見ることである。
其処から思いがけない奇蹟的な治癒を見ることがあるのである。
<感謝合掌 令和4年1月20日 頓首再拝>
心明るきところに、病はない - 伝統
2022/01/29 (Sat) 05:02:09
*「光明道中記」(1月29日《心朗かなる日》)より
【病気は自己を顧る好機会だ。顧みて迷を去るものは幸いなるかな。
(『生命の實相』第五巻)】
心朗かなれば病はない。
他を憎まなければ病はない。
悲しまなければ病はない。
物思いに沈むことなければ病はない。
怒ることなければ病はない。
気づつないこと、見栄を飾ることなければ病はない。
不平に思うことなければ病はない。
呟くことなければ病はない。
ひとから同情して貰おうと思うことなければ病はない。
病気になって都合よしと思うことなければ病はない。
家に争いなければ病はない。
仕事を嫌うことなければ病はない。
隠す心なければ病はない。
羨(うらや)ましく妬(ねた)ましく思うことなければ病はない。
心暗ければ病生ず。陰気が強くなるはすべての悪の中の悪である。
心明るき悪人は、心暗き善人に打ち勝つものである。
心暗ければ本当に善の資格はないのである。
人を愛すれば病はない。
すべての事物を愛すれば病はない。
愛するとは深切丁寧に心掛けることであって、
執着してその人または事物に巻き込まれて心が顛倒することではない。
心顛倒するは智慧が欠けているのである。
智慧欠けるは深切丁寧が欠けているのである。
<感謝合掌 令和4年1月29日 頓首再拝>
すべてを受ける心になったとき病気は治り易い - 伝統
2022/02/15 (Tue) 04:32:27
*「光明道中記」(2月15日《卑怯を捨てる日》)より
【自己弁護したい心は卑怯なる潜在意識の作用であって、
多くの人を病気にしている。 (『生命の實相』第四巻)】
同情を求めたい心は病気を招き、不幸を招び寄せる。
みずからを弁護したい心は弱者の心である。
それは既に弱き心であるが故に肉体も傷つき、病気に罹る。
それは既に病気の心であるが故に、
そんな心の持ち主が病気に罹り易いのは当然である。
すべてを受けると云う心の中には、
すべてに対抗するだけの強い自覚がある。
すべてを受ける心になったとき病気が治り易いのは、
すべてを受ける心は既に強い心であるからである。
「お前がこんなことをしたからこんな結果になった」とは、
家庭でも会社でもよくあり勝(がち)な争いの原因である。
そんなに罪を押しつけられたら、進んで罪を引き受けようと思っていてすらも
反抗的に「私にそんな責任はありません」と言いたくなる。
彼が「失敗(しま)った」と思っているとき、
尚追求するのは武士の情(なさけ)を知らぬものである。
彼が「失敗(しま)った」と思って悔恨の情にかられているとき、
「君が悪いのではない、私が悪いのだ」と他から言われたならば、
その人は何ぼう感激して善に復帰するだろう。
<感謝合掌 令和4年2月15日 頓首再拝>
治病霊力の根源 - 伝統
2022/02/20 (Sun) 04:23:11
*「真理」第9巻生活篇(P140~141)より
他人を祝福しましょう、あなたは他より祝福されます。
私達は時々他の人が自分に冷淡であったり、利己主義であったり、
過ちを起こしたりするのを見て、腹が立ったり、嫌気がさしたりして
祝福することを忘れがちです。
そのために私達は神から放送される祝福の霊を受けえない心の波長になるのです。
神は我が家の「戸の外に立ちて」祝福の扉を叩き給えども、
自分自体がその絶縁体で扉を閉ざしてしまうのです。
祝福するとは、讃美し感謝し、相手の幸福を祈ることです。
キリストの治病伝道の歴史を見ますと、
彼は先ず神を讃美し、つぎに感謝しそしてその人の幸福を祈っているのです。
この3つを忘れてはなりません。
「自分の霊力で病気を治す」などと考えてはなりません。
イエスの驚くべき治病力は
「われ自らにては為し得ず、天の父われに在して御業をなさしめ給う。」と
神を讃美している処に根源があるのです。
<感謝合掌 令和4年2月20日 頓首再拝>
病気は誤てる想念の影である - 伝統
2022/02/25 (Fri) 03:59:50
*「信仰の科学」(P258)より
Web:『生命の実相』の探求(2017年12月23日)
“病気を治療する”ことは、“病気を実在するもの”とみなして
それを攻撃することなのである。
物質医学とか自然療法等、それらの治療法は“病気”の「治療」を行い、
“病気”を「治す」と主張するのである。
生長の家やメンタル・サイエンスの真理の運動は
“病気の治療”は行わないが、
病気は“無い”のであり、それは心の影であり、幻想であり、
五官の感覚に示されたところの虚偽の外見なのであると、主張するのである。
これは心の哲学の中でも最も微妙なる論点の一つで、
その把握は容易ではないとされている。
しかし一度、これが理解されると、その時には又その時にのみ、
癒す力は完全に実現することになるのである。
この心の哲学は、
「色々の病気とか肉体構造の病的変化、
それに病気が肉体に現われた色々の相(すがた)等が、
悉くその原因は何であるかということを象徴的にはっきりと示すのである」
と説くのであるから、
つまり病気は誤てる想念の影であると説くのであるから、
全ての病いの治癒を全く簡素化することになるのである。
http://blog.livedoor.jp/marutakaeiji/archives/2017-12.html
<感謝合掌 令和4年2月25日 頓首再拝>
人の病気を治すには - 伝統
2022/03/07 (Mon) 03:49:14
*「光明法語」(3月7日)より
人の病いを心で治そうと思ったならば、その病気を見てはならないのである。
此処に治療を要する病人があるなどと思ってはならないのである。
観たとおりに現れるのが心の法則であるから、吾々が心で彼を病めりと観るならば、
彼は依然として病の状態でつづくであろう。
病気の存在を信ぜず、又見ざるところの人のみが病気を消滅することが出来るのである。
此処にも神のつくらない病気などは存在しないのであり、
そんな病気に罹っている人も存在しないのであると見なければならぬ。
<感謝合掌 令和4年3月7日 頓首再拝>
人間が疲れないためには - 伝統
2022/03/18 (Fri) 08:01:26
*「光明法語」(3月18日)より
自己催眠、自己暗示で自分を疲労せしめて自分を病気にするのは愚かな事である。
疲れたと思ったときには、しばらく眼を瞑(と)じ、
「神は無限力であり、自分は神の子である。
今神の無限力が滾々(こんこん)と流れ入って、自分は無限の精力を回復しつつある」
と数回念ずれば、その疲労は須臾(しばらく)のうちに回復するものである。
また仕事をする場合、自分の力で仕事をすると思わないで、
「神が自分を通して仕事をしたまうのであるから決して疲れることはない」と
数回念じてから仕事をすれば疲れない。
<感謝合掌 令和4年3月18日 頓首再拝>
生命の純粋波動を現せ - 伝統
2022/03/19 (Sat) 08:07:28
*「光明法語」(3月19日)より
肉体は念波の振動が物質化して姿をあらわしたものである。
その姿の奥に生命の純粋波動があるのである。
生命の純粋波動のみがあらわれたら健康になるほかはないのであるが
その表面に自己の空想的な念波及び、他より波及されたる不健全な念波が、
満月の上にかかった雲のように蔽って、其処に不健全な姿をあらわすのである。
生命の純粋波動の世界には病気もなければ、疲労もない。
自己の空想的念波と云うのは、
本来あり得ない不完全な姿を空想した念波であるから斯く称するのである。
<感謝合掌 令和4年3月19日 頓首再拝>
人間を物質だと思うな - 伝統
2022/03/21 (Mon) 07:07:43
*「光明法語」(3月21日)より
人間を物質だと思っている
―― その信念の程度に随って人間は物質の法則に支配され易くなり、
物質と同様に疲労と老衰と病気とに曝(さら)されるのである。
物質は大生命より発した波動のうちで最も粗雑低級な波動であるから、
霊の無限、無消耗性をあらわすことは出来ないのである。
人間を物質だと観ずる念波は、
自分の生命にこの無雑低級な消耗性を引寄せることになるから、
自分自身を消耗性の姿をあらわすことになり、
それだけ自分自身を不健康にあらわすことになるのである。
<感謝合掌 令和4年3月21日 頓首再拝>
すべてに感謝し、今病気なしと信じて報恩のために起て。 - 伝統
2022/04/10 (Sun) 07:44:50
*『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月10日)」より
ある人からどうしたら自分の病気が治るかという質問が来た。
こんな手紙が毎日自分の机の上に何十通と送られてくる。
わたしはその人にこう書いた。
この返事はすべての病人にあてはまるわけではないが、
また多くの病人にとって参考になるかもしれない。
「あなたは焦っていますね。早く治ろうと思っていますね。
そんなにいらいらしていては病気は治るものではありません。
そのいらいらする心そのものが病気なのですよ。
あなたは家族との間に心の摺れ合いがありますね。
そんなに摺れ合いがあっては治るものではありません。
そんなに摺れ合ってはいないとあなたは抗弁なさいますか。
撲り合いはなさらないでしょう。
しかし、本当に満足していますか。
このままでありがたい、十分尽くしていただいていると思って
家族に感謝していられますか。
そうではないでしょう。
『もう少しここをどうかしてほしい』と思っていられませんか。
『ほしい』の心は不平の心です。また、同情を求める心です。
そんな心そのものが病気なのです。
病気は肉体にあるのではありません。
その心にあるのです。
右手が動かなかったら、動く左手を与えられていることを感謝するのですよ。
ありとあらゆるものを感謝の心にかえてしまうのですよ。
そしてあとに、これだけ感謝の心を起こしているのにまだ治らぬか?
とおっしゃるのですか。
やっぱり終点が不平の心に到着するようでは、心の生まれ更わりができていませぬ。
不平行きの汽車に乗っているかぎりは、感謝の終点には到着しませぬ。
それでは途中の駅々での感謝の心は皆ニセ物だったということになりますよ。
すべてを感謝の心に更えて、さて今病気なしと信じて報恩のために起て。
もう病気はないのである。」
<感謝合掌 令和4年4月10日 頓首再拝>
メタフィジカル・ヒーリング(超物質的治癒) - 伝統
2022/04/25 (Mon) 09:59:30
*『神癒への道』(P57)より
「人間完全円満」という事は、
人間の本性それ自身(即ち生命の實相)の中に宿っている真理であり、
同時にそれは神自らの創造の原理として宇宙に充満している真理なのであります。
この宇宙に充満する「人間完全円満」の真理が、
人間の本性それ自身の中に宿る「人間完全円満」の真理を呼び出せば
自然に病気は治るのであるが、
その神の真理が、人間の真理を呼び出す触媒のような、
アンテナのような働きをするのが、
「人間完全円満」を表現する言葉であったり、文字であったり、説教であったり、
書物であったりするのであります。
それは人間内部にやどる超越的内在神のはたらきによって治るのであるから、
これを超物質的治癒(メタフィジカル・ヒーリング)というのであります。
<感謝合掌 令和4年4月25日 頓首再拝>
虫のよさ(利己主義者)が病気のもと - 伝統
2022/05/04 (Wed) 07:45:42
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月4日)」より
「虫のよい」という言葉がある。
自分だけのことばかり考えて、
人のことを考えない利己主義者の別名である。
病気を治してほしいなどと訴えてくる人にこういう虫のよい人が多い。
利己主義者は全体生命と隔離されているから、
全体生命(大生命)が流れ込んで来ない。
それが病気のもとなのである。
虫のよさはまた不平の本である。
虫のよさが治ったら病気の三分の一くらいは治るだろう。
「あなたは利己主義だ」と言われて
ハッと気がついて神経衰弱の治った人がある。
<感謝合掌 令和4年5月4日 頓首再拝>
雰囲気が病気を癒す - 伝統
2022/05/12 (Thu) 07:22:02
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月12日)」より
病気の治るまでに、病気の雰囲気を去ることが必要である。
雰囲気が病気を造り、雰囲気が病気を癒す。
幸運の来るまでに幸運の雰囲気を作ることが必要である。
部屋を浄(きよ)め、窓を開き、ガラスを拭き、門前を浄め、
よきお客様が来るような気持ちでせっせと働いておれば、幸運はたずねて来るのである。
不運な人にかぎって、
ルンペンしか泊まってくれないような見苦しい雰囲気をその身辺に作っている。
「床を取り上げて起きよ、しかして、汝の周囲を浄めよ。」
<感謝合掌 令和4年5月12日 頓首再拝>