伝統板・第二

2535238
本掲示板の目的に従い、法令順守、せっかく掲示板社の利用規約及び社会倫理の厳守をお願いします。
なお、当掲示板の管理人は、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経以外については、
どの著作物について権利者が誰であるかを承知しておりません。

「著作物に係る権利」または「その他の正当な権利」を侵害されたとする方は、自らの所属、役職、氏名、連絡方法を明記のうえ、
自らが正当な権利者であることを証明するもの(確定判決書又は文化庁の著作権登録謄本等)のPDFファイルを添付して、
当掲示板への書き込みにより、管理人にお申し出ください。プロバイダ責任制限法に基づき、適正に対処します。

神は愛なり⑦ - 伝統

2021/04/12 (Mon) 03:28:54

《自分は愛を放射する》

      *『 生長の家 』( 昭和25年4月12日の法語)より

   神は自分に於いて最高に自己顕現し給うのである。

   神は愛である。
   自分は神が放射し出す愛の中心点であるのである。

   光の射(さ)す所が明るくなる様に、
   吾の行く所は 又 愛にみたされるのである。

   自分は愛を放射するが故に
   吾が周囲には 愛が自(おのず)から集って来るのである。

   吾は 神の愛が出現する為の出口であるのである。

   されば今日より後、私は決して人を憎まないのである。
   人をさばかないのである。

   唯 人を愛することのみを行ずるのである。
   人の幸福になるようにのみ実践するのである。

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13798311.html (消滅)

・・・

<関連Web>

(1)伝統板・第二「神は愛なり①」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6704251

(2)伝統板・第二「神は愛なり②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7079818

(3)伝統板・第二「神は愛なり③」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7691841

(4)伝統板・第二「神は愛なり④」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7817467

(5)伝統板・第二「神は愛なり⑤」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7907586

(6)伝統板・第二「神は愛なり⑥」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7996672

            <感謝合掌 令和3年4月12日 頓首再拝>

《神の愛は放つ愛である》 - 伝統

2021/04/20 (Tue) 04:54:33


        *「光明法語」(4月20日)より

神の愛は《そのまま》である。
人間に完全なる自由を与えたまうているのである。
決して善へとのみ強制し給わないのである。

愛とは相手を自由に解放することである。
解放が愛である。

愛は朝顔に朝顔の花を開かしめ、牡丹には牡丹の花を開かしめ、
薔薇には薔薇の花を開かしめる。
それ自身の本性をのびのび解放するのである。

相手を自分につなぎとめて置くのは飼犬を鎖で縛りつけ、
愛鳥を籠の中に入れて置く愛である。

愛は相手の生命を自由に解放して、その生命の本然のところに行かしめるのである。

            <感謝合掌 令和3年4月20日 頓首再拝>

《愛は神の癒す力を喚起する》 - 伝統

2021/04/21 (Wed) 03:36:56


         *『 生長の家 』(昭和26年4月21日の法語)より

   愛は癒す絶大なる力をもっている。
   その反対に憎みは絶大なる破壊力を有しているのである。

   多くの人達の病気は何時(いつ)の日にか誰かに対して
   憎しみの感情を起して、それを赦していず、
   その念が鬱結(うっけつ)しているために起っているのである。

   先ずすべての憎んでいた人々を思い起して、心の中でその人を赦すべし。

   その人々を憎んだことを詫(わ)び、その人たちを祝福せよ。

   多くの病気は人を愛することによって癒されているのである。

   「 愛 」 は神であるから、 「 愛念 」 を起すことは、
   神の癒す力を揮(ふる)い起すことと同じ効果があるのである。

   人のみならず、仕事を愛することも亦、病いを癒す力がある。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12231413.html (消滅)

            <感謝合掌 令和3年4月21日 頓首再拝>

《愛は現象を見ないで実相を見る》 - 伝統

2021/04/24 (Sat) 04:55:10


         *『 生長の家 』(昭和25年2月3日の法語)より

   愛とは 感情ではない 行為である ― とニイルはいったのであるが、
   愛は 相手に宿る神性の凝視であり、相手に宿る仏性の礼拝である。

   感情でどうにもできないものを 智慧では愛することができるのである。
   
   彼の現象を見ず、実相を見て 彼のために奉仕するのである。

   光明皇后が、癩病(らいびょう)患者の膿血(のうけつ)を
   吸い給(たま)い、

   聖フランシスが癩病患者を抱擁し、
   接吻(せっぷん)したことの如きはそれである。

   光明皇后と雖(いえど)も、聖フランシスと雖も、
   不潔な癩病患者を感情で 「 好きだ 」 と
   思うわけには行かないのである。


   愛は 「 好き 」 を超えて 智慧の目で
   相手の実相を見て愛するのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58

            <感謝合掌 令和3年4月24日 頓首再拝>

《われは神の愛を実践する》 - 伝統

2021/04/29 (Thu) 04:19:40


        *『 生長の家 』(昭和25年4月29日の法語)より

   吾は 今 すべての人の罪を赦したのである。
   すべての人をさばく心を捨て、赦す心にみたされているのである。

   神の愛が私の心を占領したのである。
   吾は 無条件に吾が全心身を明け渡して 神の愛に占領せしめたのである。
   吾は 決して神の愛にそむくような 如何なることをも行わないのである。

   吾は 人を憎まない。吾は 人と争わない。

   吾は 唯 幸福のみを見、光のみを見、美点のみを見、繁栄のみを見、
   すべての人に感謝し、すべての人を祝福するのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13861952.html (消滅)

            <感謝合掌 令和3年4月29日 頓首再拝>

《愛深き峻厳が魂の進化せる特徴である》 - 伝統

2021/05/02 (Sun) 04:54:24


        *「光明法語」(5月2日)より  

「汝の如く汝の隣人を愛せよ」とは
自分の実相を完全なる神の子であると信ずる如く、
汝の隣人をも完全なる神の子であると信じて敬することである。

敬のない惑溺(わくでき)は真の愛ではなくて肉欲の変形であったり、
自己憐憫の投影であったりするのである。

自己の苦痛を恐れる者のみが、他(ひと)の苦痛に同情するのである。
だから同情は、自己不完全の投影ですらある。

真の魂の生長せる者の特長は「愛深き峻厳」である。
愛深くして相手の実相の完全さを知るが故に猥(みだ)りに甘やかさず
峻厳であるのである。

            <感謝合掌 令和3年5月2日 頓首再拝>

《神愛(しんあい)能(よ)く癒す》 - 伝統

2021/05/11 (Tue) 04:56:23


        *『 生長の家 』(昭和26年2月16日の法語)より

   「 生命の實相 」 を読んで、その示す通り実修していても
   病気を治す力が多い人と少い人とがある。

   それは一つには其の人の 「 愛 」 の分量の多い少いによる。

   二つには場所の雰囲気如何によるのである。


   「 生命の實 」 の中には 「 愛は癒す 」 と書かれてある。

   生長の家の飛田給本部にも玄関を入ると
    「 神は愛也(なり)」 と書かれており、
   その裏面には 「 神愛能癒(よくいやす)」 と書かれている。

   そして多くの精神的な疾患や、肉体的疾患が
   ただ十日間の練成だけで癒されているのである。

   それは飛田給本部の全体が 「 神愛 」 の表現であるからである。

   人が多勢集って毎日神想観する場所には
   愛と霊光とが立ち騰(のぼ)って
   霊眼で見れば紫雲の雰囲気が漂うているのである。

      ( 「 生長する青年 」 所載 「 百万人のための哲学 」 参照 )

    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/7bb21f7a3fc19df5169f21f79f67e0b9

            <感謝合掌 令和3年5月11日 頓首再拝>

今、既に神の愛に包まれている - 伝統

2021/05/21 (Fri) 04:46:12


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月21日)」より

幸福であるためには「愛」の心を持たなければならない。
「愛」の心を持つとき、そこがすなわち天国である。

万象は神の愛の顕れだと見ることができる。

太陽はわれわれを温めてくれるし、
水はわれわれの渇きを医(い)やしてくれるのである。

植物はわれわれに衣食住を与えてくれる。

われらの眼、耳、鼻、口、皮膚、手、足、内臓
―― そしてあらゆるものことごとく神の愛である。

空気はわれわれを取り巻いて生かしてくれる。
ああ空気 ―― ありがとう。
ああ太陽 ―― ありがとう。

ああ眼、耳、鼻、口、皮膚、手、足ありがとう。

そのうちのどれかがまだ不完全であっても、それはただの小部分にすぎないのだ。

われわれは神の愛に包まれているではないか。
数えきれない神の愛の中につつまれていながら、ただ一つ二つの不足について
不平を言うような心は功徳を得る心ではない。

まず感謝しなければならない。
また、そんなにも愛に包まれていることを思えば、
まずわれらはすべての物に愛を注がねばならない。

愛するということは幸福の初めである。

           <感謝合掌 令和3年5月21日 頓首再拝>

《先ず神を愛せよ》 - 伝統

2021/05/23 (Sun) 04:59:58


     *「眞理」第2巻基礎篇第14章(P380~381)より

神を愛する者には、凡(すべ)てのものが協力して
其の人を押し上げるように働くものです。
これは間違いない真理である。

何故ならば神は全ての全てであるから、神に対する愛は、
全ての事物を通して自分に対して反響(こだま)し返って来るのである。

イエスは

「先ず神の国と神の義(ただしき)とを求めよ。
 その余のものは汝らに加えらるべし」

と教えたのも其の意味である。

神を出し抜いて、抜けがけの利を得ようと思っても、
そんな事は成就する筈はないのである。

あなたが、係争中の相手があなたに対して
もっと公平な判断をして欲しいと思うならば、
貴方も亦、相手に対して公平な判断をし、友情を持たねばならぬ。

友情を与える者のみが友情を得ることが能(でき)るのである。

           <感謝合掌 令和3年5月23日 頓首再拝>

《愛の神を凝視せよ》 - 伝統

2021/05/26 (Wed) 04:38:39


        *「光明法語」(5月26日)より

神に対面するのみの時間を一日一回は作れ。
然して真に汝の欲するものを神に告げよ。

先ず静坐して心を鎮めよ。

神が其処に立ち給うて、愛深き眼光をもって汝を見詰め給うと想像せよ。
その眼光より神の無限の「愛」が汝に流れ入りて、汝の中に満ち、
且つ汝を取り巻いていると観ぜよ。

「われ神の愛を注がれ、神の愛に包まれ、神の愛に浄められて、
わが過ちて人を憎み憤りたりしすべての罪がきよめられて、いと清浄になりたり」
と観ぜよ。

「神のわれを赦したまいし如く吾もすべての人を赦したり」と観ぜよ。

           <感謝合掌 令和3年5月26日 頓首再拝>

神の愛が循環する宇宙 諸法無我 - 伝統

2021/06/01 (Tue) 02:38:04


         *Web:宇宙の兄弟たちへ(2021年4月30日)より

全宇宙の実相は、神様の愛が循環している姿そのものです。

愛のエネルギーが宇宙を形作り、循環していくことで
時間と空間を生み出し、世界を作り出しています。

仏教には諸法無我(しょほうむが、巴: sabbe dhammā anattā)
という難しい言葉があります。

諸法無我というのは全てのもの、あらゆる存在は、
因縁によって生じたものであって、それ自体の実体性、
それ自体で存在する自性性がないという意味です。

存在するものは、さまざまな縁によって成り立っていて、
それ自体単独では存在できないのです。

それゆえにあらゆる存在(諸法)は、
我というものは本来無い(無我)ということです。

”私”という存在も有るようでありながら、
神の愛が流れていく通過点のようなものに過ぎません。

まるで川の水のように、
たえず神の愛が流れ続ける事で存在しているように見えます。

川ももし、水が流れなくなったら、それは川とは言えなくなるでしょう。
上流から流れてくる水流があってこそ、川は存在を表します。

この川を形作る水こそが、神の愛であり、
遥か彼方の上流である高次元世界から流れおりて、
私たちという通過点を通ってまた世界に循環します。

もしもこの水を自分のものだと思って、
川が流れを止めたらどうなるでしょうか?

水が滞り、腐ってしまうでしょう。

人間もわれがという我が出てくる事で、
神の愛の水の流れを妨げ、自分の身のものとしようとします。

そこに滞りが生じ、腐敗を生みだしてしまいます。

神の愛はすべてを生かし育むものであり、
誰か一人のものでも、独占するものでもありません。

わたしたちは神様から受け取った愛を
握りしめて手放さないようにするのではなく、
周りへと循環しなくてはなりません。

循環するゆえに、愛の水は清らかに流れ、
腐敗することなく人々の咽喉を潤すのです。

https://www.spacebrothers.jp/2021/04/blog-post_30.html

            <感謝合掌 令和3年6月1日 頓首再拝>

神を愛せよ - 伝統

2021/06/06 (Sun) 04:24:53


    *『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月6日)より

パウロは次のように言っている。
「神を愛する者、すなわち御旨(みむね)によりて召されたる者の為には、
 凡てのこと相働きて益となるを我らは知る」(「ロマ書」八章二八)。

先ず神を愛しなければならないのである。
愛するとは自他一体になると云う事である。
一つになることである。

それが同時に「御旨(みむね)によって召されたる者」である。
「御旨(みむね)によりて召されたる者」とは
決して特定の選ばれたる宗教的貴族階級のことではない。

「神のみ旨われに宿る」と自覚することである。

            <感謝合掌 令和3年6月6日 頓首再拝>

神の愛の力のほかに何物もない - 伝統

2021/06/18 (Fri) 04:44:38


       *「光明道中記」(6月18日《心に炬火(たいまつ)を点ずる日》)より

【「敵は本来ないものだ」と判って初めて凡てと和解出来る。
                     (『生命の實相』第十三巻)】

「神は全ての渾(すべ)て」と繰返し心に唱えて、自分の周囲、心の眼を以って
自分の座せる座敷の隅々(すみずみ)隅々(くまぐま)を順次見詰めつつ、
「自分の坐っている座敷の隅々、隅々、神は充満している」と観ぜよ。

「神のみが渾てであり、その他に何物もなし」と観ぜよ。
ついで「神は愛であり、神の愛は一切所に充つる」と観ぜよ。

「愛は育てる力であり、育てる力が一切所に充ち、
 自分も自分の家族も悉くその愛に育てられている」と観ぜよ。

「愛は調和の智慧であり、一切所に調和の智慧充つる」と観ぜよ。

如何なる他の力も、神の愛の力の前には存在しないのである。
愛のみが実在であり、育てる力のみが実在であり、調和の智慧のみが実在である。

この神の愛の力を吾々が認めるとき一切の悪しく見える力は
影を消して了(しま)うのである。

周囲が抗(さか)らい立ちて、一切の事物が暗黒に見えるとも
その暗黒が実在するのではないのである。
それは仮の相(すがた)である。

高く高く実相の炬火(たいまつ)を捧げよ。

神の愛の力のほかに何物もないこと、
神の愛が自分の周囲に充満していて自分を護って下さること
 ―― 此の実相を観る神想観の前には不幸の暗は消えるほかはない。

            <感謝合掌 令和3年6月18日 頓首再拝>

神を愛するには - 伝統

2021/06/19 (Sat) 05:00:48


        *『生命の實相』第13巻倫理篇上(P69~70)より

神を愛するには、神と、神より出でたるものすべてを愛さなければならない。

それで、『マタイ伝』第二十二章にもイエスの言葉としてこう書いてあります。

「一人の教法師、イエスを試むるために問う
 『師よ、律法のうち、いずれの誡めが大なるか』

 イエス言い給う
 『なんじ心を尽し、精神を尽し、思いを尽して主なるなんじの神を愛すべし。
  これ大にして第一の誡めなり、第二もまたこれにひとし、おのれの如く、
  なんじの隣を愛すべし。律法全体と予言者とは此の二つの誡めに拠るなり。』」
   (『マタイ伝』第二十二章35-40節)

パウロもまた『ロマ書』の中で、

「汝等互いに愛を負うのほか何をも人に負うな。
 人を愛する者は律法(おきて)を全うするなり。
 それ『姦淫する勿れ、殺すなかれ、盗むなかれ、貪(むさぼ)るなかれ』
 と云える、

 この他(ほか)なお誡命(いましめ)ありとも『おのれの如く隣を愛すべし』
 と云う言葉の中にみな籠(こも)るなり。」(『ロマ書』第十三章8-9節)

「兄弟よ、汝らの召されたるは自由を与えられんためなり。
 ただ其の自由を肉に従う機会となさず、
 反(かえ)って愛をもて互いに事(つか)えよ。

 それ律法(おきて)の全体は『おのれの如く、なんじの隣を愛すべし』
 との一言(げん)にて全うせらるるなり。」(『ガラテヤ書』第五章13-14節)

といっています。

「愛」のうちにこそいっさいの人倫(じんりん)は含まれているのであります。
イエスは、その弟子のパウロに、「おのれのごとく、なんじの隣を愛すべし」
と申しましたが、

「生長の家」では
「自他一体なるがゆえに、なんじの隣を愛すべし」というのであります。

他(た)をおのれのごとく愛するのではまだ足りない。
自己と他(た)とは一体なるがゆえに、自己はすなわち他(た)なるがゆえに
自己を愛するということは、必然他(た)をも同時に愛しなければならない
のであります。

使徒ヨハネは、

「愛する者よ、われら互いに相愛すべし。
 愛は神より出ず、おおよそ愛ある者は、神より生まれ、神を知るなり。
 愛なき者は神を知らず、神は愛なればなり。」
                 (『ヨハネ第一書ふみ』第四章7-8節)

といっているのであります。

            <感謝合掌 令和3年6月19日 頓首再拝>

「神は愛である」とは - 伝統

2021/06/23 (Wed) 04:00:23


        *『生命の實相』第13巻倫理篇上(P70~71)より

「神は愛である」とは、『ヨハネ第一書(だいいちのふみ)』以来
今日にいたるまで、神について下された最も要領を得た定義であります。

では愛とは?

「《おのれのごとく隣人を愛すべし》」

何故(なにゆえ)であるか。

答えて曰く、神はすべての親であるから、《自己と他とは一体であるから》。

その答えは大いによろしい。

自他包容の渾一体
 ―― すなわち《「自他一体」そのもの》が神なのであります。

自他一体を生きるということが神を生きるということ、
神をこの世に顕現するということであります。

自他一体を生きることが神を生きることになるのでありますから、
軽くいえば《自己のごとく》他(た)を愛する。

いっそう切実にいえば《自己そのものとして》他を愛することが、
《神を生きる》ことになるのでありまして、

「神を生きる」すなわち永遠価値の生活を生きることは
「愛」を生きることにほかならないのであります。

            <感謝合掌 令和3年6月23日 頓首再拝>

自分と云う手垢をつけるな - 伝統

2021/06/30 (Wed) 05:04:40


       *「光明法語」(6月30日)より

情欲の奴隷とならない人こそ、真に崇高なる人間だと云うことが出来る。
情欲を「愛」だと考えてはいけない。
情欲は利己主義なるものである。

親の愛と云うものと雖(いえど)も、尚「自分の子」に対する愛として、
「自分の」が附いている限りは真の愛ではない。

「自分の子」と雖も、一たびは神に返して、神の子として愛しなければならぬ。
すべての人類の子と等しく執着なしに愛しなければならない。
如何なる愛も「自分の」と云う形容詞がつくかぎりは手垢のついた愛である。

愛して愛していることすら自覚しない愛が尊いのである。

        <感謝合掌 令和3年6月30日 頓首再拝>

真(まこと)に神的な愛は「放つ愛」である - 伝統

2021/07/07 (Wed) 04:25:53


      *「光明法語」(7月7日)より

釈迦が悟りをひらいた時の状態が『阿含経』で
「諸愛ことごとく解脱し」と書かれているように、
仏教では「愛」を執着とし、煩悩と見るのである。
これは愛着のことである。

真に神的な愛は愛着ではない。
それは放つ愛でなければならない。

自己の自由に彼女を又は彼をしようと云う愛ではなくて、
彼女がまたは彼が、本来の道を行き得るように祈るが如き
愛でなければならない。

かくの如くして始めて彼の愛は、
『涅槃経』に於いて名づけられたる如き『法愛』たるを得るのである。

神は人間を善にさえも強制しない。それは放つ愛である。

        <感謝合掌 令和3年7月7日 頓首再拝>

愛のみ生かす - 伝統

2021/07/15 (Thu) 04:52:08


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月15日)より

愛しなかったならば、戻ってくることは少ない。
時計は回るようにできており、時間を正確に指示するように物理的精密さでできているが、
それでさえわれわれがもし愛しなかったら停まってしまうのである。

そんな馬鹿なことはない、捻子さえ回しておけば時計は物理的に回るのだと
抗弁する人があるかもしれぬ。

では、「だれが捻子を掛けるのであるか?」
人間の愛が、人間の時計に対する「関心」が、捻子を掛けるのであって、
物理的な力のみでは決して、時計に捻子を掛けないのである。

わたしの懐中時計ロンジンは、誌友から贈られたものであるが、講演旅行などで携帯する
時には10日間ぐらい絶対に時間を合わさないでも数秒も指針の誤差はないが、さて旅行から
帰ってくると、本箱の前方に吊り下げられたまま停まっていたり、時間が遅れたりしている。

時計の必要を感じないので、時計をそれほど愛しなくなるからである。
時計を動かすのも愛の力である。

愛のみ生かす。
知的に真理を理解したといっても、それだけでは時計の構造を理解したと同じである。
時計の構造を理解しただけで時計が動かないのと同じく、真理も知的に理解しただけでは
生命(せいめい)を生かす力がないのである。

時計のくわしく構造を知らなくとも、教えられたとおりに素直に信じて竜頭を回せば
時計は動く。それと同じく、真理のくわしい理論は知らなくとも、愛することのできる人は、
そして教えられたとおりに素直に信じて実行する人は、人を生かすことができるのである。

        <感謝合掌 令和3年7月15日 頓首再拝>

まず神を愛せよ - 伝統

2021/07/16 (Fri) 06:36:43


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月16日)より

神を御利益信心の対象にのみする者は神の全貌を知らないものである。
神は父であるから、神は愛であるから、神が智慧であるから、神は生命であるから、
財的な御利益以上の無限供給であるのである。

人間の父でさえもただ物質だけを家族に与えて満足している者ではないのである。
人間の父でさえも「父とは金を供給してくれるだけの道具である」と思っていては、
父の心も気まずくなり、その金さえも供給してくれなくなるであろう。

神は「無限の赦し」であるから、神を御利益信心の対象としてのみ取り扱っていても、
神はわれらを罰し給うことはないであろう。
またその供給を惜しみ給うこともないであろう。

しかし、神と人間との関係は父と子とも関係であるから、神をただ「無限供給の源泉」
として視るものは、神から最も少なくを得るものなのである。

まず神を愛せよ。
父を愛するごとく、母を愛するごとくに神を愛せよ。
しからば神もまた、父のごとく母のごとくわれらを愛し給うであろう。

否すでに愛していてくださるのであるが 
―― われわれが神を愛することを始めるまではそれを拒んでいたのである。
われわれが神を愛しはじめるとき、われわれの心のリズムが初めて「神」の愛を
捕捉(キャッチ)する ――

そこに物質の無限供給にみならず、われらはいっさい万事をキャッチするのだ。

        <感謝合掌 令和3年7月16日 頓首再拝>

《あなたの最善の愛を与えよ》 - 伝統

2021/07/19 (Mon) 03:07:20


        *「眞理」第2巻基礎篇第13章(P359~360)より

貴方の持てる最も善きものを、
世界(人類、国家、社会、隣人、家族等)に対して与えよ。

さらば世界に存在する最も善きものは
貴方に対して与え復(かえ)されて来るのである。

吾々の住んでいる世界はそのような法則の世界なのである。

こちらが神の心を有(も)てば、向うも神の心を持って来る。
こちらが悪魔の心を有(も)てば向うも悪魔の心を持って来る。

吾々の自覚が次第に高まって来て、
自己の内に、そして全ての人々の内に、神が宿り給うことを知るならば、
次第に吾等の会う人々は悉く、神の如き愛と智慧との神々しき人々と
なってしまうのである。

どの位貴方が世界に対して愛を与えているか、
それが解れば、貴方がどの程度世界から愛されているかを
判断することができるであろう。

        <感謝合掌 令和3年7月19日 頓首再拝>

《何を貴方は自分自身に引寄せるか》 - 伝統

2021/07/20 (Tue) 02:44:34


       *「眞理」第2巻基礎篇第13章(P360~361)より

貴方は何を思うにしても、
その想念(おもい)と云うものは一種の波動であって、
貴方から諸方に向って放送されているのである。

その想念(おもい)の光量子は、それと類似の波長のものを、
その波動に載せて復(かえ)って来るのである。

だから貴方が何を思うかは、
直接、貴方の運命や境遇や健康に対して
何を持ち来(きた)すかと云うことを決定する。

若し貴方がすべての事物に「愛」の念波を送るならば、
貴方に「愛」は帰って来るのである。

「愛」は宇宙生命(うちゅうせいめい)の生々化育の波長であるから、
貴方の肉体の上に健康の効果を齎(もたら)し、
貴方の事業の上に成功の効果を齎(もたら)す。

顧客を、唯(ただ)の金(かね)を儲ける為の相手だなどと考えないで、
愛念を送る為の神の子の兄弟だと考えて、
常に愛念を送って深切丁寧に行為するならば、
顧客は貴方を愛して一層多く集まって来るのである。

        <感謝合掌 令和3年7月20日 頓首再拝>

行き届いた「愛」を - 伝統

2021/07/21 (Wed) 04:53:21


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月21日)より

失敗が起こるごとに反省せしめられることは、わたしはまだどこかの点において
「愛」が足りなかったということである。

偏った「愛」はザラにあるけれども、行き届いた「愛」はめったにないのである。

         <感謝合掌 令和3年7月21日 頓首再拝>

愛は、神の”み心”の実践的完成である - 伝統

2021/07/23 (Fri) 03:54:32


        *「眞理」第2巻基礎篇第13章(P361~362)より
         ~《人を悪く語ってはならない》

憎み、怒り、反撃、抵抗……等の感情は
神の愛の念波と波長が合わぬがゆえに、
宇宙の創造的、積極的、建設的な創化作用を
自分の生命(せいめい)の内に吸収することが出来ない。

従ってそれは自己に対して破壊的に働くのです。
これを自己破壊又は自己毀損(きそん)の感情と謂う。

これに反して、愛は、神のみ心の実践的完成である。
愛のあるところ創造的、建設的、積極的な発展を見る。

悪意、嫉妬、羨(うらや)み、嘲(あざけ)り、悪(わる)き噂話などは、
自己より悪念波を放送し、同種類のものを引き寄せて来、
ついには自己の健康と自己の運命とを危殆(きたい)ならしめるに到るのである。

愛のみが愛を引き寄せ、善意のみが善意を引き寄せ、
賞(ほ)め言葉のみが賞め言葉を引き寄せるのである。

愛は「生(せい)」の使者(つかい)であり、
憎みは「死」の使者(つかい)である。

         <感謝合掌 令和3年7月23日 頓首再拝>

「愛」は実相、心の調和 - 伝統

2021/08/04 (Wed) 04:27:22


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月4日)より

愛はただの感情ではない。いわんやただの恋情ではない。

「愛」は実相なのである。事物の本質なのである。
歓喜なのである。調和なのである。
光なのである。生命(せいめい)なのである。

愛は激情ではない。激情は調和ではない。
激情はものを毀す。不調和はものを毀す。
不調和に生命はない。

激情のことを「愛」と呼び倣わしてきたがために、どれだけ多くの若い――
いな、相当年をとった ―― 人たちがその激情に身を滅ぼしてきたことだろう。

滅ぼすもののうちに愛はない。
生かすもの、生み出すもののうちにのみ愛があるのである。

愛は心の調和である。

       <感謝合掌 令和3年8月4日 頓首再拝>

《愛とは与え切ることである》 - 伝統

2021/08/12 (Thu) 05:06:18


       *「眞理」第2巻基礎篇第13章(P352~353)より

神はすべてを吾等に与え給うている。

キリスト教譬喩(ひゆ)を以(も)って云えば、
神はその独(ひと)り子を吾等に与え給うほど
吾等を愛し給うているのである。

愛とは「自己」を与えることである。

良人を愛するとは、良人に自己を与える事である。
妻を愛するとは妻に自己を与える事である。
人類を愛するとは人類に自己を与える事である。

自己を与えないでいて、自分の楽しさを満足さすために
「私は彼女を愛する」などと云うことは結局、
自他を欺(あざむ)くに過ぎないのである。

愛は相手に自分を与える
 ―― それだけで終わるならば、
清浄無礙(しょうじょうむげ)である。

しかし愛は円環である。

自分が相手に与える代わりに、相手から与えられたいのである。
それでないと愛の円環が完成しない。

ここに葛藤が起こり、悩みが起こる。

       <感謝合掌 令和3年8月12日 頓首再拝>

《幼児期に愛を拒絶してはならぬ》 - 伝統

2021/08/14 (Sat) 04:54:05


       *「眞理」第2巻基礎篇第13章(P353~354)より

与えるばかりで、自己に求めない愛は
清浄(しょうじょう)なるかな。
それは神の愛である。

家庭の葛藤でも、社会の葛藤でも、
求めた愛が充(み)たされないところから起るのである。

だから愛は渇愛とも執愛とも呼ばれ、
時として煩悩の中に入れられるのである。

しかし報い求めぬ聖者の愛に達するのは
地上の人間には容易なことではないのである。

多くの犯罪人や、病的神経症状は、幼年期又は少年少女期に、
愛されたい願いが、その父母又は保護者から
満足せしめられなかったことから起っているのである。

彼らは自分の愛情の求めを或る機会に拒(こば)まれて
其の結果自己が孤立していることを感じ、
自己の求めを満たすには、「愛する」ことによってではなく、
侵略し、戦い取るほかに道なきを感ずるに到ったのである。

       <感謝合掌 令和3年8月14日 頓首再拝>

《愛の円環が完成せねば自己破壊が行われる》 - 伝統

2021/08/15 (Sun) 04:54:15


     *「眞理」第2巻基礎篇第13章(P354~355)より

幼少年期に、愛を求めて愛を得られなかった人物が
落ち着く先は二つの道にわかれている。

自分と他(た)とが相分かれていて孤立している
と云う感じが強いゆえに、性格の弱い型の人物は、
ひどく内向的になって臆病な神経質な世間嫌いな
引っ込み思案の神経病者又は偏屈人となるのである。

性格の強い型の人物は、恐ろしく強情になり、
人の感情を無視し、自己だけ主張すれば、他人はどうでも好い
と云うような侵略的な押しの強い性格となるのである。

吾々が地上に生れた目的は神を此の世と云う画布の上に
自己表現することであったのである。

神は愛であるから、愛を与え、愛を受けると云う二つで一つの
円環が完成しなかったならば、生き甲斐が感じられないのであるから、
其処にその逆作用として自他破壊が行われるのである。

       <感謝合掌 令和3年8月15日 頓首再拝>

「神は愛なり」とは何を意味するか - 伝統

2021/08/17 (Tue) 05:00:58


        *『生命の實相』第13巻倫理篇上(P71~72)より

「神は愛なり」とヨハネは申しました。
有島武郎氏は「惜しみなく愛は奪う」と申しました。

これは愛とは一体を感ずる、
換言すれば「自己そのものとして観る」ということであります。

「神は愛なり」とは、神は万物の本源でありますから、
「神はすべてのものを自己そのもの《として観給う》」
 ―― これが「神は愛なり」という意義であります。

「われはわが子を愛す」といえば、
「われそのもの《として》観る」ということであります。

子を愛する母は、わが子の噛んだものを
口移しに食べても穢いと感じない、
それはわが子をわれそのものとして観るからであります。

「穢い」などという感じ、すべて軽蔑の感じは
自と他と相(あい)疎隔(そかく)した感じによって起こるのであります。

われわれは口中(こうちゅう)に常に若干の唾液を持っている
ものでありますが、その唾液を穢いともいやらしいとも感じたことがない。
それはその唾液を「自己」そのものとして感じているからであります。

いったん唾液を吐き出して《自分と離れた》所に置きますと、
もうその唾液は穢(きたな)くて再び自分の口へ入れる気にはなれますまい。

これは自己と離れているという感覚的印象に従って、
自分と離れた感じ「穢い」という感じを起こさせるのであります。

また、もう一つ例をいえば、われわれは常に自己の腸管内に
多少の糞便を溜めているのでありますが、
それを誰も穢いと思ったものはない、
また糞便があるということを知らんのでもない、
しかし穢いとは思わない、

これは自己の腸管内にあるうちは糞便をも
自己そのものの一部として感じているからであって、
ひとたび体外に排出して、自己と離れた感じを受けるに到れば、
その糞便は「穢い」として感じられてくるのであります。


こういうように、どんなものでも
「自己そのものとして感ずる」ときには穢いとは感じないのであります。

「美とはそこに生命(せいめい)があらわれていることである」と
『智慧の言葉』にありますが、ある種の美術はちょっと見ると
どこが美しいのかわからない、じっと見ていると美しさがわかってくる、

それはその美術に顕われている「生命(せいめい)」を見いだし、
その「生命(せいめい)」を自分の「生命(せいめい)」と
同じものとして感じる、すなわち自他一体の感じを受けるから
「美しい」と感ずるのであります。

だから「美」も「愛」も「生長の家」から観れば同じことでありまして、
自己と同じ生命(せいめい)を見出すとき、
そこに美を感じ愛を感ずるのであります。

       <感謝合掌 令和3年8月17日 頓首再拝>

凡夫の慈悲、浄土の慈悲 - 伝統

2021/08/20 (Fri) 04:29:31


   *「光明道中記」(8月20日《何でも有難く感ぜられる日》)より抜粋

【信心とは仏の心が自分の中に生きることである。(『生命の實相』第十四巻)】


慈悲にも自力の慈悲と浄土門の慈悲とがある。

自力の慈悲では「現象我」の智慧で救おうとするのであるから、
その自力の「可哀相な」「悲しい」「何とかしてやりたい」の
はからいが却って相手の害する事になるかも知れないのである。

肺病の人を救ってやりたい。
「そんなに働いては病が増悪する。もっと安静にしていなさい」
と凡夫のはからい心で深切を尽せば尽す程相手の病人は
恐怖心に駆り立てられて病気が増殖するが如くである。

凡夫の慈悲は始終(はじめおわり)を全うする事が出来ない。

ただ念仏即ち「実相」を念ずる浄土の慈悲によってのみ
久遠の仏性は引き出され、肉体が死ぬにせよ生きるにせよ、
末徹(すえとお)りたる終りを完(まっと)うする慈悲になるを
得るのである。

       <感謝合掌 令和3年8月20日 頓首再拝>

「神を愛する」とは神と一体と感ずること - 伝統

2021/08/21 (Sat) 05:04:25


        *『生命の實相』第13巻倫理篇上(P73~76)より

「神は愛なり」「愛の感じは自他一体の感じである」といたしますと、
愛の反対は自他疎隔の感じであります。

自他疎隔することは、すべてなんに対しても吐き捨てた唾液のように、
「あれは自分自身ではない」という感じを持つことであります。

われわれ「生長の家」家族が
「神と一体である、神の子である、神と同体である」と申しますと、
「人間が神の子であってたまるものか、人間が神と一体であるとは
 不遜なことをいう。神は人間の主であり人間は神の僕しもべにすぎない」
といって、

われわれが「神と一体である」ということを大変謙遜でない
といって攻撃される人がありますが、特にそういう攻撃をされる人が
キリスト信者に多いのでありますが、

キリスト教の開祖はなんといったかといいますと、

「なんじ心を尽し、精神を尽し、思いを尽して主なる汝の神を愛すべし。
 これ大にして第一の誡めなり。」(『マタイ伝』第二十二章37-38節)

といっているのであります。

ここに「主なる」とあるのは、
僕に対する主人というような疎隔した意味でいっているのではなく、
至高者(いとたかきもの)というような意味の形容でなければならない。

だからこれは

「いと高きなんじの神を愛すべし、これ大にして第一の誡めなり」

という意味であります。

では「神を愛する」とはなんであるかと申しますと、
「愛する」とは自己と一体として認めることであるという一般定義に従いますと、
「神を愛する」とは《神と一体であると認める》ことをもって第一とするのであります。

妻を愛するとは妻と一体であると認めること、
子を愛するとは子と一体であると認めること、
隣人を愛するとは隣人と一体であると認めること、

この「一体であると認める」すなわち愛するということが第一であって
いろいろの律法――「殺すなかれ」とか、「盗むなかれ」とか
「姦淫するなかれ」とか、「偽りの誓いを立つるなかれ」とかいう
いろいろの外形的な細目は、

「神と一体であると認める」(すなわち「神を愛する」)という
中心自覚がととのえば自然にととのってくることなのであります。

「われ神と一体である」との中心自覚がととのわねば、
神を愛しようと努力しても本当に神を愛することはできないのであります。

それはちょうど、子を愛しようと努力しても、
「その子は本当に自分の実子である。自分とこの子は一体である」
という自覚ができねば、本当に愛することができないのでありまして、

「この子は継子ままこである、自分の生命はこの子につながってはいない、
 この子の生命と自分の生命とは一体でない」と自覚しているようなことでは、
いかに愛しようと努めても愛することはできるものではない。

それで「神を愛する」ということでも同じことであって、
本当に「神を愛する」ためには、「神とわれとは一体である」との
中心自覚がなければならないのであります。

これを神と人間とを主人と僕婢(ぼくひ)の関係に見立てて、
「神を愛しなければ叱られる、罰せられる」と思って愛しようと努力し、
愛したと同じ行ないを、外に顕わしたにしましても、

それは努力して「愛する外形を真似た」というだけであって、
本当に「神を愛した」ということにならない。

では神を愛するとは、
「自分が神の子である。神の子である神の生命とは一体である」

なお、極言するならば、
「《自分は神そのものである》」との中心自覚がととのってこそ
われらは完全に神を愛しうるのであります。

この中心自覚がととのわないで「神を愛する」などということは、
たとえば「継子を愛する」のと同様、自分と一体でない生命を愛しよう
という《いたずらな努力》の愛になってしまって、
本当に完全に愛することはできないのであります。

だからわれわれの目指すべき中心善はなんであるかといいますと、
イエスの口調を借りていえば、

「なんじら、まず神と一体であることを認めよ、これ大にして第一の誡命なり。
 まずこの中心善を認めよ、すべての善はおのずからなんじに整うべし」

であります。

われらが、「神と一体である」と認めることが決して神を冒涜するゆえんにあらず、
かえって「神と一体である」と認めないことが神を愛しないことになることが
わかったでありましょう。

わたしはこの序論の冒頭に、
「人生の目的とは、要するにこの世に神の生命を顕現することにある。
 神がこの世にあらわれた生活を示現することである」と書きましたが、

われわれがその本来相において「神と一体である」という《事実》を肯定しなければ、
われらはこの世に神の生命を顕現することもできず、
神がこの世にあらわれた生活を示現することもできないのであります。

ただ、神なるもののみ、
神なる生命をこの世に示現することができるのであります。

本来、人が神でないならばいくら努力しても神の生命を
この世に示現することはできない。

そして「神」のみが「善」であるから、
本来、神でない人間がもしありとすれば、
彼はいつまでも善に到達することはできないということになるのであります。

ところが幸いに、人間は本来神の子であり、
その本性において《神そのもの》であるがゆえに、
「本当の人間(リーアル・マン)」が生活されたならば、
そこに「神がこの世にあらわれたことになり、神なる生命がこの世に示現した」
ことになるのであります。

       <感謝合掌 令和3年8月21日 頓首再拝>

リーラ - 伝統

2021/08/22 (Sun) 04:48:36


       *Web:かんながら(2021年02月21日)より

あなたがこの存在の源から、
どれだけ愛されて祝福されているかは、
あなたには決して分かりません。

分かろうとするあなたは、
心の奥で、あるいは表面で自分を否定しているので、
こんな自分が愛されているわけがないと思っているのです。


愛されているもなにも、あなたは存在の源の延長であり、それ自体なのです。

ですから愛されている実感を持つよりも、
自分が「それ」だったことを思い出すのが先になります。

それを思い出したとき、自分が人生で得た愛よりも、
桁違いに大きな愛によっていつも見守られていたことを知ります。


そのとき初めて、愛の何たるかを知るのです。


この人生の目的はこうだと言えるものはありません。

無目的にただこうして起きています。


だからと言って無意味ということでもありません。

ただ目的も意味も必要ないだけです。



あなたは限りない愛と喜びの中にいる時、その目的や意味を必要としますか。

ただそのようにあることを受け入れ祝福することでしょう。


これが、人生に意味はないということの意味です。


違う言葉で言えば、人生は遊びだと言えます。

遊びは悪いことのように教えられているので、
遊びという言葉に抵抗する人もいます。

すっかり洗脳されてしまったからです。


でもこの宇宙全体が遊びです。

大昔からインドの人たちはこれを「リーラ」と呼んできました。


あなたこそがリーラです。

いささか深刻になってしまったリーラですが(笑)



遊びとは目的がないこと。

意味を求めていないこと。


目的を持った瞬間、
遊びは遊びではなく、目的達成のための手段になってしまいます。

ここには多くの人の人生が陥っています。


あなたはどうやって遊びますか。


実は、いまもそうやって遊んでいます。

でも当人は遊びだなんて思っていません。

人生は義務であり、乗り越えるべき試練だと思っているのです。



僕はこれからも、あなたを誘い続けます。

こっちだよって。


この遊び場で、お互い自由に創造していきましょう。

創造こそが遊びの真髄です。


このことは死ぬときに分かりますが、
どうせなら生きているうちに分かったほうが楽しくないですか。

自己催眠から自由になって、大空に羽ばたくのです。

   (https://abetoshiro.ti-da.net/e11837533.html

       <感謝合掌 令和3年8月22日 頓首再拝>

《愛があなたを護ってくれる時あなたは新生したのである》 - 伝統

2021/08/23 (Mon) 04:57:24

        *『白鳩』(昭和49年1月28日の箴言)より

   明るい新たな世界が、今此処にあるのである。
   あなたの自覚が深まり行くに従って、信仰は信仰を生み、
   自覚は更に大悟を生み、愛は一層高き愛を生み、
   そこに 〃神の国〃 が現象世界となって展開することになる。

   次の詩を繰返し読んで自覚を深めるとよいのである。


      わが内なる心の眼は光を観る
      而して今や私は愛の法則を知るのである

      わたしが愛の法則をまもるとき
      今度は愛がわたしを護ってくれるのである

      物質がわたしを護ってくれると思っていた時
      常に物質はわたしの魂の進歩を妨げたが

      愛の法則がわたしを護ってくれると悟ったとき
      わたしは 〃新たにうまれた〃 のである


           〈『信仰の科学』に書いた詩に後半を追加した〉


       <感謝合掌 令和3年8月23日 頓首再拝>

神仏の愛と同調するには? - 伝統

2021/08/24 (Tue) 04:46:47


       *Web:宇宙の兄弟たちへ(2021.04.09)より

神仏の思いというものは、あの太陽のようなものだと思います。

太陽は惜しみなく光を降り注ぎ、
地上の生き物たちを生かし、育み、力を与えます。

そのように無償の想いで私たちを生かしてくださるのが、
神仏の愛であり、心でありましょう。

神仏の慈悲によって生かされている私たちだからこそ、
同じように人々に愛を持って接するのが必要なのだと思います。

出会った人々に、勇気を与えたり、やる気や希望をあたえ、
消沈した気持ちを鼓舞してあげることこそ愛です。

相手を縛ったり、自分の思い通りに動かすことをもって愛とは言いません。

それは執着であり、我欲になります。

相手が良くなることを願い、見返りを求めない行為こそ、
太陽のごとき愛であり、神仏の愛と近くなります。

私たちの思いが本当の愛に近づいていくほど、
神仏の思いと同調するようになります。

同調することのよって、神仏の愛は私たち人間を通して、
世の中へと広まっていきます。

それは汲めども尽きぬ井戸水のように、
滔々と湧き出て人々の渇いた喉を潤していきます。

https://www.spacebrothers.jp/2018/03/blog-post_29.html

       <感謝合掌 令和3年8月24日 頓首再拝>

《報い求めぬ愛は尊し》 - 伝統

2021/08/29 (Sun) 04:56:26


         *『 生長の家 』(昭和25年2月18日の法語)より

   すべての愛の行為は 尊く、
   報いを求める行為は 卑しいのである。

   愛は ただ捧(ささ)げようとするのであるから
   尊く清く感じられるのであり、

   報いを求める行為は、その行為が 他から 「 奪おう 」
   ということの手段として行われるのであるから
   卑しく感じられるのである。

   凡(およ)そ よき行為には 自然によき報いが与えられるのである。

   然(しか)しその報いの中には、人から来る報いと
   神から来る報いとがあるのである。

   人から来る報いを予期せる所の愛行は、
   全然無価値ではないけれども、
   神から報いを得る資格には遠いのである。

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58

       <感謝合掌 令和3年8月29日 頓首再拝>

愛は自他一体・神人一体の認識だ - 伝統

2021/09/06 (Mon) 04:49:17


    *「光明法語」(9月6日 そのままが完全円満)より

本来の自然になった時、生命は最も完全に発現する。

愛が若し自由意志による発現でなく、
強制的に機械的に行わしめられるものであるならば、
それは妓楼(ぎろう)の主人に強制されて愛を売る売笑婦のそれになってしまう。

愛は自発的であるのが尊いのだ。

愛は自他一体の認識だ。
個別者同士互いに「愛」の感情が起こるのは個別者は、
互いに別物ではなく本来一体であるからである。

また個別者が神に対して「愛」の感情が起こるのは、
個別者は本来、全体者(神)から発した者だからだ。

           <感謝合掌 令和3年9月6日 頓首再拝>

《神を愛する者は人をも愛する》 - 伝統

2021/09/10 (Fri) 05:06:51


       *「生長の家」(昭和26年7月3日の法語)より

   真の信仰を得るまでは、本当の魂の平安は得られないのである。
   他を真にゆるすまでは 本当の魂の平安は得られないのである。

   吾々がどんなに熱心に祈っても 神想観で黙念しても
   欲することが得られないのは、
   誰かを憎んでいて その人をゆるさないからである。

   神を愛するとは 自己に宿る神性(しんせい)を愛することにほかならない。
   自己に宿る仏性(ぶっしょう)を愛することにほかならない。

   自己に宿る 神性 仏性 を愛するには
   同時に他に宿る 神性 仏性 を愛しなければならない。

   何故(なぜ)なら神は 霊であり、すべての渾(すべ)てであって、
   すべてのものの中に神の霊が宿っているからである。

   汝の隣人を愛さないでいて、神を愛していると云うことは、
   虚言(そらごと)にすぎないのである。
 
   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/440df0246a5efc3ba7f0b10ff42fbd22

           <感謝合掌 令和3年9月10日 頓首再拝>

《愛は失敗することはない》 - 伝統

2021/09/18 (Sat) 04:59:10


        *『幸福を招く365章』第3項(P60~61) より

神と偕に生くると云うことは、神は愛であるから、
愛を配達する人になると云うことである。

全世界の人類が配達する人になったときこそ地上に天国が生じたときである。

何事を為すにしても、語るにしても、交渉するにしても、
「神の愛、われを通して貴方を祝福し給う」と愛念を先に送って置いてから為せば、
行く道は平らかとなり、愉快になり、成功多きものとなるのである。

憎しみは失敗することがあっても、愛は失敗することはないのである。
憎しみは争いを起こすが、愛は必ず平和をおこすのである。

吾々は「愛念」を実生活の道具として凡ゆる方面に活用することにしなければならぬ。

           <感謝合掌 令和3年9月18日 頓首再拝>

人・物を大切にするということは、神の愛を持ち来たすことになる - 伝統

2021/09/19 (Sun) 04:52:46


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月19日)より

《もの》および人を役に立つように利用するということは、
内在の神の愛を、顕在(あらわれ)の世界にもち来たらすことである。

神の愛を《あらわれ》の世界に持ち来たらすことなしに、
神の栄えはあらわれないのである。

神の栄えがあらわれのが、本当の人間の繁昌であるから、
神の愛をあらわれの世界に持ち来たらしさえするならば
人間は繁栄するほかはないのである。

だから物を役に立つよう、人を役に立つよう使っていさえすれば
未来の取り越し苦労などは不要なのである。

「貪欲(とんよく)」ということと、
「物を大切にすること」とはちがうのである。

「貪欲」は自己の本来の貧しさを恐怖して、
むやみに自分に物を引きつけておきたいのである。

「物を大切にする」とはその物の内在の力を引き出すようにつとめることである。

             <感謝合掌 令和3年9月19日 頓首再拝>

愛は想念となり、行動となり、創造が行なわれる - 伝統

2021/09/21 (Tue) 04:54:30


    *「光明法語」(9月21日《良き芸術、良き科学》)より

愛は生命の純粋感情であるから、真の愛のあるところ必ず創造が行なわれる。
愛は愛撫となり、抱擁となり、やがて事物が生み出されるのは、
ただ肉体の子供のみではないのである。

真の愛のないところに優れたる科学も工作も生まれない。
愛さえあれば、愛は次第に明確な形をとって、如何なる知的な作業も可能ならしめる。

想念も実は愛の産物であり、愛は想念となり、行動となり、行動はものを作る。

愛せよ、先ず真に愛せよ。
愛の足りない仕事は必ず何処かに欠陥がある。

           <感謝合掌 令和3年9月21日 頓首再拝>

全てのものを愛せよ - 伝統

2021/09/22 (Wed) 04:55:48


    *「光明法語」(9月22日)より

汝の親を愛せよ、汝の子を愛せよ、
汝の良人を愛せよ、汝の妻を愛せよ、
汝の兄弟を愛せよ、汝の姑舅を愛し、汝の婿又は嫁を愛せよ。

汝の国の人民を愛せよ、人類を愛せよ、すべてのものを愛せよ。

そこから無限の力がわき出て、無限の創造が行なわれるのである。
併し愛することは執着することではない。
愛するとは彼の生命(いのち)を彼の生命(いのち)そのものたらしめることである。

牡丹をして牡丹の花をひらかしめ、朝顔をして朝顔の花をひらかしめることである。
”もの”そのものの生命を解放して自由ならしめるが愛である。

           <感謝合掌 令和3年9月22日 頓首再拝>

愛と執着とは異なる - 伝統

2021/09/23 (Thu) 04:49:07


       *「光明法語」(9月23日)より

小鳥をして籠の中に押し込むのは真の愛ではない。

それは執縛であり執着である。

日本の言葉は執縛をも執着をも、ともに
「愛」と云う語をもって呼ぶことがある。

それ故に、「愛する」と言いながら相手の生命を縛ってしまい、
相手の生命を伸びられなくしてしまい、
相手の生命を殺してしまうことさえ往々ある。

多くの母親は子供を愛するが故に執着し、心配して、
子供の病気を重からしめたりすることが往々あるのである。

愛すると称して自分の自由に相手を縛るものは煩悩に過ぎない。

           <感謝合掌 令和3年9月23日 頓首再拝>

《「愛されたい」より先ず愛せよ》 - 伝統

2021/10/01 (Fri) 05:00:11


        *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P224~225)より

誰でも皆愛する相手を持ちたいのである。
その人が歓んでいるのを見ることが喜びであるような
相手を持ちたいのである。

併(しか)し多くの人は「愛する」ことが余りにも少なく、
「愛されたい」のが余りにも多すぎるのである。

そして「与えられたい」過剰のために不平を言い、
そのために「与える」ことを忘れてしまう。

「与える」と「与えられる」とはたがいに平衡するように
なっているのであるから、「与える」事を忘れてしまって
求める事ばかりになったら、自分も亦「与えられなく」なるのである。

時計はネジを廻した発條(バネ)の力だけ回転するのである。
それは与えただけの時間だけ、私たちに時を告げる。

時間は吾々が与えただけのものを投げ返すのである。

           <感謝合掌 令和3年10月1日 頓首再拝>

《愛を実践して見たか》 - 伝統

2021/10/09 (Sat) 04:57:32


         *『 生長の家 』(昭和23年9月9日の法語)より

   あらゆる手段を尽しては見ましたが 駄目でしたと云う人がある。
   しかし其のあらゆる手段のなかに
    「 愛を実践して見たか 」 否かが問題である。

   愛の思いを起して見たか、愛の言葉を出して見たか、
   愛の行いを実践して見たかと云うことである。

   人から顧みられないのは
   自分が人に深切を実践したことがなかったからである、

   深切な言葉をかけてやったことがなかったからである。
   深切な思いを起して見たことがなかったからである。

   行き詰るのは結局、今迄利己主義であったからである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

           <感謝合掌 令和3年10月9日 頓首再拝>

《「好き」は「愛」の仮面を被ったニセ物である》 - 伝統

2021/10/10 (Sun) 04:57:18


        *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P237~238)より

愛は一切を解決するのであります。

誰かと仲たがいになったり、感情が衝突したりしていましたら、
あなたは、あまり心の中が幸福でないに相違ありません。

その陰鬱(いんうつ)な心の雲霧(うんむ)から
あなたが脱却する道は、愛を適用すれば好いのであります。

調和の欠乏、平和の欠乏、事件の紛糾などは
悉く愛の欠乏か、愛の適用を誤ったからであります。

愛の適用を誤まると云うのは智慧なき愛であります。

智慧なき愛とは「執着の愛」であります。
「執着の愛」は本当の愛ではないのであって、
それは「好き」の一種に過ぎません。

「好き」は自分の快感のために相手を犠牲にします。
愛は、自分の快感のためよりも相手の幸福のために自分を献げます。

愛には永久の赦しが伴わねばなりません。
愛は相手の喜びを喜びとするのです。

相手が他(た)の人のことを喜んでいることに
憤(いきどお)りや嫉妬を感ずるのは「愛していない」証拠であって、
みずから省みて恥じねばなりません。

           <感謝合掌 令和3年10月10日 頓首再拝>

《唯「愛」のみが万事を解決します》 - 伝統

2021/10/11 (Mon) 04:58:17

        *「眞理」第2巻基礎篇第9章(P238~239)より

宇宙はただ一つの神が造りたまうたものですから、
その一つは完全に調和しており、それが自己分裂を起して
相剋(そうこく)した状態となるのは人と人との争いにせよ、
人と黴菌(ばいきん)との戦いにせよ、
そんなものは本来あり得ない筈(はず)のものであります。

そのあり得ない相剋相闘の状態があらわれているのは、
形にあらわれたる個々の部分が「全体で一つ」だと云うことをわすれて、
個々別々のものであると思いちがえて、
自分自身だけを主張するからであります。

従って、この相剋相闘の状態から脱却して
本当に永久平和の世界を将来(もちきた)すためには、
自他は本来一体であり、全体で一つだと云う自覚を
回復しなければならないのであります。

民主主義と云うものが個人の利益のみの主張である限りに於いて、
世界に平和を持ち来(きた)すものではありません。

待遇改善と云うことも主張すれば限りがないから争闘にも限りがない。

唯「愛」のみが一切を解決します。

           <感謝合掌 令和3年10月11日 頓首再拝>

《先ず互いに拝み合え》 - 伝統

2021/10/13 (Wed) 05:04:57


          *「眞理」第2巻基礎篇第9章(P241~242)より

愛があったら、平和や主義の名をかりて
人間の大量殺人などは出来がたいのであります。

愛は自他一体の自覚であり、他(た)の苦しみを見て自分の心傷つき、
その苦しみを取り去ってやりたいと願わずにいられない心であります。

若(も)し真に愛が双方にあるならば、
小さな条件の相違は互いに譲歩して
直(すぐ)に大量殺人をやめることが出来るはずであります。

如何なる条件も、如何なる理由も、
愛することを妨げることが出来ないほど、
愛が深くならねばなりません。

相手の態度や環境条件を云為(うんい)するのは愛が足りないのです。

相手を責めるまでに、相手の利己的主張の相(すがた)は
結局は《こちら》の利己的主張の心の影であると云うことを
自己反省して、利己的主張を先ずみずからが反省して捨てて、

相手を心の中にて

「互いに兄弟であり、互いに愛し合っており、
 利己的主張は少しもない互々(たがいたがい)である」

と云うことを念じなければなりません。

           <感謝合掌 令和3年10月13日 頓首再拝>

《現象の善さを愛するのは「好き」であって愛ではない》 - 伝統

2021/10/15 (Fri) 04:56:07


        *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P242)より

先ず愛念を送れ、愛念を送れ。
憎み合っていて、相手を心で非難し合っていては、
如何なる「形の平和」も永続するものではないのです。

何故なら「形」の世界は「心」の反映であるからです。

愛なくして一歩前進し得たと思っても、
それは争いに向って前進したに過ぎないのです。

愛のみが調和と平和と一切の善きものへと前進せしめるのです。

真に純粋なる愛には「争い」は含まれていないし、
「悲しみ」も含まれていない。

愛は最も強力なる力であるからです。

愛念を送るものには、何者も害することが出来ない。
愛は現象の好悪(こうお)を超えなければならない。
現象の「好き」と云っているのは、「愛」ではないのです。

現象が如何にあらわれていても、
実相の完全さを愛するのでなければ本当の愛ではないのです。

           <感謝合掌 令和3年10月15日 頓首再拝>

《愛念を送れば周囲が一変する》 - 伝統

2021/10/25 (Mon) 04:57:39


        *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P243)より

愛は、ただの「好きだ」と云う嗜好(しこう)の感情ではない。
それは相手を祝福する意志と努力です。

「あの人が幸福になりますように」と云う
愛念を送る努力の中に本当の愛があるのです。

事毎に、物事に感謝するのです。
「有りがとうございます」と感謝の念を送るとき、
それが愛念の放送になるのです。

あなたの身辺にあるどんな小さな物品にでも、
どんな事柄にでも感謝の念を送るのです。

これは実行して見ない人には、
それがどんなに力強いものであるかがわからない。

しかし実行して見て、その偉大なる効果に驚くでしょう。
周囲の事物が輝き出して後光を放つかのように見え出すのです。
今まで悪意をもっていた人が好意を持ち出すに到るのです。

まことに愛念と感謝とは魔術使いの杖のような、
不思議な働きを発揮するものです。

           <感謝合掌 令和3年10月25日 頓首再拝>

《真の愛は「好き」とは異る》 - 伝統

2021/10/30 (Sat) 05:00:31


          *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P245~246)より

真の愛は、「好き」ではありません。
「好き」は執着し、貪(むさぼ)り喰(く)らい、
ついに「愛している」と称する相手を苦しめ傷つけることになるのです。

真の愛は執着しません。
真の愛は却(かえ)って相手を放って「自由」にするのです。

真の愛は嫉妬しません。
真の愛は怒(おこ)りません。
真の愛は独占を好みません。

真の愛はどんなときにも相手の幸福を祈るのです。
真の愛は、自分の欲望で相手を縛ろうとはいたしません。
真の愛は常に相手の実相(じっそう)を観るのです。

真の愛は相手を解放するのです。

真の愛は性欲ではありません。
真の愛は、それに性欲が混(まじ)ろうとするとき、
警戒して却って相手から遠ざかろうとするのです。

真の愛は激情ではありません。
真の愛は一見冷たい冷厳な温かさです。

        <感謝合掌 令和3年10月30日 頓首再拝>

《相手に愛を表現せよ》 - 伝統

2021/11/06 (Sat) 04:57:09


      *『幸福を招く365章』第3項(P63) より

調和と平和を持ち来たすには相手に愛を表現すればよいのである。
しかし、あんな利己主義な相手に、どうして愛念を起こすことができようかと
考えるならば、先ずあなたは神に対して愛念を起こすべきである。

神を愛することによって、神の子を愛し得るように振り向けるのである。

「神はこんなに不都合な自分をさえ愛してい給うのであるから、
自分もこの不都合なあの人を赦さねばならぬ」と大決心するのである。

非常な恩を蒙っている恩人の息子ならば、
少々位い悪いことをしても赦してあげられるという気持ちになることである。

どんな者でも赦して愛し得るのが神の愛である。

神を愛するとき神の子(人)を愛し得る。

        <感謝合掌 令和3年11月6日 頓首再拝>

名前
件名
メッセージ
画像
メールアドレス
URL
編集/削除キー (半角英数字のみで4~8文字)
プレビューする (投稿前に、内容をプレビューして確認できます)

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.