伝統板・第二

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祈り(6) - 伝統

2021/04/12 (Mon) 03:17:43

《祈りは必ず成就する》

         *「光明法語」(4月12日)より

吾々の祈りは必ず成就する。それは間違いのなきことである。
併しながらその祈りとは、数分間、神社または祭壇でとなえることのみが
祈りではないである。

祈りと云うのは生命(いのち)の宣言(のりごと)である。
生命の奥深くで、念じていること、唱えていること、呟いていることは
悉く”いのり”である。

だから、不幸を呟いている者は不幸が来るように祈っているのである。
病気を呟いている者や、常に人に苦痛を訴えている者は病気や苦痛が来るように
訴えているのと同じことである。


・・・

<関連Web>

(1)本流宣言掲示板「人は何のために「祈る」のか (4612)」
    → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=965

(2)光明掲示・第一「祈りとは」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1417 (消滅)

(3)光明掲示板・第二「「不断念仏」「平生業成」」
    → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2014(消滅)

(4)伝統板・第二「祈り」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6818447

(5)伝統板・第二「祈り(2)」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7543475 

(6)伝統板・第二「祈り(3)」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7738427

(7)伝統板・第二「祈り(4)」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7866654

(8)伝統板・第二「祈り(5)」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7980268

           <感謝合掌 令和3年4月12日 頓首再拝>

《先ず真に自己が何を求めているか》 - 伝統

2021/04/14 (Wed) 03:47:25


        *「光明法語」(4月14日)

先ず真に自己が何を求めているか、自分の求めが曖昧であってはならない。

Aの土地の仕事もしたいし、Bの土地にも帰りたいし、
自分自身の要求が二個に分裂しながら
Bの地に借家を求めるべく祈ってもかかる祈りは成就しない。

神に求めるには吾が求むる事物が何であるかを知らなければならない。

現在意識(自分が気がついている心)が求めている物と、
潜在意識(自分に気がついていない心)の求むる物とが
食違っていてはならないのである。

現在意識の求めが実現しないのは潜在意識の求めが反対であるからだ。

           <感謝合掌 令和3年4月14日 頓首再拝>

《本性に合致する祈り》 - 伝統

2021/04/16 (Fri) 03:57:42


        *「光明法語」(4月16日)より

祈りが成就しないのは、その祈りが其の人の本性に合致しない場合か、
その祈りがまだ実を結ぶ時期に達していない場合かである。

若し吾々が自分の本性に合致しない祈りを、
たとえば「大和の国」なる日本が「戦力によって勝たしめ給え」と云うような
祈りを行なうとも其の祈りは成就しないことになるのである。

朝顔は美しき朝顔の花を咲かしめ給えとこそ祈るべきであり、
梅の樹は美しき梅の花を咲かしめ給えとこそ祈るべきである。
其の他の花を咲かしめたまえと祈っても成就するものではない。

           <感謝合掌 令和3年4月16日 頓首再拝>

《時期に適する祈り》 - 伝統

2021/04/17 (Sat) 04:14:39


        *「光明法語」(4月17日)より

時期に適しない祈りは成就しないが、その祈りを持ちつづけるならば、
時期が来たときになって自然成就するのである。
急いではならない。

寒中に朝顔の花を咲かしめ給えと祈るような祈りは成就しないが、
温室で咲かせても貧弱な花しか咲かないのである。
何事も時期が来ると云うことが必要である。

時期にの乗ると云うことは神のみこころに乗ると云うことである。
「みこころの儘に適当な時期に、適当な場所に、適当な何々を与えたまえ」と
云うような祈りこそ最も謙遜な祈りである。

           <感謝合掌 令和3年4月17日 頓首再拝>

《無限の可能性を実現する祈り》 - 伝統

2021/04/19 (Mon) 03:29:01


       *『 生長の家 』(昭和49年4月2日の法語)より

   【 祈り 】

   【 私は毎日 常に 自己が“ 神の子 ”であり、自己の内に無限の可能性を有し、
   常に一層 ゆたかに 健全に その可能性が 現実化するのである。

   わたしは 此の事を念じ 唱え 信ずるが故に
   わが希望する一切の善き事は 必ず 実現するのである。 】

   あなたの職業が何であろうと、今いるあなたの位置が何であろうと、
   あなたは今の時点に於いて、
   あなたでなければ創造することの出来ない個性ある価値創造をなすために、
   神の生命と智慧と愛とが噴出するための 噴出口であるのである。

   謂(い)わば、神の個性ある自己実現の中心なのである。

   それ故、自己の無限の可能性を信じ、その可能性が、あらゆる事物について
   健全なる方向に発揮されるようこの祈りを、
   毎日、寸暇を利用して 瞑目して 深呼吸の如く深く静かに息しながら
   数回宛(ずつ)念ぜられるがよい。

   言葉は その繰返しによって 一層 深く 潜在意識に印象せられ、
   宇宙の潜在意識にそれが感応せられて、
   それを実現するために 宇宙のあらゆる要素が あなたを中心に寄せ集められて、
   ついに 祈りの言葉の通りが 具体化することになるのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=125

            <感謝合掌 令和3年4月19日 頓首再拝>

「四月の吾が祈り」 - 伝統

2021/04/23 (Fri) 04:56:38


         *「聖光録」<四月の吾が祈り>より

神よ、すべてを善につくりたまいし神よ。
すべての生きとし生けるものを創造りたまい、
すべてのありとしあらゆるものを創造りたまい、
そのすべてを「善し」と観たまいし全智にして全能なる御親なる神よ。

☆☆☆☆(姓名を念ずる)の病を癒し給え。
あなたの造りたまいし世界に病は本来存在せざることを実現せしめ給え。
彼の心の中にある病ありとの迷を取り去りたまえ。

(この祈りの後に次の如く光明思念<メディテーション>をする)

神の癒す力、われにながれ入りたまいて、今、即刻汝を癒すのである。
われが癒すのではない。わが内に宿るところの神が癒すのである。
神が癒したまうのであるから間違いなく癒るのである。

われはただ媒体である。神の愛と癒しの放送室に過ぎないのである。
神がこの放送室に入り給い、今や、癒しの霊波を放送していられるのである。
だから、この雰囲気に近づく者は悉く癒されるのである。

神の愛と癒しの力とによって、
癒されないところの、どんな病気も存在しないのである。

病は、神の創造の世界には、存在しないのである。
無いものは無いのである。
それは消えるほかはないのである。

それは自分が定言するのではないのである。
自分に宿る神がかく定言したまうのである。

人間は神の生命である。
だから病気になりようがないのである。

今、神の愛われに流れ入り給いて、
霊光燦然としてすべての人類を照らし給う。
この光を受くるものはすべて救われ、すべて癒されるのである。

☆☆☆☆よ。
今、汝は神の愛の霊光につつまれ、神の愛に同化せられ、
悉く迷いが消え、悩みが消え、家庭の不調和は解消し、
あらゆる人と人との争いが解消し、汝の周囲には
其の儘そこに神の国の愛の世界が実現していることを自分は観るのである。

既に病気も、心の悩みも存在しないのである。

            <感謝合掌 令和3年4月23日 頓首再拝>

《われ今日斯(か)く念ずる》 - 伝統

2021/04/28 (Wed) 04:42:15


         *『 生長の家 』(昭和25年4月28日の法語)より

   『 吾は 静かに目をつぶって実相の世界に入るのである。
   吾は すでに実相の世界にいるのである。
   今迄(まで)吾は 現象の世界のみをみていたのである。

   今や吾は 実相の世界の完全さのみをみるのである。
   
   吾は ここで神と直接対面するのである。

   吾は 神の無限の智慧(ちえ)を受けるのである。
   吾は 無限の愛 を受けるのである。
   吾は 無限の生命 をうけるのである。

   吾には 今後 如何なる不幸も悲しみも おそいかかって来ないのである。
   吾は 一切の悪と不幸を 自分の心の外に追放したのである。
   吾は ただ 善のみ を見、 幸福のみ を見て、神に感謝するのである。 』


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13853443.html (消滅)

            <感謝合掌 令和3年4月28日 頓首再拝>

《祈りの成就には時の要素が要る》 - 伝統

2021/05/04 (Tue) 04:33:53


        *「光明法語」(5月4日)より

祈りが成就するには「時」の要素がいるのである。
今日(きょう)、種子(たね)を蒔いたからとて
明日必ず芽が出ると云う訳のものではない。

「時」の要素を忘れてしまって、今日の種子が明日ただちに芽が出ないからとて、
種子を掘り返してしまうようでは駄目である。
必ず神(法則)はその種蒔(たねまき)に応えたまうと云う確信が必要なのである。

何事も急いではならないのである。
時が解決して呉れるのである。

「果報は寝て待て」と云う言葉があるが、信じて待てば、
種子を蒔いて置きさえすれば必ず発芽するのである。

            <感謝合掌 令和3年5月4日 頓首再拝>

祈りの結果が現れるまで待つ忍耐が必要 - 伝統

2021/05/06 (Thu) 04:50:05


       *「光明法語」
        (5月6日《電源に結びついても直ぐには熱くならぬ》)より 

電気鏝(こて)を温めるのでも、
スイッチを入れたからとて急に一ぺんに加熱する訳ではない。
スイッチを入れることは電源につながることに過ぎない。
と同時に電流は流れ入って来るが鏝は必ずしもすぐに温かくはならない。

鏝が温かくならないのは電流が来ないからではなく、時間の要素が足りないからだ。

祈りと云うことは「神」と云う無限供給の電源とつながることではあるが、
その電源につながっても、その瞬間に欲する物が出るとは限らない。

鏝が温まるのを待つと同じに、
祈りに於いても結果が現れるまで待つ忍耐が必要である。

            <感謝合掌 令和3年5月6日 頓首再拝>

「祈り」と云うのは魂の底ふかくその人が生命で宣(の)べているところのもの - 伝統

2021/05/14 (Fri) 04:58:09

        *「光明法語」(5月14日《不景気を心に思うな》)より

祈りというものが短時間の言葉で
神に所謂(いわゆ)る「祈り」を捧げるものであると
思うのは間違いである。

「祈り」と云うのは魂の底ふかくその人が生命で宣(の)べているところのもの
であるから、今朝(けさ)「神の無限供給が自分に流れ入る」と念じながら、
ラジオ放送や新聞記事で世間の経済恐怖をきいて、

「こんなに不景気になってはたまらない」などと考え、
または人と人との噂話に不景気や物質の不足を話しているようなことでは、
それは「不景気」や「物質不足」を祈り顕わしているようなものである。

            <感謝合掌 令和3年5月14日 頓首再拝>

《不断の祈り》 - 伝統

2021/05/15 (Sat) 04:52:09


         *「光明法語」(5月15日)より

「常の祈り」が大切である。
所謂る「不断念仏」「平生業成(へいじょうごうじょう)」である。
平生(へいぜい)の祈りの業(ごう)が成就して、現象界に現れるのである。

朝起きれば、「寝ている間にも呼吸をなさしめ給い、血液を循環せしめたまい、
夜中自分の生命を護り給うた神よ、有難うございます」と神に感謝し、
「一夜を暖かく眠らせ給うた布団よ有難うございます」と感謝して起きるのである。

今与えられている事に充分感謝しないでいて、次の善きものが与えられると
云うことはあり得ない。

感謝することによってのみ、今与えられたものの充分の価値が享受出来る。

            <感謝合掌 令和3年5月15日 頓首再拝>

《仕事をなす時の祈り》 - 伝統

2021/05/18 (Tue) 03:35:18


        *「光明法語」(5月18日)より 

「わが仕事はわれとわが家族と全人類の福祉のための祈りである」。
常に仕事をなさんとする時には目をつぶりてかく祈りてから始めよ。
仕事のあいまに、「仕事が祈りである、祈りが仕事である」と念ぜよ。

かくすれば仕事の質が上がり、量が殖え、新しき智慧が発現し、
仕事に新生面がひらかれるのである。
思わぬ間違いが発見され故障に到らずにすむのである。

「仕事よ有りがとう。この仕事は神のみ栄えである」と念ぜよ。
かくすれば神のみ栄えの顕現として立派な仕事が成就するのである。

            <感謝合掌 令和3年5月18日 頓首再拝>

《飲食をなす時の祈り》 - 伝統

2021/05/19 (Wed) 04:46:13


        *「光明法語」(5月19日)より  

食事のときには、「神の生命と愛とが食物の形となって吾に栄養を与え、
我が生活をして神の光栄をあらわさし給う」と念じて食せよ。

飲料をとるときには「わが過ちて人を憎み、恨み、憤りたる罪をこの飲料にて洗い流し、
再びかかる罪を繰返すことなきしるしとして之を飲む」と念じて飲むが好いのである。

不平や不快や憤り恐怖を感じながら食物をとることは唾液の中に毒素をつくり、
それを服(の)んでいると同じである。

食事は不味くなり消化不良となり、身体を不健康にするのである。

            <感謝合掌 令和3年5月19日 頓首再拝>

《祈りを深めて決断は速やかに》 - 伝統

2021/05/23 (Sun) 04:52:27


          *「眞理」第2巻基礎篇第14章(P378)より

『ウーマンズ・ライフ』誌に嘗てフレッド・スター(Fred Starr)と云う人が、
「多くの良人は、自分の妻が『わたくし、どの衣装を、どの帽子を着ましょうか』
と不決断でまごまごしているのを待っている焦(じ)れったさで
胃潰瘍を起こしている」と書いたのを読んだことがある。

不決断は人間の時間を浪費し、感情をイライラさせ、
その間(あいだ)に好機会は逃げてしまい、幸福の訪れは去ってしまう。

こう云う人が最後に決断したときには
最も「悪いもの」をつかむことになってしまうのである。

或る心理学者は、

「人間の偉大さをはかる物尺(ものさし)は、
 その人が或る事物に対して結論を与え、
 決断を与えるのに要する時間の短かさである」

と云っている。

常に神とつながる(祈りの深まっている)人の
第一印象は最も正しいのである。

            <感謝合掌 令和3年5月23日 頓首再拝>

《相手の幸福を祈ること》 - 伝統

2021/05/29 (Sat) 04:52:19


        *「光明法語」 (5月29日)より

次に相手の幸福を祈れ。
真に相手の幸福のために祈り得るような心境になり得てこそ、
真に相手を自分が赦しているのである。

そうでなしに、相手のことを思い出すのは不快であるから、
忘れてしまいたいと思っているようなことでは真に赦していないのである。

キリストが「汝の敵のために祈れ」と教えたのもこの意味である。
彼の幸福を祈り得るような心境に達したときにのみ、敵が敵でなくなるのである。

人間の真の勝利は、自己内部の敵を征服することにある。
自己の内にある「敵」の観念を克服せよ。

            <感謝合掌 令和3年5月29日 頓首再拝>

祈りに始まり祈りに終る日 - 伝統

2021/06/08 (Tue) 04:36:49


       *「光明道中記」(6月8日)より

【祈りに始まり祈りに終るとき、心の中に滞(とどこお)りがなくなり
自由自在の境涯になる。           (『生命の實相』第一巻)】 
  
神様、あなたは全ての渾(すべ)てでいらっしゃいます。
あなたは一切のところに充ち満ちていらっしゃいます。

あなたは智慧でいらっしゃいます。
あなたは愛でいらっしゃいます。
あなたは生命でいらっしゃいます。

あなたのお造りになった世界には
罪も病も死も一切の不幸も争いもないのでございます。

其処には既に、日本天皇陛下に中心帰一せる
天国浄土が実現しているのでございます。

神意(みこころ)の天に成るが如く地にも成らせ給え。
実相の世界の既に完全なるが如く現象の世界をも完全ならしめたまえ。
中心帰一の天国を地上にも来(きた)らしめ給え。

みこころの実現するための道具として私をお使い下さい。
間違いなくみこころを行ずることが出来ますように
あなたの智慧を私に流れ入らしめ給え。
私をお導き下さい。

どれだけ働いても労(つか)れませねようにあなたの生命を私に注いで下さい。
すべての人々を赦し、赦すだけではなく、
すべての人々に感謝出来ますように、あなたの愛を私に流れ入らしめ給え。

自壊作用なくして理想世界が実現しますように。

すでにわが願いがあなたに聴かれたることを感謝いたします。

            <感謝合掌 令和3年6月8日 頓首再拝>

七つの祈り - 伝統

2021/06/11 (Fri) 05:01:18


        *『 理想世界ジュニア版 』(昭和56年10月号)より

【 日曜日の祈り 】

“ 神の子 ” の自覚を深める祈り

神さま、人間が“神の子”であり、完全であることを、
毎日一層ハッキリと知らせて下さい。

そして、神さまの完全なる健康が ますます 私のカラダにあらわれ、
神さまの完全なる知恵が ますます 私の心にあらわれ、
神さまの完全なる愛が ますます 私の行(おこ)ないにあらわれ、

常に健康で、行(ゆ)き届いて、
人さまの悦びとなることができますように
お導き下さいませ。

ありがとうございます。

・・・

【 月曜日の祈り 】

神さまに導かれる祈り

神さま、神さま、神さま・・・・・このように念ずれば、
神さまは すぐ私に、私の心の中で答えて下さいます。

神さま、ありがとうございます。

神さまは、私の生命(いのち)であります。
わたしの内に 常に あってわたしを健康に生かして下さいます。

神さまは わたしの知恵の源(みなもと)でありまして、
必要な時に必要なことを “神さま”と念ずれば 教えて下さいます。

ありがとうございます。

・・・

【 火曜日の祈り 】

自分の生命(いのち)を尊敬する祈り

神さま、わたしの生命(いのち)の奥底には
神さま、あなたが宿っていられるのです。
わたしは神さまに生かされているのです。

わたしの生命(いのち)は神さまの生命(いのち)ですから、
わたしは、わたし自身の‘ いのち ’ を尊敬いたします。

わたしのいのちは 神聖な‘ いのち ’ですから、善い事、清らかな事、
人のためになる事、人から喜ばれることのみに
わたしの生命(いのち)を使います。

だから 私は 常に 幸福であります。

ありがとうございます。

・・・

【 水曜日の祈り 】

“ 聖(せい)なる自己 ” の祈り

聖なる自己よ、私は あなたを礼拝(らいはい)する。
あなたは 神の‘ いのち ’の光に満たされて照り輝いていられます。

聖なる自己よ、あなたから 発(はっ)する神のいのちの光は、
顔色(かおいろ)にもあらわれ、その顔を見ると、みんなが楽しくなり、
嬉しくなり、互いに親切に仕合(しあ)いたくなるのです。

聖なる自己よ、あなたは“ 神の子 ”であり、
神の生命(いのち)と知恵と愛とで照り輝いていられます。

ありがとうございます。

・・・

【 木曜日の祈り 】

神の護(まも)りを確認する祈り

神さま、あなたは 私の生命(いのち)を産んで下さいました親さまであります。
あなたは 私の親さまとして 常に私を護っていて下さいます。

それゆえに、私は決して危険に遭(あ)うことはありません。
危険が近づいて来たら、自然に危険なところにいないで、
安全なところへ導かれます。

わたしは 常に神の導きに 従(したが)って
決(けっ)して危ないところへは行きません。

護られています。護られています。

ありがとうございます。

・・・

【 金曜日の祈り 】

人間の実相を観(み)る祈り

神さま、あなたは最高の“ 神の実現 ”として
人間をおつくりになりました。

それ故(ゆえ)人間は 皆(みな)、そのほんとの姿は、
神の通りに善であり完全なのであります。

一人も不完全な人間や悪い人間はありません。

悪い人間のように見える事があるのは
お月さまに雲がかかっているようなものであります。

雲がかかっているように見えても、
本当は お月さまと雲とは別々で離れているように、
人間も悪く見えても 本当は悪とは離れているのです。

それ故(ゆえ)、私はすべての人間の善を信じます。

ありがとうございます。

・・・

【 土曜日の祈り 】

常に健康である祈り

神さま、あなたの生命(いのち)が わたしの体に宿って、
私の生命(いのち)となって下さいました。

私の生命(いのち)は 神聖な神さまの生命(いのち)なのです。

だから私は 常に完全で健康なのであります。
もしあやまってキズをしたり、病気になったりすると、
神さまの生命(いのち)が その無限の力で カラダの中から治して下さいます。

それ故わたしは常に健康で、疲れてもスグ治るのです。

ありがとうございます。


https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/58ad8f3071926f83feb42ae73d73411d
 
            <感謝合掌 令和3年6月11日 頓首再拝>

正しく祈る - 伝統

2021/06/17 (Thu) 04:42:45


         *「光明道中記」(6月17日《正しく祈る日》)より

【利己的行動によって快楽を掴(つか)もうとすれば、
                 却(かえ)って魂の平和を失う。
                   (『生命の實相』第四巻)】

神の心に従って物を考え、神の心に順(したが)って生活を行ずることが
吾等のこの世に生まれた使命である。
人類の考え方や、或るグループの考え方に従うのではないのである。

吾々が神想観によって事物の成就を願うときには
「金」を与え給えと云うように願ってはならないのである。

「金」は使い方によっては善ともなるが、使い方によっては又悪ともなるのである。
「金」の来ることのみを願って、正しい使い方を願わない場合には、
「金」は集って来たけれども、それが何らの利益に使用することも出来ず、
却って悩みの種になるであろう。

世間の金持の中には随分そんな不要な「金」を集めて、
子孫親戚たちを争いの渦中に投じたり、
自分を不要に堕落せしむるためにその「金」を使っている人もある。

それを考えて見るならば、
「金」のみを神想観で求めることが如何に下らないことであるかが判るであろう。

「金」がそんなにも欲しいならば、それは人類の心に従うて物を考えているからである。

吾々は神の心に従うて考えねばならぬのである。

「人を救い得るように吾が生命(いのち)をお使い下さい。
 そしてそれに必要な一切の設備と費用とをお恵み下さい」と。

            <感謝合掌 令和3年6月17日 頓首再拝>

利己的な動機で祈らない - 伝統

2021/06/21 (Mon) 02:37:47


        *「光明道中記」(6月21日《三たび自己を顧みる日》)より抜粋

【救うとは人間本来の「生命の自由」を回復することである。
                     (『生命の實相』第三巻)】

神はすべてであるから超利己的な力である。
その超利己的な力に対して、
利己的な動機で祈ると云うことが既に矛盾しているのである。

すべての人に調和し、自分が栄えることによって
他の栄えが害(そこな)われるようなことなき事柄に就いてのみ
吾等は祈るべきである。

            <感謝合掌 令和3年6月21日 頓首再拝>

《賞め讃える祈りを致しましょう》 - 伝統

2021/07/10 (Sat) 04:22:45


        *「眞理」第2巻基礎篇第14章(P390)より

祈ると云うことは必ずしも「頼み込む」と云うことではありません。

聖書には「主(しゅ)を讃えよ」と云う言葉がありますが、
讃えると云うことその事が崇高な祈りであります。

「頼み込む」ところの祈りよりも、
賞(ほ)め讃(たた)える祈りの方が
素晴らしい効果が実現するのであります。

何故なら「頼み込む」意味の祈りをいたします時には
「何々が足らぬ」から頼みますと云う風に
「足らぬ」と云う念を伴って神に向うのであります。

ところが「賞め讃える」意味の祈りは、
「既に満足しております。神様の愛は、智慧は、力は素晴らしいです」
と云うような念を伴いながら神に相対するのであります。

そして「足らぬ」と云う念(ねん)は、足らぬ状態を惹き寄せ、
「満足している」と云う念(ねん)は満足した状態を引き寄せます。

            <感謝合掌 令和3年7月10日 頓首再拝>

《祈りは「神」を変化せず「自分自身」を変化する》 - 伝統

2021/07/25 (Sun) 02:44:56


          *「眞理」第2巻基礎篇第2章(P44)より

神を「祈り」や「懇願」によって変化しようと
考えてはならないのであります。

神を「祈り」や「泣きつき」で愛憎の心を動かすような
感情の動物だと考えてはならないのであります。


「祈り」は神との人格的交通の自覚を得て、
人間自身が神の愛に温かく包まれている
実相(ほんとのすがた)に認識を深めて、
自分自身が改造せられるのであります。

神は永遠であり、既に祈らなくとも与えておられること、
聴取を申し込まなくとも、既に放送を開始している
放送局のようなものであります。

しかし神の「恵み」の放送番組を間違いなく受取るには、
よく調(ととの)えられたラジオ・セットを所有し、
それを放送の波長に合わせることが必要なのであります。

心のラジオ・セットをよく整備して
神の放送の波長に合わす行事が祈りであります。

            <感謝合掌 令和3年7月25日 頓首再拝>

《何故あなたの祈りはきかれないか》 - 伝統

2021/07/29 (Thu) 03:26:43


          *「眞理」第2巻基礎篇第3章(P82~83)より

神に祈ってもその祈りがきかれないのは何故(なぜ)であろうか。

それよりも吾らは神が吾々のためにいのりたまう祈りを、
吾々自身がきいてあげたことがあるかと云うことが問題なのである。

神が「汝ら互いに相愛せよ」と仰せられていても、
本当に吾々は相愛しているかどうかと云うことが問題なのである。

神がわが祈るものを与えたまわないのではない。
既に与えていられるのである。

それは恰(あたか)もラジオの放送は既に与えられている、
すでにそれは与えられていながら感覚に感じられるように実現しないのは、
自分の心が神の放送の波長に合わないからである。

聴取者は放送局の波長と合わさなければならない。
それと同じように人間は神の心と波長を合わさなければならないのである。

            <感謝合掌 令和3年7月29日 頓首再拝>

《祈りは念ずる通りに現れる》 - 伝統

2021/08/15 (Sun) 04:56:27


          *「眞理」第2巻基礎篇第3章(P96~97)より

あらゆる祈りはきかれるのである。

吾々の身辺に起りつつある事件は悉く、
吾々自身の心の奥深くある祈りが実現しつつあるのだ
と云うことも出来るのである。

この場合の祈りと云うのは「命宣(イノリ)」であって
一種の「生命(せいめい)宣言」である。

生命(いのち)の底深く常に念じていることが実現するのである。

たとえば、老衰することを怖れている人が
老衰しませぬようにと毎日15分ずつ祈るとします。

すると15分間は「老衰せぬ」と云う考えが
保たれているかも知れぬが

(下手な祈りようでは「老衰しませぬように」と念ずること
 そのことが「老衰しつつありますから」と云う思いを
 新たにしつつあることにもなる)

毎時老衰を恐れていることその事が
「老衰」を毎時念じていることになっているのである。

            <感謝合掌 令和3年8月15日 頓首再拝>

心配ごとは全て祈りに変える - 伝統

2021/08/17 (Tue) 04:48:58

        *Web:希望発見ブログLooking for HOPE(2021.05.20)より抜粋

心配ごとは全て祈りに変えること。

心配しても状況は一切よくならないが、
祈りは現状をより良い方向に動かしたり、
最高の出来事を呼び寄せてくれることがある。

祈りの叡智は、日本だけでなく全ての文化圏で、
人生をよりたくましく生き抜くための手段として
古代より継承されてきました。

祈りの力を実証した人がいます。

その人フロリゼル フォン ロイター氏は長年
ウィーン国立音楽院バイオリン科の教授を務めた人なのですが、
ロイター氏の両親は彼が生まれる数か月前に離婚しました。

母グレースは、元夫によほど思うところがあったのか、
息子だけは父親のようになって欲しくないとひどく懸念し、
同時に世界一のバイオリニストになって欲しいと望みました。

霊的世界に心を開いていたグレースは、心配事を祈りに変えました。

どうせなら望みはできるだけ高く、世界的バイオリニスト、
バガニーニ(1782-1840)の霊がおなかの子の人生を見守り、導いてくれるよう、
心の底から強烈なまでの祈りを毎日天に捧げました。

するとどうでしょう。

グレースの子、フロリゼルは10歳になるまでに
ヨーロッパ中の全国王や女王の前でバイオリンを演奏するほどの
神童として大注目を浴び、天才バイオリニストとして
多くの人々を熱狂させました。

後年、グレースが霊的世界を探求するため、
様々な霊能者に会いに行ったところ、
出産前の祈りの話を全く知らない何名もの霊能者に
「バガニーニの霊が来ていますよ」と伝えられました。

霊的な視点では、人の思念には実体があります。

真摯な祈りは、実体ある思念の波長を増幅させ、
その波長に感応した霊が純粋な愛の念によって懸命に援助してくれるのです。

https://www.spiritualfriends.work/entry/do-not-worry-about-anything/instead/pray-about-everything

            <感謝合掌 令和3年8月17日 頓首再拝>

《争い勝つ祈りはきかれない》 - 伝統

2021/08/25 (Wed) 04:58:30


       *『 生長の家 』(昭和23年3月6日の法語)より 

   神は一人の人間の親に非ず、全ての人間の親であるから、
   一人の人間のみ、又は一個の民族のみ栄えて、
   他の人 又は 他民族の栄えぬ様に祈る祈りはきかれない。

   凡(おおよ)そ、他と争うて自分が勝つ為の祈りはきかれない。

   「 祈りがきかれる 」 とは 実相世界にある永遠の秩序を
   言葉の力によって呼び出すのであるから、
   実相世界に“ない”ものをいくら祈っても
   それは“神によっては”与えられるものではない。

   実相世界には争いもなく、
   争いに勝つと云う事もないから
   争い勝つ祈りはきかれない。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13111474.html?type=folderlist(消滅)

         <感謝合掌 令和3年8月25日 頓首再拝>

他の人々の為に祷る祈りが効果を現す - 伝統

2021/08/29 (Sun) 04:51:06


      *「光明法語」(8月29日《祈りと健康の関係》)より

カレル博士は肉体に解剖的な結果を引起すところの精神状態の一種として
「祈り」の精神状態を指摘している。

博士は

「それは哲学者や科学者には分かりもしないし、達することも出来ないが、
心の純真な人は、神をまるで太陽の熱や、友達の如く容易く感ずることが
出来る」

と言っている。

特に博士が指摘した健康を改善する祈りは
「先ず全く捨我、捨我なき状態たる事を要する」。

自分の病気を癒し給えると祈るよりも
他の人々の為に祷る祈りが効果を現すのである。

         <感謝合掌 令和3年8月29日 頓首再拝>

吾の祈りは神に通ず - 伝統

2021/08/30 (Mon) 03:04:42


      *「光明法語」(8月30日)より

カレル博士は言う、

「総じて祈る人は、自己が治癒することを願うものではない。
 祈る人は他の人々の為に祈る。
 この種の祈りは、その条件として自分を放擲(ほうてき)すること、
 即ち一種の禁欲、没我の高い精神を要する。

 謙遜な人々、無知な人々、貧しき人々は、
 富める人々や、知識ある人々よりも、その可能性が一層ある。

 祷(いの)りが時として奇跡を起こすのは斯う云う訳である」

と。

自分の病気の癒える事を常に念ずる者は病いを心の描くから
却って癒えないのである。

         <感謝合掌 令和3年8月30日 頓首再拝>

孤立無援の人はいない - 伝統

2021/09/02 (Thu) 04:38:19


          *Web:Looking for HOPE より

祈りの霊的メカニズムはいくつかありますが、
その中の一つをご紹介します。

天国には多くの界層があり、地上と隣接する界層の住人によって、
私達の祈りは、地上の情報を処理する界層まで届けられます。
 
祈りはふるいにかけられていき、
崇高な動機や内容の祈りほど上層界へ届けられます。

このプロセスは電光石火の如く大変迅速に行われます。

祈りの答えは、当人の霊的成長に最もふさわしい形で返ってきます。
 
病の人に対する祈りは、治癒エネルギーが届けれらたり、
問題に行き詰っている人には直感的に答えが届けられたり、

身に危険が迫っている人には、
祈りの念に呼応した霊団が真っ先に駆け付けます。 

祈る前から助けてもらうこともあり、
多くの人は一生を終えた後、生前いかに多くの霊的援助を
人生で受け取っていたか気づきます。

援助してくれるのは血縁者とは限らず、祈りの波長に同調した人達です。
 
死後、人は霊的に成長すると見返りを一切求めない純粋な愛が心を満たし、
誰かを助けることで、さらに霊的に成長できると知ります。
 
自分が助ける側になって初めて、人類は民族や国籍、宗教を越えて、
皆霊的な家族であり、誰一人として孤立無援の人はいないと確信します。

         <感謝合掌 令和3年9月2日 頓首再拝>

祷り  効能:神経痛 - 伝統

2021/09/19 (Sun) 04:58:21


        * 生長の家』(昭和15年11月号) より

     神は愛であり給う。 
     神は到る処に満ちていたまう。

     従って神の愛は到る処に満ちていられるのである。
     玄関から奥座敷に至るまで、家の隅々までも神の愛で充満している。

     私は神の愛に抱かれ包まれ護られている。
     神の愛は私のうちにも入って来ているのである。
     愛は一切のものを赦し、育て羽含むのである。

     神の愛は太陽が善人にも悪人にも一様に照り輝くが如く、
     また雨が善人にも悪人にも潤すが如く、
     善人をも悪人をも咎め給うことなく、
     凡ての人を愛し給うのである。

     その神の愛が私の中にも宿っているのであるから、
     私は善人をも悪人をも悉く愛し赦すのである。
     否、悪人は本来存在しないのである。

     私は今すべての人を赦したのである。
     すべての人に好意を放送するのである。

     彼の愛が今 私を取り巻いている。
     私は今神の愛の雰囲気に部厚く包まれているのである。

     愛は癒す。
     愛は浄める。

     私は今 宇宙浄めの最後の浄めに生れたもうた
     住吉大神の浄化の愛に包まれいるのである。

     如何なる誤解から生じた呪いの念波も、怨みの念波も、
     憎みの念波も住吉大神の浄化の愛に浄められて、
     ただ私に達するのは愛の念波だけである。

     如何なる病気の人から送られて来る病念も悉く浄められ、
     自分に達するときにはただ生かす愛のみとなっているのである。

      https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/17934736.html (消滅)

         <感謝合掌 令和3年9月19日 頓首再拝>

《顔を洗う時の祈り》 - 伝統

2021/09/23 (Thu) 05:03:14


        *『 生長の家 』(昭和23年3月14日の法語)より

   顔を洗う時にも、神に感謝せよ。
   和解するとは感謝することである。
   先ず神に和解しなければならない。

   洗面の水を汲んでは、

   「 神よ、あなたの創造(つく)り給いし水に感謝致します。
   わが顔を洗う事は
   過去に過ちて人を憤り 憎み 恨みたりし 不快な思いを
   悉(ことごと)く洗い流して、
   新しく悦びに満ちた生活を始める象徴として感謝します。

   水は 神の愛の現(あらわ)れであります。
   この愛に浴せしめたまいて わが生活を浄め給え。

   この水によって わが皮膚が美しく清らかに保たれます事を感謝致します。」

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13146472.html?type=folderlist(消滅)

         <感謝合掌 令和3年9月23日 頓首再拝>

《仕事中には斯く祈れ》 - 伝統

2021/09/24 (Fri) 05:04:13


        *『 生長の家 』( 昭和23年3月21日の法語)より

   仕事をしている時には 机に、机の上の帳簿に、ペンに、
   カードに、インキに感謝せよ。

   インキやメモや雑用紙をもって来てくれる給仕や下役に感謝せよ。
   勿論上役にも感謝せよ。

   仕事の合い間、合い間に
   「 この仕事は、私と私の家族とを祝福する為の祈りである。
   この仕事を与え給いし事を感謝致します 」 と念ぜよ。

   感謝と幸福感との中で行われる仕事は
   能率も上り、品質も精巧であり、疲労も少ない。

   上役に感謝すれば、念は通ずるから
   其の人は間もなく上役から認められる。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13221566.html?type=folderlist(消滅)

         <感謝合掌 令和3年9月24日 頓首再拝>

正しい祈り - 伝統

2021/10/10 (Sun) 04:52:32


     *『生命の實相』幸福篇下第三十八巻(10月10日)より

祈る場合に、まずその祈り求めるものが、正しいかどうかを省みよ。
正しいということを窮屈な意味にとってはならない。

(1)その求めるものは建設的なことであるか。
   破壊的なことは正しい願いではない。

(2)だれかを豊かにすることであるか。
   (だれかを乏しくならせることは正しい願いではない)

(3)だれかを不幸に陥れたり、損失を与えたりするものではないか。

(4)この世に混乱を起こしたり、
   だれかの感情を掻き乱したりするものではないか。

これらの自己反省してみて、それのテストに及第するものであれば、
祈ってよいのである。

そしてその祈りの言葉は、宇宙的な創造力によってバックされ
実現の途上にあると信じてよいのである。

           <感謝合掌 令和3年10月10日 頓首再拝>

祈りの2つの種類 - 伝統

2021/10/13 (Wed) 04:57:02


          *「光明法語(10月12日)」より

祈りには2つの種類がある。
自力的な祈りと他力的な祈りと。
基督教的に云えば洗礼のヨハネ式祈りとイエス式祈りのとの区別である。

山伏的な修験者的な行(ぎょう)により
天国(又は幸福)を地上に来(きた)そうとする自力の行は
断食水行野蜜を食(くら)いて粗衣粗食をした洗礼のヨハネによく顕れている。

仏教でも聖道門の行者は自力的精進によって
仏陀(さとり)の境地に達しようとした。

併し法然や親鸞やイエスは、仏の本願力又は神の恩寵によって
「与えられた天国」を受けようとした。

・・・

相対的祈りと絶対的祈り

          *「光明法語(10月13日)」より

洗礼のヨハネ的祈りは、彼が祈ってやろうと云う相手に対して思念を集中し、
その思念の力によって相手の悩みを撃退しようとする方法である。
これは自分の思念と相手の悩みとが対立的になるのである。

「悩み」は無いのではなくして、「悩み」を「ある」として認め、
それに対抗する光明の念を念送する事によって相手の悩みを抹殺するのである。


イエス的な祈りの方法は、相手の悩みも病いも見ないのである。

ただ、神の国の義(ただ)しきとを観るのである。

観るのも自分が見るのではなくて自己に宿る神が観るのである。

            <感謝合掌 令和3年10月13日 頓首再拝>

祈りと思念は宇宙の大自療力に触れるところの道である。 - 伝統

2021/10/14 (Thu) 04:51:39


     *『生命の實相』幸福篇下第三十八巻(10月13日)より

祈りと思念は宇宙の大自療力に触れるところの道である。
しかし祈っても思念しても治らない人もあるのはなぜであろうか。

祈りはけっして口先だけの業(わざ)ではないのである。

それは精神を高揚したる状態であり、信仰の高調したる状態であり、
ハッキリと神の恵みを確認したる状態であり、健全なる想念の持続したる状態であり、
悪の存在を全的に否認して、神の存在のみを全的に承認したる状態であるからである。

だからこの精神状態に達しえない祈りや思念においては、必ずしも完全に
効果を挙げることができないのである。

キリストが「もし芥子種ほどの信だにあればこの山に動いて海に入(い)れと言うと
いえども必ず成らん」といった所以である。

           <感謝合掌 令和3年10月14日 頓首再拝>

神を讃美する祈り - 伝統

2021/10/15 (Fri) 04:53:45


          *「光明法語(10月15日)」より

天の父われに在(いま)してみ業(わざ)を成し給う式の祈りは、
天の父のみ業の荘厳極(きわま)りなく美しき事を認め、
ただ讃(ほ)め称(たた)えるだけで好いのである。

観と讃嘆である。

此の種の祈りは長時間やってもつかれる事はない。
天の父の無限の力が流れ入って却って心気爽快、再生の思いがするものである。
聖書によれば、イエスは常に暁方(あけがた)に山に入って長時間祈っていたらしい。

彼はそれによって力を得、実際病いを治す時には、「神が成し給う」と思うだけで、
祈りもしないで、「起ちて歩め」と言ったようである。

            <感謝合掌 令和3年10月15日 頓首再拝>

とても大切な亡くなった人への祈り - 伝統

2021/10/19 (Tue) 04:38:34


        *Web:希望発見ブログ(2021.05.20)より抜粋

祈りの中でも大変大きな意味を持つのが、天国へ旅立った方への祈りです。

祈りによる愛の念が、地上と天国の架け橋となり、
天国にいる人の心を何よりも慰め、癒し、勇気づけます。

天国は精神世界でもあり、感情が地上にいた頃に比べ何倍も増幅されるからです。

新しい環境に身を置いた人にとって、
地上から自分に届けられる愛の念ほど、ありがたいものはありません。

愛する人同士は霊的な親和性があり、
一本のエネルギーの線でつながっていますので、
様々な想いを届けることができます。

その想いはキャンドルライトのような光を放ち、
内容によって異なる色彩を保ちながら天国へ届きます。

フラッシュと呼ばれ、色彩に込められた想いが、
新しい世界で新たな人生を生きていく上で、最高の力になります。


人は死後、生前の様々な想いを抱えたまま天国へ向かいます。

愛に飢えていた人は、死後もなかなか
自分を価値ある存在としてみることができません。

天国でも援助の手を差し伸べる人達がいますが、
地上から届けられる愛こそが、後悔や自己憐憫の情を、
学びと気づきに変え、ようやく真の安らぎを得ることができるようになります。

天国にいても、祈りは生きる希望に変わります。
 

英国三大霊訓の一つ、インペレーターの霊訓には、
祈りについてこう記されています。

   祈りは病においても死に際しても、強力な援護となる。
   病においては人間的看護が無力となった時に霊界の専門家が力となり、
   その強力な治癒力によって症状を和らげ、体力回復のための生命力をそそぐ。

   また、死して霊界へ赴くことになれば、尚のこと祈りの力を頼りとして、
   その霊を受け入れる霊団を差し向け、慣れぬ新しい環境の中での生活を
   援助してあげられる。

   いずれにせよ、霊界側からの援助を可能にしてくれる人間側の
   真摯にして積極的な祈念を怠らないで欲しい。

   祈りの実際の威力を知れば、
   人間はもっともっとそれを活用することになるであろう。

https://www.spiritualfriends.work/entry/do-not-worry-about-anything/instead/pray-about-everything

            <感謝合掌 令和3年10月19日 頓首再拝>

「祈り」は願望実現が目的でない - 伝統

2021/10/22 (Fri) 04:47:12


          *「光明法語(10月22日)」より

神様にまかす位ならば、「祈り」の必要はない。
「祈り」をするのは自分の願いをかなえる為であって、祈りに志向性はつきものである。

自分の願いがないならば「祈る」必要はない ―― と考えるのは間違いである。
「祈り」と云うものは、「親なる神」と「子なる人間」との人格的交わりとして
欠くべからざる人間の行事なのである。

だから、潜在意識の深き願いは、神のみこころでなくても
「心の影」として実現するのである。
だから、欲するものを実現するばかりが祈りではないのである。

            <感謝合掌 令和3年10月22日 頓首再拝>

《人類の進歩に逆行する祈りはきかれぬ》 - 伝統

2021/11/04 (Thu) 05:02:05


       *『 生長の家 』(昭和23年3月7日の法語)より 

   凡そ人類の進歩に逆行する祈りはきかれない。

   神は地上に自己の無限内容を
   無限生長 又は 無限進歩の形で表現したまうのが
   現象世界の使命であるからである。

   アメリカで始めてトーキー映画が登場したときに、
   その音楽だけは 生きた音楽家を出演させてくれねば、
   多くの音楽家の死活問題であるからとて、
   生きた音楽家の出演しない映画館に対して
   入場拒絶同盟を結ぼうと云うので調印を求めて廻った者があった。

   その時、光明思想家のテリル・マン氏は
   それは人類の進歩に逆行すると云って其の調印を拒絶した。

   → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13115133.html?type=folderlist(消滅)

            <感謝合掌 令和3年11月4日 頓首再拝>

祈りの「声」と「コトバ」 - 伝統

2021/11/15 (Mon) 04:44:42


     *「光明法語」(11月15日《「声」と「コトバ」》)より

祈りには自力の祈りと、他力の祈りとがある。
自力の祈りは、洗礼のヨハネの如く 「曠野(あらの)に叫べる声」 である。
曠野とは、そこに神の生命が満ちていないと云う意味である。

人と人とは個々に孤立していて、
神の生命によって互いにつながっている自覚がないのである。
互いに呼び交わす声は、声にとどまり、
互いに意味が疎通する 「コトバ」 にはなっていない。

互いに意味が疎通するには一人の生命の動きが神と云う共通の媒介によって
他の人々の生命の動きと共感しなければならぬ。

            <感謝合掌 令和3年11月15日 頓首再拝>

祈りが捧げられた時に天国ではどんな動きをするのか - 伝統

2021/11/19 (Fri) 04:37:23


          *Web:宇宙の兄弟たちへ(2021年11月14日)より

「祈りが捧げられた時に天国ではどんな動きをするのか?」

こちらは取り上げて欲しいテーマのアンケートでいただいたものです。

地上で私たちがお祈りしたら、
あの世ではどのように受け止められ、働きをするかという質問ですね。



祈りというのは、あの世に向けてメッセージを送ると言う行為です。

そのお祈りする人の心境によって、届けられる先は違ってきます。

祈りが邪なもので、地上の人の我欲やネガティブな思いが
向けられていた場合は、あの世でもネガティブな存在に同通してしまいます。

あの世には、未浄化な霊や、悪霊と呼ばれる存在がいますので、
そうしたものと思いが通じてしまうと、知らずに憑依されたり、
人生を狂わされたりなどの、悪い影響を受けることとなります。

祈りが純粋で、人々のためになるものであるならば、
あの世でも天使や高級霊と呼ばれる存在へと通じてきます。


地上でお祈りしている人の心境と、
その内容によって通じる相手が違ってくるわけですね。

通じた先が善良なる霊であった場合は、
その内容によって、実現すべきかどうかの判定がなされます。

地上の人間がどうしてもかなえて欲しいという内容であっても、
霊的に見れば実現しない方がほんとはよいと思われることも多いので、
そこで却下されることがあるでしょう。

もしも地上の人間が謙虚に努力を重ねていて、
あの世から見て感心するような生き方をして、
身の丈にあった願いを抱いていると、
あの世の善良な者たちも支援しようと動くようになるでしょう。


ただあの世の霊人が、地上の者の願いや祈りを叶えようと
働いたとしても、必ずしも実現していくと言うわけでもありません。

例えば、総理大臣になりたいと祈りを捧げていても、
同じようになりたい人が多くいると、すべての人がなれませんので、
そのなかで調整が働きます。

そのように数に限りがあったりなど、
必ずしも望みの人にすべてが行き届くわけではない場合に、
霊的世界でもだれが相応しいかの評定がなされているようです。


それと霊界の人が働きかけていても、
地上の人間がインスピレーションを受け取れなかったりして、
地上の人間の思惑で動いていくと言うこともあります。

以上見てきましたように、
祈りはよこしまな思いが入らないようにしなくてはなりませんし、
よき祈りであっても、必ずしも祈りや願いの通りにはならないことが
ありますけど、霊的世界には確かに届いているという事実はあります。

https://www.spacebrothers.jp/2014/08/blog-post_26.html

            <感謝合掌 令和3年11月19日 頓首再拝>

《あなたの祈りがきかれない場合》 - 伝統

2021/11/27 (Sat) 04:57:26


        *『生長の家』(昭和46年3月11日の法語)より

   不幸は、神がつくったものではないのである。

   それは神から引き離された( 換言すれば“神の子”たる自覚を失って
   “エデンの楽園”から追放された )結果、恰(あたか)も、
   本来、法的には大富豪の跡継ぎ息子で無限の富をもっていながら、

   幼い時から家出をして、迷い児となり、放蕩息子となっていて、
   自分が大富豪の跡継ぎ息子であるということを自覚できない状態で、
   いろいろ艱難辛苦を重ねているようなものである。

   “ 大富豪 ”は吾々人間の“ 親様 ”の譬(たと)えであり、
   そんな場合、艱難辛苦を重ねている息子がいくら大声をあげて、
   「お父さん、どうぞ私を救けて下さい」と叫んでも、
   大富豪のお父さんには聞こえないのである。

   この大声あげて「お父さん、救けて下さい」と叫ぶ事が、
   恰度(ちょうど)、不幸や病気や災難で苦しんでいる人間が、
   神に祈って救いを求めていることに当たるのである。

   しかしその祈りは神に達しないのである。
   何故であるかというと、彼は物質の法則の支配する物質の世界にいて、
   神の霊波には波長の合わない、次元の異る世界に住んでいるからである。
 
    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12666350.html (消滅)

          <感謝合掌 令和3年11月27日 頓首再拝>

《一切衆生のための祈り》 - 伝統

2021/12/01 (Wed) 05:00:49


        *「光明道中記」(12月はじめの祈り)より

わが毎朝念ずる衆生のための祈り――

私の生命は宇宙の生命と一体である。
されば吾は宇宙の凡てのものを知っているのである。

わが生命は神と一体なるが故に、わが欲(おも)うところは、
神必ずこれを成し給うのである。

光が昇れば隈なくすべての所を照らすが如く、
暗(やみ)のあるところにわが光明思念は必ず
行き亘り、悩みのあるところにわが念ずる光明の言葉は満ち亘るのである。

われは光明思念をすべての悩みありと迷える人々に送る。
送るに随って人々の悩みは消えるのである。

与えれば与えるほど殖えるのが法則であるが故に、
このことによって吾が光明は愈々輝き、
吾が健康は愈々増進するのである。

病める者、悩める者、重荷を負える者に、
われは「光明思念」の導管より生命の水を送るのである。
「今より後、罪も病も死も貧も争いも一切の不調和もなし」

われは今「光明思念」を放送する。わが光明思念は、
われを通して流れ出でたる神の生命であるから、
その光明思念は宇宙全体に充ちひろがり、すべての悩める者を癒すのである。

神よ、わが祈りを聴き給いしことを感謝します。

          <感謝合掌 令和3年12月1日 頓首再拝>

《神と《とも》に祈る》 - 伝統

2021/12/08 (Wed) 04:57:41


     *「光明法語」(12月8日)より

神よ、生きとし生ける者を生かし給える吾等の《みおや》なる神よ。
わたし自身の本来のものでない願いを、
わが胸より去らしめ給え、わが心を浄め給え。
わが魂の切なる願いのみを願うことが出来る様になりますように 
                       <今日の祈り>

自分が真に何をもとめているかを知らない人が随分多いのである。
そして自分のものでないものを憧れ求め、
それが成就しないからとて嘆き悲しみ、
それが成就したからとて図に乗って悪く働く。

ああ迷える人々よ。

          <感謝合掌 令和3年12月8日 頓首再拝>

なぜ「祈り」で病気が早く治るのか? - 伝統

2021/12/13 (Mon) 04:32:04


     *「からだ」という神様 新時代における心身の癒し方
       保江 邦夫・著(P16~19)より   

ハワイ大学とハワイ州立病院の共同研究で、ある調査が行われました。

同じ種類の病名で入院している100人の患者さんを
50人ずつに分けて、AとBの2つのグループを作りました。


Aグループの50人には特に何もせずに、普通に生活してもらいます。

一方、Bグループに関しては、50人の名前を書いたリストを作り、
世界中の仏教のお坊さん、キリスト教の神父、牧師、シスター、
ハワイの『ホ・オポノポノ』の祈祷師、アメリカの先住民族の祈祷師
などに渡して、「この人たちのために祈ってください」と依頼しました。

その際、病気についてはもちろんのこと、リストの彼らがどういう人物
であるかをいっさいあかさずに、ただ名前だけを情報として伝えた
そうです。

被験者(Bグループの患者たち)のほうにも、
「祈ってもらっている」という事実は伝えません。

この状態をしばらく続け、病院では100人全員に
通常の治療をしていきました。

その結果、祈ってもらったBグループ50人の方が、
Aグループの50人よりはるかに早く病気が回復したのです。


もうおわかりですね。
これは、「祈り」が我々の現実世界にどのような作用を及ぼすのか、
という実験です。

この研究結果は、アメリカのもっとも権威ある医学雑誌において、
論文として発表されたのですが、大いに物議を醸しました。

しかし結果は明瞭で、
《祈りをきちんとあの世の側に届けると、我々の肉体は現実的に変化する》
ということを示した事実として、評価せざるを得ません。

(中略)

祈りが直接肉体に何かをしたわけではなく、
祈ることで愛のエネルギーが生じ、その純粋なエネルギーが、
被験者のあの世の側にある霊体の状態を調整し、癒やしているのです。

我々の主体は霊体なので、霊体が癒されていくと、
必然的にこの世の側の肉体にも変化が現れてくるのです。

このように、祈りの力は確かな効果が出ている。
それを評価できないというのは、現代医学や科学の限界といえます。


こうした実験でもわかるように、
《目に見えずらいエネルギーと言うものが存在していて、
 私たちは普段から自分が発するエネルギーを、
 常にあの世側に届けては再び受け取っています。》

ですが、大抵の人はその事実に気づいていません。

祈りとはまさに、この世の側からあの世の側へ働きかける行為であり、
私たちが普段無意識下で行っていることを、意識上で行う、
というだけのことなのです。


先ほどからお伝えしていますが、これからの医療は西洋医療だけに
こだわりを持つのではなく、あの世の霊体とこの世の肉体を
トータルケアしていく心がけが大事です。

先ほどのような「祈り」といったことをお話しすると、祈りと宗教と
結びつける人がいて、「作法がわかりません」とおっしゃる方がいます。

しかし、そういうことではなく、
祈りとは愛であり、感謝です。

むずかしい作法など関係なく、心からの愛と感謝を発するだけで、
自然とこの世が「からあの世に染み出ていきます。

《これからの癒しとは、
 自らを愛と感謝で保護していくということに尽きるのです。》

          <感謝合掌 令和3年12月13日 頓首再拝>

祈りは斯く行え - 伝統

2021/12/28 (Tue) 04:32:54


         *『生長の家』(昭和23年9月12日の法語)より

祈りの法則。

まず神の智慧と愛と生命と供給と調和とが
宇宙全体に満ち渡っていることを心に深く思念することである。

かくて完全円満なる神へ心を集中したのち、
自分の求むるものを心に念じて
「 何々を斯くならしめ給え 」 と祈るのである。

それを繰返し祈るのである。


その祈りの果に、

「 既にそれは与えられている 」

と云う様な深い信念の境地に到達する。

そして 「既に与えられまして有り難うございます。」 と念じて、

あと数分間は ただ黙して神の啓示を聴く気持になって、
もう一度感謝してその祈りを終わるのである。

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

          <感謝合掌 令和3年12月28日 頓首再拝>

《謙遜(けんそん)なる者は多くを得る》 - 伝統

2022/01/22 (Sat) 05:02:57


       *『 生長の家 』)昭和25年1月10日の法語)より

   人間はまず自ら謙遜によって先師の教える所に
   虚心坦懐(たんかい)聞くようにしなければならない。

   釈迦(しゃか)やキリストは 偉大なる先師であって、
   神の み心を殆んど薄めることなく そのままに理解したのである。

   それに聴くことは、吾々自身の小さき智慧(ちえ)によって
   「 真理 」 と誤解しているものに従うよりも
   尚(なお)一そう真理であることがあるのである。


   吾々が祈る場合に何よりも大切なのは、
   何か物質的なものを祈るよりも、
   神の み心を知らしめ給えと祈る方が 一そう大切である。


   → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/c39834ad0ca3a7e105d439d5655bb571

          <感謝合掌 令和4年1月22日 頓首再拝>

《祈りは不断の生活にある》 - 伝統

2022/01/30 (Sun) 04:36:34

       *『 生長の家 』(昭和23年3月12日の法語)より

   祈りというものは、必ずしも或る一定時間
   大声又は黙念で神に懇請する事ではない。

   常に魂の奥底で念じている事、常に言葉で話し合ったり、
   呟いたりしている事も 「 祈り 」 であるから、
   神想観の時間にのみ、 「 自分は既に健康である 」 と念じても、

   その他の時間に於いて、自分の苦痛を他に訴えたり、
   出来るだけ同情して貰おうと思って、病苦を誇張して
   語ったりする様では駄目である。

   病気や不幸や悩みは 常時、出来るだけ言葉に出さず、
   心に認めず、思わず、光明のみを念ぜよ。

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13140836.html?type=folderlist(消滅)

          <感謝合掌 令和4年1月30日 頓首再拝>

《朝の祈りは斯くせよ》 - 伝統

2022/02/05 (Sat) 04:58:03

       *『 生長の家 』(昭和23年3月13日の法語)より

   朝起きた時、眠いのに面倒だとか寒いのに辛いとか思うな。

   すぐ思いを神に転ぜよ。そして

   「 神よ、わが眠りのうちにも呼吸せしめ給い、
    血液を循環せしめ給い、消化と栄養と休養とを与え給いて、
    新しき今日の生活に準備せしめ給いし事を感謝します。

    是は皆神の創り給いし霊的法則によって行われたのでございます。

    夜中 安全に守られ 祝福せられました如く、
    今日も亦 安全に吾等を祝福し給いて
    家業(又は営業)にいそしましめ給え。
 
    神様 あなたの守りに感謝致します。」

   と 祈れ。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13143699.html?type=folderlist(消滅)

          <感謝合掌 令和4年2月5日 頓首再拝>

祈りについて - 伝統

2022/02/15 (Tue) 04:35:18


     * 『幸福をひらく鍵』(P277~279)より

兒安ひろ子 

私はまだ、この教えを受けましてから1ヶ月にしかなりませんのですが、
祈りのことについてお教え頂きたいのでございます。
前に古代仏教、真言密教、禅宗などの教えをうけたこともあるのですが、
生長の家の御指導を頂いた方から2こうして下さい”というふうな
懇願の祈りは我(が)の祈りだときいたりしまして
・・・・・・少し迷っているのです。


谷口

『祈りの科学』『私はこうして祈る』という本がありますから
参考になさったらよろしいでしょう。

祈るというのは、命(いのち)で宣(の)べるということです。
命の底深く念ずることが祈りということになるのです。

仏教では祈るという言葉を使わないで、念ずるというのです。
南無阿弥陀仏というのも、極楽へひきとって下さいと頼むのじゃないので、
あれは仏を念ずる、つまり阿弥陀仏に南無する、即ち阿弥陀仏と
融会して一体でございますという意味です。

ところが人間は人格的存在ですから、
ただ阿弥陀仏と一体でございますと念ずるだけで
満足出来る人もあれば、満足出来ない人もいるわけです。

それで、「神」という宇宙に充ち満ちている本体と、
個人なる「人間」とが一つになる実感を得るための方便として、
人格的にお願いしたりする。

「一体感をうるために、祈る」
お願いするというような祈り方があるわけなのです。
人格的交流の祈り方ですね。



兒安 

自分のお願いごとでもいいのでしょうか?


谷口

宇宙の本体というものは、宇宙に充ち満ちている一つの法則ですから、
法則に祈ってみてもきかないということになる。

例えばラジオでも、波長を合わさないでいて、
沢山賽銭でも供えて〝どうぞ、これが鳴るようにして下さい〟
って拝んだって鳴りやしないでしょう。

波長さえ合わせたら、賽銭も何も供えないでも鳴るでしょう。
だから本当は、念ずることによって
心の波長を神に合わせることが祈りなのです。

しかしそれまでの手続きとして”神様どうぞ”とお願いした極致に
”ああ、これによって神様が来てくださって一つになれた”
という感じに誘導していく、そして波長が合うということになるのです。

ですから、頼む形式の祈りも時として効果があるし、
頼まないでも、一つという自覚がでてきたら、それでも効果があるわけです。



兒安 

お頼みしてもいいわけですか。
例えば家の中が調和いたしますようにとか・・・・


谷口

”調和いたしますように”と言うのもよろしいが、
それでは根本的に「調和していない」という考えをつかみますから
心でその「不調和」を認めて把むから
なかなか調和しないことになりがちです。

ですから、”調和していないのは、私の心の影であります。
皆さんはもう既に調和しているのにそれを調和していないと見る
私の心がまちがっているのでございます”

という風に、反省を自分にもってきて、
相手はもう既に調和していると拝まして頂く。

そうすれば、よくなります。

          <感謝合掌 令和4年2月15日 頓首再拝>

「祈り」と「願い」の本来の意味 - 伝統

2022/02/20 (Sun) 03:43:53


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2010-01-31)より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   神社仏閣は「○○○してください」と
   「お願いするところ」ではなく、
   「今の自分がいかに恵まれてありがたいか」を「感謝しにいく場所」

   「目が見えることに、感謝」
   「耳が聞こえることに、感謝」
   「自分の足であるけることに、感謝」
   「食べられることに、感謝」
   すべてが感謝なんです。

   「今の商売が気にいらない。もっと売上を伸ばしたい」
   と商売繁盛を願ったり、

   「もっとすてきな人と出会いたい」
   と良縁祈願をしたり、

   「私も妻も、子どもたちも、
    家族みんなが病気になりませんように」
   と家内安全を願うことは、

   「淡々と過ぎる日常」を与えてくださった神様に対して、
   「宣戦布告」をしているようなものです。

   そもそも「祈り」の本来の意味とは、
   「意」に「宣」と書き、「意のままに沿う」こと。

   つまり、
   「あなたの仰せに従います。あなたが望むように生きています。
    ありがとうございます。」
   という意味だったのですが、現在は違う意味で使われています。

  
   そして、「願い」の本来の語源も「ねぎらい」。

   「ねぎらい」とは、「よくしてくださってありがとうございます」
   という感謝をいうことでした。

   「祈り」と「願い」は、本来は、両方とも「感謝すること」だったのです。

      <『もうひとつの幸せ論』小林正観・ダイヤモンド社>

             ・・・

神社でお参りするとき、ついお願いをしてしまう。

しかし、小林正観さんは、お願いをしてはダメだという。

しかも、

お願いすることは、神様に対して
「宣戦布告」しているようなもの、と強烈なことをいう。

さらに、正観さんは、
「不幸だと思える出来事」に「感謝」できれば
「人生のポイント」を獲得できる、と語る。

病気だとか、事故だとか、業績不振だとか、一般に「不幸」だと考えられる出来事に
文句をいわないとポイントを獲得できるが、

そのうえ、「感謝」までできるようになると、さらにポイントが上乗せされる。

これは、何事にも「ツイてる」と考えるのと同じこと。


もし、業績があがらないとしたら、今いる、
お客さま、社員、スタッフ、家族、取引先に対して感謝が足りないから。

売上が上がっても、下がってもただひたすら感謝…

これからは、心を入れ替え、神様にお願いせず、
ただひたすら感謝の念ですごすことを実践したい。

https://ameblo.jp/hiroo117/entry-10441565107.html

          <感謝合掌 令和4年2月20日 頓首再拝>

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