伝統板・第二 2545535

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新時代”令和”1万円の顔・渋沢栄一 ②

1:夕刻版 :

2021/03/24 (Wed) 14:09:06

      *伝統板・第二「新時代”令和”1万円の顔・渋沢栄一」からの継続です。
        →http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7851266


渋沢栄一を動かした言葉 古河財閥の創業者・古河市兵衛
「生まれたばかりの銀行を潰し、日本の将来を台無しにしてはならぬ」 自らの資産も供出

        *Web:夕刊フジ(2021.03.15) より

(1)栄一は、役人を辞めて2カ月後の明治6(73)年7月20日、
   日本橋に日本最初の銀行、第一国立銀行(現みずほ銀行)を開業する。

   その船出は多難だった。もの珍しさもあって銀行の建物に人は集まるが、
   お金を預けたり借りたりする姿はほとんど見られないのである。

(2)そんな折、江戸から明治初期にかけて「豪商」でならした小野組が経営難に陥った。
   渋沢は焦った。同行は巨額の融資をしていた。
   何としてでも回収せねばならぬ。

   進退窮まった栄一は、小野組の経営責任者、古河市兵衛に直談判する。

   古河は懐から1枚の紙を取り出した。
   小野組の資産に加え、古河の個人資産も供出するとあった。

   「生まれたばかりの銀行を潰し、日本の将来を台無しにしてはならぬ。
    私は無一文になっても構わぬ」

   この席で、その紙片を見た栄一は男泣きに泣いたという。

(3)小野組は翌年、閉店に追い込まれたが、銀行は当座救われた。

   ただ、銀行の危機はその後も続く。

   今回の貸し倒れの危機の教訓を生かして、栄一は国立銀行条例の改正を試みる。
   この時、その改正案に理解を示したのが、当時大蔵卿だった、大隈重信だった。

   これも人の縁、巡り合わせというべきものだろう。

https://news.yahoo.co.jp/articles/2366db5b2b3c1ac87c760481c05f1f50f9807196

          <感謝合掌 令和3年3月24日 頓首再拝>
2:伝統 :

2021/03/25 (Thu) 15:25:06



あのドラッカー絶賛「渋沢栄一」が凄い真の理由
ロスチャイルドやロックフェラーを凌ぐと評価

        *Web:東洋経済ONLINE(2021.02.13)より

渋沢の業績を「マネジメントの父」と呼ばれるピーター・ドラッカーは大いに賞賛し、
授業でもたびたび取り上げている。

ドラッカーに直接学んだことがある経営コンサルタントの國貞克則氏が、
著書『渋沢栄一とドラッカー 未来創造の方法論』を基に、
渋沢とドラッカーの共通点を追いながら、

コロナ禍により混迷を極める現代のビジネスパーソンが
身につけるべき力とは何かを解説します。


ドラッカーは渋沢栄一を高く評価していた。

(1)「渋沢栄一が、誰よりも早く1870年代から80年代にかけて、
    企業と国家の目標、企業のニーズと個人の倫理との関係という
    本質的な問いを提起した。

    20世紀に日本は経済大国として興隆したが、
    それは渋沢栄一の思想と業績によるところが大きい」

(2)「岩崎弥太郎と渋沢栄一の名は、国外では、
    わずかの日本研究家が知るだけである。
    しかしながら彼らの偉業は、
    ロスチャイルド、モルガン、クルップ、ロックフェラーを凌ぐ。

    (中略)岩崎と渋沢は、たんなる豊かな日本ではなく、
    創造力のある強い日本をつくろうとした。

    いずれも、経済発展の本質は、貧しい人たちを豊かにすることではなく、
    貧しい人たちの生産性を高めることであることを知っていた。

    そのためには、生産要素の生産性を高めなければならなかった。
    資金と人材の力を存分に発揮させなければならなかった」

(3)ドラッカーが渋沢栄一を高く評価していた理由は、
   渋沢が500社に及ぶ会社を設立したということだけでなく、
   渋沢の基本的な考え方や鋭い洞察力を評価していたからだ。

(4)渋沢にはつねに天下国家という意識があった。
   また、運よく西洋の地を訪れ、当時の西洋の様子を自分の目で見ていた。

   そして日本は西洋による植民地化を避けるために
   富国強兵を旗印とし、産業の育成が急務だった。

   渋沢は、明治という時代が求める、ありとあらゆる事業を設立していった。

(5)渋沢栄一とドラッカーの共通項

  ①渋沢栄一とドラッカーが変化の時代に大きな成果をあげえたのは、
   高く広い視点で時代が求めているものを見極め、
   時代が求めているものに彼らの時間を使ったからなのだ。

  ②渋沢栄一とドラッカーに共通する2点目は、
   「本質を見極めていた」ということである。

   彼らは事業において極めて重要なのが
   「専門的経営者」であることを見極めていた。

  ③渋沢栄一とドラッカーに共通する3点目は
   ある時点で「だれもやっていない新しい道を歩むことを決意した」
   ということだ。

https://news.yahoo.co.jp/articles/0425a702152b7df9368221b10d331936e10926ae

          <感謝合掌 令和3年3月25日 頓首再拝>
3:伝統 :

2021/03/26 (Fri) 13:14:44


        *Web:Books&Apps(2021.03.12)より抜粋

(1)渋沢は、産業らしい産業が皆無であった明治期の日本で、
   実に500を超える企業の設立に携わり「日本資本主義の父」とまで
   呼ばれているほどの財界人だ。

   そして同時代に活躍した財界人に、三菱財閥の創業者である岩崎弥太郎がいる。
   日本勃興の近くには、いつも岩崎と三菱の影があった。

(2)渋沢は38歳のある日、44歳であった岩崎から料亭に呼び出されてこう持ちかけられる。

   「2人が組めば、日本の実業界を思うままにできる。
    一緒にやって大金持ちになろうじゃないか。」

   これに対し渋沢は激怒し席を蹴り、
   以降二人は長年に渡り反目し続けることになった。

(3)渋沢が岩崎に激怒した理由。

   渋沢は会社の存在意義を、「国と国民を富ますことが経営の目的」
   であるとし、

   「得られた富は広く分配するもので個人が独占すべきでない」

   と考えて、財閥の形成を真っ向から否定していた。


   そしてそのために必要な組織は株式組織であり、
   衆知を広く集め優れた経営者を募り、
   また株主の意見に耳を傾けることこそ、国益に叶うと確信していた。

   それに対し岩崎は、

   「だめだ,君のいう合本法(株式組織)は,船頭多くして船山に登るの類だ」

   と反論する。


   すると渋沢は、

   「いや,独占事業は欲に目のくらんだ利己主義だ」

   と応じて、二人は物別れした。

(4)自分の能力を頼りに目先の正面突破を図ろうとしたのが岩崎。

   意欲ある後進に知見と資本を提供し、
   長い目で見て世の中を変えようとしたのが渋沢。

   二人の経営スタイルの違いは、そのようなものだったのではないだろうか。

(5)渋沢の生き方は、今も昔も、利害を超えて多くの人の心を掴み続けている。

https://article.yahoo.co.jp/detail/2675c608b688d9ef35090d2d412415cbc391a7eb

          <感謝合掌 令和3年3月26日 頓首再拝>
4:伝統 :

2021/03/28 (Sun) 12:56:37


      *Web:本がすき(2021.03.15)より抜粋

道理なくして利益なし
約500ものスタートアップに関わった渋沢は、
企業を立ち上げ経営していくにあたって大切なこととして
次の四つを挙げている。

(1)道理正しい仕事か。
(2)時運に適しているか。
(3)己の分にふさわしいか。
(4)人の和を得ているか。”

ここでも、真っ先に人の道理をビジネスにとって重要なものとして示している。

こうした渋沢の発言は、道理をまず第一に優先し
自分の利益や富を追い求めることは重視していないようにも取れる。

しかし、田口氏はそれは間違いだと指摘する。

“論語をあっさりと読んでしまうと
「仁義道徳が大切で、富を追い求めるなんていけないよ」と捉えられがちだが、
それは「論語読み」のもっとも大きな誤解である、と渋沢は言います。

孔子は、
「富貴の者に仁義王道の心あるものはないから、
仁者となろうと心掛けるならば、富貴の念を捨てよ」

という意味に説かれたかというに、論語二十篇を隈なく捜索しても、
そんな意味のものは、一つも発見することはできない。”

渋沢は、利益を追求すること自体は否定していないのだ。

例えば、ある商品を安く作るために原料費をできるだけ抑えて
利益を最大化するのはビジネスの基本だ。

だが大企業が強い立場を利用して
下請けから原料を安く買い叩いていたらどうだろうか。

一時的には利益は出ても、いづれ悪事がばれて炎上するかもしれないし、
会社自体の発展にはつながらないだろう。
つまり、本当の利益になるとは言えない。

だからこそ、渋沢は道理を大事にして
本当の意味での利益を作っていくことが重要だと説いているのだ。

“今はネットの全盛時代。世界中の人々が直接つながている世の中です。
そんな時代に、人として道理に合わないことをして、
企業を持続させることなどできません。

だからこそ「商売」をするなら「ものの道理」を理解しよう。
論語(道理)を知らずして、算盤(ビジネス)はうまくいかない――。
そういうことを渋沢は説いています。”

道理なくしてビジネスでの利益は得られない時代。
今こそ渋沢栄一の『論語と算盤』から学ぶことは多くある。

https://news.yahoo.co.jp/articles/e9806695d9aabf2d6ff2557df9797ab711370de7

          <感謝合掌 令和3年3月28日 頓首再拝>
5:伝統 :

2021/03/30 (Tue) 19:47:16


        *Web:PHPオンライン衆知(2020年12月08日)より抜粋

(6)競争は、たとえて言えば、あたかも人体の熱のようなものである。
   人間を生かすも殺すも熱である。

   商人を生かすも殺すも競争である。
   だから商人は常に正常な体温を保つように注意しなければならない。


(7)理論と実際、学問と事業、この両者がよく調和し、密着するときが、
   人として完全な人格となり、国として富強になるのである。


(8)常に愚痴と苦情を言って世の中を渡っている人がいる。
   はなはだしい場合は、苦情を言うのを楽しみとして、
   苦情を言わなければ気がすまないという人もいる。

   しかしこの不平や苦情は、その人の信用を損ねる原因となることに
   気づかないとは、気の毒なものである。

(9)教育の目的は、ただその学生の天賦の本性を発揮させることにある。

(10)わが国の武士道による義侠心と、米国の正義・博愛の精神とは、
   その国がらが異なるのとは違って、相互に通じ合うところがあると思われる。
   この一致点は、今後両国の親善をはかる際に、見逃すべきでない。

   (https://shuchi.php.co.jp/article/8138

          <感謝合掌 令和3年3月30日 頓首再拝>
6:伝統 :

2021/04/05 (Mon) 14:26:38


       *Web:JBpress より

渋沢栄一と時代を生きた人々(1)「渋沢栄一(1)」2021.3.20
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64521

渋沢栄一の生涯を知れば近代日本の流れがわかる



渋沢栄一と時代を生きた人々(2)「渋沢栄一(2)」2021.3.21
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64524

尊王志士として奔走!?知られざる渋沢栄一の真実


渋沢栄一と時代を生きた人々(3)「渋沢栄一(3)」2021.3.29
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64525

自ら薩長藩のスパイを買って出た渋沢の驚くべき行動


渋沢栄一と時代を生きた人々(4)「渋沢栄一(4)」2021.4.5
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64529

渡欧中の大政奉還、渋沢が徳川慶喜に失望した理由

          <感謝合掌 令和3年4月5日 頓首再拝>
7:伝統 :

2021/04/08 (Thu) 14:09:01


       *メルマガ「人間力」(2021.4.8)より

生涯に481の企業経営、約600の社会事業に携わった渋沢ですが、
これだけの大事業を成し遂げた渋沢とは
どういう人物だったのでしょうか。

作家の童門冬二さんと、評論家の守屋淳さんに対談いただいた
『致知』2019年12月号の記事の中から
その人柄を物語る部分をご紹介します。

           ・・・

(守屋) 

渋沢栄一は農家に生まれて商売をやり、長じて侍になりました。
その後、官僚を経て実業の世界に入り数多くの足跡も残しています。

一生でこれだけのことがやれるのは、
人間としての器量の大きさを物語っているように思うんです。

パリ万博に行った時、他の侍が誰も考えない経済の重要性に気づいて、
日本に帰ってそれを実行しました。

そういう発想ができるのは、
いろいろな経験や苦労を通して人の気持ちがよく分かるからです。

これはとても重要なことで、
渋沢を大成せしめた要因の一つだと私は感じます。




(童門)

明治4年、岩倉具視をリーダーとする使節団が欧米を視察したでしょう。
新しい日本の国づくりをどのようにするのか、
そのお手本を探そうとしてヨーロッパを歩き回ったわけだけど、
大久保や伊藤博文といった連中が一番関心を寄せたのが、
鉄血宰相と呼ばれたドイツのビスマルクの考え方でした。

彼らはイギリスやパリで社会福祉の適用を受ける人たちを見ています。

しかし、富国強兵を旨とするビスマルクの思想にコロッとまいってしまって

「社会福祉事業は成熟後の国家がやるべきことだ。
 日本はまだそこまで行っていない」

と考えるんです。


そんな中で渋沢はちょっと違った見方をしていました。

成熟社会になった後で福祉をやるのではなくて、
弱い人間に対する福祉は最初からきちんと取り組まなくてはいけないと。



(守屋)

渋沢の晩年、暗殺が流行ったんですね。
團琢磨や安田善次郎などいろいろな実業家が暗殺されましたが、
渋沢は一切標的になっていません。

安田を暗殺した朝日平吾という男は、
その前に渋沢の家に行っているんです。
しかし、この時、刃物は持っていなかったといわれています。

渋沢が常に人々を救う、社会を育てるという思いで
生きていたことを知っていたのでしょう。


有名な話ですが、渋沢が亡くなった時、
飛鳥山の渋沢の家から青山の葬儀場まで並んだ見送りの数は
2万人だとされています。

誰かが動員したわけではなく、
皆、お世話になったという感謝の気持ちで見送っているんですね。

私が渋沢は実業家とは違うと思う理由の一つはそこです。



(童門) 

渋沢が忠恕の人でなかったら、
そんなにも人々に惜しまれることはなかったでしょう。

          <感謝合掌 令和3年4月8日 頓首再拝>
8:伝統 :

2021/04/20 (Tue) 20:49:09


今から120年前となる1901年のこの日(4月20日)、
日本初の女子大学である日本女子大学校(現在の日本女子大学)が
開学しました。


NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公で「日本の資本主義の父」と呼ば
れる明治の実業家・渋沢栄一氏(1840〜1931)はその設立に携わった
一人であり、第三代校長を務めていました。

(以下は、Web  より抜粋)

日本女子大学校は成瀬仁蔵(1858-1919)が1896(明治29)年から創立に着手し、
1901(明治34)年東京に開校した学校です。

渋沢栄一は当初から設立発起人に加わり、
第1回発起人会では創立委員および会計監督を引き受けました。

開校の準備に際しては建築委員および教務委員も引き受けています。

開校後1904(明治37)年組織が財団法人に変更されたときには、
栄一は評議員となりました。


栄一は学校の運営資金について、多大な寄付をしています。
『伝記資料』第26巻には「1899年 第一回募金中ニ金二千五百円ヲ寄附」(p880)、
「1904年 第二回募金中ニ金五千円ヲ寄附」(p892)、
「1907年 第三回募金中ニ金二万円ヲ寄附」(p905)という金額が記されています。

これだけでも合計27,500円となり、莫大な金額であることがうかがえます。

またお金だけではなく学生寮も寄付しています。
「1908年 栄一ノ寄贈セル「晩香寮」ノ開寮式ニ臨ミ祝辞ヲ述ブ」(p910)。

さらには自ら寄付をするだけでなく、成瀬らと共に
地方へ募金にまわっていることが、『伝記資料』第44巻に記載されています。


その後栄一は1931(昭和6)年4月に日本女子大学校の校長に就任していますが、
同年11月に栄一が没したときには全校授業を中止して哀悼式が催され、
葬列を全校生徒が沿道で見送ったのでした。


<参考Web>
第三代校長 渋沢栄一
https://unv.jwu.ac.jp/unv/about/history/shibusawa.html

          <感謝合掌 令和3年4月20日 頓首再拝>
9:伝統 :

2021/04/30 (Fri) 14:21:41


      *メルマガ「興心舘」(2021.04.30)より

GAFAを超えるほどの実績を上げた人物が、日本にいます。

その人物こそ、日本資本主義の父、

大河ドラマ「青天を衝け」の主人公であり、2024年から一万円札に描かれる

渋沢栄一翁です。


渋沢翁が、一代で500社の大企業を育て上げ、
ピーター・ドラッカーが驚愕・絶賛するほどの実績を上げた秘訣は、

「経済・商業の本質」を見抜いていたからです。


では、経済の本質、商業の本質とは何か。

それを語るためには、紀元前まで時代を遡る必要があります。

貨幣経済の原点です。

世界で初めて、貨幣経済を生み出したのは、
商業の神としてギリシャの伝説となった4千年以上前の宗教家、ヘルメスです。

それが生まれた背景にあったのは、物々交換による原始的な
生計においては、収奪行為や戦争が絶えなかったからです。

例えばある村で、食糧のために、いもを作っていたとします。
それが生産できない季節になれば、食糧が底をつきます。

当時の保存技術はあまり発達しておらず、物々交換をしようと思っても、
食べ物がない時にはそもそも交換できるものが残っていません。

それで当時の人間が選んだのが、
その季節に食べ物を持っている他の村を襲う、という収奪行為です。

例えば、200個のトウモロコシのために20人の人が死ぬ、
などということがあったわけです。

こうした収奪や殺戮を防ぐために、

ヘルメスは貨幣と貿易の制度を作りました。

食糧が生産できる時期に、それを貨幣に変えておくことで、
生産のできない時期になったら、その貨幣をほかの食糧に変えることができます。

貨幣はこうして、収奪や殺戮を防ぐ画期的な制度として誕生した訳ですが、

この制度を成り立たせるために、絶対に
必要不可欠なものが一つあるのがお分かりでしょうか。


それは、信用・信頼です。


いもを貨幣に変える時に、これが後になってトウモロコシに
変えられるということを「信」じなければならない訳ですから。

貨幣経済を成り立たせる大前提になっているものが、信用・信頼なのです。

つまり、商業の神となったギリシャの宗教家ヘルメスは、
もともと、この「信」を学ぶための宗教行為として、貨幣経済を生み出したのです。

貨幣や経済が先にあったわけではありません。


果たして、現在の貨幣経済はどうでしょうか。

リーマンショックやそれに端を発した金融危機で明らかになったことは、

国・企業・投資家・大学・個人・・・
あらゆるレベルで、信用が破綻したということです。


資本主義における、資本とは何か?

西洋発の現代資本主義は、目に見える具体的なものを通してしか価値を判断できない
「唯物論」に基づいて構築されているので、それを、目に見える「貨幣」の
中に見ようとします。

しかし、本来それを成り立たせている前提が崩れれば、これは全く機能しません。

個人も、企業も、国も、経済システム全体も、決して、永続することは叶わないのです。

その本質を100年も前に見抜いてた人物こそ、渋沢栄一翁です。


翁は、このような言葉を遺しています。

“商業の徳義はどうしても立て通すようにして、 最も重要なるは『信』である。

 この信の一字を守ることができなかったならば、
 われわれ実業界の基礎は鞏固(きょうこ)ということはできないのである”


数千年の時を超えて、国を超えて、脈々と受け継がれてきたものごとの本質。

言葉にしてしまえば、極めて簡単に感じるかもしれません。

しかし、その本質を学び、実践したからこそ、偉大な指導者は偉大になったのです。


より踏み込んでこれを解釈するならば、

目に見える「お金」を通してしか価値を判断できない唯物論によってでなく、

「目に見えない大切なもの」に目を向ける、ということでもあります。

それが、百年、千年と永続する企業が代々最も大切にしてきた繁栄の秘訣です。

          <感謝合掌 令和3年4月30日 頓首再拝>
10:伝統 :

2021/06/10 (Thu) 15:15:18

榮太樓飴を口に入れてくれた祖父──98歳令孫が語る渋沢栄一の思い出

         *メルマガ「人間力」(2021.06.10)より

───────────────────

生涯に約500の企業育成に携わり、
社会公共事業や民間外交に尽力した渋沢栄一。

生誕180年を超えたいまなお、その生き方や教えは
多くの経営者らに受け継がれています。

そんな渋沢翁の令孫として生まれ、
生前の祖父に温かく見守られて育ったという
エッセイストの鮫島純子さんに、

間もなく白寿を迎える半生を振り返り、
当時の思い出を語っていただきました。

───────────────────

《榮太樓飴を口に入れてくれた祖父》

(鮫島)

私は1922年、祖父の家近くで生まれました。

祖父終焉の自宅はいま飛鳥山公園(東京都北区)の一部になっていますが、
幼い頃は両親とともに行き、従兄たちと合流して遊ぶのが楽しみでした。


祖父は70代で、営利事業から既に手を引いていましたが、
それでも国際親善や教育活動、困窮者の相談、手伝いなど忙しく、
自宅には訪問者が出入りしていました。


その頃の祖父はいつも和服姿で、
大きな籐椅子に腰掛け、孫たちの遊んでいる姿を
ただ黙ってニコニコと見ていました。

「ごきげんよう」と挨拶をすると、
「よう来られたな」と言いながら孫たちの頭を一人ずつ撫でて、
食籠に入った榮太樓飴(えいたろうあめ)を一個ずつ口に入れてくれます。


もちろん、私たちは祖父が日本の近代化に貢献した
経済人であることなど知りませんし、
何か教えを請いたいという思いもありません。

私が祖父の生き方を教えられたのは、
中高生になってから父を通してであったような気がします。


父は祖父が手掛けなかった製鉄製鋼を官営から民営に移し、
懸命に働いた人ですが、祖父を「大人」と呼んで尊敬していました。

自宅の居間には、祖父の直筆による

「人の一生は重荷を負いて遠き道をゆくが如し。
 いそぐべからず不自由を常とおもえば不足なし云々」

という徳川家康公の遺訓を掲げ、
それを常に服膺し、私たちへの戒めにも用いていました。

休日になると、永年忠勤の運転手さんの運転で
近郊の緑地あちこちに私たち家族を連れていってくれました。

私は家族一緒のただ楽しい一日でしたが、
関東大震災の後、東京が過密化する中で、
各所に広い緑地を備えて非常時に
住民の安全を確保しなくてはいけないと主張していた父にとっては、
実はこれも仕事の調査だったのだと思います。

空き地の周囲を私たちが何歩歩いたかを数え、
距離や面積を計測したりもしていました。

祖父がそうだったように、
我が家も父の出勤前から父を訪ねてくる方たちがいました。

父はそういう人たちを励ましたり、時には諫めたりして
親身になって相談に乗っていましたが、

公に尽くす祖父の生き方を見習って、
広い視野で利他の生き方を、
図らずも私たちに背中で見せてくれていたのです。


《深く遠い慮り》

海軍横須賀鎮守府の主計長だった夫とお見合いし結婚したのは1942年、
大東亜戦争初期の、まだ国中が日本の躍進に沸いている最中でした。

しかし、開戦前、有力政治家と親交が深かった父が、
戦争回避に向けて奔走する姿を見ていた私は、
この戦勝ムードにどうしても馴染むことができませんでした。

製鉄会社で働いていた父は、鉄の生産量から考えても
日本に勝ち目がないことが十分分かっていたのです。

結婚8か月目、本来の職場・航空機製作所に戻ると、
夫の転勤で名古屋の中心部に住むことになりました。

夫が長期出張中の1944年12月、知多半島震源の大地震があり、
私は1歳の下の子を抱いて慌てて庭に飛び出しました。

2階に駆け上がって昼寝中の2歳の上の子を救い出し、
大揺れの中、命は守られましたが、年が明けた1月3日、
追い打ちのように名古屋市は初の空襲を受け、
我が家も焼夷弾の雨に見舞われたのです。

焼夷弾が降り注ぐ中、素掘りの壕から飛び出した子供を片手に、
もう一方の手で濡らした筵を引きずって必死に火を消し廻りました。

幸い近所の皆様が駆けつけて手助けしてくださったことで
借家は焼けずに済みましたが、信じられないような力が出せたのは
自分でも驚きでした。

これが火事場の馬鹿力かといまになって思います。

そんな私たちを心配していただいたのでしょう。
「こんな街中は危ないから郊外にあるうちの茶席に越していらっしゃい」
と声を掛けてくださったのは、

昔、祖父を徳川慶喜公の家来に取り持ってくださった
平岡円四郎さんのお孫さんに当たる方です。


円四郎さんは誤解から水戸藩攘夷派に暗殺されますが、
ご遺児を不憫(ふびん)に思った祖父は、
明治初期に家を建て、恩人の遺児を保護しました。

その方の娘さんが名古屋近郊で料亭を営んでおられ、
祖父への恩返しとして家を提供してくださったのです。

祖父の施しが、年月を経て徳も積まぬ私が恩恵を受け、
ご縁をありがたくいただいた次第でした。

祖父は困った方に直接金品を与えるより、
その方の特技を引き出しお働きに生き甲斐を感じるように仕向けたようです。

平岡さんの場合も、書道の先生として孫たちの家庭を回ることで、
謝礼以上のご援助をする、という形にしていたようです。

父の一高の同級生がご尊父の急死により進学を
断念せざるを得なくなったという話を父から聞いた時も、
祖父は息子たちの学生寮を設け、その方を学生長というかたちの謝礼で
ご郷里の支援をしました。

本人が遠慮を感じないよう、またプライドを損なわぬよう
祖父なりの慮りがそこにはあったようです。

私はそのご子息から聞かせていただき、この思いやりに感銘しております。


(本記事は『致知』2018年11月号 特集「自己を丹誠する」より
一部を抜粋・編集したものです)


          <感謝合掌 令和3年6月10日 頓首再拝>
11:伝統 :

2021/11/13 (Sat) 14:51:35


       *「『論語』と「算盤」」渋沢栄一・著より

乱世の豪傑が、「礼」というものを身につけなかったせいで、
家の存続や発展が上手くいかなかった――

こんな例は、単に今の明治維新の元老ばかりではありません。

どんな時代でも乱世に生きた人はみんなそんなものです。

私なんかも「家が上手くいってます」なんて
偉そうなことは言えない一人ですが、

あの希代の英雄、太閤秀吉こそ
「礼」で家の存続が上手くいかなかったことでは、
最も有名な人でしょう。

もちろんたたえるべきことではないけれど、
乱世に生きた人にとって、
こういうのは仕方のないことです。

あまり酷に責めることはできないだろうと思います。

それにしても、太閤・豊臣秀吉の最も大きな短所があるとすれば、
それは家のことが上手くいかなかったこと、
そして「機略」があっても「計略」がなかったことでしょう。

そして、彼の長所はといえば、
言うまでもなくその勉強、その勇気、その機知、その気概です。

このように挙げた秀吉の長所の中でも、
「長所中の長所」と言えるのは、その「勉強」です。

私はこの秀吉の勉強ぶりに心から敬服しています。

青年子弟の諸君にも、ぜひ秀吉の
この「勉強」を学んでほしいと思っているのです。

「事の成るは成るの日に非ずして、その由来する所や必ず遠し
(大きな仕事はいきなりできるものではなく、
 遠い昔からの努力の積み重ねが必要である)」

という言葉があります。

秀吉が希代の英雄になることができたのは、
なによりその「勉強」のおかげなのです。

          <感謝合掌 令和3年11月13日 頓首再拝>
12:伝統 :

2024/03/17 (Sun) 04:52:45


3月16日は「日本資本主義の父」と仰がれる
明治の実業家・渋沢栄一の生誕日です。

     *メルマガ「BBM」(2023年7月12日)より

(1)新しき時代には新しき人物を養成して新しき事物を処理せねばならぬ。

(2)第一、志操の堅実なること。
   第二、知識の豊富なること、
   第三、勉強心の旺盛なること、
   第四、忍耐力の強固なること、

   この四つを具備し、而して和を得れば天の時も地の利も、顧慮する要なからん。

(3)商業上の信用というものは、
   どこから起こるかというに、偽らざるが根源である。

   偽らぬという根源がなければ、信用の生じようがない。

(4)立志とは一生を有意味に終わるようあらかじめ志を決定することである。

(5)志すことは必ず行わねばならぬ。

(6)経済事業は、すべて富を得るをもって目的とするものであるが、
   我も富み人も富み、而して国家の進歩発達を資くる富にして、
   はじめて、真正の富と言い得るのである。

(7)競争を譬えてみれば、あたかも人体の熱の如きものである。
   人間を活かすも殺すも熱である。
   商人を活かすも、殺すも競争である。

   ゆえに商人は常にその平熱を保つことに注意せねばならぬ。

(8)理財の妙用は、永遠を期するに在り。
   即効を求むれば多く敗る。

(9)人々その日の事は、必ずその日に済ませ、
   後日に事の残らぬよう勉むべきである。

(10)広告も必要、自己表現も必要であるが、
   これらは外部的誘導手段に過ぎずして、
   内部的実質を充実するこそ、人気を博する根源である。

(11)およそ人を択び、人を採用するに、三つの要件がある。

   第一は適材を適所に置く事、
   第二はある特長を任用する事、
   第三はその人物の全体を観察して、その完全なるや否やを知り、
   もってその人を重用する事である。

(12)信ずべき人と、信ずべからざる人とを、区分するの標準は、
   志と、言と、行いとの三拍子揃うた人なるや否やを観察するに在る。

(13)逆境に処しては、断じて行え。

(14)およそ目的には、理想が伴わねばならぬ。
   その理想を実現するのが、人の務めである。

           <感謝合掌 令和6年3月16日 頓首再拝>
13:伝統 :

2024/03/29 (Fri) 14:10:06


    *メルマガ「人間力」(2024.3.29)より

…………………………………………
3月29日  天の働きと人間の役割
…………………………………………

天は実に霊妙なる者である。
公明なる者である。
正大なるものである。


天は社会のため、
国家のために尽くす人々に対して、
必ず幸福を与うるものであるから、

我々は社会のため、国家のために、
自己の責務を尽くすが、その本分である。


これを満足に務むるだけ、
それだけ自己の本分を
完(まっと)うすることになり、

その本分を完うするところに
幸福が在るのである。


ゆえに人はただ自己の本分を尽くす上において、
不足なきや否やと自ら省みるところに、
安心立命がある。

俗にいう『あきらめ』とはこの事で、
この一念に向かって、惑わず、倦まず、
直進すべきである。


…………………………………………
3月30日 天 命
…………………………………………

人の世に処するにおいて何者か知らん、
自然に我を助けてくれる霊妙なる力が
あるように感じられる。

この感応がすなわち天命である。


…………………………………………
3月31日  その日の事はその日に
…………………………………………

人々その日の事は、必ずその日に済ませ、
後日に事の残らぬよう勉むべきである。

         <感謝合掌 令和6年3月29日 頓首再拝>
14:伝統 :

2024/03/30 (Sat) 04:00:25

【内部を初公開】渋沢栄一が暮らした「旧渋沢邸」を都内に移築
日テレNEWS(2024/03/05)
https://www.youtube.com/watch?v=qsaeWZygUQs

         <感謝合掌 令和6年3月29日 頓首再拝>

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