伝統板・第二

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幸福の筐を開く⑨ - 夕刻版

2021/03/20 (Sat) 15:14:08

【幸福とは、考えること、言うこと、することが 調和している状態である】

             ~ マハトマ・ガンジー


幸福とは調和である

       *『幸福の哲学』(P132~133)より

あなたが幸福にお成りあそばすためには
心の法則をお知りにならねばなりません。

幸福とは物質的な一定の「形」のものではございません。

幸福とは調和の状態でございます。

如何に「物」が沢山あっても調和を失ったときには
もう幸福はその人から逃げ去ったのでございます。

物が沢山あるがために却(かえ)って
幸福を失っている方もございます。

幸福は調和にあるのでございます。

だからこそ『生命の實相』の巻頭には

「汝ら天地一切のものと和解せよ」

とあるのでございます。

調和は和解にあり、和解は感謝にあるのでございます。

感謝の心持は「《わし》が」「《わたし》が」と
自分の功(こう)を誇っている間は起こるものでございません。

その「わし」とか「わたし」とか云う「我(が)」の
高慢(たかぶり)が消えなければならないのです。


「わしがこうしてやったれば《こそ》」と、
「《こそ》」を自分に附けている間は
人間は本当にに幸福にはなれないのでございます。

それは高慢(たかぶり)があるからでございます。

キリストは幸福の秘訣を説いて「貧しき者は幸いなり」と申されましたが、
その貧しき者とは貧乏と云う意味ではございません。

心貧しく謙(へりくだ)りて
「我(が)」の打ち壊(くだ)かれたものでございます。

「我」の打ち壊かれた者は、「自分があったれば《こそ》」とか
「自分がこうしてやった《のに》」とか云うふうに、
「こそ」と「のに」とを自分の方に附けないのでございます。

幸福の秘訣はものを考えるのに、
「《こそ》」と「《のに》」とを先方につけるのでございます。

・・・

<関連Web>

   ”生長の家“本流宣言”掲示板”「幸せとは (5453)」
   → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=1185   (消滅)

(1)「光明掲示板・第一」内スレッド「幸い (475)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=137     

(2)「光明掲示板・第ニ」内スレッド「幸福 (10773)」
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2071  (消滅)

   伝統板・第二 にて再掲示
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7817631

(3)光明掲示板・第三「幸福 (85)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=42

(4)光明掲示板・伝統・第一「幸福への出発」
   → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=17

(5)伝統板・第二「幸福の筐を開く①」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6493420

(6)伝統板・第二「幸福の筐を開く②」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6840845

(7)伝統板・第二「幸福の筐を開く③」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7564514

(8)伝統板・第二「幸福の筐を開く④」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7609493

(9)伝統板・第二「幸福の筐を開く⑤」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7726414

(10)伝統板・第二「幸福の筐を開く⑥」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7817369

(11)伝統板・第二「幸福の筐を開く⑦」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7891876

(12)伝統板・第二「幸福の筐を開く⑧」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7987733

            <感謝合掌 令和3年3月20日 頓首再拝>

幸せに気づくことから始まる - 伝統

2021/03/24 (Wed) 14:11:58


         *Web:宇宙の兄弟たちへ(2021年3月22日)より

わたしたちは幸せになりたいと願いますが、
すでにある幸せには気づかずに通り過ぎてしまっていることがあります。

宝くじでも当たって何億というお金が手に入ったら、
それが幸せであるように思うかも知れません。

ですがもし、その数億円と引き換えに、
視力や聴力を差し出すとなったらどうでしょう?

目や耳が聞こえなくなるかわりに、
数億円もらえるとなったら、あなたは受け入れるでしょうか。

きっとそれなら断ると思います。

であるならば、あなたは今すでに、
数億円以上の価値のあるものを持っているという事になります。

あなたの身体は、数億円ものお金を超えた価値があります。

それを私たちはすでに持ち合わせているのです。


そうした事に感謝し、
幸せを感じる事は無くなっていたのではないでしょうか。


毎日、吸える空気があり、飲める水あり、お腹を満たす食べ物があります。

そのどれも日々に与えられなければ、生きていけないものです。

今現在生きているという事は、それらが与えられているからです。

そうした有難さや、幸せに気づかずにいます。


まずすでに与えられた幸せに気づいてみましょう。

毎日どんな幸せのもとで生かされているのか考えて見るのです。

幸せに気づくほどに、私たちは幸せに満たされていきます。

足りないものばかりを数えて不平をいうのではなく、
今ある幸せに気づいていきましょう。

幸せはあなたのそばにいつもいます。

   (https://www.spacebrothers.jp/2021/03/blog-post_22.html

            <感謝合掌 令和3年3月24日 頓首再拝>

幸福の秘訣 - 伝統

2021/03/26 (Fri) 01:14:44


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月25日)」より

胸を広くして待っていること。

ここに幸福の秘訣がある。

            <感謝合掌 令和3年3月25日 頓首再拝>

「悪口」は不幸を引き寄せる“最凶の呪文” - 伝統

2021/03/27 (Sat) 13:09:24


           *Web:オトナンサー(2021年3月27日)より抜粋

今回は、精神科医でベストセラー作家の樺沢紫苑さんに
「悪口」がもたらす弊害について伺いました。

(1)「悪口」は不幸になるトレーニング

  ①「ネガティブな観察力」が強い人は幸福感が得られない。

  ②多くの人は『ネガティブな観察力』を鍛えるトレーニングを
   毎日しています。それは『悪口を言う』ことです

  ③『悪口』は百害あって一利なしと考えます。
   といいますか、悪口を言い続ける限り、
   『幸せ』になることは無理。

  ④「悪口を言うことは相手の『悪い点』『欠点』『短所』
   『気に入らない言葉』『しゃくにさわる行動』を必死になって
    探し出すこと。

    つまり、『ネガティブな観察力』を鍛える、
    “最凶”のトレーニング法なのです。

    他人に対する『ネガティブな観察力』が鍛えられると、
    その『ネガティブな観察力』は自分に対しても
    無意識に発動されます」


(2)悪口は自己肯定感を下げる

  ①「悪口は自分の『外見』『性格』『行動』『言葉』に
    ネガティブな部分を発見し、
   『なんて自分はダメな人間なのだろう』と
    自己肯定感を下げるのです。

    悪口やゴシップが好きな人は寿命が5年短いという
    研究結果もあります。

    ストレス発散効果があるのなら、寿命は延びるはず。

    多くの人は『悪口大会はストレス発散になる』と
    信じていますが、全く逆効果なのです」

  ②「悪口ばかり言う人が人から信頼されたり、
    尊敬されたりすることはありませんから、結果として
    『つながり』を失っていく。

    そうすると、職場でも信頼されず、仕事でも成功できない。

    悪口を言うと、セロトニン的幸福、オキシトシン的幸福、
    ドーパミン的幸福の全てを失うのです。

    悪口やめますか?
    幸せ、やめますか?

    あなたが悪口を言うほど、
    『幸せ』はあなたから遠のいていくのです」

  ③結果として自分の自己肯定感を下げて、自分のストレスを増やし、
   自分の健康を悪化させる。それが「悪口大会」です。


(3)悪口をやめないと誰も助けてくれない

  ①社内で嫌われる人間には総じて、同じような特徴があります。
   それは樺沢さんが主張するように「悪口」の多い人です。

  ②悪口は聞いていて気持ちのいいものではありません。
   たとえ、親しい間柄であっても、悪口は絶対に口にしてはいけません。

   筆者が親しい上場企業の社長は、悪口の多い人とは絶対に付き合いません。

  ③では、酒宴の席で「悪口大会」に巻き込まれたら
   どうすればいいのでしょうか。

   一番簡単なのは(実は難しいのかもしれませんが)
   聞き役に徹して否定も肯定もしないことです。

   話を合わせてしまうと、悪口を話している人と同じになってしまいます。

https://news.infoseek.co.jp/article/otonanswer_86015/?tpgnr=life

            <感謝合掌 令和3年3月27日 頓首再拝>

コロナ禍のなか幸せを見つけていく事 - 伝統

2021/03/29 (Mon) 14:03:30


         *Web:宇宙の兄弟たちへ(2021年3月28日)より

私たちの人生には

見落とされた喜び、気づかれない幸せに満ちています。

多くの人がその事に気づかず、通り過ぎてしまっているのかも知れません。

ご飯が食べれる事。

食事を味わって食べれる事も小さな幸せでしょう。

コロナに罹った後遺症の方には、
味覚や臭覚がなかなか戻らない人もいるそうです。

今まで当たり前のように食事を味わっていた事が、
どれだけありがたい事か分かるはずです。


美味しくいただけることも喜びでありますが、
世の中には飢えに苦しむ人も多くいます。

豊かな日本に暮らしていると気づかないでしょうが、
世界ではコロナ禍によって飢餓人口が急増しています。

アフリカや中南米の国では、
食糧不足が起こって、飢えに苦しむ人が大勢出てきているのです。

私たち日本人は豊かな国に生きているため、
その事に気づかずに生きていますが、
満足な食事ができることは幸せです。


お年を召したり、病気などで自分で歩けなくなる方もいます。

いま自分の足で歩け、好きなところ、行きたいところに
自分で歩いていけるのも幸せな事です。


外に出て太陽にあたりながら散歩できることはしあわせです。

普通に呼吸ができることも幸せです。


コロナの患者さんには、息をするだけで
肺にガラス片が刺さったかのような痛みを感じるという人もいます。

当たり前のように呼吸ができ、苦しまずに息ができるのも、
普段気づかない喜びです。


そして身体が動かせて、
人々から喜ばれ、感謝される仕事が出来ることは人間にとって幸せです。

人々に喜んでくれるような仕事をし、報酬を頂けるのは、
とても幸せな事です。


働く職場があって、自分が必要とされている
と感じるのは、人としてしあわせです。

コロナ禍で満足に営業が出来ず、仕事を失う人が多く出る中で、
働ける喜びは再確認できるのではないでしょうか。

自分の目で世界が見れ、人のぬくもりを肌で感じ、
花のいい香りを感じ、楽しい音楽を聴けることは幸せな事です。


人と会う喜びもあるでしょう。

コロナで自粛が叫ばれ、外出したり、
人と会う事も憚られるようになりました。

今まで普通に人と会っていた事にも、
幸せだったときづくのではないでしょうか。


このように普段は感じ取れない幸せも、
意識して考えると、とても幸せだったことに気づくでしょう。

特にコロナ禍のなかにあって、今まで当たり前だと思ってきた事も、
ありがたいことだと再確認できるものは多かったはずです。

気づかなかった幸せを発見し、集めていく事で、
大きな幸せに変わっていきます。

ミツバチがせっせと花の蜜を集め、
巣に貯めていく事で、美味しいハチミツになっていくように、

小さな幸せを集めて大きな幸福へと変えていきましょう。

https://www.spacebrothers.jp/2021/03/blog-post_63.html

            <感謝合掌 令和3年3月29日 頓首再拝>

《自己を幸福にするには》 - 伝統

2021/04/01 (Thu) 19:43:33


        *『 生長の家 』(昭和26年4月1日の法語)より

   あなたの言葉、行い、想念、ことごとく
   神の国に 相応(ふさ)わしきものでなければならない。

   神の国には 讃嘆の言葉のみ充(み)ち満ちているのであって、
   決して憎みや、怨みや、呪いや、他(ひと)の悪を探す言葉には
   充ちてはいないのである。

   自分を最も害する言葉は、人を害する言葉であり、
   自分を最も害する想念、行動は、人を害する想念行動である。

   この真理が直ちに全人類にわかったとき全世界に平和が来るのである。
   自分を最もよくする想念感情は 「 愛 」 である。

   人のため人のためにと 愛念を起していると、
   愛念は 愛念を招(よ)びむかえ、
   自分自身が幸福になって来るのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12188423.html (消滅)

            <感謝合掌 令和3年4月1日 頓首再拝>

【自分がいかに恵まれているか】 - 伝統

2021/04/10 (Sat) 23:31:25


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2021.03.27)より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   私たちは、必要なものは全部、天や神さまから与えられて、
   本当に幸せの海の中にいるのです。

   私たちは未熟なので、
   「あれが足りない」「これが足りない」と、ずっと言い続けていますが、
   本当に必要なものは全部与えられている。

   有り難くて、有り難くてしようがない状態で
   生きていることに気が付いてください。


   K-1という格闘競技で活躍していたアンディ・フグは、
   35歳のとき急性白血病で入院をしてから、わずか1週間後に亡くなりました。

   どういう理由で何が起きたかわかりませんが、
   あれだけ体を鍛えていた筋骨隆々の人が、
   わずか1週間で亡くなることもあるのです。

   私たちは、何もしていないのに、
   体にそういうものを受けないで生きてきました。

   なぜ、そのような恵まれた状態なのに、
   「あれも足りない」「これも足りない」「あれも欲しい」「これも欲しい」と
   言い続けているのでしょうか。

   私たちは、いつ急性白血病になって
   1週間で死んでもおかしくないのです。


   私たちは、人によって違いますが、
   1日に5時間とか8時間の休息をとります。

   それから「週休が欲しい」「月の休みが欲しい」
   「年の休みが欲しい」と言います。

   でも、人間の臓器は、全然お休みをしていません。

   もちろん、夜も寝ていません。

   土曜日になったらお休みする、
   日曜日になたらお休みするということがない。

   月に1回や2回休ませろ、というのもありません。


   私たちは、この心臓や膵臓や肝臓や腎臓に対して感謝することもなく、
   「自分の欲しいものが手に入らないんだ」
   「あれをどうしても手に入れたい」
   というようなことばかりを言っています。

   しかし、どうして今こうやって笑顔で生きていられる私、
   そして私のすべての臓器や細胞に対して感謝の心を持たないのでしょうか。

   これは臓器だけではありません。

   「私」が今、笑顔で生きていられるということは、
   すべてありとあらゆる存在の人から、
   「為し合わせ」としていただいているのです。

   (「為し合わせ」とは、お互いにしてあげることで、
    「幸せ」という言葉の語源です。)


   私たちは、心臓や肝臓や膵臓から
   たくさんのことをしていただいているにもかかわらず、
   お礼を言ったことはないと思います。

   このような存在にもお礼を言ってみてはいかがでしょうか。

   たとえば、右手で心臓に手を当てて、
   「愛しています。ありがとう」と言ってみてください。

   それだけで心臓は、ものすごくやる気になることでしょう。


   私は、人が死んだ話や
   悲惨と言われるような事故にあったことを聞いたときに、
   「そんなひどいことがあるじゃないか」
   と指をさすことはしません。

   「私」がその事件によって教えらえることは、
   すべての存在に「ありがとうございます」
   と手を合わせることだと思います。

   自分がいかに恵まれているか。

   そういうことに巻き込まれないで
   笑顔で生きていられる「私」がどれほど幸せであるか、
   ということに気が付いた方がいいと思います。

   幸せの本質というのは、していだいていることに対して、
   「私」もお返しをして、喜びがキャッチボールされること。

   それが幸せという言葉の意味です。

     <『神さまの見方は私の味方』宝来社
             https://amzn.to/3d8jDl8 >

          ・・・

人は、歯が痛くなってはじめて、歯の存在に気づく。

いかに、今まで何も文句も言わずに働いてくれていたことが分かる。

たった一本の虫歯でさえで、食事ができなくなるのだから。


「ありがとう」の反対は「あたりまえ」だと言われる。

体の中の「心臓」や他の「臓器」が24時間動き続けるのも「あたりまえ」。

虫歯になったときはじめてその「あたりまえ」の「ありがたさ」に気づく。


「ありがたい」とは「有り難い」。

「有り難い」とは、この世に有(あ)ることが難しい、
稀(まれ)であること、奇跡のようなこと。

心臓が四六時中動いているのは、本当は「奇跡」のようなことなのだ。

だからこそ、その「奇跡」に対して「ありがとう」。


痛くならない「歯」に、24時間動いてくれている
「心臓」に、「膵臓」に、「肝臓」に、
そして自分の「体」全部に「感謝」をすること。

そして、体だけではなく、自分が今日一日、
事故にも会わず、病気にもならず、事件にも巻き込まれなかったとしたら、
これほどの奇跡はない。

つまり、生きているのではなく、
生かされている自分に気づくこと。


「自分がいかに恵まれているか」

毎日の幸せに気づき、
「ありがとう」と感謝多き日々をおくる人でありたい。

            <感謝合掌 令和3年4月10日 頓首再拝>

自分の人生を幸運に変えていく方法 - 伝統

2021/04/11 (Sun) 20:20:07


         *Web:宇宙の兄弟たちへ(2021年4月10日)より

だれしも幸運に恵まれたいと望んでいるでしょう。

ですが私たちの人生には様々な波があり、幸運と思えない人もいます。

きっと「自分は何て運の無い人生なんだ」と嘆いている人もいるかと思います。

しかし、自分が持っている運を、
幸運に変えていく方法があるとしたらどうでしょうか?

そんな方法があるなら、みんな喉から手が出るほど、
その方法を求めるかも知れません。

実は、実際にあるのです。

幸運に変えていく方法は実際にあります。

その方法を今日はご紹介したいと思います。


まず、ひとつには、不運と思える出来事があったとしても、
そこから幸運の種を探してみるのです。

たとえば自動車に運転中に事故に合い、車が壊れてしまったとします。

普通であれば「事故に合って、自分の車が壊れてしまい、なんて不運なんだ」
と思う事でしょう。


しかし、幸運な人は違います。

「ああ、事故に合っても死なずにたいした怪我もせずに助かった。
 車はまた買えばいいけど、命は買えるものではない」と思います。

普通の人が不運と思えることの中にも幸運の種を見つけるのです。

そして一見すると不運に見える事でも、
長い目で見れば幸運に変わっていく事があると知っています。


先日も紹介しましたが、本田技研の創始者である本田宗一郎氏は、
大手自動車メーカに面接に行きますが落ちてしまい、
しかたなく自宅のでスクータを組み立てていた所、
それが世界的な大企業のもとになりました

このように、一見すると不運に見える事でも、
長い目で見ると幸運の種となる事があります。

そのため、たんに不運だと嘆いているのではなく、
その中にも幸運なことろを見つけていくようにしましょう。

すると徐々に運も上がっていきます。

そしてもう一つは、失敗の中から何かを学び取るということです。

上手くいかなかったら運が悪かったと嘆くのではなく、
「なぜ失敗したのか?うまくいかなかった原因は何だったか?」を考えるのです。

失敗を未来に活かすことで、運を変えていくことが出来ます。

たとえば、何かにチャレンジしても、運を嘆く人というのは、
うまくいかない原因を運だけのせいにして、何が悪かったかなど考えたり、
問題点を見つけることがありません。

ただ、「今回は運が悪かった。次に行ってみよう」といって
また同じ失敗を繰り返します。

失敗して反省する人は、何が悪かったかを考え、それを修正していきますので、
徐々に成功の確率が上がっていきます。

そしてやがては成功の軌道に乗っていくことが出来るのです。

そのように大切なのは不運を嘆くのではなく、
まずその中に幸運と思えることを見つける努力をする事です。

そして失敗の中に未来に繋がる問題点を見つけていく事です。

逆に運が悪くなっていく人というのは、
何か運勢の責任にしたり、占いに頼ったりします。

そうした努力を怠って占いなどに依存しようとする人は、
かえって運が落ちて行ってしまいます。

考え方次第で運も変えていけるのだという事です。

みなさんも自分の人生を幸運に変えていってください。

  (https://www.spacebrothers.jp/2021/04/blog-post_10.html

            <感謝合掌 令和3年4月11日 頓首再拝>

当たり前に感謝していると、「幸福」がポッカリと姿を現す - 伝統

2021/04/13 (Tue) 00:02:05


           *「光明道中記」(4月12日)より抜粋

「幸福」を追っ駈け廻している時には却って
「幸福」などと云うものはやって来ないのである。

「幸福」を追っ駈け廻すことを止めて、
ただ当り前のことを当たり前に感謝して行なっている人には
「幸福」が予期しないのにポッカリと姿を現す。

            <感謝合掌 令和3年4月12日 頓首再拝>

幸いから転落したり、悩みの種が幸福の種に変わる事もある - 伝統

2021/04/13 (Tue) 19:07:51

        *Web:宇宙の兄弟たちへ(2021年3月17日)より

中国のことわざに「人間万事塞翁が馬」という言葉があります。

これは中国の古い書物「淮南子」に書かれた故事をもとにした諺です。


中国の北方にある老人(塞翁)が住んでいました。

ある日、その老人の飼っていた馬が、
北に住む異民族の元へ逃げて行ってしまいます。

つかまえに行くわけにもいかず、大事な馬を失ってしまったのです。

しばらくするとその逃れた馬が、今度は良馬を引き連れて帰ってきました。

はじめは馬が逃げて災難だと思っていたのが、
逆に良馬を引き連れて帰ってくる事で幸いに転じたわけです。


ところが、その良馬に老人の息子が乗っていると、
落馬してしまい足の骨を折るけがをしてしまいます。

今度は幸いと思ったことが災いに転じたわけです。

さらにしばらくすると、北の民族との間で戦争が起こり、
老人の住んでいる村でも大勢の男が戦争に駆り出されました。

戦争に行った者たちは大勢命を落としてしまいましたが、
その老人の息子は、落馬した怪我があったため、
戦争に行かずに済み、結果命を救われる事になります。

このように災いと見えるものが幸いに転じ、
幸いと思えることが災いに転じる事があるという話です。


中国の老子は『禍福は糾える縄の如し』と言葉を残しています。

禍は災いの事で、福は幸せな事です。

つまり災いと幸せは、縄のように交互に絡み合っているという意味です。

だから今、幸せだからと言って有頂天になっていては転落のもとになるし、
不幸だからと言って落ち込んでいてはいけないという事だと思います。

ひとは好調の時には自分の手柄だと思って慢心してしまい、
次の転落の種を生んでしまいます。

たとえば事業に成功したと言って、自分が優れているからだと己惚れていると、
いつか足元をすくわれて痛い目に合ってしまいます。

また、不幸のドン底にあると悲嘆している人も、
それが次の幸せの種になって、次は喜びが来ることを知るべきです。

悲嘆に暮れていると、人間は心境も落ちてしまい、
さらなる災いを招いてしまう事もあります。

そんな時は、次の展開を信じて、
これからはよくなっていく事を思いましょう。

長い人生では幸せな事もあれば辛く悲しい事もあります。

ですが地上の人間が考えるように、訪れたものが何が不幸で、
何が幸せかすぐに決まっているものでもありません。

長い目で見れば不幸と思ってたら、実は幸せの種になる事もあります。

幸せの時には自分を律して行き、悲しい時には悲嘆せずに
次は良いことが訪れると信じていく事が大切です。

  (https://www.spacebrothers.jp/2021/03/blog-post_17.html


・・・

<参照>
伊勢ー白山 道(2021-04-13)
幸運の基礎に必ず在ること
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/6b8f82b7584b7941ba8930bdfb08e620

            <感謝合掌 令和3年4月13日 頓首再拝>

幸福の声を聴く日 - 伝統

2021/04/14 (Wed) 19:29:27


           *「光明道中記」(4月14日)より

【誰でもあらゆる物を有(も)って出発する。全てが吾がうちに在るんですからな。
                              (百事如意)】


「幸福」の天使(てんのつかい)が出て来まして或る日私に斯(こ)う言いました。――

「私は常にあなたの後を追っ駆けて走っているのですのに、
あなたは何故(なぜ)そんなに逃げるのですか。もっと緩(ゆっく)り歩きなさい。

急ぐことは要らないのです。当たり前に歩いていさえすれば
私は屹度あなたに追着くことが出来るのです。
それだのにあなたはそんなに私から逃げて走って行くのですか」

私は答えました ――

「幸福さん、私は貴方(あなた)から逃げているのではありません。
私は貴方に近附こうとして一所懸命走っているのです。
それだのに貴方は私が走れば走る程逃げて行くのです」

「幸福」は斯う答えました。

「私は逃げていません。私も貴方に追着こうとして走っているのです。
それだのに私は貴方に追着けないのです。
あ、判りました。私たちは人生と云う円周の上を走っているのでした。
どちらかが緩(ゆっく)り歩いたら、すぐ二人は一緒のところへ来るのでした」

「斯うですか? 」私は人生の歩みを止めました。
と同時に「幸福」の天使の姿は見えなくなり、

「止まっては可(い)けません。
止まってはどう云うものか私にはあなたの姿が何処(どこ)にいるか見えなくなるのです」
と云う声だけが聞こえました。――

            <感謝合掌 令和3年4月14日 頓首再拝>

着実に今自分に与えられたる人生の行路を歩む者に幸福が追い着いてくれる - 伝統

2021/04/15 (Thu) 19:44:40


           *「光明道中記」(4月15日《喜びに招かれる日》)より

【・・・この力と接触する道は、最大多数の人間には最大多数の善を為そうと思って
 自己の生活を正しくすることです。『百事如意』】


「幸福」はあなたを愛人のように追駆けて走っており、
あなたも亦「幸福」を愛人のように追駆けて走っており、
そうして互いに相逢ことが出来ないのは、

「幸福」と同一円周上にいながらあなたが「幸福」をあまりに追駆け廻している
からだと云うことに気がお着きになったことでしょう。

一所懸命に「幸福」を追賭け廻している限り、
ついに吾々は「幸福」に追着くことが出来ないのです。

では停止して了(しま)ったら、「幸福」の方から追着いてくれるでしょうか。

吾々が人生の働きの歩みを停止したら、「幸福」の眼には吾々の姿が見えなくなるのです。
何故なら各人は、「生命」であり、「生命」は活動している時だけ、
その姿が顕れているからです。
「生命」が活動を止(や)めたときに、そこに吾々はもういない。

吾々の姿は無くなるのです。

だから「幸福」の天使(てんのつかい)に追着いて貰うためには
吾々は「幸福」を追駆け廻してはならないし、
それだと言って「生命」の歩みを止(と)めてはならないのです。

「幸福は必ず自分に追着いてくれるもの」と信じて、
急がず焦らず悠々と着実に今自分に与えられたる人生の行路を歩む者には
遂に幸福が追着いてくれるのです。 

            <感謝合掌 令和3年4月15日 頓首再拝>

【人生をどれほど楽しんできたか】 - 伝統

2021/04/25 (Sun) 13:30:57


        *メルマガ「人の心に灯をともす」(2021.04.12)より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   ダイヤモンドを持ってくることはできます。
   金ももってくることはできます。

   100人が100人とも、指さして
   「これは金だ、ダイヤモンドだ」ということはできますが、
   では「幸せ」というものを持ってくることのできる人はいるでしょうか。


   宇宙的な意味で、絶対的な価値を持つものとして、
   誰もが認める幸せという名の現象、物体は、
   今も過去も存在していないのです。

   では、なぜ幸せという言葉が存在するのでしょうか。

   幸せは、「私」にだけ存在するからです。


   「私」が幸せだと思ったら幸せ。

   隣の人にとってそれが幸せなのではなく、全部「私」がそれを決めるのです。

   今、目の前にある現象が来たとする。

   この現象について私が、「あ、嫌なことだ、不快なことだ、イライラする」
   と思ったとします。

   思った瞬間にこれは嫌なこと、不快なことになります。


   では、「私」がそう思わなかったら、この現象はただ通り過ぎるだけのこと。

   ある現象が次に来たとする。

   そのときに「私」が、

   「あ、楽しい」

   と思ったとします。

   その瞬間にこれは楽しいことになります。

   「楽しい」と思わなかったら、これはただ通り過ぎるだけのことです。


   つまり、「私」が全部決めている、ということです。

   幸も不幸も、勝ちも負けも、成功も失敗も、敵や味方も、全部自分が決めている。

   「私」がそう決めなければ、敵も味方も、成功も失敗も、勝ちも負けも、
   幸も不幸も全部宇宙には存在しないのです。

   全部ゼロ現象として存在している。


   それをお釈迦様は「五蘊皆空(ごうんかいくう)」と言ったらしい。

   重いとか軽いとか、暑いとか寒いというように色づけして、
   感想をつけて物事を評価したときに、その現象は実は全部「空」である、
   ということを後世の人々に伝えたかったらしい。

   この一言が伝われば、そしてこの意味がわかると、
   私たちは悩みや苦しみから100%解放されるはずだった。

        <『「人生を楽しむ」ための30法則』フォレスト出版
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             ・・・

小林正観さんは「物事のとらえ方」についてこう語っている。


『物事のとらえ方を、3つの帝国の住人になぞらえることができます。

 「物事が半分しかないじゃないか」と否定することを、
 非(あら)ずの心で「悲しい」と書きます。

 物事について「そうじゃないじゃないか」と非ずと否定する心が、
 悲しみ悲劇の元、ということを表しています。

 そればかりを言っている国に住んでいる人を、
 私は「非帝国(否定国)の住人」と名づけました。


 そして、「うれしい、楽しい、幸せ」と
 物事を何でも好ましいほうにとらえる人を
 「好帝国(肯定国)の住人」と言っています。

 そして、コップに水が半分残っているのを見て、
 「何者かが半分も残してくださってありがたい」というようなとらえ方をする人、
 物事を何でも感謝の心で「ありがたい」という人。

 私は東京の深川の生まれなので、江戸弁でこれを
 「ありが帝国(ありがてえ国)の住人」と名づけました。

 非帝国の住人であってもかまわない。

 それが楽しくて心地よければそこにいていいのです。


 好帝国の住人でいるのが心地よければ
 「うれしい楽しい幸せ」と思って生きていけばよい。


 それから何でも「ありがたい」と思って生きていくのが心地よいのであれば、
 その心地よいところで自分が生きていけばよい、ということです。』


「五蘊皆空(ごうんかいくう)」とは、
仏教の言葉で、この世の全ての存在や現象は「空」であるという。

五蘊とは、5つの集まりのことで、色、受、想、行、識をいう。

色とは、肉体であり、身のまわり全てのもの。

受とは、感じること、知覚すること。

想とは、何かを想うこと、好き嫌い。

行とは、意思や、捉われた想い。



あの世に行くと、向こうで決まって聞かれることがあるという。

それは、「人生を、どれほど楽しんできたか」という問い。

つまり、人生という現象をどう捉えたか、という質問だ。


小林正観さんは、

「幸も不幸も、勝ちも負けも、成功も失敗も、敵や味方も、全部自分が決めている」

という。

つまり、この人生を楽しいと思うか、そうでないと思うかは自分が決めている。


この一度しかない人生を…

面白がって、楽しんで、愉快に、生きていく人でありたい。

            <感謝合掌 令和3年4月25日 頓首再拝>

本当の幸福の味 - 伝統

2021/04/26 (Mon) 23:55:37


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月26日)」より

本当の幸福は淡々たる水のごときものである。
淡々たる水のごとき幸福によってのみ魂は本当の渇(かつ)を癒されるのである。

どぎつい幸福、有頂天な歓喜、陶酔的な快味は、アイスクリームのごとく、
コーヒーのごとく、砂糖入りの紅茶のごとく、酒のごとく、アルコールのごとく、
刺激が強いかわりにいつまでも渇きは続くのである。

淡々たる生活の本当の幸福の味を知るようになるまで、
人間は彷徨(さまよ<ほうこう>)い歩かねばならないのであろう。

            <感謝合掌 令和3年4月26日 頓首再拝>

永遠の幸福が約束されている - 伝統

2021/04/30 (Fri) 14:31:26


     *「光明道中記」(4月30日《神一元の自覚愈々深まる日》)より

【天地間皆神様であり、みな神様のものであると知ることです。
                    (『生命の實相』第十七巻)】

汝の消極的思想を撃滅せよ。
悲観は吾々にとって今後用なきものなのである。

すべての事物は吾々の幸福の為に回転していること、
太陽の周囲を無数の星辰が回転しているのと同じことである。

今より後悲しみは無く、苦しみは無く、嘆きは無いであろう。

吾々にとっては永遠の幸福が約束されているのである。
たとい自分の周囲が今どんなに暗黒であろうとも、
それは黎明の光が差し昇って来ようとする前の一(ひ)と時(とき)でしかない。

一等暗い丑満時はもう夜明の近づいたことを示している。

古い建物を毀さなければ新しい建物は同じ地上に建てることは出来ないのである。
同一の人間に新しい運命が築かれようとする場合には
今までのその境遇は毀(くだ)かれねばならない。

新しく生きることを知らぬものは、
今までの境遇の破壊に蟷螂(とうろう)の斧を以て反抗し、
新しい運命の来ることを拒むであろう。

その人は新しい太陽と共に差し昇ることを知らぬ人である。
旧き境遇の破壊を微笑を以て迎え、新しい運命と倶に共働する者のみ栄えるのである。

            <感謝合掌 令和3年4月30日 頓首再拝>

【幸福は伝わる】 - 伝統

2021/05/05 (Wed) 23:51:23


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2021.05.05)より

   (岸見一郎氏の心に響く言葉より…)

   哲学者の三木清は、

   「歌わぬ詩人というものは真の詩人でない如く、
    単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう」

   といっています(「人生論ノート」)。

   幸福は必ず外に表されるものです。

   その幸福は他者に伝わります。

   幸福な人と一緒にていて、幸福になれないことはありません。


   どのように幸福が外に表されるのか。

   三木は「機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと」をそ
   の例にあげています。


   まず、「機嫌がよいこと」は簡単なことではありません。

   しかし、常に上機嫌でなくても、気分が安定している人と一緒にいると
   たしかに自分の気持ちも落ち着いてきます。

   余計な気を使わなくて済むのはありがたいです。


   次に「丁寧なこと」。

   何かをお願いされても対応がおざなりになることはあります。

   忙しいことなどを理由に求められたことをできないとは思わないで、
   しっかりと対応できることが、丁寧であるという意味です。


   さらに、「親切なこと」とは、
   援助を求められたら、可能な限り、力になることです。

   何でも力になれるわけではありませんが、
   時に自分のことを後回しにしても、心に余裕があれば、
   援助を求めてきた人の力になれることを幸福に感じられるのです。


   三木が最後にあげている「寛大なこと」とは、
   考えの違った人を受け入れることです。

   介護の場面でも、親の考えとぶつかることはあります。

   それでも、親の考えを理解する、少なくとも理解する姿勢を示すことは大切です。

   理解することは賛成することではありませんから、
   違う考えを寛容に受け入れてみましょう。


   親の立場からいえば、
   子どもが看病や介護のために幸福を犠牲にしてまで
   自分に尽くしていると見えるのは、嬉しいことではありません。

   親のためにと思い献身的な介護をしても、
   介護をする子どもが不幸であれば、
   かえって親を不幸にしていることもあるのです。

   子どもの立場からいえば、親に苦しむことなく、
   できるだけ安楽に過ごしてほしいと思います。

   そのために自分が親の力になれることを喜びに、
   そして、それを幸福と感じられれば、
   そのような子どもの思いは親に伝わり、
   親は子どもの世話を負担とは思わないでしょう。


   三木は次のようにいっています。

   「我々は我々の愛する者に対して、
    自分が幸福であることよりなお以上の善いことを成し得るであろうか」


         <『「今、ここ」にある幸福』清流出版
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              ・・・

本文の中にこんな素敵な言葉がある。

『実に人生そのものが旅であり漂泊です。
 ただ目的地に着くことだけを問題にし、
 途中を味わうことができなければ、旅を楽しむことはできません。

 実際に旅に出なくても、日常の生活の中で時間に縛られずに
 悠々と生きられたら、これからの人生はずいぶんと違ったものになるでしょう。』



「幸福」とは探しにいくものではなく、「今、ここにある幸福に気づくこと」

遠くまで幸せの花を探しにいくのではなく、道端に咲く花の美しさに気づくこと。

ほんの小さな幸せに気づくこと。

そして、それに感謝すること。


すると、その人からは、幸せが、にじみ出てくる。
そこはとなく、花の香りが漂ってくる。

それを「花は香り、人は人柄」という。

人柄という徳の香りだ。
その徳の香りが、

「機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと」。


「機嫌がいい」とは、他の人がどうあれ、自分が機嫌がいいということ。
なぜなら、自分の機嫌は自分で取れるからだ。

反対に、不機嫌な人は他人に左右される。
そして、人のせいで自分の機嫌が悪くなると思っている。


安岡正篤師は、「徳とは無類の明るさのことである」と言われた。


「丁寧なこと」とは、丁寧に生きるということ。

挨拶や、ハイと言う返事、言葉遣い等、礼儀正しく生きるということでもある。

自分が幸福で満ち足りていれば、誰に対しても丁寧にできる。

自分が荒れていれば、荒れた言葉を使い、いい加減で無礼な態度で接する。


「親切なこと」とは、
自分の心が愛で満たされていれば、自然と人にも親切にできる。

自分が不幸なら、人のことまで気がまわらず、自分のことで精一杯だ。

ましてや、人に親切なことなどできない。


「寛大なこと」とは、人を許すことができること。

不幸な人は、人も許すこともできないのと同時に、自分も許すことができない。

自分のことを嫌いだったり、自信がなかったり、完璧主義だったり、と言う、
いわゆる「自己肯定感」が低い。

幸せな人は大らかで、余裕がある。


「不機嫌は伝染する」という言葉があるが、「幸福もまた伝染する」。

「幸せな人」、つまり、
機嫌のいい人、丁寧な人、親切な人、寛大な人と一緒にいると
自分も幸せになる。


「幸福は伝わる」

今、ここにある幸福に気づける人でありたい。

            <感謝合掌 令和3年5月5日 頓首再拝>

幸福を呼び込み、不幸を避ける法 - 伝統

2021/05/20 (Thu) 12:51:41


      *『ポケット菜根譚』(chi chi POCKET CLASSICS SERIES)より
        ~メルマガ「致知BOOK」(2021.05.19)

福(さいわい)は徼(もと)むべからず。
喜神(きしん)を養いて、
以て福を召くの本となさんのみ。


禍(わざわい)は避くべからず。
殺機を去りて、以て禍に
遠ざかるの方となさんのみ。


【訳】

幸せになりたいと願って
幸せになれるものではない。

常に楽しみ喜ぶ気持ちを持って
暮らすことのみが幸福を呼び込む方法である。


不幸は避けたいと思っていても
避けられるものではない。

イライラして人に当たったり、暴言を吐いたりせず、

常に人に思いやりの心を持って
接することのみが不幸を避ける方法である。

            <感謝合掌 令和3年5月20日 頓首再拝>

ハーバード大75年の追跡調査「人間の幸福と健康」を高めるたった1つの方法 - 伝統

2021/05/21 (Fri) 14:05:11


        *Web:PRESIDENT Online (2021/04/30)より抜粋

(1)人間の幸福度は「年収、学歴、職業」では決まらない。

   ハーバード大学が75年にわたって対象者の幸福度と要因について
   調べ、その結論は、

   「私たちの幸福と健康を高めてくれるのはいい人間関係である」

   しかも、友人の人数は関係なく、たった一人でも
   心から信頼できる人がいるかどうかが重要だということがわかりました。

(2)明るくハッピーな友人がいると幸福度が上がる。

   愛知医科大学のマツナガらの実験結果によると、

   人間関係で、幸福度をもっとも高めたのは、
   「ポジティブな友人」の存在だったことがわかりました。

   ライフイベントがネガティブなものであっても、
   明るくハッピーな友人がいる人は幸福を感じる傾向にある、
   という結果になったのです。

(3)見栄や世間体を重視した付き合いはムダでしかない

  ①ネガティブな人ではなく、ポジティブな人と接していったほうが
   人生はポジティブな方向に向かいやすいということです。

  ②ムリした付き合いには意味がないどころか、
   幸福度を下げてしまうこともあるのです。

   ですから、よけいなことを考えずにポジティブな友人と一緒にいる。
   そして、自分自身もポジティブでいることに努めることです。

(4)「ポジティブな態度」とその効用

  ①「何事もポジティブシンキング」は間違っている。

  ②「ネガティブを自覚すること」から始める。

   ネガティブな状態のときは、思考を変えようとはせず、
   まずは「ああ、今ネガティブだな〜」と認識するところから
   始めてみてください。

   このとき、その状態について
   「いい」「悪い」の評価はしないでください。

   何なら自分を三人称に置き換えて、
   「ああ、彼は今ネガティブだな~」という状態をそのまま描写して、
   思考をさっと別のほうに持っていく習慣をつけていきます。

   ネガティブな感情を気にしたり、「これはよくない!」
   と否定したりしてしまうと、よけいに強調されます。

   そうではなく、「状態を客観的に認識して、意識をそらす」ことが
   本当のポジティブシンキングの第一歩なのです。

  ③「ポジティブな態度」を習慣化する

   近年の脳科学では、感情は思考(考え方)よりも、
   身体の動きなど外的な要因から大きな影響を受けることが
   わかっているのです。

   つまり、「ポジティブな態度」を習慣化することで、
   思考や感情をポジティブな方向に持っていく方法があります。

  ④笑顔をつくると脳が「楽しい」「嬉しい」という錯覚を起こす。

   考えすぎてしまっているときは、
   とりあえず口角を上げて、ニッと笑ってみてください。

  ⑤意識しないと、人の表情はかなり無愛想

   笑顔のもう一つの効果として、人から見た印象も大きくかかわってきます。

   カリフォルニア工科大学のオードハーティーらの研究によると、
   人は誰かの笑顔を見ると脳の報酬系が活性化することがわかっています。

   報酬系とは「喜び」をつかさどる脳の機能のことで、
   つまり、笑顔の表情は相手を喜ばせるということです。

   これは、ポジティブな人間関係をつくっていくのにも非常に効果があります。


   (https://news.infoseek.co.jp/article/president_45510/

            <感謝合掌 令和3年5月21日 頓首再拝>

《幸福は外の世界に求めるな》 - 伝統

2021/06/04 (Fri) 19:46:25


    *『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月3日)より

吾々は誰も幸福を求める。
然し乍(なが)ら大抵は外の世界にそれを求め、
外の手段方法をとつおいつ心配して心を労するのである。

併しそれは拙劣(せつれつ)なる求め方である。

労して誰も幸福になれるのであったら、
「稼ぐに追いつく貧乏なし」の諺その儘に
誰も彼も幸福に豊かに富める筈であるが、

事実は
「はたらけどはたらけど猶(なお)わが生活(くらし)
 楽にならざりじっと手を見る」
という石川啄木の歌のように、いくら人間力で労して見ても
幸福になり切れない場合が多いのである。

ここに反省しなければならぬものがある。

心の方向を転換しなければならぬ。

            <感謝合掌 令和3年6月4日 頓首再拝>

働き(活動)の中に人間の本当の幸福がある - 伝統

2021/06/11 (Fri) 23:02:23


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月11日)より

金(かね)が幾億万円自分の前に積み上げられたとて、
それを使うことができなければ自分が幸福だというわけではない。
そこでわれらは、金を使うことができるので幸福だと考える。

では魔法使いが一瞬目の前に幾億万円の金をあらわして、
次の瞬間その幾億万円を眼界から消し去って
「もうお前は金を使ってしまった。お前は金を使ったから幸福だろう」
と宣告してもわれらは幸福になれる訳ではない。

そこで「それが幸福でないのは、その金を自分で使わないからだ」と
われわらは考えるであろう。

では、自分で金を使うことが幸福であろうか。

金を自分で使うのが幸福であるならば、
なぜ金持はその金を召使や他の人に対して
自分が坐っていて必要な品物を買わせているのであろう。

なんでも自分で買物に出かけなければ幸福でありえないというならば、
金持はその多くの金を消費するために、
毎日自分で多数の商家を訪問して歩かねば幸福になりえないであろう。
しかしそんなことをしている金持も幸福者も一人もない。

そこでこんなことがわかる。

金はたくさん持っているということが幸福ではなく、
それを使うということが幸福でもなく、
自分が使うということが幸福でもない。

金というものは持っていても使っても
幸福になんの関係もないものなのである。

ただ金はわれわれに、また他々(ひとびと)に、働きの動機を与える。
金はわれわれを、そして人々を働かせる媒介となるものなのである。

その「働き」または「働かせ」の感じが幸福であるのを錯覚して
「金が幸福を与える」と誤想しているのである。

働き ―― 活動 ―― のみが人間の本当の幸福なのである。

猟師は獲物をことごとく自分が食べるのではない。
猟師は猟(りょう)をすること、その働きのみが楽しいのである。

人を救うことそのことが楽しいのである。
救った結果収入がないとかあるとかいうことは問題ではない。

多くの生長の家の誌友たちが自分で自動車賃などを費やして、
人々を救(たす)けてあげているのは涙ぐましい立派な行ないであるが、
それはその人の中に宿っている「神」が働いているのである。

「神」は「生命(せいめい)」であり「働き」である。
働くもののみが幸福であり、健康であり、活々(いきいき)してくるのである。

           <感謝合掌 令和3年6月11日 頓首再拝>

よき「行為(おこない)」する人は、は幸福な思いを味わう - 伝統

2021/06/17 (Thu) 20:59:44



       *「光明法語」(6月17日)より

   「思い」の種子は「行為(おこない)」の実を結ぶが、
   一つの「行為」はまた多くの「思い」の果(み)を結ぶ。
   それは互いに映し合って「合わせ鏡」の如くである。

   また「思い」の方ではそんなに深切な気持ちが起こっていないにしても、
   そこに思い切って深切な行為(おこない)を実行して見た時に、
   不思議に「嬉しい思い」が湧いてくることを発見するであろう。

   そこに常に深切な行為(おこない)をする人は、
   常に幸福な思いを味わう人だと云う事が出来るのである。

   又、相手の感謝の表情を見る事は人生無上の楽しみである。
   感謝は感謝の共鳴を喚(よ)び起こすのである。

        <感謝合掌 令和3年6月17日 頓首再拝>

【気づく人と気づかない人】 - 伝統

2021/07/03 (Sat) 12:17:37


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2021.05.09)より

   (天明氏の心に響く言葉より…)

   あなたを取り巻く世界にポジティブな人が多くなればなるほど、
   あなたの思考の中から消えていく考えがあります。

   それは、「良く思われるために」という人目を気にする考えや、
   「やってあげたのだから」という見返りを求める考えです。

   このような考えが、あなたからも周囲からも減ってきます。

   そして、あなたの周囲では、
   ポジティブな言動を取ることが当たり前であり、
   真にその場にふさわしい「洒落た奉仕」をする人ばかりになるのです。


   私がすばらしいと思っていることがあります。

   そういった洒落た奉仕をする人たちは、「感動」の仕方が違うのです。

   たとえば、映画やスポーツの試合なので
   感動することはよくあることです。

   洒落た奉仕をする人たちは、普通の人が見返りを求めず、
   さり気ない奉仕をする姿を見たときに深く感動するのです。


   お年寄りや妊婦さんに席を譲る場面もその一つです。

   その奉仕を受けた人が喜んでいれば、さらに感動は倍増します。


   このような場面における心が動かされるほどの深い感動は、
   良い人だと思われたくて行動しているときには体験できません。

   自分にそういう発想があると、人の善意も
   「あんなの、良く思われたくてやっていることだよ」と
   受け取ってしまい、ネガティブ思考につながってしまいます。

   仮にその人の善意が利己的な目的によるものであっても、
   それによって沸き起こるモヤモヤした感情に悩まされるより、
   「そんなはずないよ」と言って、
   お人好しに信じてあげているほうが、心は平和でいられます。


   ぜひ、日常的にポジティブな言葉を使い、
   良く思われること、悪く思われること、そのどちらにおいても
   他人の目を気にしないという感覚を身につけることです。

   そして、あなたの周囲を洒落た奉仕をする人だらけにし、
   あなたの住む地域、国、世界にその和を広げていきましょう。

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           ・・・

何か嬉しいことや、感動したことを誰かに話したとき、
それをひねくれて受け取る人がいる。

「そんなに喜ぶようなことでもない」とか
「そんなことでよく感動できるね」と。

そういう人は、普段、ネガティブな言動が基本になっている人だ。

だから、ネガティブなことにいつもスポットライトをあてている。


身近にあるちょっとした幸せに気づく人と、気づかない人がいる。

幸せに気づく人は、ほんの少しのことでも、
笑い、感動し、驚き、共感し、感謝する。

いつもポジティブなことにスポットライトをあてている、
ポジティブな言動が基本になっている人だ。


しかし、気づかない人は、無反応で無表情。

そして、いつも不機嫌。

だから、幸せにも気づかない。


これは、チャンスや運のとらえ方と似ている。

チャンスや運に気づけない人は、身近にある幸せにも気づけない。


ポジティブな言動が基本となっている人でありたい。

          <感謝合掌 令和3年7月3日 頓首再拝>

幸せメンタリティーを持とう - 伝統

2021/07/05 (Mon) 23:43:02


        *Web:宇宙の兄弟たちへ(2021年6月30日)より

幸せを感じていけるのは、外部の出来事によるのは、実はほんの少しであり、
大部分は自分のメンタリティーの持ち方によります。

メンタリティーというのは心の持ち方ほどの意味です。

私たちは、何が外にある出来事によって、
自分の幸不幸が選ばれると思ってしまいますが、
実際に同じような環境にいようとも、
そこで不幸と感じるか、それとも幸せを感じるかは、人それぞれなのです。

たとえば、子どもの頃にお家が貧乏で、それを苦にして、
大人になっても家が貧しかったから自分は今もろくに教育を受けられず
辛い状況にいるのだと嘆く人もいます。

逆に、貧しくても、そこでいろんな工夫でしのいできた、
それが将来の成功につながったのだと肯定的に考える人もいます。

同じような環境にいようとも、その環境が幸不幸を分けるのではなく、
当事者本人のメンタリティーが実は、幸不幸を分けているのです。

いつも何かを求め、あれが足りない、これが足りないと、
不足を数えるメンタリティーを持っていると、ひとは不幸になっていきます。

不足を数えてばかりいる人は、
不幸のメンタリティーを持っている人なのです。

逆に、「あれもある、これもある、これだけ与えられてきた」っと
与えられた分を数えるのが得意な人は
、幸せのメンタリティーを持っている人です。

このように、人は環境によってではなく、
本人のメンタリティーがどうであるかによって、幸不幸は分かれていきます。

メンタリティーは生まれ持って決められ、
もう一生変わらないものではなく、
本人の自覚によって、いつでも変えていけるものなのです。

この記事を読んで今日からメンタリティーを入れ替える事も出来ます。

そのように人間には自分を変えていける自由を与えられています

自分は満足に与えられていないとする思いから、
次々と求める気持ちが強くなり、周囲から奪っていく形になると、
人はますます不幸になっていきます。

与えられていることに感謝し、
周りの人や、世の中のお返ししようと思う人は、幸せな人間です。

https://www.spacebrothers.jp/2021/06/blog-post_30.html

・・・

<参照>
伊勢ー白山 道(2021-07-05)
「空」(くう)だからこそ、自由自在に変って行く
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/1ea50a104c46e52788692ce31c58896c

          <感謝合掌 令和3年7月5日 頓首再拝>

【人生をどれほど楽しんできたか】 - 伝統

2021/07/09 (Fri) 11:50:21


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2021.04.12)より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   ダイヤモンドを持ってくることはできます。
   金ももってくることはできます。

   100人が100人とも、指さして
   「これは金だ、ダイヤモンドだ」ということはできますが、

   では「幸せ」というものを
   持ってくることのできる人はいるでしょうか。


   宇宙的な意味で、絶対的な価値を持つものとして、
   誰もが認める幸せという名の現象、物体は、
   今も過去も存在していないのです。

   では、なぜ幸せという言葉が存在するのでしょうか。

   幸せは、「私」にだけ存在するからです。


   「私」が幸せだと思ったら幸せ。

   隣の人にとってそれが幸せなのではなく、
   全部「私」がそれを決めるのです。

   今、目の前にある現象が来たとする。

   この現象について私が、
   「あ、嫌なことだ、不快なことだ、イライラする」
   と思ったとします。

   思った瞬間にこれは嫌なこと、不快なことになります。


   では、「私」がそう思わなかったら、
   この現象はただ通り過ぎるだけのこと。

   ある現象が次に来たとする。

   そのときに「私」が、

   「あ、楽しい」

   と思ったとします。

   その瞬間にこれは楽しいことになります。

   「楽しい」と思わなかったら、
   これはただ通り過ぎるだけのことです。


   つまり、「私」が全部決めている、ということです。

   幸も不幸も、勝ちも負けも、成功も失敗も、
   敵や味方も、全部自分が決めている。
 
   「私」がそう決めなければ、
   敵も味方も、成功も失敗も、勝ちも負けも、
   幸も不幸も全部宇宙には存在しないのです。

   全部ゼロ現象として存在している。


   それをお釈迦様は

   「五蘊皆空(ごうんかいくう)」

   と言ったらしい。

   重いとか軽いとか、暑いとか寒いというように色づけして、
   感想をつけて物事を評価したときに、

   その現象は実は全部「空」である、
   ということを後世の人々に伝えたかったらしい。

   この一言が伝われば、そしてこの意味がわかると、
   私たちは悩みや苦しみから100%解放されるはずだった。
  
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             ・・・

小林正観さんは「物事のとらえ方」についてこう語っている。


『物事のとらえ方を、
 3つの帝国の住人になぞらえることができます。

(1)「非帝国(否定国)の住人」

 「物事が半分しかないじゃないか」と否定することを、
 非(あら)ずの心で「悲しい」と書きます。

 物事について「そうじゃないじゃないか」と非ずと否定する心が、
 悲しみ悲劇の元、ということを表しています。

 そればかりを言っている国に住んでいる人を、
 私は「非帝国(否定国)の住人」と名づけました。


(2)「好帝国(肯定国)の住人」

 そして、「うれしい、楽しい、幸せ」と
 物事を何でも好ましいほうにとらえる人を
 「好帝国(肯定国)の住人」と言っています。


(3)「ありが帝国(ありがてえ国)の住人」

 そして、コップに水が半分残っているのを見て、
 「何者かが半分も残してくださってありがたい」
 というようなとらえ方をする人、
 物事を何でも感謝の心で「ありがたい」という人。

 私は東京の深川の生まれなので、江戸弁でこれを
 「ありが帝国(ありがてえ国)の住人」と名づけました。



 非帝国の住人であってもかまわない。

 それが楽しくて心地よければそこにいていいのです。


 好帝国の住人でいるのが心地よければ
 「うれしい楽しい幸せ」と思って生きていけばよい。


 それから何でも「ありがたい」と思って
 生きていくのが心地よいのであれば、
 その心地よいところで自分が生きていけばよい、
 ということです。』



「五蘊皆空(ごうんかいくう)」とは、
仏教の言葉で、
この世の全ての存在や現象は「空」であるという。

五蘊とは、
5つの集まりのことで、色、受、想、行、識をいう。

色とは、肉体であり、身のまわり全てのもの。

受とは、感じること、知覚すること。

想とは、何かを想うこと、好き嫌い。

行とは、意思や、捉われた想い。



あの世に行くと、
向こうで決まって聞かれることがあるという。

それは、「人生を、どれほど楽しんできたか」という問い。

つまり、人生という現象をどう捉えたか、という質問だ。


小林正観さんは、

「幸も不幸も、勝ちも負けも、成功も失敗も、
 敵や味方も、全部自分が決めている」

という。

つまり、この人生を楽しいと思うか、
そうでないと思うかは自分が決めている。


この一度しかない人生を…

面白がって、楽しんで、愉快に、生きていく人でありたい。

・・・

<参照>

伊勢ー白山 道(2020-08-25 )
自分の心が、数えているその中身が問題に
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/36496881584ae1ce0db5fb58b83e8bff

          <感謝合掌 令和3年7月9日 頓首再拝>

【 幸せとは、私たちの中にある思い】 - 伝統

2021/07/27 (Tue) 00:23:28


        *メルマガ「人の心に灯をともす」(2021.07.26)より

   (ウェイン・W・ダイアー氏の心に響く言葉より)

   幸せとは、私たちの中にある思いです。

   つまり、もしあなたが幸せになると決めれば、得られるものなのです。

   もし、自分の内側に幸せを持つことができれば、
   あなたは何をしていても幸せでいられます。


   仕事に幸せを感じることができます。

   人間関係においても幸せを得られます。

   どんなことをしても、あなたはただ幸せなのです。

   幸せになろうと努力する必要もありません。


   しかし、この問題について考える時、
   人々はとても混乱していることに、私は気づきました。

   人々は自分の感じることや、自分の体験していることを、
   自分の外側のことのせいにしがちで、次のように言うのです。

   「あなたが、私の感情を傷つけるのよ。
    あなたが、私の気分を悪くさせるの。

    あなたが、私を当惑させるの。
    あなたが、今日、私を不幸にしたのよ」


   あるいはこうも言うでしょう。

   「世界中で起こっている争いが、
    私にストレスを感じさせる。

    ホワイトハウスの住人が誰であるかによって、
    私は気分が悪くなる。
    株式市場の動向が、私の気分を滅入らせる」

    しかし、実際のところ、この地球上において、
    何事も誰かの気を動転させたり、気分を落ち込ませたり、
    不幸にしたりはできないのです。


    もし、あなたが本当に幸せな人間になりたかったら、
    最初にしなければならないことは、
    次の考えを本当に理解して取り入れることです。

    あなたが人生で体験することのすべては、
    あなたが外側の世界の物事をどのように認識するかの結果です。

    言い換えれば、自分の人生のすべてに
    責任を取らなければならない、ということです。


    私にとっては、responsibility (責任)という言葉は
    「自分はできると思って応答する(responding with ability)」
    ということです。

    それは「自分はできないと思って応答する(responding with disability)」
    ということではありません。

    それでは、respondisability ということになってしまいます。

    私は応答する能力を持っている、私は能力があり応答できる、
    ということが責任の意味 です。

    自分の人生に起こることすべてに責任を持つこと。

    それこそが、私が何年も費やして、 教えようとしてきたことなのです。

       <『運のいい人だけが知っていること』三笠書房
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          ・・・

ウェイン・W・ダイアー氏は「オレンジジュース」に例えてこんなことを言っています。


『オレンジをできるだけ強く手で握りしめたら、何が出てきますか?

 もちろん、オレンジジュースです。

 そのオレンジを誰が絞ろうが、どのように絞ろうが、
 どのような器具を使おうが、いつ 絞ろうが、
 オレンジを絞った時に出てくるものは、
 必ずオレンジジュース(中にあるも の)です。

 同様に、あなたが人間を絞った時
 ――つまり、人に何らかの圧力を加えた時――、
 怒り、 憎しみ、ストレス、鬱などが出てきます。

 誰が、いつ、どういう方法で圧をかけたかは関係ありません。

 もともと、その人の中にあったものが出てきただけなのです。

 もし、その人の中に怒りや憎しみなどがなかったら、
 それは、どんな状況になろうとも、決して出てきません。

 ハイウエイで車を運転している時、
 誰かに割り込みをされてカンカ ンになって怒ったとしたら、
 それは自分の中にもともとあった怒りが出てきたのです。

 自分の中に怒りをためていなかったら、
 どんなことがあっても、誰かが何をしたとしても、
 あなたを怒らすことはできません。 』


小林正観さんは、

「幸」も「不幸」もない、あるのは「それを感じる自分がいるだけ」だと言う。

「(車をぶつけてしまった)ツイてない、むかつく、最悪だ、不幸だ」
と思う人もいれば、

「(車をぶつけてしまった)この程度で済んでよかった(人身じゃなくて)、
ラッキー、ツイてる、幸せだ」という人もいる。

この世には、「幸」も「不幸」もなく、そう思う自分がいるだけ。


何かを見て(出会って)、《「楽しい」、「うれしい」、
「ツイてる」、「ありがたい」、「幸せ」》と思うのか、

逆に、《「悲しい」、「つまらない」、
「ツイてない」、「最悪」、「不幸」》と思うのか。

すべては、自分のモノの見方や考え方次第。


そしてそれは、
「自分の中にある元々あった思いが出てくるだけ」
という言葉と同じ。

たとえば、

アイツの言い方が悪い、だから「カチンときたという人」がいるが、
同じ言い方をされても「カチンとこない人」もいる。

ということは、そいういう言い方をされると、
カチンとくる自分がいる、ということ。

つまり、「幸」も「不幸」もない、ということ。


「幸」も「不幸」も自分が決めている。

          <感謝合掌 令和3年7月26日 頓首再拝>

不幸の種を蒔くか、幸せの種を蒔くか - 伝統

2021/08/20 (Fri) 13:39:46


      *Web:宇宙の兄弟たちへ(2021.08.20)より

私たちは花壇に、自分の咲かせたい花の種を植えます。

花壇に薔薇の種や苗を植えれば、
やがて成長して薔薇の花を咲かせます。

コスモスの種を花壇に蒔けば、
秋には綺麗なコスモスの花が見れるでしょう。

そのように、私たちは花壇に望みの花の種を蒔けば、
いずれ花が咲くことを知っています。


ですが、心の花壇にどのような種を日々に蒔いているか、
あまり気にしている人がいません。

心に善き種を植えれば、将来は善い成果を得られます。

心に悪しき種を植えていれば、いずれ悪業は返ってきます。

植物の花であれば、目に見えてその姿が分かるため、
何を植えれば何が咲くか、当然のように思えますが、
心に植えた種は、どのような種がどのような花をさかせたか
目では見えないため、私たちは分からずに日々に種を蒔き散らしています。


心という花壇に、どのような思いを植えるかで、
将来の得られるものが決まるのです。

善良な思いや、美しい思いを日々に抱いていると、
善き種が撒かれたように、いずれ善い結果が返ってきます。

人を恨んだり憎んだり、貶めるような思いを持った人は、
いずれ悪しき結果を受け取らねばなりません。


花壇でも、望ましくないような雑草などが生えると、
植えた花が咲かなくなるため、雑草は刈り取るでしょう。

同じように、悪しき思いを抱いてしまうことは人間には当然ありますから、
反省して、その悪しき芽を摘むことが必要です。

悪しき花が咲く前に、芽のうちに刈り取ってしまえば、
悪しき結果を得なくて済みます。

悪しき思いは不幸な種を蒔くこととなり、
将来に不幸の花が咲いてしまいます。

善き思いは幸せの種を蒔くことで、いずれは幸せの花が咲いてくれます。

日々、どのような種を蒔いているのか、振り返って見ましょう。

https://www.spacebrothers.jp/2017/12/blog-post_29.html

          <感謝合掌 令和3年8月20日 頓首再拝>

老子の幸福論と躺平主義 - 伝統

2021/08/25 (Wed) 13:14:51


        *Web:宇宙の兄弟たちへ(2021年8月25日)より

「躺平」(タンピン)という中国語の意味は、
身体を平らにしているという字から、
「横たわる」「寝そべる」という事を指しています。

これが転じて、若者たちが

「結婚しない、子どもも持たない、持ち家もいらないし、
 車も買わない、多くを消費しない、最低限しか働かない、
 質素な生活を送ること」

をモットーとする人たちです。

ようは寝て暮らす生活を送る人たちという事ですね。

中国では政府への批判は許されず、
もしもしようものなら捕まってどこかへ連れ去られてしまいます。

そのため、現状の政府の在り方や、政府が推奨するような生き方に
反発する人の間に、こうした躺平主義が広がっている部分もあるでしょう。

中国では小さなころから「高考」と呼ばれる大学入試に向けた
厳しい受験戦争に追われ、子どもたちは毎晩遅くまで
勉強を強いられると言います。

そして無事に大学に入り、就職しても、次には996が待っています。

996は朝9時から夜9時まで週6日勤務する事を言います。

毎日12時間の労働を強いられ、くたくたになって生きなくてはなりません。


そして次には結婚があり、結婚したら高額な家を買う事になります。

30年のローンを組んで不動産を購入し、
死ぬまで働き詰めていなくてはなりません。

結婚後には子どもを催促されて、生まれた子どもにはまた、
受験戦争のために塾などに通わし、お金を使わなくてはなりません。

最近は、この受験勉強の過熱ぶりから、
中国共産党は塾などの教育機関への締め付けを強めたことで
話題にもなっています。

このように中国の特に都市部では、厳しい競争や、苛酷な労働に
追われる人たちがいて、彼らが安らぎを求めている部分があります。

それが躺平主義として現れているでしょう。


この躺平主義というのは、現代に現れた老子思想とも感じます。

老子は世間の常識を批判し、ひっくり返すような意見を言います。

たとえば世間では学問の大切さを言いますが、
老子は「学を絶てば憂いなし」と言います。

小賢しい知識を集める事で、
かえって迷いを生じてしまうのだ教えるのです。


老子からすれば幸福を求めて必死にあくせくするのは間違っていて、
「求めず、追わなければ幸福はそばにある」と説くでしょう。

日本人にも通じますが、何かを得る事が幸せだと信じて、
あくせくと求めて努力している事が、
かえって不幸を呼んでいる面もあります。

むしろその憂いを捨てて、今のままで幸せを感じ取っていれば、
それが本当の幸せなのかもしれません。

https://www.spacebrothers.jp/2021/08/blog-post_25.html

          <感謝合掌 令和3年8月25日 頓首再拝>

【なんでもない日常を味わう「セイバリング」】 - 伝統

2021/09/13 (Mon) 13:41:02


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2021.09.12)より

   (Testosterone(テストステロン)氏の心に響く言葉より…)

   幸せになるために特別な出来事は必要ない。

   そもそも人間はすぐに快楽に慣れてしまうため、
   宝くじに当たるとか、ずっと欲しかったモノを買う
   といった「幸せになれそうなイベント」は
   長期的な幸せにはつながりにくい。

   宝くじで大金(平均20万ドル)を当てた22人を対象にした調査では、
   当選直後こそ幸福度が高かったものの、
   約1年後にはランダムに選ばれた非当選者と比べて
   幸福度は変わらなくなっていたという。

   これは悲しむべきニュースなのだが、
   急に特別なイベントが起こって
   あなたを幸せにしてくれるなんてことはないのだ。


   そして、これは喜ぶべきニュースなのだが、どうやら、
   意識を少し変えるだけで、何も特別なことがなくても、
   あなたの幸福度を上げるこ とは可能なようだ。


   ペンシルバニア大学の研究 (Seligman et al. 2006)では、
   精神的に落ち込んだ被験者に6週間、毎日数分間を費やして、
   今までは意識することなく急いで終わらせてきたこと
   (食事をすること、シャワーを浴びること、教室まで歩くことなど)を
   楽しんでみるように、と指示。

   その上で「その行動をどんな風にしてこれまでとは違う経験にしたか」
   「それを急いで済ませた時と比べてどんな気持ちになったか」を
   書き出してもらった。


   すると、定期的に喜びを味わう練習をした参加者たちは
   生活満足度が大幅に高まり、落ち込むことが少なくなったという。

   そして、その効果は1年にわたって続いたそうだ。

   研究者たちは、このように体験を味わう行為を「セイバリング」と呼んでいる。


   セイバリングは喜びを認識し、持続させようとする試みであり、
   喜びに慣れてしまうことを防ぐ働きがあると考えられている。

   例えば、ケーキを黙って食べるのではなく、
   「なんておいしいケーキなんだ......。これを食べられる自分は幸せだ!」
   と叫びながら(もちろん心の中で思ってもいい)食べる行為は
   セイバリングの一種であり、

   これをすることによってケーキを食べるという行為から得られる幸福感は増す。


   日常には、セイバリングの対象となるものがあふれている。

   朝のコーヒーやトースト、会社に行く途中で見かける美しい花、
   同僚やクライアントとの何気ない会話。

   すべてがセイバリングの対象だ。

   幸せになるチャンスは日常にあふれかえっているのだ。

   日々の生活に幸せを見出せればあなたの幸福度は一気に増す。

   幸せとはなるものではなく気付くものであり、そういった意味では、
   幸せとは技術なのである。

      <『幸福の達人 科学的に自分を幸せにする行動リスト50』
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               ・・・

チルチルとミチルの「幸せの青い鳥」の童話にあるように、
「幸せとは探すものではなく、気づくもの」。

そして、気づいた幸せをしみじみ味わうことが「セイバリング(savoring)」。

「savor」は、味、香り、風味のことだが、「savoring」はゆっくり味わうこと。


「(寒い冬に)熱いお風呂に入ったとき」
「(夏の暑いとき外から帰ってきて)飲む一杯のビール」
「(ほっと一息ついたときに)味わう一杯のコーヒー」。

まさに、「ごくらく、ごくらく」という気持ちだ。


そしてさらにそれを深める方法が、幸せな気持ちを言葉にして声に出すこと。

「ああ、しあわせ」「ごくらくだなぁ、しあわせ」「おいしいなあ、しあわせ」。

そして、同時に「にっこり」と笑うこと。


中村天風師は、毎晩毎晩、夜寝る前に、
鏡に向かって笑顔を作る練習をしていたという。

寝る前に抱いた感情は、朝まで続くからだ。

まさに、セイバリングの実践だ。


「セイバリング」で…

なんでもない日常にある「幸せ」を、味わうことができる人でありたい。

          <感謝合掌 令和3年9月13日 頓首再拝>

【自分が幸せで楽しくしていることが、周りを幸せにする】 - 伝統

2021/09/15 (Wed) 13:01:37


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2021.04.15)より

   (斎藤一人さんの心に響く言葉より…)

   近年、書店では「怒らない技術」とか、
   “怒り”をテーマにした本が売れているそうです。

   みんなきっと「できれば怒りたくない」って思ってるんだよ。

   でも、「怒らない」ことはできないの。


   ではどうすればいいかというと、遊ぶことだよね。

   楽しい遊びをいっぱいしていると、捕まるようなことをすれば、
   その楽しい遊びができなくなるんだよ。


   あおり運転でも、追いかけて相手を殴ると捕まるの。

   そんな人がもし、彼女が5人も10人もいたら、捕まりたいか、
   彼女のところに行きたいか、
   どっちがいいかは考えなくてもすぐにわかるよね。

   釣りが好きな人なら、釣りに行くのと、
   刑務所に行くのとどっちがいいかとかね。


   普段からつまらない人生を送っているから、そうなるんだよ。


   面白くて楽しい人生を送っていたら、
   それと引き換えに失うようなことはしないんだよね。

   だから、自分が幸せで楽しく遊ぶというのは、
   みんなのためでもあるんです。


   これからはますますいい時代が来るんだよ。

   あなたが幸せで楽しくしていると、その波動で周りも幸せにするの。

   これから二千年かけてそれを学ぶんです。


   何かにつけて、子どもの将来に口出しするようなお母さんは、
   自分の遊びが足りないんだよ。

   自分が遊んでないから、子どもが遊ぶのが許せないの。

   人間っていうのは同じことをしたがるんです。

   結婚して不幸なお母さんっているでしょ?

   そういうお母さんは、子どもにやたら結婚させたがるの。

   自分が楽しくて幸せなら「しても、しなくてもいいよ」って言うけれど、
   「結婚はしなきゃダメよ!」って言っている人で、
   本当に幸せな人っていないんだよね。

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                ・・・

舩井幸雄氏は「長所伸展法」についてこう述べている。(法則/サンマーク出版)より

『ツキを呼び込むためには、伸びているもの、すぐれたもの、
 得意なもの、自信のあるもの…このような他と比べて
 優越した点をさらに伸長させていく方法が有効で、
 このやり方を、私は「長所伸展法」と呼んでいます。

 その際、自分が不得手なこと、うまくできないことは触らないようにします。

 そのようにすると、不思議と短所や欠点もいつのまにか消えていくものです。』


自分が今、幸せで楽しかったら、
ちょっとしたことには目くじらを立てたり、腹を立てたりしない。

自分が幸せで楽しければ、自己肯定感が高くなり、
たいていのことは許せたり、気にならなくなるからだ。

つまり、「長所伸展法」と同じで、
「怒らないようにする」とか「嫌なことが気にならないようにする」
というのは短所を治すのと同じ。

それよりも、「幸せなこと」「楽しいこと」(長所)にフォーカスすれば、
自ずとマイナスなこと(短所)は気にならなくなる。


昨今、町おこしの成功事例が多く出てきているが、
そのほとんどすべてが、その町に面白い人や、
遠くからでも会いに行きたい人がいる。

町の欠点や短所をなおすのではなく、
人に焦点をあて、人という長所を伸ばすということだ。

幸せに楽しく商売をしている面白い人が増えれば、その周りに人は集まる。


自分が幸せで楽しく、面白おかしく生きることが、結果、周りを幸せにする。

          <感謝合掌 令和3年9月15日 頓首再拝>

【人間を見分けるときの3つのポイント】 - 伝統

2021/09/28 (Tue) 03:18:23


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2021.05.19)より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   結婚を決意する時、女性は男性に
   自分の人生のをすべて委(ゆだ)ねようと、
   覚悟を決めて「結婚したい」と思うようです。

   それに対し、男性のほうは覚悟が決まらず、
   いつまでも答えを引き延ばしてしまうことがあります。

   たとえば男性に幼児性が残っており、まるで駄々っ子のような人の場合です。

   中身が空っぽな男性ほど強がって見せるのですが、
   実はか弱く幼児性が抜けていない「子ども」であることが多いようです。


   人間を見分けるとき、3つのポイントがあります。

   (1)大酒を飲ませた時、どう変わるか?

      酒乱になったり、人にからんだり、威張ったりする人は考えものです。

   (2)大金を持たせた時、どう変わるか?

      気が大きくなって大盤振る舞いをしたり、お金遣いが荒くなったり、
      いつもは行かないような高級クラブなどに行って、
      ふんぞり返ったりするようでは、まだまだです。

   (3)権力を持たせた時、どう変わるか?

      権力とは大げさなことではなく、たとえば
      自動車のハンドルを持ったときどうなるか、
      というところからも人格を見ることができます。

      ふだんはおとなしい人が、急にスピード狂のような走り方をするとか、
      ほかの車を罵倒しながら方向指示器も出さずに無理して追い抜いていくとか、
      まるで人が変わったような運転をする人は要注意です。



   これらはその人の業といえるもので、
   どれか一つでも当てはまる人は、遅かれ早かれ、程度の差こそあれ、
   すべてに当てはまってしまうものです。

   なぜなら、根が同じところから生じているからです。

   結婚を考えるなら、このような人たちはさっさとパスして、
   違う人を探したほうがいいように思います。

   そうすれば結婚してから酒乱で悩んだり、
   幼児性や身勝手さに翻弄(ほんろう)されたり、
   乱暴な人格が出てきて嘆くこともないでしょう。


    <『嬉しく楽しく、幸せになってしまう世界へ、ようこそ』
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          ・・・

小林正観さんは「幼児性」についてこう語っている。


『もし、言いたいことがあるときは、お互いに意見を主張すればいいのですが、
 それは笑顔で言えばいいことであって、ケンカをする必要はないんですね。

 大人になるということは、ケンカをしないということですから。

 さらに、家庭のことで言いますと、
 同じ言葉を他人から言われたときに、
 怒らないで踏み留まることができるにもかかわらず、
 同じ言葉を妻から言われるとものすごく腹を立てて爆発してしまう夫がいます。

 また、同じ言葉を他人から言われても怒らないけれども、
 夫から言われるとキレてしまう妻がいます。

 それは、どういうことかと言うと、
 外では踏み留まる能力があるにもかかわらず、
 家庭では踏み留まらないということなんですね。

 《踏み留まれない》のではなくて、《踏み留まらない》んです。

 これを一言で言うと“幼児性”です。

 実は、“幼児性の克服”のためにも結婚というものが存在します。

 家庭を持って、妻に対して夫に対して、あるいは子供に対して、

 「私」が気に入らなくて爆発する、
 その「私」の“幼児性”を是正するために
 結婚というものがあり、家庭というものが存在します。

 家庭というものは、ただ自分の思いを通すための
 甘える場所でも、ストレスを発散させる場所でもありません。

 幼児性を削っていって大人になっていく作業の場所として、
 結婚があり、家庭が存在するということです。』

      (楽しい人生を生きる宇宙法則/講談社)より



年齢も重ねていて、立派な大人なのに、幼児性が残る人がいる。

いわば、精神年齢が低い、子どもっぽい大人のことだ。

親の過保護が原因で、精神年齢の低いまま、大人になってしまったという例が多い。


たとえば、

「自分より下だとみると、すぐに威張ったり、居丈高になったりする」

「誰かがやってくれるだろうと、片づけをしなかったり、投げ出したりする」

「自分の気に入らないことがあると、すぐに怒ったり、我がままなったりする」

「(あの人が言ったから、まわりに言われたから)と、人のせいにする」

「しょっちゅう遅刻する」


自分で責任をとらず、人のせいにするということだ。

また、共感力(エンパシー)が弱く、他人の立場を理解できない人が多い。


それらはつまり、「自律」していないということ。

幼児性を克服し、自律した大人でありたい。

          <感謝合掌 令和3年9月27日 頓首再拝>

神様は不幸と思えるものの中に幸福の種を隠される - 伝統

2021/09/28 (Tue) 15:49:48

        *Web:宇宙の兄弟たちへ(2021年9月28日)より

昨日は「親ガチャ」の話をしましたが、
生まれ落ちた環境によって自分は不幸だと思う人もいます。

(「親ガチャ」~https://www.spacebrothers.jp/2021/09/blog-post_27.html

貧しい家庭に生まれ家からとか、身体が弱く生まれたとか、
親に否定されて生きてきたなど、
過去の出来事の中に不幸を求める事があります。

ですが、神様は、人生の不幸と思えるものの中に、
幸福の種を隠して入れているように思えるのです。

私も子どもの頃を振り返ってみると、
暴力的でいつも怒鳴ってばかりの父親と、
優しいけど弱くて父親に従うしかない母親のもとに生まれました。

いつも父親から否定的な言葉を投げかけられたり、
怒鳴られていたため、大人になってしばらくしても、
自己否定の思いが強くて、自分はダメな人間なのだ
という自己イメージを持ってしまい、失敗に繋がる事もあったと思います。

そのように見ると不幸な生い立ちのようにも思われますが、
それがために自分は鍛えられた面がありますし、
辛い人の気持ちもわかる面が培われたと思います。

それが今、ブログなどで記事を書く際に、役に立っています。

普通の家庭に生まれて、普通に成長していたら、
今頃は普通にサラリーマンでもしていたと思いますが、
現在は、願っていた自分の考えを発信する事を仕事に出来ています。

いろんな問題も抱えた家に生まれてきたからこそ、
いまの自分もあり、こうして皆さんに読んでいただく記事も
書けるようになりました。

不幸なように思えた環境の中にこそ、
実は将来の幸福の種が隠されていたのです。

また、私はしゃべることが苦手で、
自分の考えを言葉にしてお話しするのが得意ではありません。

そのため人と話す事も少なく、社交的ではないため、
外に出て交流を深めたり、セールスマンのような事は合わないでしょう。

ですが、それゆえに、
じっくりと考えて言葉を作り出せる文章なら書けるようになりました。

もしも、話が流暢で、とうとうと喋れるタイプであったら、
これも今のような文章を書くことには繋がらなかったでしょう。

話すことが苦手で、言葉がなかなか出てこないからこそ、
じっくりと考えて、自分の考えを言葉に出来る文章を書くのが
少しは出来るようになったと思います。

会話が得意でないのは、社交的でないと思われたり、
何を考えているのか分からないと思われて、短所でもありますが、
それがために文章を書くようになって、今こうして自分があります。

このように不幸と思えるような出来事は様々に起こってきますが、
それを突き抜けた先には、将来の幸福の種にもなるのだと
知っていただきたいと思います。

https://www.spacebrothers.jp/2021/09/blog-post_28.html

          <感謝合掌 令和3年9月28日 頓首再拝>

【人間の不幸の原因は真理を知らぬこと 】 - 伝統

2021/09/29 (Wed) 13:19:46


       *『生長の家』(昭和25年8月15日の法語)より

何が人間を不幸にし不健康にするかと云うと、無智がするのである。

それは真理を知らぬからである。

神が与えたところの幸福である権利、健康である権利に目覚めず
人間は肉体であるから病気になるほかはないと思い、
人間は罪が深いから不幸になるほか仕方がないと思っているからである。

本来人間には罪がないのである。
神様は罪をつくらないからである。

本当の罪とは、ツツミが語源であって
本来 健康であり幸福である真理を包み隠しているからである。

          <感謝合掌 令和3年9月29日 頓首再拝>

あなたを不幸にする3大無駄なこだわり - 伝統

2021/10/05 (Tue) 15:21:57


     *メルマガ「川島和正」(2021.10.03)より

今日は、あなたを幸せな生活から遠ざける
無駄なこだわりについて3つお伝えします。
 
3つの無駄なこだわりとは何かと言うと
プライド、世間体、駆け引きになります。
 
プライドが大切、世間体が大切駆け引きが大切と
考える人は結構多いのですが、
これこそが幸せになれない原因になっています。


なぜ、プライドが高いと幸せから遠ざかるのかというと
プライドが高いと自分の負けや欠点を認められないからです。

自分の負けや欠点を認められないと素直に学ぶことができないので
豊かで幸せな生活が手に入りにくくなるのです。

また、プライドが高いと対人関係で失敗する確率も上がるので
その点でも幸せになりにくくなります。


次に、なぜ世間体を大切にすると幸せから遠ざかるかというと
行動の選択肢がかなり少なくなるからです。
 
世間には、あなたに変わって欲しくない人が多いので
その人達の感情に配慮すると
豊かで幸せになるための行動も出来なくなってしまうのです。
 
 
最後に、なぜ駆け引きを大切にすると幸せから遠ざかるかというと
駆け引きをすればするほど
あなたの周りから人が離れていくからです。
 
駆け引きが上手いと。短期的に利益を手に入れられるのですが
それを知った周りの人は怖がって離れていってしまうのです。
 
そして、あなた自身は
駆け引きに明け暮れるリスクが多くて疲れる人生を
歩むことになってしまうのです。
 
 
というわけで、
プライド、世間体、駆け引きに、こだわって暮らしていると
精神的に幸せな生活から遠ざかるので
くれぐれも気を付けることをお勧めします。
 
これらを長年大切にしてきた場合は

「男はプライドが大切」とか
「世間の皆様とは仲良くすべき」とか
「駆け引きしないともったいない」とか

思うかもしれませんが
それが幸せを遠ざける原因になっていたりしますので
思い切って変わってみるといいですね。

          <感謝合掌 令和3年10月5日 頓首再拝>

精神科医が見つけた 3つの幸福 - 伝統

2021/10/09 (Sat) 13:17:26


        *精神科医が見つけた 3つの幸福
         最新科学から最高の人生をつくる方法 樺沢紫苑 (著)より

(1)脳が幸せを感じるには様々な物質が出ている。
   大きく分けると3つある。

   ドーパミン セロトニン オキシトシンである。

   3つの物質を使って脳科学的に幸せになる方法がある。


(2)幸福には3種類ある。

   全ての幸せを手に入れる事ができれば良いが、優先順位がある。
   手に入れる順位を間違うと不幸せになってしまう。

   順番

  ①セロトニン的幸せ  → 健康

  ②オキシトシン的幸せ → 繋がり、愛の幸せ

  ③ドーパミン的幸せ  → お金富栄誉



(3)セロトニン 健康

  ①「元気があれば何でもできる」

   健康であることに感謝しましょう。
   健康であるために努力をしましょう。

  ②セロトニンには鎮痛効果がある。

   セロトニンが出ていると体の痛みが出にくい。

   セロトニンが少ないとひざやこしが痛くなりやすい。

  ③病気になると朝気持ちよく起きて、美味しいご飯を食べて
   という当たり前のことが出来なくなる。
   健康を失って初めて健康の大事さを知るのです。

   病気になると完治するのに何年もかかるかもしれないし完治しない事もある。


(4)セロトニン的幸せを得る方法

  ①運動をするとセロトニンがたくさん出ます。
   特に朝散歩がおすすめです。

  ②ポジティブ日記をつける。
   今日1日で楽しいかった事を3つ書く。

  ③幸せである事に気づく事が大事。
   小さな幸せに気づかない人は大きな幸せに気づかない。

  ④感謝日記をつける。

   感謝したこと感謝されたことを毎日記録せる。

  ⑤感謝を言葉で伝える。

   人間関係が良くなる。
   自己肯定感が強くなる。


(5)オキシトシン 人との繋がり

  ①家族、恋人、友人などとの会話。
   一緒にいるだけで楽しい、落ち着くなどという感情。

   ペットといると癒される。

   周りの人に感謝し親切にするとより人と繋がりが強くなる。

  ②逆に

   いつも孤独でどこにも属してない。
   相談する人がいない。疎外感、寂しいと幸せでないとなる。

   人間関係が悪くてもセロトニンが減少する。

  ③オキシトシン的幸せを得る方法

   親切日記をつける。
   親切にしたことを毎日記録する。

   親切を積極的にすることで幸せになる。

   親切にすると自分は人や社会の役に立っていると自己肯定感が強くなる。

   人間関係も良くなり多くのオキシトシンが出る。



   感謝日記をつける。
   感謝したこと感謝されたことを毎日記録せる。

   感謝を言葉で伝える。

   人間関係が良くなる。
   自己肯定感が強くなる。


(6)ドーパミン

  ①成功 達成 お金など欲しい物を手に入れる。
   地位や名誉、人から認められるとドーパミンがでます。 

  ②ドーパミンはもっともっとの物質で、
   使い方によって幸せになったり、不幸せになったりします。

   良い点はモチベーションアップ、成長につながる。

   悪い点は中毒になってしまうことです。

  ③ドーパミンを簡単に出す方法があります。

   それはお酒を飲む事です。

   ドーパミンはもっともっとの物質ですので、
   はじめは一杯 次に2杯と中毒になってしまう物質です。


  ④ドーパミン的幸せを得る方法

   成功 達成 お金など欲しい物を手に入れる。
   地位や名誉、人から認められる。

   その努力をするだけでもドーパミンは出ます。

(7)まとめ

  ①セロトニン的幸せとオキシトシン的幸せは
   すでに手に入っている可能性が高いです。

   朝起きて朝ごはんを食べて仕事に行く。
   健康で仲間がいるそれで十分幸せです。

   それに気づいてない人が多い。
   失ってから気づくのでなく気づき失わないように努力しなければなりません。

  ②ドーパミン的幸せは何か行動して努力して得られる幸福です。

   幸せは未来にあると考えてしまうのはドーパミン的幸せです。
   セロトニン的幸せとオキシトシン的幸せはすでに今幸せと言うことです。

   ドーパミンはもっともっとの物質です。
   ドーパミン的幸せを追っているといつまでも幸せになれません。

          <感謝合掌 令和3年10月9日 頓首再拝>

《天国的幸福を実現するには》 - 伝統

2021/10/14 (Thu) 04:04:04


      *「眞理」第2巻基礎篇第14章(P383~384)より

此の世の中に幸福感に満たされて生きようと思うならば、
自分の心が寛大にならなければならないのである。

頑固に自分の善ばかりを握っていては、
他(た)の相対的な善と衝突してしまって
常に不快な憤(いきどお)りの心を
有っていなければならないことになるのである。

「自分の善」を突っ張って相手を攻撃したならば、
相手もまた「自分の善」を突っ張って
《こちら》を攻撃してくることになるのである。

天国的幸福は、ただ心の寛大な人のみが味わうことのできる宝である。

吾々は心の角(かど)で他(た)を傷つけてはならないのである。

柔らかい心、優しい心、柔和なる心、他(た)を容れる心、広々とした心、
自分を赦すと共に、他(た)を赦す心、
更に進んですべての人を神の子として拝む心になるときに、
天国幸福が実現するのである。

          <感謝合掌 令和3年10月13日 頓首再拝>

幸せになる話 - 伝統

2021/10/28 (Thu) 04:17:51


【斎藤一人】この話を聞いちゃった人は…寝ながら聴いて下さい。
太陽の神、天照大御神様の偉大なる力と自分の体を蘇らせる言霊の作用。
幸運の近道切符(2021/10/10)
https://www.youtube.com/watch?v=rOxjldO9XpI

          <感謝合掌 令和3年10月27日 頓首再拝>

貢ぐ女性の幸せ - 伝統

2021/11/14 (Sun) 03:41:41


        *宇宙の兄弟たちへ(2021.11.13)より抜粋

A家の長女であるKM子さんの夫、KKさんが、
母親の元婚約者に昨晩会い、約400万円の解決金を支払うことで、
話が進んでいるとのことです。

KKさんについては、結婚前より
母の元婚約者との金銭問題が取り沙汰されれていました。

その解決がなかなかつかない事から、国民の間でも、
お二人の結婚について疑問を持たれる事となっていたと思います。

できればご結婚されるまえに、問題を解決されていれば、
もっと良かったとは思いますが、無粋な推測ですが、
金銭を準備するのが難しかったという理由もあったのではないか
と考えられます。

KKさんは父親を亡くされており、
ご自身も法律事務所に勤めたばかりですから、金銭的な余裕がなく、
そのため解決が難しかったのかも知れません。

ですが、結婚後にこうして解決に進んだということは、
このお金は結婚相手であるKM子さんの貯金からでたのではないか
と考えられます。

KM子さんは、それなりの貯金を持たれているはずですから、
そのなかから、結婚相手のKKさんのために出されたのではないか
と推測されます。

それで結婚後に解決に進んでいるのでは?と感じられます。

もちろん、解決に向かいのは良いことだとは思いますが、
それを勤めていない妻の貯金から払うとなると、
危惧される事があります。

KM子さんの貯金については、
またいろいろと世間を騒がす事となるのはあるでしょう。



それよりも、ここでは、
KKさんが他人から援助を受けて生活していく傾向が見れて、
それが危惧されます。

結婚まえからの金銭トラブルにしても、KKさん親子が
他の方から金銭援助を受けており、
それがトラブルの原因となっています。

もしもKKさんにそうした依存癖があるのなら、
今後もKM子さんに頼っての生活になるかも知れません

もちろん、これらは推測で、本当のところは分かりませんが、
そのような傾向があるように感じられます。



ここからは一般的な話として申し上げると、
世の中にはよく男性に貢ぐ女性という存在がいます。

売れない芸能人とかを好きになり、
お付き合いしつつ援助するような方がいます。

夢を追いかける男性が好きで、
その姿を支援する事に喜びを感じているとは思います。

ですが、そうした場合には、
いざ売れると、捨てられることもあります。

もちろん中には律儀な男性もいて、
売れない頃より支えてきた女性を大切にし、
結婚するような方もなかにはいらっしゃるでしょう。

しかし、多くの場合、売れ出したらお金も持ち、
名も売れて人気者となるので、まわりの女性からモテるようになります。

そのため、はじめのころから付き合っていた女性を捨てて、
新しい女に向かう事が多いでしょう。

ただ、幸か不幸か、貢ぎ貢がれる関係の場合、
売れない間は長続きするものです。

それが幸せかどうかはわかりませんが、
男が売れずに、困っている状態にあると、関係は長続きして、
将来は結婚する事もあるでしょう。

貢ぐ女性からすれば、男が夢破れるのは残念な面もありますが、
それゆえに男は手元に残って、長続きします。


ですが、成功したり、お金を得たりした場合には、
そこで関係が終わってしまう事が多いでしょう。

そうした男性に貢ぐのが好きであれば、
男性が成功して巣立っていっても、今まで支援できたことを喜びとして、
潔く手を引くと考える事が幸せでしょう。

「絶対に離してなるものかっ!」っと縛り上げていては、
相手も本人も不幸になります。

子どもを育てて社会に出す親のように、
そうした男に惚れて、支援した女性も、いずれ離れる時が来れば、
潔く分かれた方が双方のためになります。

https://www.spacebrothers.jp/2021/11/blog-post_13.html

(Web上では、実名が使われておりますが、
 元尊いお方でしたので、ここでは伏字にしました<伝統>)

          <感謝合掌 令和3年11月13日 頓首再拝>

幸福のためには仕事との関わりが大切 - 伝統

2021/11/28 (Sun) 15:03:01


        *宇宙の兄弟たちへ(2021.09.13)より

有名な『幸福論』を説いたスイスの思想家にヒルティという方がいます。

面白いことにヒルティの幸福論では、まず初めに仕事論が書かれています。

ヒルティは思想家や哲学者として生きただけでなく、
スイスの下院議員を務められ、法律家としても活動されていましたから、
実務の方も才能の有った方でしょう。

そのため単なる抽象的な幸福論を説くのではなく、
まず仕事について書いたのだと思います。

たしかに仕事は私たちの人生で多くの時間を過ごすものですから、
どのように仕事と対峙して、うまく仕事をするかというのは、
幸福と密接に繋がっているでしょう。

みなさんも思われるように、
出来れば自分のしたいことを仕事にして、
それで暮らせていければ幸せだと思うはずです。

たとえば文筆業で食べていけたらいいとか、
自分の考えた事業で成功して暮らせたらいいと思います。


ですが、なかなか望んだ仕事で生活するのは難しく、
嫌々ながら仕事をされている人も多いのではないでしょうか。

本当はやりたくない仕事でも、
生活のために仕方なくしている事も多いはずです。

あるいは夢を追いながら、それだけではまだ食べていけないため、
アルバイトなどをして生活している人もいます。

そのように望んだ仕事が出来なくて、
苦しみを生んでいる事は多いです。


どうしたら仕事が苦ではなくなるかを考えて見ると、
大まかには二つの方法が考えられます。

ひとつには、好きな事を仕事にするです。

自分の好きな事を仕事にすれば、それは幸せでしょう。

好きな事であれば、それだけ熱を入れてしますので、
仕事もはかどり、優れた仕事となっていくでしょう。


そうはいっても、なかなかうまくいかない事も多いものです。

先日もテレビで、ある若い女性が、
好きだった食べ物を移動販売店を開始する姿を放送していました。

詳しくは見ていないのですが、どうも手持ち資金は少なく、
多くを銀行などから借り入れでやりくりしていたようです。

それをみてすぐに危険だなと感じました。

やはり自己資金も少なく、多くを借り入れて事業するのは、
たいへんにリスクが大きいものです。

つまり倒産のリスクが高いのです。

また、別な番組では、このコロナ禍で、飲食店を開業して、
厳しい状況にある方も紹介されていました。

このような厳しい状況の中で、お店を出すと言うのは、
やはり見通しが甘い部分があるのではないかと思われます。

甘い見通しで、夢を追っていては、挫折する事が多いです。


先日は自分を信じる事の大切さを述べましたが、
それは甘い見通しでいる事とは違います。

厳しく現実を見つめる中において、
それでも現実の壁を突破する力を奮い立たせることを言っているのです。

自分に甘く、現実にあたっていけば、
あっという間に厚い壁にぶつかって、すぐに引き返してしまいます。

何度倒されようとも、そのたびに起き上って
チャレンジする精神があれば、道は開かれていくでしょう。

もしも、そのような厳しさに耐えられない、
そこまでして望むような夢が無いと言うのであれば、
他の仕事を探した方がいいでしょう。


そして仕事で幸福となっていく、次なる方法としては、
与えられた仕事を愛するようになる事です。

はじめは自分の好き嫌いで判断すると思うのですが、
これを努力によって考え方を変えて、
自分が就いた仕事を好きになることです。

つまり自分の好きを仕事にするのではなく、
得られた仕事を好きになっていく事です。

今与えられた仕事を愛し、頑張っていく事で、
次の道は開かれていきます。

仕事をしていても愚痴や不平不満ばかり並べてしていては、
ミスも多くなりますし、仕事そのものもお粗末になってくるでしょう。

仕事そのものを好きになることで、
腕も上がっていきますし、こころも晴れてきます。

嫌々ながらしていては、当然幸せな状態とは言えませんし、
さらに嫌な事が起こってくるものです。

楽しい気持ちで仕事をしていると、その分ハッピーになりますし、
良いことも起ってくるものです。

このように、自分の好きな事を仕事にしていくか、
それとも仕事を好きになっていくか、
どちらかが幸福とも繋がっていくでしょう。

https://www.spacebrothers.jp/2021/09/blog-post_13.html

・・・

<参照>

伊勢ー白山 道(2021-11-10)
幸運の秘訣は、自分だけの有利を考えないこと
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/ef991e8fa59c548f609fb9a8decd59d3

          <感謝合掌 令和3年11月28日 頓首再拝>

幸福になるための2か条 - 伝統

2021/12/04 (Sat) 03:46:18


       *『森信三 幻の講話』第28講「生きがいのある人生」より
        ~致知BOOKメルマガ (2021年12月03日)

「幸福」について話をするさい、わたしくはいつも、


「幸福というものは、これを求めようとしたら
 かえって得られないものであり、
 逆に自分の為すべきつとめを真剣にやっていれば、
 自然に与えられるもの」


ということを、よく申して来たものであります。

つまり幸福というものは、それ自身を追求すると、
かえって得にくいものであり、
かりに得られたとしても、すぐに消えてゆくものだと思うのであります。


そこで、それでは一たいどうしたら幸せが得られるかと申しますと、
それはその人が人間として為すべき事がらと、真剣に取り組んでいれば、
しぜんと与えられるものだと思うのであります。


では、その人が人間として為すべき事がらとは、
一体どういうことかと申しますと、それは、


(1)その人が自分の天分を十分に発揮し、実現することであり、

(2)今ひとつは、「人のために親切にする」ということであります。


そしてこの2つの事に真剣に取り組んだなら、
どんな人でもいつかは、自然に幸福に恵まれて、幸せになると思うのであります。


したがってわたくしは、この2か条を人生の生き方の上から考えて、
もっとも大切な根本的な2か条だと考えるのであります。

同時に、それ故にこそ、
この2つの事を守りさえすれば、
やがてその人は幸せになれると確信するわけであります。

          <感謝合掌 令和3年12月3日 頓首再拝>

成功したら幸せではなく、幸せは成功を引き寄せる - 伝統

2021/12/12 (Sun) 14:41:05


        *宇宙の兄弟たちへ(2021.12.12)より

私たちは、何かを成し遂げ、成功を収めた先に、
幸せは待っていると思いがちです。

ゴールテープを切った先に、幸せは待っていて、
私たちを抱きしめてくれるものだと考えます。

しかし、真実は逆なのです、
成功の先に幸せがあるのではなくて、
今の中に幸せを築いていった先に、成功も引き寄せられてきます。

たとえば理想の相手を射止めたら幸せになるとか、
事業に成功したら自分は幸せだと人は思います。

ほかにも、一流の大学に進学出来たら幸せになるとか、
一流の企業に就職できたら、お金持ちになったら、
都内に一戸建てを持てたら、あこがれだった外車を手に入れたら・・・等々。

たしかに無理をすれば、それらを手に入れ、
一時的には幸せを感じることもできます。

しかし、長い目で見れば、無理して得られたものは、
やがて代償を払うことになりますので、
幸せはその人の元を去っていきます。


先に幸せの基盤を持っている人の元には、
成功も次第に引き寄せられますし、安定したものとなります。


では、いま幸せになるにはどうしたらいでしょうか?

まず、不満の心を減らし、今に感謝することです。

足らざるを数えるのではなく、今あることへの感謝をします。

自分の足で好きなところに行けて、
静かに呼吸ができることも、健康である幸せです。

いろんな幸せの種があるのに、
私たちはついそのことを忘れて、
不満ばかりに意識が向かってしまいます。

日々に感謝する習慣を作るといいでしょう。

そして次に、自分だけの幸せだけでなく、
周りの幸せをも自分の幸せとすることです。

周りの人をハッピーにすることで、
自分も幸せな気持ちになっていきます。

つまり、愛を与える事で、私たちは幸せを感じます。

このように幸せを今の中に築いていくことが大切で、
そのあとに成功や得たいものも自然と引き寄せられてきます。

          <感謝合掌 令和3年12月12日 頓首再拝>

《幸福感は仕事によって得られる》 - 伝統

2021/12/21 (Tue) 02:37:43


       *「眞理」第2巻基礎篇第14章(P396~397)より

自分の出来る限りの能力をもって、すべての人間に奉仕すること。
そこから、幸福感が生まれ、本当の健康が生まれ、
地上に天国が実現するのである。

「奉仕」と云うことを
「無料(ただ)で自発的にやっているのだから、
 やっても好いし、やらなくとも可(よ)い」
などと考えてはならないのである。

「奉仕」が使命感によって裏付けられないとき、
それは怠(なま)け者が、惰(なま)けるための口実となるのである。

天国とは仕事なき世界ではないのである。

天国とは、すべての人々が、自分の好むところに従って、
他(た)の人々のために尽くしている状態であるのである。

仕事なく、惰け者ばかりが集まっている天国などは
惰け者の空想した世界に過ぎない。

          <感謝合掌 令和3年12月20日 頓首再拝>

すでに、幸福で祥益と健康とにめぐまれていると念ぜよ - 伝統

2021/12/27 (Mon) 03:31:02


        *「生命の實相」第38巻幸福篇下巻(12月26日)より

不幸、災厄、病気・・・ことごとく心に描かれた観念が具象化するものであるから、
不幸を喞(かこ)つなかれ、災厄を呟くなかれ、病気を愬(うった)えるなかれ。

不幸来たるごとに、災厄来たるごとに、病気が来たるごとに、
その反対の幸福を語れ、祥益(しょうえき)を語れ、健康を語れ。

すでにかく幸福で祥益と健康とにめぐまれていると念ぜよ
―― それが実現するために完全なる智慧か流入し来たると念ぜよ。

自己が不幸を、災厄を、病気を語らないばかりでなく、
他(た)の人々がかかることを語る時聴き手になってはならぬ。

もし聴き手になったならば、あなたは自己に、不幸災厄病気に対して
無防備に扉をひらいたと言わなければならないであろう。

そんな時に最もよいことは、ツンと澄まして相手との調和を悪くすることではなく、
話題を転ずることである。

            <感謝合掌 令和3年12月26日 頓首再拝>

幸運を引き寄せる睡眠用BGM - 伝統

2021/12/28 (Tue) 02:03:23

【願いが叶う&自律神経整う音楽】ぐっすり眠りながら幸運を引き寄せる睡眠用BGM
とほかみチャンネル「とほかみ解」(2021/11/24)
https://www.youtube.com/watch?v=N_g3ZgoF5Og

          <感謝合掌 令和3年12月27日 頓首再拝>

幸福成就の日 - 伝統

2021/12/28 (Tue) 19:13:37


           *「光明道中記」(12月28日)より

【実相を悟るものに不足の感じは起こらない。(『生命の實相』第一巻)】

人間は誰でも幸福に成りたい。
しかも多くの人達は幸福に向う道を誤まっているのである。
或る人たちは幸福と快楽とを混同している。

そして幸福になろうとして快楽を得ようとし、快楽を追求して結局得るところのもの
とては幸福ではなくて、苦痛であったと云う場合が多いのである。

仏者は五官の快楽を、瘡面(かさぶた)の痒きを掻くに喩えたことがある。
また渇者が塩水を飲んで渇を医(い)やすに喩えたことがある。

五官の快楽を求める習慣を得るときは、それを得なければ淋しいし、得れば尚一層、
得なければ淋しいこと、阿片中毒の如き状態となる。

阿片中毒者は阿片の奴隷であるし、
五官の快楽を追求せねば淋しい人達も、五官の奴隷である。

金銭の欲望を追求し、追及し、飽くことなき渇欲に心身を疲労せしめている者も
金銭の奴隷である。

本当の幸福は五官の快楽や、金銭の集積で得られないこと、
本当の幸福は阿片の吸引では得られないのと同じである。

本当の幸福は愛と深切と思いやりと、些(ささ)やかな事物の奥にも輝いている
天地の恵みを見ることである。

若し魂の眼(まなこ)が開かなかったならば幸福は何処にもない。

            <感謝合掌 令和3年12月28日 頓首再拝>

気高き心を把持する日 - 伝統

2021/12/30 (Thu) 15:29:19


           *「光明道中記」(12月29日)より

【心は容貌に彫刻の鑿を揮う。心が刻まないとき年の皺は刻まれない。
                        (『生命の實相』第一巻)】

幸福は五官の満足、所有の満足によって得られるのではないと云うことが判ったならば、
吾等は別の方向から幸福を求めなければならないのである。
それはどんな方向からかと言えば与える方向からある。

所有欲は奪う方向から幸福を得ようとしたのであるが、
吾々が世のために尽す真行(しんぎょう)や、国のために尽す忠誠や、
社会のために尽す奉公の幸福感などは、孰(いず)れも与える
方向から得られる幸福なのである。

また幸福は、それが触覚的方面、味覚的方面、所有的方面より来るものである限り、
それは著しく物質的であり、即(つ)いた感じであり、低卑な感じであり、
それは余りに多く満たすときは苦痛に変ずる性質のものである。

いつまでも変わらない幸福は、次第に、触感的、味覚的、所有的な方面から離れて来る。
視覚的な喜びは、触覚的な又は味覚的な悦びに比べて、
著しく「離れたる性質」のものである。

それは必ずしも触れなくとも、所有しなくとも、離れていて味わい得るのである。

芸術を味わうよろこび、自然を鑑賞するよろこびなどは後味の好い喜びである。

鑑賞するよろこびには、必ずしも所有することを必要としない。

            <感謝合掌 令和3年12月30日 頓首再拝>

【ダブルダイヤモンド富士】 - 伝統

2022/01/04 (Tue) 00:00:15


聴くだけであなたが覚醒し、確実に幸運が舞い込んでくる、
人生が好転する魔法の動画。
【魔法使いの学校】吉岡純子(2022.01.01)
https://www.youtube.com/watch?v=gIKpIeNI2lA

            <感謝合掌 令和4年1月3日 頓首再拝>

人間の幸福は神の生命(いのち)を顕現することである - 伝統

2022/01/04 (Tue) 15:00:44


     *「光明道中記」(1月4日《神われに生き給う日》)より

 【幸福とは神の実現である。そのほかに人間の幸福はない。
                  (「生命の實相」第十一巻)】

「生きとし生けるものを生かし給える御祖神
 元津神霊(みおやがみもとつみやま)ゆ幸(さきは)え給え」

「幸(さきは)え」は「咲(さ)き生(は)え」であり、
「割(さ)き延(は)え」であり、神の生命の顕現である。

「霊(みたま)さきはえ」のみが人間の幸福なのである。

人間の幸福は富を実現することではない。
名声を挙げることでもない。

神の生命(いのち)を顕現することである。

梅の花は咲き出でることが幸福である。
それは名声を博するがためではないから
奥山にいても依然として芳しく咲き匂うのである。
それは金銭のためでないから、
盆栽として売られなくとも咲き出でるのである。

梅の花はただ咲き出で、人間はただ与えられた使命を生きる。
幸福そのなかにあり、悦びその中にあり、楽しきこと限りなし。

若(も)し人が労苦して、そこに悦びが感じられなかったならば、
それはその人が第二義的なものを求めている証拠である。

働きそのものが第一義的目的であり、
働きの中に生命が延び、霊魂が進歩する。

第二義的なものは、そのときは値打があるように見えても、
その価値には永遠性がない。

         <感謝合掌 令和4年1月4日 頓首再拝>

本当の幸福を把(つか)む日 - 伝統

2022/01/16 (Sun) 12:49:19


           *「光明道中記」(1月16日)より

【ただよえる雲の彼方にまんまるに澄み切る月ごわが姿なる。
                (『生命の實相』第十一巻)】

雲を幾ら積んでも光は出て来るものではない。
肉体の快楽、五官の楽しみ、富の集積
 ―― それらは多くなればなるほど人生に光が出て
来るように思って夫(それ)を積んで見る人は沢山あるが、
いずれも幸福を見出してはいないのである。

幸福は先ず光を見出すことにある。
自分が光であると云うことを先ず知ることである。

光がなければ雲は重なれば重なるほど黯澹(あんたん)として
淋しくなるばかりである。

智慧のない、愛のない、我利我利亡者が
金を蓄めているほど黯澹たるものはない。

光がさし昇れば雲の”ある”無しは問題にはならぬ。

人間の「光」は自分が照らす愛であり智慧であることを知るべしである。
自分が「愛」でなければ積み重なっているすべての持物は、
光のない荒涼な暴風(あらし)の日の雲のようなものに過ぎない。

自分に智慧がなければ、持てるすべての物は
氷山と衝突して難破する船のようなものである。

神は愛である、我は愛である。
神は智慧である、我は智慧である。

            <感謝合掌 令和4年1月16日 頓首再拝>

不幸というものは、存在しない - 伝統

2022/01/17 (Mon) 15:00:14


      *メルマガ「天路」( 2022年01月16日)より

年明けに、

「何度も乗り越えることでなぜ意識が向上するのか?」

という意味合いの質問を受けたことがあります。


例えば、
恋人と別れた、恋人に捨てられた、
これらはただの「現象」に過ぎず、それ自体に不幸は含まれていません。


このことが不幸なのは、本人の心がそれを
「不幸と受け止めている」からに過ぎません。


つまり「不幸の感覚」とは、
外側からの要因で生じているのではなくて、
内側のエゴから生している執着なんですね。


不幸とは、その状況を嘆き、自己憐憫の甘い世界に浸って、
自分の力が及ばない「何事か」によって自分はかわいそうな状況になった
と必死に自分に言い聞かせている状態です。



人は「自分は不幸になってので苦しんでいる」と思っています。


しかし、今まであなたが依存していた相手がいなくなるということは、
あなた自身がしっかりと自力で立ち上がるための機会かもしれないし、

その相手を「手放す」ということは、
新たな関係をつかむための前兆かもしれません。


なぜなら、人間関係も含め、関係性の変化というものは
必ず本人が成長するためにもたらされるものだからです。


・転職したら前の職場でいたような嫌な人がいた
・引っ越したら近所に嫌な人がいる


先述しましたが、
これらの人から学ぶべきことがあるのです。


その人は、プライドばかりが高い
あなたの鼻をへし折ってくれるのかもしれませんし、

すでに優しいあなたであっても、
さらに揺らぎのない優しさを発揮するための経験として、
そこにやってきて「嫌な役」を引き受けてくれたソウルメイトかもしれません。

または、あなた自身がその人に学びを与える役割を
今回は持っているのかもしれません。



ネガティブな意識に支配されることなく、
状況に向かい合うことで人は成長します。


つまり何回も山を登るうちに筋力が付くのと同じで、

何度もこのエクササイズを乗り越えることで意識は向上するわけです。

            <感謝合掌 令和4年1月17日 頓首再拝>

幸福の感染する日 - 伝統

2022/01/22 (Sat) 14:32:53


           *「光明道中記」(1月20日)より

【心に善き言葉を食して心を幸福にすれば肉体は健康化し運命は良化する。
                         (『生命の實相』第一巻)】

幸福は感染する。病気が感染するばかりでなく幸福は必ず感染するものである。

家庭の一人が不幸せになった時、
その家全体は何となく不幸の雰囲気に包まれ初(そ)める。
その一人の不幸が堤に穿(うが)たれた蟻(あり)の孔(あな)のように
全体の幸福を押し流して了うこともあるものである。

だから一人だけ不幸でいても好いと云うようなものではない。
自分一人が悲しみのために全体を不幸に陥れて好い権利はない。
悲しみが感染するものならば、悲しむ者はその悲しみを他の人に伝えることを、
伝染病を予防するが如き注意深さを以て避けなければならぬ。

悲しみのある時には、神にその悲しみを訴えよ。
神は光であるから悲しみの暗(やみ)は必ず消える。

悩みのある時には、神にその悩みを訴えよ。
神は悦びであるから、その悩みは悦びに必ず変る。

腹の立った時には人に手紙を書いてはならぬ。
必ずその手紙に剣があって相手に立腹を伝染するのである。

腹の立ったときには

「腹の立つことは何もない、大調和が実相である」と念じて神想観せよ。

         <感謝合掌 令和4年1月22日 頓首再拝>

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