伝統板・第二

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無限の富を汲みだす⑦ - 伝統

2021/02/18 (Thu) 04:56:03

《繁栄の根源は人類に幸福を与えるにある》

           *「光明法語」(2月18日)より

幸福も繁栄も同様に神の他の二つの面である。

『悪』を犯して幸福になろうとしても幸福は来たらないのである。
『悪』を犯して繁栄しようと思っても、一時は栄えるように見えても
結局は栄えることは出来ないのである。

鼠小僧も石川五右衛門も百万長者になることは出来ないのである。
況や億万長者になった盗賊は一人もいない。

しかしロックフェラーも、ヘンリー・フオードも億万長者になり得たのは、
彼が人類に必要なものを出来るだけ広く与えたからである。

一方は鉱油を、一方は自動車を出来るだけ安く。


・・・

<関連Web>

(1)「光明掲示板・第一」内スレッド「無限の富 (5854)」
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1098

(2)「光明掲示板・第二」内スレッド「無限の富を汲みだす (120) 」
     → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=56 (消滅)

   「伝統板・第二」スレッド「無限の富を汲みだす」(光明掲示板・第二)
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7895683  

(3)「光明掲示板・第三」内スレッド「無限の富を汲みだす (69)」
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=35

(4)「光明掲示板・伝統・第一」スレッド「無限の富を汲みだす (67)」
     → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=41

(5)「伝統板・第二」スレッド「無限の富を汲みだす①」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6460527

(6)「伝統板・第二」スレッド「無限の富を汲みだす②」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6824314

(7)「伝統板・第二」スレッド「無限の富を汲みだす③」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7542012

(8)「伝統板・第二」スレッド「無限の富を汲みだす④」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7752637

(9)伝統板・第二「無限の富を汲みだす⑤」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7895248

(10)伝統板・第二「無限の富を汲みだす⑥」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7989074

           <感謝合掌 令和3年2月18日 頓首再拝>

《欠乏の観念を心の外に放逐(ほうちく)せよ》 - 伝統

2021/02/20 (Sat) 04:38:09

       *『 生長の家 』(昭和25年12月11日の法語)より

   一切の欠乏は、五官智(ち)と云う蛇の智慧にあざむかれて、
   現象を見て、それを真に実在すると信ずるところから生ずるのである。

   欠乏を見て、欠乏せるがゆえに 「 与えては損だ 」 と思って、
   自己の力を他に与えることを拒むがゆえに
   欠乏せるものは愈々(いよいよ)欠乏することになるのである。

   富は生命を与えることによって生ずるのである。
   与えれば与えるほど殖えるのである。

   すべての欠乏の観念をあなたの心の外に放逐せよ。

   「 欠乏は存在しない。欠乏とは無いことである。
   無いものは無いのであって存在しない 」と否定の想念をなせ。

   然(しか)る処 「 吾れは到る処に豊富を見出す 」 と思念せよ。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12308310.html  (消滅)

           <感謝合掌 令和3年2月20日 頓首再拝>

《人のためになる事が富の本源》 - 伝統

2021/02/25 (Thu) 01:25:32


           *「光明法語」(2月25日)より

金は自分が儲けるから得られるのだと普通考えられているのであるが、
儲けるとは一体どう云うことか。

それを何処からか横取りして来ると云う意味であるならば、それは寧ろ搾取である。

ところが、真実はお金と云うものは
何か人のためになることを尽したその報いとして、
自然に自分に廻って来るのである。

人のためになることを余計すればするほど、
その人にはお金は一層多く廻って来る。

そしてそれは普通、種子を蒔くようなもので、
与えたよりも余程多く与えられることになるのである。

           <感謝合掌 令和3年2月25日 頓首再拝>

《“富”の種子を植えて育てること》 - 伝統

2021/03/12 (Fri) 02:19:11


        *『 生長の家 』(昭和44年12月16日の法語)より

   「自分は貧しいのだ」とう考えを棄てなさい。
  
   そして「 既に富める“神の子”の実相 」を心に描いて、
   「 すでにわれ富めり、有りがとうございます 」と
   心に唱えて感謝するがよい。


   それが“ 富 ”の種子を現象界に植えつけたことになるのである。

   その思いを常にもち続けることが必要なのであって、
   ある時間だけ、祈りや、神想観の時だけではなく、

   常に、その“富相(ふうそう)”をもちつづけ
   感謝の念をもち続けることによって、
   実相世界にある無限の富が、
   現象化してあらわれることになるのである。

   もし途中で、まだ現象に残存する“貧しさの影”を見て、
   「やっぱり駄目だ、私は貧しい」と考えれば、
   その考えが想念の種子となり、雑草となって萌えひろがり、

   折角(せっかく)、以前に播いた“富想”の種子の上に覆いかぶさって、
   “富想(ふうそう)”はついに芽を出すことなく、
   枯れてしまうことになるのである。

   “貧しさ”の雑想雑念は早く刈りとるがよい。


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/341e28ddc7181dbee15db19dc3134230

           <感謝合掌 令和3年3月12日 頓首再拝>

無限供給の宝はあなたの足下にある - 伝統

2021/03/20 (Sat) 03:04:22


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月20日)」より

小さな損得を気にする者はついに命(いのち)を磨(す)り減らす。

無限供給の宝はあなたの足下(あしもと)に踏まれているのに気がつかない。

どんなものでも羨(うらや)ましいとは思うな。

            <感謝合掌 令和3年3月20日 頓首再拝>

《無限供給は愛によって流入す》 - 伝統

2021/04/05 (Mon) 05:07:55

        *『 生長の家 』(昭和25年12月23日の法語)より

   吾々は神の愛に触れ、神の無限供給の流れに浴そうと思ったならば、
   先ず家族互いに相和し、隣人と相和し、事務所の人と相和し、
   すべての人と相和していなければならないのである。

   何処(どこ)かに精神上の不和が存在するならば、
   神の無限供給の流れを流入せしむるための
   抵抗となり、絶縁物となるのである。

   神は愛であり、愛のあらわれが無限供給であるのであるから、
   無限供給の流れに浴そうと思うならば、単に人々に対して消極的に
   争わないだけではなく、愛の心を起さねばならぬ。

   愛の奉仕を行じなければならないのである。

   周囲の人々を心に思い浮かべて
   「私は貴方(あなた)達を愛している」と念ぜよ。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12347787.html (消滅)

            <感謝合掌 令和3年4月5日 頓首再拝>

《神の供給は無限である》 - 伝統

2021/04/06 (Tue) 04:23:11


        *『 生長の家 』(昭和26年4月6日の法語)より

   宇宙は 無限の神の創造であるから、
   宇宙に於ける供給は 無限であるのである。

   吾々は 此(こ)の宇宙無限の供給を心に描いて
   自分に流れ来つつある有様を想念することによって、
   それを自分のものとすることが出来るのである。

   何人(なんぴと)も彼が神の子である限り
   欠乏すると云うことはないのである。

   すべての人は平等に富んでいるのである。
   それを欠乏させるものは 欠乏の感じにほかならないのである。

   「 欠乏を満たし給え 」 などと欠乏の語(ことば)を使って祈ることは
   心に「 欠乏 」 の感を深く印象することになって、
   その祈りは却って逆効果になるのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12208729.html(消滅)

            <感謝合掌 令和3年4月6日 頓首再拝>

《神は豊かに恵みたまう》 - 伝統

2021/04/18 (Sun) 04:47:01


        *「光明法語」(4月18日)より 

神を絶対必要量の最低限度以上のものを与えたまわないような
「ケチな存在者」だと思ってはならない。

かく神をば「ケチな存在者」だと思うことは、ケチな存在を祈っているのであるから
ケチな存在しか得ることが出来ないのである。

神は富士山を築山(つきやま)にしつらえ太平洋を其のお庭の池につくりたまうた如き、
寛大にして余裕ある豊かなる存在であらせられる。

山や海さえもかく美しく豊かにつくりたまうた神が
神の最高の自己実現である人間にケチな装いしか与えたまわないと云うことは
ないのである。

            <感謝合掌 令和3年4月18日 頓首再拝>

《神よりの豊かなる生活》 - 伝統

2021/04/19 (Mon) 03:20:27


        *「光明法語」(4月19日)より 

吾々の豊かなる生活は、神から与えられるものではなくてはならぬ。
神に対立する富を求めてはならないのである。
ただ神のみを求めたら好いのである。

神の中に一切があるのであるから、神のみを純一無雑に求めていさえすれば
豊かななる生活は自(おのずか)ら実現するのである。

神のみを求めながら、若しその人に豊かなる生活が実現しないならば、
「豊かなる生活を送ることは神のみこころにかなわない」とか、
「富める者は天国へ行くことはむずかしい」とか云う迷いが
その人の心の何処(どこ)かに存在するのである。

            <感謝合掌 令和3年4月19日 頓首再拝>

《人を羨(うらや)んではならない》 - 伝統

2021/05/05 (Wed) 05:02:44


      *『 生長の家 』(昭和25年12月25日の法語)より

   人を羨むな。

   諸君には諸君のために神から割当てられた天分があり、
   能力があり、富があるのである。

   その自分の割当を完全に受け取ることが出来れば、
   諸君は既に幸福であり、諸君は充分富むことが出来るのである。

  
   自分の割当を充分受け取るためには、
   神からの愛の流入を妨げる一切の悪しき想念と感情とを
   捨てなければならないのである。

   先ず、霊に於いて神の愛に一致することが致富の源泉である。
   神の愛をキャッチせよ。
   それのみが真の富の源泉に汲むことになるのである。

   人を羨むな。
   羨む心は、他の人に割り当てられたるものを盗む心である。
   盗む心はまた盗まれる。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12356254.html(消滅)

            <感謝合掌 令和3年5月5日 頓首再拝>

《人間は本来富んでいる》 - 伝統

2021/05/06 (Thu) 04:54:49


        *『 生長の家 』(昭和25年12月28日の法語)より

   一度や二度の努力が失敗したからとて、自分は運が悪いのだ、
   自分の運命は貧乏に定められているのだ、神の御心は
   自分の富まないことにあるのだなどと考えてはならないのである。

   神のみ心の中には「貧乏」などのプログラムはないのである。

   神の定めたまえる「富」のプログラムを巧(たく)みに
   こちらが演出しないから「貧乏」にあらわれるのである。

   「貧乏」と云うものは本来存在しないのである。
   それは「富」が其処(そこ)にあらわれていない
   と云うことに過ぎない。

   神の意志は人類の全部を幸福に健康にゆたかに愉快に楽しく
   生活させたいと云うことである。

   これを信ぜよ。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12366588.html(消滅)

            <感謝合掌 令和3年5月6日 頓首再拝>

《富とは「生命(いのち)」を与えること》 - 伝統

2021/05/16 (Sun) 04:56:54


      *「光明法語」(5月16日)より

富を獲得するためには何か不正なことを行なわないと得られない
と思うのは間違いである。

また富と云うものが神のみ心にかなわぬものだと考えるのも間違いである。

富と云うものは
神の「生命(いのち)さきはえ」が現象界に具現化したものであるから、
人間自身も生命(いのち)を出して与えた程度に従って得られるのである。

与えれば与えるほど、換言すれば多くの人々に役に立つ働きをし、
多くの人々の役に立つ製品をつくり出したとき、
その人の収入は殖え、その人の富は増加するのである。

            <感謝合掌 令和3年5月16日 頓首再拝>

《最大多数の最大幸福に奉仕せよ》 - 伝統

2021/05/17 (Mon) 02:13:31


        *「光明法語」(5月17日)より

「亀の子たわし」を新案して全日本の台所の清潔に貢献した者は百万長者となり、
「わかもと」を新案して人類にビタミンB資源を出来るだけ広く供給する試みを
考案した者は千万長者と成る。

何でも最大多数の人類に貢献した者はその報いを得るのである。

真理を最も平易なる言葉で述べ、一千万人に生老病死を解脱する道を教えた
『生命の實相』の著者が千万長者にならないのは、まだ彼が、清貧に執する気持ちがあり、
宗教家と云うものは富んではならないという通念に縛せられているからである。

            <感謝合掌 令和3年5月17日 頓首再拝>

「公的精神」 - 伝統

2021/05/19 (Wed) 04:43:38


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月19日)」より

我が「公的なる存在」なるとき、なくてならぬものは必ず与えられるのである。

否、すでに与えられているものが、
「公的精神」すなわち「利己的ゆがみなきレンズ」となるがゆえに、
それがそのままそこに現われ出るのである。

           <感謝合掌 令和3年5月19日 頓首再拝>

《富む事は罪悪ではない》 - 伝統

2021/05/22 (Sat) 04:35:05


       *「光明法語」(5月22日)より

若し諸君が富もうと思うならば、
富む事が罪悪であると云うような考えを捨てなければならぬ。
若し潜在意識が「富」を「避くべき罪悪」であると信じているならば、
潜在意識に諸君はする事なす事、貧乏になるような行動をすることになるのである。

神は決してケチを喜び給うような方ではない事は、
地球と云う箱庭に太平洋と云う池をつくり、富士山と云う築山をきずいて、
その美しさを賞(め)でたまう事実を見てもわかるのである。

神の計画は大仕掛である。
人間も神の子ならば大仕掛に富んでも好い。
大なる計画は人を引着ける。

           <感謝合掌 令和3年5月22日 頓首再拝>

《富を獲得する第一条件》 - 伝統

2021/05/23 (Sun) 04:50:07


       *「光明法語」(5月23日)より

富とは「金」のことではない。
封鎖されれば使えなくなるような「金」や紙幣は真の富ではない。

富とは「価値」である。「値打」である。
値打の中には色々の善き考え、身体(からだ)の健康、人格の魅力、
日常生活の快適や豊富さ、享受力の豊かさ、創造力の豊かさなどと云うものが
含まれている。

兎も角、諸君がこれらの富を得んとすれば、
それを得ることが決して罪悪でないと云うことを先ず知り、
自分が神の子であるから此等のものは必ず得られると云うことに確信を有(も)ち、
且つ必ず得て見せると云う大決心をしなければならぬ。

           <感謝合掌 令和3年5月23日 頓首再拝>

《富は「善き考え」の具象化》 - 伝統

2021/05/24 (Mon) 04:51:39


        *「光明法語」(5月24日)より

富は先ず「善き考え」の具象化(かたちになったもの)であるから、
善き考えを起こさなければならぬ。

人間知恵で善き考えを起こしたくらいでは、
人に抽(ぬき)んで大なる富を得る事は出来ないのである。

多くの発明は天来のインスピレーションで成り立っているのである。
だから大いに富むためにはインスピレーションを得なければならない。
インスピレーションを得るためには神に波長を合わさなければならない。

神に波長を合わすためには、心を清め、心を静かにして、
神想観を行じなければならぬ。

           <感謝合掌 令和3年5月24日 頓首再拝>

《既に与えられているものを完全に利用せよ》 - 伝統

2021/05/25 (Tue) 04:50:21


        *「光明法語」(5月25日)より

神の有ち給えるすべての富は既に汝に与えられているのである。
それをみずから取るか遠慮して取らないかは自分の自由である。

次のものを求むるよりも前に、既に与えられているものを完全に保有し、
感謝し、それを働かせているかいないかを反省すべきである。

既に与えられているものに感謝し、既に与えられている自分の富を、愛を、能力を、
深切を、充分人に与え、且つ働かせてこそ、新たなるものを求むるべきである。

その時にこそ神が既に豊かに与えたまうている物を取る力が出来ているのである。

           <感謝合掌 令和3年5月25日 頓首再拝>

人間は神の子、減らない生命と財とを与えられている - 伝統

2021/06/07 (Mon) 04:46:17


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月7日)」より

減るという考えがあっては落ちつけぬ。
損するという考えがあっては落ちつけぬ。

人間は神の子であって、減らない生命と財とを与えられているのであり、
どんな時にも損するということはないものじゃという考えになったときに初めて
われわれは落ちつけるのである。

           <感謝合掌 令和3年6月7日 頓首再拝>

叡智を以って、宇宙の富を循環させる - 伝統

2021/06/21 (Mon) 02:39:49


        *「光明道中記」(6月21日《三たび自己を顧みる日》)より抜粋

宇宙の富は宇宙全体の《もの》であるから、
宇宙無限の富の供給を受けんと思う者は、自分が多く供給されればされるだけ、
それを使って全体のために使い得る用途を見出さなければならぬ。

金でもたんまり入って来たら、
日頃買いたいものを思う様買って利己的に楽しめるのになア
―― などと利己的なことを考えながら神から無限供給が来ると思ってはならない。

欠乏するかも知れぬと思って、有用なことに使うことを恐れている者は
要するに無限供給を知らぬものである。

無限供給は与えられたものを以て
最高度に全体のために奉仕することによって循環して来るのである。

豊富に与えられんと思う者は豊富に与えなければならぬ。
豊富に与えるとはただ無暗(むやみ)に非効率な出し方をすることではない。

叡智の伴わない施与(ほどこし)は自由を傷(きずつ)ける。

           <感謝合掌 令和3年6月21日 頓首再拝>

無限供給を招(よ)ぶ貯えの心構え - 伝統

2021/06/22 (Tue) 04:48:04


       *「光明道中記」(6月22日)より
         ~神意(みこころ)を行ずる日

【十字架を負うてすべての持てるものを捨てて我に従え。
                    (『生命の實相』第九巻)】

金は必ずしもある切り出し切るのが神意に適うのではない。
と言って金の出し惜しみをするのが神意に適うのでもない。
全体のために有用に使うことである。

今、有用に使う道が発見せられないならば、
「有用に使う道を発見せしめ給え」と祈りつつ、
有用に使う道が発見されるまで貯蓄して置くべきである。

有用に使う道を発見せずしてみだりに
金を放出する者を浪費者と言うのである。
浪費者は天物を亡殄(ぼうてん)するものであるから、
やがて自己が貧しさに苦しまねばならぬ時が来るであろう。

貯蓄は老衰後のためや手足が不自由になったり、
頭脳(あたま)が役に立たなくなった時の
生活費にと貯えるべきものではないのである。

老後のためと思えば老衰が来るであろうし、
手足の不自由の時のためだと思えば手足が不自由になるであろうし、
頭脳が役に立たなくなった時のためだと思えば、
やがて頭脳が役に立たなくなって来るだろう。

思う通りに何事でも成就するからである。

「貯蓄は有用なる使途を発見するためのものだ」と思って貯蓄すれば、
やがて有用なる使途が発見されるであろう。

その使途はまたその人を高め上げ無限供給を招(よ)ぶであろう。

           <感謝合掌 令和3年6月22日 頓首再拝>

無限供給の原理 - 伝統

2021/07/05 (Mon) 03:21:43


        *『 生長の家 』(昭和25年12月29日の法語)より
         ~《すべてのものは神より来る》

   神は無限供給の神である。

   すべての供給と増加とは神より来るのであって、
   苟(いやしく)も「わしが、わしの力で生み出した」と
   考えてはならないのである。

   神は法則であり、法則に人間が順応したとき、
   法則が生み出して下さるのである。

   物の来るごとに神に感謝し、神を賞(ほ)め讚(たた)え、
   「 神様のお蔭であります 」 と合掌せよ。

   かくの如くして既に与えられているものの徳を神に感謝し、
   それを祝福し、更に愛念を起してそれを他(ひと)に頒(わか)つ
   とき、無限の供給はやって来るのである。


   「イエス、パンを取りて謝し、座したる人々に分ち与え」と
   ヨハネ伝には書かれている。

   これが無限供給の原理である。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12370580.html(消滅)

           <感謝合掌 令和3年7月5日 頓首再拝>

《富むために必要な心掛け》 - 伝統

2021/07/11 (Sun) 04:59:10


       *『 生長の家 』(昭和26年2月27日の法語)より

   彼が栄えるのは自分が栄えるのである。
   彼が貧しくなるのは自分が貧しくなることである。

   人の栄えるのを喜ぶような心のものでないと、
   みずから栄えることは出来ないのである。

   富める者を観て 「 搾取者 」 だとケチをつけるような心の者は、
   「 富 」 を排斥する心があるのであるから、
   自分の方へ富が集って来ないのである。

   人の幸福を見て羨(うらや)むような心の者は、
   幸福を排斥する心があるのであるから
   真に幸福になることは出来ないのである。

   損したことをクヨクヨ思うな。
   「 損 」 を心に抱いている限り
   「 損 」 を 此次(このつぎ)も引寄せることになるのである。

   「 損 」 をしたときに、
   今迄(いままで)、自分が富む事を妨げていた塵埃(ごもく)が消えて
   富の道が開通したと思え。

    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/c25197c5b0c242d9adc97a16e73fbcc6

           <感謝合掌 令和3年7月11日 頓首再拝>

《神は人間の富むことを喜び給う》 - 伝統

2021/07/20 (Tue) 02:42:29


        *「眞理」第2巻基礎篇第13章(P358~359)より

「天の倉に富を貯(たくわ)えよ」と云うことは、
此の世で貧乏であれば神が喜び給うと云う意味ではないのである。

神は決して人間を不幸な窮乏の世界にあらしめたいなどとは
思っていられないのである。

それ所か、神は人間が富裕限りなき豊かな世界に生活することを、
望んでい給うのである。

だから聖書には、
神は最初の人間をエデンの楽園に置いたと書かれているし、

阿弥陀経に書かれている人間の落ちつく先、即ち極楽浄土は、
七宝充満せる限りなき富の世界として書かれている。

法華経も如来壽量品には、衆生が憂怖苦悩充満せりと観るときにも、
真実の世界は、諸々の堂閣種々の宝もて荘厳(しょうごん)され、
天樂(てんがく)の声きこえ曼陀羅華(まんだらげ)の花びら降る
世界に衆生は遊楽していると書かれているのである。

           <感謝合掌 令和3年7月20日 頓首再拝>

龍宮の大神の御名に於て、無限の富を求めよ - 伝統

2021/07/24 (Sat) 04:28:25


      *『栄える生活365章』(P146~147)より
       ~生長の家大神の御名(みな)に於(おい)て

富は他の人の持てるものを横取りして来ることによって得られるものではなく、
また斯(か)くの如(ごと)くして得たる富は盗罪によって得たる富である。

真の富は 実相無限の宝庫より、いくら引出しても引出しても減らないところの
宝庫より得たる富でなければならないのである。

先(ま)ず 「 実相世界 」 は無限の富の宝庫であることを知ることである。

無限の富の宝庫である実相世界を海の底(創造の根柢)にある龍宮城であると謂(い)う。
龍宮城の大神は 住吉大神(すみよしのおおかみ)即ち 「 生長の家大神 」 である。

神想観をなして

「 生長の家大神の名に於て、吾(わ)れ善事を成さんがために何々を求む 」

と繰返して唱えよ。

而(しか)して

「 既にそれを与えられました、有りがとうございます 」

と感謝せよ。

龍宮の大神の御名に於て、よき事のために求むるものは皆 必ず成就するのである。

何故(なぜ)なら龍宮海は一切創造の本源世界であるからである。

           <感謝合掌 令和3年7月24日 頓首再拝>

《 繁栄の本源 》 - 伝統

2021/08/11 (Wed) 03:58:55


        *『生活の智慧365章』(第1部生命の泉)
           第2篇( P56~57) より

あなたが繁栄を欲するならば、繁栄の源泉に向かって
あなたの”心のテレビ”の波長を合わさなければならないのである。

一切の供給の本源は神であるから、
繁栄の本源もまた神であること無論である。

だから神に対して、あなたの”心のテレビ”を振り向けて
波長を合わす事が必要なのである。

それには、一日のうち幾度も幾度も、神想観して、

「神はわが生みの父母(ちちはは)であるから、
必ず自分にとって必要なものは与えたまうのである。
既に与えていられるのである」

と念ずるがよいのである。

念ずることが、念ずる相手に対して
波長を合わしていることになるのである。

あなたは、決して現実の乏しさや、条件の苛辣(からつ)さを見て恐怖し、
神の恵みに対して自己限定をしてはならないのである。

自分に適する職業を得ようと思ったら、

「神から其の職業は既に与えられている」

と繰り返し繰り返し念ずると共に、
今までの職業に対して感謝の念をしっかり起すことであり、

唯今、失業しているならば、賃金のない仕事でも、
眼の前にある何らかの仕事で、人の《ため》になりそうな事であれば、
道路の掃除でも、窓硝子拭きでも、

「ありがとうございます、
 既に職業を与えて下さりましてありがとうございます」

と口の内(うち)で感謝の言葉を唱えながら、献労するとき、
間もなく、好収入のある自分に適する仕事があらわれて来るものである。

 ―― それは、凡ゆる供給の本源なる「神」に
    波長を合わした事になるからである。

           <感謝合掌 令和3年8月11日 頓首再拝>

《現状を握らずに、眼を挙げて宇宙を見よ》 - 伝統

2021/08/15 (Sun) 04:58:31


        *「眞理」第2巻基礎篇第14章(P385~386)より

現状を握って放さないものは
映画のフィルムを握ってその流動を止(と)めようとする
ようなものであって、次なる豊かなる現象があらわれて来ないのである。

貴方の「富」とか「繁栄」とか云うものを、
あなたは人間から来ると思いますか。
神から来ると思いますか。

すべての富は巧(たく)みなる取引から来るのでもなければ、
銀行から来るのでも株式から来るのでもないのである。

その本源はすべて「神」なる宇宙普遍の無尽蔵から来るものなのである。

富を或る自分の考えている形(例えば「金(かね)」とか地位とかの形)で
来るとばかり考えているから、
無限の富は眼の前にあれどもそれを見出すことが出来ないのである。

あなたの周囲に横たわっている全てのものは
貴方が今自由に見るべく与えられている富ではありませんか。

           <感謝合掌 令和3年8月15日 頓首再拝>

《「富」そのものは“浄”“不浄”を超えたものである 》 - 伝統

2021/08/17 (Tue) 04:58:59


      *『人生の秘訣365章』第4篇(P112~113) より

「富」というものは、それ自体“中性”のものであって、
“善”でもなければ“悪”でもないし、
“浄”でもなければ“不浄”でもないのである。

善人が益々富んで、その富を大いなる善行のために、
社会事業のために、難民救済のために、不毛地の開拓のために、
人類の福祉のために、それを使えば、

それは貧乏な善人が、ただ山に籠って何事をもなし得ないよりも、
幾千倍の善業を積むことになり、
このような「富」は“善”であり、また“浄”である。


汚職を重ねて自分の私腹を肥やし、蓄妾や下劣な享楽や、
自己の虚栄のために、その富を蓄え且つ使うならば、
そのような「富」は“悪”であり、“不浄”である。

それゆえ、善人こそ益々富んで、
その富を人類の自覚と福祉の増進のために使って頂きたいものである。

           <感謝合掌 令和3年8月17日 頓首再拝>

《富は自分の“心”と“福田”の中にある》 - 伝統

2021/08/21 (Sat) 05:02:01


       *『人生の秘訣365章』第5篇(P125) より

資本主義の経済組織の中には欠陥もあり、無数の悪徳が行われており、
弱者をいじめて狡猾な人間が巨利を博(はく)しているような事実もある。

しかし向上と進歩と昇進とへの平和的自由がない訳でもないのである。

若しあなたが昇進の道がふさがれているならば、自分自身を正直に眺めれば、
その昇進が得られない理由を自分の心境自身のうちに見出し得るに
相違ないのである。

誰かが不正な方法によって富を得たからとて、
自分も其の方法によって富を得ようなどと考えてはならない。

本当の「富」の実質は「福田」である。
形ある富は「福田」の影に過ぎない。

不正な方法によって得たる富は、「福田」と云う背景のない富であるから、
夢にあらわれる“幻”の如く短時間に消えて行く、

「福田」のある富はフィルムのある映画の如く、
いつでも「福田」のフィルムさえ上映させたら、
現象界に“富”があらわせるのである。

           <感謝合掌 令和3年8月21日 頓首再拝>

《“福田”はフィルムであり現実の“富”は映画である》 - 伝統

2021/08/23 (Mon) 04:55:18


       *『人生の秘訣365章』第5篇(P126) より

他(た)の人の現在の収入が多いことを羨しく思ってはならない。

それは「富」を否定する心である。

何よりも大切なのは、実際自分がその受取っている給料に
相応しい働きをしているかと云うことである。

若し、それに相応しくない、受取る額よりも足りない働きしか
献げていなかったならば、それは「福田」を減らしつつあり、
言わば、“富”の映画のフィルムを毀し(こわし)つつあるのである。

正直に自己批判することが必要である。

みずから省みて、自分の受けつつある“富”(又は給料)が
自分が人生に献げつつある貢献の量にふさわしいと思うならば、
尚一層、その貢献の量をふやすことによって「福田」をふやすがよい。

「福田」と云うものは「天の銀行」に預けたる預金のようなものである。

若し大いに人生に貢献して「天の銀行」に預金がある筈なのに
現在の収入が足りないと云うのであれば、
それは預金の引出し手続きを知らないからである。

           <感謝合掌 令和3年8月23日 頓首再拝>

《福田銀行から預金を引出すには?》 - 伝統

2021/08/27 (Fri) 04:58:02


       *『人生の秘訣365章』第5篇(P126~127) より

「天の銀行」(福田銀行)では
預金なしで前渡しをすると云うことはないのである。

しかし預金(「福田」)があっても引出し方法が悪いと
預金が引き出されないことがある。

あなたにたとい能力があっても、その能力をあらわすことをしなかったら、
それは預金帳を示さないようなものである。

自分の能力を示すあらゆる機会を利用して自分の能力を
”他(た)の人の為になる”方向に発揮することが大切である。

これが「福田」の預金帳を示して、そこから”富”を引き出すところの
ただしい手続きなのである。

あなたの能力だけが「福田」ではない。
あなたの全人格があなたの預金帳である。

あなたの日々想うこと、その感情の高邁さや浅薄さは、悉くあなたの
”全人格”と云う預金帳に記載され、それが”全人格”と云う雰囲気となって、
「天の銀行」に提示され、その記録に従って預金が引き出される。

           <感謝合掌 令和3年8月27日 頓首再拝>

《富とは一切の豊富さである》 - 伝統

2021/09/02 (Thu) 05:03:19


       *『 生長の家 』(昭和23年3月26日の法語)より

   人間が貧しいのは
   何処か心の持ち方が間違っているからだ。

   富が決して悪いのではない。

   富が若し悪いものならば、
   無限の富者である神は
   無限の悪の所有者だと云わなければならない。

   然るに本当は、全ての豊富と云うことは美徳であり、
   素寒貧である事は悪徳又は劣徳であるのである。

   富とは必ずしも金の事ではない。
   金があっても富んでいない人が沢山ある。

   富とは、よき考え、よき家族、よき師、よき弟子、よき雑誌、
   よき性質、よき能力、それを表現する機関・・・等々。

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13237011.html?type=folderlist(消滅)

           <感謝合掌 令和3年9月2日 頓首再拝>

「負債」無し、神の無限供給の現われ - 伝統

2021/09/05 (Sun) 04:53:11


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月5日)より

負債(おいめ)というものの観念の中には、「欠乏」の感じがしているのである。
債権者は、返してくれるはずのものが「欠乏」していると考える。

負債(おいめ)というものを考えるとき、どちらの側も「欠乏」という観念から
抜け出すことができないのである。

本当に繁栄を得ようと思うならば、この欠乏の感じを「お蔭」(神からの供給)の
考えに転回してしまうことが必要である。

債権者の方からは「あの人に貸し与えるほど豊かな供給を得てありがたい」と考え、
債務者の方からが、「あの人を通して無限の供給を恵みたまうてありがたい。神の無限の
供給が種子(たね)になっていよいよますます幸福がやって来る、ありがとうございます」
と考えるがよい。

           <感謝合掌 令和3年9月5日 頓首再拝>

責める心ではなく、「豊富」を念じる - 伝統

2021/09/06 (Mon) 04:51:11


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月6日)より

相手が債務を履行しないことを責める心、
払わせようと「損」を気に懸(か)ける心よりも、

「すでにわれ無限供給の富を受けたり」という「供給豊富」の観念を
常に心に持ち続ける方が、実際に富をいっそう増大することになるのである。

気の小さいようなことではいかぬ。
一方で損をしたにしてもクヨクヨと思ってはならない。

いっさいの富は「神」より来たるのであり、
「神」はいたるところに充ち満ちていたまうのであり、
そしてわれわれの想念するとおりの形をとって顕われたまうのであるから、
「損」を心に描くことなく、自分に「損」をかけたと思う人に対しては、

特にその人が「豊富」であるように念じてやることが相手を生かし
自分の債権も生かすことになる。

           <感謝合掌 令和3年9月6日 頓首再拝>

本当に貧乏になった時に富む力が生まれてくる - 伝統

2021/09/07 (Tue) 04:56:18


      *『 生長の家 』(昭和24年8月4日の法語)より
       ~刻苦しただけのお蔭(かげ)である

貧乏は愉快なものではない。

水の底に沈むのも又決して愉快なものではない。

しかし一度深みへ連れて来て、手を放された時に、
本当に泳ぐ力がでて来るように、

本当に貧乏になった時に富む力が生まれてくるのである。

楽にして勉強したものは本当に身につかない。

           <感謝合掌 令和3年9月7日 頓首再拝>

富の道 - 伝統

2021/09/12 (Sun) 04:52:27


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月12日)より

各人の富は、神の無限供給の源泉を、自分の心で受けた分量であるから、
自分の心の影だということができるのである。

もしすべての人の富を回収して、それを全人類に平等に分配しても、
たちまちのうちに富む者は富み、貧しくなる者は貧しくなるのであろう。

その人の心が、その分配されたるものを操作して
おのおの異なる結果を生むことになるのである。

今日(こんにち)自分が働く力、考える力、生きる力、味わう力・・・等々を
与えられていることを感謝せよ。
すでに無限の供給の今あることに感謝せよ。

(損失なんて考える必要はないのである)そして、感謝のうちに報恩のために
働く力を、考える力を他(ひと)のために与えて奉仕せよ。

これが富の道である。

             <感謝合掌 令和3年9月12日 頓首再拝>

恵みに報謝する働きをする - 伝統

2021/09/13 (Mon) 04:56:02


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月13日)より

金を借りるのは必ずしも悪いことはないが、
約束の時に必ず返却しうる万全の用意ができていなければならないのである。
返却しうる可能性だとか決心だけではいけない。

碁の布石のように、この石をこう置いたらこの次の石はこうなるという
ハッキリした計画と準備があって、それで金を借りるのならよい。

実際神の無限供給があるのに、「債務を負っている」という一種の「欠乏」とか「貧乏」
とかの観念の伴いやすい生活条件に入ることは好ましくないのである。

神の無限供給の世界に入るならば、そこには債権者も債務者もないのである。
そこは、ただ恵まれている世界である。
その恵みに報謝する働きをしておれば必要なものはことごとくやって来るのである。

             <感謝合掌 令和3年9月13日 頓首再拝>

富は有益に使う - 伝統

2021/09/20 (Mon) 04:46:37


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月20日)より

使わずに蓄(た)めておくということもある時期においては必要である。
それは種子(たね)を適当な種蒔きの時期まで保存するような意味である。

しかし未来の欠乏の恐怖によって物に執着する意味での貯蓄は、
「欠乏」の想念(こころ)が先になっているから、あまり感心しないのである。

まず神の国の無限供給を認識し、それを生かし表現することにつとめるならば、
未来も今も常に無限の供給に満たされることになるのである。

富の固定をもって真の富と考えてはならない。
固定しているかぎり、それはなんら人生に益することはできないのである。

富は有益に使うとき増殖する。

             <感謝合掌 令和3年9月20日 頓首再拝>

《富の本源は 愛と智慧とサービス》 - 伝統

2021/09/27 (Mon) 03:54:00


     *『 生長の家 』(昭和23年3月29日の法語)より

   金と云うものは
   神様の世界にはないのであるから、

   金を与えたまえと
   神様に祈っても与えられない。

   吾々は 愛を 智慧を サービスを 与えたまえと祈って、
   自分が又 愛を 智慧を 奉仕を 世間に対して与えるとき、
   それが神の世界のそれと波長が合うから、

   神の 愛が 智慧が サービスが
   吾々の 愛と 奉仕に 触れて富として実現する。

   恰も太陽からの放射線が
   地球の圏内に入って
   光となり熱となって現れるようにである。

   地球の雰囲気がなかったら
   太陽の放射線も光熱とはならぬ。

   神の愛も
   人間の愛がなかったら富とはならぬ。

   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13244831.html?type=folderlist(消滅)

             <感謝合掌 令和3年9月27日 頓首再拝>

《寛大で細心なのが魂の高級さの印である》 - 伝統

2021/09/28 (Tue) 04:24:35


      *『 生長の家 』(昭和24年8月30日)より

   肉体のためよりも
   魂のために金銭を消費するものは
   健全なる使い方である。

   精神の修養にさえも金銭を惜しむものは
   “ けち ” というものである。

   寛大で同時に
   浪費でないのが
   最良の経済である。

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12871868.html (消滅)

             <感謝合掌 令和3年9月28日 頓首再拝>

《致富の秘訣は二つの真理にある》 - 伝統

2021/10/05 (Tue) 05:01:00

        *『 生長の家 』(昭和23年3月30日の法語)より

   ラッセル・H・コンウェルの「 致富講演 」 によると
   致富の原理は大体次の二つである。

   第一は 最大多数の人類に広く要求せられるものを与える事。
   第二は、資本や門閥やそのほかどんな力をも借りずして、
   自分で新しく其の仕事を出発せしむることである。

   先ず新しい考案が必要である。
   その新しい考案が人類的要求に応ずる事が必要なのである。

   日本でも 「 亀の子たわし 」 一つ考案して
   数百万円を贏(か)ち得た人もあるし、

   ビール糟(かす)をビタミン剤として
   数千万円を贏ち得た人もある。


   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13248280.html?type=folderlist(消滅)

             <感謝合掌 令和3年10月5日 頓首再拝>

《信念は富の源泉である》 - 伝統

2021/10/08 (Fri) 04:59:28


          *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P233)より

信念の強きものは、
それだけ富)とんでいると云うことが出来るのです。

富と云うものを「物質のただの堆積」だと思ってはなりません。
信念が富なのであります。

物質はその信念が実現した結果であります。
信念の上に多くの事業は構築せられ、
多くの発明は実現したのであります。

まことに、芥子種(からしだね)ほどでも
「本当の信」があれば山をも動かすことが出来るのである。

信念のある人の一語は、
失望落胆せる人に勇気を与え、病める人を健康ならしめ、
事業に失敗せる人に再び起(た)ち上がる勇気を与えます。

多くの実例が聖書にかかれていますが、
それと全く同じ実例が「生長の家」の練成道場で
無数にあらわれているのであります。

その信念は如何にして喚起されるか、
それはコトバの力を利用することと、
精神統一の実践によってであります。

精神統一とコトバの力を一緒に結合した行事が神想観であります。

信念は現在意識に度々(たびたび)思い浮かべたことが
潜在意識に蓄積して出来るのでありますから
精神統一中に善き語を度々念ずるがよいのであります。

             <感謝合掌 令和3年10月8日 頓首再拝>

《無限の宝庫は 今 此処 にある》 - 伝統

2021/10/18 (Mon) 03:43:47


        *『 生長の家 』(昭和24年9月1日の法語)より

   昔々インダス河のほとりに一人のペルシャ人が住んでいた。
   その名前はアーリー・ハーフェッドと云った。

   河岸に立っている彼の小さい家からは美しい田舎の景色が
   海岸の方へずっと伸びて行っているのを見渡す事ができた。

   アーリー・ハーフェッドには妻との間に数人の子供があった。
   彼は豪農で広々とした穀物の畑や花畑や果樹園や数マイルもつづく森林を所有していた。
   彼は自分のほしいだけの金と、その外ありとあらゆるものをもっていたのである。

   それで彼は非常に満足で幸福であった。

   或る朝のこと 一人の仏教僧侶(そうりょ)が彼の家を訪問した。
   そして暖炉(だんろ)の前に腰かけながら、この世界の成り立ちから、
   太陽の最初の光がこの地球の上にさしこんで来て、それが如何に結晶して
   ダイヤモンドになったかというような話まで説明してくれるのであった。

   この老僧はこんな話をしてから、
   自分の拇指(おやゆび)をその豪農の主人公の前に突きだして、

   「 この拇指ほどの太陽の光でも広い広い金鉱、銀鉱、銅鉱などよりも
   まだまだ価値があるのである。このほんの僅(わず)かの日光でもこんな農園位
   いくらでも買えるだけの値打があるのだ。

   一にぎりの日光があればこの一国全体を買う値打がある。
   そのすばらしい日光が結晶したダイヤモンドの鉱山をもってしたら、
   この国全体を買って尚(なお)余りがあるほどだ 」 と説明したのであった。


   アーリー・ハーフェッドはその老僧のいうことをきいていた。
   すると今まで田地 田畑 果樹園 森林それから無尽の金銭をもっていて
   随分富めりと思っていたのが、それがただの一にぎりの日光の値打しかないのだと
   知らされると一ペンに貧乏になったような気がしたのである。

   彼は今まで満足していた心が不満足となり、堪えがたき寂しい感じにおそわれて、
   その夜はおちおち眠ることが出来なかった。

   翌朝になると、彼は不機嫌な顔をしておきて来た。
   そしてその不機嫌の原因であった老僧に心配そうに
   「 どこへ行ったらそのダイヤモンドの鉱山が見つかるのですか 」 ときいた。

   「 どうしてあなたはダイヤモンドがほしいのですか 」 と
   其の坊さんはおどろいてたずねた。するとその主人は

   「 私は富みたいのです。そして子孫に富を残しておいてやりたいのです 」 と答えた。

   老僧は答えていった。
   「 あんたのなすべきことは一所懸命そのダイヤモンドの鉱山が
   見つかるまで探しまわることですよ。」


   「 しかしどこへいって探したらいいのでしょう。」と哀れな主人はいった。

   「 東西南北どこへでも行って探しなさい。」と老僧はいいました。

   「 そんなに歩き廻って、やっとダイヤモンドの鉱山の所へ来たら、
   どうしたらそれがわかるのですか。」

   「 高い山脈の間に白い砂の河底の その白い砂の中に
   ダイヤモンドを見出(みいだ)すでしょう。」 と老僧は答えた。

   そこで主人公は自分のもっていた農園を売りとばして
   自分の家族をば隣の農家にあずけ、
   その売って得た金をもってダイヤモンド鉱山の探検に出掛けて行った。


   彼はアラビヤの山々を越え、パレスチナ及びエジプトを通って、何年も何年も、
   彼は困難な旅を続けて行ったが、ダイヤモンド鉱山は見つからなかった。

   彼は出発の時携帯した金を全部使いつくしてしまって、
   その後には飢え死にが ただ待っているのであった。
   彼は自分自身の愚かさと自分自身のやつれはてたみすぼらしさとを
   恥じて海にとびこんで自殺したのであった。


   話かわって彼から農園を買いとった人は 今もっている農園に満足し切っていた。

   そして自分の環境を出来るだけととのえ
   自分のすべての田地、畑をできるだけよきものにして、
   ダイヤモンドや あてにもならぬ富貴栄華を求めることなしに 
   ただ今を「ありがとうございます」と暮していたのであった。

   所が、彼が農業用に飼っていたラクダが、
   ある日 水を呑(の)んでいるのを見ていると、
   小川の白い砂の中からピカリと光る ある物が見えたのである。

   彼はその光る小石をとりあげて見た。

   余りに光輝燦然と光る石なので、めずらしい石だと思って家にもってかえり、
   暖炉の近くの棚の上にそれをおいたが
   何時(いつ)の間にか そのことも忘れてしまっていた。

   ある日 例の老僧がその農園の新しい持主である彼の所へ訪ねて来た。
   老僧は彼の部屋に足を踏みこんだとたんに、
   棚にあった‘光るもの’が目についたのである。

   「 ダイヤモンドだ。ダイヤモンドだ。
   アーリー・ハーフェッドが帰ってもって来たのかえ。」と
   老僧は興奮して叫び声をあげた。


   「いいえ」と百姓はいった。
   「あれはダイヤモンドでござんせんよ。あれはただの石でさあ。」


   兎(と)も角、この石を採取した現場を見ようと云うので、
   二人はその農園を流れる河の白い砂のところへ行って、
   指で砂をかきまわしてみると、驚いたことには、出てくる、出てくる。

   先のものよりも まだまだ大きい光輝燦然たる
   大粒のダイヤモンドが出てくるのであった。


   これが有名なゴルコンダーのダイヤモンド鉱の発見された歴史である
   ということが或る本に書いてあった。


   あの哀れなるアーリー・ハーフェッドが遠く さすらい歩かないで、
   ただ自分の家でじっとして今あるものに完全に感謝して 今に全力をつくしていたならば
   飢え死に一歩手前で身投げするどころか全世界第一の大富豪になっていたのであった。


   彼のもっていた農園地帯全部が
   無数の宝石を蔵しているダイヤモンド鉱であったのである。

   無限の富は すでに 今 ここに 与えられているのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31

             <感謝合掌 令和3年10月18日 頓首再拝>

神の愛の具象化に波長を合わせる - 伝統

2021/10/21 (Thu) 04:43:36


        *『 生長の家 』(昭和33年9月2日の法語)より
         ~《すべての欠乏の原因は ― ?》

   『物質は物質に非ず、それは神の愛の具象化である。』 

   私たちが一片のパンの欠ケラをも神の愛として感謝する心になるとき、
   私たちは實相の世界にある無限供給の霊的波動を合わすことができ、
   必要に応じて、その欲するものを現実の世界に実現して来ることが
   できるのである。

 
   生活力の欠乏 ― 即ち虚弱や病気 ― それから、
   経済力の欠乏 ― すなわち貧乏や物資不足は、

   私たちが神の愛の具象化に波長を合わさなかったときに、
   テレビに放送が映って出ないように、
   受信力の欠陥としてあらわれて来るのである。

   この原理を知らないために、或る種の人は、物資の潤沢を
   確保するために、霊的世界に波長を合わすことを忘れて、
   逆に貪欲になって、貪り取ろうと云うような気持になるのである。

             <感謝合掌 令和3年10月21日 頓首再拝>

《實相世界にある富を現実にするには》 - 伝統

2021/10/23 (Sat) 04:54:48


        *『 生長の家 』(昭和33年9月3日の法語)より

   人の富を、その外形的な数量的な物質や貨幣の量によって
   はかってはならないのである。

   真理を知ったところの人は、すべての富は物質の量ではなくて、
   天の倉に貯えられたる霊的なる『徳』であり、その眼に見えざる
   『徳』が必要に応じて物質的な富として形をかえて現象界に
   あらわれて来るものだと云うことを知っているのである。

   人間は神の最高の自己実現としてつくられたものであるから、
   神が人間を貧しくつくるようなことをしたまう筈はないのである。

   神は人間を自己の最高実現として、最高の『徳』を実現することを
   目的としていられるのであるから、『徳』を行じ『徳』を実現する
   とき、おのずから経済的にも豊に『其の實相の富』を此の世に実現
   することができるようになっているのである。

             <感謝合掌 令和3年10月23日 頓首再拝>

《“富”はあなたを物質で快楽に誘惑する》 - 伝統

2021/10/26 (Tue) 06:45:01


        *『理想世界』(昭和45年9月2日の法語)より

   アンドリュー・カーネギーは

   「富める親を持っている息子の不幸は、
    富の有する誘惑の力に抗することが出来ないで、
    つまらない頽廃生活に沈溺しがちであるという事である」

   といったということである。

   彼は力を尽して上に登って行かないでも生活出来るものだから、
   そして、惰けていても、肉体の誘惑に引きずられていてすらも、
   生活がラクに出来るものだから、快楽を貪ることが先に立って
   向上の努力を失いがちなのである。

   大作家の山岡荘八氏でも、ヤシカ社長の牛山善政氏でも、

   大画家の林武氏でも、家貧しくして、家計を助けるために
   少年時代に新聞配達をした人なのである。

   少年時代に富める親から自動車を買って貰い、
   それを乗り廻して、好き候をしている人とは訳が違うのである。


    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7916166

          <感謝合掌 令和3年10月26日 頓首再拝>

《現象の奥にある實相の富》 - 伝統

2021/11/02 (Tue) 04:46:39


      *『 生長の家』(昭和33年9月4日の法語)より

   人生の目的は富を得ることでもなければ、
   名声をかち得ることでもないのである。

   人生の目的は最高の神の自己実現として、
   人格を神格にまで高めることである。

   現象にあらわれている富をのみ求めることは
   却って『實相の無限の富』を忘却させて、
   自己に与えられている富を縮小することになるのである。

   神が与えたまう富は、霊的なものであって、
   物質的な富は、ただ其の影に過ぎないのである。

   神は霊であり給う。それゆえに神は霊の賜を与えたまう。
   即ち、愛を与えたまい、智慧を与えたまい、生命を与えたまうのである。

   それを感謝して受け且つ働かすとき、波長が合って、
   それがテレビの画面に映像があらわれるように、
   物質界の富としてあらわれて来るのである。

   現象の有限の富だけを握って、其のために
   現象の背後にある『實相の富』を見失ってはならない。

          <感謝合掌 令和3年11月2日 頓首再拝>

「もうけ」は「真受(まうけ)」である - 伝統

2021/11/04 (Thu) 04:56:10


     *「光明道中記」(11月4日《福徳円満の日》)より抜粋

【完全に自分の生命を与え切ったとき自分の生命はその仕事と一つになる。
                     (『生命の實相』第四巻)】

「儲ける」の語源は「設ける」である。

設けるとは施設することであり、ものを創造することである。
創造のあるところ、「設け」があり、「儲け」があるのである。

天地の真心を受けて創造されたるものが「設けの君」である。
「もうけ」は「真受(まうけ)」である。

天地の真心を受けたとき
そこに価値施設が行われ、創造が行われ、自然に儲かるのである。

          <感謝合掌 令和3年11月4日 頓首再拝>

《いのち》の営みは、「設け」であり、そこから「儲け」が生ずる - 伝統

2021/11/05 (Fri) 04:57:51


      *「光明道中記」(11月5日《無限供給を受くる日》)より

【時間を巧みに生かす者は自己の生命を生かす者である。
                      (『生命の實相』第四巻)】

宇宙は無限、天地は無限供給である。
神は無限の富者、人は無限の富者の後嗣者(あとつぎ)である。

「我」と云う限界を撤廃したときに、
宇宙がそのまま自分のものとなるのである。

手を握れば一握(あく)の砂をも入るに足らず、
手を開けば、掌上に宇宙が載るのである。

生命(いのち)の営みがあれば、そこに衣食おのずからあり、
「儲け」は「設け」であるからである。

『生命の實相』の中に、金魚を入れた水盤と、
金魚を入れない水盤と2つがあって、

そのいずれにも水を満たして置けば、
金魚の住んでいる水盤には速やかに藻が生えて、
金魚はそれを食して生活しているが、
金魚の住まない水盤には容易に藻が生えないと云う
事実が書いてあるが、味わうべじである。

藻が生えてからあの水盤の中へ跳び込もうと思って、
金魚が陸(おか)から水盤の中へ跳び込まずにいたならば、ついに
その金魚が餓死するか窒息して了うであろう。

何も食物の無い水中へでも跳び込んで、
其処に生命の《いとなみ》が始まったら、
自然と其処に藻が生えて来るのである。

《いのち》の営みは、「設け」であり、生えて来る藻は「儲け」である。
「儲け」があって働くのではない。
藻が生えてから跳び込むのではない。

          <感謝合掌 令和3年11月5日 頓首再拝>

《神の供給は無限である》 - 伝統

2021/11/07 (Sun) 05:01:19


       *『生長の家』(昭和26年4月6日の法語)より

   宇宙は 無限の神の創造であるから、
   宇宙に於ける供給は 無限であるのである。

   吾々は 此(こ)の宇宙無限の供給を心に描いて
   自分に流れ来つつある有様を想念することによって、
   それを自分のものとすることが出来るのである。

   何人(なんぴと)も彼が神の子である限り
   欠乏すると云うことはないのである。

   すべての人は平等に富んでいるのである。
   それを欠乏させるものは 欠乏の感じにほかならないのである。

   「 欠乏を満たし給え 」 などと欠乏の語(ことば)を使って祈ることは
   心に「 欠乏 」 の感を深く印象することになって、
   その祈りは却って逆効果になるのである。

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12208729.html(消滅)

          <感謝合掌 令和3年11月7日 頓首再拝>

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