伝統板・第二
ひかりの一日一言71~祈りと想念と人生 - 伝統
2021/02/01 (Mon) 04:51:02
真理第二巻基礎篇 第2章(P29~51 28項)からの謹写です。
ひかりの一日一言《1日》
《1日 精神統一の時を善き方に利用せよ》
心で思うことが形にあらわれて来るのである。
その思いが感情の昂揚した状態である場合には、
一層それが実現しやすいのである。
昂揚せる感情は他(ほか)のことを思う余裕がなくて、
そればかり思いつめますから、それは一種の精神統一状態だ
と言うことが出来ます。
その精神統一状態において人を憎む感情を持続するときは、
憎むと云うことは、相手を害したい破壊したい感情でありますから、
その破壊の感情が自分自身の体内を駆けめぐって、
自分自身の健康を害して病気をつくることになるのです。
吾々は、偶然に得られるような精神統一状態を出来るだけ利用して、
自分の潜在意識によき事を印象するように努めるならば、
大変好結果を得ることが出来ます。
例えば鏡に向った場合、鏡に精神が統一する、
その時「私は幸福だ」と念ずる如くである。
*「眞理」第2巻基礎篇第2章(P29~30)より
<感謝合掌 令和3年2月1日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《2日》 - 伝統
2021/02/02 (Tue) 02:39:35
《2日 貨幣は幸福と不幸との乗物である》
貨幣は吾々の「価値創造」又は「奉仕」を
交換するための媒介として発案されたるものである。
それは手軽で、遠方の人々とでも、
その「奉仕」や、創造された「価値」を交換し得るための
便利な乗物であります。
それは吾々を幸福にするための道具であって、
決して吾々を不幸にするためのものではない筈です。
それは道具であるから、吾々は感謝して使えば好いのであるが、
それを偶像として崇拝する必要はないのである。
貨幣が齎(もたら)す「値打」と云うのは
一定の「値打」ではない。
貨幣は乗物でありますから、
吾々がそれに乗せるものによって
幸福をも運ぶし、不幸をも運ぶのです。
金(かね)が出来たために堕落した人は
貨幣と云う乗物に不幸を乗せて運んだのであります。
災害地に金(かね)を送るのは
貨幣に乗せて幸福を運んで行くことになります。
*「眞理」第2巻基礎篇第2章(P30)より
<感謝合掌 令和3年2月2日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《3日》 - 伝統
2021/02/03 (Wed) 04:28:14
《3日 貨幣は幸福にも属せず、不幸にも属せず》
貨幣は幸福にあらず、不幸に非ず、
無自性(むじしょう)だということが出来るであろう。
それを幸福の乗物たらしめるか、不幸の乗物たらしめるかは、
一(いち)にかかって、それを使う人、又はそれに関係する人の
心の態度にかかっているのである。
若(も)し、貨幣が得られないからとて貨幣を呪ったり、
富める人を呪ったりするならば、
その呪いは自分自身に再び復(かえ)って来るであろう。
若し、貨幣が、価値の交換媒介として
自分の手許(てもと)に来たことを感謝し、
貨幣を媒介として人々に幸福を分けてやるならば、
その幸福はまた自分に返って来るにちがいないのです。
貨幣を出すにしても、貨幣を「きたないもの」として
軽蔑して捨ててはならないのです。
それに感謝して、幸福をはこぶメッセンジャーとして
使えば好いのであります。
*「眞理」第2巻基礎篇第2章(P31)より
<感謝合掌 令和3年2月3日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《4日》 - 伝統
2021/02/04 (Thu) 04:22:38
《4日 霊力を増大するには》
霊力を増大する方法には、
古来から、断食、水行(すいぎょう)、色々の苦行等、
肉体をいじめる方法があるけれども、
最も大切なものは、「神との一体感」を増すことなのである。
断食、水行その他の苦行によって霊力が増大するのは、
人間は肉体的面と、霊的面とが普通の場合に於いては
バランスを得ていて、調和ある状態にあるけれども、
断食等の苦行によって肉体を衰弱せしめると、
霊的バランスの方が強くなって霊感力が殖えてくることがあるのです。
瀕死の状態にあるときに霊感が発達して
霊姿を見ることがあったりするのは、そのためであります。
しかしこれは霊力が積極的に殖えたのではなくて、
霊力を抑えていた肉体力が減ったからです。
積極的に霊力を増加するには神想観により
「我れ神の子なり」の自覚を増大しなければならないのであります。
*「眞理」第2巻基礎篇第2章(P31~32)より
<感謝合掌 令和3年2月4日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《5日》 - 伝統
2021/02/05 (Fri) 02:10:07
《5日 神の結晶体としての人間》
神は永遠不滅であり、遍在すなわち、遍(あまね)く
到る処に充ち満ちていられるのである。
我々のなかにも外にも、上にも下にも、
在(いま)さざるところなき存在であるのである。
しかし「我れ神の子なり」と念ずることは、
その遍く在るところの神の力が表現して出るところの
中心的凝集点を造ることになるのである。
「神の子」とは「神の凝(こ)り固まり」であり、
人間が神の具体的結晶であると云う意味である。
神は到る処に充ち満ちていても、その具体的に表現されることなしには、
単なる「潜在的な力」に過ぎないのである。
その潜在的な力を現実的な力に変化するには、
コトバの力を必要とするのであります。
「神の心動き出でてコトバとなれば一切の現象展開して万物成る」と
『甘露の法雨』に書かれているのはその事を言い表したのであります。
*「眞理」第2巻基礎篇第2章(P32~33)より
<感謝合掌 令和3年2月5日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《6日》 - 伝統
2021/02/06 (Sat) 02:20:32
《6日 供給の本源と交渉しなさい》
富は神より無限に供給されるのであるから、
富を欲する者は、何よりも先ず
「神」をわがものとしなければならないのである。
神をわすれて、物質的富そのものを追求するならば、
影を追うて実物を逃(に)がす結果になるのです。
あなたが若(も)し、善き動機で、善き事物を求めるならば、
求めること其の事が決して悪いことはないのである。
あなたは、その供給の本源に突入せられるが好(よ)いのであって、
「神」という大本営へ直接話しかけるのが
最も効果的であるのである。
家を建てたいと思えば、
素人が拙(まず)い設計を色々と考えるよりも、
建築設計家に頼む方がよいようなものである。
上手に設計されたる家は、資材も経済的に堅牢に、
そして美しく建てられるものである。
素人(しろうと)の設計は
途中でやり直したり色々ゴテツク事が起り易いものである。
*「眞理」第2巻基礎篇第2章(P33~34)より
<感謝合掌 令和3年2月6日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《7日》 - 伝統
2021/02/07 (Sun) 03:07:23
《7日 神と協力する者は栄える》
すべての資材は神より来(く)るのである。
吾々は物質をつくり出すことは出来ない。
物質は物質ではなく、神の智慧と愛と生命(いのち)の顕現であるからである。
すべての善き考えは内(うち)より湧き出るのであり、
その本源は「内(うち)なる神」であるのである。
吾々の肉体は、神より来(く)る資材を、「内なる神」の設計に従って、
それを創造する手伝いをするだけであるのである。
如何に、その「内なる神」の設計の進捗(しんちょく)に
協力するかどうかと云うことに従って、あなたの仕事が
どの程度立派になるかと云うことだ定(さだ)まるのである。
「内なる神」の啓示に素直に従えば従うほど
あなたの仕事は完全となり、容易となり、素晴らしくなり、
愈々(いよいよ)益々(ますます)発展することになるのである。
*「眞理」第2巻基礎篇第2章(P34~35)より
<感謝合掌 令和3年2月7日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《8日》 - 伝統
2021/02/08 (Mon) 02:29:00
《8日 祈りと神想観が神の宝庫をひらく鍵である》
「内(うち)なる神」と協力する者は栄えると云うことはわかったが、
如何にせば内なる神と協力することが出来るかと云うことを
教えて下さいと言う人がある。
神と接触する最高の方法は、神想観と祈りとであります。
神想観と祈りとは神の無限の宝庫をひらく最も有力なる鍵であります。
祈りは神との人格的接触であり、
神想観は既に受けたる事を確認する方法であります。
祈っても、それが得られるか、得られないかわからない
と云うような不安の心が交(まじ)っているのでは
効果が少ないのであります。
神想観によって、「既にそれを受けたり」と
信ずることによって効果がハッキリ現れるのである。
一千万円を欲して祈りながら、
十万円しか信じていないのでは十万円しか得られません。
*「眞理」第2巻基礎篇第2章(P35)より
<感謝合掌 令和3年2月8日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《9日》 - 伝統
2021/02/09 (Tue) 02:36:56
《9日 神は既にあなたに与え給うていられる》
神の既に与えておられる無限の供給から、
吾々は、自分の信ずる通りのものを引出すのであります。
神が或る人には与え給うて、他の人には与え給わない
と云うような依怙贔屓(えこひいき)をせられるのではないのである。
神は「求むるに先立ちて既に与え給うていられる」のである。
それは例えば、放送局の放送の波の様なものであります。
聴取しようが聴取しまいが、
既に放送局からは求むるに先立って放送していてくれるのである。
しかし、その放送を現実に受取るか、受取らないかは、
こちらがスイッチを入れて波長を合わすかどうかによって
定(き)まるのであります。
スイッチを入れるとは「電源」即ち供給の本源と交通することで、
「祈り」に当るのであります。
「波長」を合わすと云うことは、
一心に祈り且(か)つ神想観をすることに当るのであります。
*「眞理」第2巻基礎篇第2章(P36)より
<感謝合掌 令和3年2月9日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《10日》 - 伝統
2021/02/10 (Wed) 03:13:18
《10日 価値を知る者のみ、それを所有する》
どんな高価な宝石でも、それを高価な宝石だと自覚することなしに、
それを硝子(ガラス)の玩具の珠だと思って遊んでいる子供があるならば、
その子供は真(しん)にまだ「高価な宝石」を持ってはいないのである。
真(しん)にそれが「高価な宝石」であると認めた者のみが、
その高価な宝石を所有し得たのである。
爰(ここ)に実際に、現実に「神の国」があっても、
それを「穢土(えど)」であると見ている者があるならば、
その人はダイヤモンドをガラスの一片だと思っている
子供のようなものである。
真(しん)に所有すると云うことは、
そのものの価値を知ると云うことである。
「知る」と云うことは「所有する」と云うことである。
妻の価値を知る者のみ妻を所有し、
良人の価値を知る者のみ本当の意味において良人を所有するのである。
*「眞理」第2巻基礎篇第2章(P36~37)より
<感謝合掌 令和3年2月10日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《11日》 - 伝統
2021/02/11 (Thu) 04:45:58
《11日 真に価値ある夢の創造》
先ず夢を描くべきである。
幸福の夢を描くべきである。
それを単なる夢としないで実に《ある》と信ずるのである。
信じてそれを実践するのである。
実践を伴わない信仰はカラ念仏にひとしい。
ジェームス・ワットは夢を描いて、
それを実践することによって蒸気機関を発明したのである。
エディソンは夢を描いて電燈を発明したのである。
夢を描いて、それを実践しているうちに
大いなる宝庫を探りあてることが出来るのである。
新しきアイディアは夢から生まれる。
新しき機会は、夢を描くことによって作られる。
その夢を唯(ただ)の妄想にしないで、
真(しん)に価値ある新しき創造とならしめるためには、
神と直接連絡することによって「実在の世界」(実相世界)から
新しきアイディアを汲み出して来なければならぬ。
*「眞理」第2巻基礎篇第2章(P37~38)より
<感謝合掌 令和3年2月11日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《12日》 - 伝統
2021/02/12 (Fri) 04:44:25
《12日 新しき境遇を迎えるために》
自分の境遇を呪ってはならない。
自分の境遇が今どんなであろうとも祝福しなければならない。
感謝しなければならない。
あまり面白くない境遇を誰でも変化したいのは人情である。
併し、その境遇は、現在の境遇を呪うことによっては
決して好転しないのである。
その境遇がまだあなたに残っているのは、
あなたにとってその境遇が必要だからである。
換言すれば貴方の魂の発達のために必要だからである。
あなたがその境遇の与える教訓を味い終ったならば、
その境遇はあなたから去る。
しかしその境遇と別れるために、
その境遇にお礼を言って別れねばならぬ。
その境遇はたとい貧しいものであったにせよ、
何かをあなたに対して与えて往ったことには間違いがないのである。
用の済んだ境遇にお礼を言うことによって
次なる好い境遇が訪れて来るのである。
*「眞理」第2巻基礎篇第2章(P38~39)より
<感謝合掌 令和3年2月12日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《13日》 - 伝統
2021/02/13 (Sat) 04:43:45
《13日 新しき職業を迎えるための魂の準備》
あなたの仕事又は職業があなたにとって余りにも詰らなさ過ぎる、
あなたの生活計画にとって、それが全く取るにも足らぬ
小さな事であるにしても、
それを呪い、憎むことによっては、
決して、その仕事から脱け出すことは出来ないのである。
その詰らない小さな仕事に、
愈々(いよいよ)益々(ますます)あなたの全力をつくすことによって、
あなたはその仕事を卒業することができるのである。
仕事そのものを卒業すると云うよりも、
その仕事と人生との関係に於ける微妙な問題を
卒業することが出来るのである。
これが、あなたの魂の勉強にとって尚一層重大なことであるのである。
一つの詰らない仕事と見えるものにも、色々の連関や、
つながりや、人生上のひっかかりがあって、
それらの問題を解決して行くことによって、
あなたの魂は高まるのである。
*「眞理」第2巻基礎篇第2章(P39~40)より
<感謝合掌 令和3年2月13日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《14日》 - 伝統
2021/02/14 (Sun) 02:30:32
《14日 卵殻は自然に時期が来れば剥落する》
真(しん)にあなたの魂が、その仕事とその仕事に連関する
色々の問題を卒業したときにあなたの境遇は一変し、
新しき職業があなたを迎えてくれるのである。
卵(たまご)の黄味(きみ)は、適当な期間、そ
の周囲にある栄養分を吸収しながら、
何の不平も言わずに、その単調なる境遇に安坐することによって、
やがて時期がくれば自然に孵化して境遇が一変するのである。
すばらしい境遇の変化と、すばらしい自分自身の変化である!
時期が来て卵の殻(から)が自然に破れて剥落するように、
あなたの境遇も自然に破(やぶ)れて剥落(はくらく)するのである。
しかしそのためには、或る期間は与えられた境遇に安坐して、
その周囲から出来るだけ多くの栄養を吸収することが必要なのである。
今此処に与えられた仕事に感謝して全力を与え切る者は、
又自分に与えられることが多いのです。
*「眞理」第2巻基礎篇第2章(P40)より
<感謝合掌 令和3年2月14日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《15日》 - 伝統
2021/02/15 (Mon) 02:16:34
《15日 失業しても悲しんではならない》
失業したときに、その失業を悲しんではならないのである。
失業しているときは金は儲からないかも知れないが、
時間は大いに儲かっているのである。
あなたは、失業していなかったときに、
「私はあまり忙がし過ぎる。もう少し時間がほしい」
と考えたことはないでしょうか。
あなたは、職業があるときには、
その職業よりも時間が欲しかったのではありませんか。
そして今はその職業を失って
時間をたっぷり得られたのではありませんか。
折角与えられた時間を無駄に費(つい)やさず、
それを人を救うことにお使いなさいませ。
また何か、他(た)の人々のために捧げる仕事を
(報酬を予期せずに)懸命にやって御覧なさい。
其処から道がひらけて来(く)るのであります。
またその時間を、他(た)の機会の準備として
自己教養にお使いなさいませ。
*「眞理」第2巻基礎篇第2章(P41)より
<感謝合掌 令和3年2月15日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《16日》 - 伝統
2021/02/16 (Tue) 06:25:52
《16日 妄想を去って実相を見よ》
あなたの欲するものが中々得られないと思われますか。
それは単に妄想に過ぎません。
あなたの欲する事物が時間・空間に隔てられて遠くにあると思われますか。
それは単に妄想に過ぎません。
誰かが、あなたに幸福が来るのを妨げているのだとお考えになりますか。
それも妄想に過ぎません。
その妄想にあなたが屈従していられる限りは、
その妄想の通りに、あなたに幸福はやって来ないように見えます。
しかし妄想は何処(どこ)まで往っても真実ではありません。
それはウソであり仮面に過ぎません。
何故(なぜ)なら三界は唯心(ゆいしん)の所現であり、
あなたが信ずる通りに事物はあらわれ、
あなたがどうしても信ずることが出来ないことは出て来ないからであります。
実相(じっそう)を見なさい。
其処に貴方(あなた)の欲するものは既にあるのです。
*「眞理」第2巻基礎篇第2章(P41~42)より
<感謝合掌 令和3年2月16日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《17日》 - 伝統
2021/02/17 (Wed) 02:01:58
《17日 善悪の混じった世界はない。ただ善のみの世界がある》
善悪混淆(こんこう)の世界をあなたは見てはなりません。
唯(ただ)善のみの世界を見るようにするのです。
月に叢雲(くらくも)のかかったような世界を
本当に「在る」と考えてはなりません。
月の世界には水蒸気がないから雲の出来よう筈はないのです。
雲がかかっているように見えるときにも、
月はまんまるく、一点の曇りもなくこうこうと輝いているのです。
不幸、病気があなたの上に覆(おお)いかぶさるように見えているときにも、
「実相(じっそう)のあなた」は月の円くして輝いている如く、
萬(よろず)円満大調和に、すべてのことが調(ととの)うているのです。
現象に心を引っかからせてはなりません。
心に曇りをこしらえて、その曇りを透してこの世界を見て、
この世界が不幸、災難、病気等が充満していると考えてはなりません。
*「眞理」第2巻基礎篇第2章(P42~43)より
<感謝合掌 令和3年2月17日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《18日》 - 伝統
2021/02/18 (Thu) 04:51:20
《18日 ひたすら善を見る眼を養いましょう》
ひたすら善を見る眼、神の眼、実相を見る眼、
この眼ですべての人間を、すべての世界を御覧なさい。
創世記にありますように、
「神、その創造りたるすべてのものを見給いけるに甚だよかりき」
でありますから、
一度、神がその創造せる一切のものを善につくり給うた以上は、
それは永遠に善であって「悪はない」のであります。
神が善につくり給うたものを、何人(なんぴと)も、
それを悪に転換するところの神以上の力はないのです。
このことを私は、或る時、生長の家の雑誌に書きましたら、
それを読んだ一人の婦人が、月経不順で悩んでいたのが、
その月から順潮(じゅんちょう)になったと云うことです。
真に、「神の創造(つく)り給うたこの世界に悪はない」とわかれば、
月経不順どころか、一切の不順が消えて無くなる筈なのです。
*「眞理」第2巻基礎篇第2章(P43~44)より
<感謝合掌 令和3年2月18日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《19日》 - 伝統
2021/02/19 (Fri) 04:41:28
《19日 祈りは「神」を変化せず「自分自身」を変化する》
神を「祈り」や「懇願」によって変化しようと
考えてはならないのであります。
神を「祈り」や「泣きつき」で愛憎の心を動かすような
感情の動物だと考えてはならないのであります。
「祈り」は神との人格的交通の自覚を得て、
人間自身が神の愛に温かく包まれている
実相(ほんとのすがた)に認識を深めて、
自分自身が改造せられるのであります。
神は永遠であり、既に祈らなくとも与えておられること、
聴取を申し込まなくとも、既に放送を開始している
放送局のようなものであります。
しかし神の「恵み」の放送番組を間違いなく受取るには、
よく調(ととの)えられたラジオ・セットを所有し、
それを放送の波長に合わせることが必要なのであります。
心のラジオ・セットをよく整備して
神の放送の波長に合わす行事が祈りであります。
*「眞理」第2巻基礎篇第2章(P44)より
<感謝合掌 令和3年2月19日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《20日》 - 伝統
2021/02/20 (Sat) 04:30:32
《20日 神の波長に合わす方法》
神の祝福の放送に波長を合わすには、
神は無限の愛だと信ずることです。
神は我らを既に宥(ゆる)していたもうと信ずることです。
神は無限の智慧であって、
必ず吾々を善き方(ほう)に導き給うと信ずることです。
神は無限の力であるから、如何なる難事と見えるようなことでも、
いと易(やす)きことだと信ずることです。
そして先ず、神によびかけるのです。
「よびかける」ことは、
心の波長を兎も角も、神の方へ振向けることになるのであります。
「神は無限の愛であり、無限の智慧であり、
すべての人間が調和して幸福になるように導きたもう。
神の智慧流れ入りてわが行く道を照らしたもう」
と神想観中に念じて、神想観の後(のち)に内(うち)からの催しで、
神の導きたまうままに行動を開始するか、
人間に呼(よ)びかけるかすることです。
*「眞理」第2巻基礎篇第2章(P45)より
<感謝合掌 令和3年2月20日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《21日》 - 伝統
2021/02/21 (Sun) 02:39:28
《21日 神のお蔭は映画の画面のようなものです》
映画の画面が一定の現世的秩序をもって展開して行きますように、
神に祈って波長を合わせますと、少しも無理のない
自然の秩序をもって情勢が展開して来て、
その祈った事物が実現することが多いのであります。
併し、時として全く、奇蹟と思われるような
超自然的経過を通して祈りが実現することもあります。
それは恰(あたか)も、突然ラジオ・セットに
遠方の放送が大きく受信したときのような激動を伴うのでありますが、
それを世人(せじん)は奇蹟と呼ぶのでありますが、
それは蛹(さなぎ)が蛾(が)となるのと同じであって、
あるべき過程が、あるべきようにあらわれて来るに過ぎないのであります。
生物界にも漸次的進化と、突然変異とがありますように、
現象界の出来事にも漸進(ぜんしん)的な変化と、
突発的変化とがあるのであります。
*「眞理」第2巻基礎篇第2章(P45~46)より
<感謝合掌 令和3年2月21日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《22日》 - 伝統
2021/02/22 (Mon) 04:49:10
《22日 魂の底の深き願いはきかれる》
魂の底の深き願いは、
そのままに純粋にして強力なる祈りであります。
それは、単に意識の5パーセント位しか占めない
現在意識の願いではなくて、
意識の95パーセントを占(し)めている
潜在意識の願いであるからであります。
魂の底に「そんなことは成就したくない」と云う抵抗があります場合は、
現在意識でどれほど強力に祈って見ても
それが成就しないことがあるのであります。
祈りがきかれた場合に、「神の御声がきこえる」と言う人もあります。
なんとなくインスピレーションを受けたと云う場合もあります。
霊感もなく、霊耳もなく、唯(ただ)自然に情勢が変化してくる場合もあります。
必ずしも神の御声が聞えないからとて、
又霊感が来(きた)らないからとて失望することはないのです。
*「眞理」第2巻基礎篇第2章(P46~47)より
<感謝合掌 令和3年2月22日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《23日》 - 伝統
2021/02/23 (Tue) 02:23:47
《23日 一向専心と云うこと》
何よりも大切なのは「一向専心」と云うことなのです。
「唯一向専心に南無阿弥陀仏と念じて」と云うことを言い換えると、
「ただ一向専心に、神と一体であるから今此処極楽浄土天国である」
と深く念ぜよと云うことであります。
一向専念とは、思いをこめて、他(た)のことを思わず
心を専(もっぱ)らにすると云うことであります。
若(も)しあなたが苦痛の真唯中にありましょうとも、
「この苦痛を取り去り給え」と念ずるのは、
苦悩を念ずることになりますから、
雑行(ぞうぎょう)雑修(ざっしゅう)になります。
苦悩の中(なか)にあっても苦悩を思わずただ
「今此処天国浄土にして、神又は阿弥陀仏と一体なるが故に、
此処に極楽はあり」
と一行(いちぎょう)に澄み切りて念ずるとき
魂の解放を得(う)るのであります。
*「眞理」第2巻基礎篇第2章(P47~48)より
<感謝合掌 令和3年2月23日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《24日》 - 伝統
2021/02/24 (Wed) 03:39:31
《24日 「本源」と「門」とを取りちがえてはならぬ》
「救いの本源」と、「救いの門」又は「救いの通路」とを
混同してはなりません。
すべての宗教や、宗門や、説教や、教団や、教会は、
「救いの門」又は「通路」であって「救いの本源」そのものではありません。
「救いの本源」はあなたの「生命(せいめい)」の本源なる
「名づけがたき神秘なる大生命」であります。
本来「名前」はないのでありますが、
宗門宗派、又は人種・民族の相違によって
色々の神名(しんめい)又は仏名(ぶつみょう)をつけているのであります。
宗教または宗門によって本尊の名前が異なるからと言って、
救って下さる本源が別々のものであると考えてはならないのである。
宇宙には唯(ただ)一つの「神」又は「仏」があるのです。
*「眞理」第2巻基礎篇第2章(P48)より
<感謝合掌 令和3年2月24日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《25日》 - 伝統
2021/02/25 (Thu) 01:23:29
《25日 あなたの祈りを行動にまで高め上げよ》
「祈り」は単なる儚(はかな)い希望の表現であってはなりませぬ。
それは「既にきかれた!」と云う徹底的確信にならなければ
本物ではないのであります。
あなたの祈りが徹底的確信にまで到達したとき、
本当に神の既に放送したまえる実相浄土の極楽番組に波長が合うのです。
単に希望である限りにおいて、
波長が辛うじて合うこともあれば、合わぬこともあり、
迷いの波長を混信することもあるのです。
あなたの祈りを単なる希望から思想へ、思想から確信へ、確信から行動へ、
あなたの一呼吸毎にその確信が迸(ほとばし)るようにならなければ
本物ではないのであります。
「行動を伴わぬような信仰はカラ念仏だ」と云うのはそのことであります。
*「眞理」第2巻基礎篇第2章(P48~49)より
<感謝合掌 令和3年2月25日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《26日》 - 伝統
2021/02/26 (Fri) 03:06:55
《26日 吾等の救いの本源者は唯一つです》
あなたに生命(いのち)を与えた本源者
―― それのみあなたを救いたもうのです。
色々の名称は人間が勝手につけたのであって、
名前が異なると言って争ってはなりませぬ。
その生命(いのち)の本源を仮りに「神」と呼ぶことに致します。
「神は我らの求むるに先立ってなくてならぬ物を知りたもう」
とイエスは言う。
既に「極楽浄土」が必要ならば既に与えておられるのです。
しかし「神は霊である」から、
吾等に与えておられる「極楽浄土」も「霊波」で
つくられているので、それを現実に感ずるためには、
その霊波に波長を合わすようにしなければならないのです。
その波長を合わす道が祈りであり、神想観なのです。
単純な赤ん坊の心になって唯(ただ)「神よ!」と念ずるだけで
波長の合うこともあります。
*「眞理」第2巻基礎篇第2章(P49~50)より
<感謝合掌 令和3年2月26日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《27日》 - 伝統
2021/02/27 (Sat) 04:44:51
《27日 解決しない問題は一(ひとつ)もない》
吾々に現在与えられていることは悉(ことごと)く、
吾々の現在の魂の状態にとって、
すべて教育的なものばかりなのである。
その仕事を為すことにおいて、その環境に処することにおいて、
全力をつくし、全生命をかけ、全精神をつくして
それと取り組むことによって吾々の魂が向上するのであります。
算数の問題は必ず答があるのである。
それと同じく吾々に与えられている問題は
必ず解決し得るからこそ我々に其の問題が与えられているのです。
神は決して吾々を難問題で苦しめて、
「好(い)い気味だ」などと笑っていられることはないのです。
算数の教師は生徒を苦しめるために算数の問題を課するのではなく、
生徒の内に内在する能力を呼び出すために問題を課するのと同じで、
何か問題がおこるならば、
それはあなたの魂の向上のために課せられたのです。
*「眞理」第2巻基礎篇第2章(P50~51)より
<感謝合掌 令和3年2月27日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《28日》 - 伝統
2021/02/28 (Sun) 06:26:35
《28日 現世は魂の進歩のための脚本製作時代である》
吾々が間違った想念を起こしても、
神は一概にそれを否定したまわないのは、
学生演劇に学生が下手な脚本を書いて上演しても、
決してそれに上演停止命令を出さないのと同じ事であります。
現象世界は、心に描いた想念の脚本の
上演又は上映と同じようなものでありますから、
それが上演または上映されたときに、
「成る程、今度の脚本は此処がちょっと拙かったな」と気がついたら、
次に脚本を書くときにはその点を注意して、
一層よい脚本を作るようになるのでありましょう。
それと同じく神は、吾々が間違った想念を起して、
その現象化として、人生の舞台に悪いことが実演されても、
それが決して停止せしめられないのは、
みずからの反省と工夫とによって、
人間に内在する能力を磨き出さしめんがためであります。
*「眞理」第2巻基礎篇第2章(P51)より
<感謝合掌 令和3年2月28日 頓首再拝>