伝統板・第二

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(二月)の法語 - 伝統

2021/02/01 (Mon) 04:48:16

このスレッドでは、他の掲示板等から、次の6つの法語を紹介してまいります。

(1)『 生長の家 』 昭和二十四年二月号法語 

   *Web「龍宮住吉大神」からの転載です。
    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12879012.html (消滅)

(2)『 生長の家 』 昭和二十五年二月号法語

   *Web「谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐」からの転載です。
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58

(3)『 生長の家 』誌 昭和二十六年二月号の箴言

   *Web「住吉大神浄め給う」からの転載です。
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/m/201310

(4)『 生長の家 』 昭和二十三年二月号法語 

   *Web「住吉大神浄め給う」からの転載です。
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/m/201407

   (2/15~2/19、2/22~2/24 に限定)

(5)「理想世界」(昭和43年2月号)の法語

   伝統板・第二「輪読のための青年法語~吾ら“神の子”の自覚の上に立ちて」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7663028

(6)「理想世界」(昭和44年2月号)の法語

   伝統板・第二「輪読のための青年法語~人間の本質・その運命を支配するもの」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7905883



・・・

【一日の法語(2月1日)】

(1)《霊とは自覚原理である》

   神は霊である。そして神の子なる人間も霊である。

   霊とは意識すなわち心のはたらきがあるところの
   眼に見えざる霊妙なる存在を呼んで云うのである。

   これを称して 「 自覚原理 」 と呼ぶことも出来る。

   原理と云うものは一定の根本原則として、
   一切のもののあり方を定めているところのものであるが、
   それだけでは唯 機械的な法則のような感じがする。


   ところが霊はそれに自覚を伴っている。

   みずから“ある”ことを自覚している原理であり、
   みずから計画し設計するところの原理である。

   だからそれを 「 自己創造原理 」 とも呼ぶことが出来る。

             ・・・

   (抜粋として)

   神は霊である。
   そして神の子なる人間も霊である。

   霊とは意識すなわち心のはたらきがあるところの
   眼に見えざる霊妙なる存在を呼んで云うのである。

   これを称して 「 自覚原理 」 と呼ぶことも出来る。

・・・

(2)《報い求めぬ愛は尊し》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58


   (抜粋として)

   すべての愛の行為は 尊く、
   報いを求める行為は 卑しいのである。

・・・

(3)《微小体は最も想念に感応し易い》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/53bbf8899b4382abc6226239ee5105e4


   (抜粋として)

   素粒子のような、微小体は 無の世界から想念によって作られるのであるから、
   「 中間子がある 」 と信じて実験していると 「 中間子 」 があらわれて来る。


・・・

(5)《“神の子”を生活せよ》

   勇敢であれ。人間であれ。
   真に人間であるという事は“神の子”であるということである。

   勇敢に“神の子”たる実相を肯定せよ。

   劣等感に屈服してはならない。劣等感は万悪の根元である。

   勇敢に“神の子”であれ。
   神の子の善を生活に実践せよ。

・・・

(6)《想念は最も根本的な力である》

   セオソファーの或る小さなパンフレットにこんな事が書いてあった。

   「人間から発生する力を分?すると、想念、希望、行動に分けることが出来る。
   その中で最も大いなる結果を及ぼすものは想念である。

   想念は行動の生みの親であり、同時に希望の方向を定め、
   それを支配する力を持っている。

   想念というものは全く電気の働きにも似ている。
   電気は用途に従ってあらかじめ制御(コントロール)しておくことが
   必要であるが、想念も知恵によってコントロールしておかなければならない。

   それは、他の色々の種類の力と同じように、
   建設的にも破壊的にも用いられるのである。

・・・

<参考:2月の谷口雅春先生の言葉>

(1)衣を更えて~「生命の實相」第37巻幸福篇上
   → (光明掲示板・第二) 
     http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=1058 (消滅)

   伝統板・第二にて再掲示
   衣を更えて~「生命の實相」第37巻幸福篇上2月
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7949519

   (他に次のWebにもあり)
     https://search.ameba.jp/search/entry.html?q=%E4%BA%8C%E6%9C%88%E3%80%80%E8%A1%A3%E3%82%92%E6%9B%B4%E3%81%88%E3%81%A6&aid=medakanotamagochan

(2)神は今ここに~「光明法語」
   → (谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐)
     http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=64

(3)天地そろう~「光明道中記」
   → (谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐)
     http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=65

            <感謝合掌 令和3年2月1日 頓首再拝>

【二日の法語(2月2日)】 - 伝統

2021/02/02 (Tue) 02:37:25


(1)《絶対者としての霊》

   (全文は)
    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12882363.html (消滅)

   《絶対者としての霊》

   自己創造原理であるところの霊は、
   みずから形をもたず、形がないから、
   互いに分離分割するところの仕切りがない。

   従って 全体が一つである。

   全体が一つであるから対立がない。
   みんな一つであり、
   一つで全体であるからそのほかのものはない。

   これを称して「絶対」と云うのである。
   また唯一神とも云うのである。

   形なきものが形あるものに顕れる唯一の方法は、
   みずからの 振動 又は 波動によってである。

   例えば 形なきエーテルが
   形ある 光 又は 電磁波に顕れるためには
   波動となるが如くにである。

      ・・・

   (抜粋として)

   自己創造原理であるところの霊は、
   みずから形をもたず、形がないから、
   互いに分離分割するところの仕切りがない。

   従って 全体が一つである。

・・・

(2)《憎んでいる者を一層愛さねばならぬ》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58


   (抜粋として)

   敵対するものほど 吾々は愛さなければならないのである。

   それは 「 お前には このような人間でも愛することができるか 」
   というテストを神から与えられているのであるからである。

   自分に敵対する者、自分を悪(あ)しざまにいう者さえも
   愛し得るのが本当の愛である。

・・・

(3)《愛を実現するのが人間の使命である》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/8a4e0f6aaa0891091b222bd3a1d40bd5


   (抜粋として)

   何人(なんぴと)の生命の奥底にも
   「 愛したい 」 と云う念願が宿っているのである。

   これを満足しない限り、人間は落着くことは出来ない。

・・・

(5)《美の創作と鑑賞について》

   人生は魂の進歩の道場である。
   人生は肉体が享楽するためにあるのではないのである。

   肉体は魂に仕えるためにあるのである。
   美の鑑賞は、肉体の享楽ではないのである。

   美の創作は、実相界にある“美”の本質を、現象界に映し出して
   再現したものであって、その美を鑑賞するのは魂の世界のことであって、
   肉体の享楽とは次元を異にするのである。

・・・

(6)《言論の自由の及ぼす危険》

   「言論の自由」という事は、現行の日本国憲法に於いて強調せられている
   人権のうちの一つであるが、言論とは想念を言語または文章という形に
   行動化したものである。

   そして言語または文章に表現されたる想念は、更に一層具体的な行動――
   建設又は破壊的行動を誘起する原動力となるのである。

   言論を野放しに自由にしておくことは、
   破壊的行動の自由をも野放しにおくことになるのである。

   それは発電所の電力を何らの制御装置をも通過せしめないで
   野放しにするのと同じであって、それは建設的に使われるよりも、
   破壊的なはたらきをする事が多いのである。

            <感謝合掌 令和3年2月2日 頓首再拝>

【三日の法語(2月3日)】 - 伝統

2021/02/03 (Wed) 04:24:32


(1)《自覚原理なる神は》

   (全文は)
    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12887805.html (消滅)

   《自覚原理なる神は》

   霊の振動又は波動をコトバと云う。

   霊は 振動又は波動によって
   自己を表現するのである。

   人間が 動作又はコトバによって
   自己を表現するが如くにである。

   自己表現は 自覚原理の表現意志によって行われる。
   意思がなければ動くと云うことはあり得ないのである。

   自覚原理なるところの霊は、
   一個の 「 自由意志 」 であると云うことも出来る。

   「 自由 」 が 「 自覚原理 」 の本質である。

   それは 絶対者であり、
   他より何等(なんら)の束縛も制約も受けないのであるから
   「 自由 」 であるほかはないと云うことが出来る。

            ・・・

   (抜粋として)

   「 自由 」 が 「 自覚原理 」 の本質である。

   それは 絶対者であり、
   他より何等(なんら)の束縛も制約も受けないのであるから
   「 自由 」 であるほかはないと云うことが出来る。

・・・

(2)《愛は現象を見ないで実相を見る》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58


   (抜粋として)

   愛とは 感情ではない 行為である ― とニイルはいったのであるが、
   愛は 相手に宿る神性の凝視であり、相手に宿る仏性の礼拝である。

   愛は 「 好き 」 を超えて 智慧の目で
   相手の実相を見て愛するのである。

・・・

(3)《神の生活を今生きよ》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/4e804d73397f670280b52fcbbe354818


   (抜粋として)

   本当に完全な飽くことを知らぬ幸福は
   「 神 」 をわがものとすることによってのみ得られるのである。

   神をわがものとすることは、祈りによって神の叡智と一体となり、
   神の欲したまう如く生き、神の生活をわが生活として、

   神の愛をわが愛とすることである。

・・・

(5)《美感と肉感とについて》

   肉体を離れて味わう快感を美感というのである。

   絵画を鑑賞してその美を味わう。音楽を鑑賞してその美を味わう――
   そのような場合の快感を美感というのである。

   手に触れて快い、肌にさわって気持ちがよいなどという快感は、
   肉体の一種であって、それは肉体に即いた快感であり、
   魂が悦ぶのではないのである。

   肉体に即いた快感に惑溺しているときには
   魂はその向上進歩を忘れて、肉体の惑溺に引きずられて退歩する。

   古代の仏教徒は女性に触れることを“汚れる“かのごとくに
   女性を遠ざけたのであるけれども、それは”女”という”人間”を
   ”汚れている”として排斥したのではないのである。

   女性の肉体に触れて味わう快感は、肉体についた悦びであるが故に、
   それに溺れるとき、魂の向上進歩が一時阻害せられるからであって、
   女性の肉体そのものの魅力の強さを表現したのであって、
   女性の魂が下等であるとか、救われ難いとかいう意味ではないのである。

・・・

(6)《制御なき思想は制御なき電流と同様である》

   すべてのエネルギーはそれを”知”によって統制した時にのみ
   建設的な結果を得ることが出来るのである。

   私たちの想念は常に自ら顧みてそれを正しい方向に制御しなければ、
   電気が制御されずに無暗に流された時、大なる被害を蒙る人が出て来るように、
   多くの人々に不幸や破壊をもたらすのである。

   個人がまだ未成熟であって善悪の判断が完全にできない状態にある時には、
   本人以上の権威と知性を持った者が、その未成熟者の想念を点検し、
   建設的な方向に指向させるのでなければ、
   破壊的な結果を及ぼす事の方が多いのである。

   現行憲法が未成熟者の想念及び言論の自由をも幅広く容認している所に
   学生騒動のような破壊的活動が発生しているのであって、
   現行の憲法をそのままにしておいて学生騒動の発生を防ごうとしても
   それが無効に終わるのは、想念は行動の生みの親であり、その想念が
   教壇から教えられている赤い理想で誘導せられているからである。

            <感謝合掌 令和3年2月3日 頓首再拝>

【四日の法語(2月4日)】 - 伝統

2021/02/04 (Thu) 04:12:52


(1)《抵抗の自己選択》

   (全文は)
    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12891627.html (消滅)

   《抵抗の自己選択》

   絶対自由なるものは
   みずからを其の儘では表現することが出来ない。

   それは 筆に対して画布の抵抗がなければ、
   画家は自己内在の 「 美 」 を
   表現することが出来ないようなものである。

   画家が画筆をもつことが出来、
   画布に何かを表現することが出来るのは、

   画家みずからが自分の手の運動に対して
   何等かの抵抗があるところの
   画筆及び画布を選んだからである。

   画筆及び画布の抵抗は、
   画家の自由選択によるのである。

   すべて表現するためには、
   何らか抵抗あるものを
   自己選択しなければならない。

   表現することは
   創造することである。

        ・・・

   (抜粋として)

   絶対自由なるものは
   みずからを其の儘では表現することが出来ない。

   すべて表現するためには、
   何らか抵抗あるものを
   自己選択しなければならない。

   表現することは
   創造することである。

・・・

(2)《行為の価は内的動機で高下する》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58


   (抜粋として)

   金銭を目的にした勤労は、魂の上からいえば、
   ただ利欲の念の現われにすぎないのである。

   又(また)人から認められたり
   賞讃(しょうさん)されんことを のぞんでした愛行は、

   それは愛の形をとっていても、
   ただ利己的な虚栄心の現われにすぎないのである。

・・・

(3)《類は類を招(よ)ぶ》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/f02806856da376d61069e20a4f83028a


   (抜粋として)

   吾々が心に描いた姿は 「 類は類を招ぶ 」 という法則に従って、
   欠点をみつめれば、欠点が集って来るし、
   美点を見つければ美点が集って来るのである。

   想念が創造力をもっていると云うことを知るならば、
   如何なる場合にも、人の悪を思い、且(か)つ噂(うわさ)することを
   慎まなければならぬ。

・・・

(5)《乗馬に主人公が引き回されてはならない》

   肉体の魅力にまどわされてはならないし、
   肉体に触れて味わう快感にまどわされてもならないのである。

   肉体は魂が乗って修行するところの乗馬であることを
   知らなければならないのである。

   魂の向上進歩のことをわすれて肉体の快楽に惑溺する者は、
   乗馬が主人公となって騎士を引きずって走っているようなものである。

   魂は自主権を恢復しなければならないのである。
   馬からはやがて降りなければならない。
   魂のみが永遠の存在ではないか。

・・・

(6)《群集心理による破壊感情の爆発》

   想念よりも、もっと原本的な心の働きがある。それは感情である。
   感情が爆発する時殆ど理性による知的制御も何の役にも立たなくなるのである。

   この原始的感情の爆発は、人間が群集となって叫びだす時、
   破壊的活動にまた人間を駆り立てるのである。

   新宿での大学生による反戦国際デモの時に、一般市民や野次馬が参加して
   ついに警官との大乱闘の末駅に放火するに至った如きは、群集心理が、
   いかに理性の判断を狂わせて盲動するかの実例だということができるのである。

            <感謝合掌 令和3年2月4日 頓首再拝>

【五日の法語(2月5日)】 - 伝統

2021/02/05 (Fri) 02:08:31


(1)《生命の存在自覚がコトバである》

   (全文は)
    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12896232.html  (消滅)

   《生命の存在自覚がコトバである》

   表現することは
   創造することである。

   凡そ存在するもので
   自己を表現していないものは
   何物もないのである。

   その表現は
   自由意思による動作によって行われる。

   波動は 動作である。
   霊の最初の自由意思による動作が
   コトバである。

   そのコトバは
   生命が自己存在を自覚したるときには
   常に伴うものである。

   「 我れあり 」 の自覚そのものが、
   “ 生命の振動 ” であるがゆえに、
   存在の自覚そのものが コトバなのである。

   これが即ち
   「 太初(はじめ)にコトバあり、
   コトバは神と偕にあり、コトバは神なりき 」である。

           ・・・

   (抜粋として)

   波動は 動作である。
   霊の最初の自由意思による動作が
   コトバである。

   そのコトバは
   生命が自己存在を自覚したるときには
   常に伴うものである。

   「 我れあり 」 の自覚そのものが、
   “ 生命の振動 ” であるがゆえに、
   存在の自覚そのものが コトバなのである。


・・・

(2)《神に与える事によって 神から与えられる》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58


   (抜粋として)

   自分を神の子なりと信ぜよ。
   然して自分の内に神が宿っており、
   その神の愛を 神の栄光の現われんがために行ずるのだと思って行ぜよ。

   それは神に与える行為であるのである。
   神に与えることによってのみ、神から与えられるのである。

・・・

(3)《美点を選ぶか欠点を選ぶか》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/464602d878e0908facdc83b46a37e7c1


   (抜粋として)

   どんな人間にも、環境にも、美点があり、善き処があるのである。
   又、どんな人間にも、環境にも悪しき処、みにくい処があるのである。

   人間の幸福というものは、ほんの僅(わず)かな
   やさしい言葉によって得られるのと同じように、
   ほんの一寸(ちょっと)した憤激の情から破局を導き出して来る。

・・・

(5)《法則に従って生活せよ》

   宇宙の法則に対して素直に従順でなければならない。

   法則に従うことによってロケットは月にも達するし、金星にも到達する。

   法則に逆らうときは目的を達することはできない。

   法則を求めよ、法則を発見せよ。法則に従って生活を改善せよ。

・・・

(6)《民主主義政治の欠陥》

   このような直接行動様式が幅を利かすようになった最も大なる原因は、
   “国民主権”と堂々と銘打った日本国憲法である。
   しかもその主権の行使は、ただ代議士を自分の主権行使の代理人として
   選ぶという他に主権の実行はないのである。

   このような議会制民主主義を武藤貞一氏は次のように評している。

   「実に馬鹿げ切った遊戯的基礎の上に「議会制民主主義」というものは
   立っている。しかし人間の英知がまだ進まず、民主主義に関する限り、
   この投票方式以前に「主権」の行使が考え出されない以上は、
   滑稽と知りながらもこれに頼るほか分別の仕様がないというのが
   今の常識である。

   そして投票によって選ばれた代理者は、
   本当は選んだ人の意志を実行しようとはしないのである。

   その実例を挙げて武藤貞一氏は次のようにいっている。

   「田舎の、目に一丁字のない婆さんが、投票用紙に『さとうえいさく』と書けば、
   この一票はたしかに佐藤栄作氏を国会に送り出す要素の何万分の一貨を
   形成するわけだ。

   でも、佐藤栄作氏はこの婆さんの『身替り』でもなければ、
   直接代理人でもない。佐藤さんは佐藤さん、婆さんは婆さんである。

   これでも、この婆さんは国家の主権者と名乗れるかどうか。
   ここまで考えると、問題の捕捉は、大学の教壇にあるのではなくて、
   茶の間のテレビ漫才にありそうである」

   こうして民主主義というものが、国民テンデンバラバラの主権を持っていて、
   その主権が常に実際には政治家という特権階級によって蹂躙され、
   それが度重なって、その不平が次第に蓄積され累積して
   遂に実力行使の爆発に至るその素因を積み立てて行きつつあるのが
   民主主義政治の実態というものである。

            <感謝合掌 令和3年2月5日 頓首再拝>

【六日の法語(2月6日)】 - 伝統

2021/02/06 (Sat) 02:16:12


(1)《此処(ここ)に生きているのは神が生きている事である》

   (全文は)
    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12900742.html (消滅)


   《此処(ここ)に生きているのは神が生きている事である》

   「 我れあり 」 の絶対者 ( 神 ) の自覚が
   一切の創造の本源である。

   その 「 我れあり 」 の自覚が、
   人間に宿って人間自身の存在自覚となる。

   だから 「 我れあり 」 と我らが自覚するのは
   畢竟(ひっきょう)我れの内に神が宿っていることを
   自覚することである。

   「 ここに生きている自分は神である 」 と云うことである。

   我れあるがゆえに、
   我れは 「 我を表現する 」 のである。

   表現することは
   創造することである。

   創造は徹頭徹尾、自己を表現するのであって、
   創造とは 或る材料に働きかけて
   何物かを製造又は制作するのではない。

   自己が 「 自己 」 より創造するのである。

         ・・・

   (抜粋として)

   「 我れあり 」 の絶対者 ( 神 ) の自覚が
   一切の創造の本源である。

   創造は徹頭徹尾、自己を表現するのであって、
   自己が 「 自己 」 より創造するのである。

・・・

(2)《人に奉仕する事は 神に奉仕することになる》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58


   (抜粋として)

   すべての人に神が宿っているということを知るならば、
   すべての人の幸福のために奉仕するということは
   神に奉仕していることになる。

・・・

(3)《一番根本的な問題は》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/72f5872979b20d876f9de41e85788020


   (抜粋として)

   若(も)しすべての人類が人間互いに、内に神やどり給う
   「 神の宮 」 即ち神社として礼拝することを始めるならば、
   世界にはどんな種類の争いも、啀(いが)み合いもなくなり、

   すべての家庭は幸福になり、すべての人間は健康になり、
   全世界は平和になる。

   此の根本的な問題を忘れていては
   凡(あら)ゆる計画も画餅(がべい)に等しい。

・・・

(5)《名声や財物を目的にしてはならない》

   自己の理想をもって行動せよ。
   自己の名声や、財物を目的にして行動してはならない。

   無我の愛をもって、国家人類のために尽すがよい。

   名声や財物は自然にその人に従い来るであろう。

   私心をもって計画的に名声をつくり上げ、
   私欲をもって計画的に財物を得るならば、

   やがてそのカラクリが明るみに出たとき、
   名声なかりし時よりも、財物なかりし時よりも、
   その人は一層みじめになるであろう。

・・・

(6)《願望の抑圧から来るもの》

   何人も、自己本来の魂の深い願いを抑圧し続けて、
   それで幸福だという事はあり得ないのである。

   魂の深い願いの抑圧はやがて、
   外に向かって暴動や抵抗運動や権威に対する
   反逆となってあらわれるが、

   内に向かって自己を傷つけ、色々の神経症を惹き起こすか、
   更に進んでは具体的な気質的疾患となってあらわれて来たりするのである。


            <感謝合掌 令和3年2月6日 頓首再拝>

【七日の法語(2月7日)】 - 伝統

2021/02/07 (Sun) 03:04:01


(1)《自己限定による自己創造》

   (全文は)
    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12906340.html (消滅)

   《自己限定による自己創造》

   神なる霊が 「 自己 」 より一切を創造するとき、
   画筆と画布とに於けるが如く、
   抵抗によって自己を表現しなければならない。

   抵抗のない空中には
   絵をかくことが出来ないのと同様である。

   しかし絶対者なる神には
   何等の抵抗をもあり得ない。

   そこで自己を表現するために必要なる抵抗は、
   自己みずから創造しなければならない。

   自己表現は
   必然的に自己限定を行わしめる。

   「唯一」なるものを、
   能動者と受動者にわけなければならない。

   能動者を陽と云い、
   受動者を陰と云う。

   唯一者なる霊は、自己を限定して、陰陽に分って
   それを結び合わすことによって事物を創造すること
   恰も画筆と画布とが結び合うことによって
   表現が完成するが如くである。

          ・・・

   (抜粋として)

   神なる霊が 「 自己 」 より一切を創造するとき、
   画筆と画布とに於けるが如く、
   抵抗によって自己を表現しなければならない。

   唯一者なる霊は、自己を限定して、陰陽に分って
   それを結び合わすことによって事物を創造すること
   恰も画筆と画布とが結び合うことによって
   表現が完成するが如くである。

・・・

(2)《自分の中(うち)に神が実現することが尊い》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58


   (抜粋として)

   現象的な結果よりも、尚(なお)大切な心霊的結果があるのである。
   
   自分の中に 神が実現したかどうかということが
   もっとも大切なことであるのである。

・・・

(3)《一念不動、実相の完全さを信ぜよ》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/a5925824fab088c119c7381b8a773a1e


   (抜粋として)

   吾々が神想観をするときには、一念不動ただ一事(じ)
   「 吾れ神の子 」 「 われ霊的実在なり 」 の実相に
   心を集中しなければならない。

・・・

(5)《不正義を討つに遠慮してはならない》

   理想を掲げて正義の戦いを戦うがよい。
   正義に反する者に遠慮して躊躇逡巡する者はついに正義を失う。

   不正義が世の中に跋扈する原因は正しい人があまりにも
   無気力で温順しく、不正義と戦う勇気を失っているからである。

   不正義をゆるして置くのは
   不正義の跋扈に対して応援しているようなものである。

   そのような人は、不正義の者に連累する犯罪者である。
   正義が引っ込めば不正義がはびこり、
   真理が引っ込めば不真理が幅をきかす。

・・・

(6)《あなたの天分を見出せ》

   人生に成功するの秘訣は、
   その人の“天分”、又は“自分が本当に好きな仕事”
   を一所懸命に努力してやるということである。

   好まない仕事に営々と努力しても、
   潜在意識がそれに抵抗するから発達がおそいのである。

   何人も自分に適する天職がある。
   天職とみとめるものを発見し得ない時は、今与えられている仕事又は勉強
   を一歩一歩熱心に忠実に努力しているうちに、
   その天職がハッキリして来るのである。

   それは霧の中を行進して行くようなものである。
   霧深くとも前進を続けなければならない。
   目標に近づいて来るにしたがって、
   霧が深くても目標が見えるようになって来るのである。

            <感謝合掌 令和3年2月7日 頓首再拝>

【八日の法語(2月8日)】 - 伝統

2021/02/08 (Mon) 02:27:01


(1)《自己秩序が生命の特徴である》

   (全文は)
    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12909834.html (消滅)

   《自己秩序が生命の特徴である》

   自己創造は 自己限定によって行われるが、
   その限定は 他から限定されるのではなく
   自分で自分を限定するのである。

   だから自己限定は 自己統制だと言い得る。

   霊の一つの特徴は自己統制力をもっていると云うことである。

   自己統制は 自己秩序だとも云い得る。

   自己秩序によって
   生物は生まれるのである。

   自己秩序が崩れたとき
   生物は崩壊して、
   一段低い秩序の 「 無機物 」 に転落する。

        ・・・

   (抜粋として)

   自己秩序によって
   生物は生まれるのである。

   自己秩序が崩れたとき
   生物は崩壊して、
   一段低い秩序の 「 無機物 」 に転落する。

・・・

(2)《神想観を怠ってはならない》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58


   (抜粋として)

   実相の世界は すべての善きものの本源である。

   神想観を怠る者は、いくら 「 人間 神の子 」 と頭で知っていても
   現象世界が整うて来るということはないのである。

・・・

(3)《最も効果ある祈り方》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/be71f2d324d82e16c2d5f42f267f2359


   (抜粋として)

   「 神よ、われを神の最高実現として凡ゆる点に
   完全に創造(つく)りたまいし事を感謝します。」 と祈るべきである。

・・・

(5)《真の平和と幸福は愛行により来る》

   一にも愛行、二にも愛行、三にも愛行・・・・・
   愛行を通して、人間に宿っている神性があらわれるのである。

   小さな愛行もおろそかにしてはならない。

   日常生活では巨大な愛行によりも、
   小さな愛行が普通多くの人々を生かすのである。

   愛行によって、自己の心に真の平和と幸福と繁栄とが来るのである。

   愛行によってのみ、
   世界に真の平和と幸福と繁栄とが持ち来たらされるのである。

・・・

(6)《環境はあなたを変化する》

   その人の従事する仕事(学業)によって、またその仕事(学業)にたずさわる
   同僚となるべき人の種類によって、仕事及び周囲の人が環境となり、
   環境の及ぼす力が働いて、その人の性格や生活習慣や、ものの考え方や、
   食べ物の嗜好や服装なども変化して来るのである。

   そして、そのような環境に感化せられ物の考え方が変化してしまってからは、
   不健全な風俗習慣や物の考え方も、それが不健全とは感じられず、
   不健全なものの方が健全であるかの如く考えられるに至るのである。

   だからあなたが入学する学校を選択する場合や、
   就職する会社商社官公庁などを選ぶ場合には、出来得べくんば、
   どんな雰囲気をもった環境をその入に学校や就職先が提供してくれるかを
   研究し、それが健全であり、かつ自分の性格及び嗜好に適する環境を
   提供することを確かめた上で、入学するなり就職するなりを決するがよいのである。


            <感謝合掌 令和3年2月8日 頓首再拝>

【9日の法語(2月9日)】 - 伝統

2021/02/09 (Tue) 02:30:50


(1)《秩序は智慧と法則の実現》

   (全文は)
    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12913684.html (消滅)

   《秩序は智慧と法則の実現》

   無機物と云えども、
   その分子組織には一定の秩序をそなえていて、
   其処に神の智慧がみられるのである。

   秩序は智慧の産物であり、
   不秩序は智慧の崩壊を示すのである。

   生物が無生物状態への墜落は、
   高級なる智慧が崩壊して
   低級なる智慧の世界があらわれたのである。

   智慧は 秩序であり、
   秩序は 法則によって、維持せられる。

   法則の守られたる状態が秩序なのである。

   法則は、神の自己実現の 「 道 」 であり、
   神は 「 法則 」 と云う 「 働き手 」 を通して
   自己を実現したまうのである。

   法則のなかった世界などと云うものは
   考えることが出来ない。
   法則は 神のコトバである。

        ・・・

   (抜粋として)

   智慧は 秩序であり、
   秩序は 法則によって、維持せられる。

   法則の守られたる状態が秩序なのである。

   法則は 神のコトバである。

・・・

(2)《仏性の名に於いて行いをなせ》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58


   (抜粋として)


   「 キリストの名に於いて 何事でもなす 」 ということは、
   愛の実相に於いて 何事でもなすということである。

   仏性によって 何事でもなすということである。

・・・

(3)《神の栄光は斯く受けよ》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/21ff78f4d8370a32324d492ad3ecd16e


   (抜粋として)

   神の子らしく愛を行ずること、
   神の子らしく清く正しく生きるべく努力すること、
   その行と努力そのものが神の栄光に波長を合わすことになるのである。

   喜ぶこと、心を明るくすること、
   その他 自分の知り得た光明生活法を実践すること、

   現在受けている凡ゆる恵福を、
   どんな小さな事でも思い出して感謝すること、
  
   これらはいずれも神の栄光を受信するための受入態勢であるのである。

・・・

(5)《真に実行する人となれ》

   苟も事を乗ずるには、中途半端な誠心を以ってなしてはならないのである。

   熱意と周到な注意をもって実行しなければならない。

   易々加減にやっておいて「実行しました」と思ったり言ったりすることは、
   ある意味ではウソを吐いているのである。

   “やる限りは、他の人々には真似の出来ない位な精緻周到な計画をもって、
   一寸の隙も無く、やり通してこそ「実行しました」と言明する資格があるのである。

・・・

(6)《宗教家となるか科学者となるか》

   一般に宗教家や歴史家や科学者や法務官や政治家は長生きすると
   考えられており、変化の多い経済界に生活する人や、特に景気の上下に
   常に精神的ショックを受けて、心を動揺せしめられ易い種類の業務に
   従事している人は短命であると言われている。

   特に悠久なる宇宙を観測し、その広大無辺を想帽子瞑想する
   天文物理学者には長命の人が多いという事である。

   仏教では足利柴山師、西田天香師、古川大航師、鈴木大拙師の五大老師や、
   神道では菟田(きだ)茂丸翁の如きは九十歳を半ば越えるまで
   長生きせられたのである。

   手近に気が付いた有名な科学者の死亡年齢を調べてみると
   フンボルトは九十歳、ガリレオは七十八歳、ニュートンは八十五歳、
   ダルトンは七十八歳、天文学者のハーシュル父子はどちらも
   ほぼ八十歳位迄生きていたのである。

   しかし七十八歳や八十歳位では今では平均寿命が延びているので
   長命の内に入らないかも知れないが、以上の科学者は、
   「人間わずか五十年」という諺が横行していた時代の科学者の寿命であるから、
   相当長生きであるという事が出来るのである。

   あなたはどんな職業を選びますか?

   だが、人間は長生きするだけがよいのでないから、
   各自は自分の天分にかなう方面の学を修め、職業を選ぶべきだが、

   これらの種類の職業に従事した人が長生きした原因を考えてみると、
   ”宇宙の法則”を相手に心を集中する仕事であり、
   法則というものには変動がないから、常に変化するものを相手に、
   常に心を動揺させている者よりも長生きした訳である。

            <感謝合掌 令和3年2月9日 頓首再拝>

【十日の法語(2月10日)】 - 伝統

2021/02/10 (Wed) 03:11:04


(1)《法則に従うのが神を実現する道》

   (全文は)
    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12921195.html (消滅)

   《法則に従うのが神を実現する道》

   神は法則をつくったのであろうか。

   法則は 神自身の動きの波動の自然的律(りつ)であって、
   その律を通しての 神は自己を実現し得るのである。

   神の動きそのものと同時に
   存在するものが法則である。

   音楽家が歌を歌えば
   必ずリズムがあるのであって、
   音楽家と歌とリズムとは同時存在であるが如きである。

   神とコトバと法則とは
   同時存在である。

   神の働き給うところ必ず法則があり、
   神に従うことは 法則に従うと云うことであり、
   法則に従うとき 神が必ず実現し給うのである。

            ・・・

   (抜粋として)

   法則は 神自身の動きの波動の自然的律(りつ)であって、
   その律を通しての 神は自己を実現し得るのである。

   神の動きそのものと同時に
   存在するものが法則である。

   神の働き給うところ必ず法則があり、
   神に従うことは 法則に従うと云うことであり、
   法則に従うとき 神が必ず実現し給うのである。

・・・

(2)《利己の程度が減るほど人間は清くなる》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58


   (抜粋として)

   利己主義は 何事をしても それを汚してしまうのであるけれども、
   利己的動機からでも、愛を行ずるのは
   愛を行じないよりは 尊いのである。

   然(しか)し 利己的動機がなくなれば なくなる程
   その行為は 清らかなものとなり、
   天に於いて 神のほめ給(たま)う所のものとなるのである。

・・・

(3)《外界の困難は内部の力を招集する》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/550acee89d1d174eac28267a335eaa67


   (抜粋として)

   人間の内部には、神の無限の可能性が宿されている。

   ただ困難や苦痛に面したとき大いなる努力がなされて、
   内在の偉大なる力が搾り出される。

・・・

(5)《失敗を通して科学も人間も前進する》

   現象にみじめであっても、貧しくあっても、失敗を重ねても、
   それで失望落胆してはならない。

   現象の失敗は、「成功」の嫩葉(ふたば)である。
   あらゆる失敗を通して科学は進歩して来たのである。

   失敗する毎に、新たに法則が発見され、
   その新たに発見された法則によって科学は前進した。

   諸君の魂も失敗を通して、失敗毎に前進しつつあるのである。
   失敗する毎に前進を意識する者は益々進歩し、失敗する毎に劣等感を生じて
   萎縮する者はついに人生の落後者となるほかはないのである。

・・・

(6)《食物は体質及び精神を変化する》

   戦後、日本人の食生活が変わって来た。
   だんだん西洋好みの脂肪の多い、そして肉食傾向の食品に
   変わって来たのである。

   これはテレビの料理講習等、マスコミの”言葉の力”が
   大いに影響していることは見逃されないのである。

   動物蛋白をとらないと必須アミノ酸がとれないとか
   農村は食べ物が下等であるから、都会の青少年よりも体重身長共
   に発達が悪いとか言われ、上質の食物といえば動物食であるかのような印象を
   与えるマスコミの放送や記事が度々、耳にされ、読まされるのである。

   ところが一方では都会の青少年は身長体重は増加したが,
   体力は低下しているという発表もあり、

   児童のときに健康優良児として体格立派と言われた者が罹病率が多く
   早く死んでいるという統計が発表されたり、

   戦後初めて聴く肥満児童というバカにぶくぶく相撲取りのように
   肥満する子供が出来て来て、その肥満を防ぐのに、
   医者も首を傾げているらしいのである。

   そのような肥満児童が戦前にはなかったのに、戦後にはじめて
   多発するようになったのは、日本人の食生活が急に洋風に変化して
   祖先以来瑞穂の国に育って米食を主食とした日本人の本来の体質に合わない
   肉食を急に取り出した結果の異常反応であるとみとめられるのである。

   それなのに政府は通教(??)から牛豚の肉を2万頓輸入許可する
   との噂もあり、瑞穂の国に生まれた日本人が米食を少なくし出したために
   米が余って、米作を縮減した農家には奨励金を出すように
   農林省がきめたとかきめるとかいうことが新聞で報ぜられていた。

   「食は心なり」であって、食物は人間の体質だけでなく精神にも
   重大な影響を与えるのであり、肉食獣を真似た西洋的食物を
   模倣(まね)しつつあることはその精神までも、
   人間の性格を猛獣化することになり、
   文化が植民地化せしめられつつあることなのである。

            <感謝合掌 令和3年2月10日 頓首再拝>

【十一日の法語(2月11日)】 - 伝統

2021/02/11 (Thu) 04:43:18


(1)《「 生命 」 は 目に視(み)えざる実質》

   (全文は)
    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12924646.html (消滅)


   《「 生命 」 は 目に視(み)えざる実質》

   吾々は、自分の身辺に起るすべての事物と状態とを、
   自分の想念の力によって造る。

   吾々の 「 生命 」 というものは
   目に見えざる実質の如きものであって、
   その中に無限の力を蔵している。

   然(しか)しその無限の力は、
   そのまま静かなるままでは現れない。

   それは宇宙に充満するエーテルが、
   そのまま静かなるままでは何ら現れないけれども、

   それが一度 波動となれば、
   光となり、電磁波となり、電子となり、
   諸々の原案となって出現し来るように、

   吾々の 「 生命 」 も 波動となり想念となった時、
   始めてその力を現(あら)わす。

          ・・・

   (抜粋として)

   吾々は、自分の身辺に起るすべての事物と状態とを、
   自分の想念の力によって造る。

   吾々の 「 生命 」 というものは
   目に見えざる実質の如きものであって、
   その中に無限の力を蔵している。

   吾々の 「 生命 」 も 波動となり想念となった時、
   始めてその力を現(あら)わす。

・・・

(2)《道は直く簡単である》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58


   (抜粋として)


   キリストは 「 吾は 道なり 」 といい給うた。
   そのキリストは、吾らの内に 内在して い給うのである。

   だから、各人自身 「 吾は 道なり 」 である。

   この道は すなおに自分の良心に従うものには 必ず示されるのである。

   「 夫婦は 仲よくすればよい 」
   「 借金は 払えばよい 」 ・・・ の如(ごと)く

   頗(すこぶ)る 簡単明瞭(めいりょう)である。

・・・

(3)《苦痛を 「 罪 」 と思うな、栄光発現の好機と観ぜよ》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/ff5b4e3a7ec5097f6e770c88263ae9c8


   (抜粋として)

   吾々の苦痛は、内在無限の神力を発揮せんがための重圧であるのである。

   偉(おお)いなる病苦に悩む人が、その内在の力を発揮していることは
   同じような病苦に悩む人にとっても
   偉大なる励ましとなり慰めとなるのである。

   両手両脚なくして炊事も洗濯も裁縫もなし得る中村久子女史や、
   盲聾唖の三重苦のヘレン・ケラーが普通よりも一層魂の眼がひらいて
   人々を指導し得る事実を見るとき

   多くの人は希望を持つのである。

                 ・・・

   <参考>

   中村久子 (中村久子の生涯)

       → http://www.nakamura-hisako.co.jp/nakamura_life.html
    

   ヘレン・ケラー

    (1)“本流宣言”掲示板「「奇跡の人」ヘレンケラー (2955)」
       → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=582

    (2)光明掲示板・第一「【奇跡の人の日】 (9517)」
       → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1805 (消滅)

    (2)光明掲示板・第二「【奇跡の人の日】 (9458)」
       → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=1845 (消滅)

    (3)伝統板・第二「奇跡の人」
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6524424

    (4)伝統板・第二「ヘレン・ケラー」
       →  http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7984262

・・・

(5)《勝者となり主人公となれ》

   物質に対する執着を棄てよ。
   肉体の快楽に対する欲望を棄てよ。

   物質は常に変化して恒常なる価値を持っていないし、
   肉体はやがて脱ぎ棄ててしまわなければならない魂の実修服に過ぎない。

   一時価値を追求するよりも永遠の価値を追求せよ。

   魂は永遠であり、肉体の死を越えて永遠に存続する。
   肉体を魂に隷属せしめる者のみが真の勝者であり、
   肉体の欲求に隷属する者は敗者であり肉体の奴隷である。

   勝者となり、主人公となれ。

・・・

(6)《心の洋風化と嗜好の洋風化》

   精神が洋風化して来ると、嗜好品も次第に洋風化して来るのである。

   吾々は明治時代の人間であるから菓子でも和風の生菓子が好きであり、
   特に純粋に新しい小豆をもって作った(晒し餡でない)小豆の匂いと
   風味が豊かな饅頭式のものが好きであるが、孫になると和菓子より
   洋菓子が好きなのである。

   食べ物の嗜好などにも孫の時代と祖父の時代とは随分ギャップがあるのである。

   これは習慣というよりも心の問題である。

   習慣は私の家に生まれて私の家に育った孫であるから私と同じ習慣性を
   持っていそうなものであるが、そうでないのは、孫は学校などで、
   また別の精神に触れ、別の精神によって教育せられているので、
   その精神の欧風化によって欧風の菓子を好むようになっているのである。  

   時代は変る、心は変る、人間は変るという事を
   こんな些細な嗜好の上にも痛感せしめられるのである。

            <感謝合掌 令和3年2月11日 頓首再拝>

【十二日の法語(2月12日)】 - 伝統

2021/02/12 (Fri) 04:42:02


(1)《生命が波動して想念となる》

   (全文は)
    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12928124.html (消滅)

   《生命が波動して想念となる》

   「生命」の波動を称して「想念」という。
   「想念」を単に「念(ねん)」とも云い、「こころ」と訓ずる。
   従って「心」と書くこともある。

   「生命」は目に見えざる無限の力の貯蔵所のようなものであって、
   その貯蔵所の門を開いて、
   その貯蔵されている力を
   導き出してくるのが想念の働きである。

   丁度それは火薬の中に秘められている力が、
   そのままでは何の力も現さないが、
   或る振動によってこれを爆発状態に導くと
   驚くべき力を発現するのと同じである。

   火薬の爆発力は 鉱山の掘鑿(くっさく)にも、
   又 大量殺人にも何れにも使うことが出来るのであって、
   その力そのものには善悪は無いのである。

   心の力もそれと同じことで、
   善に使うも悪に使うも自由である。

            ・・・

   (抜粋として)

   「生命」の波動を称して「想念」という。

   「生命」は目に見えざる無限の力の貯蔵所のようなものであって、
   その貯蔵所の門を開いて、
   その貯蔵されている力を
   導き出してくるのが想念の働きである。

・・・

(2)《道が行詰るのは正路でないから》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58


   (抜粋として)

   我の道は けわしい難路である。

   神の道は 坦々(たんたん)として楽道である。

   もし諸君の目の前に難関が横たわって来、
   自分の進もうと思っていた道を妨害するものが出て来るならば、
   妨害するものを憎むな。

   きっと自分の歩む道が
   正しい道でなかったことの証拠である。

・・・

(3)《行持(おこない)が大切である》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/b4427af0a46f7e5ddb96d10b1298aff6


   (抜粋として)

   単に本を読んでわかっただけではいかぬのである。

   その通りに動き出さないと可(い)かぬ。
   この動き出すことを 「 行持(ぎょうじ) 」 と云うのである。

・・・

(5)《自己の実相を生かす者》

   利己的であるという事は、自己の実相を包み隠す者である。
   その“包み”を“罪“というのである。

   あなたの実相は、”神の子”であり、神の生命に於いて、すべての人間、
   すべての生き物、すべての存在と一体であるから、すべてを生かすように
   生活してこそ、あなたが“神の子”である実相を生かすことになるのである。

   すべての者を愛し、すべてのものを生かす者こそ、
   自己の本質を生かす者である。

・・・

(6)《菓子は人なりと服部氏はいう》

   日本経済新聞四十三年十一月十九日号に洋菓子を五十年間つくり
   つづけてきたその功績によって、その六月東京で開かれた世界洋菓子連盟の
   東京大会があった時に特別功労賞を受けた服部広治氏(現在ナガサキヤ
   研究室員)の自伝的菓子づくりも苦心談が載っている。

   その最後のところにこんなことを氏は書いている。

   「ふり返れば、どの時代のどの時期にも常に精魂込めて洋菓子を
   つくって来た。そしてこの長い体験を通じて得たのは、月並みだが、
   “菓子は人なり”ということばである。

   菓子はそれをつくる人のまごころがそのまま形と味に出るものなのである。」

   つまり、“形”あるものは“心の影”であるということである。

            <感謝合掌 令和3年2月12日 頓首再拝>

【十三日の法語(2月13日)】 - 伝統

2021/02/13 (Sat) 04:41:53


(1)《想念の具象化に必要な意志の力》

   (全文は)
    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12932147.html (消滅)

   《想念の具象化に必要な意志の力》

   「 個生命 」 は宇宙大生命がよってもって働く所の
   磁場(フィールド)のセンターの如きものであるから、
   無限の力をそこに呼び出して来ることができるのである。

   しかし、それは法則に従ってのみ
   よび出して来ることができるのである。

   「 自分 」 が 「 宇宙大生命の力 」 を 「 個生命 」 の点に於て、
   想念の力によって 「 心の法則 」 を利用して、
   欲する形 又は 方面によび出して来るのである。

   「 自分 」 というものが 「 個生命 」 という
   生命の磁場から力を引き出して来るのには、
   「 想念 」 を使うのであるが、

   「 想念 」 の具象化に必要なる一定の時間だけ
   一定想念を持続するのは、
   「 意志 」 の力である。

          ・・・

   (抜粋として)

   「 自分 」 というものが 「 個生命 」 という
   生命の磁場から力を引き出して来るのには、
   「 想念 」 を使うのであるが、

   「 想念 」 の具象化に必要なる一定の時間だけ
   一定想念を持続するのは、
   「 意志 」 の力である。

・・・

(2)《愛は一切を癒すのである》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58


   (抜粋として)

   愛は 一切の問題を解決する道である。
   愛は 自己の病いを癒し 人の病いを癒す。

   病める者よ。汝は愛にそむいていないか。
   誰(たれ)か 憎んでいないか。
   本当に赦(ゆる)しているか。

   かえりみて本当の愛に立ちかえれば癒されるのである。

・・・

(3)《発心・修行・成道・円環》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/65be82a5525f2b722f737a2bf51991ef


   (抜粋として)

   「 生命 」 は動くのである。

   「 道 」 は吾々に宿り、発心として芽生え、
   修行として生長し、 「 成道 」 として果(み)を結ぶ。

・・・

(5)《“神の子”らしく模範生活を営め》

   常に人から見られても模範的な生活をするがよい。
   それは人に見せびらかして自己を誇るためではない。

   全ての人は他の人の行動や生活の有様を見て、
   それを「暗示」として受取るのである。

   すべてのあなたの一挙手一投足は、
   他の人に対する暗示となるのである。

   ベトナムの仏教徒が政治不満に対する自己主張のために焼身自殺をすることが
   新聞記事に写真入りで報道されると、今迄日本には全然なかった焼身自殺を、
   佐藤首相訪米直前に実行した人が日本にもあらわれた。

   全ての行動及びその報道は、
   善悪共に暗示となって他の人々を動かしているのである。

   自分の身体だからどうしても好いというわけのものではないのである。

   人は行動すれば、必ず周囲に何かを与えているのである。

   それが善の影響か、悪の影響か、によって
   諸君の行動の価値は定まるのである。

・・・

(6)《あなたは自分の運命を改造できる》

   菓子ばかりがその人の心を表現するのではなく、
   その人の運命もその人の”心”の反映であるのである。

   その人の運命はその人の手相にあらわれるといわれているが、
   手相そのものは固定したものでなく、その人の心の変化に従って、
   その心の状態を象徴する象に変化して行くのである。

   私が早稲田大菊を途中で飛び出して処さだめず浮草のような放浪生活を
   送っていた頃、私の“手の筋”は一本も縦にのぼる線はなかった。

   そして横に走る“手の筋”も長く一定に続いている線はなく、恰も
   漣を略画したようなこんな短い線がバラバラと点在しているのであった。

   私は自分のこのような手の筋を見ながら、私はこの漣に浮ぶ浮草のような
   運命を一生涯送ることになるのであろうと自分の運命の拙なさを
   歎いていたものである。

   その“手の筋”は、その頃の私の心境を象徴したものであった。
   私は永久にそんな運の悪い星の下に生まれた訳ではなかったのである。

   関東大震後、私は、ついに、“人間・神の子”の真理を悟ることになり、
   神想観を毎日実修して祈り、高き聖域を想像してその聖域より神霊が降下して
   縦に自分の体を上より下へと流れ入る有様を瞑想中に念ずることにした時、
   “手の筋”が一変したのである。

   今では私の左の手には下部から上部に縦に貫き昇る線が運命線・太陽線等
   四本も登っている“手の筋”になったのである。
   それに従って私の運命も改造せられて来たのである。

   あなたも自分の心を改造することによって 
   運命を改造することができるのである。

            <感謝合掌 令和3年2月13日 頓首再拝>

【十四日の法語(2月14日)】 - 伝統

2021/02/14 (Sun) 02:28:32


(1)《想念は造形的力である》

   (全文は)
    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12936434.html (消滅)

   《想念は造形的力である》

   想念は造形的力である。

   それは生命の貯蔵庫にある力を
   一定の形を通して
   流出せしめるパイプのような働きをする。

   そのパイプの形の通りに
   宇宙の実質は流れ出て来て、
   これが現象的な形にまで現れて来るのには
   写真の焼付の如く或る時間の経過を要する。

   その時間中一定の想念を把持している所の
   支持的力が意思である。

   神想観をするにも意志の持続的力がなければ、
   一定の想念を、それが実現するまで
   把持することができないのである。

   「 生命 」 の中に起る所の波動は
   「 想念 」 であり、それは無声の言葉である。
   言葉によって、一切のものが 実現に入るのである。

         ・・・

   (抜粋として)

   想念は造形的力である。

   それは生命の貯蔵庫にある力を
   一定の形を通して
   流出せしめるパイプのような働きをする。

   「 生命 」 の中に起る所の波動は
   「 想念 」 であり、それは無声の言葉である。
   言葉によって、一切のものが 実現に入るのである。

・・・

(2)《明るい健康な言葉を使え》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58


   (抜粋として)

   すべて言葉にいう通りが現われて来るのである。
   言葉によって自分を汚してはならないのである。

   言葉によって自分を高め上げよ。

   「 吾は神の子である。吾は生命である。
   吾は健康である。吾は幸福である。
   吾は喜びにみたされている。 」 などの言葉を
   常に繰り返して 心に念ずる時には
   その通りに現われて来るのである。

・・・

(3)《相手に従って救い方が異る》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/2c43c4ffc8f8a2abd84da774c74091e0


   (抜粋として)


   人間には色々の階級、色々の魂の進化の程度があるのである。

   その救い方にも色々の方便があって
   一律一遍に偏ってはならないのである。

   だから、物質療法あり、暗示療法あり、霊動療法あり、触手療法あり、
   色々の療法があって差支えない。

   何事も欠点を見ないで和顔愛語讚歎するのが好い。

・・・

(5)《肉体の欲望の聖化について》

   肉体を霊に対して従属せしめよ。
   ということは肉体の欲望を全然否定せよという事ではないのである。

   肉体の欲望が、肉体自身の利己快楽的なものから一転して、
   霊の要求に従ってこれを従属せしめるとき、
   肉体の欲望が窒息せしめられるのではなく、肉体の欲望が
   聖化せられ崇高化(sublimate)されるのである。

   それは肉体にとっても、有りがたいことであり、やがて老い病み、
   朽ち果てて消えてしまう肉体が、永遠に朽つることなき、
   滅する事なき価値につながるということになるのである。

・・・

(6)《心臓移植手術の教訓》

   和田教授により心臓移植手術を受けた宮崎信夫君が死んだ。

   これによって教えられることは、如何に外科手術が発達しても、
   人間というものは、部分品を組み合わせ、縫い合わせても出来るものではない
   という事である。

    聖経『天使の言葉』には次のように示されているのである。


     「天使答えたまわく――

     人間は物質に非ず、肉体に非ず、脳髄細胞に非ず、

     神経細胞に非ず、血球に非ず、血清に非ず、筋肉細胞に非ず、
     それらすべてを組み合わせるものにも非ず」


   ここに真理がある。

   肉体の部分品を縫い合わせさえすれば、完全な人間が製造できるなどと
   傲慢に思い上がった手術をしてみても、それは必ず失敗するのである。

            <感謝合掌 令和3年2月14日 頓首再拝>

【十五日の法語(2月15日)】 - 伝統

2021/02/15 (Mon) 02:14:02


(1)《自分の念(こころ)は隠せない》

   (全文は)
    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12954870.html (消滅)

   《自分の念(こころ)は隠せない》

   あらゆる現象は
   自分自身の言葉の通りに現れたものである。

   諸君の健康も貧富も境遇も
   悉く 「 言葉 」 即ち 「 想念 」 の具象化である。

   だから 自分の内部にある心的状態を如何に隠して見た所が、
   自分の肉体の状態及び環境の状態は
   悉くその内部想念の表現であるから詐(いつわ)ることはできない。

   それは種子の中にある隠れたる花が、
   実際の花となって咲いたのと同じである。

   何の種子を蒔いたか
   花を見ればわかるように、

   その人の肉体及び環境の状態をみれば
   念(こころ)の種子が
   何であるかわかってしまうのである。

           ・・・

   (抜粋として)

   あらゆる現象は
   自分自身の言葉の通りに現れたものである。

   その人の肉体及び環境の状態をみれば
   念(こころ)の種子が
   何であるかわかってしまうのである。

・・・

(2)《肉体を軽蔑(けいべつ)してはならない》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58


   (抜粋として)

   肉体を卑しいものと思ってはならない。
   肉体は神の生命の地上に於ける自己実現である。

   其儘(そのまま)に神の生命である。
   即(すなわ)ち即身成仏なのである。
   そのまま み仏なのである。

・・・

(3)《イエスは斯(こ)うして病気を癒した》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/7757b2e44128b380ac6e75715f104b2c


   (抜粋として)

   キリストも単に言葉によって病いを癒しただけでなく、
   或る場合には手を按(あん)じて祈り、
   或る場合には、唾液を患部に指にて塗っているのである。

・・・

(4)《今此処の一点に全実在を把握せよ》


   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/7aee07be3a1f9e37334db7e3a36e17fd


   (抜粋として)

   生長の家が渾然融合せしめたものは、
   今此処の一点に全実在を把握する特殊の悟りである。

・・・

(5)《自己をして自己たらしめよ》

   自己の引受けた職務を徹底的に遂行せよ。
   責任を回避してはならない。

   併し、他の人の領域に頭を突っ込んではならない。

   これは協力するなという意味ではない。
   協力することが自己の職責であることもある。
   いらぬオセッカイを為すなという意味である。

   他の人をして他の人そのものたらしめよ。
   その代り、自己をして自己そのものたらしめよ。

   他の人の欠点を語るな。
   欠点を語って、それを興味本位に笑い話にするなどは最も悪い趣味である。

   欠点を語る場合には、愛念をもって静かに暖かい語調で本人に勧告せよ。


・・・

(6)《心臓移植の拒絶反応の内面機構》

    聖経『天使の言葉』は次の如く語る。――

      「人間は霊なり、生命なり、不死なり。

       神は人間の光源にして

       人間は神より出でたる光なり。」

   この聖経に示されている通り、人間は部分品の「縫い合わせ」又は
   「組み合わせ」ではないのであって、

   ”神”なる大生命から個性的に分光されて出現した“霊的生命”であり、
   それに各々個性があって、その個性的智慧によって、生理的組成分を
   適当に配列して、個性的人体がつくられているのである。

   つまり人体は、神の、分光又は分霊なる自分の靈が創作した処の
   個性的作品であるのである。

   それ故に、世界的血液型の大家である古畑教授の説の如く、
   すべての人間は、精密に言えばひとりひとり血液型が異なるのである。

   つまり、人体はその霊魂の独創的作品であるのである。

   その独創的作品に、他の人の独創的作をつなぎ合わす事になって、
   その独創を汚す事になるので、その縫合を霊魂は拒絶する。

   これが、霊的に観た拒絶反応の正体である。

   本人の霊魂が、他の人の肉体の一部を移植しても、その独創的作品(人体)の
   独創性を害しないと認める場合には拒絶反応は起こらない。

   例えば角膜移植のような「小部分」の移植で、人体全体の独創性は失なわれず、
   しかも視力を恢復して、本人の霊魂が肉体を操縦するのが一層便宜に
   なるような場合には、霊魂はその移植を拒絶しないのである。


   若し心臓を移植しても拒絶反応が起こらない場合がるとするならば、
   本人の霊魂がその「移植する心臓」の個性が、移植を受ける肉体の個性と
   きわめて近似していて、その作品(人体)の独創性を大してそこなわない場合である。

            <感謝合掌 令和3年2月15日 頓首再拝>

【十六日の法語(2月16日)】 - 伝統

2021/02/16 (Tue) 06:24:11



(1)《人間の運命は想念のハンドルの把(にぎ)り方で極(き)まる》

   (全文は)
    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12954985.html (消滅)

   《人間の運命は想念のハンドルの把(にぎ)り方で極(き)まる》

   宇宙には生み生みて止(や)まざる所の
   創造力が満ち満ちている。

   そしてその創造力の発現の中心となる 「 座 」 が
   無数にあるのであって、その中心が 「 個生命 」 である。

   「 自我 」 は 「 個生命 」 と云う磁場の中心にいて、
   心の法則によって、 「 想念 」 と云うハンドルを動かして
   自分の想念する所のすべてのものを造るのである。

   すべて力あるものの背後には
   「 目に見えざる形 」 ― 「 目に見えざる言葉 」 ―  
   「 想念 」 がある。

   すべてのものは想念によって形を定められるのであるから、
   想念を如何に動かすかが
   その人の運命を決定する。

            ・・・

   (抜粋として)

   すべて力あるものの背後には
   「 目に見えざる形 」 ― 「 目に見えざる言葉 」 ―  
   「 想念 」 がある。

   すべてのものは想念によって形を定められるのであるから、
   想念を如何に動かすかが
   その人の運命を決定する。

・・・

(2)《此(この)世界は 愛行の実践で支えられている》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58


   (抜粋として)

   この世界は神の働きによって 維持されているのである。
   その如く この世界は吾々の愛行によって維持されるのである。

   愛は これを隣人に実践する時
   それは本当の力となるのである。

・・・

(3)《神愛(しんあい)能(よ)く癒す》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/7bb21f7a3fc19df5169f21f79f67e0b9


   (抜粋として)

   「 生命の實相 」 の中には 「 愛は癒す 」 と書かれてある。

   生長の家の飛田給本部にも玄関を入ると 「 神は愛也(なり)」 と書かれており、
   その裏面には 「 神愛能癒(よくいやす)」 と書かれている。

   そして多くの精神的な疾患や、肉体的疾患が
   ただ十日間の練成だけで癒されているのである。

   それは飛田給本部の全体が 「 神愛 」 の表現であるからである。

・・・

(4)《時・空 未発の一点に久遠生命を把握せよ》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/67309f495d02616c89fac82b26c49ef2


   (抜粋として)

   今・此処・我が渾然一体となって、
   肉体無の無字の一点に全実在を把握しなければ、
   「 汝の内 」 とは 「 外 」 に対する 「 内 」 になって
   真の意味は掴めない。

・・・

(5)《常に“神の子”の自覚を深めるがよい》

   常に“神の子“なることを憶い起こすがよい。

   「私は神の子である。神がこの仕事を為さしめ給うのである」

   と念じつつ勉学し、又は行動せよ。

   神との一体感が深まるにつれて
   あなたの生命及び魂が浄化され聖化されるのである。

   ”神の子”の自覚は、神の無限の智慧と愛と生命と供給との
   後嗣者(あとつぎ)であることを暗黙のうちに肯定することになるのである。

   従って日常生活中にも、神の智慧に導かれ、愛深き行動がとれることになり、
   常に健康で、世の中に貢献できる仕事を成し得るのである。

・・・

(6)《あわや心臓摘出の寸前に健康恢復》

   心臓移植を受け容れるか受け容れないかは、
   人体の独創性を害するか否かの判断で、
   移植を受ける側の人の霊魂の諾否によるのであるから、
   これは医家が物質的テストによって定められることではないのである。

   寧ろ聖経を読誦してその霊魂を慰め、心臓移植を受け容れて下さるように
   祈りによって懇願する方が望ましいのである。

   しかし移植心臓を拒絶するか否かは本人の霊魂の選択の自由であるから、
   移植手術を行うことは非常な冒険を内に孕んでいるのである。

   しかも事故死寸前の人の生きた心臓を摘出して、その人が再び生き返るかも
   知れないのに、その人が再び蘇生できないような犠牲を払ってまで、
   拒絶反応が起こるかも知れないような冒険をするという事は、これは
   人間にゆるされた医術の範囲を超えたものだと言わなければならない。

   昨年十一月十六日の朝日新聞には次のような記事が載っているのである。
   人間の生命の神秘を知る時、まだ生きている心臓を摘出して、
   他の人に移植する様な「人間は部分品の組合せだ」という
   唯物論的手術は出来るものではないのである。

      心臓摘出寸前に回復 ――事故少年の手術を中止(チリ)

   【バルバライソ十五日発ロイター】チリのアルミランテ海軍病院で、
   交通事故のため脳に重傷を負った十四歳の少年の心臓を女性の心臓患者に
   移植しようとしたところ、少年が奇跡的に回復、手術は取りやめた。

   少年が死んだ場合にはじん臓も同時に移植する予定で、
   四十人の外科医が待機していたが、少年は急に回復、
   十四日は表に出られた。

   移植手術を計画したカブラン博士は、すでに十月以来二度、
   心臓移植を行なった経験がある。

            <感謝合掌 令和3年2月16日 頓首再拝>

【十七日の法語(2月17日)】 - 伝統

2021/02/17 (Wed) 01:59:23

(1)《宗派は 権力意志に基づく排他運動》

   (全文は)
    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12959618.html (消滅)

   《宗派は 権力意志に基づく排他運動》

   無限の生命力なる所の神は絶対であって、
   吾々は 神を 「 斯かるもの 」 と定義することはできない。

   定義すべからざる神を、人間が勝手に定義して
   その一部の性質のみを強調 して
   「 神とは斯くの如きものである 」 と勝手に独断して
   それのみが真実であると主張する所に
   宗教に要らざる宗派が生じて来る。

   神をいたずらに定義するな。
   凡そ宗教の宗派なるものは
   神が人間を救済し給うための計画の中にはない。

   それは人間自身が、自分の地盤を作り、
   自分の勢力を張ろうとする権力意志に基づく排他運動である。

            ・・・

   (抜粋として)

   無限の生命力なる所の神は絶対であって、
   吾々は 神を 「 斯かるもの 」 と定義することはできない。

   凡そ宗教の宗派なるものは
   神が人間を救済し給うための計画の中にはない。

   それは人間自身が、自分の地盤を作り、
   自分の勢力を張ろうとする権力意志に基づく排他運動である。

・・・

(2)《愛は享(う)けるだけでは可(い)かぬ》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58


   (抜粋として)

   神は 吾々(われわれ)に
   生命を 与え給(たま)うた。
   智慧(ちえ)を 与え給うた。
   愛を 与え給うた。

   与えられた智慧を 表現すれば、
   人のためになる善き考えとなるのである。

   与えられた愛を 表現すれば、
   愛行となるのである。

   愛行を実践する時、多くの実を結ぶのである。

・・・

(3)《「 罪 」 の観念は 「 健康 」 の反対観念である》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/7d126736b5d286aea00942d8ab60ae8d


   (抜粋として)

   健康の反対の観念は、ただ、 「 病気 」 の観念ばかりではないのである。

   「 罪 」 の観念も 「 健康 」 の反対観念である。

   他の罪をゆるさない心が病気を起すのも、
   「 罪 」 (健康の反対観念)の観念を心につかむからである。


・・・

(4)《内外(ないげ)打成一片(だじょういっぺん)の 「 今 此処(いまここ) 」》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/a1ec014ff1697a781551ba20ebf64471


   (抜粋として)

   「 汝の内 」 とは 「 外 」 に対するものではなく、
   「 内外打成一片の生命 」 の端的(たんてき)であり、実相である。

   「 内外打成一片 」 の “ 今 此処 ” に真に神の国があり、天国がある。

・・・

(5)《神に与えよ、神はまた汝に与え給わん》

   常に神を念ぜよ。
   「我れ神と偕にありて、この聖業を成さしめ給う」と念ぜよ。

   ただ神のために、神の栄光をあらわすために何事もなすがよい。
   それが却って神からの協力をあなた自身に得ることになるのである。

   これは「与えよ、さらば与えられん」の法則にかなうのである。

   神にあなた自身を与えれば、神はまた神御自身をあなたに与え給うのである。

・・・

(6)《唯物論的人間観の行きつく処》

   人間を部分品の継ぎ合わせによって出来た人体に過ぎないという考えは、
   手術の成功・不成功という現実的問題よりも、もっと重大な問題を
   含んでいるのである。

   電気を通じたら動き出す人造人間(ロボット)みたいなものが、人間だ
   という考えそのものが人間の神性を冒涜するものだと言わなければならない。

   部分品をうまく繋ぎ合わしたら、そのロボットが電子計算機のような返事をし、
   「考える」という精神現象さえもただの部分品の繋ぎ合わせの状態によって
   いろいろ変化するものだというのだったら、人間に生き甲斐も、
   人間誕生の意義も目的もない、ただ機械的に動かされていることになり、

   人生無意義に感じられて、ある者はフーテンになり、ある者は、
   その無意義さの絶望感を胡魔化すために、瞬間的な肉体の快楽追求に
   逃避するか、その絶望のヤルセナサを爆発させるために角材をもって
   何でも彼でも叩き壊して暴れ廻りたくならざるを得ないだろう。

   現在の大学生騒動の奥に、そのような唯物論的人間教育の弊害が
   横たわっている事に気が付かなければならないのである。

            <感謝合掌 令和3年2月17日 頓首再拝>

【十八日の法語(2月18日)】 - 伝統

2021/02/18 (Thu) 04:49:28


(1)《宗派宗教の弊害の一つは恐怖を唆(そそ)るにある》

   (全文は)
    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12964084.html (消滅)

   《宗派宗教の弊害の一つは恐怖を唆(そそ)るにある》

   宗派にたてこもって、
   自己の宗派を維持し拡大しようと
   企(たく)む 既成 宗教家によって計画されたる運動は
   先ず人心に神罰の恐怖を植えた。

   「 この宗教をやめたら神罰が来る 」 と教えることによって
   彼らは 信者が自分の教団から離れて行く事を防止しようとしたのである。

   もっとも恐るべきは
   神罰の観念が幼き児童に対して
   教えこまれるということである。

   幼児の心の中に刻みつけられたる神罰の観念は
   成人になってからもその潜在意識中に抜け難き恐怖となって存在し、
   人生を明るい目を以て見ることができず、

   常に恐怖の念を以て見るが故に
   その人の住む人生は

   その恐怖の念の反映として暗澹(あんたん)たるものとなり、
   不幸災禍がつきまとうものとなる。

                ・・・

   (抜粋として)

   宗派にたてこもって、
   自己の宗派を維持し拡大しようと
   企(たく)む 既成 宗教家によって計画されたる運動は
   先ず人心に神罰の恐怖を植えた。

   その恐怖の念の反映として暗澹(あんたん)たるものとなり、
   不幸災禍がつきまとうものとなる。

・・・

(2)《使わない水は腐る》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58


   (抜粋として)

   常に汲(く)んでいる水は 清らかであるように、
   常に捧(ささ)げられている生命は 腐ることなく健康である。

   働きは 周囲の人に貢献するばかりでなく
   自分自身に一そう多く貢献するのである。

   ただ吾々は与えてさえいれば好(よ)いのである。

・・・

(3)《憎み怨(うら)みなき心境になるには》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/0f5da1abadd62d442dcc711c09add780


   (抜粋として)

   誰(だれ)かがあなたに害を加えたと思って
   その罪を憎む観念がもし貴方にあるならば、
   即刻(いますぐ) 「 その罪をゆるしました 」 と心にとなえよ。

    「 私は貴方をゆるしました。私は貴方を愛しています 」 と
   「 罪 」 や 「 憎み 」 と全然反対の語(ことば)を
   度々(たびたび)念ずるようにしていると、

   自然に自分の心が浄化されて来て 憎み怨みなき心境になれるのである。

・・・

(4)《身心脱落してそのまま 「 無 」》


   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/c3809319f5eefc2d583e612cea0b4fdd


   (抜粋として)

   心もなく、身体もなく、からだもなく、心もなく、
   一切が “ ある ” が “ まま ” に脱落する。
   それを “ そのまま ” と云う。

   “ そのまま ” は不来(ふらい)であり、不去(ふこ)である。

   そのままにして肉体無しと悟る。

・・・

(5)《“本立って道生ず”ということ》

   犬養道子さんが、はたちの時悩んだ話を書いている中に、

   「本立って道生ず、とは、女学校一、二年のとき読んだ論語の中の
   最も好きなことばであったが、生とは何、死とは何、人間とは何、
   と言う永遠の課題を解くことなしに勉強は無意味であろうと
   深刻に考えたのであった。

   人間存立の意味を解くことは、すなわち本を立てる事であり、
   生と呼ばれるこの偶有の意味を知ったとき、勉強も含めた“道”の
   様々は自ずから生ずるに違いないと考えたのであった。」
                 (朝日、四十二年十一月十一日号)

   という言葉がある。

   読者は既に、人間存在の根本の意義を知ったのである。

   (まだよく解らない人は私の『いのちの革命』の本を読んで頂きたい。)

   即ち人間は”神の子”であり、
   神の最高の自己実現であることを知ったのである。

   即ち「本が立った」のであるから、その「本」の真理を枯らさないように
   毎日怠らず神想観を続けるならば真理の幹がすくすくと伸び育って
   そこから無数の枝が出来て爛漫と花咲き実を結ぶように、
   自然によきアイデアが生まれて来、それを実行することによって
   良き結実を得ることになるのである。

   本が立った後には、本を育てることを忘れてはならないのである。

   本は立ったが、幹が枯れたのでは何にもならない。

・・・

(6)《“こうして我々は人生の意義と価値を知る》

   しかし生長の家の講習を受け、練成会に参列し、人間は単に、
   部分品を繋ぎ合わせたロボットではないのだと知る時、
   初めて人間は、その底なしの憂鬱から解放せられることになるのである。

   そして私たちの住む世界は神の世界であり、すべての存在は神の智慧と力
   とによって創造され、その中でも神の最高の自己顕現として、一切の事物を、
   神が想念によって創造したかの如く、想念によって支配し得る機能(ちから)を
   持つ者だという自覚を得る時、初めて私たちは、この地上に誕生した
   本当の意義と価値を知り、

   「人間として生まれたのは無意義でなかったのだ」

   と生き甲斐を感ずることが出来るのである。

            <感謝合掌 令和3年2月18日 頓首再拝>

【十九日の法語(2月19日)】 - 伝統

2021/02/19 (Fri) 04:36:42


(1)《神罰は愛の神にはない》

   (全文は)
    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12965908.html (消滅)

   《神罰は愛の神にはない》

   善にして愛なる所の神には
   神罰というものはないのである。

   神罰の教義に惑わされたる無智と迷信との
    「 念(こころ)の影 」 として
   神罰の如く見える災禍が来る。

   かくて人を救うために発生した宗教が
   人類を地獄の底へ突き落しつつある。

   だから神罰の迷信を排除し、
   想念が現象界の運命を決定することを知らしめ、
   過去の人々が恐れていた恐怖をなくし、

   全人類が常に神の造り給える円満完全なる実相の世界に
   既に 今 いる と云うことを知らしめれば、

   其の想念で幸福なる天国を
   地上に実現することができる。

   人類を救うには先ず人類に叡智の目を
   開かしむる事が必要である。

         ・・・

   (抜粋として)

   善にして愛なる所の神には
   神罰というものはないのである。

・・・

(2)《艱難(かんなん)の時には 先(ま)ず心を静かにせよ》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58


   (抜粋として)

   悩みが来た時には、周章狼狽(しゅうしょうろうばい)しては ならない。
   人間智慧を あれこれ働かせて、余りごまかしをやってはならないのである。

   静かに心を落付けて 実相を観ずることが必要である。
   実相の世界には 悩みは存在しないのである。

・・・

(3)《病気が治らない訳は? 》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/09c6fba34bce0fa629ed42e8664fd83c


   (抜粋として)

   あなたの病気が治らないのは、
   「 健康 」 の観念と全然反対な恐怖観念、罪悪観念、
   憤怒憎悪の感情等が一杯につまっているからである。

・・・

(4)《上に従順なる思想》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/3103f212d1aad844bb886a5cebd1db4b


   (抜粋として)

   クリスチャン・サイエンスやニュー・ソートにない教えで
   生長の家にある教えは中心帰一の思想である。

   多くの病人が一家の中心たる良人に対する反抗心で起っている。

・・・

(5)《自己を“商品”として下落せしめてはならぬ》

   報酬を求めて事をしては“生命”が“売り物”にまで低下する。

   現代のコマーシャルリズム旺盛の世界での人間の禍は、
   すべての人間が商品価値として取扱われることである。

   商品価値のない人間は無価値の如く思い違いされていることである。

   映画の大スターが、
   テレビで薬の広告のサンドウィッチ・マンみたいなことをする時代である。

   真の人間は「神の子」であって、売らず、買わず、唯々黙々として
   無我無心に人類のために自己の天分を尽すのである。

   物質的所有を欲しいと思う心を棄てよ。
   肉体的快楽を欲しいと思う心を棄てよ。

   その時初めて、霊があなたの主人公となるのである。

   霊の要求が優先することによってはじめて肉体は霊に従属し、
   その程度に従ってあなた自身が主人公となり、
   真に人権が恢復されるのである。

   真の人権の恢復は、単に制度の上で人権の自由が宣言されても、
   みずからが肉体の欲望に従属している限りは、
   依然としてその人の魂は奴隷であるのである。

   肉体の人権を恢復するという名に於いて、
   “霊の人権”を蹂躙しているのが今の憲法であるのである。

   “霊の人権”を恢復する自主的憲法の制定こそ最大の喫緊事である。

・・・

(6)《欲望無限の意味について》

   人間は神の最高の自己顕現であるから、
   自己の「内に」”無限”を包藏するのであって、
   常にその“無限”を「外に」表現したい内部圧力を持っているのである。

   ところが現象界の事物は空間の序列の上に、時間の流れを通して
   徐々に展開するのであるから、人間は自己の内に包蔵する”無限”を
   一ぺんに全部悉く表現することが出来ない。

   それゆえに、私たちは、一つの希望が満足すれば、更に次の希望を
   満足したくなり、欲望は果てしなく無限に続くので、この事は、
   一方では社会の進歩に貢献するのであって、決して貪欲の悪徳を犯している
   という訳ではないのである。科学の発達が無限であるのもそのためである。

   吾々は自分の選んだ学科又は仕事の上に常に最高の「神の顕現」を
   為すべき努力を尽くすべきであり、最高以下の努力に甘んじるという事は
   自己の実相の自己隠蔽、即ち「包み」であり、「罪」である訳である。

   罪とは自己の実相を「ツツミ」隠す意味に於いて語源を
   等(ひと)しゅうするのである。

            <感謝合掌 令和3年2月19日 頓首再拝>

【二十日の法語(2月20日)】 - 伝統

2021/02/20 (Sat) 04:26:43


(1)《意思は運命を選択することが出来る》

   (全文は)
    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12972591.html (消滅)

   《意思は運命を選択することが出来る》

   「 真理は汝を自由ならしめん 」 である。

   厳密なる意味に於て、
   この世界の一切の事物は
   法則によって動いているのである。

   法則とは 何であるか。
   法則とは 神の意志である。

   吾々が 「 何々をせんと欲す 」 という場合に、
   その意欲の主動者となるものは 「 自我 」 である。

   「 自我 」 が動いて 「 個生命 」 の磁場に
    「 想念 」 の磁力線を生み出し、

   類似の想念を その磁石的力によって
   引き寄せて具象化する。

   それに要する時間だけ
    「 意志 」 が想念を持続する。

   意思は 又 選択力である。

   それは 吾々を機械的な 「 本能 」 の支配から、
   自分自身を解放して、
   自己自身の生活を 自分の自由になさしめる。

         ・・・

   (抜粋として)

   意思は 又 選択力である。

   それは 吾々を機械的な 「 本能 」 の支配から、
   自分自身を解放して、
   自己自身の生活を 自分の自由になさしめる。

・・・

(2)《人を赦(ゆる)したとき自分が赦される》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58


   (抜粋として)

   他の人を赦した時にのみ 自分自身 赦(ゆる)されるのである。

   然(しか)し人の欠点や不完全さを赦すよりも
   尚(なお)尊い生き方があるのである。

   それは 自分の周囲に起ることは 自分の心の影として、
   自分自身を神に対して懺悔することである。

・・・

(3)《愛のみが天国である》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/7b6e6bfab0feaff9c5bc4476ee8eb695


   (抜粋として)

   憎みは地獄であり、愛は天国である。
   憎みは鬼であり、愛は神である。

・・・

(5)《天授の神物に感謝せよ》

   物質的な欲望を殲滅し、肉体的な欲望を断絶し、
   霊の理想とするところに邁進せよ。

   しかして自己の生活に自然に与えられ、自然に供給されるものを
   天授の衣食住として感謝し満足せよ。

   その天授の生活資料は、それが肉眼にはたとい物質の姿をしていても、
   それは物質ではなく霊的産物であるのである。

   すべて天授の神物として感謝して受けるとき粗食が美味と一変し栄養満点となり、
   茅屋は金殿玉楼以上の平和と歓喜とをもたらし、
   敝衣はそのまま綺羅の如き肌触りをもってあなたを包むのである。

・・・

(6)《あなたは“人間機械“ではない、自己信頼せよ》

   あなたは「人造人間」又は「人間機械」ではなく
   神の自己実現であるのである。

   天地万物を創造した神の“愛の靈”があなたの中に宿って、
   あなたを生かしているのである。

   それゆえにあなたはあらゆる面に完全であるのである。

   あなたの肉体も完全であり、あなたの精神も完全であり、
   あなた能力も完全であるのである。

   あなたはあらゆる劣等感から解放せられなければならない。

   あなたが神想観を実修して神との融合をまっとうする時、
   神の無限の智慧がインスピレーションの火花となってあなたを
   照り輝かすのである。あなたはこの事を信ずるがよい。

   そして常に神想観を行ずるがよい。
   迷いによる劣等感で、神の智慧の火花を消してしまってはならない。

   自己信頼こそ、本具の「神の智慧」に火を点ずるはたらきをするのである。

            <感謝合掌 令和3年2月20日 頓首再拝>

【二十一日の法語(2月21日)】 - 伝統

2021/02/21 (Sun) 02:37:32


(1)《法則と協調することにより人間は幸福になる》

   (全文は)
    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12976519.html (消滅)

   《法則と協調することにより人間は幸福になる》

   人間の意思は、可変的であって、常に変わるが、
   神の意思は 「 法則 」 となって変わらない。

   吾々がその法則を正しく使いさえすれば、
   幸福になるように法則は与えられているのである。

   その法則と協調する時すべての物事は順調に運ぶ。
   法則を逆用するとき、吾々はそれによって危害を受ける。

   高圧電気に触れて死する人も、高圧電気を利用して工場を運転する人も、
   何れも法則に従ってその報いを受けているのである。

   神は拝み倒しておいたからといって、
   法則にそむく人に幸福を与えるということはないのである。

           ・・・

   (抜粋として)

   人間の意思は、可変的であって、常に変わるが、
   神の意思は 「 法則 」 となって変わらない。

   吾々がその法則を正しく使いさえすれば、
   幸福になるように法則は与えられているのである。

・・・

(2)《暗(やみ)が現われて来るのは 光を拒絶したから》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58


   (抜粋として)

   「 光のある中(うち)に 光の中(なか)を歩め 」
   と聖書には 書かれている。

   神は光である。
   光を拒絶する時 暗が現われて来るのである。

・・・

(3)《愛と信頼と善き言葉と》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/afb93db8c7367366e894f287ccaaa8a6


   (抜粋として)

   愛と信頼と善き言葉によってのみ 人々の能率はあがり、
   仕事の品質は高まるのである。

・・・

(5)《言葉は人間の性格を左右する》

   良き言葉、洗練されたる言葉を使え。

   流行の舌足らずの言葉や、文法無視の言葉や、投げやりの頽廃語調の言葉や、
   荒々しく人を叩きつけるような語調の言葉を使ってはならない。

   言葉は創造者であり、創る力を持っているのである。

   頽廃語調の言葉や歌はその人間を頽廃的人物とし、
   荒々しい言葉はその人間に乱暴粗暴なヤクザ的性格を植えつける。

   これに反して、良き言葉、洗練されたる言葉を常に使うようにするならば、
   その人の性格は善良となり、洗練されたる風格を持つようになるのである。

   まことにも言葉は創る力を持つのである。

   日本国憲法に「表現の自由」が定められているからとて、その自由を濫用して、
   自分の性格を悪化する言葉を使うのは自殺的行為である。

・・・

(6)《外見によって人を批難してはならない》

   人の外面を見て、その人を悪いと判断してはならないのである。
   外面は常に移り易わる。移り易わるのは真実でないからである。

   それは雲の去来にも似ている。
   雲は常に異なる形を持ってあらわれるけれども、
   一定常住の形はないのである。

   現在あらわれている形を批評している間にその形は消え、
   他の形に変じてしまっているのである。

   すでに消えた形を批難しても、
   それは存在しないものを批難している無駄の労苦である。

   それよりも、その暗雲の奥にある実相を観ずるがよいのである。

   どんな雲の形があらわれている時にも、その奥には実相の青空が
   高く澄んでいるように、どんなに見える人間も、
   その奥には澄み切った輝く”神の子“の実相が輝いているのである。

            <感謝合掌 令和3年2月21日 頓首再拝>

【二十二日の法語(2月22日)】 - 伝統

2021/02/22 (Mon) 04:45:35


(1)《何教であるからとて運命に特別の保護はない》

   (全文は)
    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12984530.html (消滅)

   《何教であるからとて運命に特別の保護はない》

   神は その人が仏教徒であるから特に保護するとか、
   キリスト教徒であるから特に保護するとかというようなことはない。

   如何なる宗教の信者も、爆弾に触れれば爆死する。
   法則は 宗教の差別なく万人に同様に適合される。

   しかし吾々は自由意志をもっており、
   意志の選択能力をもっており、
   高圧電気や爆弾に触れない位置にいることは自由である。

   そしてどの位置に自分がいるかということは
   心の法則によって定まる。

   その人の心の波長が
   その人が自然に行きたくなる位置を決定する。

   それは 「 類の心は類を呼ぶ 」 という心の法則による。


   (抜粋として)

   神は その人が仏教徒であるから特に保護するとか、
   キリスト教徒であるから特に保護するとかというようなことはない。

   如何なる宗教の信者も、爆弾に触れれば爆死する。
   法則は 宗教の差別なく万人に同様に適合される。

・・・

(2)《先(ま)ず心の目を開いて 身辺にある恵みに感謝せよ》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58


   (抜粋として)

   今与えられている小さな恵みに感謝するとき、
   次の大いなる恵みが与えられる。

・・・

(3)《愛は幸福を集める天使である》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/d521d2bc8930d350fbb9dde61d343a84


   (抜粋として)

   愛は、たとえば幸福を集めるために眼に見えない
   メッセンジャーのようなものである。

   そして すべての憎みや怨みの精神的弾丸を防ぎとめてくれるための
   防壁を築いてくれるのである。

   どんな種類の警備網よりもすぐれたる幸福の護り手は 「 愛 」 である。

・・・

(4)《触手的方法を用いない生長の家》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/a87f74129cf020d5b786f87fda6e4b11


   (抜粋として)

   生長の家は触手的な療術行為と誤られる虞(おそ)れを避けて
   全然按手的触手的方法を用いることをその講師又は指導者に禁止し、
   全然教えのみ説くことにし、各々の病気に対して、
   それに相応ずるような精神の持ち方を改めるように説く。

   それで病気が治るのである。

・・・

(5)《常不軽菩薩の生き方を生きよ》

   すべての人間を憎んだり軽蔑してはならない。

   無論、現象にあらわれたる人物を見るならば憎むべき人間もあり、
   軽蔑すべき人間もある。

   しかしこれらの不完全な姿は、彼らの仮面であって、
   仮面の奥に完全なる実相の面があるのである。

   現象を見ず実相を見よ。

   全ての人間はその実相に於いて”神の子”であるのであり、
   その”神の子”を観じ、瞑想し、心に礼拝し、言葉に讃歎するとき、
   その人の完全なる実相があらわれて来るのである。

   「我れ常に人を軽んぜず、すべての人に宿る如来を観て礼拝す。」

   これが法華経の常不軽菩薩の生き方である。

・・・

(6)《秩序と自由と生命現象》

   生命は秩序を通じて顕現し生命体をつくるのである。
   秩序が崩れた時生命はその生命体から脱出して姿を隠すのである。

   秩序を破壊したら自由が得られるという考えは間違で秩序が破れた時、
   ゴーストップの信号無視の自動車が互に衝突して破壊してしまって
   進行の自由を失ってしまうように、却って自由が失なわれるのである。

   秩序はそこに何らかの知恵ある精神が働いて
   計画又は意志の力が事物をそこに配列した証拠である。

   その配列が精緻巧妙になった時、
   精緻巧妙な映写機械が天然色映画をあらわすように、
   そこに生命現象があらわれるのである。

            <感謝合掌 令和3年2月22日 頓首再拝>

【二十三日の法語(2月23日)】 - 伝統

2021/02/23 (Tue) 02:21:40


(1)《法則は力の動く道である》

   (全文は)
    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13003271.html (消滅)

   《法則は力の動く道である》

   「 法則 」 それ自身は
   力ではないのである。

   それは 「 力(ちから) 」 の動く道である。

   「 力 」 がどの方向に動くか、その動くべき方向に
   道を開いてやる所の主動者は
   「 自分自身 」 であるのである。

   爆弾は自然の法則に従って爆発する。
   神は爆弾によって人間を殺す意思をもち給うのではないのである。

   爆弾の爆発力を人間を殺すように導いたのは
   人間自身の自由選択にあるのである。

   その爆発力を機械の運動に、汽車、汽船の交通に利用することも
   人間自身の自由意志であるのである。

           ・・・

   (抜粋として)

   「 法則 」 それ自身は 力ではないのである。
   それは 「 力(ちから) 」 の動く道である。

・・・

(2)《もっと神の恵みに感謝しなければならない》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58


   (抜粋として)

   吾々は もっと神の恵みに対して感謝しなければならない。

   感謝の念は 小さな恵みでも大きな喜びを生みだすのである。
   感謝の念は 恵みの拡大鏡である。

・・・

(3)《神との接点となるべき 「 愛 」 の場所をつくれ》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/67366e1596e08b49949e692d8883b8c0


   (抜粋として)

   人を審判いたり、人を怒ったりする前に、自分自身の心の中に
   「 神と接触する完全清浄の場所 」 ( 愛の場所 )
   をつくることが大切である。

・・・

(4)《クリスチャン・サイエンスとの比較 ( 1 )》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/096cae2a262212975c146f9da30db80d


   (抜粋として)

   生長の家を単なる日本のクリスチャン・サイエンスだ
   と思ったら間違いである。

   クリスチャン・サイエンスの真理も包容しながら、
   それ以上のものに飛躍しているのである。

・・・

(5)《心の雑草の根を断ち切れ》

   自己を霊によって支配することができる者が真の勇者であり、
   勝者であるのである。

   利己心を容赦なく芟除(せんじょ)せよ。

   利己心よりして、怒り、憎しみ、貪欲、虚偽、嫉妬、羨望、恐怖等
   ・・・・・一切の心の雑草を生ずるのである。

   利己心のない心が「本当の自分の心」なのである。

   利己心なくすべての人々を愛せよ。
   自己の能力を人類救済のために与え切れ。

   与えて、与えて、与え切れ。

   いくら与えても減ずることなき「真の自己」を発見せよ。

・・・

(6)《死は生命の移行に過ぎず》

   日本民族の不屈のエネルギーはその神話にあらわれているのである。

   古代の民族神話は単なるお伽話ではなく民族の自覚又は個性が
   物語に表現されているのである。

   その民族の個性的自覚として顕著なのは、日本民族は“死”の中にも
   常に”生”を見て、”永遠の死”を見なかったことである。

   たとえば、イザナミノ神が火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を
   産みまして火傷によってついに死に給えることを

   「神避(さ)りましぬ」と書かれてあって、それは永遠の死ではなくて、
   黄泉国(よもつくに)への“神避り”即ち逃避であるのである。

   そして、古事記には後にイザナギノ神が黄泉国へイザナミノ神に逢うために
   追って往かれた事が書かれているが、

   日本民族にとっては「死」は無いのであって、
   生命の或る場所から或る場所への移行であるのである。

            <感謝合掌 令和3年2月23日 頓首再拝>

【二十四日の法語(2月24日)】 - 伝統

2021/02/24 (Wed) 03:30:33

(1)《同じ力を破壊にも建設にも使うことが出来る》

   (全文は)
    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13039409.html (消滅)

   《同じ力を破壊にも建設にも使うことが出来る》

   神の意志なる法則は一定不変であって、
   どの方向にその道を開くか否かということは
   自分自身の 意志の自由 と 想念の自由 によるのである。

   神は決して人間の自由を、
   それが如何に善なる方向へ向おうとも、
   如何に悪なる方向へ向おうとも
   妨げ給うということはないのである。

   すべて吾らが自己選択して心に描く所の想念の波によって、
   宇宙の創化作用がどの方向へ
   その法則によって動き出すかが極まるのである。

           ・・・

   (抜粋として)

   すべて吾らが自己選択して心に描く所の想念の波によって、
   宇宙の創化作用がどの方向へ
   その法則によって動き出すかが極まるのである。

・・・

(2)《赦す者は 愛を増す》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58


   (抜粋として)

   赦すものは 神の愛を拡大する。

   赦さないものは相手を執着の念で縛るだけではなく、
   自分自身の生命をも縛るのである。

・・・

(3)《自己の罪を赦す道》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/f693b4ab4fb7719249d5707d267d406e


   (抜粋として)

   自分の潜在意識の底に
    「 罪を犯した 」 と云う考えがある場合には、
   自己処罰として 病気や不幸がやって来る場合がある。

   しかし 人間は真性(super consciousness)に於いては
   「 罪はない 」 のであるから、
   自己の内に宿れる 「 真性 」 を呼び出せば、一切の罪は消えるのである。

・・・

(4)《クリスチャン・サイエンスとの比較 ( 2 )》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/06ab33920208d428b0e836dba24139d6


   (抜粋として)

   エディ(夫人)の主著たる 「 真理と健康(サイエンス アンド ヘルス)」
   の中にも「 天地一切のものと和解せよ 」 の思想はない、

   ただ物質無、肉体無、病気無、を主張するだけで、
   如何なる心が 如何なる病気を起すかの解明はない。

・・・

(5)《真理の言葉は善実現の永遠のエネルギーである》

   真理を語れ。
   相手が受容れないでも失望することはないのである。

   語られたる言葉は創造る力があって常に宇宙のどこかにあって、
   その言葉にふさわしきものを創造しつつあるのである。

   キリストは「天地は失せん。されどわが言葉は失せず」といっている。

   「わが言葉」という場合のキリストの言葉は「真理の言葉」のことである。

   キリストは「われは真理なり、道なり・・・・・」と言っていることを想起せよ。

   常に機会ある毎に、接する人々に真理を説くがよい。
   また怠らず毎日、真理を説いた聖経『甘露の法雨』を朗読するがよい。

   その真理の言葉は、「天地は失せるとも永遠に存在して、
   善き事物を創造する」潜在的エネルギーとなるのである。

・・・

(6)《死はない、それは“生”のお隠れに過ぎない》

   イザナミノ神が火之迦具土神をお産みになった結果、
   イザナミノ神が黄泉国へ移行せられた時、

   イザナギノ神は十拳(とつか)の剣を抜いてその御子カグヅチノ神を
   斬り殺された、しかしそれは決して単なる死滅ではなかった。

   古事記には次の如くこの時の事を記述している。――

   「爾(ここ)に其の御刀(みはかし)の前に著ける血、湯津石村に走り就きて、
    成りませる神の名は、石折(いわさく)の神、
    次に根折(ねさく)の神、次に石筒之男神(いわつつのおのかみ)
    ・・・・・并せて八柱(やはしら)は、御刀によりて成りませる神なり。」

   ここに“悪”を制するところの剣は”不殺の剣”であって、
   更に多くの神々を生み出すところの”生”の剣であり、

   ”死”を超えて更に多くの”生”が生まれるという古代日本民族の自覚が
   この神話に象徴的に表現せられているのである。

   日本民族の人間観は”生”のみあって、“死滅”はないのであり、
   “死”と見えるのは“神避り”であり“おかくれ”(隠(かくし))に
   過ぎないのであり、根本的に明るいのが日本民族の人生観であり、
   叩いても叩いても、殺しても殺しても“なにくそ”の精神で
   “生”があらわれて来るのである。

            <感謝合掌 令和3年2月24日 頓首再拝>

【二十五日の法語(2月25日)】 - 伝統

2021/02/25 (Thu) 01:21:28


(1)《心の鏡としての環境及び肉体》

   (全文は)
    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13042889.html (消滅)

   《心の鏡としての環境及び肉体》

   想念は自由であるが、
   これを破壊的に使えば
   人間自身が破壊されるのである。

   建設的にそれを使えば、
   人間自身が発達進歩し
   幸福になることができるのである。

   神は 破壊の神ではなくして、
   建設の神である。

   だから 法則を変えることなしに
   しかも、人間が他を破壊する心を起せば、
   その心の影として、自らが破壊されることになって、

   破壊と云うことが
   神の意志でないことを示し給うているのである。

   しかし それが 「 破壊 」 であるが故に、
   一見 神罰のように見えるが、

   これを神罰と観るものは、
   神の愛の深さを知らないものである。

   神は 人間を自由意志のままに置いて、
   而(しか)も自分の 「心の影なる 」 肉体及び環境を見て
   それを鏡として、自ら省み
   自由意志のままに善に遷ることが出来るようにし給うたのである。


   (抜粋として)

   神は 人間を自由意志のままに置いて、
   而(しか)も自分の 「心の影なる 」 肉体及び環境を見て
   それを鏡として、自ら省み
   自由意志のままに善に遷ることが出来るようにし給うたのである。

・・・

(2)《人間の働きは 神への協力である》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58


   (抜粋として)

   自分を軽蔑してはならない。
   自分を金銭の奴隷などと考えてはならない。

   自分を神の子として神の み業に協力するもののみ
   真に立派な仕事をなすことができるのである。

・・・

(3)《罪を他に転嫁すれば一層苦しくなる》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/ca9c691583d9df780f02e7d536eee34e


   (抜粋として)

   自己を呪い、また他を憎み怨むすべての意識と別れを告げよ。

   「 自己及びすべてのわが知れる人々の罪は既に消えたのである。
   自分は自分を審判(さば)かないが如く
   他の人々をも審判かないのである。」 と

   繰返し繰返し神想観中に念ぜよ。

・・・

(5)《真の敵は汝の“内“にある》

   他の人の努力に頼ることなく、
   みずからの努力によって自己を高めあげるがよい。

   自己のみが自己の味方であり、同時に自己のみが自己の敵である。

   ”肉体の自己”を克服した「自己」は、“真の自分”の味方であるし、
   ”肉体の自己”に克服せられたる「自己」は“本当の自分”の敵となる。

・・・

(6)《暗津国は本来存在しない》

   さてイザナギノ神がイザナミノ神を相見たく思われて、黄泉国に
   お出でになって、手燭をとぼしてイザナミノ神のお姿を御覧になると、

   その全身には無数の蛆がたかって、原爆水爆無数の大爆発の象徴である
   雷神(いかずちのかみ)が鳴り渡っているので、

   イザナギノ神はそのあまりのいやらしさに思わず逃げておいでになると、

   イザナミノ神は、「わたしの醜(みぐる)しい姿を御覧になりましたからには、
   もう黄泉国からお帰し申す事はできません」と

   八種(やくさ)の雷神(爆撃隊)に加えるに、千五百(ちいほ)の黄泉国の
   軍隊(死神)を添えて追撃せしめられた。

   そしてついに黄泉比良坂の坂本まで追撃して来られた時に、
   “黄泉比良坂”は黄泉国(暗津国)と比良坂(昼の国)との境の根本のところで、

   イザナギノ神が桃の実を(生命の木の実・生命の実相の真理)を
   三つお投げになったら、暗津国の軍隊は、真理の光によって
   ひとたまりもなく全軍退去して消え去ったのである。

   日本古代民族は”悪”は本来「無」であり、
   真理の光の前には消滅するという事を民族の自覚としてもっていたので、
   このような神話を創作できたのだと思われるのである。

            <感謝合掌 令和3年2月25日 頓首再拝>

【二十六日の法語(2月26日)】 - 伝統

2021/02/26 (Fri) 03:03:32


(1)《希望する想念は明瞭なるを要す》

   (全文は)
    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13045874.html (消滅)

   《希望する想念は明瞭なるを要す》

   環境は自分の心の影であるけれども、
   心の習慣性がまだ消えないで、
   ハッと悟っただけでは
   尚(なお)完全に、良き環境があらわれて来ないことがある。

   新しき世界に就(つ)いての観方、
   新しい人間に就いての観方、
   生活の新しい実践法がその人に確立しない限り、

   過去の人間観、世界観、生活の仕方の惰力と云うものは、
   継続していて、それが現象界に具象化してあらわれて来ることになる。

   吾々が想念するところのものが漠然たる希望であり、
   明瞭を欠くようなことでは具象化する力は少ないのである。

              ・・・

   (抜粋として)

   過去の人間観、世界観、生活の仕方の惰力と云うものは、
   継続していて、それが現象界に具象化してあらわれて来ることになる。

   吾々が想念するところのものが漠然たる希望であり、
   明瞭を欠くようなことでは具象化する力は少ないのである。

・・・

(2)《神を祝福せよ、神から祝福される》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58


   (抜粋として)

   神を祝福せよ。
   神の み業を祝福せよ。
   神の み業を讃歎(さんたん)せよ。

   神から受けることばかり考えないで
   まず神に与えることから考えよ。

   毎日 朝に一回 夕方に一回、
   神を祝福し 神をほめたたえ、神に感謝することは、
   神の恵みを拡大するよき方法である。

   すべての恵みを神に帰せよ。

・・・

(3)《因果昧(くらま)さず》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/5fd6b6badfc3a14342bf8f252a796305


   (抜粋として)

   原因結果の法則は 恢々(かいかい)として漏らすことなく
   他の処(ところ)で取り過ぎがある時に奪われるようになっており、
   他の処で与え過ぎがある時に与え返されるようになっているのである。

・・・

(5)《内在の神を見つめよ》

   自己の内部をよく見詰めるがよい。

   あまりにも現代の若い人たちは、
   外ばかり見てうつつを抜かしている状態である。

   外の喧騒や、外の快楽に心を奪われるとき、
   内部の充実が忘れられるのである。

   外に心を奪われるとき、その人は粗暴となるか腰抜けとなる。

   内観して、自己の内に“神”があり自己の内に”無限力”があることを
   自覚してのみ、その自覚の外延として、外に力が働く時は、落ち着いた力
   となり、静かなる勇気となって、暴虎馮河の勇となることはないのである。

   何事も”内”から始まるべきである。

・・・

(6)《日本民族の“生”のエネルギー》

   黄泉国の軍隊の総退却によって、
   今度はイザナミノ神は御自身で追って来られた。

   それを防ぐためにイザナギノ神は千引石(ちびきのいわ)
   (千人で綱かけて引くほどの大岩)をもって、その途を遮り隔てて、
   イザナミノ神に離縁状をお渡しになった。

   その時、イザナミノ神は「そんな薄情なことをなさいましたら、
   あなたの国の人間を一日に千人殺して黄泉国へ連れてきますぞ」
   といって脅迫した。

   すると、イザナギノ神は「汝(みまし)然か為(しかし)たまわば、
   吾(あれ)はや一日(ひとひ)に千五百産屋を立てむ」
   (お前がそのように千人殺すならば、私は一日に千五百人産んで見せるぞ)
   と仰せられた。

   ここに、“死”を恐れない、ただ”生”だけを見つめて前進する
   日本民族の“生”のエネルギーの強さが表現されているのである。

            <感謝合掌 令和3年2月26日 頓首再拝>

【二十七日の法語(2月27日)】 - 伝統

2021/02/27 (Sat) 04:41:48


(1)《少しでも疑念あらば成就せぬ》

   (全文は)
    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13058494.html (消滅)

   《少しでも疑念あらば成就せぬ》

   欲する事物を明瞭に心に描いて、
   「 宇宙の心 」 に 印象すれば、
   「 宇宙の心 」 がそれを実現して呉れるのである。
             ( 「 人生は心で支配せよ 」 参照 )

   その点 疑いが少しでもあっては 実現が不能になる。
   
   「 宇宙の心 」 は 無限力であるから
   如何なる念を描こうとも
   吾々がそれを求め過ぎると思ってはならないのである。

   吾々が少しでも
    「 こんな虫の好い事を求めたら きいて貰えないかも知れない 」
    などと潜在意識が少しでも思うならば、
   自分の潜在意識の思った通り実現しないことになる。

   多くの失敗者は 此の種類に属する人である。

           ・・・

   (抜粋として)

   吾々が少しでも
    「 こんな虫の好い事を求めたら きいて貰えないかも知れない 」
    などと潜在意識が少しでも思うならば、
   自分の潜在意識の思った通り実現しないことになる。

   多くの失敗者は 此の種類に属する人である。

・・・

(2)《人間は法則に従うことによって一切のものを支配する》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58


   (抜粋として)


   人間は 万物の霊長として
   世界の一切のものを支配する力を与えられているのである。

   然(しか)しながら
   それは 如何(いか)にして支配し得るかといえば、
   法則に従順に従う事によってである。

・・・

(3)《富むために必要な心掛け》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/c25197c5b0c242d9adc97a16e73fbcc6


   (抜粋として)


   彼が栄えるのは自分が栄えるのである。
   彼が貧しくなるのは自分が貧しくなることである。

   人の栄えるのを喜ぶような心のものでないと、
   みずから栄えることは出来ないのである。

・・・

(5)《内部に流れる聖なる力》

   内部に流れる聖なる力を見出すことが根本である。

   その聖なる力を見出してそれの導きに従って行動する者は、
   例えば流れに従って河を下ると同じように、安楽にして
   平穏に速力早く行動の目的を達することができるのである。

   内部の聖なる力の流れに逆行して“我の力”をもって
   事を為すべく突進して行く場合には労多くして効少ないのである。

   自己の内部の聖なる導きを見出すために怠らず神想観を毎日実修するがよい。

・・・

(6)《日本民族の清明心》

   日本民族は常に暗黒を見ないで光明に振り向くのである。

   それは“日の丸”の国旗にも象徴されているし、日の大神・天照大御神を
   国祖神として立てたところの神話にもあらわされているのである。

   須佐男神が乱暴をして天照大御神の天地経綸の織りを汚した時に、
   須佐男神が「邪心(きたなきこころ)無し」と仰せられると、
   天照大御神は「然らば、汝(みまし)の清明(あか)きことは、
   何(いか)にして知(しら)まし」と仰せられているのである。

   日本民族は、ここに「清明心」を如何に尊ぶかという事が示されている。

   「汚き心」に対する語(ことば)は、「善き心」と言わずして
   「清明(あか)き心」と称したのが日本民族であるのである。

   どこまでも「清きこと」そして「明るき事」
   “日の丸”の精神こそ、日本民族の尊ぶところであったのである。

            <感謝合掌 令和3年2月27日 頓首再拝>

【二十八日の法語(2月28日)】 - 伝統

2021/02/28 (Sun) 06:24:18


(1)《真に望むことは既に実現している》

   (全文は)
    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13060929.html (消滅)

   《真に望むことは既に実現している》

   真に望まないことは、
   祈っても実現しないことがある。

   それは心が自己放棄しているからである。

   しかし真に望まないのに実現するのは、
   恐怖する事物である。

   恐怖する事柄は
   常に切実に思わずにいられないから実現するのである。

   また魂の底深く真に望む事物は、
   既に実相の世界に於いてそれが実現しているから、
   その実在の圧力によって思わずにはおれないから、
   自然にそれを熱望するようになって来るのである。

   希望を捨てず、
   常にそれを心に描け。

   その心境が 実相の実現力に一致する時期が来れば
   必ず成就するのである。

            ・・・

   (抜粋として)

   また魂の底深く真に望む事物は、
   既に実相の世界に於いてそれが実現しているから、
   その実在の圧力によって思わずにはおれないから、
   自然にそれを熱望するようになって来るのである。

   希望を捨てず、
   常にそれを心に描け。

   その心境が 実相の実現力に一致する時期が来れば
   必ず成就するのである。

・・・

(2)《神の法則とは 愛の法則である》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58


   (抜粋として)

   神の法則とは 愛の法則である。

   「 汝(なんじ)の如(ごと)く 汝の隣人を愛すべし。」

   これが神の法則であるのである。

・・・

(3)《無限供給の法則》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/3ab4cce1d09504dac6878ee497fb6d4e



   (抜粋として)

   ケチな心を持つな。
   ケチケチした小細工で金を拵(こしら)えようと思うな。

   無限供給の法則を利用すれば 無限に富が流入して来るのである。

   法則を破って富を集めようとすることは、
   漏電によって電流の供給を受けようとするに等しいのである。

・・・

(5)《釈尊とキリストとの教えるもの》

   釈尊やキリストやその他の聖なる教祖たちのみがとくべつに
   神の恩寵を得ているのではないのである。

   ただこれらの先輩は、どんな人間でも、みんな“神の子”であるから、
   彼の如く為すならば、内部の聖なる生命の流れを、
   自分の生活に導き入れて偉大なる力を発揮し、幾多の聖業を成し遂げること
   ができるのだという模範を示されたに過ぎないのである。

   若し釈迦、キリストが”普通の人間”には迚もできない事を
   成し遂げられたのだとすれば、釈迦、キリストは、大いなる見物としては
   価値があるかも知れないが、人間を救済する力とはならない。

   ところが釈迦、キリストが発揮し得たところの偉大なる力を、
   釈迦、キリストの如くなすことによって吾ら一般の人間もそれを為すことが
   できるための、その範例を示されたのが釈迦、キリストだと
   みとめる事によって、吾々は釈迦、キリストの先蹤を追うことができ、
   そこに彼ら先達の生活が吾らの救済力となり得るのである。

   諸君よ、あなたがたもまた自己が”神の子”なる実相を潜在意識の
   底の底まで信ずることができるならば、釈尊の如く、キリストの如く
   大いなる聖業を成し遂げることができるのである。

・・・

(6)《秩序が破壊されれば生命は隠れる》

   須佐男神の乱行とは畔放(あはな)ち、溝埋め、樋ち・・・・・等、
   あるべき秩序を破壊することであったのでその時の「生命の本源」
   たる“日の大神”天照大御神は姿を隠してしまわれたのである。

   生命は秩序を通して現象界にあらわれる。
   秩序が破壊された時生命は現象界から隠れてしまうのである。

   それを表現したのが天照大御神の岩戸隠れの神話である。

   そして天照大御神(生命の本源}は、「八百万の神共に咲(わら)いき」
   と古事記にあるように、光を見つめて明るく咲うことによって
   再びこの世に姿をあらわされたのである。

            <感謝合掌 令和3年2月28日 頓首再拝>

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