伝統板・第二

2929169
本掲示板の目的に従い、法令順守、せっかく掲示板社の利用規約及び社会倫理の厳守をお願いします。
なお、当掲示板の管理人は、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経以外については、
どの著作物について権利者が誰であるかを承知しておりません。

「著作物に係る権利」または「その他の正当な権利」を侵害されたとする方は、自らの所属、役職、氏名、連絡方法を明記のうえ、
自らが正当な権利者であることを証明するもの(確定判決書又は文化庁の著作権登録謄本等)のPDFファイルを添付して、
当掲示板への書き込みにより、管理人にお申し出ください。プロバイダ責任制限法に基づき、適正に対処します。

真理の生活 ⑨ - 伝統

2021/01/30 (Sat) 04:54:56

何物をも包容しつつ、強く大きくしっかりと生きる

          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月30日)より

交友を選ぶことは生涯のうちで最も大切なことである。
悪しき友と交わってはならぬ。
悪しき人間は《本来ない》けれども、
方向のまちがった側へ進む者を「悪しき人間」と仮に言う。

生命(いのち)の本質の栄えのことを思わず、外面の虚栄に心を奪われ、
五官の快楽のことにのみ心を引かれて悪しき者と交わるならば、
その人は人生で一番大切なものを見失う時が来る。

かく言えばとて、
決して一日中一室に閉じ籠っている憂鬱な友達を選べという意味ではない。

明るく生きることは人生の一つの美徳である。
強く生きることも一つの美徳である。
大きく生きることはさらにまたもう一つの美徳である。

何物をも包容しつつ、強く大きくしっかりと
生命(せいめい)の大地を踏みしめて行くことは常によい。

外面(がいめん)の虚栄や五官の快楽には
強さがなく、大いさがなく、広さがなく、包容性がなく、
それが常に狭く個人的なものになりたがるから低卑なのである。

孤独ということも、それが個人的なかぎりにおいては
人の生長を害(そこな)うものである。

・・・

<関連>

(1)伝統板・第二「真理の生活 ①」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6971129

(2)伝統板・第二「真理の生活 ②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7583747

(3)伝統板・第二「真理の生活 ③」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7707100

(4)伝統板・第二「真理の生活 ④」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7796617

(5)伝統板・第二「真理の生活 ⑤」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7854421

(6)伝統板・第二「真理の生活 ⑥」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7934282

(7)伝統板・第二「真理の生活 ⑦」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7988886

(8)伝統板・第二「真理の生活 ⑧」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8016563

          <感謝合掌 令和3年1月30日 頓首再拝>

時処相応の真善美の生活 - 伝統

2021/01/31 (Sun) 02:29:43


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月31日)より

事件に巻き込まれてはならない。
また時処(じしょ)に超然としてもならない。
生命(せいめい)は時処を超越しながら時処の中に美しき華を開く。

「真(しん)」は時空の外に超越している存在であるが、
「善」と「美」とは真(しん)が時処(じしょ)相応(そうおう)を得たときにあらわれる。

「二二ンガ四」は「真(しん)」であるが、「三三ンガ九」が必要な時処(ときところ)に
「二二ンガ四」が出て来たのでは時処相応でないということでそれは悪である。

数理の「真(しん)」の世界には無限の数の組合せがあるが、
そのうちで時処相応はただ一つである。

生命(せいめい)の「真」の世界においても無数の生命(せいめい)の行き方があるが、
その中で、ただ一つだけ「時処相応」がある。

常に「時処相応」の生活をしている人は生活の名人である。
われわれはこの生活の名人になるべく常に心がけたいものである。

常に神の叡智の導きに耳を傾けよ。
そこから本当の時処相応の真善美の生活が顕われてくるのであろう。

        <感謝合掌 令和3年1月31日 頓首再拝>

心朗らかに、日に日に進歩する - 伝統

2021/02/02 (Tue) 02:42:33


           *「光明道中記」(1月30日《美点を見る日》)より

【憂欝になって来た時哄笑(こうしょう)を爆発させよ、
 之(これ)が健康と若さを保つ秘法である。(『生命の實相』第十一巻)】

心朗かになる道は、世の中に悪と云うものが
決して存在せぬことを根本に知ることである。
一局部だけを見ずに大局を見る。
短かい眼を以て見ずに長い眼を以て見ることである。

冬のうちに春の兆(きざ)していることを知ることである。
陰極は必ず陽転することを知ることである。


心朗かになる道はすべての人を赦すことである。
憎しみを放ち去ること、憤(いきどお)りを含まぬこと。
すべての人の美点を見ること。

相手の立場に自分を置いて考えること。
気にくわぬことは忘れること。
呟(つぶや)かぬこと。罵(ののし)らぬこと。

みずから立ちて我れに無限力ありと思い返すこと。
他と協力するのは好いが、こちらが弱者的角度から同情を請わぬこと。

人生の戦いはその人の執(と)る生活の角度で最初にきまるのである。

負ける人は常に負ける角度から出発し、既に負けているかの如く呟き、
既に負けているかの如く左顧右眄(さこ うべん)し、
既に負けているかの如く人に依頼し、依頼心を裏切られたと言って
嘆き悲しみ呪い呟く。

呟くひまに、呪うひまに、悲しむひまに、嘆くひまに、
日に日に進歩する者はついに勝利するものである。

        <感謝合掌 令和3年2月2日 頓首再拝>

《あまり人の欠点を見てはなりません》 - 伝統

2021/02/03 (Wed) 04:35:56


          *「真理」第9巻生活篇(P13)より

ユーモアは好いが、人の欠点を見てはなりません。
漫画のユーモア的な部分はよいが、欠点や灸所を衝いて嘲笑するような
性格を、若し子供に養成するようになると可(い)けません。

多くの智能すぐれた人たちが、その智能の優秀にも拘わらず、
社会の下積みになって一生をすごすようになっているのは、
あまりに人の欠点に気がつき過ぎ、人の欠点を指摘し過ぎるために
周囲の人から嫌われてその優秀な智能も用いられなくなる結果であります。

他(た)の欠点を指摘する者はみずからも欠点を指摘せられ、
人の暗いところを見る者は自分も暗いところへ陥れられるのであります。

吾々は神がすべての人の罪を見たまわない如く、
すべての人の欠点と罪とを視ないで、その「内在の完全なる神性」を
心で見詰めるようにしなければなりません。

        <感謝合掌 令和3年2月3日 頓首再拝>

《自分の立場を捨てること》 - 伝統

2021/02/05 (Fri) 02:15:11


           *「光明法語」(2月5日)より

自分の立場だけを考えては可かぬ。
人には色々の立場があり、その立場に立って思い、考え、
感じ、悲しみ、苦しみ、喜んでいるのである。

彼の立場に立って同喜同悲してやるのでなければ本当に愛深いという事は出来ぬ。
愛とは自分の立場に立たず、彼の立場に立って、彼のために考えてやることである。

「汝みずからの如く汝の隣人を愛せよ」とのイエスの聖訓はまさにこの事に他ならない。

『甘露の法雨』を読んでも神想観をしても治らぬ病人で
「自分の立場を捨てよ、頑固に自分を主張する心を捨てよ」と
教えられて治った人もある。

        <感謝合掌 令和3年2月5日 頓首再拝>

【自尊心をちょっとどこかへ隠す】 - 伝統

2021/02/10 (Wed) 03:08:34


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2019.02.20)より

   (宇野千代氏の心に響く言葉より…)

   誰の心の中にも、自尊心と言うものは隠れている。
   この自尊心があるために、人と人との関係が、
   何となく、ぎくしゃくすることがある。


   自尊心と言うものが隠れている間は、何事も起こらないのに、
   一たび、ちょっとでも頭をもたげて来ると、面倒なことが起こる。

   そのことを知っている人は、
   そのとき、ちょっと自分の自尊心をよそへ持って行く。

   人の眼につかないところへ、隠しておく。


   自尊心なんか持っていなかったような振りをする。

   それに巧(うま)く成功すると、人と人との間には、案外、何事も起こらない。

   自尊心をちょっとどこかへ隠す、と言うのは、
   何と言う便利なことであろうか。

           <『幸福は幸福を呼ぶ』集英社文庫>

        ・・・

哲学者の森信三氏にこんな言葉がある。

『そもそも一人の人間が、その人の真価より、
はるかに低い地位に置かれていながら それに対して
毫(ごう)も不満の意を表さず、忠実にその任を果たす
というのが、 この「下座行(げざぎょう)」の真の起源と思われる』

『下座行とは、一応、社会的な上下階層の差を超えることを、
体をもって身に体する「行」といえる。

例えば「高慢」というがごとき情念は、
自分の実力を真価以上に考えるところから生じる情念といってよかろうが、
もしその人に、何らかの程度でこの「下座行」的な体験があったとしたら、
その人は恐らく、高慢に陥ることを免れうるのではあるまいか。

人の師たる人はとりわけ、この下座の体験者であり、
下座の行者であることが、 何より大事なことであることだけは、
このわたくしにも納得せられます』


『「どうして先生は隠れた真人の発見者であり発掘者で
いらっしゃるのですか」という問いに対して、

「それは舞台に立ってから眺めておるとわからぬのです。
同じ平面の平土間に立つと、よくものが見えるのです」
とおっしゃられました』(師教を仰ぐ・森先生に導かれて)より


「俺は(私は)こんなもんじゃない」
「なぜもっと偶されないのだ」と、
自尊心や高慢な心が芽生えたときに必要なのが「下座の心」。

神はしばしば、この「下座の心」を試される。


瑞巌(ずいがん)和尚は、
毎日自分に向かって「主人公」と呼びかけ、
自分で「ハイ」と返事をしていたという。

「はっきりと目を醒ましているか」「ハイ」

「これから先も人にだまされるなよ」「ハイ」


『自尊心をちょっとどこかへ隠す』

瑞巌和尚にならい、自分に毎日呼びかけてみる…

「今、偉そうにしていないか?」と。


下座行の実践をしたい。

        <感謝合掌 令和3年2月10日 頓首再拝>

原因を自分に反照して自分自身を浄(きよ)める生活 - 伝統

2021/02/11 (Thu) 04:54:17


        *「光明道中記」(2月11日《責任を喜ぶ日)より

【罪を他に帰するは、自分を土偶(でく)人形にすることである。
                     (『生命の實相』第二巻)】

責任回避は生長の家の生き方とは大凡(おおよそ)反対のものである。
宗教的生活とは、すべての結果に対して
其の原因を自分に反照して自分自身を浄(きよ)める生活である。

自分が若し他から害を受けたことを承認するならば、
それは既に自己が弱者であることを自己確認したのである。

そして自己が弱者であることを自己確認する位ならば、
他から害を受けたことに就いて呟くことなかれ。

弱き者は結局他から害を受けるほかはないのであるからである。
若し汝が弱者であるならば、原因を他動的なものに帰してはならない。
若し自身が不幸であるならば、
自己を傷つけたものは自分のほかにないと自分自身に語れ。

いずれにしても他を恨み、他を憤(おこ)るべき理由は一つもないのである。
最大の優強者は自己を以て宇宙の一切の事物に責任ある者だ
と自覚を持つ聖者である。

世の中の人々が、まだ全部、光明思想によって救われ切らないのは、
自分の罪だと私は言いたい。

        <感謝合掌 令和3年2月11日 頓首再拝>

《後ろから卑怯に斬るな》 - 伝統

2021/02/12 (Fri) 04:50:37


           *「光明法語」(2月12日)より

本人のいない前で悪口を言うのは実に卑怯な行為である。
若し相手が悪いのならば本人に直言すべきである。

若し相手に悪がないのに虚構して悪口するのであれば尚一層卑怯である。
誰も警戒していないのに後ろからバッサリやるのは昔から“悪ざむらい”の所行である。
本人のいないところで悪口言うのは後方からバッサリ斬るのと同じことだ。

そんな行為は常に自分と神との間を遮断するものなのである。

そんなことは愛深き神の波長と会わないのである。

幸福になろうとする者は人の美点を賞めることから始めよ。

        <感謝合掌 令和3年2月12日 頓首再拝>

《あなたの現状を改善するには》 - 伝統

2021/02/13 (Sat) 04:54:49


          *「真理」第9巻生活篇第5章(P130~131)より

肉体にせよ、環境にせよ、
あなたの現在の状態を改善する唯一の最も確実な道は、
あなたが正しき「神」を深く「知る」と云うことです。

単に脳髄で知るだけでなく、潜在意識の底の底までも「知る」ことです。
それにはどうしても神想観を熱心にはげむより道はないのです。

神想観をする度毎(たびごと)に、(現象は如何にともあれ)魂は清まりつつあり、
内在する神性が多少なりとも一層ハッキリ顕(あらわ)れて来るのですから、
それと共に現象界も良い方向に変化してくるのです。

時として、今までの妄念の自壊作用の反映として
現象界にただならぬ騒乱が起こってくることがありましても、
それに対して恐怖不安の念を起こさず「これを転機として一層よくなる」と
信じて更に神想観を熱心につづけますと、危機は去り、
現象界も自然に整って来るのです。

それでもなお現象界が整なわねば自己反省して
自分の心の中に残っている利己心を捨てなさい。

        <感謝合掌 令和3年2月13日 頓首再拝>

《人を勇気づけてあげることは素晴らしい美徳である》 - 伝統

2021/02/16 (Tue) 06:30:49


          *「眞理」第2巻基礎編第4章(P108)より

失意に沈む人を鼓舞し勇気づけることは、
たしかに大いなる功徳であり、施しである。

人を助けるのは必ずしも「物」によるわけではない。

「物」によって支えなければならない
最後のギリギリの窮境に立っている人もいるが、

それ以外の場合に於ては「物」を与えるよりも、
「物」を得る力となるべき精神力を与える方が、
尚一層功徳になるものなのである。

人が悲観している時に、単に「大丈夫ですよ。きっとうまく事件は展開しますよ」
と楽観的な言葉を投げかけてあげるだけでも、

その人の心を引き立て、心が引き立って来ると、
よい考えが浮んで来、よい考えが浮んで来ると、
行き詰まっていた問題が自然に解決されることになるのである。

「だって、あんたには才能があるんですもの。悲観しては可(い)けないわ」

        <感謝合掌 令和3年2月16日 頓首再拝>

《陽気とユーモアとは人生に油を差す》 - 伝統

2021/02/19 (Fri) 04:56:27


      *「眞理」第2巻基礎編第4章(P108~109)より

漫才や落語や、ラジオの「陽気な喫茶店」などに人気があるのは、
諧謔(かいぎゃく)や、オドケや、ユーモアや、
たといそれがクスグリ笑いにしても、

陽気さと笑いとが人間の精神の緊張の間に、
ある種の弛緩と休養を与えるものとして
求められていることをあらわしているのである。

ユーモアを解し、ユーモアを話す能力は、
単に社交上にそれが必要であるばかりではなく、家庭を明るくし、
自分自身の憂鬱を吹きとばしてしまうためにも必要なのである。

それは人生にうるおいを与え、四角四面な世界を円(まろ)やかならしめ、
摩擦の多い人生に油を差すことになるのである。

それは心の過度の緊張をやわらげる特効剤である。
その話の内容があまりに低いからとて軽蔑してはならないのである。

        <感謝合掌 令和3年2月19日 頓首再拝>

凋落の兆し - 伝統

2021/02/20 (Sat) 04:33:03


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月20日)」より

伸びることを忘れた時に凋落が始まる。樹木を見て、その真理を悟れ。

・・・

<参照>Web

伊勢ー白山 道(2021-01-19)
永遠の途中状態を楽しめることが悟り
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/84c7b3be99c1d3270a3ede36ae91bc05

           <感謝合掌 令和3年2月20日 頓首再拝>

常に穏やかな心で、穏やかな言葉で - 伝統

2021/02/21 (Sun) 02:44:38


           *『白鳩』(昭和39年7月号)より

周囲のちよいとした刺戟に対して直ぐに腹を立てたり、
鋭い激しい言葉で応答するのは、その人の魂が練れていない証拠である。


私たちは毎日の神想観中に、自分が “神の子” たるにふさわしく、
如何なる時にも 心の平和を失わないで、最も適当な処置を、
その時、その場、その人に対して行い得るように、

神想観中に、明確な智慧と、温かい愛情とを神から授けられるように祈り、
そのような智慧と愛とに既に満たされている自己を心に描いて
瞑想するようにしなければならない。

そのような瞑想を私たちが毎日つづけるとき、
私たちは常に穏やかな心で、穏やかな言葉で、どんな環境にも対処することが
できるようになり、自己の周囲に天国浄土が実現するのである。

誰かがあなたに損害を与えたとき、またあなたの権利を侵害したとき、
またあなたに属するものを奪ったとかいう場合に、
あなたは昂奮したり、腹を立てたり、相手を呪ったりしてはならないのです。

自分の感情が顛倒していたら、その時行う行為は、
‘してはならない’顛倒〈さかさま〉の事を行うことになり、
結果は益々悪くなるばかりなのです。

自分に損害を与えた相手を祝福しなさい。 
その人がやはり “神の子” であって “悪い人” でない事を念じなさい。 
その人と “心の世界” に於いて既に調和している事を念じなさい。 

あなたが “心の世界” に於いて完全に一切の人と調和するとき、
あなたに損害を与える人は自然に消えてしまうのであります。

http://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p4.html
07/26/13


            <感謝合掌 令和3年2月21日 頓首再拝>

善念を貯え、愛念を蓄え、善行を積み、愛行を積む - 伝統

2021/02/22 (Mon) 05:00:57


       *「光明道中記」(2月22日《天の倉に貯える日》)より   

【有(も)たざる者は尚奪われ、有てる者は尚与えらる。
                    (「生命の實相」第十三巻)】

福田とは天の畑に蒔かれたる種子(たね)であり、
天の倉に貯えられたる善行である。

すべての祝福は斯くの如き種子、斯くの如き貯えを
先ず天の倉に有つことから始まるのである。

譬えをもって言えば、若し貧しき人が商売をして成功しようと思うならば、
商売をするための資本を少しでも先ず貯えることが必要である。

それと同じく「己(おの)が運命の貧しさを嘆け」と言われるほどの
不幸不運な人ならば、その人は天の倉に貯えられたる自分の資本(福田)が
少しもないことを現しているのであるから、

その人が自己の運命を改善しようと思うならば、
先ずどんな手段を尽してでも恰も貧しき人が
資本を積むが如く、福田を積むようにしなければならぬ。

貧しき人が資本を貯えるのにどうするか。
彼は自分の食を節し、衣を節し、少しでもそれを資本の形で貯蔵しようとする。

それと同じく「運命の貧しき人」も、その貧しき運命の中にいて、
善念を貯え、愛念を蓄え、善行を積み、愛行を積むようにしなければならぬ。

貧しき農夫が明日の事を思い煩(わずら)っている時、
その最後の食事を鵞鳥に恵んでやった時、
明日の朝からその鵞鳥(がちょう)が黄金の卵を生むようになったと、
西洋の寓話は語るのである。

            <感謝合掌 令和3年2月22日 頓首再拝>

“本当に知る” ことは実行することである - 伝統

2021/02/25 (Thu) 01:31:43


          *『白鳩』(昭和46年11月号)より

自分が “神の子” であり、 “霊的実在” であるということを悟った
と思っていても、まだ本当に悟っていない人が多いのである。

それは、その人が肉眼で真理の本を読み、 脳髄で、 
その真理の本に書いてある 『人間は “神の子” で霊的実在である』 
という文字の意味を知ったというだけのことである。 

それは 『殺人』 のことをかいてある新聞記事を彼が読んでも
彼自身が 『殺人者』 でないのと同じく、

人間・神の子の真理を読んだだけでは、
彼はまだ “神の子” にはなっていないのである。

彼が本当に殺人者となるために、殺人の記事を読んでそれを理解しただけでは駄目で、
本当に自分が人を殺さねば 『殺人者』 になれないのと同じように、

彼がただ真理の本に 『人間は神の子』 だという説明文を読んでわかっただけでは、
まだ “神の子” にはなれていないのである。

彼が本当に “神の子” になるには、真理の本を読むだけでは足りないので、 
“神の子” を実践しなければならないのである。 

神は愛であるから、その人が “神の子” になるためには、
人を助ける “愛行” を実践しなければならないのである。

“愛行” の出来ない限り、 “神の子” という説明文をいくら読んでも、
彼はまだ “神の子” になっていない ―― 換言すれば、
まだ “神の子” たる實相があらわれていないのである。

            <感謝合掌 令和3年2月25日 頓首再拝>

《「神の子」の自覚を以て悠々闊歩せよ》 - 伝統

2021/02/26 (Fri) 03:18:49


          *「眞理」第2巻基礎篇第1章(P24~25)より

何故、あなたはそんなに侏儒(こびと)のように
小さく屈(かが)み込んでいるのですか。
何故仔犬(こいぬ)のように小さく這(は)いつくばっているのですか。

あなたは神の子ではありませんか。

何故もっと胸を反(そ)らして堂々と人生を闊歩しないのですか。
何故そんなに不健康で我慢しているのですか。
何故そんなに不景気な顔をしているのですか。

それは貴方の精神が神の子だと云う事を自覚しないからなのです。

凡(すべ)ての不幸と弱小と不調和と不健全とを吹き飛ばすところの
最大の妙薬は「人間は神の子」だと云う自覚なのです。

この自覚のためには一文も費用はいらないのです。
何の儀式も要らないのです。
改宗することも要らないのです。

ただ真理を知れば好いのです。

「真理は汝を自由ならしめん」であります。

            <感謝合掌 令和3年2月26日 頓首再拝>

《自分を見苦しく広告してはならない》 - 伝統

2021/02/27 (Sat) 04:51:15


           *「光明法語」(2月27日)より

吾々の生活は一言一行が広告である。

それは「此処にこんな人がいる」と云うことを
広告して歩いているのだからである。

怒りっぽい人は「此処にこんな怒りっぽい下らない人間がいる」
と広告をしているのだし、

ニコニコした人は「此処にこんなニコニコした人がいる」と
広告しているのである。

膨れっ面は、不平な人を広告しているし、
泣き面は悲しい心持を広告しているのである。

何のために諸君はそんなに自分の見苦しい面ばかりを広告してあるくのか。
それは人生を見苦しくし、諸君自身の値打を下げる。

            <感謝合掌 令和3年2月27日 頓首再拝>

自己の使命感を生かせ - 伝統

2021/03/02 (Tue) 02:49:53


           *「光明法語」(3月2日)より

或る有名な音楽家のところへ一人の娘がたずねて来て、
どうしたら自分は早くラジオに出られるようになりますか。
オペラのシンガーになることが出来ますかとたずねた。

その有名な音楽家は答えた。

「どんな天才でもそのような気持ちで天才を伸ばすことは出来ません。
歌手が歌手として成功するためにはどんな苦労をしてでも歌を立派に歌いたい
と云うような一念にならねばなりません。

かくて其の一念不動の決意によって音楽が自分自身をさえも
魅するような上手さに達した時他の人々をも魅することが出来るのである」と。

            <感謝合掌 令和3年3月2日 頓首再拝>

使命感と天分を目的とせよ  - 伝統

2021/03/03 (Wed) 04:41:13


           *「光明法語」(3月3日)より

名声や金儲けを目的にしているのは本道(ほんみち)ではない。
それは天分のない証拠だと言えるのである。

私が早稲田の文科にいたとき、その分科が甲クラス乙クラスとに分かれて、
乙クラスは専門に文学のみを修業して中等学校の英語教師たる資格を抛棄(ほうき)する。

甲クラスは若し文学で飯が食えねば
英語教師に無試験検定でなれる資格を保留することにしたのである。

その時、乙クラスにみずから進んで入学をした者は僅か数名だったが、
彼らは文壇でとも角有名人になった。

西条八十、木村毅、細田民樹、細田源吾、鷲尾雨工・・・・・等々。

            <感謝合掌 令和3年3月3日 頓首再拝>

《生き甲斐を感ずるには》 - 伝統

2021/03/04 (Thu) 06:50:37


        *『真理』第九巻生活篇(P264~265)より

吾々が行使し得るすべての力は、唯(ただ)神からのみ来るのである。
神方来った力を、神の目的を実現する道に使ってのみ、
本当の目的に、その力を使うことになる。

神の目的に使わなければならない力を利己的行為や、心配や、取越し苦労や、
色々神に反することに使うから、神から豊かに自由に流れ入って来る
悦びを感ずることができないのである。

そして、人生に退屈し、生き甲斐が感じとられなくなり、
前途に希望を失い、所謂(いわゆ)る「四十八歳の抵抗」などと
云うものを感ずるようになるのである。

「自分」と云う小さい乗り物にのってコツコツ進んで行くから、
前進もおそいし、希望もなくなり、退屈を感ずることになるのであるが、
「自分」と云う小さな乗り物を捨て、「神」と云う大きな「乗り物」に
のって、その高速強力な疾走力で生命(せいめい)がドライブすれば、
人生に悦びと生き甲斐が感じられるとこと請合いである。

            <感謝合掌 令和3年3月4日 頓首再拝>

一事を見て万事を判断してはならぬ - 伝統

2021/03/06 (Sat) 04:50:30


           *「光明法語」(3月6日)より

霊的の事物は霊的に理解してのみ其の真実意を汲み取ることが出来るのである。

だから自分が霊的に発達した程度に随って、
聖書でも仏典でも本当に理解することが出来るのである。
生長の家の教えも同じことである。

郡盲象を評するような調子で、色々に理解したり批評したりしているけれども、
象には耳もあり、牙もあり、脚もあり、胴体もある。

牙に触れたものは猛獣だと思うかも知れないが、実は至極おとなしい動物であり、
その象牙も彫刻すれば素晴らしい価値が出て来る。

            <感謝合掌 令和3年3月6日 頓首再拝>

悪事を断ち切る - 伝統

2021/03/07 (Sun) 04:08:35


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月7日)」より

悪事はさらに悪事を生む。
善事はさらに善事を生む。

幸福者とは悪事を未だ犯さなかった人のことではない。
悪事が次に悪事を招(よ)ぶのを断ち切ることのできた人だ。

悪事を断ち切る道は、この悪事をしているのは本当の「私」でないと知ること。
そして本当の「私」でない者に、今日かぎり断じて加勢しないと決心することにある。

            <感謝合掌 令和3年3月7日 頓首再拝>

自己弁護する自分は「本物の自己でない」 - 伝統

2021/03/08 (Mon) 03:08:07


        *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月8日)」より

自己弁護をする者は、まだ本当に真理を求めているものではない。

「本当の自己」は常に昭々として輝いており、弁護してかろうじて
その尊厳の保たれるようなさもしい存在ではない。

弁護しなければならぬような自己は、
ただその「弁護しなければ尊厳が保てぬ」という理由だけで
「本物の自己でない」ことを証明している。

            <感謝合掌 令和3年3月8日 頓首再拝>

《本当の勝利とはこんなものです》 - 伝統

2021/03/09 (Tue) 02:57:31


       *「真理」第9巻生活篇第3章(P72)より

イエス・キリストは「吾れ世に勝てり」と申されました。
イエスの勝利は愛の勝利であり永遠の勝利であり、
時間の経つに従って益々その勝利は明らかになるような勝利でした。

ナポレオンやヒトラーの勝利は一時(じ)は眼も眩(まばゆ)い勝利で
ありましたけれども、それは暴力による勝利でありましたから、
間もなくそれは敗北に変わったのであります。

多くの戦勝者は武力によって勝利を得ましたけれども
「愛」は武力しようとする心に対して勝利するのであります。

暴力はイエスの肉体を破壊することができましたけれども
「愛」を破壊することは出来ませんでした。

イエスを誘惑した悪魔は
「なんじ若し平伏して我を拝せば、此等を皆なんじに与えん」と言って
世の諸々の栄華を示しました。

物質的御利益を示す者はこの種の悪魔の《たぐい》です。

心を「物質」から「神」へ振り向けるのが本当の勝利であります。

            <感謝合掌 令和3年3月9日 頓首再拝>

《小さな事にクヨクヨするな》 - 伝統

2021/03/10 (Wed) 04:52:23


          *「眞理」第2巻基礎編第4章(P121)より

私達はどんな些細な自分のエネルギーでも、
それを無駄に費やしてはならないのである。

何故なら、それは自分の大切な「生命(いのち)」の一部分であるからである。

吾々の「生命エネルギー」は出来るだけ無駄を省いて蓄積し、
それを有数に使用することによって、能率多く仕事をなし得(え)、
そしてまた自分が長寿を得(う)る道ともなるのである。

普通の人の生活を見ていると、
孔(あな)だらけのバケツに水を汲んで置くような生活を送っているのである。

何ら自分の内に貯えられたるエネルギーが
有効に使用せられずして消えてしまっているのである。

気がつかないところの生命(せいめい)の浪費は「どうでも好い事」を、
さも大事であるかのように引っかかって小言を言い、
或いは歎き、或いは持ち越し苦労をすることである。

            <感謝合掌 令和3年3月10日 頓首再拝>

《清貧礼讃・受難礼讃に陥ってはならぬ》 - 伝統

2021/03/11 (Thu) 06:45:46


        *『人生の秘訣365章』第2篇(P64~65) より

自己を利すると共に必ず他(た)をも利する心をもって行動せよ。
自分の利益を拒絶する必要はない。

宇宙には「増加の法則」が貫いており、自己が成長し、
自分の財産が増加し、能力が増進し、智慧が益々発達するということは、
自己が宇宙にある「増加の法則」に乗ることであり、
宇宙にある法則に乗ることは、結局、神の御心に適うことであるからである。

富を罪悪視してはならない。
また貧乏を美徳のように思ってはならない。
それは受難礼讃という歪められた道徳観である。

自分が貧しいために、人に不快な思いをさせたり、人に厄介をかけたり、
人を救けることができなかったりするのはあまり褒めたことではない。

            <感謝合掌 令和3年3月11日 頓首再拝>

《今日一日、決して腹を立てないこと》 - 伝統

2021/03/12 (Fri) 02:14:22


        *『人生の秘訣365章』第3篇(P87) より

今日(きょう)一日次の如く決意せよ。

「今日(きょう)一日、如何なる人に対しても、如何なる事に対しても、
 私は決して怒ると云うことをしないのである。

 何故(なぜ)なら、すべての人は“善き人”であり、
 悪しき行為を自分に対して行うかの如く見えても、
 それは却ってやがて自分にとって善き事となる準備工作を
 してくれつつあると知るからである。

 たとい彼に過ちがあろうとも神が私の過ちを赦し給うが如く、
 私も彼の過ちを赦すのである。

 すべて自分の身辺に於いて起る出来事は、
 自分の心の波長が引寄せたものであるから、
 自分の『心の影』だとも言い得るのである。

 だから私は彼が私に何を為そうとも彼を譴(とが)める資格はないのである。

 彼の状態は、私の心の状態を映し出した鏡のようなものであるから、
 鏡を見て自分の心を反照して、自分の心の持ち方をかえたら、
 彼の状態もおのずから善くなってくるに相違ないのである。」

            <感謝合掌 令和3年3月12日 頓首再拝>

《努力や克己の代価を払わずには立派な仕事は出来ぬ》 - 伝統

2021/03/13 (Sat) 04:55:23


        *『 生長の家 』(昭和24年3月28日の法語)より 

   何事に対しても、払っただけの代価にふさわしきものを得る
   ということは 真理である。

   諸君が懶(なま)けものの 「 だらしのない日常生活 」 を代
   償として支払いながら、生活戦場に於て
   勝利者としての優秀なる結果を得ることは 不可能である。

   秩序整然 と 健全なる生活を送るためには、
   それだけ 「 意志 」 や 「 努力 」 や 「 忍耐 」 や 「 克己 」 や
   如何なる誘惑にも屈しない所の 高貴なる節操の代価を払わなければならない。

   吾々がこれらの代価を払えば払うほど、
   吾々の獲得する成功の価値は高いのである。


    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/3f63c93b87a61146cf6b62391cc61790

            <感謝合掌 令和3年3月13日 頓首再拝>

隠れたる能力を引き出すには - 伝統

2021/03/14 (Sun) 02:25:26


      *「女性の幸福365章」(P239)より抜粋

真に自分が何であるかを知ることが
悟りの第一にして最後のものである。

あらゆる能力のうち、自分を知ることが、
最も微妙にして最高の能力である。

その次には、何を為す能力があるかを知ることが
第二の最高に次(つ)ぐ能力である。

何をなすべきかが分からないときには神想観をして、
静かに神なる全実在と自分との融合の境地において、

「神よ、私は何を為すべきか教え給え」

と念じてひたすら受身に素直に受ける気持で
心を澄(す)まして待つのである。

やがて啓示が来るであろう。

            <感謝合掌 令和3年3月14日 頓首再拝>

《軽蔑(けいべつ)する心だけが軽蔑さるべきである》 - 伝統

2021/03/15 (Mon) 04:03:35

       *『 生長の家 』(昭和25年4月20日の法語)より

   他(ひと)を軽蔑してはならないと同時に、
   自分自身を軽蔑してはならないのである。

   「 自己劣等観 」 が 凡ゆる罪悪の根源なのである。

   多くの罪人は 自分は まとものことでは生活できない
   という劣等観があるが故に罪を犯かしているのである。

   吾々はたとい失敗するとも、方向がまちがっていたと思えば
   直ちに光の方へすすめば好(よ)いのである。

   光は光を呼び、暗(やみ)は暗をよぶのである。
   過去に暗を歩いたことを悔(く)い悲しんで 暗の方ばかりを向いて
   ぐじぐじ呟(つぶや)いていても暗は消えないのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13834059.html  (消滅)

            <感謝合掌 令和3年3月15日 頓首再拝>

悟った人間ほど謙遜になる - 伝統

2021/03/16 (Tue) 02:02:37


        *『眞理』第3巻初學篇(P123~124)より

「本当の人間」 ―― 「霊の人間」が発達してまいりますと、
その人は「わたしは偉いぞ」などと云って偉がらなくなります。

それは自分が「神の子」であると云うことがわかって来ますから、
偉いのが当たり前ですから、それを云ったり、
見せびらかしたりする必要がなくなるからです。

「霊の人間」が生長して来ますと、
相手の人々も、皆、肉体のように見えていましても
「霊の人間」だと云うことがわかってまいりますから、
どの人をも尊び、おがむ心がわいて来るものなのであります。

だから皆の人々を拝んで、丁寧に深切に取扱いますから、
自分が傲慢になるなどと云うことはないのであります。

相手が乞食であっても、片輪であっても、人種がちがいましても、
病人でありましても、落第生でありましても、
それは外にあらわれたる形のことでありまして、

その内に、実相の人間(霊の人間、神の子たる人間)があることを
本当に見ることが出来ましたならば、
どんな人間でも尊敬することが出来、
丁寧深切にしてあげることが出来るのであります。

そして人に深切丁寧にしてあげるだけ、

その人に宿っている「神の子」が発現して、
だんだん其の人自身が立派になるのであります。

            <感謝合掌 令和3年3月16日 頓首再拝>

《いくら忙しくとも一つ一つ片付けよ》 - 伝統

2021/03/17 (Wed) 04:47:00


        *『 生長の家 』(昭和25年5月30日の法語)より

   人生に処して余りに多忙な生活を送っている場合には、
   凡ゆる方面の仕事が一時に殺到して来て、
   すべてのものを一時に成就せしめなければならない様な
   多忙な状態にかりたてられ、
   ともすると“いらいら”した気分になりがちである。

   こんな時ほど吾々は心を平和にしなければならない。
   千手観世音菩薩の千本の手があっても、
   心が一つのものにでも ひっかかると
   後の九百九十九本は役に立たなくなるのである。

   凡ゆる仕事に一時にとりかかるな。

   唯(ただ)一つの仕事と思いて一つ終って
   次に取りかかればいいのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132

            <感謝合掌 令和3年3月17日 頓首再拝>

人生を値切るなかれ! - 伝統

2021/03/18 (Thu) 06:35:34


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月18日)」より

人生は値切ってはなりませぬ。

対手(あいて)を値切るものは自分自身をも値切られる。

            <感謝合掌 令和3年3月18日 頓首再拝>

《全身心、全存在の革命を目指して》 - 伝統

2021/03/21 (Sun) 02:58:21

       *『 眞理 』第9巻 生活篇第11章 (P306~307)より

   「真理」の全貌を全身心をもって捉えるとはどうするのでしょうか。

   あなたの全想念全感情が、神の全想念全感情と直通し、
   あらゆる場合に於いて、あらゆる行動をとる場合に、
   神をそのままに思考し、神をそのままに計画し、
   神をそのままに感情を動かし得ると云う状態になることであります。

   これは中々重大なあなたの全存在の革命です。
   この全存在の革命が成し遂げられていなければ、
   あなたは本当に救われているとは云えないのです。

   これはあなたの「存在」の春季大掃除どころではないのであります。
   それは、あなたの「全存在」と建造物の建替です。

   今までの「内についたる欲望(のぞみ)」
   「物質についたる願望(ねがい)」の
   一切を捨ててしまわなければならないのです。

   「病気を治してほしい」「金を儲けさせて欲しい」
   「自分の子供を入学させてほしい」と云うような一切の利己的ねがいを
   断ち切ることから出発するのです。

         (『 生長の家 』  昭和32年5月23日 初出)
 
            <感謝合掌 令和3年3月21日 頓首再拝> 

《自分の雰囲気をよくしましょう》 - 伝統

2021/03/23 (Tue) 03:51:44


        *「眞理」第2巻基礎篇第11章(P296~297)より

自分の肉体の顔がどんな顔をしているかと云うことは
誰でも知っている事であるけれども、

自分の心の顔がどんな顔をしているか
と云うことを知る人は少ない。

「心」と云うものは眼に見えないからである。

「心」どころか、肉体の方面でも、既に体臭となると、
自分がどんな体臭を放散しているか気がついている人は少ない。

ワキガの人はワキガの悪臭が自分自身にはわからないそうである。
体臭は眼に見えないからである。

眼に見えない自分の雰囲気 ―― それによって或る人には魅力があり、
或る人は、人にきらわれ、或る人は信望を得、ある人には威厳があり、
或る人には無限のなつかしさが感じられる。

雰囲気をよくすることが運命をよくする事の根本である。

            <感謝合掌 令和3年3月23日 頓首再拝> 

わたしは道であり、花びらであり、太陽であり、宝庫である - 伝統

2021/03/24 (Wed) 06:33:01


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月24日)」より

わたしの行くところに道がひらかれる。
わたしは道である。

わたしの行くところに花びらが撒かれる。
わたしは花びらである。

わたしの行くところに太陽が照り輝く、わたしは太陽である。

わたしの行くところに必ず宝庫が開かれる。
わたしは宝庫である。

この世の中が思うようにゆかないという人は、わたしと同じ心持になるがよい。
険(けわ)しきは平らかにせられ、難(かた)きは易しきに打ちかえられる。

            <感謝合掌 令和3年3月24日 頓首再拝>

《仕事に悦びを感ずるには》 - 伝統

2021/03/25 (Thu) 02:40:38


         *『 生長の家 』(昭和26年7月2日の法語より)

   人生が退屈であったり、無意義に見えたりするのは
   その人の愛が乏しいからである。

   愛して何事でも、愛のために行うならば
   自然と歓喜が湧(わ)いて来て 退屈であったり、
   無意義に感じたりする筈(はず)はないのである。

   仕事が退屈なのは、その仕事を経済的理由で自分の労力を
   切売(きりうり)するような気持でするからである。

   「 神様、あなたの愛をこの仕事を通して実現させて頂きます。
   有りがとうございます 」 と 感謝しながら仕事をするならば、
   決して仕事は退屈な重荷となって来ないのである。

   利己主義のところに真の悦(よろこ)びは 湧いて来る筈はない。
   神の愛を実現する処(ところ)にのみ 真の悦びは湧いて来るのである。


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/491a18692ccef688f441aca102a8e891

            <感謝合掌 令和3年3月25日 頓首再拝>

真理とともに立つ - 伝統

2021/03/27 (Sat) 02:34:13


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月27日)」より

ひとがなんとおん身を批評しようとも、
おん身は毅然として真理とともに立たねばならぬ。

おん身は真理がいっさいのよろこびの源泉であることを知らねばならぬ。

一等悪いことは眼先の他の批評に捉えられて、
真理の永遠の評価の前で無価値になってしまうことである。

            <感謝合掌 令和3年3月27日 頓首再拝>

《幸いなるかな、安全の水路のみを航するもの》 - 伝統

2021/03/28 (Sun) 04:56:59


        *『 理想世界 』(昭和42年7月12日の法語)より

   ある新しい船員が25年間、船長をしているベテランの海員に、

   「船長となって船を安全に航海させるには、どこにどんな浅瀬があるか、
   どこにどんな暗礁があるかを詳しく知って置かなければならないでしょうね」

   といって訊いたら、

   その船長は、

   「そんな事はありません。どの水路がいちばん深いかを知っていればよいのです。
   浅瀬や暗礁を探し廻っていたら自分の船は幾艘あっても足りません。
   吾々は、唯ふかいところだけを知って、その水路ばかりを航しておれば
   間違いないのです」

   と答えたのだという。

   つまらない経験を「一度は経験しておかなければならない」などとやっていると、
   暗礁にぶつかって自分の運命の船が破壊して沈没してしまうのである。

            http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6956412

            <感謝合掌 令和3年3月28日 頓首再拝>

《人のゴシップに同調してはならない》 - 伝統

2021/03/30 (Tue) 02:18:57


        *『人生の秘訣365章』第8篇(P235~236) より

人の悪しき事を語ること勿れ、また自分の悪しき事を語ること勿れ。

悪しきことは実在しないのである。
何故なら神は、悪しき事を造り給わないからである。

誰かが人の悪しき事を噂するとき、その噂に耳を傾けてはならない。
それに合槌を打ってはならないのである。

寧(むし)ろ悪しざまに言われているその人も”神の子”であり、
現象の姿は如何に悪しく見えようとも、それは仮の相(すがた)であって、

一時的に”心の波”が雲のように湧き起こって、
そんなように見えているに過ぎないのであって、雲は常住でないが如く、
その仮相(かりのすがた)も常住ではない。

常住の本当の相(すがた)は、あの人も”神の子”であるから、
完全円満であって、そのような悪い人ではないのであると思い返して、
その人の円満完全なる実相を心に想望し、
その人を心の中で祝福してあげるがよい。

            <感謝合掌 令和3年3月30日 頓首再拝>

尊敬こそ礼儀作法の根本である - 伝統

2021/03/31 (Wed) 04:55:17

 
         *『女の浄土』より

人を尊敬せよ。 
然らばまた自分も尊敬せられる。 

人を侮辱せよ、然らば、また自分も侮辱せられる。 
人に対して、“あしざま” に罵れば、自分もまた 
“あしざま” に罵り返されるのである。

礼儀は良き作法を身につけることであるのである。 
人に対して礼儀正しければ、人もまた自分に対して礼儀正しくなるのである。

 
しかし良き作法の根本は 『人を尊敬する心』 である。 
人を尊敬する心なくして、形ばかり礼儀をととのえても、
それは虚礼であり、偽善であり、
相手には本当に好感をもって受けとられないものである。

その人の精神雰囲気が相手に伝わって、
それが精神の伴わない虚礼であることを相手が感ずるからである。

 
若し人生から “良き作法” が消えてしまったら、
それは知識ばかり発達した 『動物の世界』 に堕してしまうであろう。 

ヤクザの中にも仁義があり、挨拶するときの作法があるのである。

家庭の中で家族互の生活にも儀礼を失ったとき、
子供は親に対する尊敬が消え、長幼の序が乱れ、
そこは人間の住む家でなくなり、動物が親子諸共雑居する単なる 
“動物の巣” になってしまうのである。

作法は茶の湯をたてるときだけが作法ではないのである。 
日常生活の一挙手一投足が作法にならなければならないのである。


            <感謝合掌 令和3年3月31日 頓首再拝>

与えられた以上に発展工夫する者は常に新しく、常に老いない - 伝統

2021/04/04 (Sun) 04:32:49


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月4日)」より

環境が彼の表現欲望を強いて抑えつけるならば、
人間は狂乱状態に陥るか、ヒステリーになるか、
生命(せいめい)が委縮して病気になるかする。

ロシアのある囚人の刑務の一つとして
終日2つのバケツに同じ水を交互に空(あ)けかえる仕事を課したときには、
その囚人は気が狂ったという。(ドストエフスキー『死人の家の記録』)

これは仕事が強制として課せられて
「自己自身の生命」を表現するなんらの道を与えられなかったからである。

またある精神病者は、
自己の好む仕事に熱心に従事せしむることによって治ったという。
彼はその「仕事」の中に「自己」を表現する道を見出したからである。

自己創造のない「仕事」は人類を窒息または狂死せしめ、
自己創造のある「仕事」は人類の生命を伸び伸びせしめ、
たえず自分に生気を吹き込み、たえず自分を若返らしめる。

「仕事」が面白くない人は、その仕事に自分の生命を打ち込まないからである。
自己創造をしないからである。いかなる仕事の中にも自己創造ができる。
仕事に愛を持つとき、愛は生み出す力であるから自己創造となる。

与えられただけの仕事のみをするところに自己創造はありえない。
仕事を愛して、与えられた以上にその仕事の発展のために工夫するところに
自己創造があるのである。

与えられただけの仕事だけしかしない人はロシアの囚人に甘んずる人である。
彼はただ生命を擦(す)り減らし、老いゆくのみである。
今ある立場において、与えられた以上に発展工夫する者は常に新しく、
常に老いない者である。

            <感謝合掌 令和3年4月4日 頓首再拝>

「わが来たれるは人に役(つか)われんがためなり」 - 伝統

2021/04/09 (Fri) 02:51:30


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月9日)」より

なんだか利用されているような気がするときに、
腹立つ人と、つまらなく感ずる人と、喜べる人とがある。

イエスは「わが来たれるは人に役(つか)われんがためなり」と言った。
彼は利用されることを喜びに感ずる人であったのである。

利用されること多きものほど尊ばれる。
利用する道のなくなったものを廃物という。

            <感謝合掌 令和3年4月8日 頓首再拝>

《業は連鎖反応を起こしてついに性格破産に導く》 - 伝統

2021/04/15 (Thu) 02:44:39


       *『 理想世界 』(昭和42年7月21日の法語)より

   諸君は現行憲法にどのように定められているにしても、
   「憲法が許しているから、ウソをついてもよい」などと甘いことを
   考えてはならないのである。

   最初の一つのウソが暴れたら困るというので、
   最初のウソを覆い隠すためにその人は次のウソを言う。
   そのウソを胡麻化すために、また次のウソを言う。

   こうしてその人はウソを告く業を重ねて、業の連(金偏の)の縛り
   の中で、本当の「良心の自由」を失ってしまって「ウソも方便、
   ウソをついても俺の良心はとがめない」などと空を嘯ぶく。

   これは最初のウソの行為が循環的に連鎖反応を起こして、
   ついに良心を麻痺せしめて、その人を性格破産に導く実例である。

   「良心の自由」ということは、そのような「どんなことでも正しいと思う
   自由がある」という意味ではないのである。

   そんなことをいう人は「良心の麻痺した人、良心が麻痺して自由を失った人」
   のことなのである。

            <感謝合掌 令和3年4月15日 頓首再拝>

《相手を自分の 「 好き 」 に強制してはならぬ》 - 伝統

2021/04/19 (Mon) 03:27:02


        *『 生長の家 』(昭和25年4月19日の法語)より

   相手が自分の思う儘(まま)にならないとて
   相手を自分の思うままにしようと思ってはならないのである。

   人間は神の子であり、神は無限であり、凡ゆる人間に
   それぞれ個性ある表現を求めていられるのである。

   自分を彼たらしむることはできないと同様に、
   彼を自分たらしむることもできないのである。

   彼が彼であることが神さまにとっての 栄(さかえ)であるのである。

   「 彼を私の思う通りにならせて下さい 」 と祈るな。

   彼が神さまの み心によって設計せられた通りの道を
   進むようにならせて下さいと祈る時、
   彼は本当に善き人となるのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13825964.html (消滅)

            <感謝合掌 令和3年4月19日 頓首再拝>

他人も自分自身も軽蔑してはならない - 伝統

2021/04/20 (Tue) 04:47:00


       *『 生長の家 』(昭和25年4月20日の法語)より
        ~《軽蔑(けいべつ)する心だけが軽蔑さるべきである》

   他(ひと)を軽蔑してはならないと同時に、
   自分自身を軽蔑してはならないのである。

   「 自己劣等観 」 が 凡ゆる罪悪の根源なのである。

   多くの罪人は 自分は まとものことでは生活できない
   という劣等観があるが故に罪を犯かしているのである。

   吾々はたとい失敗するとも、方向がまちがっていたと思えば
   直ちに光の方へすすめば好(よ)いのである。

   光は光を呼び、暗(やみ)は暗をよぶのである。
   過去に暗を歩いたことを悔(く)い悲しんで 暗の方ばかりを向いて
   ぐじぐじ呟(つぶや)いていても暗は消えないのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13834059.html (消滅)

            <感謝合掌 令和3年4月20日 頓首再拝>

《人の心の傷を突衝(つつ)くな》 - 伝統

2021/04/22 (Thu) 04:49:58


        *「光明法語」(4月22日)より

スター・デーリーはどんな強盗の首魁(しゅかい)でも
彼の名前を聞けば顫(ふる)え上がる程に、膽(きも)の据わった泥棒であった。

併し獄舎の中で大衆を相手に説教しようと演壇にたった時には、
その膽の据わりはどこへやら、ボーッとして周囲が見えなくなり、
一語も発する事が出来ない程に恐怖心を感じたのであった。

生命(いのち)の奪い合いでは恐れないデーリーが
演壇が恐ろしいのは臆病のせいであろうか。

時として人には到底克服出来ない
嫌悪や不快や恐怖をいだく心の傷があるものである。

そう云う心の傷は労ってやるべきで攻撃すべきではない。

            <感謝合掌 令和3年4月22日 頓首再拝>

【石を投げる資格があるのだろうか】 - 伝統

2021/04/26 (Mon) 04:33:34

 
         *メルマガ「人の心に灯をともす」(2021.02.23)より

   (元ノートルダム清心学園理事長、渡辺和子氏の心に響く言葉より…)

   「外見と心」、
   この二つも必ずしも相反するものではない。

   私たちは相手に見せることの出来ない心を、
   物で表し、態度で示し、言葉に表現して 相手に伝えようとする。

   これは、心と体を併せもつ人間の宿命といえる。

   キリストがお嫌いになったのは偽善であった。

   醜いものを内にもっていながら、もっていないかのように見せかけ、
   他人の弱さを糾弾するファリザイ人、偽善者たちに対して、

   キリストはあからさまに、その嫌悪を示された。


   ある日のこと、姦淫の現場を押さえられた女性が
   キリストの前に引き立てられてくる。

   モーゼの律法に従ってこの女を石打ちの刑に処すべきか、
   それとも憐みをかけて釈放すべきかと、
   ファリザイ人たちはキリストに、二者択一を迫る。

   釈放せよと言えば、神の掟をないがしろにする
   と責められるであろうし、

   石打ちにせよと言えば、日頃、罪人を赦せと説いている
   自らの訓えに背くことになる。

   この、絶対絶命の窮地を、
   キリストは相手の意表を突く返答で切り抜け、
 
   さらに、人間の行動に先立つ心、目に見ない思いこそ、
   裁かれるべきものであるということをものの見事に示されたのであった。


   「あなたたちの中で、
    罪のない人がまずこの女に石を投げなさい」

   キリストは、この女をどうするのかとの問いには答えず、
   石を投げる“資格”を相手に問いただしている。

   それに応えるかのように、石を投げることなく、
   一人去り、二人去って、残ったのは、
   女とキリストだけになった時、キリストは女に向かって、

   「私もあなたを罰しない。行きなさい。
    これからはもう罪をおかさないように」

   と言われたのであった。


   ただ一人、女に石を投げる資格をもっていたにもかかわらず、
   キリストは投げなかった。

   しかし、厳しく さとしている。

   「これからはもう罪をおかさないように」

   罪そのものに対しては厳しく、
   罪人に対しては、あくまでも優しいキリストであった。

   「私がいつも、この度のように、助けてやれるわけではないのだよ」

   と、きっとキリストのまざなしは語っていたことであろう。

        <『忘れかけていた大切なこと』PHP文庫
                  https://amzn.to/3qOmlly >

          ・・・

昨今、マスコミやSNSで芸能人や有名人の罪を必要以上に攻める傾向がある。

キリストの言うように、「我々の中で、罪のない人がいるだろうか?」。

自分のことをさておいて、人の罪ばかりをなじったり、
非難するのは、あまりに無責任すぎる。

他人事だとよけいに激しい言動になるのは、
マスコミやSNSの常だが、それにしても人を傷つける言葉が飛び交っている。


終戦直後、日本ではこんな事件があった。

1947年(昭和22年)10月、東京地方裁判所の
山口良忠判事(34歳)が、栄養失調のために死亡した。

法律違反の闇市で食料を買うことを拒否し、
正式な配給の食料だけで生きようとしたためだった。

山口判事本人は、闇市で食料を売ったり買ったりしている庶民を
「食糧管理法」違反で裁く立場にあったので、

法律を守る立場から、法律違反のヤミの食料に
手を出すわけにはいかないと考えた。

つまり、日本国民は当時、山口判事以外はすべて闇市で
食料を購入するという法律違反をしていたということだ。


現代でもそれは同じだ。

どんな小さなことであれ、法律違反を一度もせず、
人の道に反する道徳規範を破っていない、
と言いきれる人はひとりもいないだろう。


「裏を見せ 表を見せて 散るもみじ」という良寛さんの歌にあるように、

人は、善と悪、正と邪、真と偽、明と暗、陽と陰、実と虚、等々の「裏と表」を見せ、
それらを時によりさらけ出して生きている。

罪は厳しく問われるべきだが、
「そこから先は神の領域」なのかもしれない。


誰かを非難したくなったとき、我が胸に手を当てて自問したい…

人を裁く資格があるのだろうか、と。

            <感謝合掌 令和3年4月26日 頓首再拝>

《真理の言葉で心を訓練すること》 - 伝統

2021/04/28 (Wed) 04:47:25


         *『人生の秘訣365章』第10篇(P258~259) より

「人間は神の子である。それゆえに円満完全であり、不幸も病気もないのである」

これは真理である。

真理であっても、その真理に波長を合わせない限りは、
現象界にその真理の完全な相(すがた)は実現しないのである。

だから次にその真理を、暇ある毎に随時、口吟(くちずさ)むか、黙念するがよい。
又一定の時間には神想観を修して、この真理そのものに
化(な)り切ることが大切である。

言葉は心を動かす創造的力を有するから、このような真理を、
常に心のうちに又は発声音にて言葉に唱えるときには、
自分の心を訓練して、神への信仰心を深め、實相完全の真理に、
波長の合うよう、自分の心を鍛えることができるのである。

いくら人間の實相は完全であっても
心の波長が實相の真理に同調するよう訓練せられない限りは、
現象面に、實相の完全な相が投影して来ないことになるのである。

真理の言葉を繰返すことによって心を訓練せよ。

            <感謝合掌 令和3年4月28日 頓首再拝>

《謙(へりくだ)る者は高くあげられる》 - 伝統

2021/04/30 (Fri) 03:27:38


         *『 生長の家 』(昭和25年4月30日の法語)より

   凡ゆる美徳の中で 謙りが もっとも大なる美徳であることを知ったのである。
   謙るものは 高くあげられ、傲(おご)るものは 低くおとされるのである。

   吾は神の前に謙り、自分が空しきものであることを知り、
   神の前に自分の中にあるものは
   ただ神の力のみであることを告白するのである。

   神は 吾が力であり、吾が生命であり、吾が智慧であり、
   吾を 生かし給い、吾を導き給うのである。

   謙る時 大いなる力が 自分の中に天降ってくるのを感ずるのである。
   吾が力というものは 少しもないのである。

   吾 神の恵みに深く感謝するのである。

   今月一ぱい神さまが導き給いしことを感謝致します。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13864515.html (消滅)

            <感謝合掌 令和3年4月30日 頓首再拝>

名前
件名
メッセージ
画像
メールアドレス
URL
編集/削除キー (半角英数字のみで4~8文字)
プレビューする (投稿前に、内容をプレビューして確認できます)

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.