伝統板・第二 2550514

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恩 ③

1:伝統 :

2020/12/05 (Sat) 03:07:52

《忘恩の戒め》

      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月5日)より抜粋

恩を忘れてはならない。
恩を忘れる者は根を培わない樹木の枝のごとく、
一時(じ)は生け花のごとく美しくともやがては枯れてしまうのであろう。

人に深切をつくすのが、最善の宗教である。
ただ説教師になってはならないのである。

1日、1回以上、できるだけ自分の利益にも何にもならないことで、
純粋に他(ひと)のために尽くせ。
純粋で無我でつくすこと自体が神に通ずる祈りである。

無我の愛でささげたる奉仕は神の献(ささ)げたことになるのである。

自分の収入の2分(ぶ)ないし1割で、
自分の救われた教えを広めるために真理の小冊子を買って
無代進呈することは神に対する恩返しとなる。

与えただけが与え返されるのである。

・・・

<関連Web>

(1)光明掲示板・第一「恩 (4315)」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=824

(2)光明掲示板・第二「【恩】 (1250)」
    → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=303 (消滅)

   伝統板第二「恩」(光明掲示板・第ニ)
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7825689

(3)光明掲示板・第三「【恩】 (1733)」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=347

(4)光明掲示板・伝統・第一「【恩】 (59)」
    → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=38

(5)伝統板・第二「恩」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6458994

(6)伝統板・第二「恩②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7805105

           <感謝合掌 令和2年12月5日 頓首再拝>
2:伝統 :

2020/12/26 (Sat) 06:13:03


      <メルマガ「人の心に灯をともす」(2020.11.25)>
        ~寿司職人と「人情」

   (西南学院大学教授、山村英司氏の心に響く言葉より…)

   入門者向けの経済学の教科書では、
   「人は他人のことを気にしない」ことを前提にしている。

   つまり、自分のことだけを考えているのである。

   確かに、空気を読まずに自分のことだけを
   考えているように見える人は多くいる。


   しかし、実は他人の活躍に心の中で
   嫉妬心を募らせているのではないだろうか。

   三省堂の『新明解 国語辞典』によれば、

   人情は

   「人ならばだれでも持っているはずの、
    人間味を感じさせる心の働き」

   である。

   嫉妬心を募らせるのも、人情と言える。


   一方、人情によって取引がスムーズになされる場合もある。

   一人前の寿司職人になるためには下積み修行を
   10年ほど経験する必要があるという話をよく耳にする。

   起業家であるホリエモン(堀江貴文氏)は、
   このような「世間の常識」を批判する。

   ホリエモンの主張によれば、センスと経営能力さえあれば
   1年もしないうちにプロの寿司職人を養成できるという。


   経済学者からすると、ホリエモンの説に分があるように思えた。

   フランスのパリで寿司職人をしている友人に、
   どちらが正しいと思うか質問をしてみた。

   まずホリエモンの言い分に理解を示し、次のように回答した。

   「確かに、条件さえそろえば、技術的には可能」

   しかし、技術以外の2つの要素が重要だと言う。


   第1に、うまい寿司を作るには良いネタを仕入れる必要がある。

   ネタの良し悪しはネタが入ってくるまでわからない。
   さらに、良いネタを見分け、なるべく安く仕入れることが必要だ。

   経験がない人でも、
   センスが良い人は見分けることが可能かもしれない。

   しかし業者は良いネタを隠し持っていて、
   昔からの取引がある名店にしか売らないそうだ。

   要するに人間関係がモノを言うわけである。


   第2に、寿司職人にはコミュニケーション能力や話芸が求められる。

   とりわけ高級店に来てカウンターに座る客は、
   寿司を食すためだけに来ているわけではない。

   社会的にも一定の地位につき、人生の荒波を泳いできた客が
   来店する状況を想像すると良い。

   貫禄のある寿司好き紳士が、
   世間話や寿司のあれこれをネタにして話しかけてくるという。

   客がどのような人物なのかを観察しつつ、
   相手を楽しませ愉快にさせる受けこたえをする。

   なじみ客でも日によって機嫌の良し悪しがあるので、油断はならない。


   一方で、神経を集中させながら寿司という名の芸術品を作るのである。

   うまい寿司、そして愉快な会話も手品のように提供し、客を納得させる。

   これらすべてを身につけているのが「一人前の寿司職人」なのだ。

   寿司職人は寿司を作る芸術家であると同時に、
   経験に裏打ちされた「人情」のエキスパートなのだ。


   もう一度考えてみよう、
   20歳台の若者が50歳を過ぎた食通紳士の相手ができるのか?

   友人の結論は次の通りだ。

   「センスが良くても、10年近くかかるだろう」


   市場参加者が人間である以上、
   入門者向けの教科書には描かれない力学が働く。

   「人情」を知らねば現実経済は見えてこない。

   この要素を深く考えることができる者が「一人前の経済学者」である。

        <『義理と人情の経済学』東洋経済
              https://amzn.to/2UTvpXO >

            ・・・

山村氏は「義理」と「人情」についてこう記している。

『ハーバード大学の経済学者でジャッド・クレイマーという人がいる。

 2019年にネットニュースで、
 クレイマー氏が日本の恩人を探していると報じられた。

 14年ほど昔、高校時代の日本人クラスメートに会うため
 クレイマー氏は来日したという。

 旅行の最中に地震が発生し、仙台駅で足止めにあった。

 まだ高校卒業直後の貧乏旅行で、所持金はほとんどなく、
 泊まる場所のあてもない、日本語も全くわからない。

 クレイマー氏は怖さと心細さで途方にくれた。

 18歳のアメリカ青年に救いの手を差し伸べたのは
 「片腕がない仙台駅の30代くらいの駅員」だった。

 その駅員はクレイマー氏を近くのホステルに連れて行き、
 宿泊代を支払ってくれた。

 翌日になると切符の利用期限が切れていた。

 そのことを知った「片腕のない駅員」は新幹線の切符をくれた。

 この出来事はクレイマー氏の記憶に深く刻みつけられ、
 その後の人生にも大きな影響を与えた。

 日本語を学び、日本の文化を学び、いつの日か「片腕のない駅員」
 に「日本のやり方でお礼」を伝えたいという思いを持ちづづけてきた。

 2019年に来日したクレイマー氏は、仙台駅を訪れ
 「片腕がない駅員」を探したが、出会うことができなかった。

 しかし「お礼を伝える」ためにに今も「片腕がない駅員」を探し
 続けているという報道がなされ、クレイマー氏が帰国後、
 無事その駅員が見つかったという。

 おそらく二度と会うことがない外国の若者を助けるために
 コストを負担する日本の「駅員」。

 そして、「お礼を伝える」ことから経済的な見返りなどないとわかりながら、
 時間や労力というコストをかけて遠くアメリカから「駅員」を探す「経済学者」。

 いずれの行動も、通常の経済学では説明できない。

 クレイマー氏は、日本での体験や学習を通じて、
 日本的な「恩義」の意味を理解したのだろう。

 そして、「義理」を果たすために行動を起こした。 』


「かけた情けは水に流し、受けた恩は石に刻む」という言葉がある。

かけた情けを、「オレがやってやったんだぞ」などと、
いつまでも恩にきせるようではカッコ悪い。

しかし、受けた恩は絶対に忘れてはいけない。

それが義理人情に厚い人であり、一本筋の通った人だ。


義理と人情に厚い人でありたい。

           <感謝合掌 令和2年12月26日 頓首再拝>
3:伝統 :

2021/02/08 (Mon) 02:37:55


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月8日)」より

われわれを嬉しくし、楽しくし、悦ばせてくれるものは実に「恩」の感じである。
「恩」とは因(もと)の心と書くが、因を知る心である。

恩を感ずるとき、わたしたちは苦しみの中にも喜んで飛び込むことができるのは、
恩の感じは苦しみを「歓喜(かんき)」にかえる念(こころ)であるからである。
恩を感じるとき実際苦しみは歓びに変わるのである。

激しい皇恩を感ずるとき、弾丸(だんがん)雨飛(うひ)の中へ
わたしたちは歓声を挙げて跳び込みうるし、また弾丸があたっても痛まない。
感恩の念(ねん)は苦痛を歓喜にかえるからである。

痛みあり、苦しみがあるのは恩の感じ方が足りないからである。

皇恩に感謝せよ、汝の父母に感謝せよ、汝の夫または妻に感謝せよ、汝の子に感謝せよ。
汝の召使に感謝せよ。天地の万物(すべてのもの)に感謝せよ。
その感謝の念のうちにこそ汝はわが姿を見、わが救いを受けるであろうと
『生命の實相』の巻頭にある
―― 生長の家の教えを要約すれば、ただこの数句に尽きていると言ってもよいくらいである。

           <感謝合掌 令和3年2月8日 頓首再拝>
4:伝統 :

2021/02/23 (Tue) 02:30:21


           *「光明法語」(2月23日)より
           ~《神の祝福は又別の処から入(い)り来(きた)る 》

他に恩恵を施しても、その相手その人から恩返しを期待してはならぬ。
恩を受けねばならぬような人は、福田がまだ乏しいから
人の世話にならねばならぬのであるから、
そう急に恩返しの出来る訳でなない。

しかし宇宙は一体であるから、与えた相手から直接返還が来なくとも、
他から必ず返還が来るのである。

必ずしも出したところから、入れなければならぬと云うことがないのは、
人間の肛門と同じことである。

出すところで出してさえ置けば、
入るところから却って美味しいものが入って来るのである。

           <感謝合掌 令和3年2月23日 頓首再拝>
5:伝統 :

2021/03/28 (Sun) 04:45:12


       *メルマガ「人間力」(2021.03.27)より
           ~『致知』2014年8月号掲載記事   


バルセロナオリンピックで金メダルを獲得した
柔道家の古賀稔彦さんが2021年3月24日、
お亡くなりになりました。

様々な苦難、逆境に屈せず、
金メダルを獲得した姿は多くの人たちに感動と希望、
勇気を与え、引退後も指導者として多くの後進を育て上げられました。

古賀さんのご冥福をお祈りし、
弊誌にご登場された記事を配信させていただきます。

            ・・・

〈古賀〉

男子柔道71キロ級の日本代表として送り出された、
1988年のソウルオリンピックのこと。

20歳にして初の五輪切符を手にした私は、
優勝候補と目されていたのですが、蓋を開けてみれば3回戦でまさかの敗退。
あまりの悔しさにただ呆然として試合会場を後にしました。

日本に帰国すると、私を取り巻く環境が驚くほど一変していました。

成田空港から出発するまではマスコミで散々取り上げられ、
「頑張れ頑張れ」と声援を受けていた私が、
一転して誹謗中傷の的となったのです。

「古賀は世界で通用しない」「あいつの柔道はもう終わった」など、
なぜそんなことを言われなければいけないのかと
ただただ憤慨するばかりでした。

そして気づけば、私の周りからは潮が引くように誰もいなくなったのです。

自分はオリンピックの大舞台で負けて悔しい思いをしているのに、
なぜそのことを誰も理解しようとしてくれないのか。
もう人間なんて誰も信用できない。

この時、私は人間不信になってもおかしくないくらいに
激しく気持ちが落ち込み、とにかく人目につくのが怖くて、
自分の部屋に閉じこもりました。


そんなある日のこと、何気なくつけていたテレビの画面に、
オリンピックの総集編が流れ始めました。

番組では華々しく活躍する選手たちの映像とともに、
惨敗だった日本柔道の特集も組まれており、
3回戦で敗退した私の試合も映し出されます。

ところが次の瞬間、画面に釘づけになりました。

なぜなら私が試合に負けた直後、
カメラが観客席で応援していた両親を映したからです。

おもむろに立ち上がった両親は試合会場を背にすると、
日本から応援に駆けつけてくれていた人たちに向かって、
期待に応えられなかった私の代わりに深々と頭を下げていました。


もちろん、私にとって初めて見る光景です。

中学で親元を離れてひたすら柔道に打ち込み、
ほとんど顔を合わせることがなかっただけに、
久しぶりに見た両親が謝っている姿に私は大きなショックを受けました。


心の変化はそれにとどまりません。
いまの自分が無性に恥ずかしく思えてきたのです。

それまでは、「おれが練習して、おれが強くなって、
おれがオリンピックに行って、おれが負けて、
おれが一番悔しいんだ」と思っていました。

ところが両親の姿を見ているうちに、
闘っていたのは自分一人ではなかったことに気づかせてもらったのです。


すると驚いたことに次々と私をサポート、
応援してくれた人たちの顔が浮かんできました。

例えばオリンピックに向けて練習相手になってくれた仲間がいました。
彼らは自分たちが試合に出られないのに、
私のために何度も受け身を取ってくれました。

しかし、当時の自分はそれが当たり前のこととしか
受け止められませんでした。

また、たくさんの方からの声援や
心のこもったお手紙を何通も頂戴しましたが、
応援されることが当たり前と思える自分がいました。

ところがこうして少しずつ周りが見えてきたことで、
自分の後ろにはこんなにもたくさんの人たちが一緒に闘ってくれている、
だから安心して闘っていいのだと思えるようになったのです。


そしてこれを機に、それまでの自分が
嘘のように前向きになることができました。


もう両親に頭を下げさせてはいけない。
そして自分をサポート、応援してくれた人たちにも絶対喜んでもらいたい。

そのためにはオリンピックで負けたのだから、
次のオリンピックで金メダルを取って恩返ししよう。

この時に抱いたこの思いこそが、
4年後のバルセロナオリンピックにおいて、
怪我で苦しみながらも金メダルを獲得することができた大きな原動力になったのです。


また一方で、現役生活を長く続けていて感じたのは、
若い頃は強いからこそたくさん応援されるのですが、
年とともに結果が出せなくなると応援される場面がなくなってくるのです。

特にオリンピック出場の可能性がなくなる頃になると、なおのこと感じるものです。

ではそれでモチベーションが下がるかというと、
そんなことはありませんでした。

そもそも自分が自分の夢に向かって頑張るのは当たり前のことです。
これが社会人であればいくら夢に向かって頑張っていても、
そうそう他人から応援されることはないでしょう。

ところが競技をやっていると自分が知らない人からも応援してもらえます。
考えてみればこれは決して普通ではなく、
むしろ幸せなことと思える自分がいたのです。

ですから、現役を引退する最後の最後まで、
たとえたった一人の応援だったとしても
それがどれだけ励みになったか分かりません。

振り返れば本当に幸せな現役時代だったと思います。

「精力善用・自他共栄」

という柔道の祖・嘉納治五郎先生が残した言葉があります。

その意味を一言で表すと、人のお役に立ちなさいということでしょう。

現在、私は現役引退後に終(つい)の棲家(すみか)にするつもりで建てた町道場で、
子供から大人までを対象に柔道の指導にあたっています。

先の言葉は自分が指導者として拠って立つ軸となるものをつくろうと
考えていた時期に出合ったものでした。

「柔道は教育」とも嘉納先生はおっしゃっています。

柔道を学ぶことは、ただ勝って結果を出すことではなく、
人のお役に立つことを学ぶことである。

そのことを念頭に、
生徒一人ひとりを心の底から応援できる指導者を目指して、
生涯柔道の道を歩み続ける覚悟です。

・・・

<参照>

(1)強い心が幸運をもたらす(古賀稔彦選手の金メダル秘話)
   伝統板・第二「困難に戯れよ③」内~2019/04/28 (Sun) 04:43:14
   http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7662809

(2)Web「宇宙の兄弟たちへ」2021年3月24日
   柔道の古賀稔彦さん死去 前世等
   https://www.spacebrothers.jp/2021/03/blog-post_28.html

  ①彼は宇宙から来られた魂だという事です

   それで何か気になる方だったのだと思いますが、
   もとは地球ではない別な惑星に生きていた方が、
   地球に転生してきたかたです。

  ②古代の日本にもお生まれになられていて、
   どうも相撲の起源にあたるような事をされていたようです。

   古賀さんは古代の日本で部族を率いる長をされていたのでしょう。
   そして当時の相撲が得意であったようです。

           <感謝合掌 令和3年3月28日 頓首再拝>
6:伝統 :

2021/04/05 (Mon) 05:05:54


        *『 生長の家 』(昭和26年4月5日の法語)より

   人に恩を施して、心の中に恩に着せる心を持っている限り、
   相手は束縛せられた気持になって、
   こちらに対して恩を返さなくなり勝である。

   若(も)し恩を与えながら、恩に着せる心がなくなるならば、
   束縛されることなく、従って反撥(はんぱつ)心がなくなり、
   相手は正直に恩を受けていることを承認して
   却って恩を返すようになるものである。

   喜んで相手を助けて、
   あとは忘れてしまっているようなのが本当によいのである。

   相手が恩を返さないので、
   やむを得ず、恩返しされることをあきらめたのと、

   全然恩返しなどを期待しないで
   相手に与えたのとは 余程 相違があるのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12206004.html (消滅)

           <感謝合掌 令和3年4月5日 頓首再拝>
7:伝統 :

2021/04/18 (Sun) 04:44:58


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月18日)」より

たえず人に温熱を供給する太陽は熱が減ってだんだん貧弱になってしまうかと思えば、
事実は反対でいよいよますますその熱量が殖えてゆくのだと最近の天文学は教えている。

たえず人を饒益(にょうやく)し、たえず人に愛行を行なう人も
太陽のごとくますます自分が殖えるのである。

自分はこれだけ利益を貰ったから信心を止めようというような人があったら、
それは自分はもうこれだけ太陽から温熱を受け、太陽の熱というものはよく解ったから
太陽系統を去ろうと思うという地球のようなものである。

地球は太陽の恵みを解るために太陽系統に属しているのではない。
太陽系統を実践するために太陽系統に属しているのである。

今まで受けた温熱を次へ次へと送るので地上の万物は育つのである。
報恩とはかくのごときものである。報恩のあるところに万物は栄える。

            <感謝合掌 令和3年4月18日 頓首再拝>
8:伝統 :

2021/04/24 (Sat) 04:42:43


           *「光明道中記」(4月24日)より

【人間の本性は「愛」でありますから、
 「愛」を失ったときその人は自暴自棄に陥るのです。
                     (『生命の實相』第十七巻)】

もう一人私に伯母さんがある。
もう此の世にはいないが、好い伯母さんであって私を常に愛していて呉れた。

時々夫婦喧嘩をして逃れて私の家へ来たときなどには、
私は一ヶ月も二ヶ月も此の伯母さんと一緒の布団に寝たものである。

私が一緒に寝ないと言うと、
「伯母さんと一緒に寝たら一晩に1円ずつお小遣銭(こづかい)をあげましょう」
と言った。

私は買い食(ぐい)も何しない子だったので、その金を皆養母(はは)に渡した。
養母はそれを貯金して置いてくれた。ついにその1円ずつが貯蓄されて
三百幾十円かになったものである。
私の大学での費用の一部は此の貯金で賄(まかな)われた。

此の伯母さんは家庭は裕福であったが、
良人は裕福なその「金」を人生のためになる方向に使わず、よく酒ばかり飲んでいた。

従って伯母さんは仏の道に志して四国八十八カ所を十幾度も遍路して
金の納札(おさめふだ)を納めたとか、西国三十三カ所を幾十回廻ったとか、
高野山にも毎年まいることを怠らなかった。

此の伯母さんには子がなかった。
此の伯母さんの唯一の希望は「私」であった。

最も大きな遺産は此の伯母さんが
私に神信心の福田を遺して置いてくれたことだと思う。

            <感謝合掌 令和3年4月24日 頓首再拝>
9:伝統 :

2021/06/08 (Tue) 04:34:02


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月8日)」より

恩を受けて返さない感じがしている間は人間は落ち着けぬ。
とり得の感じがしている間は落ちつけぬ。

恩を返したときの感じほど楽しい感じはない。
恩着せがましい態度に出られても、
どれだけでも無限に素直に恩を返しうる感じは無限のよろこびである。

もうこれだけ恩を返したらおしまいだという感じは卑怯な感じである。
恩を無限に感じ、そして無限に恩返しする力が滾々(こんこん)と湧いてゆく感じは
また格別である。

孝ならんと欲するところに父母はいまさずという諺(ことわざ)がある。
恩を返せる財力ができたときに恩人がいないことがある。

いつでも恩を返すことが必要である。
実力で恩を返す力がなくとも、感謝の心を起こすことそのことがすでに報恩である。

実力ができたとき、実力で恩を返す。
実力がまだ備わらないとき、感謝の心で恩を返す。

実力ができたときに恩人がもうこの地上にいないとしたら、
国のため世のためにつくすことによって恩を返すがよい。

自他は一体だから。

           <感謝合掌 令和3年6月8日 頓首再拝>
10:伝統 :

2021/12/05 (Sun) 04:49:45

      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月5日)より抜粋

恩を忘れてはならない。
恩を忘れる者は根を培わない樹木の枝のごとく、
一時(じ)は生け花のごとく美しくともやがては枯れてしまうのであろう。

人に深切をつくすのが、最善の宗教である。
ただ説教師になってはならないのである。

1日、1回以上、できるだけ自分の利益にも何にもならないことで、
純粋に他(ひと)のために尽くせ。
純粋で無我でつくすこと自体が神に通ずる祈りである。

無我の愛でささげたる奉仕は神に献(ささ)げたことになるのである。

自分の収入の2分(ぶ)ないし1割で、
自分の救われた教えを広めるために真理の小冊子を買って
無代進呈することは神に対する恩返しとなる。

与えただけが与え返されるのである。

           <感謝合掌 令和3年12月5日 頓首再拝>
11:伝統 :

2022/02/08 (Tue) 04:20:08


        *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月8日)」より

われわれを嬉しくし、楽しくし、悦ばせてくれるものは実に「恩」の感じである。
「恩」とは因(もと)の心と書くが、因を知る心である。

恩を感ずるとき、わたしたちは苦しみの中にも喜んで飛び込むことができるのは、
恩の感じは苦しみを「歓喜(かんき)」にかえる念(こころ)であるからである。
恩を感じるとき実際苦しみは歓びに変わるのである。

激しい皇恩を感ずるとき、弾丸(だんがん)雨飛(うひ)の中へわたしたちは歓声を挙げて
跳び込みうるし、また弾丸があたっても痛まない。
感恩の念(ねん)は苦痛を歓喜にかえるからである。

痛みあり、苦しみがあるのは恩の感じ方が足りないからである。

皇恩に感謝せよ、汝の父母に感謝せよ、
汝の夫または妻に感謝せよ、汝の子に感謝せよ。
汝の召使に感謝せよ。天地の万物(すべてのもの)に感謝せよ。
その感謝の念のうちにこそ汝はわが姿を見、わが救いを受けるであろう

と『生命の實相』の巻頭にある

―― 生長の家の教えを要約すれば、
ただこの数句に尽きていると言ってもよいくらいである。

           <感謝合掌 令和4年2月8日 頓首再拝>
12:伝統 :

2022/02/09 (Wed) 04:53:38


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月9日)」より

人間の深切にも物施と法施とがある。

物を与えることも時には必要であるが、
あまり物のみを与えすぎるとかえって依頼心を起こさせ、
貰うことが権利のような感恩のない状態にまで相手の心を荒(すさ)ませることがある。

物を与えるならば、《心もち》を添えて贈らなければならぬ。
紙に包み、水引を掛けるのは心持を添える方法の一つである。
人間は心もちによって生かされているのである。

機械的な「与え」の前には感恩の心は起こるものではない。

与える側からいうならば、物を贈るのに相手に感恩の心をを起こさせようと
思ってするのは不純ではあるが、相手の心を依頼心に満ちたり、
忘恩的な荒んだ心にまでならせないためには機械的な与え方をしてはならない。

勤務時間以上に働きをサービスする社員に、
上役が感謝して夜食をおごったりしてくれる場合には、
いかにも上役の好意が身に沁(し)みて感謝されるが、

規則によって夜勤手当というものを定(さだ)めて、
一定時間の夜勤をするする者には一定の夜勤料を支払うことに機械的に
定(き)めてしまうならば、もう誰も夜勤料をありがたく思わなくなるものである。

それどころか、時には夜勤料が少ないといって零(こぼ)すようにさえなりがちである。
与える悦びがなくなって、奪い足りないという不平に代わるのである。

生活に困っている失業者に仕事を紹介してやったら、
その当座は生命(いのち)を救(たす)けてもらったように感謝するが、
毎月月給を貰うということが機械的に度重なってくるならば、
もうぼつぼつ月給の不足を零しがちである。

感恩の心は機械的になるとしだいに薄れてくるのである。
子供の愛情に養われる老人は幸福であるが、
社会保障制度で養老院に養われる老人には前者ほどの喜びはない。

われわれは毎日空気を吸っているが、機械的に空気を供給されているがゆえに
ありがた味を感じない。われわれは太陽がなくては生きられない人間でありながら、
太陽は機械的に毎朝地平線から顔を出すから太陽のありがた味をさほど感じない。


しかし、これでよいだろうか。

目ざめて立て! 

わたしたちはあらゆる恩恵のうちに生きているのである。

ありがたさは物の分量にあるのではなく、心の《目ざめ》にある。
心の《目ざめ》ている人を悟っていると言う。

一かど悟っていると自負している人が常に不平を唱えているのは何を悟っているのか、
訊いてみたい。

           <感謝合掌 令和4年2月9日 頓首再拝>
13:伝統 :

2022/04/18 (Mon) 09:11:44


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月18日)」より

たえず人に温熱を供給する太陽は熱が減ってだんだん貧弱になってしまうかと思えば、
事実は反対でいよいよますますその熱量が殖えてゆくのだと最近の天文学は教えている。

たえず人を饒益(にょうやく)し、たえず人に愛行を行なう人も
太陽のごとくますます自分が殖えるのである。

自分はこれだけ利益を貰ったから信心を止めようというような人があったら、
それは自分はもうこれだけ太陽から温熱を受け、太陽の熱というものはよく解ったから
太陽系統を去ろうと思うという地球のようなものである。

地球は太陽の恵みを解るために太陽系統に属しているのではない。
太陽系統を実践するために太陽系統に属しているのである。

今まで受けた温熱を次へ次へと送るので地上の万物は育つのである。
報恩とはかくのごときものである。報恩のあるところに万物は栄える。

            <感謝合掌 令和4年4月18日 頓首再拝>
14:伝統 :

2022/04/24 (Sun) 07:46:03


           *「光明道中記」(4月24日)より

【人間の本性は「愛」でありますから、
 「愛」を失ったときその人は自暴自棄に陥るのです。(『生命の實相』第十七巻)】

もう一人私に伯母さんがある。
もう此の世にはいないが、好い伯母さんであって私を常に愛していて呉れた。

時々夫婦喧嘩をして逃れて私の家へ来たときなどには、
私は一ヶ月も二ヶ月も此の伯母さんと一緒の布団に寝たものである。

私が一緒に寝ないと言うと、
「伯母さんと一緒に寝たら一晩に1円ずつお小遣銭(こづかい)をあげましょう」
と言った。

私は買い食(ぐい)も何しない子だったので、その金を皆養母(はは)に渡した。
養母はそれを貯金して置いてくれた。ついにその1円ずつが貯蓄されて
三百幾十円かになったものである。
私の大学での費用の一部は此の貯金で賄(まかな)われた。

此の伯母さんは家庭は裕福であったが、
良人は裕福なその「金」を人生のためになる方向に使わず、
よく酒ばかり飲んでいた。

従って伯母さんは仏の道に志して四国八十八カ所を十幾度も遍路して
金の納札(おさめふだ)を納めたとか、西国三十三カ所を幾十回廻ったとか、
高野山にも毎年まいることを怠らなかった。

此の伯母さんには子がなかった。
此の伯母さんの唯一の希望は「私」であった。

最も大きな遺産は此の伯母さんが
私に神信心の福田を遺して置いてくれたことだと思う。

            <感謝合掌 令和4年4月24日 頓首再拝>
15:伝統 :

2022/05/17 (Tue) 09:00:01


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.05.15)より

   (藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…)

   どんな偉大な指導者も、 哲人も一人で人格を形成した人はいません。

   人は皆凡夫なり、と聖徳太子はいったそうですが、
   人は皆、縁の中でしか生きられない、
   その意味では人は皆一様に凡夫です。


   一篇の詩が思い出されます。

   どなたかの作かは知りませんが、
   時折、思い起こしては自らを省みています。



     生きているということは、誰かに借りをつくること

     生きているということは、その借りを返していくこと

     誰かに借りたら、誰かに返そう

     誰かにそうしてもらったように、誰かにそうしてあげよう


     誰かと手をつなぐことは、その温もりを忘れないでいること

     巡り合い、愛し合い、やがて別れのその時、 悔いのないように

     今日を明日を生きよう


     人は一人では生きてゆけないから  

     誰でも一人では歩いてゆけないから


        <『生きる力になる言葉』致知出版社
              https://amzn.to/3N9mEC2 >

            ・・・

実は、この詩は、永六輔さんが作詞し、中村八大さんが作曲した
「生きているということは」という歌の中の言葉です。

「借り」というのは、「恩」と言いかえてもいいかもしれません。

恩を受け、その恩を返すことを「恩返し」と言います。

逆に、恩を受けながら、それをありがたいとも思わず、
その恩を返さない人を「恩知らず」と言います。

また、その人がどこに行ったかわからなくなったり、
すでに亡くなってしまったりして、恩を返せない時があります。

そんな場合に、受けた恩を、受けた人にではなく、
別の人に返すことを「恩送り」と言います。


英語では「ペイ・フォワード(Pay it Forward)」と呼ばれ、
バトンリレーのように次々に、恩送りをしていくことを指します。

映画「ペイ・フォワード」で有名です。

映画では、先生の板書から始まります。

「幸せを連鎖せよ」と。


「刻石流水(こくせきりゅうすい)」という言葉があります。

受けた恩は石に刻み、自分が与えた恩は水に流す、ということです。

受けた恩は絶対に忘れてはいけないが、かけた恩(情け)は忘れてしまえ、と。


生きているということは、誰かから恩を受けているということ。

どんな小さなご縁も大事にして…
恩を返し、恩を与える人でありたいと思います。

・・・

永六輔 「生きているということは」
https://www.youtube.com/watch?v=Gt8posdmTaM


上條恒彦:生きているということは
https://www.youtube.com/watch?v=oNaIH095OSI

            <感謝合掌 令和4年5月17日 頓首再拝>
16:伝統 :

2022/06/08 (Wed) 10:18:37


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月8日)」より

恩を受けて返さない感じがしている間は人間は落ち着けぬ。
とり得の感じがしている間は落ちつけぬ。

恩を返したときの感じほど楽しい感じはない。
恩着せがましい態度に出られても、
どれだけでも無限に素直に恩を返しうる感じは無限のよろこびである。

もうこれだけ恩を返したらおしまいだという感じは卑怯な感じである。
恩を無限に感じ、そして無限に恩返しする力が滾々(こんこん)と湧いてゆく感じは
また格別である。

孝ならんと欲するところに父母はいまさずという諺(ことわざ)がある。
恩を返せる財力ができたときに恩人がいないことがある。

いつでも恩を返すことが必要である。
実力で恩を返す力がなくとも、感謝の心を起こすことそのことがすでに報恩である。

実力ができたとき、実力で恩を返す。
実力がまだ備わらないとき、感謝の心で恩を返す。

実力ができたときに恩人がもうこの地上にいないとしたら、
国のため世のためにつくすことによって恩を返すがよい。

自他は一体だから。

           <感謝合掌 令和4年6月8日 頓首再拝>
17:伝統 :

2022/09/20 (Tue) 08:42:22


      *Web:今日も良いことがあるように(2019/04/09)より


恩返しについて考えてみます。

   「なんば ぜいたくなことば言いよっかあ。
    高校にもいけんと就職した子どんがことば思うてみい」

            今井美沙子著『きょうも一日ありがとう』


『きょうも一日ありがとう』から

昔の学級通信をつらつら眺めていたら、
『きょうも一日ありがとう』という本からの引用がありました。

この本を書いた今井美沙子さんは、
長崎県五島に貧しい家族の五人兄弟の末っ子として生まれた人です。

「人間なんてめだかのように弱い存在なのだから、
 助け合って生きてゆかねば・・・」

と、ふるさと、長崎県五島で肩寄せ合って生きる人々を描いて、
1977年のデビュー作『めだかの列島』で大反響を呼びました。

ご紹介するのは、今井さんの高校時代、
お母さんとのやりとりを語ったエッセーです。

   (会話文は、長崎五島弁です)

   ちょうどそのころ、大学に進学するつもりで
   いっしょうけんめい勉強してきたのに、
   経済的に余裕がないということで、
   進学を断念しなければならなくなった。

   (中略)

   そのとき、心ならずも、母の前で、

   「ああ、金持ちの家に生まれとったらなあ、
    ああ、都会で生まれちょれば自分の家から通えるから大学へいかるっとに・・・」

   とつぶやくと、母は烈火のごとく怒った。

   「もう一回言うてみい」

   母の顔はみるみる紅潮した。

   「なんば ぜいたくなことば言いよっかあ。
    高校にもいけんと就職した子どんがことば思うてみい。

    あがんほうが(あんたのほうが)三年も余計勉強したとぞ。
    その三年の分の恩返しばしようっちい気にはならんとかあ。

    そげんぜいたかっことば(ぜいたくなことを)言うとは、
    かあちゃんが許さん」


   私は母を怒らせたことを反省し、母にあやまった。

   「恩返しっちいうとは、とうちゃんやかあちゃんに対する恩返しとは
    言うちょらん。学校へいけんじゃた子どんに対する恩返しのことたいね」

   と母はつけ加えた。

          今井美沙子著『きょうも一日ありがとう』(中央出版社)


《誰かのおかげで今の自分がいる》

このお母さんの言葉には、私自身、ハッとさせられます。

親のすねをかじって大学まで行かせてもらい、
いまだに十分な恩返しができていない私自身が、
叱られているような気にもなります。

あの時代、日本には、高校へ行きたくても
貧しくて行けなかった子がたくさんいました。

今井さんのお母さん、お父さんはもちろん
確かお兄さんやお姉さんたちも、そうだったと思います。

近所の「子どん」たちの多くも、そうでした。

もっと勉強したいけれど、泣く泣く就職した子もいました。

中には身売り同然で、家を離れねばならない子もいました。

そういう人たちが一所懸命働いて、
困った時は互いに助け合って生きてきた。

そういう人たちのおかげで、この島も暮らしが少しは豊かになった。

当たり前のように学校で勉強ができるようになった。

あんたは、そういう人たちのおかげで、
3年間も余計に勉強できたことを忘れるな。


その恩返しとして、みんなのために何かしなさい。

今井さんのお母さんはそういう考え方をする人だったんですね。

恩返し・・・

心がけていないと、忘れてしまいがちです。

ときどきは、自分が受けてきた恩を考えてみなければならないと思います。

親がいて、自分がいる。

まわりの人がいて、自分がいる。

だれでも、私たちは、生まれたときから
・・・今日までたくさんの恩を受けてきたのですから。

それを忘れてはいけないのです。

これまでいただいた恩を考えてみよう。

親の恩だけでも、きっと山より高く、海より深いのです。(^.^)


【参考】今井美沙子著『めだかの列島』(ポプラ文庫)には、
    今井さんのお母さんのように、貧しくても
    助け合って生きていた人々の姿が描かれています。

https://lucky.t-nakai.work/2019/04/09/thinking-45/

・・・

<参照>
今井 美沙子の心の糧
https://tomoshibi.or.jp/radio/imai/

            <感謝合掌 令和4年9月20日 頓首再拝>
18:伝統 :

2022/10/10 (Mon) 09:46:50


     *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.10.06)より

   (鍵山秀三郎氏の心に響く言葉より…)

   創業当時、商品を希望どおり仕入れられなかった私に、
   気持ちよく協力してくださった恩人がいます。

   その恩人が、大阪にお住まいだった故・中井喜代子さん。

   私が「大阪のお母さん」と呼んで、大変お世話になってきた人です。


   過日、その中井さんの次男・興治さんから誘われ、夫婦で接待を受けました。

   生前、中井さんがよく通っていた京都の寿司屋で
   「食事をしながら語りたい」というお誘いでした。

   しかもその夜は、有馬温泉に一泊させてもらいました。


   そのとき、
   同席していた本書の編者・亀井民治さんに興治さんが話していたことです。

   日く、

   「私たち家族は、鍵山さんがよく言われるほどのお世話は何もしていません。
    むしろ私たちのほうが、その何倍も鍵山さんからよくしてもらっています」。

   この言葉を耳にした私は

   「何を言われますか。
    私がお母様からしていただいたことは、そんなものではありません。
    私は心底よくしてもらいました」と

   言下に否定しました。


   私はまだ、中井さんからしてもらった何分の一も恩返しができていないと
   自覚していたからです。

   古人の言葉に、「恩の程度が、その人の程度」とあります。

   この言葉は、私のためにある教えだと、自分に言い聞かせています。

   <『困ったことばかりでも、何かひとつはよいことがある。』PHP>

            ・・・

「受けた恩は石に刻み、かけた情けは水に流す」

という言葉がある。

多くの人は、人に与えた情けは覚えているが、
自分が受けた恩はすっかり忘れてしまう。

「あの人に前にご馳走したことがある」
「あの時助けてやった」
「彼に〇〇を紹介したのは私だ」
「彼を教えたのは私」と、

自分がしたことはよく覚えている。


しかし、その反対の恩を受けたことはコロッと忘れてしまう。

人にご馳走になったり、
ピンチを救ってもらったり、
大事な人を紹介してもらったり、
命の言葉をもらったり…。


「井戸を掘った人を忘れない」

という中国の言葉がある。

水を飲むときは、
その井戸を掘ってくれた人のことを忘れないということだ。


恩を受けてもありがたいとも思わず、
その恩に報いる気のない人を「恩知らず」といい、

さらに、恩返しをしないどころか、
かえって恩人に害を与えることを「恩を仇(あだ)で返す」という。

恩をありがたいとも思わない人の末路は哀(あわ)れだ。

やがて人が離れ、誰も、助けてくれなくなるからだ。


小さな恩を忘れずに大切にする人か、
恩を仇で返す人か…。

「恩の程度が、その人の程度」という言葉を胸に刻みたい。

       <感謝合掌 令和4年10月10日 頓首再拝>
19:伝統 :

2022/12/05 (Mon) 07:51:36


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月5日)より抜粋

恩を忘れてはならない。
恩を忘れる者は根を培わない樹木の枝のごとく、
一時(じ)は生け花のごとく美しくともやがては枯れてしまうのであろう。

人に深切をつくすのが、最善の宗教である。
ただ説教師になってはならないのである。

1日、1回以上、できるだけ自分の利益にも何にもならないことで、
純粋に他(ひと)のために尽くせ。
純粋で無我でつくすこと自体が神に通ずる祈りである。

無我の愛でささげたる奉仕は神の献(ささ)げたことになるのである。

自分の収入の2分(ぶ)ないし1割で、
自分の救われた教えを広めるために真理の小冊子を買って
無代進呈することは神に対する恩返しとなる。

与えただけが与え返されるのである。

       <感謝合掌 令和4年12月5日 頓首再拝>
20:伝統 :

2023/02/08 (Wed) 05:08:02


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月8日)」より

われわれを嬉しくし、楽しくし、悦ばせてくれるものは実に「恩」の感じである。
「恩」とは因(もと)の心と書くが、因を知る心である。

恩を感ずるとき、わたしたちは苦しみの中にも喜んで飛び込むことができるのは、
恩の感じは苦しみを「歓喜(かんき)」にかえる念(こころ)であるからである。
恩を感じるとき実際苦しみは歓びに変わるのである。

激しい皇恩を感ずるとき、
弾丸(だんがん)雨飛(うひ)の中へわたしたちは歓声を挙げて
跳び込みうるし、また弾丸があたっても痛まない。

感恩の念(ねん)は苦痛を歓喜にかえるからである。

痛みあり、苦しみがあるのは恩の感じ方が足りないからである。

皇恩に感謝せよ、汝の父母に感謝せよ、
汝の夫または妻に感謝せよ、汝の子に感謝せよ。
汝の召使に感謝せよ。天地の万物(すべてのもの)に感謝せよ。
その感謝の念のうちにこそ汝はわが姿を見、わが救いを受けるであろうと
『生命の實相』の巻頭にある
―― 生長の家の教えを要約すれば、
ただこの数句に尽きていると言ってもよいくらいである。

           <感謝合掌 令和5年2月8日 頓首再拝>
21:伝統 :

2023/02/09 (Thu) 05:01:58


     *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月9日)」より

人間の深切にも物施と法施とがある。

物を与えることも時には必要であるが、
あまり物のみを与えすぎるとかえって依頼心を起こさせ、
貰うことが権利のような感恩のない状態にまで
相手の心を荒(すさ)ませることがある。

物を与えるならば、《心もち》を添えて贈らなければならぬ。
紙に包み、水引を掛けるのは心持を添える方法の一つである。
人間は心もちによって生かされているのである。

機械的な「与え」の前には感恩の心は起こるものではない。

与える側からいうならば、
物を贈るのに相手に感恩の心をを起こさせようと
思ってするのは不純ではあるが、相手の心を依頼心に満ちたり、
忘恩的な荒んだ心にまでならせないためには
機械的な与え方をしてはならない。

勤務時間以上に働きをサービスする社員に、
上役が感謝して夜食をおごったりしてくれる場合には、
いかにも上役の好意が身に沁(し)みて感謝されるが、

規則によって夜勤手当というものを定(さだ)めて、
一定時間の夜勤をするする者には一定の夜勤料を支払うことに
機械的に定(き)めてしまうならば、
もう誰も夜勤料をありがたく思わなくなるものである。

それどころか、時には夜勤料が少ないといって
零(こぼ)すようにさえなりがちである。
与える悦びがなくなって、奪い足りないという不平に代わるのである。

生活に困っている失業者に仕事を紹介してやったら、
その当座は生命(いのち)を救(たす)けてもらったように感謝するが、
毎月月給を貰うということが機械的に度重なってくるならば、
もうぼつぼつ月給の不足を零しがちである。

感恩の心は機械的になるとしだいに薄れてくるのである。
子供の愛情に養われる老人は幸福であるが、
社会保障制度で養老院に養われる老人には前者ほどの喜びはない。

われわれは毎日空気を吸っているが、
機械的に空気を供給されているがゆえに
ありがた味を感じない。

われわれは太陽がなくては生きられない人間でありながら、
太陽は機械的に毎朝地平線から顔を出すから
太陽のありがた味をさほど感じない。


しかし、これでよいだろうか。

目ざめて立て! 

わたしたちはあらゆる恩恵のうちに生きているのである。

ありがたさは物の分量にあるのではなく、心の《目ざめ》にある。
心の《目ざめ》ている人を悟っていると言う。

一かど悟っていると自負している人が常に不平を唱えているのは
何を悟っているのか、訊いてみたい。

           <感謝合掌 令和5年2月9日 頓首再拝>
22:伝統 :

2023/02/23 (Thu) 07:29:56


           *「光明法語」(2月23日)より

他に恩恵を施しても、その相手その人から恩返しを期待してはならぬ。
恩を受けねばならぬような人は、福田がまだ乏しいから
人の世話にならねばならぬのであるから、
そう急に恩返しの出来る訳でなない。

しかし宇宙は一体であるから、与えた相手から直接返還が来なくとも、
他から必ず返還が来るのである。

必ずしも出したところから、入れなければならぬと云うことがないのは、
人間の肛門と同じことである。

出すところで出してさえ置けば、
入るところから却って美味しいものが入って来るのである。

           <感謝合掌 令和5年2月23日 頓首再拝>
23:伝統 :

2023/03/09 (Thu) 04:08:24


           *「光明道中記」(3月9日)より

【執愛は捉われている愛である。「愛の愛たるは愛に非ず」。
                   (『生命の實相』第十一巻)】


初めて子供が生まれたときにどんなにその母親は勿論、
父親もその子供を可愛く思うであろう。
その愛は尊き愛である。

その愛がなかったならば幼い脆弱(ぜいじゃく)な肉体を有った赤ん坊は
生活し得ないで大人まで成長する者は稀(まれ)であろう。

子供を生かすのは、そして吾々を今日まで生活することを得しめたのは
兎も角も父母の愛である。
吾々は此の点に於て父母に感謝しなければならない。

子が生まれたとき父母に感謝せよ。
育児の根本は報本反始(ほうほんはんし)にある。

科学的な育児法がどんなに巧みに行なわれても、若しその若き父母が、
その老いたる自分の父母に感謝し得ない時には
育児の根本は覆われて了うのである。

最初に生まれた子供がどんなに可愛いからとて、
その愛に溺れて、無暗に抱きかかえたり、頬ずりしたりして、
折角安静に眠っている赤ん坊の神経を掻きみだしてはならない。

昔から「総領(そうりょう)の甚六(じんろく)」などと言って
長男は頭が鈍(にぶ)かったり、祖父(じい)さん祖母(ばあ)さんに
育てられた子供が「甘え手(た)」で我儘(わがまま)で
始末が可(い)けない場合が多いのは、
生まれた最初からあまり抱きかかえ過ぎるからである。

赤ん坊の言葉は「泣く」ほかないのであるから、
泣いたからとて必ずしも抱いてはならない。

           <感謝合掌 令和5年3月9日 頓首再拝>
24:伝統 :

2023/04/18 (Tue) 05:02:42


       *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月18日)」より

たえず人に温熱を供給する太陽は熱が減ってだんだん貧弱になってしまうかと思えば、
事実は反対でいよいよますますその熱量が殖えてゆくのだと最近の天文学は教えている。

たえず人を饒益(にょうやく)し、たえず人に愛行を行なう人も
太陽のごとくますます自分が殖えるのである。

自分はこれだけ利益を貰ったから信心を止めようというような人があったら、
それは自分はもうこれだけ太陽から温熱を受け、太陽の熱というものはよく解ったから
太陽系統を去ろうと思うという地球のようなものである。

地球は太陽の恵みを解るために太陽系統に属しているのではない。
太陽系統を実践するために太陽系統に属しているのである。

今まで受けた温熱を次へ次へと送るので地上の万物は育つのである。
報恩とはかくのごときものである。報恩のあるところに万物は栄える。

           <感謝合掌 令和5年4月18日 頓首再拝>
25:伝統 :

2023/04/24 (Mon) 05:05:07


           *「光明道中記」(4月24日)より

【人間の本性は「愛」でありますから、
 「愛」を失ったときその人は自暴自棄に陥るのです。(『生命の實相』第十七巻)】

もう一人私に伯母さんがある。
もう此の世にはいないが、好い伯母さんであって私を常に愛していて呉れた。

時々夫婦喧嘩をして逃れて私の家へ来たときなどには、
私は一ヶ月も二ヶ月も此の伯母さんと一緒の布団に寝たものである。

私が一緒に寝ないと言うと、
「伯母さんと一緒に寝たら一晩に1円ずつお小遣銭(こづかい)をあげましょう」
と言った。

私は買い食(ぐい)も何しない子だったので、その金を皆養母(はは)に渡した。
養母はそれを貯金して置いてくれた。ついにその1円ずつが貯蓄されて
三百幾十円かになったものである。
私の大学での費用の一部は此の貯金で賄(まかな)われた。

此の伯母さんは家庭は裕福であったが、
良人は裕福なその「金」を人生のためになる方向に使わず、よく酒ばかり飲んでいた。

従って伯母さんは仏の道に志して四国八十八カ所を十幾度も遍路して
金の納札(おさめふだ)を納めたとか、西国三十三カ所を幾十回廻ったとか、
高野山にも毎年まいることを怠らなかった。

此の伯母さんには子がなかった。
此の伯母さんの唯一の希望は「私」であった。

最も大きな遺産は此の伯母さんが
私に神信心の福田を遺して置いてくれたことだと思う。

           <感謝合掌 令和5年4月24日 頓首再拝>
26:伝統 :

2023/04/25 (Tue) 08:45:33


           *「光明道中記」(4月25日《因縁尊き日》)より

【貴女の我(が)でこれは善だとか批判してはなりません。
     今日から良人を神様だと思いなさい。(『生命の實相』第十七巻)】

自分の生みもしないしない子を幼い頃から育てるのは大変な骨折(ほねおり)で
あったであろう。
私は可愛がられていたから、養父母のことを実父母だと思っていたのである。
その位私は可愛がられていたのだ。

その事を私は心から感謝するものである。

私の実父母のところで育てられていた
私の肉身の兄妹たちは私ほど学校教育を受けなかった。

若し私が生まれた家に育てられて生活していたならば、
今日の『生長の家』は存在しなかったかも知れぬし、
私の運命も非常に変わったものとなっていただろう。

子に貰われるも、貰われぬも、養子にやられるのも、みんな神の指図であり、
そして自分自身が前世から持っていた種蒔(たねまき)の芽が生えたのである。

因縁不可思議であり、また不可思議でもない。
ただ斯くあるものが斯くあることが貴いのである。

私は或る誌友から「あなたの今日あるのは両親のお蔭であるから
生長の家の各教化部にあなたの両親の写真を掲げて拝せしむべきである」と
忠告されたときに私はハタと当惑した。私の親の写真は4人ある

           <感謝合掌 令和5年4月25日 頓首再拝>
27:伝統 :

2023/06/08 (Thu) 11:19:05


        *「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月8日)」より

恩を受けて返さない感じがしている間は人間は落ち着けぬ。
とり得の感じがしている間は落ちつけぬ。

恩を返したときの感じほど楽しい感じはない。
恩着せがましい態度に出られても、
どれだけでも無限に素直に恩を返しうる感じは無限のよろこびである。

もうこれだけ恩を返したらおしまいだという感じは卑怯な感じである。
恩を無限に感じ、そして無限に恩返しする力が
滾々(こんこん)と湧いてゆく感じはまた格別である。

孝ならんと欲するところに父母はいまさずという諺(ことわざ)がある。
恩を返せる財力ができたときに恩人がいないことがある。

いつでも恩を返すことが必要である。
実力で恩を返す力がなくとも、
感謝の心を起こすことそのことがすでに報恩である。

実力ができたとき、実力で恩を返す。
実力がまだ備わらないとき、感謝の心で恩を返す。

実力ができたときに恩人がもうこの地上にいないとしたら、
国のため世のためにつくすことによって恩を返すがよい。

自他は一体だから。

           <感謝合掌 令和5年6月8日 頓首再拝>
28:伝統 :

2023/10/29 (Sun) 10:47:42


       *Web: Racchi Official Blog.(2023.03.13)より抜粋

海外であった「恩送り」の話


アメリカのサウスカロライナ州ブラフトンという街の
「The Corner Peak」というカフェで実際にあった話です。

ある女性客が100ドル札を店員に渡し、
「このお金がなくなるまで、ここに来たお客さんにコーヒーをごちそうしたい。」
と提案しました。

店員は驚きながらも、その提案を受け入れ実行しました。

後からきたお客さんはみんな「コーヒーが無料?!」と驚きます。

そのたびに店員は
「先にきたお客さんが、みなさんの分のコーヒー代を支払ってくれています。」
と説明しました。

すると、その噂は街中に広がり、多くの人が店にやってきました。
そしてその多くがこれからやってくる他のお客さんの分のコーヒーの代金として
お金を置いていきました。(中には何も買わずに寄付だけした人もいるそうです)

この話はアメリカの多くのメディアに注目され、このお店は一躍有名となりました。

https://racchi1120.com/pay-it-forward/

           <感謝合掌 令和5年10月29日 頓首再拝>
29:伝統 :

2023/12/05 (Tue) 11:42:32


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月5日)より抜粋

恩を忘れてはならない。
恩を忘れる者は根を培わない樹木の枝のごとく、
一時(じ)は生け花のごとく美しくともやがては枯れてしまうのであろう。

人に深切をつくすのが、最善の宗教である。
ただ説教師になってはならないのである。

1日、1回以上、できるだけ自分の利益にも何にもならないことで、
純粋に他(ひと)のために尽くせ。
純粋で無我でつくすこと自体が神に通ずる祈りである。

無我の愛でささげたる奉仕は神の献(ささ)げたことになるのである。

自分の収入の2分(ぶ)ないし1割で、
自分の救われた教えを広めるために真理の小冊子を買って
無代進呈することは神に対する恩返しとなる。

与えただけが与え返されるのである。

            <感謝合掌 令和5年12月5日 頓首再拝> 
30:伝統 :

2024/02/09 (Fri) 10:15:39


       *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月9日)」より

人間の深切にも物施と法施とがある。

物を与えることも時には必要であるが、
あまり物のみを与えすぎるとかえって依頼心を起こさせ、
貰うことが権利のような感恩のない状態にまで
相手の心を荒(すさ)ませることがある。

物を与えるならば、《心もち》を添えて贈らなければならぬ。
紙に包み、水引を掛けるのは心持を添える方法の一つである。
人間は心もちによって生かされているのである。

機械的な「与え」の前には感恩の心は起こるものではない。

与える側からいうならば、
物を贈るのに相手に感恩の心をを起こさせようと
思ってするのは不純ではあるが、

相手の心を依頼心に満ちたり、
忘恩的な荒んだ心にまでならせないためには
機械的な与え方をしてはならない。

勤務時間以上に働きをサービスする社員に、
上役が感謝して夜食をおごったりしてくれる場合には、
いかにも上役の好意が身に沁(し)みて感謝されるが、

規則によって夜勤手当というものを定(さだ)めて、
一定時間の夜勤をするする者には一定の夜勤料を支払うことに
機械的に定(き)めてしまうならば、もう誰も夜勤料を
ありがたく思わなくなるものである。

それどころか、時には夜勤料が少ないといって
零(こぼ)すようにさえなりがちである。
与える悦びがなくなって、奪い足りないという不平に代わるのである。

生活に困っている失業者に仕事を紹介してやったら、
その当座は生命(いのち)を救(たす)けてもらったように感謝するが、
毎月月給を貰うということが機械的に度重なってくるならば、
もうぼつぼつ月給の不足を零しがちである。

感恩の心は機械的になるとしだいに薄れてくるのである。
子供の愛情に養われる老人は幸福であるが、
社会保障制度で養老院に養われる老人には前者ほどの喜びはない。

われわれは毎日空気を吸っているが、
機械的に空気を供給されているがゆえにありがた味を感じない。

われわれは太陽がなくては生きられない人間でありながら、
太陽は機械的に毎朝地平線から顔を出すから
太陽のありがた味をさほど感じない。


しかし、これでよいだろうか。

目ざめて立て! 

わたしたちはあらゆる恩恵のうちに生きているのである。

ありがたさは物の分量にあるのではなく、心の《目ざめ》にある。
心の《目ざめ》ている人を悟っていると言う。

一かど悟っていると自負している人が常に不平を唱えているのは
何を悟っているのか、訊いてみたい。

           <感謝合掌 令和6年2月9日 頓首再拝>
31:伝統 :

2024/02/23 (Fri) 13:37:17


           *「光明法語」(2月23日)より
           ~《神の祝福は又別の処から入(い)り来(きた)る 》

他に恩恵を施しても、その相手その人から恩返しを期待してはならぬ。
恩を受けねばならぬような人は、福田がまだ乏しいから
人の世話にならねばならぬのであるから、
そう急に恩返しの出来る訳でなない。

しかし宇宙は一体であるから、与えた相手から直接返還が来なくとも、
他から必ず返還が来るのである。

必ずしも出したところから、入れなければならぬと云うことがないのは、
人間の肛門と同じことである。

出すところで出してさえ置けば、
入るところから却って美味しいものが入って来るのである。

           <感謝合掌 令和6年2月23日 頓首再拝>
32:伝統 :

2024/03/20 (Wed) 11:15:56

認知症の親などを介護する霊的意味
Web:宇宙の兄弟たちへ(2024年3月19日)
https://www.spacebrothers.jp/2024/03/blog-post_19.html

       <感謝合掌 令和6年3月20日 頓首再拝>
33:伝統 :

2024/04/18 (Thu) 09:38:02


       *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月18日)」より

たえず人に温熱を供給する太陽は熱が減ってだんだん貧弱になってしまうかと思えば、
事実は反対でいよいよますますその熱量が殖えてゆくのだと最近の天文学は教えている。

たえず人を饒益(にょうやく)し、たえず人に愛行を行なう人も
太陽のごとくますます自分が殖えるのである。

自分はこれだけ利益を貰ったから信心を止めようというような人があったら、
それは自分はもうこれだけ太陽から温熱を受け、太陽の熱というものはよく解ったから
太陽系統を去ろうと思うという地球のようなものである。

地球は太陽の恵みを解るために太陽系統に属しているのではない。
太陽系統を実践するために太陽系統に属しているのである。

今まで受けた温熱を次へ次へと送るので地上の万物は育つのである。
報恩とはかくのごときものである。報恩のあるところに万物は栄える。

           <感謝合掌 令和6年4月18日 頓首再拝>
34:伝統 :

2024/04/24 (Wed) 10:25:38


           *「光明道中記」(4月24日)より

【人間の本性は「愛」でありますから、
 「愛」を失ったときその人は自暴自棄に陥るのです。(『生命の實相』第十七巻)】

もう一人私に伯母さんがある。
もう此の世にはいないが、好い伯母さんであって私を常に愛していて呉れた。

時々夫婦喧嘩をして逃れて私の家へ来たときなどには、
私は一ヶ月も二ヶ月も此の伯母さんと一緒の布団に寝たものである。

私が一緒に寝ないと言うと、
「伯母さんと一緒に寝たら一晩に1円ずつお小遣銭(こづかい)をあげましょう」
と言った。

私は買い食(ぐい)も何しない子だったので、その金を皆養母(はは)に渡した。
養母はそれを貯金して置いてくれた。ついにその1円ずつが貯蓄されて
三百幾十円かになったものである。
私の大学での費用の一部は此の貯金で賄(まかな)われた。

此の伯母さんは家庭は裕福であったが、
良人は裕福なその「金」を人生のためになる方向に使わず、よく酒ばかり飲んでいた。

従って伯母さんは仏の道に志して四国八十八カ所を十幾度も遍路して
金の納札(おさめふだ)を納めたとか、西国三十三カ所を幾十回廻ったとか、
高野山にも毎年まいることを怠らなかった。

此の伯母さんには子がなかった。
此の伯母さんの唯一の希望は「私」であった。

最も大きな遺産は此の伯母さんが
私に神信心の福田を遺して置いてくれたことだと思う。

           <感謝合掌 令和6年4月24日 頓首再拝>

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