伝統板・第二

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実相を観よ(Look into the reality) ④ - 伝統

2020/11/27 (Fri) 05:01:27

現象の奥に実相を見ることが日々の行事

   *「光明道中記」(11月27日《現象の奥に実相を見る日》)より

【心を清く空虚にせよ、心の清き者は神を見ることを得。(『生命の實相』第十四巻)】

どんな立派なものでも、浮世のものには、心を奪われまい。
浮世のものは崩れるものであるからである。

崩れるものであるからとてそれを避けまい。
崩れるものの中に実相の光明が輝いているからである。

現象を現象として追いまわすのではなく、現象の奥に実相を見出し、
それを顕し、礼拝するための行事が自分の生活であって欲しいのである。

自分と云うものが、実相でありますように、
自分と云うものが実相よりも低いものに心が捉われませぬように。

静かに日々の自分を省みよう。
速力が速いのが好いのではない。眼立つのが好いのではない。
数が多いのが好いのではない。
少くも好い。

実相があらわれれば好いのである。

実相はダイヤモンドのようなものであり、砂金のようなものである。
小さくとも価値高くして衆人の仰ぎ見るところのものである。
衆人に仰がるるためにダイヤモンドたらんとするのではない。

人間 固(もと)より仏、固より光明燦爛たるのである。
これを晦(くら)ましていたことを恥じ、
それを諦(あきら)かにするのが日々の行事である。

・・・

<関連Web>

(1)伝統板・第二「実相を観よ①」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6922622

(2)伝統板・第二「実相を観よ②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7669466

(3)伝統板・第二「実相を観よ③」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7910498

          <感謝合掌 令和2年11月27日 頓首再拝>

「迷い」を見ず、「実相」を直視して、その力を引き出す - 伝統

2020/12/04 (Fri) 04:52:56


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月4日)より

真の宗教は、生を明らめ、生きる道を明らかにし、
人間の生活をして真に幸福ならしめるところのものである。

真の宗教はけっして教会や寺院で勝手に定(さだ)めて、
それを信者に強制する教条や規則ではないのである。

その意味において、かえって職業宗教家よりも、
自由思想家、むしろ無宗教家と言われている人の
側に真の宗教を体得した人々があるということができるのである。

真の宗教はいわゆる宗教家の独占ではないのである。

真の宗教家はみずから真理を実践し、
みずから真理の生活をいとなみ、自己の生活に真理を実現し、
神の智慧と愛と生活とを具象化するものでなければならない。

人生の行路にはいろいろの迷える人が満ちている。
そして苦しんでいるのである。

ある人は病に苦しみ、ある人は経済苦に苦しみ、ある人は家庭不調和に苦しむ。
真の宗教家はかかる人々に面していかなる態度をとるべきであろうか。

彼らと同一水準に降り来たって
一緒に同情の涙をかき垂れて号泣すべきであろうか。
それとも物質的な施しを与えて彼らを一時的に救うべきであろうか。

イエスはラザロの死せるを見たとき、
同情の涙を流したことが聖書に書かれている。
しかしいつまでも彼は泣いていなかったのである。

「死せるにあらず、寝(い)ねたるなり」と彼は言った。

同情して涙を流すは現象面のことである。
現象面にいつまでもわれわれは執(とら)えられていてはならないのである。

直ちにひるがえって実相健全の姿を見るとき、
かえってその相手は復活し救われるのである。

またイエスは病にて脚(あし)の立たぬ病人に
ただ「起きて床をとり上げて歩め」と言っているのである。

「ああかわいそうに! 」と言って、一緒に倒れふし泣き濡れて
動けなくなっているのではないのである。

すべての人間は神の子であるから、
「起きて床を取り上げて歩む力」を持っているのである。
倒れているのは「迷い」の具象化にすぎないのである。
「迷い」に同情してはならないのである。

その「迷い」を見ず、「起(た)ちて歩みうる実相」を直視して、
その力を引き出すのが真の宗教家の使命であるのである。

真の愛と「苦痛を倶嘗(ともな)め」とは異なるのである。
苦痛に同悲して相手と一緒に墜落して泥まみれになるのは
真の宗教家のつとめではないのである。

            <感謝合掌 令和2年12月4日 頓首再拝>

実相智に到達するには 己に打ち克つことが必要 - 伝統

2020/12/09 (Wed) 05:07:16


        *『生長の家』(昭和25年7月1日の法語)より
         ~《狭き門より入れ》

   実相の智慧以外に
   何人をも幸福ならしめるものはないのである。

   それ故にたえず実相の書をよみ、実相を観じ、
   久遠不滅の実在の世界を把握し、
   久遠不滅の自己を想念することを努めなければならないのである。

   実相智は 五官の智慧では求むべくもないのである。
   実相智に達するには
   五官の誘惑に打ちかたなければならないのである。

   実相智に到達すれば 喜ぶ世界のみであるけれども
   それに到達するには 己に打ち克つことが必要である。

   「 己 」 とは 「 ニセモノの自分 」 である。
   「 狭き門より入れ 」 とイエスが教えたのは そのためである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12

            <感謝合掌 令和2年12月9日 頓首再拝>

《「現象の不完全」を超えて「実相の完全さ」を見よ》 - 伝統

2020/12/19 (Sat) 06:27:34


          *「眞理」第2巻基礎篇第11章(P293)より

如何なる現象の不完全さに接しても、
其の奥にある完全さを見詰める者は、ついに、
その見詰めて止まぬ「完全さ」を現象界にも実現することが
出来るのである。

病気の奥にも健康を見、憎みの奥にも愛を見出し、
悲しみの奥にも悦びを見出さなければならないのである。

神は憎みを創造しないのであるから「憎み」と云うものは、
誰が見ても「赤い色」とか「紫の色」とかに見えるよ云うようには、
誰が見ても「憎い」と云うような人はないのである。

自分の憎んでいる人も、
他(た)の人からは耐(たま)らなく可愛い人である。

「憎み」は宇宙に普遍するものではないからである。

見る人や感ずる人に従って、異なった姿に見えるものは、
それは普遍的な絶対的な存在ではない。
或る角度から相対的に見る姿である。

            <感謝合掌 令和2年12月19日 頓首再拝>

《今、吾が生命を直視(じきし)せり》 - 伝統

2020/12/31 (Thu) 05:07:04


       *『 生長の家 』(昭和25年7月5日の法語)より

   吾が生命は 永遠に生きて死するものなきものである。
   吾は 今 永遠の生命を自覚したのである。

   吾は すでに みたされているのである。
   
   吾に煩悩はないのである。
   渇欲は もはや吾を苦しめないのである。
   罪は 吾を汚すことはできない。

   生滅するものは本当の存在でないから、
   それに対して吾が心を動かすことはないのである。

   吾は凡ゆる苦痛と悩みとの彼方(かなた)に超出したのである。
   吾は 今 絶対完全なる自由を獲得して
   神人の実相を実現したのである。

   五官の誘惑は 自分を もはや ひきつけないのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12

            <感謝合掌 令和2年12月31日 頓首再拝>

《静かに坐して実相を観(み)よ》 - 伝統

2021/01/14 (Thu) 03:02:28


         *『 生長の家 』(昭和26年7月18日の法語)より

   神を知り、神の無限供給と連繋(れんけい)しさえするならば
   富は 自然に流入するのである。

   と云うと 神は「 外にある無限力者 」 だと思うかも知れないけれども、
   神は一切所に充ち満ちていられながら、
   「 わが内に 」 その表現の意識的中心があると云うことが

   分かるならば、吾々は、外界の事情や、他の人々のはからいで、
   自分の幸福が奪われたとか、出世がおくれたとか、
   儲かる筈(はず)が損になったとかは 決して考えないのである。

   静かに坐して 神の完全なるを観ぜよ。
   そして神の無限の愛と智慧と、無限の供給とを観ぜよ。

   観ずる程度に従って
   実相の円満完全な相(すがた)があらわれて来るのである。


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/379ab23c8551c38c4fb493db9ffed702

            <感謝合掌 令和3年1月14日 頓首再拝>

自覚の灼熱状態に於て打たれるとき、人間はその仏なる実相を露呈する。 - 伝統

2021/01/22 (Fri) 03:13:11


           *「光明道中記」(1月22日)より
            ~ 九族生天踊躍(しょうてんゆやく)の日

【吾らは初めから如来であり、成仏している。(『生命の實相』第一巻)】

金の純分のみが金となるのであって瓦を磨いて金とするのではない。
凡夫が仏になるのではなく、凡夫が消えて仏があらわれるのである。

凡夫の《はからい》が「雑行雑修」と言って真宗で排斥せられるのも、
凡夫が如来になるのではない証拠である。

仏と仏とに伝えてよこしまなることなきが禅である
と道元は『正法眼蔵』で喝破している。

たとい吾等が汚れたように見えようとも、
人間は本来汚れているものではあり得ないのである。

発止として自覚の灼熱状態に於て打たれるとき、
人間はその仏なる実相を露呈する。

そのままが仏であり、
打っても打たなくとも仏であるが、打てばそれがあらわれる。

打つのに色々な打ち方がある。
昔は「お前は悪い奴じゃ。もっと修行せよ」と言って打った。
 
生長の家は

「お前は善い本性を無尽蔵に有っている。
 励めば励むほど、出せば出すほど力が出る」

と言って打つ。

どちらが効果があるかは既に実証済である。

            <感謝合掌 令和3年1月22日 頓首再拝>

《実相は肉体よりも尊い》 - 伝統

2021/02/19 (Fri) 04:58:50


        *『 生長の家 』(昭和25年7月21日の法語)より

   実相を自覚したものは、
   現象界のどんなさばきに面してもその心は平静である。

   彼は肉体の快楽に誘惑されるということはない。
   肉体の快楽以上の深い喜びを知っているからである。

   彼は物質の損失に心もだえることはない。
   なぜなら彼は実相円満な無限の供給を
   魂の中に把握しているからである。

   天地は失せても魂の喜びが消えないほどの境地に達したものほど
   実相を悟るものだといわなければならないのである。

   古人曰(いわ)く、
   朝(あした)に道をきかば夕べに死すとも可なりと。

   実相を知る悦びは、肉体の御利益を超越しているのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12

            <感謝合掌 令和3年2月19日 頓首再拝>

“内在の如来” の完全さを観つづける - 伝統

2021/03/03 (Wed) 04:54:53

           *『生長の家』(昭和44年12月号)より

万物に内在する絶対価値を見出すには、
浮雲(ふうん)のように去来する現象の不調和な姿に、
心を引っかからせてはならないのである。 

浮動変化(ふどうへんげ)して常なき有様が
 ―― 時には現象の表面に不完全な様相をあらわすような事があっても、
それは唯、外見であって、内には完全円満な “如来” を蔵するものである。

その内に埋没せる “如来” は、
外面の不完全さのみを見ていては現れて来ないのである。 

どんなに不完全に見えても、
その外見に眼を閉じて、心の眼をひらいて、
実相の完全さを見るとき、
それをジッと見詰めて礼拝する毎日をつづけるとき、 
“内在の如来” の完全さがあらわれて来るである。

実相は既に円満完全であるという真理を前提として立って、
その円満完全さは観じて礼拝することによって現実となるのである
という方法論を毎日の生活に応用すれば、生活が裕かになり、
教育に応用すれば子供が良くなり、
治病に応用すれば、健康が増進するのである。

 (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/yu0529/mode=res&log=116

            <感謝合掌 令和3年3月3日 頓首再拝>

現象を見ず実相の完全を観よ - 伝統

2021/03/13 (Sat) 05:02:16


           *「光明法語」(3月13日)より

何故、光明皇后がらい病患者を愛したまうたように、その膿血(のうけつ)
ながれる背中に接吻されたように、醜くあらわれている人々をも
吾らは愛することが出来ないか。

それは現象を見るからである。

現象を見れば膿血はきたない。
膿血は愛することは出来ない。
膿血を愛すれば膿血は増加するばかりである。

膿血の奥にある光明かがやく生命を観ることである。
そのとき膿血は消えさり、光明輝く實相があらわれる。

人間の現象の欠点を見ず、現象なしと知ってのみ
その人間の神性を本当に愛することが出来るのである。

            <感謝合掌 令和3年3月13日 頓首再拝>

心の眼をひらいて実相を見よ - 伝統

2021/03/27 (Sat) 02:42:04


           *「光明法語」(3月27日)より

「身の燈火(ともしび)は目なり、汝の目ただしくば、全身あかるかん」
(「マタイ伝」第六章二二)
とイエスは言っている。

これは肉体の目ではなく、心の眼、「内の光」である。

心の眼をもって自己内部の実相円満なることを照らし出(い)だせば
全身は明るくなり、健康となるのである。

全身が健康になるばかりでなく
環境・境遇が調和し、豊かなる供給が集まり来るのである。

だから心の眼をひらいて
「神の国と神の国の義(ただしき)とを求めよ。
然らば凡てこれらの物は汝らに加えらるべし」
と教え給うたのである。

            <感謝合掌 令和3年3月27日 頓首再拝>

《本当にあるもの》(実相)を把む - 伝統

2021/04/05 (Mon) 04:59:23


        *「光明道中記」(4月5日《人に宿る美を知る日》)より

【不幸は近附けない。暗は光明にぶっ突かれば其の刹那に光明に化す。
                          (『生命の實相』第二巻)】

人間は人体が最も美しく視(み)える距離に於いて互いを視るのである。
もっと拡大して視ることもできるが、その距離から視た姿が自分の心の中にある「人間」
なる理念と合致するから、その姿を選び出して、それを人間の姿であるとするのである。

それは無数の距離と位置とから視ることの出来る実に無数の「形」のうちから
人間の「心」が選び出した相(すがた)である。

選択(えらびだし)の規範が「心」の中にあるのだから、
実は人体は外にあるようでも「心」の中にある形を外界に投影したのである。

「肉体は無い」―― この真理が解るにせよ、解らぬにせよ、今視えているような
肉体の形は肉体そのものの形ではなく、吾々が好き候(そうろう)の位置と距離とから
視てそう見えると、勝手に定(き)めしもの
 ―― 従って《自分の心の中にある》ものだと判るだろう。

「今は昼で明るい」と吾々は言うとき、米国にいる人は、「夜は暗い」と言う。
どちらも相対的には本当であって、完全には本当ではない。

「肉体は無い」と云うのも、「肉体は有る」と云うのも相対的には本当であって、
絶対的には本当では《ない》。

「《有る》」「《無し》」を超えて《本当にあるもの》(実相)を把むこと、
昼夜の差別を超えて太陽そのものを知るが如きが実相を悟るのである。

            <感謝合掌 令和3年4月5日 頓首再拝>

《實相の完全さのみを観よ》 - 伝統

2021/04/06 (Tue) 04:32:52


        *「光明法語」(4月6日)より

神の国の完全さを観るためにこそ神想観すべきであって、神想観をしたら、
こんな現実的結果が得られるから神想観をすると云うのであってはならない。

それは”結果想観”であって神想観ではないのである。

結果は心の波の投影であるから、
”純粋に”神の国の完全さを観ることが出来れば結局、
現実世界にも其れに相応しい好結果が得られるのである。

結果を思わず、純粋に實相の完全さのみを観ずれば、
ただそれだけで好いのである。

實相のみ實在であるからである。

            <感謝合掌 令和3年4月6日 頓首再拝>

実相が現われている生活 - 伝統

2021/04/26 (Mon) 04:55:11


         *『生命の實相』第30巻児童教育篇(P90~91)より

よく、読者の方が

「われわれの生活に実相が出ているか、
 出ていないかということは、どういうふうにしたらわかるか」

ということを尋ねられますが、

人間の実相は「自他一体」であり、
仮の姿は「自他分離」個々別々でありますから、

実相が現われた生活とは、
周囲 全体を一緒に生き生かしてゆこうという生活が、
実相の顕われた生活であります。

周囲全体が皆栄えるように、皆が喜ぶように、現われる生き方ならば、
そこに実相がよく出てくるのであります。

ところが自分だけしたいことをして、
周囲全体の空気が乱れるような行ないをする人があれば、
その人は実相が出ていないのでありまして、

みずから省みて、「これは自分の《本物ではない贋(にせ)もの》である」
こう気をつけて反省して、

贋物(にせもの)の伸びることは自分自身でないのだから、
自分自身でないものを伸ばしたとてつまらないからと考えて
抑えてしまうがよいのであります。


「本当の自分自身」―― 自体一体の心 ―― 一つの共通の神なる生命 ――
を伸ばすようにしてゆきますと、その人はみんなから喜ばれる。

無論みんなを生かすようにしておりますのですから、
その人がいてくれるということはみんなから喜びを与えられる
ということになるのであります。

だから、この実相が生活に現われるとか現われないとかいうことは、
その人の生活がみんなに喜ばれているか、
みんなから嫌われているかということによって定きまるのであります。

            <感謝合掌 令和3年4月26日 頓首再拝>

「実相を観る」とは本物と偽物とを知ること - 伝統

2021/05/18 (Tue) 03:47:41


         *『生命の實相』第29巻女性教育篇(P67)より

実相を観るということは、
虚構(うそ=きょこう)を真実だと思い込むことではありません。

虚構(うそ)を虚構(うそ)だとその実相を知り、
真実を真実だとその実相ありのままを知ることです。

キリストも蛇の如く叡(さと)く鳩のごとく柔和であれと仰せられました。

相手が神の子の実相(じっそう)を出しているか、
仮相(かそう)の狼を出しているのか見分けることが肝腎です。

何でも彼でも相手を信じさえすればよいのだと思っていてはなりません。

本来人間は善人でありますが、
五官の快楽に捉われたとき仮相(にせもの=かそう)が出るのです。

            <感謝合掌 令和3年5月18日 頓首再拝>

現象にまどわされず、「実相」のみを見るようにしてゆけばよい - 伝統

2021/05/25 (Tue) 04:57:21


         *「生命の實相」第37巻幸福篇上(P114)より

「真理」とはマコトのコトワリである。
マコトはミコトであり、コトバであり、
「真実(ほんと)の事」であり、実相である。

コトワリとはコトバすなわち神より分け出(いだ)されたる象(かたち)である。

すなわち「真理を知る」とは、神と神より出でたる
いっさいの事物の《真象》すなわち《実相》を知ることである。

単なる現象すなわち《仮相》にまどわされてはならないのである。

仮相はどんなに醜くそれが《ある》かのごとく見えても、
仮の相(すがた)であり、真実でないから、
それはウソの相(すがた)であり、ニセモノの相(すがた)である。

ニセモノは本物ではなく、アルかのごとく見えてもないのであるから、
そんなものに頓着することなく、ただ「実相」のみを実在として、
その完全な相のみを見るようにしてゆけばよいのである。

            <感謝合掌 令和3年5月25日 頓首再拝>

宝樹華果(ほうじゅけか)多くして衆生の遊楽する処 - 伝統

2021/06/01 (Tue) 03:07:38


    *『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月1日)より

吾々は神から永遠の幸福を約束されているのである。

「諸々の堂閣種々の宝もて荘厳せり、
 宝樹華果多くして衆生の遊楽する処なり」

と云う『法華経』の文句は決して空文ではなく、
既にかかる世界が今、実に此処にあるのである。

それは既に放送局の放送があるのと同じように、
既に肉眼では見えないが波長を合わしさえしたならば
現実に五官に触れるような形にあらわれて来るように
今此処に既にあるのである。

現実の不完全な相(すがた)に心を捉えられていては
不調和なものに波長を合わすから
不調和なものばかりが現れて来るのである。

        <感謝合掌 令和3年6月1日 頓首再拝>

六つの誓い - 伝統

2021/06/22 (Tue) 04:57:26


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月22日)より

六つの誓い ――

今後必ず自分の眼に封印して他(ひと)の悪を見まい。
今後必ず自分の耳に封印して他(ひと)の悪を聴くまい。
今後必ず自分の唇に封印して他(ひと)の悪を語るまい。

今後必ず自分の眼(まなこ)を開いて他(た)の行いの中から善きところのみを見よう。
今後必ず自分の耳を傾けて他(ひと)の言葉の奥にある善き意味のみを聴こう。
今後自分の唇を開けば必ず人の善を褒めよう。

           <感謝合掌 令和3年6月22日 頓首再拝>

実相を諦観せよ! - 伝統

2021/06/24 (Thu) 04:48:07


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月24日)より

人の病気を治すには、その人の病気を自分の内に摂取しなければならないのは、
洗濯屋が汚れものを洗濯するには一度それを自分の家へ持って帰らなければならぬ
ようなものである。

「自分の内に摂取する」とは
同悲同苦の感情を起こして「かわいそう」という愛念によって、
相手の苦しみ悩みを自分自身の苦しみ悩みとすることである。

それはラザロの死を見て、「イエス涙を流したまえり」の境地である。

彼が憤(いきどお)りによって病気になっているならば、
「憤るのはもっともだ」と同情する愛念が起こるべきである。

これは相手の病根がどこにあるかを知るためでもある。
同情のない審判(さば)くだけでは治す力は少ないのである。

かくて同情によって自己の内に相手の悩みを摂取した後(のち)は、
最早、その病根である心の悩みでいつまでも自分の心を乱しているようなことでは、
汚れた水(想念)をもって汚れ物を洗うに等しいから効果はないのである。

そこで、心の中に、すべての病気と、病根である悪しき想念感情を放ち去って、

「彼は神の子であるから病気もなければ、
 未だかつて憤(いきどお)ったこともないのだ」

と 実相を念ずるようにしなければならぬのである。

これが『続々甘露の法雨』の中に

「この病気は、この心の迷いの影などと迷いをいちいち詮索すること勿れ。
 迷い本来無ければ、迷いの影も本来無し。

 この病気は何の罪の結果ならんかと罪の種類をいちいち詮索すること勿れ。
 罪本来無ければ罪の種類も本来存在せざるなり。
 汝ら存在せざるものを追うこと勿れ」

と 書かれている所以である。

すなわちいったん、その病気の原因、病気の苦悩などを自己に摂取した後には、
病気の姿や、原因に心を捉えられることなく

「汝の生命の実相は久遠の神なり、金剛身なり、不壊身なり、
 本来円満完全なる仏身なり」    (『続々甘露の法雨』)

と じっと自身の実相を諦視すれば自分の病気が治り、
同じように相手の実相を諦観すれば相手の病気が治るのである。

「真の人間は神の子・人間なり、真清浄、真円満なる神の子、人間なり」

この実相を驀(まっしぐ)らに自覚しさえすればよいのである。

しかし実相を自覚して自己を円満完全だと諦視するには、
まず悔い改め(自己否定)がなければならない。

物質(肉体)の否定と、「心」の否定である。
肉体は本来ない、それは心の影だとまず肉体を否定し、

さらに

「あんな心を起こしたのは実相(ほんもの)の心でなかった。
 すまなかった。あれはニセモノだった」

と 心も否定し去り、しかして後、
円満完全なる罪なき実相を諦視するのである。

一度「心」を否定した上でまだクヨクヨ思ってはならない。

            <感謝合掌 令和3年6月24日 頓首再拝>

絶対価値の顕れを見る - 伝統

2021/06/28 (Mon) 02:36:14


          *「光明道中記」(6月28日)より抜粋
           ~審判(さば)き心を捨つる日

【わが教は審判く道ではないのだ。礼拝の道だ。包容の道だ。
                   『生命の實相』第十一巻)】

人を観るには常に絶対価値を以てせよ。
人の絶対価値は彼が「神の子」なることなり。
彼が生きてあること、そこに絶対価値が既にあるなり。

彼が愛の心を起すとき既に其処に彼の絶対価値の顕れを見る。
彼は愛なればなり。

彼の成績の如何を問う勿れ。
ソロモンの栄華いずこにありや。
イエス生きてありしときイエスの教を真に知りたる者幾人ありや。

その生涯中の伝道の相対的成績は実に微々たるものなりき。
十二人の弟子のうち一人は耶蘇を売りき。
残れる弟子共もイエス死する迄、その復活の意義を知らざりき。

されど、イエスは絶対価値なり。

            <感謝合掌 令和3年6月28日 頓首再拝>

自己の実相の円満完全さを見よ - 伝統

2021/07/06 (Tue) 04:19:16


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月6日)より抜粋

『法華経』の如来寿量品の自我掲に
「衆生、劫尽きてこの世の焼くると見る時も、わが浄土は
安穏にして天人常に充満せり。諸々の堂閣種々の宝もて荘厳せり
・・・わが浄土は壊せざるに、
衆は焼け尽きて諸々の憂怖充満せりと見る」

とあるのを、


たいていの仏教者は、
「この世界が焼けつきるような時が来ても、心さえ動じなかったら、
 心の中には天人が充満しているのもおなじことであり、
 立派な堂塔伽籃がそびえ立って立派な宝がいっぱい飾ってあるのも
 同じようなものだ。

 この身は殺されても、
 心の中に確立された浄土は壊(くだ)くことができない。
 釈尊は、衆生たちが焼けつきて阿鼻叫喚の状態を演じていても、
 いつも花降るような心境にいられるのだ」

というような意味に解釈しているのであるが、
これはすこぶる浅い解釈だと言わなければならないのである。

快川禅師の「心頭を滅却すれば火もまた涼し」などと言って実際に焼け死んだのも、
「心頭」の浅いところに「火の涼しさ」を弄んでいるからである。

浄土が今ここに厳存しているという事実は、
心頭や心境や、思いつきや、感じなどの浅い問題ではないのである。

厳として今ここに、実相の浄土が存在するのであって、
その実相円満完全の表面に、心頭を滅却したり、心境を一変したり、
向下したり、向上したり、劫火が燃えていたり、
原子爆弾が爆発したり、衆生が阿鼻叫喚につつまれていても、
それは玲瓏円月上の浮雲(ふうん)が描く陰影にすぎないのである。

病気もまた、一片の浮雲(ふうん)にすぎない。
三省して自己の実相の円満完全さを見よだ。

         <感謝合掌 令和3年7月6日 頓首再拝>

実相を観ずる - 伝統

2021/07/11 (Sun) 05:01:30


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月11日)より

まのあたり、今、ここに、この身のうちに、
神の”いのち”宿りいますを感じ、神の智慧宿りいますを感じ、
神の愛に取り巻かれてあることを感ずる者は幸いである。

しかしそれを感じえない者はどうしたらよいか?

 ―― なぜ彼は感じないのであるか?
 ―― 彼自身が感じないからである。

 ―― どうしたら感じるようになるか?
 ―― 彼自身が感ずるようにすればよいのである。

 ―― 感ずるようにするにはどうしたらよいか?
 ―― 感ずるということは、一つの認識作用であるから、
    感ずる対象と同じ波をこちらが起さねばならぬ。

    神を感ずるには、神は愛あるから、
    愛の波を自分の内に動かさねばならぬ。

静かに眼を瞑って、
「われはすべてを愛し
すべてはわれを愛す」

と「実相を観ずる歌」の一節を繰り返し念ずるがよい
―― その心のリズムのうちにわれわれは
   神を感ずることができるのである。

また神は「生命(いのち)」である。
すべてを生かしているのは神の生命(せいめい)であるから、
われらが神を自分のうちに感ずるためには、
すべてを生かす心を起したときに、その心のリズムの中に、
その心の波長の上に、霊感的に感応するところの神を感ずることが
できるのである。

だから神を心に感じようと思うならば、時々、寸暇を利用して瞑目心を静め、
「実相を観ずる歌」の一節 ――  

  「神は生命(いのち)にして
   我は神の子なれば
   我はすべてを生かし、
   すべては我を生かす」

と心の中に繰り返し繰り返し念ずるならば、
「個(ひとり)」と「全体」とのつながりの意識
が蘇生(よみがえ)ってきて、神を更に感ずることができるのである。

・・・

<参照>

【実相を観ずる歌】

         *「生命の實相」第8巻観行篇(P2~14)より

(一)
   神はすべてのすべて、
   神は完(また)き生命(いのち)、
   神は完(また)き英知(みちえ)、
   神は完(また)き聖愛(みあい)。
 
   すべてのものの内に、
   神の生命は生くる、
   神の英知は生くる、
   神の聖愛は生くる。

   神はすべてにして、
   すべて一体(ひとつ)なれば、
   よろずもの皆(みな)共通(ひとつ)の
   ちから是を生かせり。

   天地(あめつち)の創造主(つくりぬし)は、
   唯一つの神にませば、
   天地はただ一つに、
   いと妙に調和満つる。

   吾れ座す妙々実相世界、
   吾身(わがみ)は金剛実相神の子、
   万ず円満大調和、
   光明遍照実相世界。


(二)
   神は生命にして、
   吾れは神の子なれば、
   吾れはすべてを生かし、
   すべては吾れを生かす。

   神は愛にして、
   吾れは神の子なれば、
   吾れはすべてを愛し、
   すべては吾れを愛す。

   神は知恵にして、
   吾れは神の子なれば、
   吾れはすべてを知り、
   全てのもの吾を知れり。

   神はすべてにして、
   吾れは神の子なれば、
   吾れ祈れば天地(てんち)応え、
   吾れ動けば宇宙動く。

   吾れ座す妙々実相世界、
   吾身(わがみ)は金剛実相神の子、
   万ず円満大調和、
   光明遍照実相世界。

         <感謝合掌 令和3年7月11日 頓首再拝>

迷い心なし! 実相心あるのみ! - 伝統

2021/07/18 (Sun) 05:01:35


        *『光明道中記(7月18日 行届いた生活の出来る日)』より


【衆生固(もと)より仏。仏のみありて凡夫無きなり。
  光のみありて暗なきなり(『生命の實相』第十二巻)】

「さすがは神秀上座である」と衆人の前では讃(ほ)めてやりながら、ひとり自室に
招(よ)んで、衆人の前で恥辱を与えないで訓戒するその深く切なる心遣いが禅なのである。

慧能の悟りを認めてながらも、衆人と葛藤を起さしめないように、夜に慧能を訪れて法衣を
譲ると、夜のうちに姿を隠して落ちのびるように注意した其の深くこまやかな心遣いが
禅なのである。

茶道と言えば、茶を淹(い)れることの手先の技だと思い、割烹と言えば、料理をする
手先の技巧だとのみ思い、禅と言えば禅問答をして他(ひと)をやり込める詭弁術だと
考えている者は、この五祖弘忍の深い行き届いた愛を見るが好い。

行き届くのが禅なのである。
そして禅の生活こそ生長の家の生活であり、禅の悟りこそ生長の家の悟りである。

神秀上座の一句
「身は是菩提(さとり)の樹(じゅ) 心は明鏡の台の如し」にはまだ「肉体の存在」を
みとめ、「迷う心の存在」を認めている。

五祖弘忍が法衣を譲らなかった理由である
「菩提(さとり)には樹(じゅ)無し 明鏡は台に非ず」と明耿々(めいこうこう)たる
実相心のみを悟った慧能はまさしく生長の家の悟(さとり)に到達していた。

         <感謝合掌 令和3年7月18日 頓首再拝>

實相円満の相(すがた)を見よ - 伝統

2021/07/30 (Fri) 04:56:27


        *「光明法語」(7月29日~30日)より

七月ニ十九日の法語 超個人的精神上の観念

バークレーは、物は本来ないのであって、それは心が知覚するからあるので、
物とは個人の知覚の表象(かたちにあらわれたる)にすぎないと言った。

併しこれでは個々別々の人が、一様に薔薇の花を薔薇の花と見、
百合の花を百合の花と見るところの知覚の一致が説明出来ない。

そこですべての人に薔薇の花が薔薇の花と見える根拠として、個人を超越して
一切個人を包含して、薔薇の花を薔薇の花と見る原理となるべき、
超個人的精神上の観念(こころのすがた)のある事を預想しなければならぬ。

・・・

七月三十日の法語 實相円満の相(すがた)を見よ

この超個人的精神こそは神であって、
すべての存在は、神の心の上に思い浮かべられたところの観念であり、
神のコトバであると言うのである。

神の心中(こころのなか)観念はあらわれて一切の真象となる。
これは實相円満なる相(すがた)である。

併し、個人的精神は、この真象をそのままに見ず、迷ってこれを不完全に見る。
これを迷いと言い妄想と言う。

一切の現象は、ここに真象と偽象との混淆(こんこう)したすがたとなってあらわれ、
健康と病気と幸福と不幸と、交々(こもごも)相混じてあらわれる。

            <感謝合掌 令和3年7月30日 頓首再拝>

《人の完全なる実相を見よ》 - 伝統

2021/08/11 (Wed) 04:02:25


        *「眞理」第2巻基礎篇第13章(P365~366)より

「あんな人をどうして神の子と思えよう」と云うのは
現象の相(すがた)に捉えられて、その人の実相が如何に神の子であって
完全であるかを見ることが出来ないからである。

実相を見れば、すべての人間は神佛であって、
不完全な人や、悪人は存在しないのである。

若し吾らが或る人に対して「彼は悪人である」との想念を壊くなあらば、
吾らは其の人に対して「お前は悪人である」と
暗示していることになっているのである。

其の人の個性的独立が薄弱で、暗示感応性が鋭敏であればあるほど、
こちらの想念を感受して、それに左右される。

幼少年の如きは最も強く、
その保護者の抱ける想念を暗示として感受する。

保護者が、「この子は弱い体質の子だ」と考えると、
その想念の通りに虚弱な体質の子供となって了(しま)うのである。

         <感謝合掌 令和3年8月11日 頓首再拝>

《全能の神の愛の庇護の下(もと)に》 - 伝統

2021/08/25 (Wed) 05:00:29


          *「眞理」第2巻基礎篇第3章(P91)より

次のごとく瞑目(めいもく)して心をしずめて念じましょう。

そこから実相の完全荘厳なる世界が
現象界にもそのすがたをあらわしてまいります。

「吾れ今五官の世界を去って実相の世界に入(い)り、
 実相の完全荘厳なる世界を観ずるに、
 到る処に神満ち給うことを知るのである。

 到る処に神の愛が満ち給うことを知るのである。
 また到る処に神の智慧が満ち給うことを知るのである。

 神の完全なる平和が私を取巻いているのであって、
 私は如何なる条件の下(もと)におかれても
 心の平和を失うと云うことはないのである。

 神の愛は常に私を護りたまい、神の智慧は常に私を導きたまう。
 それゆえに私は恐れることを知らないのである。

 常に魂の奥底から明るい歓びが湧き出て来ることを感ずるのである。
 そして歓びは歓びを招くことになり、
 私は常に悦びに満たされた生活を送るのである。」

         <感謝合掌 令和3年8月25日 頓首再拝>

どんな人にも内在している「神性」(仏性)を拝む - 伝統

2021/08/30 (Mon) 03:13:15


          *「眞理」第2巻基礎篇第3章(P95~96)より
           《人を外見で批判してはならない》

人間をその外見や、服装や、生活習慣によって判断してはならない。
何人(なんぴと)をも外の形によって批判してはならないのである。

実相(じっそう)を観て
その「神性」(仏性)を拝まなければならないのである。

神は時として最も貧しき装(よそお)いをつけて
吾らの前にあらわれたまうことがあるのである。

イエスは「いと貧しき者に施したる愛はわれに施したるなり」
と教えていられるのである。

どんな人も皆、神の子であり、その神の子の性質が
何人(なんぴと)にも宿っているのであるから、どんなに悪く見える人も、
その奥に神性が輝いているのである。

あんな意地悪の人に「神性」など宿っているものか
と思われる時に於てさえも、実はこちらが
「相手を悪く観る心」が反映しているのである。

         <感謝合掌 令和3年8月30日 頓首再拝>

【 神は決して失敗しない 】 - 伝統

2021/09/13 (Mon) 05:02:27


       *『生長の家』(昭和25年8月11日の法語)より

何が失敗しようとも、
私は決して神が失敗しないことを知っているのである。

若し悪い事が起るならば、それは神が悪いのではない。
それは神から流入する力を自分が‘せばめ’縮めたに過ぎないのである。

神から流れ入る力を自分の恐怖心や疑い心で、
縮小してはならないのである。

自分は今あらゆる恐怖心から超越することが出来たのである。

なぜなら自分は現象にあらわれている不完全な相(すがた)を見ず、
ただ神のつくり給うた完全な世界と、完全なすべての人と、
完全な自分とのみを見るからである。

         <感謝合掌 令和3年9月13日 頓首再拝>

《人間の本来の完全さを諦視(ていし)せよ》 - 伝統

2021/09/22 (Wed) 05:00:10


       *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P219~220)より

人間は本来完全であるから、
その病気を治すと云うことも有り得ないのである。

病気はその人の「完全なる実相」が
包まれ蔽(おお)われているに過ぎないのであるから、
「病気を治す」ということは治すのではなく、
その「覆(おお)い」を除くと云うことにほかならない。

そして覆(おお)いを取り除いて
人間の実相の完全な相(すがた)を見たときが、
所謂(いわゆ)る「治った」と云うことである。

だから「実相覚」によって相手の病気を治そうと思う場合には、
その人は、「人間本来健全である」と云う真理によっく通達し、
現象的にどんなに不完全な相(すがた)が現れて見える場合にでも、
現象の不完全さに心が引っかからず、

「神その造りたるすべてを見給いけるに甚(はなは)だよかりき」

と云う如く、相手の完全なる実相(じっそう)を
神の如き心の眼(まなこ)もて諦視しなければならない。

         <感謝合掌 令和3年9月22日 頓首再拝>

瞑想し、實相のみをみよ - 伝統

2021/10/09 (Sat) 04:59:34


     *『生命の實相』幸福篇下第三十八巻(10月9日)より

眼を瞑って、瞑想せよ。

「人間は何であるか。人間は物質でない。肉体でない。
霊である。霊は金剛不壊である。だから黴菌に侵されることはない。

気候風土の変化によって病気になることはない。
霊は神通自在であるから、けっして不幸に陥ったり、
貧乏になったりすることはないのである」

しずかにこう念じて不幸を見るな、幸福のみを見よ。
病気を否定せよ。貧乏を否定せよ。健康のみを見よ。實相のみをみよ。

心の世界に、幸福のみによって輝く世界を、
健康と富裕とに祝福されたる自分の姿を見つめるのである。
これを毎日数十分ずつ続けよ。

           <感謝合掌 令和3年10月9日 頓首再拝>

実相は最大の力 - 伝統

2021/10/11 (Mon) 05:00:33


     *『生命の實相』幸福篇下第三十八巻(10月11日)より

実相は最大の力である。
それは「実」であるから、いかなる「虚」の力もこれに対抗することはできないのである。
一つの「実相」の想いは百万の「虚」の想いを打ち消す力があるのである。

われわれはどんな不幸が眼の前にあらわれて来ても、
それを「実」と見ないで「虚」であると見るのである。

われわれは見せかけの外貌を超えてそこに「実」にある「完全さ」を見なければならない。
暗(やみ)はどんなに深くとも、それは「虚」であり、
ニセモノであるから光には対抗することができない。

悪はいかに姿をあらわしても、それは「虚」でありニセモノであるから、
善には対抗することができない。

善のみ実在することを信ぜよ。
それを言葉にして語れ。
悪を言葉で否定せよ。

           <感謝合掌 平令和3年10月11日 頓首再拝>

吾等は唯、天の父のみ業(わざ)、それのみを観れば好い - 伝統

2021/10/14 (Thu) 04:58:55


       *「光明法語(10月14日《神の国の義しきを観よ》)」より

「先ず神の国と神の国の義しきとを求めよ。
其の余のものは汝らに加えられるべし」とイエスが言ったのは、

彼の祈りが、対立的な一々の現象の悩みを「あり」として
取扱わなかったことを示している。

そこには「悪」や「病い」を争闘や抗争によって撃滅する
何等の人間側の努力もない。
天の父がみ業(わざ)を為し給うのである。

吾等は唯それを観れば好いのである。

イエスが

「われみずからにては何事をも成し得ず、
 天の父われにいまして成さしめ給う」

と言ったのは此処である。

           <感謝合掌 令和3年10月14日 頓首再拝>

「真実の完全自己」を諦視せよ。 - 伝統

2021/10/16 (Sat) 04:40:34


     *『生命の實相』幸福篇下第三十八巻(10月16日)より

人を指導する場合に、われわれは相手の精神状態を回復せしめた程度にしたがって、
彼の肉体の状態を回復せしめることができるのである。

英語の回復すなわち ricovery は「取りもどす」と同じ字である。

「真実の自己」を取り戻した程度にしたがって人間は自己本来の「自由」を回復し、
自己本来の「自由」を回復した程度にしたがって「健康」も「財福」もおのずから
得られるのである。

本来完全円満万徳具有の「真実の完全自己」を諦視せよ。
「真実の完全自己」を想念せよ。
「真実の完全自己」のみを常に語れ。

心の中に、想念の中に、言葉の中に「真実の完全自己」を再発見した時にのみ、
本当に完全なる自己があらわれるのである。

           <感謝合掌 令和3年10月16日 頓首再拝>

「妙有の世界」今此処にありと肯定せよ - 伝統

2021/10/25 (Mon) 04:59:41


    *「光明道中記」(10月25日《月一回の恩を返す日》)より

【毎朝が新生である。吾らは朝ごとに新しく生まれ変わる。
                   (『生命の實相』第十二巻)】

(一)人空 ―― 曰く、

   物質の人間、肉体の人間は存在しないと否定せよ。
   而して「妙有の人間」を今ありと肯定せよ。

   「妙有の人間」は抽象概念の人間ではなく、
   現象肉体の人間よりも、尚一層具体的であり、
   尚一層金剛不壊であり、真清浄真無垢真健康なるが故に、

   それを自覚するとき、病気が頓(とみ)に癒えるのである。

(二)法空―― 曰く、

   物質の世界、不完全形態を物質的にあらわしている此の世界は
   空にして本来存在しないと否定せよ。

   而して「妙有の世界」今此処にありと肯定せよ。

   「妙有の世界」とは現象世界よりも一層具体的な
   金剛不壊の世界である。

   現象世界は具体的に見えていても崩れるが、
   「妙有の世界」は現象世界が破壊すると見ゆるときにも
   「わが浄土は安穏(あんのん)なり」と
   釈迦が「法華経」に於て説いたところも金剛不壊の世界である。

   金剛不壊と云っても祖元禅師が
   「電光影裡春風(でんこうえいりしゅんぷう)を斬る」
   と言った如き、風の如きエーテルの如きものであるから、
   斬っても斬れないと云うような頼りなき世界ではない。

   「宝樹華果(ほうじゅけか)多くして、
    衆生の遊楽するところなり、
    諸天天鼓を打ち伎楽を奏し、
    曼陀羅華を雨ふらして大衆(だいしゅ)に散ず」

   と「法華経」の自我偈にあるが如き
   具体的妙(たえ)なる世界である。

           <感謝合掌 令和3年10月25日 頓首再拝>

神の子の美を讃美せよ - 伝統

2021/11/03 (Wed) 05:04:48


       *「光明法語」(11月3日の法語)より 

《無いもの》 は否定する必要もない。
病気の姿を思念をこらして一所懸命否定するのは、
病気を 《あり》 と認めて、それに対して戦っていることになる。

病気は益々あるかの如くその姿を 《あらわす》 のは
「《ありと認めて》」 いる念の力に支えられて姿を現すのである。

病気の念を捨てなければならない。
吾らは病気に対して戦う事も否定する事も要(い)らない。

吾らはただ人間が神の子であること、
美しいこと、健康であること、老いない、死なない事を
讃美して歌をうたえば好いだけである。

           <感謝合掌 令和3年11月3日 頓首再拝>

《今、吾が生命を直視(じきし)せり》 - 伝統

2021/11/18 (Thu) 04:42:20


         *『生長の家』(昭和25年7月5日の法語)より

   吾が生命は 永遠に生きて死するものなきものである。
   吾は 今 永遠の生命を自覚したのである。

   吾は すでに みたされているのである。
   
   吾に煩悩はないのである。
   渇欲は もはや吾を苦しめないのである。
   罪は 吾を汚すことはできない。

   生滅するものは本当の存在でないから、
   それに対して吾が心を動かすことはないのである。

   吾は凡ゆる苦痛と悩みとの彼方(かなた)に超出したのである。
   吾は 今 絶対完全なる自由を獲得して
   神人の実相を実現したのである。

   五官の誘惑は 自分を もはや ひきつけないのである。

   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12

           <感謝合掌 令和3年11月18日 頓首再拝>

現象の奥に実相を見る - 伝統

2021/11/27 (Sat) 05:00:29


   *「光明道中記」(11月27日《現象の奥に実相を見る日》)より

【心を清く空虚にせよ、心の清き者は神を見ることを得。
                     (『生命の實相』第十四巻)】

どんな立派なものでも、浮世のものには、心を奪われまい。
浮世のものは崩れるものであるからである。

崩れるものであるからとてそれを避けまい。
崩れるものの中に実相の光明が輝いているからである。

現象を現象として追いまわすのではなく、現象の奥に実相を見出し、
それを顕し、礼拝するための行事が自分の生活であって欲しいのである。

自分と云うものが、実相でありますように、
自分と云うものが実相よりも低いものに心が捉われませぬように。

静かに日々の自分を省みよう。
速力が速いのが好いのではない。眼立つのが好いのではない。
数が多いのが好いのではない。
少くも好い。

実相があらわれれば好いのである。

実相はダイヤモンドのようなものであり、砂金のようなものである。
小さくとも価値高くして衆人の仰ぎ見るところのものである。
衆人に仰がるるためにダイヤモンドたらんとするのではない。

人間 固(もと)より仏、固より光明燦爛たるのである。
これを晦(くら)ましていたことを恥じ、
それを諦(あきら)かにするのが日々の行事である。

           <感謝合掌 令和3年11月27日 頓首再拝>

「迷い」を見ず、「実相」を直視して、その力を引き出すのが真の宗教家の使命 - 伝統

2021/12/04 (Sat) 05:08:14


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月4日)より

真の宗教は、生を明らめ、生きる道を明らかにし、
人間の生活をして真に幸福ならしめるところのものである。

真の宗教はけっして教会や寺院で勝手に定(さだ)めて、
それを信者に強制する教条や規則ではないのである。

その意味において、かえって職業宗教家よりも、自由思想家、
むしろ無宗教家と言われている人の
側に真の宗教を体得した人々があるということができるのである。

真の宗教はいわゆる宗教家の独占ではないのである。

真の宗教家はみずから真理を実践し、
みずから真理の生活をいとなみ、自己の生活に真理を実現し、
神の智慧と愛と生活とを具象化するものでなければならない。

人生の行路にはいろいろの迷える人が満ちている。
そして苦しんでいるのである。

ある人は病に苦しみ、ある人は経済苦に苦しみ、
ある人は家庭不調和に苦しむ。

真の宗教家はかかる人々に面していかなる態度をとるべきであろうか。

彼らと同一水準に降り来たって
一緒に同情の涙をかき垂れて号泣すべきであろうか。
それとも物質的な施しを与えて彼らを一時的に救うべきであろうか。

イエスはラザロの死せるを見たとき、
同情の涙を流したことが聖書に書かれている。

しかしいつまでも彼は泣いていなかったのである。
「死せるにあらず、寝(い)ねたるなり」と彼は言った。

同情して涙を流すは現象面のことである。
現象面にいつまでもわれわれは執(とら)えられていてはならないのである。

直ちにひるがえって実相健全の姿を見るとき、
かえってその相手は復活し救われるのである。

またイエスは病にて脚(あし)の立たぬ病人にただ
「起きて床をとり上げて歩め」と言っているのである。

「ああかわいそうに! 」と言って、一緒に倒れふし泣き濡れて
動けなくなっているのではないのである。

すべての人間は神の子であるから、
「起きて床を取り上げて歩む力」を持っているのである。
倒れているのは「迷い」の具象化にすぎないのである。
「迷い」に同情してはならないのである。

その「迷い」を見ず、「起(た)ちて歩みうる実相」を直視して、
その力を引き出すのが真の宗教家の使命であるのである。

真の愛と「苦痛を倶嘗(ともな)め」とは異なるのである。
苦痛に同悲して相手と一緒に墜落して泥まみれになるのは
真の宗教家のつとめではないのである。

         <感謝合掌 令和3年12月4日 頓首再拝>

《月が円満なるが如(ごと)く人間は円満なり》 - 伝統

2021/12/15 (Wed) 05:04:37


        *『 生長の家 』(昭和26年7月15日の法語)より

   この世界は 愛の神の造りたまえる世界であるから、
   そんなに争闘の満ちている世界ではないのである。

   吾々は 決して外界の誰とも戦っているのではないのである。
   吾々の戦っているのは 自分自身の心に対してである。

   自分自身の心を克服することによって 外界が克服されるのである。
   この世界は 神の創造し給(たま)える世界であるから
   悪いことは何一つ存在しないのである。


   それはたとえば円満なる満月の如くである。

   それが曇って見えるのは、満月そのものが曇っているのではなく、
   雲が曇っているのを 月が曇っていると間違えているようなものである。

   実相は永遠に曇らないのに、
   人間の心が曇って 実相が曇ったように見えるに過ぎないのである。

   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/0437d51f25999f55b68c183ace073cec

         <感謝合掌 令和3年12月15日 頓首再拝>

《如何なる場合にも相手の仏性を見よ》 - 伝統

2021/12/18 (Sat) 05:06:33


        *『 生長の家 』(昭和26年5月14日の法語)より

   人の表面の言葉や、行いで、其の人の愛を疑ってはならない。
   現象を見て人を審判(さば)いてはならないのである。
   どんな人にも仏性が宿っており、キリストが宿っているのである。

   たとい誰かがあなたの感情を害することを云おうとも、また行おうとも、
   相手に対して憤りの感情を起すよりも、

   「 あの人が幸福になりますように 」 とか、
   「 あの人の“ 神の子 ”さんがあらわれますように 」 とか
   祈ってやる気持になる方が、
   自分の心に平和と幸福とが訪れて来るのである。

   そして終(つい)には相手を感化して、
   真に相手を深切な人に化することが出来るのである。

   特に自分に病気のある場合は人を憎んではならないのである。

   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110

          <感謝合掌 令和3年12月18日 頓首再拝>

《静かに坐して実相を観(み)よ》 - 伝統

2021/12/25 (Sat) 06:44:59

        *『 生長の家 』(昭和26年7月18日の法語)より

   神を知り、神の無限供給と連繋(れんけい)しさえするならば
   富は 自然に流入するのである。

   と云うと 神は「 外にある無限力者 」 だと思うかも知れないけれども、
   神は一切所に充ち満ちていられながら、
   「 わが内に 」 その表現の意識的中心があると云うことが分かるならば、

   吾々は、外界の事情や、他の人々のはからいで、
   自分の幸福が奪われたとか、出世がおくれたとか、
   儲かる筈(はず)が損になったとかは 決して考えないのである。

   静かに坐して 神の完全なるを観ぜよ。
   そして神の無限の愛と智慧と、無限の供給とを観ぜよ。

   観ずる程度に従って
   実相の円満完全な相(すがた)があらわれて来るのである。

   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/379ab23c8551c38c4fb493db9ffed702

          <感謝合掌 令和3年12月25日 頓首再拝>

そのままが仏であり、打てばその仏が顕われる - 伝統

2022/01/22 (Sat) 05:05:51


   *「光明道中記」(1月22日《九族生天踊躍(しょうてんゆやく)の日》)より

【吾らは初めから如来であり、成仏している。(『生命の實相』第一巻)】

金の純分のみが金となるのであって瓦を磨いて金とするのではない。
凡夫が仏になるのではなく、凡夫が消えて仏があらわれるのである。

凡夫の《はからい》が「雑行雑修」と言って真宗で排斥せられるのも、
凡夫が如来になるのではない証拠である。

仏と仏とに伝えてよこしまなることなきが禅である
と道元は『正法眼蔵』で喝破している。

たとい吾等が汚れたように見えようとも、
人間は本来汚れているものではあり得ないのである。

発止として自覚の灼熱状態に於て打たれるとき、
人間はその仏なる実相を露呈する。

そのままが仏であり、打っても打たなくとも仏であるが、
打てばそれがあらわれる。

打つのに色々な打ち方がある。
昔は「お前は悪い奴じゃ。もっと修行せよ」と言って打った。
 
生長の家は

「お前は善い本性を無尽蔵に有っている。励めば励むほど、出せば出すほど力が出る」

と言って打つ。

どちらが効果があるかは既に実証済である。

         <感謝合掌 令和4年1月22日 頓首再拝>

實相に於いて彼を見よ - 伝統

2022/01/28 (Fri) 04:54:10


      *「光明法語」(1月28日《常に己の心を清むべし》)

人をさばくこと勿れ。
人はそのことばや行ないによってさばいてはならないのである。
實相に於いて彼を見なければならないのである。

人を實相によってよき人であると見ることが出来たならば
その人はよき人と現れるのである。

もしその人がよき人と現れなかったならば、それは相手が悪いのではなく、
自分自身が實相を見る力の修練が足りなかったからなのである。

あらゆる人間にキリストなるものが宿り、
佛性が宿り、すべての人間が神の子であり、
佛の子であることを自覚する時どこにも悪しき人はいないのである。

         <感謝合掌 令和4年1月28日 頓首再拝>

実相を知る悦びは、肉体の御利益を超越している - 伝統

2022/02/03 (Thu) 05:02:38


        *『生長の家』(昭和25年7月21日の法語)より
         ~《実相は肉体よりも尊い》

   実相を自覚したものは、
   現象界のどんなさばきに面してもその心は平静である。

   彼は肉体の快楽に誘惑されるということはない。
   肉体の快楽以上の深い喜びを知っているからである。

   彼は物質の損失に心もだえることはない。
   なぜなら彼は実相円満な無限の供給を
   魂の中に把握しているからである。

   天地は失せても魂の喜びが消えないほどの境地に達したものほど
   実相を悟るものだといわなければならないのである。

   古人曰(いわ)く、
   朝(あした)に道をきかば夕べに死すとも可なりと。

   実相を知る悦びは、肉体の御利益を超越しているのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12

         <感謝合掌 令和4年2月3日 頓首再拝>

実相(ほんとのすがた)に目覚めよ - 伝統

2022/03/02 (Wed) 05:06:19


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月2日)」より

啓示の第二 ――

人間は完全である。人間に病気はない。
これは第一の創造である。エロヒム神の創造である。
「創世記」の第一章にある創造神の名は、エロヒム神である。

人間には病気がある。神は土の塵にて造られたるゆえに土の塵に還らん ―― 
これは第二の創造であり、エホバ神の創造、「創世記」第二章以後の創造である。

エホバ神の創造した人間は本質において「土の塵」であるがゆえに、
本質においてエロヒム神の創造したものを神へと背反させた。
換言すればすべての被造物をエデンの楽園から追い出したのである。

かくして「エデンの楽園」から追放せられたる人間は苦しみて食を得、
苦しみて子を生むことになったのである。

しかし、エデンの楽園の世界のほかに国土があるだろうか。

神 ―― 全智にして、全能、無限愛にして救いの行きとどいている神が
「その造りたる全てのものを視(み)たまいけるに甚(はなは)だ善かりき」
とある以上は、すなわち、すべての国土はエデンの楽園であったのだ。

エデンの楽園のほかに国土はない。

このエデンの楽園なる国土を実在の国土または実相の国土という。

実在の国土のみが《ある》。実相の国土のみがある。エデンの楽園のみがある。
エデンの楽園から人間を逐い出しても人間が行くべき国土は造られていない。
だから人間は常に今エデンの楽園に住んでいるのだ。

そこでこういうことがわかる。
《真実の人間》はどうしてもエデンの楽園から追放され難きものである。

もし神の造り給いし実在の国土に、
エデンの楽園以外のごとき不完全な世界があると
予想するならば神を冒涜するものである。
神を涜(けが)すものである。

では、真実の人間はエデンの楽園を決して逐い出されてはいない
 ―― この実相(ほんとのすがた)に目覚めよ。

そしたら「誰が?」エデンの楽園からエデンの楽園以外の「どこへ?」
逐い出されたのであるか。

誰が? どこへ? 

答えて曰く ―― 「無い人間」が、「無い世界へ」逐い出されたのである。

神は決して、罪を犯すような悪の人間をこの世界に造っておかなかったし、
そんな人間をとじ込めておく牢獄的世界を造ってもおかなかったのある。

            <感謝合掌 令和4年3月2日 頓首再拝>

現象を見ず実相の完全を観よ - 伝統

2022/03/13 (Sun) 06:39:48


           *「光明法語」(3月13日)より

何故、光明皇后がらい病患者を愛したまうたように、その膿血(のうけつ)
ながれる背中に接吻されたように、醜くあらわれている人々をも
吾らは愛することが出来ないか。

それは現象を見るからである。

現象を見れば膿血はきたない。
膿血は愛することは出来ない。
膿血を愛すれば膿血は増加するばかりである。

膿血の奥にある光明かがやく生命を観ることである。
そのとき膿血は消えさり、光明輝く實相があらわれる。

人間の現象の欠点を見ず、現象なしと知ってのみ
その人間の神性を本当に愛することが出来るのである。

            <感謝合掌 令和4年3月13日 頓首再拝>

心の眼をひらいて実相を見よ - 伝統

2022/03/27 (Sun) 08:01:04


           *「光明法語」(3月27日)より

「身の燈火(ともしび)は目なり、汝の目ただしくば、全身あかるかん」
(「マタイ伝」第六章二二)
とイエスは言っている。

これは肉体の目ではなく、心の眼、「内の光」である。

心の眼をもって自己内部の実相円満なることを
照らし出(い)だせば全身は明るくなり、
健康となるのである。

全身が健康になるばかりでなく
環境・境遇が調和し、豊かなる供給が集まり来るのである。

だから心の眼をひらいて

「神の国と神の国の義(ただしき)とを求めよ。
 然らば凡てこれらの物は汝らに加えらるべし」

と教え給うたのである。

            <感謝合掌 令和4年3月27日 頓首再拝>

《實相の完全さのみを観よ》 - 伝統

2022/04/06 (Wed) 07:12:20


           *「光明法語」(4月6日)より

神の国の完全さを観るためにこそ神想観すべきであって、神想観をしたら、
こんな現実的結果が得られるから神想観をすると云うのであってはならない。

それは”結果想観”であって神想観ではないのである。

結果は心の波の投影であるから、”
純粋に”神の国の完全さを観ることが出来れば結局、
現実世界にも其れに相応しい好結果が得られるのである。

結果を思わず、純粋に實相の完全さのみを観ずれば、
ただそれだけで好いのである。

實相のみ實在であるからである。

            <感謝合掌 令和4年4月6日 頓首再拝>

「 迷いの心 」 はない、「実相の心」のみある - 伝統

2022/04/20 (Wed) 07:39:10


       *『 生長の家 』(昭和25年10月7日の法語)より
        ~《「 迷いの心 」 はない》

   「迷いの心」「迷わぬ心」「実相の心」「仮相の心」
   そのような二元論的な考えは間違である。

   ただあるものは「実相の心」のみである。

   本当に存在する心は「実相の心」のみであるから、
   「迷いの心」などと云う語は或(あ)る意味から云うと、
   間違った語法である。

   真実存在する心は唯「神の心」のみであるから、
   「迷いの心」とは単に「非存在の心」と云う意味である。


   慧可禅師(えかぜんじ)が『この心迷って仕方が御座いませぬ』
   と云ったときに、達磨大師(だるまだいし)が
   『その迷いの心を持って来い』と云った。
   慧可は「その『迷いの心』を探したが見つからない」と答えた。


   「迷いの心は無い」これが達磨の悟りであり、慧可の悟りであった。

   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=85

         <感謝合掌 令和4年4月20日 頓首再拝>

相手の実相を信じ、相手の本当の自由にまかせる - 伝統

2022/04/23 (Sat) 07:37:55


        *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月23日)」より

竹はすべて真っ直に成長するのが本性であり、
藤蔓(ふじづる)は巻きつくのが本性であり、
笹芝(ささしば)は地を這うのが本性である。

そのそれぞれに美があり、個性があり、
個性の中に天意があり、神がある。


竹をして竹たらしめよ。
藤蔓をして藤蔓たらしめよ。
笹芝をして笹芝たらしめよ。

藤蔓をして竹のごとく真っ直ならしめんとし、
竹をして藤蔓のごとく巻きつかしめようとする時、
竹も枯れるであろうし、なおいっそうよくないのは、
かく外部から強制せんとしつつある
自分自身が奔命(ほんめい)に労(つか)れて滅んでしまう。

人をいわゆる「自分の尺度」で測って善ならしめようとして、
相手をそこない、自己をそこなっているのはちょうどこれと同じである。

人はその類の異なるようにその個性も異なり、
事物に対する観察も異なるのである。

すべての人々の観察意見をまったく自分と同意見にしてしまおうと思うならば、
それは結局不結果に終わるほかはないのである。

そして得るところはただ、汝自身の焦躁疲労と、
相手の人々からの嫌悪とに終わってしまうのである。

誰でも他の意見に強制されるのは嬉しいことではないから、
あまり傲岸に人がその意見を強制する場合は、その人は嫌われるほかはない。


決して相手を縛って導こうとしてはならないのである。
自分自身が得ている真理で何か相手にささげる実行的奉仕をなしつつ、
相手自身を相手の思想にまかせておくのがよいのである。

相手の「神の子たる善さ」を信じてその自由にまかせておくのである。
かくて人は本当の自由にまかせられるとき、
回っている独楽(こま)を触らないで自由に委すとき、
心軸を中心として立ち上がるように正しく生きるようになるのである。

         <感謝合掌 令和4年4月23日 頓首再拝>

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