伝統板・第二
真理の生活 ⑧ - 伝統
2020/11/03 (Tue) 04:58:03
濁り水を捨て、真理の水を注げ!
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月3日)より
生命(せいめい)の清水(しみず)を注ぎ込むには
全部の濁り水を捨ててから、注ぎ込むことが必要である。
濁り水を残しておいて清水を注ぎ込んでも、われわれは依然として濁り水を見るのみである。
怒り、憎み、恐怖、利己心、冷酷・・・等、すべて愛に背く心を残しておいて
『生命の實相』を読んで真理を注ぎ込んでみてもなんにもならぬ。
せっかく清冽(せいれつ)な真理の水が濁るばかりである。
よき衣装をまとうには、古き弊(やぶ)れ衣を脱ぎ捨てねばならぬ。
襤褸(ぼろ)の上に美しい衣装をまとってみても不似合なばかりである。
心の襤褸の上に、真理を羽織ってみても効果はない。
真理をまとうくらいならば、今までのものを全部捨てて真理を着ねばならぬ。
・・・
<関連>
(1)伝統板・第二「真理の生活 ①」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6971129
(2)伝統板・第二「真理の生活 ②」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7583747
(3)伝統板・第二「真理の生活 ③」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7707100
(4)伝統板・第二「真理の生活 ④」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7796617
(5)伝統板・第二「真理の生活 ⑤」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7854421
(6)伝統板・第二「真理の生活 ⑥」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7934282
(7)伝統板・第二「真理の生活 ⑦」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7988886
<感謝合掌 令和2年11月3日 頓首再拝>
《最初の一回が大切である》 - 伝統
2020/11/05 (Thu) 04:11:21
*『 理想世界 』(昭和42年7月10日の法語)より
“一ぺん位良いだろう。なんでも経験してみなければ分らない”
などといって
煙草を喫んでみたのが抜きがたい喫煙壁の始まりであったり、
一ぺん競馬、競輪に賭けてみたとき、
旨く大穴に当てて賞金がとれたのが病みつきで、とうとう働かずに
賭け事ばかりの熱中して財産も人格も滅茶苦茶にしてしまう人もある。
“一ぺんは赤線街を覗いてみないと話にならぬ”と
遊里に足を踏み入れたのが因で、商売女にひっかかって
生涯を堕落に身をもち崩すことになる人もあるのである。
小事大切、最初の一回が大切だ。
トルストイの『復活』の女主人公カチューシャは、一回だけ、
その雇主なる公爵の息子ネフリュードフに貞操を犯されたのが因で、
その生涯を堕落せしめることになったのである。
”行為”は一回であっても”業”をそこに造るのであり、
“業”は“業”自身の力によって自動し始める。
そして人間は往々、この”業”の自動力に
引きずり廻されることになるのである。
これを「業力によって転ぜらる」というのである。
http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6956412
<感謝合掌 令和2年11月5日 頓首再拝>
永遠価値のものを愛し、考え、求めよ! - 伝統
2020/11/06 (Fri) 04:48:28
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月6日)より
万事物質的なものは遷りかわるものであり、
その遷りかわるものに心惹かれているかぎりは、
波にさらわれた小舟のようなものであって不安は去らない。
われわれは遷り変わらないものを愛しなければならぬ。
永遠価値のものを愛しなければならぬ。
絶対的なものを愛しなければならぬ。
すべて心を労してもとめても、
やがて価値の変わるものに心を労してはならぬ。
神より出ずるもの、神の属性であるもののみ無限価値がある。
愛は無限の価値あるものである。
赦しは無限価値あるものである。
忠、孝はむろんのこと、
すべて肉体を超えて永存する価値のことを考え、求めねばならぬ。
<感謝合掌 令和2年11月6日 頓首再拝>
肉体を思い煩うことなかれ! - 伝統
2020/11/09 (Mon) 04:14:03
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月9日)より
人間は神の子であるということが覚れたら、人間は肉体のことを思い煩わなくなる。
思想の上では「人間は神の子だ」と知りながら肉体のことを思い煩っている間は、
なおその人の本心は、「人間は肉体であり、物質である」と信じているのであって、
自分は「人間は神の子だ」と覚っていると言っても自己欺瞞にすぎない。
神のほかに何物にも頼らなくならなければ本物ではない。
そしてだれにも責任を負わせないで、
自分のみが責任を負うようにならなければ本物ではない。
<感謝合掌 令和2年11月9日 頓首再拝>
《心の窓を閉じて自分を護ること》 - 伝統
2020/11/10 (Tue) 04:53:44
*『 生長の家 』(昭和26年7月8日の法語)より
外に寒い風が吹きすんだり、あまり外に埃(ほこり)が立つときには
諸君は 窓をしめて、その風や埃が吹き込まないようにするであろう。
それならば、誰かが貴方の心の中に激情の嵐を吹き込ませたり、
怒りや憎みや悪口雑言(あっこうぞうごん)の埃を
吹き込ませたりするときに
何故 あなたは自分の心の窓をひらいていて、
その嵐で自分の心の中をさわがせたり、
吹き込んで来る怒りや憎みの埃だらけの心にしてしまうのであろうか。
人が誰(だれ)かの悪口を云うときには 自分の心の窓を閉じよ。
人が汝を悪しざまに云うときには 自分の心の窓を閉じよ。
人が病気の話をするときには 自分の心の窓を閉じよ。
http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/12077fefc563c08d3dacc9c17d7a7a3f
<感謝合掌 令和2年11月10日 頓首再拝>
《あなたの魂の平和を護りましょう》 - 伝統
2020/11/14 (Sat) 05:01:57
*「眞理」第2巻基礎編第6章(P178~179)より
外に起った事を嘆いて、
自分の最も大切な魂を傷つける事は実に愚かなことである。
外界に何が起ろうとも、貴方がそれによって心を動かしさえしなければ、
貴方は外界の何物にも傷つけられる事はないのである。
吾らは外に起った事を知ることは出来ないので、
自分の心の中に起ったことを感ずることが出来るだけである。
外に起ったことを知っているかの如く見えても、
実は、外に起ったことを契機として起った
自分の心の中の動きを知っているだけである。
だから自分の心さえ悦べば、外界に何が起ろうとも悦べるのである。
外界の何物にも動かされず、
毅然として自己の内の魂の平和を護り得る者は強者である。
<感謝合掌 令和2年11月14日 頓首再拝>
《“粗暴”の種を蒔いてはならない》 - 伝統
2020/11/15 (Sun) 04:49:55
*『 理想世界 』(昭和42年7月1日の法語)より
ある有名な哲人がいった言葉には、
「ある行為の種を蒔けば、吾らは習慣というものを穫りとるのである。
習慣の種を蒔けば自分の性格というものを収穫する。
自分の性格という種から自分の運命というものが実るのである」と。
一寸した行動が粗暴であること位は何の悪い影響もないかの如く考えられ勝ちで、
若い人たちは、一寸した日常の動作を粗暴にやってのけてそれで
“元気溌剌”たる若人の特権の如く考えていることが多いらしいが、
それは毎日”粗暴”の種子を蒔きつつあるのであり、
それが習慣となって生長し、ついには世界の平和を掻き乱す
恐るべき果実をみのらす結果ともなることを考えるならば、
少年だからとて日常の行動を粗暴にしてはならないのである。
元気と粗暴とは異る。
http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6956412
<感謝合掌 令和2年11月15日 頓首再拝>
善いところへ目を向けるのが悟りというものである - 伝統
2020/11/16 (Mon) 03:27:48
*「光明道中記」(11月16日《自在無礙の日》)より
【見えないものだけが本当の存在である。(『生命の實相』第二巻)】
秋野孝道師は自分の先輩西有禅師が赤痢に罹ったときの
心境と生活態度を時々話して感嘆せられてものであった。
「西有禅師が赤痢をやった時に私は感心した事がある。
看護婦が来て便器を持って尻の処へ当てて居る。
それに眼鏡を掛けて『元字脚(げんじきゃく)』という本の
下見をして居った。
目が凹(くぼ)んで了って、日に何十回と下痢をするので
声なども嗄(か)れて居る位。
私は見舞いに行って見ると、巡査は向うの縁側に腰を掛けて居る。
私が、こんな大患で貴僧本を見ては身体に障(さわ)るでしょう。
と云うと、
『ナニ見る方は見る方放(ひ)る方は放る方でやるさ』と
小さい声で言って居った。
ナカナカそんな本など見て居れる時ではないは、
其の時の老師の狂歌があったけれども忘れて了った。
老師の境涯は実に病不病を離れて了っているのであります・・・」
秋野孝道師は西有禅師の善いところへ目を向けた。
それが悟と云うものである。
見る相手方が光って見えたとき此方(こちら)が光っているのである。
見る相手が曇って見えたとき此方(こちら)が曇っているのである。
若(も)し秋野孝道師が西有禅師を評して、
「西有禅師ともあろうものが赤痢にかかるなんて何の《ざま》だ」
などと考えたとしたら秋野氏は地獄の鬼の心になったのであろうに。
<感謝合掌 令和2年11月16日 頓首再拝>
『真理の要項』 - 伝統
2020/11/18 (Wed) 05:01:57
*『生長の家』(昭和25年3月創刊満二十周年記念号 巻頭言)より
ただ真理のみを語れ。
多言なるべからず。
多言なれば調子にのりて虚偽を語ることあるべし。
ただ優しき言葉のみを語れ。
烈しき語調の言葉は深切より出づる場合にも、憎悪をもって語らるる言葉なりと
誤解せらることあり。
心の中にても、言葉に現しても、行いにあらわしても、人を傷つけてはならない。
誠実であれ。 虚偽であってはならない。
素直に、直截に、かまえることなく、そのままの心で生活し、行い、言わねばならぬ。
値いなしに受けようとしてはならぬ。
肉体の汗か、心の汗か、金銭か、物質的な贈物か、
いづれにせよ何らかの値いを払って受けよ。
値いなしに受けたものは、何時かは奪い返されることがある。
自己の生活が気尚(けだか)き基礎に立つかどうか顧みよ。
汝の生活を、愛と赦しと忍耐との上に築きて、怒りと憎みとを常に支配せよ。
怒りと憎みとは神と汝を隔てる最も大なる敵である。
常に朗らかであれ。
不快なこと、争いのこと、憎むべきこと、人の悪しきことを忘れ去れ。
忘れ上手が光明生活の第一歩である。
恩を忘れてはならない。
恩を忘れる者は根を培わない樹木の枝の如く、
一時は生花の如く美しくとも やがて枯れてしまうであろう。
人に深切をつくすのが最善の宗教である。
ただ教えの説教師になってはならないのである。
一日一回以上、出来るだけ自分の利益にもならない事で、純粋に人のために尽せ。
純粋で無我でつくすことは、其の事自体が神に通ずる祈りである。
無我の愛でささげたる奉仕は神に献げたことになるのである。
https://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p15.html
December 4, 2013, 4:36 am
<感謝合掌 令和2年11月18日 頓首再拝>
鳥飛んで跡を残さぬ心で深く行ずる - 伝統
2020/11/21 (Sat) 04:43:59
*「光明道中記」(11月21日《味わい深い人になる日》)より
【家族に礼を言うこころになれ。(『生命の實相』三巻)】
親が死んでも泣かぬのが悟ではない。
大いに泣いて後が残らぬのが悟である。
弟子が下手に音楽を奏するならば、
その下手さがよく判って不快なのが悟である。
時にはその下手さに腹が立って弟子を擲(う)っても悟である。
禅家ではよく先輩が三頓(とん)の棒や三十棒を喰わせると言うが、
雪の積った竹を叩くのは、
竹を憎むからではなく竹を愛して雪を払ってやるためである。
叩かれて相手に咬み着く犬の様な心にはなりたくないものである。
と言って私は叩くことを奨励する訳ではない。
何事が起っても、淡々として空言のような顔をして
空嘯(そらうそぶ)いている人には深い味わいは感じられない。
味わいの深い人は、やっぱり人間味の深い人であると思う。
じっと人を抱きしめるような思い、一緒に咽(むせ)び泣きたい思い、
味方のチームが優勝したといっては歓喜の乱舞をしたい思い、
病人を見ては何とかして救ってあげたい思い・・・
現象は無いことは無いとして、心に跡を残しはしないが、
その時、その時の、出て来ることに
真剣に魂の底から感じて行ける人間は味がある。
併し、いつまでもクヨクヨ思っているのは見苦しい。
文殊菩薩が維摩を病問に来たときに「不来の相で来た」と云う語があるが、
「鳥飛んで跡を残さぬ心で深く行ずる」ことが大切である。
<感謝合掌 令和2年11月21日 頓首再拝>
【神仏を敬い、陰徳を積む】 - 伝統
2020/11/22 (Sun) 04:12:38
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2020.11.13)より
(神主、帝塚山(てづかやま)大学客員教授、
岡本彰夫(あきお)氏の心に響く言葉より…)
《天に無禄の人を生ぜずといえり》(南北相伝極意・相伝修身禄)
江戸時代に、水野南北先生という相学者がいました。
相学者とは、「人相見」です。
先生が一生を費やして、どうすれば人は幸せになれるのか、
運を開くことができるのかを追求し、世に遺された本が、
五冊からなる『南北相伝極意・相伝修身禄』なのです。
この本の初めに「天に無禄の人を生ぜず」とあるように、
先生は「食を大切にせよ」ということを、大きな眼目としていました。
私たちがおぎゃーと生まれてくるときに、
天はすべての人が幸せになるための「物」や「事」を用意してくださる。
人は誰でも、それを持ってこの世に生まれてくるのです。
神様は「この人は一生のうちにこれだけのお米を食べ、
これだけのお酒を飲み、何着の服を着て、何枚の紙を使える」など、
食や物を保証してくださっている。
だからこの世に「食べていけない」人はいない、ということです。
神様は私たち一人ひとりに見合った、幸せの弁当箱を持たせてくださいます。
この弁当箱は、私たちが生きている限り
大事にしていかなければならないものです。
食べ物を粗末にしたり、むやみに食べすぎてはいけません。
後や先を考えずに早弁をすると、
肝心なときに食べる物がなくなり、お腹をすかせることになります。
これは食べ物だけに限ったことではありません。
苦楽もそうでしょう。
もし一生のうちに、その人が苦労しなければならない分量
というものがあるとすれば、若いうちにセッセと苦労すると
老いてから幸せになり、
逆に若いうちに楽しみを尽くしてしまえば、
あとは苦労しか残っていないということになります。
天からいただいた弁当箱は無限ではありません。
人としての努力や精進が必要です。
そして、この弁当箱がある限り、
天は必ず私たちをご覧になっているのです。
「私さえ良ければいい」という考えではいけません。
「人様のために」と考えて行動する人には、
必ずそのお褒めが天からあります。
しかし、結果を求めて行動してはなりません。
心から「人様がお幸せに」と思ってする純真な行為にこそ、
天のお褒めがあるのです。
<『神様が持たせてくれた弁当箱』幻冬舎
https://amzn.to/2IuYqGt>
・・・
本書の中に「人相の達人」の話があった。
『江戸時代に人相の達人といわれた、
五嶽道人(ごがくどうじん)の逸話をご紹介しましょう。
あるとき、五嶽道人が
多くの弟子を引き連れて街の中を歩いていたところ、
向こうから大きな米袋を担いだ人が歩いてきました。
道人はその人の顔を観て、
咄嗟(とっさ)に「今に大騒ぎがおこるぞ」といいますが、
注意の言葉も与えずに、そのまま通り過ぎて行ったのです。
しばらくして、後方で人々の「ワーッ」という声がまきおこり、
一行が後ろをふりかえると、その米袋が裂け、
道にお米が散乱して大騒ぎになっていたといいます。
この出来事が、後日悪い評判となりました。
相を究めた五嶽道人ほどの人物なら、
危ない相を観た途端、すぐさま注意して、
未然に防ぎ止めてやれたはずだというのです。
相を研究して、それで生計を立てているプロならば、
その力は人の幸せのために役立てるべきであって、
「どうだ、当たったであろう」とほくそえむだけならば、
単なる「アテモノ」にしかすぎないだろうと、当時の人々は評価したのです。
ところが、相というものは、
心掛けによって刻々と変化する、いわば「活物」とされています。
また昔から、人相見の敵は、
「神仏祖先を敬っている者と、陰徳積善をする者」だともいわれています。
つまり、いくら悪い相が出ていても、
心から神仏を尊んでいる人と、
常に徳を積んでいる人には「冥加」があって、
見えない世界の力で未然に助けられるので、鑑定がはずれてしまうというのです。
人相は医学の発達もみない時代に研究された事例の積み重ねです。
いわば、統計学なのです。
しかし、それをさらに超える偉大な力が存在することにも気づかねばなりません。』
昨今は、神仏や祖先を敬うと言っても
なかなかそれがすんなり通じない時代だ。
家に、仏壇や神棚がない家も多く、
お墓参りやお朔日(ついたち)参りなどの神社参拝の習慣がないからだ。
親が日頃、神仏を敬っていれば、
言わずとも子供も自然にそれに倣(なら)う。
実は、年齢を重ねれば重ねるほど、神仏への崇敬の念が必要となる。
なぜなら、だんだんとあの世に近くなってくるからだ。
そして、同時に陰徳を積む必要がある。
陰徳とは、人に知られることなく、密かにする良い行いのこと。
「陰徳陽報(いんとくようほう)」(淮南子・えなんじ)という言葉がある。
陰徳を積めば、必ずよい報いが現れる、ということ。
良いことをすると、すぐに誰かに言いたくなるのは人情だ。
しかし、そこをグッと我慢する。
しかも、それをSNSなどで発信してしまったら、陰徳にはならない。
神仏を敬い、陰徳を積む人でありたい。
<感謝合掌 令和2年11月22日 頓首再拝>
一歩一歩毎日歩く - 伝統
2020/11/25 (Wed) 06:03:36
「光明道中記」(11月25日《一歩一歩撓(たゆ)まず歩く日》)より
【艱難の来る毎に吾らは生命の潜(かく)れていた力を発現する。
(『生命の實相』第四巻)】
私は一歩一歩毎日歩くことだけは努めて行きたい。
私には他の人のように駆歩(かけあし)する力はない。
常に駆歩している者はついに倒れてしまうであろう。
痩我慢(やせがまん)か知らないが、
ただ撓みなく日々に歩いて行く者だけが最後の勝利を得るのだと思う。
然(しか)し自分の力のみで歩いてはならない。
常に神を呼びつつ進まなければならない。
大股に歩いては長時間歩くことは出来ないのである。
犬を伴れて歩いて見るとその事がよく判る。
犬の方が人間より歩くのに疲れないし、速力なども早いのである。
人間の眼は光がなかったら見ることが出来ない。
自分の智慧で見、自分の智慧で計(はか)らって見たとて、
事はなかなか成就するものではない。
神智に照らされたときのみ何事もすらすらと進行するのである。
功に誇る者が神智を失うのは、
山上の水は使い切ったら補給の道がないようなものである。
功に誇ってはならない。
われみずからにて何事をも成し得ずであるからである。
若し神がいなかったら、また若し神が私を導いて下さらなかったら
今日の私はないであろう。
今日の私があるのは、
「私」があるのではなくて「神」がある《のみ》である。
神に感謝しないでいることは実相を晦(くらま)すものである。
<感謝合掌 令和2年11月25日 頓首再拝>
時間を空費するなかれ - 伝統
2020/11/29 (Sun) 05:01:04
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月29日)より抜粋
人間の一生涯の時間を平均35万時間だと計算した人がある。
フランクリンは
「君は自己の生命(せいめい)を愛するか。
然らば、けっして時間を浪費してはならない。
なぜなら時間こそ君の生命(せいめい)が造られている実質であるから」
と言ったということである。
時間の貴重さは、『生命の實相』の生活篇の第一章にも書かれていることであって、
空費されたる時間は再び取り返すことができないのである。
時間を空費する者は時間を殺しつつあるのであり、
時間を殺しつつある者は自分の生命を殺しつつあるのである。
無駄に過ごされる時間に、何が行なわれつつあるかといえば、その間(かん)に
人は健康を失いつつあり、若さを失いつつあり、人格がもっと輝き出るはずのものが
失われつつあり、学識経験からもっと広くなるはずのものが失われつつあり、
掴(つか)めばすばらしい幸運がひらけてくる機会を放棄しつつあるのである。
<感謝合掌 令和2年11月29日 頓首再拝>
《気尚(けだか)く生きよう!》 - 伝統
2020/12/01 (Tue) 04:55:09
*「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月1日)より
もっともっと気尚(けだか)く生きよう。
最も気尚(けだか)いことのほか何事も考えまい、
最も気尚(けだか)いことのほか何事も為すまい。
他(ひと)を助けよう、
他(ひと)のためになろう。
他(ひと)に愛を注ごう。
愛を注げば
愛が自分に還(かえ)って来る。
悪い人というのは本来一人もない、
地獄というものも決してない。
悪いことがそこに語られるとき
そこが地獄であり、
それを語る人が悪い人である。
汝の世界に天国浄土を実現せんと欲するならば
決して人の悪を語るな、
決して人の悪を思うな、
天国を目指しつつ人の悪を語るものは
必ずや穽(おとしあな)に陥(おちい)って地獄へと墜落せん。
<感謝合掌 令和2年12月1日 頓首再拝>
【アタマは低く、アンテナは高く】 - 伝統
2020/12/04 (Fri) 04:28:37
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2020.11.14)より
(浜松医科大学名誉教授、高田明和氏の心に響く言葉より…)
《アタマは低く、アンテナは高く。》
(味の素創業者・鈴木三郎助)
「実るほど頭(こうべ)を下げる稲穂かな」と言う通り、
地位や名声が上がるほど下手に出る謙虚さは、
世を渡るうえで非常に大切です。
実際、本当に実力のある人は、おとなしいという印象を受けます。
必ずしも社会的にはなばなしい地位にいたり、
組織を牛耳っている人物であるとも限らないのです。
本当の実力者とは、その人に頼めば
ことが成就するとなんとなく思われている人です。
騙(だま)される心配はないと
安心して依頼できる人柄を持っています。
昔から「本当の金持ちは着飾っていない」というのは、
ここをさしているのです。
もちろん頭が低いだけで成功するはずはありません。
鈴木さんの言うように、アンテナを高くし、
正しい情報を得る必要があります。
ある人が、「本当に儲かることは、人には教えない」と言っていました。
成功するには、アンテナを張りめぐらせて情報を集め、
さらに直観を駆使して自分の進む方向を探ることが肝心です。
株式投資も、高値時に買うと損するだけです。
人が話題にするようになったら高値時であり、もうおしまいなのです。
他人の嫉妬をあおっては、成功は望めません。
頭を低くするのは、嫉妬を避けるためなのです。
たとえば、堀江貴文さんは才能ある事業家だったと思います。
しかし、「フジテレビを買収する」などと公言すれば、
政府も官庁も身構えます。
法律の運用は解釈次第ですから、ささいなことで
逮捕し裁判で有罪に持ち込めたりするのです。
才能があり、成功への階段を上っている人は、
慎重の上にも慎重に嫉妬を避けるべきです。
多くの人が失敗を望んでいるからです。
おとなしく見え、姿勢が低い人に対して他人は油断します。
これを狙うことが大事なのです。
私の恩人ともいえる人は、金集めの天才といわれていました。
官庁から何億円も出させて事業をしました。
私も彼に見込まれ、研究を大きく進められたのです。
ある組織でも、トップを十年近くつとめ、大変な貢献をしました。
ところが、あまりに長くトップにいたので、
反旗を翻す人たちが出てきたことに気づかなかったのです。
反旗を翻す人たちは、組織が国や企業に必要だから
寄付金が集まっているのであり、彼がいなくても大丈夫だ
と思っていました。
そして、彼は引きずりおろされたのです。
すると、たちまち寄付が集まらなくなり、
組織も力を失い、彼も活躍の場をなくしたのです。
目立ってはだめです。
アンテナを高くということは、同僚、部下、世間が
どう考えているかに敏感になり、
退く時には退く心構えを持つことでもあると思います。
<『一瞬で不安をしずめる 名言の知恵』成美堂出版
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・・・
『潜行密用(せんぎょうみつよう)は、
愚(ぐ)の如く魯(ろ)の如し』(宝鏡三昧)という
禅語がある。
人に知られず、密かに行う善行や修行は、
まるで愚(おろ)か者で、頭の動きの鈍い者が
やっているように見えるが、それでいいのだ、という意。
これを、密かに徳を積むこと、「陰徳」とも言う。
目立たないこと。
そして、誰も見ていないところでベストを尽くすこと。
上記の言葉の続きがある。
「只(ただ)能(よ)く相続するを主中の主と名づく」
ただひたすらこれを淡々と継続して行う人こそが、
本物中の本物の人間となることができる。
「アタマは低く、アンテナは高く」
目立たず、偉ぶらず、愚か者のように、
ただひたすら陰徳を積む者でありたい。
<感謝合掌 令和2年12月4日 頓首再拝>
気高き生活を - 伝統
2020/12/05 (Sat) 02:59:57
*「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月5日)より抜粋
値いなしに受けようとしてはならぬ。
肉体の汗か、心の汗か、金銭か、物質的な贈物か、
いずれにせよなんらかの値いを払って受けよ。
値いなしに受けたものは、いつかは奪い返されることがある。
自己の生活が気高き基礎に立つかどうか省みよ。
なんじの生活を、愛と赦しと忍耐との上に築きて、怒りと憎みとを常に支配せよ。
怒りと憎みととは神と汝とを隔てる最も大なる敵である。
常に朗らかであれ。
不快なこと、争いのこと、憎むべきこと、人の悪しきことを忘れ去れ。
忘れ上手が光明生活の第一歩である。
<感謝合掌 令和2年12月5日 頓首再拝>
《雑草からは良きものは実らない》 - 伝統
2020/12/06 (Sun) 02:24:14
*『 理想世界 』(昭和42年7月2日の法語)より
プラトー(ギリシャの哲人)も言うのである。
「無限の善が、良き習慣から生まれて来るのである。
良き習慣というものは、良き行為の範例や、良き友との交わりや、
道徳的知識や、道徳的行為の体験を通して養われるのである」と。
戦後のあまりにも過ぎた日本社会の如き自由主義的放漫の生活からは、
良き行為の範例や、良き友との交わりや、道徳的知識・・・・・などには
滅多に接することができないのである。
そして自由に伸びるものは雑草の如き無秩序性である。
雑草の中からは決して良きものは実らないのである。
良き果実を実らせようと思うならば、雑草を自由に伸ばしてはならないのである。
雑草を引き抜いて、良き種子を選択して播種しなければならないのである。
自由放漫の中からは稀にしか良きものを生じない。
行動の自由主義の効果には限界があるのである。
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<感謝合掌 令和2年12月6日 頓首再拝>
《神の国を迷いで汚すな》 - 伝統
2020/12/08 (Tue) 04:44:02
*『 生長の家 』(昭和25年7月12日の法語)より
この世界は神の造った世界である。
だから実相に於いては完全であるのである。
それは恰(あたか)も親が子供のために
立派な邸宅を造ってくれた様なものである。
その邸宅は 檜(ひのき)造りで
畳はあたらしく どこにも塵(ちり)一つ存在しないのである。
けれどもその邸宅をもらった子供は
そこで 「 五官の快楽 」 や 「 浮世の欲望 」 などと云う
色々の玩具(おもちゃ)をだして、
その邸宅を “ ごみ ” だらけに汚してしまうのである。
「 五官の快楽 」 や 「 浮世の欲望 」 などの玩具をとりのけて
その邸宅を清掃した時にのみ
実相の清らかな邸宅を見ることができるのである。
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<感謝合掌 令和2年12月8日 頓首再拝>
《商売主義を排す》 - 伝統
2020/12/12 (Sat) 04:48:34
*「光明法語」(12月12日)より
イエスはユダヤ人の過越(すぎこし)の祭りのちかづいたとき、
イエルサレムの宮の境内に、牛、羊、鳩を売るもの、
両替する者などが坐っているのを見て縄の鞭をつくり、
羊をも牛をもみな宮より逐(お)い出し両替する者の金を散らし、
その台を倒し、鳩を売る者に
「これらの物を此処より取去れ、わが父の家を商売の家とすな」
と言った事が聖書に書かれている。
イエスは神を利用して儲けるところの商売主義に反対したのである。
神に対して商売的な功利主義で相対することは間違いである。
<感謝合掌 令和2年12月12日 頓首再拝>
《形式主義を排す》 - 伝統
2020/12/13 (Sun) 04:39:39
*「光明法語」(12月13日)より
イエスは暴力を用いなかったか、絶対に無抵抗主義であったかどうか
と云う問題についての議論の際引用せられるのが此の『縄の鞭』である。
イエスは形式主義者ではなかった。
『つるぎを執る者は剣に滅ぶ』といったイエスも剣のほかに
『縄の鞭』は使ったのである。
イエスは『審判(さば)く勿れ』と教えたが、
彼は激して形式主義のパリサイ人を審判いている。
また『審判(さばき)は子にゆだね給えり』とも言っているイエスは
生命主義者であり、生命の動く儘に自由に振舞ったのである。
<感謝合掌 令和2年12月13日 頓首再拝>
信念を伴った決意 - 伝統
2020/12/16 (Wed) 02:20:43
*「生命の實相」幸福篇下巻(12月16日)より
決意だけではまだ本物ではない。
信念を伴った決意でなければならぬ。
「実相を観ずる歌」はわれらの決意と信仰を語るものだ。
「われ祈れば天地応(こた)え、
われ動けば宇宙動く。」
天地応え、宇宙動く決意こそわがものでなければならぬ。
<感謝合掌 令和2年12月16日 頓首再拝>
《「一度だけ」が生涯を誤まる因になる》 - 伝統
2020/12/17 (Thu) 04:45:11
*『 理想世界 』(昭和42年7月13日の法語)より
「一度だけ」「少しの期間だけ」「ちょっとの間だけ融通して貰っておこう」
このような一時的な”小悪“で、誰も知らぬ間に返済しておけば
それは誰にも損をかけないじゃないか
―― などと甘い考えを起こしたのがもとになって、汚職が生じ、
一生涯の運命を台なしにしてしまった人々は随分たくさんあるのである。
一寸のことを、おろそかにしたために一切が駄目になることが随分ある。
「千丈の堤も蟻の一穴から崩れる」という古諺もある。
何事も行き届いて、小さい過ちでも、
それをただ一回でもやらないように心懸けなければならぬ。
一回ぐらい、もう一遍ぐらいと思って、自己を許しているうちに、
いつの間にかその行為が繰り返されて習慣の奴隷になってしまうのである。
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<感謝合掌 令和2年12月17日 頓首再拝>
【頼まれやすい顔になるには】 - 伝統
2020/12/19 (Sat) 06:03:10
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2020.12.11)より
(小林正観さんの心に響く言葉より…)
「頼まれやすい顔」のポイントとして、「日常生活」も重要です。
人間の顔の3分の2の筋肉は、
「この前こんな嫌なことがあってね」
「こんな嫌な人と会ってね」というような、
あまり楽しくない話題を口にしたときに使われます。
3分の2の筋肉は、否定的な言葉、否定的な感情のときに動くのです。
筋肉というのは使えば使うほど発達しますし、
使わなければ使わないほど退化します。
したがって、「この前こんな嫌なことがあってね」
「こんな嫌な人と会ってね」という話題が多ければ多いほど、
3分の2の筋肉ばかりが使われ、
その結果、「嫌な感じの顔」になっていくのです。
逆に「この前こんな楽しいことがあってね」
「こんな楽しい人に会ったんだけどね」
「こんなおもしろい情報があるんだけどね」というような話を
しているときは、顔の3分の1の筋肉を使います。
使った筋肉はどんどん発達し、
使わない筋肉はどんどん退化しますから、
楽しい話、おもしろい話、笑顔になりそうな話を
たくさんしている人は、顔がどんどん「和(なご)やかな顔」
になります。
そして、日常的にとても話しかけやすい、
親しみを感じさせる顔が形成されていきます。
ある瞬間だけ「和(なご)やかな顔をつくろう」
「頼まれやすい顔をつくろう」と思っても無理です。
日常的にそういう顔をつくり、筋肉を刺激しておかないと、
和やかな顔、頼まれやすい顔にはなりません。
<『運命好転十二条』三笠書房
https://amzn.to/2W1so8w >
・・・
小林正観さんは、良寛さんについてこう語る。
『江戸時代末期の僧侶・良寛和尚は、
いつも「和顔(わがん・わげん)」ということを心がけていた人でした。
「和顔」という言葉はもともと「禅」の言葉なので、
禅宗のひとつである曹洞宗のお坊さんとしては当然のことかもしれません。
しかし、それを何よりも誰よりも心がけていたのが良寛禅師だったのです。
良寛さんはいつも和(なご)やかな顔をしていました。
その顔に子どもたちはとても親しみを覚え、
良寛さんの顔を見る度に寄ってきては、
「良寛さん、良寛さん、遊ぼう」と言って声をかけたそうです。
さらにその「和顔」は村人たちをも動かします。
文字のかけない村人たちは良寛さんのところに行っては、
「代わりに手紙を書いてほしい」「代わりに文字を書いてほしい」
というようなお願いごとをしました。
良寛さんはそれを嫌がらずに次から次へと書いたのです。
なかには「掛け軸を書いてほしい」と言う人もいましたが、
それも嫌がらずに書きました。
良寛さんは檀家(だんか)を持っていない僧侶だったのですが、
そういった「頼まれごと」の対価として、
米、味噌、醤油、食べ物をいただき生活が成り立っていました。
「頼まれごと」を嫌がらずにやっていった結果、
十分な生活ができたのでした。』
若い頃から頼まれごとを断り続けてきた人には、
頼まれごとはやってこない。
何かを頼んだら、嫌な顔をされたり、不機嫌そうな顔をされたり、
不愉快な言葉を言われてしまう、と思うからだ。
また、普段から否定的な言葉ばかり言っている人は、
不機嫌そうな顔になる。
それが、「不平不満」「グチ」「泣き言」「悪口」「文句」。
肯定的な言葉ばかり言っている人は、明るくて楽しそうな顔になる。
それが、
「ツイてる」「うれしい」「楽しい」
「感謝してます」「幸せ」「ありがとう」。
良寛さんの「和(なご)やかな顔」だ。
「和顔愛語」という言葉がある。
良寛さんが好んで使った言葉だ。
良寛さんは、自分の口から出てくる言葉を
「あたたかい言葉」「やさしい言葉」「思いやりに満ちた言葉」
だけにしたいと思っていたという。
その実践の結果が、「和顔」。
「和顔」という、頼まれやすい顔をめざしたい。
<感謝合掌 令和2年12月19日 頓首再拝>
人事を尽す - 伝統
2020/12/21 (Mon) 06:50:28
*徳久 克己 『隠田清話』より
『人事を尽して天命を待つ』 これが普通の考えであるが、
谷口雅春先生は 『人事を尽す必要はない』 と仰言る。
では何もしないでブラブラしておいでかと思うと、
五人分も十人分もお働きになるのである。
先生は歴史始まって以来、人間に与えられた最高級のラジオ・セットで、
神からの啓示を刻々にお受けになっているのであって、
招神歌にあるように
『吾が業は吾が為すにあらず天地を貫きて生くる御祖神の権能』
と云う、この御言葉をそのまま行じておられるのである。
同じことをしても自分がするのではなく、
神が吾をして為さしめ給うのであると思う時、
少しの 『りきみ』 も 『疲労』 もなくなるばかりでなく、
感謝が湧いてくるのである。
『人事を尽す』 と云う言葉の中に
『自分がしなければ ・・・・・』 と云う
『我の心』 が働くのをいましめられて言われる先生の
『人事すら尽す必要はないのですよ。 神様に総てをおまかせするのです』
この御言葉が、私の五臓六腑に沁みわたったのである。
http://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p9.html
08/28/13
<感謝合掌 令和2年12月21日 頓首再拝>
《精進努力は実相実現の鑿(のみ)である》 - 伝統
2020/12/22 (Tue) 04:59:03
*『 生長の家 』(昭和25年7月20日の法語)より
忍耐、克己及び精進努力は
実相を実現するために
トンネルを穿(うが)つところの鑿であるのである。
吾々は精進努力して煩悩の岩を穿って
魂の自由なる境涯まで達するために
トンネルをうがたなければならないのである。
トンネルを穿つには
真理の光を以(もっ)て照らし、
正義の尺度をもって その方向を定め、
理性によって 今自分が人生のトンネルを
如何にうがちつつあるかということを
測定しなければならないのである。
真理と正義と理性によって正しき方向に向かわないものは
折角(せっかく)の精進努力も無駄になるのである。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12
<感謝合掌 令和2年12月22日 頓首再拝>
《“神らしくなる” こと》 - 伝統
2020/12/23 (Wed) 04:49:22
*『白鳩』(昭和40年4月号)より
人間が “神らしくなる” ということは、
物質的なもの、時間空間的なものに支配されなくなり、
必要に応じて超時空的能力を発揮し得るということであり、
罪の観念に縛られて自己を自縄自縛しなくなることであり、
自己処罰しなくなることである。
その人は物質的なものに縛られなくなるために、
経済的の変動で、一時、株が暴落するようなことがあっても、
必ずそれは反騰するものであることを知って心が動揺しないことであり、
また大いに儲かっても、
それは神の愛の実現であるとして私的使用に浪費することなく、
公けなることに悦んで献げ得る心境であるということであり、
時間に束縛せられないから、
愈々多忙にして疲れることなく、不平なく、
忙中なお閑を蔵して悠々神想観をなし、愛行を重ね得ることである。
自己処罰をしなくなるということは、
自然に災害の起るところに近寄らなくなり、
みずから不幸をもとめて自虐状態に立ち到らなくなることである。
“神らしくなる” ということの一つは、
自己に “絶対価値” を求め、
他と比較して自己を劣等であると考えないことである。
たとえば自分の眼の形や鼻の形が、他の人々と比較して、
大きすぎるとか、小さ過ぎるとか、高すぎる低すぎるとか
いうことによって価値づけをしなくなるということである。
すべての人間は、
神の絶対美 〈超比較美〉 の個別化した自己表現であるから、
その人でなければ表現できないところの
比較を絶した美しさがあるということである。
たとえば、美空ひばりにも、江利チエミにも、雪村いずみにも、坂本九にさえも
神は、彼又は彼女でなけれならない魅力的な美を与えていられるのである。
ロダンの 「鼻欠けの像」 にすらすばらしい美が表現されているのである。
“生命” は “神” であるから、“生命” の発現するところ
必ず其処に素晴しい美が輝きいづるのである。
あなたは何よりも自己の “生命” を溌剌と発揮しなければならない。
妻が生き生きと明るい美を湛えている家庭は常に幸福である。
“神らしく” あるという事の一つの特徴は、
その人が自然にそのまま健康であるということである。
神は絶対健康であるから、あなたが毎日神想観を実修し、
自己の実相たる 「神の生命の内在」 を心で見詰め、
それを念じつづけている限りは絶対健康であるのは当然のことである。
併し肉体は 「心の影」 であるから
周囲の人々との間に “心の世界” に
摩擦や憤りや憎しみや反感や嫉妬や恨みがある場合は、
その感情の蓄積が或る程度以上にたまると、
それが具体化して病気の形をもって自壊して行くことになるのであるから、
周囲り人々と和解し、調和し、
すべての人に物に事に感謝するようにしなければならない。
神想観のとき、あらゆる人に物に事に愛念を送り、
感謝の念を送るようにしなさい。
それが絶対健康を得るもとになります。
(http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19195431.html(消滅)
<感謝合掌 令和2年12月23日 頓首再拝>
深刻と真剣の違い・深刻になると辛く、真剣にやれば面白く - 伝統
2020/12/24 (Thu) 04:42:33
*Web: Prado (2019年7月22日)より抜粋
【「深刻にはならず、真剣になることが大切」(松岡修造)】
スポーツをしている方なら、負けそうな時、ピンチになった時、
深刻になっては益々悪い状態にはまってしまうことを経験済みでしょう。
そういう時こそ、深刻にはならず、
真剣になってこそ道は開けるものです。
これはスポーツのみならず、全てのことに言えることです。
深刻と真剣はどう違うのか、
真剣なつもりで深刻になっていないか、自分でわかる必要があります。
自分でわかればこそ、そこから抜け出すことが出来るからです。
(https://prado-therapy.com/earnestness/)
・・・
<参照>
Web・伊勢ー白山 道(2020-11-15)
真剣に成ることは大切だが、深刻(しんこく)に成っては生けない
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/3330c8a12fd87aa9f13c493091a48320
<感謝合掌 令和2年12月24日 頓首再拝>
常に、後味のよいことを考える - 伝統
2020/12/25 (Fri) 04:57:36
*「生命の實相」幸福篇下巻(12月25日)より
憎みを考えるものではない。
話題をそういう問題から常に避けるようにしなければならぬ。
常に、愛のことを、深切のことを、心に残る後味のよいことを
考えるようにしなければならぬ。
ピシリと相手をやっつけても、
そのあとで心が後味の悪さで苦しむようでは、
その相手に負けているのである。
勝つとは、後味までも歓べることである。
<感謝合掌 令和2年12月25日 頓首再拝>
すでに、幸福で祥益と健康とにめぐまれていると念ぜよ - 伝統
2020/12/26 (Sat) 06:24:30
*「生命の實相」幸福篇下巻(12月26日)より
不幸、災厄、病気・・・ことごとく
心に描かれた観念が具象化するものであるから、
不幸を喞(かこ)つなかれ、災厄を呟くなかれ、
病気を愬(うった)えるなかれ。
不幸来たるごとに、災厄来たるごとに、病気が来たるごとに、
その反対の幸福を語れ、祥益(しょうえき)を語れ、健康を語れ。
すでにかく幸福で祥益と健康とにめぐまれていると念ぜよ
―― それが実現するために完全なる智慧か流入し来たると念ぜよ。
自己が不幸を、災厄を、病気を語らないばかりでなく、
他(た)の人々がかかることを語る時聴き手になってはならぬ。
もし聴き手になったならば、あなたは自己に、不幸災厄病気に対して
無防備に扉をひらいたと言わなければならないであろう。
そんな時に最もよいことは、
ツンと澄まして相手との調和を悪くすることではなく、
話題を転ずることである。
<感謝合掌 令和2年12月26日 頓首再拝>
善き話題を - 伝統
2020/12/27 (Sun) 04:56:01
*「生命の實相」幸福篇下巻(12月27日)より抜粋
善き話題 ――
彼はこんな深切なことをした。
彼はこんなに向上した。
自分はこんなに楽しいのだ。
自分は近頃大変健康だ。
(まだ現象的には健康になりきっていなくともよい、こう話すのだ。)
自分の従事する事業はますます栄えてゆきつつある。
そのほか何でも、進歩、繁栄、向上、元気、光明、健康の雰囲気を伴うことが
話題として最もよいのである。
しかし顧(かえり)みよ、
いかに人が相寄れば他人の悪口や不幸ばかりを口にしていたかを。
これでは人生に不幸な人が多かったのも不思議はない。
欠点を見出して責めるのが今までの教育法であった。
生長の家が出現してまったく教育がその全貌を変化したのである。
ただ児童を、社員を、店員を、賞(ほ)めることだけによって、
児童が、社員が、店員が、改善されてゆくという不思議な事実を ――
われらの同志はすでに不思議でもなく実行しつつあるのである。
しかしそれをまだ対他的教育法だとのみ思っていて、
自分自身の健康法だと思っていない人の多いことは事実である。
それは教育法であるばかりではなく、実に健康法なのである。
<感謝合掌 令和2年12月27日 頓首再拝>
難癖をつける習慣をやめよう - 伝統
2020/12/28 (Mon) 04:51:20
*「生命の實相」幸福篇下巻(12月28日)より
「勝てる」という自信はよいが、「負けまい」という焦燥は自分自身を殺すものである。
「勝てる」という自信はその人を寛大にし、「負けまい」という焦燥は人に難癖をつけて
不条理に蹂躙(ふみにじ)ろうとする。
難癖をつける心は、一方に相手の立派さを認めながら、
それを強いて逆に蹂躙(ふみにじ)ろうとするのであるから、
その人の心中は自己葛藤に満たされる。
自己葛藤は自己自身を粉砕し、自己の人格を低卑にし、自己の健康を傷つける。
この場合、人格の低卑と健康と不良とは同意義である。
<感謝合掌 令和2年12月28日 頓首再拝>
難癖をつける習慣を改めるとき、周囲が輝き出す - 伝統
2020/12/29 (Tue) 04:55:07
*「生命の實相」幸福篇下巻(12月29日)より
人々よ、今日(きょう)から他(ひと)に難癖をつける習慣をやめようではないか。
あなたがもし他(ひと)に難癖をつける習慣を改めるならば、
あなたの周囲がきっと前よりもいっそう輝き出すだろう。
世界が明るくなるであろう。
人々もあなたにまた難癖をつけることをやめるであろう。
世界が広々とした海闊明朗な世界になるであろう。
全体があなたを祝福し、あなたは今よりも幸福になるであろう。
呟く歌や悲しむ歌を雑誌などに書いている人を見るごとに、
わたしはその人をかわいそうと思わずにはいられないのである。
いたるところに眼を開けば光が充ち満ちているではないか。
観終わり東(ひんがし)の空を見てありき燃ゆるがごとく雲流れけり
太陽も大空も樹(き)も空も鳥もすべて生きてあり生かされてあり
<感謝合掌 令和2年12月29日 頓首再拝>
《本当の自信は「肉体の自分」を信ずることではありません》 - 伝統
2020/12/30 (Wed) 04:58:09
*「真理」第9巻生活篇第3章(P79~80)より
自信力にも色々あります。
ナポレオンのように「神は天上に雷霆(かみなり)を震わせ、
吾れは地上に不可能なことはない」と云うような自信もあれば、
イエスのように、「我みずからにでは何事も成し得ず、天の父われに
いまして御業(みわざ)をなさしめ給うなり」と云うような自信もあります。
「肉体の自分」だけに自信を持っている人は、
一時(じ)は暴虎(ぼうこ)の如き勇(ゆう)を揮(ふる)うかも知れませんが、
その力は有限ですから、やがて力の尽きる時が来るのであります。
イエスの「我みずからにては何事も成し得ず」は無限の謙虚(へりくだり)の
心境であり、自己が0(ゼロ)になることであり、自己が0(ゼロ)になった
とき、無限の「神の力」が其処に顕現して来るのであります。
従ってナポレオンの力はやがて尽きて孤島(ことう)に流され、
イエスは自己を十字架につけてのち全世界を霊的に征服したのであります。
<感謝合掌 令和2年12月30日 頓首再拝>
自己の絶対価値を生きよ - 伝統
2020/12/31 (Thu) 04:56:40
*「栄える365章」(P69)より
人に勝とうと思って努力することをやめよ。
トップに立つだけが眺めが美しいのではないのである。
人に勝とうと思う心は、
人を打ち負かそうという心であり、闘いの心であり、
或る意味に於ては、他(た)を傷つけようとする心であるから、
自分の心も傷つくのである。
勝ち負けではなく、自分の天分を素直に遂行するとき、
その人でなければならない美しく価値のある生活を営み得るのである。
人間の価値を比較によって定(さだ)めようとするのが
本来間違いなのである。
人間の価値はそれぞれ絶対価値を内に孕(はら)むのである。
その絶対価値を表現しさえするならば、
其処には必ず素晴らしいものがあらわれるのである。
植物にしても、藤の花には藤の花の絶対価値があり、
桜の花には桜の花の絶対価値がある。
彼らは模倣したり比較したりしないで、
唯(ただ)自分に与えられたる天分を花咲かせているのである。
そして彼らは比較を越えた美しさを発揮しているのである。
人間もそのようにあるべきである。
http://teruhisa.jugem.jp/?eid=107
http://fish.miracle.ne.jp/h-anno/ougonnokotoba20.1.pdf
<感謝合掌 令和2年12月31日 頓首再拝>
その家の平安を祈りながら戸口をくぐる - 伝統
2021/01/02 (Sat) 06:43:44
*「光明道中記」(1月2日《人の幸福をねがう日》)より
【愛はすべての物に調和と平和とを齎(もたら)す精神波動である。
(『生命の實相』第十一巻)】
人を訪ねる時は、その人に幸福を手土産(てみやげ)として行くべきである。
このことを知ったとき、私はひとを訪問することが楽しみとなったのである。
誰でも人を訪問する時には物質的手土産を持って行くことを忘れないのであるが、
手土産と云うものをただ物質的にのみ考えていた時代には手土産なしに
人を訪問することが、何か不自然な忘れ物をしたような感じがして気が咎めたが、
手土産は必ずしも物質に限るべきものではない。
「心の手土産」と云うようなものもあると云うことが解るようになってから、
私は必ずしも人を訪問するのに以前のような窮屈な感じがしなくなったのである。
心の手土産と云うのは何か、調和と平安の精神波動を持参することである。
人を訪問するに当って、相手の家が、神の愛に満たされて
調和と平安に満たされていることを念じてその家に入るのである。
そんなことが何の価値があるかと言うのは唯物論者のことである。
人が人を訪問するのに、
その家の平安を祈りながら戸口をくぐる事は荘厳な行事である。
<感謝合掌 令和3年1月2日 頓首再拝>
天国は、思いと、言葉と、行ないとの中にある - 伝統
2021/01/03 (Sun) 02:20:48
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月3日)より
人生の唯一の目的は神の国をこの世に実現するということである。
神の国とは天人常に充満し、絶えず天鼓(てんく)の響きを妙(たえ)に、
摩訶曼陀羅華の花降る世界である。
天鼓(てんく)とは天の鼓ではない。
人間の人を賞(ほ)め讃える声である。
曼陀羅華とはインドにある華(はな)ではない。
華(はな)の笑(え)むように和やかな微笑、深切な言葉、思いやりのある行ないが
天上から降る曼陀羅華である。
これら天鼓(てんく)と
曼陀羅華とで飾られたる妙(たえ)なる世界の姿が天国である。
天国とは別の世界のことではない。
われらの思いと、言葉と、行ないとの中にある。
<感謝合掌 令和3年1月3日 頓首再拝>
善事をなす習慣 - 伝統
2021/01/05 (Tue) 01:33:31
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月5日)より
一日だけで、やりかけた善事を止めてしまうような者は、
何事も成功から墜落する。
つまらないことのようでも小さき善事を継続することによって、
その人の魂は進歩し、環境は天国化するのである。
一日ぐらい懶(なま)けてもいいだろうというような考えから、
善事をなす習慣をたった一日廃絶したことによって
堕落した人は世間にたくさんある。
昨日(きのう)きめた、
朝起きた時に家族一同に優しい言葉を朗らかな調子で投げかける
ことを今日も続けなければならない。
そしてさらに進んでいっそうの善事をつけ加えることをしたい。
食膳で感謝することである。
食物の本源である神の生かす力に、それを造ってくれた百姓の労苦に、
それを調理してくれた妻・娘または召使にである。
食物はまずくとも決して小言を言わぬことである。
食物の小言を言ったために終日その家庭が不快になったような経験は、
人類の誰でもが持っていることである。
食物そのものよりも、
心の愉快さと、空腹とが食物の味を増すのである。
遠足に行って食べる梅干と握り飯の美味しさを思えば、
このとこの真理は解る。
心が愉快でないときどんな食物もまずい、
まずいのは自分自身の心の罪であり、
料理をしてくれる他(た)の家族や召使の罪ではない。
空腹でないために、美味しくないのは、
習慣に捉えられて空腹でないのに食事をするためである。
精神的に進歩したい人は、朝食を廃して、
出勤前の2時間を善き読書に費やすがよい。
毎朝2時間の読書の習慣は、その人をかなり向上もさせれば、
博学多識にもする。
時間がないという者は、時間を造らない人のことである。
時間は、他の多くの道具などと同じく、
人間によって製造せられるものである。
<感謝合掌 令和3年1月5日 頓首再拝>
仕事の秘訣 - 伝統
2021/01/06 (Wed) 06:17:13
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月6日)より抜粋
常に人の《ため》になる仕事、常に世の《ため》になる仕事、
たゆみなくかかる仕事に従事している人には魂の喜びが伴う。
仕事が無上の喜びとなり、仕事の中に休息と慰安とがある。
金(かね)を貰って働いている人も、
金を貰って働くと思えばその時から魂の喜びは消えてしまう。
金(かね)を頂くのは、それが多いにせよ少ないにせよ
神様から恵まれたものであると感謝し、
仕事は仕事で人のため世のためへの自分の魂の献(ささ)げ物であると思って、
人のために尽くすという喜びの中に仕事をするがよいのである。
かかる仕事の中からは不断の喜びが湧く。
金と仕事とを交換的に考えてはならぬ。
仕事はいかなる「金(かね)」よりも尊いものであるがゆえに、
仕事のために「金(かね)」を貰っているという考えが起こるや否や、
仕事の歓びは半減される。
仕事を常に支配すること。
仕事に支配されてはならぬ。
仕事を追い回すことは、仕事から追い回されない秘訣である。
仕事に不平を立てておいて、そのゴールまで突進するのは
仕事を捗(はかど)らせる良き方法である。
しかし、ゴールに到着しない日があっても焦(あせ)ってはならぬ。
一日の労は、一日の労で足りるのである。
常に働いていながら、その仕事が捗らないのは、
何か神の摂理(おぼしめし)があるのであろうと、
またそのことに感謝するがよい。
そこからいらいらした心持(こころもち)が
和(なご)やかになり、平和が魂に戻ってくるであろう。
急がず、たゆまずに進むのが仕事の秘訣である。
<感謝合掌 令和3年1月6日 頓首再拝>
緩急自在な生活 - 伝統
2021/01/07 (Thu) 02:11:13
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月7日)より
常に仕事をすると言っても、緩急がなければならぬ。
緩急のない生活は、張り切ってばかりいる弓の弦(つる)のように、
次の矢をつがえることができぬ。
一張(ちょう)一弛(し)の交代によって弓の矢は的(まと)を射抜(いぬ)く。
張り切ってばかりいる弦(げん)はついに切れる。
さればといって、仕事をする時に懶(なま)けよと言うのではない。
弓を射るときには一心(しん)でなければならぬ。
仕事をするときにも一心でなければならぬ。
本当に張り切ったとき仕事は前に命中する。
仕事が終わるか、定められた休息の時間が来るか、家に帰って家族と
うち寛(くつろ)ぐ時が来た等のときには本当に打ち寛(くつろ)がねばならぬ。
仕事は渋面(じゅうめん)をつくるためにあるのではない。
仕事は喜びを感ずるためにあるのである。
仕事を渋面をつくるためにあるように思ったり、
渋面をつくらねば真面目でないと思ったりするのはまちがいである。
団欒のときには楽しくすることが一つの仕事である。
家庭の団欒が忘れられているがために、妻が不平を言ったり、家族が病気になったり、
良人が危険の淵に近づいてゆくことも考えねばならぬ。
人間は金を積んで走る馬車馬のために造られているのではない。
<感謝合掌 令和3年1月7日 頓首再拝>
団欒と仕事との調和を考えること - 伝統
2021/01/08 (Fri) 04:12:24
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月8日)より
あまりに四角四面な余裕のない押しつめられた生活からは幸福な生活は生まれぬ。
曲線と直線とが巧みに調和していなければ美術でも生活でも美しくないのである。
団欒と仕事との調和を考えること、
あたかも美術家が曲線と直線との調和を考えるがごとくでなければならぬ。
<感謝合掌 令和3年1月8日 頓首再拝>
すべての方面見て行き届くのが名人の生活 - 伝統
2021/01/13 (Wed) 02:56:07
*「光明道中記」(1月13日《八面玲瓏の日》)より
【心が柳の枝に雪折れなしの様な状態になったら神経衰弱が治りました。
(『生命の實相』第三巻)】
すべての人の立場を認めるとき、吾々は八方正面の心境に到達するのである。
八方正面とは隙がないことである。
凡ゆる立場に於ける相手の位置が、その儘に自分の心の中に映り来るのである。
すべての立場を認めることが出来ず、一つの立場のみを正しいと思い、
その立場にのみ心を執しているとき、その他の方面は全然隙だらけになって
打ち込まれてしまうのである。
あのことに熱中していましたので、つい忘れていましたと言うのは、
弁解にはならないのである。
剣も碁も兵法も商道も、すべての方面見て行き届かねば名人ではない。
如何に鋭くとも折れ易い刃は役に立たない。
人間は剃刀(かみそり)の如く鋭い一面も必要ではあるが、
柳の枝のような強靭性も必要である。
世の中は「硬(かと)う柔(やわら)こう、柔こう硬う、
円(まる)う四角う、四角う円う」
自由自在に生きなければならないのである。
仏教に通達するには無字の門関を透過しなければならぬ。
無字を透過するは、柳の枝の如く無抵抗に、そして
「我れ地に穏かを出さんが為に来れるに非ず、剣を投ぜん為に来れるなり」
と言った基督のように鋭くならん為である。
<感謝合掌 令和3年1月13日 頓首再拝>
【道を求めてやまない人】 - 伝統
2021/01/14 (Thu) 02:29:28
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2019.12.24)より
(藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…)
「心ここに在(あ)らざれば、視(み)れども見えず、
聴けども聞こえず、食(くら)えどもその味を知らず」
心がここになかったら、視ていても見えない、聴いても聞こえない、
食べてもその味が分からない、という。
古典の名著『大学』にある言葉である。
次に弘法大師空海の言葉。
「医王の目には途(みち)に触れて皆薬なり。
解宝(げほう)の人は鉱石(こうしゃく)を宝と見る」
名医は道に生えている草の中からも薬を見出し、
宝を解(かい)する達人は普通の石の中にも宝を見つける、
というのである。
結局、人生はこの二つの言葉が指し示すところに尽きるのではないだろうか。
真理は月の光のように満ちあふれている、と言ったのは誰だったか。
見る目を持った人が見れば、
人を幸福に導く真理は至るところにあふれているのに、
それに気づき、つかもうとする人がいないことを示唆した言葉である。
では、どうしたら満ちあふれる真理に気づき、
医王の目を養い、解宝の人になることができるのか。
古来多くの名人、達人の生き方にそのヒントを探れるように思う。
その第一は「真剣に生きる」ことである。
まったくの徒手空拳(としゅくうけん)から身を起こし
成功を勝ち得た人は一様に、真剣に努力した人である。
そういう人のみが天地不書の秘伝、法則をつかむのだ。
第二は「恩を忘れず、恩を返す」。
受けた恩を忘れないで必ず返そうとする姿勢に、
宇宙の霊妙(れいみょう)な働きは呼応(こおう)するのである。
第三は「いまここに生きる」こと。
人生は「いまここ」しかない。
その「いまここ」に集中する。
心の焦点が定まっていない人に、真の気づきは得られない。
第四は「学ぶ」ことである。
松原泰道(たいどう)老師がよく口にされる
『法句教(ほっくきょう)』の言葉がある。
「頭(こうべ)白しとて
このことによりてのみ
彼は長老(おさ)たらず
彼の齢(よわい)
よし熟したりとも
これ空しく
老いたる人とのみ
よばれん」
高齢者になったから尊いのではない。
高齢者になってもなお道を求めてやまないところに
年を取る意味はあるのだ、と師は言われる。
<『人生の大則』致知出版社>
・・・
結局、いくつになっても、どの年代であっても、
我々の真価は「学び続けているかどうか」によって決まる。
学ぶ心がなければ、自分の魂を磨くことはできない。
「徳は孤(こ)ならず、必ず隣(となり)有り」
という論語の言葉がある。
徳を積んだ人は、必ずその人に共感し協力する者が現れるので、
孤立することはない。
つまり、学び続けて、徳が高まった人の晩年は、
たくさんの支持者やファンに囲まれて過ごすということ。
反対に、まったく学ばず、魂も磨かず、
ただいたずらに年を取ってしまった者は、空しい老人になるしかない。
真剣に生き、恩を忘れず、恩を返し、今ここに生き、
そして、学び続けること…
いくつになっても、道を求めてやまない人でありたい。
<感謝合掌 令和3年1月14日 頓首再拝>
《その所に於いて生き切れ》 - 伝統
2021/01/15 (Fri) 03:35:00
*「光明法語」(1月15日)より
すべての人は神の子であるから、
必ず何か特殊のその人でなければならない才能が宿っているのである。
その才能を伸ばしさえすれば必ず自己は幸福となり、世界も亦、
それによって幸福を得るのである。
その才能とは何であるか、自己に与えられている才能が何であるかが
自分に解らないときには、現在の仕事と環境に於いて、
自分の出来るだけの力を尽くして精出せばよいのである。
全て既に与えられている所のものを充分感謝してそれを生かせば、
必ずそれは真の自己の才能を伸ばす所の踏み台となり、第一歩となるのである。
<感謝合掌 令和3年1月15日 頓首再拝>
《惰性的安定感に堕ちてはならぬ》 - 伝統
2021/01/16 (Sat) 04:19:41
*「光明法語」(1月16日)より
新しい想念を入れることが出来ず、変化すべき時に変化に抵抗し、
新しき経験が自分の生涯に入(い)り来(きた)ることを拒む人間には
進歩はない。
この種の抵抗は前途に対する不安恐怖の念から来る。
今までやってきたことが一番安全だという
愚かしき固定概念に支配されているからである。
もしすべての人類がかくの如き固定概念に支配されていたとしたならば
この世界にも人間にもどんな進歩も発達も得られなかったのである。
現在の状態の崩壊することは悲しいことのように見えるけれども
それは却(かえ)って進歩と幸福への契機である。
<感謝合掌 令和3年1月16日 頓首再拝>
人の心に光を灯す - 伝統
2021/01/17 (Sun) 02:37:59
*メルマガ「人間力」(2021.01.05)より
~『人生の法則』
ラジオで聴いた若いOLの話である。
彼女の生家は代々の農家。
もの心つく前に母親を亡くした。
だが、寂しくはなかった。
父親に可愛いがられて育てられたからである。
父は働き者であった。
三ヘクタールの水田と二ヘクタールの畑を耕して立ち働いた。
村のためにも尽くした。
行事や共同作業には骨身を惜しまず、ことがあると、まとめ役に走り回った。
そんな父を彼女は尊敬していた。
父娘二人の暮らしは温かさに満ちていた。
彼女が高校三年の十二月だった。
その朝、彼女はいつものように登校し、
それを見送った父はトラクターを運転して野良に出ていった。
そこで悲劇は起こった。
居眠り運転のトレーラーと衝突したのである。
彼女は父が収容された病院に駆けつけた。
苦しい息の下から父は切れ切れに言った。
「これからはお前一人になる。すまんなぁ……」
そして、こう続けた。
「いいか、これからは“おかげさま、おかげさま”
と心で唱えて生きていけ。
そうすると必ずみんなが助けてくれる。
“おかげさま”をお守りにして生きていけ」
それが父の最期だった。
父からもらった“おかげさま”のお守りは、彼女を裏切らなかった。
親切にしてくれる村人に彼女はいつも
「おかげさま」と心のなかで手を合わせた。
彼女のそんな姿に村人はどこまでも優しかった。
その優しさが彼女を助け、支えた。
父の最期の言葉がA子さんの心に光を灯し、
その光が村人の心の光となり、
さらに照り返して彼女の生きる力になったのだ。
もう一つ、作家で詩人の高見順の晩年の話である。
高見順は食道がんの手術を受けて病床に横たわった。
ふと窓外を見ると、激しい風雨のなかを少年が新聞を配達している。
その姿に胸を揺さぶられ、高見順は一編の詩を書いた。
なにかをおれも配達しているつもりで
今日まで生きてきたのだが
人びとの心になにかを配達するのが
おれの仕事なのだが
この少年のようにひたむきに
おれはなにを配達しているだろうか
ひたむきな新聞配達の少年の姿が、晩年の作家魂に光を灯したのである。
心に光を灯された体験は、誰にもあるのではないだろうか。
人の心に光を灯す。
それは自分の心に光を灯すことでもあるのだ。
そういう生き方をしたいものである。
<感謝合掌 令和3年1月17日 頓首再拝>
七仏「悪を行うことなく、善を行うこと」 - 伝統
2021/01/18 (Mon) 02:02:33
*Web:ひかたま(光の魂たち)(2021年01月15日)より
よくこのブログを読んで
生き物のため、環境のために
何かをしなければいけないという感想をいただきます。
本当に素晴らしいことだと思います。
同時に、何かやろうと思うけれど、何をしたらいいのかわからず
時間と共に、何もしないで過ごしてしまうとのご意見もいただきます。
たしかに、その通り。
難しく考えたり、ハードルをいきなり高くしたら
誰だって何も手につきません。
ほんの少し肉食を控えるとか
できるだけゴミを出さないとか
消費を少しずつ少なくする・・・・
このような小さなことでも
実行に移せば、とても大きな一歩だと思います。
七仏通誡偈(しちぶつ つうかいげ)というものがあります。
釈迦大師よりもはるか昔に存在したとされる六人の仏と、
釈迦大師を含む七人の仏たちの教えを
簡潔に一つにまとめたとされている偈のことです。
たったの4行です。
諸悪莫作(しょあくまくさ) ― どんな悪も行うことなく
衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう) ―あらゆる善を行い
自浄其意(じじょうごい) ― 自らの意(こころ)を清浄化すること
是諸仏教(ぜしょぶつきょう) ― これが仏の教えである
中国唐の詩人である白居易は、鳥窠和尚に
「仏教の教えの真髄は何か」と聞きました。
和尚は、この七仏通誡偈の前半部分
「悪を行うことなく、善を行うこと」と答えました。
これを聞いた白居易は
「そんなことなら3歳の子供でもわかる。」
と言いました。
すると、和尚は、
「3歳の子供でもわかるが、80歳の老人になっても、できないことだ」
とたしなめられました。
どんなことでも、頭で理解するだけなら、3歳児でもできます。
でも、それをすべて実行することは、困難です。
「理解すること」と「出来ること」は全く違います。
なかなか難しいですね。
一歩一歩少しずつです。
イチロー選手のあのすごい記録も
今の実力も、地道で絶え間ない努力を積み重ねた結果ですよね。
「一歩一歩積み上げるしか、方法はないんだと思うね。」 イチロー
http://shindenforest.blog.jp/archives/83843060.html
<感謝合掌 令和3年1月18日 頓首再拝>
悪を思わず、人を赦し、心清き人になる - 伝統
2021/01/19 (Tue) 04:52:59
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月19日)より
心が清くなることを心がけよ。
衣裳や白粉(おしろい)で飾っても、心の清さには及ばない。
心を清くするには悪を思ってはならない。
特に他人(ひと)の悪を思ってはならない。
他人(ひと)の悪を思ったら、他人(ひと)の悪が入って来る。
これは「自分に深切でない」ことである。
心を汚(けが)すのが唯一の罪であり、唯一の穢(きた)ないことである。
それでも他人(ひと)の悪が自分の心の中へ毒薬のように入って来たならば、
その毒薬の害毒を避ける道は、赦すことである。
腹を立てたり、興奮してはならない。
その人が善に立ち戻ることができるように静かに祈り、
かつその人のために考えてやらねばならぬ。
<感謝合掌 令和3年1月19日 頓首再拝>
深刻と暗黒とを混同するなかれ! - 伝統
2021/01/25 (Mon) 02:43:15
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月25日)より
悲劇は深淵であり、どん底であり、暗黒であるかもしれぬが、
悲劇を深刻だというのはまちがっている。
深刻とは深切と同じ意味の言葉であって、人間の 魂 の深奥から湧き出でるところの、
深々とした生命(せいめい)の表現、叡智の表現、法愛の表現が、
深切であり深刻であるのである。
深切を親切などとまちがえて書かれている世の中であるから、
なれなれしく親しくするのが深切だと思っている人もあるが、
深切とは時として峻厳な統制であり、仮借(かしゃく)することなき規律である。
人類の 魂 の《深》奥から《切》実に深々として湧き出でるかぎり、
どんな明るいものでも深刻である。
人類は深刻と暗黒とを混同する愚(ぐ)から避けねばならぬ。
<感謝合掌 令和3年1月25日 頓首再拝>
すべての人と仲よく交わる - 伝統
2021/01/27 (Wed) 02:38:45
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月27日)より
《ひとり》になる時間を持つことは大切である。
その時間は静かに自分の 魂 に対座する時間である。
しかし、《ひとり》になる時間ばかりに耽(ふけ)る者は独善主義に陥りやすい。
人は自他一体の生命(せいめい)であるから、互いに扶(たす)け合い、語り合い、
讃(ほ)め合い、勇気を付け合う時間も必要である。
孤独は《ひとつ》の徳であるが全部の徳ではない。
他人と仲の悪い孤独は悪徳でさえある。
さらに家族と仲が悪いにいたっては度すべからざる罪人(ざいにん)である。
すべての人と仲よく交わることの中に 魂 の生長があり、家庭の和楽があり、
人間らしい歓びがあるのである。
<感謝合掌 令和3年1月27日 頓首再拝>
《神から先ず何を求めたら好いか》 - 伝統
2021/01/29 (Fri) 03:22:02
*「真理」第9巻生活篇第5章(P125~126)より
神は霊であるから、神からの賜物(たまもの)はすべて
先ず肉眼で見えない霊の形の賜物である。
その霊の形の賜物が人間界に投影されると、それが具象化して
物質的な形をとって来るのはテレビの波がテレビ・セットに
なげこまれると物質的な形をとってあらわれて来るのと同じことである。
だから神に事物を求めるには「物質的なもの」そのものを求めるよりも、
その本源になるところの霊的なものを求める方がよいのである。
先ず何よりも、神に対しては「智慧」を求めるべきである。
正しい智慧が与えられたら、それによって、その次には何を求めれば
よいかを知ることができるのである。
最初から「金銭」などを求めると一度はそれが与えられるかも知れないが、
すぐそれを費やさなければならない出来事がおこって来て、
失敗するのである。
<感謝合掌 令和3年1月29日 頓首再拝>