伝統板・第二

2517740
本掲示板の目的に従い、法令順守、せっかく掲示板社の利用規約及び社会倫理の厳守をお願いします。
なお、当掲示板の管理人は、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経以外については、
どの著作物について権利者が誰であるかを承知しておりません。

「著作物に係る権利」または「その他の正当な権利」を侵害されたとする方は、自らの所属、役職、氏名、連絡方法を明記のうえ、
自らが正当な権利者であることを証明するもの(確定判決書又は文化庁の著作権登録謄本等)のPDFファイルを添付して、
当掲示板への書き込みにより、管理人にお申し出ください。プロバイダ責任制限法に基づき、適正に対処します。

賢者の一日一言(R2年10月) - 夕刻版

2020/10/01 (Thu) 19:07:51

このスレッドでは、過去に紹介した次のスレッドから、
日々の言葉の数々を再度紹介してまいります。

(1)伝統板・第二「中村天風一日一話」
 → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7808747

(2)伝統板・第二「松下幸之助 一日一話」
 → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7811995

(3)伝統板・第二「安岡正篤・一日一言」
 → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7812217

(4)伝統板・第二「吉田松陰・一日一語」
 → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7733095

(5)伝統板・第二「43~”神の子”としての力を出す道」
 → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7787449
            ・・・


賢者の一日一言《1日》

(1)【 10月1日 】 本当の幸福

   本当の幸福というのは、
   人生がより良く生きられる状態に自分ですることなんです。

   自分でしないで、他からしてくれることを待ってる限りこやしないよ。
   自分の現在の生活に自分の心がまず満足しなきゃいけないんだよ。

   それが生命を高くし、程度を上にした考え方なんだ。


   つまり、自分の生きがいを感じる状態を
   もっと気高いところにおかなきゃいけないんだよ。

   うまいものでも食って、いい着物でも着て……こう思うところに
   本当の生きがいはないんだけれどもねえ。

・・・

(2)【 10月1日 】 法治国家は中進国

   今日、法治国家というのは、だいたい先進国ということになっていますが、
   私は法治国家は真の先進国とは言えないのではないか、という気がします。

   是非善悪が何でも法律で決せられる法治国家は、いわば中進国であって、
   真の先進国、文明国とは、法律がきわめて少なく、

   いわゆる法三章で治まっていく国、
   それだけ国民の良識が高い国ということではないかと思うのです。


   とすれば、真の先進国になるためには、
   やはり国民の良識の涵養というものを大いにはかっていかなければなりません。
   そのことに成功しない限りは、先進国にはなれないのではないかと思うのです。

・・・

(3)【 10月1日 】 新秋清警

   一、新秋なり。暑中の惰気を一掃し、颯爽として清健の気を振起すべし。

   一、読書の好季なり。早暁・深夜・古教・心を照し、心、古教照すべし。

   一、日新の世界なり。活眼を宇宙に放って、気宇・識見を遠大にすべし。

   一、日本の危機なり。
     匹夫・責有るを知って、祖国と同胞の為に尽瘁(じんすい)すべし。

・・・

(4)【 10月1日 】 青年の俊才恃むに足らず

   人の志を立つる、必ず二三十年を積みて、
   然る後灼然(しゃくぜん)として信ずべく、
   昭然(しょうぜん)として見るべし。

   (中略)

   青年の俊才恃(たの)むに足らず、
   精誠至誠、是れ恃むべしと為すのみ。  

           安政3年11月23日「※赤川淡水の館中同学に与ふる書を読む」

   【訳】

   人が志を立てたという時には、
   必ず二、三十年間くらい実行したのを見届けて、
   その後、初めてはっきりと信じるべきである。

   (中略)

   青年がいくら人並みにすぐれた才能をもっているとしても、
   信頼し、期待するには足りない。

   誠実なまごころ。これを信頼し、期待するだけである。


    ※長州藩士 赤川直次郎。後、佐久間佐兵衛。
     松陰の友人で、松陰に兄事したといわれる。
     中村道太郎の実弟。

・・・

(5)《1日 危急の場合に発する力》

   危急の場合には思いも寄らぬ大いなる力が出ると云うことがある。

   阪神間に山津波が起り、大洪水で多くの人たちが
   神戸の地下鉄その他で水死した時のことである。

   当時、六甲山麓に近い本山村に住んでいられた星丘重一氏は、
   滔々と山上から流れて来る水が、そのままの水の方向では自分の家が
   流されるように見えたので、其の水流の方向を変じようとして、
   其処に見つかった大きな岩を持ち上げて、
   水流を眞ともに堰きとめるところへ投げおろした。


   お陰でその水流の方向は家の方えは眞ともに来なくたったが、
   水が治まってから星丘さんはその大きな岩を持ち上げようとしても、
   どうしても持ち上がらなかった。

   また其の時、井上喜久磨氏(元、不動産銀行重役)は中風で手脚不自由で
   寝ておられたが、洪水が一階の畳まで浸しそうになると、手脚の不自由が治って、
   家財道具を行李につめて2階へ自分一人で持ち上げたが、
   それ切り手脚の不自由は治ってしまったのであった。

      谷口雅春著『人生の秘訣365章』第10篇(P241~242) より   

           <感謝合掌 令和2年10月1日 頓首再拝>

賢者の一日一言《2日》 - 伝統

2020/10/02 (Fri) 20:08:48

(1)【 10月2日 】 他人の憂鬱に影響されるな

   おかしな奴が世の中にいるもので、中には、
   他人が憂鬱になったり、悲観したり心配していると、
   同情の垣根を飛び越しちゃって、相手をよけい心配させたり
   悲観させたりしている奴がある。


   そして、もっと飛び抜けた慌て者になると、
   他人の言葉や行動にまで自分の心を影響させちまって、
   不愉快になったり、不機嫌になったりし合う人がある。

   それが人生をどんどん値打ちのないものにしてしまう
   原因だということに気づかない。

   これは実に滑稽千万だよ。

・・・

(2)【 10月2日 】 強く人を求める

   事をなすに当たって、人を得るかどうかはきわめて大事なことである。
   それによって事の成否は決まると言ってもよい。


   それではどうしたら“人”が得られるのだろうか。
   これは大きく言えば、運とか縁によると考えられるだろうが、
   やはり強く人を求める心があってこそ、人材も集まってくるのだと思う。

   ただなんとなくすぐれた人材が集まってくるということはまずあり得ないだろう。
   すべてのものは要求のあるところに生まれてくるものである。


   人材の不足を嘆く前に、まずみずからどれほど強く人を求めているか
   を自問自答してみる必要もあるのではなかろうか。

・・・

(3)【 10月2日 】 縁尋機妙 多逢聖因

   良い縁がさらに良い縁を尋ねて発展していく様は
   誠に妙(たえ)なるものがある……


   これを縁尋機妙(えんじんきみょう)という。


   また、いい人に交わっていると良い結果に恵まれる……
   これを多逢聖因(たほうしょういん)という。


   人間はできるだけいい機会、いい場所、いい人、
   いい書物に会うことを考えなければならない。

・・・

(4)【 10月2日 】  己れを竭して天に聴く

   夫れ死生命(せいめい)あり、富貴は天に在り、
   身を修めて命(めい)を竢(ま)ち、
   己れを竭(つく)して天に聴くは君子の道なり。  

                  嘉永3年12月9日カ「※加藤公に禱る」

   【訳】

   人の生死は天命で、人力ではどうすることもできない。
   財産が豊かで高位に昇ることも天命である。

   自分の行いを正し、身を修め、天命を待ち、
   自分のできることを身を尽くして誠実に行い、
   天の命を聞くのは、心ある立派な人の生き方である。

     ※加藤清正。肥後熊本藩の初代藩主。

・・・

(5)《2日 肉体的観念を超えること》

   人間は日常生活 ―― 普通の生活でいる場合は、
   本来自己の内に包蔵する生活力の一部分しか発揮していないのである。

   この内部に包蔵する力を、危急の時に揮(ふる)い起すことが出来るように、
   通常の時にも発揮するようつとめるならば、不断の生活の二倍三倍の能率を
   挙げることができるにちがいないのである。

   危急の時に、普通以上の力が発揮できるのは何故であるかと言うと、
   「自分の肉体の力はこれ位しかない」と常識で“自己限定”しているのに、

   危急のときには、「肉体の力の限界」を心に留めている暇がなくなり、
   今まで“自己限定”によって自縄自縛していた「内在の力」の縛りが
   解かれて解放されるからである。

   危急の時と同じように、“自己限定”を解くことが出来るならば、
   吾らは予想外の力を発揮することができるようになるのである。

   それには神想観して「人間は肉体ではない。霊である」と云う自覚を深めるがよい。

        谷口雅春著『人生の秘訣365章』第10篇(P242) より

           <感謝合掌 令和2年10月2日 頓首再拝>

賢者の一日一言《3日》 - 伝統

2020/10/03 (Sat) 23:25:46


(1)【 10月3日 】 病は怖ろしきものならず

   一日も早く病を回復させ、本当に丈夫な人間になろうと思うなら、
   断然病などに負けてたまるかと、一大元気を心の底から煥発することであると、
   繰り返して進言する。


   ましてそうすることによって
   自然良能作用が旺盛に活動するという真理と事実とを考えると、
   病というものをひたすらに怖れる必要は少しもないのである。


   「病は怖ろしきものならず、これを怖れる心こそ怖しい!」

・・・

(2)【 10月3日 】 千差万別の人間

   人間は千差万別の姿と心に生まれついています。
   従ってそれぞれの持つ使命も天分も、
   全部異なっているのではないかと考えられます。


   しかし現実の社会では、すべてを一つの型にはめよう、規制しよう、
   同じ道を歩ませようとするきらいが多分にあるように思われます。

   もちろんこうした考え方は、一面においては必要なのですが、
   世の中を全部そういう考え方、ものの見方で通そうとすることは、
   決して社会の進歩にはつながらないでしょう。


   ですから、人間がそれぞれに持っている特性というものをよく認識し、
   その特性を生かしていける共同生活を考え出さなければならないと思うのです。

・・・

(3)【 10月3日 】 画になる顔①

   人間は学問・修養次第で、たとえ木偶のような人間でも、
   風韻とか韻致・気韻、或は風格というものが出て参ります。

   賢者は賢者なりに、愚者は愚者なりに「趣」が出て参ります。

   たとえば山寺の小僧にしても、初めは如何にも泥芋みたいな無骨者ですが、
   だんだん修行を重ねてきますと、その不細工なぼくねんじんに、
   どことなく風格・風韻が出て参ります。

   私はよくその例に宇垣大将を出します。

・・・

(4)【 10月3日 】  小を忍びて大を謀る

   小を忍びて大を謀(はか)るは則ち孔門の教なり。  

                   嘉永5年正月17日「東北遊日記」

   【訳】

   小さな事柄を堪え忍んで妄動せず、大事大謀の完遂を目指すことは、
   孔子の門人たるものへの教えである。

・・・

(5)《3日 幸福に豊かに生活するには》

   人間が日々の生活に幸福感が得られないで、
   鬱陶しい面白からぬ生活を送っていなければならないのは、
   自己に内在する力を自由奔放に放出することができないで、
   自己内在の力を内に抑圧して鬱結せしめているからである。

   抑圧と鬱結とを取去れ、さらば人生が明るく見えて来るであろう。

   その抑圧を取去り、鬱結を除き去るには、
   内在の霊的力に対して通路をひらかなければならないのである。

   それには心を「内部の霊」の方向に振り向けなければならないのである。

   普通吾々は、日常生活の現実的多忙に追いまわされて、
   五官的事物の方に心を奪われ、
   「内部の霊」に心を振り向ける時間も余裕もなくなっているのである。

   私たちの「心」は五官を通して、有限の物質世界に縛られ、
   「霊的自覚」(悟り)を通して「霊的無限の世界」と通ずるのである。

  「霊的無限の世界」に通じて無限を引出し来り、生活を豊かにすべきである。

       谷口雅春著『人生の秘訣365章』第10篇(P242~243) より

           <感謝合掌 令和2年10月3日 頓首再拝>

賢者の一日一言《4日》 - 伝統

2020/10/04 (Sun) 19:49:09


(1)【 10月4日 】 悪しき想像

   あなた方おおむねは自分の希望する人生状態や
   日ごろ自分の心でああなりたいなあ、こうなりたいなあという事柄を、
   ややもすると無制限に拡大し、引き伸ばして考えるという場合が多いんです。


   想像を組み立てろといっても、ただやたらに馬車馬的な想像じゃいけない。

   それを考えないでやってると、想像してる事柄の種類によっては、
   反対に人格を向下し、品性を堕落せしめ、運命を毀ち、
   人生を価値なくする恐れがある。

・・・

(2)【 10月4日 】 心を磨く

   人間の心というものは、ほんとうに自由自在なものだと思います。
   何か困難な問題が起こったとしても、心の働きによって
   いかようにでも考えられると思うのです。

   もう辛抱できない、あしたにでも自殺したいという場合でも、
   考え方を変えるならば、一転して、あたかもひろびろとした大海をゆくがごとき
   悠々とした心境に転回することさえできるのです。

   それが人間の心の働きというものでしょう。


   ですからわれわれは、これから仕事をするに当たって、
   まず心を磨くというか、ものの考え方を成長させる必要があります。

   そういう心の働きに、今まで得た知識を加えてやっていけば、
   必ず大きな成果が生まれると思います。

・・・

(3)【 10月4日 】 画になる顔②

   私もいろいろな軍人や政治家と懇意にしましたが、
   その中で今まで一番醜男(ぶおとこ)だと思ったのがこの宇垣大将です。

   頭から目、口、鼻とよくもまあこれだけ不細工な男があったものだ
   と思われるぐらいの醜男でありました。

   ところがそれが全体として一つの相になりますと、
   これが何ともいえぬ魅力があるのです。

   風格・威厳があって、いわゆる画(え)になる顔でありました。
   やっぱり宇垣さんの修養の致すところでありましょう。

・・・

(4)【 10月4日 】  学ばず勤めずんば

   才といひ気といふも学を基(がく)と為し、
   博といひ精といふも勤(きん)を資(もと)と為す。

   十室の邑(ほう)必ず丘(きゅう)のごときあり、
   学ばず勤めずんば老大(ろうだい)にして悲しまん。 

                  嘉永5年2月13日「東北遊日記」

   【訳】

   才能といい気魄(きはく)というが、それらは学問を源としている。
   博識といい優れた人物というが、それらは勤勉を源とする。

   十軒位の小さな村でも、孔子のような誠実で正直な人がいるが、
   孔子の孔子たる所以(ゆえん)である好学の人を得ることは難しい。

   学問に励み、勤勉でなければ、
   年をとってから身の不遇を悲しむこととなりますぞ。

・・・

(5)《4日 健全なる生活と不健全なる生活》

   現象界の奥には霊的流れの世界があり、現象界がその霊的流れに振向いて、
   そこから還流し来る智慧に導かれ、愛に護られ、
   生命(せいめい)に活かされている限りに於いて、
   その人の生活は生き生きとしているのである。

   それは譬えば植物の根が土地深く這入って永久に乾かない水分の流れから、
   その栄養を吸収している限りに於いて
   其の植物は生き生きとしているようなものである。

   その如く、健全にして健康なる生活は、實相世界の聖なる世界より、
   生命(せいめい)と智慧と愛との流れを受け、
   それを充分吸収してわがものと成し得た生活である。

   生活が行き詰ったり、希望が実現しなかったり、
   何らかの災害を蒙るような事があるならば、
   それは實相世界の聖なる導きの流れに、
   自分の心の波長が合わないところがあるからである。

   自分の心の波長が、神の波長に合わないときには、
   神からの恵みはありながら其れが実現しないのである。

       谷口雅春著『人生の秘訣365章』第10篇(P243~244) より

           <感謝合掌 令和2年10月4日 頓首再拝>

賢者の一日一言《5日》 - 伝統

2020/10/05 (Mon) 19:10:46


(1)【 10月5日 】 真・善・美

   いかなる人事世事に応接する際にも、
   まず心の積極的態度を崩してはならないことと同時に、
   平素心して真我の尊厳さを乱さぬために、
   自己の思考内容(特に人生に対する)を
   信念的に高潔に把持することに専念せねばならない。


   しかして、その要諦は、ただひとえに、
   つねに、真(誠)善(愛)美(和)を本位とする思考を以って、
   自己の精神生命の現実の姿とすることに努めることである。
 
・・・

(2)【 10月5日 】 経営の若さとは

   一般的に人間は年齢を加えるとともに若さが失われていきます。
   けれども、そういう中でも、なお若さを失わないという人もいます。
   それはどういうことかというと、心の若さです。


   企業においても、大切なのはそういう精神的若さでしょう。
   言いかえれば、経営の上に若さがあるかどうかということです。

   そして、経営の若さとは、すなわちその企業を構成する人々の精神的若さ、
   とりわけ経営者におけるそれではないかと思うのです。

   経営者自身の心に躍動する若々しさがあれば、それは全従業員にも伝わり、
   経営のあらゆる面に若さが生まれて、何十年という伝統ある企業でも
   若さにあふれた活動ができるようになると思います。 

・・・

(3)【 10月5日 】 慈心と仁心

   器量が大きそうに見える人で、ときどき「断」を欠く人物がある。
   人物は見識と勇気をもってよく断じなければ実行が立たない。

   特に悪を除くのに対して、気が弱く、
   同情心などからぐずぐずしていると、
   大罪悪を犯すことになる。

   この同情心、甘やかす心を慈心とし、
   これに対する大きな天地生成化育の心を仁心とし、
   仁心によってよく断ずることができる。

・・・

(4)【 10月5日 】 時に及んで

   時に及(およ)んでまさに努力すベし、
   青年の志を空(むな)しうするなかれ。

                  嘉永5年2月5日「東北遊日記」

   【訳】

   好機に巡りあった時には、しっかり努力しなさい。
   (好機を逃して)青年時代から抱いてきた志を
   無駄なものとしてはいけない。

・・・

(5)《5日 幸・不幸はあなたの掌中にある》

   テレビ放送局からどんな良い番組を放送して来ても、
   その放送局のチャンネルに受像機の波長を合わせなかったならば、
   その良い番組を形にあらわすことはできないのである。

   幸福の番組を自己の身辺に実現するかしないかは自分の心を
   どのチャンネルに振向けるかと云うことによってきまるのである。

   自己自身が自分の身辺に引寄せる運命を決定するのだ。

   人生が複雑なように見えているのは、
   テレビの構造が複雑なのと同じことである。

   併しながらテレビの構造が如何に複雑であろうとも、
   私たちは、ただツマミを廻すだけで、
   どんな放送のチャンネルにも波長を合わすことが出来るのである。

   それはただ波長が同調するかどうかの簡単な法則によるのである。
   法則は簡単であり、方法も簡単である。

   ただそれを実践する熱意と、
   その実践を継続する忍耐ありや否やの問題である。

       谷口雅春著『人生の秘訣365章』第10篇(P244~245) より

           <感謝合掌 令和2年10月5日 頓首再拝>

賢者の一日一言《6日》 - 伝統

2020/10/06 (Tue) 18:26:15


(1)【 10月6日 】 疲れたら休め

   人間は変化の中にある。
   その変化と変転にいちいち関わり合いをつけていたら、
   いたずらに心にムダな重荷を負わしていることになる。

   「疲れたら休め」のとおり、心も休めてやる必要がある。

   しかし、肉体は自分の意識で運動をやめることができるが、
   心は能動的で何かを考える傾向性を持っているから肉体と違う。


   だから「安定打坐法」で無声の境涯に心を入れることが
   心を休めることになり、心の旅路のオアシスになる。

・・・

(2)【 10月6日 】 休日の裏づけ

   文化的で繁栄した生活を営むのは、人みなの願いです。
   わが国でも、最近、休日を増やすということが話題に上がっていますが、
   休日を単に怠けた姿としてではなく、積極的に生活を楽しむというように
   考えてきつつあるのは、一つの進んだ姿として、好ましいことだと思います。


   しかし、ただ単に休みを多くするというだけで、
   そこに生産の高まりという裏づけがなかったならば、
   お互いの収入は減るばかりで、かえって生活の程度は下がってしまうでしょう。

   原始の時代から、お互いに人間は、生産の高まりとともに生活を高め、
   しかも休息と慰安の時間を次第に多くしてきたのです。

   それが社会発展の一つの姿と言えるのです

・・・

(3)【 10月6日 】 才と徳

   “才”という字は名詞では働き・能力の意だが、
   副詞だとわずかにという意味になる。

   能力というものは非常に大事なものだが、
   それだけではわずかなものにすぎない。

   “才”の大事さを充分に知りつつ、
   わずかにと訓(よ)ませることは大変なことだ。

   昔の人の識見の高さをみることができる。

・・・

(4)【 10月6日 】  師恩友益多きに居り

   徳を成し材を達するには、
   師恩(しおん)友益(ゆうえき)多きに居り。
   故に君子は交游を慎む。
  
                  安政2年3月「士規七則」

   【訳】

   人としての徳を身につけ、才能を開かせるには、
   恩師の御恩や友からの益が多い。

   だから、立派な人は交際を慎むものである。
   滅多なことでは人と交際しない。

・・・

(5)《6日 霊と精神と物質との三重的存在》

   人間は“神の子”であると云うことは、神は物質ではなく、精神でもなく、
   “霊”であるから、人間は“霊的実在”であると云うことである。

   “霊”は物質にあらず、精神(心)に非ずして、
   一方に物質を生み出し、一方に精神を生み出す。

   「易経」に「太極(霊)よりして両儀(陰陽)生ず」とあるのがそれである。

   精神は発動的にして物質(肉体)を動かす。
   発動的とは陽性なるを謂い、物質は受動的にして陰性である。

   人間は、一見、霊と精神と物質との三重的存在の如く見えるのであるが、
   霊が人間の實相であり、精神と肉体とは霊が現象面に働くために
   その「道具」として創造したところのものなのである。

   精神は精神としての働きの面があり、肉体は肉体としての働きの面があり、
   精神界には精神的法則があり、物質界には物質的法則がる。
   精神力によって物質的法則を超えることもあり得るがそれは異常の時である。

       谷口雅春著『人生の秘訣365章』第10篇(P245~245) より

           <感謝合掌 令和2年10月6日 頓首再拝>

賢者の一日一言《7日》 - 伝統

2020/10/07 (Wed) 18:41:45


(1)【 10月7日 】 心に合理的修練をさせる

   どんな場合にも、またどんなことにも安心立命で悠々と生活し、
   健康な肉体を有し、長寿の幸福を克ち得るために、自己統御が必要である。

   その前提として、本当の「我」というものを
   正しく信念し得る自覚意識を確立させるために、心に合理的修練を施して
   本来の境地に心を活かすように心がけねばならない。


   そして自分の本質がどんなものであるかがわかれば自己統御も完全となり、
   そしてさらに精神訓練の効果を積み重ねて立派な人になれる。

・・・

(2)【 10月7日 】 体力と気力と経験

   人間の体力というものは、三十歳前後が頂上であろう。
   一方、気力ということになると、私の常識的な体験から言えば、
   四十歳ぐらいが最高になり、これを過ぎると、次第に衰えてくるのではなかろうか。

   もちろん気力は落ちても、立派に仕事はできる。
   というのは、それまでのその人の経験というものが、
   その気力の衰えを支えるからである。


   それと、もう一つは先輩として尊ばれ、後輩たちの後押しによって、
   少々困難なことでも立派に遂行できるようになる。

   こうした力が加わるからこそ、歳をとって気力、体力ともに
   若い人たちにとてもかなわないようになっても、
   支障なく仕事が進められるのではなかろうか

・・・

(3)【 10月7日 】 母の徳①

   世に母の徳ほど懐かしいものはあるまい。


   母は子を生み、子を育て、子を教え、苦しみを厭わず、
   与えて報いを思わず、子と共に憂え、子と共に喜び、
   我あるを知らぬ。

   夫に添うては夫をたて、夫の陰に隠れて己の力を竭(つく)し、
   夫の成功を以て自ら満足している。


   夫や子が世間に出て浮世の荒波と戦っている時、
   これに不断の慰藉(いしゃ…なぐさめ)と奮励とを与える者は母である。

   夫や子が瞋恚(怒り)の炎に燃え、
   人生の不如意(思うようにならない)を嘆ずる時、
   静かな諦観と久遠の平和とに導く者も母である。

・・・

(4)【 10月7日 】  壮健にそだち申さず候ては

   武士は壮健にそだち申さず候ては
   物前(ものまえ)の用に立てざるは勿論なり。 

               嘉永4年6月28日「※叔父 玉木文之進あて書翰」

   【訳】

   侍というものは、心も体も元気で丈夫に育てなければ、
   いざという時に役に立たないことはもちろんである。

    ※長州藩士 玉木文之進。松陰の叔父。
     松陰が幼少時より教えを受け、最も影響を受けた人物といわれる。

・・・

(5)《7日 精神衛生及び肉体衛生の必要》

   “霊”は自我の本体であり、
   それは“神の子”であり、“神の子”は“神”そのものである。
   それを“神の子”と称して“子”なる名称を附加しているのは、
   “普遍的霊”が“個別的霊”として顕現しているからである。

   “子”とは“個”の謂である。

   だから、普遍的霊なる「神」と個別的霊なる人間とは
   本質的に本来同一同質のものであるのである。
   普遍霊(神)は一切の生命(せいめい)を生み出したのである。

   一切の生命(せいめい)を生み出して尚余りあり、
   一切の生物に対して常に間断なく生命(せいめい)を
   そそぎつつあるのが神である。

   だから仏教では神を“無量壽佛”と言い、一般には“無限生命”と呼ぶ。

   私たち人間には、その“無限生命”が宿っており、
   その“無限生命”が現象界に実現するには
   “精神”及び“肉体”を通して実現するのであるから、
   精神衛生も必要であり、肉体衛生も必要である。
   そのいずれをも軽んずるのはよくないのである。

      谷口雅春著『人生の秘訣365章』第10篇(P245~246) より

           <感謝合掌 令和2年10月7日 頓首再拝>

賢者の一日一言《8日》 - 伝統

2020/10/08 (Thu) 18:58:14


(1)【 10月8日 】 人体は水中で生活している

   肉体組織の必要とする貴重なる体液である、
   唾液、胃液、リンパ液などはいずれも水分から作られる。

   従って水なくしては、消化作用も同化作用も、
   その他一切の機能の活動が不可能になる。


   だから、「正常な組織の中には常に多量の水がある。
   従って、あらゆる組織は水中で生活している」という
   生理学上の見方はまさに絶対の真理である。

   従って、生命を確保する仕事を行うに必要とする水を飲むことである。

・・・

(2)【 10月8日 】 進歩への貢献者

   商品をつくる方は、もちろん今日現在はそれが最善だと思って出すのですが、
   日進月歩の世の中ですから、日とともに新しいアイデアが生まれてきます。

   ですから、お客さんの中には「あとから買った人は非常にいいものが手に入るから、
   先に買った人は損だ」と言われる方もあります。


   しかし、商品というものは最初に買う人がいなければ進歩しません。
   先に買う人は、私が金を投じて買ったから、多くの人に行きわたることになった。
   私は貢献者なんだ。同時に自分は一番早くその便益を得たから、むしろ得をしたんだ、
   とこう考えることによって世の中は発展すると思うのです。

・・・

(3)【 10月8日 】 母の徳②

   母は人間における造物主の権化ではないか。
   誠に母の徳こそは「玄の又玄(またげん)」なるものであって、
   婦人は根本において必ずよき妻たり母たる人でなければならぬ。


   婦人にいわゆる娼婦型が著しく増加して、
   妻らしい婦人、母らしい婦人の段々なくなってゆくことは、
   確かに忌むべき婦道の堕落である。

・・・

(4)【 10月8日 】  学校の盛衰は

   ※学校の盛衰は全く先生の賢愚(けんぐ)に存(そん)す。  

                  安政6年3月28日「吉日録」

   【訳】

   学校というものが盛んとなるか衰退するかは、
   全て先生が心ある立派な人であるか、
   それともくだらない愚かな人であるかによる。

    ※学校とは長州藩の藩校 明倫館をさす。松陰の畏友 中谷正亮の言という。

・・・

(5)《8日 精神衛生と祈りの関係》

   精神衛生が必要なる上からは、精神は清潔でなければならないし、
   肉体衛生が必要な上から謂えば、肉体の清潔も必要であるのは当然である。

   ホコリに埋められ、その配線を鼠が噛っているようなラジオ・セットでは
   放送局のアナウンサーの声を完全に再現することが出来ないのである。

   人間の霊・精神・肉体の三重的組織を此のラジオセットに譬えるならば、
   アナウンサーは「人間の本体」なる“霊”であり、波長を合わす事が精神衛生であり、
   ラジオの機構を清潔に保全することが肉体の衛生であると言い得る。

   「肉体は心の影」と称されるからとて、それは一心に心を整えて“祈り”又は神想観を
   行ずるからとて、肉体を浄水で洗浄することも入浴することも、
   物質的食事をとることも要らぬと云うようなことはあり得ない。

   心を整え祈り神想観することによって、肉体に何時、何を如何になすべきかが、
   霊の世界と精神の世界から示されるのである。

       谷口雅春著『人生の秘訣365章』第10篇(P246~247) より

           <感謝合掌 令和2年10月8日 頓首再拝>

賢者の一日一言《9日》 - 伝統

2020/10/09 (Fri) 19:50:23


(1)【 10月9日 】 人あっての自分

   もしも、いささかたりとも、報償を本位とするというがごとき、
   凡俗同様の卑しむべき心持ちが発生したなら、そのときは

   「箱根山 駕籠に乗る人担ぐ人 そのまた草鞋を作る人」

   という古諺(こげん)を思い出すがよい。

   さすれば、この世の中に活きるのは、いかに偉くなっても、
   自分一人で生きられるべきものではなく、

   人あっての自分、自分あっての人ということが、
   即座に直感され、その直感が良心に感応すれば、報償を超越した責務感となり、
   さらに当然の帰結で、その責務感がまごころとなって発露する。

・・・

(2)【 10月9日 】 人を中心とした経営

   会社の経営というものは、
   なんといっても人が中心となって運営されていくものです。

   組織も大事ですが、それは第二義的に考えられるもので、
   まず人が中心である、というように考えねばならないと思います。


   国の政治などは、政治の組織、機構というものが先にあって、
   それに当てはまる人が就任されて国政をとりますが、
   一般にはやはり人を中心に考えなければいけないと思います。

   組織は人を活かすために適切につくってゆくべきものと、
   こう考えていいのではないでしょうか。


   そしてそのためには、やはり一人ひとりの力、
   各自の能力というものが非常に重大な問題になってくると思うのです。

・・・

(3)【 10月9日 】 内発の力①

   思想とか信念とか信仰とかいうものは
   他から与えられたものでは駄目で、
   個人の魂、個人の人格を通じて発してくるものでなければならない。

   どんな立派な理論信仰でも、
   それが自分の中を通じてこなければ、決して生きた力にはならない。


   かの日蓮という人が出れば、日蓮を通じて法華経は新しく活かされ、
   あのような新宗教になる。

   しかし法華経というものは新しいものでも何でもない。

・・・

(4)【 10月9日 】  無心に出でて

   君子の道徳を其の身に蔵して、其の化(か)の者に及ぶや、
   従容(しょうよう)無心に出でて作為を借らざるに似たるあり。  

                   弘化3年カ「雲の説」

   【訳】

   立派な人が、人としてのあるべき徳を我がものとして、
   他人を教え、変えようとする時には、ゆったりと落ち着き、
   一切の妄念から解放された心で行うものである。

   (決して、よきように見せかけようとか、
   わざと手を加えるようなことはしないものである。)

・・・

(5)《9日 “霊”の指導を“肉体”に受けるには》

   “霊”なる人間の本体は、地球上の現象界の生活では、
   肉体を通して、自己を表現しなければならない。

   一方、肉体がその完全なる機能を果たすには、
   肉体が霊に融合し、霊の導きに従って自己を調整しなければならない。

   それは高級のテレビ装置が、“光”に自動的に感じて、
   その映像の鮮明さを調整するようなものである。
   “光”とは「霊なる實相」から来る“智慧の導き”を象徴的に謂ったものである。

   とも角、テレビでも、ラジオでも、
   自働的にか、他働的にか、その機械的構造を調整しなければ
   常に完全に放送局からの発信を実現することが出来ないのである。

   それと同じく肉体を常に整え、その機構を完全に整備する上から、
   肉体の部分品を整え、それを清潔にするよう、身体的衛生を守ることも必要である。

   自働的に身体を調整する場合、
   ラジオのマジックアイの如き役目をするのが、“精神”である。

        谷口雅春著『人生の秘訣365章』第10篇(P247) より

           <感謝合掌 令和2年10月9日 頓首再拝>

賢者の一日一言《10日》 - 伝統

2020/10/10 (Sat) 19:48:05


(1)【 10月10日 】 自分は力だ!

   元気という気がでたときに、何ともいえない爽快さを感じるものである。

   とにかく、元気溌剌たる状態で活きることこそ、
   最も重要かつ大事なのであるから、

   心の置きどころを常に積極的にするために、
   「自分は力だ」ということを断じて忘れてはいけない。

・・・

(2)【 10月10日 】 大事に立てば立つほど

   困難期、混乱期に際して大事なことは、根本的な心の迷いをとり除いて、
   しっかりと心を確立してゆくということです。

   志をかたく堅持して、そして事に立ち向うことができるなら、
   その時に応じて最善と考えられる具体的な方策は、
   適切に出てくるものだと思います。

   その志を確固として持つことなしに混乱期に直面すれば、
   あれこれと心が迷うことになって、
   事が失敗に終わる場合が少なくないと思うのです。

   まさに“貧すれば、鈍する”です。


   大事に立てば立つほど、どう生きるかについてのしっかりした信念を持つ。
   そうして事に当たれば、ある程度の処置を過たずしてできるものだと思います。

・・・

(3)【 10月10日 】 内発の力②

   親鸞にしても道元にしてもみなそうである。
   何も別段新しいものを拾ったのではない。

   国民の中から一人でも多く大覚者、志士、仁人が出て
   真剣にものを考え、行動することである。

   そうすれば必ずやがてそれは大きな力になり、組織になり、時勢を動かす。
   それよりほかに道がないのである。

・・・

(4)【 10月10日 】  心死より惨なるはなし

   古語に曰く、「惨(さん)は心死(しんし)より惨(さん)なるはなし」と。
   蓋(けだ)し身(み)死して而も心死せざる者は古聖賢の徒(と)、不朽の人なり。

   身(み)死せずして而も心(こころ)死せる者は今の鄙夫(ひふ)の流(りゅう)、
   行屍(こうし)の人なり。 

                  安政6年2月12日「※無逸の心死を哭す」

   【訳】

   古人が、「心が死ぬということより悲惨なことはない」といっている。
   ただし、身体が死滅しても、その精神が死んでいないものは、
   昔の聖人や賢者らであり、これらは永遠に朽ちることのない人である。

   身体は死滅していないが、精神が死んでいるのは、
   今のくだらない人間の類であり、無能で役に立たない人間である。

    ※長州藩足軽の子 吉田栄太郎稔麿。松陰の高弟。無逸は字。

・・・

(5)《10日 肉体は「人間の被服」に過ぎない》

   「物質」なる肉体はそれ自体には精神がなく、
   それは霊によって賦活せしめられ、
   生理作用や精神状態を発生するのである。

   霊が肉体を去れば、それは唯の物質に過ぎない。

   生きているのは物質ではなくて、
   それに宿るところの“霊”のはたらきであって、

   “霊”が宿ることによって、
   無生物なる物質が「生きている肉体」と化するのである。

   この事実から考えて見るならば、“霊”こそ「人間そのもの」であって、
   “肉体”は「人間の被服」に過ぎないと云うことが分かる。

   その「人間の被服」は誰がこしらえたのであるかと言うと、
   矢張り霊が時間空間的現象面に適する道具として造ったものである。
   そして間断なくその消耗を、霊は内部から修理しつつあるのである。

   物質そのものは、自己の消耗を自分で修理することはできない。
   どこに如何なる消耗が出来ているかを知るのは脳髄の智によるのではなく、
   内部の霊の智(ち)によるのである。

      谷口雅春著『人生の秘訣365章』第10篇(P248) より

           <感謝合掌 令和2年10月10日 頓首再拝>

賢者の一日一言《11日》 - 伝統

2020/10/11 (Sun) 18:10:57


(1)【 10月11日 】 空気の重要性

   人間の生命を確保するに必要な活力は、
   次の5種の物質の中に包含されている。

   すなわち、水、土、日光、食物、空気である。


   そして、この5種の物質中、
   われわれの生命の要求する活力の全体を100とすると、
   空気中から実に85%という大量を必要としている。

   そして残りの15%を、食物やその他のものから補給されている。


   真健康を獲得するには、何をおいてもこの空気というものに対する
   正しい理解を現実に活用する生活方式を実行すべきであり、
   正しい呼吸法を実践すべきである。

・・・

(2)【 10月11日 】 物心にバランスある姿

   今日のわが国では、科学の進歩、経済的な発展にくらべて、
   国民の道義道徳心なり良識というものに、
   非常に脆弱な面があるのではないか、という声がある。

   たしかに今日では、何が正しいか、いかにあるべきかという点が
   あいまいになってきているように思われる。


   やはり、人間らしい生活を営むには、単に科学が進歩し、
   物質的に豊かになるばかりでなく、人としての良識というか、
   精神面の豊かさというものが並行して養われる必要があると思う。

   つまり、身も豊か、心も豊かというバランスのとれた豊かさのもとに、
   はじめて平和で、人間らしい幸せな生活をおくることができるのではないだろうか。

・・・

(3)【 10月11日 】 患難に素しては

   「患難に素しては患難に行う」
    ―― 病気をすると、辛いことは辛い。

   しかし、またその病気の中に無限の意味もあり、効用もある。快楽もある。

・・・

(4)【 10月11日 】 見解なくては

   ※白楽天の詩に、
   「亦此の身を恋(こ)ふるなかれ、万却(ばんごう)煩悩の根(こん)、
    亦此の身を厭(いと)ふなかれ、一聚(いっしゅう)虚空の塵(ちり)」と云ふ

   (中略)

   武士たる者此の見解なくては討死(うちじに)は出来ぬなり。

                   安政3年8月以降「武教全書講録」

   【訳】

   白楽天の詩に、
   「この身を愛惜してはいけない。なぜなら、永久に煩悩の根本であるから。
    また、この身を嫌がってはいけない。
    なぜなら、たかが空をただよう塵の集まったものに過ぎないのだから」という。

   (中略)

   侍たるもの、このような見方ができないようであれば、討ち死になど、できはしない。

    ※772~846.白居易。
     中国、中唐の詩人。
     詩は「逍遙詠(しょうようえい)」の一節。

   正しくは、
   「此の身何ぞ恋ふるに足らん、万却煩悩の根。
    此の身何ぞ厭ふに足らん、一聚虚空の塵」である。

・・・

(5)《11日 常に内部の“霊”から導きを受けよ》

   ひとたび“霊”が物質を創造すると、創造せられたる物質は、
   “霊”が特にそれに支配力を及ぼさない限りは、物質界の法則に支配せられる。

   物質には物質の法則があり、肉体には肉体の法則がある。
   肉体はそれを適当に活動せしめることによって其の力を増大する。

   精神には精神の法則があって、智的活動を常に行っているならば、
   精神の智的方面は発達する。

   それと同じく霊的能力に於いても、
   霊的能力を常に利用するように訓練するならば、
   霊的能力は層一層増大するのである。

   この霊的能力の訓練と云うことは何よりも重要なことであるにも拘らず、
   日常生活の忙しさに大抵の人々はなおざりにしがちである。

   日常生活の殆ど大部分は、五官の感覚を通して物質面に
   働きかけることによって成り立っているのである。
   従って私たちは外部にのみ気をとられて内部の“霊”を忘れがちである。

     谷口雅春著『人生の秘訣365章』第10篇(P248~249) より

           <感謝合掌 令和2年10月11日 頓首再拝>

賢者の一日一言《12日》 - 伝統

2020/10/12 (Mon) 23:13:48


(1)【 10月12日 】 記憶力をよくする法

   有意注意が習慣化されてくると、
   自然と注意が注がれる範囲が拡大されていって、
   一度に多数または多方面に自分の注意を困難なく
   振り分けられるようになってくる。

   不必要な消極的観念が心の中を占拠して、
   有意注意力を撹乱するということがなくなってくる。

   その当然の帰結として、連想力が正確になり、
   いわゆる思想の整理が自然に巧妙になされるようになると同時に、
   記憶力がすこぶるよくなるんです。

   なぜなら、心の前におかれた事物のいっさいを
   その心に深刻に印象づけて、
   細大もらさず心の記憶の倉庫内にいれちまうからだ。

・・・

(2)【 10月12日 】 経営は総合芸術

   経営者の仕事は、画家などの芸術家の創造活動と軌を一にするものだと考える。
   一つの事業の構想を考え、計画を立てる。
   それに基づいて資金を求め、工場その他の施設をつくり、
   人を得、製品を開発し、それを生産し、人びとの用に立てる。

   その過程というものは、画家が絵を描くごとく、これすべて創造の連続だと言えよう。


   なるほど、形だけみれば単に物をつくっていると見えるかもしれないが、
   その過程にはいたるところに経営者の精神が生き生きと躍動しているのである。
   その意味において、経営はきわめて価値の高い、
   いわば総合芸術ともいうべきものだと思います。 

・・・

(3)【 10月12日 】 事業は徳業なり

   事業というのは、要するに人である。
   したがって、本当の事業は、事業でなくて「徳業」なのだ。

   会社の幹部になって事業を経営する人の人格、
   その気分、思想などが自然に集まって一つの社風というものをつくる。

・・・

(4)【 10月12日 】 己れより

   禍福(かふく)天より降るに非ず、
   神より出づるに非ず、
   己れより求めざる者なしとなり。 

                     安政2年7月29日「講孟箚記」

   【訳】

   禍(わざわい)や幸せは天から降ってくるのではない。
   神様から出てくるのでもない。
   自分から求めないものはないという。

・・・

(5)《12日 “内部の霊”のみ“活かす力”である》

   私たちが生かされているのは、内部からである。
   それは傷が治る事実が、内部から肉芽を発生し、
   ついに皮膚を再生するに至る事実によって明らかであるのである。

   外からの薬品や包帯は、内部から傷が修復されることを妨げないように
   外から包むだけのことである。

   内部の霊は、宇宙大生命なる太霊につながっており、
   其処から、必要に応じて無限に肉体を補修する力を喚び出して来るのである。

   自己に宿る“内部の霊”が目覚めた程度にしたがって、
   宇宙大生命との通路が一層大きくひらかれ、単に健康の問題のみならず、
   あらゆる人生問題に就いて、宇宙大生命の叡智の導きを受けることが出来るのである。

   こうして宇宙大生命の叡智と一体になり得た者のみ
   本当に自主的生活を送り得るのであって、
   その他の者はすべて環境や境遇の奴隷なのである。

   何故(なぜ)ならすべて外界に支配される者は奴隷であるからである。

        谷口雅春著『人生の秘訣365章』第10篇(P249~250) より

           <感謝合掌 令和2年10月12日 頓首再拝>

賢者の一日一言《13日》 - 伝統

2020/10/13 (Tue) 23:46:31


(1)【 10月13日 】 心の操縦

   現代人が心を完全に操縦できないで、
   招かなくともよい不幸や苦悩を味わっているのは、
   あまりに実在意識を過重視し、潜在意識の存在をおろそかにするため、
   潜在意識の運用が不完全になっているからである。

   ちょうど、馬術の心得の乏しい人が駿馬に乗った時、
   馬の静穏の時はともかく、何かの拍子で馬が暴れ出すと、
   たちまち混乱に陥り、完全にそれを操縦するどころか
   しまいには振り落とされてしまうのと似ている。

   人生は心の操縦を完全にすることが先決である。

・・・

(2)【 10月13日 】 国土を大切にする

   日本の国土ほど風光明媚で、気候が温和な国はそうないのではないでしょうか。
   しかも長年にわたって、非常にすぐれた日本独自の文化と国民性とを
   養い育ててきました。

   今後ともこの国土の存するかぎり、
   日本のすぐれた文化と国民性は永遠に失せないでしょう。


   とは言え、日本国民全体が、自分たちのこの国土を大切にする
   という強い意識を持つことがきわめて大事だと思います。

   そして、この国土によって今までにはぐくまれてきた
   伝統の精神というものを十分に理解、認識し、そしてさらに
   すぐれた文化の花を咲かせるよう努めていくことが、
   今日の日本人の尊い使命だと思います。

・・・

(3)【 10月13日 】 人間は性情の良し悪し

   情緒の潤滑油が乏しいせいで、知性も軋んで円通しない。
   この頃は話のわからぬ人間がふえたようである。


   しがない者はしばらく置いて、
   ちゃんとした指導的立場にある知識人であって、
   とんとわけのわからぬ者が少なくない。

   もっともマキャベリがすでに指摘しているが、人間の頭には三通りある。

   その一は、自分ではっきり考の立つもの、
   その二は、他人の考がよくわかるもの、
   その三は自分の考もなく、他人の考もわからぬもの。


   他の所で、彼は又、どうせねばならぬかを自ら知る者は上の人、
   次は、他人の善い勧告を用いる人、最下は、自ら人に忠告するすべも知らず、
   又人の忠告にも従わぬ人間であることを挙げて説いている。


   頭の良し悪しというが、それよりも根本的に大切なことは、
   やはり性情の良し悪しである。

   我執の無い、よく人と打融(うちと)けあえる性情の人は自然に頭が良く、
   自分の知見が立たずとも、賢者の意見を能く判断して用いることができるから、
   なまじい私見が立つよりも、もっと頭の良いことにもなるのである。

・・・

(4)【 10月13日 】 国を安んぜん

   徒(いたずら)に身を衛(まも)ることを知る者、
   安(やすく)んぞ能(よ)く国を安(やす)んぜんや。  

                    嘉永元年7月中旬
                       「剣(けん)の説(せつ)」

   【訳】

   何の意味もないのに、保身ばかりに走るものは、
   どうして国を守ることができようか。できはしない。

・・・

(5)《13日 神の叡智に波長を合わすこと》

   外界に対して働きかけるのは“活動”を通してであるが、
   内界に対して働きかけるには、“静”を通してである。

   「静かであれ、而してわれ神なることを知れ」と云う聖書のことばは
   内界に対して働きかけるための最も適切なる忠言であるのである。

   心を静かならしめて、内界の囁きに耳を傾けるとき、
   次第に一層完全に宇宙大生命に波長が合うようになって来るのである。

   宇宙大生命と波長が合うことによって、吾らは、一層多くの神の叡智の導きを
   受けることが出来、一挙手一投足がことごとく、その処を得て、
   誤ることなきに至るのである。

   心を静かならしめて、
   宇宙大生命と波長を合わすには神想観を修するのが最もよい方法である。

   次には、宇宙大生命は「神」であり、
   「神」は「愛」であるから、愛を実践することである。
   愛とは、一寸でも其の人のためになる行動を実践することであって、
   単なる「好き」ではないのである。
 
       谷口雅春著『人生の秘訣365章』第10篇(P250) より

           <感謝合掌 令和2年10月13日 頓首再拝>

賢者の一日一言《14日》 - 伝統

2020/10/14 (Wed) 23:12:43


(1)【 10月14日 】 肉体の主体は何か

   そもそも生きているという不思議な命の力は、肉体にあるのではなく、
   生命を創造する「気」の中に霊妙な働きを行う力があり、
   それはあたかも回っている扇風機にそれを回す力があるのではなく、
   電気がこれを回しているのと同様である。


   この例でも人間の命の力を正しく理解できるはずだが、
   人間だけは肉体それ自身に活きるちからがあるように思うところに、
   大変な間違いがある。

・・・

(2)【 10月14日 】 商品を発意する

   商売をしている人は、
   その商品を買って使われる人の立場というものが一番よくわかります。

   ご需要家のみなさまが商品について日ごろ抱いておられる
   ご不満、ご要望というものを聞く機会が一番多いのが商人でしょう。

   したがって、真にお客さまの要望にそった商売をするためには、
   そのご不満なりご要望を聞きっぱなしにするのでなく、
   それを自分で十分に咀嚼し、商人としての自分のアイデアを考え出す。

   いわば、みずから商品を発意してそれをメーカーに伝え、
   改善、開発をはかるよう強く要望していくことが大切だと思います。

   そこまでしてこそはじめて、
   真に社会に有益なほんとうの商売というものも可能になるのではないでしょうか

・・・

(3)【 10月14日 】 感動

   無感動な人間ほどつまらぬものはない。
   よく世間で、あいつは熱がないとか、いっこうに張り合いがないと言うが、
   電気が伝わらないような人間は、実際つまらない。

   よくある無内容な人間になると、
   せっかくいい話をしてやってもキョトンとしている。
   話が通じない。
   これくらい情けないことはない。


   人間の進歩というものは、そういうインスピレーション、感動から始まる。
   偉大な発明発見でも、あるいは悟りでもそうです。
   みんな感動がないといけない。

・・・

(4)【 10月14日 】 大器は遅く成るの理(ことわり)にて」

   万事速(すみや)やかに成れば堅固ならず、
   大器は遅く成るの理にて、
   躁敷(さわがし)き事(こと)にては
   大成も長久も相成らざる事に之れあるべく候。 

                   嘉永元年10月4日
                      「明倫館御再興に付き気付書」

   【訳】

   何事もなく順調に成長した人物は、
   意志が強く、他人に簡単に惑わされないかというと、そうでもない。

   立派な人物というものは、時間をかけてゆっくり成長するのが道理であって、
   騒々しい状態ではホンモノの立派な人物になることはない

・・・

(5)《14日 神との協同体としての人間》

   人間は神の最高の自己実現として、
   神の全体的計画(プラン)の一部分を受持つのである。
   人間は神の計画を実現するための協働者である。

   されば神に協力することができた時に於いて生き甲斐を感ずるのである。

   愛の実践は神に協力することになるのである。

   神に協力する人にとっては、彼の有つ富も力も結局は
   人類を幸福にするための蓄積又は資料となるのである。

   神は全ての全てであるから、すべての人とのために協力しない者は、
   神の心と波長が合わないのである。

   また、すべての良き宗教は、神が、その場、その時代、その時代の人間の救いのために、
   神の慈悲の人時処の三相応のあらわれとして出現したものであるから、
   互いに目的協同体として協力して、人類を光明化すべきものであるのに、
   互いに排斥し、互いに攻撃し合って縄張り争いすることは神の心に叶わないのである。

        谷口雅春著『人生の秘訣365章』第10篇(P251) より

           <感謝合掌 令和2年10月14日 頓首再拝>

賢者の一日一言《15日》 - 伝統

2020/10/15 (Thu) 23:14:49


(1)【 10月15日 】 ただ漫然と生きていないか

   現代、この文化の時代に生きている人々が、
   生命は貴重だということは考えているけれども、
   また人生は大事だということは考えているけれども、

   ただ、それは考えているというだけで、
   この貴重な生命や大事な人生を、どういうふうに一体全体コントロールし、
   どういうふうに我慢することによってこの目的が達せられるか
   という大事なことが、考えられていない。

   だから、漫然と、ただその日その日の出来心で
   人生を生きている人が多いんであります。

・・・

(2)【 10月15日 】 紙一枚の差

   社会に対する責任ということを同じように考えてやっていても、
   その徹し方には差がある。

   一方は「これで十分だ」と考えるが、
   もう一方は「まだ足りないかもしれない」と考える。

   そうしたいわば紙一枚の差が、大きな成果の違いを生む。
   もう十分だと考えると、苦情があっても
   「ああ言うが、うちも十分やっているのだから」ということになって、
   つい反論する。

   けれどもまだ足りないと思えば、そうした苦情に対しても敏感に受け入れ、
   対処していくということになる。

   そういうことが、商品、技術、販売の上に、さらに経営全般に行われれば、
   年月を重ねるにつれて立派な業績を上げることになるわけである。

・・・

(3)【 10月15日 】 創造的人物

   創造的人物は所謂知識階級からは出ない。
   野人は実際の人生に生地(きじ)でぶつかる。
   そこに強みがある。

・・・

(4)【 10月15日 】 才を老お)いしむべし」

   荘子、当に其の才を老いしむべし。  

                  嘉永4年2月20日
                    「文武稽古万世不朽の御仕法立気付書」

   【訳】

   厳かな侍は、その才能を老成させるべきである。

   (経験を積んで、成熟させることが大切である。)

・・・

(5)《15日 人生の最高目的について》

   人間が地上に「神の自己実現」として出現している以上は、
   その人の人生は「無限の善」の間断なき自己展開であると言わなければならない。
   それは「無限生長」と云う語を使っても差支えない。

   だから人間には老熟はあっても老衰はあり得ないのである。
   人間は年老いても希望を失うことはないのである。

   活動の種類や場面は変って来るかも知れないけれども、
   「我れ神の子なり」の自覚をもつ人には衰弱や衰退はあり得ないのである。

   善とは人生の究極目的に適(かな)うことであり、
   悪とは人生の究極目的に適わないことだと言い得る。

   人生の究極目的は、神を実現することであるから、
   神の如く生きることを私たちは念願としなければならないのである。

   神の如く生きるには、神は愛であるから、愛を実現しなければならない。
   愛は自他一体の自覚であるから、己の欲する如く他(た)の人に施さなければならない。

      谷口雅春著『人生の秘訣365章』第10篇(P251~252) より

           <感謝合掌 令和2年10月15日 頓首再拝>

賢者の一日一言《16日》 - 伝統

2020/10/16 (Fri) 23:32:47


(1)【 10月16日 】 悪魔のいたずら

   心本来の姿は、八面玲瓏、磨ける鏡のごとき清いものだ。

   その清い心にいろいろ汚いものを思わせたり、考えさせるのは、
   それは心本来が思ってるんじゃない。

   悪魔が心の陰でいたずらしてるんだ。

   それに気づいて、その思い方、考え方を打ち切りさえすれば、
   もう悪魔はそのまま姿をひそめるわけだ。


   「怒らず、恐れず、悲しまず」こそ正真正銘の心の世界なんだ。
   静かに自分自身考えなさい。

   何かで怒ってやしないか。
   何か恐れていやしないか。
   それとも何事かで悲しんでいやしないか。

・・・

(2)【 10月16日 】 諸行無常の教え

   その昔、お釈迦さまは、“諸行無常”ということを説かれました。
   この教えは、一般には“世ははかないものだ”という意味に
   解釈されているようですが、

   私はむしろ“諸行”とは“万物”、“無常”とは“流転”と考え、
   諸行無常とは、すなわち万物流転であり、生成発展ということである
   と解釈したらどうかと思うのです。

   言いかえますとお釈迦さまは、日に新たでなければならないぞ、
   ということを教えられたのだということです。


   これはたんに仏教だけの問題でなく、お互いの日々の仕事をはじめ、
   お互いの人生、社会のあらゆる面に当てはまるのではないでしょうか。

・・・

(3)【 10月16日 】 さむらい

   《さむらい》とは、より偉大なるものへの敬侍(けいじ)である。
   この偉大なるものに敬侍し、没我になって生きるところに、
   功利の世界、物質の世界から、忽然として道徳の世界、
   精神の世界に転生することが出来る。


   このゆえに武士は常に如何に生くべきかといわんより、
   如何に死すべきかの工夫に生きた。

   五十年の徒(いたずら)なる生活を犠牲にしても、
   尊い感激のある一瞬を欲した。


   この身命を喜んで擲(なげう)ちたい事業、
   この人の為に死なんと思う知己(ちき)の君、
   渾身の熱血を高鳴りせしむべき好敵手、此等(これら)を武士は欲した。

   この躍々(やくやく)たる理想精神は凝って所謂武士気質なるものとなり、
   頑固とまで考えられる信念、極端とまで驚かれる修練となったのである。

・・・

(4)【 10月16日 】 是非の心、人各々之れあり

   是非(ぜひ)の心、人各々之れあり、
   何ぞ必ずしも人の異(い)を強ひて之れを己れに同じうせんや。 
 
                    安政6年3月19日「要駕策主意 上」

   【訳】

   何が正しく、何がまちがっているかという心は、
   人たるもの、誰もが皆それぞれもっている。

   どうして、人がちょっと違う意見をもっているからといって、
   これを強制して、自分と同じにする必要があろうか。
   ありはしない。

・・・

(5)《16日 忍辱の美徳について》

   忍辱は仏教では、布施につぐ覚りに到達するための最も尊き修行である。
   忍び難きを忍び、謙遜に自己を顧みる徳が忍辱である。

   ひとから侮辱せられるのは、
   自分自身にそれらの辱(はずかし)めを受ける何かがあったのである。

   現在そのような行為をしていないかも知れない。
   併し、過去のいつの時にか、その辱(はずかし)めを受けるに相応するようなことを
   想い又は行為していたのであろう。

   それは今世(こんぜ)のことでないかも知れない。
   或るいは前世、前々世の出来事であるかも知れない。

   併し、原因のないところに結果は現れないのである。

   今ひとから悪しざまに言われるのは、
   悪しざまに言われるような業(ごう)の蓄積があり、

   この業(ごう)が形にあらわれて消えて行きつつあるのだ
   と考えれば、どんな辱めも、どんな悪口雑言も、
   それを有りがたく受けて感謝することができるのである。

   どんな辱(はずかし)めにも興奮しないでいる事は大調和を得る秘訣である。

     谷口雅春著『人生の秘訣365章』第10篇(P252~253) より

           <感謝合掌 令和2年10月16日 頓首再拝>

賢者の一日一言《17日》 - 伝統

2020/10/17 (Sat) 22:56:48


(1)【 10月17日 】 観念が人生を決める

   どんな、唯物論者でもまた物質至上主義者でも、
   心を度外視し、観念を没却して、その議論を決定することは断じてできない。


   否、観念こそ人生を極楽にもし、また地獄にもする。
   これが絶対の真理である以上、いかなる場合にも、
   憂愁、煩悶、恐怖、憤怒、悲観、苦労は断じて禁物である。

・・・

(2)【 10月17日 】 臨床家になれ

   経営、商売というものは、
   これを医学にたとえれば、臨床医学に当たると思います。

   その意味では、これに当たる者はみな、
   実地の体験をつんだ臨床家でなくてはなりません。


   ですから、かりに販売の計画を立てる人が、
   自分自身、販売の体験を持たずして、その知識、才能だけに頼って、
   いわゆる机上のプランをつくっても、それは生きたものとはならず、
   失敗する場合が多いのではないでしょうか。

   やはり、臨床の仕事をしていく以上、実地の体験から入らなくては、
   一人前の仕事はできにくいと思うのです。


   この臨床の仕事をしているという心根を
   お互いいつも忘れないようにしたいものです。

・・・

(3)【 10月17日 】 人間の因襲

   物には慣性というものがあります。
   人間には因襲というものがある。


   同じような人ばかり、同じようなことを考え、
   同じような話をし、同じようなことを繰り返しやっておりますと、
   非常に単調になる。

   単調になると、これは人間の習慣性で、生命、精神が鈍ってくる、眠くなる。
   人間が眠くなると溌剌(はつらつ)たる創造性を失ってくる。

・・・

(4)【 10月17日 】 独り学びて友なくんば

   曰く、
   「独り学びて友なくんば、則ち狐陋(ころう)にして寡聞(かぶん)なり」と。 

                   弘化4年2月朔日「※清水赤城に与ふる書」

   【訳】

   昔の人がいわれた。
   「一人で学問をし、一緒に学ぶ友達がいなければ、
    学問の内容は偏り、見識はせまくなる」と。

     ※砲術家、上野の人。

・・・

(5)《17日 終りまで忍ぶものは救われん》

   忍辱(にんにく)の一面は、辛抱強いと云うことである。

   「ならぬ堪忍するが堪忍」と云う諺があるが、
   最も辛抱強く私たちを赦しておられるのが、
   神であると云うことができるのである。

   神は如何なる場合にも、私たちを罰したまうことはないのである。
   ただ吾々は自己が言葉や、想念や、行動で蒔いた種を
   循環的に刈りとるだけのことである。

   私たちは常に愛行によって行動の良き種を蒔き、
   祈りと神想観とによって良き想念の種を蒔き、
   讃嘆と美しき言葉とによって良き言葉の種を蒔くようにしなければならない。

   更にその「良き種」が腐らずに生育するように、
   祈りと愛行と良き言葉とを常にたゆまず繰返すことによって、
   の「良き種」の生長を促進するようにしなければならない。

   すべて良き種を生長せしめるには、その結果を急いではならないのである。
   農夫が秋の収穫期が来るまで急がず待つが如くにである。

       谷口雅春著『人生の秘訣365章』第10篇(P253) より

           <感謝合掌 令和2年10月17日 頓首再拝>

賢者の一日一言《18日》 - 伝統

2020/10/18 (Sun) 23:24:26


(1)【 10月18日 】 人生は死ぬまで闘病

   人間は生まれたときから死ぬまで絶え間なく病と闘っている。

   健康とはその戦いに打ち勝っているときの状態である。


   自分がその生命に違和異常を感じるとそれを病と言っているが、
   それは生命が病的刺激と闘っていることを意識しただけのことである。

   意識しない前に既にこの戦いは開かれている。開かれていたのである。

   だから積極的な抵抗力を常に養成する必要があるのである。

・・・

(2)【 10月18日 】 独断は失敗につながる

   仕事でお互いが注意すべきことは、会社の伝統、
   方針を無視した自分ひとりの考えで行動しないということです。

   人ひとりの知恵は、いかにすぐれていても、伝統もかえりみず、
   方針を等閑視して、せまい自分の主観から生まれてくる判断で行動すれば、
   かえって会社をマイナスに導きます。


   私たちはとかく、ものの一面にとらわれて自己の考えのみを主張していると、
   その背後に流れる大きな力を見忘れてしまうものです。

   そこから大きな失敗が表われてきます。

   常に自己の背後にある流れ、つながりを見通す目、心を培い、
   その中で自己を生かすよう訓練していかなければなりません。

・・・

(3)【 10月18日 】 しびれる

   何にしびれるかによって、その人は決まる。


   中江藤樹は『論語』と王陽明にしびれていた。


   人間は本当にしびれなければならない。

・・・

(4)【 10月18日 】 吾れの位と為せる所は 

   吾れの位(い)と為せる所は、
   身を処するに仁を以てし、
   志を練るに義を以てし、

   治には以て国の干城となり、
   乱には以て君の爪牙となる、其れ是れのみ。 

                     弘化4年「※平田先生に与ふる書」

   【訳】

   私が今、心に期しているのは、
   人に対しては、慈しみや思いやりの気持ちを持ち、
   志を鍛えるにあたっては、
   人間の踏み行うべき正しい道をもって行うことである。

   また、平時は殿の御楯(みたて)となり、
   外国の侮(あなど)りを防ぎ、国内を治め、
   戦時には殿の牙となり爪となってお守りすること、これだけである。

             ※長州藩士 平田新右衛門。少年時の漢文学の師

・・・

(5)《18日 自己の内に實相の光を点ぜよ》

   現象界のヤリトリにくたびれたならば、
   現象界から心を転じて、神想観によって、“實相の世界”に超入せよ。

   其処に超入することによって私たちは、神に接触し、無限の善に接触し、
   一切の不安恐怖がなくなるのである。

   現象界は叢雲(むらくも)を通して見る月のように、
   完全円満な相(すがた)を見ることはできないのである。

   現象界は心の迷いを通して見る世界であるから、
   それは實在する本当の《すがた》ではなく、
   言わば、一種の夢幻(ゆめまぼろし)のようなものである。

   併し、それを単に夢幻(ゆめまぼろし)であるとして逃げ出したからとて、
   更に夢幻(ゆめまぼろし)が追いかけて来て、終止するところがないであろう。

   それは光をともさずして闇を消そうとするのと同じことだからである。
   闇を消すためには「光」を点じなければならない。
   即ち、自己の内に實在の「光」を見出さなければならない。

   實在の光が輝き出せば、非實在の闇は消えてしまうのである。
   實在の光を見出す方法が神想観である。

         谷口雅春著『人生の秘訣365章』第10篇(P254) より

           <感謝合掌 令和2年10月18日 頓首再拝>

賢者の一日一言《19日》 - 伝統

2020/10/19 (Mon) 23:19:09


(1)【 10月19日 】 求道

   努力が自己を満足せしめる程度のもので表現もしくは自覚されないと、
   この方法ではだめだというふうに軽率に判断して、
   次から次へと他の方法を求めるか、さもなければ、

   求道という、人間のみ賦与されている尊い心意を、
   自分の精神領域から知らず知らず除去してしまう。

   人間万一そうなったら、自己尊厳の冒涜であるばかりでなく、
   厳格な意味でいうと、精神的な自己放棄だということになる。


   しかし、ほんとうに、正念を持つ人というものは、
   決して人生というものをそんな浅い考え方で考えてはいない。

・・・

(2)【 10月19日 】 良識を養う

   この世の中ではお互いがさまざまな言説を唱えています。
   しかし自由のもとに自説を主張する場合には、
   自説にとらわれて対立のみに終始するということではいけません。

   対立しつつも調和してゆかなければならないと思います。


   そのためには、お互いがそれぞれに
   みずからの良識を養い高めていくことが大切です。

   公共の福祉に反してはならないということは、
   もちろん法律にも定められてはいますが、
   やはり法律だけでは律し切れないものがあるわけです。

   そういうものについては、個々の人びとがみずからの良識で
   事を判断することによって、自由を真の自由たらしめて
   いかなければならないと思うのです。

・・・

(3)【 10月19日 】 使命

   人間、いかなる誘惑を受けても、いかなる迫害を受けても、
   最後に一つ為さざるところがなければならぬ。 

・・・

(4)【 10月19日 】 経籍(きょうせき)に炳如(へいじょ)たり 

   夫(そ)れ士(し)君子(くんし)の道は経籍に炳如たり。  

                     弘化4年「※平田先生に与ふる書」

   【訳】

   心ある立派な武士や君子の生き方は、昔の聖典に明らかである。

     ※長州藩士 平田新右衛門。少年時の漢文学の師

・・・

(5)《19日 到る処に天国浄土がある》

   心をひらいて、神の生命(せいめい)の動きを感じ、
   神の智慧の素晴らしさに驚嘆し、
   神の愛の宏大さに心打たれる者は幸いなるかなである。

   空を仰いで白雲のたたずまうのを見ても、庭に生(お)うる一木一草、
   それがたとい雑草のようなものであっても、
   其処に神の生命(せいめい)の神秘が感じられ、精緻にして微妙なる
   神の智慧を感得し、神の愛がいかに深きかを知ることができるのである。

   心を澄まして静かに聴けば到る処に神の御声を聴くことができるのである。
   神は今も働き給い、神は今も私たちに愛語を囁きかけていたまう。

   ある大学教授は、常に学生に「自分は常に庭に出て、大自然の景観に触れ、
   其処に神の声を聴き、瞑想し、インスピレーションを得る」と語るので、
   或る学生は教授の庭園はどんなにか広大なものかと想像して訪問して庭を見ると、
   それは現象的には実に狭い庭であった。

   併しその教授には神の声をきく広大な庭だったのだ。
 
      谷口雅春著『人生の秘訣365章』第10篇(P254~255) より

           <感謝合掌 令和2年10月19日 頓首再拝>

賢者の一日一言《20日》 - 伝統

2020/10/20 (Tue) 23:31:36


(1)【 10月20日 】 他人を消極的にさせない

   いかなる場合にも、他人の心を消極的にするがごとき言行は、
   絶対になすべきではない。

   特に病におかされている人や、運命に悩まされている人は、
   よほどの修養のできている人でない限り、おおむねは
   その心が極度に消極的になっているのが普通の傾向であるから、

   その種の人々には、一段とその心を積極化するためへの努力を、
   真実の人類愛をもって働きかけないといけない。

・・・

(2)【 10月20日 】 小異を捨て大同につく

   明治維新の立役者は勝海舟と西郷隆盛である。
   当時官軍にも幕府側にも戦いを主張する人は少なからずあり、
   複雑な情勢であった。

   しかし、勝海舟も西郷隆盛も戦うことを決して軽視はしなかったけれども、
   それ以上に、日本の将来ということを深く考えたわけである。

   そういう両者の一致した思いが、江戸城無血開城を可能にしたのだと思う。


   結局、指導者が目先のこと、枝葉末節にとらわれず、
   大所高所からものを見、大局的に判断することが
   いかに大切かということである。

   何が一番大事であり、何が真に正しいか、たえず小異を捨て大同につく、
   それが指導者としてきわめて大切な心がまえだと思う。

・・・

(3)【 10月20日 】 気魄

   善かれ悪しかれ気魄(きはく)がなくなってくると人間は駄目。

   現代人は先ず、けちけちした我執、自己心、神経衰弱を
   打破してからでなければ、善悪共に、大したことが出来ない。

・・・

(4)【 10月20日 】 親思ふこころにまさる 

   ※親思ふこころにまさる親ごころ
   けふの音づれ何ときくらん  

                安政6年10月20日
                「父叔兄(ふしょくけい)あて書翰(しょっかん)」

   【訳】

   父母のことを心配している私の心より、
   私を心配してくださる父母の心の方がはるかにまさっている。
   今日の便り(私の刑死確定の知らせ)をどんな思いでお聞きになるであろうか。

   ※安政6年(1859)のこの日、松陰が父 杉百合之助、
    叔父 玉木文之進、兄 杉梅太郎へ送った永訣(えいけつ)の書の一節である。

・・・

(5)《20日 エデンの楽園に再び還る》

   現象の広さ狭さは、
   其処に天国浄土を見出すのに何ら障(さわ)りはないのである。

   執して握っている者には広大な地面も狭く、
   其処が境界争いの闘争の場となることもある。

   心の狭い者にはどんな広大な領土があっても、其処が狭く感じられ、
   他(た)の領土を奪おうなどと考えるのである。

   どんなに狭い庭をもっていても心の中に「エデンの楽園」をもっている者には
   其処がエデンの楽園となり、神の声を聴き、神の愛を感じ、神の智慧に触れ、
   インスピレーションを受けることができるのである。

   路傍の名なし草の花にも神の芸術を感じ、小川のせせらぎや、小鳥の囀りにも
   神の音楽をきき、仰いで星を見れば、神の偉大さに触れ、
   万物の永遠の秩序の荘厳さに打たれる。

   物質的所有や領土や金銭は何ら私たちにとって
   インスピレーションの源泉にはならないのである。
   それは執着と闘争の源泉となる。

   ただ神のみが平和の源泉である。

       谷口雅春著『人生の秘訣365章』第10篇(P255~256) より

           <感謝合掌 令和2年10月20日 頓首再拝>

賢者の一日一言《21日》 - 伝統

2020/10/21 (Wed) 23:42:32


(1)【 10月21日 】 慌てるな

   どんな場合でも慌てない人となるには、
   平素の言動をできるだけ落ち着いて行うよう、心がけるべきである。

・・・

(2)【 10月21日 】 競争相手に学ぶ

   今日、たとえば企業などにおいて、非常に力もあり、
   立派な経営をしている相手と競争していくというような場合、
   ともすれば、困った、大変だと考えがちではないだろうか。

   しかしこれは「相手の経営のいいところは大いにとり入れてやろう。
   また、こういう相手と競争していくのは一面大変だけれども、
   同時に非常な励みにもなる。
   結局自分のところの発展にプラスになるのだ」と考えたらどうだろうか。

   そうすれば、相手の良さも素直に呼吸でき、
   さらに心ものびのびとして、相手に負けないような知恵もでてくるかもしれない。


   指導者は、競争相手からも学ぶ心構えが大切だと思う。

・・・

(3)【 10月21日 】【風流】

   人間は練れば練る程詩的になる。
   風流とは風が空を吹く如く、
   何等為(なんらため)にする所なき自(おのずか)らな姿を謂う。

・・・

(4)【 10月21日 】 位に素して行ふ 

   位に素して行ふ。  

              弘化4年「※平田先生に与ふる書」

   【訳】

   今ある場所で、今なすべきことを行う。

     ※長州藩士 平田新右衛門。少年時の漢文学の師

・・・

(5)《21日 今・此処に天国がある》

   神の国はそんなに遠く遥かなる処には存在しないのである。
   神の国は今此処にあるのである。

   仰いで太陽の輝くのを見よ、
   それを単なる物質として見るのは科学者の立場である。
   それはそれで良いのであって間違いではないのである。

   しかし生きた人間としてそれを見れば、又別の面から太陽を見るのである。
   降りそそぐ太陽の光熱のもとに万物が生かされている。

   太陽を受けない時と、太陽を受けているときとは樹木の輝きが異なるのである。
   それを科学者は単なる“光線の反射”だと解釈するであろう。

   しかし、“人格ある人間”が“生きている樹木”を見れば、
   単なる“光線の反射”以上のものがあるのである。

   詩人は其処に、神の愛を感じ、生命(せいめい)と生命(せいめい)との共感に触れ、
   其処に単なる科学的立場以上の「美」を感ずるのである。

   詩人と宗教人とは到る処に、神の生命を感じ、神の美を見出し、神の愛に触れる。
   そこに天国があるのである。

       谷口雅春著『人生の秘訣365章』第10篇(P256) より

           <感謝合掌 令和2年10月21日 頓首再拝>

賢者の一日一言《22日》 - 伝統

2020/10/22 (Thu) 23:29:43


(1)【 10月22日 】 象より哀れじゃないか

   インドに行きたての時、おまえは象よりも哀れな人間だと言われた。

   象も、あんなでかい、千五百貫もありながら、
   7つか八つの子供に尻をひっぱたかれながら、
   子供が引っ張って歩かない限り、一人では歩けないじゃないか、
   おまえは、あれよりもさらに哀れだと。

   象は自分一人の力で歩けない臆病者であるだけの哀れさであるが、
   おまえのはその上に自分の理屈で自分が迷っている。より一層哀れだと。


   それもこれも、おまえは自分というものの
   本当の正体を正しく見極めていないからだと。

・・・

(2)【 10月22日 】 成功のコツ

   よい会社だと思って入った会社でも、
   一から十まで何もかもいいとは限りません。
   ときには欠点もあるでしょう。

   しかしそれをはじめから“こんな会社はあかん”と決めてかかるか、
   それとも“どうもこの点だけはよいとは思わないが、
   これは自分の問題として改善向上させていこう”という
   熱意をもって当たるかによって、対応の仕方が全く変わってくるでしょう。


   “よし、自分の会社をいまよりもっとよい会社にしてやるぞ”
   という意欲を持ち、すべてのことを前向きにとらえる姿勢を持つ人は、
   信頼もされ、頼もしい社員として嘱望されるでしょう。

   成功のコツはそのようなところにあると思うのです。

・・・

(3)【 10月22日 】【本心を見よ】

   求道者にも本物は少ない。
   盗賊にでも見込みのある奴が居る。

   本心を見よ。

   末梢にとらわれるな。

・・・

(4)【 10月22日 】 人才育せざるべからず

   人(じん)才育(さいいく)せざるべからず。

   (中略)

   蓋(けだ)し人各々能あり不能あり、物の斉(ひと)しからざるは物の情なり。

   (中略)

   斉しからざる人を一斉(いっせい)ならしめんとせず、
   所謂(いわゆる)才なる者を育(いく)することを務(つと)むべし。

   (中略)

   今の弊(へい)、闔国(こうこく)の人をして皆一斉ならしめんと欲するに在り。
   而して却つて其の間、才なる者を特出するを見ず。  

                嘉永4年4月以降「※山田治心気斎先生に贈る書」

   【訳】

   人のもって生まれた才能というものは、育てずにおくべきではない。

   (中略)

   ただし、人にはそれぞれできることとできないことがある。
   物が同じではないというのは物の本質である。

   (中略)

   同じではない人を同じにしようなどとせず、
   いわゆる、その人の優れた才能を育てることに努めるべきである。

   (中略)

   今の欠点は、全国の人をみんな同じようにしようと願っていることである。
   そうであるから、かえって、我が国では才能の特に秀でた人を見ないのである。

     ※長州藩 山田宇右衛門。治心気斎は号。
          松陰は幼少時よりその教えを受け、最も影響を受けたといわれる。

・・・

(5)《22日 神との接触を切り離してはならない》

   神は六日間で宇宙の創造を終り、みずからは休み給うて
   七日目を人間にまかせ給うたと「創世記」にある。

   人間は神が大自然力としては創造することの出来なかった「最後の完成」を為すべく、
   神御自身の生命(せいめい)が、人間として、「花咲き出(で)た」ものなのである。

   花は外界からの物質の積み重ねによって形造られたものではなく、
   植物の生命(せいめい)が、中(うち)から発現して
   花の形となって出て来たところのものである。

   それと同じく、神が人間を創造せられたのは、
   外から物質を捏ねまわして人間がつくられたのではなく、
   神の《いのち》が、中(うち)から花咲き出(で)るように
   具体化して顕れたのである。

   だから人間は神の奴隷でもなく、神の僕でもなく、
   神御自身の延長であり顕現である。

   しかし神の延長であるのしても、神との接触を断絶してしまったら、
   一箇の孤立した蓄電器のようなもので、その力は有限となるのである。

       谷口雅春著『人生の秘訣365章』第10篇(P257) より

           <感謝合掌 令和2年10月22日 頓首再拝>

賢者の一日一言《23日》 - 伝統

2020/10/23 (Fri) 23:35:43


(1)【 10月23日 】 周章狼狽の愚

   多くいうまでもないなく、人間というものは、
   いかなる場合にもその人生に活きる際、慌ててはいけないのである。


   というのは、人生に生ずる錯誤や過失というものは、
   その原因が、心が慌てたときに多いからである。


   慌てるというのは、またの名を周章狼狽というが、
   これは心がその刹那放心状態に陥って、
   行動と精神とが全然一致しない状態をいうのである。

   心がこうした状態に陥った時というものは、
   意識は概ね不完全意識になっているのである。

・・・

(2)【 10月23日 】 原因は自分にある

   人間というものは他人の欠点は目につきやすいものだ。
   往々にしてなにか問題が起こると、
   それはすべて他人のせいで、自分には関係がない、と考えがちである。

   実際に他人のせいであって、自分は無関係な場合もある。
   しかし、それをそう判定するのは、あくまでも人間である。

   他人のせいではあるけれども、実は自分のせいでもある、
   というように、自分は全く関係がないとは言いきれない場合も
   少なくないのではなかろうか。


   少なくとも、問題が起こった際には、他人のせいだと考える前に、
   まず自分のせいではないか、ということを一度考え直してみることが
   非常に大切ではないかと思うのである。

・・・

(3)【 10月23日 】【三上の読書】

   つまらぬ小説や愚論に類するものはなるべく読まぬようにすると共に、
   心が浄化されるような立派な書を読むべきである。


   特に朝、それも1時間とは言わぬ、30分でよい。


   昔の人も枕上(ちんじょう)・馬上・厠上(しじょう)の
   三上の読書ということを言っておるが、
   私は長年必ず厠(かわや)で読むことにしておる。


   厠で読むだけの時間であるから、何枚も読めるものではないが、
   十年、二十年と経つと、自分でも驚くほどの量となる。


   しかもこれは数量の問題ではない。
   その時に受けるインスピレーションというものは、
   到底書斎の中で何々の研究などをやっておって得られるものではない。


   況(いわん)やこれから安眠熟睡しようという
   枕のほとりにおいておやである。
   寝る前に週刊誌等を読むのは最も愚劣なものである。 

・・・

(4)【 10月23日 】 為さざるの志確乎たらば

   為さざるの志確乎たらば、一旦事変に臨むことありとも、
   必ず能く為すあるの業を成すことを得ん。
   是れ吾が学を勤むる所以なり。  

                     安政2年11月11日「講孟箚記」

   【訳】

   してはいけないことは絶対にしないという志が確かであれば、
   いつどのようなことが起きても、
   必ず立派に対応することができるであろう。

   これが、私が学問をする理由である。

・・・

(5)《23日 愛行は神の霊波に同調する道である》

   「愛」は一体感であるがゆえに、愛を行ずるとき、
   私たちは神とも一体となり神との接続を恢復する。

   愛行はそれが如何に小事であろうとも、
   それは「神」なる実在からの延長であるから、
   愛行は「実在」として永遠に消滅することはないのである。

   愛行は永遠不滅であり、実在の世界にいつまでも残るのである。

   神は到る処に遍満したまうけれども、愛が行われないときには、
   放送電波は到る処に遍満していても波長が合わないために、
   放送電波と接続することが出来ないように神と接続することが出来ない。

   神の放送霊波と接触することが出来たとき、
   一切の不幸も悩みも病いも消えてしまって、神の国に存在する番組のみが、
   テレビにあらわれるように現実世界にあらわれて来ることになるのである。

   神から孤立して何事かを為そうと努力することは、
   テレビを放送のチャンネルに合わせないで受像しようとするようなもので、
   効果はないのである。

      谷口雅春著『人生の秘訣365章』第10篇(P257~258) より

           <感謝合掌 令和2年10月23日 頓首再拝>

賢者の一日一言《24日》 - 伝統

2020/10/24 (Sat) 23:45:14


(1)【 10月24日 】 他人への同化に注意

   他人の消極的な言葉や行いに、
   知らず知らずに同化するつもりがなくても
   同化せしめられちまうのであります。

   そして、同化するといつしか、自分も同じように哀れな、
   惨めな人間になっちまうのであります。


   しかも、そうした恐るべき誘惑が悪意でなく行われているんです。
   それを考えたら一段と注意しなければならないということが
   おわかりになるでしょう。

・・・

(2)【 10月24日 】 地球人意識

   いま世界は、本格的な国際化時代を迎えつつあります。
   政治、経済、あるいは資源、食料などの問題にしても、
   一国の問題がすぐ世界の多くの国ぐにに影響を与えることが少なくありません。

   その意味では、世界は非常に狭くなったと言えましょう。
   それだけに、たんに自国の問題をのみ考えるのではなく、
   もっと視野を広くして、地球人の一員という意識でものを考え、
   行なうことが大事だと思います。

   たとえば、援助を願っている国があるとすれば、
   他の国ぐにはそれぞれの実力に応じて助け合うべきでしょう。

   そのようにお互い地球人といった意識を持って、
   なすべきことをなすということが基本の心がまえになると思うのです。

・・・

(3)【 10月24日 】【堕落】

   凡(およ)そ人間が唯物的享楽的に堕落して来ると、
   必然、精神的には敬虔を失い、破廉恥になり、
   あらゆる神聖なるものの意義を疑い、
   人生の厳粛なる事実に軽薄厭うべき批評、否嘲笑を放つものである。

・・・

(4)【 10月24日 】 衆議帰一

   総じて大事を挙げ行ふ時は必ず衆議帰一の所を用ふべし。
   是れ政の先著なり。 

                     嘉永6年8月「将及私言」

   【訳】

   全てにおいて、大切なことを審議決定し、
   実行する時には、必ずみんなの意見が一致したものを採用すべきである。

   これは政治を行う上で最も優先すべきことである。

・・・

(5)《24日 真理の言葉で心を訓練すること》

   「人間は神の子である。それゆえに円満完全であり、不幸も病気もないのである」

   これは真理である。

   真理であっても、その真理に波長を合わせない限りは、
   現象界にその真理の完全な相(すがた)は実現しないのである。

   だから次にその真理を、暇ある毎に随時、口吟(くちずさ)むか、黙念するがよい。
   又一定の時間には神想観を修して、この真理そのものに
   化(な)り切ることが大切である。

   言葉は心を動かす創造的力を有するから、このような真理を、
   常に心のうちに又は発声音にて言葉に唱えるときには、
   自分の心を訓練して、神への信仰心を深め、實相完全の真理に、
   波長の合うよう、自分の心を鍛えることができるのである。

   いくら人間の實相は完全であっても
   心の波長が實相の真理に同調するよう訓練せられない限りは、
   現象面に、實相の完全な相が投影して来ないことになるのである。

   真理の言葉を繰返すことによって心を訓練せよ。

      谷口雅春著『人生の秘訣365章』第10篇(P258~259) より

           <感謝合掌 令和2年10月24日 頓首再拝>

賢者の一日一言《25日》 - 伝統

2020/10/25 (Sun) 23:51:23


(1)【 10月25日 】 人間は本来幸福に活きられる

   人間というものは、老若男女の差別なく、
   その生命の中に健康も運命も自由に獲得し、
   また開拓し得るという真に感謝に値する偉大な力が与えられている。


   人間は、そうやたらと病や不運に悩まされたり、
   虐げられねばならぬものではなく、よくその一生を通じて、
   健康はもちろん、運命もまた順調で、天命を終わるまで
   幸福に活き得られるように本来的には作られているものなのである。

・・・

(2)【 10月25日 】 人の話に耳を傾ける

   日ごろ部下の言うことをよく聞く人のところでは比較的人が育っている。
   それに対して、あまり耳を傾けない人の下では人が育ちにくい。
   そういう傾向があるように思われる。


   なぜそうなるかというと、やはり部下の言葉に耳を傾けることによって、
   部下が自主的にものを考えるようになり、
   そのことがその人を成長させるのだと思う。

   けれども、自分の言うことに上司が耳を傾けてくれない、
   というのではただ惰性で仕事をするということになって成長も止まってしまう。


   上司としてどんな場合でも大事なのは“耳を傾ける”
   という基本的な心構えをいつも持っているということであろう。

・・・

(3)【 10月25日 】【国を亡ぼす君主】

   国を亡ぼす君主というものは、
   きまって自ら驕(おご)り、自らを知恵あるとして、
   人を軽蔑するものである。


   自らを驕れば人材をいい加減に取扱い、
   自らを知恵ありとすれば専制独裁をやる。
   相手を軽んずれば備えがなくなる。

   何事があっても、びくともしないという用意がなくなってしまう。


   備えがないと禍(わざわい)を招き、独裁をやると地位が危うくなり、
   人材を軽んずるとすべてが塞がってしまう。
   そうして自ら亡んでしまうのである。

・・・

(4)【 10月25日 】 身はたとひ

   ※身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂   

                     安政6年10月25日「留魂録」

   【訳】

   我が身はたとえこの武蔵野の地に朽ちるとしても、
   大和魂だけは(この日本に)永遠に留まって、護国の鬼となるぞ。

    ※安政6年(1859年)のこの日に起筆したという
     「留魂録」(松陰の遺書)の書き出しの歌である。

・・・

(5)《25日 真理は汝を自由ならしめん》

   人間の行動は、その自覚の程度によって左右せられるものである。
   たとい人間は神の子であり、本来完全円満であっても、
   神の子であるという自覚が出来るまでは、神の子らしい働きができないのである。

   先ず 「人間は神の子である」 と云う真理を知ることである。
   この真理を知ったときに、人間は自己解放を遂げることができるのである。

   これをキリストは「真理は汝を自由ならしめん」
   と云うような語で表現したのである。

   「本当の自分」 即ち 「内在のキリスト」(佛教的に謂えば、内在の佛性)は
   完全円満であるけれども、それが色々の「迷い心」で隠覆されているのである。

   「迷い心」の最大なるものは、
   「人間は肉体と謂う物質的塊である」と云う根本無明である。

   人間自身を物質的塊であると信じた程度に応じて、
   その人は物質界の法則に支配される程度が殖え、
   それだけその人は自由を失うのである。

       谷口雅春著『人生の秘訣365章』第10篇(P259) より

           <感謝合掌 令和2年10月25日 頓首再拝>

賢者の一日一言《26日》 - 伝統

2020/10/26 (Mon) 23:29:26


(1)【 10月26日 】 潜勢力という偉大な力

   多数の人々は、人間には生命の奥に内在する微妙にして
   優秀な潜勢力なるものの実在を意識せず、また信念していない。


   何をおいても、人間には、人生のすべてを立派に解決して、
   万物の霊長である資格の発揮を完全にしてくれる頼もしい潜勢力
   というものが、自分自身の生命の内奥に厳として実在しているという
   自覚意識に目覚めなければだめである。

・・・

(2)【 10月26日 】 良品を世に送る努力

   どんなによい製品をつくっても、
   それを世の人びとに知ってもらわなければ意味がありません。

   つくった良品をより早く社会にお知らせし、
   人びとの生活に役立ててもらうという意味で、
   宣伝広告というものは、欠くべからざるものと言えるでしょう。


   しかし、その一方で、そういった宣伝がなくても、
   良い評判を受け、大いに信用をかち得ている製品があります。

   これは、良品はみずから声を放たず、
   これを求めた人びとによって広く社会に伝えられたということに他なりません。

   そういう宣伝に頼る必要のない、ほんとうにすぐれた品質の製品を生み出し、
   世に送る努力を常に忘れてはならないと思うのです。

・・・

(3)【 10月26日 】【三不幸】

   伊川(いせん)先生言う、人、三不幸あり。

   少年にして高科に登る、一不孝なり。
   父兄の勢に席(よって美官となる、ニ不孝なり。
   高才有って文章を能(よ)くす、三不幸なり。(『伊川文集』)


   年の若いのにどんどん上へあがる。
   世の中はこんなものだと思ったら大間違いである。
   というのは修練というものを欠いてしまうことになるからで、
   これは不幸である。

   これは官ばかりではない。
   親のお陰で若輩が重役になったりする、みな同じことである。

   またいろいろのすぐれた才能があって、文章を能くする、
   ――― 文は飾る、表わすということで、つまり弁が立ったり、
   文才があったりして表現が上手なこと ――― これも大きな不幸である。

   今日は選手万能の時代で野球とか、歌舞とか、若くてできる者にわいわい騒ぐ。
   これは当人にとって、大きな不幸であります。

   若くてちょっと小説を二つ三つ書くと、
   たちまち流行作家になって大威張りする。

   小娘がちょっと歌や踊りができると、やれテレビだ映画だ、
   と引っ張り出して誇大に宣伝する。

   つまらない雑誌や新聞がそれをまたデカデカと報道する。
   〇態現象と言うか、実に面妖(めんよう)なことで、
   決して喜ばしい現象ではない。

     *〇:変

・・・

(4)【 10月26日 】 初心に負かん

   栄辱(えいじょく)によつて初心に負(そむ)かんや。   

                     安政元年冬「幽囚録」

   【訳】

   栄誉と恥辱によって、初心に背いてよかろうか。背くべきではない。

・・・

(5)《26日 神の自己実現としての人間の使命》

   「我みずからにては何事をも成し得ず、
    天の父われにいまして御業(みわざ)を成さしめ給うのである」

   と言うイエスのことばは私たちにも亦真理なのである。

   すべての力は人間には属しないのであって、神にのみ属するのである。

   そして人間は、神の愛と智慧と生命と美と豊富とを実現するために
   神の自己実現として此世に顕現したのであるから
   すべての力を神の栄光をあらわすために使えばよいのである。

   その他の目的にこれを使うことは父親から、「これを買って来い」と命ぜられて
   遣いに行く途中に於いて、与えられた買物を成就せずに、
   私用の目的にその託された金を費消するのと同じことである。

   神に託せられたる仕事を実現するためには凡ての力は与えられているのであるから、
   「我は無限力なり、一切のものを成就する力は我に与えられたり」と念じて
   言葉の力で内在の力を喚び起して何事でも為せば容易に成就するのである。

      谷口雅春著『人生の秘訣365章』第10篇(P260) より

           <感謝合掌 令和2年10月26日 頓首再拝>

賢者の一日一言《27日》 - 伝統

2020/10/27 (Tue) 23:53:58


(1)【 10月27日 】 ふがいない人生

   現代の人々にはどうもわかっていない。

   ただ目の先の見えている小さな出来事と自分の人生とを結びつけて、
   それに心をしょっちゅう踊らされて、あたら現実の人生に泥塗ってるような、
   きわめてふがいない人生を生きている。


   そしてそれが何か人生の本当の姿のように思い違いしてる人が、
   ずいぶん今の世の中に多かないかい。

・・・

(2)【 10月27日 】 インテリの弱さ

   今日、よく耳にする言葉に“インテリの弱さ”ということがある。
   これは、インテリには、なまじっかな知識があるために、
   それにとらわれてしまい、それはできないとか、それはどう考えてもムリだ、
   と思い込んでしまって、なかなか実行にうつさないという一面を言った言葉だと思う。


   実際、“ああ、それは今まで何度もやってみたんだが、
   できないんだ”と決め込んでいることが、
   われわれの身のまわりには意外に多いのではなかろうか。

   ときには、自分の考え、また自分をとらえている常識や既存の知識から解放され、
   純粋な疑問、純粋な思いつき、というものを大切にしてみてはどうだろうか。 

・・・

(3)【 10月27日 】【斡旋の才】

   真木和泉が“斡旋の才”ということを説いている。
   斡旋は人(事)を愛するがゆえにその人(事)によかれと世話をし、
   とりはからうことである。

   これは大事なことで、斡旋の才のある人間はひとかどの人物といってよい。
   政治家はこの才を本領とするものだが、必ず徳と相待つ必要がある。
   さもないと今の活動家のような、とかく利権屋に堕(だ)してしまう。

・・・

(4)【 10月27日 】 死して君親に負かず

   ※吾れ今国の為に死す、死して君親に負(そむ)かず。
   悠々たり天地の事、鑑照、明神(みょうじん)に在り。  

                     安政6年10月27日「辞世口吟」

   【訳】

   私は今、国家のために死ぬ。
   死ぬけれども、君や親には一切背いていない(やましい所は一切ない)。

   果てしなく、永久に天地は存在する。
   神様が私の心をきちんと見通してくださっている。

    ※この日、松陰は江戸伝馬町の獄で斬刑に処せられた。詩は執行直前の口吟である。

・・・

(5)《27日 神は必要な力をすべて与え給う》

   エホバ神モーセをして伝道に遣わそうとしたもうたとき、

   「モーセ、エホバにいいけるは

    わが主よ我は素言辭(もとことば)に敏(と)き人にあらず
    汝(なんじ)が僕(しもべ)に語りたまえるに及びても
    猶(なお)しかり我は口重く舌重き者なり

    エホバかれにいいたまいけるは

    人の口を造れるは者は誰なるや 
    ・・・ 然(さ)れば往けよ我なんじの口にありて
    汝の言うべきことを教えん ・・・ 
    汝かれに語りて言(ことば)をその口に授くべし
    我なんじの口と彼の口にありて汝らの為すべき事を教えん」
    (「出埃及記(しゅつエジプトき)」第四章)

   ここに神から遣わされたる神の伝道者は必要に応じて力を授かるのであって、
   「自分の力」を行使するにあらず、神の力を行使するものである
   と云う真理が示されているのである。

   私たちが常に「力が足らぬ」ように感ずるのは、
   我(が)の目的で「我(が)の力」を行使しようと思うからなのである。

   すべての力は神に属し、その力を神の目的に使うならば
   必要な力はすべて与えられるのである。

      谷口雅春著『人生の秘訣365章』第10篇(P260~261) より

           <感謝合掌 令和2年10月27日 頓首再拝>

賢者の一日一言《28日》 - 伝統

2020/10/28 (Wed) 18:59:25


(1)【 10月28日 】 調和は自ら進んで作る

   何事を為すにも力と勇気と信念とを欠如してはいけないが、
   「調和」ということを無視せぬように心がけないと往々軌道をはずれる。

   これを無視した言動は、完全な成果を具顕し能わないからである。


   これは「不完全の中に調和が絶対にありえない」という
   宇宙真理があるがためで、調和を度外視した言動は
   現実構成の軌道から脱線すべき必然性を生み出すか招来する。

   調和は相対事物の中に求めるべきでなく、
   自ら進んで作為するべきものである。

・・・

(2)【 10月28日 】 こわさを知る

   人はそれぞれにこわいものを持っています。
   子どもが親をこわいと感じたり、社員は社長をこわいと思ったり、
   世間がこわいと思ったりします。

   しかしそれとともに、自分自身がこわいという場合があります。
   ともすれば怠け心が起こるのがこわい、
   傲慢になりがちなのがこわいというようなものです。


   私はこのこわさを持つことが大切だと思います。
   こわさを常に心にいだき、おそれを感じつつ、日々の努力を重ねていく。

   そこに慎み深さが生まれ、
   自分の行動に反省をする余裕が生まれてくると思うのです。

   そしてそこから、自分の正しい道を選ぶ的確な判断も、
   よりできるようになると思います。

・・・

(3)【 10月28日 】【静和】

   人物・人間も、呼吸も同じことであって、
   人間もいろいろの人格内容・精神内容が
   深い統一・調和を保つようになるに従って、
   どこかしっとりと落ち着いてくる。

   柔らかい中に確(しっか)りとしたものがあって静和になる。
   そういう統一・調和が失われてくると鼻息が荒くなるように、
   人間そのものが荒くなる。
   ガサガサしてくる。

・・・

(4)【 10月28日 】 多情の極

   大事に臨み無情なるが如きは、多情の極(きわみ)と知るべし。   

                     安政6年5月22日「照顔録」

   【訳】

   国家の大事にあたり、家人、家事などを顧みないのは、無情なようだが、
   かえって憂国の情に富んでいるということを知るべきである。

・・・

(5)《28日 祈りは斯(こ)のようにすべきである》
  
   電源にある電力を使用しょうと思うならば、
   電源と、電動機とをつなぎ合わせて電気の循環する
   サーキットを作らなければならないのである。

   人間に働く力を、電気に譬えるならば、
   私たちは充分な力を得るには電源にあたるところの「神」と
   「電動機」にあたるところの「自己」とを結び合わせ、
   神の力を循環せしめるサーキットを作らなければならない。

   また、それをつなぐ導線に不純な絶縁体があってはならないのである。
   不純物とは、“神の目的”とは全然背反するところの
   憎しみ、怒り、悲しみ、利己心などの誤れる「迷い心」である。

   それらは電気の不導体が、電気の流れを妨げるのと同じように
   神の力の流入を阻止するところの不導体となるのである。

   祈りは「我の願い」を主としないで、
   神がその事について何を語り給うかを心を傾けて聴くための
   「呼び出し電話」のつもりで、我意を主張するよりも
   神の御心を聴くようにすべきである。

       谷口雅春著『人生の秘訣365章』第10篇(P261~262) より

           <感謝合掌 令和2年10月28日 頓首再拝>

賢者の一日一言《29日》 - 伝統

2020/10/29 (Thu) 23:02:38


(1)【 10月29日 】 本当に安心できる人生

   せっかく縁あってこの人生に生まれたならば、
   そりゃもう飽きることはなかろうけれども、
   飽きるほど生きてるほうが得だぜ。


   そして、病が生じようが、運命が悪くなろうが、
   本当に安心のできる人生に生きるということが当面の急なんだから。

   いくら長生きができても、本当に安心できない人生に生きてたんじゃ、
   三文の値打ちもないだろ。

・・・

(2)【 10月29日 】 社長を使う

   私はいつも社長をもっと使ってくれというのです。
   「こういう問題が起こっているのです。
    これは一ぺん社長が顔を出してください。
    社長に顔出してもらったら向うも満足します。」

   「それなら喜んで行こう」というわけです。

   こういうように社長を使うような社員にならなければならないと思うのです。
   その会社に社長を使う人間が何人いるか、一人もいなかったらその会社はだめです。

   しかしほんとうに社長を使う人間が、その会社に十人できたら、
   その会社は無限に発展すると思います。


   また、社長を使わなくても課長や主任を使う。
   上司が部下を使うことは、普通の姿です。
   部下が上司を使うことが大事なのです。

・・・

(3)【 10月29日 】【老の境地】

   老は元来老いるという意味と共に、
   その長年月の経験と修練とにより出来上がる熟達の境地、
   《なれた》とか、《ねれた》という意味に用いられる。

   老手老練老酒など、悪く応用されては
   老獪(ろうかい)などの語に明らかであるが

   ――― 若い者に免れない生(なま)な点や、
   又世間の多数者に存する通俗な型を超脱した風格、
   もはや一時的な刺戟(しげき)に自己の全部を動かされたり、
   事物の一面に捕われたり、皮相に止まるようなことはなく、
   能く全体を観察し、深く内面に通ずることが出来て、
   凡て自主自由に観察し行動して何等(なんら)危っ気の無いところがある。

   けばけばしい色彩はぬけてしまって、落ちついた、渋い味を持っている。

・・・

(4)【 10月29日 】 死友に負かず

   死友(しゆう)に負(そむ)かずと謂うべし。
   死友に負く者、安んぞ男子と称するに足らんや。  

                     安政6年5月22日「照顔録」

   【訳】

   先立った同志の忠節の死に背かない、というべきである。

   先立った同志に背くようなものを、
   どうして男子と称することができようか。
   できはしない。

・・・

(5)《29日 “神の子”としての資格について》

   神は柔和なる者、謙遜(へりくだ)れる者、平和なる者、心の清き者を
   祝福してこれに力を与えたまうのである。

   みずから偉しと傲慢に自己を持し、心驕りて戦闘精神に満ちたる者を
   神は決して祝福したまわないのである。

   謙遜なる者は、わずかなる恵みにも感謝の念深き故に、
   却って神の霊波に波長が合って豊かなる祝福を受けることができるのである。

   柔和なる者は他(ひと)と争わず、接する人々にやさしき言葉と表情とを与え、
   人々に平安を持ち来すことになるのである。

   人々に平安を持ち来す者は、
   それが還流し来たって自己に平安を持ち来すことになるのである。

   途上に出遭う人々にやさしい眼光(まなざし)と
   柔和なる表情と愛情ある挨拶を与える者は
   “神の子”としての資格があるのである。

   失意の境遇にある者に勇気づけ、慰めを与える言葉を与え、
   常に凡ゆる事物と人とに愛念を送る者は“神の子”としての資格があるのである。

     谷口雅春著『人生の秘訣365章』第10篇(P262) より

           <感謝合掌 令和2年10月29日 頓首再拝>

賢者の一日一言《30日》 - 伝統

2020/10/30 (Fri) 23:53:49


(1)【 10月30日 】 真我は不滅である

   真我に内在する力はどんなものであるか。
   それは、絶対不可犯のものである。

   これに対し、肉体の有する力は相対的のものであり、
   冷や水や大気などには敵することができない。


   しなしながら、真我は、
   全生命の本源的中枢で形象を有しない無形の一実在である。

   故に、火にも水にも一切の何ものにも
   決して犯されない絶対不可犯のものである。

   絶対的のものにはまた、絶対の力のあるのは当然のことである。

・・・

(2)【 10月30日 】 使命感半分、給料半分

   人間には、“欲と二人連れ”という言葉もあるように、
   自分の利によって動くという面と、使命に殉ずるというか、
   世のため人のために尽すところに喜びを感ずるといった面がある。

   だから人を使うにしても、給料だけを高くすればいいというのでなく、
   やはり使命感というものも持たせるようにしなくてはほんとうには人は動かない。

   もちろん使命感だけで、給料は低いというのでも、
   これはよほど立派な人でない限り不満を持つだろう。

   普通の人間であれば、使命感半分、給料半分というところだと思う。


   そのようなあるがままの人間性に則した処遇をしていくところに、
   適切な人の使い方があると言えよう。

・・・

(3)【 10月30日 】【生きた学問】

   すべて学問というものは、根から養分を吸収して、
   幹が出て、枝が伸びて、それが分かれて小枝、その先端に葉がつき実がなる。
   そしてそれが又落ちて、肥料になって、新しく芽を吹いてゆく、
   というように自然に伸びてゆくべきもの。

   自然に伸びていって、それが分裂せずに自ら一つの体系をなしてゆく。
   これでなければ本当の学問ではない。

   われわれは先ず『大学』から始まって、四書五経を教わった。
   それがある年齢に達した頃に、自分から面白いなあ、
   なる程なあと考えるようになる。


   最初は与えられたものだが、だんだんそれが生命化して来て、
   よし、一つ儒教を勉強してみようと今度は自発的に読み出す。

   孔子の伝記をやるうちにどうしても孟子をやらねばいかぬ。
   今度は荀子をやらねば気が済まぬ、
   というようにだんだん枝葉に分かれて来る。

   そうすると孫子・呉子・韓非子などというものまで関連して来て、
   今度はそれに道楽をする。


   斯様(かよう)に儒教を研究しながら、
   年季をかけて道楽していると、自然とあらゆる教学に入って来る。

   桃栗三年柿八年と言うが、
   人間の学問はやはり二十年、三十年と年季をかけて初めて生きた学問となる。

・・・

(4)【 10月30日 】 人の国に於けるや

   人の国に於けるや、猶ほ水の源あり、木の根あるがごとし。
   是れなければ則ち涸れ且つ枯るるなり。 
 
                  嘉永5年8月26日「治心気斎先生に与ふる第三書」

   【訳】

   国家における人というものは、
   水に水源があり、木に根っこがある、そのようなものである。
   これがなければ、水は涸(か)れ、木は枯れる。国家も同様である。

    ※長州藩 山田宇右衛門。治心気斎は号。
         松陰は幼少時よりその教えを受け、最も影響を受けたといわれる。

・・・

(5)《30日 生命の樹に到りて「生命の実」を食せん》

   聖書は最初に「創世記」に於いて天地の創造を録(しる)し、
   エデンの楽園に人間が置かれ、
   智慧の樹の実を食してエデンの楽園から追放せられ、
   「生命の樹の果」を食することを禁ぜられ、

   人間が「生命(せいめい)の樹(き)」に近づくことができないように、
   ケルビム天使をもって衛りたもうたことを

   「神其人を逐出しエデンの園の東にケルビムと
   自ずから旋転(まわ)る焔(ほのお)の剣(つるぎ)を置(おき)て
   生命(いのち)の樹(き)の途(みち)を保守(まもり)たまう」と書いている。

   ところが聖書の最後の章は、
   生命(せいめい)の樹(き)に行く基本人権の恢復が書かれているのである。
   その基本人権を回復するには如何にすればよいかと言うと、

   「視よ、われ報(むくい)をもて速かに到らん、
   各人(おのおの)の行為(おこない)に随いて之を与うべし。
   ・・・おのが衣(ころも)を洗う者は幸福(さいわい)なり、
   彼らは生命(いのち)の樹(き)にゆく権威を与えられ、
   門を通りて都に入(い)ることを得るなり」
   (「黙示録」第二十二章)と示されている。

   「衣(ころも)」と云うのは魂の被服であるところの体(ボディ)である。

        谷口雅春著『人生の秘訣365章』第10篇(P263) より

           <感謝合掌 令和2年10月30日 頓首再拝>

賢者の一日一言《31日》 - 伝統

2020/10/31 (Sat) 23:30:41


(1)【 10月31日 】 理想の姿を心に描く

   人生に何か不足なところがあって、
   もっとそれを完全なものにしたいと思うことがあるんなら、
   いちばん手っ取り早く、それが自分のものになった姿を
   理想の上に描き出すことです。

   体が悪かったら、体の悪い状態をしょっちゅう考えないで、
   もう治った健康な状態を自分の理想の姿の上に描かなきゃ駄目だよ。
   運命またしかり。


   絵を画いたり、字を書いたりする時は、
   出来上がった姿を心に描くからできるんだね。

   出来上がった後の姿を心に描かないで
   書いてる字でも絵でも、見るに堪えないじゃないか。

・・・

(2)【 10月31日 】 まず与えよう

   持ちつ持たれつという言葉もあるが、
   この世の中は、お互いに与え合い、与えられ合うことによって
   成り立っている。

   それはお金とか品物といった物質的な面もあれば、
   思いやりといったような心の面もある。


   聖書の中にも、
   「与うるは受くるより幸いなり」という言葉があるというが、

   人間とは他からもらうことも嬉しいが、
   他に与え、他を喜ばすことにより
   大きな喜びを感じるというところがあると思う。

   そういう喜びをみずから味わいつつ、
   しかも自分を含めた社会全体を
   より豊かにしていくことができるのである。

   「まず与えよう」これをお互いの合言葉にしたいと思うのだが、
   どうであろうか。

・・・

(3)【 10月31日 】【人生は一篇の詩】

   詩の話は人生の話である。

   人生は創作であり一篇の詩である。

   人生に於ける起承転結はむずかしい。

・・・

(4)【 10月31日 】 往々栄利を慕ひて

   世人往々栄利を慕ひて親義を顧みず。   

              安政3年8月以降「武教全書講録」

   【訳】

   世の中の人は、ままに名誉や利益に憧れて、
   人としてのあるべき道を顧みない。

・・・

(5)《31日 天国は次から次へ伝えなければならない》

   人間の魂の被服であるボディ(Body)には
   肉体、エーテル体、幽体、などと云うものがある。

   そのうち幽体と云う被服は、
   吾々の想念感情の貯蔵庫としての被服であるから、
   「おのが衣(ころも)を洗う者」と云うのは、幽体を洗うこと、
   即ち想念感情を洗うこと、即ち心を浄めることに当るのである。

   心を浄めるならば、私たちは神の国に還ることをゆるされるのである。

   「生命(いのち)の樹(き)にゆく権威を与えられ」と云うのは
   「生命(せいめい)の樹(き)の実」即ち「生命の實相」を自覚して、

   「門を通りて、都に入ることを得るなり」であり、都と云うのは、
   天国浄土即ち「エデンの楽園」に復帰すると云う意味である。

   「黙示録」は言う。
   「御霊も新婦(はなよめ)もいう『来りたまへ』
    聞く者も言え『きたり給え』と、
    渇く者はきたれ、望む者は價(あたい)なくして
    生命(いのち)の水を受けよ」と。

   聞く者も「来りたまえ」と言わなければならないのである。
   福音を聞きたる者は次から次へと伝えなければならない。

     谷口雅春著『人生の秘訣365章』第10篇(P263~264) より

           <感謝合掌 令和2年10月31日 頓首再拝>

名前
件名
メッセージ
画像
メールアドレス
URL
編集/削除キー (半角英数字のみで4~8文字)
プレビューする (投稿前に、内容をプレビューして確認できます)

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.