伝統板・第二

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賢者の一日一言(R2年8月) - 夕刻版

2020/08/01 (Sat) 19:24:26

このスレッドでは、過去に紹介した次のスレッドから、
日々の言葉の数々を再度紹介してまいります。

(1)伝統板・第二「中村天風一日一話」
 → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7808747

(2)伝統板・第二「松下幸之助 一日一話」
 → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7811995

(3)伝統板・第二「安岡正篤・一日一言」
 → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7812217

(4)伝統板・第二「吉田松陰・一日一語」
 → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7733095

(5)伝統板・第二「41~祈りに強くなる31章」
 → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7770328

            ・・・


賢者の一日一言《1日》

(1)【 8月1日 】 人間の心の大きさ

   真剣に気づかねばならないことは、人間の心の大きさである。


   月を見て佇めば、心は見つめられている月よりも、
   さらに大きいということを考えられはしないか。

   星を見て考えている心の中は、大きなものを相手に考えているんだから、
   それだけで、星以上に大きなものではないか。


   星を見て、その星よりもさらに洪大な様子を心は想像できる、
   という簡単なことを考えただけでも、いかに人の心が
   一切をしのいで広大であるか、ということがわかってくるはずだ。

・・・

(2)【 8月1日 】 身をもって範を示す

   指導者というものは、いろいろなかたちでみずから信じるところ、
   思うところを人びとにたえず訴えねばならない。

   と、同時に大切なのは、そのことを自分自身が身をもって実践し、
   範を示すようにつとめていくことであろう。

   “百日の説法屁一つ”ということわざもあるように、
   どんなにいいことを説いても、その成すところがそれに反していたのでは、
   十分な説得力は持ち得ない。


   もちろん、力及ばずして100%実行はできないということもあろう。
   というよりそれが人間としての常かもしれない。

   しかし、身をもって範を示すという気概のない指導者には、
   人びとは決して心からはしたがわないものである。

・・・

(3)【 8月1日 】 生命力を鍛える

   生命力はいかにして強くなるか。

   それはあくまでも根気のある
   辛抱強い日常の自律自修に由(よ)る。
   鍛錬陶冶(たんれんとうや)に依(よ)る。


   意志と知能と筋骨との意識的努力、
   心臓・血管・内分泌腺(ないぶんぴせん)
   その他生理的全体系の無意識的努力、自己に規律を課し、
   自己を支配する修練を積んで始めて発達する。

   安逸(あんいつ)と放縦(ほうじゅう)とは
   生命の害毒であり、敵である。

・・・

(4)【 8月1日 】 大将は心定まらずして叶はず

   大将は心定まらずして叶はず、
   若し大将の一心(いっしん)うかうかする時は、
   其の下の諸将何程智勇ありても、智勇を施すこと能はず、
   百万の剛兵義士ありと雖も、剛義を施すこと能はず。 

                  嘉永3年8月20日「武教全書 守城」

   【訳】

   大将たるものは、決心しなければならない。

   もし大将の心がふらふらしている時には、
   その下の将軍らに、いくら知恵や勇気があっても、
   それを実際に施すことはできない。

   いくら百万もの人並みはずれた強い兵や節義をかたく守る武士がいても、
   それを実際の行動に移すことはできない。

・・・

(5)《1日 祈りはすべての問題を好転させる》

   正しい祈りによって好転しないものは何一つないのである。

   祈りの後に自分の予想しないような状態がでて来たり、
   時として一層悪化したような状態が出て来てもそれは祈りによって、
   過去の膿が出尽くそうとしているのであって、
   やはり好転と見るほかはないのである。

   腫物(できもの)は膿が出尽くしたときに完全に治りはじめるのである。
   だから膿が出ることを悪化と考えることは間違いである。
   膿が出るのは、生長の家では“迷いの自壊作用”だといっている。

   すべての病気や不幸や災難は、唯心所現のものであって、
   過去に起した“心の迷い”が或る程度を超えて蓄積され、
   飽和状態以上になったときに具体化して、
   病気や不幸や災難の形をとってあらわれて来る。

   迷いの蓄積の程度の少ないものは、例えば腫物(できもの)が化膿しないで
   毒素が内部で中和又は吸収され、そのまま引っ込んでしまうように
   自壊作用なしに治癒させることができるが、

   迷いの蓄積の程度のひどいものは、
   内部的に吸収されないで例えば腫物が膿を排泄した後に治るように、
   自壊作用を経た後(のち)に治るのである。
   否、自壊作用そのものが治癒の過程なのである。

      谷口雅春著『人生の秘訣365章』第8篇(P188~189) より

           <感謝合掌 令和2年8月1日 頓首再拝>

賢者の一日一言《2日》 - 伝統

2020/08/02 (Sun) 20:12:10


(1)【 8月2日 】  平然自若の精神

   どんな大事に直面しても、どんな危険な場合に直面しても、
   心がいささかもそれによってあわてたり、あるいは恐れたり、
   あがったりしない、いわゆる平然自若として、
   ふだんの気持ちと同じようにこれに対処することができる状態。

   どんな苦しい目、どんな思いがけない大事にあっても、
   日常と少しも違わない、平然としてこれに対処する。


   これが私の言う積極的精神なんであります。

・・・

(2)【 8月2日 】 人間は初めから人間である

   人間はその歴史において、さまざまな知識を養い、
   道具をつくり出して生活を向上させてきました。

   しかし私は、人間の本質そのものは初めから変わっていないと思います。
   人間はもともと人間であって、人間そのものとして向上してきたと思うのです。

   私は人間が猿から進歩したというような考え方に対しては、疑問を持っています。
   猿はやはり最初から猿であり、虎は最初から虎であり、
   人間は最初から人間であると思うのです。


   人間は初めから人間としての素質、性質を与えられ、
   みずからの努力によって知識を進め、道具をこしらえて、
   みずからの生活を高めてきた、それが人間の歴史だと思うのです。

・・・

(3)【 8月2日 】 煩を厭うは大病

   貝原益軒が
   「煩を厭うは是れ人の大病である」
   とその随筆集『慎思録』に書いております。

   わずらわしいことを避けて、
   なるべく簡単にしようとするのは人間の大病であって、
   そのために人事に関する問題が駄目になり、
   事業が成功しません。

   どんなにわずらわしい事が多くても、
   すべて自分のことは自分でやらなければなりません。

   いくらうるさい、わずらわしことであっても、
   意外に苦労が少なくて成功するものです。

・・・

(4)【 8月2日 】 心交(しんこう)

   人は人の心あり、己れは己れの心あり。
   各々其の心を心として以て合い交はる。
   之れを心交と謂ふ。  

                  安政3年8月18日
                  「※黙霖(もくりん)あての書翰(しょかん)」

   【訳】

   人には人の心がある。
   自分には自分の心がある。
   それぞれが、相手の心を心として交際すること、
   これを心の交わり、という。

    ※ 安芸国長浜(現広島県呉市長浜)出身の勤王僧宇都宮黙霖。
      松陰は萩の野山獄で、文通を通じて
     黙霖から思想的影響を受けたといわれる。

・・・

(5)《2日 あなたの祈りが成就しない場合》

   祈りが成就しない場合には、その原因が色々ある。

   祈りながらも、本人が「このような問題はとても祈りではきかないだろう」と
   自分の心で祈りの結果を抑制してしまう場合には、
   その祈りは成就しないことになるのである。

   また治癒過程としての自壊作用の起った場合、
   「一層悪くなってしまった」と思って「悪化」を心に描き、
   「恐怖心」を起すことによって、

   「心に描いたものがあらわれる」という法則や
   「恐るるものは皆来る」という法則によって、
   自壊作用を真の「悪化」に変じてしまうこともあり得るのである。

   神に祈る場合には、その治癒過程を神の無限の叡智に托(まか)せて
   “必ず好転する”と信じて神に全托しなければならないのである。

        谷口雅春著『人生の秘訣365章』第8篇(P189) より

           <感謝合掌 令和2年8月2日 頓首再拝>

賢者の一日一言《3日》 - 伝統

2020/08/03 (Mon) 21:52:27


(1)【 8月3日 】  世の先覚者として

   今や、世はまさに複雑混沌の時勢である。
   そして、正当の人生自覚をもたぬ人々は些細なことにも
   心の平静を失い、憤怒の激情や煩悶の劣情に陥りやすい。


   したがって、すなわちこのときこそ、人生真理をよく理解し、
   かつ尊重するわれらが人の世の正しい先覚者となって、

   できる限り平和に活きる人生のときの長からんことこそ、
   真の人生の本来の面目であることを、
   事実の行為を模範として明示すべきである。

   またそれをわれらの最高の理想とすべきである。

・・・

(2)【 8月3日 】 強固な精神力を

   その昔、日蓮上人は、
   ただ一人の聴衆の姿も見えないという時にでも巷に立って、
   わが信念を説いたと言います。

   何をほざくかと馬糞を投げられ、石を投げられ、さんざんな悔辱を蒙っても、
   彼はビクともせず、日本の安泰のために、民衆の幸福のために、わが信念を傾けました。

   日蓮上人のそういう態度と比べてみると、
   われわれとは同じ人間でありながら、たいへんな相違があるなという感じがします。


   いま、われわれに必要なのは、日蓮上人のあの強固な精神力です。
   日蓮上人とまではいかなくとも、せめて自分の仕事に一つの使命を感じ、
   これに情熱を傾けて精進する積極的な自主独立の精神を養いたいものです。

・・・

(3)【 8月3日 】 潜在エネルギーの培養 1

   いわゆる見てくれは堂々たる体格の人が
   案外に脆(もろ)かったり、
   ちょっと働くとすぐフウフウ云ったりして
   精力の続かない人があるものです。

   それに反して、見かけは弱そうだが、
   非常に精力的で不屈不撓(ふとう)の人があります。


   見てくれと内実、顕在(けんざい)面と潜在面は
   釣りあわないことが多いものですが、
   肝腎(かんじん)なことは
   潜在エネルギーを旺盛(おうせい)にすることです。

・・・

(4)【 8月3日 】 士(し)苟(いやしく)も仕籍)しせき)に登らば 

   清人管同云はく、
   「士苟も仕籍に登らば、当(まさ)に一二節の卓々(たくたく)として
    伝誦(でんしょう)すべき事を為すべし。
    若し終身縻然(びぜん)として、諸俗吏(しょぞくり)の後に従はしめば、
    栄達すと雖も、何ぞ言ふに足らん」と。  

                  安政3年9月10日「※中村道太に贈る」

   【訳】

   清国人の管同(かんどう)がいった。
   「武士たるもの、仮にも武士として仕官するのであれば、
    一つか二つは、節義が高く抜きんでた男だったと、
    人々が後々までも語り伝えるような生き方、仕事をこそなすべきである。
    もしも生涯、消極的な気持ちで、くだらない役人の後ばかりに従うのであれば、
    どんなに立身出世しようにも、どうして評価する
    ことなどできようか。できはしない」と。

      *長州藩士中村道太郎、後、九郎。
       松陰の友人、同志。赤川淡水の実兄。

・・・

(5)《3日 父母は神と自己をつなぐ媒介である》

   “七つの灯台の点燈者の神示”に、

   「・・・・神に感謝しても父母(ちちはは)に
    感謝し得ない者は神の心にかなわぬ」

   ということが示されているのである。

   神に祈っても、その祈りがかなえられないことがあるならば、
   先ず「自分は父母に感謝しているだろうか」ということを
   反省してみるべきである。

   吾々の生命(せいめい)は祖先を通じ、父母(ちちはは)を通して、
   神の生命(せいめい)が今此処に顕現しているのである。

   神が“人間”として自己顕現を遂げようと欲しても、
   父母(ふぼ)という媒介を通してのみそれは可能であって、
   父母(ふぼ)が存在しなかったならば神の生命(せいめい)は
   “自分”として顕現することができなかった訳である。

   父母(ふぼ)を媒介としてのみ
   人間の生命(せいめい)は神につながるのである。

   それゆえ、父母(ちちはは)に感謝しない者は、
   人間と神とを繋ぐ媒介の一つを断ち切ることになるのである。

   だから父母(ふぼ)を憎んでいたり、反抗したりしていながら、
   神に何かの功徳(おかげ)を求めても得られないことがあるのは
   当然のことである。

   それは自己と神とを繋ぐ媒介を断ち切っているからである。

      谷口雅春著『人生の秘訣365章』第8篇(P189~190) より

           <感謝合掌 令和2年8月3日 頓首再拝>

賢者の一日一言《4日》 - 伝統

2020/08/04 (Tue) 20:09:22


(1)【 8月4日 】 金や物質に惑わされない

   金持ちみんな幸福かいな。
   金や物質なんていうものは、仮相の存在で実在の存在じゃないんだから。

   第二義的な人生は、どこまでいっても相対的なんです。

   多少の効果はあるとしても程度問題で、それ以上はでていかないです。


   人間を判断し理解する認識のピントがぼけて焦点が狂っていると、
   いくら努力しても、そうして幸い幸福になりそうな金ができても、
   地位ができても、真の幸福も健康も完全には得られませんよ。

・・・

(2)【 8月4日 】 もっと厳しく

   昔の武士は朝早くから道場に出て血のにじむような稽古にはげんだという。
   そして師範や先輩たちの木刀を身にあびながら、
   何くそと立ち向ううちにおのずと腕も上達していった。

   また商人であれば、丁稚奉公からつとめはじめ、
   主人や番頭に横っ面の一つも張られながら、
   おじぎの仕方からものの言い方まで一つ一つ教えられつつ、
   商人としてのものの見方、考え方を養っていったわけである。


   もちろんそのような修業の過程には、好ましくない面もあったであろう。
   しかし、少なくともそうした厳しい修業が人を鍛え、
   その真価を発揮させる上に役立ったと思う。

   それは今日にも通用することであろう。

・・・

(3)【 8月4日 】 潜在エネルギーの培養 2

   植物の栽培に例えますと、
   目に見えない根の培養が深くないと
   麦が徒長(とちょう)する様なもので駄目です。

   良い栽培者は常に枝を剪定(せんてい)し、
   花や実を間引き、根の力を強くする様に苦心します。

   我々は潜在エネルギーを培養する様
   留意しなければなりません。

・・・

(4)【 8月4日 】  体認と申す事を

   一体人と申すものは体認(たいにん)と申す事を知らず候はば、
   人と申すものには之なく (後略)。

                 安政5年7月13日「要路役人に与ふ」

   【訳】

   そもそも、人間というものは、実際に自分で体験し、
   十分よくのみこむということを知らなければ、
   人というものではない(後略)。

・・・

(5)《4日 家族相互の小さき葛藤を取り除くこと》

   祈りによって人の病気を癒す力はありながら、
   自分又は自分の家族の病気が中々なおらないようなことが随分あるのである。

   癒された人は、何故癒されたかというと、その人はあなたを信じたからである。
   「汝の信仰、汝を癒せり」と、こんな場合イエスは言っているのである。

   自分自身の病気が治らなかったり、家族の病気がなおらなかったりしたのは、
   家族互いの間に精神的紛糾や精神的葛藤があって、
   「神の救いの霊波を素直に能(よ)う受けぬ」場合が多いのである。

   一寸した絶縁体が電極の接続部(コネクション)に付着しているだけで、
   テレビが旨く映って出ない事が往々にしてあるのである。


   それと同じく、一寸した家族間の反感や不平が
   神の恵みを受けることを妨げる絶縁体になっていることも往々にしてあるのである。

   そんな場合、家族の誰かが気がついて、
   そのような反感や不平を感謝にかえるようにするならば
   不思議に家族の病気が消えることがあるのである。

   神と自分を隔てる絶縁体を取り除くことになるからである。
   神癒の妨礙となるものが取り除かれたならば神癒が実現するのは当然である。

        谷口雅春著『人生の秘訣365章』第8篇(P190~191) より

           <感謝合掌 令和2年8月4日 頓首再拝>

賢者の一日一言《5日》 - 伝統

2020/08/05 (Wed) 21:17:36


(1)【 8月5日 】  消極的な十の心

   消極的というのは、およそ十ある。

   第一が怒ること。

   第二が悲しむこと。

   第三が恐れること。

   第四が憎むこと。

   第五がやきもちをやくこと、うらやむことだね。

   第六が恨むこと。

   第七が悩むこと、懊悩すること。

   第八が苦労すること。

   九番目が煩悶すること。

   それから十番目が迷うこと、混迷すること。


   この中のどれかしらがあなた方の心にあるとき、
   それは心が消極的な方面に働いているときなんです。

・・・

(2)【 8月5日 】 政府を助ける心がまえ

   政府は、国民の人気を得なければならないから、
   なかなか国民に対してイヤなことは言いにくい。
   だから、だれに対しても、助けましょう、助けましょうと言いがちである。


   けれども、われわれは政府に頼りすぎてはならない。
   他をたのまずしてみずからの力で、自分でできる範囲のことを着実にやっていく。
   そういう気持なり態度というものが最も大切であると思う。


   そして、政府に救済してもらうというよりも、
   むしろわれわれ国民の方から政府を助け、社会の進展に寄与していく。

   そういう心がまえをお互いに持つことが肝要ではないかと思うのである。

・・・

(3)【 8月5日 】 木鷄 1

   紀せい子、王の為に闘鷄を養う。
   十日にして而(しこう)して問う、鷄已(よ)きか。
   曰く、未(いま)だし。

   方(まさ)に虚(きょ)きょうにして而して気を恃(たの)む。
   十日にして又問う。
   曰く、未だし。

   なお嚮景(きょうえい)に応ず。十日にして又問う。
   曰く、未だし。

   なお疾視(しっし)して而して気を盛んにす。十日にして又問う。
   曰く、幾(ちか)し。

   鷄、鳴くものありと雖(いえど)も、已に変ずることなし。
   之を望むに木鷄に似たり。
   其の徳全(まった)し。
   異鷄敢(あえ)て応ずるもの無く、反(かえ)って走らん。

                      (荘子)

・・・

(4)【 8月5日 】 無用の言(げん)を言はざる

   吾が性(せい)多言なり、多言は敬(けい)を失し誠(まこと)を散づ、
   故に無用の言を言はざるを第一戒と為す。  

              安政6年5月24日
             「※1李卓吾(りたくご)の
              『劉肖川(りょうしょうせん)に別るる書』の
              後(あと)に書して※2子大に訣(わか)る」

   【訳】

   私はどうも多弁な性格である。
   多言であれば、敬いの気持ちを失い、
   まごころが散り失せてしまいがちになる。

   だから、必要のない言葉は口にしない、
   ということを第一の戒めとしている。

     ※1 1527~1602。中国明代の思想家。

     ※2 長州藩士 佐間忠三郎昌昭。松下村塾の門人。
        子大(しだい)は字(あざな)。

・・・

(5)《5日 家族が健全に育つには夫婦の調和が要る》

   家族の精神的不調和のうちでも、最も神癒の妨礙になるものは、
   夫婦の精神の不調和である。

   夫は“天”を象徴し、妻は“地”を象徴する。
   天の気と地の気とが完全に調和してあるとき、
   地上の植物は繁茂し動物は繁殖するのである。

   その如く夫婦の精神の調和のあるとき、
   家族は健康であり、子供は不良化せず、
   健全に優良に生育するのである。

   一寸した精神的葛藤、瑣細な口争いなどが内攻するとき突然、
   子供が発熱したり、下痢したりすることがあるものである。

   そのようなことが起こったとき、何よりも必要なのは、
   その直前または前日に、夫婦の争いがなかったか、
   夫婦間に争いというほどのものではなく、
   一寸した不平の感情を起すことはなかったかを回顧反省してみて、

   若しそんな事があったならば、
   夫婦互いに詫び合って胸に溜まった不平などを一掃するがよい。

   忽ちのうちに家族の病気が好転することに気づくであろう。    
                 
       谷口雅春著『人生の秘訣365章』第8篇(P191~192) より

           <感謝合掌 令和2年8月5日 頓首再拝>

賢者の一日一言《6日》 - 伝統

2020/08/06 (Thu) 22:27:50


(1)【 8月6日 】  感覚器官を正確に使う

   我々の人生の周囲に存在するすべての事柄は、
   取り入れ方がよけりゃ、我々の心の力を非常にすぐれたものにするけども、
   反対に、同じものでも取り入れ損なうと、抗議の方面へと働きだすんですよ。


   外界の印象を取捨分別することは言葉を換えていえば、
   感覚器官を正確に使用することなんだ。

   そうしてはじめて、本当にすぐれた勘の力がでてくるんです。

・・・

(2)【 8月6日 】 自分をほめる心境

   私はいま、二十代の夏の日のことをなつかしく思い出します。
   日のあるうちいっぱい仕事をし、晩にはタライに湯を入れて行水をするのです。

   仕事を終えたあとの行水は非常にさわやかで、
   “自分ながらきょう一日よく働いたなァ”という満足感を味わったものです。


   自分ながらきょうはよくやった、と言って自分をほめる、自分をいたわるという心境、
   そういうところに私は何だか生き甲斐というものを感じていたように思うのです。


   お互い毎日の仕事の中で、自分で自分をほめてあげたいという心境になる日を、
   一日でも多く持ちたい、そういう日をつみ重ねたいものだと思います。

・・・

(3)【 8月6日 】 木鷄 2

   紀せい子という人が闘鶏の好きな王
   (学者によって説もありますが、
   一般には周の宣王ということになっています)のために
   軍鶏(しゃも)を養って調教訓練しておりました。


   そして十日ほど経った頃、
   王が“もうよいか”とききましたところが、
   紀子は、“いや、まだいけません、
   空威張りして「俺が」というところがあります”と答えました。


   さらに十日経って、またききました。
   “未だ《だめ》です。
   相手の姿を見たり声を聞いたりすると
   昂奮するところがあります”。

・・・

(4)【 8月6日 】 心を養ふは

   孟子曰く、心を養ふは寡欲(かよく)より善きはなしと。
   ※周子曰く、これを寡(すくな)くして以て無に至ると。
   孟・周の言、学者に於て尤(もっと)も切なりと為す。 

                  安政3年6月10日「講孟剳記」

   【訳】

   孟子は、「心を養うには、欲を少なくすることが最もいい」という。
   また、周子は、「欲を少なくして、最後はなくしてしまうのがいい」という。
   孟子・周子の言は、学問をする人間にとってこそ、最も切実な教えである。

    ※ 周(しゅう) 濂渓(れんけい)。
     1017~1073.中国、北宋の儒者。
     湖南省道県の人。宋学の始祖。

・・・

(5)《6日 天の倉に善行を預貯金せよ》

   祈りがきかれないのは、
   天の倉に自分の善行が預貯金されていないためであることがある。

   この世界には「与えよ、さらば与えられん」の法則が
   厳然として存在するのであるから、みずから善行を与えないでいて、
   他(ひと)から善行を期待するのは間違いだといわなければならないのである。

   大地に種を蒔く(種を与える)ことをしないでいて、
   「今年は豊作です」と祈っても、念じても、
   雑草は豊作になるかも知れないけれども、
   自分に必要な良き穀物を穫り入れることはできないのである。

   つねに陰徳を積み、人に善きものを与えることをして置くならば、
   宇宙は神の生命(せいめい)で普遍的につながっているのであるから、
   右に与えておいた陰徳が、必要に応じて左から返って来て、
   常に貧しきことを知らないことになるのである。

   常に誰かに深切を与えること、勇気づけの言葉を与えること、
   そして何よりも“人間・神の子”の真理を与えることが大切である。

       谷口雅春著『人生の秘訣365章』第8篇(P192~193) より

           <感謝合掌 令和2年8月6日 頓首再拝>

賢者の一日一言《7日》 - 伝統

2020/08/07 (Fri) 20:05:37


(1)【 8月7日 】  峻厳なるかな人生

   まこと、峻厳なるかな人生!!
   それは、どんな富の力を以ってしても、
   さらに地位や名誉の力を以ってしても、到底完全には解決しない。


   まして、屁理屈や、空いばりや、間違いだらけな自己断定や、
   独りよがりのうぬぼれを以ってしては、なおさらのことである。

・・・

(2)【 8月7日 】 利益が先か地盤が先か

   先般ある関係会社へ行って、課長以上の人に集まってもらったときに
   “利益をあげることが先ですか、それとも地盤づくりが先ですか”
   という質問が出ました。

   それに対して私は“わが社は5人のときには5人の、10人になれば10人の、
   さらに1000人になれば1000人の企業にふさわしい利益を上げてきた。

   そうしたことの連続が今日の成功になった。

   もし5人だから、10人だからまだよいだろうと思っていたならば今日の姿はない。
   だからこの会社も利益を上げつつ地盤をつくっていく以外にないと思う”と答えたのです。

   私は世の中すべての経営というものは、
   そういうところにポイントがあるのではないかと思うのです。

・・・

(3)【 8月7日 】 木鷄 3

   また十日経ってききました。

   “未だいけません。相手を見ると睨(にら)みつけて、
    圧倒しようとするところがあります”。


   こうしてさらに十日経って、またききました。

   そうすると初めて

   “まあ、どうにかよろしいでしょう。
    他の鶏の声がしても少しも平生(へいぜい)と変わるところがありません。
    その姿はまるで木彫の鶏のようです。
    全く徳が充実しました。

   もうどんな鶏を連れてきても、
   これに応戦するものがなく、
   姿を見ただけで逃げてしまうでしょう”と言いました。

・・・

(4)【 8月7日 】 君子の心

   人已に過あらば、吾れ従つて之を咎(とが)む、
   過ちて則ち之を悔ゆれば、吾れ従つて之を喜ぶ。
   是れ君子の心なり。 

                  安政6年4月23日
                  「※1子遠・※2の和作に与ふ」

   【訳】

   人が悪いことをすれば、私はそのことをとりたてて、非難する。
   しかし、これを反省し、改めれば、私はこれを喜ぶ。
   これが心ある立派な人の心である。

    ※1 長州藩の足軽 入江杉蔵。松陰の高弟。野村和作は実弟。

    ※2 和作は入江杉蔵の実弟であり、松陰の高弟である野村和作。
       後の子爵 野村靖。

・・・

(5)《7日 人に施すときの心懸け》

   人は善きものを与え、深切を与え、愛を与えるしても、
   その善きもの、深切なもの、愛に関するものを与えても、
   それが物質的なものである限りに於いて、
   その与える好き効果は乏しいということになるのである。

   何故なら“物質”は有限であり、物質はそれを与えられた人の感覚や、
   “貪欲の心”を悦ばすかも知れないけれども、
   必ずしも魂の悦びとならないことがあるのである。

   人に金銭で補助を与えた場合、尚一層その人の依頼心を増長せしめて
   却って精神的に堕落させることもあるし、

   或る場合には、あまりその人が受けた恩義を“借金”的に考えて、
   与えた人に対して一生頭があがらないように束縛してしまうことも
   ありがちである。

   だから人に“与える”には、相手に依頼心を起させないようにする必要があるし、
   また恩義で相手を縛ってしまって、彼が自己解放を遂げ得ないようなことの
   ないように充分の考慮をもって“与える”ことが必要である。

   それだからやっぱり真理を相手に与えることが最大最良の善である。

      谷口雅春著『人生の秘訣365章』第8篇(P193) より

           <感謝合掌 令和2年8月7日 頓首再拝>

賢者の一日一言《8日》 - 伝統

2020/08/08 (Sat) 19:41:38


(1)【 8月8日 】  合理的自己陶冶法

   まず平素の自己の言語と態度とをできる限り
   積極的にすることを真剣に心がけるということなのである。

   詳しくいえば、我が心の中に動物心性中の低劣な欲念や感情が
   たとえ発動することがあろうとも、断然それを言葉や態度に表現しないように
   注意深く努力することなのである。


   そして何故にこうすることが本能心意の整理に対して効果があるかというに、
   心理的にいえば、本能心意に対して外的自己誘導暗示が作用するためなのである。

・・・

(2)【 8月8日 】 素直にありがたさを認める

   今日、みなさんがこの会社に入社することができたのは、
   一つにはみなさんの努力によるものでしょう。

   しかし決して自分一人の力でこうなったとうぬぼれてはなりません。
   会社にしましても、世間からごひいきをいただいているからこそ、
   今日こうして成り立っているのです。


   ですから、個人にしても会社にしても、あるいは国の場合でも、
   やはり謙虚にものを考え、その物事の成り立っている背景なり
   人びとの恩恵というものを、正しく認識しなければなりません。

   そして、協力してくださる相手に対しては素直に喜びと感謝の念を表わし、
   自分たちもこれに相応した働きをしていくことが大切だと思います。

・・・

(3)【 8月8日 】 徳 業

   事業でも、力づくでやっておると、
   いずれ競争になって困難になる。

   事業が人間性から滲(にじ)み出た、
   徳の力の現れであれば、これを徳業という。
   事業家は進んで徳業家にならないといけない。

   また、その人の徳が、古(いにしえ)に学び、歴史に通じ、
   いわゆる道に則(のっと)っておれば、
   これを道業という。

   東洋人は事業だけでは満足しない。
   徳業にならないと満足しない。
   現代の悩みは、事業が徳業にならないで、
   利業・機業になってゆくことだ。

・・・

(4)【 8月8日 】 今(いま)大業を創(はじ)めんとならば

   按ずるに、小人必ず才あり。
   其の才用ふべし。
   其の悪赦すべからず。

   今大業を創めんとならば、君子小人となく皆其の才を用すべし、
   其の不善を露(あら)はさざれば可なり。 

                  安政5年9月6日
                  「読綱鑑録(どっこうかんろく)」

   【訳】

   思うに、徳のないつまらない人でも必ず才能はもっている。
   その才能を活用するべきである。
   しかし、そのつまらない低俗な気持ちはゆるしてはいけない。

   今、大きな事業をはじめようとするなら、
   心ある立派な人であれ小人であれ、
   その人の全ての才能を活用すべきである。
   よこしまな心を現さなければよしとすべきである。

・・・

(5)《8日 蓋のひらかない香水瓶》

   自己の内にある力を発揮しないで、外なる援助に頼ろうとする者は、
   蓋の栓が錆びついて中にある芳香をどうしても外に顕すことのできない
   香水瓶のようなものである。

   そのような人に外から香水を注いでやることは無駄のことであるのである。

   その蓋の栓を抜いて、中にある芳香を発揮できるように工夫してやることが
   本当に大切な布施であり、供養であり、扶助であり協力である。

      谷口雅春著『人生の秘訣365章』第8篇(P193) より

           <感謝合掌 令和2年8月8日 頓首再拝>

賢者の一日一言《9日》 - 伝統

2020/08/09 (Sun) 22:31:29


(1)【 8月9日 】  人生の勝利者

   人生に対して、積極的精神をもつものは、
   常に、健康や運命の勝利者となり、
   あらざるものは、敗北者となる。

・・・

(2)【 8月9日 】 相談調が大事

   たとえば、ある一つの仕事をしてもらう場合、
   単に命令すればそれで事がはこぶ、と考えてはいけない。

   指示し、命令するだけだと、とかく“命、これに従う”ということになって、
   ほんとうにいい知恵、力強い姿は生まれてきにくい。


   だから、「あんたの意見はどうか、ぼくはこう思うんだがどうか」というように、
   できるだけ相談的に部下にもちかけることが大事だと思う。

   そうして部下の考え方なり提案をとり入れつつ仕事を進めていくようにするわけである。

   そうすると自分の提案が加わっているから、
   その人は仕事をわが事として熱心に取り組むようになる。

   人を活かして使う一つのコツは、そういうところにもあると思う。

・・・

(3)【 8月9日 】 木の五衰

   「木の五衰」ということがある。

   「木の五衰」の一つは「懐(ふところ)の蒸(む)れ」。
   枝葉が茂ることだ。

   枝葉が茂ると風通しが悪くなる。
   そうすると、そのために木が弱る。

   弱るから、どうしても根が「裾上がり」つまり根が浅くなってくる。
   根が上がってくる。
   そうすると生長が止まる、伸びなくなる。

   頭(梢)から枯れてくる。
   これを「末(うら)枯れ」という。

   末(うら)というのは梢(木末)という意味だ。
   梢が枯れてくると「末止まり」生長が止まる。

   その頃から、いろいろの害虫がつく。
   「虫食い」。

・・・

(4)【 8月9日 】 復(また)能(よ)く為す

   後世の人、智慮(ちりょ)短浅(たんせん)、
   一旦敗衂(はいじく)すれば志気頓(とみ)に沮喪(そそう)し、
   復た能く為すことなし。 

                    安政2年7月2日「講孟剳記」

   【訳】

   (昔からみれば)後の世である今の人は、
   先々のことや細かなことまでよく考える知恵が足りず、浅い。
   一回、(戦いに)負けると、志、やる気はすぐにくじけてなくなり、
   再びやろうという気持ちになることはない。

・・・

(5)《9日 人の神性の“栓”を抜くこと》

   内部にある“無限の芳香”の如き貴き“神性”を開発してあげることが、
   最も価値多き布施であるのである。

   それには「人間、神の子」の真理をその人に与えること、
   これが内部にある神性を外にあらわすための“栓”を抜くことになるのである。

   ひとたび、その人の神性の“栓”が抜かれるならば、
   栓を抜いたビールのようにその人の神性は沸騰して涌上り、
   その人は「完全なる自由」を得るのである。

   イエスは

   「汝は真理を知らざるべからず、真理は汝を自由ならしめん」

   と訓(おし)えているのである。

       谷口雅春著『人生の秘訣365章』第8篇(P194) より

           <感謝合掌 令和2年8月9日 頓首再拝>

賢者の一日一言《10日》 - 伝統

2020/08/10 (Mon) 22:08:45


(1)【 8月10日 】  自制自助

   健康建設の要諦は、

  (A)肉体内部の生活力の積極化
  (B)肉体の対外抵抗力の積極化

   という二つの条件を完全に解決することである。


   また、真健康の建設と確立とは、
   これを結論的にいえば曰く「自制自助」の二字につきるのである。

   すなわちこの自制と自助とが一切を積極的に現実化する根本なので、
   第一この二つのものが欠如していたなら、どんな有効な方法も手段も
   決して目的を達するまで永続せず暫間的に終ってしまうという怖れが多々ある。

・・・

(2)【 8月10日 】 欲望は生命力の発現

   “欲の深い人”というと、
   ふつうはよくない人の代名詞として使われているようだ。

   いわゆる欲に目がくらんで人を殺したり金を盗んだりする事件が
   あまりにも多いためであろう。


   しかし、人間の欲望というものは、
   決して悪の根源ではなく、人間の生命力の現われであると思う。

   たとえて言えば船を動かす蒸気力のようなものであろう。
   だからこれを悪としてその絶滅をはかろうとすると、
   船を止めてしまうのと同じく、
   人間の生命をも断ってしまわねばならぬことになる。

   つまり欲望それ自体は善でも悪でもなく、
   生そのものであり、力だといってよい。
   だからその欲望をいかに善に用いるかということこそ大事だと思う。

・・・

(3)【 8月10日 】 人間の五衰

   人間もそうだ。

   いろいろの欲ばかり出して、すなわち貧欲・多欲になって修養しない。
   つまり省しない。

   そうすると風通しが悪くなる。
   つまり真理や教えが耳に入らなくなる。
   善語・善言を聞くということをしなくなる。

   そうすると「裾上がり」といって、人聞が軽薄にオッチョコチョイになってくる。

   そうするともう進歩は止まってしまう。

   すると悪いことにばかり親しむようになる、虫が食うのだ。
   つまらないやつにとりつかれ、そして没落する。

   これは「人間の五衰」だ。
   だから植物の栽培もこの省という一字に帰する


・・・

(4)【 8月10日 】 神州必ず滅びざるなり

   挫(ざ)するなかれ、折(くじ)くるなかれ。神州必ず滅びざるなり。   

                   安政6年8月13日
                   「※1久保清太郎・久坂玄瑞あての書翰」

   【訳】

   途中で、挫(くじ)けてはいけない。
   志を変えてはいけない。
   日本は絶対に滅びないから。

    ※ 1長州藩士 久保清太郎。玉木文之進主宰の松下村塾以来の友人。
       後、松陰主宰の松下村塾を助け、また、同志として活躍をした。

    ※ 2長州藩医の子 久坂玄瑞。松陰が高杉晋作と共に最も期待した高弟の一人。
       吉田松陰の妹文が嫁いだ。

・・・

(5)《10日 神の恵みを受像するには》

   「神よ、私を助けたまえ、誰かが私に経済援助を与えてくれるように導き給え」
   などと祈っても一向、神は私を助けて下さらないので、
   先生にこの事を是非祈ってほしいというような意味の手紙を時々頂くことがある。

   併し、金光教祖も指摘せられているように、
   神は「頼まいでも、お陰はやってある」と仰せられるのである。
   頼んだ人だけ、祈った人だけ助けて、他(た)の人は護ってやらぬ
   というような、そんな依枯贔屓な神はないのである。

   本当の神は常に吾々を護り給い、常に吾々を導いていられるのである。

   だけども神は「物質」ではないから、物質を直接吾々に与えるのではなく、
   愛の放送、智慧の放送、導きの放送、生命力の放送などを、
   霊的放送として送っていられるのである。

   それはテレビ放送局が電波によって番組を放送しているようなものである。
   その電波を受像して、それを具体的な像に化するためには
   テレビ・セットに於いては放送チャンネルに合わし、波長を合わすことである。

   それと同じく、神からの霊的放送による“恵み”は、
   吾々が心の状態をととのえ、神の霊的放送に波長を合わすことによって、
   その恵みを自分の人生に受像し、具体化することができるのである。

       谷口雅春著『人生の秘訣365章』第8篇(P194~195) より

           <感謝合掌 令和2年8月10日 頓首再拝>

賢者の一日一言《11日》 - 伝統

2020/08/11 (Tue) 19:54:56


(1)【 8月11日 】  円転滑脱

   円転滑脱、のびのびした気分で、
   力をスムースに働かすといった行き方でないと、
   多端な人生に活きていく「力」が、長く保てないことになる。


   ましてや、今日のような複雑な感覚のある時代に活きていくのには、
   一層に「いのちの力の使い方」ということは、最も大切なことである。

・・・

(2)【 8月11日 】 小便が赤くなるまで

   「商売は非常にむずかしく厳しい。いわば真剣勝負だ。
    商売のことをあれこれ思いめぐらして眠れない夜を幾晩も明かす。
    それほど心労を重ねなければならない。

    心労のあまりとうとう小便に血が混じって赤くなる。
    そこまで苦しんではじめてどうすべきかという道が開けてくる。
    だから一人前の商人になるまでには二度や三度は小便が赤くなる経験をするものだ」


   これは私が小僧時代に店のご主人に聞かされた話ですが、
   今にして思えばこれは決して商人だけにあてはまることではないと思います。

   何をするにしても、これだけの苦しみを経ずして成功しようとするのは、
   やはり虫がよすぎるのではないでしょうか。

・・・

(3)【 8月11日 】 知識・見識・胆識

   いつも申しますように、識にもいろいろあって、
   単なる大脳皮質の作用に過ぎぬ薄っぺらな識は「知識」と言って、
   これは本を読むだけでも、
   学校へのらりくらり行っておるだけでも、出来る。


   しかしこの人生、人間生活とはどういうものであるか、
   或(あるい)はどういう風に生くべきであるか、というような
   思慮・分別・判断というようなものは、
   単なる知識では出て来ない。

   そういう識を「見識」という。
   しかし如何(いか)に見識があっても、
   実行力、断行力がなければ何にもならない。


   その見識を具体化させる識のことを
   「胆識」と申します。
   けれども見識というものは、
   本当に学問、先哲・先賢の学問をしないと、出て来ない。
   更にそれを実際生活の場に於いて練らなければ、
   胆識になりません。


   今、名士と言われる人達は、
   みな知識人なのだけれども、
   どうも見識を持った人が少ない。

   また見識を持った人は時折りあるが、
   胆識の士に至ってはまことに寥々(りょうりょう)たるものです。
   これが現代日本の大きな悩みの一つであります。

・・・

(4)【 8月11日 】 太平已に久しきに当りて

   太平已に久しきに当りて大事を興造(こうぞう)せんとする時は、
   人心偸安(とうあん)必ず与(くみ)せず。   

                    安政5年9月6日以降「読綱鑑録」

   【訳】

   平和な日々が長く続いている時代に、
   (国家、国民にとって)大切なことを始めようとする際には、
   一般の人々は目前の安楽を貪るだけで、絶対に協力などはしてくれない。

   (だからこそ、リーダーたるものは、断じて行うべきである。)

・・・

(5)《11日 行動の伴わない祈りは効果がない》

   祈りというものは行動を伴わず、
   実践を無視した場合には効果が《ない》のである。

   それはマラソン競争に、“走る”と言う行動を起こさないでいて、
   競争の必勝を祈ってみても何の効果もないのと同じなのである。

   その人の祈りが効果をあらわすのは、内部の心が神に振り向き、
   神に波長を合わせることによって、神の心と同一の波長を起し、
   それが行動化又は運動化するに至るからなのである。

   恰度、祈りはラジオ・セットの波長を、
   放送局の波長に合わせるようなものである。

   そのとき、空中を伝わって来た電波がスピーカーの振動板を振動させる
   (即ち行動化が行われる)。
   それによって放送局で放送されている
   “恵み”を具体化することができるのである。


   若し、ラジオ・セットのスピーカーの振動版が故障が起って
   振動せぬ(行動化せぬ)ならば、折角放送局から良き番組の放送があっても、
   それは吾々の視聴し得る形にはあらわれないのである。

   吾々が祈りながら、それを行動化しなければラジオ・セットの
   スピーカーの振動版に故障が起っているようなものであるから、
   その祈りに神は応え給うていても、それを形として受像し得ないのである。

     谷口雅春著『人生の秘訣365章』第8篇(P195~196) より

           <感謝合掌 令和2年8月11日 頓首再拝>

賢者の一日一言《12日》 - 伝統

2020/08/12 (Wed) 20:12:59


(1)【 8月12日 】  信念がなければ結実しない

   もちろん、人生を幸福にするには、富も経験も、
   理智も計画も、その他必要なものが多々あるに違いない。

   しかし、そのいずれも、
   信念がなければ、理想通りに完全に結実しないのである。


   ところが、世の人々の多くは、幸福の獲得に金の力、知識の力、
   または経験の力や計画の密度にのみ重点を置いて、
   信念をさして重大視しないのである。

 
   要するに世の中の進歩に比例して、ほんとうの成功者も、
   また健全な生命をもつ者も数において本当に少ない原因的理由は、
   これらの点にあるといってよいと思う。

・・・

(2)【 8月12日 】 笑顔の景品を

   最近は、競争がなかなか厳しいこともあって、
   個々のお店なり商店街が、それぞれいろいろと工夫を凝らし、
   販売を進めています。

   いわゆる景品つき販売というものもその一つで、
   少しでも多くのお客さんの関心をひくものをということで、
   いろいろ知恵をしぼっています。


   しかし、お客さんにおつけする景品のうちで、
   何にもまして重要なものは何かということになったら
   私はそれは親切な“笑顔”ではないかと思います。

   “自分のところは親切な笑顔のサービスに徹しよう”というように、
   いわば“徳をもって報いる”方策で臨んでこそ、
   お客さんに心から喜んでいただけるのではないでしょうか。
   
・・・

(3)【 8月12日 】 親子の道

   人倫の根本が親子の道に在ることは言うまでもない。
   随(したが)って子の親に対する孝心は、
   人類社会を維持し、発展せしめる一番尊い《はたらき》である。


   在る時は在りのすさびに憎いこともあろう。
   無くてぞ人の恋しきは人情の機微である。

   父母に死に別れて、却って説に父母の温容を憶(おも)い、
   慈音(じおん)を偲び、生前の趣味や理想を考え、
   敬慕の情をいや増すと共に、

   平生(へいぜい)みずから父母に何の報ゆる所もなかったことや、
   今も尚お父母の期待に一向添い得ぬ身の不肖をば恥じ懼(おそ)れ、
   せめてもの心ばかりの供物を霊前にささげ、或は懺悔の誠を致し、
   或は将来の発奮努力を誓う、茲(ここ)に家庭祭祀の根本義がある。

・・・

(4)【 8月12日 】 「風俗を美にせんとならば」

   風俗を美にせんとならば、
   平時気節を尚(たっと)ぶに如(し)くはなし。
   気節を尚ぶは勤倹を励ますと直言讜議(とうぎ)を
   奨(すす)むるに如くはなし。   

                    安政5年9月6日以降「読綱鑑録」

   【訳】

   人々の心、日々のしきたりや習わしなどを美しくしようとするなら、
   普段の生活において、(人々の)気概や節操の堅さを敬って大切にし、
   重んずることである。

   そのための最善の方法は、まず倹約をさせ、
   また、遠慮せず自分の信ずるところをいい、
   正論を吐くよう奨めることである。

・・・

(5)《12日 酒癖を治した人の話》

   自己改善を遂げようという熱意と決意と努力のある処に、
   自己改善を遂げ得るのである。

   或る誌友は、飲酒癖をもっていたが、それを止めたいと思って祈ったが、
   なかなか飲酒癖が止まなかった。

   彼は、「祈っておれば、神が自然にこの癖を止めて下さるだろう」と
   安易な、他力的な、蟲のよい事を考えながら依然として酒を飲んでいた。
   しかしその祈りは効果を奏しなかったのである。

   或る日彼は気がついた。

   「自分は誘惑に身をゆだねながら、切実に酒癖を治そうという
    真剣な努力をしないでいながら、“酒癖を治したまえ”と神に祈ることは、
    神を愚弄することになるではないか。
    神に祈る位ならば、神に真剣に協力して、酒癖をやめるべく
    自分の行動を開始しなければならぬ」

   彼はこのように決意すると、
   それ以来断じて酒盃を手にしないことにしたのである。

   すると自然に、酒を飲みたいという渇欲が消えて、
   他(た)の人が酒を飲んでいるのを見ても少しも飲みたくなくなったのである。

       谷口雅春著『人生の秘訣365章』第8篇(P196~197) より

            <感謝合掌 令和2年8月12日 頓首再拝>

賢者の一日一言《13日》 - 伝統

2020/08/13 (Thu) 20:01:51


(1)【 8月13日 】  天は自ら助くるものを助く

   何かにつけて、やたらと人の助けや援護を求める。


   誰でもよく知っている諺に、「天は自ら助くるものを助く」というのがある。

   この言葉が明らかに、人生他力のみをあてにしては断然だめである
   ということを、合点せしめてくれているといわねばならない。

・・・

(2)【 8月13日 】 投資をしているか

   書物によると、太閤秀吉という人は馬の世話をする係になったとき、
   主人である織田信長が乗る馬を立派にするために自分のわずかな給料をさいて、
   にんじんを買って食べさせてやったということです。

   これは一つの誠意ある投資だと思うのです。


   そこで、みなさんは投資をしているかということです。

   そのように、いったんもらった給料を
   会社へまた献金する必要はありませんが、
   しかし自分の知恵で投資するか、あるいは時間で投資するか、
   なんらかの形で投資するという面が
   自分の成長のためにも必要だと私は思うのです。

   またそれくらいのことを考えてこそ、
   一人前の社員と言えるのではないでしょうか。

・・・

(3)【 8月13日 】 道の人

   真の道の人とは、根元的なものと枝葉的なものとを
   統一的に持っている人のことである。

・・・

(4)【 8月13日 】 人の患(うれい)は」

   若し夫れ罪を知りて改めざる者は、真に如何ともすべからざるの人なり。
   人の患いは罪を犯して罪をしらざるにあり。 

                     安政2年8月3日「講孟剳記」

   【訳】

   だいたい、(自分が)正しくないことをしている、と知っていながら、
   改めないものは、本当にどうしようもない人である。

   人の憂えるべきことは、罪を犯していながら、
   それを自覚していないことである。

・・・

(5)《13日 祈っても飲酒喫煙癖の止まない場合》

   人間は誰でも“神の子”であるから、
   自分を神らしく立派な人間にする権利を与えられているのである。

   その人が立派になり得ないのは、実は“成り得ない”のではないのであって、
   「立派になろう」という断乎たる決意を自分が起さないだけのことなのである。

   眞に決意したら、酒や煙草をのむことを止め得ないなどということは
   到底あり得ない筈なのである。

   然し、そのあり得ない事が実際にあって、
   酒を止めようと思っても止めることができず
   煙草を止めようと思っても止めることができない現実があるのは
   何故であろうか。

   それには理由があるのである。

   酒も煙草も麻酔剤であって、その人の心の世界に何らかの葛藤、
   コンプレックス、不平、不満足がある場合、自己防衛の本能によって、
   それらの心の中の不調和から来る苦しみを麻酔せしめようとしているのである。

   表面の心に於いては「飲酒癖を止めたい」という願いがありながら
   潜在意識には、心の不調和をアルコールやニコチンで麻酔させたい願いがある
   ならば、“表面の心”の願いは、“潜在意識”の願いに打ち負かされてしまう
   のである。

      谷口雅春著『人生の秘訣365章』第8篇(P197~198) より

           <感謝合掌 令和2年8月13日 頓首再拝>

賢者の一日一言《14日》 - 伝統

2020/08/14 (Fri) 20:31:59


(1)【 8月14日 】  言霊

   言葉は言ってしまった時に、
   その音響はなくなっちゃっているようだが、波動は残っている。

   その波動が残っているということを考えてみたならば、
   かりそめにも我が口から人の幸福を呪ったり、
   人の喜びを損なうような言葉は冗談にも言うべきではない
   ということがわかりはしないかい?


   とにかく、お互いの気持ちに勇気をつける言葉、
   喜びを分かち合う言葉、聞いていても何となくうれしい言葉を
   お互いに言い合おうじゃないか。

   言葉はねえ、言霊というのが本当なのよ。

   言葉は魂から出てくる叫びなんだから。

・・・

(2)【 8月14日 】 電話で仕事をする

   世間には、それこそ工場のスミズミまで自分でまわって
   陣頭指揮をしなければ気のすまない経営者も少なくありません。
   しかし工場まで出向くとなれば時間がかかります。

   また、せっかく来たのだから、立話ですますわけにもいかないということで、
   自分の時間も工場の責任者の時間も必要以上に費やすことにもなりがちです。

   その点、電話を活用すれば、だいたい10分もあれば事が足りるわけで、
   往復の時間もいらないし、責任者の人の時間もとらずにすみます。


   もちろん、自分の目で直接見ることによって、
   より大きな成果を得られる場合もあるでしょうが、
   電話で十分事足りるということも案外多いのではないでしょうか。

・・・

(3)【 8月14日 】 修養が足りない現代日本人

   現代日本人は人物というものができていない。
   修養が足りない。

   人を見れば悪口を言って、自分の事をたなにあげておいて、
   そうして一向努力はせぬ。嫉視誹謗し、
   そうして他に向かって大言壮語ばかりする。

   行儀作法もなっていないという傾きがある。

   これを根本的に是正しなければ
   本当の意味において日本精神を発揚することはできない。


   外に発展しようと思えば思う程、やはり内に深めなければならない。

・・・

(4)【 8月14日 】 恒産と恒心

   恒(こう)の産なくして恒(つね)の心ある者は、
   惟(た)だ士のみ能(よ)くすと為すと。
   此の一句にて士道を悟るべし。
   諺に云ふ、武士は食はねど高楊枝と、亦此の意なり。 

                     安政2年6月27日「講孟剳記」


   【訳】

   一定の生業をもっていなくても、不動の信念をもつことができるのは、
   ただ侍たる人物だけである。
   この一句で、侍たるものの道のあり方を悟るべきである。

   諺に「武士は食わねど高楊枝」という。これも同じ意味である。

・・・

(5)《14日 貧しさからの脱却の祈り》

   「この貧しさから逃れたい」と切に願って
   「神よ、吾れを富ましめ給え」祈りながら、
   富もうとして計画する仕事や思惑が悉く失敗して
   益々貧乏の底に落ち込んで行く人がある。

   そんな人は、現在意識(表面の心)では「富みたい」と思っているけれども、
   潜在意識の底には「自分は富んではならない」という反対観念があるのである。

   その「富んではならない」という反対観念の中には、聖書にあるイエスの
   「富める者の天国に入ることの難きことは駱駝の針の孔を通るが如し」という
   清貧礼賛の言葉に引っかかっている場合もあれば、

   自分が何か人に損をかけるような事をしているので、
   自分が富んでは申訳がない ―― というような謙(へりくだ)った懺悔
   又は自己処罰の念が覆蔵(ふくぞう)されていることもあるのである。

   私たちが富むためには、
   このような清貧礼賛の念をも自己処罰の感情をも
   超克しなければならない。

        谷口雅春著『人生の秘訣365章』第8篇(P198~199) より

           <感謝合掌 令和2年8月14日 頓首再拝>

賢者の一日一言《15日》 - 伝統

2020/08/15 (Sat) 21:10:54


(1)【 8月15日 】  何事も真剣に

   まず何事をするにも、真剣な気持ちでそれに当たることである。

   すなわち一事一物いやしくもせず、すべてを真剣な気分ですることである。


   言い換えると気なしで何事もしないようにすることである。

   この気構えはちょっと考えると小乗的な方便のようだが、
   しかし大乗的な方便に共通したものだと私は断定する。

   要は気を込めてやらないから、心がいつしか他方へ分裂逸散するのである
   という因果関係からの、正法方便なりといえる。

・・・

(2)【 8月15日 】 平和の価値を見直す

   最近、平和というものが、何かいわば空気や水のように、
   ごく当然に存在するものといった感じが強くなってきたのではないだろうか。

   平和の貴重さ、ありがたさがだんだん忘れられつつあるように感じられる。


   これは危険なことだと思う。
   平和は天然現象ではない。
   人為というか、人間の自覚と努力によってはじめて実現され、
   維持されるのである。


   だから、この際お互いにもう一度平和の価値というものを見直してみたい。
   そしてこの価値を知った上で、国民として何をなすべきかを考え合いたい。

   さもないと、せっかく続いたこの貴重な平和を
   遠からずして失うことにもなってしまうのではないだろうか。

・・・

(3)【 8月15日 】 先考 ①

   何故父を考、先考と言うか。

   これは亡くなったその父の年になってみると、
   人の子たるものみなわかることで、
   人間の考えることはやはり経験を積み、歳月を経て、
   初めて円熟するのである、達成するのである。


   本当に考えるということは、
   余程歳月をかけて、経験を積まなければならん。


   そうすることによって初めて事を成功させることができる、
   物を遂行達成することができる。

・・・

(4)【 8月15日 】 独立不羈(ふり)の国

   吾が国は三千年来未だ嘗て人の為めに屈を受けず、
   宇内(うだい)に称して独立不羈の国と為す。 

                   安政5年4月上旬カ「※周布公輔に与ふる書」

   【訳】

   我が(日本)国は、三千年来、これまで一度たりとも、
   他国に屈服したことのない国である。
   世界に独立して、他国に束縛されない国家、と唱えている。

    ※長州藩士 周布政之助公輔。松陰の同志だったが、後、離反。
     松陰刑死後、遺骸埋葬を助けた。

・・・

(5)《15日 争いの念が多少ともあれば和解せよ》

   祈りが成就しないのは、隣人(家族、知人、上役、下役、同僚等)と
   不調和又は争いの感情がまだ多少残っているためであることがある。

   そのために、既に神は「頼まないでもお陰はやってある」と仰せられているのに、
   その恵みを受像することができないで、テレビの画面が波になって流れて
   しまうように、お蔭が流れてしまって実現しないのである。

   祈りが成就しないのを歎く前に、先ず自分自身を反省してみて、
   誰かと不調和の感情をもっているならばそのような感情を調和の感情に変え、
   更に感謝の感情に変え、相手の人ともよく談合して旧交を深く温めるがよい。

   これによって、神の恵みに波長を合わす妨げとなっていた雑音が消えてしまい、
   神の恵みをハッキリ受像し得るようになれるのである。

         谷口雅春著『人生の秘訣365章』第8篇(P199) より

           <感謝合掌 令和2年8月15日 頓首再拝>

賢者の一日一言《16日》 - 伝統

2020/08/16 (Sun) 19:46:15


(1)【 8月16日 】  大事に臨んでは落ちつけ

   消極的に思考すればするほど、
   精神は統一を失ってとうてい正確な判断を得られない。

   「大事に臨んだ時はまず落ちつけ」という諺がある。

   否、大事に直面した時はもちろん、どんな小事細事にも、
   常に虚心平気の心的態度で物事を考察すべきが絶対の真理である。


   関係のないことだと、自分でも感心するような名案や工夫が出るが、
   わが身に直接に降りかかった問題だと、よい分別が出にくいのも、
   その時の心的状態がすこぶる大きい関係をもっている証拠である。

・・・

(2)【 8月16日 】 道徳は実利に結びつく

   社会全体の道徳意識が高まれば、まずお互いの精神生活が豊かになり、
   少なくとも人に迷惑をかけないようになります。

   それがさらに進んで互いの立場を尊重し合うようになれば、
   人間関係もよくなり、日常活動が非常にスムーズにいくようになるでしょう。

   また自分の仕事に対しても誠心誠意これに当たるという態度が養われれば、
   仕事も能率的になり、自然により多くのものが生み出されるようになる。

   つまり社会生活に物心両面の実利実益が生まれてくる
   と言えるのではないでしょうか。

   そう考えるならば、私たちが道徳に従って
   すべての活動を行なうということは、
   社会人としての大切な義務だということにもなると思います。

・・・

(3)【 8月16日 】 先考 ②

   そこで考という字をかんがえると同時に成すという意味に用いる。

   そして考えてみると、なるほど親父はよく考えて、よくやった、
   ということになって考を亡き父につけるのです。

・・・

(4)【 8月16日 】 書を読むのみに非ざるなり

   気節(きせつ)行義(こうぎ)は村塾の第一義なり、
   徒(ただ)に書を読むのみに非ざるなり。 

                   安政6年正月4日「※馬島に与ふ」

   【訳】

   気概があって節操が堅く、
   正しいことを行うこと(そのような人物となること)が
   松下村塾の最も目指していることである。

   いたずらに書物を読んでいるだけではない。

    ※長州藩医の子 馬島光昭。松下村塾の門人

・・・

(5)《16日 他の人と和解するためには》

   人と和解するには怺えたり我慢して
   表面だけ仲よくしているような事ではよくないのである。

   相手と不調和になっているのは、
   相手の立場に立って見る広々とした寛容の精神が乏しく、
   自分の立場からのみ一方的に事物を観るためであることが多いのである。

   同一のものでも立場が異なると、別の姿に見えるのである。

   それは人間でも正面から見るのと横顔を見るのと、後姿を見るのとでは
   全然別の姿に見えるのと同じである。

   しかしその姿は、いづれも本当にその人の姿であって、別のものではないのである。
   自分の立場《だけ》に立って物を見るときそれは一方的な偏狭な観方となるのである。

   凡(およ)そ、相手の立場に立って考えてやるならば、
   相手に同情できるし、腹の立つこともないのである。

     谷口雅春著『人生の秘訣365章』第8篇(P199~200) より

           <感謝合掌 令和2年8月16日 頓首再拝>

賢者の一日一言《17日》 - 伝統

2020/08/17 (Mon) 19:58:54


(1)【 8月17日 】  心の区別

   心というものにはどんな区別が存在しているかというと、
   心にはその性状と活動の状態から大別すると、次の二つのものがある。

   すなわち「肉体生命に属する心」と「精神生命に属する心」である。


   そして、肉体生命に属する心の方は、さらに、これを細分すると、
   その内容に「物質心」「植物心」「本能心」という三つのものが存在する。

   一方、精神生命に属する心には、
   「理性心」「霊性心」という二つのものが、その内容をなしている。

・・・

(2)【 8月17日 】 街の品位を高める

   自分の店舗は、自分の商売のためのものであると同時に、
   街の一部をなすものです。

   これは、その店舗のあり方が、
   街の美醜にも大きな影響を与えるということに他なりません。

   一つの街に好ましい店舗ばかり並んでいれば、
   その街は生き生きと活気に満ちたきれいな街になります。

   街全体に好ましい環境が生まれます。

   だから、そうした街を美化するというか、
   街の品位を高めるという一段高い見地からも、
   自分の店舗をきれいにしていくことが大事だと思います。

   それは「社会の役に立つ」という
   商売の真の使命に基づく一つの尊い義務とも言えましょう。

   またそれは同時に商売の繁栄にも結びつくものだと思うのです。

・・・

(3)【 8月17日 】 八 休

   消し難きの味は食するを休(や)め。

   酬(むく)い難きの恩は受けるを休め。

   守り難きの財は積むを休め。

   釋(と)き難きの怒は較(あらそ)うを休め。
 
   得(え)難き物は蓄えるを休め。
 
   久しくし難きの友は交わるを休め。
 
   雪(すす)ぎ難きの謗(そしり)は弁ずるを休め。
 
   再びし難きの時は失うを休め。

・・・

(4)【 8月17日 】 「徳なり」

   士に貴(たっと)ぶ所は徳なり、才に非ず。
   行なり学に非ず。 

                   安政2年11月17日「講孟剳記」

   【訳】

   立派な人が重んじるのは人徳であって、才能ではない。
   実際の行いであり、役に立たない理論でははい。

・・・

(5)《17日 祈りは、このようにしてきかれる》

   金光教の高橋正雄先生は、最早故人になられたが懐かしい人のひとりである。
   その機関誌『生(せい)』の中に書いておられたが、

   或る人が四国遍路をして、もうとっぷり日が暮れて来たが、
   田舎道で宿屋など見つからないのである。
   一軒の百姓屋のような家を見つけて、そこの戸を叩いて一夜の宿を乞うたのであった。

   百姓屋の主人が出て来て
   「泊めてあげたいけれども、都合が悪いことがあるので、帰って下さい」
   というのであった。

   遍路の旅人は仕方なしに家から出て数十メートル程あるき出したが、
   何を思ったか、振り返ると、その家の方を向いて合掌した。
   そして、こういって祈ったというのである。

   「この家の人が私を泊めてくれないのは、
    物質的に乏しいか、精神的に乏しいかどちらかに違いありません。
    神様どうぞこの家の人たちを、物質的にも精神的にも裕にならせてあげて下さい。
    ありがとうございます」

   旅人はこのように祈って踵を返して歩き出した。

   すると間もなく、後方(うしろ)から旅人を呼ぶ声が聞えた。
   旅人は振り返ってみると、先刻、宿を断った主人であった。

   主人は
   「先刻は失礼なことを申しましたが、あなたが、行きかけて振返って私の家を
    拝んで下さったのを見ると、どうしても私はあなたを泊めてあげずにはいられない
    気がしましたので、どうぞ戻って来て泊まって下さい」というのであった。

   「本当の和解」というものはこのようなものである。
   冷たくされた相手の人の幸福を神に祈ってあげることである。

   本当に祈りが徹底すれば敵と見えた者も強力な味方となるのである。

       谷口雅春著『人生の秘訣365章』第8篇(P200~201) より

           <感謝合掌 令和2年8月17日 頓首再拝>

賢者の一日一言《18日》 - 伝統

2020/08/18 (Tue) 22:16:04


(1)【 8月18日 】  本能心

   本能心は人間の肉体生命の生存を確保するために存在している。

   したがって、人類生命中の動物的方面の生存と生活に
   必要な各種の作用や職分をこの心が司っている。


   たとえば、食欲、制欲、その他の肉体の欲求から発生する各種の欲望、
   または一切の感覚念などといったものがそれである。

   一般の動物的感情情念、すなわち、闘争心、復讐心、憎悪心、
   猜疑心、嫉妬心というような動物本来特有の低級心性も
   この本能心から発露しているのである。

・・・

(2)【 8月18日 】 人材を引きぬけば……

   職場で、この人はなくてはならない非常に重要な人であり、
   余人にはかえがたいと思っていた人が、ある事情でその仕事を離れました。

   そこで当然、戦力のダウンが生ずるであろうと考えていたら、
   不思議なことにその部なり課の成績が上がったということがあります。


   これは、あとを受け継いだ人が大いに力を伸ばし、
   かえってよい結果を生んでいるということに他なりません。

   ですから私は、すぐれた人材を
   他の部門に起用する必要があるというような場合、
   躊躇せずこれをやるべきだと思うのです。

   あえてそれを行なうことが往々にして、
   人材の育成に結びつく場合が少なくないということを体験してきたのです。

・・・

(3)【 8月18日 】 朝食は食ったか

   偉大な修業などというと、
   どんな奇抜な人間離れしたことをすることかなどと思う間は、
   まだ何もわかって居(お)らぬのである。

   尋常日用の工夫に徹するのが大修業なのである。
   大いに悟りを開こうと思って、先ず佛という偉大な者の秘義をつかもうと
   あせって居る僧に、趙州和尚(じょうしゅうおしょう 唐末の名禅僧)は答えた。

   朝食は食ったか。

   はい、いただきました。

   食器をよくかたづけなさい、と。

・・・

(4)【 8月18日 】 己れを修むと人を治む

   楽しむに天下を以てし、憂ふるに天下を以てすと、
   是れ聖学(せいがく)の骨子なり。
   凡そ聖学の主とする所、己れを修むと人を治むの二途に過ぎず.

                   安政2年7月7日「講孟剳記」

   【訳】

   「楽しむに天下を以てし、憂うるに天下を以てす」という言葉がある。
   これこそが、聖学、つまり孔子の学問の骨子である。
   だいたい、聖学の主眼とするところは、
   自分を修めることと人を治めることの2つにすぎない。


・・・

(5)《18日 合掌礼拝の姿に感激して》

   その百姓家に泊めてもらった旅人は、
   何かハタハタはためくような音がするので夜半に眼をさました。

   田舎の夏のことで蚊帳が吊ってあって、
   自分は蚊帳の中からハタハタと音する方を見ると
   この家の主人夫婦は寝ないで、蚊が襲ってくるのを団扇(うちわ)ではたきながら、
   何か夜業(よなべ)でもしているらしいのである。

   「御主人さま、あんた達はお眠みにならないのですか。
    わたしばかり眠らせて貰って・・・・」と
   旅人は思わず声をかけた。

   主人たちは最初は返事を胡摩化していたが、何時までも眠らないでいることに、
   弁解の仕様もないので、本当のことを話し出した。

   それによると最初「都合が悪いのでお泊め申すことはできません」と答えたのは、
   夜具も蚊帳も一人分しかないので、お泊めしても眠って頂くことができない
   と思って断ったのだったが、

   その断りに腹の立つ様子もなく、じっと家の方を向いて拝んでいられる
   旅人の神々しい姿を見たとき、自分たちは眠らないでも、
   この旅人を泊めてあげたくなったのだという。

   このような心が政府要人の心に、各政党の領袖の心に、
   各国の首相及び外務大臣の心にあるならば、
   早速世界に平和が来るだろうと思われるのであるけれども・・・・。

   私は尚一層吾らの光明思想をひろめなければならない。

     谷口雅春著『人生の秘訣365章』第8篇(P201~202) より

           <感謝合掌 令和2年8月18日 頓首再拝>

賢者の一日一言《19日》 - 伝統

2020/08/19 (Wed) 21:40:01


(1)【 8月19日 】  理性心

   理性心というものは、事物事象に対する推理推考を司る心で、
   俗に理性というのは、この心の活動現象に対する名称である。


   学者の中には、人間の心の中には本能心より階級の高い理性心
   というものがあるから、本能心はこの理性をもって統御支配するのがよい
   と説いている人もある。


   がしかし、これには断然私は不同意である。
   理性心には完全に本能心を統御する力がないからである。

・・・

(2)【 8月19日 】 自由と秩序と繁栄と

   自由という姿は、人間の本性に適った好もしい姿で、
   自由の程度が高ければ高いほど、生活の向上が生み出されると言えましょう。

   しかし、自由の反面には、必ず秩序がなければならない。
   秩序のない自由は、単なる放恣にすぎず、
   社会生活の真の向上は望めないでしょう。


   民主主義のもとにあっては、この自由と秩序が必ず求められ、
   しかも両者が日を追って高まっていくところに、
   進歩発展というものがあるのだと思います。

   そして、この自由と秩序と一見相反するような姿は、
   実は各人の自主性において統一されるもので、
   自主的な態度こそが、自由を放恣から守り、
   無秩序を秩序にかえる根本的な力になるのだと思います。

・・・

(3)【 8月19日 】 座右の書
 
   心を打たれるような身に沁(し)むような
   古人の書をわれを忘れて読み耽けるときに、
   人間は生きるということは誰もが知る体験である。

   それを積んでおると、しだいに時間だの空間だのという
   制約を離れて真に救われる。
   いわゆる解脱をする。

   そういう愛読書を持つことが、
   またそういう思索・体験を持つことが人間として一番幸福であって、
   それを持つのと持たぬのとでは人生の幸、不幸は懸絶(けんぜつ)してくる。

・・・

(4)【 8月19日 】 国事は極めて重し

   夫(そ)れ国事は極めて重し、苟(いやしく)も国に為すなくんば、
   朋友を得(うる)と雖も悦ぶに足らず、
   乃(すなわ)ち朋友を失ふも憂ふるに遑(いとま)あらざるなり。 

                   安政6年正月23日「※士毅に与ふ」

   【訳】

   国家に関する事柄というものは、大変重要なものである。
   仮にも、国家に貢献しないのであれば、
   同じ志を持った友を得たとしても喜ぶほどのことはない。
   また、朋友を失ったとしても、憂慮するほどのゆとりもない。

    ※長州藩士 小田村伊之助。士毅は字。松陰の友人。後、松陰の妹寿が嫁いだ。

・・・

(5)《19日 愛は到る処に天国を実現する》

   あなたの心はあなたの支配下にある筈である。
   この旅人が冷たく断られながら、断った人の幸福を祈ったのは愛の行為である。

   あなたは自分の心の主人公であるから、自分の心の中から反感を追い出し、
   愛を喚び起し、自分に冷たく当る人にでも温かい愛を注ぐことが出来る筈である。

   あなたが本当に自分自身の内から、“神の愛”を喚び起して、
   その愛をもって何人に対して接するならば、相手がどんなにこちらを憎んでいても、
   ついには彼の憎しみが解消して、こちらを愛してくれるようになるのである。

   愛は相手の愛をよび起し、すべての憎しみを解消し、反感をやわらげ、
   調和と平和をもち来たし、到るところに天国浄土を実現することになるのである。

       谷口雅春著『人生の秘訣365章』第8篇(P202~203) より

           <感謝合掌 令和2年8月19日 頓首再拝>

賢者の一日一言《20日》 - 伝統

2020/08/20 (Thu) 21:22:13


(1)【 8月20日 】  霊性心

   霊性心は、われわれ人類の精神のみに特有された
   極めて優秀性を有する最高級のものである。

   普通人には容易に発現し得ないといわれる、
   かの霊感とか霊智とかいうような特殊のものは、
   いずれもこの心から発露するものなので、

   いわゆる神秘的な偉大な思索や、崇高な思想というようなものは、
   一切この心を本源として形成されるものなのである。


   が遺憾ながら、この心の働きや力に対しては、
   あまりにも知らなさ過ぎるくらい無理解な人が多い。

・・・

(2)【 8月20日 】 心を通わす

   一人ひとりの努力が、
   部下の人にもまた上長の人にも知られるということは、
   何にもまして心嬉しいことだと思います。

   一つの成果をお互いに味わって、
   ともに喜び合うことができるということは、
   私は尊い姿だと思うのです。


   一つの会社の中でも、北海道にいる人の苦労が九州にいる人に伝わる。
   九州にいる人の苦労が北海道の人に伝わり、
   打てば響くような形において、全員が結ばれていくというように、
   お互いに心と心を通わしているような状態になっていなければならない。

   そうなれば願い通りの好ましい成果が上がり、
   社会のためにも大衆のためにもなる働きができるであろうと思うのです。

・・・

(3)【 8月20日 】 神秘の因縁

   精神を集中し、寸陰を積んでこれを錬磨すると、
   非常な感覚力を生ずるものだ。

   平生(へいぜい)研究問題を持たぬ人では、なにも見つからないが、
   平生なにかに集中していると、意外な「発見」をする。

   そこに神秘な因縁をすら感知するものだ。

   こういうところに人生や、事業、学問の秘訣がある。

・・・

(4)【 8月20日 】 互いに寛容致し

   多人数の中には、自然気性の不同も之あるもの候へども、
   此れ等の類(たぐい)大概私心より起る事に候へば、
   互いに寛容致し、隔心(かくしん)之れなき様相心得、
   先進を敬ひ後進を導き候儀、肝要たるべく候事。 

                   嘉永元年12月「兵学寮掟書条々」

   【訳】

   多くの人がいる中には、自ずと気持ちの合わないものもいるだろう。
   しかし、これはたいてい、私心、俺が俺がという、
   私欲をはかる心から起こることである。

   そこで、お互いに咎めだてしないようにし、
   へだてのある心を起こさないよう、気を配ることが大切である。
   また、先輩を敬い、後輩を正しく導く、ということが非常に大切である。

・・・

(5)《20日 “善悪を知る樹”の果を食べてはならぬ》

   祈りが成就するためには、
   罪人とか悪人とかいうような「神の子」にはふさわしくない人間は
   本来存在しないのだということを先ず知ることが大切である。

   罪人とか悪人とかが存在するという考えがある限りに於いて、
   「憎しみの心」や「排斥の念」が起るのは止むを得ない。

   しかし「憎しみ」や「排斥の念」が起るならば、それだけ、
   神に対して波長が合いにくくなるから、祈りの成就を妨げることになるのである。

   人々を“悪人”だと思うことを止めよ。
   神は悪人を造り給わなかったのであるから
   悪人なんてものは本来存在しないのである。

   「創世記」の第一章には
   「神其(その)造りたる諸(すべて)の物を視たまいけるに甚だ善かりき」とある。
   神の創造し給える一切のものは悉く實相において善なのである。

   神を信ずるならば、神の創造の善なることを信じなければならない。
   それなのに、迷いによって、この世界に“悪”があると知る智慧をもつことが、
   “善悪を知る樹”の果を食することなのである。

        谷口雅春著『人生の秘訣365章』第8篇(P203~204) より

           <感謝合掌 令和2年8月20日 頓首再拝>

賢者の一日一言《21日》 - 伝統

2020/08/21 (Fri) 19:32:32


(1)【 8月21日 】  本能心の統御

   真に恵まれた人生に活きるためには、
   まず、肉体本位にのみ、わがままを振る舞いがちな本能心を
   完全に統御することである。

   本能心さえ完全に統御ができれば、
   その他の理性心や霊性心の統御は比較的安易であるといってよい。


   しかも、本能心を正確に統御し得るものは、意志の力以外には絶対にない。

   人生を幸福にするのも、また不幸にするのも、
   詮じ詰めればこの本能心の統御の良不良という一事にかかっているのである。


・・・

(2)【 8月21日 】 カンを養う

   カンというと、一見非科学的なもののように思われる。
   しかしカンが働くことはきわめて大事だと思う。
   指導者は直感的に価値判断のできるカンを養わなくてはいけない。


   それでは、そうしたカンはどうしたら持つことができるのか。
   これはやはり経験を重ね、修練をつむ過程で養われていくものだと思う。

   昔の剣術の名人は相手の動きをカンで察知し、
   切っ先三寸で身をかわしたというが、それは、それこそ
   血のにじむような修行を続けた結果であろう。

   そのように指導者としても、経験をつむ中で厳しい自己鍛錬によって、
   真実を直感的に見抜く正しいカンというものを養っていかなくてはならない。

・・・

(3)【 8月21日 】 文より質

   人間は常に質が文よりも勝っていることが望ましい。

   その人に奥深いものがどっしりとあって、そこに若干の表現があればよい。

・・・

(4)【 8月21日 】 祖先に孝するは

   祖先に孝するは栄禄(えいろく)に非ざるなり。
   父母に事(つか)ふる定省(ていせい)に非ざるなり。
   祖先の忠を墜さず、父母の名を忝(はずか)しめず、
   孝(こう)・事(じ)の大(だい)、是(こ)れのみ。 

              安政6年正月24日
              「※1李卓吾の『劉肖川に別るる書』
                の後に書して子大(しだい)に訣(わか)る」

   【訳】

   先祖に尽くすというのは、名声を得たり、高い俸給をもらうことなどではない。

   父母にお仕えするということは、
   親にうやうやしく仕え、孝養を尽くすことなどではない。

   祖先の残された忠の実績、その心を汚さず、
   また、父母の名前をはずかしめないことである。

   孝行する、また、仕えるとは、こういうことであり、これ以上のことはない。

     ※1 1527~1602。中国明代の思想家。

・・・

(5)《21日 あなたは神を信ずるか、感覚を信ずるか》

   神は、その創造し給える一切のものを、その無限の叡智をもって
   点検し給うて「すべて甚だ善し」と宣言されたのである。

   その神の宣言に反して、「この世界には悪もあり、悪人もある」と
   五官の感覚による認識は告げるのである。

   あなたは神の宣言を信ずるか、五官の感覚の宣言を信ずるか、
   どちらかの信者であるのである。

   神を信じない人を不信者というけれども、
   不信者というものは、本当は、この世界に誰ひとりいないのである。
   彼らは何かを信じている。

   唯物論者は、物質の力を信じているし、
   感覚主義者(素朴的実在論者―Primitive realist)は
   感覚にあらわれる通りを存在すると信じているのである。

   しかし物質の力を信じ、感覚にあらわれている通りを存在とするものは、
   神を信じない者である。

   そして物質は常に変移し、感覚面にあらわれる姿は常に変化し無常である。
   従って、変移し無常なるものを信じている彼らは浮動するものの上に
   生活しているのであるから常に恐怖していなければならないのである。

   こうして恐怖の世界に追いやられる事を
   「エデンの楽園からの追放」と称するのである。

      谷口雅春著『人生の秘訣365章』第8篇(P204) より

           <感謝合掌 令和2年8月21日 頓首再拝>

賢者の一日一言《22日》 - 伝統

2020/08/22 (Sat) 21:05:13


(1)【 8月22日 】  同情が礼儀ではない

   病気を心配している者、あるいは運命に泣いている者、
   恋に悩んでいる者がいると、そこに行って、理由のない相槌を打つことによって、
   何か人間としての、お互いの交わりに対する義務のようなものを感じる人がある。

   同情することが礼儀だと思っている人がいる。


   しかし、それはまったく毒汁を浴びせかけていることと同じなんですよ。


   本人の運命に対して、
   本当の真心から目を醒まさせてやる努力をする人こそ、尊い存在なんです。

・・・

(2)【 8月22日 】 国民を叱る

   私は総理大臣というものは、新しく就任したなら
   まず国民を叱らなければならないと思います。
   今は国民を叱る人が誰もいません。

   国民に対してご機嫌をとることはしても、国民を叱ることはありません。
   だから国民は甘え、他を頼るようになる。

   それが経済の上にも、政治の上にも行き詰まりが出てきた
   一つの大きな原因だと思います。

   かつて、ケネディ大統領が言ったように、日本の総理大臣も
   「私は総理大臣になりましたが、みなさんは私に求めてはいけません。
   国に対して求めるよりも、国のために何をなすべきかをお考えいただきたい。
   そうしないと日本はよくなりません」こういうことを言うべきだと思うのです。

・・・

(3)【 8月22日 】 分る

   物は早分りする程分らなくなってくる。

   宇宙人生は結びだから分らぬものを把握する時、
   物事がよく分かる。

・・・

(4)【 8月22日 】 事を済すは誠に在り

   事(こと)を済(な)すは誠(まこと)に在(あ)り。 

                    安政6年正月25日「※君儀に復す」

   【訳】

   物事をきちんとやり遂げることができるのは、まごころだけである。

     ※安富惣輔。君儀は字。野山獄の同囚、門人。

・・・

(5)《22日 “エデンの楽園”追放の意味するもの》

   神がその創造したまえる一切のものを善なりと宣言せられた以上、
   悪なる病気などは存在しないのは当然のことでなければならない。
   だから病気は実在するものではないのである。

   何故なら、神と“神による眞創造”とのみが実在であるのだからである。
   そして神と“神の眞創造”とはすべて善であるからである。

   それなのに何故実在しない病気等の悪が恰も存在するが如く見えるのだろうか。

   此処に深遠なる“現象顕現の法則”があるのである。
   ―― 吾々の生きているこの現象世界は、其処に住む人の心の表現であるのである。

   「実在の世界」は此処に今も常に厳然としてあれども、
   その人の心が認めなかったら感覚面にはあらわれないのであるし、
   “悪”は本来存在しないけれども、その人の“気”(想念)の持ちようで、
   “悪”も恰も存在するかのようにあらわれるのである。

   聖書に於ける“樹”というのは“想念”を意味する。
   日本語に於いても“樹”は“気”に通ずるのである。
   “善悪を知る樹”とは“善”のほかに“悪”も存在するいう想念である。

   そのような“気”になれば、やはり色々と“悪”なる現象があらわれて来て、
   實相世界(エデンの楽園)は今此処に《あれども》見えず、
   苦しみの世界に追放された形をとることになり、

   折角、“善きもの”の実現を祈りながらも
   祈りが成就しない形をとることになるのである。

       谷口雅春著『人生の秘訣365章』第8篇(P205) より

           <感謝合掌 令和2年8月22日 頓首再拝>

賢者の一日一言《23日》 - 伝統

2020/08/23 (Sun) 19:46:30


(1)【 8月23日 】  喜びの厳格な規格

   私の言う喜びは、そこに厳格な一つの規格があるのです。


   その規格というのは厳しくも何ともないの。

   すべてのいかなる種類の享楽にせよ、
   それが絶対に他の人の幸福を妨げるものであってはいけないのであります。

   でないと、その享楽が悪になります。


   さらに、人を喜ばせて、自分がまた、
   その人とともに喜ぶということがいちばん尊いことなんだ。

・・・

(2)【 8月23日 】 強い要望があってこそ

   あらゆる製品について、それをお買い求めくださるお客さまの立場に立ち、
   お客さまの番頭になる気持で、性能、品質をためし、再吟味してみる。

   これは工場側においてそうであると同時に、
   これを販売する営業部門においても、
   同様の気持で厳格に調査して、もし一点でも不満足なところがあれば、
   工場に返品して再検討を求めるということでなければならない。


   こうして、販売に当たる者も、生産にたずさわる者も、
   製品の良化を強く要望し、すべて良品にしなければならない
   という要望が強まれば強まるほど、

   工場における良品生産も促進されることになり、
   さらに信念に満ちた製品が提供されることになるのである。

・・・

(3)【 8月23日 】 据物の心得

   「据物(すえもの)の心得」という工夫がある。
 
   剣によって類稀(たぐいまれ)なる荘厳自由な人格を錬り上げた宮本武蔵に、
   一見してその非凡の人物を見抜かれた

   熊本藩の英霊漢都甲太兵衛(とごうたへえ)が、
   太守から日頃覚悟の筋をきかれた時、彼はしばらく小首を傾けていたが、
   やがておもむろに口を開いて

    ―― 自分は据物の心得ということにふと心づいて、
   それからいつも人は据物でいつでも打たれるものであると思い、
   それを平気で打たれる心持ちになるように力(つと)めた。

   もちろん、はじめのうちはともすれば「据物である」ということを忘れ、
   またそう思ってみても恐ろしくてならなかったが、段々工夫してゆくうちに、
   いつも据物の心になって、それで何ともなくなった ―― と答えた。
 
   日本におけるあらゆる芸道は、
   いずれもこの心境の上に創造されているのである。

・・・

(4)【 8月23日 】 大識(だいしき)見大(けんだい)才気(さいき)の人を待ちて

   嗚呼、世、材なきを憂へず、其の材を用ひざるを患(うれ)ふ。
   大識見大才気の人を待ちて、郡材始めて之れが用を為す。  

                    安政6年正月27日「※子遠に語ぐ」

   【訳】

   ああ、私は、世の中に才能のある人がいないことを憂えているのではない。
   その才能のある人を任用しないことを憂えているのである。

   正しい判断力をもち、気概に溢れた人が上にあってこそ、
   才能をもった多くの人々も活きるのである。

    ※ 長州藩の足軽 入江杉蔵。松陰の高弟。村和作は実弟。

・・・

(5)《23日 “神の子”に“罪”本来無し》

   “罪が《ある》”という考えもまた、祈りを成就することを妨げるものである。

   “罪”とは一体何であるか。

   或る人は「神の定め給える法則に背くこと」(a transgression of God’s Law)だ
   と定義したが、人間は本来“善”であるから、
   神の法則を破るなどということはないのである。

   “罪”とは日本語源の示す通り「ツツミ」ということであり、
   實相の完全さを「包み」隠す(conceal)ことであって、
   “實相の完全さ”が《無くなる》ことでも、
   實相の完全さが《破壊される》ことでもないのである。

   佛教に於いては、「法華経」には
   「わが浄土は毀(やぶ)れざるに、
    衆は焼け尽きて諸々(もろもろ)の憂怖(うふ)充満せりと観る」
   と書かれている。

   わが「浄土は毀れず」という句に注目すべきであって、
   善悪を知る樹の果を食した吾々は、その想念の影として
   「諸々の憂怖の充満せる状態」を勝手に見ているけれども
   實相に於いては依然として吾々はエデンの楽園に住んでいるのである。

        谷口雅春著『人生の秘訣365章』第8篇(P206) より

           <感謝合掌 令和2年8月23日 頓首再拝>

賢者の一日一言《24日》 - 伝統

2020/08/24 (Mon) 21:39:33


(1)【 8月24日 】 情味を物質に求めない

   真に生きがいのある人生に活きようには、
   何としても、我々は、自分の人生生活の中の情味というものを
   味わうということを心がけるべきである。

   否、厳格にいえば、この心がけを欠如した人の人生は、
   いかに地位ができようと、また仮に富を作り得たとしても、
   しょせんは、無意義で、空虚で、荒寥たるものになる。


   多くの人の特にいけないことは、
   生活の中の情味ということを、物質方面にのみ求めることである。

   生活の中の情味というものを味わうというのは、
   心の問題なので、物質の問題ではないのである。

・・・

(2)【 8月24日 】 我執

   一人ひとりの人が、それぞれに自分の考え、
   自分の主張を持つということは、
   民主主義のもとではきわめて大事なことである。

   が、同時に相手の言い分もよく聞いて、是を是とし、
   非を非としながら、話し合いのうちに他と調和して事を進めていくということも、
   民主主義を成り立たせる不可欠の要件であると思う。

   もしもこの調和の精神が失われ、それぞれの人が自分の主張のみにとらわれたら、
   そこには個人的我執だけが残って争いが起こり、平和を乱すことになる。


   今日のわが国の現状、世界の情勢をみるとき、
   今少し、話し合いと調和の精神が欲しいと思うのだが、いかがなものであろう。

・・・

(3)【 8月24日 】 五 計

   生計・身計・家計・老計・死計の五つを
   宋の朱新仲(しゅしんちゅう)(翌)は人生の五計という。
   窮極我々の人生はこの五計を出ない。

   ”生計”は人生如何に生くべきかという、特に身心健康法のこと。
   それを基にしてどういう社会生活・家庭生活を営むかが”身計・家計”である。

   現代のように汚染された大衆文明社会にあって、
   人生の計を立ててゆくことは非常に難しい。

   個人の努力と同時に社会学的にも真剣に考慮されねばならぬ問題だ。

・・・

(4)【 8月24日 】 断じて之れを行へば

   断じて之れを行へば、鬼神も之れを避く。
   大事を断ぜんと欲せば、先づ成敗を忘れよ。 

                    安政6年正月晦日「正月晦夜(かいや)、感を書す」


   【訳】

   決心して断行すれば、何ものもそれを妨げることはできない。
   大事なことを思い切って行おうとすれば、
   まずできるかできないかということを忘れなさい。

・・・

(5)《24日 現象界の暗雲は實相を晦さず》

   「諸々の憂怖の充満せる状態」は暗雲が冪々(べきべき)として空を蔽い、
   太陽の輝きが全く見えなくなっている世界にたとえることが出来るのである。

   暗雲のみ見え、太陽が見えないような時にも、
   実際は、太陽には少しも雲が懸っておらず、それは晃々と輝いているのであり、
   肉眼が見ている暗雲は単に地球(現象)を覆う雲であって、
   太陽には何の関係もないのである。

   そして心の迷いの雲は常住のものではなく、
   それは一時的に吾々の心をかすめるものであって、
   それはやがて雲散霧消して本来の“無”をあらわすにきまっているのである。

   しかし吾々が心の中に“気圧の谷”をつくって、
   その雲が散り去らないように掴んでいる限りは、長く暗雲は現象界を覆うのである。

   “悪”を《あり》と信じて恐怖によって
   “気圧の谷”を心の中につくらないようにするには
   毎日神想観を実修し、聖典を読誦して、
   實相の完全さを心の中に毎日畳(たた)み込むがよい。

       谷口雅春著『人生の秘訣365章』第8篇(P206~207) より

           <感謝合掌 令和2年8月24日 頓首再拝>

賢者の一日一言《25日》 - 伝統

2020/08/25 (Tue) 22:39:12


(1)【 8月25日 】  「不断」と「ふだん」

   昔からの訓話に「行修は不断であれ」というのがある。

   この「不断」という文字は、日常のことを「ふだん」
   というのと同意義に解釈すべきで、すなわち行修は
   すべからく日常の生活行為であるべしという意義に他ならずであります。

・・・

(2)【 8月25日 】 なすべきことをなす

   治にいて乱を忘れずということがある。
   太平のときでも、乱に備えて物心ともの準備を怠ってはならない
   ということで、指導者としてきわめて大切な心がまえである。


   とはいえ、人間というものは、とかく周囲の情勢に流されやすい。
   治にあれば治におぼれ、乱に会えば乱に巻き込まれて
   自分を見失ってしまいがちである。

   そういうことなしに、常に信念を持って主体的に生きるためには、
   やはり心静かに、われ何をなすべきかを考え、
   そのなすべきことをひたすらなしていくことが大切である。

   指導者の要諦とは、見方によっては、
   この“なすべきことをなす”ということに尽きるとも言えよう。

・・・

(3)【 8月25日 】 老の3つの意味

   ”老”という文字には3つの意味がある。

   一つは年をとる。
   二つは練れる。
   三つは_考_と通用して、思索が深まり、完成するという意味だ。
 
   老いるとは単に馬齢を加えることではない。
   その間に経験を積み、思想を深め、
   自己・人生を完成させてゆく努力の過程でなければならない。
   これを”老計”という。
 
   それには先ず学ぶことだ。
   学問は年をとるほどよい。

   百歳にもなっての学問は、実に深い味があろうと思う。
   老いてボケるというのは学問しないからにすぎない。

・・・

(4)【 8月25日 】 人の信ずる所に負(そむ)かずんば

   若(も)し能(よ)く侃々(かんかん)行々(こうこう)、
   人の信ずる所に負(そむ)かずんば不幸一斃(いっぺい)すとも、
   信ずる者益々衆(おお)く、再起の日必ず能く事を済さん。

                   安政六年正月晦日「正月晦夜、感を書す」

   【訳】

   もしも、よく剛直でくじけず、
   また、自分を信じてくれた人に背かなければ、
   不幸にも、ひとたび、うまくいかなかったとしても、
   自分を信じてくれる者は益々多くなり、
   再び立ち上がった時には、必ず思いをなし遂げることができる。

・・・

(5)《25日 愛するあまり恐怖するのはいけない》

   若しあなたの愛する人が病気になった場合、その人を愛するあまり、
   その病気を恐怖するならば、病気の「想念の雲」を心で掴んで
   繋ぎ留めておくことになり、その病気の恢復をおくらせることになるのである。

   その病人が、祈ってあげても治らないのは、
   「病気を《あり》」として恐怖しているからなのである。

   病人を病院に入れ、同病棟内の病人たちの悲観の雰囲気の中に入れておく場合には、
   折角の“神癒の祈り”も、病棟内にこもる悲観の雰囲気の暗雲に遮られて、
   その恢復がはかばかしくないことが往々あるのである。

   すべての病院が暗い雰囲気をもっているというのではない。

   最近ある週刊誌を読んでいると、

   その病院では、患者に音楽をきかせたり、何か楽しい嬉しい話で、
   患者の気分をひき立たせるようにして治病の成績を挙げている

   ということであった。

       谷口雅春著『人生の秘訣365章』第8篇(P207~208) より

           <感謝合掌 令和2年8月25日 頓首再拝>

賢者の一日一言《26日》 - 伝統

2020/08/26 (Wed) 19:52:04


(1)【 8月26日 】  心身統一法で増す力

   心身統一法によってその内容量をふやす力、

   第一が体力であります。

   第二が胆力。

   第三が判断力。

   第四番目が断行力。

   第五番目が精力。

   第六番目が能力。

   この六つの力が生命の中にその内容量を豊富にしていないかぎりは、
   どんなことをしても完全健康と完全運命を自分の人生能力ものに
   することはできないのであります。


   たとえ懐に一文もなくとも、これだけの六つの力が
   自分の生命の中に内容豊かになれば、人生はこれさながら天馬空であります。

・・・

(2)【 8月26日 】 矢面に立つ精神

   人間が大事に際して、その難局の「矢面に立つ」ということは、
   人生としてはおそろしいことであり、大変に勇気のいることである。

   スリルがあるとか、あるいはこれはおもしろいな、という人も、
   今日の青年の中にはいるかもしれないが、
   ほんとうに腹を割ったところ、あまり愉快ではないと思う。

   しかし、こういう場合に敢然として、その矢面に立つことも
   男子の本懐と喜んで事に当たることも大切である。


   そしてそういう人こそ、大事において、うろたえず、
   ものを決断することのできる人であり、人多くして人なき社会において、
   ほんとうの人物として立っていくことのできる人であるという思いがする。

・・・

(3)【 8月26日 】 貝原益軒

   貝原益軒先生は、八十四才で亡くなっておりますが、
   死ぬ一年か二年前に始めて益軒に改め、
   殆んどその最後まで損軒と言っておりました。

   ・・・六十にして化すということがありますが、
   本当に八十という声のかかったときに始めて益軒に改めた。
   ・・・さすがは益軒先生だと思います。
 
   若い時は仲々道楽者でもありまして、
   京都の島原あたりでよく遊びましたので、
   従って酸いも甘いもかみ分けた人であります。
 
   そこで益軒先生の色々書き遺されたものを、
   人生訓、処生訓、養生訓などで読みますと、
    実に至れり尽くせりでありますが、

   余程の苦労人でなければ書けない、言えないことを細かに書いております。
 
   よく何も知らない人は、漢学者というものは、
   余り人情に通じない形式道徳のかたまりみたいに思うことが多い。

   従って、貝原益軒などは、こちこちの堅物と大抵思っておるのでありますが、
   豈(あに)はからんや、若い時は仲々の道楽者で、遊んだ人でありまして、
   これではいけないと自覚して中年から勉強を始め、
   忿(いか)りを懲(こ)らして欲を窒(ふさ)ぐ生活をした人であります。

・・・

(4)【 8月26日 】 自ら挫折することなかれ

   足下(そっか)鋭(えい)を蓄へ志を養ひ、
   一(いち)蹉跌(さてつ)を以て自ら挫折することなかれ。  

                    安政6年2月2日「※伝之輔に与ふ」

   【訳】

   お前は鋭気を蓄え、志を更に鍛え、
   一回の失敗をもって、中途で自分からくじけ、駄目にならないようにしなさい。


    ※伝之輔-長州藩仲間の子伊藤伝之輔忠信。生没年不詳。
     松下村塾の門人との確証はないが、時々松陰を訪ねては教えを受けたといわれる。

・・・

(5)《26日 「医者の言葉」は一種の祈りである》

   医者の言葉が“恢復のための祈り”の効果を妨げることが度々ある。
   名医は決して病人を恐怖さすような言葉を発しないのである。

   本当の名医は、病気は仮存在であって、実在でないことを知っており、
   自分の発言の如何によって、その病気が良くも悪くもなることを
   知っているのである。

   最近の新聞で「医原病」という語が医師の間にも
   時々用いられるようになっていることを私は知ったのである。
   つまり医者が、患者に恐怖すべき病名を告げられることによって、
   患者が、その病名の通りの症状をあらわすのである。

   肺結核でもない患者に肺結核だと告げたために
   その通りの病状をあらわしていたのが、
   生長の家の医師が、「肺結核ではない、それは回虫がいるのだ。
   “回虫おろし”を処方しましょう」といって虫下しを与えたところが
   本当に回虫がたくさん排出されたのでその患者は安心して治ってしまい、

   それから二十年も生きて今も現に健康にいるという体験談を
   盛岡の講習会できいて、私はそれを話材にし放送したことがある。
   この患者の肺結核の如きが「医原病」なのである。

   「言葉で発する」ということは「一種の祈り」であり、
   祈りは成就するのである。
   健康恢復のためには“反対の祈り”が
   その人に入って来ないように注意しなければならない。

      谷口雅春著『人生の秘訣365章』第8篇(P208~209) より

           <感謝合掌 令和2年8月26日 頓首再拝>

賢者の一日一言《27日》 - 伝統

2020/08/27 (Thu) 20:50:21


(1)【 8月27日 】  得意の時にこそ

   人生に、最も注意すべきことは、
   得意の時にひとしお心の備えを緩めぬよう、心がけることである。

・・・

(2)【 8月27日 】 職責の自覚

   お互いに欠点というものはたくさんあり、
   何もかも満点というわけにはいかない。

   だから、自分の足りないところは他の人に補ってもらわなければならないが、
   そのためには自分自身が自分の職責を強く自覚し、
   その職責に対して懸命に打ち込むという姿勢が大切である。


   仕事に熱心であれば、おのずから職責の自覚が高まるし、
   職責の自覚があれば、人はまた常に熱心である。

   そうした自覚、そうした熱意は
   多くの人の感応を呼び、協力も得られやすくなる。


   そういうことから、みずからの職責を自覚し、
   全身全霊を打ち込むという心がけだけは、
   お互いにおろそかにしたくないと思うのである。

・・・

(3)【 8月27日 】 七 養

   時令(季節)に順うて以て元気を養う。
   思慮を少うして以て心気を養う。
   言語を省いて以て神気を養う。

   肉慾を寡(すくの)うして以て腎気を養う。
   嗔怒(いかり)を戒めて以て肝気を養う。
   滋味を薄うして以て胃気を養う。
   多くの史を読みて以て胆気を養う。
 

   春には春の、秋には秋の生活様式がある。
   同様に寒帯には寒帯の、熱帯には熱帯の飲食起臥(きが)の方則がある。

   夏は夏らしく、冬は冬らしくというように暮らしておれば生命力は健康である。
 

   心気は同時に心臓の気である、活力である。
   思慮を少くし安らかにすることが養心の秘訣である。
   必要もないのにベラベラ喋舌(しゃべ)るようなことは
   その人間を最も浅薄にする。

   《黙養》という言葉がある通り、
   神気を養うには、くだらぬお喋舌(しゃべり)はせぬことだ。

   飲食女色は腎を弱め、嗔怒(いかり)は肝を傷め、
   脂っこいような食物は胃に悪い。

   古今の治乱興亡に通じることは胆気を養って度胸を造る。
   一時一処の成敗得失くらいに転倒せぬからである。

・・・

(4)【 8月27日 】 忿を懲らす

   忿(いかり)を懲(こ)らすと慾(よく)を塞ぐと、英雄の雙(そう)工夫。
   慾を塞ぐは猶(な)ほ容易、
   殊(こと)に忿(いかり)を懲らすに於て輸(やぶ)る。 

                    安政6年2月上旬「己未文稿」

   【訳】

   怒りを抑えることと情欲にちょっとでも迷わないこと、
   この二つは英雄の工夫すべきものである。

   情欲を封じ込めることはまだ簡単である。
   とりわけ、(英雄といえども)怒りを抑えるということにおいて、失敗する。

・・・

(5)《27日 「絶えず想う」ことは「祈り」である》

   「信ずる」ということ、「絶えず心にある想いを持ち続けている」ということは、
   どちらもその「信じていること」が起って来るように祈っているということと
   同じなのである。

   だから「病気を実在する」と信じている者は
   「病気になるように」祈っているのと同じことなのである。

   従って、そのような信念をもっている場合は「病気が治りますように」と
   祈りながらも、同時にその「反対の祈り」をしていることになるから、
   その恢復をおくらせることになるのである。

   病気の平癒を祈る者は「病気を忘れる」ことが必要である。
   「病気は忘れた時分に治っている」という諺は真理である。

      谷口雅春著『人生の秘訣365章』第8篇(P209) より

           <感謝合掌 令和2年8月27日 頓首再拝>

賢者の一日一言《28日》 - 伝統

2020/08/28 (Fri) 22:52:29


(1)【 8月28日 】  分裂しない心の使い方

   多くの人の心がとかく分裂しやすいのは、
   何事を為すにも気が充分に打ち込まれていないためである。
   目前に何かたくさんな仕事が並べられると、頭から面食ってしまう。


   反対に平素何事にも気を打ち込んで行う習慣がつけられていると、
   落ちつきを失わぬため、山のような仕事や事件が目前に生じようとも、
   秩序正しくテキパキと片づけていける。

・・・

(2)【 8月28日 】 力を合わせて

   不況の風が吹き、不景気の波が押し寄せるという情況に
   世間があるときには、それぞれの会社も何らかの形で、
   その影響を受けないわけにはいきません。


   ただそんなときに一番大切なことは、
   全員の冷静な判断と力強い協力だと思います。

   船長が沈着に針路を誤たず、船員が冷静に協力を惜しまなければ、
   その船はどんな嵐にあっても着々と進んでいくでしょう。

   それを、それぞれが慌てて勝手な判断をし、勝手な振舞をしたならば、
   それがたとえ善意から出たものであっても、船の前進は望めません。


   不況、困難なときこそ、“和親一致の精神”が一番に求められるのです。

・・・

(3)【 8月28日 】 人生の関所

  禅家では関という一語をよく浴びせかける。
  関とは字のとおり、関(せき)ということであり、
  すなわち、引っかかり、行き詰まりであります。
 

   人生は、しばしば出会わねばならぬ関所を幾つも通り抜ける旅路であり、
   そこで一関、二関はうまく抜けても、三関、四関となると、
   往々にして、その関所を通ることができず、挫折する、
   引き返すということになりがちです。

   そこが関所だ! そこを通り抜けろ! という意味で
   よく「関」ということを指示するのであります。
 

   辛抱して、努力して関を何関か通りますと、
   特に難解難透(なんかいなんとう)というようなことを
   禅僧がよく申しますが、

   難しい、解き難い、通り難い、すなわち、難解難透の
   関(かん)をいくつか通りますうちに、
   ついに真の自由 ―― 古い言葉で申しますと、
   無礙(むげ)自在というような境地に到達して、
   すなわち「無関に遊ぶ」こともできるようになります。

・・・

(4)【 8月28日 】 道あらば

   人才(じんさい)は之れを育(いく)するに道あらば、則ち成るものなり。 

                 弘化3年閏5月17日「異賊(いぞく)防禦の策」

   【訳】

   才知に富む人物は正しい教育方法を施せば、人物となるものである。

・・・

(5)《28日 “常に善なる神”を想え、想うことが祈りである》

   神は善であり、全能であり、全智であり、無限の愛の持主であるから
   ”悪”なる何物をもお造りにならないということを信ずること
   ―― その信をもつづけること其の事が正しき祈りなのである。

   ”祈り”というものを特定の時間に、定められた特定の文句を唱えたり、
   自分の要求を神に訴えることだと考えると、
   それは一知半解の見解であるのである。

   特定の時間に限らず、最も常に想っていることが、
   宇宙の潜在意識に印象せられて、
   それが“現象顕現の法則”に従って現実化して来るのである。

   神が神罰を与えたり、贖(あがな)いを要求するなどという考えを
   常にもっていると、自己処罰や自己贖罪のために
   不幸や災難や病気をつくり出すことになるのである。

   神は処罰も贖罪も要求したまうのではないのである。

   ただ“神の子”なる實相をツツミ隠すことを止めて、
   それを堂々と表現せよと仰せられているのである。

   その表現のための道具が、想念とコトバとである。

   常に善きことを想念し、常に善きコトバを心に唱え、言葉に語るがよい。
   やがてそれは必ずあらわれるのである。

      谷口雅春著『人生の秘訣365章』第8篇(P209~210) より

           <感謝合掌 令和2年8月28日 頓首再拝>

賢者の一日一言《29日》 - 伝統

2020/08/30 (Sun) 13:06:00


(1)【 8月29日 】  六十の手習い

   老人になると物覚えがわるくなるというが、
   老年になったために記憶力が衰退したのではない。

   大抵の老人は自身の若い時代ことなどを話し出すと、
   その当時の事実を細大もらさず実に詳細に述べる。

   老年になったから記憶力が衰退したのではなく、
   注意力が散漫になり、物事を完全に記憶しないようになったのに相違ない。


   老年者でも有意注意を習性化すると、
   青年に劣らぬような記憶力が作られることからでもこの消息は諒解される。

・・・

(2)【 8月29日 】 会社の実力を知る

   私は今までに銀行にお金を借りに行って、断わられたことはありません。
   これは決して誇張でも自慢でもありませんが、
   計画を立て「これだけお金が要りますから貸してください」と申し出て、
   「これは松下さんいけません」と言われたことがないのです。


   それはやはり、自分の会社の力というか、そういうものを正しく認識して、
   その範囲の中で銀行にお願いしていたからでしょう。
   ですから銀行の方もこれなら大丈夫だと信用して応じてくれたのだと思います。


   大事なことはみずからの会社の実力を正当に認識し、
   それに応じて事をなしていくことだと思うのです。

・・・

(3)【 8月29日 】 無関に遊ぶ

   人間は小成(しょうせい)に安んじないよう、
   意外に早く固まってしまわぬように、伸びがとまらないように、
   いつまでも若く、いつまでも伸びていく、
   いつまでも進歩発展していくことが大事。
 

   年と共によく変化していき、
   途上の難関を幾関か通って無関に遊ぶということが
   大切なのであります。

・・・

(4)【 8月29日 】 議論は易くして

   古より議論は易くして事業は難し 

                    安政6年3月27日「※和作に与ふ」

   【訳】

   昔から、口に出して、ぺらぺらしゃべることは簡単だが、実際に行うことは難しい。

    ※和作は入江杉蔵の実弟であり、松陰の高弟である野村和作。後の子爵 野村靖。

・・・

(5)《29日 神は歓喜をもって天地万物を創造せられた》

   神は常に厳かな鹿爪らしい顔をしているのだなどと考えてはならないのである。
   神は検事でもなければ、裁判官でもないのである。

   私たちは、神想観のときに神のつくり給える實相世界を心に描いて念ずる。
   その時に、私たちは、

   神の無限の智慧の海
   神の無限 の 愛の海
   神の無限の生命の海
   神の無限の供給の海
   神の無限の歓びの海
   神の無限の調和の海

   という風に念ずるのである。

   特に注目しなければならないのは、
   神は“歓喜”であって、神は實相世界(エデンの楽園)を
   歓喜に満ちた楽園としてお造りになったのであるということである。

   人間が楽し過ぎたら神は人間に怒り給うなどということはないのである。

   「法華経」にも、實相世界の光景を、
   「諸天天鼓を撃ち、諸々の伎楽をなす」という風に書かれているのである。

   如何にも神は實相の世界を歓喜をもって創造せられたのであるということが、
   「創世記」と「法華経」の一致によっても理解できるのである。

     谷口雅春著『人生の秘訣365章』第8篇(P210~211) より

           <感謝合掌 令和2年8月29日 頓首再拝>
           <感謝合掌 令和2年8月30日 頓首再拝>

賢者の一日一言《30日》 - 伝統

2020/08/30 (Sun) 20:10:40

(1)【 8月30日 】  本心良心にもとらない言動

   本心良心にもとった言葉や行いというものは、それ自体すでに消極的なんです。
   積極的じゃないんであります。


   というのは、本心良心にもとると、
   やましい観念のために心の力は常に萎縮してしまう。

   本心良心の発動した場合における言葉や行いというものには、
   一点のやましいことがないから、
   どんな場合でも恐れることはないという意味です。

   ですから、一言ものを言うときでも、
   ちょいとした手足を動かす場合でも、
   本心良心にもとらないようにしなければなりません。

・・・

(2)【 8月30日 】 日ごろの訓練

   お互いが仲良く生活し、また仕事を円滑に進めてゆくためには、
   人の応対一つにしても、充分に注意しなければならない。

   そして単に礼儀が正しいとか、言葉づかいに気をつけるということだけでなく、
   いわば心のこもった応対ぶりを見せることが大切ではないかと思う。

   もちろんこれは口で言うほど簡単なものではない。
   日ごろからそういう訓練がなされていなければ、
   たとえ頭でわかっていても、実際に容易にできることではない。


   いつの場合にも自然に行動に表われてくるというためには、
   やはり事あるたびに躾け、習慣づけておかなければ
   なかなか養われるものではないと思うのである。

・・・

(3)【 8月30日 】 擘 頭

   紀綱(きこう)を正し、風俗を革(あらた)むるは、
   此れを擘頭(はくとう)と為(な)す。
 

   学生は学生らしく、社員は社員らしく、先生は先生らしく、
   役人は役人らしく、筋道を立てる。

   筋を通すことが大事で、それを放ったらかしておいて、
   いろいろ膏薬(こうやく)貼りをやっても、それはだめである。

   個人で言うならば、生活習慣です。
   教育で言うなら躾です。

   これを改めるのがまず「擘頭」、
   指で言えば一番大事な親指のようなこと、
   第一着手だと言うのです。

   まったくそのとおりであります。

・・・

(4)【 8月30日 】 一箇不朽なるものを成就せば

   人生倏忽(しゅうこつ)、夢の如く幻の如し、
   毀誉(きよ)一瞬、栄枯も半餉(はんしょう)、
   唯(た)だ其(そ)の中に就(つ)き、
   一箇(いっこ)不朽(ふきゅう)を成就(じょうじゅ)せば足る。

                    安政六年二月二十二日「松如に復す」

   【訳】

   人生というものは極めて短いものであり、夢、幻のようなものである。
   誹(そし)りを受けることも、褒められることも一瞬である。
   栄えることも衰えることも瞬時である。

   はかない人生である中で、一つだけでいい、
   永遠に朽ちない事柄をなし遂げられれば十分である。

    松如:長州藩土佐世氏の家来、土屋矢之介蕭海(しょうかい)。
       松陰の友人、同志。生涯松陰を助けた。

・・・

(5)《30日 神の恵みは自然的過程を通じてあらわれる》

   神は霊であるから、その恵みは霊的波動を以て常に放送されつつあるのである。

   しかし、その霊的恵みの放送が、現実世界の恵みとなってあらわれる場合、
   忽然と天から降って湧いたような幻術的経過を通して出て来るのではなく、
   自然的経過を通して出て来るのである。

   或る信仰深き老婆の“蝙蝠傘(こうもりがさ)”の桟(さん)が折れたのである。

   神は全能であると正直に純粋な信仰をもっているその老婆は直ちに祈った。
   「神よ、あなたは全能であります。この傘の桟が折れましたから、
    どうぞ修繕して下さい」
   こう祈ってから彼女は買い物に出掛けて往った。

   そしてやがて帰宅してみると、その蝙蝠傘の桟がチャンと修繕されていた。

   お婆さんは感激して声を高く挙げた。

   「神様、ありがとうございます。あなたは本当に全能であります。
    この蝙蝠傘を私の留守中にチャンとお直しくださいました。
    ありがとうございます」

   と彼女は神様の徳を称えて感謝をしたのだった。

   その声を聞きつけて出て来た息子が言った。
   「お婆さん、その蝙蝠傘は、さっき修繕屋が来たので直して貰ったんだよ」
   その時、お婆さんは一層感激した語調で跪(ひざまつ)いていった。

   「その蝙蝠傘修繕屋さんは本当に神から遣わされた天の使だったにちがいない。
    神様、ありがとうございます。」

   神は霊であるから、その霊の恵みが具体化する場合、
   このように自然の順序を通して出て来るのである。

     谷口雅春著『人生の秘訣365章』第8篇(P211~212) より

           <感謝合掌 令和2年8月30日 頓首再拝>

賢者の一日一言《31日》 - 伝統

2020/08/31 (Mon) 23:58:21

(1)【 8月31日 】  現実は現実でしか解決しない

   生きていることは現実なんだ。


   どんなに人間でも現在、自分自身で死んでいるとは思いやしないだろう。

   生きている、息してる、血がかよってる、ものを言ってる、
   恋をする、何じゃかんじゃ、みんな現実なんだ。

   現実はどこまで行っても、現実の力以外のものでは解決できないんだよ。
   
・・・

(2)【 8月31日 】 辛抱が感謝になる

   われわれが一生懸命に仕事をしても、
   世間がそれを認めてくれなかったら、非常に悲しい。

   そんなとき、その悲しさが不平となり出てくるのも、
   一面ムリのないことだと思う。

   しかし“認めてくれないのは世間の人が悪い”という解釈もできるが、
   “まあちょっと辛抱しよう。

   今は認めてくれなくても、いつかは認めてくれるだろう”と、
   じっと堪え忍び、いい姿を続けていくというのも一つの方法である。

   そして認めてもらったら、これは非常に嬉しい。
   その嬉しさが感謝になる。

   “より多くわれわれを認めてくれた社会に対して働かなくてはいけない”
   という感謝の心になってくる。

   そういう心がなければいけないと思う。

・・・

(3)【 8月31日 】 礼

   「礼」とは何か。
   およそ存在するものはすべてなんらかの内容をもって構成されている。

   その全体を構成している部分と部分、
   部分と全体との円満な調和と秩序、
   これを「礼」という。

・・・

(4)【 8月31日 】 大丈夫自立の処なかるべからず

   大丈夫(だいじょうふ)自立の処(ところ)なかるべからず。
   人に倚(よ)りて貴(とうと)く、人に倚(よ)りて賤(いや)しき、
   大丈夫の深く恥づる所なり。

                    安政三年三月二十八日「講孟箚記」

   【訳】

   心ある立派な男児は自立していなくてはならない。
   ある人によっては自分の価値が上がり、またある人によっては下がる
   というようなことは、深く恥じるところである。

・・・

(5)《31日 危急の場合、神は超自然のはたらきもせられる》

   祈りに対する応えは、
   自然の経過を通じてあらわれて来るのが普通であるけれども、

   危急の場合には、恰も超自然現象的な様相をもって
   神の救いがあらわれて来ることがあるのである。

   戦後間もなく、船岡富次氏(多分こんなお名前であったと思う。
   胃癌の治った鳥取の人と同じ名だなと思ったことを思い出す)
   という船長からこんな祈りの功徳の報告を受けたことがある。

   その船は海南島(台湾の近くにある)付近の暗礁に乗り上げた。
   それは恰度、春の大潮の満潮時に座礁したのであった。

   暦(こよみ)によると、その座礁した日が最も潮が高く挙がる時で、
   その後は満潮日でも海水は座礁の日ほど高くあがらないのである。

   そのため最高の満潮の時間に一旦暗礁に乗り上げた船を次の日の満潮時を待って、
   その浮揚力によって離礁しようと思っても、その離礁は不可能だったのである。

   船岡さんは出来る限り船が浮揚するために積荷を海中に棄てたけれども、
   次の日の満潮は前日よりも低いので、離礁はできなかった。

   その時、船岡さんは、自分が祈ることを忘れていたと気がついたのである。
   彼は一心に祈った。
   すると不思議な事が起ったのである。

   その次の満潮日に、あり得ない筈の事が起ったのであった。
   それは座礁した日の最大の満潮時よりも、
   一層海水が高くあがって自然に船が浮きあがり、
   難なく離礁することができたのだった。

   これなどは祈りが“自然”の運行を変化したとも言えるし、
   祈りの応えが自然の過程を通してあらわれたともいえるのである。

       谷口雅春著『人生の秘訣365章』第8篇(P212~213) より

           <感謝合掌 令和2年8月31日 頓首再拝>

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