伝統板・第二

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神は愛なり⑥ - 伝統

2020/07/27 (Mon) 03:57:03

愛は最も強力なる力である

        *『生長の家』(昭和25年6月13日の法語)より

吾が内に宿る愛を生きる時、
吾は全世界で一番強き強者となるのである。

愛はもっとも強き力である。

愛は獄舎の門を開き、敵を味方に変え、
不幸を喜びに変え、困難を感謝に変え、
醜きものを美に変ずるのである。

愛を汚す所のものは、
この世の中には存在しないのである。

愛は天下無敵である。

愛のないことのみが愛を汚すのである。

人を憎んでいる時、自分が苦しい時、
自分が本当に愛を生きていたかを省り見よ。

本当に純粋に愛のみを生きていたならば
苦しむことはない筈(はず)である。


苦しみは愛ならざるもの、 「 我 」 というものが
ひそんでいたためにやって来たのである。

   (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2 )

・・・

<関連Web>

(1)伝統板・第二「神は愛なり①」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6704251

(2)伝統板・第二「神は愛なり②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7079818

(3)伝統板・第二「神は愛なり③」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7691841

(4)伝統板・第二「神は愛なり④」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7817467

(5)伝統板・第二「神は愛なり⑤」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7907586


         <感謝合掌 令和2年7月27日 頓首再拝>

神の愛を疑うことは・・・ - 伝統

2020/08/02 (Sun) 03:45:12


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月2日)より

神の愛を疑うものは神の創造を疑うものである。
神の創造を疑うものは天地一切を疑うものである。

疑うとは信ぜぬことである。
信ぜぬとは否定することである。

否定するとは、その存在の根本について争うことである。
争うことは調和せぬことである。
調和せぬとは和解せぬことである。

神を否定し、神と争い、神と調和せず、
天地一切のものと和解せぬ者が幸福でありえないのは当然のことである。

         <感謝合掌 令和2年8月2日 頓首再拝>

「愛」は実相、心の調和 - 伝統

2020/08/04 (Tue) 04:50:51


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月4日)より

愛はただの感情ではない。いわんやただの恋情ではない。

「愛」は実相なのである。事物の本質なのである。
歓喜なのである。調和なのである。
光なのである。生命(せいめい)なのである。

愛は激情ではない。激情は調和ではない。
激情はものを毀す。不調和はものを毀す。
不調和に生命はない。

激情のことを「愛」と呼び倣わしてきたがために、どれだけ多くの若い――
いな、相当年をとった ―― 人たちがその激情に身を滅ぼしてきたことだろう。

滅ぼすもののうちに愛はない。
生かすもの、生み出すもののうちにのみ愛があるのである。

愛は心の調和である。

       <感謝合掌 令和2年8月4日 頓首再拝>

【真の愛国心について】 - 伝統

2020/08/05 (Wed) 04:58:11


         *「理想世界」(昭和43年6月13日の法語)より

戦争が終って、まだ幾年も経たない時のことであった。
NHKの総合構成による大学生の座談が聴こえて来た。

テーマは「愛国心」についてであった。

その中で「日本国を愛すると言っても、愛せられるような日本国に
なったら愛せられるけど、この敗戦の雑然混然たる醜(みぐるし)い日本国が
どうして愛せられるか」というような発言をした学生があった。

私はそれを聴いて憮然として嘆息したことがある。
彼は日本国の実相を見ず、ただ現象の相だけを見て
その奥にある日本の実相を見ないのである。

本当の愛は、魂と魂との触れ合いである。
生命と生命の触れ合いである。

日本国を愛するとは、自分の魂と、国の魂の触れ合いによって、
本来”国そのものの魂”と”個人たる自己の魂”との自己同一の自覚である。
これこそが本当の愛国心である。

”国”とは決して、自分の肉体が気持ちよくなるために入る
浴場の湯槽みたいな単なる生活の“場”ではない。

湯槽ならもっと入浴が快適になるように、タイルの浴槽にでも、
エナメル鉄板の浴槽にも、或いは硬ビニールの浴槽にでもどんな材料でも
使って、どんな形にも改造してもよいけれども、
国家は生命体であり、国家のいのちがあり、伝統ある個性があるのである。

国家のいのち、そしてその伝統ある個性美の特徴を守り続け、
そしてそれをその個性の方向に一層伸ばして行くことこそ、
国家のいのちと一心同体である国民の使命であり、

その使命に邁進せんとする国民の意志こそ愛国心なのである。

    (http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7735767

         <感謝合掌 令和2年8月5日 頓首再拝>

愛は真に征服する力である - 伝統

2020/08/09 (Sun) 03:24:32


      *『 生長の家 』(昭和26年6月13日の法語)より

愛は全世界を真に征服するのである。

憎みはそれが如何に暴力的に強くとも、一時征服したように見えようとも、
相継ぐ反撃によってついに世界を混乱に導くに過ぎないのである。

愛が報いを得なかったことは一度もない。

愛することの快さ  ――  それ自身が既に報いでもある。

愛は愛する人を呼び、繁栄を招び、健康を来すのである。

若し貴方を愛する人がないので淋(さび)しければ、
自分が他(た)を愛していないで愛せ“られる”ことを欲しているからである。

若し貴方の店が繁昌しないならば、あなたがその店でお客に対して
愛の注ぎようが足りないからである。

健康が得られないのも愛より憎みが多いからである。

  (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127 )

         <感謝合掌 令和2年8月9日 頓首再拝>

神の愛の力に常にとりまかれている - 伝統

2020/08/14 (Fri) 03:06:22


       *『生長の家』(昭和25年6月26日の法語)より
              ~心の平和から良きものが生まれる

まず心の中に平和を確立することが必要であるのである。

心の平和を確立するためには
人間を物質だと考えてはならないのである。

人間を孤立している小さきものと考えてはならないのである。

自分は神の子であり
愛の力に常にとりまかれているのであると
知ることが必要なのである。


神想観して 「 吾は 神の愛の力に とりまかれているのである 」 と繰り返して、

自己の心の平和を確立することが、
病気を治すためにも、事業を好転させるためにも必要なのである。

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2

         <感謝合掌 令和2年8月14日 頓首再拝>

愛を行ずれば愛が来る - 伝統

2020/08/20 (Thu) 04:57:52

       * 『生長の家』(昭和25年6月19日の法語)より

吾々が愛行を行う際に
それに伴う報酬を期待するならば
それは本当に愛行ということはできない。

よき行為によき結果が
伴わないということはないのである。

結果は期待しないでも、ただそれを行ずれば
原因結果の法則で、ただ自然にでて来るのである。

もし報いを求めて愛を行ずれば、
その愛は純粋でないから
純粋でない結果が自分に返って来るのである。

吾々は唯(ただ) 「 愛 」 を
行ずればいいのである。

吾々は愛を 唯 行ずればいいのであって、
「 犠牲 」 になろうと考えることも又(また)不要であるのである。

   (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2

         <感謝合掌 令和2年8月20日 頓首再拝>

愛するとは - 伝統

2020/08/28 (Fri) 04:01:16


        *谷口恵美子先生著「心の散歩道その2」(P76~77)より

 愛するとは その人を 大切に思うこと

 愛するとは その人の 魂の美しさを 見つめること

 花の盛りも 紅葉の 散りゆくさまも うつくしいと 讃えるように

 そのままを 見守ること

         <感謝合掌 令和2年8月28日 頓首再拝>

愛は神であり、神は愛だ。 - 伝統

2020/09/08 (Tue) 03:19:32

      *Web:花籠陰陽堂 (2020.1.1)より

《アインシュタインから娘への手紙》

私が相対性理論を提案したとき、
ごく少数の者しか私を理解しなかったが、
私が人類に伝えるために今明かそうとしているものも、
世界中の誤解と偏見にぶつかるだろう。

必要に応じて何年でも何十年でも、私が下に説明することを
社会が受け容れられるほど進歩するまで、
お前にこの手紙を守ってもらいたい。

現段階では、科学がその正式な説明を発見していない、
ある極めて強力な力がある。

それは他のすべてを含み、かつ支配する力であり、
宇宙で作用しているどんな現象の背後にも存在し、
しかも私たちによってまだ特定されていない。

この宇宙的な力は「愛」だ。

科学者が宇宙の統一理論を予期したとき、
彼らはこの最も強力な見知らぬ力を忘れた。

愛は光だ。

それは愛を与え、かつ受け取る者を啓発する。

愛は引力だ。

なぜなら、
ある人々が別の人々に惹きつけられるようにするからだ。

愛は力だ。

なぜなら、
それは私たちが持つ最善のものを増殖させ、
人類が盲目の身勝手さの中で絶滅するのを許さないからだ。

愛は展開し、開示する。

愛のために私たちは生き、また死ぬ。

愛は神であり、神は愛だ。

この力はあらゆるものを説明し、生命に意味を与える。

これこそが、私たちがあまりにも長く無視してきた変数だ。

それは恐らく、愛こそが人間が意志で駆動することを
学んでいない宇宙の中の唯一のエネルギーであるため、
私たちが愛を恐れているからだろう。

愛に視認性を与えるため、
私は自分の最も有名な方程式で単純な代用品を作った。

「E=mc²」の代わりに、私たちは次のことを承認する。

世界を癒すエネルギーは、
光速の2乗で増殖する愛によって獲得することができ、
愛には限界がないため、
愛こそが存在する最大の力であるという結論に至った、と。

私たちを裏切る結果に終わった宇宙の他の諸力の利用と制御に
人類が失敗した今、私たちが他の種類のエネルギーで
自分たちを養うのは急を要する。

もし私たちが自分たちの種の存続を望むなら、
もし私たちが生命の意味を発見するつもりなら、
もし私たちがこの世界と
そこに居住するすべての知覚存在を救いたいのなら、
愛こそが唯一のその答えだ。

恐らく私たちにはまだ、この惑星を荒廃させる憎しみと
身勝手さと貪欲を完全に破壊できる強力な装置、
愛の爆弾を作る準備はできていない。

しかし、それぞれの個人は自分の中に小さな、
しかし強力な愛の発電機を持っており、
そのエネルギーは解放されるのを待っている。

私たちがこの宇宙的エネルギーを与え、
かつ受け取ることを学ぶとき、
愛しいリーゼル、
私たちは、愛がすべてに打ち勝ち、
愛には何もかもすべてを超越する能力があることを
確信しているだろう。

なぜなら、愛こそが生命の神髄だからだ。

私は自分のハートの中にあるものを
表現できなかったことを深く悔やんでおり、
それが私の全人生を静かに打ちのめしてきた。

恐らく謝罪するには遅すぎるが、時間は相対的なのだから、
私がお前を愛しており、お前のお陰で私が究極の答えに
到達したことを、お前に告げる必要があるのだ。

お前の父 アル〇ルト・アインシュタイン

     *○:ベ

https://hana-kago.com/enju-blog-4/#i-2

<参照>
「愛のバクダン」~アインシュタインから娘への手紙の真偽
https://blog.goo.ne.jp/tres-cerdidos/e/4193d85b99389c882f962bcc3023e95b

         <感謝合掌 令和2年9月8日 頓首再拝>

《本当の愛は愛欲ではない》 - 伝統

2020/09/11 (Fri) 03:53:43


          *「眞理」第2巻基礎編第4章(P131)より

愛は素晴らしい美しい感情であるばかりではなく、
それは健康なる肉体と健全なる人格を形作るために是非必要な要素である。

愛は愛欲ではない。
愛欲は肉体的であり、自分自身の快楽を要求するのである。

本当の愛は、もっと精神的なものであり、
自分自身の物質的又は肉体的快楽を要求しないのである。

本当の愛は自分自身の肉体的物質的な快楽を求めないばかりか、
それを却って、他(た)の人の幸福のためには捨てもするのである。

本当の愛は献げる。
献げないで、相手を自分に奪いとろうとする愛は、
本当の愛ではなくて愛欲だ。

愛は時間を超える。
空間の制約を超えて相手に達する。

純粋の愛は相手を高める。
純粋の愛は相手を癒やす。

         <感謝合掌 令和2年9月11日 頓首再拝>

《愛は天上のものである、物質界を越える》 - 伝統

2020/09/14 (Mon) 02:35:36


        *『 理想世界 』(昭和43年6月12日の法語)より

   NHKテレビ番組で三月末まで好評を博していた「旅路」の中に
   出て来る岡本良平と言う汽車の機関士がある。
   彼は真から汽車を愛した。

   そして北海道に住んでいた彼は北海道に特急列車が走るようになることを
   恰も自分の子供が出世することのように楽しみにしていたのである。

   やがて列車の動力資源として石炭は斜陽になりディーゼル油が使われる
   前途が見えて来たので、北海道の鉄道局で古参の機関士にディーゼル機関の
   構造や操縦法の講習を受けさせることになったのである。

   ところが彼はその受講を断ったのである。

   妻が受講をすすめても、先輩がそれを勧めても、頑として応じなかった。
  
   先輩がその時、岡本良平に、「北海道に愈々特急が走る時期が近づいたよ。
   君はその特急第一号に乗りたいと言っていたが、その特急車は
   ディーゼル機関車だよ。汽車は段々時代遅れになって、
   もう間もなくレールの上を走らなくなる」といった。

   その時、良平は「今まで、さんざ働いた揚句、古くなって価値がなくなった
   からと言って棄ててしまう。わしはそんな薄情な気持にはなれないんだ。
   わしは汽車を愛しているんだ。

   世間から棄てられ忘れられて行く汽車の事を思うと、最後の一台になる迄、
   その蒸気機関車を看戌(みまも)ってやりたいんだ」という意味で答えている。

   こんな岡本良平は”縦横厚み”の三次元世界での損得の世界を、
   ”愛”の故に、越えたのである。

   愛は天上のものである。
   それは物質界に属しない。
   物質界の損得を越えるのである。

   (http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7735767

         <感謝合掌 令和2年9月14日 頓首再拝>

常に 「 ただ 」 愛し、創造し、与えればいい - 伝統

2020/09/17 (Thu) 04:39:46


        *『生長の家』(昭和25年6月20日の法語)より
          ~ ただ創造し、ただ行ずること

天地一ぱいに神の愛がみちている。

太陽の光も、空気も、水も、大地も神の愛である。

何ものをも報酬を求めず愛行を行い、
然(しか)も犠牲になろうなどと思わず、

唯 善のみ実現すると思い
唯 愛を行ずるのである。

「 唯 」 行ずることが必要なのである。

神は 「 ただ 」 愛し給うのである。
神は 「 ただ 」 創造し給うのである。
神は 「 ただ 」 与え給うのである。

だから吾らも常に 「 ただ 」 愛し、創造し、与えればいいのである。

原因結果の法則は そのあとのことを
自(おの)ずからなしとげるのである。

   (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2

         <感謝合掌 令和2年9月17日 頓首再拝>

人・物を大切にするということは、神の愛を持ち来たすことになる - 伝統

2020/09/19 (Sat) 04:17:56


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月19日)より

《もの》および人を役に立つように利用するということは、
内在の神の愛を、顕在(あらわれ)の世界にもち来たらすことである。

神の愛を《あらわれ》の世界に持ち来たらすことなしに、神の栄えはあらわれないのである。
神の栄えがあらわれのが、本当の人間の繁昌であるから、神の愛をあらわれの世界に
持ち来たらしさえするならば人間は繁栄するほかはないのである。

だから物を役に立つよう、人を役に立つよう使っていさえすれば
未来の取り越し苦労などは不要なのである。

「貪欲(とんよく)」ということと、「物を大切にすること」とはちがうのである。
「貪欲」は自己の本来の貧しさを恐怖して、むやみに自分に物を引きつけておきたいのである。

「物を大切にする」とはその物の内在の力を引き出すようにつとめることである。

             <感謝合掌 令和2年9月19日 頓首再拝>

《すべての人に愛を注ぎましょう》 - 伝統

2020/09/21 (Mon) 04:42:31


          *「眞理」第2巻基礎編第6章(P158~158))より

愛はすべてのものを一つに結合するところの神の力である。
吾々が地球の上に生活することが出来るのも
「万有引力」と科学者が名づけたところの「神の愛」のお陰に過ぎないのである。

科学的には「引力」の正体はわからないのである。

此の不思議な「物と物とが互いに引き合い結びあう力」は、
まだ人格的にまで進化していないところの、神の愛の力であるのである。

地球の愛の力(引力)が消えた刹那から、人間は足場を失い、空中に漂い、
否、真暗黒の無際涯の真空地帯に投げ出されるほかはないのである。

「愛」がこのように吾々の存在を支えていてくれ、
それによって吾々が安泰に生きていることができるのであると云うことを知るならば、
吾々はそのお礼にまた、愛をそそぐべきである。

             <感謝合掌 令和2年9月21日 頓首再拝>

全てのものを愛せよ - 伝統

2020/09/23 (Wed) 04:43:39


    *「光明法語」(9月22日)より

汝の親を愛せよ、汝の子を愛せよ、
汝の良人を愛せよ、汝の妻を愛せよ、
汝の兄弟を愛せよ、汝の姑舅を愛し、汝の婿又は嫁を愛せよ。

汝の国の人民を愛せよ、人類を愛せよ、すべてのものを愛せよ。

そこから無限の力がわき出て、無限の創造が行なわれるのである。
併し愛することは執着することではない。
愛するとは彼の生命(いのち)を彼の生命(いのち)そのものたらしめることである。

牡丹をして牡丹の花をひらかしめ、朝顔をして朝顔の花をひらかしめることである。
”もの”そのものの生命を解放して自由ならしめるが愛である。

             <感謝合掌 令和2年9月23日 頓首再拝>

吾は愛そのものである - 伝統

2020/09/28 (Mon) 03:51:10


     * 『生長の家』(昭和25年6月12日の法語)より

神は愛である。

吾が内に神の愛が宿っているのである。

愛は人を憎まない、争わない、欠点を見つけない、
愛は人を讃美するのである。

愛は 人のためにならんことを願うのである。

愛は よく堪え忍ぶのである。

愛は 思いやりがあるのである。

これらの愛の力は、自分の内に宿っているのである。

もしこれらのものを自分が生活に生かさなければ、
自分自身が本当に生きるということはないのである。

何故なら自分は愛であるから。

吾は今この愛の賜物(たまもの)を神より受けて
惜しみなく他の人に愛をわたすのである。

吾は愛そのものである。

             <感謝合掌 令和2年9月28日 頓首再拝>

実生活に於ける愛の実践 - 伝統

2020/10/01 (Thu) 03:58:16


          *吉田 國太郎~『白鳩』(昭和24年新年号)より

神は愛である。 

愛するとは欲望することではないのである。 
欲望するのは愛欲である。 
真の愛は与えるところの愛であって、欲望することではないのである。 

神はただ吾々に与えることのみを実践しておられるのであって、
何一つ吾々よりは与えられようとはしておられないのである。 
これこそが真の愛であるのである。

自己の神性を自覚するところの神想観に於て、
只神より無限の智慧、無限の愛、無限の生命、無限供給が流れ入るのみ念じて、
自己が欲望の塊となっている有様をみつめるが如きは真の神想観ではないのである。 

自己が神であるところの実相を観ずるのは、
自己が如何に多くの人に与えているかの実相を観じなければならないのである。

『わが全身神の生命にみたされて光明燦然と輝く』 と念ずるのは、
自己が威張らんが為に光明燦然と輝いているのではないのであって、
その光がすべての生きとし生けるものを光被しすべてのものを愛し恵み、
光を与えるために輝いているのである。 

その積りですべて生きとし生けるものに光与うる自覚に於て
自己の全身が光明燦然と輝くのを凝視するのが神想観である。

ここにも 『与えれば与える程ふえる』 の法則が行なわれているのである。 
親は子供を愛する、その愛の反映として子供は親を愛するのである。 
親がもし子供を老後に養って貰いたいために貯蓄をして置くつもりで世話するならば、
それは真に与える愛ではないから、子供の方も親を本当に愛することはないであろう。 

又子供が親を単に物質的供給をしてくれる世話人であるとのみ思っているならば、
親の方も子供を真に深い愛情をもって愛することはできないであろう。

すべて蒔いた種類の種が刈りとられるのである。 
蒔かぬ種は生えぬのである。 
これが心の法則である。 

もし諸君が神の愛を受けようと思うならば、神の愛と同じき 
『無我の愛』 を諸君の隣人に対して与えなければならないのである。 
斯くの如くすることによって諸君は神から又無我愛を受けとることができるであろう。

愛は単に心で愛しているという丈では足りないのである。 
愛は実践を要求する。 
愛は相手をよろこばす所の何か行為によって裏づけられなければならないのである。 

もし実践的行為に於て他を喜ばす何事をもなさないでいて、 
『自分は人類を愛する』 等という人があるならばその人は大インチキである。

しかし絶対安静の病人以外の人は誰でも日々何かの行為をするのである。 
だから、その行為を愛の方向にふりむけるならば、
誰でも愛行を実践することができるのである。 

御飯を食べるにしてもただそれを利己的に食べないで  
『この食を受くるによりて神の生命がわが生命となり吾を通して神の愛が実現致しますように』  
と祈りながら食するならばその食事が直ちに愛の実践に変わるのである。

何事をなすにも、この仕事を通して人類を愛し給う所の
神の愛が実現いたしますように念ずるならば、それはただの利己的祈りではなく、
人類を愛する神の愛の媒介となる行為である。 

『神は常に吾が仕事を通して人類を祝福し給う』 と念じながら仕事をなすならば
神の全智全能の波長と一つになるが故にその仕事は完全に行なわれ同時に
自己及び他を害するが如き故障がおこることがなくなるのである。 

 
まず神を愛することである。 

そして神と自己同一することによって、すべての人類を愛する、のである。  

『神の愛自分に流れ入って自分の愛を通して神が人類を愛し給うているのである』  
かく念ずることが自己自身を祝福することになるとともに
全人類を祝福することにもなるのである。  

『与えれば与えるほど与えられる』 のが心の法則であるから、
吾々は愛を他に対して流し出すことに努めなければならないのである。

世界に対して何か貢献するということは
何か偉大な仕事をしなければならないように思ったり、
何かすばらしい機会が見つかったならば、そ
の時に人類のために働こうなどと考える人があるかもしれないけれども、
愛は今すぐ手近に実践すべく待っているのである。 

深切なことを今実行する
それが如何に小事であろうともそこに神の愛が実現するのである。

毎日毎日時々刻々、一挙手一投足 
『われは今ここに神の愛を実現しつつある』 と念じてすべてのことを為せ、 
やがてすばらしいことが実現してくるであろう。 

毎日蓄積されるところの愛の念波が、次第次第と雪達磨の如く巨大となって、
凡ゆるよきものを世界からひきつけることができるようになるのである。

http://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p2.html
07/08/13--08:26:

             <感謝合掌 令和2年10月1日 頓首再拝>

《“ 愛 ”がなくなれば魂は窒息する》 - 伝統

2020/10/06 (Tue) 04:41:22


        *『 生長の家 』(昭和44年12月29日の法語)より

   神は愛であり、人間は“ 神の子 ”であるから、
   “ 愛 ”がなければ生きられないのである。

   人間の魂にとって、“ 愛 ”が必要なのは、
   人間の肉体にとって“ 空気 ”が必要なのによく似ている。

   空気が無ければ人間の肉体は窒息してしまうが、
   “ 愛 ”が感じられなくなると、人間の魂は窒息しそうになり、
   たまらなく苦しみを覚え、麻薬中毒患者の禁断症状のように、
   あばれ廻り、のたうち廻る衝動にかられるのである。

   学生のゲバ棒騒動の奥にも、
   親と子、教師と学生、社会と個人、国家と国民との間に、
   断絶状態が起っていて 愛が感じられない結果、

   魂の のた打ち廻る姿が行動化しているのだ
   と見ることもできるのである。

   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/295dabc5ee4968b1e4d7b7e2c1b8ae84

             <感謝合掌 令和2年10月6日 頓首再拝>

愛は善き種子(たね) - 伝統

2020/10/13 (Tue) 04:57:26


            *「女性の幸福365章」(P61)より

神の祝福はあなたの愛他的行為の中に宿り、
悪魔の誘惑はあなたの利己的行為の中に宿る。

ひとたび利己心によって汚(けが)されるならば、
本当の魂の悦びは消えてしまう。

正しく見える行為の中にも利己心の悪魔はひそみがちである。

愛は純粋に無我でなければならぬ。



この世界は法則の世界である。
物理科学的な法則もあれば、精神科学的な法則もある。

善き種子(たね)を蒔けば善き樹が生長し、
悪しき種子を蒔けば悪しき樹木が生長する。

深切や愛ふかき善行(ぜんこう)はよき種子(たね)であり、
冷酷な利己的な所行(しょぎょう)は悪しき種子である。

神は吾々をその意志を以て罰したまわないけれども、
法則が自働して吾々に報いを与えるのである。



“魂の生活”とか“宗教的生活”とかいうものは
必ずしも静座して祈るばかりの生活ではないのである。

一切のものを祝福し、一切のものを讃歎し、一切のものに感謝し、
その感謝を具象化するために「動き出す」生活である。

            <感謝合掌 令和2年10月13日 頓首再拝>

”愛される”前にまず愛しなさい - 伝統

2020/10/15 (Thu) 04:54:37


      *「如意自在の生活365章」(P208)より

「愛されたい」と思う前に、みずから人々を愛せよ。

愛を行なえ。
愛を与えたときに愛は自分に返ってくるのである。

空気は肺臓からそれを呼出(こしゅつ)さえすれば、
自然に吸気の作用(はたらき)が起こって
新しい空気が肺臓の中に供給せられ
健康に必要な酸素等の成分が吸収されるのである。

もし空気を”出して与える吝(おし)んで、息を出さなかったら
新しい空気は自分の肺臓に流れ入ることができず、
その人は窒息してしまうのである。

”愛されたい”ばかりで、愛する行ないをしない者は、
空気を呼(は)き出すことを吝(おし)んで、
ただ空気を吸うことばかりを求めていて窒息死する人と同じように、
愛に餓(う)え渇(かわ)いてついに餓死するほかはないのである。

            <感謝合掌 令和2年10月15日 頓首再拝>

報い求めぬ愛は尊し - 伝統

2020/10/24 (Sat) 04:58:49


        *『 生長の家 』(昭和25年2月1日の法語)より

すべての愛の行為は 尊く、
報いを求める行為は 卑しいのである。

愛は ただ捧(ささ)げようとするのであるから 尊く清く感じられるのであり、
報いを求める行為は、その行為が 他から 「 奪おう 」 ということの手段として
行われるのであるから 卑しく感じられるのである。

凡(およ)そ よき行為には 自然によき報いが与えられるのである。

然(しか)しその報いの中には、人から来る報いと
神から来る報いとがあるのである。

人から来る報いを予期せる所の愛行は、
全然無価値ではないけれども、神から報いを得る資格には遠いのである。

  (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58 )

            <感謝合掌 令和2年10月24日 頓首再拝>

愛なき心がわれらを傷つける - 伝統

2020/11/07 (Sat) 04:25:35


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月7日)より

物質はわれわれを傷つけることはできぬ。
愛なき心がわれらを傷つけるのである 

―― そしてあたかも物質がわれわれを傷つけたるがごとく錯覚せしめるのである。
物質に傷つけられたるがごとく見えている時に、反省してみると、
物質によるよりも先ず自分の心が恐れていたか、憎んでいたか、怒っていたか ――

ともかく傷ついていたことを発見するであろう。

            <感謝合掌 令和2年11月7日 頓首再拝>

愛が神なのである - 伝統

2020/11/12 (Thu) 04:39:49


     *「光明道中記」(11月12日《人を審判(さば)かぬ日》)より

【自分を標準にして人を審判く限り、人の心に平和は来ない。
                  (『生命の實相』第十一巻)】

キリストが磔刑(はりつけ)になったときに
「他(ひと)を救いて己を救い得ざる者よ」
と言って嘲笑したユダヤ人があった。

キリストは受難の前、
ゲッセマネの園で血の汗を流した程苦しんだと云うことであるし、
十字架の上にあっても「神よ、神、我を捨て給うか」と悲鳴を挙げた。

五官で観る者は、その血の汗を観、その悲鳴を聴き、
キリストは悟っていなかったと言って嘲笑するであろう。

悟るとは何であるか。
そこに神が顕れることではないか。

では悲鳴は神であるか、血の汗は神であるか。
悲鳴は神ではない。血の汗は神ではない。
無論それは悟ではない。

それはキリスト自身が言ったように、人類の罪の代贖(みがわり)である。
人類の罪がそこに血の汗となり、悲鳴となって、
音を立てつつ壊(くず)れ落ちたのである。

悲鳴は神ではなく、血の汗も神ではないが、
挺身して人類の代贖者(みがわりもの)になろうと決意した
イエスの《愛が神なのである》。
然(しか)り、愛が神なのである。

従容(しょうよう)として、
莞爾(かんじ)として微笑して死に就(つ)き得ようとも、
愛なくば其処に神はいないから、悟もなく、仏もいないのである。

苦しんでも好い、泣き叫んでも好い、
愛を晦まさないこと、閻魔の心にならないことが大切である。

「神よ、彼らを赦したまえ、彼らは為すべきことを知らざるなり」
落涙霏々(らくるいひひ)たり。

            <感謝合掌 令和2年11月12日 頓首再拝>

《憎んでいる者を一層愛さねばならぬ》 - 伝統

2020/11/14 (Sat) 04:56:17


        *『 生長の家 』’昭和25年2月2日の法語)より

   スター・デーリーは 「 愛は刑よりも強し 」 の中で、
   憎んでいる者ほど愛さなければならない
   ということを書いているのである。

   敵対するものほど 吾々は愛さなければならないのである。

   それは 「 お前には このような人間でも愛することができるか 」
   というテストを神から与えられているのであるからである。

   自分を愛する者を愛するのは 誰(たれ)でもできるのである。

   自分に敵対する者、自分を悪(あ)しざまにいう者さえも
   愛し得るのが本当の愛である。

   キリストは 自分を捕えに来た兵卒の傷をも 癒(いや)したのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58

            <感謝合掌 令和2年11月14日 頓首再拝>

神の愛の抱擁を思念せよ - 伝統

2020/11/22 (Sun) 04:29:53


          *「光明法語」(11月22日の法語)より

更に次の如く思念せよ。

「神の愛の抱擁は優しいのである。
 無限の優しさ、無限のこまやかな愛情をもって私を抱擁し給うが
 故に、私の皮膚は直接この無限に優しい細(こまや)かな
 神の愛に触れているのである。

 だからどんなイライラしさも、
 どんなブツブツもどんな炎症も潰瘍も存在しない。

 神の愛と平和とはわが全身に流れ入って満ち給うが故に、
 わが全身には神の愛と平和とが満ち充ちているのである。
 だからわが内臓の粘膜にもどんな炎症もあり得ないのである・・・」

            <感謝合掌 令和2年11月22日 頓首再拝>

神は、ただ「愛し」ただ「創造し」ただ「与える」 - 伝統

2020/12/06 (Sun) 02:26:37


      *「生長の家」(昭和25年6月20日の法語)より
        《ただ創造し、ただ行ずること》

   天地一ぱいに神の愛がみちている。

   太陽の光も、空気も、水も、大地も、神の愛である。

   何ものをも報酬を求めず愛行を行い、
   然(しか)も犠牲になろうなどと思わず、
   
   唯 善のみ実現すると思い
   唯 愛を行ずるのである。

   「 唯 」 行ずることが必要なのである。

   神は 「 ただ 」 愛し給うのである。
   神は 「 ただ 」 創造し給うのである。
   神は 「 ただ 」 与え給うのである。

   だから吾らも常に 「 ただ 」 愛し、創造し、
   与えればいいのである。

   原因結果の法則は そのあとのことを
   自(おの)ずからなしとげるのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2

            <感謝合掌 令和2年12月6日 頓首再拝>

《愛は一切を癒すのである》 - 伝統

2020/12/17 (Thu) 04:52:19


           *『 生長の家 』(昭和25年2月13日)の法語より

   剣(つるぎ)に対して
   剣を以て征服してはならない。

   憎みに対して
   憎みで征服してはならない。

   怒りに対して
   怒りで征服してはならない。

   悪に対して
   悪で征服してはならない。

   凡(あら)ゆる問題の解決は、
   「 吾は道なり 」 といわれた所の
   キリストの行(ゆ)き方にあるのである。

   キリストは 愛である。
   愛は 一切の問題を解決する道である。
   愛は 自己の病いを癒し 人の病いを癒す。

   病める者よ。汝は愛にそむいていないか。
   誰(たれ)か 憎んでいないか。本当に赦(ゆる)しているか。
   かえりみて本当の愛に立ちかえれば癒されるのである。

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58

            <感謝合掌 令和2年12月17日 頓首再拝>

《聖者の愛に就いて》 - 伝統

2020/12/28 (Mon) 05:03:16


          *「眞理」第2巻基礎篇第11章(P294)より

あなたが若し、或る人を愛することが出来ないにしても、
それに失望してはならないのである。

愛するとは感情《だけ》の問題ではないのである。

スター・デーリーは

「あなたの憎い人ほど一層愛しなければならない。
 何故ならその人は、あなたに愛する力がどれほどあるかを
 テストしてくれるからである。」

と言っている。

(拙著「愛は刑よりも強し」の本を見て頂きたい。
 スター・デーリーの言葉は諸君の愛を一層高めるに違いないのである。)

甘い恋を囁いてくれる人だけを愛するのは、これは煩悩であって、
決して聖く高き愛ではないのである。

自分の生んだ子を愛するのは凡夫もよくよくするところである。
しかし憎い敵を、それでも愛し得る愛こそ聖者の愛だと言わなければならぬ。

            <感謝合掌 令和2年12月28日 頓首再拝>

人間の生命の本質は愛なのである - 伝統

2021/01/01 (Fri) 06:39:33


        *「光明道中記」(1月1日《必ず楽しの日》)より

【愛は生み育てる力、癒す力である。(『生命の實相』第一巻、第十二巻)】

愛は温める力、育む力、生む力、伸ばす力である。
愛によってのみ生命は生まれるのである。

太陽が照るのも宇宙の大愛である。
木の潤すのも宇宙の大愛である。

天の大愛と、地の大愛との限りなき恵みの下に生かされているのが人間である。

人間のみに愛がなくて好い筈がない。
人間の生命は天地の大愛の延長であるが故に、
その本質は愛によって成立っている。
人間の生命の本質は愛なのである。

人間の生命の本質が愛であるならば、
人間の生命から愛を引去(ひきさ)った時には死あるのみである。

愛されることが無くなったとき、
その人の生命が生きる価値を失い、生き甲斐を失い、
病気にかかり易くなり、死にたくなり、衰弱し、
死へ近づいて来ると云うことは当然なことである。

愛のみが生命を生かし、愛のみが生命の糧(かて)である。

人の生涯は愛するためにのみ生まれたのである。
愛が消え去る時すべての事物は光を失う。

そんなに魅力のあった事物もそれに対する愛が失われたとき、
もうそれらは其の人にとって光が無くなる。

人生の価値と光とは、要するに其人がそれに対して持つ愛の反映である。

            <感謝合掌 令和3年1月1日 頓首再拝>

家族を愛せよ - 伝統

2021/01/04 (Mon) 04:22:14


       *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月4日)より

何よりも大切なのは、まず自分の家庭を天国とする術(すべ)である。
それができなければ人間生活の土台が完成したとは言えぬ。

まず手近にある家族を愛せよ。
そこから天国が生まれてくるのである。

われわれは天国とはどこか遠い国にあるように思い、
幸福とはどこか外のところにあるように思っていたが、
脚下(あしもと)になるのである。

まず、朝起きたとき、すべての家族たちに優しい言葉を、
朗らかな韻(ひびき)のある語調で投げかけよ。
これが第一家庭を幸福な天国にする秘訣である。

気がついたら今日(きょう)からそれを始めよう。

           <感謝合掌 令和3年1月4日 頓首再拝>

《神は無限の愛であり給う》 - 伝統

2021/01/07 (Thu) 02:13:25


        *「光明法語」(1月7日)より

吾らは決して神の護りからのがれることは出来ない。
神の無限の智慧からのがれることは出来ない。
また神の無限の愛からのがれることは出来ないのである。

神は吾々神の子に対して与えとうて与えとうて仕方がないのである。
吾々は神の無限の供給からのがれることは出来ないのである。
神はわが親であり、わが供給であり給う。

神は決して人間の貧しきことを欲したまわないのである。
神は決して人間の不健康を欲し給わないのである。
神は無限に完全なる生命を吾らに与え給うて、
吾等の全身を健全ならしめ給うのである。

           <感謝合掌 令和3年1月7日 頓首再拝>

問題解決の鍵は「愛」である - 伝統

2021/01/22 (Fri) 03:09:03


       *『希望を叶える365章』
         (P74《問題解決の第一の鍵は》)より抜粋

何よりも先(ま)ず問題解決の鍵は「愛」である。
愛のあるところに解決しない問題はないのである。

愛は、燃え上る反抗心に、ゆたかなる水をそそいで
それを鎮静(ちんせい)せしめるのである。

反抗心や敵対心がなくなったとき本当に正しい解決が得られるのである。
調和の中にのみ、よき解決が得られるのである。

           <感謝合掌 令和3年1月22日 頓首再拝>

《愛は最も強力なる力なり》 - 伝統

2021/01/30 (Sat) 04:57:23


        *「光明法語」(1月30日)より

愛は最も強力なる力である。
如何なる説き伏せも、如何なる議論も、
如何なる懲罰も相手を説伏せしめることは出来ないが、
愛のみ相手を説伏することが出来るのである。

人を害すれば又自分も害される。
議論すれば議論でやりかえされる。

けれども愛すれば必ず相手に愛されるのである。
愛は議論をこえて、一切の憎しみを克服するのである。
愛は議論をこえて一切の対立を消滅するのである。

最も強きものは愛である、
愛されて和やかにならないものは一人もないのである。
敵を殺すよりも、敵を愛するのが敵を征服する道である。

           <感謝合掌 令和3年1月30日 頓首再拝>

《愛は全身を相手にまかせる》 - 伝統

2021/02/06 (Sat) 02:30:55


           *「光明法語」(2月6日)より

キリストは

『我が誡(いまし)めをききて守る者は吾を愛するなり』

と言っていられる。

ここに言葉をききて素直に守ることが
『愛すること』である事が表されているのである。

父を愛すればその子は父の言葉を守るであろう。
良人を愛すれば妻はその言葉を守るであろう。

良人の言葉をききて素直にそれを行わない者は
真に良人を愛していると云うことは出来ないのである。

愛は相手に全身をまかせたい希望をよび起こす。
性欲ばかりの問題ではないのである。

本当に愛する相手に対しては何を求められても無条件に従いたくなるのである。

           <感謝合掌 令和3年2月6日 頓首再拝>

《一寸でも愛に反(そむ)く行為をするな》 - 伝統

2021/02/10 (Wed) 03:17:59


           *「光明法語」(2月10日)より

ベージル・キング氏はその著書のなかで、
人の見ないところでも一寸でも不深切な行為をすることを全然やめた時に、
自分の資産が著しく増加することになったと云う事を書いている。

これも「天地一切のものと和解した」ために
神の愛の流れに入口をひらいた為であると言い得る。

キング氏は

「神と自分との間にある通路は、實に何でもないとおろそかにする小事によって
塞がれてしまうことがある。一寸したズルい行為。一寸した不深切な嘲笑。
一寸した世間話。一寸した酷評。すべて一寸した愛にそむく行為によって」

と言っている。

           <感謝合掌 令和3年2月10日 頓首再拝>

報い求めぬ愛の日 - 伝統

2021/02/14 (Sun) 02:39:06


           *「光明道中記」(2月14日)より

【これだけで、もう自分は誠(まこと)を尽くし切ったと思うな。
誠は尽くることのなきものである。出せば出すほど無限に湧き出る。
                   (『生命の實相』第十一巻)】


もうこれだけで誠を尽くしたと思い上がったとき、
その人の誠は虧(か)けたものとなる。

誠は出し切っても無限なるものであるから、
それを「これだけ」と有限に打ち切るとき、
それは「誠」でなくなり、「誠」のかわりに「これだけ」が置きかえられ、
「無限」のかわりに「有限」が置きかえられる。

まこととは全事(まこと)である。

「有限(これだけ)」をもって「全事(まこと)」だと思うのは錯覚である。
「有限(これだけ)」を以て「全事(まこと)」だと錯覚するものは、
中途から「私はこれだけ誠を尽くしているのに認められない」と
不足に変ってしまうものである。

それは本当は「全事(まこと)」を尽くしていないから
不足の要素を内部に有(も)っている。
本当に「全事(まこと)」を尽くすとは報い求めぬ愛である。

報い求めぬ愛のみが永遠に満足を与える愛であり、
報い求める愛は途中で不平に変る愛である。

相手が感謝するだろうと思ってした行為は、
相手が感謝しなかったとき憎みに変り、怒に変る。
そんなことなら他に愛を施(ほどこ)さない方が優(ま)しである。

           <感謝合掌 令和3年2月14日 頓首再拝>

相手の立場に立つという思いやりが本当の愛である。 - 伝統

2021/02/16 (Tue) 06:28:38


      *「光明道中記」(2月16日《自己の尺度を捨てる日》)より

【他(ひと)を自分の尺度で測って善ならしめようとすれば、
 相手を害(そこな)い、自分を害う。    (『生命の實相』第七巻)】
 
電車の中で人の顔を見ていると、
実にいろいろの顔があり、色々の事を教えられる。

一つの顔を眺めても、見ている人の立場の位地の相違から、
悉く異なって見えるものである。

争いは、見る立場は一つしかないと云う
根本的な迷誤(まちがい)から発(おこ)るのである。

或る人には一つ顔の横顔が見え、或る人には正面が見え、
或る人には斜めに見える。

もっと委(くわ)しく分けるならば、
一つの顔でも全然同じように見えることはあり得ないのである。

そこですべての人の意見は一致しないのが本当な位である。

そこで吾等が他と争うことを避けようと思うならば、
吾等は事物を考えてやるのに相手の立場に立って
考えてやらなければならないのである。

「あの人の身になったらどうだろう」此の思いやりが本当の愛である。
愛は自他一体である。

昔は、
「己(おのれ)の欲せざるところを他(ひと)に施(ほどこ)す勿れ」
と言ったが、

今は己の欲せざる所も、彼は欲するかも知れないし、
己の欲する所も、彼は欲しないかも知れないことを知って、
各々相手の立場に立って相手を生かしてやらなければならぬ。

           <感謝合掌 令和3年2月16日 頓首再拝>

欠点を見つけるのは愛ではない - 伝統

2021/03/09 (Tue) 02:51:28


           *「光明法語」(3月9日)より

欠点を見つけるのはその人を真に愛していないからである。
愛は欠点を見ないでその奥にある神性を観、実相を観る。
愛するほど強力なものはないのである。

私が宇部の講習会をしたときに夫婦仲の悪い婦人に
「仲をよくしたら好い」「既に仲好いと思えば好い」と話した。
それは智慧の働きである。

ところが吉田國太郎講師が光明講座のときに
「仲が悪いのは愛しないからである。愛すれば仲がよくなるのである」と話した。
その婦人は良人を愛し始めて幸福になったと云うのである。

           <感謝合掌 令和3年3月9日 頓首再拝>

《価値は愛することによって生じます》 - 伝統

2021/03/10 (Wed) 04:59:19


       *「真理」第9巻生活篇第3章(P73)より

物の価値は、その人が愛する程度に従ってあらわれて来るのです。

ダイヤモンドを愛する人にとっては、ダイヤこそ無上の値打ちでありましょう。
金銭を愛する人には金銭こそ無上の価値でありましょう。
或る女性を愛する人には其の女性こそ無上の価値でありましょう。

この場合に云う「価値」とは
「愛」によって体験せられる値打ちの感じにほかなりません。

けれども、すべて「物質」を愛する者は
やがてそれを失う時が来るのであります。

何故なら物質は無なるものであり、本来、
「無」なるものであるからであります。

吾々が永遠の勝利者となり、永遠の獲得者になるためには、
無上でないもの、永遠なるもの、金剛不壊なるものを愛し、
そこに価値をみとめなければなりません。

はかなく消える価値は単に主観的な価値に過ぎません。

永遠に消えない客観的な価値なる「神」を愛する時のみ
主観客観一致したる価値を獲得することができるのです。

            <感謝合掌 令和3年3月10日 頓首再拝>

真の愛とは醜く見えても彼の本質は美しいと知ること - 伝統

2021/03/11 (Thu) 06:43:56


           *「光明法語」(3月11日)より
            ~《相手のためになることを実践せよ》

愛は感情である。

美しいものを愛し、醜いものを憎む。
美しいものに快美の感を感じ、醜いものに不快の感じを感ずる。
これは当然のことである。

しかし醜いものを愛するにはどうしたら好いか。
ニイルは愛とは感情ではない。意志の力であると解した。

いかに醜くとも、彼を愛することが出来るのは、
「意志の努力によって、相手のためになることを実践することが愛である」
としたのである。

しかしそれでは感情は不快そのままに続くのである。

真の愛とは醜く見えても彼の本質は美しいと知ることである。

            <感謝合掌 令和3年3月11日 頓首再拝>

愛は繁昌の基(もとい)である - 伝統

2021/03/16 (Tue) 02:00:40


           *「光明法語」(3月16日)より

愛はすべての繁昌の基である。
愛は人をひきつける磁力である。
愛のある店には人がひきつけられる。

愛のある食卓は美味に満たされる。
愛のために調理される食物は同じ成分であっても、
それが人生健康に保持する力は強いのである。

愛によって育てられる子供は健康に育つ、
けれども愛とは執着することではない。

愛は相手の神性を拝むのである。
愛は相手を弱き者としていたわることではないのである。
相手を完全なものとして、其のまま放つのである。

信と敬と解放とである。

            <感謝合掌 令和3年3月16日 頓首再拝>

「神は愛なり」は何を意味するか - 伝統

2021/03/18 (Thu) 06:42:18


      *『生命の實相』第13巻「倫理篇上」(P71~72)より

「神は愛なり」とヨハネは申しました。
有島武郎氏は「惜しみなく愛は奪う」と申しました。

これは愛とは一体を感ずる、換言すれば
「自己そのものとして観る」ということであります。

「神は愛なり」とは、神は万物の本源でありますから、
「神はすべてのものを自己そのもの《として》観給う」
これが「神は愛なり」という意義であります。

「われはわが子を愛す」といえば、
「われそのもの《として》観る」ということであります。

子を愛する母は、わが子の噛んだものを口移しに食べても
穢(きたな)いと感じない、
それはわが子をわれそのものとして観るからであります。

「穢い」などという感じ、すべて軽蔑の感じは自と他と
相(あい)疎隔した感じによって起こるのであります。

われわれは口中に常に若干の唾液を持っているものでありますが、
その唾液を穢いともいやらしいとも感じたことがない。
それはその唾液を「自己」そのものとして感じているからであります。

いったん唾液を吐き出して《自分と離れた》所に置きますと、
もうその唾液は穢くて再び自分の口へ入れる気にはなれますまい。

これは自己と離れているという感覚的印象に従って、
自分と離れた感じ「穢い」という感じを起こさせるのであります。

また、もう一つ例をいえば、
われわれは常に自己の腸管内に多少の糞便を溜めているのでありますが、
それを誰も穢いと思ったものはない、

また糞便があるということを知らんのでもない、
しかし穢いとは思わない、これは自己の腸管内にあるうちは
糞便をも自己そのものの一部として感じているからであって、

ひとたび体外に排出して、自己と離れた感じを受けるに到れば、
その糞便は「穢い」として感じられてくるのであります。

こういうように、どんなものでも
「自己そのものとして感ずる」ときには穢いとは感じないのであります。

「美とはそこに生命(せいめい)があらわれていることである」
と『智慧の言葉』にありますが、

ある種の美術はちょっと見るとどこが美しいのかわからない、
じっと見ていると美しさがわかってくる、
それはその美術に顕われている「生命(せいめい)」を見いだし、
その「生命(せいめい)」を自分の「生命(せいめい)」と
同じものとして感じる、

すなわち自他一体の感じを受けるから「美しい」と感ずるのであります。

だから「美」も「愛」も「生長の家」から観れば同じことでありまして、
自己と同じ生命(せいめい)を見出すとき、
そこに美を感じ愛を感ずるのであります。

            <感謝合掌 令和3年3月18日 頓首再拝>

神の愛の霊波を受けるには - 伝統

2021/03/24 (Wed) 06:35:12


           *「光明法語」(3月24日)より

神が吾々に働きたまうのは自己「内在の神」の波長を通してである。
ラジオの放送が吾々に働くのはラジオセット内在の波長が
放送の波長に合するが如くである。

だから人を愛したまう神の念波は、
人間が「愛」の念波を起こしたときのみに受け得るのである。

人を憎み、人に害を与えようと云う念波を起こしながら、
神の恵みの霊波を受けることが出来ると考えるのは、
波長の異なるところへバリコンを廻して置いて、
放送の波を受信しようと思うようなものである。

汝ら互いに相愛せよ。

            <感謝合掌 令和3年3月24日 頓首再拝>

「神を愛する」とは神と一体と感ずること - 伝統

2021/03/29 (Mon) 04:40:56


       *『生命の實相』第13巻「倫理篇上」(P73~75)より

「神は愛なり」「愛の感じは自他一体の感じである」といたしますと、
愛の反対は自他疎隔(じたそかく)の感じであります。

自他疎隔することは、すべてなんに対しても吐き捨てた唾液のように、
「あれは自分自身ではない」という感じを持つことであります。

われわれ「生長の家」家族が
「神と一体である、神の子である、神と同体である」と申しますと、

「人間が神の子であってたまるものか、
 人間が神と一体であるとは不遜なことをいう。
 神は人間の主であり人間は神の僕しもべにすぎない」

といって、われわれが「神と一体である」ということを大変謙遜でない
といって攻撃される人がありますが、
特にそういう攻撃をされる人がキリスト信者に多いのでありますが、
キリスト教の開祖はなんといったかといいますと、

「なんじ心を尽し、精神を尽し、思いを尽して主なる汝の神を愛すべし。
 これ大にして第一の誡めなり。」(『マタイ伝』第22章37ー38節)

といっているのであります。

ここに「主(しゅ)なる」とあるのは、僕(しもべ)に対する主人
というような疎隔(そかく)した意味でいっているのではなく、
至高者(いとたかきもの)というような意味の形容でなければならない。

だからこれは

「いと高きなんじの神を愛すべし、これ大にして第一の誡(いまし)めなり」

という意味であります。

では「神を愛する」とはなんであるかと申しますと、
「愛する」とは自己と一体として認めることであるという一般定義に従いますと、

「神を愛する」とは《神と一体であると認める》ことをもって
第一とするのであります。

妻を愛するとは妻と一体であると認めること、
子を愛するとは子と一体であると認めること、
隣人を愛するとは隣人と一体であると認めること、

この「一体であると認める」すなわち愛するということが第一であって
いろいろの律法(おきて) ――

「殺すなかれ」とか、
「盗むなかれ」とか
「姦淫するなかれ」とか、
「偽りの誓いを立つるなかれ」とかいう

いろいろの外形的な細目は、
「神と一体であると認める」(すなわち「神を愛する」)という
中心自覚がととのえば自然にととのってくることなのであります。

「われ神と一体である」との中心自覚がととのわねば、
神を愛しようと努力しても本当に神を愛することはできないのであります。

それはちょうど、子を愛しようと努力しても、
「その子は本当に自分の実子(じっし)である。自分とこの子は一体である」
という自覚ができねば、本当に愛することができないのでありまして、

「この子は継子(ままこ)である、
 自分の生命(せいめい)はこの子につながってはいない、
 この子の生命(せいめい)と自分の生命(せいめい)とは一体でない」

と自覚しているようなことでは、
いかに愛しようと努めても愛することはできるものではない。

それで「神を愛する」ということでも同じことであって、
本当に「神を愛する」ためには、「神とわれとは一体である」との
中心自覚がなければならないのであります。

これを神と人間とを主人と僕婢ぼくひの関係に見立てて、
「神を愛しなければ叱られる、罰せられる」と思って愛しようと努力し、
愛したと同じ行ないを、外に顕わしたにしましても、

それは努力して「愛する外形を真似た」というだけであって、
本当に「神を愛した」ということにならない。

では神を愛するとは、

「自分が神の子である。神の子である神の生命(せいめい)とは一体である」

なお、極言するならば、
「《自分は神そのものである》」との中心自覚がととのってこそ
われらは完全に神を愛しうるのであります。

この中心自覚がととのわないで「神を愛する」などということは、
たとえば「継子(ままこ)を愛する」のと同様、
自分と一体でない生命(せいめい)を愛しようという《いたずらな努力》の
愛になってしまって、本当に完全に愛することはできないのであります。

            <感謝合掌 令和3年3月29日 頓首再拝>

愛の展開が天国である - 伝統

2021/03/30 (Tue) 02:16:21


           *「光明法語」(3月30日)より

吾々は原因結果の法則の中に生活しているのであるから、
その法則から免(まぬが)れることは出来ないのである。

「主よ主よ」と呼んでも神の心(即ち愛)を行じないものは
天国に入ることは出来ないとキリストも言っている。

「生長の家」の誌友名簿に登録されていても、
愛を行じない者は天国へ行く改札口を通されないのである。

愛とは単に天国へ行く通行券であるばかりでなく、愛の展開が天国なのである。
愛するところに天国はひらけ行き、憎み、さばくところに地獄は現出するのである。

            <感謝合掌 令和3年3月30日 頓首再拝>

愛するとは實相を信ずること - 伝統

2021/03/31 (Wed) 04:50:25


           *「光明法語」(3月31日)より

愛するとは可哀相だと思うことではない。

「汝、情(こころ)をつくし精神をつくし魂をつくし、力をつくし神を愛せよ」

と言っても、決して神を可哀相だと思えと云うことではない。

愛するとは、相手がどんなに見えようとも、
その實相の完全さを信じて敬(けい)することである。
可哀相だと思うことは、
「彼を無力者だと見る」即ち「彼を軽蔑する」ことになるのである。

「自己を愛せよ」と言っても自己憐憫することではない。
自己憐憫はむしろ悪徳であるが、
自己の實相の円満完全さを信ずる自敬の念こそ本当の自己愛である。

            <感謝合掌 令和3年3月31日 頓首再拝>

《神は慈悲の神、愛の神》 - 伝統

2021/04/01 (Thu) 04:54:19


      *「光明法語」(4月1日)より

先ず神を愛の神と知ることである。次の如く思念せよ。

「神は怒りの神、嫉妬の神、復讐の神、神罰の神ではないのである。
神は赦しの神、慈悲の神、やさしさの神、包容の神、
じっと愛の瞳をもって慈悲深く吾をみつめ給う神である。

その慈愛の前にすべてのわが悲しみも、怒りも憎みも、
すべての心の塊が溶けてしまうのである。
われは神の慈悲の前にすべての心の塊は溶けて消え、わが魂は悉く浄まったのである。
神がわれを赦し給うごとく、すべての人々の過ちを自分もゆるしたのである・・・」

            <感謝合掌 令和3年4月1日 頓首再拝>

ほんとうの愛と自己愛 - 伝統

2021/04/04 (Sun) 04:27:41


     *Web:宇宙の兄弟たちへ(2021年3月31日)より

人々のためを思ってする本当の愛とはどのようなものでしょうか?

それは人々の通る道や広場に、
花の種をまき、育てるような事だと思います。

それをした事で周囲の人に気づかれる事もなく、
周りから褒められる事もなくとも、通りすがる人の事を思って
美しい華を咲かせようとする努力のように思います。

ただ見知らぬ人の喜びを自分の事とし、
見返りを求めない行為が、本当の愛の行為だと思います。

誰かに褒められるわけでも、気づかれる事もなくとも、
ただ見知らぬ人の笑顔のためにする行為です。

自分に見返りが返ってくるかどうかを計算しない行為です。

「こうした事をすれば、人から褒めてくれるだろう」とか
「何か得がある」と思ってすると、その愛は色あせてしまいます。

ただ純粋に、人々の喜びを求めて行う事こそ、真の愛になります。

美しく咲く花を見て、それを手折って
自分を飾り立てるために使うのが、自己愛です。

自分を着飾り、人々から褒められたり、
称賛されんがためにする行為は、自己顕示欲という名の自己愛です。

しかし、ほんとうの神仏の願いに叶った生き方というのは、
無償の愛にあるのではないでしょうか。

自分を飾り立てる事ばかりに気を取られず、見返りも期待せず、
ただ淡々と喜びを広げていこうとする行為です。

肥料を加えて土を耕し、花の種をまき、水をやり、
そうして綺麗な花々を咲かせることで、
通りすがった人々の心に潤いを与えます。

  (https://www.spacebrothers.jp/2021/03/blog-post_31.html )

            <感謝合掌 令和3年4月4日 頓首再拝>

人間は愛するために生まれている - 伝統

2021/04/05 (Mon) 04:57:01


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月5日)」より

精神病の夫人が妊娠して子を産んだら、
その精神病が治ったというような例話が往々ある。
おそらくその時以前のその婦人の家庭は不調和なものであって、
彼女は愛に絶望していたのであろう。

子どもが生まれることによって彼女は愛したい欲望を満足させる対象ができたから、
彼女の愛したい欲望の不満足から起こる病気は治ってしまったのである。

愛するということは、
相手を生かすばかりではなく、自分をも生かすことになるのである。

人間は愛するために生まれている。生きるとは愛することである。
国を愛し、人類を愛し、民族を愛し、他人を愛し、家族を愛し、教え子を愛せよ。

みずから顧みて愛しなかった日ほど淋しいことはない。
病気が起こるのは、たいてい利己主義からである。

            <感謝合掌 令和3年4月5日 頓首再拝>

《“ 神は愛なり ” の祈り》 - 伝統

2021/04/08 (Thu) 03:32:15


        *『 生長の家 』(昭和49年4月8日の法語)より

   【 祈り 】

   【 私は“ 神の子 ”である。神は愛である。
   私の内に神さまの愛を実現するセンターがあるのである。

   それ故に私はすべての人間に対して、常に愛行を怠らず、
   愛行を実践するたびに生き甲斐を感ずるのである。

   ありがとうございます。 】

   生き甲斐というものは、自分自身が本来の生命の姿そのままに、
   それを歪(ゆが)めることなく、曲げることなく、抑える事なく
   発顕(はつけん)せしめ得たときに感じられるところの
   内部的“ 自覚感情 ”である。

   『 生命の實相 』の“ 生活篇 ”の中に一国の王子に生まれて、
   物質的には何不自由なく、求めて得られざるものとてもない
   裕(ゆた)かなる環境条件の中で育ちながら幸福感が得られないで、
   いつも悒鬱(ゆううつ)な顔をしているので

   父王(ふおう)が心配して、

   この王子の心を幸福感に充たされ生き甲斐を感じるようになるように
   善き智慧をかしてくれたる者があったら、褒美(ほうび)の金は望み次第だと
   いう布令を出したら、色々の案をもって来る者があったが、いずれも落第で、

   最後に最高の案をもって来たのは一人の魔法使であったが、
   彼は一枚の「あぶり出し」の白紙を置いて去った。

   それを火の上にかざして炙(あぶ)ると、その白紙にあざやかに、
   「 毎日必ず誰かに深切を施せ 」 という文字(もんじ)があらわれて来た。

   王子はそのように実行すると、生き甲斐の悦びが感じられ、
   顔は幸福感に充たされて悦びに輝いて来たという
   例話(れいわ)が書かれている。

   「 深切を施す 」ということは“ 愛 ”を実践することであり、
   神は“ 愛 ”であり、“ 神の子 ”たる人間の本質も“ 愛 ”であるから、

   愛を生活に生きるようにしたとき、
   自己の生命の本質を完全に生きることになるから
   生き甲斐が感じられて来るのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=125

            <感謝合掌 令和3年4月8日 頓首再拝>

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