伝統板・第二

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ひかりの一日一言64~生命と智慧とへの出発 - 伝統

2020/07/01 (Wed) 04:45:21

この「生命と智慧とへの出発」は
「眞理」第2巻基礎編第6章(P155~181)からの謹写です。



ひかりの一日一言《1日》

《1日 一週間でもよいから心を明るく感謝することを実行してみなさい》

神は光の神であり、無礙光の仏であり、暗(やみ)を照らす光である。
神の救いを受けようと思うならば、光の心を起さなければならないのである。

光の波長は光の波長を受け、暗(やみ)の波長は暗の波長を受けるからである。

「光の心」と云うのは「明るい心」である。
光明思想と云うのは人間を明るい心に導く思想である。

多くの病人は大抵暗い心をもっているのである。
暗い心は暗いもの、陰気なもの、病的なものを引き寄せるのである。
多くの病人は厭世家であり、厭世家は身体が弱いのである。

心が感謝で満たされ、明るい心になったとき、
どんなに自然療能が増加して、速やかに病気が癒えはじめるかは、
病人よ、それを1週間だけでも実行して見給え。

ただちにその効果がわかるのである。


          *「眞理」第2巻基礎編第6章(P155~156))より

       <感謝合掌 令和2年7月1日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《2日》 - 伝統

2020/07/02 (Thu) 04:15:04


《2日 自然療能の力》

ロイ・H・マッケイ博士はその著『自然療能を働かしめよ』と云う著書の中で、

「多くの人々は知らないでか、それとも信じたくないのか、
 病気の80%はただ寝床に行って適当な食物を食べるだけで
 何ら医者の処置なしに快方に赴くものであることを認めようとしないのである。

 これは外科のことにも当てはまるのであって、
 毎日驚くほどの人数が不必要にも外科手術を受けているのである」

と言っている。

このマッケイ博士は決して精神治療家でも心霊治療家でもないのである。
彼は有名なる外科医なのである。

そしてその序文に、
「本当は、こんな著書は自分は書きたくなかったのだが」と書いている。
いやいやながら本音を吐いたと云う意味である。


          *「眞理」第2巻基礎編第6章(P156)より

       <感謝合掌 令和2年7月2日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《3日》 - 伝統

2020/07/03 (Fri) 04:48:40


《3日 大自然の調節力に従いなさい》

苦痛のときに何よりも先きに、
吾々が振り向かなければならないものは、神であるのである。

明るい心をもって、
(悲しみつつでは、神の光の波長と波長が合わないのだ)
神に振向くことなのである。

肺臓も心臓も如何なる内臓も何もなかった卵細胞から、
この精密な肉体組織をつくり出したのは目に視えない神の力である。

その神の力(大自然の力と言っても好い)が、
あなたの内部に宿ってあなたの生命(せいめい)となっているのである。

その内部の力に頼ったら、
無いところからでも肺臓でも作る生命力であるから、
肺臓の空洞ぐらいは直ぐ埋める力がある筈である。

その他(た)の病気でも同じことである。
大自然の癒やす力の中には「正しい食欲」と云うのがある。

食欲が起らないのに、時間が来たと云って、食物をたべるのは
大自然が調節している生理作用を攪き乱すことになるのである。

多くの病気は、本当に空腹にならないのに
食物を消化器に押し込むことから起っている。


          *「眞理」第2巻基礎編第6章(P157)より

       <感謝合掌 令和2年7月3日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《4日》 - 伝統

2020/07/04 (Sat) 04:43:57


《4日 常に明るい寛大なる精神を養成しなさい》

明るい朗らかな心は健康に必要なばかりではなく、
富と繁栄にも必要なのである。

明るさは、幸福を呼ぶのである。
明るいところに人が集って行くのは、単にネオン灯や、
電灯の光の下に人々が集って来ると云うだけの意味ではないのである。

万物は明るい処で栄え、暗いところでは
ジメジメした菌類や蘚苔類が育つに過ぎないのである。

栄えようと思う者は、運命に対して呟くな。
運命に対して明るい微笑と感謝と、愛念とを送るようにせよ。
其処から、ゆたかなる供給の流れが、
あなたの運命に流れ入るようになるのである。

愛念と、感謝と、明るい微笑とは健康のために必要なばかりではなく
あらゆる運命の好転に道をひらく鍵であるのである。


          *「眞理」第2巻基礎編第6章(P158)より

       <感謝合掌 令和2年7月4日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《5日》 - 伝統

2020/07/05 (Sun) 04:23:32


《5日 すべての人に愛を注ぎましょう》

愛はすべてのものを一つに結合するところの神の力である。
吾々が地球の上に生活することが出来るのも
「万有引力」と科学者が名づけたところの「神の愛」のお陰に過ぎないのである。

科学的には「引力」の正体はわからないのである。

此の不思議な「物と物とが互いに引き合い結びあう力」は、
まだ人格的にまで進化していないところの、神の愛の力であるのである。

地球の愛の力(引力)が消えた刹那から、人間は足場を失い、空中に漂い、
否、真暗黒の無際涯の真空地帯に投げ出されるほかはないのである。

「愛」がこのように吾々の存在を支えていてくれ、
それによって吾々が安泰に生きていることができるのであると云うことを知るならば、
吾々はそのお礼にまた、愛をそそぐべきである。


          *「眞理」第2巻基礎編第6章(P158~158))より

       <感謝合掌 令和2年7月5日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《6日》 - 伝統

2020/07/06 (Mon) 04:46:10


《6日 神を知るなら恐れることはありません》

恐怖心は、すべての精神の正常な活動を麻痺してしまう働きをもっている。
恐れてはならないのである。

けれども単に「怖れてはならない」と教えられるだけで、
恐怖心が去るものではない。

併し、全能の神が今現にましましてあなたを護っていられることが判れば、
貴方は決して恐れることはないのである。

恐怖心を去るには常に

「われは神と偕に在り。神に護られてあり。
 如何なる悪も、吾れには近付くことが出来ない」

と瞑目精神統一して念ずるようにすれば、それを取去ることができる。

朝目ざめた瞬間にこの言葉を念じてから起き、
又、就寝の際にこの言葉を念じながら熟睡に入るならば
潜在意識にある恐怖心が除かれて大変効果があるのである。


          *「眞理」第2巻基礎編第6章(P159~160)より

       <感謝合掌 令和2年7月6日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《7日》 - 伝統

2020/07/07 (Tue) 04:41:58


《7日 事物が思うように行かぬ場合には》

西洋の諺(ことわざ)に、

「何かが行き詰って来たら、何かを与えることを考えなさい」

と云うのがある。

これは、釈尊の「飢饉のときほど托鉢せよ」と云う言葉に匹敵する警句である。

凡(およ)そ物事が行き詰っているのは、
つかんでいて放たないところがあるからである。

これは金銭をつかんでいる場合もあれば、
愛を与えることなしに、自分の献ぐべき筈の愛や労力や献身を与えないで
差し控えている場合もあるのである。

また感謝を与えることを忘れて与えないでいることもある。

では、みずから反省して見て自分は何を与えることを差し控えておったかを反省し、
今まで与えないでいたところのものを惜しみなく与えることにして御覧なさい。

無限の供給は滔々としてあなたに流れ入って来ることになるのである。


          *「眞理」第2巻基礎編第6章(P160~161))より

       <感謝合掌 令和2年7月7日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《8日》 - 伝統

2020/07/08 (Wed) 04:46:17


《8日 欠点を気にしてはならない》

権威をもつ人に面接するのを恐怖する人があるけれども、
そんな恐怖心は結局、あらざるものをありとする妄想から起るに過ぎない。

何故(なぜ)なら真に偉大なる人格は、愛に満ちており、
決して人を排斥することはなく、また人を害することもないからである。

あなたが何物かを恐れるならば、それは唯(ただ)妄想に過ぎない。

何故なら人間は神の子であって、完全に自由であって、
何物にも害されることなく何物にも支配されることがないのが
人間の実相であるからである。

何者もまた何物も、あなたの幸福を奪うことは出来ない。

何処(どこ)かに傷口のある人は
常に心にその傷口のみを心にとめるから治りにくいのである。

欠点もその通り、その欠点を気にかけると治りにくい。


          *「眞理」第2巻基礎編第6章(P161)より

       <感謝合掌 令和2年7月8日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《9日》 - 伝統

2020/07/09 (Thu) 04:31:39


《9日 「既にわが事は成れり」されば急がずに懶けずに》

人生は永遠である。
個人の生命(せいめい)も永遠である。

「死」はないのである。
だから何事も急いではならないのである。

では懶(なま)けてよいかと云うと、決してそうではないのである。
懶けている時間は生命(せいめい)の停止である。
生命(せいめい)の停止は「死」である。

与えられた「死」はないけれども、
自発的に生命(せいめい)を停止させたときは「死」である。

では「死」をいとう者は懶(なま)けてはならないのである。
懶(なま)けずに、しかも急がないのが好いのである。

急ぐと、生命(せいめい)が乱動し、乱動すると躓いて、
良き仕事が出来ないのである。

当たり前の、そのままの心で、しかも物事は手早く迅速にたゆみなくやる。
これが生命(せいめい)が充分生きる道でもあれば、
また物事を過(あやま)たず成就する道である。

急がないためには、「既にわが事は心の世界に於て成れり」と信ずることである。


          *「眞理」第2巻基礎編第6章(P162)より

       <感謝合掌 令和2年7月9日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《10日》 - 伝統

2020/07/10 (Fri) 04:23:54


《10日 受働を転じて主働とせよ》

「悟りの生活」と云うものは、
みずからがみずからの主働者となると云うことである。

キリストの「汝の右の頬を打つ者あらば、左の頬をもめぐらせて打たせよ」
と云う教えは、決して柔弱に手向かう力なく受け身になっておれ
と云う意味ではない。

「汝の右の頬を打つ者」が出て来ただけでは、そこまでは受身(受働)である。
自ら「左の頬をもめぐらせる」ところになって、
受働が主働(主人公としての働き)に変って来るのである。

最早、彼に《打たれる》(受け身)ではなくして、
《みずから打たせる》(主働)のである。

賃金を貰って、仕事は嫌だけれどもやっている状態は、
仕事を賃金でさせられている「受働」である。

賃金以上に働いた部分だけがみずから生きたので「主働」である。


          *「眞理」第2巻基礎編第6章(P162~163)より

       <感謝合掌 令和2年7月10日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《11日》 - 伝統

2020/07/11 (Sat) 04:33:03


《11日 神はあなたの内にある》

「神さまがよいようにして下さる」
こう考えて、何事も抛(な)げやりにして置くのが
信仰の生活ではないのである。

神は「法則」である。

「法則」のあらわれは「秩序」であるから、
「秩序」ある生活を営むことが、其処に自分を通して
神が生き給うことになるのである。

「神の国は汝の内にあり」とイエスが言われたように、
その汝の内に「神の国」があり、其処に「神」がい給うのであるから、
その「神」を働かして何事でもシッカリと行うことが、
「神が良くして下さる」ことなのである。

いくら神様に祈っても、
外なる神は時計の捩子(ねじ)一つかけては下さらないのである。

自分の内に神があり、その神を働かすとき、
偉大なる御業(みわざ)を成し就(と)げることが出来るのである。


          *「眞理」第2巻基礎編第6章(P163~164))より

       <感謝合掌 令和2年7月11日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《12日》 - 伝統

2020/07/12 (Sun) 04:31:39

《12日 求めよ、而して行動せよ、さらば与えられん》

嘗て或る人が食堂に入って行(い)った話を思い出しましょう。
其処には多勢(おおぜい)の人々が食事をしていました。
其人(そのひと)は今に自分にも適当な飲料と食料が来るであろう
と思って待っていました。

ところが、いつまで経っても一杯の飲料も一皿の食物も出て来ないのです。
何故、この人には一杯の飲料も一皿の食物も来ないのでしょうか。
それは彼が言葉で註文しないからです。

それと同じことが此の世界なのです。

若し吾々が心の中に、或は言葉に出して
(心の中<うち>に思うことも心にコトバを出すことです)
欲するものを唱えなければ欲するものは出て来ないのです。

勇敢に欲するものを言葉に出して、
「われこれを求む、神は必ずこれを与えたまう」と常に念ずることです。

そして其処に出された食物を食べることです。


          *「眞理」第2巻基礎編第6章(P164~165)より

       <感謝合掌 令和2年7月12日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《13日》 - 伝統

2020/07/13 (Mon) 04:35:14


《13日 この順序で成功を期してやりましょう》

すでに食堂の配膳台には自分の欲するものが列(なら)んでいるのに、
それを言葉で求めなければ自分の前に出て来ないし、
又それが食卓に出て来たにしても、その食物(しょくもつ)を
自分がたべなければ本当に自分のものにはならないのです。

「自分がたべる」と云うことは、自分が行動に移すことであります。

(一)欲するものを定(さだ)め、
(二)それを心に念じ、言葉にあらわし、そして
(三)行動を起すこと、

これが何事でも成就するために必要な三つの条件である。

例えば

(一)幼い時から、「わたしは文学者になろう」と決心し、
   欲するものを定(さだ)めたとします。

そして
(二)文学雑誌や同人雑誌に投書でもしていますと、
   常にそれを心に念じ言葉に表現しているのです。

そして
(三)必要な行動をとる。どこかの大学の文科に入学するとか、
   せっせと制作に従事するとか。・・・・


          *「眞理」第2巻基礎編第6章(P165~166)より

       <感謝合掌 令和2年7月13日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《14日》 - 伝統

2020/07/14 (Tue) 04:36:29


《14日 人間の生命(せいめい)にも色々の時代がある》

蚕(かいこ)がまだ芋虫のような状態であるときには、
彼は、桑の葉が最も美味(びみ)なる食物(しょくもつ)であり、
それを食べる事が、彼の最も大なる関心事であったのである。

そのうちにかれは桑の葉を食べるのに興味がなくなってくるのである。
彼は何もたべないで、口から美しい糸を吐き出しはじめる。
これは聖なる生命(せいめい)の内部からなる催しなのである。

人間も或る時代には物質を求める仕事に熱中するのであるが、
それがトンと興味がなくなる時がくる。
それは既にその仕事によって得られる魂の体験を卒業したのである。

桑の葉を食べる時代は物質を得ることを喜ぶ時代である。
口から絹糸を出す時代は他(ひと)に良き物を与えるのを喜ぶ時代である。

その時代が過ぎると、かれは羽(はね)が生(は)えて羽化登仙する。
人間の魂も、これに似た時代を通過するのである。


          *「眞理」第2巻基礎編第6章(P166))より

       <感謝合掌 令和2年7月14日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《15日》 - 伝統

2020/07/15 (Wed) 04:35:44


《15日 実相を観るということ》

人を見るのに外見をもってしてはならない。

人間の実相を観ると云うのは、人間の肉体や衣服は仮りの相(すがた)であって、
「人そのもの」ではないと云うことを知り、
その奥に宿っているところの「神の生命(せいめい)」(仏教的に謂えば「仏性」)を
観ると云うことなのである。

何人(なんぴと)も神の自己顕現として、
自己の内に「神」を蔵しているのである。
これこそが「真の人間」であるのである。

そしてその「内部の自己」が「神」であることを自覚し、それを尊敬し、
その如く生きようと努力するとき、自分の性格も環境も健康も改まりはじめるのである。

そして他(た)の人の「内部の自己」が矢張り「神」であり、
完全であることを心で一心に観て、それを尊敬し合掌礼拝するようにするとき、
その「他(た)の人」が礼拝されるに相応わしい立派な人間となって顕れてくる。


          *「眞理」第2巻基礎編第6章(P167)より

       <感謝合掌 令和2年7月15日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《16日》 - 伝統

2020/07/16 (Thu) 04:19:32


《16日 悪があらわれても悪を見てはならない》

若し誰かが悪いことをしたと云う報告が来たならば、
すぐその人を悪しざまに思うことなく、
又、叱ったり、怒鳴ったり、罵(ののし)ったりすることなしに、

「悪く見えたその相(すがた)」は仮りの相であって実相(じつのすがた)ではないこと、
彼の実相(じっそう)は完全円満であって決して悪い事をするような人でないことを、
じっと心に描いて念ずるようにするのが好いのである。

やがて彼の悪い相(すがた)は消えて完全な相(すがた)があらわれ始めるのである。
若し何か面白くない事件が起ったならば、
「今はあの事件は悪いような相(すがた)をあらわしているけれども、
あれは途中の経過であって、必ず良くなるより仕方がない」と念じて、

最善の努力を尽すならば、その事件は必ず好転して、
好い結果を生むようになるのである。

併し事情が好転するように誠心(まごころ)をつくして努力することを忘れてはならぬ。


          *「眞理」第2巻基礎編第6章(P167~168))より

       <感謝合掌 令和2年7月16日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《17日》 - 伝統

2020/07/17 (Fri) 06:16:29


《17日 誰かが病気である場合には》

若し、あなたの家族の誰かが病気であるならば、
病気のことについて気を揉んではならないのである。

医者をすぐ呼んで、
「此の医者は天の使であって、神の愛のあらわれである。
 必ず過(あやま)たずに適当な処置を講じて下さるに違いない」と念じて、

其の医者の実相が「神の愛」であること、
その処置は、神の愛が現象化してあらわれるに必要にして適切なる過程である
と云う事を信じて、医者の実相を拝むようにしているならば、
屹度そのように医者の処置は過たず、完全な処置がとられて
健康を速やかに恢復し得るようになるのである。

同時に、患者に対しても
「この人は神の子であり、完全であり、健康である。
 今その完全さが愈々益々明らかにあらわれつつある」と念ずるときには、
その完全健康なる実相が一層速やかにあらわれて来るのである。


          *「眞理」第2巻基礎編第6章(P168~169)より

       <感謝合掌 令和2年7月17日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《18日》 - 伝統

2020/07/18 (Sat) 04:44:31


《18日 心で病気を癒やすには》

若しあなたが、実相の完全さを観ずることによって
自分の病気を、又は他(た)の人の病気を癒やそうとお考えになるならば、
その実相を観ずる神想観(又は思念方法)を行う直前以外には
決してその病気のことを語ったり思ったりしてはならないのである。

実相を観ずることによって病気が治る原理は、

「観ることは創造ることである」
「思うことは表現される」

と云う哲学的真理である。

だから、神想観(又は思念療法)の時に、折角、
「人間の完全な実相」を観じ想念しながら、
すぐあとからその「病気の仮相(すがた)」を観じ想念するならば、
これは全く打ち消しになってしまうのである。

何でも悪いことは観ず思わず、良い事のみを見詰めれば、
上手な手本を見詰めながら習字をすれば習字が上手になるように、
健康も改善されて来るのである。


          *「眞理」第2巻基礎編第6章(P169~170)より

       <感謝合掌 令和2年7月18日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《19日》 - 伝統

2020/07/19 (Sun) 04:38:06


《19日 ただ実相の完全さのみを心に観ぜよ》

写真を撮影して、それを現像し出すまでには、
他(た)の光線に照らしてはならないのである。

それと同じく、実相を観じて、実相の完全な相(すがた)を観じて、
心にそれを印象したならば、それが現象界にあらわれるまでに、
他(た)の不完全な相(すがた)を印象せぬようにすることが必要である。

すなわち「既(すで)に自分は神の子で健康である」と神想観中に念じたならば、
その神想観を終ってからでも、

「自分はやはり病気が治っていないのではないか」
「もっと悪くなるかも知れない」

などと取越し苦労や、心配をしてはならない。

そんな取越し苦労や心配をすることは病気の念(こころ)の想(おもい)を、
あらためて二重写しにすることになるから、あらわれて来る現象の相(すがた)も、
健康と病気とが二重写しになっていて、やはり病気の相(すがた)が消えないのである。


          *「眞理」第2巻基礎編第6章(P170~171)より

       <感謝合掌 令和2年7月19日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《20日》 - 伝統

2020/07/20 (Mon) 03:40:09


《20日 たましいが悦びに満たされたら麻酔剤は要らない》

人間は本来、アルコール飲料やモヒ剤やニコチン含有の煙草などを
必要としないのである。

これらを必要とするのは、心のうちに、愛されたい、心が平和でいたい、
喜びに満たされたい、賞められたい、認められたい、いたわられたいなどの
願いがあるのに、それが叶えられないから、自分の心を麻酔せしめようとして、
そのような麻酔剤や覚醒剤をもとめるのである。

覚醒剤も一種の麻酔剤であって、疲労や倦怠を感ずる脳中枢を麻酔させるから、
一時、心がハッキリして愉快に感ずるのである。

家庭の不和は最も多くアルコール飲料を求めしめる原因になるものである。
霊魂(たましい)が悦びに満たされているときには、霊は伸び伸びとしているから、
肉体の欲望の奴隷にはならないものである。

人間が肉体的快楽を異常に求めるようになった時、
その人は霊魂(たましい)が愛に飢え渇いているのである。


          *「眞理」第2巻基礎編第6章(P171~172)より

       <感謝合掌 令和2年7月20日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《21日》 - 伝統

2020/07/21 (Tue) 04:22:32


《21日 神のみ心の中には悪はない》

神が人間に対して望みたまう處の御意(みこころ)は、
人間の幸福と健康と裕かさと善徳とである。

神が人間に対して不幸や病気や貧乏を望み給うものである
と考えるのは、間違である。

信仰篤いと考えられている人間が、ともすれば受難礼讃に陥って、
人間は苦しまなければ神は喜び給わないのだと考えて苦行をしたり、
病気や不幸に陥ったとき、「み心の如くならしめ給え」と祈って
、恰も「み心」の中に病気や不幸があるかの如く考えているらしいのは、
まことに残念なことであるのである。

病気、不幸が見舞って来た時、「み心の如くならしめ給え」と神に委ねるのは、
病気、不幸は、み心に反した「我」の心のあらわれであると悟り、
み心にまかせたら病気や不幸がおのずから解消することを知って、
神にまかせるのでなければならぬ。


          *「眞理」第2巻基礎編第6章(P172)より

       <感謝合掌 令和2年7月21日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《22日》 - 伝統

2020/07/22 (Wed) 04:42:30


《22日 愛他行のうちで最も大切なのは「真理」を与えること》

真理で救われたならば、その真理を人々に宣べ伝えよと云うのは、
他(た)を救うことになると同時に、自分自身の魂を
一層完全に救うことになるからである。

何故なら自分の魂が救われるのは愛他行の中にあるからである。
愛他行のなかでも、物質を他(た)にほどこす物施(ぶっせ)よりも、
何物が来ても畏れなくなる無畏施即ち真理を他(た)に施すことは
最高の愛他行である。

これによって、他(た)の人は救われ、自分の魂は一層向上するのである。

現代は印刷術が発達しており、教育が行きとどいていて
文字の読めない人は殆どいないのであるから、
簡単な真理の書物を他(た)の人に与えたり、貸したり、勧めたりするだけで、
どれだけ多くの人々が救われるか知れないのである。


          *「眞理」第2巻基礎編第6章(P173)より

       <感謝合掌 令和2年7月22日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《23日》 - 伝統

2020/07/23 (Thu) 04:43:51


《23日 悪魔は存在しないのである》

唯(ただ)善のみなる「神」以外の何者かが存在すると考えることは
間違った考えであり、正しい信仰ではないのである。

古き、曲解されたるキリスト教に於いては、神と悪魔とが相対立して
争っているなどと云う信仰をもっているのであるが、
神以外に何者かが存在すると云う事になるならば、
神は絶対者ではなくなるのである。

神と悪魔とが、恰も某(あ)る国と某る国とが対立している如く、
対立して争っていると云う信仰から人生に不幸が起って来るのである。

「悪魔(サタン)よ去れ!」と云う言葉は、
「悪魔は無い!」と云う意味を行動的に言いあらわしたものに過ぎないのである。

悪魔と云うのは「自分の心が物質的なものに執われた状態」を
擬人化して表したものである。


          *「眞理」第2巻基礎編第6章(P173~174)より

       <感謝合掌 令和2年7月23日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《24日》 - 伝統

2020/07/24 (Fri) 04:31:55


《24日 何故不幸が此の世にあらわれるか》

若し、善なる神以外の何者かが存在すると云う考えが
微塵でもあなたの心のうちにあるならば、
何らかの恐怖心があなたの内に培われることになるのである。

その恐怖心が「恐るるものは皆来(きた)る」と云う心の法則によって、
その恐れていたところの「何物」かを此の世の中に
現象(うつ)し出すことになるのである。

神のみが実在であり、神のみがすべて存在するものの原因である。
「悪」と見えるものは非存在を、仮りに「ある」として
我らが心に描いた妄想である。

妄想は夢みたいなものであって、
心的体験としては「ある」として感じられるけれども、
本当は無いのである。

病気も不幸も貧乏も災難も、それは心が描いた影である。
影でも順序を追って出てくるのは映画でも順序を追って出て来るのと同じである。


          *「眞理」第2巻基礎編第6章(P174~175)より

       <感謝合掌 令和2年7月24日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《25日》 - 伝統

2020/07/25 (Sat) 04:22:12


《25日 人間を物質だと思ってはなりません》

人間は物質的存在ではなく霊的存在であって、
心によって萬(よろ)ずのものをあらわし、
又萬ずの物と関係をもち、万ずのものを引き寄せるところの主人公である
と云うことを知ることが「人生を支配する主人公」となる第一歩なのである。

人間を本来物質の塊(かたまり)であり、
アミーバから進化したところの猿の同族だ位に考えているならば、
やはりそれだけの力しか出て来ないのである。

人間を「物質」だと云う概念は、時間空間に制約されたる不自由な存在であり、
古くなれば脆(もろ)くなるものだと云う物質的属性を人間に連想せしめることになる。

そして心に思う通りにあらわれるのが、心の法則であるから、
そう云う考えをもっている限りに於いて、人間自身は脆(もろ)くなり、
老衰し黴菌に蝕まれ、病気となり、死を速めるのである。


          *「眞理」第2巻基礎編第6章(P175~176)より

       <感謝合掌 令和2年7月25日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《26日》 - 伝統

2020/07/26 (Sun) 04:03:49


《26日 先ず「心」を変えて御覧なさい》

貧乏や病気や不幸は存在しないと云っても、
それは体験として感じられるものであるから、それを否定するのは
人生を否定するものだと云う反対論をとなえる人もある。

けれども、「体験」とは一体何であろうか。
「心」が原因であり、「体験」は結果なのである。

だから「心」が変化するならば「体験」も変化して来るのであるから、
「体験」と云うガッチリした不変の塊が存在すると云う訳ではないのである。

あなたの心を一変させて御覧なさい。
家族同士の間は実に仲良く楽しい状態になります。
会社のすべての人に喜ばれるようになります。

昇進が早くなります。
思わぬ資本家が来て新しい事業を勧めてくれたりします。
商売に新しいルートが開かれ、すべてが好都合にまいります。

このように心が変われば体験がかわるのであるから、
体験として如何に貧乏や病気や不幸が感じられていても、
それは「無い」と断言して差し支えないのである。


          *「眞理」第2巻基礎編第6章(P176~177))より

       <感謝合掌 令和2年7月26日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《27日》 - 伝統

2020/07/27 (Mon) 03:42:22


《27日 神に対面することは如何に楽しいことか》

毎日1回は神様と直接接触する時間をつくろうではありませんか。

あなたは毎日父母又は夫又は子供又は召使(めしつかい)又は
会社官庁の上役、同僚、又は下役に接触します。

しかし、神様に直接ふれる時間をお持ちにならないのはまことに
残念なことなのであります。

神想観は人間が意識的に神に接触する最も荘厳なる行事であり、
その時間こそ1日の内で最も神聖な楽しい時間でありますのに、
何故多くの人は、それを懶(だる)い、退屈な、面倒くさい時間などと
考えるのでありましょうか。

それは神想観を神と直接対面する荘厳な時間だと知らず、何か自分の心で
「物(もの)」を製造したり、現世利益を得るための方便だ位に考えて
いるからではないでしょうか。

恋人に逢うのが楽しい位なら、神に直接対面する時間が
楽しくない筈(はず)はないではありませんか。


          *「眞理」第2巻基礎編第6章(P177)より

       <感謝合掌 令和2年7月27日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《28日》 - 伝統

2020/07/28 (Tue) 04:46:59


《28日 人間の価値について》

過去を嘆いてはならないし、又、過去を誇ってはならないのである。

過去にどんな悪いことがあろうとも、
「今」のあなたではないのである。

過去にどんな善いことがあろうとも
「今」のあなたではないのである。

人間の価値は、「今」あなたが「如何にあるか」の問題である。

人間の価値は「今」あなたが「何を所有するか」の問題ではないのである。
「所有物」をその人間の価値だと思ってはならない。
「所有物」は「人間」そのものではないのである。

「人間」そのものは「神の子」である。

「人間」とは何ぞやを先ず知らなければならない。

あなたの「境遇」が何処(どこ)に今あろうとも、
それは航行する船の「海上」のようなものである。

どんな境遇にいるかで価値が定(き)まるのではなくて
その境遇で如何に処するかで価値が定まるのである。


          *「眞理」第2巻基礎編第6章(P178)より

       <感謝合掌 令和2年7月28日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《29日》 - 伝統

2020/07/29 (Wed) 04:39:08


《29日 あなたの魂の平和を護りましょう》

外に起った事を嘆いて、
自分の最も大切な魂を傷つける事は実に愚かなことである。

外界に何が起ろうとも、貴方がそれによって心を動かしさえしなければ、
貴方は外界の何物にも傷つけられる事はないのである。

吾らは外に起った事を知ることは出来ないので、
自分の心の中に起ったことを感ずることが出来るだけである。

外に起ったことを知っているかの如く見えても、
実は、外に起ったことを契機として起った
自分の心の中の動きを知っているだけである。

だから自分の心さえ悦べば、外界に何が起ろうとも悦べるのである。

外界の何物にも動かされず、
毅然として自己の内の魂の平和を護り得る者は強者である。


          *「眞理」第2巻基礎編第6章(P178~179)より

       <感謝合掌 令和2年7月29日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《30日》 - 伝統

2020/07/30 (Thu) 03:25:02


《30日 客観世界は自分の心の具象化である》

この世界は波動の世界であって、
波動が形にあらわれて映画のようにあらわれているのである。

其処には類似の波長のものが相集って来て、
それがやがて形にまで実現するのは、テレビのようなものである。

その波動を招(よ)びよせるのは、自分の心の波長であるから、
謂(い)わば自分の心の波動の具象化が客観世界であるのである。

だから自分の心を変化せずにおって客観世界を変化しようと思っても、
決して客観世界は変化しないのである。

位置を変え、場所をかえて見ても
矢張り同じような状態が其処にあらわれるのは、
自分の心の波長と同じものを引き寄せるからである。

習慣的に如何なる波長を自分が起しているかそれが問題である。

常に神想観して心の習慣的波動を明るくしなければならぬ。


          *「眞理」第2巻基礎編第6章(P179~180)より

       <感謝合掌 令和2年7月30日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《31日》 - 伝統

2020/07/31 (Fri) 04:23:28


《31日 先ず原因を攻撃せよ》

あなたが逆境と闘っていながら、
その逆境が何としても順境に転回しないのは、
「逆境」そのものと闘っているからであって、
逆境の原因であるところの自分の心の状態を改めないからである。

「逆境」そのものは、病気で言えば症状みたいなものであって、
それと闘うのは対症療法であって、
例えば解熱剤を使うのと同じようなものである。

解熱剤を使って一時熱が引いても又発熱して来るのは、
病根が除かれていないからである。

解熱剤を使わないでも病気の根が断たれれば自然に熱が下がるのである。

それと同じように「逆境」の原因であるところの「念(こころ)」を
変化すれば、「逆境」は順境にかわるのである。

想念を改めれば自然に環境は好転する。


          *「眞理」第2巻基礎編第6章(P180~181)より

       <感謝合掌 令和2年7月31日 頓首再拝>

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