伝統板・第二

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放てば、自由③ - 伝統

2020/06/27 (Sat) 04:33:54

放つということ

        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月27日)より

一度放(はな)してもまた知らぬ間に握っていることがある。
そしてその時は握ったと気がつかないで放したつもりでいるのだから始末が悪い。

放つということはよほどむつかしい。
物を放したら、いつの間にかまた「無(む)」を握っている。

なんにも無いということは「一切が常にある」ということを知ることである。
「《一つだけ》がすでにある」ように思ったり、
「ある特定のものだけ」があるように思ってことさらに執しているのが執着である。

一つを放しても、どの特定が逃げ出しても、
「すでに無限のものが与えられている」と知るのが智慧である。

・・・

<関連>

(1)光明掲示板・第一「無執着 (9518)」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1806 (消滅)

(2)光明掲示板・第三「無執無縛 (1208)」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=250

(3)光明掲示板・伝統・第一「放てば、自由」
    → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=20

(4)伝統板・第二「放てば、自由①」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6464501

(5)伝統板・第二「放てば、自由②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7082385

           <感謝合掌 令和2年6月27日 頓首再拝>

執着を脱して始めて自由 - 伝統

2020/07/06 (Mon) 04:48:39


        *「光明法語」(7月6日)より

「我はいと勝(すぐ)れた者である。一切のものに執着しない。
慈愛(じあい)悉(ことごと)く解脱してみずから覚(さと)る」。

これは釈迦が菩提樹下で悟りを開いていと静かに鹿野苑(ろくやおん)の方へ歩まれた時、
異学の優陀(うだ)と云う者が、釈迦の容貌気色清浄(ようぼうけしきせいじょう)
妙(たえ)にして面光照りわたりたるを見て訊ねた時に答え給うた言葉の一節である。

「われはいとすぐれたる者だ」とみずから宣言せられたのであるが、
その何がいと優れたる者であると云うと、
一切のものに執着しない事、あらゆる愛を盡(ことごと)く解脱していることであった。

           <感謝合掌 令和2年7月6日 頓首再拝>

空想による自縛を解き放つ - 伝統

2020/07/10 (Fri) 04:32:37


          *「光明道中記」(7月10日 迷い本来無しと知る日)より

【「本当の自分」の金剛不壊の実相が解って来たら、人間は本当の自由を得る。(『完成の聖書』)】

四祖道信は、仏道の天才であった。
まだ幼い十三歳にして、解脱を求めて三祖僧璨(そうさん)に見(まみ)えて教えを
教えを乞うたとある。

僧璨(そうさん)は、「まだ幼い身で、お前は私に何を求めようと言うのじゃ」
とたずねた。

「師よ、わたしは解脱を求めているのでございます。どうぞ魂の自由になるように法を説いて下さい」
と道信は熱心である。

「お前解脱を求めるのか。解脱させてあげるから、その縛っているものを教えなさい」

「誰も縛っている者はありませぬ」

「縛られていなければ、解脱すべき何ものもないではないか」

「はい、わかりました。自分の空想で自分を縛っておりました」

十三歳の道信はこれでハッと悟ったのである。
その後、僧璨(そうさん)に師持すること九年、
ついに衣鉢を伝えられて四祖となったのである。

自分の空想で、自分を縛っているものが『迷い』であり、『罪』であり、『病』である。
これを知れば身に患(わずら)いはなくなるのである。

           <感謝合掌 令和2年7月10日 頓首再拝>

遮二無二 頑張る心を捨てよ - 伝統

2020/07/18 (Sat) 04:55:38


       *『生長の家』(昭和25年6月6日の法語)より

遮二無二 頑張る心を捨てよ。

安らかに落ち着くべし。

吾自身を静かに、静かに自分を落ちつかせることが
まず神を自分に実現する方法の第一である。

まず肉体をゆるめよ。

凡ゆる筋肉の緊張をとれ。

ふわりとそのままの状態になれ。


力を抜き 唯(ただ)そのままに横たわるのである。


そして 静かに 神の癒やす力 吾に流れ入りつつあると
心に念じながら静かに呼吸せよ。

鼻より静かに息を吸い
臍下丹田(せいかたんでん)にいたらしめ
胸をくつろげて 胸の全部に神の生命を流れ入らしめ、

「 神の生命 今 吾に流れ入りて 吾がすべてを癒し給う 」 と念じて

静かに迷いを吐きだす如く息を吐くのである。

           <感謝合掌 令和2年7月18日 頓首再拝>

お金への「執着」を手放す - 伝統

2020/08/02 (Sun) 03:32:47


        *『つかまない生き方』大木ゆきの・著(P62~63)より 

どうして魂の歓びがご主人様になると、
お金が流れ込むようになるのか不思議に思ったかもしれないね。
でもそれにはちゃんと理由があるんだよ。
 
意識の周波数を上げて、宇宙の創造の源までいった覚者たちが、
みんな一様に体験していることなんだけど、そこには至福しかないんだよ。
何しろこの無限なる宇宙を生み出した創造の源だからね。

何も足りないものなんてないのさ。
すべてある。
満ち足りている。

それどころか、その豊かさはあふれ出し広がっている。
満ち足りているっていう言葉を超えるほど、満ちている。
それが宇宙の創造の源にある至福なんだ。
 
魂の歓びっていうのは、その至福の周波数なんだよ。
つまり、創造の源にある無限の豊かさと同調するってこと。
周波数が合えば、宇宙の無限の豊かさが
あなたにも流れ込んでくるのが宇宙の法則なんだよ。
 
それは、前にも言ったけど、FM豊かさの周波数に合ったとたんに、
ラジオから豊かさ放送が流れてくるのと同じことなんだ。
 
だけど、「お金をどうしたら稼げるようになるんだろう」って
深刻になっているときには、「FM豊かさ」じゃなくて、
「FMお金に振り回される」に周波数が合っちゃうんだな。
 
だから、魂の歓びを中心に据えた生き方に転換した方が、
お金も楽に流れ込んでくるようになるんだ。
それにそのお金は、みんなを幸せにするお金になってくれる。
 
世の中にはオレオレ詐欺みたいなことをして
お金をだまし取っている連中もいるけど、
お金自体は流れ込んできても、それは幸せの連鎖ではなく、
不幸や悲しみの連鎖を作り出す。

そうなると、一時的にお金が手に入ったとしても、
その人々の悲しみで膨らんだお金が流れ込み、
結果その人も大きな悲しみに見舞われることになる。
 
前の項目でも言った通り、お金があれば必ず幸せになれるわけではないんだよ。
 
魂の歓びという真の幸せがご主人様になるとき、
そのご主人様に従ったお金が流れ込み、自分だけでなく、
周りの人も幸せにしてくれるんだ。

           <感謝合掌 令和2年8月2日 頓首再拝>

行き詰っているのは、つかんでいて放たないところがある - 伝統

2020/08/20 (Thu) 05:00:47


          *「眞理」第2巻基礎編第6章(P160~161))より
            ~《事物が思うように行かぬ場合には》

西洋の諺(ことわざ)に、

「何かが行き詰って来たら、何かを与えることを考えなさい」

と云うのがある。

これは、釈尊の「飢饉のときほど托鉢せよ」と云う言葉に匹敵する警句である。

凡(およ)そ物事が行き詰っているのは、
つかんでいて放たないところがあるからである。

これは金銭をつかんでいる場合もあれば、
愛を与えることなしに、自分の献ぐべき筈の愛や労力や献身を与えないで
差し控えている場合もあるのである。

また感謝を与えることを忘れて与えないでいることもある。

では、みずから反省して見て自分は何を与えることを差し控えておったかを反省し、
今まで与えないでいたところのものを惜しみなく与えることにして御覧なさい。

無限の供給は滔々としてあなたに流れ入って来ることになるのである。

           <感謝合掌 令和2年8月20日 頓首再拝>

一切の形式を心から放って自由自在になる - 伝統

2020/08/22 (Sat) 04:27:43


       *「光明法語」(8月21日~22日)より

八月二十一日の法語 神は五感も六感も超越せり

「神は五感を超越している、六感も超越している」と『甘露の法雨』は説く。
五感とは眼耳鼻舌身の五つの感覚である。

感覚そのもでは神はわからないが感覚を契機として、
感覚以上のものに超入することは出来るのである。

感覚を通して天地万物、生理作用等の秩序整然たる運行等を見て、
その奥に神あると悟るは是甚(これはなは)だよしである。

六感とは霊眼、霊聴、霊臭、霊味、霊触の如きものであって、
普通の感覚器官以外の方法にて、視、聴き、嗅ぎ、味わい、触覚する如きものである。

・・・

八月二十二日の法語 無相にして無限相

霊眼で白髪の老翁の神姿(かみのすがた)を見たとか、
霊触で神の衣に触れたとか云う如きを六感と言うのでるが、
これは神そのものを見たのではなく、神の化身(けしん)を見たに過ぎない。

神は、かくの如き六感を超えた存在であり、相(すがた)形(かたち)なくして、
一切の相(すがた)を現ずるのである。

これを無相にして無限相と呼ぶ。

吾々も神の自己顕現である以上、
無相にして無限相を顕ずる事を心掛けなければならない。

無相とは一つの形に執しない事である。
一切の形式を心から放って自由自在になる事である。

           <感謝合掌 令和2年8月22日 頓首再拝>

愛と称して相手を縛るものは煩悩に過ぎない - 伝統

2020/09/23 (Wed) 04:46:39


       *「光明法語」(9月23日《愛と執着とは異なる》)より

小鳥をして籠の中に押し込むのは真の愛ではない。
それは執縛であり執着である。

日本の言葉は執縛をも執着をも、
ともに「愛」と云う語をもって呼ぶことがある。

それ故に、「愛する」と言いながら相手の生命を縛ってしまい、
相手の生命を伸びられなくしてしまい、
相手の生命を殺してしまうことさえ往々ある。

多くの母親は子供を愛するが故に執着し、
心配して、子供の病気を重からしめたりすることが往々あるのである。

愛すると称して自分の自由に相手を縛るものは煩悩に過ぎない。

           <感謝合掌 令和2年9月23日 頓首再拝>

真の愛は放つ - 伝統

2020/09/24 (Thu) 03:42:35

    *「光明法語」(9月24日)より

真の愛は放つということである。
そのものの生命(いのち)のままにそのものを行かしめることである。

朝顔の蔓(つる)に牡丹の花を咲かせようとすることではない。
小鳥を籠の中に閉じ込めることではなく、自由に山野に放つが如く、
自分の子供を放つと云うことである。

個人個人は神の創造の一つ一つの中心であるのである。

個人個人の自由を縛るのは、
神の創造の一つ一つの中心を束縛すると云うことである。

それは個人に対する冒涜であるばかりでなく、
神の創造のみわざに対する冒涜である。

           <感謝合掌 令和2年9月24日 頓首再拝>

個性は神の表現、縛る心を起してはならぬ - 伝統

2020/09/28 (Mon) 03:37:28


    *「光明法語」(9月28日《個性を通じての表現》)より

神は自己を表現するのに、
普遍であるばかりでは自己を表現することはできないのである。

普遍に満ちているものは空気の如く、エーテルの如く、
それは何らの表現をもなし得ない。

表現は個性を通じてのみ行なわれるのである。
表現されたものは何らかの意味に於いて個性を有する。

桃には桃の個性があり、梅には梅の個性がある。
幾千個の桃にも決して同じ桃と云うものはないのである。

人間の個性も千差万別であって、同じ個性はない。
神は無尽蔵である。

他の人を自分の如くならしめようと縛る心を起してはならぬ。

           <感謝合掌 令和2年9月28日 頓首再拝>

望まない現実を引き寄せる、あなたを縛っている観念を手放す - 伝統

2020/10/11 (Sun) 03:53:09


        *Web:宇宙の兄弟たちへ(2020年10月8日)より

人間の心の中には様々な否定的観念が埋まっています。

その観念はあなたに現実を歪めて見せてしまいます。

私たちは普段、現実をありのままに見ていると思っていますが、
実際には歪められた姿を捉えています。

それは色眼鏡を通して映る世界が、
特定の色に染まった姿に映るようなものです。

そうした思い込みの観念が私たちの心の中には幾つも存在しています。

たとえば、子どもの頃に親から
「勉強のできない奴はダメな人間だ」と言い聞かされたとします。

するとその思い込みの観念を自身も次第に受け取って、
その観念のもとで世の中を見ていくようになります。

そこから、勉強が出来る事で自分には価値があると思いこんだり、
勉強が出来ずに悪い成績などを取ってしまうと、
自分はダメな人間だと思い込んだりします。


また他人に対しても、
「この人は勉強ができる優れた人物。この人は勉強のできないダメな人物」
というように、周囲もその観念を通して見るようになります。


そのように人間は生きているうちに様々な観念をこころに埋め込み、
それを通して世の中を見るようになります。

こうした観念に縛られていると、
現実を歪めて見てしまいますし、
望んでもいない出来事を引き寄せてしまう事があります。


たとえば、自分は勉強が出来ずにダメな人間だと
思い込んでしまっていたら、自分はダメなんだという
現実を引き寄せてしまいます。

すると自分がダメだと思わせるような
出来事が起こってしまったりするのです。

表面意識では望んでいなくとも、
こころの奥に潜む思い込みが現実を引き寄せてしまいます。


この思い込みを解くには、
現実を歪めている観念を手放す必要があります。

そのためにどうしたらよいかというと、
まずは自分の中にある観念を自覚することから始めます。

自分の中にある思い込みの観念の存在が分からないと、
それを解くことも難しくなります。

まずは自分のこころの中を振り返り、
よくよく見つめていって、観念の在りかを発見しましょう。

自分の中にある観念を発見したら、
次にはどうしてその観念を持つに至ったかを振り返ってみます。

たいていは幼少期に親に言われたことであるとか、
兄弟や友達との関係で作られたものが多いです。

そのようにどうして自分が観念を持つに至ったかを振り返ります。


そしてこの観念は植えられたものであり、
真実のものではないと自覚するのです。

不要な観念は手放すようにしましょう。

手放すための一番簡単な方法は宣言することでしょう

「この観念はもう要りません!手放します!」

と言葉にして宣言してみてください。

一番簡単に出来るやり方です。

みなさんも試してみてください。

    (https://www.spacebrothers.jp/2020/10/blog-post_8.html

           <感謝合掌 令和2年10月11日 頓首再拝>

愛憎を放つ - 伝統

2020/10/17 (Sat) 04:37:37


    *「光明道中記」(10月17日《愛憎を超える日》)より

【真に人を救う道は無我の愛にて相手を目覚めさせるにある。
                   (『生命の實相』第二巻)】

地獄とは自在を失った状態である。
自在を失うから苦しいのである。

では自在とは何であるか。
何ものにも囚(とら)えられないことである。

愛憎は人間の心を最もよく囚えて自由自在を失わしめる。
愛憎のないところに自由自在を得るのである。

死ぬのが恐ろしいと云うのも、生を愛し死を憎むからである。
生を愛し死を憎むことがなかったら生死に囚えられぬ。
生死に囚えられなかったら生死に於て自由自在である。

沢庵禅師が柳生但馬守と立会ったが、剣聖但馬が斬り込もうと思っても
斬り込む隙がなかったと云う話がある。

日本へ来て北条時宗の悟の師となった祖元禅師は
元の兵来たって彼を斬ろうとした時平然として
「人空(にんくう)また法空(ほうくう)、電光影裡、春風を斬る」
と一喝を諷して首をさし伸べたが斬ることが出来なかった。

禅宗六祖の慧能も神秀の弟子行昌(ぎょうしょう)が
来って斬ろうとしたとき平然として首をさし伸べたが
三たび剣を揮えども斬ることが出来なかった。

「善し悪しやにくいや可愛い」があるからこそ、
通力を失って斬られるものを。
通力を失うのは囚われるからである。

囚われなければ吾々は白隠禅師の言ったように
生身の観自在菩薩であるのだ。

病気などに罹(かか)るのも愛憎に捉われて通力を失うからである。

           <感謝合掌 令和2年10月17日 頓首再拝>

愛憎に囚われない道は、必勝の道 - 伝統

2020/10/18 (Sun) 04:58:39


    *「光明道中記」(10月18日《愛憎を捨てる日》)より

【ひらいた掌(てのひら)だけが新しいものを掴むことが出来る。
                   (『生命の實相』第十一巻)】

沢庵禅師が柳生但馬守と試合(たちあ)ったとき、
沢庵禅師に少しも隙がなかったが、
禅師が柳生但馬守に授けられた『不動智神妙録』と云うのがある。

それには和解が必勝の道であると云うことが書いてあるのである。
和解と云うのは愛憎に囚われない道であるから
同時に必勝の道となるのである。

『不動智神妙録』の一節に

「物に心が止(とどま)り候へば、いろいろの分別が胸に候間、
 胸のうちにいろいろに動き候。
 止まれば止まる心は動きても、うごかぬにて候。

 たとへば十人して一太刀づつ我へ太刀を入るるも、
 一太刀を受流して跡に心を止めず、跡を捨て跡を拾ひ候はば、
 十人ながらへ働きを欠かさぬにて候。

 十人十度、心は働けども、一人にも心を止めずば、
 次第に取合ひて、働きは欠け申す間敷候(まじくそうろう)。

 若し又、一人の前に心が止まり候はば、一人の打つ太刀をば
 受流すべけれども、二人めの時は、手前の働き抜け申すべく候。

 千手観音とて、手が千御入(おい)り候ば、弓を取る手に心が止まらば、
 九百九十九の手は皆、用に立ち申す間敷(まじく)候。・・・」

心が一つ物に囚えられたなら、
千本手があっても他の手がお留守になって自由自在を失う。

           <感謝合掌 令和2年10月18日 頓首再拝>

《欲しい》、斯うあり《たい》を捨てる - 伝統

2020/10/20 (Tue) 04:44:57


    *「光明道中記」(10月20日《「欲しい」を捨てる日》)より

【自分を本当に愛する事が出来る者は、本当に隣人を愛する事が出来る。
                       『生命の實相』第二巻)】

善悪愛憎に捉われると云うことは、
「斯くあり《たい》」「斯うし《たい》」「逢い《たい》」
「見《たい》」「食べ《たい》」などの
「《たい》」に囚われることである。

この「《たい》」が心にある間は、
その人はどうしても「《たい》国」の囚人で、
本当の自由も極楽もその人にはあり得ないのである。

天理教では此の「《たい》」を
「惜しい」「欲しい」などの八つに別けて、八つの埃と言っている。
「たい」が心の病気であり、心の病気が肉体に投影して
肉体の病気となるのである。

時々私に病気の相談を持ち掛けてくる人がある。

そんな人に私が

「あなたは心に不平ばかり持っているから、そう云う不平を捨てなさい」

と言うことがある。

すると益々相手は不平らしい顔附をして、
「私は別に不平の心を有(も)っていませぬ」と言う。

「併しあなたは、もう少し斯うし《たい》、
 斯うして《欲しい》と思うことがあるでしょう」

と言いますと、「それはあります」と言われる。

その斯うして《欲しい》、斯うあり《たい》が、
あなたの気が附かない不平であって、
それが心が善悪愛憎に囚われているので、
生命力が自由を得ないで病気に罹っている。

その「こうして《欲しい》、こうあり《たい》」の
《欲しい》と《たい》を捨てれば
不思議に病気が治ることがあるものである。

           <感謝合掌 令和2年10月20日 頓首再拝>  

「我」の求めをすべて放下せよ - 伝統

2020/10/30 (Fri) 04:56:03


    *「光明道中記」(10月30日《求むるに先立ちて財宝集る日》)より抜粋 

ただ、神の中へ溶け込むことのみをこそ求めなければならないのである。
溶け込むとは固まりがなくなることである。
「我」の求めがなくなることである。

偉くなり、富を得たい、光栄を得たい、
すべての野心、野心がとげられない悲しみ。
一切の怒り、不安、恐怖、呪詛(のろい)、
之(これ)らすべてのものを放下せよ。

真に神の神意でありますようにと祈れ。

おお! その中にこそ全てがあるものを。

神を、聾(つんぼ)扱いしてはならぬ。
大声で怒鳴らなければ聞こえない者だと思ってはならない。
注文をして置かなければ、神はこの問題を忘れ給うかも知れぬと思うな。

           <感謝合掌 令和2年10月30日 頓首再拝>

欠点という考え方をつかまない - 伝統

2020/11/14 (Sat) 04:36:17

      *『つかまない生き方』大木ゆきの・著(P122~123)より 

たとえばちょっと何か言われただけで気にしてしまう、
とっても繊細なところを自分の欠点だととらえる人もいるかもしれない。
 
逆に相手が何を言いたいのかを察することができない
鈍感なところを欠点だって思う人もいるかもしれない。
 
欠点って、何なんだ? 
直さないといけないところって意味?
 
そうだとしたら、この章の最初の方で言ったよね、
性格を変えようとするとかえって葛藤を招き、
そもそも持っている魅力も才能も出せなくなってくるって。
 
変える必要がないどころか、活かせばいいんだよ、その個性を。
 
気にしすぎて、繊細な人は、人の気持ちに寄り添える人だ。
相手の気持が分かる人ってこと。
その繊細さを活かして、人がしてほしいサービスができる達人になれる。

カウンセラーやセラピストのような心に寄り添う仕事も向いているだろう。
 
逆に鈍感だと思っている人は、余計なことを気にせずに、
思うままに進んでいけるってことじゃない。
だったら、その鈍感力を活かして、やりたいことをどんどんやって、
どんどん輝いて、人に勇気と力を与えればいい。
 
こんな風にね、自分の個性を欠点としてつかまずに、
持ち味であり強みだってとらえ方をすればいいのさ。
 
そしてその持ち味を、人を喜ばせさり、快適にしたり、
癒やしたり、力を与えたりする方向に使えばいいのさ。
 
そういう視点でもう一度自分の個性を見直してみて。
 
自分にはたくさんの宝物があるって気づくはずだ。
 
この世界で幸せな成功者として活躍している人は、
みんなその秘密に気づいている人だ。

そしてありのままの自分をうまく生かしている。

           <感謝合掌 令和2年11月14日 頓首再拝>

否定的な感情を感じながら、痕(あと)をのこさず - 伝統

2020/11/24 (Tue) 03:23:36


     *「光明道中記」(11月24日《あとに苦味の残らぬ日》)より

【過去を捉えて離さないのは自分の心である。
 過去の過(あやまち)を消す極意は過去から心を放つにある。
                       (『生命の實相』第一巻)】

人間が時々好きになったり、嫌いになったりすることがある。
嫌いになるのは人間の実相が晦(くら)まされているときである。
先生でも人間が嫌いになることがあるのですかと言われると、仕方がない。

降参するほかはない。
実際人間がたまらなく嫌いになることがあるので、掛値は言わない。
偉がろうとも思っていない。

解からない人間は耐(たま)らなく嫌いであり、虫の好すぎる人間もたまらない。
功績を鼻にかける人間も耐(たま)らない。

先生でもそんなに好き嫌いがあるのですかと言われると、
やっぱり、冷たいものは冷たく感ずるし、
熱いものは熱いと感ずるし、快いものは快いし、
不快なものは不快だと言うほかはない。

冷たいものが熱く感じられたり、熱いものが冷たく感じられたり、
下手な音楽が上手だと感じられたりしなければ悟でないと云うのだったら
私はもう悟は御免を蒙(こうむ)りたい。

先生それでは先生は常人と同じではありませんかと言われれば、
そうかも知れない。

ただ常人は一度熱いと執したら
冷たい膾(なます)でも熱いと囚(とら)われるが、
私が異(ちが)うのはただ痕(あと)がのこらないことである。

          <感謝合掌 令和2年11月24日 頓首再拝>

“心“に何ものも積み込まなければ、自由自在 - 伝統

2020/12/07 (Mon) 03:54:08


        *「精神科学」(昭和45年7月号)
          ~昭和四十五年三月、生長の家記念日の講演会での講話の一部

巨大な鉱石船の沈没の示すもの

最近五万噸~十万噸というような巨大な鉱石船が、
波浪と戦って二つに折れて沈没するというような事件が起っている。

例えば、カリフォルニア丸が千葉県の沖合まで来て壊れて沈没した
のでありますが、あれも空っぽになったら砕けて沈むこともなかったに
相違ありません。

カリフォルニア丸は巨大な鉱石積載船で、
非常に重い鉱石を船腹に一杯積んでつかんでいた。

何も積んでいなかったら船が軽いから波のままに、そのままに動いていて、
波浪の激突に対して急激な抵抗がなく、フワリと波浪の衝撃を受けるから
船体も傷つかずに済んだのであります。



吾々の心にも、あの鉱石船よりも、まだまだ沢山重荷を積んでる人がある。

そういう人が癌に罹るのであります。
だから“癌“という字は“疒(やまいだれ)”に“品物の山”と書いてある。

癌で死ぬ人は、あまりにも、心の中に品物の山を積んでいるために、
積み荷の重みに耐えかねてどこかに亀裂を生じて沈没した船のようなものなんですね。

併し人間は”神の子”であって、鉱石運搬船じゃないのですから
本来ありもしない積み荷を、どっさりと自分の心の中に積み込む必要はない
のであります。


“心“に何ものも積み込むな

何も積み込まなかったら、吾々の本当の心は自由自在なのです。

自由自在なのが、人間の実相の心――本当の心なのですけれども、
そのままカラッポの心なら自由自在なのですけれども、
自由自在だから執着したり、粘りついたりすることも出来る。

それで勝手に、物に執着して蠅が蠅取黐(はえとりもち)に
足を突っ込んで粘りついて動けないのと同じような姿になるのです。


『斯うだ』『ああだ』と、『無い』ものを『ある』と
みとめて、我執というのに引っかかっている人があります。
これが病気の因なんです。


そこで、皆さん、蠅が蠅取黐に足をくっつけて動けないようになるのは、
なぜあんなになるかというと、蠅もあれは欲張って執着のためにそうなる。

台所においしそうな御馳走があると思ってやって来て、それに誘惑されて、
足元に気が付かずに黐にひっかかるということになるのであります。

私たちは、目先の慾にひっかからないで、脚下に気を付けなければならない。
これを「脚下照顧」と言います。

あのカリフォルニア丸でも、あれは鉱石をうーんと積んで、
その重みをつかんでいる。

それで波が来ても、蠅取黐で海にくっついたようになっとるから、
自由自在に動けないで、波に叩かれると、頑固に海水中に粘りついて、
波のまにまに動けないもんだから船体が折れるより仕方がない、
という事になった訳であります。

このような実例でもわかりますように、吾々は執着の念を以って、
一杯、心の中に荷物を積んだりすると、癌になったり、色々の病気になって、
カリフォルニア丸のように沈んでしまうのであります。


“斯うだ”“ああだ”“ああだ”“斯うだ”と“無い”ものを“ある”と
思っていろいろと悩んでいるのが、この迷っている人の姿である。

そこで皆さんは、この「把み」や「執着」の原因になる“現象”を
“現象本来なし”「現象は幻術師の所幻のただの映像だ」と
維摩居士のように悟らねばなりません。

   (http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7973672 )

           <感謝合掌 令和2年12月7日 頓首再拝>

よい結果にも悪い結果にも平常心でのぞむコツ - 伝統

2020/12/28 (Mon) 04:42:27


        *メルマガ「天路」(2020年10月15日)より抜粋

たとえばお金儲けとか人間関係、昇進などで、
どんな結果が出ようとも、一喜一憂しなようにしてください。

好きなことをして、
そのあとは完全に成り行きに任せられるようになると、

それを「結果」と呼んでも、
「良い結果」「悪い結果」などと決め付けないようになります。


それさえできれば、
神秘的とも言える宇宙のセオリーと同調することができます。


あなたは結果を気にして自分を苦しめていませんか。

新しい友達は、自分に好意をもってくれるだろうか?
売上げは達成できそうか?
恋人はメールを送り返してくれるだろうか?
幸せな結婚生活を送れるだろうか?
子供ができるだろうか?
案内した講座に申し込んでくれるだろうか?
この仕事は成功するだろうか?

結果を気にするあまり、大きな苦痛を味わっていることに気づくことです。

しかもこのことが原因になって、
無意識に失敗を呼び寄せる結果にもなっています。


大切なことは、自分自身が今この瞬間に幸福な状態であることで、
世間でいうよい結果にも悪い結果にも、
どっちに転んでも大した違いはありません。

するとどんなことにも平常心をもってあたれるようになります。


私たちが経済的成功や社会的利益をもとめるのは、
心の満足が得られると考えるからです。

しかし、世間的な成功はエゴを刺激しますが、心を充足させることはできません。

スーツを新調しても新しい心を手に入れないのと同じです。

「だったら、何を生きがいに生きればいいの?」
こんな反論を言いたくなるでしょう。


私たちはみな生まれたときから
固執し、期待し、求めるように仕向けられています。


結果や答えを常に考えさせられ、結果的に不安に陥ります。
それが現代社会を生きるうえでの流儀です。

しかし、うすうすあなたは気づいています。

「このパターンいったいいつまで続くの?」
「いったい誰を幸せにしているの?」


これからあなたが歩むのは、

「いつまでも変わらない幸せのため」の道で、

これまでとは全く異なる道です。


ここで私たちは、
これまでの重荷を惜しげもなく捨てられる、
というギフトを受け取ることになります。

実は、それこそずっと憧れてやまなかったことです。

これまで抱いていた、
どうしてもこうなってほしい
というエゴを満足させるための願いを手放すと、

その結果の良し悪しにかかわらず、
のんびり構えていられるようになります。


こうして自由を手に入れた人は、
人間の価値判断を超越したすべては善のレベルまで浮上します。


かといって、日常的なことが投げやりになるわけではなく、
むしろその逆で、日常の仕事はすべてベストのタイミングでそれまでよりも
はるかにうまくこなせるようになります。


心を整理して、感情を味方につけることができるのは、
この自由があればこそです。

それでは、
あなたがどうしても成功したいと思っていることを思い浮かべて、
そして自分にこう尋ねてみます。

「結果がどうなってもいいと思ったら、どんな気持ちがするだろう?」


自分を支配していたのは自分だということがわかると、
結果がどう出ようと、今のように落ち着いていられるのはずです。

           <感謝合掌 令和2年12月28日 頓首再拝>

【執着を手放す方法】 - 伝統

2020/12/31 (Thu) 04:44:09


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2020年11月02日)より

   (橋本京明(きょうめい)氏の心に響く言葉より…)

   私たちの運気を落とす最大の原因といってもいいもの、
   それは「執着」です。

   強運な人は、そのことに気づいています。


   執着とは、人や物やある状況に心がとらわれてしまい、
   それにしがみついて手放せなくなってしまうことです。

   周りのことや相手の気持ちなどにはおかまいなく、
   自分のことしか見えてない狭い視野の自分勝手な状態です。

   こう言うと、ひどい状況に思えますが、
   実は「執着」は日常のなかにたくさん転がっています。


   たとえば、遺産相続などでもめるのは、
   お金を少しでも多く欲しいという「執着」からです。

   他にも、別れた彼を取り戻したい、
   ブランド品のバッグがどうしても欲しい、
   正社員でないと就職したくない、
   なんとかして若さを取り戻したい、
   チョコレートがどうしてもやめられない…。

   思い当たることはありませんか?


   なぜ執着するのかというと、恐れる気持ちがあるからです。

   お金がなくなったらどうしよう、
   彼がいない生活なんて考えられない、
   ブランド品を持っていないと自信が持てない、
   ちゃんとした保障がないといざというとき困る、
   若さ失いたくない、
   甘い物を食べないと精神的に不安定になってしまう…。

   こうした恐れがあるため、
   手放さないことで安心感を得ようとしているのです。


   では、どうすれば執着から逃れられるのか?

   答えはとても簡単です。

   ただ手放せばいいのです。

   これまで自分が握っていたものを手放すとき、
   人は不安になるものです。

   けれども、冷静になって考えてみてください。

   がむしゃらにしがみつき、手放せなくなっているものに
   こだわりつづけた結果、何かいい結果を生みましたか?

   心がウキウキするような幸せは舞い込みましたか?


   執着からは何も生まれないどころか、
   かえってトラブルを引き起こし、
   望む結果を手に入れられない状況に
   自分を陥(おとしい)れるだけです。

   両手がふさがっている状態で、
   さらに運をつかむことは、はっきり言って不可能です。

   「こうでなければ」
   「あれもこれも手に入れなければならない」
   と思えば思うほど、
   そうならない状況にイライラし、不平不満がたまっていく。

   そういう状況にさせているのは自分だ
   ということに気づかなければいけません。


   強運な人になりたいのなら、
   思い切って「執着」を手放しましょう。

   ギューギューに詰め込んだクローゼットに
   新しい洋服が入らないのと同じように、
   執着でいっぱいのときは、幸せは決して舞い込んでこないのです。

   運気をアップしたいなら、
   執着を捨てて幸せが入り込むスペースを空けることです。

   すると、自分の気持ちが軽くなり、
   本当の幸せがくっきりと見えてきます。

           <『強運のつかみ方』だいわ文庫
                https://amzn.to/3mDqbeH >

              ・・・

「執着」を手放すための、手っ取り速い方法が、
「頼まれごと」の人生を歩むことだ。

そもそも、「執着」は、「ああしたい」「あれが欲しい」
「こっちへ行きたい」と自分で決めるから「執着」するようになる。

そして、その希望や望みがうまくいかなかったときに、
ひどくがっかりしたり、もっと他の道はなかったのかと
悔やんだりして、そこに「執着」が生まれる。

また、逆にうまくいった場合でも、
手に入れたお金や物や地位などを、
手放したくないという「執着」が生まれる。


だが、しかし、自分が決めたことではなく、
人から頼まれたことを、文句を言わずに、
ニコニコしながら引き受けていったら、そこに「執着」は生まれない。

なぜなら、頼まれたことは、
「好きで好きでたまらない」などというようなことではなく、
「そんなに好きではないが、嫌いでもない。むしろ好きな方かな」
というような客観性の入った「ボーッとした好き」だからだ。


「好きでたまらないこと」は、
視野が狭くなり、まわりが見えなくなりがちだが、

「ボーッとした好き」はたのまれた事柄などを
他人事のように、客観性もまじえて見ることができる。

「執着を手放す方法」

頼まれたことを、好き嫌いなく、
淡々と引き受けことができる人でありたい。

・・・

<参照>
伊勢ー白山 道(2020-07-14 )
所有感こそは、不幸感の元
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/29b79dcc71355b9630e963ef8d63ab62

           <感謝合掌 令和2年12月31日 頓首再拝>

「やりたくないこと」をやめるほうが先! - 伝統

2021/01/15 (Fri) 03:25:58

        *『つかまない生き方』大木ゆきの・著(P151~155)より 

もしもあなたが、自分のやりたいことではなく、相手の期待や求めていることに
応えようとする生き方をしていたとしたら、
まず最初にやるべきことは、その疲れた自分に鞭打って、
やりたいことを探すことじゃないんだ。
 
それ以前に、やりたくないと思っていることをやめることなんだよ。

こっちの方が先。

背負っている荷物を下ろさないと、体を自由に動かせないのと同じ。
 
やりたくないことをやめると、ホッとする。
心がやっとゆるむ。

いっぺんにすべてのやりたくないをやめることはできないかもしれないけれど、
少しずつ、できるところからでいいから確実にやりたくないことを
やめていくんだ。
 
やめてみると分かる。
意外にどうとでもなるんだなあって。
自分がやらなくてもやってくれる人も助けてくれる人もいるんだなあって。
 
そうやって自分を自由に解き放ちながら、しばらくゆっくりペースでいく。

(中略)
 
やりたくないことはできるだけやらない。
そしてゆっくり休む。
完全休養Dayを丸一日取れなくても、できる限り好きなようにさせる。
 
お休みの日に、寝坊したければ寝坊させる。
ご飯も決まった時間に無理に食べなくていい。
食べたくなったら、食べたいものを口にすればいい。

ボ~~~っとしていたければ、何もしないでボ~~~っとしてみる。
 
こうして好きなように過ごさせることが、一種のリハビリなんだよ。
 
今まで「こうあるべき」にず~~~っと縛られてきたわけだから、
ギューッと締まっているエネルギーをゆるませる必要があるんだ。
 
こんなことやってたら、ダメ人間になるって、
心の中にいる「べき」アラームが鳴るかもしれないけれど、
そんなものは無視していい。
 
今は緩んで好きなようにさせることに慣れるリハビリ期間なんだから。
そうやって好きにさせてみると、だんだん小さなやりたいことが浮かんでくる。
 
久しぶりに公園の噴水が見たいなあとか、
温泉にゆっくりつかりたいなあとか、
子どもの頃に好きだったキャラメルが食べたいなあとか。
 
そういう小さいやりたいことが浮かんできたら、
それをどんどん自由にやらせてあげる。
すると、だんだん元気になってくる。
 
そして本来の自分を取り戻し始める。
 
子どもの頃には放っておいてもやりたいことをやっていた、
あの感覚がよみがえってくる。
探さなくても、やりたいことが何なのか分かるようになってくる。
 
無理して自分探しのセミナーに参加したり、
焦って本当にやりたいことでもないことを始めたりしなくていいんだ。
 
まずは心をゆるめて、好きにさせれば、
ちゃんとあの感覚が取り戻せるようになってくるのさ。

           <感謝合掌 令和3年1月15日 頓首再拝>

あっさりと手放す - 伝統

2021/02/02 (Tue) 02:35:06


        *Web:かんながら(2021年01月18日)より

この世が虚飾に満ちていることは心のどこかで知っています。

でもみんながそれを生きているので、
まるで本当のことのような気がしているだけです。


そんな世の中で生きるために、虚りに満ちた自分を作りだし、
そのイメージを守りながら生きるのが人生だと思ってしまいました。

いいとか悪いとかの話ではありません。

そうやってしか生きられなかったし、
他のアイデアを知ることもなかったのだから。


でも一つ言えるのは、そのような生き方には喜びがないということ。

何かがうまくいった時つかの間の満足や平安を手にすることができても、
またそこから長い奮闘を始めなければなりません。


この世の中でそれなりの成功を収め、希望に満ちているうちは、
真実への門は閉ざされています。

最終的には敗北しかないゲームでも、
上手くいっているうちはやめることができません。

だから真実の次元から見れば、
この世における成功は最大の失敗ということになります。


これがイエスの言う

「富める者が神の国に入るより、ラクダが針の穴を通るほうが容易い」

という言葉の意味です。



反対に、人生に失望し自分の力の限界をとことん知った者には、
神への扉はすぐ目の前にあります。

自分を落とすことが簡単だから。


自分を完全にあきらめて手放せば、真実の次元に再誕生しています。

ところが人は我慢強くて、
何度奈落の底に落とされようが、そこから這いあがってきます。



そのような生き方を否定しているのではありません。

人からの賞賛も得られますし、つかの間の達成感もあります。

ただ行きつくところがないだけです。


ずっと続けていけば、最後は必ず敗北に終わるのですが、
それが神の国への入り口だったりします。

でもその時はもう、残された時間はありません。

道は二つあります。


完全に打ちのめされるまで奮闘するか

いま、あっさりと手放すか。


手放したとしてもゲームはこのまま続いていきます。

表面的には何も変わりません。


ただしプレーヤーからは深刻さが消えて気楽さが漂っています。


いい意味で何だっていいことを知っているからです。

神の国も、この世も、一つのものなのですが、
それを生きる存在の質が違うだけです。


結果志向のビジネスマインドではなく、
いまを楽しむ幼子の境地に似ています。

それが神(愛)の国です。

https://abetoshiro.ti-da.net/e11799932.html

           <感謝合掌 令和3年2月2日 頓首再拝>

怒りの感情を放つ - 伝統

2021/02/14 (Sun) 02:26:15


        *メルマガ「人の心に灯をともす」(2014年11月15日)より
             【怒りは二次感情】

   (心理カウンセラー、衛藤信之氏の心に響く言葉より…)

   「つい人に腹を立ててしまう」という人がいます。

   自分でわかっていても「つい」やってしまうことがたくさんありますね。

   この「つい人に腹を立ててしまう」というのは、
   自分で自分の感情を止めることができないということです。

   上司が何か言うとすぐカチンとくるとか、そのあとでケンカ腰になるとか。

   これは心理的に言えば、「子どもっぽい」わけです。

   たとえば幼稚園で子どもが仲よく遊んでいる姿を思い描いてください。

   ケンちゃんが大事にしているオモチャをサトシくんに取られました。
   すると、泣きながらケンちゃんはサトシくんを突き飛ばしました。


   たとえば日曜日の平和な家庭。

   大学生のタクヤくんは父親の車を借りて、彼女とドライブしようと思っています。
   するとソファで新聞を読んでいた父親がひとこと。

   「おいタクヤ、今日はお母さんと買い物に行くから、車は使うなよ」

   「なんだよ、もっと早く言えよ」と
   タクヤくんは車のキーをテーブルに投げ出します。


   たとえばテニスの試合。

   勝利を予想されていたシンゴくんが、格下の相手に負けてしまいました。
   ゲームセットの声と同時に、ラケットをコートに叩きつけるシンゴくん。


   これらの例は、欲求不満がダイレクトに行動に出てしまったものです。

   どれも子どもっぽくて攻撃的ですね。


   「怒り」という感情は、心理学では「第二感情」に分類されます。

   「びっくりした」とか「がっかりした」という
   「第一感情」に引き続いて起こってくるもので、
   何かが起こってすぐに湧いてくる感情ではありません。

   前の例でいえば、何か期待していたことと違うことが起こり、
   その期待を裏切った人々に対して怒りが湧いてくる、という図式です。

   ですから、「つい腹を立てる」ということでいえば、
   「腹が立つ」ことの前にあるびっくりした自分の感情を探さなければいけません。

   そして、それを表現する。

   「私はこんな期待をしていたのだ」「会えなくて寂しかった」
   と相手に正直に伝えましょう。

   自分を出すと負けると思っている人に、私はいつもこう言います。

   「あなたは幸せになりたいの?勝負に勝ちたいの?」

        <『こころのエステ』サンマーク文庫>

               ・・・

社会人になった自分の娘が遅くなって帰ってきたとき、
父親が玄関で仁王(におう)立ちになり、
「今までどこをほっつき歩いていたんだ!
今、何時だと思っているんだ!門限は10時だぞ!」
と怒鳴っているようなシーンがテレビでよくある。

怒りは二次感情だと言われる。

それは、なぜ怒鳴ってしまったかを冷静になってみて考えると、
遅くなって、とても「心配だった」、「不安だった」という一次感情、
つまり、怒りの奥にある感情、「本当の自分の気持ち」があるからだ。


昨今、公共の場で突如として、大声で怒鳴ったりキレてしまう人は多い。

人前で見境(みさかい)なくカッとなって怒鳴ったり怒ったりする人は、
心理学でいうと感情の制御ができない「子ども」。

真の大人とは、自分の感情を制御できる人のことを言う。

怒り出しそうなときは…

「心配」、「不安」、「さびしさ」、「つらさ」、「悲しさ」、
「期待はずれ」、「絶望」といった自分の一次感情を探る必要がある。

怒る前に、「一次感情は?」と自分に問いかけたい。

・・・

<参照>
伊勢ー白山 道(2021-01-29)
怒りを流す方法
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/c5377e371d9d448d894255ad7f987654

           <感謝合掌 令和3年2月14日 頓首再拝>

とげとげしい心を捨てるには - 伝統

2021/02/15 (Mon) 02:19:05


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月15日)」より

どんな美しいバラの花でも、その棘に触ったときにはハッと驚いて捨てられる。
人に嫌われるのは心に棘があるからである。

これだけ立派な仕事をしているのに人が自分を遠ざけるというような人は、
これだけ美しい花が咲いているのになぜ人が自分を捨てるのだろうと、
みずから疑うバラの花のようなものである。

とげとげしい眼、とげとげしい言葉、とげとげしい行動、
その一つ一つを抑えようとしてもなかなか直るものではない。

まずとげとげしい心を捨てなければならぬ。
とげとげしい心を捨てるには「とげとげしい心」を
アリとして抑えてもなかなか直るものではない。

暗は暗をいくら押さえてみても消えるものではない。
暗を消すには光を持ってくるにかぎる。

とげとげしい心が自分にあると気づいたら、その反対を持って来るのである。
「自分は優しい優しい人間であって、とげとげしいところはちょっともない」と、
その反対の念を自分自身にいって聞かせればよいのである。

           <感謝合掌 令和3年2月15日 頓首再拝>

よく放つとき、よく生きる - 伝統

2021/02/17 (Wed) 02:06:00


        *「光明道中記」(2月17日《自在を得る日》)より

【一つのものにでも執(しゅう)したら、苦しみは其処から始まる。
                    (『生命の實相』第十一巻)】
 
解脱を仏と言う。解脱とは執なきを言う。
執のなきを自在と言う。執を縛(ばく)と言う。
執は一定のところに縛り附けて其の自由を奪って了(しま)うからである。
 
子供に執すれば、子供はその自由を失って
病気に罹ったり成績が悪くなったりするであろう。

執愛は縛愛(なくあい)であり、一定の場所に相手を縛りつけて
自由を失って了う愛であるからである。
 
子を愛する者は、子を《よく》放たねばならぬ。
小鳥を愛する者は小鳥を《よく》放たねばならぬ。

小鳥を愛すると称して籠の中につなぎとめて置くとき、
その小鳥は永生きしないであろう。
放たれてこそ、小鳥はその生命の自由を発揮して健全なるを得るのである。
子も亦斯くの如くよく放つとき、よく生きる。

「愛」を釈迦は煩悩のうちに数えた。
愛をキリストは神性のうちに数えた。
愛は煩悩より出でて神性にまで昇るものである。
愛は神性より出でて煩悩にまで墜落するものである。
 
愛が愛である使命を果たすには智慧に導かれねばならぬ。

           <感謝合掌 令和3年2月17日 頓首再拝>

無礙無縛の日 - 伝統

2021/02/19 (Fri) 04:53:56


           *「光明道中記」(2月19日)より 


【善にでも引っかると悪になる。心が停滞すると心の影として
 血液循環が一箇所に停滞し病気を引起す。(『生命の實相』第三巻)】


善とは無縛を言う。無縛なるが故に人事処の三相応を得る。

善とは何ぞやと云う問題は、
古来幾多の宗教家思想家によって考えられ、説明された問題である。

そして「善とはこれだ! 」と一つのものに執着したとき
多くの人は躓いたのである。

「善」とは形ではない。

「執(しゅう)」を脱した状態こそ「善」であるから、
一物を指してコレだと執したとき「善」は消えて了っているのである。
「執」を脱したときおのずから「生命」は生きる。

「生命」が素直に生かされて行くのが「善」である。
斯う言えばすぐ「生命」を生かそうと「生命」に執する人が出来るであろうが、
「生命」に執したとき、その「生命」は既に生きなくなる。

だからキリストは警句して曰く、
「生命を獲んとするものは生命を失い、生命を損(す)つる者は生命を獲ん」と。

また諸聖は曰く

「生きようと思ったら○ね」   (○:死)

「《ままよ》と思う心にならなければお蔭は得られぬ」

「泳ごうと思ったら海の底から足を離せ」


私は曰く

「善とはなんぞや。生きることだ」。

「生きるとは何ぞや」曰く「無(む)」。

           <感謝合掌 令和3年2月19日 頓首再拝>

過ぎた欲が苦しみを生む - 伝統

2021/03/03 (Wed) 04:32:22


        *Web:宇宙の兄弟たちへ(2021年3月2日)より

人間には欲があって、いろんなことを求めていく生き物です。

ひとは求めるものを得られることで幸せになると考えるのですが、
その欲によって身を滅ぼしたり、かえって苦しみのもとを生じます。

人生の苦しみの多くのは、この過ぎた欲によるところがあります。


欲の中には、自分を成長させていこうとする成長欲もあり、
これは必要なものではありますが、

自分の分限を超えて欲を膨らませると、
それが苦しみとなっていきます。


たとえば希望する大学があって、そこにどうしても入りたい
と願っていて、それが自分の分限を超えている場合には、
受験しても何度も落ちてしまい、何浪もしてしまう事があります。

1浪2浪なら分かるのですが、
もう十年近くも浪人生をしているような人の場合には、
やはり欲が過ぎてしまい、ご自身の分限を超えている部分もあるかと思います。

親の方も、子どもが優秀な成績を収めて、
有名大学に入ってもらいたいという欲を持つことがありますが、
それが過ぎていれば苦しみのもとになってきます。

やはり子どもそれぞれに分限がありますので、
それを考慮せずに過度な期待をしても苦しみを生むだけの場合があります。

実際に希望通りの学校に行けたとしても、
それが親子の断絶を生み出す事もあるでしょう。

あまり親子で違っていて、親はそれほど学歴が無いのに、
子どもが一流の大学に行くようになると、
次は親をバカにして言う事を聞かない子になるかも知れません。

何が災いし、何が幸いするか分かりませんが、
そのように欲が叶ったことで次の不幸の種を背負い込むことはよくあります。


恋愛などでもそうでしょう。

素敵な男性をどうしても射止めたいという欲があって、
それが過ぎた欲になる事もあります。

求める相手に条件を高くしていって、年収はいくら以上とか、
性格もよくて顔もいい人など、いろんな条件を出していくと、
そうした相手からは見向きもされない場合があります。

ご自身もそれに見合った人になっていればいいですが、
自分の事をさしおいて、相手の条件ばかりに目が行っていくと、
うまくいかない事が多いです。

そして必死に好条件の男性を見つけようとしていると、
結婚詐欺師のような男に引っかかる事もあります。

どうしてもこの男性と結婚したいと思って、
詐欺師的な方に引っかかる場合があります。

そこまでいかなくても、客観的に条件の揃っている人というのは、
他の女性にもモテる可能性が高いため、
浮気などの問題が起こるかも知れません。

かっこよくて仕事もできる男性などと求めていると、
プレイボーイな人物であって、翻弄されて傷つくことも多いでしょう。

また先日はある高級車の売れ行きがいいというニュース記事が
出ていて見ましたが、おそれくはセールスマンに乗せられて
ローンを組んで買っている人も多いと思われます。

自動車のローンは金利が高いですから、こうしたものも
欲が過ぎてしまっている部分もあるかと思います。


見栄をはってそうしたものを手に入れても、
苦しみを生み出していく苦しみ製造機に変わっていくおそれがあります。

本人は機嫌よく買っても、後々には苦しみがまっている可能性があります。


このように、あまり過ぎた欲を持っていると、苦しみが生じていきます。

お釈迦様が苦しみのもとは執着であり、
それを手放す事が大切だと説いたのも、
この過ぎた欲の事を言っています。

まずは自分の天分を知る事、分限を知る事です。

そして過ぎた部分に関しては、欲を膨らませない事が大切です。

分相応の生活や生き方をする事で、苦しみの種を撒かずに済みます。

過ぎた欲を膨らませてしまっていないか、見直していきましょう。

https://www.spacebrothers.jp/2021/03/blog-post_2.html

           <感謝合掌 令和3年3月3日 頓首再拝>

過去の自分を引きずることなく新しい自分として振舞う - 伝統

2021/03/19 (Fri) 02:24:59



      *メルマガ「星のしずく」(2021年03月08日)より

幕末・明治を生きた、坦山(たんざん)和尚。


若かりし頃、修行仲間と
雲水(旅をしながらの修行)をしていたときの
エピソードがあります。


=========

ふたりの雲水(坦山と修行仲間)が
川を歩いて渡ろうとしているところに

美しい女性が
川に入るのをためらっている。

普段であれば
歩いて渡れそうな小川であるが
あいにく雨が降った後で水かさが増している。

坦山はすぐに
彼女を抱いて川を渡りきると
女性を降ろして別れた。


二人の僧は
しばらく黙々と歩いていた。


道中、女性を助けなかった僧は

「修行中の禅僧たる者が女性を抱きかかえるとは何事か」

との思いが頭から離れず

坦山の行為に対する、怒りがいつまでもくすぶっていた。


やがて心のなかに留めておくことが
ガマンならなくなってしまい

坦山に向かって、戒めるように口を開いた。


「さっきのは何だ。
 お前は修行中の身だろう。
 若い女性を抱くとは何事だ」


すると、
坦山は驚いた顔を見せて
すぐに笑いだした。


「確かに俺はあの女を抱いて川を渡った。
 しかし、川を渡った後で、彼女をそこに置いてきた。

 それなのに、お前は、まだあの女を抱いているのか」と。


=========

戒律で
女性に触れてはいけない。


とはいえ
事情により、どうしても
触れざる得ない。

そのようなときがあります。


> 言わなきゃよかったと思う反面
> あの時はどうしても
> 許せなかった自分もいます。


そのときは、、、

当時、増水した川のような状況だったのです。


修行中の身でありながらも
女性を抱かざるえない状況。


あなたも
同じような状況だったのです。


> これから私はどのように
> 振る舞うのが正解でしょうか


坦山のようになりましょう。

仲間のようになってはいけません。


▼ 増水した川は、過ぎ去りました。

ココロのなかで、
当時の状況を抱きつづける必要はないのです。


どうしてもそうならざる得なかった。

そんな
過去の自分を引きずることなく

まるでなかったかのように
振舞うのが正解です。


> 好きだった人とまで
> 人間関係がギクシャクしています。


もし、相手が
過去の状況を引きずって
あなたを責めるかのような態度であるなら

それは相手の問題です。


それぞれの状況において

学びがあり

人は成長・変化していきます。


あなたは
そこからなにかを学び
次からはこうしようと思ったはずです。


その時点で
あなたは成長・変化しています。


過去のあなたとは

まったく異なるあなたが

いま・ここに存在します。


セッション(状況)ごとに
異なる自分が存在します。


それは相手も同様です。


それが

「一期一会」

なのです。


二度と繰り返されることのない

一生に一度の出会い。


同じ人と出会ったとしても

セッションが異なれば
お互い異なる存在として出会います。


▼ 過去から、現在、未来へとつづく

時間の連続性は
精神の世界では、幻想なのです。


過去(から続くもの)はなく
未来(へ続くものも)もない。


あるのは

いま・ここにあるセッション(状況)のみ。


いま、ここにいるあなたは
川を渡った後のあなたです。


「それなのに、お前は
 まだあの女を抱いているのか」


坦山(たんざん)和尚は

そのように笑うことでしょう。



☆─今回のポイント─☆

1.事情によりルールから外れた行為をせざる得ないときもある

2.過去の自分を引きずることなく新しい自分として振舞うのが正解

3.人生一期一会。状況が異なれば同じ人と出会っても一生に一度の出会い

☆─────────☆


<参照>

坦山和尚が実践した「仏道」と「女人禁制」のバランス感覚
https://mag.japaaan.com/archives/88862


           <感謝合掌 令和3年3月19日 頓首再拝>

《過去を心から放ち去る祈り》 - 伝統

2021/04/04 (Sun) 04:42:47


        *『 生長の家 』(昭和49年4月4日の法語)より

   【 祈り 】

   【 過去は既に過ぎ去ったのである。過去は既に無いのである。
   それは鳥が飛び去った跡の蒼空(あおぞら)のようなものである。
   私は過去に私に害を与えたすべての人を宥(ゆる)し、
   心から放ち去ったのである。

   私がすべての人の過ちと罪とを宥し去った如く、
   神も私の過去の一切の過ちと罪とを赦し給うて、
   今、私には一点の濁(にご)りもなき清浄潔白な実相があらわれたのである。

   それ故に今後は、私には 善き事、裕(ゆた)かなる事、美しき事、
   調和せる事、幸福なる事のみがあらわれて来るのである。】


   人間は“ 神の子 ”であるから本来自由自在で、
   凝滞(ぎょうたい)なくすべての事物の進行が円満に行われ、
   その希望することは必ず成就するように創造(つくら)れているのである。

   すべての事物の滞(とどこお)りや難航は、
   現象界の事物の動きに、“心”が捉えられ、
   それに“心”が引っかかっていて、
   “心”が自由自在を失ってしまった結果なのである。

   それだから、あなたは、心の中に“過去”を把んでいてはならない。

   神想観を実修して、神の智慧の導きを受け、
   “ 今 ”目前にあらわれている事物に、
   その智慧を集中して、誠をはげみ、

   過去もなく、未来も無く、ただ“今”
   神の智慧と一体となって神と偕に動いていると
   いう自覚の下に、自己の働きを集中するとき、

   自己のはたらきは必ず、神の働きとなり、
   如何なる事物も都合よく すらすらと進捗(しんちょく)する
   ようになるのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=125

           <感謝合掌 令和3年4月4日 頓首再拝>

追っ駈け廻すと嫌われる - 伝統

2021/04/13 (Tue) 02:11:52


        *「光明道中記」(4月13日《招かずして幸福来る日》)より

【貨幣を与えると労働力が動き出して価値創造が始まるのであります。
                            (『百事如意』)】


何でもあまり追っ駈け廻すと嫌われる。

恋人にさえもあまり執着するならば、その人は嫌われるであろう。
執着と云うものは相手にまつわり着き、
相手を心で縛って窮屈な感情を起こさしめるからである。

「金」を追っかけると「金」は逃げて了(しま)うか、
「金」から来る「幸福」は逃げて了う。
「儲けよう」と思ってそればかりを追っかけている相場師に、
結局儲けた人も幸福になったひとも一人もない。

「眠り」を追っ駈け廻して「是非眠らねばならない」と
「眠り」を追っ駈け廻す時は「眠り」は逃げて了う。

―― 心の法則は何事に当て嵌めても同一効果である。

夜よく眠る法は、寝床は眠くなるところだ、と知らなければならない。

人生も同じことである。
幸福に《なろう》とするよりも、
人生と云うところは幸福な所だと気が附けば幸福がおのずから来るのである。

今晩はまた眠れないだろうと予想することは寝床とは眠くならぬ所だと
予想することになるから、不眠の原因となる。

今晩は眠れないだろうの感情は恐怖を伴った感情である。

恐怖は外敵に対峙する感情であるから、
外敵がある場合眠らないでいることが必要であるから、
不眠は自然の自衛作用である。

自衛作用を病気だと取違する者は愚か者である

           <感謝合掌 令和3年4月13日 頓首再拝>

相手の実相を信じ、相手の本当の自由にまかせる - 伝統

2021/04/23 (Fri) 04:53:48


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月23日)」より

竹はすべて真っ直に成長するのが本性であり、
藤蔓(ふじづる)は巻きつくのが本性であり、
笹芝(ささしば)は地を這うのが本性である。

そのそれぞれに美があり、個性があり、個性の中に天意があり、神がある。


竹をして竹たらしめよ。
藤蔓をして藤蔓たらしめよ。
笹芝をして笹芝たらしめよ。

藤蔓をして竹のごとく真っ直ならしめんとし、
竹をして藤蔓のごとく巻きつかしめようとする時、
竹も枯れるであろうし、

なおいっそうよくないのは、かく外部から強制せんとしつつある
自分自身が奔命(ほんめい)に労(つか)れて滅んでしまう。

人をいわゆる「自分の尺度」で測って善ならしめようとして、
相手をそこない、自己をそこなっているのはちょうどこれと同じである。

人はその類の異なるようにその個性も異なり、
事物に対する観察も異なるのである。

すべての人々の観察意見をまったく自分と同意見にしてしまおうと思うならば、
それは結局不結果に終わるほかはないのである。

そして得るところはただ、汝自身の焦躁疲労と、
相手の人々からの嫌悪とに終わってしまうのである。

誰でも他の意見に強制されるのは嬉しいことではないから、
あまり傲岸に人がその意見を強制する場合は、その人は嫌われるほかはない。


決して相手を縛って導こうとしてはならないのである。
自分自身が得ている真理で何か相手にささげる実行的奉仕をなしつつ、
相手自身を相手の思想にまかせておくのがよいのである。

相手の「神の子たる善さ」を信じてその自由にまかせておくのである。
かくて人は本当の自由にまかせられるとき、
回っている独楽(こま)を触らないで自由に委すとき、
心軸を中心として立ち上がるように正しく生きるようになるのである。

            <感謝合掌 令和3年4月23日 頓首再拝>

《止れ、周囲を見よ、而して心を澄ませ》 - 伝統

2021/05/25 (Tue) 04:55:09


       *「眞理」第2巻基礎篇第14章(P375~376)より

彼は自分の部屋へ帰って来て、あせる心を捨てました。

椅子に腰をおろし、頭を椅子の凭(もた)れに寄せて、
眼を瞑(と)じ、静かに呼吸をして、自分のありし日、
来(こ)し方、行く末などを心の眼で見ることにしたのです。

すると彼は気がつきました。

「今日起ったところの出来事はもうそれで済んだのだ。
 人生は長い眼で見なければならないのである。
 すべての経験が積みあげられて生長するのが人間の歴史である。
 今は唯一幕が終っただけである。
 何を悲しむことがあろうぞ、私は未来を今此処から祝福する」

こう思いながら彼は窓から外を見たのである。

其処には澄み切った青空が、そして輝く太陽が
彼を祝福するように輝いていたのである。

それは今まで彼の気付かなかった賜(たまもの)であった。

            <感謝合掌 令和3年5月25日 頓首再拝>

抜苦 ~ バックの授業 - 伝統

2021/06/12 (Sat) 04:27:18


        *Web:かんながら(2021.05.31)より

自分が思い込みの現実を生きていることを知るだけで、苦悩から解放されます。

なぜなら苦悩の大きさとは思い込みの強さだから。


自分が幸せな気分になると、世の中が穏やかになります。

すると周囲の人たちも、あなたを通して幸せになることでしょう。


頭の中で世界平和を目指すより、
身近な人を幸せにすることのほうが大切だと思います。


そんな気持ちで昨夜もレクチャーさせてもらいました。


お時間があるときにコチラからご覧ください。
 ⇒ https://www.youtube.com/watch?v=klZqYMr_-qo



・・・

思い込んだら~ 試練の道を
行くが~ 男の~ ど根性~

思い込みを抱えすぎると
重い心の荷物になり、苦しくなります→(>_<)←

思い込みを手放していくと
重い心の荷物から解放されて、楽になります←(*´▽`*)→

抱えすぎた思い込みを手放していき、楽になりましょう◎

抜苦与楽。

まずは
自分から苦しみを抜いて
自分に楽を与えることです。

重い地の時代から
軽い風の時代に行きましょう♪

←(*´▽`*)→←(*´▽`*)→←(*´▽`*)→
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら)


https://abetoshiro.ti-da.net/e11941199.html

            <感謝合掌 令和3年6月12日 頓首再拝>

放つということ - 伝統

2021/06/27 (Sun) 04:52:44


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月27日)より

一度放(はな)してもまた知らぬ間に握っていることがある。
そしてその時は握ったと気がつかないで放したつもりでいるのだから始末が悪い。

放つということはよほどむつかしい。
物を放したら、いつの間にかまた「無(む)」を握っている。

なんにも無いということは「一切が常にある」ということを知ることである。
「《一つだけ》がすでにある」ように思ったり、
「ある特定のものだけ」があるように思ってことさらに執しているのが執着である。

一つを放しても、どの特定が逃げ出しても、
「すでに無限のものが与えられている」と知るのが智慧である。

            <感謝合掌 令和3年6月27日 頓首再拝>

「廓然無聖(かくねんむしょう)」 - 伝統

2021/07/03 (Sat) 03:04:57


          *「光明道中記」(7月3日《無限功徳ある日》)より

【娑婆本来無いから、娑婆にいながら寂光土にいるのだ。(「生命の實相」第十一巻)】

梁(りょう)の武帝は達磨大師から、
今まで自分の行(おこな)って来た供養が、「無功徳!! 」だとの喝を受けて、
自分の倚(よ)って立っていた真理がくだけた気がして寂しくて
耐(た)まらなかった。 

それでは何が最も功徳ある真理だろうか、それが聴きたい。
そこで、「いかなるかこれ聖諦(しょうたい)第一義? 」とたずねたのである。
それでは何が第一義の聖(とうと)き真理でございましょうかと云うほどの意味である。

達磨の答は意表に出(いで)た。
「廓然無聖(かくねんむしょう)」と彼は言ったと、「碧巌録」に書いてある。
聖(しょう)は「悟りの真理」と云うことである。

「聖(とうと)い悟りの真理なんて、そんなものはないのだ」と云う一喝なのだ。

《これが》真理だ、《これが》功徳だなどと言っているものには、功徳を先ず打消し、
真理さえも打消してしまうところに、本当の真理があらわれて来るのである。

一つのものを指(ゆびさ)して、
「《これが》」と言ったとき、指(ゆびさ)すことの出来ない
大地に充(み)つる宏大な真理がくらまされてしまうのである。

達磨が「廓然無聖(かくねんむしょう)」と言って聖諦(さとりのしんり)を否定して
了(しま)ったとき、却って其処に天地に満つる宏大無辺な真理が肯定されているのである。

・・・・

<参照>
Web:かんながら(2021年07月01日)
地平に根を下ろす
https://abetoshiro.ti-da.net/e11969591.html

        <感謝合掌 令和3年7月3日 頓首再拝>

執着を脱して始めて自由 - 伝統

2021/07/06 (Tue) 04:12:27


       *「光明法語」(7月6日)より

「我はいと勝(すぐ)れた者である。一切のものに執着しない。
慈愛(じあい)悉(ことごと)く解脱してみずから覚(さと)る」。

これは釈迦が菩提樹下で悟りを開いて
いと静かに鹿野苑(ろくやおん)の方へ歩まれた時、
異学の優陀(うだ)と云う者が、

釈迦の容貌気色清浄(ようぼうけしきせいじょう)
妙(たえ)にして面光照りわたりたるを見て
訊ねた時に答え給うた言葉の一節である。

「われはいとすぐれたる者だ」とみずから宣言せられたのであるが、
その何がいと優れたる者であると云うと、

一切のものに執着しない事、
あらゆる愛を盡(ことごと)く解脱していることであった。

        <感謝合掌 令和3年7月6日 頓首再拝>

《憎みの種子(たね)を捨てよう》 - 伝統

2021/07/30 (Fri) 04:52:06


      *「眞理」第2巻基礎篇第14章(P382~383)より

すべての悲観的な言葉を出すことは慎まねばならない。
人を憎む言葉を出してはならない。
失敗を予想する言葉を出してはならない。

すべての暗い言葉、淋しい言葉、嘆息(たんそく)などは
それと類似の悪しき結果を生み出すところの
種子(たね)蒔きになるのである。

それは法則によって発芽し生長し果(み)を結ぶのであって、
それはそのほかに別の結果はあり得ないのである。

吾々は法則を変更することはできない。
どの種子(たね)を蒔くか選ぶことが出来るのみである。

すると法則はまた種子(たね)の種類に従って
果(み)を結ばせて下さるのである。

人生に何が幸福であるかと云っても、
愛されると云うことほど幸福な事はないのである。

では憎みの種子(たね)を捨てて
愛の種子(たね)を蒔こうではありませんか。

        <感謝合掌 令和3年7月30日 頓首再拝>

一つの形に執しない - 伝統

2021/08/22 (Sun) 04:59:27


        *「光明法語」(8月21日~22日)より

神は五感も六感も超越せり

「神は五感を超越している、六感も超越している」と『甘露の法雨』は説く。
五感とは眼耳鼻舌身の五つの感覚である。

感覚そのもでは神はわからないが感覚を契機として、
感覚以上のものに超入することは出来るのである。

感覚を通して天地万物、生理作用等の秩序整然たる運行等を見て、
その奥に神あると悟るは是甚(これはなは)だよしである。

六感とは霊眼、霊聴、霊臭、霊味、霊触の如きものであって、
普通の感覚器官以外の方法にて、視、聴き、嗅ぎ、味わい、触覚する如きものである。

・・・

無相にして無限相

霊眼で白髪の老翁の神姿(かみのすがた)を見たとか、
霊触で神の衣に触れたとか云う如きを六感と言うのでるが、
これは神そのものを見たのではなく、神の化身(けしん)を見たに過ぎない。

神は、かくの如き六感を超えた存在であり、相(すがた)形(かたち)なくして、
一切の相(すがた)を現ずるのである。

これを無相にして無限相と呼ぶ。

吾々も神の自己顕現である以上、
無相にして無限相を顕ずる事を心掛けなければならない。

無相とは一つの形に執しない事である。
一切の形式を心から放って自由自在になる事である。

            <感謝合掌 令和3年8月22日 頓首再拝>

真の愛は放つ - 伝統

2021/09/24 (Fri) 04:58:00


    *「光明法語」(9月24日)より

真の愛は放つということである。
そのものの生命(いのち)のままにそのものを行かしめることである。

朝顔の蔓(つる)に牡丹の花を咲かせようとすることではない。
小鳥を籠の中に閉じ込めることではなく、自由に山野に放つが如く、
自分の子供を放つと云うことである。

個人個人は神の創造の一つ一つの中心であるのである。
個人個人の自由を縛るのは、神の創造の一つ一つの中心を束縛すると云うことである。
それは個人に対する冒涜であるばかりでなく、神の創造のみわざに対する冒涜である。

           <感謝合掌 令和3年9月24日 頓首再拝>

実体がないことについて悩まない - 伝統

2021/10/08 (Fri) 04:31:51


        *「心配事の9割は起こらない 減らす、手放す、忘れる-禅の教え」
           枡野 俊明(著) より

余計な不安や悩みを抱えないように、
他人の価値観に振り回されないように、
無駄なものをそぎ落として、限りなくシンプルに生きる。

それが、私の言いたいことです。

禅僧という立場だからでしょうか、
私はたくさんの人からさまざまな相談を受けます。

内容は千差万別ですが、それでも大別すれば、
不安や悩み、迷い……といったものです。

そんな話にじっくり耳を傾けてみると、気がつくことがあります。

それは、そのほとんどが、実は「妄想」や「思い込み」、
「勘違い」や「取り越し苦労」にすぎない、ということです。
「実体がない」といってもいいでしょう。

「あなたは当事者じゃないからそんなことがいえるんだ!」
「食事も喉を通らないほど悩むことが現実にあるのよ!」、
そう、お叱りを受けるかもしれませんね。

しかし、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」というではないですか。
これは、幽霊と恐れていたものが、なんのことはない、
ただの枯れたススキだった、ということですが、
心にわだかまったり、心を落ち込ませたりしているものも、実はそれと同じ。

客観的に見れば、
「なんでもないこと」に振り回されてしまっていることが多い、
というのも、やっぱり本当のことなのです。


あなたには、こんな経験がないでしょうか。

なにか不安や悩みがあって、心がどんより重たかったのに、
ふとした言葉や行動がきっかけとなって、
「なんだ、たいしたことないじゃないか」と、嘘みたいに心が軽くなった──。

「禅の教え」は、そんなきっかけの宝庫です。


「禅」というと、みなさんはどんなイメージをお持ちでしょうか。
深遠で高邁なもの、つまりは、難しい世界だという印象を
持っているかもしれませんね。

実際、とらえどころのないような会話を「禅問答のようだ」といったりもします。
しかし、それは大いなる誤解です。

禅の教えは、とても身近なところにあります。
日々の暮らしとしっかり結びついています。

例えば、部屋に上がるときに、脱いだ靴をきちんとそろえる──。
こんなことも禅の教えの日常的な実践なのです。
禅語の「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」は、まさしくそのことを言っています。

また、「喫茶喫飯(きっさきっぱん)」という禅語は、
余計なことを考えず、お茶をいただくときには、お茶を飲むことだけに集中して、
ご飯をいただくときにはご飯を食べることに集中しなさい、という教えです。

一見、「あたりまえ」のことですが、その「あたりまえ」のことを大切に、
丁寧に実践することで、「いま」「ここ」だけに集中する。
そうすることで余計な不安や悩みを抱えないように、心が整っていくのです。

心配事の「先取り」などせず、「いま」「ここ」だけに集中しましょう。

ポイントは、減らす、手放す、忘れる──。

そうすることで、もっとラクに、のびのびと、
前向きに生きている自分に出会うことができるでしょう。

           <感謝合掌 令和3年10月8日 頓首再拝>

愛憎のないところに自由自在を得る - 伝統

2021/10/17 (Sun) 05:00:21


    *「光明道中記」(10月17日《愛憎を超える日》)より

【真に人を救う道は無我の愛にて相手を目覚めさせるにある。
                   (『生命の實相』第二巻)】

地獄とは自在を失った状態である。
自在を失うから苦しいのである。

では自在とは何であるか。
何ものにも囚(とら)えられないことである。

愛憎は人間の心を最もよく囚えて自由自在を失わしめる。
愛憎のないところに自由自在を得るのである。

死ぬのが恐ろしいと云うのも、生を愛し死を憎むからである。
生を愛し死を憎むことがなかったら生死に囚えられぬ。
生死に囚えられなかったら生死に於て自由自在である。

沢庵禅師が柳生但馬守と立会ったが、剣聖但馬が斬り込もうと思っても
斬り込む隙がなかったと云う話がある。

日本へ来て北条時宗の悟の師となった祖元禅師は
元の兵来たって彼を斬ろうとした時平然として

「人空(にんくう)また法空(ほうくう)、電光影裡、春風を斬る」

と一喝を諷して首をさし伸べたが斬ることが出来なかった。

禅宗六祖の慧能も神秀の弟子行昌(ぎょうしょう)が来って
斬ろうとしたとき平然として首をさし伸べたが
三たび剣を揮えども斬ることが出来なかった。

「善し悪しやにくいや可愛い」があるからこそ、
通力を失って斬られるものを。
通力を失うのは囚われるからである。

囚われなければ吾々は白隠禅師の言ったように生身の観自在菩薩であるのだ。

病気などに罹(かか)るのも愛憎に捉われて通力を失うからである。

           <感謝合掌 令和3年10月17日 頓首再拝>

愛憎に囚われない道は、必勝の道 - 伝統

2021/10/18 (Mon) 03:41:11


    *「光明道中記」(10月18日《愛憎を捨てる日》)より

【ひらいた掌(てのひら)だけが新しいものを掴むことが出来る。
                   (『生命の實相』第十一巻)】

沢庵禅師が柳生但馬守と試合(たちあ)ったとき、
沢庵禅師に少しも隙がなかったが、
禅師が柳生但馬守に授けられた『不動智神妙録』と云うのがある。

それには和解が必勝の道であると云うことが書いてあるのである。
和解と云うのは愛憎に囚われない道であるから
同時に必勝の道となるのである。

『不動智神妙録』の一節に

「物に心が止(とどま)り候へば、いろいろの分別が胸に候間、
 胸のうちにいろいろに動き候。
 止まれば止まる心は動きても、うごかぬにて候。

 たとへば十人して一太刀づつ我へ太刀を入るるも、
 一太刀を受流して跡に心を止めず、跡を捨て跡を拾ひ候はば、
 十人ながらへ働きを欠かさぬにて候。

 十人十度、心は働けども、一人にも心を止めずば、
 次第に取合ひて、働きは欠け申す間敷候(まじくそうろう)。

 若し又、一人の前に心が止まり候はば、一人の打つ太刀をば
 受流すべけれども、二人めの時は、手前の働き抜け申すべく候。

 千手観音とて、手が千御入(おい)り候ば、弓を取る手に心が止まらば、
 九百九十九の手は皆、用に立ち申す間敷(まじく)候。・・・」

心が一つ物に囚えられたなら、
千本手があっても他の手がお留守になって自由自在を失う。

           <感謝合掌 令和3年10月18日 頓首再拝>

晴天あり、雨天あり、そのまま日々好日である - 伝統

2021/11/13 (Sat) 03:15:01


       *「光明道中記」(11月13日《夫婦互いに調和する日》)より

【周囲の人は自分の生活の鏡。(『生命の實相』第四巻)】

維摩が病気で寝ていたとき、文殊菩薩が病問の使者として来た。
維摩は文殊に対して、「衆生病むが故にわれ病む」と答えている。

生長の家ではあまりに病気が治りすぎるために、
またあまりに現象的利益が得られるために、

現象的な利益に傲(おご)り驕(たかぶ)って、
病気のないことを悟の証拠にしようと思ったり、
金の儲かることを悟の証拠にしようとするような危険がある。

これは厳重に避けなければならない錯誤である。

「従容録」第三十六則馬師不安の公案がある。
不安と云うのは病気と云う意味である。

馬師の話は七月二十一日の欄でも触れたことがあるが、馬大師が病気で寝ていた。
そこで寺の院主が「和尚(おしょう)近日(きんじつ)尊位(そんい)如何(いかん)? 」
とやった。 「近頃病気は如何(いかが)でございますか」と云う程度の問だ。

馬大師答えて曰く、「日面仏(にちめんぶつ)、月面仏(げつめんぶつ)だ」
これは「仏名経」に載せられている仏の名前であるが、
日面仏は昼を照らし、月面仏は夜を照らす。

昼は健康を表し、夜は病気を表している。
馬大師は「昼あり、夜あり、それが自然の健(すこや)かさ」と言ったのだ。
下痢あり、嘔吐あり、そのまま健康なのである。

晴天あり、雨天あり、そのまま日々好日である。
凡夫の晴天はそれに執(とら)われて慢心し、凡夫の雨天はそれに執われて悲しむ。

聖人にも雨は降るが、青空のように雨の染(しみ)を残さぬのである。

          <感謝合掌 令和3年11月13日 頓首再拝>

あとに苦味の残らぬ日 - 伝統

2021/11/24 (Wed) 05:02:32


          *「光明道中記」(11月24日)より

【過去を捉えて離さないのは自分の心である。
 過去の過(あやまち)を消す極意は過去から心を放つにある。
                 (『生命の實相』第一巻)】

人間が時々好きになったり、嫌いになったりすることがある。
嫌いになるのは人間の実相が晦(くら)まされているときである。

先生でも人間が嫌いになることがあるのですか
と言われると、仕方がない。

降参するほかはない。
実際人間がたまらなく嫌いになることがあるので、掛値は言わない。
偉がろうとも思っていない。

解からない人間は耐(たま)らなく嫌いであり、
虫の好すぎる人間もたまらない。
功績を鼻にかける人間も耐(たま)らない。

先生でもそんなに好き嫌いがあるのですかと言われると、
やっぱり、冷たいものは冷たく感ずるし、
熱いものは熱いと感ずるし、
快いものは快いし、不快なものは不快だと言うほかはない。

冷たいものが熱く感じられたり、熱いものが冷たく感じられたり、
下手な音楽が上手だと感じられたりしなければ悟でないと云うのだったら
私はもう悟は御免を蒙(こうむ)りたい。

先生それでは先生は常人と同じではありませんかと言われれば、
そうかも知れない。

ただ常人は一度熱いと執したら
冷たい膾(なます)でも熱いと囚(とら)われるが、
私が異(ちが)うのはただ痕(あと)がのこらないことである。

          <感謝合掌 令和3年11月24日 頓首再拝>

感情は浮かぶに任せ、消えるに任せる - 伝統

2021/12/16 (Thu) 04:44:05


        *「心配事の9割は起こらない 減らす、手放す、忘れる-禅の教え」
           枡野 俊明・著

いつもイライラしてしまう、すぐにクヨクヨしてしまう……。
どうすれば、もっと上手に感情をコントロールできるのか──?

そのためには、「無心」でいることです。
無心であれば、感情に振り回されることはありません。

ものごとに一喜一憂することもなく、気持ちはいつだって平穏です。

しかし、無心でいることは容易なことではなく、なんとも難しい。
坐禅をしているときも、「無心に座らなければ……」という思いが強いと、
かえってそれにとらわれる。「何も考えちゃいけないんだ」
「心を空っぽにしなくては」ということばかりが頭の中で堂々めぐりをしてしまうのです。

坐禅をしていたって、さまざまな思いが浮かんでくるのは止めようがないのです。

浮かんできた思いはそのまま放っておけばいい。
すると、自然に消えていってしまいます。
浮かぶにまかせ、消えるに任せる。

それが「無心」に近い心の在り様です。

水に一石を投じると、さざ波が立ち、波紋が生まれます。
その波紋をなんとか沈めようとして手を水に入れたら、
さらに複雑な波紋が生じる。

放っておけば、しだいに波紋は静まっていき、
やがては鏡のような水面が戻ってきます。

心も同じことでしょう。
「雲無心(くもむしん)にして岫(しゅう)を出(い)ず」という禅語があります。

文字どおり、雲はなにものにもとらわれず、風が吹くままに形を変え
、いざなうままに動いていきながら、雲であるという本分を失うことはない、という意味。

まさに、無心を現じているのです。


私たちは、日々、さまざまな状況に出合います。
いいこともあれば、悪いこともある。
気分が晴れ晴れとすることもあれば、腹に据えかねることもあるでしょう。

いずれにしても、それにとらわれたら心が大きく乱れます。

「あんな言い方しやがって! あの野郎、このままにしちゃおかないぞ!」
心に吹き込んできた“怒りの風”に反発し、抗(あらが)おうとしている姿です。

とらわれている。
これでは頭がそのことでいっぱいになって、心は乱れたまま硬直化してしまいます。


もちろん、喜怒哀楽という感情は、人間らしさそのものですから、
湧き上がってくるのにまかせておけばいいのですが、
それをなんとかしようとするから、跳ね返してやろうと考えるから、
いつまでもそこから離れられなくなるのです。

大地に打ち込まれた杭は、固定化され動くことはありません。
どんなに強風が吹いても、その場で風に抗するしかありません。

しかし、風が更に強まっていけば、いつかはポキリと折れてしまうかもしれません。

一方、竹は風の強さに合わせてしなやかに撓(たわ)み、
どんな強風の中でも決して折れることはありません。
そして、風がやめば、スッとまっすぐに伸びた本来の姿に戻ります。

風が吹くにまかせ、やむにまかせているのです。

そのときどきの思いや感情に「動かされない」でいようとする必要はありません。
浮かぶに任せ、消えるに任せ、です。

それがとらわれない姿。そこに気がついたら、「力み」がなくなり、
「いま」に集中し、心はずっとやわらかく、しなやかになります。

さあ、「無心」にグッと近づいていきましょう。

https://forbesjapan.com/articles/detail/39182/2/1/1

          <感謝合掌 令和3年12月16日 頓首再拝>

「あせり」 を放つ、捨てる。 - 伝統

2022/01/07 (Fri) 04:37:36


【今すぐ捨てて】これだけ手放せば、2022年確実に奇跡が起こります。
【魔法使いの学校】吉岡純子(2021/12/16)
https://www.youtube.com/watch?v=dGh65mYsd8c

「あせり」 を放つ、捨てる。

「あせり」に気づいたら、それを共感し、受容し、切り替える。

切り替える際の動作を活用する。
喜びの際の動作を行なうことで、切り替えることができる。

波動を高めてやる。・・・呼吸をゆっくり、リラックス等

幸せを感じて生きる。

           <感謝合掌 令和4年1月7日 頓首再拝>

心の把みを放して、故郷(ふるさと)(=実相異世界)に還りなさい - 伝統

2022/02/03 (Thu) 05:00:07


        *『 生長の家 』(昭和49年4月5日の法語)より   

   【 祈り 】《不安恐怖を去り問題を解消する祈り》

   【 神言い給う 「 我に来れ、我れ汝を安息(やす)ましめん 」 と。
   わたしは 此の “ 神の言葉 ” にこたえて一切の “ 自我の心 ” を棄て、
   ひたすら心 神に向かう。

   私は 神に無条件に全托し、すべての問題を神に委(ゆだ)ねて
   神にそのまま 倚(よ)りかかる。

   それ故に 何の不安も心配もなく、神の平和と調和と健康と悦びとは
   そのまま わが平和となり、調和となり、健康となり、悦びとなったのである。

   すべての問題は、すべての人間を幸福にし給う
   神の智慧と愛とによって解決せられて、
   皆が悦び、私もまた悦ぶのである。

   われ神に感謝し奉る。ありがとうございます。 】


   あなたは自分の手をひろげて、またそれを握って見てご覧なさい。
   握っている掌(てのひら)の中には
   極(ごく)わずかの分量しか入らないでしょう。

   併(しか)し その掌をひらけば その上に虚空が載るのです。

   禅宗には 「 空手還郷(くうしゅげんきょう)」
   という語(ことば)があります。

   心の把みを放して、心が空っぽになって故郷(ふるさと)に還りなさい。
   そこは 自由自在の境であり、無限供給の世界であるという意味である。

   故郷というのは 自分の 「 実相 」 のことです。

   みんな悩んでいる人は、過去をつかみ、人の過ちをつかみ、
   自分の失敗をつかみ、問題をつかみ、
   自分勝手に、神の子本来の自由自在を棄てて悩んでいるのです。

   本来神の子の実相郷里に還れば、
   其処(そこ)は既に天国であり、龍宮城であり、
   無限の宝の世界なのであります。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=125

           <感謝合掌 令和4年2月3日 頓首再拝>

《自分の立場を捨てること》 - 伝統

2022/02/05 (Sat) 04:53:15


           *「光明法語」(2月5日)より

自分の立場だけを考えては可かぬ。
人には色々の立場があり、その立場に立って思い、考え、
感じ、悲しみ、苦しみ、喜んでいるのである。

彼の立場に立って同喜同悲してやるのでなければ本当に愛深いという事は出来ぬ。
愛とは自分の立場に立たず、彼の立場に立って、彼のために考えてやることである。

「汝みずからの如く汝の隣人を愛せよ」とのイエスの聖訓はまさにこの事に他ならない。

『甘露の法雨』を読んでも神想観をしても治らぬ病人で
「自分の立場を捨てよ、頑固に自分を主張する心を捨てよ」と
教えられて治った人もある。

           <感謝合掌 令和4年2月5日 頓首再拝>

よく放つとき、よく生きる  - 伝統

2022/02/17 (Thu) 04:53:50


     *「光明道中記」(2月17日《自在を得る日》)より

【一つのものにでも執(しゅう)したら、苦しみは其処から始まる。
                  (『生命の實相』第十一巻)】
 
解脱を仏と言う。解脱とは執なきを言う。
執のなきを自在と言う。執を縛(ばく)と言う。
執は一定のところに縛り附けて其の自由を奪って了(しま)うからである。
 
子供に執すれば、子供はその自由を失って
病気に罹ったり成績が悪くなったりするであろう。

執愛は縛愛(なくあい)であり、
一定の場所に相手を縛りつけて自由を失って了う愛であるからである。
 
子を愛する者は、子を《よく》放たねばならぬ。
小鳥を愛する者は小鳥を《よく》放たねばならぬ。

小鳥を愛すると称して籠の中につなぎとめて置くとき、
その小鳥は永生きしないであろう。
放たれてこそ、小鳥はその生命の自由を発揮して健全なるを得るのである。
子も亦斯くの如くよく放つとき、よく生きる。

「愛」を釈迦は煩悩のうちに数えた。
愛をキリストは神性のうちに数えた。
愛は煩悩より出でて神性にまで昇るものである。
愛は神性より出でて煩悩にまで墜落するものである。
 
愛が愛である使命を果たすには智慧に導かれねばならぬ。

           <感謝合掌 令和4年2月17日 頓首再拝>

相手を自由に解放する - 伝統

2022/04/20 (Wed) 07:14:50


    *「光明法語」(4月20日《神の愛は放つ愛である》)より

神の愛は《そのまま》である。
人間に完全なる自由を与えたまうているのである。
決して善へとのみ強制し給わないのである。

愛とは相手を自由に解放することである。
解放が愛である。

愛は朝顔に朝顔の花を開かしめ、牡丹には牡丹の花を開かしめ、
薔薇には薔薇の花を開かしめる。
それ自身の本性をのびのび解放するのである。

相手を自分につなぎとめて置くのは飼犬を鎖で縛りつけ、
愛鳥を籠の中に入れて置く愛である。

愛は相手の生命を自由に解放して、その生命の本然のところに行かしめるのである。

           <感謝合掌 令和4年4月20日 頓首再拝>

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