伝統板・第二
神癒 ⑤ - 伝統
2020/06/19 (Fri) 04:50:01
病者へは、思念より真理を理解せしめよ
*「光明道中記」(6月19日《愛行完き日》)より
【心が完全に人間の実相を映す時、肉体人間は本来の完全さを顕現する。
(『生命の實相』第四巻)】
凡(およ)そ利己のために思念すべきものではないし、
また他の利己心を満足せしむるために思念すべきではない。
病者に癒しの思念をするのも同じである。
自分の栄誉や利益のために人に思念して癒してもならないし、
病者が利己のためにその寿命の存続をねがっている場合にも思念してはならないのである。
病者を癒さんとするならば、
先ず今後利己のためにはその「生命」を使用しないことを誓わしめるべきである。
病者の魂の転向が完全であるならば神の生命流れ入りて、
其の時よりその病いは癒え始めるであろう。
此方(こちら)の「我(が)」の思念の力で、
病者に健康の念を送ってもその病は癒える事はある。
けれども若し、それが動機となって相手の魂が救われることがなく、
病気を馬鹿にする気になって、生きている間じゅう相手が一層利己的な生活をつづけるならば、
癒したことは善事か悪事か疑問である。
重荷は理由なくして人の魂の上から卸(おろ)してやるべきではない。
重荷はみずから運んで行き、彼の魂が重荷を軽く扱うことが出来るようにこそ
誘導すべきである。
思念よりも真理を理解せしむるようつとめよ。
思念するならば「あなたの心には神の愛が満ちている」と思念せよ。
・・・
<関連Web>
(1)光明掲示板・第二「神癒への原理 (10739)」
→ http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2065 (消滅)
伝統第二「光明掲示板・第二「神癒への原理 (10739)」」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7823515
(2)光明掲示板・第三「神癒」
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=243
(3)光明掲示板・伝統・第一「神癒 (68)」
→ http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=42
(4)伝統板・第二「神癒①」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6458999
(5)伝統板・第二「神癒②」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6910051
(6)伝統板・第二「神癒③」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7640600
(7)伝統板・第二「神癒 ④」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7820270
<感謝合掌 令和2年6月19日 頓首再拝>
利己的な心に気づくことで病気は治る - 伝統
2020/06/20 (Sat) 04:53:22
*「光明道中記」(6月20日《自分の心を調べて見る日》)より
【心の世界にて形成された運命が物質世界に映って初めて地上の事件となる
(『生命の實相』第一巻)】
自分が利己的な心を持っていて、寛大な愛他的な相手が出て来て
自分を助けてくれそうなものだと思うことは愚かなことである。
利己心は利己心を招(よ)びむかえるだけである。
類は類を招(よ)び、朋(とも)は友を招ぶ。
憎む心を捨てないでいて本当に健康になろうと望んでも、
本当の健康になることは出来る筈がない。
どこかに頭につかえるものが残っているし、腹につかえるものが残っているからである。
多くの病人は自分が利己的であるがために病気に罹っている者である。
或るニュー・ソートの治療家(ヒーラー)の所へ通って来る患者があった。
彼女は規定の料金の数倍も支払って長時間思念をして貰っても病気が治らないのであった。
治療家(ヒーラー)はその理由を考えた。
その患者には出来るだけ自分《だけ》長時間思念をして貰いたいと云う
利己心があることが判った。
治療家はそのことを患者に指摘した。
その利己心に気が着いたときに、その患者の病気は治ったのである。
『生命の實相』は全部読むのは中々大変であるから、
先生に直接返事を頂きたいと云う患者も此の種類に属している。
<感謝合掌 令和2年6月20日 頓首再拝>
癒えないと云う人には6種類ある - 伝統
2020/06/23 (Tue) 04:48:35
*「光明道中記」(6月23日《食堂楽しき日》)より抜粋
【形あるものは心の世界に形を持続する力がなくなった時速やかに崩壊し始める。
(『生命の實相』第四巻)】
病気を癒そうと思って神想観をしながら、癒えないと云う人には6種類ある。
(1)「病気を癒そう」と思って神想観をするために、常に、
「病気、病気」と心に念じて絶えることがないのである。
(2)家族のうちに反対観念者があって、そんなことで治るものかと強く念じている場合。
(3)憎んでいる人を赦していない場合。
(4)何か未来のことに取越苦労のある場合。
(5)心が焦(あせ)っている場合。
(6)死に切っていない場合
―― 換言すれば利己心を殺し切っていない場合。
利己心を殺し切った者には恐怖心はないのである。
恐怖心は利己心から来るのである。
<感謝合掌 令和2年6月23日 頓首再拝>
《病気を癒(いや)すには》 - 伝統
2020/06/28 (Sun) 04:06:39
*『 生長の家 』(昭和25年3月28日の法語)より
吾々が何か病気に罹(かか)っているならば
それは決して神がこしらえた病気ではないのである。
それは唯 自分の心の影であるから、心を平和に落着けて合掌して
「 神はすべてのすべてである。
神は善であるから神の造り給いし世界には病気はないのである。
自分の体は神の完全なる生命の最高の自己実現であるから
病気になどなる筈(はず)がないのである。
病気は自分の心の迷いである。今自分は心の迷いを去って
神の姿そのものの完全なる姿をみるのである 」
かく心の中(うち)に深く念じて 神の姿そのままに完全な自分の姿を
心に描いてみつめるようにするならば やがてその病気は消えてしまうのである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67
<感謝合掌 令和2年6月28日 頓首再拝>
自然療能力を呼び出すには - 伝統
2020/07/04 (Sat) 04:49:52
*『 生長の家 』(昭和26年5月29日の法語)より
吾々の肉体の内には無限の自然療能力が宿っているのである。
その自然療能力こそ、心臓も肺臓も胃袋もなき一個の卵細胞から
この無限に複雑なる内臓諸機関を作り出したところの不可思議力なのである。
この不可思議力の活動を喚(よ)び覚ますことに成功するならば、
如何なる病いも癒(い)
えないと云うことはないのである。
想念は不可思議力を自分の欲する形にまで誘導するところの力である。
この不可思議力を「療能力」として想念し、その方へ想念を集中するならば、
その不可思議力は癒やす力として直(ただ)ちに働き来(きた)るのである。
病気の時には、却って病気を思わず、
「 神の生命流れ入りて今、癒やし給(たま)いつつある 」
と思念すべきである。
(http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110 )
<感謝合掌 令和2年7月4日 頓首再拝>
心を空っぽにして 「 健康 」 の念を注入せよ - 伝統
2020/07/19 (Sun) 04:43:16
*『 生長の家 』(昭和26年6月1日の法語)より
一度 器(うつわ)を空っぽにしてしまわなければ
新しい酒は入れることができない。
病気を心の中にしっかりと把握している限りに於いて、
健康の観念をつぎ込むことは出来ない。
病気を治すには第一 病気の観念を捨ててしまわなければならない。
病気をわすれると云うことである。
病気を治そうとあせっているものの病気が治らないのはそのためである。
吾々は不調和を心から捨てなければ調和を得ることは出来ない。
心に病気を描くこと、
死を描くこと、
恐怖すること、
人を憎むこと、
争うこと、
悲しむこと、
嫉妬(しっと)すること、
猜疑(さいぎ)すること、
すべて心の不調和である。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127
<感謝合掌 令和2年7月19日 頓首再拝>
『全き神のいのち』に浸りきる - 伝統
2020/07/23 (Thu) 04:48:54
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月23日)より
「神はすべてのすべて・・・神は全(また)き生命(いのち)」と
瞑目して繰り返し繰り返し念ぜよ。
かく念じつつ、神の生命(いのち)が、宇宙全体に、すべてのものの内に、いっさいのものの
内に、そして「自分の内にも充ち満ち、その『全き神のいのち』にすっかり包み込まれ、
それに生かされている」との深い実感のうちに、30分間を浸りきることは極めて尊き
神想観である。
病ある者はすみやかに癒されるであろう。
観中、「病を癒す」などの念を起こす必要はない。
神の生命(いのち)の中に没入しているかぎりにおいて、そこには病は無いのであるから。
<感謝合掌 令和2年7月23日 頓首再拝>
病気は自己限定によって起る - 伝統
2020/08/04 (Tue) 04:45:29
*「生長の家」(昭和51年6月19日の法語)より
『愛と光の生活』の91頁には”病気も怠け 者も本当は無い”
と題して次のように書かれ ているのである。----------
「神様は善でいらっしゃいますから、悪いものを決してお創造りになりませんでした。
悪いものを神様は決してお創造りにはならなかったのでありますから、
悪いものはあるように見えても、それは無いのです。
病気もあるように見えても無いのです。
あなたがたとい怠け者に見えていようとも、怠け者のあなたは無いのです。
本当 のあなたは決して病気でもありませんし、怠け者でもないのです。
ただあなたはあなたの心で、病気のように、また怠け者のように
あらわしているに過ぎないのです。
それは1万円であっても5円位きり出さないのと同じなのです。
病気や怠け者は、あるだけの力を出さないで、1万円を5円の値打ちだと
思い間違えているのと同じなのです。」
と示されているのである。
つまり、”人間・ 神の子、無限力”と自分の実相の”本当の健全さ”を悟ると、
自己限定によって生じている病気は消えてしまうのである。
(http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1363)
<感謝合掌 令和2年8月4日 頓首再拝>
「自分は健康だ」との観念を徹底させる - 伝統
2020/08/07 (Fri) 05:02:34
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月7日)より
健康を破壊してどうしても快復し難いのは、
その人が「自分は健康を損なった」という観念にしがみついているからである。
いろいろの療法や、思念や、聖典読誦が功を奏さないのは、
一方に「自分は病気だから、こうして治そう」というように、
「自分は病気だから」の観念に固くしがみついて、
それと相撲をとっているからである。
「病気はない」は真理であり実相であるから、
その健康なる実相を招(よ)び出そうとしながら、
「自分は病気だから」という考えの上にいつまでも足踏みしているようなことでは
「病気はない」の観念を招(よ)び出すことはできないのである。
「自分は病気だから」の観念を抛擲(ほうてき)して、端的に、
「自分は健康だ」の観念に置き換えたらその病気は癒えるのである。
ではその方法はいかん?
それは、すでに自分は健康である、
完全に創造されているとの前提の下に神に感謝するのである。
合掌神想観をなして、次の如く神に感謝すべきである。
「神はすべてのすべてであり、完(まつた)き生命(いのち)であり、
完(まつた)き叡智(みちえ)であり、完(まつた)き聖愛(みあい)である。
すべてのもののうちに神の生命(いのち)は生き、神の叡智(みちえ)は充ち、
神の聖愛(みあい)は満ちている。
その例に漏れず自分のうちにも神の完(まつた)き生命(いのち)、
完(まつた)き叡智(みちえ)、完(まつた)き聖愛(みあい)は充ち、
それによって自分は完全に健康に生かされているのである。
自分は今まったく完全に健康に生かされているのでございます。
ありがとうございます。ありがとうございます。
自分は今まったく完全に健康に生かされているのでございます。
ありがとうございます。ありがとうございます。・・・」
こう、現に今健康で”ある”ところの思いに浸りきって、如実にそれを実感して
本当に感謝の言葉を述べることは、「自分は今病気だから、治すために・・・」
などという考えを一転せしめる力がある。
最後の「今まったく完全に健康に生かされている、ありがとうございます」
の言葉をできるだけ実感せまる調子で、心のうちに幾回でも、
その実感が徹底するまで繰り返すがよいのである。
<感謝合掌 令和2年8月7日 頓首再拝>
倶に泣くことによって癒される - 伝統
2020/08/08 (Sat) 03:30:01
*「光明道中記」(8月8日《倶(とも)に泣く日》)より
【家庭を本当に愛しないものは、本当に神を愛しているのではない。
(『生命の實相』第ニ巻)】
「倶(とも)に泣く」と云う感じは自他一体の感じであるから、
しみじみと有難く感じられる。
「咎める」と云う感じは自他分離の感じであるから、
有難く感じられないのである。
「倶に泣く」と云う感じは、軽蔑感から来るのではなく、
本来あるべき筈(はず)の尊厳の境地を尊ぶことを前提として、
その墜落をともに悲しむのであるから、素直にすらすらと受け入れられる。
人間がよくなるためには自尊の念を必要とする。
自尊がなければ自暴に陥る。
自暴に陥れば改善とか改悛とかいうことはあり得ない。
自尊は他敬によって養われるのである。
「咎める」言葉が不結果を招く原因は、こんな所にもあることが判るのである。
人の悪を咎めるよりも、自己が倶に泣く愛の欠乏していることを恥じよ。
「愛」の中にこそ聖泉がある。
それは智慧が如何に斫(き)り開いても発見することの出来ないところの聖泉である。
その聖泉に身をひたすとき、一切の不完全は癒されるのである。
みんなと倶に泣こう。
悲しめる人は倶に泣くことによって癒されるであろう。
多くの病める人も倶に泣くことによって癒されるであろう。
<感謝合掌 令和2年8月8日 頓首再拝>
神癒の根源をつかめよ - 伝統
2020/08/11 (Tue) 02:45:42
*『 生長の家 』(昭和26年6月22日の法語)より
すべての癒(い)ゆる第一歩は、
神は到る処に満ちている云う根本原理を知ることにある。
その次には 神は善であって、神のいます処に
如何なる悪も存在しないと知ることである。
神は善であっても、力が足りなければ 其の善を実現することが出来ないが、
神は全能であるのである。
「 神に於いては何事も不可能ではない。その神は吾が内にましまして
吾を癒し給いつつあるのである 」
と となえながら眠ってしまうことは、眠っている間に
内なる真の癒力(いやすちから)を発揮する方法である。
色々、罪や過ちの観念で悩んでいる人は、
「 神はわれを赦したまいて 愛の慈手(みて)をもて抱き給う。吾は既に癒されたり 」
と念じながら眠るのも好(よ)い。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127
<感謝合掌 令和2年8月11日 頓首再拝>
《自然療能の力》 - 伝統
2020/08/20 (Thu) 04:55:46
*「眞理」第2巻基礎編第6章(P156)より
ロイ・H・マッケイ博士はその著『自然療能を働かしめよ』と云う著書の中で、
「多くの人々は知らないでか、それとも信じたくないのか、
病気の80%はただ寝床に行って適当な食物を食べるだけで
何ら医者の処置なしに快方に赴くものであることを認めようとしないのである。
これは外科のことにも当てはまるのであって、
毎日驚くほどの人数が不必要にも外科手術を受けているのである」
と言っている。
このマッケイ博士は決して精神治療家でも心霊治療家でもないのである。
彼は有名なる外科医なのである。
そしてその序文に、
「本当は、こんな著書は自分は書きたくなかったのだが」と書いている。
いやいやながら本音を吐いたと云う意味である。
<感謝合掌 令和2年8月20日 頓首再拝>
《大自然の調節力に従いなさい》 - 伝統
2020/08/23 (Sun) 04:21:18
*「眞理」第2巻基礎編第6章(P157)より
苦痛のときに何よりも先きに、
吾々が振り向かなければならないものは、神であるのである。
明るい心をもって、
(悲しみつつでは、神の光の波長と波長が合わないのだ)
神に振向くことなのである。
肺臓も心臓も如何なる内臓も何もなかった卵細胞から、
この精密な肉体組織をつくり出したのは目に視えない神の力である。
その神の力(大自然の力と言っても好い)が、
あなたの内部に宿ってあなたの生命(せいめい)となっているのである。
その内部の力に頼ったら、
無いところからでも肺臓でも作る生命力であるから、
肺臓の空洞ぐらいは直ぐ埋める力がある筈である。
その他(た)の病気でも同じことである。
大自然の癒やす力の中には「正しい食欲」と云うのがある。
食欲が起らないのに、時間が来たと云って、食物をたべるのは
大自然が調節している生理作用を攪き乱すことになるのである。
多くの病気は、本当に空腹にならないのに
食物を消化器に押し込むことから起っている。
<感謝合掌 令和2年8月23日 頓首再拝>
法爾(ほうさながら)になる時病気が治る - 伝統
2020/08/25 (Tue) 04:16:17
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月25日)より
執着の愛は憎悪と裏表である。
憎み、嫉(ねた)み、憤(いか)り、苛立ち、惜しみ、悲しみ、嘆きは
すべて病気の因(もと)である。
法爾(ほうさながら)になる時病気が治るのは、
法爾(ほうさながら)の境地は執着を断った境地であるからである。
天理教で、「病気が治りたいなら、すべてのものを神様にあげてしまえ」と言うのも、
法爾(ほうさながら)の心境にならせるためであって、
必ずしも搾取の手段ではないのである。
搾取は教会の制度から来るのであって、教祖の教えから来るのではないのである。
<感謝合掌 令和2年8月25日 頓首再拝>
《誰かが病気である場合には》 - 伝統
2020/09/02 (Wed) 04:45:28
*「眞理」第2巻基礎編第6章(P168~169)より
若し、あなたの家族の誰かが病気であるならば、
病気のことについて気を揉んではならないのである。
医者をすぐ呼んで、
「此の医者は天の使であって、神の愛のあらわれである。
必ず過(あやま)たずに適当な処置を講じて下さるに違いない」と念じて、
其の医者の実相が「神の愛」であること、
その処置は、神の愛が現象化してあらわれるに必要にして適切なる過程である
と云う事を信じて、医者の実相を拝むようにしているならば、
屹度そのように医者の処置は過たず、完全な処置がとられて
健康を速やかに恢復し得るようになるのである。
同時に、患者に対しても
「この人は神の子であり、完全であり、健康である。
今その完全さが愈々益々明らかにあらわれつつある」と念ずるときには、
その完全健康なる実相が一層速やかにあらわれて来るのである。
<感謝合掌 令和2年9月2日 頓首再拝>
《心で病気を癒やすには》 - 伝統
2020/09/09 (Wed) 03:10:25
*「眞理」第2巻基礎編第6章(P169~170)より
若しあなたが、実相の完全さを観ずることによって
自分の病気を、又は他(た)の人の病気を癒やそうとお考えになるならば、
その実相を観ずる神想観(又は思念方法)を行う直前以外には
決してその病気のことを語ったり思ったりしてはならないのである。
実相を観ずることによって病気が治る原理は、
「観ることは創造ることである」
「思うことは表現される」
と云う哲学的真理である。
だから、神想観(又は思念療法)の時に、折角、
「人間の完全な実相」を観じ想念しながら、
すぐあとからその「病気の仮相(すがた)」を観じ想念するならば、
これは全く打ち消しになってしまうのである。
何でも悪いことは観ず思わず、良い事のみを見詰めれば、
上手な手本を見詰めながら習字をすれば習字が上手になるように、
健康も改善されて来るのである。
<感謝合掌 令和2年9月9日 頓首再拝>
《愛は一切を癒すのである》 - 伝統
2020/09/15 (Tue) 04:59:49
*『 生長の家 』(昭和25年2月13日の法語)より
剣(つるぎ)に対して
剣を以て征服してはならない。
憎みに対して
憎みで征服してはならない。
怒りに対して
怒りで征服してはならない。
悪に対して
悪で征服してはならない。
凡(あら)ゆる問題の解決は、
「 吾は道なり 」 といわれた所の
キリストの行(ゆ)き方にあるのである。
キリストは 愛である。
愛は 一切の問題を解決する道である。
愛は 自己の病いを癒し 人の病いを癒す。
病める者よ。汝は愛にそむいていないか。
誰(たれ)か 憎んでいないか。本当に赦(ゆる)しているか。
かえりみて本当の愛に立ちかえれば癒されるのである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58
<感謝合掌 令和2年9月15日 頓首再拝>
《病気の治る中心課題》 - 伝統
2020/09/22 (Tue) 04:56:51
*『 生長の家 』(昭和25年11月25日の法語)より
真に「人間神の子」の自覚に到達したならば、
自分自身を「神の子」と知るだけでなく、
他の人をも悉(ことごと)く神の子だと尊敬しなければならぬ。
それが出来なくて、「人間神の子」の真理を悟ったのに
病気が治らないのは 何故だなどと云う勿(なか)れ。
病気を治すよりも何よりも、
すべての人間を神の子として尊敬し、愛し、それに好意を持ち、
柔(やさ)しき言葉を使い、和顔を以て人に接し、
泣き言を云わず、褒めることと、よき噂(うわさ)と、
真理のみを語るようにせよ。
その時こそ真に「神の子」の実相を行の上にも自覚したのであって、
病気も必ず治り、運命も必ず好転するのである。
(別著『神癒への道』参照)
<感謝合掌 令和2年9月22日 頓首再拝>
《愛行は病気治しが目的ではない》 - 伝統
2020/10/05 (Mon) 03:29:00
*「真理」第9巻生活篇第14章(P395~396)より
私たちが人を救(たす)けるとき、
その人を救けたら何らかの物質的利益があると
思って愛行するならばもっとも低い愛行である。
善行をつんだら天の倉に徳を積むことになると考えて愛行をするならば、
多少、精神的な利己が混じってあるが稍々(やや)高き愛行である。
神は愛であるから、ただ愛のみのために、神を実践するためのみに
純粋に愛行を行なうならば、それは最も高き愛行である。
愛行を切に実践することによって病気の治る実例は沢山ある。
便所に御礼を言って毎日みずから感謝しながら拭き掃除をすることによって
婦人病から救われた婦人もある。
しかし病気を治したい、と思って同じことをやって見ても
治らない人もある。
感謝をし、愛行を行なうのは、
感謝のため、愛行のために愛行するのであって、
病気を治すためにするのではないのである。
愛行が徹底したとき病気が治る実例がでるのは、
「本当の自分」が表面に出るからである。
<感謝合掌 令和2年10月5日 頓首再拝>
宇宙の大自療力 - 伝統
2020/10/12 (Mon) 04:38:00
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月12日)より
宇宙には無限の癒す力が充ち満ちているのである。
祈りと思念とはその無限の癒す力に接触する道である。
どんなに砂塵や煤煙が濛々と立ち騰(のぼ)っても
しばらくのうちに空気が澄みきってゆく力、
どんなに土砂降りで泥や塵芥が海中に押し流されても、
それを浄(きよ)らかな澄みきった海水に変化する力、
皮膚や筋肉に負傷しても下からそれを再生する不可思議な自療力
―― 考えれば宇宙にはいたるところに、
自療力(みずからなおすちから)が充ち満ちているのである。
しかし皮膚や筋肉や内臓に故障が起こっても
それを自療してゆく力の起こる人と起こらない人とがあるのはなぜであろうか。
それは宇宙の大自療力をみずから認めないで拒(こば)んでいるからである。
<感謝合掌 令和2年10月12日 頓首再拝>
《先ず”魂の病気”を治しましょう》 - 伝統
2020/10/14 (Wed) 05:02:35
*「真理」第9巻生活篇第14章(P396)より
肉体の病気を治そうと考えるよりも、魂の病気を治そうと心掛けよ。
肉体の病気は肉体が死んでしまったら無くなるのであるから百年も続く病気はない。
魂の病気は肉体が死んでも無くならないから永遠につづくのである。
だから宗教で救われようと思う人は、
先ず魂の病気を消したいと云う念願に燃えなければならないのである。
而も宗教に来て肉体の病気を治して貰いながら、
肉体の病気が治ったら用が済んだと、恩を忘れて
”魂の病気”を背負ったまま去って行く人があるのはまことに気の毒である。
”恩を忘れる”と云うことは”魂の病気”のうちでもすこぶる悪質の重病であるのである。
肉体の病気の治ることを求めるよりも先ず”魂の病気”を治せ。
報恩と感謝行とは、忘恩と云う”魂の病気”を治す特効薬である。
<感謝合掌 令和2年10月14日 頓首再拝>
《家族相互の小さき葛藤を取り除くこと》 - 伝統
2020/10/16 (Fri) 04:54:41
*『人生の秘訣365章』第8篇(P190~191) より
祈りによって人の病気を癒す力はありながら、
自分又は自分の家族の病気が中々なおらないようなことが随分あるのである。
癒された人は、何故癒されたかというと、その人はあなたを信じたからである。
「汝の信仰、汝を癒せり」と、こんな場合イエスは言っているのである。
自分自身の病気が治らなかったり、家族の病気がなおらなかったりしたのは、
家族互いの間に精神的紛糾や精神的葛藤があって、
「神の救いの霊波を素直に能(よ)う受けぬ」場合が多いのである。
一寸した絶縁体が電極の接続部(コネクション)に付着しているだけで、
テレビが旨く映って出ない事が往々にしてあるのである。
それと同じく、一寸した家族間の反感や不平が
神の恵みを受けることを妨げる絶縁体になっていることも往々にしてあるのである。
そんな場合、家族の誰かが気がついて、
そのような反感や不平を感謝にかえるようにするならば
不思議に家族の病気が消えることがあるのである。
神と自分を隔てる絶縁体を取り除くことになるからである。
神癒の妨礙となるものが取り除かれたならば神癒が実現するのは当然である。
<感謝合掌 令和2年10月16日 頓首再拝>
偉大な”神癒の原理” - 伝統
2020/10/25 (Sun) 04:34:41
*「練成会に臨んで内観すること」信濃練成 藤原敏之部長
~光明掲示板・第一「練成会に臨んで内観すること」
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1580
合掌、有難う御座います。
生長の家大神の御守りと御導きを賜り、
尊師谷口雅春先生の御恩徳によりまして、
毎回信濃練成に於て神癒と奇蹟とが続出しておりますことを
此の上もなく有難く感謝申上げます。
医学や常識では、到底治る筈が無いというような重患が、
一瞬にして消えたり人間業では解決しそうもない困難な問題が、
忽ち解消すると言っても、
一般には一寸納得出来かね又体験として発表しても
信じようとはしないのであります。
其れ程迄に現象にとらわれ、現象を信じ込んでいるのが人間なのであります。
この長きに亘る迷妄を打ち破ることこそ御教えの目的であり、
根本的課題であると信ずるものであります。
『生命の實相』第一巻第三頁に、この神癒の原理が示されているのであります。
『生命の實相の自性圓萬を自覚すれば、大生命の癒力が働いて
メタフィジカルヒーリング〈神癒〉となります』
とも御示し戴き又實相圓萬の自覚によって、
大生命の治す力が働いてわれわれの不幸を癒して戴くことが
出来るとも御教え戴いておりますから、
私達は只信じて実行すれば、それだけでよいのであります。
私は練成の根本方針を、此処のところに於て実施させて戴いております。
御教えが絶対であり間違いないからこそ御教え通り
どんな悪性疾患も機能障害もみんな消えて治ってしまうのであります。
別に種も仕掛けもないのであります。
強いて言えば、同じお話しをしても行事をするにしても、
形式的とならず、生命が篭り生命を通したものがそこに発現して
練成を受けられる皆様の魂を打ち、
肉の耳で聞くだけではなく魂で受け止め、
身体で受けられる結果神様に直結せられ神癒をお受けになるものと信じます。
理由は私共にも判らず又治る方々にも判らないのであります。
兎に角人間は少し本を読んで判りかけますと、
覚えたものを自分のものだと思い違いしたり、
御教えを私有物とし勝ちでありますが、
このことは極めて警戒を要することだと思います。
御教えを御説き下さる谷口雅春先生も
「自分は教祖ではない教祖は自分を指導して下さる御神霊である」
と申しておられます。
私達は常に神想観して自己を否定し、己れを空しうする時、
神に直結し神の導きを戴くことが出来るのであります。
人間心や人間力で人間が救われる筈がなく、
私達が祈りに徹し自己を放下し切った時、
神は私達を媒体として働き給い、
神智と神愛とを天下し給いて神癒を現わさるものと信じます。
<感謝合掌 令和2年10月25日 頓首再拝>
《何故、病気が継続するか》 - 伝統
2020/10/26 (Mon) 04:55:33
*『 生長の家 』(昭和43年7月12日の法語)より
常に人体には新陳代謝が行われているのであり、
陳き老衰の細胞は送り出されて、新生の若き細胞がとって代わるのである。
それ故に吾々の全身の細胞のうち、1年以上も陳い細胞が存続するのは
極少部分に於いてだけであるといわれている。
だから肉体の殆ど全部分は頗る若いのである。
それゆえ、現在、あなたの体のある部分が病気していても、
その部分の細胞は暫くのうちに送り出されて
「新生細胞」によって置き換へられるのである。
それゆえに現在、どこかに病気があっても心配する必要はないのである。
やがて病気の細胞は送り出される、しかしそれに置き換へられる
「新生細胞」が病気の想念を擔っていては病気が継続するのである。
慢性病というのはそれである。
若しあなたが、病気について思い煩い、
「新生細胞」にその病気を擔わしているならば、
「新生細胞」といえども“病念を擔った細胞”であるから
病気を継続ほか仕方がないのである。
http://bbs7.sekkaku.net/bbs/kimidouge/&mode=res&log=4325
<感謝合掌 令和2年10月26日 頓首再拝>
光明皇后の奇蹟について - 伝統
2020/11/04 (Wed) 05:03:19
*「精神科学」(昭和45年7月号)
~昭和四十五年三月、生長の家記念日の講演会での講話の一部
維摩居士という方は、ただの人間ではないということが
維摩経の終りに近いところに出て来るのであります。
それによると、維摩というのは
東方阿閦(あしゅく)如来の再来であるとあります。
阿閦如来というのは、奈良に今も遺跡があるでしょう。
というのは光明皇后は仏の慈悲はその愛を実践しなければならないというので、
千人の病人の身体を洗ってやりたいという念願を立てられて、浴場を建立せられた。
その浴場の遺跡が今も奈良に残っておりますが、皇后が、九百九十九人の病人を
洗い終わられた時、千人目に癩病患者がやって来て、
「皇后様、どうぞ私の身を洗って下さい」というのであった。
それでその癩患者の体を洗ってやっていると、
「皇后様、私の背中が腐って、そこから膿血が流れているのでございましょう。
膿血を、皇后様、あなた御自身の御口をつけて、御口ずから
この膿血をお吸いくださいましたならば、私の癩病は治るのでございます」
と言ったのであります。
大抵の人なら「ああきたない、迚もこれは叶わん」と逃げ出すかも
しれませんけれども、光明皇后さまは、その癩患者の背に、
自ら御口をおつけになってお吸いになったのである。
ここが大切である。よく心で聴いて下さい。
肉体はないのである。病気はないのである。
だから、穢れなく流れているところの膿血もないのである。
皇后さまは屹度、本来清浄の此の人間の実相を御覧になったのです。
この人間の実相は、本来如来である。
光明輝く如来のいのちがそこに姿をあらわしていらっしゃるのが、
この癩患者である。
だからこれにキッスすることは、如来にキッスをすることである。
そういうわけでその膿血を口をつけてお吸いになったにちがいない。
その瞬間、癩病患者と見えた姿は消えて、彼は阿閦如来の光明燦然と輝く
仏の姿に化して現われられたというのであります。
これは神話でしょうけれども、そういう神話の中に、
全ての人間はその実相を観ずれば、かれは既に如来である、
という真理が表現されているのであります。
ここに、皆さんが人の病気を治す原理もあるのであります。
また自分の病気の治る原理もあるのです。
あなたの前に、仮に病人がそこに居ったら、
神想観をして、病気を見ないで実相を見る。
そして断じて病気を見ないんだ。
現象は本来無いからだ。
そして、相手の人が如来である実相を観るのです。
換言すれば、かれが”神の子”として”神の生命”が今滔々と光明輝く流れ
となって、その人間に流れ入って、既に彼の体に一点の曇りもなく、
そこに、”神の生命”が光明燦然と輝いていらっしゃるその実の姿を
心に描いて、じーっと観ぜさせて頂くのです。
そうしたら、“見られる世界”は見る人の“心の影”であるから、
“見る人”の心の中にその人の病気が消えてしまったら、
その人の病気も消えてしまうということになるのであります。
(http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7973672 )
<感謝合掌 令和2年11月4日 頓首再拝>
人を癒やすために自分を癒やせ - 伝統
2020/11/06 (Fri) 04:45:29
*「光明法語」(11月6日の法語)より
人を癒やす為には、自分の心の中の病気を消す事が必要なのである。
医者が手を放したとき、治る見込みがないと言ったとき、
色々の民間治療家や有名な博士がいずれも失敗したと云うとき、
それをきかされて「不治」を自分も連想するようでは相手を癒やす資格はない。
かかる不治の不安が光明思想をする人を捉えたとき、
先ず思念者は自分自身の想念の歪みを癒やさねばならないのである。
先ず人間は神の子であり、神が霊的実在であるが如く
自分も亦霊的実在である事を念ぜよ。
<感謝合掌 令和2年11月6日 頓首再拝>
すべての悪と病気は神と和解していないところから生ずる - 伝統
2020/11/11 (Wed) 04:44:50
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月11日)より
なんじら立ちかえりて静かにせば救いを得、穏やかにして依り頼まば力を得べしと。
なんじらこのことを好まざりき、なんじら反(かえ)りて言えり。
いな、われら馬に乗りて逃げ走らんと。このゆえになんじら逃げ走らん。
また言えりわれら疾(はや)きものに乗らんと。
このゆえになんじらを追う者疾(はや)かるべし。
(「イザヤ書」第三十章十五~十六節)
これこそがあらゆる病人の心理状態であり、
同時にいっさいの精神治療の原理が書かれているのである。
多くの肉体および経済界の病人はなんらかの自力の馬に乗って逃げ走れば、
病気は追っかけて来ないものだと考えて逃げ走っているのである。
薬剤に頼る病者、手術に頼る病者、金を儲けよう、借金をのがれようと奔走する者
皆然りである。病気や貧乏が近づいて来ないように思いちがいしているのであるが、
そのゆえに、それを追う者もまた疾(はや)くちかづいて来るのである。
ヨブは「請(こ)う、汝、神と和(やわ)らぎて平安(やすき)を得よ。
然らば福禄(さいわい)なんじにきたらん」(「ヨブ記」第二十二章二十一)
と言っているのである。
多くの人たちは神と和解してしないのである。
落ちつかないのは第一根本に神と和解していないからである。
何か神の創造(つく)りたまえる世界にも「悪」が存在すると思い、
神の「目こぼし」があると思い、神を疑っているのである。
真に神を信ずる者はいかなる事態があらわれても、
驚いて馬に乗って逃げるということはないのである。
「静かに」そして穏やかにして、神の力が善にして無限であることを自覚し
それに依りたのまば、勇然と力が湧いてくるのである。
なんじ知れ「神の霊われを造り、全能者の気息(いき)われを活かしむ」
(「ヨブ記」第二十二章四)ということを。
すべての悪と病気は神と和解していないところから生ずるのである。
神罰を信ずる者は神が無限絶対の愛であるということを知らないからである。
誰か人と和解していない者は、実は神と和解していないのである。
なぜなら神のつくり給える世界に悪人があるということを信じて恐怖しているからである。
カール・メニンジャー著『人間の心』には無数の病気が精神治療によって治ったことが
書いてある。(ただしいかに治療したかが書いていないのは遺憾である)
「彼女は《賢明》に医者と協力し、初めて精神医に接してから快方に向かった」
(前書下巻三三三ページ)というふうにである。
「賢明に」というのはどういうふうにかはわからないのである。
わたしは『精神分析の話』の中でいかに器質的疾患がかく分析してかく導いたら
治ったと導き方を多数の実例をあげて書いておいたのである。
この書をメニンジャー博士に捧げたい。
<感謝合掌 令和2年11月11日 頓首再拝>
症状は、自然療能力の現れ - 伝統
2020/11/14 (Sat) 04:59:32
*「光明道中記」(11月14日《執着が無くなる日》)より
【雑念妄想は神想観を妨げず。雑念妄想そのまま実相を念ずれば好い。
(『生命の實相』第九巻)】
下痢あり、嘔吐あり、それがそのまま健康なのである。
凡夫はそれに囚(とら)われて囚人となり、
聖人は囚(かこい)の外に出てそれを見ているだけである。
「何じゃ、そんなことなら生長の家へ入るのではなかった。
生長の家に入れば現実に病気が治るのか思っていた」と
不平を言う者は率爾者(あわてもの)である。
実際病気が軽減し治っているのである。
尤(もっと)も生長の家が治すのではない。
人間には自然療能と云う大生命力が宿っていて、
その儘病気が治るようになっているのである。
そして下痢あり、嘔吐あり、それがそのまま健康であると云うのは、
下痢も嘔吐も自然療能と云う大生命力の働きであるからである。
凡夫は自然療能力が霹靂(へきれき)の如くはためくのを見て戦慄し、
自己に宿る生命力を萎縮せしめて病気を更に増悪せしめるが、
悟った人はそれを有難いと見て感謝して恐れないから、
自然療能力を益々増大するのである。
されば生長の家に入ってその真理の一端を知らされれば、
生長の家へ入らない前よりも病気に罹らなくなり、
なっても速やかに治癒に赴(おもむ)く。
けれども病気にならないことが「悟」に必ず付随すると思っている人は、
必ず終るべき肉体の寿命が終ろうとする時、
「自分は依然として悟れなかった」と
切歯扼腕(せっしやくわん)しなければならぬであろう。
<感謝合掌 令和2年11月14日 頓首再拝>
《心で病気を癒やすには》 - 伝統
2020/11/19 (Thu) 04:59:11
*「眞理」第2巻基礎編第6章(P169~170)より
若しあなたが、実相の完全さを観ずることによって
自分の病気を、又は他(た)の人の病気を癒やそうとお考えになるならば、
その実相を観ずる神想観(又は思念方法)を行う直前以外には
決してその病気のことを語ったり思ったりしてはならないのである。
実相を観ずることによって病気が治る原理は、
「観ることは創造ることである」
「思うことは表現される」
と云う哲学的真理である。
だから、神想観(又は思念療法)の時に、折角、
「人間の完全な実相」を観じ想念しながら、
すぐあとからその「病気の仮相(すがた)」を観じ想念するならば、
これは全く打ち消しになってしまうのである。
何でも悪いことは観ず思わず、良い事のみを見詰めれば、
上手な手本を見詰めながら習字をすれば習字が上手になるように、
健康も改善されて来るのである。
<感謝合掌 令和2年11月19日 頓首再拝>
人の病いを癒すには - 伝統
2020/11/23 (Mon) 04:58:27
*「光明法語」(11月23日の法語)より
他の人の病いを癒す為には、自己の名前や、報酬や、虚栄や、
それらすべての利己的なものを捨てなければならぬ。
そして彼を本当に愛しなければならぬ。
自己の為に彼を愛する利己的な愛では足りないのである。
彼自身の為に彼を愛しなければならぬのである。
この愛の中に高まり入るとき
「汝等互いに相愛せよ。愛するところに吾はいるなり」と言われた
イエスの無限の癒す力と一つになる事が出来る。
この時吾らは神の愛と一体となり、無限の力の源に触れるのである。
<感謝合掌 令和2年11月23日 頓首再拝>
彼の心の悩みを自己にとる事 - 伝統
2020/11/24 (Tue) 03:18:57
*「光明法語」(11月24日の法語)より
人の病いを癒さんとする時、先ず彼の名前をとなえ、
彼の悩みを心に思い浮かべて可哀相だと思う事が必要である。
そう思わなくとも治る事があるが、この方が一層効果があるのである。
何故なら、それは洗濯屋が《よごれ》物をお客様からとって来る様に、
相手の悩みを自分にとって来るからである。
この「悩みの洗濯物」は「悩みのよごれ水」で洗い浄めても綺麗には
ならないから、一旦自己にとり来った「心のよごれ」は
「全然悩みのない思念の水」で洗い浄める事が必要である。
<感謝合掌 令和2年11月24日 頓首再拝>
癌腫も筋腫も、想念によって消滅しうる - 伝統
2020/11/25 (Wed) 06:01:14
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月25日)より
われわれが「手を動かそう」と思えば、その想念のエネルギーが神経系統を伝わって
一部の筋肉に収縮運動を起さしめ、その反対側の筋肉を弛緩せしめて、
想念したとおりの運動をそこに起こすのである。
その神経系統を伝わるところの想念のエネルギーなるものは何であろうか。
それは一種の電気的流れであると想定されるのである。
それが電気的流れであるとするならば、それは確かに「電子」が想念によって
発射せられて神経組織をその「電子」が走るものだと解釈されうるのである。
患者の睡眠中における夢の変化にしたがって、脳髄より放出される電気的流れに
著しい変化が起こるということは、それを実験機械によって図表的に
その変化を記録した人もあるのである。
そうすれば脳髄という機械装置は、電子を放出するところの、
一種のサイクロトン装置であるということができるのである。
それを操る原動力と操縦士とが「想念」という不可思議体である。
むろん、神経伝達によって筋肉を動かす力は、たんに現在物理学界において
その存在を認められている「電子」だけではないのである。
もっともっと精妙な種類の素粒子を想念にしたがって放出するのであろうと信ぜられる。
しかしいずれにせよ、神経伝達されるところのエネルギーの一部には
電子の流れが含まれていることは、想念によって人体の電気的流れが変化することが
電流計によって測定されることによって明らかである。
したがってわれわれの脳髄は、極めて少量の頭蓋骨容積の中に、
人造のサイクロトンよりも精妙なる高級サイクロトンを包容するものだと
言わなければならないのである。
そして想念が素粒子を支配してあるいは電子をあるいは他の素粒子を、
自由自在に分離したり組み合わせたり、配列したりすることができるものだ
ということがわかるならば、
想念によって、人体に癌腫を発生したり、筋腫を発生したり、
あるいはそれを消滅せしめたりなしうる理由も当然のことだと
言わなければならないのである。
<感謝合掌 令和2年11月25日 頓首再拝>
彼の悩みを洗浄する法 - 伝統
2020/11/26 (Thu) 04:36:47
*「光明法語」(11月26日の法語)より
人の病い(悩み)等を清めるのも洗濯するのと同じである。
「治す人」は洗剤の如きものである。
洗剤は一度「洗濯物」から自分自身にその《よごれ》を摂(と)り、
自分自身が《よごれ》なければならぬ。
これが「可哀相」だと思う事にあたる。
次には少しも「《よごれ》のない水」を、豊富に濺(そそ)いで
その《よごれ》を捨ててしまわなければならぬ。
「《よごれ》のない水」とは、光明思念である。
病いのことを少しも思わず、神のみが実在であること、
神の世界に一切の罪は存在せずと思念するのである。
<感謝合掌 令和2年11月26日 頓首再拝>
相手の病いを治す思念 - 伝統
2020/11/27 (Fri) 04:40:43
*「光明法語」(11月27日の法語)より
更に彼が神の子であること、神の肖像(にすがた)としてつくられたる
完全なる存在であること、その全身が物質に非ずして霊的存在であること、
如何なる欠乏も、病気も、不完全も悩みも存在しないのであって、
ただ神の愛と平和と完全さとのみが存在すると云うことを思念して、
その思念者が完全平和の心境になり得たとき、
乃ち相手は癒されていると云うことになるのである。
相手に念を送るのではなく、自分自身に摂取した念を浄めるのである。
自他は一体であるからである。
<感謝合掌 令和2年11月27日 頓首再拝>
柔和なる者、汝は地を嗣(つ)がん - 伝統
2020/11/28 (Sat) 04:41:40
*「光明法語」(11月28日の法語)より
「すみません。私が悪かったのです。貴方は神の子で完全な方でありますのに」
と妻が良人に詫びる気になった時、その妻自身の病気が治ったり、
良人の重病が治ったり、愛児の病気が治った実例はたくさんある。
それは「(心の)貧しき者は幸いなるかな、神の国は汝のものなり」
と云うのにも当る。
傲(おご)れる者は、神を求めず、神に縋(すが)る気にもなれない。
ただそれは氷山の水面上の部分の硬さに信頼するものであるからである。
氷山が融(と)けて来たとき海の水の広大さが判るのである。
<感謝合掌 令和2年11月28日 頓首再拝>
御心のままになし給え - 伝統
2020/11/30 (Mon) 04:36:03
*「光明法語」(11月30日の法語)より
~与えよさらば与えられん
「求めよ、さらば与えられん」 と教えられている。
併し 「与えよさらば与えられん」 と云う事は更に真実である。
子供が重病に罹(かか)って医者が手を放した様な場合に、
「神よ、この子を是非いやし給え」 と祈るよりも、
「神よ、御心のままになし給え」 と完全に神に対して、
自分の子を与えてしまった方が、癒える事が早い。
何故なら、「是非いやし給え」 と祈っている時は、
その子の親の執着が子供の生命を縛っているけれども、
神に与えた時には執着で子供の生命を縛る事がない。
<感謝合掌 令和2年11月30日 頓首再拝>
《神愛(しんあい)能(よ)く癒す》 - 伝統
2020/12/14 (Mon) 06:44:33
*『 生長の家 』(昭和26年2月16日の法語)より
「 生命の実相 」 を読んで、その示す通り実修していても
病気を治す力が多い人と少い人とがある。
それは一つには其の人の 「 愛 」 の分量の多い少いによる。
二つには場所の雰囲気如何によるのである。
「 生命の実相 」 の中には 「 愛は癒す 」 と書かれてある。
生長の家の飛田給本部にも玄関を入ると 「 神は愛也(なり)」 と書かれており、
その裏面には 「 神愛能癒(よくいやす)」 と書かれている。
そして多くの精神的な疾患や、肉体的疾患が
ただ十日間の練成だけで癒されているのである。
それは飛田給本部の全体が 「 神愛 」 の表現であるからである。
人が多勢集って毎日神想観する場所には 愛と霊光とが立ち騰(のぼ)って
霊眼で見れば紫雲の雰囲気が漂うているのである。
( 「 生長する青年 」 所載 「 百万人のための哲学 」 参照 )
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/7bb21f7a3fc19df5169f21f79f67e0b9
<感謝合掌 令和2年12月14日 頓首再拝>
周囲の精神波動を浄(きよ)めねばならぬ - 伝統
2020/12/20 (Sun) 05:02:41
*「光明道中記」(12月20日《大調和の日》)より
【躓いたがために落ちる人もあれば、
躓いたがために落ちる前に気がつく人もある。(『生命の實相』第十一巻)】
人間は自分の生活が不自然な為に病気になるばかりではなく、
自分が不自然な思いをもつことによって病気になるばかりではなく、
その時代の人類の思想を反映して病気になるものでもある。
人間の思想が波動であること、そして人間の心が、
非常に鋭敏な波動受信機であると云うこと。
斯う云うことを考えめぐらせて見れば、
その世紀の人類の思想が吾々を病気にもし、
健康にもするものであることが明らかになるであろうと思う。
人間のように鋭敏(デリケート)な感受機関を有しない動物でさえも、
周囲の精神波動に感じて病気になるのは、
山野の獣(けもの)が病気にならないのに、
家に飼(か)うと、手厚い保護(実は「心配」と云う病的念波)を
受けながらも病気になる事実で明かである。
この理論で行くならば、家庭に病人を無くするには、
やはり周囲の精神波動を浄(きよ)めねばならぬのは明らかである。
病気を心に思いすぎる精神習慣の人は、その習慣を改めなければならない。
誰も病気のことなど思わず、常に快活にしているように努め、
家庭の空気が光明化するような明るい読み物を常に読まねばならぬ。
「何でもクヨクヨするな」
この言葉を病人の多い家庭に捧げる。
<感謝合掌 令和2年12月20日 頓首再拝>
《大自然の浄化力》 - 伝統
2020/12/29 (Tue) 05:00:24
*『 生長の家 』(昭和26年1月6日の法語)より
悪しき現象は 煙のようなものである。
濛濛(もうもう)と立騰(たちのぼ)る煙の中にいる時に、
その煙を消そうとして 更に 燃料を注ぎ込んでは ならないのである。
煙をして 煙自身を 処置せしめよ。
必ず煙は 薄くなり、やがて消えてしまうのである。
宇宙には 自浄作用と云うものがある。
その自浄作用が 神の癒(い)やす働きであり、
傷をしたときに 中から自然に癒(なお)って来る働きであり、
大掃除をしたときの空中の埃(ほこり)が
自然に消えて行く働きであり、
諸君が 病気や不幸に見舞われたとき、
それに 心を捉えられなければ
自然に それが癒されて行く根源力である。
この根源力を 吾々は神と云うのである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=51
(「幸福を招く365章」<P133>に収載)
<感謝合掌 令和2年12月29日 頓首再拝>
《家族が健全に育つには夫婦の調和が要る》 - 伝統
2021/01/03 (Sun) 02:28:43
*『人生の秘訣365章』第8篇(P191~192) より
家族の精神的不調和のうちでも、最も神癒の妨礙になるものは、
夫婦の精神の不調和である。
夫は“天”を象徴し、妻は“地”を象徴する。
天の気と地の気とが完全に調和してあるとき、
地上の植物は繁茂し動物は繁殖するのである。
その如く夫婦の精神の調和のあるとき、
家族は健康であり、子供は不良化せず、
健全に優良に生育するのである。
一寸した精神的葛藤、瑣細な口争いなどが内攻するとき突然、
子供が発熱したり、下痢したりすることがあるものである。
そのようなことが起こったとき、何よりも必要なのは、
その直前または前日に、夫婦の争いがなかったか、
夫婦間に争いというほどのものではなく、
一寸した不平の感情を起すことはなかったかを回顧反省してみて、
若しそんな事があったならば、
夫婦互いに詫び合って胸に溜まった不平などを一掃するがよい。
忽ちのうちに家族の病気が好転することに気づくであろう。
<感謝合掌 令和3年1月3日 頓首再拝>
《眠りに入らんとしてかく念ぜよ》 - 伝統
2021/01/09 (Sat) 04:28:16
*「光明法語」(1月9日)より
汝ら眠りに入る時、汝の掌(たなごころ)を汝の眼の上に置きてかく念ぜよ。
「この眼は神の眼である。善以外のもの、美以外のもの、
完全以外のものは何物も見ないのである。
この眼は神の眼である。
毎日毎日一層その実相の完全なる視力があらわれつつあるのである。
自分の眼は神の眼である。
人々の善さのほか美しさのほか、完全さのほかは何物をも視ないのである」。
かく念ずること毎就寝時にして、数ヵ月たちし時、
或る朝目覚むれば眼鏡(めがね)をかけていた眼が見えない。
眼鏡を外(はず)せば完全に見えた。その人の乱視性近視は治ったのであった。
・・・
<関連Web>
(1)光明掲示板・第一「【目の愛護デー】 (2366)」
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=485
(2)光明掲示板・第二「眼に関する神癒 (1710)」
→ http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=390(消滅)
(3)光明掲示板・第三「眼に関する神癒 (940)」
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=196
(4)光明掲示板・伝統・第一「眼に関する神癒 (196)」
→ http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=77
(5)伝統板・第二「眼の癒し」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6632977
(6))伝統板・第二「眼の癒し ②」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7031635
<感謝合掌 令和3年1月9日 頓首再拝>
真理は知ると、病は消える - 伝統
2021/01/22 (Fri) 03:15:43
*『生命の實相』第一巻實相篇上(P79)より
「生命」自身の力で治すには
「生命」とはいったいどんなものであるかということを
知らねばなりません。
表面の心で知るだけではなく、奥底の心で知らねばなりません。
「生命とは神の子である」――一言にしてこういえばなんでもないけれども、
なかなかこの真理が本当にわかる人が少ない。
本当にこれがわかれば自分で自分を治すことができる。
病気だけではなく境遇でも運命でも自分で治すことができる。
治すのでなく、真理を本当に知ったときひとりでに治っているのである。
つまり、キリストのいった
「真理はなんじを自由ならしめん」とはこのことであります。
釈迦のいった
「大覚(さとり)をうれば因縁を超越してしまう」とはこのことであります。
「真理を知る」というのも「大覚をうる」というのも、
ひっきょうは自分の生命の本質すなわち実相を知ることで、
これができれば因縁を超越して完全な自由がえられるのであります。
その人は因縁を超越しますから、
物質的な原因結果に束縛されるようなことがけっしてなくなる。
遺伝がどうの、体質がどうの、冷たい空気がどうの、固い食物がどうの
――そんなことに縛られないで「生命」それ自身の本質の完全な状態――
すなわち「真の人間」が表に出てくる、
そのときすなわち病気が治ってしまうのであります。
<感謝合掌 令和3年1月22日 頓首再拝>
《大自然の不思議な癒力》 - 伝統
2021/02/08 (Mon) 02:46:11
*『人生の秘訣365章』第11篇(P265) より
不思議な癒す力が宇宙に充ち満ちているのである。
豪雨によって土砂崩れがして山肌が、大きな傷口のように広がっているかと思うと、
直ぐ其処にはどこからともなくやって来た苔の胞子や雑草の種子や雑木の種子が
落ちて来て、そこに根を生やし、網の目のようにその根が蔓(はびこ)って、
土砂の崩れを防ぐ手当てをし、痛々しく露出した山肌の傷口に
緑色の美しい新しい皮膚をつくり始めるのである。
それと同じことが人体に生じた傷にたいしても行われるのである。
人間が外部から人工によってその傷口を下手な修理をしなければ、
自然に熟し切った腫れものが中から自然に口をひらいて膿を排出して、
排膿後の傷口が殆どわからぬ程に、美しい皮膚を取り戻すのである。
<感謝合掌 令和3年2月8日 頓首再拝>
《真理の理解が深まれば病気は治る》 - 伝統
2021/02/20 (Sat) 04:35:39
*「真理」第9巻生活篇第5章(P136~137)より
肉体の病気を治してもらいたいと云うようなケチな「影を追求する心」を
捨てよと私が言ったからとて、「病気を治す力を捨てよ」と云う訳でも
なければ、「病気を治すことを遠慮せよ」と云う訳でもないのである。
『生命の實相』を読むだけでも、真理に対する理解が深くなれば、
病気はたちどころに治る実例が多くあるのである。
生長の家で小児麻痺が治る問題で雑誌新聞が色々さわいだことがあるが、
昭和31年2月5日生長の家本部道場での午後の体験談発表会で長男の
小児麻痺が治ったと云う体験を発表された中村しげ子さんは、その後、
次のような礼状を寄越された ――
”長男の小児麻痺が赤坂の道場に行き、『生命の實相』(第十二巻)を
いただき、その夜パラリをひらいたところが
「皆さん小児マヒと申しますのは・・・」と云うところでありました。
私は二頁拝読して、主人の父母(ふぼ)にすまなかったと云う心で
とても泣いたのでございます。
その次の日10時半頃、腰が立てなくて這いずっていました
子どもが一瞬に立ったのでございます・・・”
<感謝合掌 令和3年2月20日 頓首再拝>
医薬は服みてもよし、廃めてもよし - 伝統
2021/02/22 (Mon) 04:54:02
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月22日)」より
『生命の實相』を読んで薬を廃めて病気の治る人もある。
薬を廃めないで治る人もある。
またかえって薬を拝んで服むようになり、
心境の一変とともに病勢とみに減ずる人もある。
これはその人のひとりひとりの心の悟りである。
刺身包丁を見て、それで人殺しをする人もあれば、自殺する者もある。
また包丁は包丁だけに魚肉だけを料理して喜ぶ人もある。
先日はまた医師がメスを出すのを見て発狂して
鉄道自殺を遂げた美貌の若き母があった。
それはまたその人ひとりひとりの心境の問題である。
たまたま包丁で人殺しをしたり、
メスを見て発狂または自殺をしたりする人があるからとて、
包丁やメスは危険であるからといって、その発売や所有を禁止したり、
メスや包丁を殺人罪で告発したら滑稽であろう。
『生命の實相』には病人に対して
むやみに医薬の服用を止めよと書いたところは一句もない。
たとえば『生命の實相』の巻頭の神示には、
「《もし病人にして医薬を服用する者あらんには》それを四口に分けて飲み、
この《同じ想念》をなして飲めば病必ず速やかに癒えるのである。
すべての他の人の罪を赦すは、吾らの過ちをまた大生命なる神より赦されんがためである。
もしわれらが心を閉じて他(た)を赦さなければ、大生命の癒能(いやすちから)もまた
閉ざされてわれらに流れ入ることはできないのである。」
この「《同じ想念》」をなすというのは
「一口目を手にしては、これ今まで過ちて人に対して憎み怒りし自己の罪が
神によって赦されんがための供物であると念いて服み、
二口目を手してはこれすべての人の罪が神によりて赦されんがための
供物(そなえもの)であると念(おも)いて服(の)み、
三口目を手にしては是れ神の護りによりて
自己が再び隣人を憎み怒るの罪を犯さざらんがための供物であると念いて服み、
四口目に一杯の飲料を手にしてはすべての人の罪を
この水のごとくわが心より洗い流して
心にとどめざらんがための象徴(しるし)であると思って服(の)む」
べきことがその前行の文章に書いてあるのである。
これは薬物服用の際における心の持ち方の懇切なる指導である。
それが『生命の實相』の、特に巻頭に書いてあったのは、
それが重大な事柄であるからである。
近代のサイコアナリシス(精神分析)は
観念泄瀉が心的原因の病気の治療に大いなる効果のあることを証明した。
この神示にははっきりと書いてあるところの方法は、
医薬の服用と同時に観念泄瀉を行なう方法であるともいえるのである。
『生命の實相』は現に医薬を服用していない者に「医薬を服め」とは勧めていないが、
「《病人にして医薬を服用する者あらんには》・・・かくかくの心持にて《服(の)め》」
と書いてあるのであって、「《服むな》」とか「その服用を廃せよ」とは書いてはいない。
しかるに『生命の實相』を読んで、薬を廃(や)める者があるのは、
仏教的真理「色即是空」(物質本来無し)、
または諸方皆空(現象本来無し)の思想に目覚めた結果、
自己内在の生命の自然療能力に頼ることを重んじて
物質的薬剤に頼ることを軽視するようになるからである。
<感謝合掌 令和3年2月22日 頓首再拝>
人の病気を治すには - 伝統
2021/03/07 (Sun) 04:12:30
*「光明法語」(3月7日)より
人の病いを心で治そうと思ったならば、
その病気を見てはならないのである。
此処に治療を要する病人があるなどと思ってはならないのである。
観たとおりに現れるのが心の法則であるから、
吾々が心で彼を病めりと観るならば、
彼は依然として病の状態でつづくであろう。
病気の存在を信ぜず、又見ざるところの人のみが
病気を消滅することが出来るのである。
此処にも神のつくらない病気などは存在しないのであり、
そんな病気に罹っている人も存在しないのであると見なければならぬ。
<感謝合掌 令和3年3月7日 頓首再拝>
人間の「生きる力」が最高の名医である - 伝統
2021/03/25 (Thu) 02:54:05
*『生命の實相』第2巻實相篇下(P87~88)より
何をしても神の聖意(みこころ)が自分を通して働いてくださる
―― このことが祈りによって、自分の心の内に確立して来ますならば、
われわれは自由な無恐怖な状態になれるのであります。
神に導かれて立つ腹ならば腹を立ててもそれがかえって人の救いになる。
それと同じように、神に導かれて出る熱ならば、
熱が出てもそれがかえって病気の救いになる。
咳が出てもよいし、下痢をしてもよいし、患部が痛んでもよいし、
そのほかどんな容体が出て来ても恐れることはないのであります。
熱は徽菌(ばいきん)という「迷い」を消滅さすために起こる。
咳は徽菌の死体や不潔物を吐き出すために出る、
下痢は今まで全身の細胞を中毒さし弱らしていた毒素を
瀉出(しゃしつ)するために起こる、
痛みはその刺激によって病患部の治癒(ちゆ)に
必要な血液を集中さすために起こる
―― こういうふうに今まで、病気の徴候だと思って
怖(お)じ恐れていたものが、実は病気の徴候ではなく、
隠れていた病気の原因をいったん形に現わして
外に浮かび上がらせた上でさらにそれを消滅さすための徴候だ
ということがわかって来る。
こうなると、熱はけっこう、咳はけっこう、下痢はけっこう、
疼痛はけっこう
―― そのたびごとに自分はいっそう今までよりも
健康になりつつあるということがわかって来るのであります
―― すると熱があっても熱さましはいらないし、
咳が出ても咳止めはいらないし、下痢があっても下痢止めはいらないし、
そのほかどんな薬もいらない
―― 自分自身の「生きる力」こそ、
自分にとって一等の名医であることを信じて、
その施術に委せきりますから、
自分自身の「生きる力」も自分に信頼して委された以上は
責任をもってぜひ自分自身で治さねばばならぬということになり、
たとい熱が高まっても、脳膜炎を起こすほどにはならず、
脈搏が速くなっても心臓を麻痺さすほどには速くならず、
結局薬を用いたときよりも、
自然療能という名医が、病気に応じていかなる他(た)の療法よりも、
迅速(じんそく)に適宜(てきぎ)の処置をとってくれるのであります。
なぜなら、自然療能という医師は
自分の外にある人を招(よ)んでくるのではなく、
自分の内にチャンといる名医だからいかなる医師よりも、
迅速に処置がとれ、外から患部を想像するのではなく、
内(うち)にいて患部の状態を知りつくしていて、
それに適応する抗毒素の製造や体温の調節や便通の
調節をするのでありますから、その処置をまちがえる
ということは決してないのであります。
<感謝合掌 令和3年3月25日 頓首再拝>
「本来無い病」が消えるためには - 伝統
2021/04/03 (Sat) 01:54:48
*《『続々甘露の法雨』を詠む》~『白鳩』(昭和47年4月号)より
生長の家の経典の一つに『続々甘露の法雨』があります
その一部から・・・
天使(てんのつかい)つづいて説きたまふ。
家庭の争ひ、
嫉妬、
憎悪、
復讐、
憤怒の念(こころ)―
全ての悪念は健康の快復を妨ぐるなり。
若しかかる悪感情起こらば
速やかに『神の子・人間』に本来かかる悪感情
無しと観じて、
かかる感情を断ち切るべし。
『生命の實相』を読み、人間は《神の子》であって、
本来完全圓萬であるから病気は無いという《實相哲学》が
理解できたつもりでいるのに、
どういうのか病気が治らないで悩んでいる人があります。
こんな場合には、家庭の内部に人間関係で不調和がありはしないかを
脚下照顧し、反省し、家庭内に暗黙のうちに争いの精神状態又は、
嫉妬、憎悪、復讐、憤怒その他いろいろの反感や逆念やがもしあれば、
それを解消するために、もし自分があやまった方がよいと思うならば、
素直にあやまり、互に打ち融けて感謝し合い、調和の心境に、
家族中がなることが出来れば、その病気は消えてしまうのであります。
茲に、『家庭の争い、嫉妬、憎悪、復讐、憤怒の念
―全ての悪念は健康の快復を妨げるなり』
と示されているのはそのためであります。
何故これらの悪念が家庭にわだかまっていますと、
『人間・神の子』の真理がわかっていながら、
病気が治らないかと言いますと、
本当に自分が《神の子》だと悟られているならば、
嫉妬や、憎しみや、恨みや、怒りや、悲しみや、口惜しさなどの感情が
起こる筈はないのであります。
そんな不浄な悪感情や悪想念が起こるのは、《人間・神の子》の真理が、
頭脳(あたま)の表面(うわつら)ではわかっていましても、潜在意識の底の底まで
全身全霊をもって《人間・神の子》の真理を自覚し得ていないからであります。
それに《人間・神の子》の真理を頭脳で理解していましても、
憎しみや、争いや、恨み、悲しみ又は不平等の感情がありますと、
現象世界というものは、心の所現でありますから、
その心の通りの形が肉体や環境にあらわれて来るのは当然なのであります。
だから心の中に、不平や怒りの《心の固まり》が出来ますと、
その感情を長くもち続けますと、やがてそれが肉体に具象化して、
肉体に癌とか腫瘍とかの固塊があらわれて来るのであります。
だからそんな病気があらわれましたら、『生命の實相』をよく読んで
『人間本来、病なし』の真理を尚一層よく知ると同時に、
《本来ない》ところの病があらわれているのは、
『自分の心の反映(かげ)』であると知り、
心を一変して心に感謝の念を満たし、教えを真剣に行ずるようにすると、
本来無い病なのだから、《無》の實相をあらわして消えてしまうのであります。
http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/18655226.html (消滅)
<感謝合掌 令和3年4月3日 頓首再拝>
すべてに感謝し、今病気なしと信じて報恩のために起て。 - 伝統
2021/04/10 (Sat) 04:49:52
*『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月10日)」より
ある人からどうしたら自分の病気が治るかという質問が来た。
こんな手紙が毎日自分の机の上に何十通と送られてくる。
わたしはその人にこう書いた。
この返事はすべての病人にあてはまるわけではないが、
また多くの病人にとって参考になるかもしれない。
「あなたは焦っていますね。早く治ろうと思っていますね。
そんなにいらいらしていては病気は治るものではありません。
そのいらいらする心そのものが病気なのですよ。
あなたは家族との間に心の摺れ合いがありますね。
そんなに摺れ合いがあっては治るものではありません。
そんなに摺れ合ってはいないとあなたは抗弁なさいますか。
撲り合いはなさらないでしょう。
しかし、本当に満足していますか。
このままでありがたい、十分尽くしていただいていると思って
家族に感謝していられますか。
そうではないでしょう。
『もう少しここをどうかしてほしい』と思っていられませんか。
『ほしい』の心は不平の心です。また、同情を求める心です。
そんな心そのものが病気なのです。
病気は肉体にあるのではありません。
その心にあるのです。
右手が動かなかったら、動く左手を与えられていることを感謝するのですよ。
ありとあらゆるものを感謝の心にかえてしまうのですよ。
そしてあとに、これだけ感謝の心を起こしているのにまだ治らぬか?
とおっしゃるのですか。
やっぱり終点が不平の心に到着するようでは、心の生まれ更わりができていませぬ。
不平行きの汽車に乗っているかぎりは、感謝の終点には到着しませぬ。
それでは途中の駅々での感謝の心は皆ニセ物だったということになりますよ。
すべてを感謝の心に更えて、さて今病気なしと信じて報恩のために起て。
もう病気はないのである。」
<感謝合掌 令和3年4月10日 頓首再拝>
《自然療能に感謝なさい》 - 伝統
2021/04/19 (Mon) 03:31:38
*『 生長の家 』(昭和26年4月19日の法語)より
取越し苦労をやめなさい。
脳髄で心配しないでも、脳髄なんか存在しない卵の間から、
ちゃんと 「 神の力 」 は貴方(あなた)の身体のすべての
内臓を設計し構造して来たのです。
取越苦労するだけ、
胃袋でも心臓でも肺臓でも働きが悪くなって来るのです。
それよりも其の 「 神の力 」 を信じなさい。
そして取越苦労をするひまに、寝ている間(ま)も忘れている間も、
血を循(めぐ)らせ、消化をつづけ、呼吸をつづけさせていて下さる
不思議な力に感謝しなさい。
病気を思い出す暇があったら、その不思議な力を思い出して、
「 今もその不思議な力が自分を生かしていてくれ、
内部から自分を治しているのだ、有りがたい 」 と心の中で感謝しなさい。
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12221336.html (消滅)
<感謝合掌 令和3年4月19日 頓首再拝>