伝統板・第二 2551168

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利他 ④

1:伝統 :

2020/06/17 (Wed) 04:48:41

よき「行為(おこない)」の種を蒔け

       *「光明法語」<6月17日>より

   「思い」の種子は「行為(おこない)」の実を結ぶが、
   一つの「行為」はまた多くの「思い」の果(み)を結ぶ。
   それは互いに映し合って「合わせ鏡」の如くである。

   また「思い」の方ではそんなに深切な気持ちが起こっていないにしても、
   そこに思い切って深切な行為(おこない)を実行して見た時に、
   不思議に「嬉しい思い」が湧いてくることを発見するであろう。

   そこに常に深切な行為(おこない)をする人は、
   常に幸福な思いを味わう人だと云う事が出来るのである。

   又、相手の感謝の表情を見る事は人生無上の楽しみである。
   感謝は感謝の共鳴を喚(よ)び起こすのである。


・・・

<関連Web>

(1)「光明掲示板・第一」内スレッド

  ①「深切を与えよ」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1189

  ②「無財の七施」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=110


(2)「光明掲示板第二」内スレッド

  ①「利他 (10598)」。
    → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2033 (消滅)

  ②光明掲示板・第二「親切・情け (458)」
    → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=158 (消滅)


(3)光明掲示板・第三「利他 (109)」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=50

(4)光明掲示板・伝統・第一「利他 (48)」
    → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=30

(5)伝統板・第二 内スレッド

  ①伝統板・第二「利他①」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6456462

  ②伝統板・第二「利他②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7186768

  ③伝統板・第二「利他③」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7779738


            <感謝合掌 令和2年6月17日 頓首再拝>
2:伝統 :

2020/06/23 (Tue) 04:50:19


      *「光明道中記」(6月23日《食堂楽しき日》)より抜粋

みずから栄える道は他を栄えしむるにある。
社員を栄えさせ、店員を栄えさせ、顧客を栄えしめるように店を経営して行くならば、
その店は繁昌する他はないのである。

他を栄えしめんとの自分の愛念は必ず自分に反射して来て、
自分を栄えしむるほかはない。

与えたよりも多く受けようと思うな。
それは卑怯な狡(ずる)い考である。
卑怯は卑怯を呼び、狡さは狡さを呼ぶであろう。

ケチな主人に仕(つか)えるならば、尚一層深切に仕えよ。
常に貸し越しになる生活をせよ。

            <感謝合掌 令和2年6月23日 頓首再拝>
3:伝統 :

2020/07/08 (Wed) 05:04:14


          *「真理」第9巻生活篇第2章(44~45)より

あなたが愛と信頼とを社員に与えれば、
社員もまたあなたに、愛と信頼とを与えるでありましょう。

あなたが社員に憎みと怒りを与えれば、
社員も又あなたに、憎みと怒りとを以って裏切るでありましょう。

災厄が来ることを予想して常に恐怖しておれば、
恐怖したとおりの災厄が訪れて来るでしょう。

姑を意地悪だと疑って恐れれば 屹度 姑は意地悪にあらわれて来るでしょう。
姑を、自分の本当の母だと思って愛し慕うならば、
姑も嫁を自分の本当の娘だと思って愛してくれるでしょう。

相手の国を憎めば、相手の国もこちらの国を憎むでしょう。
相手の国を恰も自分の同盟国の如く相手の国のために尽くしてやれば、
相手の国も自分の国を恰も同盟国の如く尽くしてくれるでしょう。

互いに相手国の悪口(わるぐち)を演説していては
平和は決して来(きた)らないのです。

            <感謝合掌 令和2年7月8日 頓首再拝>
4:伝統 :

2020/07/20 (Mon) 03:35:25


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2020.02.01)より

   (筑波大学名誉教授、村上和雄氏の心に響く言葉より…)

   ヒトを含め、いま、この地球上に生きるすべての生物は、
   生命の誕生以来、幾多の過酷な試練を切り抜けて
   生き残ってきたものの子孫です。

   何よりも自分の子孫を後世に残し、
   自分の種の生存を最優先することは生き抜くために必要であり、
   ある程度、利己的であることは生きる術として遺伝子に刻まれたものだと思います。

   その一方で、群れて暮らす生きものたちは、
   集団として生き残るための術として、他者を思いやる
   利他的な遺伝子を獲得したのだと思います。


   利他的であることと、利己的であることは一見、
   相反しているように見えますが、

   本来、表裏一体のものであり、種の保存と個体の生存に必要な
   本能行動としてヒトに定着したのだと思います。

   その結果、ヒトは、利己的な生き方と利他的な生きかたを併せ持ち、
   そのふたつのバランスをとりながら、いまを生きているのです。


   私たちは人から感謝されたときに、より強く幸せを感じます。

   これは、利他のほうが利己よりも進化的に新しく、
   ヒトにおいて著しく発達したこころの働きが、
   より強く作用しているからだと考えられています。

   そうであるならば、人間は利他性を強く意識することで、
   より利他的な生き方へと進化することが可能だと思われます。


   2011年に起きた東日本大震災は、まさに人々の意識を変え、
   その後に展開された数々の支援は、我欲が目立つ現在の世の中に
   人間の利他性がまだまだ健在であることを示しました。

   人間が持つ高度な社会性の基盤が利他性にあるならば、
   私たちは意識的に利他的な遺伝子をオンにして、
   日常的に助け合うこころを発揮していくべきです。

   それが、よりよい社会や地球を創っていくことにつながるはずです。


   進化生物学者の長谷川真理子さんは、
   ヒトは本来、助け合う生きものとして進化してきたと述べています。

   ヒトの身体が進化によって適応的に作られたように、
   ヒトのこころもまた進化しました。

   この考えかたは、コンピュータ・シミュレーションを用いた
   ゲームを行うことで検証されました。


   1回でゲームが終わる場合、協力行動はなかなか生まれません。

   しかし、同じ個体同士が繰り返しゲームを行う場合、状況は変わってきます。

   他者を裏切ってでも自分の利益だけを追求していくものは、
   最初は繁栄しますが、そのうち、そうした考えかたをする者同士が
   騙(だま)し合って自滅します。


   一方、しっかりとギブ&テイクをする集団は、
   繰り返しゲームを行うことで双方の利益がプラスになり、
   結果的に繁栄します。

   つまり、長期的な付き合いが続くケースにおいては、
   協力行動が進化することが、モデルを用いたシミュレーション研究から
   明らかにされたのです。

   そして、ヒトほど他者と協調し、協力し、援助したりする生物は他にはいません。

   では、なぜ、ヒトにおいて、これほど利他的な行動が進化したのでしょう。

   それは、ヒトにこころがあったからだと長谷川さんは主張しています。


   ヒトを含めた地球上のすべての生命は、
   連綿とつながるいのちのリレーの果てにいまを生きています。

   そこには、個体の生存と種の保存という利己的な目的とともに、
   それを補完する利他的な恩恵も関与したことがわかります。

   もしかすると、この利他性こそが生命の重要な本質かもしれません。


   利他とは、必ずしも自分が犠牲になることではありません。

   自分を生かすことにつながることです。

   人とともに喜び、人とともに悲しむことで、
   その人の人生はより豊かなものになっていきます。

   喜びは分けることで増えていきますし、悲しみは分けることで減っていきます。

       <『望みはかなうきっとよくなる』海竜社>

            ・・・

「うばい合えばたらぬ わけ合えばあまる」

という相田みつを氏の言葉がある。


利己的な人だけがあつまり、利己的な行動の限りをつくすと、
そのグループは自滅する。

うばい合えば足りぬ、と殺伐(さつばつ)として、
最後はお互いに傷つけあうことになる。


それは、地獄と天国の話にもある話だ。

天国にも地獄にもごちそうがふんだんにあるという。

食事の際には、長い箸(はし)を使う。

箸は、あまりに長いので、自分の口に持ってくることはできないが、
相手の口には持っていくことはできる。

天国の住人たちは、その長い箸を使って、ニコニコしながら、
お互いの口に御馳走を運んで、お互いに感謝しながら楽しく暮らしている。

しかし、地獄の住人たちは、
われ先に、自分の口に御馳走を持ってこようとするが、
一口も食べることができないため、みな殺気立って、ケンカが絶えず、
怒鳴り声が鳴り響き、やせて骨と皮ばかりになっている。


地獄の住人は、自分のことしか考えない利己の人。

相手の利益になることや、相手が幸せになることなど、
これっぽっちも考えていない。


「人間は利他性を強く意識することで、
 より利他的な生き方へと進化することが可能」だという。

利他的な生き方ができる人でありたい。

            <感謝合掌 令和2年7月20日 頓首再拝>
5:伝統 :

2020/08/03 (Mon) 04:26:03


       *『生長の家』(昭和25年6月16日の法語)より

奪う考えをおこすものは
やがて奪われて貧しくなるのである。

報酬のみを目的として奉仕の精神を失っているものは
「 与える 」 心を失って 「 奪う心 」 のみをもっているのであるから、
やがて奪われる結果になるのである。

報酬を貰(もら)う仕事ばかりが
神から与えられた仕事ではないのである。

吾々は多くのものをすでに与えられているのであるから、
賃金なしにお礼をする心で、目の前にある所の人々のためになる仕事なら
何でも奉仕させてもらおうという気になって、

一枚の紙屑(かみくず)を片づける様なつまらないことからでも
奉仕の行事を始むべきである。

            <感謝合掌 令和2年8月3日 頓首再拝>
6:伝統 :

2020/08/23 (Sun) 04:08:34


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2020.07.12)より

   (小山龍介(りゅうすけ)氏の心に響く言葉より…)

   これまでの領域から離れて、新しい領域で事業を開始するには、
   当初、かなりの投資が必要になります。

   投資はお金というだけでなく、
   時間というもっとも貴重な資源の投資が絡みます。

   人生の時間は有限であり、一刻も無駄にできません。

   お金以上に、そうした時間投資を最小化するための方法が
   リーンスタートアップでした。


   投資というのは、もちろんリターンを期待して行うものなので、
   投資をするにあたって「儲かるかどうか」「報われるかどうか」が、
   投資の判断基準になるかと思います。

   確率は低いけれども大きなリターンが期待できるからと、
   ベンチャー事業に投資する人たちもいます。

   しかし、問題は「いつ」このリターンを得らえるような投資をするのか、
   ということです。

   このリターンを短期的なものに設定すればするほど、
   すぐに結果が出ることばかりをやることになるので、
   領域の広がりは限られてしまいます。

   事業の射程がどんどん短くなっていくのです。


   将来に向けて大きく発展する事業をやっていきたいと思えば、
   遠くのターゲットに向けた射程の長い、
   できるだけ遠い未来にリターンが戻ってくる投資をするべきです。

   じっくり時間をかけて取り組む事業です。

   時間がかかる事業であればあるほど、他人からキャッチアップされることも難しく、
   それだけ競争優位が働くともいえます。


   別の言い方をすれば、たくさんの時間を投じたあとに、
   ようやく自分の利益を得ようという考え方です。

   この意味で長期的な投資というのは、本質的に贈与性を帯びています。

   すぐに利益を期待していないからです。

   企業のR&Dも同様です。

   既存事業の収益を、企業の未来、社会の未来に向けて贈与している。

   そんなふうに考えることもできます。


   よく、さきにTakeを考えるのではなく、
   GiveしたあとにTakeする「Give&Take」という話がありますが、
   これは贈与の原則を語っているものです。

   そしてこれは長期的な人生の投資も同様なのです。


   こうした贈与を、昔は自分の所属している企業に対して行っていました。

   人生の時間をGiveすることによって終身雇用というTakeがある。

   その関係が成り立っているときにはよかったのですが、
   あのトヨタ自動車でさえ終身雇用制度は難しいと言っているときに、
   Giveの対象は所属企業だけでよいとは言えなくなってきました。


   そんな時代においては、新しい領域へのGiveをスタートすることが重要です。

   これは早ければ早いほどいい。

   それだけ時間というリソースを長い間、投資できるからです。

      <『在宅HACKS!』東洋経済新報社 https://amzn.to/2Dtqqrr >

             ・・・

小山氏は本書の中で、『“場”とGiveの関係』についてこう語っている。


『場の研究所の清水博先生は長年、場を研究されていく中で、
 その根本原理に与贈循環があると指摘されています。

 与贈というのは、贈与をひっくり返した言葉で、
 贈与の中でも匿名での見返りを求めないものを言います。

 この与贈が自分のいる《場》に対して行われると、その《場》が豊かになっていきます。

 《場》が豊かになっていくと今度は、その《場》から
 自分への与贈が居場所というかたちで返ってきます。

 循環が起こっているのです。


 たとえば、家族のためにケーキを買って帰るとします。
 そうすると家族との関係もよくなり、家庭という《場》が豊かになります。
 そうすると、自分の居場所もできる。

 与贈は居場所づくりの方法なのです。


 在宅勤務になると、実はこの居場所づくりを意識的にやる必要が出てきます。

 これまでは会社という、自動的に与えられた居場所がありました。

 しかし、物理的にその場所から離れたときに、
 人は会社に居場所があるという実感を失います。

 そのことが、やがてメンタルにも響いてくるのです。

 今まで意識してこなかった、居場所を作るための取り組みが必要になるのです。

 その居場所は、会社の中にとどまりません。

 むしろ、会社という小さな枠組みにとらわれることなく、
 最終的には地球全体が私の居場所と思えるくらいのスケールで、
 世界と向き合うことも可能です。

 そういう視野で活躍する人は、
 ものすごく大胆なプロジェクトを成し遂げていくでしょう。

 在宅勤務は、会社という小さな居場所を失う働き方です。

 しかしそのことによって、
 世界という大きな居場所を獲得する機会を与えてくれる働き方でもあるのです。』


R&D(研究開発)の、
「R」は“Research”(研究)、「D」は“Development”(開発)を意味している。

長期の研究開発も、ここでいうGiveということになる。
短期のリターンを期待しないからだ。

年齢を重ねれば重ねるほど、
自分の「場」がどれだけ(いくつ)あるかが大事になってくる。

もし、会社しか自分の「場」がないとすると、定年退職してからの人生は暗い。


GiveなしにTakeだけを求めようとする人は、
自分の「場」をつくることはできない。

場づくりへの、時間と労力はすべて持ち出しとなるからだ。

その手間をかけることが嫌な人は、「場」づくりはできない。


長期の研究開発と同じで、
どれだけ長期にわたって見返りを求めず、Giveし続けたか。

そして常に、新しい領域へのGiveをスタートすること。


自分の「場」という世界を広げたい。

            <感謝合掌 令和2年8月22日 頓首再拝>
7:伝統 :

2020/09/05 (Sat) 03:55:06


       *「眞理」第2巻基礎編第6章(P116~117)より

「与えれば増加し、貪(むさぼ)れば失う」
(Give and increase, hoard and lose.)
と云う諺がある。

或る薔薇の木は

「私はこの美しい花びらを開きますまい。
 この高尚な香気を発散するのは勿体ない。
 行きずりに見て行く人などにこんな美しい花や、
 素晴らしい香気を与えるのは、あまりも勿体な過ぎる」

と考えたと云うことです。

それ以来、、その薔薇の木はその蕾が(つぼみ)が固くなって
開かないまま萎(しぼ)んでしまいました。

そんな事が数年間つづきました。

すると、その薔薇の木の持主は、
「この薔薇は駄目になった」と言ってそれを抜き去って捨てました。
それでその薔薇は死んでしまったのです。

もう一本の薔薇は惜しみなく花を開き、
馥郁(ふくいく)たる香気を放っていましたので
何時までも可愛がられて枯れませんでした。

            <感謝合掌 令和2年9月5日 頓首再拝>
8:伝統 :

2020/09/13 (Sun) 03:04:12


         *『 生長の家 』( 昭和23年3月31日の法語)より

   「 諸君の富は諸君の頭の中にあるのであって
   何処かの銀行にはないのである 」 と
   テリル・マン氏は云っている。

   先ず頭によって人類に今あるよりも一層役に立つ考案を考えることである。

   戦争中でもアメリカ人は一個の万年筆や時計の竜頭(りゅうず)にさえも
    「 尚一層便利 」 と 「 美 」 と云うことを発明し考案して、
   人類の日常生活になお一層奉仕しようとしていたのである。

   パーカー51号の万年筆や、
   ネジを廻さないでも竜頭がスポンと脱けるようになっている
   懐中時計の如きは其の例である。


    → https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/m/201408

            <感謝合掌 令和2年9月13日 頓首再拝>
9:伝統 :

2020/09/14 (Mon) 02:52:50


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月14日)より

人の物を値切るようなケチな心を起こしてはならない。
値切る心は値切られるのである。

あなたの得た物(または人)の値打ちだけを十分与えるように心懸けなければならない。
値打ちだけを買い取り、値打ちだけを支払い、しかも自分もできるだけ力を尽くして
奉仕するのだ。

ただ金だけ出して与えたつもりになっていて怠惰や放漫になってはならないのである。
与えたけれどもそれが浪費になったという場合は、自分が知恵を出さず、愛を出さず、
生命力を注がないからである。

ともかく、与えることをできるだけあらゆる方面に試みてみよ。
「返って来る」というような予想なしに神の愛を与えるのだ。

            <感謝合掌 令和2年9月14日 頓首再拝>
10:伝統 :

2020/09/26 (Sat) 02:44:45


        *メルマガ「人の心に灯をともす」(2020.09.11)より

   (尾原和啓(おばらかずひろ)氏の心に響く言葉より…)

   令和に入って僕たちは昭和の間違いを認められるようになりました。

   日本企業のトップであるトヨタや、経団連会長は
   「終身雇用を続けるのは難しい」と、
   組織が個人を一生守ってくれないということを吐露しました。

   これからは「個人」で生き残っていかなくてはならない。

   そんな空気とともに、

   「自分に力をつけなければならない」

   「人脈を増やさなければならない」

   「有名に、何者かにならなければならない」

   と焦って躍起になっている人もいるように思います。


   でも、多くの場合、なかなかうまくいかない。

   「何者かになれば自信がつく」「仕事での心配もなくなる」と思って頑張っても、
   結果が出なくて、疲れてしまっている人もいるのではないでしょうか。

   では、人生が100年時代になり、
   AIが仕事の半分を置き換えるといわれる中、
   どうしたら生き残れる「何者か」になれるのでしょうか?

   新型コロナウィルスが流行し、
   オンラインファーストの社会への変化も加速する今、
   どうすれば、この激動の時代に組織に依存せず、
   1人でも、つながりながら自由に働くことができるでしょうか?



   山口周さんの「ニュータイプの時代」(ダイヤモンド社)に出てくるこの言葉は、
   まさに変化の時代における個人のあり方を言い表しています。

   4K、8Kのテレビを思い出してもらうとわかりやすいですが、
   4K、8Kといった機能で勝負しようとしても、
   ユーザーにとってはその差がわかりにくく、過当競争に陥りやすいといえます。

   何より機能は、情報化社会の中では、簡単にコピーできてしまうので、
   たとえ先陣を切っていてもあっという間に追いつかれ、
   安売り競争になってしまいます。


   これは人も同じです。

   ネットで誰もが高速学習ができる今、
   「役に立つ」だけのスキルは、競争過多になります。

   たとえば、米国のコールセンターは、フィリピンやインドなど、
   時給が半分から3分の1でも英語が話せ、
   優秀な大学を卒業した熱心な人たちによって代替されてしまいました。

   これは10年以内にリアルタイム自動翻訳で日本でも起こることです。

   そしてこの先20年でAIがあなたの「役に立つ」を無効化していくでしょう。


   そんな中で大事なことは「他の誰かではなく、あなたに仕事を頼みたい」という、
   誰かにとって意味がある存在になることです。

   自分が誰かにとって「意味のある」存在になる。

   その積み重ねで、たくさんの人の「意味のある」存在となり、
   最終的には「何者かになる」のだと、僕は思っています。

        <『あえて数字からおりる働き方』SBクリエイティブ
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               ・・・

尾原和啓氏は、「個人の時代の生き方」は、まずギブから始めることだという。

『僕は日々、見かけたニュース、読んだ本など、様々な情報について、
 それが誰のためになりそうかを考えながら、
 約20人の人にメッセージを送り続けています。

 毎日20通のGIVE(ギブ)メールは、僕にとっては日々の習慣ですが、
 その中に受け取った友人にとって「有ることが難しい」ものがあると、
 「ありがとう」という言葉が返ってきます。

 つまり、毎日のメールは友人にとって「役に立つ」ものになると同時に、
 そのメールを通して、僕はその友人が何を欲しているのかがわかるのです。

 これを続けていくと、僕の存在は、彼にとって、
 その旅にほんの少し同行する「意味のある」友人へと少しずつ変わっていきます。

「老後の貯金、2000万円じゃ足りないらしいから、もっとお金をためなくっちゃ!」

 今僕たちは、変化の時代がもたらす不安と焦りに煽られるあまり、
 ついわかりやすい“数”ばかり追ってしまって
 “目の前の人”よりも“自分のこと”にばかり一生懸命になってしまっている
 のではないでしょうか。

 商いの基本は「有り難う」の物々交換でした。

 でも、物々交換はお互いに相手を探し出すことが大変で、
 お肉や野菜などは交換相手をさがしてるうちに腐って価値が減ってしまいます。

 したがって、お金という「価値を数値化」するものに1回換えて、
 お肉ならお肉屋さん、野菜なら八百屋さんと、誰かが一手に引き受けて、
 物とお金を交換するほうが効果的なのです。

 こうして今は、お金の発明によって、
 交換相手を探さなくても必要な物を手に入れて生きていくことができるし、
 贅沢もできるようになりました。

 便利ですね。

 でも、それによって誰かから「有り難う」と直接言われる機会を失い、
 誰かにとって「意味のある」存在になれる機会を減らしてしまいました。

 我々は「有り難うの意味」を忘れ、
 「数字のオバケ」にとりつかれやすくなってしまうのです。

 では「数字のオバケ」に負けずに
 「自分の物差し」を育てるにはどうすればいいのか?

 その答えは、

 ●自分が誰かから「有り難う」と言ってもらえるGIVE(ギブ)を繰り返すこと

 ●ギブを繰り返すことによって、特定の誰かにとっての「意味のある」存在になること

 ●特定の誰かにとって「意味のある」存在になることを重ねていくこと

 それによって、ある意味の流れの中で特定の人たちに呼ばれる「何者かになっていく」。

 つまり、あえて数字を追う世界からおりることで、「意味のある自分」を見つける…。

 それがこの本の構造です。』


「ギブアンドテイク」という言葉がある。

何かを与えたら何かをもらう、
逆に、何かをもらったら代わりに何かを与えるという、
お互いに与えあうことを言う。

持ちつ持たれつという意味でもある。


また、「ギブアンドギブ」という言葉もある。

見返りを期待せず、相手に貢献し続けることだ。

リアルで「ギブアンドギブ」をやると、
時として「テイクアンドテイク」という図々しい人が寄ってくる場合がある。

しかし、ネット上のブログや、情報発信等だと、比較的それはやりやすい。

費用があまり発生しないからだ。


意味ある存在になるため…

ギブを重ねることができる人でありたい。

            <感謝合掌 令和2年9月26日 頓首再拝>
11:伝統 :

2020/10/03 (Sat) 04:11:39


    *「光明道中記」(10月3日《却下(あしもと)を見る日》)より抜粋

【成功とは金でも名でもない。生命が向上進歩することだ。(『生命の實相』第十一巻)】

吾々は人生観を根本的に変えなければならないのである。
人生観が万事である。

奪わなければ偉大になることが出来ないと思っている者の世界は呪われている。
彼は根本的に「人生」と和解していないからである。

(中略)

すべての生物の生命は、神なる大生命から生れたものであるから、
自然そのままの、換言すれば、神の叡智の構図そのままに生活している時には
殺し合いはないのである。

そこには生かし合いがあるばかりである。
この状態を”エデンの楽園”と象徴的に名づけるのである。

魚族の如きは多数の産卵をしてそれが孵化して稚魚になる数も大変なものである。
その稚魚は親魚及び他の大魚の餌となって食されてしまう。

それは、一見殺し合いのようであるけれども、
魚族には一尾一尾は人体の細胞の如く個性霊魂はないのである。
魚族としての全体の種族生命に融合包含されているのである。

           <感謝合掌 令和2年10月3日 頓首再拝>
12:伝統 :

2020/10/09 (Fri) 03:36:59


        *Web:宇宙の兄弟たちへ(2020年10月4日)より

よい行いの種をまいていると、良い結果を得られますし、
悪い行いの種をまいていると、悪い結果が返ってきます。

その返ってくるスピードが遅かったり、
後になって返ってくる事もあるため、
人はその因果関係が分からなくなります。

よくお店などで買い物をすると額に応じてスタンプがもらえて、
スタンプが貯まっていくと品物や割引と交換してくれるサービスがあります。

たとえばラーメン店で500円以上の食事をした時には、
メンバーカードにスタンプが一個もらえて、
そのスタンプが10個貯まるとトッピングの味付き卵が無料でついてきたり、
替え玉が無料になるなどのサービスを受けられるなどがあります。

このように少しづつ貯めていくと、
良いものと交換してくれるサービスがあります。


世のため人のための行われた良いことも、
スタンプのように押されて記録されていくわけです。

その途中では何の役にも立たないように思えますが、
段々と溜まっていくと幸運が訪れるわけです。

それが何時になるのか、何個集めればどの景品と交換できるのかは、
私たち地上に生きる人間には分かりませんが、
見えないことろを見てくださっている存在が、
私たちの行いの応じてやがて報いを与えられるわけです。


これを仏教では難しい言葉で因果応報と説いています。

分かりやすく言うと、
その人の行いに応じた報いがいずれ訪れるという教えです。

新約聖書にもイエス様の言葉として
「隠れたところで見ておられる父なる神さまが報いてくださる」
マタイ6:4というものがあります。

洋の東西を超えて同じことが言われているわけです。


それを分かりやすく現代的に言うと、
見えない「良いことスタンプ」を集めていると、
いずれ幸運を取り換えてくれるという事です。

自分の行いはいずれ自分へと返ってくるのです

     (https://www.spacebrothers.jp/2020/10/blog-post_4.html

           <感謝合掌 令和2年10月9日 頓首再拝>
13:伝統 :

2020/10/27 (Tue) 04:29:26


         *Web:今日も良いことがあるように(2019/03/09)より

《与えられた贈り物》

アメリカ、ある年の感謝祭の日、
その貧しい家庭には食卓を飾るごちそうが何もありませんでした。

夫婦は互いに怒りに満ちたトゲトゲしい言葉を投げつけ合い、
暗く沈んでしました。

まだ少年だった長男は、
そんな両親を見ながら無力感に打ちひしがれていました。

そこへ、運命のノック。

少年がドアを開けると、よれよれの服を着た見知らぬ男が
両手いっぱいにお祝いのごちそうの入ったバスケットを抱えて立っていました。

「あなた方がお困りだと聞いたある方からの贈り物です。
 あなた方を愛し、気にかけている者がいるのを知ってほしいのだそうです」

男はそう言いましたが、一家の主は受け取ろうとしません。

「わたしはお届けするように言われただけなのです」

男はそう言うと、笑顔でバスケットを少年に渡し言いました。

「感謝祭、おめでとう」

その瞬間から、少年の人生は変わりました。

このときの感謝の気持ちが、少年の心を深く動かし決意させたのです。

「いつか自分もこんな贈り物ができるようになろう」と。



18歳になったとき、少年はその誓いを初めて実行しました。

自分で稼いだなけなしのお金で、
食料品を買い、わざと古ぼけた服を着て、
その日の食べ物にも困っている、ある家族のもとへ届けました。

この家の子どもは6人。
父親は数日前に家族を捨てて出て行き、
家にはまったく食べ物がありませんでした。

「お届け物です」

子どもたちは、少年が家に運ぶる数々の食料を見て歓喜しました。

ラテン系の母親は、少年を抱きしめ、片言の英語で言いました。

「あなた、贈り物、神様から。あなた、贈り物、神様から」

「違うんです。ぼくはただの配達係です」

そして少年は、これは友人からだと言って、メッセージを手渡しました。


   感謝祭を楽しんでください。

   あなたたちはそれにふさわしい人です

   自分たちが愛されていることを知ってください。

   そしていつか、もし機会があれば、
   同じように誰かに贈り物をしてください。


その家族が興奮と歓喜にあふれ笑顔となる様子を間近に見て、
少年は涙があふれでてきました。

そして、気づきました。

子どもの頃のあの「悲惨な日々」は神様の贈り物だったのだと。

あの日からずっと、人に尽くすことで満足を得る人生へと
自分は導かれてきたのだと。



少年は、その日から今日まで、大きな目的をもった旅を続けています。

その目的とは、自分と家族に届けられた贈り物を別の誰かに届けること。

そして、思い出してもらうこと。

辛い状況を変える道は必ずある。

あなたたちは愛されているのだと・・・。


この少年は、アンソニー・ロビンズという人です。

彼は大人になり、事業を成功させました。

そして、いま世界的な講演者、カウンセラー、トレーナーとなっています。

クリントン前大統領、故レーガン元大統領、故ダイアナ妃、
テニスプレーヤのアガシ、俳優のシュワツネッガー州知事など、
彼の教えを受けた世界的リーダーは多数いるそうです。


《与えていく贈り物》

さて・・・
わたしたちのことを考えてみましょう。

わたしたちにもあるのではないでしょうか。

自分に贈られた物が・・・、
ごちそうでなくても、目に見えるものだけでも、
いくつも、いくつも・・・・。

ですからわたしたちも、きっとできると思います。

自分に届けられた贈り物を別の誰かに届けること。

豊かな心で誰かを思うこと。

贈り物は、ごちそうでなくてもいいのです。

お金のかからないものでもいいのです。

一つの言葉でも、
一本のメールでも、
一枚の葉書きでも、

あなたが心を添えて届けることで、
誰かを幸せな気持ちにすることはできるのです。

自分に贈られた物を他の人にも分け与えよう。

その贈り物があなたとその人の人生を変えていきます。(^.^)

出典:アンソニー・ロビンズ著『人生を変えた贈り物』
   (→ https://www.youtube.com/watch?v=d95AEwbbR68 )

https://lucky.t-nakai.work/2019/03/09/story-37/

・・・

 (参照Web:
  アンソニー・ロビンズとは
  http://life-change-agent.com/anthony_robbins.html
  アンソニー・ロビンズの講演「何が人を動かすのか」
  https://www.ted.com/talks/tony_robbins_why_we_do_what_we_do?language=ja

           <感謝合掌 令和2年10月27日 頓首再拝>
14:伝統 :

2020/11/04 (Wed) 04:43:45


     *<メルマガ「人の心に灯をともす」(2020.10.16)より

  (曹洞宗管長、板橋興宗(こうしゅう)氏の心に響く言葉より…)

   「一生の終わりに残るものは、
    われわれが集めたものではなく、われわれが与えたものだ」

   と言った人がいる。(ジェラール・シャンドリー)

   亡くなってからも、人々から感謝され、なつかしく思われるのは、
   生前にどれだけ多くのものを与えたかによって決まる。

   一生かけて集めた金銀、財宝も、
   あの世までもってゆくわけにはいかない。

   残された財産の恩恵にあずかる人はごく一部の遺族に限られる。
   しかも、時として醜い骨肉の争いの原因にもなりかねない。

   人々に分け与えるものは、金銭や物品だけに限らない。
   親切な心づかい、優しい言葉、涼しいまなさし…などもある。


   「棺(かん)を覆(お)うて、人定(ひとさだ)まる」といわれている。

   死んで棺のふたがしめられ、
   はじめてその人のほんとうの評価が定まるということである。

   生きているうちは、おもねたり、取り入ったりする人もいる。

   だが、死んだ人にまでお世辞をいう人はいない。


   いい人だった、欲のふかい人だった…人々の胸に正直な印象が残る。

   私たちは、学校でいろいろな先生に学んできた、
   どの先生にどういうことを教えられたか、
   こと細かに覚えている人はおるまい。

   しかし、その先生がどんな人であったか…。

   感じのよい先生、いやらしい先生など、
   その先生の全体像は、それなりに想い浮かんでくる。

   これが、その先生が私たちに与えた「教育」の全体像といえよう。


   講演などを聞くことがある。

   後日、その人がどんなことを話したか、ほとんど忘れている。

   だが聞きながらすんなり理解している時は、いつまでも
   「よい話だった、わかりやすかった」という感じを抱いている。

   話題の内容は覚えていなくても、
   その人の全体像が脳細胞の栄養となっている。


   理解しにくい話は、むずかしい話だった、つまらなかった、
   という拒否反応の印象ばかりで脳の栄養にはならない。


   私たちはいずれ死んで灰になる。

   自分が与えたものだけが人々の心の中に生きている。

   生前、人々に与えることの少ない人は、
   死んで間もなく忘れ去られてしまう。

     <『「心豊かに」生きる知恵』産業能率大学出版部
                 https://amzn.to/3iZggOl

             ・・・

「浄玻璃(じょうはり)の鏡の前に立つまでは、
 秘めておきたしあのこともこのことも」(相田みつを)


人は、死ぬとき誰もが浄玻璃の鏡の前に立つという。

浄玻璃の鏡の前に立つと、一瞬にしてその人の人生が鏡に映し出される。

人に与えた苦しみや悲しみが多ければ、
それを見て、身もだえするほどの苦しみとなる。

反対に、人に与えた喜びや楽しさが多ければ、
それを見て、極楽にいるときのように楽しく、嬉しい気持ちになる。


どんな財産も車も豪邸も、社会的地位も、あの世には持っていけない。

また、自分の体も、自分の思い出も、あの世には持って行けない。


「棺(かん)を覆(お)うて、人定(ひとさだ)まる」


どれだけ多くのものを人々に与えたか…

この世に、温かな思い出をたくさん残せる人でありたい。

           <感謝合掌 令和2年11月5日 頓首再拝>
15:伝統 :

2020/11/20 (Fri) 04:59:58


          *「眞理」第2巻基礎編第6章(P173)より

真理で救われたならば、その真理を人々に宣べ伝えよと云うのは、
他(た)を救うことになると同時に、自分自身の魂を
一層完全に救うことになるからである。

何故なら自分の魂が救われるのは愛他行の中にあるからである。
愛他行のなかでも、物質を他(た)にほどこす物施(ぶっせ)よりも、
何物が来ても畏れなくなる無畏施即ち真理を他(た)に施すことは
最高の愛他行である。

これによって、他(た)の人は救われ、自分の魂は一層向上するのである。

現代は印刷術が発達しており、教育が行きとどいていて
文字の読めない人は殆どいないのであるから、
簡単な真理の書物を他(た)の人に与えたり、貸したり、勧めたりするだけで、
どれだけ多くの人々が救われるか知れないのである。

           <感謝合掌 令和2年11月20日 頓首再拝>
16:伝統 :

2020/12/07 (Mon) 03:30:52


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2020.10.09)より

   (教育者、哲学研究者、近内悠太氏の心に響く言葉より…)


   人間の新生児はなぜ未熟な状態で生まれてくるのでしょうか。

   たとえば馬は生まれた直後に立ち上がることができます。

   しかし、人間の新生児は立つことも、
   一人でものを食べることもできません。


   なぜ人間の乳幼児は周囲の年長者による保護や教育が
   与えられなければ生きていくことができないという
   「弱さ」を抱えることになったのでしょうか。

   ヒントは「直立歩行に適さない骨格」と「大きな脳」です。


   日本でもベストセラーになったユヴァル・ノア・ハラリの
   『サピエンス全史』でも紹介されている理論ですが、
   ハラリによると、霊長類の骨格はもともと四足歩行に適したものでした。

   四足歩行から直立歩行に移行するには腰回り、
   つまり骨盤を細める必要があり、
   それにともなって女性は産道が狭くなりました。

   またこのとき、人間は他の動物たちよりも
   ずっと大きな脳を獲得しつつありました。

   つまり、人間の赤ちゃんは大きな脳を携えながら、
   狭くなった産道を通って生まれてこなければならないという
   難点を抱えることになったわけです。

   人間は哺乳類の中で最も難産な種だそうです。


   進化はどのようにしてこれを解決したかというと、
   脳の発達が完了する前の段階、すなわち
   「頭が大きくなる前の段階で出産する」という道を選びました。

   それにより母体の生存率と子供の出生率が上がり、
   自然選択によって人間は早期の出産をするようになりました。

   このようにして、人間は未熟な状態で生まれてくることになったわけです。


   さて、重要なのはここからです。

   出産後、成長途中の未熟な乳幼児を抱えた母親は
   数年間にわたって食べ物を自身の力で採集することができず、
   子育てを周囲の人間に手伝ってもらわなければならなくなりました。

   それと同時に、人間のある能力が発達します。

   ハラリの言葉を引きます。


   人間が子供を育てるには、仲間が力を合わせなければならないのだ。

   したがって、進化は強い社会的絆を結べるものを優遇した。


   進化のプロセスからすれば、
   脳の小さい未熟な新生児を産むという解決策ではなく、
   大人の体のほうが進化して、直立歩行を可能にしながらも
   骨盤を大きくしたり、産道を広くするなどして
   脳が完成した子供を産めるようにする、という選択肢もありえたはずです。

   しかし、自然はそのような身体的拡張ではなく、
   社会的能力のほうを選びました。

   子育てや互いの生存のための信頼できる仲間。

   見返りを求めず助け合える関係性。

   僕らは、僕らが人間となって文字通り立ち上がった瞬間から、
   つまり、人類の黎明期の一番初めから、
   「他者からの贈与」「他者への贈与」を前提として
   生きてゆくことを運命づけられてしまったのです。

   そして、そのような仕方で僕らはかろうじてこの世界を生き延びてきました。


   信頼関係や助け合いは明らかに「サービス」ではありません。

   ましてや「商品」ではありません。

   そもそも市場というものが出現するはるか以前からある
   人類学的慣習ですから、そのようなタームで語れるはずがありません。

   それらはいわば「お金では買えないもの」です。


   僕らが必要としているにもかかわらず
   お金で買うことのできないものおよびその移動を、
   ひとまず「贈与」と呼ぶことにします。

   それは定義上、商品やサービスという
   「市場に登場するもの」とは異なるものとなります。


   贈与の不可解な点があります。

   それは、贈り物はもらうだけでなく、
   贈る側、つまり差出人になることのほうが
   時として喜びが大きいという点にあります。

   たしかに、自分の誕生日を誰にも祝ってもらえないとしたら寂しい。

   でもそれ以上に、もし自分に「誕生日を祝ってあげる大切な人」
   「お祝いをさせてくれる人」がいなかったとしたら、もっと寂しい。

   なぜもらうことよりも、あげることのほうがうれしいのでしょうか。

   なぜ自分が祝われる以上に、誰かを祝うことが自身の喜びになるのか?


   恋愛の場面が一番分かりやすいと思いますが、
   気になる相手に何かプレゼントを渡そうとしたとき、
   受け取ってもらえないという悲劇が起こることがあります。

   贈与の受取の拒否。

   それは何を意味するかというと、関係性の拒否です。

   つまり「私はあなたと特別なつながりを持つつもりはない」
   という宣言となります。


   なぜ贈与がつながりを生み出すかというと、
   贈与には必ず返礼が後続するからです。

   「この前もらったお礼に…」

   そのお礼はまたお礼を促(うなが)します。

   その返礼は再び贈与として相手に手渡され、
   さらに再返礼、再々返礼…と、
   その関係性は「贈与の応酬」に変貌します。


   つまり、贈与を受け取ってくれるということは、
   その相手がこちらと何等かの関係性、
   つまり「つながり」を持つことを受け入れてくれたことを意味します。

   こちらの好意や善意は、必ずしも相手に受け入れられるとは限りません。

   だから、プレゼントを受け取ってくれたり、
   こちらの祝福を受け入れてくれたりしたとき、
   僕らはうれしく感じるのです。

     <『世界は贈与でできている』NewsPicks
              https://amzn.to/30O5Vyy >

              ・・・

近内氏なぜ「勉強」すべきなのかについてこう語ります。

『具体的に言えば、歴史を学ぶことです。

 歴史を学びながら、もしその世界に自分が生まれ落ちていたら、
 この目には何が映るのか、どう行動するか、何を考えるかを
 意識的に考えるようにすることです。

 そこに生きる一人の生身の人間としての自分を考えるのです。

 そして、ふとその想像から戻ってきて、
 この現実の世界を見渡してみたとき、
 僕らにはあまりにも多くのものが与えられていることに
 気づくはずです。

 これらは生まれる時代が異なっていたら、
 私のもとへは届かなかった、と。

 ある歴史的な出来事には、
 さまざまな偶然的ファクターが関与しています。

 歴史を学ぶというのは、そこに
 何ら必然性がなかったことを悟るプロセスでもあります。

 この世界の壊れやすさ。

 この文明の偶然性。

 これに気づくために僕らは歴史を学ぶのです。』



今、この時代、この日本に生まれ、この今の年まで
生きてこられたというのは、天からの贈与以外の何ものでもない。

そして、年を重ねれば重ねるほど、
仕事や家族、友人たちとの出会いは、
さまざまな「たまたま」という偶然の積み重ねだったことに気づく。

そのうちの一つでも歯車が欠けたら、
今の人生は全く違ったものとなっていたはずだ。

それこそが、ギフトであり贈与。


だからこそ、我々はその受け取ったものを、次に贈与する。

「もらうより、贈る側のほうが時として喜びが大きい」


贈る人がいる幸せをかみしめたい。

           <感謝合掌 令和2年12月7日 頓首再拝>
17:伝統 :

2021/02/02 (Tue) 02:47:15


           *「光明法語」(2月2日)より

太陽の温かさを受けようと思えば先ず一歩日向(ひなた)に向って「歩み出し」を
与えることが必要である。日向にむかって「歩み出し」を与えないでいて
太陽の温かさをうけることは出来ない。

写真を写すには先ずカメラに代金を払わなければならぬ。
マメラを借りて来ても好(よ)いが、やはり吾らは、
焦点距離を合わしてスイッチを捻る動作を与えなければならないのである。

音楽をきこうと思えば音楽会に金を払うか、レコードに金を払うか、
蓄音機を廻すかラジオの波長を合わすか、
いずれにせよ金又は「動作」を与えなければならぬ。

           <感謝合掌 令和3年2月2日 頓首再拝>
18:伝統 :

2021/02/07 (Sun) 03:22:23


           *「光明道中記」(2月7日)より

【常に他に与えたいと思っている者は他から愛され、常に他から与えられたいと
 思っているものは他から嫌われる。 (『生命の實相』第十一巻)】

「あの人から深切して欲しい」と思う心は兎(と)もすれば其の人を躓かせる。
深切が欲しければ自分が先ず深切を自分の生活から造り出すことである。

深切を他から求めるような人は屹度深切に飢えている人である。
深切に飢えている人は、自分自身が深切を身辺に造り出していない証拠である。

他が深切にしてくれないと思う人は、
自分が他に深切をしているかどうかを省みるが好い。

蒔いた種は生えるし、蒔かぬ種は生えない。
自分が「深切」を製造する分量が少ないからとて、
「深切」の少きを嘆いてはならない。

「深切」を沢山欲しい人は、
自ら選んで自分の周囲にいる人々に深切を与えるが好い。

こちらが微笑すれば、周囲が微笑する。
こちらが渋面(じゅうめん)すれば、周囲が渋面する。
こちらが相手を審判(さば)けば、周囲が自分を審判くであろう。


 吾が住む世界は吾が与えし通りの世界である。
 人は自分の心に従って地獄を造り極楽を作る。

 自分だけの幸福を護り育てていたい者には、
 その人の周囲から深切な人々が立去るだろう。

           <感謝合掌 令和3年2月7日 頓首再拝>
19:伝統 :

2021/02/09 (Tue) 02:39:38


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月9日)」より

人間の深切にも物施と法施とがある。

物を与えることも時には必要であるが、
あまり物のみを与えすぎるとかえって依頼心を起こさせ、
貰うことが権利のような感恩のない状態にまで相手の心を荒(すさ)ませることがある。

物を与えるならば、《心もち》を添えて贈らなければならぬ。
紙に包み、水引を掛けるのは心持を添える方法の一つである。
人間は心もちによって生かされているのである。

機械的な「与え」の前には感恩の心は起こるものではない。

与える側からいうならば、物を贈るのに相手に感恩の心をを起こさせようと
思ってするのは不純ではあるが、相手の心を依頼心に満ちたり、
忘恩的な荒んだ心にまでならせないためには機械的な与え方をしてはならない。

勤務時間以上に働きをサービスする社員に、
上役が感謝して夜食をおごったりしてくれる場合には、
いかにも上役の好意が身に沁(し)みて感謝されるが、

規則によって夜勤手当というものを定(さだ)めて、
一定時間の夜勤をするする者には一定の夜勤料を支払うことに機械的に
定(き)めてしまうならば、もう誰も夜勤料をありがたく思わなくなるものである。

それどころか、時には夜勤料が少ないといって零(こぼ)すようにさえなりがちである。
与える悦びがなくなって、奪い足りないという不平に代わるのである。

生活に困っている失業者に仕事を紹介してやったら、
その当座は生命(いのち)を救(たす)けてもらったように感謝するが、
毎月月給を貰うということが機械的に度重なってくるならば、
もうぼつぼつ月給の不足を零しがちである。

感恩の心は機械的になるとしだいに薄れてくるのである。
子供の愛情に養われる老人は幸福であるが、
社会保障制度で養老院に養われる老人には前者ほどの喜びはない。

われわれは毎日空気を吸っているが、機械的に空気を供給されているがゆえに
ありがた味を感じない。われわれは太陽がなくては生きられない人間でありながら、
太陽は機械的に毎朝地平線から顔を出すから太陽のありがた味をさほど感じない。


しかし、これでよいだろうか。

目ざめて立て! 

わたしたちはあらゆる恩恵のうちに生きているのである。

ありがたさは物の分量にあるのではなく、心の《目ざめ》にある。
心の《目ざめ》ている人を悟っていると言う。

一かど悟っていると自負している人が常に不平を唱えているのは何を悟っているのか、
訊いてみたい。

           <感謝合掌 令和3年2月9日 頓首再拝>
20:伝統 :

2021/02/22 (Mon) 04:43:45


      *Web:宇宙の兄弟たちへ(2021年2月9日)より

地上でどれだけたくさんの物質に囲まれようとも、
豊かな物にあふれる生活を送ろうとも、それは真の価値とはなりません。

いずれ地上を旅立つ時には、
すべての物質を捨ててこなければならないからです。

物質世界であるこの世の物に囚われ過ぎると、
霊的には退化してしまいます。

この物質世界にあって、いかに物質と肉体とを超えたものを掴みとり、
受け入れていくかが霊性の向上にとっては大切です。

たとえこの世で成功して、物質的に豊かになったとしても、
それがかえって物に囚われてしまうようになれば、
霊的にはむしろ退化してしまっていると言えるでしょう。

この世的には必ずしも豊かではなく、
持っているものも少ないとしても、物質を超えた存在を知り、
目に見えない価値に気づいて受け入れていくなら、
その人は霊的に豊かな人となります。


では霊的に豊かな人生を送る人とはどのような人でしょうか?

暗闇の中でさ迷い、光りを見失っている人に、
灯台の光のように道しるべとなる人。

苦労して疲れた人に活力を与え、
悲しみにくれている人に慰めを与える人。

病に苦しんでいる人や、傷を負っている人たちを癒す人。

弱いものを助ける人。

この世に正義を実現する人。

真理の光を灯す人。

たった一人の小さな人間に対しても、
これらの行いをする人は、価値ある人生を送っている人です。

それらの行いが多く、たくさんの人に行うほど、
その人は豊かな人生を送っていると言えるでしょう。

しかし、小さきものに対してでも、悲しませ、苦しみを与え、
痛みや傷を負わせるものは、
自らの人生の価値を減らしていってしまいます。

人は物質世界において、
どれだけ霊的に豊かな人生を送るかが大切です。

https://www.spacebrothers.jp/2021/02/blog-post_9.html

            <感謝合掌 令和3年2月22日 頓首再拝>
21:伝統 :

2021/03/01 (Mon) 03:28:13


           *「光明法語」(3月1日)より

若し諸君に職業が見つからぬならば、金を得る仕事だけを職業だと思うな。
諸君の前に偶然あるところの何の仕事にでも(便所掃除でも、カド掃きでも、
障子硝子拭きでも)報いを求めることなしに奉仕せよ。

これが無条件に与えると云うことである。
やがて其処から諸君に最も必要にして適切なる仕事を得る
緒(いとぐち)が得られるであろう。

神は決してケチではないのである。
人間が与えることにケチなのである。

そして入り口をひらかないものだから神の恵みが流入しないのである。

           <感謝合掌 令和3年3月1日 頓首再拝>
22:伝統 :

2021/03/17 (Wed) 04:41:32


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月17日)」より

皆さまにお気に召すようにお化粧してまいりましょう。

この心がけに家庭平和の秘訣もあれば、商売繁盛の秘訣もある。

皆様を喜ばす心がけが中心となる。技巧に走れば虚飾になる。

           <感謝合掌 令和3年3月17日 頓首再拝>
23:伝統 :

2021/04/06 (Tue) 04:30:08


           *「光明道中記」(4月6日)より

【全体と個との融合を実際の生命の体験として掴むことが宗教である。
                    (『生命の實相』第十三巻)】

本当の太陽は、昼に非ず、夜に非ず、昼夜を超えて照々として輝く。
それは決して火の玉にあらずして宇宙に満つ。

樹木の中にも太陽あり、吾々の体中にも太陽のエネルギーあって輝く。
太陽を一個の盆大(ぼんだい)の火の玉と見るは、
吾々の五官を通して見たる一面識なり、相対観なり。

太陽は何故かくの如く万物のうちに満つるか。
それは太陽は万物に光を与え生命を与えるからである。

吾等もまず自分が本当に全世界的に伸びようと思うならば、
みずから進んで全世界に自身を与えなければならない。
与えるものだけが、その相手を自分のものとするのである。

伸びようと思う者よ。
伸びるためには今迄他から自分へ奪いとることによって
自己が拡大すると思っていたのである。

然(しか)るに今では
他に与えることが自己を拡大することであると判ったのである。

一個の何の功労もない女性が、一家の主人公に身を献(ささ)ぐれば、
彼女は一家の主婦としてその一家を自由に処理し、
又は管理するところの権力を得る。

身を献げたる女性は男性に縛られたように見えるが、
実は、男性を自由自在に支配する力を得る。

伸びるとは与えることである。

           <感謝合掌 令和3年4月6日 頓首再拝>
24:伝統 :

2021/04/23 (Fri) 04:44:15


           *「光明道中記」(4月23日)より

【すべて形に執われて来るとき生命を生かす事が出来ないのであります。
                     (『生命の實相』第十七巻)】

来る人は一人で来ないで是非知人を伴って来て戴きたい。
自分だけ善い話を聞いて救われたいと云う利己主義と云う程でもないが、
独善であり、消極的であり、羅漢の程度の境地である。

自利利他の功徳を計ることになって菩薩の境地に入る。
「利他」にして初めて潜在意識の世界に善行の種を蒔いたことになる。
心の世界に蒔いた種は決して滅びるものではない。

子孫に美田を遺してもその美田は滅びるであろう。
併し心の世界に蒔いた善行(たね)は滅びはしない。

私の叔父さんに福松と言って畸人(きじん)があった。
神道の神主で少講義かなんかの低い役目をしていたが、施しが好きであって
何時(いつ)も貧乏で見窄(みすぼ)らしい服装(なり)をして歩いていた。

人が気の毒に思って紋付の羽織などを着せてやるとその翌日には
もうその紋付の羽織を着ていなかった。

「どうしたのか?」と訊くと
「憐れな人があったから与えた」と答えるのが常であった。

この叔父さんには自分自身を良くすることなど考えて見たこともなく、
ただ隣人を愛していたのであった。

           <感謝合掌 令和3年4月23日 頓首再拝>
25:伝統 :

2021/05/19 (Wed) 04:51:19


          *「眞理」第2巻基礎篇第1章(P16)より

人生は正札(しょうふだ)付きでありますから
値切ると安い値段で幸福が得られる
と云うような考えを捨てなければなりません。

あなたが何か良き事物を得ようと思われましたならば、
《今日唯今》、自分の持てる最も値いのある物を献げなければなりません。

自分の喜びを自分だけで独占しないようにして、
それを多くの人々に分け与えることを実践するのです。

先ず人々に深切を尽すのです。
喜びを与えるのです。
幸福を与えるのです。

与える喜び、捧げる喜び、
そこからあなたにとって天国が開け初(そ)めます。

それを1週間つづけて御覧なさい。
健康もよくなります。どんな病気もよくなり始めます。

更(さら)に1か月、更に2か月・・・そして1年・2年・・・
斯(か)くて貴方はついに
幸福の天国を地上に実現することが出来るのであります。

           <感謝合掌 令和3年5月19日 頓首再拝>
26:伝統 :

2021/06/09 (Wed) 04:53:12

       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2021.03.18)より

   (聖心会シスター、鈴木秀子氏の心に響く言葉より…)

   ヴィクトール・E・フランクルという精神科医をご存じの方も多いと思います。

   第二次世界大戦時にナチスに捕らえられて
   強制収容所で過ごした体験をもとに世界的な名作「夜と霧」を書いた人物です。

   強制収容所という、死と隣り合わせの極限状態の中でも、
   彼は「ここで死〇ない」と感じ続けました。

   「どんな状況になっても、生きていることには意味がある。
    無駄な人生はない。ここアウシュヴィッツで殺されて
    いった人たちの人生にはそれぞれ意味があり、
    この苦しみの中にも意味がある」

   そう確信した彼は、ナチスに解放されたあと、
   この哲学を確立させて「実存分析」という学説を打ち立てました。


   フランクルは、人には3つの価値を生み出す力がある、
   と説いています。

   まず1つ目は
   「何かができる、何かを創り出す、行動する」という価値。

   2つ目は
   「何かを体験する、感動する、さまざまな感情を味わう」という価値。

   3つ目は「自分の態度を変えることで、自分や周りを
    素晴らしいものに変化させる」という価値。


   彼は、どんな日常も素晴らしいもので、
   価値があるという信念を持っていました。

   そして「どんな人生も、それぞれかけがえのない素晴らしいものである」
   と伝え続けました。


   彼の講演会で、こんな質問が出たことがあります。

   「フランクル先生は立派な精神科医で、
    多くの人を励ますメッセージを広めていらっしゃいます。
    だからあなたの人生には、生きる意味があるでしょう。

    ですが私は洋服屋です。
    私の人生に、さほど大きな意味はありません」

   フランクルは答えました。

   「あなたは洋服をつくることを通して、
    人々に喜びを与えています。新しい洋服に袖を通す喜びを、
    あなたは創造しているのですよ」

   これは、1つ目の「何かを創り出す」という価値に当てはまります。


   続いて、こんな質問も飛び出しました。

   「私は元デザイナーです。ですが病気で手足が動かなくなり、
    廃業せざるをえません。私には、何かを創造する価値が
    なくなってしまったのです」

   フランクルは答えます。

   「人には『体験をする』という価値もあります。
    あなたは、手で何かをつくることはできなくなったかもしれませんが、
    いいものや美しいものを見極める力を持っています。

    他の人が創造したもののよさを感じたり、
    味わうことができるのですから」

   これは、2つ目の「体験する」という価値に当てはまります。


   またある時、フランクルはこんなことを語っています。

   入院生活を送っているおばあさんがいました。

   毎日、病室で寝たきりです。

   ある朝、彼女は窓の外を歩く勤め人たちの姿に気づきます。

   その元気のない姿を見て、おばあさんはあることを思いついたのです。


   それまで身だしなみも整えなかったおばあさんですが、
   翌日から髪をとかし、薄化粧をし、身なりを整えて
   車椅子で外へ出て、笑顔で勤め人たちに声をかけ始めたのです。

   最初は誰もおばあさんに目をとめることはありませんでしたが、
   数日経つうちに、自分から彼女に挨拶をする人も出てくるように
   なりました。

   その数はどんどん増えて、
   おばあさんは最後まで幸せに生きることができました。

   これは3つ目の
   「自分の態度を変えることで自分や周りを素晴らしいものに変化させる」
   という価値に当てはまります。


   このように、どんな人にも、
   それぞれに生きる価値があります。

   もちろん人生には浮き沈みというものがあり、
   状況が悪くなることもあるでしょう。

   ですが彼のように曲線を描きながら、
   必ずよい方向へと進むようにできています。


   だから、その途中で自暴自棄になったり、あきらめたり、
   悲観して投げ出したりしてはいけないのです。

   あなたの人生はかけがえのないものであり、
   大きな価値があるからです。

     <『あなたは、あなたのままでいてください。』アスコム
                  https://amzn.to/3lwIItJ >

          ・・・

1つ目の「何ができる、何かを創り出す、行動する」という価値と、
3つ目の
「自分の態度を変えることで、自分や周りを素晴らしいものに
 変化させる」という価値は、

アウトプットにつながっている。

しかし、2つ目の
「何かを体験する、感動する、さまざまな感情を味わう」
という価値は、このままではアウトプットにつながっていない。

自分の内に体験や感動をため込んでいるだけなら、それはもったいない。

アウトプットすれば、人様のお役に立つこともできるからだ。


現代には、さまざまなアウトプットの手段がある。

誰もが簡単に発信できるということだ。

たとえば、SNSで発信すること。

感動や体験を発信することで、共感者が現れ、コミュニティもできる。

そして、その言葉で、
誰かを喜ばせたり、救うこともできるかもしれない。


またあるいは、感動したり学んだことを人に教えるのもいい。

教えることで、それらが自分の知識として定着する。


「人には3つの価値を生み出す力がある」

自分の価値に気づき、誰かのお役に立てる人でありたい。

・・・

<参照>
ヴィクトール・エミール・フランクル(Viktor Emil Frankl)
フランクル心理学
https://www.earthship-c.com/viktor-e-frankl/

           <感謝合掌 令和3年6月9日 頓首再拝>
27:伝統 :

2021/06/23 (Wed) 03:55:07


      *「光明道中記」(6月23日《食堂楽しき日》)より抜粋

みずから栄える道は他を栄えしむるにある。

社員を栄えさせ、店員を栄えさせ、
顧客を栄えしめるように店を経営して行くならば、
その店は繁昌する他はないのである。

他を栄えしめんとの自分の愛念は
必ず自分に反射して来て、自分を栄えしむるほかはない。

与えたよりも多く受けようと思うな。
それは卑怯な狡(ずる)い考である。
卑怯は卑怯を呼び、狡さは狡さを呼ぶであろう。

ケチな主人に仕(つか)えるならば、尚一層深切に仕えよ。

常に貸し越しになる生活をせよ。

           <感謝合掌 令和3年6月23日 頓首再拝>
28:伝統 :

2021/07/09 (Fri) 06:19:42


      *メルマガ「人間力」(2020.6.16 より)

稲盛和夫氏――。

日本を代表する経営者として、
その名を知らない人はいないでしょう。

京セラやKDDIを創業し、それぞれ1・5兆円、
4・9兆円を超える大企業に育て上げ、
倒産したJALの会長に就任すると、
僅か2年8か月で再上場へと導きました。

功績はそれだけに留まりません。

中小企業経営者の勉強会「盛和塾」の塾長を務め、
1万2千人以上の経営者から師と仰がれている他、
日本発の国際賞「京都賞」を創設し、
人類社会に多大な貢献をもたらした
人物の顕彰を続けています。

稲盛氏の多岐にわたる活動に通底しているもの。
それは「利他の心」です。

“新・経営の神様”の呼び声高い稲盛氏が
『致知』の独占取材で語り明かした「繁栄への道」とは――。



人生で一番大事なものは何か

(1)どんな環境にあろうとも真面目に一所懸命生きること。

(2)間は常に〝自分がよくなりたい〟という思いを
   本能として持っていますけれども、
   やはり利他の心、皆を幸せにしてあげたいということを
   強く自分に意識して、それを心の中に描いて生きていくことです


■担当編集者による取材手記の全文はこちら
https://www.chichi.co.jp/web/%e7%a8%b2%e7%9b%9b%e5%92%8c%e5%a4%ab%e3%81%8c%e5%8d%b3%e7%ad%94%e3%81%97%e3%81%9f%e3%80%8c%e4%ba%ba%e7%94%9f%e3%81%a7%e4%b8%80%e7%95%aa%e5%a4%a7%e4%ba%8b%e3%81%aa%e3%82%82%e3%81%ae%e3%80%8d/


・・・

<参照>
伊勢ー白山 道2021-02-24
他のために一生懸命に生きる姿を、自分が持つこと
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/4fd581a30e539c25c1fd529c58dff715

           <感謝合掌 令和3年7月9日 頓首再拝>
29:伝統 :

2021/08/02 (Mon) 04:48:59


          *「眞理」第2巻基礎篇第3章(P73)より

「未来」の映画館でうつす画面のフィルムを
「現在」あなたは、自分の心でロケーションしているのです。

現在あなたはどんな心を持っていられますか。

憎みですか。
感謝ですか。

人のためになりたいと思っていますか。
人から奪って儲けたいと思っていますか。
人に与えたいと思っていますか
……あなたの心の通りを形にあらわしたものが未来にあらわれて来ます。

あなたが人を憎んでおればあなたは屹度(きっと)誰からか憎まれます。
感謝しておれば屹度(きっと)誰からか感謝されます。

人に尽したいと思っておれば、
貴方に尽したいと思う人があらわれてまいります。

人から奪おうと思っていると、
却(かえ)っていつの間にか損することが起ります。

心尽しを与えておれば貴方もきっと与えられます。

           <感謝合掌 令和3年8月2日 頓首再拝>
30:伝統 :

2021/09/08 (Wed) 04:56:01


       *『生長の家』(昭和25年8月5日の法語)より
        ~貧しきを征服するには

神をもっと豊かな寛大な父であると考えることが必要である。

神は神の子なる人間を
豊かに 幸福に 愉快に 楽しく 生活せしめたいのが
その願いであるのである。

人間を貧乏にしたり病気にしたりするのが神の願いではないのである。

人間を貧乏にしたのは 人間自身の想念である。

与えることを惜しむ心は、
その心の通りに与えられなくなる。

他に対して惜しみなく労力を与え、深切を与え、笑顔を与え、
仕事に対して丁寧を与え、友人に対して好感を与え、
何事にも充分 熟慮と努力を与えることが 貧しさを征服する道である。

           <感謝合掌 令和3年9月8日 頓首再拝>
31:伝統 :

2021/09/13 (Mon) 04:58:20


         *『生長の家』(昭和25年8月12日の法語)より

真に人を助ける道は、
みだりに相手に対して憐(あわ)れみの涙を
かき垂れることではないのである。

適当な時を得ない同情は
相手に依頼心を起さしめ、
却(かえ)って彼のみずから立つ力を失わしめるようになるものである。

それは形の助力を与えて、内在自立の力を奪うようになるから、
形は与えているようで、実際は奪うことになるのである。

だから真に彼を助ける道は、
彼みずからが彼みずからを助け得るように真理を与えることなのである。

仏教では物施よりも法施(真理の施し)を尊いとしているのはこのためである。

           <感謝合掌 令和3年9月13日 頓首再拝>
32:伝統 :

2021/09/14 (Tue) 04:48:51


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月14日)より

人の物を値切るようなケチな心を起こしてはならない。
値切る心は値切られるのである。

あなたの得た物(または人)の値打ちだけを
十分与えるように心懸けなければならない。

値打ちだけを買い取り、値打ちだけを支払い、
しかも自分もできるだけ力を尽くして奉仕するのだ。

ただ金だけ出して与えたつもりになっていて
怠惰や放漫になってはならないのである。

与えたけれどもそれが浪費になったという場合は、
自分が知恵を出さず、愛を出さず、
生命力を注がないからである。

ともかく、与えることをできるだけあらゆる方面に試みてみよ。
「返って来る」というような予想なしに神の愛を与えるのだ。

             <感謝合掌 令和3年9月14日 頓首再拝>
33:伝統 :

2021/10/03 (Sun) 04:53:28


    *「光明道中記」(10月3日《却下(あしもと)を見る日》)より抜粋

【成功とは金でも名でもない。生命が向上進歩することだ。(『生命の實相』第十一巻)】

吾々は人生観を根本的に変えなければならないのである。
人生観が万事である。

奪わなければ偉大になることが出来ないと思っている者の世界は呪われている。
彼は根本的に「人生」と和解していないからである。

(中略)

すべての生物の生命は、神なる大生命から生れたものであるから、
自然そのままの、換言すれば、神の叡智の構図そのままに生活している時には
殺し合いはないのである。

そこには生かし合いがあるばかりである。
この状態を”エデンの楽園”と象徴的に名づけるのである。

魚族の如きは多数の産卵をしてそれが孵化して稚魚になる数も大変なものである。
その稚魚は親魚及び他の大魚の餌となって食されてしまう。

それは、一見殺し合いのようであるけれども、
魚族には一尾一尾は人体の細胞の如く個性霊魂はないのである。
魚族としての全体の種族生命に融合包含されているのである。

           <感謝合掌 令和3年10月3日 頓首再拝>
34:伝統 :

2021/10/07 (Thu) 04:52:05


          *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P232)より
           ~《労働争議も人類相互の不信の結果である》

信念の力、信ずる力によってのみ、描いた夢が実現します。

飛行機や、高層建築や、原子発電や、ラジオや、テレビや、
その他(た)無数の文化的産物は、描いた夢が必ず実現すると云う
信念によってのみ此の世にそれらがあらわれたのであります。

どんな工場も信念なくして建造せられるものではなく、
労働者は働いてくれると信ずることなしには
資本家は労働者を安(やす)んじて雇うことは出来ません。

また雇い主は屹度賃金を支払ってくれると云う信念なしには、
労働者は資本家に雇われることも出来ません。

ストライキが続出するならば、
それは人間が互いに信じ合うことが少なくなったからです。

資本家は賃金を余計やれば
事業が成り立たぬようになるかも知れぬと疑い、
労働者は、ストと云う実力を行使しなければ、
資本家は賃金を増してくれないかも知れぬと疑っているからです。

疑いをはなれて、互いに愛他的の感情をもって、
相手の愛情を信じて、「先ず与えよ、さらば与えられん」の
法則に従って互いに先ず与えるなら産業は栄えます。

           <感謝合掌 令和3年10月7日 頓首再拝>
35:伝統 :

2021/10/10 (Sun) 04:55:15


    *「光明道中記」(10月10日《般若波羅蜜多を行ずる日》)より抜粋

檀那波羅蜜多とは布施波羅蜜多とも訳されている。

布施とは施しをする事であるが、一言にして言えば、愛他の行である。

愛他を行ずる事によって、個々の肉身は別々に分かれてい乍(ながら)も。
自他一体平等なる彼岸(実相)の風光を自覚する行である。

悟りを開くには神想観と同時に愛他の行を行なえと云う教と一致する。

           <感謝合掌 令和3年10月10日 頓首再拝>
36:伝統 :

2021/11/06 (Sat) 04:54:48


       *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P239~240)より

すべて利己的動機による主張は、
その主張が資本家側から成されるにせよ、
労働者側から成されるにせよ、
結局は幸福と満足とを来(きた)すものではありません。

「先ず与えよ」の自覚から出発して、
相手を幸福にしてあげたいと云う念願で、
自分を献げる事のみが、

双方に喜びを来たし、生産を増加し、
結局「実質賃金」の増加にもなり、
月給はそれほど上らないにしても、
物価の低落によって生活は楽になるのであります。

生産を低下し又は禁止するストライキによって、
名目賃金を上げることが出来ても、それによって
瓦斯(ガス)代も電気料金も鉄道運賃も増加し
従って一切の生産品の価格が上昇し、

名目は如何ほど賃金が増加しても、実際の自己の購買力は低下し、
生活は更(さら)に困難となり、更にストが必要となり
悪循環は尽きないのです。

           <感謝合掌 令和3年11月6日 頓首再拝>
37:伝統 :

2021/11/20 (Sat) 05:02:36


        *「眞理」第2巻基礎篇第14章(P384~385)より
         ~《現象を捉えずに実相を捉えよ》

「上衣(うわぎ)を奪わんとする者には下衣(したぎ)をも与えよ」

これが本当に柔らかい寛大な、天国を地上に実現するための教えである。

吾々は、上衣を奪う者に対して反抗し抵抗し、
上衣を護らなければ上衣を失ってしまうかも知れぬと
思うかも知れぬけれども、そんな心配は全く不要である。

神の国には無数の上衣も、下衣もあるのである。

併(しか)し、これは必ずしも泥棒に全財産をやれという意味ではない。
「この上衣」「この下衣」と云うような現象的なものは重要ではない
と云う意味である。

それは過ぎ去り行くべきである。

それを捉えて放つまいとするのは、映画の一齣々々を握って
放つまいとするに過ぎないのである。

映画は過ぎ行く。
しかし父の国のフィルムは無限供給である。

天の父がすべての供給のプロデューサーであるから、
必要なところへは、惜しみなく放(はな)ちあたえよと云う意味である。

            <感謝合掌 令和3年11月20日 頓首再拝>
38:伝統 :

2022/02/04 (Fri) 04:47:43


       *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月4日)」より抜粋

いくらと定(さだ)めた自動車賃を
こちらから進んで余計出した時には実に気持ちがよい。

なんだか自分が大きくなったような気がする。

そのくせ自分は出しただけ余計に減っているのである。

この事実はなにを語るか、物質的にかえって減りながらも、
かえって「自分」というものがいっそう大きくなった実感がする
という事実を考えてみるとおもしろい。

この事実は「自分」というものが「物質」でないことの証拠である。

「上衣(うわぎ)を着る者には下衣(したぎ)をも与えよ。
 一里の公役を強いられなば二里を行け」と言ったイエスの言葉には、
人間が「物」でないという実感がたたえられている。

            <感謝合掌 令和4年2月4日 頓首再拝>
39:伝統 :

2022/02/07 (Mon) 05:00:54


    *「光明道中記」(2月7日《深切を与える日》)より抜粋

蒔いた種は生えるし、蒔かぬ種は生えない。
自分が「深切」を製造する分量が少ないからとて、
「深切」の少きを嘆いてはならない。

「深切」を沢山欲しい人は、
自ら選んで自分の周囲にいる人々に深切を与えるが好い。

こちらが微笑すれば、周囲が微笑する。
こちらが渋面(じゅうめん)すれば、周囲が渋面する。
こちらが相手を審判(さば)けば、周囲が自分を審判くであろう。


吾が住む世界は吾が与えし通りの世界である。
人は自分の心に従って地獄を造り極楽を作る。

自分だけの幸福を護り育てていたい者には、
その人の周囲から深切な人々が立去るだろう。

        <感謝合掌 令和4年2月7日 頓首再拝>
40:伝統 :

2022/03/01 (Tue) 03:56:23


           *「光明法語」(3月1日)より

若し諸君に職業が見つからぬならば、金を得る仕事だけを職業だと思うな。
諸君の前に偶然あるところの何の仕事にでも(便所掃除でも、カド掃きでも、
障子硝子拭きでも)報いを求めることなしに奉仕せよ。

これが無条件に与えると云うことである。
やがて其処から諸君に最も必要にして適切なる仕事を得る
緒(いとぐち)が得られるであろう。

神は決してケチではないのである。
人間が与えることにケチなのである。

そして入り口をひらかないものだから神の恵みが流入しないのである。

        <感謝合掌 令和4年3月1日 頓首再拝>
41:伝統 :

2022/04/06 (Wed) 07:09:13


           *「光明道中記」(4月6日)より

【全体と個との融合を実際の生命の体験として掴むことが宗教である。
                        (『生命の實相』第十三巻)】

本当の太陽は、昼に非ず、夜に非ず、昼夜を超えて照々として輝く。
それは決して火の玉にあらずして宇宙に満つ。

樹木の中にも太陽あり、吾々の体中にも太陽のエネルギーあって輝く。
太陽を一個の盆大(ぼんだい)の火の玉と見るは、
吾々の五官を通して見たる一面識なり、相対観なり。

太陽は何故かくの如く万物のうちに満つるか。
それは太陽は万物に光を与え生命を与えるからである。

吾等もまず自分が本当に全世界的に伸びようと思うならば、
みずから進んで全世界に自身を与えなければならない。
与えるものだけが、その相手を自分のものとするのである。

伸びようと思う者よ。伸びるためには今迄他から自分へ奪いとることによって
自己が拡大すると思っていたのである。
然(しか)るに今では他に与えることが自己を拡大することであると判ったのである。

一個の何の功労もない女性が、一家の主人公に身を献(ささ)ぐれば、彼女は一家の
主婦としてその一家を自由に処理し、又は管理するところの権力を得る。
身を献げたる女性は男性に縛られたように見えるが、
実は、男性を自由自在に支配する力を得る。

伸びるとは与えることである。

        <感謝合掌 令和4年4月6日 頓首再拝>
42:伝統 :

2022/04/09 (Sat) 07:14:45


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月9日)」より

なんだか利用されているような気がするときに、
腹立つ人と、つまらなく感ずる人と、喜べる人とがある。

イエスは「わが来たれるは人に役(つか)われんがためなり」と言った。
彼は利用されることを喜びに感ずる人であったのである。

利用されること多きものほど尊ばれる。
利用する道のなくなったものを廃物という。

            <感謝合掌 令和4年4月9日 頓首再拝>
43:伝統 :

2022/04/23 (Sat) 07:34:52


           *「光明道中記」(4月23日)より

【すべて形に執われて来るとき生命を生かす事が出来ないのであります。
                     (『生命の實相』第十七巻)】

来る人は一人で来ないで是非知人を伴って来て戴きたい。
自分だけ善い話を聞いて救われたいと云う利己主義と云う程でもないが、
独善であり、消極的であり、羅漢の程度の境地である。

自利利他の功徳を計ることになって菩薩の境地に入る。
「利他」にして初めて潜在意識の世界に善行の種を蒔いたことになる。
心の世界に蒔いた種は決して滅びるものではない。

子孫に美田を遺してもその美田は滅びるであろう。
併し心の世界に蒔いた善行(たね)は滅びはしない。

私の叔父さんに福松と言って畸人(きじん)があった。
神道の神主で少講義かなんかの低い役目をしていたが、施しが好きであって
何時(いつ)も貧乏で見窄(みすぼ)らしい服装(なり)をして歩いていた。

人が気の毒に思って紋付の羽織などを着せてやるとその翌日には
もうその紋付の羽織を着ていなかった。

「どうしたのか?」と訊くと
「憐れな人があったから与えた」と答えるのが常であった。

この叔父さんには自分自身を良くすることなど考えて見たこともなく、
ただ隣人を愛していたのであった。

            <感謝合掌 令和4年4月23日 頓首再拝>
44:伝統 :

2022/04/30 (Sat) 07:10:29


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.03.18)より

   (本田健氏の心に響く言葉より…)

   あるとき、私はメンターに、
   「豊かな人生を生きるために、たった一つの秘訣があるとしたら、何ですか?」
   と聞いたことがあります。

   そのとき、「ただ与える」ことだと言われました。

   それ以来、どんなときも、「与えること」をあらゆる面で実践しています。


   たとえば、私はいまインターネットラジオで『Dear Ken』という番組をやっています。

   これは毎週1時間、読者の方が電話をしてきて、
   人生相談をするというシンプルな内容です。

   これを始めたきっかけは、故ルネ・ヴァンダール・ワタナベさんという
   占星術の先生がご存命のとき、毎週1時間だけ無料で電話相談をしている
   のを知ったからでした。

   ルネ・ワタナベさんは女性誌に占いのコーナーを最初につくった、
   その分野では高名な先生だったので、鑑定料も高額で、
   若い人にはなかなか払える金額ではありませんでした。

   そこで、毎週火曜日の夜8時から9時の間の1時間だけ、
   無料の電話相談 の時間を設けたのです。


   私の場合は、毎週同じ時間にどこかにいるのは、
   ちょっと窮屈だなと感じたので、別の方法をとることにしました。

   千人規模で講演会をやるときや、セミナーをやるときには、招待枠を設けています。

   いまは経済的に厳しいけれど人生を変えたい、という人や若い人向けに、
   「ペイフォワード枠」として、プレゼントしています。

   ペイフォワードとは、親切を次の人に回すという意味の英語ですが、
   同名のタイトルの映画をヒントに、私も誰かに親切を回すことにしました。


   たとえば、大学生など若い人を中心に30人を泊まりがけのセミナーに招待しました。

   セミナー代、宿泊代、食事代、すべて無料にして、
   自己負担でお願いするのは、往復の交通費のみというものでした。

   やってみたところ、みんな大喜びで、
   人生の転機になったという人からたくさんの 礼状をもらいました。

   このコースの3日目が終了し、
   「お疲れさま、今回も成功してよかった」と
   スタッフたちと打ち上げで話していたときでした。

   複数の出版社の担当の方からメールが相次いできて、
   それがすべて既刊本の増刷のお知らせだったのです。

   おもしろいことに、その金額は、セミナーへの招待すべてに使ったお金の倍でした。

   私は、もう一回やりなさいよ!というメッセージに受け取りました。


   誰かに何かを与えると、必ず自分に返ってくる。

   「またしても」と実感した夜でした。

   いつの日か、すべての人がこの法則を知って、
   持っているお金の10%をほかの人に回し出したら、
   世界はもっと幸せで楽しい場所になるだろうな、と思っています。

   自由に与えて、自由に受け取る世界。

   これは私の夢の一つです。


    ところで、誰かに何かを与えたいけれど先立つものがない、
   誰かに何かを与えられるほど、いまの自分には金銭的な余裕がない、
   という人もいるかもしれません。

   「与える」のには、お金が必要とは限りません。

   お金がないときには、「笑顔を与える」でもいいのです。

   「やさしいまなざし」に心を癒される人も多いはずです。

   誰かのために何かをやってあげる「あなたの時間」でもいいのです。


   何でもいいので、あなたがもっているものを
   分かち合うということを意識してください。

   「与える練習」をしてみるのもよいでしょう。

   たとえば、「今月一緒に食事をする人一人には、必ず自分がごちそうする」
   などと決めるのです。

   そしてその後の自分の気分や実際の生活がどうなるかを見てください。

        <『決めた未来しか実現しない』サンマーク出版
                          https://amzn.to/3wgfGGk

              ・・・

北川八郎氏は

「少し損して生きていくと人生のトラブルが少なくなる」

といいます。


『それは、対立や競争がみるみる消えるから。
 人に与えることができない人は逆に、少しでいいから自分が損をしてみる。

 「損をして生きていく」すると不思議なことに、
 自分の周りによき人が自然と集まってくる。

 少し損をしてでも人に良きものを与える生き方をすると、
 逆に今の世の中では目立つ。

 少し損をすることを覚えると、
 対立とか競争から抜け出し生きていくのが楽になる。

 人は心地よいものにお金を出そうとするのだから、
 特別に「稼ぐ」という考え方をしなくてもいい。

 売上や利益を優先するお店や会社は何か鋭さがある。

 人々に感謝を持ってやっているお店には、
 おおらかさとやさしさと信用がある。』(繁栄の法則/致知出版)より



「少し、損して生きる」という価値観を持つと、人生はとても生きやすくなります。

なぜなら、我々は子どもの頃から「少しでも得をしよう」と思って生きてきたからです。

競争社会の中で人より、少しでも効率よく、少しでも得をすることが善であると、
教えられてきたからです。


「損して生きる」ということは…

車などが割り込んできたとき、「お先にどうぞ」と言えること。

面倒なことなどを頼まれたとき、「はい」とにこやかに受けること。

なんで自分ばかり損な役回りが来るんだと思ったとき、
ニッコリ笑って「わかりました」と言えること。


すぐに得しようとする人は、スパッと切れるような鋭さがあります。

反対に、少し損するような人には、おおらかさや、寛大さや、やさしさがあります。

それは、一見すると、愚かで、鈍(にぶ)く見えたりもします。


「与えること」は陽ですが、「損すること」は陰です。

陰のパワーは目立ちませんが、
実は、損することは、与えることと同じくらいのパワーがあるのです。

自分が損することで、相手にその分を与えるということですから。


人に「与えること」と同時に…

「少し損をして生きる」ことも、とても大事です。

・・・

<参照>

伊勢ー白山 道(2021-11-28)
最初に志(こころざし)ありき
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/2cd315f44b5d5faba1e87bc9f40bcb4e

            <感謝合掌 令和4年4月30日 頓首再拝>
45:伝統 :

2022/05/17 (Tue) 09:04:53


        *「光明法語」(5月17日)より

「亀の子たわし」を新案して全日本の台所の清潔に貢献した者は百万長者となり、
「わかもと」を新案して人類にビタミンB資源を出来るだけ広く供給する試みを
考案した者は千万長者と成る。

何でも最大多数の人類に貢献した者はその報いを得るのである。

真理を最も平易なる言葉で述べ、一千万人に生老病死を解脱する道を教えた
『生命の實相』の著者が千万長者にならないのは、まだ彼が、清貧に執する気持ちがあり、
宗教家と云うものは富んではならないという通念に縛せられているからである。

            <感謝合掌 令和4年5月17日 頓首再拝>
46:伝統 :

2022/05/31 (Tue) 09:22:26


        *<メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.05.31)より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   臨済宗妙心寺派管長であった禅僧、山田無文(むもん)老師の
   エピソードに次のようなものがあります。

   山田無文老師があるとき京都駅で電車を待っていると、
   ひとりの学生が近づいて来て、「お尋ねしていいですか」と言う。

   老師が「はあ」と言われると、青年は質問しました。

   「僕は何をしたら、いいんですか」

   何をしたら、真に生きがいのある人生を送れるか。


   そこで老師は言われました。

   「僕(=あなた)〉の好きなことしたら、いいじゃないか」

   すると青年は言いました。

   「その〈僕〉がわからないから、東京からきたんです。〈僕〉とは何ですか」


   そこで老師は言われました。

   「昔から『汝自らを知れ』というが、
    いちばん身近にあって、いちばんわかりにくいものだ。

    時間がないから、結論だけ言おう。

    君は今から、自分のことは勘定に入れないで、
    だれかのために自分を献(ささ)げて生きてごらん。

    そして他人のために働いて
    『よかったなあ、幸せだなあ』と思えるような自分がわかったら、
    それがほんとうの〈僕〉 だと、わしは思うがなあ」

   秋月龍典(りょうみん)という臨済宗のお坊さんが、
   『「般若心経」を解く』の中で披露している話です。

     <『すべてを味方 すべてが味方』三笠書房https://amzn.to/3lRuOUb

              ・・・

行徳哲男師のこんな言葉があります。

『現代は理性や知性が感性を圧倒し、
 人間の目の輝きや生き生きと生きる力を奪ってしまっている。

 理性や知性は感性に従属してこそ値打ちがあるのに、それが逆転してしまっている。

 ゆえに人間に覇気がないのである。』


何事か、思いつめ、深刻になりすぎているときは、感性が鈍くなっています。

理屈で頭の中がいっぱいになり、
行動できない状態、すなわち行動渋滞が起きているのです。

それは同時に、「ミーイズム」という、自分の幸福や満足を求めるだけで、
他者のことは考えられないという、自己中心的な考えになっているときでもあります。


そんなときは、その反対の方法、利他的な行動をとることです。

つまり、人の喜ぶようなことをすることです。

それを続けていくと、人から「必要とされる人」となります。

すると、「ああ、自分はこのために生きているのか」と、
天からの指令「使命」がわかるのです。


自分のことは勘定に入れずに…

誰かのために働ける人でありたいと思います。

            <感謝合掌 令和4年5月31日 頓首再拝>
47:伝統 :

2022/06/17 (Fri) 07:16:49


       *「光明法語」(6月17日)より

   「思い」の種子は「行為(おこない)」の実を結ぶが、
   一つの「行為」はまた多くの「思い」の果(み)を結ぶ。
   それは互いに映し合って「合わせ鏡」の如くである。

   また「思い」の方ではそんなに深切な気持ちが起こっていないにしても、
   そこに思い切って深切な行為(おこない)を実行して見た時に、
   不思議に「嬉しい思い」が湧いてくることを発見するであろう。

   そこに常に深切な行為(おこない)をする人は、
   常に幸福な思いを味わう人だと云う事が出来るのである。

   又、相手の感謝の表情を見る事は人生無上の楽しみである。
   感謝は感謝の共鳴を喚(よ)び起こすのである。

            <感謝合掌 令和4年6月17日 頓首再拝>
48:伝統 :

2022/06/23 (Thu) 07:21:23


       *「光明道中記」(6月23日《食堂楽しき日》)より抜粋

みずから栄える道は他を栄えしむるにある。
社員を栄えさせ、店員を栄えさせ、顧客を栄えしめるように
店を経営して行くならば、その店は繁昌する他はないのである。

他を栄えしめんとの自分の愛念は必ず自分に反射して来て、
自分を栄えしむるほかはない。

与えたよりも多く受けようと思うな。
それは卑怯な狡(ずる)い考である。
卑怯は卑怯を呼び、狡さは狡さを呼ぶであろう。

ケチな主人に仕(つか)えるならば、尚一層深切に仕えよ。

常に貸し越しになる生活をせよ。

            <感謝合掌 令和4年6月23日 頓首再拝>
49:伝統 :

2022/07/27 (Wed) 04:57:36


          *メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.06.22)より

   (藤田晋(すすむ)氏の心に響く言葉より…)

   将棋界の “レジェンド” 羽生善治さんとは過去に何度か対談もさせていただきました。

   私より3歳年上の羽生さん。

   しかし、勝負師としては「3年差」どころか神様的な存在です。


   「心を鍛える」という本書のテーマにもぴったりなので、
   特に私の心に残っているメッ セージをお伝えしようと思います。


   2006年の対談では、「年齢が上がるほど、精神力やメンタル的な部分は上がる」 と
   おっしゃっていたのが印象的でした。

   ビジネスの世界でも同じことが言えます。

   年齢を重ね、経験を積むことで戦い方も変わっていきます。

   私自身について言うと、さまざまなことを経験したことで、
   自分自身がブレないようになり、本当にリラックスして
   仕事に取り組めるようになってきたのは、40代になっ てからだと思います。

   40代以降は、これまでの実績が評価されるようになって、
   自分 の思い通りに仕事を進められるケースが増えました。

   でも、だからといって自信過剰になってはいけませんし、
   謙虚な気持ちがなければ足をすくわれます。

   また、新しいアイデアは若い人が生み出しますから、
   それをきちんとキャッチできる度量がなければ、
   事業はいつの間にか錆びついてしまいます。


   また、2017年の対談では、次のようなことをお話しされました。

   「将棋の世界は、とても幅広い世代と交流が持てます。
    藤井聡太さんは21世紀生まれ。

    一方で、過去には明治生まれの人と対戦したこともあります。

    明治から平成、21世紀 の人まで、
    1つの盤を囲んで対局できるのは将棋の魅力かもしれません。

    また、それ だけ幅広い世代の人間が集まるにもかかわらず、
    年功序列という概念がないので、結果次第で自分のポジションが決まります。

    たとえば、私が最初にタイトルを取ったときは19歳、席次で言うと60位くらいでした。

    それが突然1番、2番に躍り出たり、また負けると元に戻ったりと
    ダイナミックなので飽きません」


    この話は、「若い人が頭角を現しにくい一般的な企業」を見慣れている私にとって、
    大きな刺激を与えてくれました。

    羽生さんは、続けておっしゃいました。


   「将棋の世界では、本当に画期的な作戦やアイデアは
    10代後半や20代前半の人たちから出ることが多いんです。

    だから、私自身もそういう若い人と対戦するのは、すごく楽しみです。

    実際に棋譜を調べるときも、まだ段位は低いけど、
    すごく内容の良いも のを指している人はいて、そういう棋譜はよく見たりしています」


   将棋の世界では、2016年に14歳2ヶ月でプロ入り史上最年少記録を塗り替えた
   藤井聡太さんのような若手が台頭していますが、
   羽生さんもベテランの強みに加え、 若い人からも良いものを吸収しているのです。

   私も若い人が言うことには、できるだけ耳を傾けるようにしています。

   もちろん、それが「単なる思いつきの発言」か「確信があっての発言か」を
   見極める必要はあります。

   しかし、そのような発言を軽く見てしまうと、人としても、企業としても、
   それ以上の成長は望めなくなる気がします。


   さて、本書では「心を鍛える」をテーマに、いろいろと話をしてきました。

   最後になって、私もようやく考えがまとまってきたのですが、
   人が最も心を強くできるときとは、
   「誰かのため」という利他的な目的があるときではないでしょうか。

   自分以外の人、それが親しい人であろうと、まだ見ぬ人であろうと、
   お役に立ちたい(立てるかもしれない)ときは、最高に頑張れる気がするのです。

   もし、あなたが「いまいちパワーを出し切れない」と感じているならば。


   「自分(身内)にとってのメリット」はいったん横に置いて、
   自分の取引先やお客様、所属する組織、身を置いている業界、
   不特定多数の人たち、さらには次世代の人たちの存在に思いを馳せてみてください。

   「誰かの役に立てるかもしれない」という希望があれば、
   どんなこともきっと一生懸命にやり遂げられるように思います。

   サイバーエージェントの「21世紀を代表する会社を創る」という目標も、
   そんな「誰かの役に立てるかもしれない」という思いの延長線上にあります。

   「誰かのために」 という利他の心がある限り、強い心で進んでいけると私は信じています。


         <『心を鍛える』(堀江貴文&藤田晋)KADOKAWA https://amzn.to/3N7oa7l

               ・・・

「若者よ。
 いつの時代でも変革は若者から始まった。

 いつの時代でも、疑問、覚醒(かくせい)、憤怒(ふんぬ)は若き者の特権だ。

 安寧、規制、常識は老いた者の繰り言にすぎない。」(感奮語録)より

行徳哲男師の言葉です。


特に、新たなテクノロジーが次から次へと創出される現代は、
デジタルネイティブである若者たちの独壇場です。

web3、メタバース、NFT等々の登場によって、
今歴史的な大変革が起きようとしています。

今こそ年長者たちは、若者たちの意見に耳を傾ける度量が必要とされているのです。


そして、同時に、その変革に際しては、老いも若きも
「誰かのために」という利他の心が必要なのは言うまでもありません。

どんなに素晴らしいアイデアが出たとしても、
それが自分を満足させるための利己的なものだったら、ない方がましだからです。


どんなときも、誰かのために、という視点を忘れない人でありたいと思います。

・・・

<参照>

伊勢ー白山 道(2021-12-29 )
今年の苦労もムダではありません
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/75b111ea87946e1df09644529d2b0a89

            <感謝合掌 令和4年7月27日 頓首再拝>
50:伝統 :

2022/09/14 (Wed) 07:33:18


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月14日)より

人の物を値切るようなケチな心を起こしてはならない。
値切る心は値切られるのである。

あなたの得た物(または人)の値打ちだけを十分与えるように
心懸けなければならない。

値打ちだけを買い取り、値打ちだけを支払い、
しかも自分もできるだけ力を尽くして奉仕するのだ。

ただ金だけ出して与えたつもりになっていて
怠惰や放漫になってはならないのである。

与えたけれどもそれが浪費になったという場合は、
自分が知恵を出さず、愛を出さず、生命力を注がないからである。

ともかく、与えることをできるだけあらゆる方面に試みてみよ。
「返って来る」というような予想なしに神の愛を与えるのだ。

             <感謝合掌 令和4年9月14日 頓首再拝>

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