伝統板・第二

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無限の富を汲みだす⑥ - 伝統

2020/06/15 (Mon) 04:53:03

《今 心の中に 『 実相の富 』 を描け》

      *『 生長の家 』(昭和24年11月16日の法語)より

現象界の貧しき姿に今 眼(め)をとじよ。

然(しか)して実相の世界の霊的なる無限の豊さを心に描いてみつめよ。

如何に貧乏が やせさらぼうた姿で、現実に現われて来ようとも、
そんなものは仮りの姿であるから、別に意に介するにあたらないのである。

今 現われている貧しき姿は、
過去の吾が 「 貧しき想念 」 の影にすぎないのである。

影をみて驚くことはいらないのである。

吾々が裸であろうとも、今 心中に
「 実相の富 」 を描き 豊なる想念の衣装で
自分を包むならば、たちまち豊かなる姿が現われて来るのである。

   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

・・・

<関連Web>

(1)「光明掲示板・第一」内スレッド「無限の富 (5854)」
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1098

(2)「光明掲示板・第二」内スレッド「無限の富を汲みだす (120) 」
     → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=56 (消滅)

   「伝統板・第二」スレッド「無限の富を汲みだす」(光明掲示板・第二)
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7895683  

(3)「光明掲示板・第三」内スレッド「無限の富を汲みだす (69)」
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=35

(4)「光明掲示板・伝統・第一」スレッド「無限の富を汲みだす (67)」
     → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=41

(5)「伝統板・第二」スレッド「無限の富を汲みだす①」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6460527

(6)「伝統板・第二」スレッド「無限の富を汲みだす②」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6824314

(7)「伝統板・第二」スレッド「無限の富を汲みだす③」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7542012

(8)「伝統板・第二」スレッド「無限の富を汲みだす④」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7752637

(9)伝統板・第二「無限の富を汲みだす⑤」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7895248

           <感謝合掌 令和2年6月15日 頓首再拝>

《不幸を予想して貯蓄してはならない》 - 伝統

2020/06/17 (Wed) 04:57:38


        *『 生長の家 』(昭和33年9月7日の法語)より

   必要な建設的目的に使うために蓄積されたる富は、
   實相の投影であるけれども、未来に起るであろう何か不祥事を
   予想して貯える富は恐怖の投影であるから、その予想する心が、
   予想する不幸を呼び寄せることになるのである。

   心に予想することが実現すると云うのが心の法則であるから、
   不幸を予想して貯えた富は、将来必ず予想した不幸が来て、
   それを消耗してしまうことになるものである。

   病気したときの治療費として金を貯える人は、丁度、入院費用
   だけが貯まったときに、本当に病気に罹って、その貯金を
   治療費に使ってしまい、丁度その治療費の貯えが
   なくなったときに病気が治ったりするのである。

   真の富と云うものは、一切のものが其処から生み出されて来る
   『エデンの園』(龍宮海)即ち實相界から供給されて来るので
   あって、常に實相に波長の合う心をもっておれば必要に応じて、
   それが現象界の富となって供給されるのである。

           <感謝合掌 令和2年6月17日 頓首再拝>

真の無限供給を循環させる - 伝統

2020/06/21 (Sun) 04:34:52


        *「光明道中記」(6月21日《三たび自己を顧みる日》)

【救うとは人間本来の「生命の自由」を回復することである。(『生命の實相』第三巻)】

神はすべてであるから超利己的な力である。
その超利己的な力に対して、
利己的な動機で祈ると云うことが既に矛盾しているのである。

すべての人に調和し、自分が栄えることによって
他の栄えが害(そこな)われるようなことなき事柄に就いてのみ吾等は祈るべきである。

宇宙の富は宇宙全体の《もの》であるから、
宇宙無限の富の供給を受けんと思う者は、自分が多く供給されればされるだけ、
それを使って全体のために使い得る用途を見出さなければならぬ。

金でもたんまり入って来たら、
日頃買いたいものを思う様買って利己的に楽しめるのになア
―― などと利己的なことを考えながら神から無限供給が来ると思ってはならない。

欠乏するかも知れぬと思って、有用なことに使うことを恐れている者は
要するに無限供給を知らぬものである。

無限供給は与えられたものを以て
最高度に全体のために奉仕することによって循環して来るのである。

豊富に与えられんと思う者は豊富に与えなければならぬ。
豊富に与えるとはただ無暗(むやみ)に非効率な出し方をすることではない。

叡智の伴わない施与(ほどこし)は自由を傷(きずつ)ける。

           <感謝合掌 令和2年6月21日 頓首再拝>

全体のために有用に使うことで、無限供給を招(よ)ぶ - 伝統

2020/06/22 (Mon) 04:45:43


        *「光明道中記」(6月22日《神意(みこころ)を行ずる日》)より

【十字架を負うてすべての持てるものを捨てて我に従え。(『生命の實相』第九巻)】

金は必ずしもある切り出し切るのが神意に適うのではない。
と言って金の出し惜しみをするのが神意に適うのでもない。

全体のために有用に使うことである。

今、有用に使う道が発見せられないならば、
「有用に使う道を発見せしめ給え」と祈りつつ、
有用に使う道が発見されるまで貯蓄して置くべきである。

有用に使う道を発見せずしてみだりに金を放出する者を浪費者と言うのである。
浪費者は天物を亡殄(ぼうてん)するものであるから、
やがて自己が貧しさに苦しまねばならぬ時が来るであろう。

貯蓄は老衰後のためや手足が不自由になったり、
頭脳(あたま)が役に立たなくなった時の生活費にと貯えるべきものではないのである。

老後のためと思えば老衰が来るであろうし、
手足の不自由の時のためだと思えば手足が不自由になるであろうし、
頭脳が役に立たなくなった時のためだと思えば、やがて頭脳が役に立たなくなって
来るだろう。

思う通りに何事でも成就するからである。

「貯蓄は有用なる使途を発見するためのものだ」と思って貯蓄すれば、
やがて有用なる使途が発見されるであろう。

その使途はまたその人を高め上げ無限供給を招(よ)ぶであろう。

           <感謝合掌 令和2年6月22日 頓首再拝>

恩恵に目覚めるとき天国は今此処にある - 伝統

2020/06/24 (Wed) 04:37:02


       *「光明法語」(6月24日《今此処が天国》)より

誰にでも自己の天国があるのである。
自分の脚下を見、真に自分に与えられたものを享受しこれを生かし働かすとき
其処に天国は現れるのである。

必ずしも富めるのが天国ではない。
富めるが為に財産税にて首をくくれる人がある。
富めるがために強盗を怖れて不眠症になる人もある。

貧しき者偶々(たまたま)富みて脚下を忘れ、
婦人に弄(もてあそば)れて不治の病いを得るものあり、
人格をそこなう者あり、富は必ずしも天国の条件ではないのである。

諸君が今此処に於いて与えられたる恩恵に目覚めるとき天国は今此処にあるのである。

        <感謝合掌 令和2年6月24日 頓首再拝>

《無限の供給は何処に汲むべきか》 - 伝統

2020/07/01 (Wed) 04:59:31


       *『 生長の家 』(昭和33年9月12日の法語)より

   一時的な快感や一時的の豊富さは人間的工夫によって
   操作して得られることがあるけれども永遠の魂の悦びや、
   永遠の豊なる流れは人間的工夫によっては得られぬものである。

   自己の魂の底にある霊を通して神につながることによってのみ、
   私達は永遠の魂の悦びと供給の豊なる流れとを受けることが
   できるのである。

   私たちは何としても、現象だけに頼らずに、
   この内なる霊の鍵を通して無限の供給の流れと
   結びつかなければならないのである。

   外のものに頼るよりも『内なる鍵』を通して
   無限の宝庫の扉をひらくのである。

   私たちの内には霊感とも云うべき内部の能力が宿っており、
   その燈火(ともしび)が私たちを導いて下さるのである。

   『わが魂の底の底なる神よ、無限の力わき出でよ』
   暇あるごとに常にこの言葉を黙念して、
   内部の無限の力より汲むべきである。

        <感謝合掌 令和2年7月1日 頓首再拝>

「無限供給」は”今””既に””ここに”ある - 伝統

2020/07/14 (Tue) 04:40:21


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月14日)より

何かが自分にとって欠乏しているならば、
その「何かが」自分の内に欠乏しているのである。

自分の見出し方が欠乏しているか、法爾(ほうさながら)の動きが欠乏しているかである。

「無限供給」は”今”ある ―― すでにある ―― ここにある。
法爾(ほうさながら)の動きは、それをただ開くのである。

        <感謝合掌 令和2年7月14日 頓首再拝>

貧乏に打ち克ちましょう - 伝統

2020/07/28 (Tue) 04:53:49


       *「生長の家」(昭和29年5月17日の法語)より

   貧乏というものも単に物資が足りないだけのものではなく、
   これは心の病気であり、間違った考え方が
   経済界に現れたものに過ぎないのである。

   人間は神の子であり、神は宇宙の創造り主であり、
   神の子たる人間を豊かに生活せしめ給うのが神の意志であるから、
   本来、人間はその可能性として「無限の富」を内に蔵しているのである。

   その人間が偶々貧乏であったりするのは、
   それは当たり前のことではなく異常現象だと
   言わなければならないのである。

   貧乏は人間が神の子たる本質と矛盾するのである。
   人間が富むためには、先ず自覚を変えなければならない。

   人間は貧乏が当たり前だと信じていて貧乏から脱出する努力を続けても
   その効果は乏しいのである。

   https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2305

        <感謝合掌 令和2年7月28日 頓首再拝>

《富を得るには》 - 伝統

2020/07/31 (Fri) 04:31:37


       *「生長の家」(昭和29年5月18日の法語)より

   ストライキをして大金持ちになった人を見た事はないのである。
   努力と働きを出来るだけ少なく出して、出来るだけ多くの賃金を得よう
   と考えそのものが「心の法則」に対して貧乏を呼び出しつつあるのである。

   世界中の貧乏人の90%までは、「暗い考え」をもっている。
   常に「自分」を改造し進歩さす努力が足りない。
   常に自分の「仕事」を改良する努力が足りない。

   多分に利己主義であって、目先の小利を小掬いするために他に損をかけていて、
   他を喜ばすにはどうすればよいかを考えないのである。

   真理を言えば、富というものは他を喜ばした報酬として
   自分に与えられるものであるから始終より良く他を悦ばすために、
   常に自己改造と自分の「仕事」又は商品の改良をしている者のみが
   本当に富んでくるのである。

   https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2306

        <感謝合掌 令和2年7月31日 頓首再拝>

外界は素材、元は心。幸福な心持、富める心で奉仕する - 伝統

2020/08/03 (Mon) 04:31:04


         *『 生長の家 』(昭和26年5月26日の法語)より
          ~外界の事物は素材に過ぎぬ

外界の事物は吾々の幸福の素材になるに過ぎないので、
その素材に対する心構えが間違っておれば却(かえ)って不幸を来すのである。

素材を如何(いか)に取扱うかの心構えが大切である。

富めること必ずしも幸福ならず、富めるために却って悩み多き人もある。


然りと雖(いえど)も生長の家は「貧しさ」をまた礼讃するものでもないのである。
「貧しさ」が生じて来たのも、自己の心の反映であるから
心を変化すれば、富が生ずると云うのである。

ただ富の求めようが、「富が得られたら幸福になる」と「富」そのものを求めては
幸福は得られないのであって、先(ま)ず幸福な心持になり、富める心になって
他に奉仕するとき、幸福も富も得らると説くのである。

        <感謝合掌 令和2年8月3日 頓首再拝>

神の子に本来 経済難はない - 伝統

2020/08/06 (Thu) 04:51:51


         *『 生長の家 』(昭和25年6月15日の法語)より

神は人間をこの世に生んだ限りは、
人間に職業が与えられているということは確かである。


吾々は まず失業や金づまりの不自由な状態を 心に描く代りに、
今豊かにすでに与えられている恵みに感謝することから始めればいいのである。

すべての欠乏を数えず、
満ちたりたものを数えあげて、感謝することから始めよ。

吾々は空気を与えられ
水を与えられ
日光を与えられ、

足を与えられ、
手を与えられ、
目を与えられ、
鼻を与えられ、

凡ゆるよきものを与えられている事を
数えあげて毎日感謝せよ。

「 豊かなる想念をおこせば豊かさが出現するのである 」 。

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2

        <感謝合掌 令和2年8月6日 頓首再拝>

富の父性原理と母性原理 - 伝統

2020/08/08 (Sat) 03:32:40


         *『 生長の家 』(昭和26年6月21日の法語)より

神の恵みは無限であり、多方面である。

吾々は豊かなる容器をもって
神の恵みの宏大(こうだい)なる海原(うなばら)から
汲(く)むことが必要なのである。

富には 父性原理と母性原理とがある。

父性原理は 生命を注ぎ与える原理である。
与えることを忘れていて、おかげを貰(もら)うことのみを
望んでいる人々の多いのには驚くのである。

或る信徒は 生長の家道場へ来て、
感謝箱に奉賽金(ほうさいきん)を投ずる人の少ないのに驚いている。

教団本部の建築が出来ると云っても献金する人々は寥々(りょうりょう)たる有様である。


見よ、吾々は先ず与えているのである。

大阪及び京都の教化部、佐世保の道場、呉市の道場、福岡の九州総轄(そうかつ)道場 ―
吾々は本部より先に地方を整えつつあるのである。

  (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127

        <感謝合掌 令和2年8月8日 頓首再拝>

繁栄に対する新しき門 - 伝統

2020/08/09 (Sun) 03:26:45


         *『 生長の家 』(昭和26年6月24日の法語)より

吾々は 常に繁栄に対する門戸(もんこ)は、ひらかれているのである。

過去の仕事に行詰りが来ようとも、
それは 新しき仕事の門がひらかれつつある証拠である。

それを信じないものは仕方がない。

それを信じたときに、信じた通りに門戸がひらかれるのである。

新しき繁栄の門戸は智慧である。

正しき情勢の判断と、それに処する正しき智慧、
そして正しく人々に奉仕する道、これが神から与えられるとき、
人は繁栄するしか仕方がないのである。

更に明るい心、楽しい家庭の雰囲気と云うものは
事業を育てあげるに必要な肥料となるものである。

        <感謝合掌 令和2年8月9日 頓首再拝>

神様の無限供給をいただく方法 - 伝統

2020/08/19 (Wed) 04:04:05


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月19日)より

赤ん坊が母親の乳房をいただく方法はすこぶる簡単である。
母親の膝に縋って行き、まことにも信頼した心境で、
両手を持ってその懐を開くのである。

人間がもし神の子であれば、
その神の子が神様の無限供給をいただく方法はすこぶる簡単である。
それは神の膝の上にかき上がって、まことにも信頼した状態で、
両手でその懐を開けばよい。

信頼せぬ者、両手で開かぬ者、信じない者、働かない者は
与えられないのはしかたがない。

        <感謝合掌 令和2年8月19日 頓首再拝>

《本当に富むと云うこと》 - 伝統

2020/08/24 (Mon) 04:00:10


       *「真理」第9巻生活篇第14章(P373~374)より

「富んでいる」と云うことは本来、心の状態であって、
それは「豊かさ」を感ずる満足の感情である。

豊かさを感ずる満足感情はを伴わずに常に飢えたるものの如く
金銭や物質の争奪を演じている者は、如何に金銭や物質を豊富に
以ていても、其の人は貧しいのであり、餓鬼道に堕ちているのである。

しかし、経済的な「貧しさ」をもって、満足しているからと云って
其の人が神に近い生活を送っていると考えることは間違いである。

多くの宗教の開祖が貧しい生活を送って衆生済度に余念がなかった事実や、
イエスが「神と富とに兼ね事(つか)えること能はず」と言った言葉などが
誤解されて、正しい宗教人は貧しくなければならぬと考えたのである。

多くの宗祖は衆生の 魂 を救うことに熱心で物質の豊かさに
興味がなかっただけで、貧乏ではなかったのである。

        <感謝合掌 令和2年8月24日 頓首再拝>

Re: 無限の富を汲みだす⑥ - rwosfcvpnhMail URL

2020/08/29 (Sat) 03:51:59

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《精神的に富んでいる人》 - 伝統

2020/09/01 (Tue) 05:03:39

          *「真理」第9巻生活篇第14章(P374~375)より

物質が富むと富まないとは其の人の 魂 の趣味嗜好によるのだけれども、
富みたいと思いながら富めないのは、宗教家が清富(せいふう)を
楽しんでいるのとは別なのである。

豊かなる心は、其の心の反影として、
其の趣味とする方向に何ものかが豊かにあらわれる筈である。

清富(せいふう)をたのしんでいる宗教家が、その「豊かなる心」が反映
すれば、その趣味とする方面の「救う力」や「説教の力」などが
豊富になる、そのあらわれとして信者の数も豊富になるのである。

必ずしも物質的富が豊富になるとはきまっていない。

むしろ「物質的に心を奪われたくない」と云う潜在意識にある
警戒心から物質の方は貧しさに甘んじることになるかも知れない。

しかし彼は貧乏ではなく、実際は富んでいるのである。

もっとも心が「豊かなる」場合に於いて、彼が物質の方面に趣味を
もつ人であるならば物質的に富むのは当然である。

        <感謝合掌 令和2年9月1日 頓首再拝>

責める心ではなく、「豊富」を念じる - 伝統

2020/09/06 (Sun) 04:36:33


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(P74<9月6日>)より

相手が債務を履行しないことを責める心、
払わせようと「損」を気に懸(か)ける心よりも、

「すでにわれ無限供給の富を受けたり」という
「供給豊富」の観念を常に心に持ち続ける方が、
実際に富をいっそう増大することになるのである。

気の小さいようなことではいかぬ。
一方で損をしたにしてもクヨクヨと思ってはならない。

いっさいの富は「神」より来たるのであり、
「神」はいたるところに充ち満ちていたまうのであり、

そしてわれわれの想念するとおりの形をとって顕われたまうのであるから、
「損」を心に描くことなく、自分に「損」をかけたと思う人に対しては、

特にその人が「豊富」であるように念じてやることが
相手を生かし自分の債権も生かすことになる。

             <感謝合掌 令和2年9月6日 頓首再拝>

富の道 - 伝統

2020/09/12 (Sat) 03:17:49


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月12日)より

各人の富は、神の無限供給の源泉を、自分の心で受けた分量であるから、
自分の心の影だということができるのである。

もしすべての人の富を回収して、それを全人類に平等に分配しても、
たちまちのうちに富む者は富み、貧しくなる者は貧しくなるのであろう。

その人の心が、その分配されたるものを操作して
おのおの異なる結果を生むことになるのである。

今日(こんにち)自分が働く力、考える力、生きる力、味わう力・・・等々を
与えられていることを感謝せよ。
すでに無限の供給の今あることに感謝せよ。

(損失なんて考える必要はないのである)そして、感謝のうちに報恩のために
働く力を、考える力を他(ひと)のために与えて奉仕せよ。

これが富の道である。

       <感謝合掌 令和2年9月12日 頓首再拝>

恵みに報謝する働きをする - 伝統

2020/09/13 (Sun) 02:59:24


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月13日)より

金を借りるのは必ずしも悪いことはないが、
約束の時に必ず返却しうる万全の用意ができていなければならないのである。
返却しうる可能性だとか決心だけではいけない。

碁の布石のように、この石をこう置いたらこの次の石はこうなるという
ハッキリした計画と準備があって、それで金を借りるのならよい。

実際神の無限供給があるのに、「債務を負っている」という一種の「欠乏」とか「貧乏」
とかの観念の伴いやすい生活条件に入ることは好ましくないのである。

神の無限供給の世界に入るならば、そこには債権者も債務者もないのである。
そこは、ただ恵まれている世界である。
その恵みに報謝する働きをしておれば必要なものはことごとくやって来るのである。

       <感謝合掌 令和2年9月13日 頓首再拝>

余り物を粗末にしてはならない - 伝統

2020/09/17 (Thu) 04:31:51


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月17日)より

宇宙の終始一貫せる法則の中には、因果応報の法則がある。
原因あれば必ず結果があるという法則である。

いかに狡猾に原因だけを造っておいて、結果だけをのがれようと試みても、
結果は早いか遅いか、あるいは他の形態をもってするか、
いずれにせよその人に報いてくるのである。

イエスが5つのパンと小さき肴(さかな)2つを5千人に分け与えて
なお12の籃(かご)にパンの余りが残っていたという奇跡が行なわれたときに、
なぜそのような奇跡があらわれたのであろうか。

それは愛のゆえに分け与えたこと、
そして「廃(すた)るものなきよう擘(さ)きたる余りを集めよ」
というイエスの教えを実行したからである。

無限供給を念じさえするならば、物の余りを粗末にしてもさしつかえない
と思うのはまちがいである。

             <感謝合掌 令和2年9月17日 頓首再拝>

富は有益に使う - 伝統

2020/09/20 (Sun) 04:36:20


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月20日)より

使わずに蓄(た)めておくということもある時期においては必要である。
それは種子(たね)を適当な種蒔きの時期まで保存するような意味である。

しかし未来の欠乏の恐怖によって物に執着する意味での貯蓄は、
「欠乏」の想念(こころ)が先になっているから、あまり感心しないのである。

まず神の国の無限供給を認識し、それを生かし表現することにつとめるならば、
未来も今も常に無限の供給に満たされることになるのである。

富の固定をもって真の富と考えてはならない。
固定しているかぎり、それはなんら人生に益することはできないのである。

富は有益に使うとき増殖する。

             <感謝合掌 令和2年9月20日 頓首再拝>

《精神的富に眼を開きましょう》 - 伝統

2020/09/24 (Thu) 03:53:56


          *「真理」第9巻生活篇第14章(P375)より

物質の豊かさに趣味を持つのは好い。
けれども物質の豊かさに眼がくらんで、人のために尽くす愛や、
思いやりや、深切や、その他精神的な諸徳が若し貧しくなるならば、
その人は、物質に富んでいて、精神的諸徳について貧乏だと言わなければ
ならない。

こんな人は物質的富と云う荷物を背負わされた駱駝(らくだ)みたいな
もので、富は沢山持っているけれども、それを魂の悦びのために
使う方法を知らないのである。

魂の悦びのために富を使わないだけではなく、尚一層の富の獲得のために、
激しく渡り合い、争い、競争者を嫉妬し、非協力者を憎むというような
魂の悪徳をつくるならば物質的富の獲得は魂にとってマイナスになる
と云う結果になるのである。

精神的富を見る眼をひらかない者は、片手落ちな
バランスのとれない富の持ち主にすぎないのである。

             <感謝合掌 令和2年9月24日 頓首再拝>

《先ず霊的本源を求めよ》 - 伝統

2020/10/04 (Sun) 05:07:59


          *「真理」第9巻生活篇第14章(P376)より

何よりも先ず神の無限供給を求めよ。
併し神は霊であるから、神に対して物質的な富を求めてもそれは
「無いもの《ねだり》」に過ぎないのである。

先ず霊的なる徳を求めよ。

豊かなる霊的雰囲気、出来るだけ多くの人々を生かす智慧、良き計画、
良き構想・・・それらは霊的な徳であって、これらを神に求むれば、
そして既にそれを得たりと瞑想中の祈りに於いて感謝すれば、
それらの諸徳はわがものとなるのである。

そして、それが自分の嗜好する方面に影を映して、
或いは芸術的能力となり、或いは科学的発明となり、
或いは物質的富ともなってあらわれて来るのである。

霊的な諸徳が本源であって、物質的なものは、その影に過ぎないのである。

若し既に物質的なものを先にもとめるならば、
それは本末転倒になってしまうのである。

             <感謝合掌 令和2年10月4日 頓首再拝>

《放蕩息子になってはならない》 - 伝統

2020/10/07 (Wed) 04:15:57


      *「真理」第9巻生活篇第14章(P376~377)より

霊的な徳の完成を先ず求めないで、物質的な富だけを求めるのは、
本源(父)から遠ざかってしまうがゆえに、父に背いた放蕩息子に
なってしまうのである。

そして物質を求めるその念の強力さによって一時的には物質的豊富さを得る
かも知れないけれども、それは本源に汲まないところの富であるがゆえに、
やがて涸渇してしまうことになるのである。

だからキリストは「先ず神の国と神の義(ただしき)とを求めよ。
その餘(よ)のものは汝らに加えらるべし」と教えられたのである。

私たちは私たち自身の幸不幸の原因を自分自身以外のものに求めている
限りに於いては、心の法則を知らず、又心の力を利用することを知らず、
富があらわれて来る本源であるところの神を知らないがゆえに、
此の世に於いて最も有力なる力を使うことができないのである。

             <感謝合掌 令和2年10月7日 頓首再拝>

《先ず豊かな雰囲気を作りましょう》 - 伝統

2020/10/12 (Mon) 04:44:50


          *「真理」第9巻生活篇第14章(P377~378)より

失望や、落胆や、陰気な不景気な思いが、事業の主動者の魂を占領したならば、
それを語らず、人に告げないでも、その従業員全体にその失望、落胆、
不景気の想念が雲のように蔽いかぶさって、従業員全体の繁栄の雰囲気を
打ちこわしてしまうことになるのである。

失意の時ほど明るくなれ、暖かい部屋にはいるまえに、
先ず着物に降りかかった雪を払い落すように、
その陰気な失望、落胆、不景気の想念を払い落さねばならない。

そのためには、不景気の外面にとらわれないで、失望、落胆とは反対の
明るい景気の好い想念を起すように努力しなければならない。

明るい言葉を常に語れ。

神想観中に既に繁昌している状態を心に描いて瞑視する行事を繰り返し行え。
それを繰り返すことによって次第に「豊かなる精神的雰囲気」が築き上げられ、
その反影として現実の豊かさが実現することになるのである。

             <感謝合掌 令和2年10月12日 頓首再拝>

《神は既に無くてはならぬものを与え給えり》 - 伝統

2020/10/14 (Wed) 05:05:21


          *「真理」第9巻生活篇第14章(P383)より

既に神は凡ゆる善きものを吾らに与えておられるのです。

「神は求むるに先立ちてなくてはならぬものを知りたまう」と
聖書にあるのはそのためです。

私たちは神さまに不平を言って求めている限りは、
真理を理解していないのです。

既に私たちに必要なものは実相世界に於いては与えられているのです。
だから本当は、「与えたまえ」と祈ることは無意味なのです。

「与えたまえ」と言うよりは「既に与えられているものを完全に受ける
ことができますように心の眼を開きたまえ」と祈ることの方が
一層真理にちかい祈り方です。

尤(もっと)も「祈り」と云うものは、
神なる親様と、子なる人間との人格的交わりでありますから、
効果が多いためにのみ祈るのではありません。

既に全財産の後嗣息子である坊ちゃんでも
「お父さん、これを下さい」
と祈りすがっても好い訳であります。

             <感謝合掌 令和2年10月14日 頓首再拝>

《与えられた富も受け取る力がなければ仕方がない》 - 伝統

2020/10/16 (Fri) 04:51:27


          *「真理」第9巻生活篇第14章(P383~384)より

私たちは神から無限の供給を与えられていながら、
貧しいと思って嘆いていることが多いです。

ユニティの実話にこんなのがあります。

或る所に大金持ちの伯父(おじ)さんが ありました。
この伯父さんは自分が死んだら自分の莫大な資産を
一人の姪に全部与えると約束しました。

「伯父危篤すぐ来い」との電報が来たので、
姪は伯父のところに駆けつけたが、
臨終に間に合いませんでした。

遺言書には、「彼女を後継者として全部資産を与える」と書いてあった。

彼女は後継者として其の家に住むことになりましたが、遺産としては、
猫の額ほどの地面と、十数本の果樹、それから自分の住む家のみで、
彼女は貧しさをつぶやきながら生涯を終わりました。

彼女の死後、その古ぼけた家は建て直すために取り毀されました。
すると見よ、彼女が毎日其の貧しさを嘆いていた其の床下から
錻力(ブリキ)缶に入った巨億の富がでて来ました。

既に与えられていたけれど、見出さない間は無も同然なのです。

             <感謝合掌 令和2年10月16日 頓首再拝>

《心の世界に富の流入口を作りましょう》 - 伝統

2020/10/23 (Fri) 04:39:06


       *「真理」第9巻生活篇第14章(P386~387)より

あなたの得られる供給が充分でないと云うのであなたは
嘆いていられるのですか?

あなたは供給が常識的なルートだけを通って与えられるものであり、
唯今の計算では迚(とて)も其以上の供給は与えられそうにないと
云うので嘆いておられるのですか?

それでは、あなたは供給の本源を忘れておられるのです。

供給の本源は「神」であり、「神」は無限であるから、
あなたの受け得る供給も無限だと云うことを
お悟りにならなければなりません。

供給は無限ですあるのに、受ける力は必ずしも無限ではないのであります。

あなたは物質のルートのみを通して供給を受けようとしてますが、
それは自分で供給の通路を狭めているのです。

もっと意識を拡大なさい。
供給は心の世界から流れ入って、物質界に於いて具象化するのです。
新しい繁栄のルートを心の世界にお造りなさい。

          <感謝合掌 令和2年10月23日 頓首再拝>

《出しただけが与えられる》 - 伝統

2020/10/25 (Sun) 04:53:04


       *『 生長の家 』(昭和24年9月13日の法語)より

   自然は吾々の一言一行に対して
   その値打だけのものを支払ってくれるのである。

   自然の法則を無視したものは
   必ずその報いをうけるのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31

          <感謝合掌 令和2年10月25日 頓首再拝>

真の富は与える心にあり。 - 伝統

2020/10/28 (Wed) 04:34:51


       *谷口清超新書文集6『サラリーマンの精神衛生』より

受けるばかりの富はやがて消える・・・
「自分さえ幸せになれば他の人はどうだっていい」という様な態度は、
やがてその人自身を傷つけることになります。

何故(なぜ)ならこの世界には厳然(げんぜん)とした
「因果の法則」があって、「与える心を持つ者が周囲から与え返され、
奪(うば)う心を持つ者は奪い返される」ということになるからであります。

          <感謝合掌 令和2年10月28日 頓首再拝>

《人の富を批評してはならない》 - 伝統

2020/11/02 (Mon) 04:48:25


      *『幸福を招く365章』第10項(P219~220) より

逆境がやって来たときに、人は大抵自分より順境でいる人や、
幸福な人に対して批評的になりたがる者である。

他人の富を批評して、「屹度それは闇をして儲けたに相違ない」とか
「屹度狡(ずる)いことをしたに相違ない」とか考え勝ちであるのである。

しかし他(ひと)の富を非難する者には、
自分に対しても「富」は近づいて来ないのである。

税務官吏で千万長者になった者がないのは常に他(ひと)の富を
苛辣(からつ)に批判してそれから奪おうと云う心理状態が働くからである。

奪おうと云うものは奪われるのである。

すべて心の世界に蒔いたものは現実の世界に刈りとらねばならぬのである。


(初出は「生長の家」昭和26年7月13日の法語)

          <感謝合掌 令和2年11月2日 頓首再拝>

天地の真心を受けたとき、自然に儲かる - 伝統

2020/11/04 (Wed) 05:00:05


     *「光明道中記」(11月4日《福徳円満の日》)より抜粋

【完全に自分の生命を与え切ったとき自分の生命はその仕事と一つになる。
                      (『生命の實相』第四巻)】

「儲ける」の語源は「設ける」である。
設けるとは施設することであり、ものを創造することである。
創造のあるところ、「設け」があり、「儲け」があるのである。

天地の真心を受けて創造されたるものが「設けの君」である。
「もうけ」は「真受(まうけ)」である。

天地の真心を受けたときそこに価値施設が行われ、創造が行われ、
自然に儲かるのである。

          <感謝合掌 令和2年11月4日 頓首再拝>

《いのち》の営みは、「設け」であり、そこから「儲け」が生ずる - 伝統

2020/11/05 (Thu) 04:17:13


      *「光明道中記」(11月5日《無限供給を受くる日》)より

【時間を巧みに生かす者は自己の生命を生かす者である。
                      (『生命の實相』第四巻)】

宇宙は無限、天地は無限供給である。
神は無限の富者、人は無限の富者の後嗣者(あとつぎ)である。

「我」と云う限界を撤廃したときに、
宇宙がそのまま自分のものとなるのである。

手を握れば一握(あく)の砂をも入るに足らず、
手を開けば、掌上に宇宙が載るのである。

生命(いのち)の営みがあれば、そこに衣食おのずからあり、
「儲け」は「設け」であるからである。

『生命の實相』の中に、金魚を入れた水盤と、
金魚を入れない水盤と2つがあって、

そのいずれにも水を満たして置けば、
金魚の住んでいる水盤には速やかに藻が生えて、
金魚はそれを食して生活しているが、
金魚の住まない水盤には容易に藻が生えないと云う
事実が書いてあるが、味わうべじである。

藻が生えてからあの水盤の中へ跳び込もうと思って、
金魚が陸(おか)から水盤の中へ跳び込まずにいたならば、ついに
その金魚が餓死するか窒息して了うであろう。

何も食物の無い水中へでも跳び込んで、
其処に生命の《いとなみ》が始まったら、
自然と其処に藻が生えて来るのである。

《いのち》の営みは、「設け」であり、生えて来る藻は「儲け」である。
「儲け」があって働くのではない。
藻が生えてから跳び込むのではない。

          <感謝合掌 令和2年11月5日 頓首再拝>

神の無限供給について - 伝統

2020/11/11 (Wed) 04:41:25


       *「光明法語」(11月11日の法語)より

神は寛大であり、無限の供給であって、
他を害せず、他の持物や享受を侵害せずして
自分に《なくてならぬもの》は必ずそれを与え給うのである。

《なくてならぬもの》とは必ずしも、切羽詰った
「それがなくては死ぬ」と云うようなものでなくとも、

その生活に
「愛を生かし、美を生かし、智慧を増進し、
 平和と調和をもたらす為に必要なるもの」

であれば、一寸した菓子や机の上の装飾物や、
ラジオ・セットや蓄音機のような生活必需品でなくとも
与えられるのである。

          <感謝合掌 令和2年11月11日 頓首再拝>

《無限供給の日》 - 伝統

2020/11/25 (Wed) 06:11:19


        *「生長の家」(昭和16年11月5日の法語)より

   すべての物は、有るから出来て来るのであるが、
   その 『有る』 ことは、『無』 の世界に根元を有つ。

   『無』 の中に本当の 『有』 がある。
   この 『無』 の中の 『有』 をは、理念と云うのである。

   理念は形なき形であり、声なき声である。
   すべての現象  ―  即ち形あるものは  ―  
   形なき形、声なき声の影である。

   先ず 『無』 の世界に沈潜して行くことが必要である。
   『無』 の世界には一切の物の本源があるのである。

   『無』 を称して目無堅間の小船と云う。
   目無堅間の小船に垂れば龍宮城は其処にある。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=295

          <感謝合掌 令和2年11月25日 頓首再拝>

《神なる無限供給の源泉と連絡せよ》 - 伝統

2020/12/09 (Wed) 04:58:48


        *『幸福を招く365章』第10項(P221) より

神は万物を生み給うた。神は愛である。
それゆえに神は無限の富の源泉であり、
与えるために、貯えられたる貯蔵庫であることが判るのであろう。

神御自身では天然現象のような
受動的な無意識的な大まかな運動や構成は出来るのであるが、
意識的な発動的創造の中心は、
神が人間として現れてのみ出来ることになったのである。

神は無限の富の源泉であるから、
人間はその無限の富の意識的表出口だと云うことが出来るのである。

だから人間を神の子だと云うのである。

神の子たるものが貧しく生活しなければならぬ
などと云うことは実際あり得ないことなのである。

汝が貧しいのは神の真意を知らず、
神と人間との連絡を汝自身で断ち切っているからである。

(初出は「生長の家」昭和26年7月17日の法語)

          <感謝合掌 令和2年12月9日 頓首再拝>

自然に栄える日 - 伝統

2020/12/10 (Thu) 02:48:59


           *「光明道中記」(12月10日)より

【神が商売をするので自分は神様の番頭だと思いて経営すれば繁昌する。
                    (『生命の實相』第九巻)】

家族の幸福を希(ねが)い、子孫のために或る程度の蓄財を為すことは、
ともに自然の人間の衝動であって、
何ら咎(とが)めるべきではないのである。

生長の家は出家道ではない、家を生長せしむる道である。
家の繁栄を願うことは当然なことなのである。

併し、それは正しき道を通じて願われねばならないのである。
正しき道とは「公(おおやけ)」なものに奉仕する道を通してである。

人間の弱点として、最初は「公」に奉ずる為に始めた仕事が、
その仕事の「公」なる本質上、自然に栄えるようになったとき、
その栄えを自分の《もの》に帰そうとする衝動が起り勝である。

そして《自分の》成功のために何時の間にか「公」を無視して、
その成功の為に拍車を掛けはじめる。
これは甚(はなは)だ危険なことである。

それは公道を走っていた馬が急に私道を走り出し、
自動車道を走っていた自動車が人道を走り出したと同じである。

馬なら手綱(たづな)をしっかり引(ひき)しめなければならないし、
自動車ならば、気を附けてハンドルを向け換えなければならない。

自己拡大だけの欲望に自分の仕事が向かないように、
吾々は常に自分の心意の方向を調節しなければならないのである。

          <感謝合掌 令和2年12月10日 頓首再拝>

真の富 - 伝統

2020/12/15 (Tue) 04:55:47


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月15日)より

決意、心の世界における素描(そびょう)、その素描の上に絵の具を塗る実行、
それは絵師(えかき)だけのことではない。
人生の画布(カンパス)の上に実生活の絵を描くところの人間の一生もそれである。

真に富者(ふうじゃ)となるには、「われすでに富めり」の素描を心の中に描き、
それを実践に移さなければならぬ。しかし富とははたして何であるか。

富とは決して物質の所有ではないのである。

多くの人たちは富とは物質の所有であり、物質を所有することによって
生活の安全感と優越感とを確保しうるもののように誤解しているのであるけれども、
物質はそれを所有すればするほど、生活の安全感は失われるのである。

いかにしてその所有を減らさず確保しようかということは、
物質の所有者に絶えざる不安を与えるのである。

さればキリストは、「富める者の天国(最大の安全感ある場所)に
入(い)ることの難きこと駱駝の孔(あな)を通るがごとし」と言ったのである。

真の富はもっと精神的または霊的なものである。
鑑賞する力の多き者は真に富める者と言うことができるのである。

山肌の美しさ、蒼空(あおぞら)に漂う白雲(はくうん)の美しさ、
路傍に咲く1本の草花の美しさ、小鳥の囀(さえず)りの美しさ
・・・挙(あ)ぐれば限りなく豊富な美しさがいたるところに
満ちているのである。

それは預金帳や小切手や金庫の中で数えられる富や、
大邸宅とその付属庭園で見られるごとき有限なる狭き美しさではないのである。

何よりも富とは外界の物質そのものではなく、そこから引き出し来(く)る
悦びの豊富、美の感受能力、鑑賞力の豊富さであることを知らねば
ならないのである。

猫や犬に活け花の美や、彫刻の美や、絵画の美や、
山脈(やまなみ)の曲線の美しさや、樹々(きぎ)
緑したたる美しさはわからない。

彼等には美の感受能力乏しきがゆえに、無限に豊富なる美の宝庫の
中に入れられていてさえも、そこから美を汲(く)み出すことを知らず、
ただ腐肉や、魚の骨をさがし求め争うているのである。

しかるにあたかも万物の霊長であり、神の最高顕現なる人間が、
この豊富なる美の宝庫なる人生に生まれながら、

腐肉を追い、魚骨(さかなのあら)を探しもとめる犬猫のごとく、
ただ固定した一塊(ひとかたまり)の札束(さつたば)や、
物質的富のみを求めるならば、それは人間として与えられたる
至高の特権を放棄せるものと言わなければならないのである。

しかしわれらは決して、物質的富を排斥するものではないのである。
精神的にして霊的なる富がわれらにゆたかにひらかれるならば、
必ずきまって物質的富はおのずから、その反影として整うのである。

これに反して物質的富の中には必ずしも精神的霊的なる富はひらかれない。
あまり物質の所有欲に心が捉えられるとき心は物質にしばられて
他の豊かなる美を鑑賞する暇と能力とを失ってしまうからである。

真に富まんと欲するものはまず霊的精神的なる富を得なければならぬのである。

決意、素描、実行
 ―― これは心が形の世界に顕(あら)われる3つの要素である。


          <感謝合掌 令和2年12月15日 頓首再拝>

《富とは貨幣のみではない》 - 伝統

2020/12/16 (Wed) 02:15:40


       *光明法語(12月16日)より

富と云うものは貨幣のみではない。
又物資のみでもない。

人に深切を盡して置くと、それが富である。
軈て入用の時に其の人から再び深切にされ援助される事がある。

よき考えもまた富である。
実用新案などと云って、一寸した小さな「善き考え」さえも
無限に儲けを引出すこともあり得る。

よき友人を持つ事も富の一種である。

信用も亦富である。
意思の強固さや、持続力の強さや、頭脳の良さも亦富である。
更によき妻をもち、よき子をもち、良き召使を持つ事も大なる富である。

          <感謝合掌 令和2年12月16日 頓首再拝>

《横取りをせず縦取りをせよ》 - 伝統

2020/12/22 (Tue) 05:04:45


      *『幸福を招く365章』第1項(P10~11) より

生長の家の教えでは、
「縦取りはよろしいが 横取りは可(い)かぬ」 と申します。 

横取りと云うのは、有限の世界から物を取って来ることでありまして、
それは必ず誰かと衝突するのもであります。 
これには必ず奪い合いを生じ、戦いや争いが起こってまいります。 

縦取りというのは、
神の世界から、無限の世界から、頂いて来ることであります。 
これは頂いても相手は減らない頂きようです。 

そんな頂き様が 本当に出来るのでしょうか。 

貴方が何をやっても儲ける方から考えていると、
「横取り」の方であります。 

これを「お客を喜ばせたい」「人類に献(ささ)げたい」
と云う方から考えていると、
それは神へと縦に連(つらな)っているのであります。

          <感謝合掌 令和2年12月22日 頓首再拝>

富に魅了されない - 伝統

2020/12/25 (Fri) 05:00:15


      *「光明道中記」(12月25日《必ず一人を救う日》)より

【毎日一度は誰かに深切にせよ。与えることによってのみ自己は拡大する。
                     (『生命の實相』第四巻)】

富は富自身に魅力を有(も)っていて、富が蓄積されはじめると、
富を人類に有用な方向に使用することを惜しむように成り勝ちである。

そうなると、その富はやがて単なる「形骸」となり終って
内容たる「生命」を失いはじめるのである。

キリストはかかる富の魅力に捉えられざらんがために、
「富める者の天国に入ることの難きこと駱駝の針の孔(あな)を通るが如し」
と言ったのである。

すべて何でも大きくなって来るときには、「大いさ」と云うものの魅力が
加わって来るが為に、何のために「大きくなること」が必要であったかと云う
本当の目的を失って了って、「大きくなること」のみを求めるようなことになる。

人間の愛の目的が失われ、物を集め大きくしたのは「愛」の目的があった
と云うことが忘れられ、雪達磨が坂道を自転しつつ次第に大きくなりつつ、
しかも破滅に近づきつつあることを自覚しないと
同じような事実が、富の蓄積にも言い得られるのである。

富は入用の程度で満足することを知らねばならない。
入用の程度で満足していたならば、世界には資源争奪も起らなかったし、
世界の資源は人類の福祉のために自由に解放せられて黄金世界を現じたであろうし、
現代の石油ショックも起らなかったに相違ないのである。

          <感謝合掌 令和2年12月25日 頓首再拝>

「無限供給」とは不断に周囲を潤して流れ行くものである - 伝統

2020/12/26 (Sat) 06:26:45


   *「光明道中記」(12月26日《愛念雲の如く湧く日》)より

【周囲に対して微笑みかけよ。周囲も又汝ににこやかに微笑みかける。
                  (『生命の實相』第十一巻)】

富が人類へ奉仕(サーブ)するための目的から離れて、
自働的にそれが富自身を追求するようになる時、
それは「貧乏」が人間の生命を縛るのと同様に、「
富」も亦、人間の生命を縛るようになるのである。

「富」それ自身が欲しくなったとき、
その人は、すべての供給が「神」からくるのではなく
「物」からくるのだと思い違えはじめた証拠である。

人間の幸福は「物」から来るのである、
「物」は消耗するものだとの観念が強くその人の生活をリードするから、
「富」の飽(あ)くなき蓄積がはじまるのである。

ところが人間への供給と幸福とは決して「物」から来るのでなく、
「神」から来るのである。

従って、吾々に与えられて、或いはその使用にまかせられているべき
この富と、力と、生命力とは、
人間に貢献(サーブ)する目的で使用せられる限り、
永遠に神より来たって補給されて失われると云うことはないのである。

蓄えられたる「死金」ほど愚かにも滑稽なるものはない。
それは人間の魂を飢えさせ、
餓鬼道の苦しみに陥(おとしい)れるものである。

「無限供給」とは撓(たゆ)みなき流れである。
それは停止ではなく、蓄積ではなく、また枯渇でもないのである。
余れるにも非ず、足らざるにも非ず、
不断に周囲を潤して流れ行くものである。

          <感謝合掌 令和2年12月26日 頓首再拝>

冥加(みょうが)のある「富」 - 伝統

2020/12/27 (Sun) 05:01:33


       *「光明道中記」(12月27日《無限供給の日》)より

【自己の心だけの事物しか自分の運命に引き寄せることができない。
                       (『生命の實相』第四巻)】

富そのものを集積する蓄積と、「物」に内在する神の恵みを大切にして
少しも浪費しないことはおのずから別なことである。

キリストは「5つのパンを5千人に分けて与えた」
これは愛は神から無限供給を招(よ)び出すものであって、
外見の「物」の分量にかかわらないことが示されているのである。

併しながら5千人の食べ残ったパン屑は悉く集められて籠一杯になったともある。

これは「神の恩寵」であるところの「供給」を
少しでも無駄にしてはならないと云う教えであるのである。

富そのものの大を希(ねが)いて、雪達磨のように転げつつ大きくなることは
避けなければならないが、すべての「供給」は神よりの《もの》と知り、
少しも浪費することなく有効に利用すべく心掛けなければならないことは当然である。

そこにこそ、「富」そのものを追求するには非ざれども、
自然に湧き来る富が発生するのである。

斯くの如き富を冥加(みょうが)のある「富」と言う。
神の冥々(めいめい)の加護である「富」であり、
「福田」の表現としての「富」である。

若し吾々が日常生活に於いて釜浚(かまさら)いの御飯粒をも、
お皿に残った一滴の醤油をも浪費しないで、拝むような心持で頂くとき、
そんな収入の少ない人でも尚残って余りある籠の中に一杯のパンを見るであろう。

          <感謝合掌 令和2年12月27日 頓首再拝>

《富を現象界に映写し出すこと》 - 伝統

2021/01/03 (Sun) 02:30:35


      *『幸福を招く365章』第1項(P14~15) より

どんなに貧しくとも今断々乎として「我れすでに富めり」と念ぜよ。
現象を見るな。現象は過去の心の投影(かげ)だ。

今、「自分の富める光景」を心に強く描いてそれを潜在意識に焼きつけよ。
そして「富」の映画フィルムを造るのだ。

現象界は想念のフィルムの投影(かげ)であるから
心にハッキリと「自分が富める光景」を描いたならば、
富の現象化の第一段階は完成したのである。

しかしそれだけではフィルムが完成しただけであるから
まだ現象面(うつしのせかい)に出て来ないのである。

現象面(うつしのせかい)に映し出すためには
それから機械を運転しなければならない。

即ち「富」の想念を強く描いたのち自然に催し来(く)る行動を
躊躇(ちゅうちょ)なく自信をもって実行することである。

          <感謝合掌 令和3年1月3日 頓首再拝>

《無限供給のパイプをふさぐもの》 - 伝統

2021/01/19 (Tue) 04:56:11


     *『生活の智慧365章』
        (第3部繁栄の泉)第8篇(P214~215) より

あなたが若し無限供給の来たらんことを欲せられるならば、
自己の想念によって、宇宙の無限供給の流入口をふさいでしまってはならないのである。

あなたは現在あるところの収入量だけを勘定したり、
現在の収益の場所、収入の財源だけを考えて、
そのほかの何処からも収入の道がないなどと考えてはならないのである。

宇宙は無限に広いのであって、あなたの収入が流れ入るパイプは
あなたが肉眼で見ている場所のほかにも色々あるのである。

あなたは祈りの際に、
その無限の供給の流れ入る無限のパイプを瞑視しなければならない。
あなたの供給を遮るものは、あなた自身の「限る想念」だけである。
今すぐ其の「限る想念」を取除けなさい。

月給取だから、そのほかのに収入の道がある筈はないなどと云う考えを捨てなさい。
みずからを「限る」ものは、限っただけしか得ることができない。

          <感謝合掌 令和3年1月18日 頓首再拝>

ケチな心、贅沢な心のところに富は永遠にいないものである - 伝統

2021/01/21 (Thu) 06:34:29


    *「光明道中記」(1月21日《笑門福来七宝充満の日》)より抜粋

子供が要らぬことに金を費やすのは、
儲けてはならない不当なことに儲けていた反影である。
金持三代続かないのはその為である。

善行をして次第に集った富ならば何時までも続く筈である。

ケチな心は貧しい心、出し吝(おし)みする心であるから、
一時は出口を押さえる力で蓄積が出来るものであるが、
やがてその人の周囲にはケチな心、出し吝(おし)みする心の持ち主ばかり
が集って来て、ついにはその人自身が立たなくなり衰微して滅んでしまうのである。

贅沢な心のところにも富は永遠にいないものである。
何故なら物の価値を知らないで、湯水のように贅沢に恵みを悟らずに
使いほかしにする心の処には神の恵みは何時迄も停(とどま)らない。

          <感謝合掌 令和3年1月21日 頓首再拝>

必要に応じた富 - 伝統

2021/01/23 (Sat) 02:39:41


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月23日)より

心の平和を得ることが幸福の本である。
心が平和を得なければ億兆の富といえどもなんの幸福をもわれわれにもたらしえない。
それはかえってわれわれの生活を掻きみだし、われわれを地獄へ突き落とす重荷となる。

幸福は富の有無ではない。
しかしわれわれは富を排斥するのではない。

富に捉えられずして富を善事に駆使しうる者は
富ますます多くして世のためになることますます多くなるであろうが、
多く人の場合は「富」を得るときそれに捉えられる。

俗人は「富」をもてば増殖したくなるであろうし、
それが奪われざらんことを欲して守りたくなるであろう。

ここに、人が現象に捉えられて、自己の内にすでにある「無限の富」を
忘れがちとなる危険がひそんでいるのである。

多くの富豪の家庭にはおもしろくないことが潜んでいる。
誰でも必要以上に富をもつことは人生に不要な重荷を背負い込んだことになる。

無限供給というのは飽食の意味ではなく、
必要なだけ食膳に上(のぼ)るということである。

このことは食物に限らず「金(かね)」でも同じことである。

         <感謝合掌 令和3年1月23日 頓首再拝>

《月給取りにも無限供給の道はある》 - 伝統

2021/01/27 (Wed) 02:34:37


        *『生活の智慧365章』
        (第3部繁栄の泉)第8篇(P214~215) より

或る月給取がありました。
彼は肺結核にかかった。
それが動機になって彼は生長の家に触れたのである。

それから医師にみてもらうと、
驚いた事には、喀痰(かくたん)中に無数に結核菌がいるとの事で、
彼は強制的に会社を休まされることになった。

その間(あいだ)に彼は一所懸命に『生命の實相』を読んだ。
そして其処に書かれている通り、「健康」と「神からの無限供給」が既にあることを
深く想念したのである。

すると次に医者に診断を受けた時には全然喀痰中から菌が検出されなかった。
塗抹(とまつ)試験をしても、菌培養試験をしても菌の不在が証明された。
彼は会社へ出勤することを許されたのである。

彼はやはり神からの無限供給を祈りつづけた。
すると会社の社宅が抽選であたった。
そのために普通の家賃を支払っている時よりも3千円も節約になかったのである。

病気欠勤していたに拘わらず、その期末には2千円月給が上がった。

定額所得者でも定額以上を得ることができる例である。

         <感謝合掌 令和3年1月27日 頓首再拝>

《われは無限供給の世界を見る》 - 伝統

2021/02/15 (Mon) 02:26:21


       *『 生長の家 』(昭和24年11月17日の法語)より

   静かに静かに、吾は今 神の無限供給の世界をみるのである。
   今の現実がどうであろうとも、
   ただ実相のみが実在であるのである。

   神の造り給いし無限供給の実相世界が
   今 ここに あるのである。

   神は吾らの父であり給い、
   神の子たる吾らの富むことを喜び給うのである。

   神のもちたまえる無限の富の後継者として
   吾はすでに無限の富に資格づけられているのである。

   唯(ただ)吾等は「 神の子 」なる本当の血統(ちすじ)を
   知れば好(よ)いのである。

   本当の血統を知り 吾神の子なりと名のって出さえすれば
   凡(あら)ゆるものは 既に神から与えられているのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

         <感謝合掌 令和3年2月15日 頓首再拝>

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