伝統板・第二

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谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉⑧ - 夕刻版

2020/06/14 (Sun) 19:45:19

『國家と自分』

            *『新日本の力』 より

『國家と自分』 

生長の家を拡めよとは言わぬが“天皇信仰”に導く熱意を燃やせ!
 
          
八絋一宇とは斯うだよ。 

吾々の人体でも 『一』 と 『多』 とが一つになっている。 
諸々の細胞が4百兆、或は1千兆と言われておる細胞が一つになって、
同時に一つであり、そして中心に帰一している、それと同じことだ。

一即多になったとき、それを生活に生きたときに、
そこに生々として生々としたいのちが動いて来るのだ。 

一即多でないものは皆なバラバラで摧けるものだ。


君等、日本精神の青年達はまだまだ熱意が足らぬぞ。 

僕は皆さんに敢えて生長の家を弘めろとは言わないが、
天皇信仰、日本精神に引っぱり込む熱意はもっと燃えねばならぬ。  

そのためならその手段方法は本当に “いのち”がけで、
地下に潜り込んでも、天に舞い上っても、如何にしてでも、
自分の知っている限り、皆な手繰り寄せでそして
日本人皆を天皇信仰に導かなくてはならない  

―  そういう熱意とか行動とかいうものがまだたらないのではないか。

尤も東奔西走するばかりが能ではない。 

静かに深く日本、祖国をおもい、じっと魂の底深くそれを練り、
魂の底深く忠の理念を醢醸して、そこに生気を貯える
と言うことも時には必要じゃないかと思う。 
そうでなしに唯徒らに乱舞しているだけでは可けない。

そのためには坐禅的、神想観的修行というものが是非必要だ。 
坐禅と言って唯黙って坐って自分だけの悟りを開いたらいいとか、
自分だけ、天皇信仰しておったら好いのだというのであっては可けないのだ。 

自分だけという利己主義が曲者だ。 
自分だけ悟ると言うのは ― 是は自由主義だ。 個人主義だ。 野狐禅だ。 
本当の日本主義でもなければ、本当の悟りにもなっていない。

 
『一』 つの全体が吾々だ。 
一即多の哲学が日本の哲学だ。 
一即多・多則一が日本民族の自覚である。 

それを八絋一宇と言う。 

我々すべての日本人が、否更に進んではすべての世界の人類が
一人残らず日本精神に目覚め天皇信仰に目覚めきたときが八絋一宇の実現だ。 

これが実現するまでは、寝ても覚めてもじっとしておられないと言う位に、
それが自分の胸悩める位にならなくちゃ可かぬぞ。

皆さんの話の中に 『国家に‘対する’忠』 と、
国家に対していのちを捧げると言うような言葉が出ているが、
是は無論間違でも何でもない。 

けれども尚一層切実に言うならば、
『国家に対して』 と言う 『対して』 だけは不要だ。 
『対して』 ということは国家と自分とが離れて相対的になっている。 

尤も現象的に説明する場合には 
『国家に対して』 という言葉の表現は間違っているのじゃない。 

ただ自覚の上としては、国家の‘いのち’が自分の‘いのち’だ。 
この自覚が必要だ。

国家の‘いのち’が自分の‘いのち’なんだから、
国家を生かす外に自分の‘いのち’を生かす道がない。 

全体の‘いのち’と自分の‘いのち’とはバラバラじゃない、ひとつなんだ。 
一円相だ。 

一円相で国家を生かし、皇国を生かす他に、何物も自分を生かす道はないのだ。 
‘祖国’を‘生きる’ことが自分が生きることなんだ  ―  それが分かったならば
じっとしておられない筈だ。 

自分が生きるか死ぬかの問題は、同時に国家が生きるか死ぬかの問題だ。 
それが二つに分れていると思うのが、それが現象に捉われ、肉体に捉われ、
物質に捉われ、物質の塊り5尺の塊りが人間だと思っておるからだ。 

肉体無しの自覚に徹せよと言うのはそこだ。

『肉体なし』 と本当に分ってしまった時に、
自分の‘いのち’と言うものは、此のまま国家とピタリと一つのものなんだ。 

国家が私なんだ。 私が国家なんだ。 

私が起たなければ誰が起つのだ。 
その自覚がみんな一人一人に出来るのだ。

『私が起たなければ誰が起つ?』 

この自覚を日本人ひとりひとりが皆有った時に、本当に日本の国は強くなる。 
みんなが国家そのものを全責任を背負って、古来からの聖者は、
世の中は悩むものがひとりでもあるかぎりは私の責任だ  ―  と斯う言った、

それと同じように 
『日本の国にひとりでも 天皇信仰と言うことに徹底しない者があるのは、私の罪なんだ』 

斯うひとりひとりが皆自覚が出来るようになった時に、
本当に日本中が、天皇信仰になれるのだ。 
そうしてその信仰が、百万、一千万、一億の力となるのだ。

国家が自分だ。 
そのほかに 『自分』 と言うものが何処にある。 
国家の為に勤労を捧げると言うことが、それが自分が生きると言うことなんだ。 

国家が自分と対立しているように思い、国家に捧げると思う。 
捧げるのは捧げないより優しだが、それではまだ国家と自分の分裂がある。 
捧げただけ自分が減って来るように思う。 

是が物質を観、物質的イデオロギーで人間を観て、
そしてそのプラス、マイナスを考えているからそう言う風になるのだ。 

我々は物質を観ないで、肉体を観ないで、
そして本当の‘いのち’そのものを目のあたりに観る。 

そうすると国家の‘いのち’が自分の‘いのち’であると判るのだ。


我々は日本の歴史を背負って、茲に天之御中主神以来、
久遠のいのちを背負ってその歴史的現実の一点に立って、
今『自分』を切実に生きるのは、唯国家を生きることしか仕方がないのだ
と言うことが本当に分らなければならない。 

分らない青年がひとりでもあるということは非常に情けない。 
これは我々自身の熱意の足らぬ罪だ。’

  (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/04d582760e6d3e3a4cf19b7f7d17f142 )

・・・

<関連Web>

(1)光明掲示板・伝統・第一「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉 (100)」
     → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=59 


(2)光明掲示板・伝統・第一「伝道体験講話~大熊良樹講師 (420)」
     → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=105


(3)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉」②
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6458658


(4)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉」③
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6582228


(5)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉」④
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6691070

(6)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉」⑤
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6819394

(7)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉」⑥
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7167361

(8)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉⑦」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7788859


(9)伝統板・第二「常楽への道~吉田国太郎」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6620484

(10)伝統板・第二「常楽への道~吉田国太郎②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7220053

(11)伝統板・第二「常楽への道~吉田国太郎③」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7912130

        <感謝合掌 令和2年6月14日 頓首再拝> 

単に赦すだけでは足らぬ - 伝統

2020/06/15 (Mon) 19:29:24


          *『希望実現の鍵』より

「天地一切のものに和解する」という事は、ただ単に表面の心で、
自分は彼を赦しているというような浅い赦しようでは足りないのであります。

 
詳しくいえば、赦すなどという観念が
すでに相手の悪を認めていることになっているのであって、
それでは、すべての人間を吾が子として愛し給う神の霊波に波長が合わないのである。

心の隅のどこかにでも、誰かが自分に悪意をもっているとか、
自分に害を与えるとかの考えを捨てることが出来ないでいる限りは、
神の創造に何かまだ不完全があると信じているということになっているのであるから、
それはまだ神と完全に和解しているということが出来ないでいるのである。

 
祈りがきかれる為には、神と和解しなければならない。 
神と和解するためには、この世の中に、赦すべき必要があるような人間を
いまだかって神は造り給うたことがないという深い信念にまで
到達しなければならないのである。

 
もし「赦さねばならぬ人間」が自分の前に現れていて消えないとするならば、
それは、神がかくの如き人間を造ったのではなく、
自分がまだ神の造り給うたこの世界にそんな不完全な人間がある
という迷いを持ち続けている証拠であるから、

間違いは自分の方にあるのであって、神の創造に間違いがあるのではないのである。

 
だから吾々は相手を赦すどころか、自分を赦し給えと祈らなければならないのである。

「神よ、吾が信仰浅きを赦し給え」 と祈ったイエスの弟子のように。

http://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p11.html
September 15, 2013, 1:06 pm

        <感謝合掌 令和2年6月15日 頓首再拝> 

真に偉大なる者  - 伝統

2020/06/18 (Thu) 22:37:44


          *『生長の家』(昭和47年2月号)より

真に偉大なる者は不屈の決意をもって、
自分の理想を貫き通す忍耐がなければならぬ。

そのためには一念不動でなければならない。 

内から外からの誘惑に左顧右眄するようであってはならない。 

そして理想を貫き通すために、最も苛辣な条件をも莞爾として受け、
どんな擾乱の中にも心の平静を失わず、
熟慮の後は敏速に断行する果敢な精神をもたねばならぬ

 ―― しかしそれらの諸徳を実現し得る根本となるものは、
自己が “神の子” であり、“常に神と偕にあり” との自己信頼である。 

自己信頼とは仮にいうけれども、小さな自我への信頼ではなく、
神への全托から来る自己信頼でなければならない。
              
http://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p14.html
November 25, 2013, 7:19 am

        <感謝合掌 令和2年6月18日 頓首再拝> 

「感謝」こそ救いの根本 - 伝統

2020/06/20 (Sat) 19:33:50


           *『すべてを癒す道』藤原敏之・著より

誰かに頼んで祈ってもらって、苦難から逃れようとするくらい卑怯なことはありません。 
生長の家は、世間一般にあるような祈祷宗教ではありません。 
「拝み屋」 と間違えてはなりません。 

 
谷口雅春先生は、 「神は私たちに真剣を要求し給う」 とも御教え下さり、 
「価を払わずして受けることだけを求めてはならない」 とお示し頂きます。 

お金だけを払って、かわって祈ってもらうことによって、
幸せになろうなどと考えることは楽で、よいでありましょうが、
そんなところから自信も安心も絶対に生れません。 

正しい信仰が生れる道理がありません。


徹頭徹尾 自力の否定であり、感謝以外にはないのであります。 
祈りも感謝、愛行も感謝、神想観も聖経読誦も悉く感謝であります。

自己中心の祈りや行は、生長の家ではありません。 
目的や都合から出発した行は、どんなに完璧に出来ても、不
安を取りのぞく力とはなりません。 

やりながら不安を伴うのであります。 
それは心の底では自分を頼み、結果を期待していることになり、
肝腎の神様がぬきになっているからです。 

神様が抜きになっていて救われるはずがありません。 
神に全托したものは、あるのは唯感謝のみであります。 
感謝以外に努力は救いにつながる努力とはなりません。


『七つの燈台の点燈者の神示』 の中にも、
一にも感謝、二にも感謝、感謝、感謝、ただ感謝だけとあります。 

あまり感謝ということばが多いので数えてみましたら、
何とあの短い御文章の中に、十四回も感謝というおことばがあり、最後の方に、

『その感謝の念の中にこそ、汝はわが姿を見、わが救いを受けるであろう』

とお示し頂いています。 

これをみても、生長の家がどんな教えであり、
どんな方法で救われるかが明らかであります。 

この 『七つの燈台の点燈者の神示』 は何十とある神示の中の、根本の神示であり、
み教えを代表する神示であります。

その神示で 「感謝」 がすべてであり、
それのみが救いの根本であるとお示し頂いておりますから、
私たちはその教えに素直に従い、信じて行ずる以外に方法はありません。 

それ以外のことを考えたのでは、生長の家ではなくなります。


https://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p15.html
December 7, 2013, 9:12 pm

        <感謝合掌 令和2年6月20日 頓首再拝> 

気品 - 伝統

2020/06/22 (Mon) 19:00:22


       *『めざめゆく魂』谷口輝子先生・著(P43~44)より

気品はどうして得られるか。

それは、気高い心を持つことであり、
気高い行動を日常に為しつづけることである。

自分の職業が良心に恥じないものであり、
自分の仕事が、たとい屑拾いであろうと、便所掃除であろうと、
いささかも賤しいものでなく、

何かのお役に立っている大切な仕事の一つであると信じたら、
その人の容貌は決して下品にはならないのである。

どんな仕事にも、正しい心で接し、愛の心で行えば
明るく尊い表情となるより仕方がないのである。


先祖代々の劣等感によって、生れつき低い鼻や、
頬骨の高い顔だちになっていても、

今、自分が尊い神の子であることを悟り、
神の子らしい気高い心となり、神の子らしい生活をして行ったら、

一日一日と神の子らしい気品が現われて来るようになり、
その人の心境の速度や深度に比例して、
その人の雰囲気の浄化も大きくなるのである。

親の心境の高まるに従って、
その子らも高貴の相貌へと変って行くに相違ない。


        <感謝合掌 令和2年6月22日 頓首再拝> 

神様への報恩 法供養 - 伝統

2020/06/25 (Thu) 23:52:45


         *『維摩経解釈』より 

たゆまない真理の実行を通して、不退転であってのみ、
菩提〈さとり〉を成就することができるのであります。 

或る人は法供養のほかに、行供養というのを説いておられます。 

「行即ち行いの伴わない信仰は空念仏で功徳はない」 
と生長の家でも説いているのであります。

人を救う実行〈行〉をすることが、仏様又は神様への報恩であり感謝であります。 
自分だけ救われたといって、「ハイ、サヨウナラ。 有難うございました」 と
去ってしまうような人は、少しも救われていない。 
ただ其の人は利己主義になっただけの事であります。

自分が得をして他に報いないのは一種の 「奪う」 行為であり、
それは魔境でありまして、一つの誘惑でありますから、これを克服しなければなりません。 

そういう利己主義的な救われ方は、因縁の法則に逆行するものでありますから、 
「奪うものは奪われる」 の法則によって、一時はお蔭を得たようになっていましても、
やがては其のお蔭が消滅してしまうのであります。

仏の成したまうた其の通りを自分も実行して大慈悲を行なうのが行供養で、
これこそが大慈悲であり法供養であります。 

更に法供養は、供養されたる衆生が真理を語って
それを他に及ぼす菩薩たらしめなければならないのであります。 

これが 「能く衆生をして道場に坐して法輪を転ぜしむ」 であります。

法輪とは真理の説法のことであります。 

生長の家でいうならば、すべての誌友を講師化して
法輪を転ぜしめるようにするのが法供養なのであります。 

しかし、その転法輪の法供養を 「わたしが彼に法供養してやっている」 
という風に恩に着せがましい 「与え方」 をしているのではいけないのであります。 

「我なく人なく衆生なく」 というのはそれであります。

「寿命なく」 というのは、寿命は時間でありますから 
「何時」 わたしは法供養したということもないのが本当であります。 

「わたしはこんなに身命を賭して衆生を教化しているのに、
本山では報いようが少ないから生活に困難である。 
だからわたしは救ってあげた人たちから謝礼金を貰って生活するのが当然である」 

などという布教師があるとしたならば、
それは、 「我なく人なく衆生なく」 とは言えないのであります。

施しをしたり、供養をしたり、人を救ったりするのは、 
「空・無相・無作・無起」 でなければならないのであります。 

すべての人間は既に実相においては救われているのでありますから、
現象界にどんなことがあらわれておろうとも、それは空であります。 

相をあらわしていながら無相であります。 
作(はたらき)をしながら作をしていないのが無作であります。 
起っていながら無起すなわち起っていないのであります。 

これを反転して申しますと、無相のままで適当な相をあらわし、
働くことなくして、適当な働きをあらわし、われが起すということもなく、
適当なことが起こり、 任運無作神通自在 になることであります。 

これが本当の法供養であります。

人を救けてあげながら、お礼を言われると、 
「何時私があなたを救けましたか?」 と忘れてしまっているようなのが
作(な)さずして作(な)す、無相の法供養であります。


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December 11, 2013, 7:25 pm

        <感謝合掌 令和2年6月25日 頓首再拝> 

礼節を大切にすべし - 伝統

2020/06/26 (Fri) 22:49:41


           *『生長の家』(昭和45年9月号)より 

礼節は実相の秩序が、日常生活の秩序となってあらわれて来たものである。

秩序には必ず長幼の序が伴わなければならないのである。 
近頃の若い人は、長幼の序の破壊が民主主義であるかの如く
教育されているけれども、とんでもない間違いである。

“礼”は“ノリ”とも訓む字であるが“ノリ”は“宣り”であり“コトバ”であり、
実相世界にある生命の秩序あるリズムである。 
それが動き出して現象世界にあらわれれば、それが“礼”となり“節”となるのである。

“節” は竹のフシのことである。 
竹のフシは無闇矢鱈に伸びていないで、一節々々秩序あるリズムをもって列んで、
節毎に太さと長さが異なっているのであり、それが長幼の序である。 

その節によって、竹の幹は強化せられるのである。

 
人間の団体(家庭を含む)は長幼の序があるによって強化せられるのである。 
学校で赤い先生に長幼の序を破ることを民主主義の“人間の平等”だなどと教えられ、
親や目上に対して、まるで召使に言うようなゾンザイな言葉使いをする子供があるが、
そんな家庭は実相の秩序の上に建っていないから基礎が脆弱だというほかはない。


礼節は、誠心(真心 ― 実相の心)のあらわれとして、
それが作法にあらわれて来る時に価値があるのである。 

誠心(まごころ)なくして形ばかり慇懃丁寧な場合には、
「慇懃無礼」というものであって、実相世界の秩序のリズムがあらわれていないのである。 

それは時として虚礼といわれ、内容が虚しくして、
唯、形ばかりの礼儀を正しくしているので偽善でもあるのである。


礼節のうちには“謙り”の美徳がある。 
自己の徳や善行を表面に出さないで下座にすわるのである。 

自分の功績を麗々しく人々に吹聴するのはまことに聴きぐるしいものであるが、
功績あってもそれについて傲らず、驕慢な態度に出ないものは、
まことに奥床しい感じがするのである。

“奥ゆかしさ”というものは、露骨の反対であって、奥に実相の美しさを秘めながら、
ほんの僅かその美しさが花の蕾のようにのぞき出して余韻をゆたかに残しているのである。 

自分が出しゃ張ることによって、他の人の光を遮ることがあってはならないという
深い実相の“心ばえ”が顕れた姿である。

茶花に椿の花を活けるときには、ほんのまだ蕾で、
中心にチラリと花の色が見えそめているのを活けるのがよいとせられているが、
それが“奥ゆかしい”姿である。 

人間もそのようであるのが礼にかなうのである。


傲慢にみずからを高しとする者は却って貶され、
謙虚にみずからの徳を隠して陰徳を積む者は却って高められ尊敬せられるのである。 

徳を積み、光を重ねるとも、傲慢にそれを外に向って告げれば、
既にそれは報いを受けたのであるから、過去の積徳は帳消しになった訳である。

徳を積み光を重ねながら、みずからを隠す者は、
その積徳が霊界に貯えられ更に利子がついてイザという時、
大業をなすための貯えとなるのである。 

早く報いを求める者は、早く貯金を引出して消費してしまう者に似ている。

https://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p16.html
December 15, 2013, 1:59 am

        <感謝合掌 令和2年6月26日 頓首再拝> 

「打てば響け」 - 伝統

2020/06/27 (Sat) 18:49:56


      *谷口輝子先生著『新版女性の書』(P142~143)より

「打てば直ちに響け」と私は男性にも女性にも云いたい。

三つ打てば三つ響き、五つ打てば五つ響くことは当然であるけれども、
世の中には、三つ打てば一つ響き、五つ打てば二つ響く人が思いの他に多い。

私はむしろ、三つ打てば五つ響き、五つ打てば七つ響いて欲しいと提言する。

打つ人の心を素直に有難く受けたならば、
三対三の当然以上のものをもって応え得ると思う

これは単なる言葉の上の返事のことのみではなく、
人生を生きるについて、凡ゆる方面に於いて
三対一の人の環境は暗く不和であり、三対五の人の環境は明るく順調である。

        <感謝合掌 令和2年6月27日 頓首再拝> 

一歩一歩の前進 - 伝統

2020/06/29 (Mon) 21:44:41


        *谷口清超先生著『伸びゆく日々の言葉』(P124)より

 いくらあせっても、実力以上のものが出て来るわけではない。

実力以上にみせかけても全く無駄である。

一言、一句、一瞬の動作の中に、あなたの「実力」がとび散るのだ。

それ故、表面を飾ることをやめよ。

労をいとうて、功ばかり求めるな。

コツコツと努力すれば、それだけの収穫は必ずある。

何故ならあなたの実力が向上するからである。

本来力はいくらでもある。

それを出すためには、ただ練習、訓練あるのみだ。

一歩一歩前進せよ。

一日五十里を歩く飛脚も、一歩一歩を重ねて歩き続けるのである。

        <感謝合掌 令和2年6月29日 頓首再拝> 

あなたの職場を地上天国にせよ - 伝統

2020/06/30 (Tue) 23:50:38


          *『生長の家』(昭和40年8月号)より

毎朝の人生の出発にあたって、神想観と祈りとによって、
神との一体感を深めるようにするならば、その日いちにち
神との一体感を持続して生活することができ、一日中 神に護られ、
神に導かれて何事も順調に事が搬ぶようになるのである。

神と偕に生活することができるならば、人生のあらゆる場面に於いて
周囲の人々と調和することができ、あなたの周囲の人々から
尊敬と愛と深切とをもって迎えられることになるのである。 

神は無条件に吾らに与えていたまうのである。

では、“神の子”たる吾々も
人々に無条件に与える心で仕事を誠実に行うべきである。 

賃金や給料で自己の労力を評価してはならない。 
若し賃金で自分の肉体を売るような気持があれば、
その人は売買されたる奴隷の心境である。 

無条件に人類に奉仕する心境のみが神の子の心境である。 
賃金はその奉仕に対する謝恩として自然に与えられて来るのである。

無条件の奉仕 ―― それに対する感謝・謝恩 ―― そのような社会が
“神の子”たちの形成する地上天国である。


事業に躓いて来たときには、事業が今まで自分に与えて来た恩恵に対して
感謝が足りないで、唯、その事業から“甘い汁”を吸って来たに過ぎなかった
ことを反省して、その事業に感謝するがよい。

時代の推移や経済構造の変化や新しい発明等によって、
過去に繁栄してた事業でも衰微して来て、販路が益々縮まることもあり得る。 

常に神想観して神の叡智を受けている者は、
その遷り変りに速やかに対処して自分の事業に新しい転換を与えることが
できるのであるが、神想観による「叡智の受信」を怠ったり事業に対する
感謝を忘れたりしていると行詰ることになるのである。

併し、今からでも遅くない、今までの事業を止めるにしても、
方向転換するにしても、その事業に感謝し、而してのち、
神想観を毎日、怠らず実修することにして神の叡智の導きを
受信してそれに従えば、新たに活路をひらくことができるのである。

https://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p17.html
December 16, 2013, 6:10 pm

        <感謝合掌 令和2年6月30日 頓首再拝> 

自分の欲望は後にせねばならない - 伝統

2020/07/09 (Thu) 23:37:38


         *『生長の家』(昭和45年4月号)より

神の祝福を受けるためには、神の御心を先にして、
自分の欲望は後に置かねばならないのである。

何か特別の希望とか願いとがあって、
それを神にお祈りしたけれども実現しない時に 
「神はこの私の願いを諾き給わないのだ」 
と悲観したり、絶望してはならないである。

荷物は馬よりも後方にある車に載せて置かねばならないである。 
荷物を積んだ車を馬の前方に繋いでおいて 
「馬よ、この荷物を私の家へ搬んでくれ」 といっても
馬は前進することが出来ないのである。

神の力を馬に譬えては申訳ないが、
無限の宝を“実相世界”から曳き出して来る力 〈即ち“神”の力〉 を
先に置いて自分の希望する宝を積んだ車を、
その後方に置かねばならないという譬えである。

先ず 「みこころの如くならしめ給え。 みこころならばこれを実現せしめ給え」 
と祈って、わが希望を後ろにつづける方がよいのである。 

それが自分にとって最高の宝だと思っても、
神が 「それは今のお前に適しない」 と思われたら、その車は動き出さないで、
もっと善い宝を曳き出して下さるであろう。

https://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p17.html
December 20, 2013, 5:43 pm

        <感謝合掌 令和2年7月9日 頓首再拝> 

あなたの言葉で人を傷つけてはならない - 伝統

2020/07/10 (Fri) 20:57:25


        *『生長の家』(昭和44年12月7日の法語)より

誰でも不快なことを聞くと、自分が不快になるのである。

人に不快なことを聞かせることは、人に不快な目をさせることになる。 
人に不快な目をさせることは、相手の心を傷つけることである。

それは相手の肉体を傷つけるよりも一層大なる罪悪である。

何故なら、“心”は“肉体”よりも一層大切なものであるからである。

人の心を傷つけながら、自分が相手を傷つけている事を知らぬ人がある。

そして常に、人に“不快な言葉”を聞かせて、
常に人を傷つけて止まるところを知らないのである。

だから、釈迦は 「悪いと知らずに犯す罪の方が、悪いと知って犯す罪よりも重い」 
といって教えられたのである。

あなたは決して “不快な言葉” を人に話してはならないのである。

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December 22, 2013, 7:52 am

        <感謝合掌 令和2年7月10日 頓首再拝> 

和顔愛語が天国をつくる - 伝統

2020/07/13 (Mon) 23:39:07


        *『生長の家』(昭和44年12月号)より

あなたの言葉の中に温い“愛”を満たせよ。

その時、あなたの言葉は神の言葉となるであろう。

決して冷酷な激しい言葉や、罵りの言葉を出してはならないのである。

もしあなたが激しい罵りの言葉を出すならば、
あなたの住む世界は阿修羅の世界となるであろう。

若しあなたが怒りによって他を復讐をするような言葉を出せば
この世界は地獄になるであろう。

地獄も阿修羅も極楽も
あなたの言葉がつくるのである。


愛情のこもった言葉、愛情に満ちた眼光 ・・・・・

愛の表現のみが この世界に天国をつくるのである。

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December 23, 2013, 10:36 pm

        <感謝合掌 令和2年7月13日 頓首再拝> 

自己を冒すものは、自己の想念である - 伝統

2020/07/17 (Fri) 20:00:28


       *『生長の家』(昭和47年新年号)より

神想観を毎朝夕1回20分乃至30分間実修せよ。

どんなに忙しくとも1回は必ず実修せよ。

而して、自己が神の子であり、物質身ではなく、
霊身であることを自己の想念に深く印象せよ。

自分を扶けるものは、自分の信念のほかにはないのである。 
信念を強化し得た程度に従って、あなたは何物にも冒されず、
傷つけられることはないのである。


『天地一切のものと和解せよ』 との神言を
自己の生活に実践するための根本となるものは先ず、
この世界が 「神一元の世界」 であるとし 「唯神実相」 を深く理解し、
それを信念としなければならないのである。

もしこの世界が一元の世界でなく、目的や想念を異にするところの 
“多元” より発生したものであるならば、目的と目的とに食い違いや衝突を生じ、
根本的に完全に和解し得ない原因を内に蔵していることになるのである。

 
それ故に、先ず、この世界の一切のものは、叡智ある唯一神によって
創造せられたものであり、その唯一神のほかには、
如何なる積極的に実在する力も存在しないことを、心にハッキリ承認すべきである。

そのことを心にハッキリ承認しないで、
神の創造による善なる金剛不壊の身(しん)でも、
それを時には破壊する力が又別に存在するのだという考えが、
かすかにでも残っていると、考えは想念であるから、
みずからが、みずからの想念の実現力によって、
自己を冒し傷つける事が発生して来るのである。


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December 27, 2013, 3:18 am

        <感謝合掌 令和2年7月17日 頓首再拝> 

日常生活の事故はどうして起るか - 伝統

2020/07/22 (Wed) 20:15:08


       *『生長の家』(昭和40年8月号)より

幼い子供の事故死又は負傷は、
両親又は保護者の精神が動揺して不安定になっているときに起る。

一つの家庭で、事故の起る時も、起らない時も、制度的な形式は同じであるが、
夫婦喧嘩をしたり、家族の感情の衝突が内に篭っていたりするときに、

添寝中の幼児の窒息、別室のベッドに寝かせてあった幼児の墜落死、
学童又は幼稚園児の交通禍、熱湯や熱い味噌汁やアイロンによる子供の火傷、
その他、良心の不注意及び子供自身の不注意から起る災害も、

単に物質に対する注意や管理を行き届いてしたら防げるというものではなく、

表面はどんなに注意しても、潜在意識に、敵対感情、犠牲感情、闘争精神、
傷つけたい心が潜んでいるときは、そのような心の具象化として、
色々自分自身や家族を傷つけるような生活上の錯誤が起って来るのである。

フロイドの『生活心理の錯誤』〈日本教文社発行〉の本など見ると、
それが詳しく実例で説明されている。

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December 27, 2013, 4:34 pm

        <感謝合掌 令和2年7月22日 頓首再拝> 

難癖をつける習慣をやめよう - 伝統

2020/08/03 (Mon) 22:08:00


          *「生命の實相」幸福篇 下巻(12月29日)より

人々よ、今日(きょう)から他(ひと)に難癖をつける習慣をやめようではないか。

あなたがもし他(ひと)に難癖をつける習慣を改めるならば、
あなたの周囲がきっと前よりもいっそう輝き出すだろう。

世界が明るくなるであろう。

人々もあなたにまた難癖をつけることをやめるであろう。
世界が広々とした海闊明朗な世界になるであろう。
全体があなたを祝福し、あなたは今よりも幸福になるであろう。

呟く歌や悲しむ歌を雑誌などに書いている人を見るごとに、
わたしはその人をかわいそうと思わずにはいられないのである。

いたるところに眼を開けば光が充ち満ちているではないか。


   観終わり東(ひんがし)の空を見てありき燃ゆるがごとく雲流れけり

   太陽も大空も樹(き)も空も鳥もすべて生きてあり生かされてあり

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December 28, 2013, 6:30 pm

        <感謝合掌 令和2年8月3日 頓首再拝> 

無限者に融合せよ - 伝統

2020/08/24 (Mon) 21:43:07


       *『生長の家』(昭和36年新年号)より

何故、人間は或る局面に処して判断を誤り、不適当な行動をとるのであろうか。

それはその人に神の叡智の流入がないからである。  

これはその人の心が「正」であるとか「不正」であるとかの問題ではない。 
その人の心が殻で蔽われていて「無限者の智慧」の流入するパイプを
閉鎖してしまっているからである。  

これを仏教では「無明」と言う。 


私たちが人々に教えている真理は
此の「無限者」の智慧の流入する道をふさいでいる「個我」の殻を除いて、
「無限者」の智慧と融合する道である。

これは単に書籍によって自己が“神の子”であり、
「無限者」の生命を自己に宿すものであると云うことを
理論的に知るばかりで足りるのではなく、

神想観によって、個我の想念を滅却して
「無限者」の中に没入する修行を為すことが必要なのである。

神想観を面倒くさがって行わない人が往々あるけれども、
最初の倦怠を克服する努力を重ねることによって神想観が楽行となるのである。


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January 4, 2014, 7:35 am

        <感謝合掌 令和2年8月24日 頓首再拝> 

他が悪い時、善い人が毒を飲むな - 伝統

2020/08/26 (Wed) 19:57:24


         *『人生讀本』より

「そんなことを言っても、あいつが悪いから腹が立ってしかたがない」 
と言う人があります。

あいつが悪いのなら、その悪いやつが自分で腹立てて、
自分の身体の血の中に毒をこしらえていればよいのです。

それだのに、悪くない者が腹を立てて、
毒を自分の血の中にこしらえるのは間違っています。

ですから、これから自分が善いと思ったら、
自分の血の中に毒をこしらえないことです。 
腹を立てないようにすることです。

そして自分が悪いと思ったときこそ、うんと自分自身に腹を立てて、
自分の血の中に毒をつくってやることです。

それを逆さまに、普通の人は「他人が悪い、自分が善い」
と思っているときに腹をたてて、
自分の血の中に毒を飲ましているのですから、間違っています。

これからはそんなばかなことはいたしますまい。
 
これからは決して腹を立てたりいたしますまい。

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January 13, 2014, 7:11 pm

        <感謝合掌 令和2年8月26日 頓首再拝> 

郷土愛と祖国愛 - 伝統

2020/08/27 (Thu) 20:52:16


         *『生命の實相』 生命篇

“郷土愛”、さらにそれが大きくなっては“祖国愛”
 ―― それは超越的な汎世界的な立場からみまするならば、
一個の執着の念だとも評されましょうが、さらにそれを深く考えます
と日本に生まれた日本人は日本を愛し善くすることによって世界に奉仕し、
人類に貢献すべきであります。

日本人が日本的であることが、世界のためになるのは、
桜の木が桜の花を咲かせることによって人類を喜ばすのと同様であります。

国民がその国土に生まれて、その国土から恩恵を受け、
自分が現在安穏に生活を続けられているのもすべて国土のお蔭です。 

国土の恩(おかげ)と同時に、その国土の開発につぶさに
艱苦をなめつつ努力して来られた祖先の賜物でもあります。

この恩この賜の一切を否定してしまって、祖国などはどうでもよい、
祖先の意思などというものはどうでもよいものだというように
祖国に対して叛逆的思想をいだくということは、
恩の否定、賜の否定、感謝の否定ということになって、
これは神の道 ―― 人の道ではないのであります。

                      
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January 27, 2014, 2:21 am

        <感謝合掌 令和2年8月27日 頓首再拝> 

世界を取巻く神霊の大光輪 - 伝統

2020/09/01 (Tue) 23:07:49


        *『生長の家』誌 昭和40年8月号 より

現象的には自由主義陣営側は自分のイデオロギーが正しいと思っているし、
共産主義陣営はまた自分のイデオロギーを正しいと思っている。 

そして果てしなき闘争を繰返ししつつあるが、

吾々 “心霊界” に属する者の運動は、
そのような暴力の争闘ではないのである。

 
現象以前の、もっと高次の立場から 
『世界を取巻く神霊の一大光輪』 の一部として、
神霊の世界から、彼らの闘争を止め、正しき神のみこころが地上に降臨して、
地上に天界の平和が実現せんがために、活動を続けつつあるのである。

若し地上の大多数の人々が 『すべての人類・神の子である』 という
吾々の正しい信仰に到達することが出来るならば、
自由陣営と共産陣営とは互に微笑を浮かべながら手を握って、
地上の天国建設に邁進することができる筈である。

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January 29, 2014, 4:35 am

        <感謝合掌 令和2年9月1日 頓首再拝> 

独創のある価値を生み出す最良の方法が神想観 - 伝統

2020/10/07 (Wed) 19:17:23

         *「幸福を招く365章」より

すべての善きものは内部から生まれます。

内部から生まれないものはすべて形骸(けいがい)であり、
模倣であり、ニセモノであり価値なきものです。

内部とは自分の生命です。
“自分の生命”とは“神の生命(せいめい)”です。

神の生命は無限内容をもっているのですから、重複を厭(いと)うのです。 

模倣には同じものが幾つも出てきますが、
内部生命から出るものには同じものは二度とありません。

すべての行動を内部生命から出すとき独創的なものとなり、
内部生命は普遍生命とつながっていますから、
独創的であると同時に普遍的なものがあり、
人類全体の理解と共感とを得るのです。

では内部生命から、独創的なものを生み出そうと思ったならば、
内部生命に深く沈潜して、その無限の中から
自己の個性に適する独創のものを引き出して来なければならないんです。

その沈潜の最良の方法が神想観であります。


        <感謝合掌 令和2年10月7日 頓首再拝> 

信仰にも貞操がなくてはならぬ - 伝統

2020/10/19 (Mon) 23:32:43


         *『生長の家』(昭和33年5月号)より

生長の家の神様は罰を与えないけれども、
自分自身で自己処罰して罰を当てるのです。

人間は「肉体」ではないのですから、
霊であったら、普遍的な存在であり、自他一体でありますから、
他を生かすようにしていれば自分が生きて来るようになるのです。 

他を生かすことを止めて利己的になり、
互いの恩愛を遮断するようになると、
大生命の流れがそのままに現象化しないで病気があらわれます。

「人間は神の子である」ということを本当に自覚したら
自然に他の人にもその真理を伝えたくなるのです。 

他に伝えたくならないようだったら
「人間・神の子、自他一体」の真理を自覚していない証拠です。 

『報恩行に就いての神示』にありますように、
吾々は、神様の真理を知らしてもらう機縁を与えて下さった
橋架けになった人 ―― 真理と縁を結んでもらった人に対して、
その恩というものを忘れてはならないのです。

生長の家の誌友は生長の家という縁を通して、
神様を知らしていただいたのでありますから、
「もう真理を知ったから、私は神様と直通だ。 
もう生長の家など通さないでよい」などと恩を遮断すると、

其の生命を断ち切る心の反映として、
現象界に病気その他の不幸があらわれて来るのです。

生長の家の教えは簡単ですから、もう知ったら止めようと思ったら
いつでも止められるけれども、知るという事と体得するという事とは違う。 

生長の家の真理の書物は非常に沢山ある。 
他のどの宗教にも無いくらいに沢山あるけれども、

簡単に言えば縦の真理は“人間・神の子”ということであり、
横の真理は“環境も肉体も吾が心の影”ということで、
縦と横との二つの真理で、それでおしまいだ。 

 
「それで分った。はい、さようなら。人間は神の子だから
 自分は神の子で神様は親だから『子』と『親』とこれから直通だ」 
という訳で、相愛会へも教化部へも道場へも往かぬ。 

そして「わしはわしで独立独歩の神様の子だ」と考える人もあるけれども、
それはやっぱり間違っているのであります。 

それは人間というものが、神様とのみ直通していると考えて、
神の子の相互関係による孤立した存在ではないというところの
真理を忘れてしまっているのであります。 

人間は「全体」の中にいるところの「一人」であって、
全体とのつながりに於て生かされているのであるということが
神の子の自覚であるということを忘れてしまって、

自分だけの力で神様と直通だ! というような考えを起しているから、
そういう間違った考えを起すことになるのであります。

 
臨済宗方広寺派の管長柴山老師が大分市の関川晃代さんに言われた言葉に 

「あんたは、生長の家によって真理を悟らしてもらったんだから、
 ほかの宗教によろめいて行ってはいけませんよ。 
 信仰にも貞操がなければならない」 

というのがありますが、まことに、そうであります。

「万教は唯一つの真理に帰するから、
 何処へよろめいて行っても同じじゃないですか」 

という理窟づけをして他の宗教をのぞいてくる人がありますが、
これは自分の神性をひらかして頂いた「因」に対する純潔を欠いているので、
なんぼう偉そうに道をといてもいけないのです。

嘗て講談社の校正係をしとった人で、
人を怨み憎んで殺してやりたい位だったその怨みが、
生長の家の神示を実行して、消えた。 

そして今は清々しい気持になれた。 

その怨みが消える方法を教えてもらったのは生長の家のお蔭である
というので、毎年二、三遍は必ず、私にお礼の手紙をよこす人がありますが、
そういう人は、本当に因縁の理を知り、
恩を忘れない立派な人だと言わなければなりません。

                 
http://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p13.html
November 18, 2013, 3:08 pm

        <感謝合掌 令和2年10月19日 頓首再拝> 

谷口雅春先生の信者ですから - 伝統

2020/11/08 (Sun) 23:29:22


          *『み教えにいのち捧げて』 より
            ~ 生長の家長老  長 村  婦 美 子


信徒の方々は、谷口雅春先生の大切な信者様ですから、
私が指導するというような不遜な気持が少しでもあってはならないと思います。

相手はみな観音様ですから、
何としても 『生命の實相』 をお伝えする以外は何もないのです。 
私はそれしか知りません。

私は神に導かれていますのか、なさしめられているのでしょうか、
お話をさせてもらっている間に、私の知らない間に、
痛みが消えたり、高熱が下がったりします。

生命の實相は神様ですから、
どこまで相手の実相を見つめる得るか、
如何に相手に実相を知って貰うか、

如何に自分は 「神の子」 であったかを
納得して貰うかということだと思います。

この現象世界は現世(うつしよ)ですから、
神の世界の完全円満な実相の表現の場ですから、

「実相を観じたら実相が顕われる」 というみ教えの通り、
常に実相を観ることだと思います。


生長の家の 「信徒行持要目」 の中に 
「毎日1回は必ず神想観を実修して、心を光明化すべし」 

とありますように、

一般の信徒さんでも1日1回の神想観をしていますのに、
講師が祈らない日があってはならないと思います。

 
尊師 谷口雅春先生 は 
『ヨハネ伝講義」 の179頁に、祈り方を説いておられます。

「この(ラザロ)復活の奇蹟を喚び起したイエスの祈りの順序こそ、
 後世の祈りの模範とすべきものなのです」  

と、正しい祈り方の順序を5カ条で示されています。

その5条目は、ラザロの死や病気を見ないで 
「『ラザロよ、出て来たれ』 と言っているだけで、

病気が治ったとも、治すとも言っておらず、
病気を全然心から離してしまって、ただ 
『健康で生きている者』 としてラザロに呼びかけていることであります」  
とお説きいただいております。

私はこの祈り方を手本として、個人指導をさせて頂いて来ましたが、
個人指導はイコール講師のお勉強だと思います。 

そして相手の神性をどこまで拝みきれるかということだと思います。

 (https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/0a1a37313b7af422456a4934f0dc9c23 )

        <感謝合掌 令和2年11月8日 頓首再拝> 

美点と欠点 - 伝統

2020/11/20 (Fri) 23:09:18


       *『生長の家』(昭和42年2月号巻頭言~谷口清超師) より

人の美点を見て、それを称め讃えることは非常に大切である。 
この称賛によってはじめて内在の「神性」が開発されるのである。 

現象の奥に隠されている「実相」は、
こうしたよき称賛のコトバによって、はじめて発掘されるのである。

ところが、人の欠点を見て、それを称賛したらどういう結果になるであろうか。 
例えば鼻が低くて苦しんでいる御婦人をつかまえて 
「あなたの鼻は高いですねぇ」 と言ったら、

恐らく彼女はその言葉を善意にはとらず、 
「あの人はイヤミな人だ。 私を侮辱した」 と憤慨するであろう。 

髪の毛がうすくて悩んでいる男性に、 
「君の髪の毛はまことにすばらしね」 と言っても同じことである。

そこで吾々は 「欠点」 をほめ讃えたのでは決してよい結果は
あらわれないということを知りうるのである。 

称賛すべき対象は、相手にある 「美点」 でなければならないのであって、
それは 「実相」 が現象にあらわれている箇所であるが故に、 
「実相開顕」 の起点となるのである。


このことは、国家や団体に対しても、あてはまる筈である。 
或る国家の、真にすぐれた長所を認め、それを称賛することはよいが、
その国家の欠点や、悪を、善や美点であるかのごとく言いふらすのは、 

「実相開顕」 の力のみならず、相手をそこない、自己を堕落せしめ、
多くの人心を惑乱する結果となるのである。 

吾々が共産主義国の政治形態を称めることができないのは、
共産主義が唯物論に立脚している関係上、
そのやり方が 「神の國」 の理想とくいちがっている点が
数多くあるからであって、

この 「欠点」 を称賛すれば、人心を惑わすからである。

 
勿論、全ての人類は 『神の子』 であり、その本質がすばらしいのである。 
しかし 「国家」 には 「神の國」 らしからぬ国家も沢山あって、
それは現象人間に悪人が沢山あると同様であり、
これらすべての仮相をそのまま良しと認めるわけには行かないのである。

個人としての人間であれば、
いかなる人も自分や他人の悪い点を知っているから、
善のみをほめておればよい。 

しかし国家形態となると、どのような国家が 「神の國」 の理想にかない、
どのような国家形態がニセモノであるかを知らない人が多くいるのである。 
そこで吾々は、先ずその説明から始めなければならない。 

個人としては盗癖を善しとみる人はいないであろうが、
国家となるといかに盗癖のある国家でも、生命圧迫の国家でも、
それを 「善」 とみる 「迷妄者」 がいる。 

そこで吾々はその間違いを指摘し、 
「真理国家」 のすばらしさを説かざるを得ないのである。

              
https://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p22.html
January 31, 2014, 12:09 am

        <感謝合掌 令和2年11月20日 頓首再拝> 

日本人の愛国心について - 伝統

2020/11/26 (Thu) 23:45:39


     *『 人生を前進する 』 ( P164 - 169 )より

大体、愛国という場合、
まず 「 愛 」 の本質は一体、何であるかということを
明かにしなければなりません。

「 愛 」 とは 「 相手と自分と一体である 」 という自覚であります。
だから 「 愛国心 」 とは
「 国と自分とは一体である 」 という自覚であります。

・・・・・・

・・・自分の生命というものは、ヒョッコリひとりだけ孤立して、
自分の力だけで出て来たのではないのであって、
それは親があるということが分ってくるのであります。

親の生命から自分は分れて出て来たのであって
、肉体は親と離れているけれども、
「 親と一体 」 であるということが判ってくるのであります。

そして 「 自己愛 」 が親まで延長して来て親に対して深切がしたくなる。

親が子供の深切に対して嬉しい顔をしてくれたら、
また子供が幸福感を得るのだということを
それを体験によって知るようになるのであります。

こうして、親の生命と自分の生命との一体感を得るようになることを知る
これが 「 孝 」 の心の芽生えであります。

更に魂が発達して来ますと、

親と自分の生命との一体感が拡がるようになって、
自分の生命の包容するところの分量が一層大きく成長して来ますと、
自分の生命は 「 親 」 だけではなくなって、
その 「 祖先 」 の生命と一つなんだという自覚が
起ってくるのであります。


即ち、愛の範囲が、

「 自己中心の愛 」 から 「 恋人への愛 」 、
それから 「 父母への愛 」 、
それから 「 祖先への愛 」

となってくるのであります。

それからさらには、
その祖先の、祖先の、更に祖先ということになってきますと、
それは一方においては即ち 「 神 」 に達する。

こうして、縦に拡がっては、神に対する愛となり、
無限の原始において自分の生命は神につながって出発し、
そして今現にここに神につながって生かされているのである

という自覚が起ってくるのであります。

そして、神の御心に適(かな)う生活をしなければならない。

そして、神の御心に適って何をしても神が
「 お前はすばらしいことをしたぞ! 」 といって、
神様が褒めて下さるような生き方をした時にその時に喜びを感ずる。

神が喜んだら自分が喜ぶというような
内からなる実践道徳の理性―または規範が内部から押し出して来て、
自分の生命が縦に拡大して神の意思と一体になる行動にまで
発達することになるのであります。

これが 「 神を愛する 」 ということであります。

併し神から発し神につながる我が生命が具体的に生きるためには、
その生きる “ 場 ” がなければならない。

それが国であります。

日本の国があって吾々は生き、吾々の祖先も生きて来ている、
神武天皇の建国は神話であるという人もあるけれども、
ともかくわれわれの祖先たる天照大御神 → 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと) →
そして神武天皇という風に我々の生命の続きの祖先が日本の国を建てた。

吾々の住んでいる日本の国は、祖先と自分と一体の自覚においては、
日本の国は吾々の祖先の生命の展開であり、
正(まさ)に自分の生命の続きなんです。

だから自分を愛する者は
日本国を愛しなければならないということになるのであります。

若し、神武天皇が日本国をお建てにならなかったら、
現在の日本人は存在しないということになります。

そこに 「 生命の本源 」 を知ることによって、
天皇家に対する恩愛の情、報恩の心というものが
自然に発生して来なければならない。

そして吾々自身と吾々の祖先とが生き、
かつ生かされて来た日本国を愛さなければならない
必然の要求がでて来るのであります。

これが本当の愛国心であります。

https://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12123318.html~消滅)

        <感謝合掌 令和2年11月26日 頓首再拝> 

母親の心と子供の病気と関係があるのでしょうか? - 伝統

2020/11/29 (Sun) 23:44:07


           *『生命の實相』 教室  第22回 より
             徳久 克己(生長の家本部副理事長)

『生命の實相』 第17巻 宗教生活篇 携帯版23頁〈頭注版22頁〉に、

「親の心持ちというものは子供の病気を治すだけでなく、
 子供の生活を直し、性質も直し、習慣も直してゆく力があるものなのです」

と説かれています。 

「子供の病気は子供の病気であって、親とは関係がない、
 あるとすれば、遺伝による体質ぐらいのものだ」 と考えるのが普通です。 

ところが 『生命の實相』 には、このように
親の心と子供の病気、性質、生活、習慣などと関係がある、と説かれています。

そして 同書携帯版17頁〈頭注版16頁〉には、
母親の心が変ることによって、子供の夜尿がなおった実例、
子供の内飜足がなおった実例が書かれています。 

内飜足のような医学的にいえば器質的な病気が、
親の心が変ると、すぽっと治るというような話を、はじめ読んだ時、
私はこれは “まゆつば” ものだと、大いに疑ったものです。 

しかし、このような実例を実際にみ、そして話を聞いて、
だんだんこの真理を信ずるようになりました。

同書携帯版35頁〈頭注版34頁〉に、
「自分の肉体と離れている周囲の人々、環境、境遇なども
 自分の影だということは、どうも受け取れないという人があります」

このように 「環境は心の影」 である、という生長の家の真理は、
はじめての人々は受け取りにくい、という人もある、
と先生御自身も書いておられますが、
その後も、ずっと実例をあげておられます。

また、先生が母親を祈ってあげて、その子供の病気のなおった実例を、
携帯版43頁〈頭注版41頁〉に書いておられます。 

また携帯版82頁〈頭注版79頁〉に

「子供の病気というものは家の中心人物の心が反映して現われてくる
 ものでありますから、まずその家の中心人物たる親が実相を悟って
 中心に乗らなければ、子供は根本的に治ることはできないのであります」

と説かれています。

母の心が子供の病気、その他に影響する、ということは、
この 第17巻 だけでなく、『生命の實相』 のいたる所で
説かれていますが、この 17巻 は特に精しく説かれていますので、
ぜひ、この点をよく注意して精読せられんことを希望します。

子供を健康に、よい子にしたい、ということは、
すべての親の望んでいることでありますから、この真理がわかりますと、

よい子に育てるには、どのようにしたらよいか、
ということがよく理解され、病気だけでなく、応用範囲がひろいのです。

https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/a35a600585e47db6100eaeeb52b1b7e4 )

        <感謝合掌 令和2年11月29日 頓首再拝> 

[谷口雅春先生] と高弟 講話動画リスト - 伝統

2021/02/24 (Wed) 23:31:08


        *Web:ありがとうの風景 より

https://plaza.rakuten.co.jp/barcco/diary/ctgylist/?ctgy=15&scid=we_blg_pc_lastctgy_more


【病気に勝つ】健康の原理とその実証1
谷口雅春先生ご講話須磨海岸
     https://plaza.rakuten.co.jp/barcco/diary/202101240000/

039真・善・美の生活
     https://plaza.rakuten.co.jp/barcco/diary/202101090000/

真理の講義Ⅱ-③(大調和の神示講義)
     https://plaza.rakuten.co.jp/barcco/diary/202012270001/

真理の講義Ⅰ-②(如意自在の生活法)
     https://plaza.rakuten.co.jp/barcco/diary/202012170000/


「人間は神の子」って、どんなこと? 
谷口雅春先生が説かれる「一即多(いちそくた)」の真理
     https://plaza.rakuten.co.jp/barcco/diary/202012040000/


044【病気に勝つ】健康の原理とその実証1
     https://plaza.rakuten.co.jp/barcco/diary/202011020000/


「永遠不滅の生命」 谷口雅春 Masaharu Taniguchi
     https://plaza.rakuten.co.jp/barcco/diary/202004170000/


幸福への道 7 生長の家 徳久克己
     https://plaza.rakuten.co.jp/barcco/diary/201911090000/


「久遠の今」 ―― 谷口雅春先生ご講話
     https://plaza.rakuten.co.jp/barcco/diary/201910310000/


『甘露の法雨』解釈 講義-050 生長の家 徳久克己
     https://plaza.rakuten.co.jp/barcco/diary/201909260001/

生長の家 「心の世界に於る運命の形成」 徳久克己先生ご講話
     https://plaza.rakuten.co.jp/barcco/diary/201909190000/

幸福への道 1 生長の家 徳久克己 生命の實相講話
     https://plaza.rakuten.co.jp/barcco/diary/201908290001/

徳久克己「ヨハネ伝講義」01-b 生長の家
     https://plaza.rakuten.co.jp/barcco/diary/201908280000/

生命の実相講義-05a 徳久克己
     https://plaza.rakuten.co.jp/barcco/diary/201908260000/


如意自在の法則
     https://plaza.rakuten.co.jp/barcco/diary/201908240000/

谷口雅春先生講話
      https://plaza.rakuten.co.jp/barcco/diary/201903180000/


谷口雅春先生「神癒」(主婦の友)
      https://plaza.rakuten.co.jp/barcco/diary/201901220001/



宇宙の真理
004現代を予言する古事記2
      https://plaza.rakuten.co.jp/barcco/diary/201811190000/

浄心行(榎本恵吾)
      https://plaza.rakuten.co.jp/barcco/diary/201811150000/


046運命はいかにして作られるか 谷口雅春音声集
      https://plaza.rakuten.co.jp/barcco/diary/201811010000/

病気は心の影(幸福への道~徳久克己)
      https://plaza.rakuten.co.jp/barcco/diary/201810090000/

久遠の今
      https://plaza.rakuten.co.jp/barcco/diary/201810040002/

040あなたは大力量人である
      https://plaza.rakuten.co.jp/barcco/diary/201809270000/



谷口雅春 音声集
008新たに生まれること2
      https://plaza.rakuten.co.jp/barcco/diary/201809060000/

真理の講義
甘露の法雨講義Ⅶー3
      https://plaza.rakuten.co.jp/barcco/diary/201808200000/

大調和の神示 谷口雅春
      https://plaza.rakuten.co.jp/barcco/diary/201808160001/



神思観(如意宝珠観)
      https://plaza.rakuten.co.jp/barcco/diary/201806020001/


谷口雅春先生 音声集
038 菩薩は何を為すべきか
      https://plaza.rakuten.co.jp/barcco/diary/201805300000/

        <感謝合掌 令和3年2月24日 頓首再拝> 

弟子たちが教祖の教えを歪めた - 伝統

2022/09/30 (Fri) 04:53:17


         *『奇蹟を生ずる実相哲学』 生長の家入門講義 上 より
            (昭和48年 ブラジルに於ける御講演録)

インドに釈迦世尊が現れてから約2千数百年、
又ユダヤにイエス・キリストが現れてから約2千年も経っているのであります。

その間仏教の教祖や釈迦の弟子である坊さんは、その釈迦の教えを説いて来たし、
イエス・キリストの弟子であるところの宣教師・牧師たちはキリストの教えを
説いて来たのであります。

それにもかかわらず、2千年3千年の伝道にもかかわらず、
人間の道徳性は進歩したかというと一向進んでいないで、
今も大量の人類を殺戮する原子兵器をこしらえているというような状態であります。

そんなことになったのは釈迦の教えが間違っておったか、
イエスの教えが間違っておったかといいますと、
決して間違っていなかったのであります。

それを伝える弟子たちが教祖の教えを歪めて伝えたからであります。

https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/3fd7a202d08a5880f66f56ade98b1af4
VANNON32のブログ『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-03-30)

        <感謝合掌 令和4年9月29日 頓首再拝> 

神と天皇さまについて - 伝統

2022/10/01 (Sat) 04:47:08

「神とは何か」後半 神と天皇について 昭和57年~谷口雅春先生
seimeinojissoh(2014/04/22)
https://www.youtube.com/watch?v=Oh5DWb06ybw

        <感謝合掌 令和4年9月30日 頓首再拝> 

夢を描け - 伝統

2022/10/02 (Sun) 04:49:16

夢を描け (朗読女性)谷口雅春著 生長の家
tmr0423(2013/07/13)
https://www.youtube.com/watch?v=OVyFjaaef7U



夢を描け 谷口雅春先生作詩 『生命の實相』第20巻「聖詩篇」より
seimeinojissoh(2018/02/03)
https://www.youtube.com/watch?v=LwK0SbfxFDA



夢を描け

若きと老いたるとを問わず
兄弟よ、夢を描け、蜃気楼よりも大いなる夢を。

夢はあなたの肉体を超えて虚空にひろがり、
ひろくひろく宇宙にひろがる雲となって、
あなたをより高き世界へあま翔けらす大いなる翼となるであろう。


この翼こそ世にも奇しき翼である。
夢の奇しき翼に乗るとき
若きものは向上し老いたるものは若返る。


兄弟よ、夢の翼を休めるな、
自己を出来るだけ偉大であると想像せよ。
あまり高く翔けのぼることを恐れるな、
躊躇するな、尻込みするな、自分自身を限るな。

あなたは夢の翼によって肉体ので制限(さかい)を超える。
たといあなたが地球にわいた黴よりもその肉体が小さくとも、
あなたの心は夢をえがくことによって
天地を造った偉大なる心と一つになるのだ。


兄弟よ、悲しみに打たれるな。
打たれても起き上がれ。
描いた夢が破れても
あなたはまだ夢を描く自由はあるのだ。
自分にまだ偉大な力が残っていると想像せよ。
夢を描くものにとってはこの世界は常に新天新地である。


兄弟よ倒れるな、
倒れても起き上れ、
希望を失っても試みが破れても倒れ切るな。

夢は希望の苗床である。
大いなる夢の苗床から希望の芽がまた萌え出でる。
希望の芽は夢につちかわれて生長する。
夢は希望の苗床である。

兄弟よ、出来るだけ明るい大きな夢を心に描け。
自分を暗い悲しいものだと想像するな。

あなたの『心』が全能の創造者(つくりぬし)だと云うことを知れ。
あなたは自分の心で自分を想像した通りのものにするのだ。

自分を暗い悲しいものだと想像したらその通りにあなたはなるのだ。
自分を明るい偉大な人間だと想像してもその通りにあなたはなるのだ。
何故なら心は全能者であるからだ。


兄弟よ、
偉大なる夢を描かないで、偉大となったものが嘗てあるか。
此の世に偉大と名のつく一切のものは、
みんなあなたの夢の産物ではないか。

コロンブスがアメリカ大陸を発見したのも
あなたの夢の帆掛け舟で人生の荒波を超えたからではないか。

汽車、汽船、自動車は勿論のこと、飛行機、ラジオに至るまで、
皆なあなたの夢が形と化したのではないか。


新大陸の存在をあなたの夢が心に描く。
するとやがてアメリカ大陸が発見された。

あなたの夢が人間が空を飛ぶことを心に描いたとき飛行機が発明された。

あなたの心が『動く写真』を夢に描いた時キネマが出現したのだ。
そしてあなたが『語る映画』を心に描いたとき映画が出現したのだ。


兄弟よ、夢の勇者たれ、
あなたの夢が万能であると云うことを自覚せよ。
万能を自覚するとき、あなた自身は本当に万能となるのである。

夢の勇者も時としては失敗するようにみえるであろう。
併し如何なる時にも挫折するな。
失敗するように見えた時、彼は一層希望の実現に近づいているのである。


見せかけの失敗は成功のきざしである。
陰極は必ず陽転する。

コロンブスを乗せた帆掛け舟の船員が、
待てども待てども新大陸が見つからないで失望して、
今や将にコロンブスを監禁して船を引き返そうとしていた時
彼は一層新大陸の間近まで来ていたのではないか。


兄弟よ、陰極は陽転するのだ。
何事にも此のコロンブスの話を思い出せ。
失敗に恐れるな、
失敗のたび毎に貴方が希望の実現に近づいている事を知れ。

そして人生の荒波に沈んでしまわないように
夢の救命器をしっかり結んで泳ぐのだ。

http://michie-h.jugem.jp/?eid=584

        <感謝合掌 令和4年10月1日 頓首再拝> 

道を伝えるということ - 伝統

2022/10/03 (Mon) 04:39:20


       *『生長の家』(昭和25年4月号)より
          中嶋 與一

イエスは弟子を伝道に遣わさんとした時、 
『旅のために何をも持つな。 
 杖も袋も糧も銀も、また二つの下衣をも持つな』
  〈ルカ伝 第6章3ー4〉 とあるからである。

私に望まるるものは 『言葉』 である。 
その言葉は私が恩師谷口雅春先生より伝授されたところの 
『真理の言葉』 なのであって、
それを伝道する筈の私を待ち焦がれていらっしゃる以外に
何物も求めてはいられないのである。

イエスは  
『人の生くるはパンのみに由るにあらず、
 神の口より出づる凡ての言に出る』 〈マタイ伝 第4章4ー5〉  
とあるが如く、人の生命は言葉が糧となって生きているのである。 

この 『生命の糧』 を求めている人達に向って、
私がそれを差上げれば好いのである。

生長の家の教えは神の言葉の啓示を、
谷口雅春先生が感受せられて
それを霊感にて現代語に翻訳し普く宣布せられたのであった。 

教えの根本原理は 『大調和』 であるから、
この教えが家庭へ入れば一家団欒となり、
郷党に弘まれば忽ち平和の風がソヨソヨと吹いて
人心をやわらげ家運は隆昌に赴き、
地上天国を如実に顕現せしめ得るのである。 

この大真理を先生から伝授を受けた私は、
それをその儘伝えさせて頂くのが私の使命であるのである。

であるから、私が今回渡航する目的も自然と判明するのである。 
即ち名誉欲のためでもなく、物質欲のためでは勿論なく、
ただ御教えを伝えお使いに行くのであって、
それ以外に何等の欲望が無いのだから頗る簡単である。 

と同時に伝道という御業を行ずる事に就いての
責任の重大さを痛感するのである。

https://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p2.html
July 12, 2013, 8:04 am     

        <感謝合掌 令和4年10月2日 頓首再拝> 

谷口雅春先生 黴菌は自分の心でどうにでもなる - 伝統

2022/10/04 (Tue) 04:57:05

谷口雅春先生 黴菌は自分の心でどうにでもなる
seimeinojissoh(2021/09/01)
https://www.youtube.com/watch?v=oW-PScQdAU4

        <感謝合掌 令和4年10月3日 頓首再拝>  

実生活に於ける愛の実践 - 伝統

2022/10/05 (Wed) 04:52:18


       *『白鳩』(昭和24年新年号)~吉田 國太郎  より

神は愛である。 

愛するとは欲望することではないのである。 
欲望するのは愛欲である。 

真の愛は与えるところの愛であって、欲望することではないのである。 
神はただ吾々に与えることのみを実践しておられるのであって、
何一つ吾々よりは与えられようとはしておられないのである。 

これこそが真の愛であるのである。

自己の神性を自覚するところの神想観に於て、

只神より無限の智慧、無限の愛、無限の生命、無限供給が
流れ入るのみ念じて、自己が欲望の塊となっている有様をみつめるが如きは
真の神想観ではないのである。 

自己が神であるところの実相を観ずるのは、
自己が如何に多くの人に与えているかの実相を観じなければならないのである。

『わが全身神の生命にみたされて光明燦然と輝く』 と念ずるのは、
自己が威張らんが為に光明燦然と輝いているのではないのであって、
その光がすべての生きとし生けるものを光被しすべてのものを愛し恵み、
光を与えるために輝いているのである。 

その積りですべて生きとし生けるものに光与うる自覚に於て
自己の全身が光明燦然と輝くのを凝視するのが神想観である。

ここにも 『与えれば与える程ふえる』 の法則が行なわれているのである。 

親は子供を愛する、その愛の反映として子供は親を愛するのである。 
親がもし子供を老後に養って貰いたいために貯蓄をして置くつもりで
世話するならば、それは真に与える愛ではないから、
子供の方も親を本当に愛することはないであろう。 

又子供が親を単に物質的供給をしてくれる世話人であるとのみ
思っているならば、親の方も子供を真に深い愛情をもって
愛することはできないであろう。

すべて蒔いた種類の種が刈りとられるのである。 
蒔かぬ種は生えぬのである。 

これが心の法則である。 

もし諸君が神の愛を受けようと思うならば、
神の愛と同じき 『無我の愛』 を諸君の隣人に対して
与えなければならないのである。 

斯くの如くすることによって諸君は
神から又無我愛を受けとることができるであろう。

愛は単に心で愛しているという丈では足りないのである。 
愛は実践を要求する。 

愛は相手をよろこばす所の何か行為によって
裏づけられなければならないのである。 

もし実践的行為に於て他を喜ばす何事をもなさないでいて、 
『自分は人類を愛する』 等という人があるならば
その人は大インチキである。

しかし絶対安静の病人以外の人は誰でも日々何かの行為をするのである。 
だから、その行為を愛の方向にふりむけるならば、
誰でも愛行を実践することができるのである。 


御飯を食べるにしてもただそれを利己的に食べないで  

『この食を受くるによりて神の生命がわが生命となり
 吾を通して神の愛が実現致しますように』  

と祈りながら食するならばその食事が直ちに愛の実践に変わるのである。

何事をなすにも、この仕事を通して人類を愛し給う所の神の愛が
実現いたしますように念ずるならば、それはただの利己的祈りではなく、
人類を愛する神の愛の媒介となる行為である。 


『神は常に吾が仕事を通して人類を祝福し給う』 

と念じながら仕事をなすならば神の全智全能の波長と一つになるが故に
その仕事は完全に行なわれ同時に自己及び他を害するが如き故障が
おこることがなくなるのである。 

まず神を愛することである。 
そして神と自己同一することによって、すべての人類を愛する、のである。  


『神の愛自分に流れ入って自分の愛を通して神が人類を愛し給うているのである』  

かく念ずることが自己自身を祝福することになるとともに
全人類を祝福することにもなるのである。  


『与えれば与えるほど与えられる』 のが心の法則であるから、
吾々は愛を他に対して流し出すことに努めなければならないのである。

世界に対して何か貢献するということは
何か偉大な仕事をしなければならないように思ったり、
何かすばらしい機会が見つかったならば、その時に
人類のために働こうなどと考える人があるかもしれないけれども、
愛は今すぐ手近に実践すべく待っているのである。 

深切なことを今実行するそれが如何に小事であろうとも
そこに神の愛が実現するのである。

 
毎日毎日時々刻々、一挙手一投足 

『われは今ここに神の愛を実現しつつある』 

と念じてすべてのことを為せ、 
やがてすばらしいことが実現してくるであろう。 

毎日蓄積されるところの愛の念波が、
次第次第と雪達磨の如く巨大となって、
凡ゆるよきものを世界からひきつけることができるようになるのである。

https://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p2.html
晴れときどき(July 8, 2013)

        <感謝合掌 令和4年10月4日 頓首再拝>

”空”中無尽蔵の真理はこうして悟るのです~谷口雅春先生 - 伝統

2022/10/07 (Fri) 04:13:52

”空”中無尽蔵の真理はこうして悟るのです~谷口雅春先生
光の泉(昭和54年3月号)
seimeinojissoh(2022/02/28)
https://www.youtube.com/watch?v=xj0yWwRfDUA

        <感謝合掌 令和4年10月6日 頓首再拝>

世界を取巻く神霊の大光輪 - 伝統

2022/10/08 (Sat) 04:58:32


        *『生長の家』(昭和40年8月号~谷口雅春師)より

現象的には自由主義陣営側は自分のイデオロギーが正しいと思っているし、
共産主義陣営はまた自分のイデオロギーを正しいと思っている。 

そして果てしなき闘争を繰返ししつつあるが、
吾々 “心霊界” に属する者の運動は、
そのような暴力の争闘ではないのである。

 
現象以前の、もっと高次の立場から 
『世界を取巻く神霊の一大光輪』 の一部として、
神霊の世界から、彼らの闘争を止め、
正しき神のみこころが地上に降臨して、
地上に天界の平和が実現せんがために、活動を続けつつあるのである。

若し地上の大多数の人々が 『すべての人類・神の子である』 という
吾々の正しい信仰に到達することが出来るならば、
自由陣営と共産陣営とは互に微笑を浮かべながら手を握って、
地上の天国建設に邁進することができる筈である。

(Web:晴れときどき)
https://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p22.html
January 29, 2014, 4:35 am

        <感謝合掌 令和4年10月7日 頓首再拝>

天皇制の理念に就いて - 伝統

2022/10/09 (Sun) 04:59:03


       *『白鳩』誌 昭和21年3月号掲載の予定なるも検閲にて全文削除さる
         『大和の国日本』 89頁 ~ 90頁より


凡そ形あるものは、内在の『形なき形』 ― 理念的存在の具象化せるものである。

日本が皇統連綿二千六百余年の光栄ある歴史を存続せしめ得たのは、
唯偶然の所産ではないのであって、日本民族に内在する民族理念が、

終始一貫『中心』をもとめ、その『中心』に帰趨し還帰し復元し
そこより再び出発して其処に復るところの生命の中心本体を
礼拝帰一せずにはおれないところの其の本然性の然らしむるところ
であるのである。

斯く、中心者をもとめ、それに礼拝帰一せんとの本然性を、
単なる封建制であると考えることは間違いである。 

事物にはすべて中心がある。 
中心者の前には容易にひれ伏す素直な心情こそ、
日本人に与えられる純情なる幼な児の如き、『神への帰一の心』
 ― 宗教心の発露であって、日本人の忠誠心は此の心の現われの
一つであるのである。 

そしてその生命の必然的礼拝の対象者として
吾々の心の中に内在する理念的実在が『天皇なるもの』であらせられるのである。 

歴代の天皇はその理念の表現として具体的天皇であらせられた。 
そしてその具体的天皇は常に必ずしも理想的天皇の状態をあらわし給う
とは限らないのであって、その時代の国民の精神状態が反映して
理念の完全なる天皇にも色々の影が反映したのである。 

かくて古事記にも必ずしも完璧なる天皇の御状態のみが書いてあるのではない。 
武烈天皇の如き天皇も歴代のうちには描かれているのである。 

具体的現象の天皇が如何に不完全であらせられようとも、
天皇に就いて日本民族は失望したことはないのである。 

現象の状態が如何にあろうとも本当の天皇は
理念の世界に理念的完全の天皇として日本民族の心の中にあるのである。

永遠で完全にまします天皇 ― 吾々の心の中には斯くの如き理念が存在して、
それにすべての細胞的存在なる臣民の理念が奉仕しているのである
 ― 斯くの如き、有機的生命的世界観 ― 日本民族に於ける
中心への還帰帰一の心、忠誠心があるのが欠点なのではない。 

この心を利用して自己の幕府的存在の野心を満足せしめようとした
重臣的、又は軍閥的、将軍的存在が理念の完璧なる天皇の真象の顕現を隠覆して、
その聖明を蒙まし奉ったのである。 

それは日蝕に於ける表面の暗黒的存在が、太陽そのものにあるのではなくして、
地球みずからの影であるが如くである。 

かくて、日蝕について太陽それ自体を犯罪者として非難する如きは
愚かなることであって、地球みずからが懺悔し反省しなければならない
と同じように、国家の重臣、軍閥、将軍家的存在が、

天皇の『久遠神聖の理念』を顕現を曇らし奉ったことについて
真に深き懺悔を必要とするのである。

https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/e9e383f885dc4737d8e1e0c26c867819
VANNON32のブログ『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-04-29)

        <感謝合掌 令和4年10月8日 頓首再拝>

神想観が好きになれないと、雅春先生に質問してみた~ 徳久克己 - 伝統

2022/10/09 (Sun) 13:09:30

神様に対面する神想観 神想観が好きになれないと、雅春先生に質問してみた 
徳久克己
seimeinojissoh(2022/03/03)
https://www.youtube.com/watch?v=JQ59HJuwkUg

        <感謝合掌 令和4年10月9日 頓首再拝>

谷口恵美子先生の誕生日 - 伝統

2022/10/10 (Mon) 04:58:38


        *「光明法語(10月10日《恵美子の誕生日》)」より

10月10日は自分の娘恵美子の誕生日である。

彼女は関東大震災に震災直後の無一物の吾々の家庭に生まれたが
一度も生活に不自由した事がない。

震災で吾々が避難する時にも、彼女のお産に要する一切の用品、
及び生まれてから着る為の一襲(ひとかさね)の縮緬(ちりめん)の布団、着物
《こどてら》などは、私が担いで出たので彼女のみは何の不自由もなかったのである。

それから後にも彼女は一度も不自由をした事がなかった。
何でも欲するものは与えられ、「お菓子来い」と空中に向かって叫べばお菓子が出た。

・・・

谷口恵美子先生は、大正12年10月10日に富山県高岡市で御誕生されました。
大正12年は、9月1日に関東大震災のあった年です。

        <感謝合掌 令和4年10月9日 頓首再拝>

癌の宣告を患者自身に知らせることの可否 - 伝統

2022/10/10 (Mon) 14:59:39

『生長の家』誌 昭和45年12月号より~谷口雅春先生

seimeinojissoh(2022/03/05)
https://www.youtube.com/watch?v=Cnt9vD9ikUk

(最終部分で、音声の乱れがありますが、
 その部分までに内容はほとんど終了しております)

        <感謝合掌 令和4年10月10日 頓首再拝>

人を救う道~谷口雅春先生 - 伝統

2022/10/11 (Tue) 05:00:35


         *『生長の家』(昭和40年10月号)より

人々を救う道には、大体三種ある。

その一つは、その人に必要な “物質的なもの” をその人に差上げて、
その人の急場を救ってあげるということである。 
これを “物施” という。

 
その第二は、「人間・神の子」 の真理を説き聞かせて
その人の内部に宿っている無限の力を引出してあげることである。 
これを “法施” という。

 
その第三は、祈り又は神想観 (瞑想) によって、
その人の実相の完全さを心に念じ、観じて、
実相の完全さを喚び出してあげることである。


誰かが困難に陥っているとき、その困難に、此方(自分)が
巻き込まれてしまってはならないのである。

現象の困難を超えて、既にその困難の解消せる 
「実相」 の完全な姿を、祈りと瞑想とによって念じ観じなければならない。

 
例えば、病人に接して、その病苦に同情して 
「ああ、重態だな、気の毒だな。 全く手の施しようがない」 などと
言ったり思ったりしては却って病気を増悪するだけである。

最初に同情するのはよいが、その次には病気に自分の心を同調させずに 
「彼は病めるに非ず、神の子にして既に健康なり」 と、
実相を観じ念じて、健康の姿をあらわすようにしなければならない。


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VANNON32のブログ『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-04-05)

        <感謝合掌 令和4年10月10日 頓首再拝>

谷口雅春先生の 《こころ》 - 伝統

2022/10/12 (Wed) 04:56:53


       *「『心の持ち方一つ』 上 「心の力」」(18頁 ~)
         徳久 克己・著

(『生命の實相』を) もう40年以上も読みつづけ、
話の時にはテキストとして使わせていただいているのですが、
最近になりまして、谷口先生が、真理を私たちに教えるために、
どんなに細かく気を使われ、またイロイロと工夫をしておられるか、
ということを、ツクヅク教えられます。 

本当に恥ずかしい話ですが、40年もつづけて拝読している 
聖経 『甘露の法雨』 や 『天使の言葉』 の中で、 
《こころ》 というコトバに、先生は、イロイロの漢字を
使っておられることに気がつきまして、今さらのように驚きました。

ほとんど暗記するぐらい覚えていますのに、
先生の教えようとしておられる真意、本当に理解せず、
うわのそらで読んでいました。 

「フリガナ」を読んで、その漢字を余り注意せずに読んでいたのです。 
「心」という字を 《こころ》 と読むのは、あたりまえのことですが、

 「肉体を去りたる 『念(ねん)』 は、
  その念(ねん)の力にてなお一つの個性を持続し、
  幽界に於いて生活をつづけん。
  汝らの霊魂と称するもの是にして、
  『念 《こころ》』 の浄まるに従って
  それに相応しき高き霊界に入り、
  『念 《こころ》』 の浄まざるものは
  それに相応しき環境を 『念(ねん)』 の力にて仮作し
  その環境にいて苦しまん」  
           (聖経 『天使の言葉』)

ここでは 『念』 という漢字に 《こころ》 と (ねん) と
2種類のフリガナをつけておられます。

 「汝ら近頃の心霊科学の実験を見しことなきや。
  被実験者は椅子に緊縛せられて一毫もその肉体は動く能わずして、
  尚、凝念 《こころ》 の力によりて
  或は机を空中に浮揚せしめ ・・・ 」
           (聖経 『天使の言葉』)

ここでは「凝念(ぎょうねん)」 という漢字に 
《こころ》 というフリガナをふっておられます。 

自分が動くことができないで、机を空中に浮揚さしたり、
手風琴を空中に飛翔せしめたり、そんなことをする 《こころ》 は、
「凝念」 なのである、ということを教えておられます。

 「人この理をさとれば
  意 《こころ》 のままに自己の肉体を支配して変化せしむることを得ん。
  (中略)
  万のものことごとく意 《こころ》 に従って出現し、
  用足りておのずから姿を消す」
           (聖経 『天使の言葉』)

ここでは 「意」 という字に、《こころ》 とフリガナをしておられます。

 
また 「久遠いのちの歌」 のなかに、

 「この身は心性 《こころ》 なし、心性 《こころ》 ありと見ゆれども、
  瓦礫の如く心性 《こころ》 なし」

このように書かれています。 そして、

 「すべての病を癒やす道は
  先ず汝の感情を平和ならしむるにあり。

  憎みによる心の不調和により生じたる病いは
  憎みに代うるに愛を以てすれば癒えん。

  不平に伴う心の不調和により生じたる病いは
  不平に代うるに感謝をもってすれば癒えん。
 
  悲しみによる心の傷より生じたる病いは
  悲しみに代うるに悦びの情 《こころ》 を起せば癒えん」

と 『続々甘露の法雨』 のなかに、
「情」 という字に 《こころ》 と、フリガナをつけておられます。 

そして 『甘露の法雨』 の終りの方に、

 「人間は生命なるが故に
  常に死を知らず。
  想念 《こころ》 に従い
  時に従い
  必要に従いて
  肉体と境遇とに様々の状態を顕せども、
  生命そのものは病むに非ず、
  生命そのものは死するに非ず、
  想念 《こころ》 を変うることによって
  よく汝らの健康と境遇とを変うること自在なり」

 
「想念」 という字に、《こころ》 とフリガナをつけておられます。

 「病気の伝染を聴き恐るれば、
  恐怖の心境 《こころ》 の影としてその病気はあらわれん」

『続々甘露の法雨』 のなかに、「心境」 という字に、
《こころ》 とフリガナをしておられます。

また 『甘露の法雨』 の 「霊」 の項に、

 「一切苦患の源となるべき顛倒妄想 《こころのまよい》 を摧破すれば」

と顛倒妄想に 《こころのまよい》 と、フリガナをつけておられます。 

また 『続々甘露の法雨』 のなかには顛倒妄想を、
「まよいのかげ」 とフリガナしておられます。

 「彼の肉体の耳は聾いたれど心 《こころ》 の耳ひらけたれば、
  こころの耳はピアノの鍵盤に触るるに従いて
  その微妙なる奏曲を分別し得たるなり」
           (聖経 『天使の言葉』)

《こころ》 が2行ならびました所は、
一つは 「心」、一つは 《こころ》 とカナで書いておられます。 

このように聖経のなかから、《こころ》 という 「字」 をひろってみますと、

「心」 「念」 「意」 「心性」 「凝念」 「情」 「想念」 「心境」 と、
8種類の漢字を使っておられます。 

そして 「こころ」 というカナを一つ使っておられるのでありまして、
同じ発音の 《こころ》 というコトバが、細かく意味を分けられまして、
私たちにその真意を教えるために、イロイロの 「字」 を、
その所にふさわしく、より分けて使っておられるのです。


また 「実相」 という字でも、
「そのまま」 「ほんとのすがた」 「じっそう」 と、
3種類のフリガナをつけておられます。 

このように、先生は私たちに真理を教えるために、
漢字を使われて、それにフリガナをつけられ、
漢字とフリガナをあわせて、「生命の実相」 の真理を、
わかりやすく教えておられます。

私のように 『生命の實相』 を読みはじめた時には、
反発ばかりしていたのに、いつの間にか 『生命の實相』 の虜に
なってしまったのも、結局は、谷口先生の 「文章の力」 によるもの
であることが、後からわかりました。

この 《こころ》 という、自分では、わかり切ったように思っている、
いつも使っているコトバの中に、まことにイロイロの意味があることが
教えられます。 

そして、つくづくと日本語のスバラシサがわかります。 
『生命の實相』 の英語訳、スペイン語訳、ポルトガル語訳というように、
これから世界のあらゆるコトバに訳されなければならない、
この 『生命の實相』 の真理を、《こころ》 という字一つを
例にとりましても、その訳がどんなに難しいものであるか、
ということがおわかりになると思います。

そのような意味から考えますと、
日本語の真意を訳するということは、ナミナミならぬことです。 

日本語で、微妙な、そして深い意味を表現された、
この聖典 『生命の實相』 を、そのまま読める日本人として生まれた、
ということだけでも私たち日本人は、どんなに感謝しても感謝し切れません。 

それにもまして、人類を真の意味で救われる真理を説かれた、
谷口雅春先生が、日本人として生まれられ、御自分で日本語で
真理をお書きくださったことに、ただただ感謝するのみです。


「生命の実相」 につらぬき入る、つまり 「真理をさとる」 ためには、
とにかく聖典 『生命の實相』 を、繰り返し繰り返し、ただ読むことです。 

私など 『生命の實相』 にふれて、聖経を拝読しつづけて、
もう40年をこえていますが、最近になって、ようやく 
《こころ》 とフリガナしてある 「字」 が、こんなに幾種類もあることに
気がつき、聖経を1万回以上も拝読していながら、先生の御文章の真意が、
まだわかっていなかった、と気づきました。 

そして、再び 『生命の實相』 を第1巻から拝読しなおそうと決心しました。

文章のウワツラだけを読んで、行と行の間、書かれた文字の奥にある真意を、
読みとっていなかった私に、心からはがゆく思っています。 

先生は、わからない所は、そのままにしておいて、次を読みつづけてください、
後で必ずわかってくる、と書いておられます。 

とにかく、もっともっと、繰り返し繰り返し、拝読して 「生命の実相」 に
つらぬき入ることです。


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        <感謝合掌 令和4年10月11日 頓首再拝>

一冊の黒革表紙『生命の實相』が始まりだった~松田 巳代志 - 伝統

2022/10/12 (Wed) 14:11:46

一冊の黒革表紙『生命の實相』が始まりだった 
松田 巳代志 (初代ラテン・アメリカ教化総長)
seimeinojissoh(2022/03/05)
https://www.youtube.com/watch?v=rY8HNI5_VtQ

        <感謝合掌 令和4年10月12日 頓首再拝>

谷口雅春先生 直筆原稿とその朗読 - 伝統

2022/10/13 (Thu) 13:21:16


生長の家創始者 谷口雅春先生 直筆原稿とその朗読
seimeinojissoh(2022/03/19)
https://www.youtube.com/watch?v=5iPmixhy53w

二十四日の法語
あなたを不幸にする力は何処にも存在しない

二十五日の法語
自己の身辺に幸福を実現するには

二十六日の法語
宇宙にむかって呼びかけること

二十七日の法語
自己の内性の再発見について

二十八日の法語
自己の無限力を現実に呼び起こすには

        <感謝合掌 令和4年10月13日 頓首再拝>

《真理を知るには》 - 伝統

2022/10/14 (Fri) 04:58:48


         *『生長の家』(昭和22年12月号~谷口雅春先生)より

「如何なる言葉も、伝えんとする真理を完全に表現出来ない。 
完全なる真理でないものは虚偽である。 
人は虚偽の言葉を表現することによって辛うじて
自己の伝えんと欲することを表現するのである。 

されば言葉は沈黙にまさり、沈黙は言葉にまさるのである。 
事物は存在すると同時に存在しない。 
有であると同時に無である。 

全宇宙にはただ一つのものがある。 
それは創造者にして同時に被造物と現れ、心的存在にして物的表現をもち、
善であると共に不善である ・・・・・」


これはエマースンの論文の一節である。 

真理を知るためには、文字そのものに捉われず、
行間又は字間の間を縫って沈黙の間に鳴るヒビキを聴く事を要するのである。

釈迦は四十年説法して「一字不説」と云い、
禅宗では「言詮不及・不立文字」と云う。 

不立文字と云いながら数千数万言を長口舌するもの禅であり、
世尊陞坐して一字説かずして、文殊菩薩撃槌して「説法終れり」と云う。 

われ既に生命の實相を説いてあますところなしと雖も、
いまだ一字も説かず、これから、益々長口舌を揮わんとする所以も爰にあるのである。

言語は沈黙にまさり、沈黙は言語にまさる。 
共に真理にして真理にあらず。 黙して神想観して天地の啓示を受け
沈黙のうちに得たる啓示を文章にあらわす。 

不言にして多言、多言にして不言。 
真理は無にして有、有にして無。 説いて説かず。 
聴き方上手読み方上手が必要である。

https://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p14.html
November 30, 2013, 2:56 pm

        <感謝合掌 令和4年10月13日 頓首再拝>

病気を「ある」と思っているような中途半端な信仰を反省~徳久克己 - 伝統

2022/10/14 (Fri) 13:14:32

病気を「ある」と思っているような中途半端な信仰を反省~徳久克己
seimeinojissoh(2022/03/20)
https://www.youtube.com/watch?v=cL59sYxKsaI

        <感謝合掌 令和4年10月14日 頓首再拝>

美点と欠点 - 伝統

2022/10/15 (Sat) 04:48:35


      * 『生長の家』(昭和42年2月号巻頭言~谷口清超師) より

人の美点を見て、それを称えることは非常に大切である。
この賞賛によってはじめて内在の「神性」が開発されるのである。
よき称賛のコトバによって、はじめて発掘されるのである。

たとえば、鼻が遅くてまっすぐでいる御婦人をつかまえて
「あなたの鼻は高いですねえ」 と言ったら、
彼女はその言葉を善意にはとらず、 「あの人はイヤミな人だ。 私を軽蔑した」
と憤慨するであろう。

吾々は「欠点」をほめ讃えたのでは決してよい結果は現れない
ということを知りうるのである。

「実相」が現象に現れている箇所であるが故に、
「実相開顕」の起点となるのである。


このことは、国家や団体に対しても、あてはまるはずである。
美点で何かのごとく言いふらすのは、「実相開顕」 力のみならず、
相手をそこまでない、自己を堕落させしめ、
多くの人が心を惑わす結果となるのである。

共産主義の政治形態を称えることができないのは、
共産主義が唯物論に立脚している関係上、
そのやり方が「神の国」の理想とくいちがっている点が数多くあるからであって、
この「欠点」を称賛すれば、人心を惑わすからである。

確かに、全ての人類は『神の子』であり、その本質が素晴らしいのである。
しかし、すべての仮相をそのまま良しと認めるわけには行かないのである。

個人としての人間であれば、
対処人も自分や他人の悪い点を知っているようなことから、
善のみをほめておけばよいが。

国家となるといかに盗癖のある国家でも、生命圧迫の国家でも、
それを「善」とみる 「迷妄者」がいる。

しかし、どのような国家形態がニセモノであるかを知らない人が多いのである。

https://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p22.html
晴れときどき(2014 年 1 月 31 日)

        <感謝合掌 令和4年10月14日 頓首再拝>

老後や教育の費用の心配について、雅春先生に質問してみた 徳久克己 - 伝統

2022/10/15 (Sat) 13:23:59

老後や教育の費用の心配について、雅春先生に質問してみた 徳久克己
seimeinojissoh(2022/03/20)
https://www.youtube.com/watch?v=Vi-5XS_85YE

        <感謝合掌 令和4年10月15日 頓首再拝>

『生命の謎』 - 伝統

2022/10/16 (Sun) 05:00:41


      *『生命の謎』 谷口雅春先生著  昭和26年初版 日本教文社

19世紀までは、宗教及び哲学は、
科学から独立した信条の上に成立ち得たかも知れない。 

しかし20世紀の、しかもその後半からの宗教及び哲学は、
科学から独立して独断的信条を説くことは出来ないのである。 

科学は次第に進歩して物質の窮極的姿が分子・原子ではなく、
ついに 「不可視の神秘のもの」 であることを明かにしたのであると同時に、
「宗教する」 又は 「哲学する」 と云うことは単に科学を離れて
讃美歌に陶酔したり、机上の空論を捏ねくり廻したりすることではなくなって、
現実的効果によって、その教條又は理論の正しさが実証せられなければならぬように
進歩して来たのである。

斯くて科学はおのずから哲学及び宗教に近づいて来たと同時に
哲学及び宗教は科学に接近して来たと云い得るのである。 

この意味に於いて、科学、哲学、宗教は各々手を携えて
人生に貢献しなければならないのである。 

科学なき哲学、科学なき宗教、そして実証的価値なき哲学及び宗教は、
それが如何に巧みに説かれているにしても空論であり、論理の遊戯である。

その意味に於いて、本書は、最近代の科学を取り入れて、
生命の神秘を解明せんとしたものであると同時に、
人間が此の地上に生れて来た使命を知らしめ、

今まで 「生」 を呪い又は其の意義を疑っていた人々
真の人生の意義と価値とを知らしめ、生き甲斐を与えんがために
執筆せられたるものであって、その意味に於いて人生哲学であり、
幸福哲学であるのである。


存在の本質、生命の本質は一体何であるか。 
それに就いて多くの宗教的天才が啓示によって解明し、
哲学的天才が思索によって道を開き、
科学的天才が深き観察と計算と理論づけとによって
確乎とした真理に到達しつつあるのである。

そのいずれもは互に孤立することは出来ない。

またどんな天才も、先人の業績を無視して、
一(はじめ)から築き上げることも出来ない。 

真理と云うものは或る時代の或る人にのみ独占さるべきものではないのである。 

人類は先人の業績の上に更に自己の業績を積み重ねて進むのである。

私が爰に語るところの真理は決して私一個の創作ではないのである。 
年代も知ることの出来ない古き時代の印度の瑜伽の哲学者が説いたところや、
釈迦の仏教、耶蘇の啓示や、諸々の古聖の所説に近代の心霊学及び科学を素材として、
最も平易なる文字をもって哲学を語り、生き甲斐を語り、運命の神秘を語り、
生命が何処より来り、何処に到るかを説こうとしたものである。

敢えて 『百万人のための哲学』 と云う小題をつけた所以は、
哲学と云うものは難解なる文字を使用しなければ説くことが
出来ないものだと思われていた従来の型を破って、

哲学の最も深奥なる問題を、全然難解な哲学用語を羅列しないで、
平易に通俗語をもって百万人にわかるように説こうと企てたからである。

尤も、本書がそのように平易になり得たのは、
頭から文章をもって書き綴らないで、耳できいてもわかるように
口述しながらそれを速記して貰ったからでもある。 

本書に斬新なところがあるならば、それはその素材ではなく、
その素材の取扱い方と解釈を通して人間が此の世に生れ来った意義を
明かにし得るようにした点である。

本書を口述するに当って、それを筆記して下さった栗原得二君の名を
爰に録して感謝の意を表する。

尚、人間の受胎、出生、進化、死後の運命に就いて尚詳しく知りたい方は、
『生命の實相』 第9巻及び第10巻 “霊界篇” を一読せられんことを
希望する。

                著 者 識

        目 次

    はしがき

前篇 生命の本質への探求

 第1章 一元論の根拠について
 第2章 万物は皆生きている
 第3章 無生物と生物との境
 第4章 人間の本質に就いて
 第5章 人間の諸種の体(ボデー)及びオーラ
 第6章 物質と其の構造を維持する知性
 第7章 物質の非物質的構図に就いて
 第8章 人間の可能性に就いて

後篇 生命の肉体死後生活の探求

 第1章 人間を構成する3種の体(ボデー)
 第2章 霊魂の浄化と進化に就いて
 第3章 高級霊の菩薩行に就いて
 第4章 輪廻転生の原因及び行方
 第5章 人間の生命は如何にして顕現したか
 第6章 物質と記憶との関係
 第7章 人間は死なない ― その確証及び理論
 第8章 欲望と運命に就いて
 第9章 地上への出生と其の位置


   ※栗原得二氏 :本部講師。医学士。
           徳久克巳医博と飛田給産院開設準備にあたられる
          『人間性の解剖』 『私はこうして祈る』 等 編纂著作


https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/518d898f78c983cdb62cf297557e7443
VANNON32のブログ『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-04-30)

        <感謝合掌 令和4年10月15日 頓首再拝>

希望の夢を描きましょう 谷口雅春先生 - 伝統

2022/10/16 (Sun) 12:41:55

希望の夢を描きましょう 谷口雅春先生 
seimeinojissoh(2022/04/16)
https://www.youtube.com/watch?v=vLKdu_9qBME

        <感謝合掌 令和4年10月16日 頓首再拝>

『谷口雅春先生のご日常』(栗原得二・著)を2度続けて読む - 伝統

2022/10/17 (Mon) 04:52:16


      *Web:粟野真弘のblog(2020年07月24日)より抜粋

谷口雅春先生の「ご日常」がご紹介されています。

   ご家族を呼ぶ時に〝さん付け〟(50頁)、

   ご飯の心得(48頁)、
 
   入浴後の心掛け(221頁)、
 
   いただきもののお礼(196頁)

というようなご家庭での生活のこと。

 
   今を生きる実践(29頁)、
 
   周到な準備による実践(11頁)、
 
   教えられたとおりに素直な実践(35頁)、
 
   説教の心構え(73頁)

というような、万人共通の〝処世術〟。


さらには、

   腹が立ったら直ぐに相手の実相を拝む神想観を実修(159頁)、
 
   1日5~6回の神想観(20頁)、
 
   講演準備の11箇条(173頁)

という生長の家の生活・光明化活動に関わる内容まで。

谷口雅春先生のご生活ぶりを、
お側でご覧になられた(秘書として、随行として)方だからこそ
知り得る表現内容でした。

とても貴重なご本です。

http://blog.livedoor.jp/mmmawano550121/archives/54853774.html

        <感謝合掌 令和4年10月16日 頓首再拝>

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