伝統板・第二

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真理の生活 ⑦ - 伝統

2020/06/14 (Sun) 03:49:54

《冷淡すぎるものは執着よりも尚悪い》

        *『 生長の家 』(昭和32年5月13日の法語)より

   「執着がないその儘の心」と云うのは、
   「なげやりの無関心の心」とはちがいます。

   人が碁を打っている時、傍から非常な興味をもって
   それに注視しているのが「傍目八目の心」です。

   それは欠点も見、長所も見、すべての細目を見のがさない心です。
   しかし「自分が勝ちたい」と云うような執着はないのです。


   ところが「なげやりの無関心の心」と云うのは、
   碁の場合に喩えて見れば、別に囲碁の盤面に興味をもたず、
   煙草でもふかしながらヨソ見をしているような心です。

   執着はないが、同時に愛情も興味も誠実もないのです。
   そんな執着のない心では駄目であります。

   愛は一歩あやまれば執着となり、
   正しくそれが行なわれれば誠実となります。

   「愛が全然ない」位ならば「執着の愛」でも、
   無いよりもある方がよろしい。
   其処から愛が発展し浄化されれば、執着が浄まって誠実となります。

   煩悩そのままに菩提(さとり)となるのです。

    (『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P297>に収載)

・・・

<関連>

(1)伝統板・第二「真理の生活 ①」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6971129

(2)伝統板・第二「真理の生活 ②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7583747

(3)伝統板・第二「真理の生活 ③」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7707100

(4)伝統板・第二「真理の生活 ④」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7796617

(5)伝統板・第二「真理の生活 ⑤」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7854421

(6)伝統板・第二「真理の生活 ⑥」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7934282

           <感謝合掌 令和2年6月14日 頓首再拝>

行ずるところ、そのまま「仏」である - 伝統

2020/06/16 (Tue) 03:26:19


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月16日)より

生きていることが「仏」に成っていることである。
これから修行して後に「仏」になるのではない。
《修行していること》が「仏」の《すがた》である。

そのまま「仏」である。

行じないところには何もない。
生活のないところには仏はない。
行ずるところ、ことごとく仏である。

           <感謝合掌 令和2年6月16日 頓首再拝>

《日に進歩する店と進歩する人》 - 伝統

2020/06/18 (Thu) 04:51:49


          *「生長の家」(昭和29年5月16日の法語)より

   毎日見ている自分の店の格好などは、見るに慣れてしまって
   その欠点がわからないが、都会の流行を見て来た客がたまにその店を訪れて
   百年1日のような品物の並べ方をしてあるのを見れば、

   その店の進歩のなさが眼について
   その店の品物など買う気にならないのに相違ないのである。

   東京の大百貨店でも、数年に1度は大改装や大増築を行って、
   日に日に進んで行く大衆の鑑賞眼におくれないようにしなければ、
   その百貨店は流行遅れになってしまって繁昌しなくなるのである。

   私は店や商売のことばかりを言っているのではない。

   店でさえその通りであるから、人間は毎日何事かを自分について改良し、
   何事か新しき想念を加え、日に日に新しくならなければ
   人後に落ちることを言いたいのである。

   https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2300


           <感謝合掌 令和2年6月18日 頓首再拝>

最初の魂の非難にきけ - 伝統

2020/06/20 (Sat) 04:49:56


       *「光明法語」(6月20日)より

最初は自分の罪におののくが、それに慣れてくると何ともなくなる。
次には罪の行為(おこない)が楽しくなり、
しまいにはそれが度(たび)かさねぬとおれぬようになる。

習慣と云うものは、恐ろしいものである。

先ず最初に罪に近づかぬことである。
罪とは実相の円満完全さをツツミ隠した思いであり行為(おこない)である。
それが実相そのものでないと云うことは、魂の最初の戦(おのの)きでわかるのである。

最初に、第一印象で、魂が非難するところのものは行なわぬがよいのである。

第一念で良いと思うことは善いことが多い。

           <感謝合掌 令和2年6月20日 頓首再拝>

決意をもって断じて行え - 伝統

2020/06/22 (Mon) 04:40:55


       *「光明法語」(6月22日)より

「断じて行えば鬼神も避く」と諺(ことわざ)は言う。
道は、決然たる意志の前にはその扉を開く。
道がなければ自分が道を造れば好い。

キリストは「我は道なり」と言った。
八方が塞がっても上方はあいているのだ。
上方は神に通ずる道である。道なき時には神に頼れである。

不可能を可能にかえ得るものは決意である。
「意志の教育こそは吾人存在の目的である。
断乎たる決意ある者の前には常に時と機会とが待っている」とエマーソンは言っている。

世界を動かす梃子(てこ)は意志の力である。

           <感謝合掌 令和2年6月22日 頓首再拝>

「今」を有難く受け生かす - 伝統

2020/06/25 (Thu) 04:10:00


  *「光明法語」(6月25日《天国は満ちたる杯(さかずき)の如し》)より

天国は手をつっこんで奪うことは出来ない。
天国は縁(ふち)まで満ちた杯の如きものである。

手を突込んではその悦びはこぼれてしまう。
天国は覆(くつがえ)してはならない。
天国は床に流れて姿を没するであろう。

天国はただ素直にそれに口をつけて静かに飲むべきものである。
静かにのめば、全身に平和と柔らぎとは来り、心は悦びに満たされ、
恍惚として酔い、美しき光景を見、七宝集まり来り、
全てのよき友集い来るを見るであろう。

「今」を有難く受け生かす者に非ずば天国に入ることは出来ない。

        <感謝合掌 令和2年6月25日 頓首再拝>

荘厳なる生活をせよ - 伝統

2020/06/28 (Sun) 03:48:27


          *「光明法語」(6月28日)より

吾等は吾が生活を荘厳なるものたらしめるべからず。
何となれば人間は神の子であるからです。

魂を高揚せしめる大思想家の文章は汝の魂をして荘厳ならしむべし。

低卑なる市井(しせい)の俗語に耳傾くべからず。
闇の話、脱税の話、野卑の話、猥褻なる話きくべからず。

仏典を読むべし。聖書を読むべし。
『甘露の法雨』を読むべし、
『生命の實相』を読むべし。

すべて天啓、神示に基づく荘厳なる文章を読むべし。

猥雑極まる近代のエロ文学読むべからず。

言葉の力は恐ろしき迄強き也。

        <感謝合掌 令和2年6月28日 頓首再拝>

時間を大切にせよ - 伝統

2020/06/29 (Mon) 04:45:07


       *「光明法語」(6月29日)より

「小人閑居して不善をなす」と云う諺あり。
徳足らざる者仕事なく閑(ひま)でいる事は誘惑に対して隙を与えることになる。

「何事をも為さず」と云うのも又「行為(おこない)」の一種であって、
「悪をなす行為(おこない)」よりも一層悪である。

忘れられたる知識は復習によって回復されるが、
働かずに忘れられたる時間は如何なる方法によっても回復の道がないのである。

時間は生命であり、生命は何ものよりも高価なるものである。
無駄に時間を捨てる者は金貨を捨てて歩くよりも尚悪いのである。

生命(いのち)は向上するか、然(しか)らざれば向下するかである。

        <感謝合掌 令和2年6月29日 頓首再拝>

真諦成就 - 伝統

2020/07/01 (Wed) 04:50:09


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月1日)より

深海の中に棲む魚(うお)は盲(めしい)である。
暗(やみ)のみを心に思い浮かべているからである。

光を見る心になったときわれわれに眼ができ、
美しい世界がわれわれの周囲に展開したのである。

思想することは自由である。
幸福になるように、あるいは不幸になるように。
けれどもそれは各人の選択である。

ただひと筋に光明思想に随(つ)いて来るものは幸いである。

すべてのものがわが内にある。本当にある。本当にある。
ただそれだけを知ればよいのである。
ただそれだけを直視すればよいのである。

思想として、宗教として、哲学として、生長の家はすべてのすべてである。
このほかにもっと何かよいものがあるかと思ってさ迷い出るものは、
エデンの楽園にいてエデンの楽園をさ迷い出(い)ずるものである。

いろいろ変わった思想のものを読んで、思想を混乱させればさせるだけ、
自分の運命が混乱してくる。

罰を当てるのではないが、いろいろお蔭を戴いてから去ったものの運命が
それほど花々しくないのは、その人自身の思想が混乱しているからである。

元の思想に還ればまた幸福がその人のために甦ってくるのだが、
いったん光明思想を去った者が元の思想に還ることは負けたような気がして
正直に懺悔の心を表白することができない。

そこでその人はいつまでもグズついて不幸の中に身をまかせているのである。

真理の前に跪(ひざまづ)くことは、
不幸の中に身をまかせていることよりも
いっそう勇敢なことであることを知らなければならない。

        <感謝合掌 令和2年7月1日 頓首再拝>

【 いくら忙しくとも一つ一つ片付けよ 】 - 伝統

2020/07/02 (Thu) 04:25:00


       *『 生長の家 』 昭和25年5月30日の法語)より

人生に処して余りに多忙な生活を送っている場合には、
凡ゆる方面の仕事が一時に殺到して来て、すべてのものを一時に
成就せしめなければならない様な多忙な状態にかりたてられ、
ともすると“いらいら”した気分になりがちである。

こんな時ほど吾々は心を平和にしなければならない。

千手観世音菩薩の千本の手があっても、
心が一つのものにでも ひっかかると
後の九百九十九本は役に立たなくなるのである。

凡ゆる仕事に一時にとりかかるな。

唯(ただ)一つの仕事と思いて一つ終って
次に取りかかればいいのである。

        <感謝合掌 令和2年7月2日 頓首再拝>

「廓然無聖(かくねんむしょう)」 - 伝統

2020/07/03 (Fri) 04:55:52


          *「光明道中記」(7月3日《無限功徳ある日》)より

【娑婆本来無いから、娑婆にいながら寂光土にいるのだ。(「生命の實相」第十一巻)】

梁(りょう)の武帝は達磨大師から、
今まで自分の行(おこな)って来た供養が、「無功徳!! 」だとの喝を受けて、
自分の倚(よ)って立っていた真理がくだけた気がして寂しくて
耐(た)まらなかった。 

それでは何が最も功徳ある真理だろうか、それが聴きたい。
そこで、「いかなるかこれ聖諦(しょうたい)第一義? 」とたずねたのである。
それでは何が第一義の聖(とうと)き真理でございましょうかと云うほどの意味である。

達磨の答は意表に出(いで)た。
「廓然無聖(かくねんむしょう)」と彼は言ったと、「碧巌録」に書いてある。
聖(しょう)は「悟りの真理」と云うことである。

「聖(とうと)い悟りの真理なんて、そんなものはないのだ」と云う一喝なのだ。

《これが》真理だ、《これが》功徳だなどと言っているものには、功徳を先ず打消し、
真理さえも打消してしまうところに、本当の真理があらわれて来るのである。

一つのものを指(ゆびさ)して、
「《これが》」と言ったとき、指(ゆびさ)すことの出来ない
大地に充(み)つる宏大な真理がくらまされてしまうのである。

達磨が「廓然無聖(かくねんむしょう)」と言って聖諦(さとりのしんり)を否定して
了(しま)ったとき、却って其処に天地に満つる宏大無辺な真理が肯定されているのである。

        <感謝合掌 令和2年7月3日 頓首再拝>

形を見、肉体を見ている者には真理は見えない - 伝統

2020/07/04 (Sat) 04:47:55


        *「光明道中記」(7月4日《真理を知る日》)より

【外の権威に頼って救われると誤信した時代は過ぎ去った。(「生命の實相」第六巻)】 
 

「廓然無聖(かくねんむしょう)」と云う達磨の一喝を受けた梁(りょう)の武帝は
それが大肯定のために否定だと云うことが判らない。

悟りの真理とは「一定のこんな形だ」と考えている人には、
そんな「一定のこんな形」の真理を否定する必要があったのである。

真理はそれを「形」だと思ったら躓(つまず)くのである。

功徳と言えば「形」であると思い、真理と言えば「形」であると思う。

そう思い込んでいる際(はな)に、曰く「無功徳」曰く「真理無し」と
否定(うちけ)されて了ったのだから、

梁の武帝は、自分の眼の前にいる真理を悟ったと伝えて聴いている
大先輩なる達磨大師は一体何者で、何を悟ったと言うのだろう。
一つそれを聴こうと思ったのだ。

そこで梁の武帝は、

「朕に対するものは誰(た)ぞ」と問うた。

如何にも一定の形をした達磨と云う人間が、
一定の形をした真理と云うものを食べて生きているではないかと云うような問である。

形を見、肉体を見ている者には真理は見えないのである。

そこで、

「識(し)らず」

と達磨は答えて、サッサとその場を引上げて行って了ったのである。

        <感謝合掌 令和2年7月4日 頓首再拝>

道は自己の「真剣」の中にあり - 伝統

2020/07/06 (Mon) 04:50:34


          *「光明道中記」(7月6日《至誠身を献ぐる日》)より

【遊女マグダレーナは一切を真理(キリスト)の足下に漑(そそ)いだのであります。
                              (『完成の聖書』】


達磨大師の法を嗣(つ)いだ人が第二祖の慧可禅師である。
少(わか)くして出家し洛陽竜門の香山(こうざん)にいたり
永穆寺(えいぼくじ)の僧となる。

諸法を歴遊し、三十二歳再び香山に帰って参禅瞑想すること八年、
あまり宇宙の真理を瞑想し過ぎたので、

「頂骨(ちょうこつ)為(ため)に変じて五峰(ごほう)の秀出(しゅうしゅつ)
せるに似たるものあるに到れり」と言うから、
瞑想のために骨相が変り、五峰が突々(とつとつ)
として聳えているようにろ頂骨が盛り上って来たものらしい。

真理を求めるには八年参禅して真理を瞑想して骨相まで変る
 ―― この意気が欲しいと思う。

慧可四十歳の時、達磨大師が嵩山(すうざん)に巡錫(じゅんしゃく)せられたのを
機会に、嵩山(すうざん)の少林寺を訪れて入室を乞(こ)えども許されない。

終夜雪の中に過して翌暁(よくあけがた)に至るも尚(なお)許されない。
そこで慧可はみずから左の肱(ひじ)を切断して、
入室を許されずんば死すとも此処を去らずの赤誠(せきせい)を
披瀝(ひれき)したので、とうとう入室を許されたのである。

今は、生長の家の道場に入ることの易きこといかばかりぞや。
それだけに真剣味ありや。
真剣味ある者は幸いなり。

道は自己の「真剣」の中にあり。

漫然と来(きた)って漫然と聴き、漫然と批評し去る者は愚かなるかな。
自分の心だけのものしか見えず聴えずである。

        <感謝合掌 令和2年7月6日 頓首再拝>

「真理」の全貌を全身心をもって捉えるには - 伝統

2020/07/08 (Wed) 05:02:28


       *『 生長の家 (昭和32年5月23日の法語)より
        ~《全身心、全存在の革命を目指して》

   「真理」の全貌を全身心をもって捉えるとはどうするのでしょうか。

   あなたの全想念全感情が、神の全想念全感情と直通し、
   あらゆる場合に於いて、あらゆる行動をとる場合に、
   神をそのままに思考し、神をそのままに計画し、
   神をそのままに感情を動かし得ると云う状態になることであります。

   これは中々重大なあなたの全存在の革命です。
   この全存在の革命が成し遂げられていなければ、
   あなたは本当に救われているとは云えないのです。

   これはあなたの「存在」の春季大掃除どころではないのであります。
   それは、あなたの「全存在」と建造物の建替です。

   今までの「内についたる欲望(のぞみ)」
   「物質についたる願望(ねがい)」の
   一切を捨ててしまわなければならないのです。

   「病気を治してほしい」「金を儲けさせて欲しい」
   「自分の子供を入学させてほしい」と云うような一切の利己的ねがいを
   断ち切ることから出発するのです。
 
    (『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P306~307>に収載)

        <感謝合掌 令和2年7月8日 頓首再拝>

世俗的な自己評価に雷同するな - 伝統

2020/07/12 (Sun) 04:47:40


      *「生長の家」(昭和51年6月4日の法語)より

人間は五官の感覚をもって自分の肉体を見、
自己を一定量の物質だという知覚を得て、
常に 自己限定しつつ生活しつつあるのである。

その 自己限定のままで生きている限りは、
それは世 俗になじんで生きているのであり、
「われ世に 勝てり」と宣言することはできないのである。

「われ世に勝てり」とは、外界の物質世界を征 服することではないのである。
自己の内にある 「世俗的な自己評価」に打ち勝つことなのである。

自己を”神の子”と自覚することは、
今これが「自分の肉体的力」の極限だという自己限定を打ち破って、
常に自己に出来るだけ以上の事 を成すという理想目標をおいて、
毎日一歩でもより多く前進し、進歩することなのである。

        <感謝合掌 令和2年7月12日 頓首再拝>

日常生活が道に通じる - 伝統

2020/07/13 (Mon) 04:41:38


      *「光明道中記」(7月13日《日常生活に道を現す日》)より

【本当の美しさと云うものは
 深切な愛の行(おこな)いの内にこそ輝くものであります。
                      (『生命の實相』第十五巻)】

五祖弘忍の弟子に慧能と云う米搗男(こめつきおとこ)があった。
日常生活、事々物々禅であることを気着かぬ人は慧能を学ぶが好いのである。

禅とは変な、日常生活に適用せぬような奇警(きけい)な警句を吐いて問答し、
奇行怪言(きこうかいげん)相手を翻弄するの妙(みょう)を得ることだと
思っていれば、それは大変な間違である。

米を搗(つ)くのが禅であり、掃除をするのが禅であり、
飯を炊(た)くのが禅であり、茶を淹(い)れるのが禅である。

禅と茶との一致の妙用に達したのが茶道である。

茶道を手先の袱紗(ふくさ)《さばき》や、
足の踏出し方の足先の技巧だと思っている人は
いつまで経っても「茶の淹れ方」に過ぎぬのであって
「茶道」には達せぬのである。

「茶の淹れ方」は茶道の師匠の免許までも得るほどに稽古出来ていてさえも、
日常の坐作進退方(ほう)にかなわず、御飯を焚(た)いても
硬軟その所を得なかったりするのでは何にもならぬ。

御飯たくことが茶道なのである。
御菜(おさい)を煮ることが茶道なのである。

一芸に名人と謳(うた)われるような人は
何をやらせても直ぐ、骨(こつ)を体得する。

「道」は万(すべ)てに通ずるが、
「手先の技巧」ではすべてに通ずることは出来ぬのである。
心得べきことである。

        <感謝合掌 令和2年7月13日 頓首再拝>

行き届くのが禅の生活であり、生長の家の生活である - 伝統

2020/07/18 (Sat) 04:52:38


        *『光明道中記(7月18日《行届いた生活の出来る日》)』より

【衆生固(もと)より仏。仏のみありて凡夫無きなり。
  光のみありて暗なきなり(『生命の實相』第十二巻)】

「さすがは神秀上座である」と衆人の前では讃(ほ)めてやりながら、ひとり自室に
招(よ)んで、衆人の前で恥辱を与えないで訓戒するその深く切なる心遣いが禅なのである。

慧能の悟りを認めてながらも、衆人と葛藤を起さしめないように、夜に慧能を訪れて法衣を
譲ると、夜のうちに姿を隠して落ちのびるように注意した其の深くこまやかな心遣いが
禅なのである。

茶道と言えば、茶を淹(い)れることの手先の技だと思い、割烹と言えば、料理をする
手先の技巧だとのみ思い、禅と言えば禅問答をして他(ひと)をやり込める詭弁術だと
考えている者は、この五祖弘忍の深い行き届いた愛を見るが好い。

行き届くのが禅なのである。
そして禅の生活こそ生長の家の生活であり、禅の悟りこそ生長の家の悟りである。

神秀上座の一句
「身は是菩提(さとり)の樹(じゅ) 心は明鏡の台の如し」にはまだ「肉体の存在」を
みとめ、「迷う心の存在」を認めている。

五祖弘忍が法衣を譲らなかった理由である
「菩提(さとり)には樹(じゅ)無し 明鏡は台に非ず」と明耿々(めいこうこう)たる
実相心のみを悟った慧能はまさしく生長の家の悟(さとり)に到達していた。

        <感謝合掌 令和2年7月18日 頓首再拝>

【ほんの一瞬の人生だからこそ】 - 伝統

2020/07/24 (Fri) 04:25:51


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2020年07月13日)より

   (曹洞宗徳雄山建功寺住職、枡野俊明氏の心に響く言葉より…)

   日本人は「平均」とか、
   「横並び」といった言葉が好きなようです。

   なんでも他人と同じくらいであれば安心するわけです。

   雑誌などではよく、平均給与とか平均的なマイホーム取得年齢、
   平均的な結婚費用、同葬儀費用といったものを取り上げた
   特集記事が掲載されますが、そうしたものも日本人気質を
   見抜いたテーマ設定だといえるでしょう。

   余談ですが、ずいぶん前に流行ったビートたけしさんの
   「赤信号、みんなでわたれば、怖くない」というギャグも、
   日本人の横並び好きを痛切に皮肉ったものだ、
   という見方ができます。

   平均と自分を弾き比べて、上ならばほっと胸をなで下ろしたり、
   少々、誇らしい気分になったり、下の場合は不安になったり、
   焦りを感じたりする、というわけです。

    しかし、そもそも平均を意識することに
    なにか意味があるでしょうか?

    横並びの人生なんてこの世にありえないのです。


    人はこの世に生を受け、死んであの世におもむきます。

    人生というその時間を、それぞれが自分の歩幅で歩んでいく…。

    そこに「平均」などはありません。


    禅語に「本来無一物(ほんらいむいちもつ)」
    というものがあります。

    人は本来、いっさいのものを持たない、まったくの空(くう)、
    絶対的な無の存在である、ということです。

    ですから、心に塵(ちり)やホコリが積もることもないし、
    煩悩(ぼんのう)もないし、悟りというものもないと、
    この禅語は教えています。


    「体露金風(たいろきんぷう)」という禅語もあります。

    「体露」とは生まれたままの姿のこと。
    「金風」とは、気持ちのいい秋風のことです。

    見栄や分別、欲を捨てて、生まれたままの
    赤ん坊のような気持ちでいれば、清々しく生きられると、
    この禅語はいっています。


    人生ということに引き寄せていえば、
    なにも持たない裸で生まれてきて、
    やはり、なにも携えずに死んでいくのが
    人の人生というものなのだ、ということ。

    「人生は、手ぶらで生きて、手ぶらで死ぬのがいい」

    ということです。


    給料が平均より上だ下だ、といっても、
    そんなことは無に始まり、無に終わる人生の、
    小さな一局面、些細な断面でしかないのです。

    平均をはるかに超えたとしても、平均に遠くおよばなくても、
    それが自分の歩幅であり、そこでしか、たしかな
    人生の足跡を刻むことはできないのです。

    その足跡の連なりが人生です。


    ですから、誰一人として、同じ人生を歩むことはありません。
    人の数だけ人生があるのです。

    そのことに早く気づいてください。

    すると、「平均」を目安にすること、
    それを意識することの無意味さがわかってきます。


    「災難に逢うとき時節には、災難に逢うがよく候」

    良寛さんの言葉です。


    災難に遭遇して、
    「おい、おい、こんな災難に逢うなんて、
     平均的な人生からいったら、割が合わないじゃないか」
    などと嘆いていたってしかたがないのです。

    災難には正面から向き合うしかないのですし、
    その災難の中に自分の足跡を残していく以外にはないのです。

    それがほかの誰でもない、
    あなたの人生を丹念に歩むということだ、と思います。

     <『競争からちょっと離れると、人生はうまくいく』三笠書房
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            ・・・

浜松医科大学名誉教授の高田明和氏が
「魂をゆさぶる禅の名言」(双葉社)の中で
こんなエピソードを紹介している。

『 朝比奈宗源(あさひなそうげん)老師の知り合いの僧が
ある寺に住持していました。

彼は博打(ばくち)が好きで、村の人の集まりで
博打をやって負けて帰ってくると、
「あいつもやがて死ぬやっちゃ」と独り言をいっていた
ということです。』

もちろん、宗源老師は、博打好きな僧に、
「死んでしまえ」と願って言ったわけではない。

あきらめたり、捨て鉢で言っているのでもない。

諦観という、澄んだ気持ちで、物事の本質をとらえ、
悟りのような境地で発した言葉だ。

「しかたのないやっちゃ」と。


どんな大悪人も、小悪人も、ウソつきも、大ぼら吹きも、
嫌なやつも、そして善人も、すべて、
「あいつもやがて死ぬやっちゃ」。

メチャクチャにひどいことを言われようが、
ひどい仕打ちを受けようが、やがてみんな死んでしまう。


城山三郎氏の小説の中にこんな言葉がある。

「一期(いちご)の盛衰(せいすい)、一杯の酒』(本当に生きた日)

英雄の興亡盛衰の重さも、一杯の酒のうまさに叶わない。

チンギスハンも、ナポレオンも、信長も、秀吉も…。

まさに、「人生は、ただ一場の夢」のようなもの。


「裸にて生まれてきたに何不足」

ほんの一瞬の人生だからこそ、大切に生き抜きたい。

        <感謝合掌 令和2年7月24日 頓首再拝>

ただ美点のみ見る - 伝統

2020/07/26 (Sun) 04:09:37


       *『 生長の家 』(昭和26年6月11日の法語)より

今日、自分は決して悪しき事を考えないのである。
自分は唯(ただ)、善き事、快き事のみを考えるのである。

決して人を非難することを考えないのである。
人の美点のみを見るのである。
美点を見る心は美点のみを引き寄せることを知るからである。

神の智慧は、美点を見る心に引き寄せられて、
吾が行く道を照らし給うのである。

神の愛は、美点を見る心に引き寄せられて、
すべての人々の感情に柔ぎと調和とを与えたまうのである。

何物も神の智慧と愛との合奏するところに不可能はないのである。

如何に現象的に行き詰っているかの如(ごと)く見えようとも、
神の智慧と愛とは道を見出させて下さるのである。

 (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127 )

        <感謝合掌 令和2年7月26日 頓首再拝>

神のない快楽 - 伝統

2020/07/28 (Tue) 04:49:34


    *『生命の實相』第38巻幸福篇(下)(7月28日)より

神のない快楽は、根を切った切花のようなものである。

やがてそれは打ち萎(しお)れ、どす黒い苦い苦しみに変わってゆくものである。

         <感謝合掌 令和2年7月28日 頓首再拝>

「心」と「言葉」と「行ない」との一致 - 伝統

2020/07/29 (Wed) 04:42:04


    *『生命の實相』第38巻幸福篇(下)(7月29日)より

生長の家では、心と言葉と行ないとこの3つが一致しなければならないのである。

「イエス言い給う『なんじらも今なお悟りなきか。すべて口に入るものは腹にゆき、
遂に厠に棄(す)てらるることを悟らぬか。されど口より出(い)ずるものは心より出ず、
これ人を汚すなり』」と「マタイ伝」第15章16節~19節にある。

またあるところでは「主よ主よと言うもの必ずしも天国に入るに非ず、天の父の御意(みこころ)
を行なう者のみ天国に入るなり」ともイエスは言っている。

口先ばかりでも救われないし、行ないばかりでも救われない。
心が伴った言葉、心が伴った行ないでないと救われないのである。

         <感謝合掌 令和2年7月29日 頓首再拝>

打てば響くが仏道なり - 伝統

2020/07/31 (Fri) 04:29:05


        *『光明道中記(7月31日 打てば響く生き方の日)』より

【所を得ていない状態は、まだ実相が現れていないのであります。
                       (『生命の實相』第十五巻)】

「打てば響く」と云う語(ことば)があるが、
何でも打てば響くような応答が出来なければならない。

剣道の極意も、猶予なく瞬間を捉えて、その刹那に打ち込むところにある。
同じ動作をやっても、機会を失ったら何にもならないのである。

「汝は是れ慧超」と云う語(ことば)も別の機会に言ったら
別の意味を有(も)ったことになるであろう。

「如何なるか是れ仏」の問いに対して『お前は慧超だ』と発止と応えたところに、
仏が仏であり、お前は始めから慧超であるように、仏が仏であり、
始めから成仏しているのが仏であり、衆生本来仏であると云う意味なども、
この端的の語(ことば)の中に一切が引くるめられているのである。

楠木正成公がまだ若かった頃、奈良の春日山に参詣した途上で一人の雲水に遇った。
その雲水に正成公が「仏教の妙密(みょうみつ)の極意を教えて下さい」と頼んだ。

すると、その老僧はそれに応えないで、
「正成! 」とあらためて楠公の名を呼んだのである。
「ハイ」と楠公は覚えず応えた。

「そこだ、仏教の極意は、そこに何の妙密がある? 」と老僧は言った。

「爾来(じらい)兵を用いること自在無礙、
 恰(あたか)も自己の手足をつかうが如し」
とは楠公自身の述懐である。

打てば響くが仏道である。

         <感謝合掌 令和2年7月31日 頓首再拝>

【神様はおもしろがった人に味方する】 - 伝統

2020/08/10 (Mon) 04:34:50


         *メルマガ「人の心に灯をともす」(2020.07.15)より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   誤解を恐れずに言えば私の価値基準は一つ、損得勘定です。

   つまり自分にとって得なことはやるけれども、
   損なことはやらないというそれでけです。

   それは他のどの先生とも違うところかもしれません。


   おもしろいことに、損得勘定が完全に頭に入ってしまうと、
   人間は声を荒げなくなります。

   イライラしなくなります。

   声を荒げイライラした結果、人間は自分で毒素を出して、
   その毒液が五臓六腑(ごうぞうろっぷ)をどんどん痛めつけます。

   誰が一番損をするかというと、その言葉を発した本人なのですから。


   こういう実験があります。

   一升瓶に普通の心理状態で息を吹き込め、
   そこにハエを一匹入れると40分くらいで窒息死しまう。

   ところが、激怒した状態の息を吹き入れて同じ実験をすると、
   中のハエは3分くらいで死んでしまいます。

   毒死です。

   人間が怒ったときは自分で気付かないだけで、毒気を吐いているのです。


   私たちは体調が悪いとき、よく愚痴や泣き言をこぼしているように
   思っているでしょうが、実は不平不満、愚痴、泣き言、悪口、文句
   (私はこれを五戒と呼んでいます)という否定的な感情が
   肉体を蝕(むしば)んでいるらしいのです。

   私と親しいある外科医の話ですが、患者の家庭環境を分析した結果、
   怒鳴り合っている環境で生活している人と、
   穏やかな言葉が飛び交う家庭で生活している人とでは、
   明らかに前者のほうが病気になる確率が高いということがわかったといいます。


   宇宙の方程式からすれば、先ほどの実験のように、
   「ばかやろう」「つらい」「悲しい」といったネガティブな言葉が
   体内の水の細胞を破壊し、それが病気を招く原因となります。

   言葉の持つ力は大変なものです。

   肉体についてだけではありません。

   仕事も同じです。

   たとえば民宿の経営でいえば、家庭や職員が喧嘩していたり、
   いがみ合ったり、仲が悪かったりすると、
   外見は立派でも本当にお客さんが来なくなるという現象が実際に起きてしまいます。

             <『宇宙を貫く幸せの法則』致知出版社>

             ・・・

小林正観さんはこう語る。

『次から次へやってくる現象に対して、
 どんなことがやって来ても、愚痴を言わない、泣き言を言わない。

 落ち込まない。

 それから相手を攻撃しない。

 非難しない。

 中傷しない。

 それを笑顔で受けて止めて「あー、これが私の人生なんだね」って思って、
 笑顔で生きていくことが今生でのテーマなんです。』


そして…

『おもしろがった人の勝ち。
 神様はおもしろがった人に味方するのです。』


言葉は薬にもなるし、毒にもなる。

人を笑顔にすることもできる変わりに、人を傷つけることもできる。

だからこそ、愛ある言葉、人をあたたかくする言葉、「愛語」を多用する。


そして、どんなことも「おもしろがってしまう」。

神様はおもしろがった人に味方する。

         <感謝合掌 令和2年8月10日 頓首再拝>

排斥する心は毛虫のような心 - 伝統

2020/08/11 (Tue) 02:43:13


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月11日)より

人間たちが互いに憎み合い、
互いに悪口を言い合うのがわたしには不思議でたまらないのである。

憎みや悪口の中には地獄があり、
愛と讃め言葉の中には天国浄土があるということを知っていながら、
それらの人々は憎み、かつ悪口を言い合っているのである。

互いに排斥し合う者は「生長の家」の誌友ではないのである。
いわんや「生長の家」の講師ではない。

それは地獄の役員であり、
閻魔の庁の衛丁(えいてい)ぐらいのところだろう。

「生長の家」のためにならないからといって、
ある人を排斥するのはまちがっている。
「生長の家」はそんな小さなものではない。

生長の家のためにならない人間などは世の中にないのである。

毛虫でさえも世の中に何か貢献している。
いわんや毛虫に幾億倍優っている人間においておやである。

ある人間を毛虫のように思って排斥する人は、
その排斥する方の人自身が毛虫のような心をもっているのである。

毛虫が人に嫌われるのは、自分を衛(まも)るために
人の不快がる装いをして平気なことである。
自分を衛るために、人の迷惑になる悪口を言う人は毛虫の心である。

         <感謝合掌 令和2年8月11日 頓首再拝>

謗るまじ たとえ咎ある 人なりと 我が過ちは それに勝れり - 伝統

2020/08/17 (Mon) 04:45:20


      *Web:GAIA(2019年03月05日)より

二宮翁夜話に「人を誹(そし)り人を言い落とすは不徳なり、
たとえ誹(そし)りて至当の人物なりとも、人を誹るはよろしからず」とある。


【90】門人で過って改めることができない癖のある者がいた。
その者は多弁で常に過ちを飾っていた。尊徳先生は諭しておっしゃった。
「人は誰でも過ちをおかすものだ。過ちと知ったならば、自分で反省してすぐに改める、
これが道である。

過ちを改めず、その過ちを飾り、かつ押し張るのは、智や勇に似ているようだが、
実は智でもなく勇でもない。

あなたはこれを智勇と思っているかもしれないが、
これは愚であり不遜というもので、君子が憎むところである。
よく改めなさい。

さらに年が若い時は、言葉と行動とともによく心を付けなさい。
ああ馬鹿な事をした、しなければよかった、言わなければよかった
というような事のないように心掛けなさい。

そういう事がなければ富貴はその中にある。
たわむれにも偽りを言ってはならない。

偽りの言葉から大害を引き起し、一言の過ちから、
大きな禍(わざわい)を引き出す事が往々にしてあるのものだ。

だから古人は禍いは口から出ると言ったのだ。
人を誹(そし)って人を言い落すのは不徳である。
たとえ誹って当然な人物であっても、人を誹るのはよろしくない。

人の過ちをあらわすのは、悪事である。
嘘を実(まこと)のように言い、鷺(サギ)をカラスといい、
針ほどの事を、棒ほどに言うのは大悪である。

人を褒めるのは善であるけれども、褒めすぎるのは正しい道ではない。
自分の善を人に誇って、自分の長所を人に説くのはもっとも悪い。

人の忌み嫌う事は、必ず言ってはならない。
自ら禍の種を植えるものだ。
慎しまなければならない。



五日市剛先生の「魔法の言葉」で、イスラエルのおばあさんも

「絶対に人の悪口を言っちゃダメよ、絶対ダメ。
あなたが自分の部屋にポツンと一人でいる時でさえも、人の悪口を言っちゃダメ。
それに、人を怒ってもツキは逃げて打っちゃうわ。
怒れば怒るほど、あなたがせっかく築き上げたツキがどんどんなくなっていくのよ。

だから、ネガティブな言葉は使っちゃダメ。分かった? 
どんな言葉にもね、魂があるの。本当よ。
だから、ねつ。きれいな言葉だけを使いましょ」と言われている。

「魔法の言葉」の「絶対に人の悪口を言っていけない」と
二宮尊徳の言葉と「たとえ悪口を言っても当然の人でも、人の悪口を言うのはよくない」
というのは一致する。

いずれも大切にしている教えである。
最近は「汝を迫害する者のために祈れ」を実践し、人にも勧めている。
山上の垂訓は人間の理想の実現不可能な倫理ではなく、実践倫理である、
キリスト教がローマの圧政に打ち勝ったのは実に信者がこの山上の垂訓を実践し、
迫害するローマ人を愛し、ローマ人のために祈ったからだ。

すると、同僚の若い人に言われた。

「アンガー・マネジメントを超えていますね」と。

そう、怒りのコントロールでとどまっていてはいけない。

高倉健さんの名言に

「 人に裏切られたことなどない。自分が誤解していただけだ」

というのがある。

怒りを感じるような言動の人、そしっても当然のような人さらには国でも、
その人や国に「とってもよいことがたくさんありました、感謝します」と口に出して祈る。

すると不思議に自分の心が穏やかになることに気づく。

==(高森顕徹著 光に向かって 100の花束より)

 
ある所に、内輪ゲンカの絶えないA家と、平和そのもののB家とが隣接していた。
 
ケンカの絶えないA家の主人は、隣はどうして仲よくやっているのか不思議でたまらず、
ある日、B家を訪ねて懇願した。

「ご承知のとおり、私の家はケンカが絶えず困っております。
お宅はみなさん仲よくやっておられますが、なにか秘訣でもあるのでしょうか。
一家和楽の方法があったら、どうか教えていただきたい」


「それはそれは、別にこれといった秘訣などございません。
ただお宅さまは、善人さまばかりのお集まりだからでありましょう。

私の家は悪人ばかりがそろっていますので、ケンカにはならないのです。
ただそれだけのことです」


てっきり皮肉られているのだと、A家の主人は激怒して、
「そんなばかな!!」と、言おうとしたとき、B家の奥で大きな音がした。

どうも皿かお茶碗でも割ったようである。

「お母さん、申し訳ありませんでした。
私が足元を確かめずにおりましたので、大事なお茶碗をこわしてしまいました。

私が悪うございました。
お許しください」

心から詫びている、お嫁さんの声がする。

「いやいや、おまえが悪かったのではありません。

先ほどから始末しようしようと思いながら横着して、
そんなところに置いた私が悪かったのです。

すまんことをいたしました」

と、続いて姑さんの声が聞こえてきた。

「なるほど、この家の人たちは、みんな悪人ばかりだ。
ケンカにならぬ理由がわかった」

A家の主人は感心して帰ったという。


    謗るまじ たとえ咎ある 人なりと 我が過ちは それに勝れり


     (https://plaza.rakuten.co.jp/jifuku/diary/201903050000/ )

         <感謝合掌 令和2年8月17日 頓首再拝>

与える者は与えられる - 伝統

2020/08/21 (Fri) 04:29:42


      *『生長の家』(昭和25年6月号16日の法語)より

奪う考えをおこすものは
やがて奪われて貧しくなるのである。

報酬のみを目的として奉仕の精神を失っているものは
「 与える 」 心を失って 「 奪う心 」 のみをもっているのであるから、
やがて奪われる結果になるのである。

報酬を貰(もら)う仕事ばかりが
神から与えられた仕事ではないのである。

吾々は多くのものをすでに与えられているのであるから、
賃金なしにお礼をする心で、
目の前にある所の人々のためになる仕事なら

何でも奉仕させてもらおうという気になって、
一枚の紙屑(かみくず)を片づける様なつまらないことからでも
奉仕の行事を始むべきである。

         <感謝合掌 令和2年8月21日 頓首再拝>

伸びるしかない - 伝統

2020/08/23 (Sun) 04:17:29


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月23日)より

不満足さえも、またまことにありがたいことではある。
不満足があるので、われわれは信仰に志し、真理に到達し、
救われることができたのである。

不満足に対してさえもわれらが感謝するとき、どこに真の「不満足」があるか、
「不満足」と見えたのは「満足」の偽装であり仮面にすぎない。

陰極陽転の理は昭々として明らかである。
資源不足して人造の代用品いたるところに満ち、人知の進歩かえって増大する。
不足は増大の本である。

窮せずんば伸び、窮すればさらに伸びる。
人はまことに伸びるしか知らぬ偉大なる存在である。

         <感謝合掌 令和2年8月23日 頓首再拝>

他を羨むな! 自己の内に宿る価値を掘れ! - 伝統

2020/08/26 (Wed) 04:45:02


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月26日)より

もてるものを見て羨むな。
羨むとは心病(うらや)むことであり、心が病むことである。
すでに心病(こころや)めば身の病の現われるのは当然である。

他(ひと)のもてる”もの”を見るから、心”もの”に執着し、
執着するがゆえに粘着し、捉えられ、縛られて心が苦しむのである。

他(ひと)のもてるを見るときには、ものを見ず心を見よ。
いかなる心が、その道を引き寄せたか。

二十五年前(ぜん)無一物のフォードがその二十年後(ご)には自動車王して
億万の富を引き寄せた心境を知るがよい。
そして、その同じ「心」が自分の内にも宿っているものであることを自覚せよ。

羨むなとは諦めよということではない。
自分が貧弱なままで諦めておれということではない。

自分の内に彼と同じところの立派な価値が宿っているということを信じて
勇猛果敢にそれを掘削せよということである。

あなたの内に、”すでに”すべてが宿っているものを、
隣の井戸水の豊富を羨んでいる暇に、自己の地面に井戸を掘ればよいのである。

掘れば掘るほど滾々(こんこん)と生命(いのち)の清水が湧き出てくるのである。

         <感謝合掌 令和2年8月26日 頓首再拝>

あなたは現象の不完全に心を捉われない - 伝統

2020/09/02 (Wed) 04:42:11


      *『生長の家』(昭和26年6月30日の法語)より

あなたは決して現象の一時的な不快な出来事に
「 心 」を腐らすことはないのである。

どんなに金銭が失われようとも、職業が失われようとも、
その他(た)如何なる外界の事物が都合よく行(い)かないにしても、

自分の「 心 」は外界の如何なるものよりも
大切なるものであることを知っているからである。

心が腐って来そうな時には、眼を瞑(つぶ)って
「 心 」を神の方向へ振り向けるのである。

さすれば忽(たちま)ちにして神の栄光は自分の「 心 」の中に輝き渡り、
現象に引っかかったために起った不快な思いは吹きとばされ、
光風霽月(せいげつ)のように澄み切った心の中に神の智慧が輝き渡って来るのである。

  (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127 )

         <感謝合掌 令和2年9月2日 頓首再拝>

【今生の自分の役割をしっかりと果す】 - 伝統

2020/09/03 (Thu) 04:26:14


        +メルマガ「人の心に灯をともす」(2019年07月17日)より

   (ひろさちや氏の心に響く言葉より…)

   インド人は輪廻転生を信じている。
   人間は生まれ変わり死に変わりして生存し続ける…
   といった輪廻の思想を古代からインド人は持ちつづけている。

   この輪廻の考え方によると、
   人間はこの世にあって一つの役割を果たしていることになる。

   そして、与えられる役割は人それぞれにちがう。

   男の役割、女の役割、金持ち、貧乏人、貴族、庶民…と、
   役割は無限にある。

   その役割を振り当てられて、わたしたちはこの世に生存している。

   なかには損な役割もある。

   そして、いやな役割がある以上、貧乏くじを引かされる人もいるわけだ。


   それはちょうど、舞台の上の芝居のようなものだ。

   芝居にはさまざまな役割があり、
   誰かがその役割を引き受けなければならない。

   王子さま、お姫さまの役割だけでなく、悪代官の役割だってあり、
   それを演ずる人が必要だ。


   もちろん、芝居の筋書きを変えて、
   損な役割・いやな役割をなくす努力も大事である。

   けれども、現実の芝居にその役がある以上は、
   誰かがそれを引き受けねばならない。

   そうでないと芝居にならない。


   そこでインド人は、わたしはこの世でこんな役割を与えられたから、
   それをしっかりと果たしていこうと考える。

   他人の役割をうらやましく思うのはやめて、
   自分の役割をしっかりと果たそうとするのが、インド人の考え方だ。

   そうすると、輪廻の次の舞台で
   もっといい役割がもらえると信じているわけだ。


   わたしは、インド人の考え方を全面的に肯定するわけではない。

   が、他人の役割を羨望することなく、
   自分の役割に専心するインド人の態度に、拍手をおくりたい。

      <『がんばらないがんばらない』PHP文庫>

            ・・・

本書の中にある禅の高僧の話があった。

『明治時代の禅の高僧が、70歳か80歳になって、英語の勉強をはじめた。
 弟子たちが、いまからでは無理ですよ…と言う。

 高僧は答えたそうだ。

「うん、わしもそう思う。しかし、いま、単語の一つ、二つをおぼえておくと、
 この次、生まれてきたとき楽じゃろうと思うてな…」と。』


現世で、悪いことをし尽して、しかも何の罪も問われなくて
「この世はチョロイ」と思って死んでいった悪人がいたとする。

しかし、もし輪廻があり、来世に生まれ変わるとしたら、
来世でその報いを受けるかもしれない。

この高僧のように、この次、生まれてきたときに
楽だと思うか、反対に、最悪だと思うか。


この世限りと思えば、投げやりになろうが、いい加減に生きようが
それで完結であり、一切が終わりだ。

しかし、人生が1000年か2000年続くと思えば、
今生はその中の一瞬に過ぎない。


「今生の自分の役割をしっかりと果す」

与えられた自分の役割を全力で全うしたい。

         <感謝合掌 令和2年9月3日 頓首再拝>

《「明るい心」の億万長者となれ》 - 伝統

2020/09/04 (Fri) 04:33:47


          *「眞理」第2巻基礎編第6章(P112)より

出来るだけ明るい事のみを心に考えよ。
今、今、今、明るい事を考えよ。

過去に捉われるな。
未来について思い煩うな。
「一日の労苦は一日にて足れり」とイエスは教えているのである。

自分の心の庫(くら)の中に、一ぱい、一つ目小僧や色々のお化けや、
瓦落多(がらくた)を詰め込んで置くことをやめよ。

明るい五色の光を燦然と放つような宝のみを心の中に貯えよ。

物質に如何なる物が貯えられてあろうとも、
又どんな善き物がなかろうとも、無一物であろうとも
心の中に「明るい想念感情」を貯え得ることは自由である。

物質がなくとも、あなたは「明るい心」を自分の心一ぱいに貯えて、
明るい心の奥万長者になることは出来るのである。

物質の富が幾憶万あろうとも、心に「労苦」を貯えて苦しんでいる人もある。

         <感謝合掌 令和2年9月4日 頓首再拝>

【自尊心を高めるための9つの方法】 - 伝統

2020/09/06 (Sun) 04:18:33


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2020.07.21)より

   (アレクサンダー・ロックハート氏の心に響く言葉より…)

   自尊心を高めるための9つの方法を紹介しよう。

   1.《学び続ける》

    毎日、新しいことを学ぼう。新しい同僚の名前でもよい。


   2.《友人を注意深く選ぶ》

    自尊心を高めてくれる人や尊敬できる人と人間関係を構築しよう。
    精神的に悪い影響をおよぼす人といっしょに過ごしてはいけない。


   3.《スキルを磨く》

    自分がうまくできることを毎日しよう。
    どれほど些細なことに思えても、何かを達成すれば自尊心が高まる。


   4.《自分を変える》

    自分の嫌な部分を変えよう。
    絶対にあきらめてはいけない。
    自分の嫌な部分を変えれば自尊心が高まる。


   5.《自分に対してポジティブに語りかける》

    自分に対して親切になろう。
    心のなかで自分のミスをあげつらうのではなく、
    よりよいやり方があったことを認め、
    今度はそのやり方でしようと決意する。


   6.《思いきる》

    リスクをとろう。たったひとつの勇気ある行為が、
    自尊心を高めるための第一歩となる。


   7.《冷静になる》

    ミスを犯すことは大惨事ではない。
    精一杯努力するかぎり、自分は失敗者ではないことを心に銘記する。


   8.《現実的になる》

    実現できる範囲内で困難な目標を設定しよう。
    どれほど小さくても、目標を達成することによって
    自尊心を高めることができる。


   9.《運動をする》

    有酸素運動は健康を増進し、生命力を湧き上がらせる効果がある。

    体を動かして心身をリフレッシュすることは、
    人生の他の分野にも波及し、肉体だけでなく
    仕事や人間関係にもポジティブな影響をおよぼす。

        <『自分を磨く方法』ディスカヴァー
            https://amzn.to/2ZJuAE7 >

        ・・・

レス・ギブリン氏は「自尊心」についてこう語っている。

『人間関係に関するかぎり、
 相手の自尊心を傷つけることはご法度(はっと)だ。

 相手の人間としての尊厳を踏みにじったら、いずれいやな目にあわされる。

 人々は自尊心についてとてもデリケートで、
 自尊心を傷つけられると非常手段に訴えるおそれがあることを肝に銘じよう。

 すべての人は自分の自尊心を大切にしてほしいと願い、
 それを傷つける人を敵とみなす。

 だから、他人を機械やロボットのように扱ってはいけない。

 そんなことをすると、相手はそっぽを向いてしまう。』
    (人望が集まる人の考え方/ディスカヴァー)より


自尊心とは、「自己重要感」や「自己肯定感」を満たすことだ。

この「自己重要感」や「自己肯定感」を踏みにじられたとき、
相手に失望し、それが高じると敵意さえ覚えるようになる。

誰もが、自分を大事にしてくれる人、認めてくれる人が好きだからだ。


しかし逆に、相手の人に、何も認められず、
相手にもされず、あげくのはてに無視されたらどうだろう。

どんな人でも、その相手を嫌いになるに決まっている。


相手の自尊心を高めるには、相手に敬意を持つことだ。

それは、もし、初対面なら、相手のことをできるだけ調べ、聞くことに徹すること。

黒柳徹子さんは、インタビューの名手として有名だが、
「徹子の部屋」では、ゲストについて膨大な資料を見て、徹底的に勉強するという。

相手の著作や、インタビュー記事、ブログなどを
調べないようでは、敬意があるとは言えない。

ネットで少しの時間をかければできるのに、
それさえやらないというのは相手をバカにしていると言われても仕方がない。


どんなときも、相手の自尊心を高めるような人でありたい。

         <感謝合掌 令和2年9月6日 頓首再拝>

《小さな事にクヨクヨするな》 - 伝統

2020/09/07 (Mon) 03:24:26

          *「眞理」第2巻基礎編第4章(P121)より

私達はどんな些細な自分のエネルギーでも、
それを無駄に費やしてはならないのである。

何故なら、それは自分の大切な「生命(いのち)」の一部分であるからである。

吾々の「生命エネルギー」は出来るだけ無駄を省いて蓄積し、
それを有効に使用することによって、能率多く仕事をなし得(え)、
そしてまた自分が長寿を得(う)る道ともなるのである。

普通の人の生活を見ていると、
孔(あな)だらけのバケツに水を汲んで置くような生活を送っているのである。

何ら自分の内に貯えられたるエネルギーが
有効に使用せられずして消えてしまっているのである。

気がつかないところの生命(せいめい)の浪費は「どうでも好い事」を、
さも大事であるかのように引っかかって小言を言い、
或いは歎き、或いは持ち越し苦労をすることである。

         <感謝合掌 令和2年9月7日 頓首再拝>

《自己の貴き部分を未発達にしてはならない》 - 伝統

2020/09/14 (Mon) 02:39:46


          *「眞理」第2巻基礎編第4章(P121~122)より

私達が如何にして多く金を儲けようかと考えたり賃金闘争をしてみたり、
人間の性質の中での粗雑な闘争的な面ばかりを発達せしめることに熱心で、
もっと人間の性質の中で高尚な、優美な、道徳的な、芸術的な価値を
発達せしめる事に意を用いない傾きがあるのは、まことに残念なことである。

私達は決して自分自身を弱小視してはならないのである。
自分を卑しめてはならないし、自分自身の発達せしむべき部分を
未発達のまま放置しておいてはならないのである。

神から与えられた無数の天分のうち、どれひとつをも軽視してはならない。
常にそれを表現し顕現し、それを発達せしめるように心掛けなければならない。

然し闘争本能を発達せしめることは、人間を発達させることにはならないで、
野獣的な本能に逆戻りさせることになるのである。

         <感謝合掌 令和2年9月14日 頓首再拝>

《「神の子」たる権利を自覚し主張せよ》 - 伝統

2020/09/18 (Fri) 04:55:33


          *「眞理」第2巻基礎編第4章(P122~123)より

人間は神の最高の自己顕現であるから、
自分を弱小視してはならないし、矮小(わいしょう)化してはならないのである。

況んや「罪人(つみびと)」などと称して前科者扱いしてはならないのである。

前科者と言われた者が、前科を悔(く)いながら、
如何にその生活改善の実(じつ)があがらないかの実相を観るならば、
自己を「罪人(つみびと)」視することが如何に敬虔なる宗教的感情から来るにしても、
生活改善に少しも効果のないものであることがわかるのである。

吾々は神から与えられたる「神の子」の自覚を持ち、
その生来(せいらい)本具の最高最美優秀なる権利を主張すべきである。

自己卑下をするときは人間尊厳の自覚は失われ、
伸びるべき優秀なる性質感情は抑えられて伸びなくなるのである。

         <感謝合掌 令和2年9月18日 頓首再拝>

一業を志し、熟慮断行することが大切 - 伝統

2020/09/21 (Mon) 04:39:50


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月21日)より

精神力をみだりに分散しては、その戦力を消耗して大いに成功することはできないのである。
一人一業はその意味において成功の一つの要素である。

一業を志してそれに立ち向かう以上は、その方面にのみ心を集注しなければならぬ。
左を顧み、右に秋波を送り、精神力を四方八方に分散していて、一業といえども
水平線以上に出ることができないならば、その人が成功しえないのは当然のことである。

しかし、その事業に関することはあらゆる方面にわたって知識を収集し、
熟慮した上は迅速に断行することが必要なのである。

心に念じて描いておけば、
自分はなんら行動せずとも天から富が降って来ると考えてはならぬ。

             <感謝合掌 令和2年9月21日 頓首再拝>

生命(せいめい)が充分生きる道 - 伝統

2020/09/23 (Wed) 04:51:43


          *「眞理」第2巻基礎編第6章(P162)より
           ~《「既にわが事は成れり」されば急がずに懶けずに》

人生は永遠である。
個人の生命(せいめい)も永遠である。

「死」はないのである。
だから何事も急いではならないのである。

では懶(なま)けてよいかと云うと、決してそうではないのである。
懶けている時間は生命(せいめい)の停止である。
生命(せいめい)の停止は「死」である。

与えられた「死」はないけれども、
自発的に生命(せいめい)を停止させたときは「死」である。

では「死」をいとう者は懶(なま)けてはならないのである。
懶(なま)けずに、しかも急がないのが好いのである。

急ぐと、生命(せいめい)が乱動し、乱動すると躓いて、
良き仕事が出来ないのである。

当たり前の、そのままの心で、しかも物事は手早く迅速にたゆみなくやる。
これが生命(せいめい)が充分生きる道でもあれば、
また物事を過(あやま)たず成就する道である。

急がないためには、「既にわが事は心の世界に於て成れり」と信ずることである。

             <感謝合掌 令和2年9月23日 頓首再拝>

《習慣の“環”は早いうちに中断せよ》 - 伝統

2020/09/24 (Thu) 03:47:54


      *『 理想世界 』(昭和42年7月3日の法語)より

   習慣は、一つ一つの行為の“環“の連続である。その一つ一つの”環“は
   小さいけれどもそれがつながって長き鏈(くさり)となるとき、
   強力に自分をしばる鉄の鎖となるのである。

   何人も、あまりに長くつづいた“習慣の鏈”によって十重二十重に
   縛りつけられるならば、その鏈の縛りを切り放って自由になることは
   殆ど不可能となるのである。
   それは“殆ど”であって“絶対”ではない。

   その実例を、喫煙をやめたいと思って色々と工夫し努力して見ながら
   どうしても喫煙がやめられない“喫煙癖”の奴隷の如き人間を見るがよい。
   全く彼は気の毒な状態ではないか。

   まだ一つ一つの行為の“環”が二つや三つや五つぐらい連続しているだけの
   初期状態では、それは鏈という程でないから、途中でやめられるし、
   自分の全身をしばる長い鉄鎖とならないのであるから、
   「これは悪い習慣になりそうだ」と気がついたら、

   それが習慣となる前にすぐその行為をやめるがよい。

   http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6956412

             <感謝合掌 令和2年9月24日 頓首再拝>

理想へ精神を集注し、ひたすら歩む - 伝統

2020/09/25 (Fri) 03:15:10


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月25日)より

「夢を描け」と教えられても、無駄な空想に溺れて、その夢を右に左にふらふらさせて
とりとめもないことに時間を費やせという意味ではないのである。

かくのごとく、目標も理想もなく、進むべき中心点のない夢に耽ることは
精神力の浪費にすぎないのである。

これに対して、一つの目標または理想に向かって精神を集注し、かくて得たるヒントを
建設的に組み立ててゆく努力は、精神力の鍛錬にあるのである。

かくて、その人の行動は正しい方向に載せられ、一歩一歩築いてゆくとき、
ついにも目標に到達することができるのである。
一歩も歩まないものは百歩先を見ることができないのである。

遠くが見えなくとも歩いて行けばわかる。

             <感謝合掌 令和2年9月25日 頓首再拝>

保身の術 - 伝統

2020/10/01 (Thu) 04:19:01


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月はじめの言葉)より

あらわれて出ることだけを知って隠れることを知らない者は自己を滅ぼすのである。
緊張ばかりを知って弛緩の道を知らない者も自己を滅ぼすものである。
昼のみあって夜なきときは人はついに滅びてしまうのであろう。

みずからを護る術を知る者はよくみずから隠匿する者である。
水遁、火遁、自由自在にして、変幻出没するものでなければ、大をなすことは出来ない。

嘗て大本教が破滅し、「ひとのみち」が崩壊したのは、その教義のなかに適しない点が
あったであろうが、その適しない点が露骨に表れて来て天下の耳目を惹いたのは、
あらわれて出ることだけを知って、隠れる道を知らなかったからである。

それらの教は、或は「時節には勝てんぞよ」と教え、「急ぐは事を壞る」と教えながら、
みずからの教団全体の動きが自己を顕すに急であって、隠れることを知らなかった。

保身の術は自ら韜晦(とうかい)して顕れざる位置に隠れ、
人を押し上げて人をも生かし、自分も生きるのである。

自分が暫く顕れることを焦ったために、自分自身が出る杭として壊滅するのみかは、
自己に頼っていた幾十万の人々を帰趨する処なからしめる。

その人のためを思いて顕われた位置に置かない私の心を汲むものは稀である。

             <感謝合掌 令和2年10月1日 頓首再拝>

霊に生きる - 伝統

2020/10/05 (Mon) 03:26:26


    *「光明道中記」(10月5日《霊に生きる日》)より抜粋

【物質からは生命は生れない。生命を生むものは生命のみである。
                    (『生命の實相』第十一巻)】

最初は神を求めていた人が、神を求めたその結果、物質が豊かに整ってくると、
隴(ろう)を得て蜀(しょく)を望み、今度は物質がもっと欲しくなり、
その時には神を忘れて了い、その結果失敗すると、
「あんな神はもう効かぬ」などと云う実例が往々ある。

病気の時にもよく似た例がある。

最初神をもとめて健康になると、その健康を何に使うか、
全然神とは似もつかぬ利己主義のことに使って不健康となり、
「生長の家に入ったら最初は病気が治ったが今は効かぬ」と不平を言う。

恐るべし。

             <感謝合掌 令和2年10月5日 頓首再拝>

《 己に克つことが実相を顕現する》 - 伝統

2020/10/10 (Sat) 04:28:28


        *『 生長の家 』(昭和25年7月7日の法語)より

   己に克つことが実相を顕現する唯(ただ)一の道である。
   「 己 」 とはニセモノのことである。
   ニセモノを否定しないで本物が得られると思うな。

   五官の快楽にひきつけられている間は
   まだ蛇の智慧にだまされているアダムであり、イヴである。
   彼は 結局 楽園から追放されねばならないのである。

   蛇とは 「 地 」 ( 物質 ) に這(は)うもの、物質についた五官智である。
   五官の誘惑は 自分を 「 肉体的存在 」 とみる所からおこるのである。

   自分を 「 肉体的存在 」 と思わぬならば、
   肉体の快楽にひきつけられることはないのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12

             <感謝合掌 令和2年10月10日 頓首再拝>

波羅蜜多(神格の内流による自覚)を得る方法 - 伝統

2020/10/11 (Sun) 04:11:44


    *「光明道中記」(10月11日《精進堅固の日》)より

【悟りの中間過程にある時は、信念を以て怠らず進め。(『生命の實相』第六巻)】

波羅蜜多(神格の内流による自覚)を得る方法に尚三つある。

尸(し)羅波羅蜜多(持戒波羅蜜多)、せん提波羅蜜多(忍辱波羅蜜多)、
毘利耶(びりや)羅蜜多(精進波羅蜜多)の三波羅蜜多がそれである。
これはいずれも「良心として顕れる神格の内流」に関係している。

神格の内流の愛行面が「布施」であり、
神格の内流の悟道面が般若と禅那(換言すれば智慧と静慮)とである。
そして神格の内流の道徳面又は良心面が持戒、忍辱、精進である。

神格(仏性)そのものは一つであって不可分であるけれども、
それに波長を合わせる方面から言うと、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、般若の
六つを立てて六羅蜜多としたのが仏教である。

生長の家では忍辱の方面はあまり言わぬ。
如何なる不遇、不幸、逆境、侮辱に対しても克(よ)く耐え忍ぶことによって
仏性を開顕せんとする忍辱に代って感謝を強調したのである。

無理に「怺(こら)える」のでは和解が出来ていないと説かれている。
感謝が出来たとき「怺(こら)える」ことが要らないので
辱(はずかし)めが消えるのである。

           <感謝合掌 令和2年10月11日 頓首再拝>

毎日たゆみなく行なうこと - 伝統

2020/10/15 (Thu) 04:49:45


    *「光明道中記」(10月15日《点滴石を穿つ日》)より

【幾度も生れ更わった霊魂ほど、現世幽界を度重ねて浄化作用を営んでいる。
                      (『生命の實相』第八巻)】

精進と云うことは何事を成就するにも必要なことである。
「精神一到何事か成らざらん」の諺もこれに当る。
国民総動員も之に当る。

点滴石を穿つ。天才は忍耐也。精神とは毎日たゆみなく行なうことである。
少しずつでも毎日たゆみなく聖典を読む、毎日たゆみなく神想観を行ずる、
毎日たゆみなく飯を食う、すべて是(これ)が精進である。

一度に力を出して置いて、あとはい眠っているのは精進ではない。
兎と亀との競走に於て、のろい亀が勝利を得たのは、亀はたゆみなく歩んだからである。

仏教で六波羅蜜の一つに到彼岸法(はらみたほう)として、精進が挙げられているのは、
悟りに到るにも毎日の精進が必要だからである。

精進のあるところ必ず魂が輝き出ずるのは、毎日磨いている廊下が光沢を増してくるのと
同じことである。1年360回拭くので廊下が光るのであるから、1週に360回
拭いて置いて、あとは放って置いても廊下は光るかと云うと、そう云う訳には行かぬ。

何故行かぬか、それは精進がないからである。

『生命の實相』も1回読んで意味が分かったと思って、
アトすっぽ抜かして置いては魂の進歩はない。

道場の講義も毎日聴くので効果があり、この日記も毎日読むから効果がある。
解ったと思って止める者は気の毒だ。

           <感謝合掌 令和2年10月15日 頓首再拝>

愛憎を超え、善し悪しを超えたところに不死身を得る - 伝統

2020/10/16 (Fri) 04:48:31


    *「光明道中記」(10月16日《誰も赦した、憎む人のない日》)より

【実在すなわち光明、これを不可思議光と言い、如来自在と言う。
                       (『生命の實相』第十一巻)】

   善し悪しやにくや可愛いと思わねば世界がまるでわがもの

誰の歌か知らぬがなかなか好い歌である。
生長の家の教は「天地一切のものと和解せよ」との教えである。
さてその和解はどうしたら出来るのか、答えて曰く、総感謝であると。

そんなに和解していたら戦争は出来ぬではありませぬかと質問されたこともあった。
和解した時本当に不死身の力が出て来る。

こんな話がある。

戦争のときに敵の間諜を捕えたが、軍の掟で斬らねばならぬ。
そう云う時にその間諜が平然として微笑したり、平然として合掌していたりすると
どうしても斬ることが出来ぬ。

そこで何か侮辱を与えて間諜を怒らせる
 ―― 憤ると云うことは「斬る心」を起すことである。

間諜が憤って「斬る心」を起して憎らしそうな顔をした時に
思い切ってバッサリ斬れる。
斬られるのは、「斬る心」を起したからである。

無心の小児は斬ることが出来ぬ。
愛憎を超え、善し悪しを超えたところに不死身を得るのである。

キリストも
「此の幼児(おさなご)の如きものならずば神の国に入ること能わず」と言ったし、

白隠禅師も「
是非憎愛総に拈抛(ねんほう)すれば、汝に許す生身(いきみ)の観自在」と
言ったが、愛憎に心が捉われるから地獄が現出するのである。

           <感謝合掌 平成24年10月16日 頓首再拝>

自己を深く掘り下げよ! - 伝統

2020/10/17 (Sat) 04:32:09


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月17日)より

ともかくも自己を深く掘り下げてゆくことが第一条件である。

自己を掘り下げない者は表面の力しか使うことができない。

あるいは良き野菜をつくり、あるいは実りの多き稲を作るにも
土壌を深耕しなければならない。
深く掘るほど予想しなかった宝が掘り出されてくるのである。

自己を掘り下げる目前の目的が何であるかは問うところではない。
われわれはただ飲料水を得(う)るためにだけ土を深く掘り下げるのでもよい。

目前の目的は何であろうともいよいよ深く掘り下げてゆくならば
必ず予想外の尊いものが発見される。

ただ飲料だけを求めていただけのものにも石炭が見出され、金銀が見出され、
ラジウムが見出され、そのほか地下のあらゆる希鉱物が見出されるであろう。
なぜなら地下は無尽蔵の鉱物の宝庫であるからである。

人間もまたかくのごときものである。

表面にあらわれている力だけで満足する者は
自己の内にただそれだけの値打ちしか発見することができないが、
今を、そして自己を掘り下げる者は、
今の掘り下げている目的以上のものを掘り当てることになるのである。

何よりも全力を出して自己を掘り下げてゆくことが肝要である。
最後に何を見出すかは、その詳細を予想する必要はない。

今目的として掘りつつあるところのそれ以上に価値のあるものが
必ず発見されることだけは信じてよい。

なぜなら、自己の内には、地下の鉱脈よりも無限に豊富なる
無尽蔵の秘庫(すなわち神性)が埋蔵されているからである。

           <感謝合掌 令和2年10月17日 頓首再拝>

真理を生きる - 伝統

2020/10/24 (Sat) 04:52:31


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月24日)より

真理は読むだけで、行じなければなんにもならぬ。

「汝ら天地一切のものと和解せよ」
―― 『生命の實相』のこの巻頭の一行さえも実行しないでいながら
『生命の實相』を読んだというのはおこがましいと思う。

勢力争いをするために張り合ってなんになるか。
争わねばならぬような”相手はない”と知ることが光明思想なのである。

人生の苦しみは嫉妬心から来るのである。
嫉妬は憎みを招(よ)び、争いを招(よ)び、
あれほど真理を知っているはずの人が、
感謝しなければならぬ人をさえ憎むようになるのである。

           <感謝合掌 令和2年10月24日 頓首再拝>

本音が出る - 伝統

2020/10/25 (Sun) 04:50:49


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月25日)より

平常はみんな立派な人に見えるが、
大事件が起こったときに、その人の本音が出る。

相当立派に悟っているような人で、近親者の死にぶつかって、
実は自分がなんにも悟っていなかったのだ
ということを知ることがたびたびある。

人間は死なない生き通しのものだと教えられながら、
やっぱり人間は死んだと思いたがるのはどうしたものだろうか。

           <感謝合掌 令和2年10月25日 頓首再拝>

《自己の心を護(まも)ること》 - 伝統

2020/10/26 (Mon) 04:49:22


        *『 生長の家 』(昭和26年7月7日の法語)より

   最も辛(から)く見えるところの境遇や出来事も、
   それは一層 魂を深めるところの素材である。

   秋が来て落葉するように見える時にも、
   吾々は嘆いてはならないのである。
   落葉する樹(き)ほど 春になって 美しき花をひらくのである。

   寒さが訪れて来るときに、樹木が葉を落すのは、
   外の出来事にのみ生命を労しないで、内(うち)に深くこもって、
   生命力をいたわり育て貯蔵せんがためである。

   外界が荒々しいときには、人間も外にひろがることを考えないで、
   内を守るが好(よ)いのである。

   自分の心の中に悪い想念はないだろうか、
   間違った感情はないだろうか、
   よく自己反省して見ることである。

   そして外の悪想念の吹き込まないように
   自己の心を守り育てるべきである。


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/efdd9661dbc7c5719ce482817c82a8c4

           <感謝合掌 令和2年10月26日 頓首再拝>

《肉体の快楽に精力を浪費してはならない》 - 伝統

2020/10/31 (Sat) 04:55:53


        *『 生長の家 』(昭和25年7月8日の法語)より

   肉体の快楽に精力を浪費すれば
   霊的能力はそれだけ減少するのである。

   霊的能力は本当は無限であり減少することはないのであるけれども
   五官に対してのみ 心を奪われている時には、
   千手観世音菩薩に千本の手があっても
   尚(なお)且(か)つ一本の手に心を奪われていれば
   九百九十九本の手が何の役にもたたないのと同じことである。

   心そこに非(あら)ざれば
   見れども見えず聞けども聞こえずである。

   心が五官に奪われて、心が 「 霊 」 に向かわなければ
   霊的力は発揮しないのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12

           <感謝合掌 令和2年10月31日 頓首再拝>

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