伝統板・第二

2566631
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すべてに感謝! ⑤ - 伝統

2020/06/10 (Wed) 04:47:43

「不足」ゆえにこそ感謝しなければならない

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月10日)」より

すべてがすでに与えられて、
もう生み出しの必要のない世界にいるほど退屈なことはない。

「不足」を不平に思う人は、
「不足」をこのゆえにこそ感謝しなければならないのである。

・・・

<関連Web>

(1)伝統板・第二「本流掲示板「感謝」 」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7820143

(2)「光明掲示板・第一」内スレッド「感謝の日々 (1211)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=278    

(3)伝統板・第二「光明掲示板第二<すべてに感謝!>」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7822652

(4)「光明掲示板・第三」内スレッド「すべてに感謝! (32)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=17

(5)光明掲示板・伝統・第一「すべてに感謝! (49)」
   → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=31

(6)伝統板・第二「すべてに感謝!①」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6462213

(7)伝統板・第二「すべてに感謝!②」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6833611

(8)伝統板・第二「すべてに感謝!③」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7651763

(9)伝統板・第二「すべてに感謝!④」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7822757

           <感謝合掌 令和2年6月10日 頓首再拝>

物、自分、ペットに感謝する - 伝統

2020/06/26 (Fri) 04:25:42

       *Web:今日も良いことがあるように(2019/08/18)より抜粋

《物に感謝すると、生活はより快適になる》

身の回りにある物って、あると助かるものばかりです。

食器や調理道具、服やくつ、家や家具など、たくさん。

すべての物には、役割があります。

感謝しながら使うと、長く助けてくれます。


★これでハッピー!★ 

   【身の回りの物を感謝して使おう。】 


《自分に感謝すると、自分が好きになる》

人と自分を比べないと、劣等感や妬みが消えていきます。

欠点だと思っていたことが、気にならなくなってきます。

自分を受け入れ感謝すると、喜びが生まれてきます。

自分のいいところが見つかり、自分が好きになれます。


★これでハッピー!★ 

   【自分にまるごと感謝しよう。】 

   

《ペットに感謝すると、家庭が和む》

ねこや犬、ペットを飼う人が増えてきています。

飼っているというより、友だち、家族のような感覚かもしれません。

いてくれたら、ほっと心が和むし、うれしいのです。

ペットがいるおかげで、家庭がほっこり温かくなります。


★これでハッピー!★ 

   【ペットも感謝して可愛がろう。】

  ( https://lucky.t-nakai.work/2019/08/18/happy-26/ )

           <感謝合掌 令和2年6月26日 頓首再拝>

《感謝は純粋でなければなりません》 - 伝統

2020/07/10 (Fri) 04:40:12


          *「真理」第9巻生活篇第3章(P83)より

「実相」に於いて既に与えられている神の恵みを、
現象界に導き出すための導線をつなぐのは感謝する心が大切なのであります。

感謝の心が自分の心の中にひらけて来ますと、
恰も漏斗(じょうご)が上を向いて大きく口をひらいているように
神の恵みがあなたに流れ入って来るのであります。

しかし感謝すれば何か貰えると思って不純の心をワザと起しますと、
その漏斗の中に不要な異物がつまったような恰好になって
却って神の恵みが淀みなく流れ入ることができないのです。

徹底的に純粋なる感謝の心になることが必要です。

感謝が「物を貰うための手段」となったら、それは恰(あたか)も乞食が「物を貰うため」に
お辞儀をしているのと同じで、
そんな不純な感謝は神は決して嘉(よみ)したまうものではないのです。

感謝は本当に純粋感謝でなければなりません。

           <感謝合掌 令和2年7月10日 頓首再拝>

朝、目覚めたときから感謝を始める - 伝統

2020/07/21 (Tue) 04:18:14


       *Web:今日も良いことがあるように(2019/06/12)より

▼人は感謝や慈しみや喜びが心にあれば、
 いろいろなことがうまくいきます。

 何も特別なことがおこらなくても幸せです。

 でも、心に怒りや恨みがあれば、逆のことになってしまいます。

 たいていのことに不満をもつようになります。

▼怒りや恨みは、コントロールできます。

 消すことができます。

 そのために様々な方法がありますが、
 もっとも良いのは、感謝で心を満たすことです。

▼まずは、小さなこと、当たり前のことに感謝する習慣をつけます。

 すると、すこしずつ気持ちが穏やかになってきます。

 たとえば・・・朝、目覚めたときからはじめるのです。


   ●朝、感謝する

    どんなに望んでも「今日」という時間は、
    生み出せるものではありません。

    どんなに優れた人間も機械も、
    「今日」を創り出すことはできません。

    どんなに富と権力をもっていても、
    そのゆえ「今日」が与えられることはありません。

    どんなに強く生きたいと願っても、
    いつまでも「今日」が与えられることはありません。

    「今日」を生きたかったのに、
    泣く泣く逝ってしまった人は大勢いるのです。

    その「今日」という貴重な時間を、
    私たちは毎日、無償で与えられているのです。

    「今」という時間は、
    Present(プレゼント)です。

    時間は、わたしたちに与えられた贈り物なのです。

    「今日」「今」という贈り物をもらったこと。

    この「今日」という新しい人生の1ページに
    あなたは新しい文字を書くことができます。

    自由に伸びやかにあなたの物語を刻むことができます。

    それはどれだけ有難いことでしょう。

    朝、目覚めたときに、

    「今日も一日をありがとうございます」

    と、手を合わせ、口に出して感謝する人がいます。

    不治の病に倒れ、病床でいつ召されるか、
    わからない人です。

    その人にとって、一日一日が残りの人生です。

    愛する家族と過ごせる今日という時間は、
    その人にとってお金や宝石よりも貴重なのものなのです。

    朝、目覚めれば、同じようにあなたの一日が始まります。

    あなたにとっても、一日一日が残りの人生です。

    今日という貴重な時間をもらえたことに感謝しましょう。


朝の光を浴び、外の新鮮な空気を胸いっぱいすって、
今日も生きていることに感謝です。

    朝、目覚めたときから感謝しよう。 (^.^)

感謝できた日はきっと良い日になります。

 (https://lucky.t-nakai.work/2019/06/12/custom-74/ )

           <感謝合掌 令和2年7月21日 頓首再拝>

「日々是れ好日(こうにち)」~既に円満完全の実相に感謝する - 伝統

2020/07/29 (Wed) 04:45:12


        *『光明道中記(7月29日 日々是れ好日と知る日)』より

【漂える雲の彼方にまんまるに澄み切る月ぞわが姿なり。
                       (『生命の實相』第十一巻)】


雪峰(せっぽう)の法嗣(あとつぎ)に雲門和尚と云う人がある。
その雲門がある日公案を出して
「十五日已前(いぜん)は汝に問わず、十五日已後一句を道(い)い将(も)ち来れ」
と言った。

その問は十五日に提出されたものであるから、
「十五日已前」と云うのは過去を指し、
「十五日已後」と云うのは、これからの現在どう生きて行くかと云うことである。

師の意を揣(はか)りかねて誰もこれに門下の者は答えることが出来なかったので、
雲門和尚は「日々是れ好日(こうにち)」と自分の問に自分で答えた。


生長の家で言うならば、「そのまま素直に難有(ありがた)い」であり、
「今を生かせ」であり、「今の中に久遠があり」である。
日々を難有いとしてその日の行事に励むのが「日々是れ好日」である。

烈日燬(や)きつくすようでも、
それは好いお旱(ひでり)を頂いたのであって、ただ難有いのである。

風が吹いたからとて、風があるので害虫が育たず、
雨が降るので植物が育つ。

若し雨が降り過ぎて家が流れ、田畑に損害があるならば、
それは業(ごう)の自浄作用としてただ難有いのである。

 
動き流れる雲の彼方に「今」実相の円満そのままの姿を見る者は幸いなるかな。

           <感謝合掌 令和2年7月29日 頓首再拝>

躓きを含めすべてに感謝 - 伝統

2020/08/05 (Wed) 04:48:34


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月5日)より

躓きは不幸な出来事であるが、われらがまた躓きにも感謝しなければならぬ。

躓きはわれらが人生の道を歩むのに、十分高く足を挙げていなかったことを
教えてくれるものである。われらは躓きによって、躓かないときよりもいっそう
多くのことを学ぶことができるのである。

躓きはまたわたしの心の眼を開いてくれるものである。
もし、今少し手前で躓かなかったら、自分の今歩いている道が、
谷底へ落下する道であることに気がつかなかったかもしれないのである。

理屈で言うのでも、失敗を諦めるために言うのでもない。
躓きは当然感謝さるべきものである。

躓かなくなりえた者は、その幸福をいっそう感謝すべきであるが、
躓きもまた感謝する価値がある。

そうすればわれらは人生のどこにも
感謝すべきものが充ちていることを発見しうるのである。

           <感謝合掌 令和2年8月5日 頓首再拝>

萬物(ばんぶつ)ただ感謝あるのみ - 伝統

2020/08/17 (Mon) 04:56:45


      *『生長の家』(昭和25年6月17日の法語)より

神さま ありがとうございます。

眠っている間も
私の生理作用をつつがなく いとなましめ給い、
なくてならぬ日常のものを与え給い、
色々のよきものを あなたは恵み給いました。

神さま ありがとうございます。

あなたは愛でいらっしゃいます。

私はあなたの愛を、
青空をみても、
輝く日光をみても、

空気を吸うても、
梢(こずえ)の若葉をみても

感ずることができるのです。


神さま、私は凡(あら)ゆる所に
あなたの美しき智慧を感ずることができるのです。


空の星の動き、
罌粟(けし)の花の装い、
美しき藤の花。

神さま ありがとうございます。

  (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2

           <感謝合掌 令和2年8月17日 頓首再拝>

精神分析で止まるな! 感謝にまで誘え! - 伝統

2020/08/28 (Fri) 04:16:44


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月28日)より

若い娘さんがお嫁に行って、その家庭がおもしろからぬ場合に、
なんとかしてその婚家先から逃げ出そうという思いを起こすと、
病気になったりすることがある。

病気になったら実家に帰れると思うと
潜在意識がその目的を達成させるために肉体を病気にならせるのである。

嫁が、そういうふうに逃げ出そうと思っているかぎりは
本当の真心を尽すことができないから、舅、姑から見ても
百パーセントその嫁が真心を尽しているというように見えないから、
舅姑の方でも不満足である。

そこでどうしても嫁に対して冷たく当たるということになる。

そして嫁と岳父母(しゅうとたち)との間に仕切りができたようになる。

けれども逃げ出すことができない。
逃げ出すことができないのを逃げ出すために病気にでも
なるほかしかたがない。

そこで潜在意識が病気をつくるのである。

夫婦間の仲がわるいために病気になれば、
胸の病気か、泌尿器生殖器の病気となって現われる。

岳父母(しゅうとたち)を憎んだり、自分をこんな家へ嫁がせたのは父母が悪いと、
父母を恨んだりすると脊椎カリエスになったり、頭の病気になったりする。

こうしてその人を精神分析しただけでは病気は治らない。
本人を説得して、本人の不平や憎みを捨てさせねばならぬ。

「ここがわたしの家である。どんな苦しみであろうが
どんな悪いところであろうがわたしの家である。
わたしが受けてそれを改善してゆくしか道がないのである」

そう思って、受くべきものを受けてしまう心境にならせたときに、
そしてそれを感謝の念に変えしめた時に苦しみというものが
消えてしまうのである。

これが和解の真理の応用である。
和解の真理というものは、都合のいいことだけに和解している
のじゃ足りないのであって、悪く見えるものをそのまま素直に受けて拝む。

痛み来たれば痛みに礼(らい)し、熱来たれば熱に礼し、下痢来たれば下痢に礼し、
いかなる症状をも敵と思わず、自然療能の催しなりとして感謝して受けるのである。
―― この心境に導くとき、病が消える。カリエスが消え、癌が消える。

精神分析は、分析の仕荒(しあ)らしだけではいかぬのである。
最後は「天地一切のものに和解し、感謝せよ」という宗教的心境にまで
誘導することが必要なのである。

神経性心悸亢進症などは心臓の動悸を恐怖していたのを、
一転して「心臓が動悸しているので血が循(めぐ)っているのである。
ありがとうございます」と感謝の言葉を唱えさせるだけで、
治ってしまった実例がある。

以前樺太の敷香(しすか)町の巡査をしていた星平治という人のごときは
札幌医大で両腎臓が結核に冒されているから治療の道なしと宣言せられたのを、

腎臓の疼痛ごとに
「自然療能博士が治してくださる信号だ。ありがとうございます」と
その疼痛に感謝し妻に和解するように指導しただけで治ってしまい、
戦争中召集されて満州へ3年も従軍していてなんら病気が再発しなかった
と報告せられた実例もある。

腎臓の病気も夫婦の心的葛藤から来るのであるから、
それを調和させたとき治った実例は多い。

           <感謝合掌 令和2年8月28日 頓首再拝>

すべてを感謝に変える - 伝統

2020/09/03 (Thu) 04:46:23


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(P73<9月3日>)より

人を審判(さば)く者は、また自分も審判(さば)かれるのである。

聖書に「人の負債(おいめ)を赦せ」とあるのは、人に金を貸してあるのに
その借金証文を全部焼いてそれを帳消しにせよという意味ではないのである。
そんなことをしたら商取引は成り立たないのである。

「あいつはわしに損かけている」という感じを捨てて、
「あの人のお陰で商売(その他なんでも)が成り立っているのだ。ありがとうございます」
という気持ちになることなのである。

憎しみや、呪いや、腹立ちの感じを感謝に変化してしまうことである。

できるならば、憎んでいた人の名前をいちいちとなえて
「わたしはあなたを赦しました。わたしはあなたに感謝しています。ありがとうございます」
と毎朝夕20分くらいずつ思念するがよい。

             <感謝合掌 令和2年9月3日 頓首再拝>

《現在与えられている物に感謝したとき次のより大なる恵みが与えられる》 - 伝統

2020/09/13 (Sun) 03:01:49


          *「真理」第9巻生活篇第14章(P387~388)より

現在与えられている物に感謝したとき、次のより大いなる恵みが与えられる

1日に1回(又は朝夕2回)心を平和に明るくして、心を神の方向に振向け、
既に現に与えられている神の恵み(空気でも水でも日光でも皆神の恵みである。
私たちはこれに感謝することを忘れていた)に感謝しましょう。

その感謝の念が、既に与えられている供給の流入口を拡大することになるのです。

その次には自分の欲する事物の状態を心に描いて
「神は私のなくてはならぬものを知りたまう。
 既にそれを与えたまうて有難うございます」と云う、

欲する事物の成就と感謝の思念を致しましょう。

暗い考えや、危惧の念をいだいたりしてはなりません。

暗い考えや、危惧の念は既に与えられている事物が、
実相界から現実界へ投影するための「心のレンズ」を曇らせることになるので、
完全にその事物が現象界にあらわれて出なくしてしまいます。

             <感謝合掌 令和2年9月13日 頓首再拝>

《天地万物に感謝せよ》 - 伝統

2020/09/18 (Fri) 04:58:02


        *『 生長の家 』(昭和26年7月1日の法語)より

   ブラザー・ローレンスは

   「 自分は神の愛を感じながら フライパンの上でケーキを焼く。
   神の愛を感ずるには 自分にとっては 地に落ち 散っている
   藁(わら)ひと筋を拾うだけで充分である 」

   と云(い)ったそうである。

   「 木の切株に腰をおろすときには その切株を拝んでから腰をおろせ。
   大根を抜くときには、大根にお礼を云ってから抜け 」
   と云うのが金光教祖の教えであった。

   一筋の藁、一本の大根、それに神の愛を感じ、
   感謝出来るのが宗教的境地であって、
   金が儲(もう)かるから集ると云うのは 相場師の境地である。

   百丈和尚(ひゃくじょうおしょう)は 一枚の大根の葉が流れ行くのを
   追っかけて往(い)って拾って頂いたと云う。


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/549262d625380b2d3657ed29ac99f2c9

   (*「幸福を招く365章」(P212~213)に収載)

             <感謝合掌 令和2年9月18日 頓首再拝>

《一切万事、神より来る、唯感謝あるのみ》 - 伝統

2020/09/25 (Fri) 03:20:47


         *『 生長の家 』(昭和43年3月29日の法語)より

   「 神 」即ち「 生命力 」が去ったならば、一瞬間もあなたは立っていられないのである。

   その美しい肉体は筋肉美も皮膚の美も悉く失われてしまうのである。
   あなたが均斉(きんせい)のとれた美しい肉体、つやつやした美しい皮膚をしているのは
   「 神 」があなたの中に内在しているからである。

   食物(たべもの)が胃袋の中で消化されるのでも、胃袋が食物を消化するのではなく、
   神が消化したまうのである。

   私達は毎日、神によって護られ、導かれ、生かされて来たのに、
   “ 自分が ”生きているかの如く錯覚して神に感謝する事を忘れ過ぎていたのである。

   道を歩むとき、空気を吸うとき、食事のとき、仕事をするとき、何事でも気がついた時、
   神の恩恵のあまりにも裕(ゆた)かであることを想い起して感謝せよ。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121

             <感謝合掌 令和2年9月25日 頓首再拝>

幸せヒント・今日一日で 一番大事なことは、感謝 - 伝統

2020/09/27 (Sun) 02:13:51


          *Web:今日も良いことがあるように(2019/08/17)より

《一番大事なことは、感謝》

   今日一日で
       一番大事なことは、感謝


どれほど忙しくても、感謝は最優先にすべきことです。

感謝すべきときに感謝しないと、先延ばしになります。

忙しさにかまけて、気持ちがうすれてしまいます。

感謝を忘れてしまえば、良い人間関係も仕事の成功も長続きしません。

   ★これでハッピー!★ 

     いますぐ感謝のメール(はがき)を書こう。


《あなたが感謝するほど、》

   あなたが感謝するほど、
           あなたは感謝される

感謝はあいさつと似ています。

すすんで与えたものは、いずれ返ってきます。

人に「ありがとう」と言っていれば、
「ありがとう」と言われるようになります。

あなたが人に感謝する人であれば、
あなたは人から感謝される人になります。


  ★これでハッピー!★ 

    自分からすすんで感謝しよう。


《親切な人だけに》

   親切な人だけに
        感謝していませんか 

感謝すべき人は、まわりにたくさんいます。

感謝すべき人は、あなたを叱ってくれる人です。

そのおかげでいろいろな気づきが得られます。

感謝すべき人は、あなたのライバルです。

そのおかげで自分の力を伸ばせます。

あなたを苦しめる人のおかげで、あなたは成長し、夢がかないます。


  ★これでハッピー!★ 

    出会う人、皆に感謝しよう。


《神頼みする前に》

  神頼みする前に
        感謝する


お願いするだけでは、願いはかないません。

お願いする前に、感謝したほうがいいでしょう。

なぜなら、生まれてからずっと、助けてもらっているからです。

感謝知らずの人からは、人も神様も離れていきます。


  ★これでハッピー!★ 

    これまで助けてもらったことに感謝しよう。


《神様の助けがある》

   感謝する人には
         神様の助けがある

神様は感謝する人が好きです。

感謝する人は、素直で謙虚だからです。

成功しても、自惚れないからです。

神様はそんな人を、優先的に助けてくださいます。

 
  ★これでハッピー!★ 
 
    神様にも感謝しよう。

 (https://lucky.t-nakai.work/2019/08/17/happy-25/

             <感謝合掌 令和2年9月27日 頓首再拝>

忍辱から感謝へ - 伝統

2020/10/12 (Mon) 04:40:41


    *「光明道中記」(10月12日《人を全部宥(ゆる)す日》)より

【人を恨む心を以てしては恨み心を解くことは出来ぬ。(『生命の實相』第七巻)】

尤も仏教でも忍辱(にんにく)と云う到彼岸法(はらみたほう)をただ如何なる苦痛も、
迫害も、圧迫も、意地悪も耐え忍ぶと言う如く「怺(こら)える」程度に於てのみ
説いている訳ではない。

これは「忍辱」の第一段階であって他より害を加えられたのを耐え忍ぶところの
(一)”耐忍”である。

更に仏教では(二)”安忍”と云うのが説かれている。単に怺えるのではなく、
安んじて忍受するのである。受くべきものは受けるより道はない。
逃れようとすればする程苦しいのだと云う真理を知って安んじてうけるのである。

この境地に於ては病気が治ることさえある。

生長の家でも、病苦に喘いでいる人にこの「安忍」を説くことによって
病苦頓(とみ)に癒される実例さえある。

更に仏教ではその上の段階の「忍辱」が説かれている。

それは(三)諦忍(たいにん)と言うので、迫害する者も迫害される者も、
それらは”有る”ように見えても本来存在しないと道理を諦めることによって
瞋(いかり)の心を除くようにするのである。


生長の家ではもう「忍」と言わずに(四)感謝を説くのである。

迫害者も被迫害者も本来存在しないと否定して諦(あきら)めるのではなく、
斯く見えているのは観世音菩薩が我らを済度し給う為にわが心の相(すがた)を
仮りに斯くの如くあらわし示し給うのである。

有難いと、感謝の心を積極的に起すのである。

           <感謝合掌 令和2年10月12日 頓首再拝>

一切を感謝に変える - 伝統

2020/10/13 (Tue) 04:50:10


    *「光明道中記」(10月13日《甘露を飲む爽やかな日》)より抜粋

【一つの憎みは十人の憎みを招び、一つの愛念は百人の愛念を招ぶ。
                      (『生命の實相』第十一巻)】


「忍」がまだ自覚されているのは「忍」の最上のものではない。
キリストは、「終りまで耐え忍べ」と言ったし、また「汝の敵を愛せよ」とも言った。

「終りまで耐え忍べ」と云う語(ことば)には「忍」がまだ忘れられていないし、
「汝の敵を愛せよ」と言う語は、「忍」が超えられて「愛」に変じている点では
一段の進歩ではあるけれども、まだ「敵」が忘れられていない。

生長の家では「敵はない」と言い、「忍」に代うるに「感謝」を以てするのである。

(中略)

どうしても一切を感謝に変える生長の家の到彼岸(はらみた)術は
忍辱波羅蜜多以上のものである。


           <感謝合掌 令和2年10月13日 頓首再拝>

《自己に宿る自然療能力に感謝せよ》 - 伝統

2020/10/27 (Tue) 04:46:14


       *『 生長の家 』(昭和26年7月5日の法語)より

   肉体を讃美するのは 必ずしも肉体主義でも
   エロティシズムでもないのである。

   肉体は 神の自己表現の機関として、神が創造したまいし
   理念の形象化(かたちになったもの)であるのである。
   だから肉体を神の宮とも云うのである。

   神の自己表現の機関である肉体は 健康であるように、
   美しくあるようにつくられたのであり、

   その美と健康とを維持するように 内部に自然療能
   (神御自身の再生能力)を与えられているのである。

   常に神の再生能力は 吾(われ)らを生かし、修復し、若返らせ、
   疲労を恢復(かいふく)せしめつつあるのである。

   その驚くべき恢復を発現せしめようと思うならば、
   先ず、その力の存在を認め、それに感謝することである。


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/e8ba579a5ccc941d9989c4bf18a4b634

           <感謝合掌 令和2年10月27日 頓首再拝>

真の「ありがたさ」 - 伝統

2020/10/28 (Wed) 04:49:03


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月28日)より

感謝は必要であるが、ただむやむにありがたいばかりでは足りないのである。

神がすべてのものをすでに与えられている実相を知ってのありがたさに
ならなければ本当ではない。

ただ手段として「ありがたい」を言っていれば
無限供給やいろいろの利益が与えられると
思うのは「ありがたい」を手段として、方法としたのである。

手段や方法は過程であり、実験室でのことである。

ある程度の功徳は実験せられるかもしれないが、
大生命の海原にそのまま坐しているような大きな功徳はないのである。

法悦というものは手段としての「ありだたさ」でもなく、
方法としての「ありがたさ」でもなく、
利益が得られたからの「ありがさた」でもなく、

そのまますでに与えれている意味での「ありがたさ」である。

           <感謝合掌 令和2年10月28日 頓首再拝>

すべてのものに感謝を行ぜよ、感謝は恵みを増幅する - 伝統

2020/11/09 (Mon) 04:29:51


          *「精神科学」(昭和45年9月号)より
           ~維摩経を語る―承前―    谷口雅春先生


吾々は、
すべてのものに感謝しなければならない事は当然のことであります。

人間はみな文化的生活を送る権利があると占領憲法は、
権利ばかり主張して感謝の念を起させないように、
不平の念を起して内部紛争で国内の治安を紊(みだ)すように
煽動されているが、

いくら幸福の中に居っても、もし感謝の念を忘れて、
権利の利劔で角衝き合わしていては幸福ではないのである。

感謝の念というものは、
与えられたところのものを反射して輝かす心である。
幾ら光線があっても、光を反射する何物もなかったら其処は暗いのである。

太陽から常に平等に光線が降って来ていても、地球の空気圏を離れて
宇宙船で真空圏へ行ったら、そこは暗黒なんです。

周囲は暗黒で、光を反射する地球の方を見ると、
「地球だけは明るくて、青かった」と飛行士は言っている。

地球がこうして明るいのは、空気があって太陽の光を反射して、
光を八方に拡散してくれているから全体が明るく見えているのである。

何にも反射するものがなかったら、どんなに太陽の光線が来ても、
そこは真っ暗がりなんです。


http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7993594

           <感謝合掌 令和2年11月9日 頓首再拝>

和をもって、感謝に変えるとうまくいく - 伝統

2020/11/21 (Sat) 04:27:35


       *「全感謝の練習」喜楽・著(P180~184)より

日本人は、古くから「和」を重んじて大切にしてきました。

「和」の精神は、世界に誇れる、
日本人を語るときに最も重要なキーワードです。


私たちの祖先は、狩猟を中心とする旧石器時代から、
縄文時代には植物性の食材の採取・栽培や道具の開発をする
ようになりました。

その後、弥生時代に入ると水稲耕作が中国から伝わり、
灌漑や排水用の水路を整備する必要から、
人々はともに協力し、集落を形成するようになりました。

すると、集落同士で争いが起こります。それが戦いに発展し、
強い集落が弱い集落を吸収するかたちで小国ができあがりました。

その後も小国同士の争いは続きました。

このままではいけないと思った小国の首長たちは
話し合い、小国同士が協力し合って政治連合がつくられました。
これが「ヤマト政権」のはじまりです。

ヤマトとは大和。大いなる和をもって問題を解決し、
ともに発展していくという人々の思いが込められています。

624年には、国としての初めての憲法、
「憲法十七条」が聖徳太子によって制定されました。

これは、豪族たちに国家の官僚としての自覚を求め、
国としての理念を示したものです。

その第一条には、
「和を以て貴しとなし、忤(さか)ふること無きを宗とせよ」とあります。

そして、遣隋使・遣唐使を中国に派遣し、
積極的に中国の文化や学問、仏教も取り入れていきました。
それも、ただ取り入れるだけではなく、独自に発展させていったのです。

これこそが、「和」の精神です。

「和」というと、「みんな仲良く」は良いのですが、
「和」を乱さないために「我慢しなければいけない」とか、
多数決が優先するように思われていますが、
本当の「和」とは、そうではありません。

「和」とは「一即全」であり、「全即一」です。
全体で一つであり、一つ一つが全体を構成していて、
その一つ一つはどんなに小さくとも、
大切な全体を構成するための一つなのです。

私たち日本人は、
この「和」の精神で、様々な困難を乗り越えてきました。

日本はもともと天災の多い国です。
地震、津波、雷、台風、大雨、竜巻など、つねに大自然の脅威にさらされ、
ときには壊滅的な大打撃を受けることもありました。

それでも私たちはまた、必ずそこから復活してきました。
それは「和」の力があればこそです。

良いときは喜びを分かち合い、大変なときはともに助け合う。

だから私たちは第二次世界大戦の焼け野原から、
世界第二位の経済大国にまで成長しましたし、
大震災の後も大きな混乱や略奪もなく、
世界から尊敬の目で見てもらえるのです。

私たち日本人が古くから培ってきた「和」の精神。
それは一人ひとりのDNAに刻まれています。
だから私たち日本人には、
あらゆる困難を乗り越えられる力があるのです。


この力を私は「調和力」と呼んでいます。
調和のとれたものは美しいものです。
だから「調和力」は美しさや楽しさがともなわないと発揮されません。

「調和力」とは、相手の夢もかなえ、自分の夢もかなえる力です。
近江商人は「三方よし」を大切にしました。
「自分が良くて、相手も良くて、世間にも良い」ということです。

「自分だけは得してやろう」とか、
「自分は犠牲になってもいいから」では、
「調和力」は発揮されないのです。

では、この「調和力」を発揮するためにはどうすればいいのか。


そこで必要になるのが「全感謝」です。

ただ「ありがとう」というのは「感謝」です。
「ありがたいこと」には感謝して、
「ありがたくないこと」には感謝できないのは普通です。

これに対して、すべてを受けとるのが「全感謝」です。
「ありがたいこと」に感謝して、
「ありがたくないこと」にも感謝する。

イヤなことやつらいことに、
「無理しても感謝しなさい」というこではありません。

「感謝できないこと」は、
「感謝できないこと」として受け止めるのです。
受け止めたうえで手放す。「結びと解き」ですね。

そして、「感謝できないこと」からなにかを学び取り、
「感謝できること」に変えていくのです。
それが「全感謝」です。

「全感謝」で見たとき初めて、
あなたに起こった出来事の一つ一つが意味を持ちます。

一つとして無駄な出来事などなかったことがわかります。
これも「一即全・全即一」です。

こうしてあなたの中に調和が生まれたときに、
あなたの真の力が発揮され、人生が好転しはじめるのです。

           <感謝合掌 令和2年11月20日 頓首再拝>

受けた恩恵に感謝する心を起す - 伝統

2020/12/04 (Fri) 04:49:44


          *「精神科学」(昭和45年9月号)より
           ~維摩経を語る―承前―    谷口雅春先生


“菩薩、心浄ければ仏土浄し”

地球を離れて上昇して、真空圏にある宇宙船から地球を見たありさまを
「明るく青く見える」と言って写真にまで撮れるのは、地球が光を
反射しなかったら、光はあれども光はないと同じ事である如く、

兎も角も、この光を反射する心――受けた恩恵に感謝する心
――「有難うございます」と、光を反射する心を起さなければ、
どんなに豊かに恵福の充ち満ちている世界にあっても、
そこは修羅場であって、天国浄土は出来ないという事になるのです。

だから維摩経には「菩薩、心浄ければ仏土浄し」と釈尊は仰せられている。

すると弟子が「この世界が浄らかでないのは、お釈迦様、
あなたの心が浄らかでないからですか」と訊いている。

すると釈尊は「日月の光は常に浄らかであるのに、暗いというのは、
日月の罪ではない。それは盲者自身の罪である」と答えていられる。

なかなか興味ふかい問答であります。

http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7993594


           <感謝合掌 令和2年12月4日 頓首再拝>

《感謝は休息の本質である》 - 伝統

2020/12/15 (Tue) 05:03:23

      *『 生長の家 』(昭和23年3月24日の法語)より

   感謝のない休息は
   本当の休息とはならない。

   感謝のない安眠は
   本当の安眠とはならないものである。

   時々刻々の感謝は、
   時々刻々の休息となる。

   休憩したら「ありがとうございます」と
   感謝すること。

   安眠の直前に神に感謝し、
   会社、官庁又は家族の各員に感謝し、

   「 有りがとうございます 」 と心の中で念じつつ、
   その 「 有りがとうございます 」 の言葉が
   呼吸と共に全身に爪先まで満つる様な気持で就寝すれば、

   その眠りは安らかであり、
   病気があっても速やかに癒えるのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13230320.html?type=folderlist (消滅)
    → http://meikyou123.livedoor.blog/archives/4983311.html

           <感謝合掌 令和2年12月15日 頓首再拝>

すべてを赦し、感謝して眠りに入る - 伝統

2020/12/23 (Wed) 04:40:46


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月23日)より

わたしの『光明の生活法』の本の携帯版が気持ちのよい形で、
そんなどぎつい装飾もなしに、ととえば夜しずかに降りて万物を
うるおしてくれる夜露のように質素な、そして典雅な形で出た。

常にこの書を携帯していちいちその生活法どおり実行する者は幸いである。

この生活法を常に実行している者は常に健康であるに相異ない。

不健康とは、生活が不健康であり、
思いが不健康であることの反映であるに過ぎない。

人間の実相(そのまま)は健康であるからである。

わたしは『光明の生活法』の中で就寝前の15分間の神想観の方法を
説いておいたが、それを病気の治癒に応用する場合に特に注意すべきことは、
就寝前に、その日、またはそれまでの日において呪っていた人々を釈(ゆる)し、
憤(いきどお)っていた人々を宥(ゆる)し、憎んでいた人々を恕(ゆる)し、
自分の好まない人たち、反感ある人たちとその過失とを
ことごとく赦して眠ることである。

眠っている間に最も多くの癒しの神力(自然療能)は進行するのである。

「私はもうあの人を憎んでいない。」
あの人があの時ああいう態度に出たことは、
かえってわたしにとって必要なことだったのである。

わたしが彼を憎んでいたのは、わたしの観察眼が狭いために、
あの人がああいう態度に出たことを、
自分に害があるように思って思いちがいしていたにすぎないのである。

本当はあの人がああしてくれたので、わたしの《ため》になったのである。

わたしはあの人に感謝する。
何某(なにがし)よ、わたしはあなたに感謝する。本当に感謝する。
わたしはあなたに感謝し、あなたを祝福するものである。
ありがとうございます。ありがとうございます。


こう、精神を静かに調(ととの)えながら、繰り返し繰り返し念じて、
全き平和の心境に達したとき寝てしまうのである。

一日の最後の時間を赦しと感謝とで満たすこと、
それは健康に重大な関係があるのであるが、
健康に関係がなくとも、それはそのままありがたいことではないか。

寝床(ねどこ)に入(い)れば、
すぐ次のごとく念じて感謝のうちに熟睡に入(い)るべきである ――

「枕よ、ありがとう。寝床(ねどこ)よありがとう。
蒲団よ、ありがとう。寝巻よ、ありがとう。
空気よ、ありがとう・・・」と

なんでも周囲に見出され、思い浮かべられるすべてのものに
感謝の言葉を心のうちに唱えながら眠りに入(い)るのである。

こうすれば不眠症の人でも直ちに熟睡に入(い)ることができるものである。

            <感謝合掌 令和2年12月23日 頓首再拝>

《感謝の念は供給を増す》 - 伝統

2021/01/09 (Sat) 04:43:18


         *『生長の家』(昭和26年4月8日の法語)より

   チャールス・フィルモァは 『 心の原子爆弾的力 』 と題する書のなかで、

   『 我らが既にもてるもの、又は神の子として我々自身に期待し得るものに対して
   感謝する言葉は、唯(ただ)の一語でも、神の無限供給の本源より
   豊かなる供給を発掘する力があるのである 』 と云っている。

   それをメリー・ルーイズ・キュープファール女史は 註釈して、
   その感謝の実践は 「 什一税の実践 」 が最も好いのであるとしているのである。

   什一(じゅういち)税と云うのは 自分の収入の十分の一を神に感謝の意味で
   献げることなのである。

   その什分の一を献納することも
   慾ばる心や、単に機械的に行うのでは可(い)かぬ。

   真実感謝の念が伴わなければならないのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12215673.html

            <感謝合掌 令和3年1月9日 頓首再拝>

《目覚めてはかく念ぜよ》 - 伝統

2021/01/10 (Sun) 04:22:02


       *「光明法語」(1月10日)より

朝眼が覚めたときが一日の出発である。
一日の出発を祝福されたるものにしなければならない。

一日の出発を祝福されたるものとするには、
既に与えられている祝福を数え上げることによって
それを感謝することから始めねばならない。

目が覚めると唇に「ありがとうございます」と感謝の言葉から
その日の生活を始めるのである。

眠っている間じゅう心臓を鼓動せしめ、肺臓を呼吸せしめ、胃腸をして消化せしめ、
色々の臓器をして各々の役目を完全に果たしことを神に感謝するのである。

         <感謝合掌 令和3年1月10日 頓首再拝>

恩恵に包まれている - 伝統

2021/01/11 (Mon) 02:35:22


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月10日)より

冬の日光ほど嬉しいものはない。
寒いときに日光の恩恵について考えるほどには、
われわれは空気の恩恵について感謝していない。

われわれは食物に感謝するように空気にも感謝しなければならぬ。

われわれは空気の恩恵について感謝すべきことに気がついたとき、
われわれの周囲に感謝すべきものがかくも多数に充ち満ちていることに
気がつくだろう。

大地、家、畳、すべての調度
 ―― ひとつも自分が造ったことのないこれらのものを
われわれは平然と使いながら生きているのである!

         <感謝合掌 令和3年1月11日 頓首再拝>

感謝が仏であり、慈悲が仏であり、拝むこころが仏である - 伝統

2021/01/19 (Tue) 04:50:24


     *「光明道中記」(1月19日《万物有り難く合掌する日》)より

【そのままで既にその本来相が仏であり神の子である。(『生命の實相』第六巻)】

そのまま有難いと拝むこころが仏である。
仏はどこに在るかと探して見ても判らないが、
有難いと汝が感謝している心がそのまま仏である。

感謝が仏であり、慈悲が仏である。
仏が隠れた相(すがた)が鬼である。
鬼と云うものが別にあるのではない。仏が隠れたのが鬼である。

死んだら鬼に成ると云うのは、死ぬとは生命が其処から離れたと云うことに他ならぬ。
生命が現れたら鬼は自ら消えるのである。

お前は鬼のような心をしている ―― と言われたら、
大抵の人間は「そんな筈はない」と言って驚く。

併し「貴方はそれでは感謝と慈悲とに充たされているか」と訊くと
「そうではありません」と答える。

感謝に充たされていない者は鬼なのである。
慈悲に満たされていない者も鬼である。

今日から鬼である事を止め、今日から仏にならんとするのは大いなる進歩である。

         <感謝合掌 令和3年1月19日 頓首再拝>

《感謝は恩恵の流れに対してスイッチを捻る事である》 - 伝統

2021/02/01 (Mon) 04:59:01


         *「光明法語」(2月1日)より

吾々は電燈の光を得ようと思えば先ずスイッチをひねる事が必要である。
先ず吾々みずから或る力を与えるのである。
すると光が与えられる。

太陽は照っていても、その光を受けようと思えば先ず自分が眼を開かなければならぬ。
眼を開くと云う動作を与えることによってのみ太陽の光は与えられるのである。

そのように吾らはすべての恩恵を与えられているのであるが、
それは先ず自分が恩恵に向かって感謝することによってのみ、
その恩恵がわがものになるのである。

感謝すると云うことはスイッチを捻(ひね)る事に当る。

         <感謝合掌 令和3年2月1日 頓首再拝>

《感謝はあなたを健康ならしむ》 - 伝統

2021/02/13 (Sat) 04:49:34


        *『 生長の家 』(昭和26年4月25日の法語)より

   毎日自分の身体に感謝せよ。
   それを物質として感謝するのではなく、神の「 霊身 」 として、
   神の霊がわが肉現として顕(あら)われましますとして感謝せよ。

   瞑目して 自己の頭髪に感謝せよ。脳髄に感謝せよ。
   脳髄が常に若くその血管が柔く弾力があり、
   判断力も記憶力もいつまでも優秀であることに感謝せよ。

   自己の眼(め)が神様の眼であり、神の創造の美しさを
   神自身 見たもうための器官であることを感謝せよ。

   自己の耳が神様の耳であり、神の創造せる妙(たえ)なる自然の言葉を
   神自身 味いたまうための器官であることを感謝せよ。

   かくて鼻に感謝し、口に感謝し、すべての内蔵に感謝するのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12241704.html

         <感謝合掌 令和3年2月13日 頓首再拝>

《今ある恵みに感謝せよ》 - 伝統

2021/03/04 (Thu) 06:55:30


        *『 生長の家 』(昭和26年4月28日の法語)より

   この病気を、この不幸をと
   自分の肉体や環境を呪(のろ)う時間があるならば、
   
   同じ手間であるから、
   何か自分にとって与えられている恵みがあるならば
   それを思い出して祝福せよ、感謝せよ。

   眼(め)が見えるならば眼に感謝せよ。
   耳が聴こえるならば耳に感謝せよ。

   肺臓が悪いからとて、
   他のところまで呪う必要はないのである。

   その呪う心、感謝の足りない心が 胸にたまって胸の病いとなり、
   腹にたまって腹の病いとなっているのである。

   感謝と愛とは
   病いと不幸を癒(いや)す車の両輪になっているのである。

   愛も愛着では可(い)かぬのである。
   愛は 「 人のために捧げること 」 である。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12256328.htm(消滅)

         <感謝合掌 令和3年3月4日 頓首再拝>

《神に対する讃美(さんび)と感謝》 - 伝統

2021/03/09 (Tue) 03:02:35


        *『 生長の家 』(昭和26年6月9日の法語)より

   神は決して吾々の讃美の言葉や、感謝の言葉によって
   動かされるような方ではないのである。

   神を讃美する言葉や、神に感謝する言葉は、
   人間の心を動かして、神の既に与え給うていられる
   恵福(めぐみ)に対して、受信しやすい「心の波」を
   作ることになるのである。

   形にあらわれたる恵福(めぐみ)は、神の目に見えざる恵福の波が、
   人間の心の受信機を通して「形」に翻訳されたる
   テレビジョン映画のようなものである。

   あらゆる恵みは充ち満ちているのに、
   その中(うち)自分の心の波が捉(とら)え得たものだけが、
   吾々の感覚の世界に翻訳されて出て来るのである。

   恵みの波の受信に必要なる 自分の心の波を調律する方法が
   讃美と感謝とである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127

         <感謝合掌 令和3年3月9日 頓首再拝>

感謝する - 伝統

2021/03/27 (Sat) 02:12:34


       *Web:モチラボ より抜粋

(1)「感謝する」ことが幸せへの道

  ①「感謝の心が高まれば高まるほど、
    それに正比例して幸福感が高まっていく」(松下幸之助)

  ②人は、感謝しながら他人を恨んだり、怒ったり、
   自暴自棄になったり、絶望を感じることができません。

   つまり、感謝は不安や恐れを振り払う効果もあるわけです。

  ③感謝する習慣で、あらゆるものが好転し始めます。


(2)感謝のエネルギーは枯渇しない

  ①感謝していると、無理のない気持ちの良いエネルギーが湧いてきます。

  ②「不満はね、ストレスの素よ。感謝はエネルギーになるのよ」(森光子)


(3)自分から感謝しにいく

  ①幸せのためにはもっと感謝する機会がたくさんあった方が良いのです。

   そのためには、受け身で「感謝できる状況」を待つのではなく、
   自ら主体的に「感謝しにいく」ようにする必要があります。

  ②すべての物事には良い面もあれば悪い面もあります。
   言い換えると、同じものでもそれを見る人によって
   「良いもの」にもなれば「悪いもの」にもなります。

   
   例えば「朝起きてみたら雨が降っていた」
   ……それをどうとらえるかはその人次第です。

   「あー最悪。ついてない。靴や洋服が濡れるし、傘が邪魔。」
   と思うでしょうか?

   それとも「雨が降れば木々は育つし、雨があるから
   太陽のありがたみを感じることができる、ありがたいことだ。」
   と考えるでしょうか?


(4)繰り返していればそれが習慣になる

  ①感謝には、その1日を楽しくしてくれるだけでなく、
   人生を変える力があります。

  ②感謝はあなたの最善を引き出します。

   (https://motivation-up.com/up/kansha.html

         <感謝合掌 令和3年3月27日 頓首再拝>

人生と云う食膳に上り来る出来事をありがたく食する - 伝統

2021/03/31 (Wed) 04:48:15


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月31日)」より

必需物(なくてならのもの)はすべて与えられている。
必需物(なくてならのもの)は一つの事物ではない。一つの事物にのみ執着する者は、
自分の人生に流れ入って来る「神の与えた必需物(なくてならのもの)」を拒むものである。

世に肥(こ)えることのできない児童に偏食者というのがある。
食膳に上がったものをそのままありがたく受け入れない。
アレかコレかの選択が多すぎる者である。

食膳の食物(しょくもつ)をすべてありがたく拝んで食べる者の
胃腸病は治って肉体が肥えてくるように、

自分の人生に流れ入(い)ってくるいっさいの事件を喜んで受け、そのすべてから滋味を吸収し、
去り行くコースには執着せず、新たに人生の食膳に上(のぼ)り来るものを
また新たに合掌して受け、食する者はついには人生の豊かなる肥満者となるのである。

            <感謝合掌 令和3年年3月31日 頓首再拝>

《感謝の念は供給を増す》 - 伝統

2021/04/08 (Thu) 03:17:38


        *『 生長の家 』(昭和26年4月8日の法語)より

   チャールス・フィルモァは 『 心の原子爆弾的力 』 と題する書のなかで、

   『 我らが既にもてるもの、又は神の子として我々自身に期待し得るものに対して
   感謝する言葉は、唯(ただ)の一語でも、神の無限供給の本源より
   豊かなる供給を発掘する力があるのである 』 と云っている。

   それをメリー・ルーイズ・キュープファール女史は 註釈して、
   その感謝の実践は 「 什一税の実践 」 が最も好いのであるとしているのである。

   什一(じゅういち)税と云うのは 自分の収入の十分の一を神に感謝の意味で
   献げることなのである。

   その什分の一を献納することも
   慾ばる心や、単に機械的に行うのでは可(い)かぬ。

   真実感謝の念が伴わなければならないのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12215673.html (消滅)

            <感謝合掌 令和3年年4月8日 頓首再拝>

《すべての物に感謝する祈り》 - 伝統

2021/04/09 (Fri) 02:53:39


         *「光明法語」(4月9日)より

また神はすべてのものの内にましますが故に、すべてのものに感謝し、
それを讃(ほ)めたたえることは偉大なる祈りである。

神に感謝しても万物に感謝しえないものは、
真に全く神に感謝しているのではないのである。

ただ神に対する祈りは、神の表現である「万物」に対する祈りよりも、
尚一層直接的であると言い得るのである。

されば吾々は毎日或る一定の時間は神に対して
心を完全に振り向ける祈り(神想観)を行事なければならぬ。

それと共に神の表現である万物に感謝しなければならぬのである。

            <感謝合掌 令和3年4月9日 頓首再拝>

「實相無限の善」を今ありと感謝する - 伝統

2021/04/13 (Tue) 02:09:01


         *「光明法語」(4月13日)より 
             《常に感謝する祈り》

常に間断なく善き事を考えている者のみが
善き事を来る様に祈っている事になるのである。

常に間断なく善き事を考えている者とは、常に今ある状態を不平に思わず、
既に「實相の完全な相(すがた)」があるとして感謝している者の事である。

常に感謝している者は、常に善き事を祈っていることになる。

併し、単に今ある状態に甘んじている者は、それ以上の状態を祈っているのではないから、
其れ以上の結構な事物は現れて来ないだろう。

「實相無限の善」を今ありと感謝する者のみが無限に改善し
生長する善き事を得るのである。

            <感謝合掌 令和3年4月13日 頓首再拝>

《感謝はあなたを健康ならしむ》 - 伝統

2021/04/25 (Sun) 04:49:08


        *『 生長の家 』(昭和26年4月26日の法語)より

   毎日自分の身体に感謝せよ。
   それを物質として感謝するのではなく、神の「 霊身 」 として、
   神の霊がわが肉現として顕(あら)われましますとして感謝せよ。

   瞑目して 自己の頭髪に感謝せよ。脳髄に感謝せよ。
   脳髄が常に若くその血管が柔く弾力があり、
   判断力も記憶力もいつまでも優秀であることに感謝せよ。

   自己の眼(め)が神様の眼であり、神の創造の美しさを
   神自身 見たもうための器官であることを感謝せよ。

   自己の耳が神様の耳であり、神の創造せる妙(たえ)なる自然の言葉を
   神自身 味いたまうための器官であることを感謝せよ。

   かくて鼻に感謝し、口に感謝し、すべての内蔵に感謝するのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12241704.html (消滅)

            <感謝合掌 令和3年4月25日 頓首再拝>

《今ある恵みに感謝せよ》 - 伝統

2021/04/28 (Wed) 04:44:47


        *『 生長の家 』(昭和26年4月28日の法語)より

   この病気を、この不幸をと
   自分の肉体や環境を呪(のろ)う時間があるならば、
   
   同じ手間であるから、
   何か自分にとって与えられている恵みがあるならば
   それを思い出して祝福せよ、感謝せよ。

   眼(め)が見えるならば眼に感謝せよ。
   耳が聴こえるならば耳に感謝せよ。

   肺臓が悪いからとて、
   他のところまで呪う必要はないのである。

   その呪う心、感謝の足りない心が 胸にたまって胸の病いとなり、
   腹にたまって腹の病いとなっているのである。

   感謝と愛とは
   病いと不幸を癒(いや)す車の両輪になっているのである。

   愛も愛着では可(い)かぬのである。
   愛は 「 人のために捧げること 」 である。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12256328.html (消滅)

            <感謝合掌 令和3年4月28日 頓首再拝>

感謝報恩の日 - 伝統

2021/04/29 (Thu) 04:17:21


           *「光明道中記」(4月29日)より抜粋

吾々の潜在意識中の優勢観念が、「人間神の子・万事良くなる」という
大信念であるならば、その人の周囲に起るところの大小無数の事件は必ず
其の人が幸福になるように、その人が発展するように好転好転又好転するのである

―― 若しそれでもその人に幸福がやって来ないならば、
その人は傲慢になり過ぎて、万事が神から来ることを忘れ、
自力の信念の効果によるものとして
感謝と報恩との行を忘れて了ったからである。

感謝は「幸福」の機関が回転する心棒に注す油のようなものである。

報恩は「幸福」の機関が生産した物品の配給である。

いくら「幸福」の機関が上等だからとて、
油を注さなかったり、生産品を処置しなかったら、その機関は詰って了い、
「幸福」の機関の運転は停止して了うであろう。

            <感謝合掌 令和3年4月29日 頓首再拝>

感謝で与えられ、不平で奪われる - 伝統

2021/05/10 (Mon) 02:40:53


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月10日)」より

感謝する程度にしたがって与えられ、不平を持つ程度にしたがって奪われる。

           <感謝合掌 令和3年5月10日 頓首再拝>

《天地万物に感謝せよ》 - 伝統

2021/05/20 (Thu) 07:08:09


       *『幸福を招く365章』第10項(P212~213) より

ブラザ-・ロ-レンスは

「自分は神の愛を感じながらフライパンの上でケ-キを焼く。
神の愛を感ずるには自分にとっては
地に落ち散っている藁ひと筋を拾うだけで充分である」

と云ったそうである。

「木の切株に腰をおろすときにはその切株を拝んでから腰をおろせ。
大根を抜くときには、大根にお礼を云ってから抜け」

と云うのが金光教祖の教えであった。

一筋の藁、一本の大根、それに神の愛を感じ、
感謝出来るのが宗教的境地であって、
金が儲かるから集ると云うのは相場師の境地である。

百丈和尚は一枚の大根の葉が流れ行くのを追っかけて往って拾って頂いたと云う。

人生が退屈であったり、無意識に見えたりするのはその人の愛が乏しいからである。
愛して何事でも、愛のために行うならば自然と歓喜が湧いて来て退屈であったり、
無意識に感じられたりする筈はないのである。

仕事が退屈なのは、その仕事を
経済的理由で自分の労力を切売するような気持ちでするからである。

「神様、あなたの愛をこの仕事を通して実現させていただきます。ありがとうございます」

と感謝しながら仕事をするならば、決して仕事は退屈な重荷となってこないのである。

利己主義のところに真の悦びは湧いて来る筈はない。

神の愛を実現する処にのみ真の悦びは湧いて来るのである。 

(初出は「生長の家」昭和26年7月1日~2日の法語)

           <感謝合掌 令和3年5月20日 頓首再拝>

なぜ感謝すると成功するのか、幸せになるのか - 伝統

2021/06/07 (Mon) 04:32:02

     *Web:今日も良いことがあるように(2020/09/15)より抜粋

《幸せだから感謝するのではなく、感謝するから幸せになる。》

子どもの頃から、私たちは「何かいいことがあったら、感謝しなさい」
と教えられてきたと思います。
それはそれで素晴らしいことです。

でも、いまからお伝えしたいことは、
いいことがあったから感謝するのではなく、
感謝するからいいことがある。

ということ。

別の言葉で言い換えれば、

運がいいから感謝するのではなく、感謝するから運がよくなる。

幸せだから感謝するのではなく、感謝するから幸せになる。

ということです。


つまり、感謝すると
「いいことがある」「運がよくなる」「幸せになる」のです。

本当だろうか、と思う人もいるかもしれませんが、本当です。

この世には「感謝するといいことがある」という法則があるのです。

「ありがとう」「感謝します」という言葉には魔法のような力があり、
言われた人はもちろん、言った人も幸せになります。


人間は、感謝しても感謝されても幸せになるようにできているのです。

(信じられない人は別に信じなくていいのですが、
 感謝は神様が私たちに望まれている幸せに至る最良の方法だからです。)


「経営の神様」と言われた松下幸之助さんをはじめ、
世に成功者と言われている多くの人は、この法則にいち早く気づいていました。

気づいているだけなく、この法則を実践し、習慣にしていたのです。

だから、仕事で成功したり、夢がかなったり、運が開けていったりしたのです。

私たちも、自分の幸せのため、まわりの人の幸せのために、
感謝の習慣を身につけていきましょう。


https://lucky.t-nakai.work/2020/09/15/custom-93/

           <感謝合掌 令和3年6月7日 頓首再拝>

「不足」ゆえにこそ感謝しなければならない - 伝統

2021/06/10 (Thu) 03:29:14


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月10日)」より

すべてがすでに与えられて、
もう生み出しの必要のない世界にいるほど退屈なことはない。

「不足」を不平に思う人は、
「不足」をこのゆえにこそ感謝しなければならないのである。

           <感謝合掌 令和3年6月10日 頓首再拝>

当たり前のことに感謝すると幸せになる - 伝統

2021/06/28 (Mon) 02:12:00


       *Web:今日も良いことがあるように(2019/02/26)より抜粋

《どんなことに感謝しますか?》


何か特別なことが起これば、誰でも感謝しますね。
何か大きなことが起これば、誰でも感謝します。
でも、特別なことも、大きなことも、めったには起こりません。

ですから、特別なことや大きなことだけに感謝する人は、
残念ながらいつまでたっても感謝の習慣を身につけることができません。

そういう人は、一日の生活の中で感謝することがないので、
たいてい不機嫌になります。

口から出てくるのは、愚痴ばかり・・・。何か気にいらなければ、文句ばかり・・・。

愚痴や文句ばかり言う人といっしょにいたいとは、ふつう誰も思わないでしょう。
ですから、その人には、いい出会いも、いい仕事にも、チャンスにも恵まれません。


逆に、いつも感謝する人には、いいことが起こります。
感謝する習慣のある人は、ちょっとしたことにでも、
「ありがとう」と言葉に出して感謝してくれます。

穏やかで、にこにこしています。人の悪口や陰口などは言いません。

そういう人といっしょにいると安心するし、楽しく仕事ができます。

ですから、よく感謝する人は、いい出会いも、いい仕事にも、
チャンスにもどんどん恵まれます。

大切なのは、感謝する習慣を身につけることです。

目の前の、当たり前のことに感謝するのです。

いつも起こる、小さなことにするのです。

https://lucky.t-nakai.work/2019/02/26/custom-30/

           <感謝合掌 令和3年6月28日 頓首再拝>

《真に感謝をすれば無限の宝が湧き出でる》 - 伝統

2021/07/12 (Mon) 04:57:10


          *「眞理」第2巻基礎篇第14章(P386)より

既に与えられたる広大無辺の恵みを見ずして、
失われたる甚小(いとちい)さきものを歎く者は愚かなるかな。

既に与えられている宇宙の富に
《真に》唯(ただ)一回でも感謝の念を起して見なさい。

《真に》起されたる感謝の念は、打出の小槌の如く
内在無限の富を揺(ゆ)り出(いだ)す力をもっているのである。

感謝の念の表現は

(1)心で感謝を唱えること。

(2)言葉で感謝を唱えること。

(3)報恩感謝の行動によって感謝を実践すること。

(4)自分の救われた真理を人に伝えること。

(5)神の御恩を顕彰する荘厳供養を行うこと。

(6)人に真理を伝える「道場」を供養すること。

色々わけて見るとまだ多数あろうけれど、
兎(と)も角、《真に》感謝をすれば
上記の6種類位の事は自然にな成されるのである。

           <感謝合掌 令和3年7月12日 頓首再拝>

《「与える」時と「受ける」時との心得》 - 伝統

2021/07/17 (Sat) 02:26:02


          *「真理」第9巻生活篇第5章(P133~134)より

「与えよ、さらば与えられん」である。
しかし与えられる原因を造るためだと思って与えては
それは商売であり、取引であって徳行(とくこう)ではないのである。

無我無心に与えるのであってこそ徳行であるのであり、その徳行の結果、
自然に」与えられる」ようになるのは、自然随伴の功徳であって、
最初からその「与えられる」ことを予想してはならないのである。

予想した物を与えられるならば、それは当然のことであって、
「有りがたい」事ではないのである。

予想しないのに与えられ、あり得る筈がないと思うような功徳が与えられるので、
これは全く有り難いことであると云う意味で、「有りがたい」と云うのである。

すべて受けるものは当然のことと思わず、「有り得ない功徳」と受けると
思って「ありがとうございます」と感謝すべきである。

また受けるとき不当に遠慮して相手の好意を殺してはならない。

           <感謝合掌 令和3年7月17日 頓首再拝>

感謝の行 - 伝統

2021/07/24 (Sat) 04:12:12


        *Web:かんながら(2021.07.21)より)
             ~幸せへのちょっとした工夫

眠る前に、今日出会った人を一人一人思い出し、

そしてその一人一人を心の中で描きながら

「ありがとう」

と伝えるのです。

ともすれば流されてしまいがちな毎日の中で、
こうして立ち止まって感謝を伝えるのは大切なことです。


もしあまり好きではないタイプの人がいたら、
自分の内なる反応を引き出す役目を負ってくれたのです。

それは掛け替えのない人です。

だって1億人以上の中から、
自分のためにそんな役目で登場してくれたのだから。


そうやって振り返ると、いかに多くの人たちによって
自分が生かされているかを自覚します。


ああ、ありがたい。


この感謝の心こそが幸せに直結する道です。

うっかりすると文句ばかり言っている自分を
ニュートラルに持っていくためには、
出来事を感謝の心で振り返るというのはアリです。


究極的には、我々の目の前に現れる人の目的は一つしかありません。

それは我々の覚醒を促すためです。

表面的にどう見えようと、全ての人は自分にとって神の使いなのです。

実際に目覚めたとき、そう思う人は多いでしょう。


だから今日出会った人たちに、心から「ありがとう」。

そして一人一人の幸福を願います。


これは他でもない、自分が幸せであるための秘訣だと思います。

どうぞ一度試してみて下さい。


「出会ってくれて、ありがとう」

  (https://abetoshiro.ti-da.net/e11986499.html

・・・

幸せへのちょっとした工夫~追記

        *Web:かんながら(2021.07.22)より)

昨日紹介した感謝の行。

どんな具合ですか。


中には上手くいかない人もいるかと思います。

こんな気持ちでいるのに感謝なんかできないよというものです。


大抵の場合は被害者意識になっていて、
心に恨みつらみや怒りが溜まっているので、
それらが収まるまでは感謝などできるはずがないと感じます。

そして言うまでもなくこれらの感情が不幸をもたらしています。


そのような人へのアドバイスですが、
心に怒りをためたままでいいから、表面的だとしても
感謝の気持ちを持とうとしてみることが大切です。

完璧に成し遂げようとしないで、
上辺だけでいいから、やっているつもるになってみるのです。

それでもやらないよりマシです。


苦手な相手に無理やり感謝の念を送った時、
その恩恵を受けるのは相手ではなくあなた自身です。

なぜならすべてはあなたの中で起きていることだから。

究極的には自分も相手もなくて、
すべてはあなたの意識が織りなしているドラマです。


ですからそのドラマを癒していけるのはあなたしかいません。

たとえ形だけの感謝だとしても、それを試みた分だけ癒されています。

それくらいの緩い気持ちで実践してみるといいでしょう。



昨日も伝えたように、我々の自我はすぐに何かを批判したがります。

自我自体が苦しみなので、その苦しみを少しでも和らげるために、
心の中で批判したり罰したりするのです。


批判すればするほど、分離した自分を強く感じることになります。

その分離感がさらなる心の痛みをもたらし、それに従って批判が強くなります。

無自覚でいれば、
このようなマイナススパイラルに巻き込まれてしまうのが我々の日常です。


多かれ少なかれ誰もがこのような状況にあることを知れば、
自分を卑下することもなくなることでしょう。


ドラマの配役やシチュエーションは違えども、みんな似たような旅をしているのです。


気楽にいきましょう。


愛と勇気が友達です。

https://abetoshiro.ti-da.net/e11987818.html

           <感謝合掌 令和3年7月24日 頓首再拝>

「今」「此処」既に円満完全の実相に感謝する - 伝統

2021/07/29 (Thu) 03:29:05


        *『光明道中記(7月29日 日々是れ好日と知る日)』より

【漂える雲の彼方にまんまるに澄み切る月ぞわが姿なり。(『生命の實相』第十一巻)】


雪峰(せっぽう)の法嗣(あとつぎ)に雲門和尚と云う人がある。
その雲門がある日公案を出して
「十五日已前(いぜん)は汝に問わず、十五日已後一句を道(い)い将(も)ち来れ」
と言った。

その問は十五日に提出されたものであるから、
「十五日已前」と云うのは過去を指し、
「十五日已後」と云うのは、これからの現在どう生きて行くかと云うことである。

師の意を揣(はか)りかねて誰もこれに門下の者は答えることが出来なかったので、
雲門和尚は「日々是れ好日(こうにち)」と自分の問に自分で答えた。


生長の家で言うならば、「そのまま素直に難有(ありがた)い」であり、
「今を生かせ」であり、「今の中に久遠があり」である。
日々を難有いとしてその日の行事に励むのが「日々是れ好日」である。

烈日燬(や)きつくすようでも、
それは好いお旱(ひでり)を頂いたのであって、ただ難有いのである。

風が吹いたからとて、風があるので害虫が育たず、
雨が降るので植物が育つ。

若し雨が降り過ぎて家が流れ、田畑に損害があるならば、
それは業(ごう)の自浄作用としてただ難有いのである。

 
動き流れる雲の彼方に「今」実相の円満そのままの姿を見る者は幸いなるかな。

         <感謝合掌 令和3年7月29日 頓首再拝>

躓きを含めすべてに感謝 - 伝統

2021/08/05 (Thu) 04:58:02


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月5日)より

躓きは不幸な出来事であるが、われらがまた躓きにも感謝しなければならぬ。

躓きはわれらが人生の道を歩むのに、十分高く足を挙げていなかったことを
教えてくれるものである。われらは躓きによって、躓かないときよりもいっそう
多くのことを学ぶことができるのである。

躓きはまたわたしの心の眼を開いてくれるものである。
もし、今少し手前で躓かなかったら、自分の今歩いている道が、
谷底へ落下する道であることに気がつかなかったかもしれないのである。

理屈で言うのでも、失敗を諦めるために言うのでもない。
躓きは当然感謝さるべきものである。

躓かなくなりえた者は、その幸福をいっそう感謝すべきであるが、
躓きもまた感謝する価値がある。

そうすればわれらは人生のどこにも
感謝すべきものが充ちていることを発見しうるのである。

         <感謝合掌 令和3年8月5日 頓首再拝>

《今与えられている一切に感謝せよ》 - 伝統

2021/08/26 (Thu) 04:57:34


          *「眞理」第2巻基礎篇第3章(P90)より

先ずすべてのものの本源なる神に感謝致しましょう。
あなたに既に与えられている日常茶飯の多くの事物に感謝しましょう。

その時にあなたは、また次のものを与えられる
資格を得(う)るのであります。

あなたの現在身辺に与えられているどんな些細な賜物
(空気でも、水でも、食物でも、膝を入(い)るるに足るほどの部屋でも、
良人にも、妻にも、子供にも、その他全ての人々にも)にも
感謝するように致しましょう。

神の愛は無限であり、到る処に充ち満ちており、
何人(なんぴと)も、如何なる権威も、如何なる事件も、如何なる困難も、
あなたを神の愛から引き離すことは出来ないのであります。

困難が来るのは、自分の心が神の愛を妨げているに過ぎないのであります。

         <感謝合掌 令和3年8月26日 頓首再拝>

感謝の心は報恩行によって具体化する - 伝統

2021/08/31 (Tue) 05:03:08


       *『人生の秘訣365章』第12篇(P296~297) より

感謝の心は、それが報恩行となって、
具体的な姿にあらわれた時に完(まっと)うせられるのである。

報恩行を伴わない感謝は、折角立派なF2位の明るいレンズをもちながら、
レンズ・キャップでそれを外に顕さないので、
何も写らないのと同じことなのである。

報恩行として感謝が具体的な行いとなって外にあらわれたとき、
レンズ・キャップが取り外されて、
完全に神の恵みを現象界に写し出すことができるようになるのである。


《報恩行の顕現としての致心》

報恩は致心・献資・挺身の三つの相(そう)をもってあらわれる。

致心はあらゆる事物を見てそこに神の愛と智慧と生命(せいめい)とを見出して、
そこに心を致して感謝することで、神に感謝するだけではなく、
神の表現としての天地万物に感謝の心を致し、唯単に感謝するだけではなく、
それに対して行き届いた愛念を起すようにすることである。

一枚の紙にも感謝して、それをおろそかにして浪費しないことである。

すべてに行き届くことである。

愛がすべての事物に行きわたりて偏りなきことである。

そこから生活が自然に整い、無駄がなくなり、
なす事おのずから、その急所にあたり、効を奏することになるのである。

         <感謝合掌 令和3年8月31日 頓首再拝>

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