伝統板・第二

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幸福の筐を開く⑧ - 夕刻版

2020/06/08 (Mon) 23:36:27

   《不幸を数えるよりも幸福を数えよ》

         *『 生長の家 』(昭和25年5月8日の法語)より

   吾は神の子であり、神の子が自分の実相であり、
   そこから健康が湧(わ)いて来、インスピレーションが湧いて来、
   日常生活についての色々の導きが得られるのである。

   吾が内に宿る 「 神の子 」 が人生を指導する 「 生きている力 」 である。

   「 私は神の子だ。私は神の子だ 」 と常に間断なく心の中に宣言せよ。

   それが自分の中に宿っている神の子を導きだして来る もっとも良き方法である。

   凡ゆる神の祝福が神の子には与えられているのである。

   まず不幸を数えあげるよりも、幸福を数えるようにすべきである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132 

・・・

<関連Web>

   ”生長の家“本流宣言”掲示板”「幸せとは (5453)」
   → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=1185   (消滅)

(1)「光明掲示板・第一」内スレッド「幸い (475)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=137     

(2)「光明掲示板・第ニ」内スレッド「幸福 (10773)」
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2071  (消滅)

   伝統板・第二 にて再掲示
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7817631

(3)光明掲示板・第三「幸福 (85)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=42

(4)光明掲示板・伝統・第一「幸福への出発」
   → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=17

(5)伝統板・第二「幸福の筐を開く①」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6493420

(6)伝統板・第二「幸福の筐を開く②」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6840845

(7)伝統板・第二「幸福の筐を開く③」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7564514

(8)伝統板・第二「幸福の筐を開く④」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7609493

(9)伝統板・第二「幸福の筐を開く⑤」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7726414

(10)伝統板・第二「幸福の筐を開く⑥」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7817369

(11)伝統板・第二「幸福の筐を開く⑦」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7891876

            <感謝合掌 令和2年6月8日>

働き(活動)の中に人間の本当の幸福がある - 伝統

2020/06/11 (Thu) 22:31:47


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月11日)より

金(かね)が幾億万円自分の前に積み上げられたとて、
それを使うことができなければ自分が幸福だというわけではない。
そこでわれらは、金を使うことができるので幸福だと考える。

では魔法使いが一瞬目の前に幾億万円の金をあらわして、次の瞬間その幾億万円を眼界から
消し去って「もうお前は金を使ってしまった。お前は金を使ったから幸福だろう」と宣告しても
われらは幸福になれる訳ではない。

そこで「それが幸福でないのは、その金を自分で使わないからだ」とわれわらは考えるであろう。

では、自分で金を使うことが幸福であろうか。
金を自分で使うのが幸福であるならば、なぜ金持はその金を召使や他の人に対して
自分が坐っていて必要な品物を買わせているのであろう。

なんでも自分で買物に出かけなければ幸福でありえないというならば、
金持はその多くの金を消費するために、毎日自分で多数の商家を訪問して歩かねば幸福に
なりえないであろう。しかしそんなことをしている金持も幸福者も一人もない。

そこでこんなことがわかる。
金はたくさん持っているということが幸福ではなく、それを使うということが幸福でもなく、
自分が使うということが幸福でもない。

金というものは持っていても使っても幸福になんの関係もないものなのである。
ただ金はわれわれに、また他々(ひとびと)に、働きの動機を与える。
金はわれわれを、そして人々を働かせる媒介となるものなのである。

その「働き」または「働かせ」の感じが幸福であるのを錯覚して
「金が幸福を与える」と誤想しているのである。

働き ―― 活動 ―― のみが人間の本当の幸福なのである。
猟師は獲物をことごとく自分が食べるのではない。
猟師は猟(りょう)をすること、その働きのみが楽しいのである。

人を救うことそのことが楽しいのである。
救った結果収入がないとかあるとかいうことは問題ではない。

多くの生長の家の誌友たちが自分で自動車賃などを費やして、
人々を救(たす)けてあげているのは涙ぐましい立派な行ないであるが、
それはその人の中に宿っている「神」が働いているのである。

「神」は「生命(せいめい)」であり「働き」である。
働くもののみが幸福であり、健康であり、活々(いきいき)してくるのである。

           <感謝合掌 令和2年6月11日 頓首再拝>

幸せについて知っておきたい5つのこと - 伝統

2020/06/16 (Tue) 19:00:09

幸せについて知っておきたい5つのこと(NHK「幸福学」白熱教室編)

       *Web:今よりももっと豊かで幸せに生きる処方箋(2017年01月02日)より


「幸福」は心の問題ではない。
「コーヒーの買い方」といったちょっとした習慣を変えれば誰でも幸せになれる。
そんなレッスンを2人の研究者が科学的に解き明かしました。

(1)幸福を見つける鍵

  ①たとえ宝くじで大金が当たっても、あなたの幸福度は変わらない。

  ②どんなにつらい出来事が起きたとしても、
   それがあなたを永久に苦しめることはない。

(2)お金はあなたを幸せにしますか?

  ①お金持ちと貧しい人を比べてみても、両者の幸福度に大きな差はない。

  ②Key to Happiness 02 
   モノを買うよりも「経験」を買ったほうが人は幸福を感じる。

(3)あなたの仕事と幸せの関係

  ①「ネガティブな感情」も役に立つ。

  ②住んでいる国の豊かさと幸福度は関係していない。

(4)挫折や逆境から立ち直るためには

  ①逆境や挫折を「受け入れる」効果。

  ②快適さの追求は、刹那的な喜びしかもたらさない。

(5)幸せを導く人間関係とは

  ①人は年を重ねるうちに精神状態が安定し、人生満足度も上がっていく。

  ②高齢者の人生満足度の秘訣は、
   長い人生経験から培った物事に対する「受容性」。

https://blog.goo.ne.jp/kibou_volunteer/e/abee56753e5dc8ab39ac8106e73a6e0e?fm=entry_awp_sleep

・・・

<参照>
『「幸せ」について知っておきたい5つのこと』とは?
http://jun-ohsugi.com/column/shiawasenitsuitesitte

           <感謝合掌 令和2年6月16日 頓首再拝>

「幸せを掴む魔法の言葉」 - 伝統

2020/06/18 (Thu) 22:12:31


        *『致知』2014年4月号 連載「人生を照らす言葉」より
         ~ 鈴木秀子(文学博士)

大事なことに気づく

自分に正直になったとき、大事なことに気づく

本気で何かをしているとき、大事なことに気づく

捨ててもいいと思ったとき、大事なことに気づく

変わってもいいと思ったとき、大事なことに気づく

少し待とうと思ったとき、大事なことに気づく

人に頼るのをやめたとき、大事なことに気づく

思いがけないところで、大事なことに気づく

思いがけない時に、大事なことに気づく

じっと見つめたとき、大事なことに気づく

じっと聞いたとき、大事なことに気づく

新しい人に出会ったとき、大事なことに気づく

人を責めるのをやめたとき、大事なことに気づく

失敗し、失望したとき、大事なことに気づく

違う道を選んだ時、大事なことに気づく

大事なことに気づくのは、難しいことじゃない

  いつも心を開いていたい

  いつも耳を澄ましていたい

そうすれば

あなたは気づく

あなたは出会う

ほんとうの自分に

「詩 ドロシー・ロー・ノルト/訳 石井千春」
Pathways of Discovery

Discovery happens when you are what you say you are.

Discovery happens when you put your all into what you do.

Discovery happens when what you own is less important.

Discovery happens when you open yourself to change.

Discovery happens when you allow yourself time.

Discovery happens when you make room for your creativity.

Discovery happens in a quiet room or a busy street.

Discovery happens when you least expect it.

Discovery happens when you sharpen your senses.

Discovery happens when you expand your awareness.

Discovery happens when you reach for new relationships.

Discovery happens when you appreciate those around you.

Discovery happens when you learn from your mistakes.

Discovery happens when you take a new pathway.

Discovery happens all around you.

Be part of it-be one with it.

Discovery happens

Discover discovery

and

You will discover yourself.

「詩 ドロシー・ロー・ノルト/訳 石井千春」

          ・・・

冒頭の(アメリカの教育博士ドロシー・ロー・ノルトの)詩には
「大事なことに気づく」という言葉が多く添えられています。


「大事なこと」とは、何も特別なことではありません。

それは私たちがついつい 見過ごしている日常の一コマです。

例えば、左手を怪我したとしましょう。

最初は「ああ、利き手の右手でなくてよかった」 と思います。

しかし、紐を結わくにも包丁を使うにもファスナーを開けるにも
右手だけでやろうとすると、とても不便です。

この時、左手の働きというものに気づくのです。


右手と左手がどちらも等しく大切であるように、
世の中はすべて陰陽のバランスで成り立っています。


男女、雌雄、天地、表裏、明暗、凹凸。


これらが常にバランスを保っているからこそ 社会は発展し、
どちらかに傾いてしまうと、秩序は崩れてしまいます。

死も同じです。
愛する家族を失った時、誰もが深い悲しみに襲われます。

しかし一方で身近な人の死は、 自分を支えてくれる家族の温かさ、
葬儀に集まってともに涙を流してくれる周囲の優しさに触れ、
ともに悲しみを乗り越えようという 結束力が高まる大切な機会となります。

いつまでも「こんな辛いことが起きなきゃよかった」
という感情にばかり縛られていると、
そういう隠れた大切な部分が見えなくなるのです。


人生はよいことばかりは起きません。
しかし悪いことばかりも起きません。

何か嫌なこと、辛い出来事に遭遇した時には、
このように自分に問い掛けてみてください。

「この出来事が自分に何の益をもたらしてくれるだろうか。
 この辛い体験から何を学べばよいのだろうか」

『聖書』に

「神がすべてのことを働かせて
 益としてくださることを私たちは知っています」

という聖パウロの言葉がありますが、
世の中に何の意味もなく起こることは一つとしてありません。


怪我をしてしまったのも「左手をもっと大切にしなさいよ」
というメッセージだったのだろうか、 と受け止めてみることが大切です。

このように起こる出来事に感謝して
考えを切り替えることで大切な答えが見つかり、
いつの間にかバランスを取っている自分の姿に気づくはずです。

これが自立した人間の姿です。

自立というと精神的、経済的に 独り立ちした姿をイメージします。

もちろんそれはとても大切なことですが、

その根底には「相手のせいにしない」という

原理原則があることを忘れないことです。


嫌なことがあって、
つい誰か他人や環境のせいにしてしまうのは、一種の心の自然反応です。

しかし、いつまでもそこに留まっていると、
中心軸から離れて次々にエネルギーが奪われていきます。


これとは反対に自立した人の周囲は、常に安定して穏やかです。

穏やかな波動は、 さらに穏やかな波動を呼び寄せます。

このような自立した人であって初めて、「幸せ発信地」になれるのです。

           <感謝合掌 令和2年6月18日 頓首再拝>

【 不幸と見えるものは 「 過ぎ行く 」 波である 】 - 伝統

2020/06/21 (Sun) 22:36:07


          *『 生長の家 』(昭和25年5月12日の法語)より

何事か自分を傷つけるものがおこって来たならば、
それを唯(ただ) 「 過ぎ行く姿 」であると観ぜよ。

全(すべ)ては波動的順序をもって前進する、
下にくぐった波は必ず上に上(のぼ)る。

「 愛する者の死 」 があっても悲しんではならぬ。

悲しまない模範(てほん)が見せてある。

彼は本当には失われてはいない。

いずれも波である。

一層高き世界に上らんがために、一時 姿を消したにすぎない。

神の み手に於(お)いては、何ものをも 未だかつて失われはしない。

すべての悪く見えるものは すぎ行く。

そしてよきものが顕現する過程である。

   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132  

            <感謝合掌 令和2年6月21日 頓首再拝>

【 神の子たる貴方(あなた)の幸福は 自身以外の誰も奪うことは出来ぬ 】 - 伝統

2020/06/26 (Fri) 22:47:57


       *『 生長の家 』(昭和25年5月16日の法語)より

この世界は神の造り給うた世界であるから
何事も恐るべきものは真に存在することはできないのである。

他の人が何と云おうと、何をなそうと、
彼らが吾々自身の幸福を奪うことはできないのである。

人間は神の子であるから、
神の子には幸福がつきものであるのである。

神は全能であるから
神が神の子に与えた所の幸福を
他(ほか)から奪うことはできないのである。

吾は常に神とともに生き、
神とともに働きつつあるのである。

すべての幸福は、自分のものであるのである。

   (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132

            <感謝合掌 令和2年6月26日 頓首再拝>

自己の好まざることに対して断じて「否」と言う - 伝統

2020/07/04 (Sat) 23:28:54


      *「光明法語」(7月4日《「否定」の威力》)より

   「ハイ」に対する最も簡単にして最も偉大なる力は、「否!」である。

   汝病気ならんか、「否!」と断じて言うべし。
   病いすなわち必ず癒えん。

   汝に不幸来(きた)らんか。
   「否!」と言うべし。如何なる不幸も汝を傷つける事は出来ない。

   最も自由なる人は自己の好まざることに対して断じて「否」と言う。
   かかる人には如何なる不幸も近づく事が出来ない。

   世界は如何なる「幸福」でも「不幸」でも自由に販売しているところの
   百貨店だと言える。
   それを求める貨幣は「決意」である。

            <感謝合掌 令和2年7月4日 頓首再拝>

幸福を恐れて避けていないか?|人生のパラドックス - 伝統

2020/07/13 (Mon) 23:26:50


         *Web:宇宙の兄弟たちへ(2020年7月13日)より

ひとは幸福を求めている存在です。

ですが、同時に幸福を恐れてもいます。

山の頂に幸福があるのに、あともう少しで到着するというところで、
今まで登ってきた道を引き返してしまう人がいます。


ではどうして人は求めていた幸せを避けてしまうのでしょうか?

それは幸福の元となるものが、不幸なものと見えてしまうからだと言えます。

人は不幸を避けよう避けようと考えて生きているうちに、
いつの間にか幸福をもさけて通っていく事があるのです。

一見するといばらの道と思える選択の先には、
バラの庭園が待っているかもしえません。

努力で何かを成し遂げる事もそうでしょう

頑張って努力していく事は厳しく辛いですが、
その先には良いことも待っているわけです。

コツコツと続けた先には、大きな喜びも訪れます。

また逆に、楽を求める事が幸せに感じていても、
それを続けていった先には、厳しい現実が待ち受けています。

仕事で怠けていると、いつの間にか同僚に先を越されていて、
いつまでも出世できなかったり、
リストラの肩たたきをされてしまう事もあるでしょう。

自分は楽な道が幸せだと思っていたのに、
後になると苦しみが増していったりするわけです。

そのように人生にはパラドクスが存在し、
不幸と思えることが幸福の種であったり、
幸福と思えるものが、不幸の種となることがあります。

訪れた不幸と見える出来事が起こっても、
それを克服した先には、幸福の道が開いていることがあるのです。

不幸を避けていこうとばかり考えていては、幸せをも逃してしまいます。

恐れてばかりではなく、勇気をもって手に入れることも重要でしょう。

   (https://www.spacebrothers.jp/2017/08/blog-post_7.html

            <感謝合掌 令和2年7月13日 頓首再拝>

みずから神を拒むな - 伝統

2020/07/14 (Tue) 23:13:55

     *『 生長の家 』(昭和26年5月21日の法語)より

神は幸福の源泉であり、人間に幸福を与うることを悦び給うのであって、
決して人間に不幸や貧乏や病気を与え給うのではないのである。

不幸や貧乏や病気は、吾々が勝手に神を拒んだ結果に過ぎないのである。

神は幸福の源泉であるけれども、
人間に完全なる自由を与え給うていられるのであるから、

それを拒む場合には幸福を強制し給うことはないから、
自己選択によって不幸や病気や貧乏があらわれて来るのである。

それは写真師が焼付の時間を選択することによって、
呆(ぼ)けた調子の写真でも、ドギツイ調子の写真でも、
完全な写真でも造り出し得るようなものである。

   (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110 )

            <感謝合掌 令和2年7月14日 頓首再拝>

あなたがいま幸福であることが、世界への何よりの贈り物です - 伝統

2020/08/10 (Mon) 21:55:17


         *Web:かんながら(2020.08.09)より

奇跡のコースを超訳していて、基本的なことに気づかされることがある。

たとえば、

「あなたがいま幸福であることが、世界への何よりの贈り物です」

というような言葉。


そうか、そうだ。
いま幸福であること以上に、世界への贈り物があるだろうか。


では幸福とは何だろう。

それはいまがどんな現実かではなく、どんな気分を感じているかだと思う。


現実は徹底的にあるがままであり、中立だ。


マインドは言う。


こんな悲惨な状況が中立だと?

世界で何が起きているか知っているのか。
いま人々がどんな苦しみの中にあるかわかっているのか。


でもその傍らで
歩き始めた子供を見て微笑む母親がいる。

これ以上何が必要だというのだろう。


人はまるで、幸福な気分にフォーカスする術を忘れてしまったかのようだ。


ハスの花を見ないで、その根に絡みつく泥水に顔をそむける。
バラの花を差し出せば、その棘の数を数えだす。

運動家は「世界を変えろ」と叫ぶ。

いまの政治が変われば、
経済が変われば、
社会が変わればと言う。


そうやって人は問題に目をやってきた。

それで何が変わったのか。

何も変わらない。

変わらなければ幸せになれないというマインドも同じままだ。


いま、幸せを感じることを優先すること。

やりかたではなく、
感じようとするだけだ。


「あなたがいま幸福であることが、世界への何よりの贈り物です」

そんな人が増えたとき、世界が変わるのだと思う。

  (https://abetoshiro.ti-da.net/e11639095.html

            <感謝合掌 令和2年8月10日 頓首再拝>

人を幸せに導く二つの指標 - 伝統

2020/08/25 (Tue) 13:23:36


       *Web:宇宙の兄弟たちへ(2020年8月24日)より

人はどんな時に幸せを感じるでしょうか?

ひとつには、調和された時間の中にあることに、幸せを感じます。

生活の中で満足感を味わい、
波風の立たない調和に浸っている時に感じる幸せです。

変わらない平穏な生活をおくれている事への感謝が湧いて、
幸福感に満たされることもあるでしょう。

平凡な生活の中で、家族とともに健康に生きていられることを実感して、
喜びを感じる人もいると思います。

そのように、調和された時の中にある事で、
喜びを感じ、幸せに思うことが人にはあります。


一方で、進歩する変化の時の中で幸せを感じることもあります。

見知らぬ土地へ旅行で訪れて、
新たな体験を積んで幸せを感じることもあるでしょう。

新しい趣味やスポーツにチャレンジしたり、
新しい土地に引っ越したり、新たな仕事を始めることにワクワクして
喜びを感じることもあります。

そして新しい経験から、自身が進歩し、向上していくことを実感して、
幸せを感じるようになります。

たとえば、初めて自転車に乗った時には、
うまく乗れずに倒れてしまいますが、頑張って練習していると、
次第に上手に乗れるようになった時には、幸せな時でしょう。

他にも目標があって、一生懸命に努力し、
それが叶った時には、とても幸せな瞬間でしょう。


そのように、人は調和された時と、
進歩していく時に幸せを感じていきます。

この調和と進歩は二つの異なるベクトルであり、
本来は矛盾するような方向性を持っています。

普通は調和されていると進歩が止まり、
進歩を目指していると調和が失われてしまいます。

しかし、この宇宙を統べられている創造主は、
この二つの原理で世界を作られています。

自然界を見渡すと、弱肉強食の進歩の世界に見えますが、
より大きな視点からすると、自然界は調和されたバランスの中にいます。

個々のレベルではお互いが知恵と才能を生かして
生存競争を勝ち抜いていく競争の社会にあるように見えますが、
全体からすると自然の数のバランスが取れていて、
一方が異常繁殖してしまうことなく、調和された世界になっています。


宇宙そのものも、宇宙を膨張させる力と、
収縮しようとする力が拮抗していて成り立っているのです。

私たち人間には、そうした一見すると相矛盾する原理を内包し、
「それらのバランスを自らがとって社会を作っていけ」との
見えざる使命が与えられているのだと言えます。

進歩と調和のどちらかに片寄ると、
人や社会はおかしくなり、倒れてしまいます。

両極の中道にあってこそ、バランスの取れた社会を築けます。

たとえば調和のみを重視すると、何もチャレンジできずに、
ただ部屋の中でじっとして毎日を過ごす人生になることがあります。

引きこもりなども、社会に出て新たな出来事への恐怖心から、
一歩も踏み出せなくなって、停滞してしまっているでしょう。

国家で言えば共産主義のような社会で、
失業も無く与えられた仕事をしていくだけで、
平等な調和的社会と言えますが、

自由がなく、自分で新たな事にチャレンジし、
その成果を得ることもないため、社会全体が停滞していき、
個人の進歩していく喜びも無くなっていきます。


逆に進歩ばかりを求める人というのは、
競争社会で勝ち抜くことばかりを考えて、
心の安らぎが無く、いつも焦燥感に駆られているといえます。

エリートサラリーマンと言われる人でも、
仕事優先にしていて、いつしか家族との溝が出来、
家庭崩壊になるケースもあります。

そのように、進歩だけが突出していても、人間は本当の幸せにはなりません。


国家であっても、完全な自由主義社会では、競争が激しく、
弱いものが次々に生きていけ無くなるため、
最低限の社会保障は必要でしょう。

人は進歩している時と、調和の中にいる時に、幸せを感じる存在ですが、
これらの両端のバランスを取って、本当の幸せを得ていくことが、
社会全体にとっても理想の社会実現となっていきます。

進歩と調和のどちらか片方だけではダメで、
両者を内包しながら、上手にバランスを取っていくことが、
わたしたち人間に与えられた創造主からの宿題です。

   (https://www.spacebrothers.jp/2017/10/blog-post_3.html

            <感謝合掌 令和2年8月25日 頓首再拝>

心の幸福が本当の幸福 - 伝統

2020/08/26 (Wed) 19:55:01


      *『 生長の家 』(昭和26年5月25日の法語)より

この事さえ成就すれば私は屹度(きっと)幸福になれると思っている人が、
それが成就した後で幸福になれない実例は沢山ある。

胃病の人は胃が治れば幸福になれると思うが、
胃が治ったあとは又別なことを悩み出すのである。

あの女と結婚すれば幸福になれると思っていた人が結婚した後(のち)に
毎日夫婦喧嘩(げんか)をして決して幸福でない実例もある。

これだけ富が出来たら屹度幸福だと思っていた人が、
それだけ富が出来たときに、社会的な色々複雑な問題が紛糾して
幸福になれない人もある。

考えて見れば、幸福とは個々の事物にあるのではなく、
其の人の心の状態にあるのである。

心の幸福な人は常に幸福な人である。

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110

            <感謝合掌 令和2年8月26日 頓首再拝>

自分の秘めた可能性を実現していき幸福を感じる マズローの欲求5段階説 - 伝統

2020/08/28 (Fri) 22:47:58


         *Web:宇宙の兄弟たちへ(2020年7月14日)より

人間は何らかの目標を定めて、それに向かって努力していく生き物です。

いうなれば自己実現を目指して生きる生命が人間です。

人間はこの世に一切の記憶を無くして生まれ出てきます。

前世での記憶も過去世の記憶も失って、
自分は何者かもわからずに手探りで生きていきます。

そうした自分とは分からない中で生き、
人生経験を積んでいくうちに、自分の中に秘めている可能性を
外の世界に現わして生きようと願います。

自分の中にある可能性を実現していこうと願うのです。

心理学者のマズローは、
「人間は自己実現に向かって絶えず成長する」と仮定し、
人間の欲求は5段階で構成されていて、下段の欲求が満たされると、
より高次の段階を欲するようになると述べています。

人間の幸福を考えるうえで参考になると思いますので、
今回はこのマズローの心理学について紹介していきたいと思います。

マズローの説によれば、人の感じられる幸福感には段階があって、
どんどんと高次になっていくといえるでしょう。

マズローの欲求5段階説を参考に述べてみたいと思います。

第一段の欲求は「生理的欲求」で、食欲や睡眠欲、性欲など、
生きていくために必要な欲求で、肉体の維持に必要な、本能の欲求といえます。

こちらは動物にも見られる基本的な欲求ですね。


この生理的欲求が満たされるようになると、
次の「安全欲求」の段階に進みます。

第二段の「安全欲求」には、雨風をしのげるお家に住みたいとか、
健康を手に入れたいなどの安全・安心な暮らしがしたいという欲求や、
危険な地域には住みたくないなど、危機を回避したい、という欲求があります。


この「安全欲求」が満たされるようになると、
次は「社会的欲求(帰属欲求)」を求めるようにます

「社会的欲求」は何か集団に属したり、仲間が欲しくなったりする欲求で、
ひとは仲間外れになるのが嫌で、誰かと一緒にいたいといか、
仲間の中に入ることで安心します。

この欲求が満たされないと人は孤独感や不安を感じます。


「社会的欲求」の次に芽生える欲求は、
第四段階の「尊厳欲求(承認欲求)」が出てきます。

ここからは外的なものではなく、内的な充足感になります。

これは他人から評価されたいとか、認められたい、尊敬されたい
という欲求で、自分の価値観を高く評価して欲しいという欲求です。


そして「尊厳欲求」が満たされると、
最後には「自己実現欲求」が出てくるといいます。

「自己実現欲求」とは、自分の能力を生かしきりたい、
あるべき自分自身になりたい、創造的活動がしたいなどです。

このように人の欲求には段階があるとする説をマズローは述べています。

ただ、最後の段階として「自己実現欲求」があるとしていますが、
それよりも高次な欲求というものはあります。


それは魂の向上を目指す欲求です。

欲求という表現が正しいかはわかりませんが、
人はこの世的に認められたり、満たされるだけでは足りず、
魂の充足を求めます。

お釈迦様が贅沢な王宮での生活を捨て、
出家して厳しい修業に打ち込んだのも、
この世的な自己実現というよりも、
霊性の向上・魂の向上を求めたものでしょう。

マズローの説く欲求五段階説は、
肉体の自我の欲から発してきますが、

人間には肉体の中に魂が宿っていて、
自我もまた、着る服のように、魂がまとった仮のものなのです。

この魂の欲求こそが、本当の幸福を得られる道であり、
それ以外はここへと到達するための下敷きのようなものです。

  (https://www.spacebrothers.jp/2017/08/5.html

            <感謝合掌 令和2年8月28日 頓首再拝>

Re: 幸福の筐を開く⑧ - xctyrhefkjMail URL

2020/08/29 (Sat) 22:01:27

伝統板・第二
xctyrhefkj http://www.goudb300d10rjc481z2dj464c4e844kjs.org/
[url=http://www.goudb300d10rjc481z2dj464c4e844kjs.org/]uxctyrhefkj[/url]
<a href="http://www.goudb300d10rjc481z2dj464c4e844kjs.org/">axctyrhefkj</a>

あなたが幸福になるには - 伝統

2020/09/03 (Thu) 22:15:12


       *『 生長の家 』(昭和26年6月29日の法語)より

多くの人々は自分を幸福だと思っていない。
しかし本当は幸福なのである。

本当は幸福なのに幸福だと思えないのは何故かと云うと、
幸福な表情をすることを怠り、
愉快な想念を心の容器(いれもの)に入れるかわりに、
わざと不愉快な想念を入れているからである。

吾々は自分の想念と自分の言葉とを
子供が危険な淵(ふち)へ墜落するのを見戊(みまも)ってやるかの如く、
看戊ってやらなければならないのである。

想念の雑草を刈りとることが大切である。
言葉の棘草(いらくさ)を刈りとることが大切である。

そして自分の植え付けようと思う楽しい想念だけ植え付け、
楽しい表情だけをすることが大切である。



<参照Web>
伊勢ー白山 道(2020-08-27)
誰もが流れている最中の川の水
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/e9c504b11de715561486d08942741daa


伊勢ー白山 道(2020-08-28)
どんな状態の今であっても、幸せなことに気付くこと
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/815cacb55e13be40aad16c5884988a5b

            <感謝合掌 令和2年9月3日 頓首再拝>

幸福のパラドックス 豊かさだけでは幸せになれない - 伝統

2020/09/04 (Fri) 19:35:13


       *Web:宇宙の兄弟たちへ(2020.09.04)より


貧しさの中にある時、ひとは豊かになれば幸せになれると考えます、


たしかに貧困の中にあれば、十分な食事や医療が受けられない等、
様々な苦しさのなかにおかれます。

貧しい国の人たちからすれば、
食事もたくさんあり、医療も充実した日本などは、
理想的な国のように思うかも知れません。

日本のような国になれば、自分たちも幸せになるだろうと思うはずです。

しかし、私たち日本人からすれば分かるように、
それだけでは満足できなくなります。

「もっと豊かになりたい、あれもこれも理想を手に入れたい」
と願いは続くでしょう。


豊かさも幸せの指針の一つであることは否定しませんが、
人間はどうも豊かさだけでは幸せにならない事がわかっています。

ノーベル賞学者のダニエル・カーネマン氏は、
収入が上がれば上がるほど幸福度は増すかという研究をしています。

それによると人間は、ある程度の収入以上になると、
感情的な幸福度は頭打ちになっていく事がわかりました。

年収約7万5千ドルで頭打ちになると言っています。

日本円でだいたい年収800万円くらいですね。

確かにそれまでは年収が上がっていくと、
生活苦や経済問題から来るストレスが減っていくため、
幸福度もあがっていくそうなのですが、
それ以上になると伸びは止まってしまうのです。

もっと儲けて何億円も収入がある生活の方が、
何でも好きなものを手に入れられて幸せではないかと思ってしまいますが、
そうでもないようなのです。


こうした「幸福のパラドックス」の原因には主に3つの事が考えられます。

ひとつには、周りの人と比べてしまうためという理由です。

純粋に数字が増えていく事に幸せを感じるのではなく、
周りとの比較で幸せを感じてしまう所が人間にはあるとするものです。


次に、豊かになると一時的には幸福感を感じるのですが、
人間は現状に次第に慣れていくため、
幸福度を感じなくなってくるというものです。

はじめは嬉しいと思っていても、しだいに慣れてきて、
喜びも感謝も無くなってきてしまう事が人間にはあります。


そしてもう一つは、人間の欲にはきりがなくて、
もっともっと欲しくなってしまうというものです。

収入が上がってきて例えば高級車を手に入れても、
次にはタワマンに住みたいと思ったり、さらに別荘が欲しくなるなど、
次々と欲が増えていきます。


本当の幸せに出会うためには、

他人と比較しない幸福を手に入れる事

今へのありがたさを忘れずに、感謝して生きる事

欲望の炎を抑えた生き方をする事

そうした事が大切ではないかと感じました。

   (https://www.spacebrothers.jp/2020/09/blog-post_4.html

            <感謝合掌 令和2年9月4日 頓首再拝>

いま幸せか否か - 伝統

2020/09/06 (Sun) 18:21:20


      *Web:かんながら(2020年08月30日)より

昨日の夜Netflixで、
アメリカの自己啓発トレーナーのドキュメントを見ていました。

人の行動を妨げる心理的な支配からどう抜け出すか。

素晴らしい内容でした。


でもこの数年で、
そのようなアプローチが急に前時代的なものに見えてきました。

自己を観念から解放して成功に向かうという姿勢そのものが、
魅力的ではなくなってしまったのです。


解放するのはいい。

でも実は解放そのものがゴールではないでしょうか。


成功者と言われる人たちが、いま幸せかどうかはわかりません。

むしろ、さらなる苦悩を抱えている人が多いように見えます。


人生を、何かを成し遂げるための道のりだなどと思わないこと。

いま幸福か否か。

いつもいま、それだけが問われているのです。



それを知ったうえで何かを目指していくのは悪くありません。

そんなゲームも人生の色彩を豊かにしてくれます。


ただし目的志向の生き方は、
「いまはまだ十分ではない」という感覚になってしまいがちだ
ということも忘れてはいけません。


ここの見極めは大きいですね。

    (https://abetoshiro.ti-da.net/e11660063.html) 

            <感謝合掌 令和2年9月6日 頓首再拝>  

《本当の幸福は「心の平和」にあります》 - 伝統

2020/09/07 (Mon) 21:49:37


          *「真理」第9巻生活篇第3章(P84)より

人間の本当の幸福は、「心の平和」と云うことであります。
心に平和がなければ、巨億の富があるとも、それは不安と心配との
種であり、幸福とは言えないのであります。

では「心の平和」は如何にして得られるかと云うと、
常に遷(うつ)り易(かわ)る外界のもの、物質的なものを
つかんでいては決して得られるものではありません。

「遷(うつ)り易(かわ)ることなき平和」をつかまなければなりません。
「遷(うつ)り易(かわ)ることなき平和」は「神」のみであります。

「神」を自己の内に、平和の源泉として一切の恵みの源泉として
みとめなければなりません。

如何に外界が動揺して見えましょうとも、
「遷(うつ)り易(かわ)るもの」は実在ではないのですから
そんなものに心を捉えられてはなりません。

「吾れは我が内に平和の源泉である神が宿ることを知る。
 されば浮動する現象に振り回されることはないのである」

と繰り返し念ずるようにするがよろしい。

            <感謝合掌 令和2年9月7日 頓首再拝>

チェックポイント - 伝統

2020/09/09 (Wed) 19:55:37


      *Web:かんながら(2020年09月6日)より抜粋

いま幸せかどうかに尽きる。

そこだけがチェックポイントで、いつもそこだけチェックしたらいい。


〇〇が上手くいったら幸せになると思っている人や
〇〇が手に入れば幸せになれると思っている人に
いま幸せということはあり得ない。


だってそもそも前提が、「いまは幸せじゃない」って決めているから。

そうなると、何がうまくいっても、何が手に入っても、その人は絶対に幸せになれない。

いま幸せでない人が幸せになれる可能性はゼロだ。
  
だって自分で、「いまは幸せじゃない」って言い聞かせているし、常にいまだから。


いま幸せである秘訣は、いま寛ぐこと。

そうすれば、最初から備わっていた、存在の本質であるところの本当の幸せがある。

そしてそれはいつも、いまここにある。


その幸せは時間を超えていて、因果を超えていて、したがってそれは無条件の幸せだ。


でも人間の観念は執拗に、いまより幸せないまが
何処かで待っているはずだと信じている。


先を期待しているうちは絶対に無理だ。


そして潔く先を見るのをやめて、
いまここしかないことを認めて、いまここに寛いでいく。

その時、人生の物語は消えている。

あらゆる騒動は霧のようにどこかに消えてしまった。


そしていま幸せなら、それがすべてだ。

  (https://abetoshiro.ti-da.net/e11666812.html

            <感謝合掌 令和2年9月9日 頓首再拝>  

善き幸福な”未来運命” を創造するために - 伝統

2020/09/13 (Sun) 19:24:55


       *「生長の家」(昭和51年6月30日の法語)より

本源に心の視点を定めて、”根本運命”たる神の子に本来定められている
幸福を見、健康を見、繁栄を視るがよい。

人間の根本運命は、神がつくった根本の御業(みわざ)(根本業)なのであるから、
それが唯今、現象界にあらわれていようと、あらわれていまいと、
それは消えることも無くなることもないのである。

”運が悪 い”という人は、” 根本運命”が悪いのではなく、
神のつくった根本の御業(みわざ)(根本業)の運行に随わないで、
自分の”我 の心”で選んだ、道なき道を勝手気儘に進んで来たからなのである。

”運が悪い”と思う人は、ここらで一寸たち停って、
自分の生活が本当の道の上を歩いているか脚下照顧して考えて見ることが大切なので、

自分が途中で、どんな業(わざ)をしたか、

人を憎んだことはないか、
腹を立てたことはないか、
人を怨んだことはないか、

憂え悲しんで暗い心になったことはないか、
栄えている人を見て嫉妬したことはないか、
自分の持ち分でないものを羨んで欲しがったことはないか、

人と喧嘩したことはないか、
恩ある人を逆に罵ったことはないか、

これらのことは途中で自分がこしらえた”中間業”であるから、
一度それを懺悔して洗い浄めてしまってから、

青空のように曇りのない本来運命の方へ進んで行き、
本来運命の延長としての、唯、善のみ、幸福のみ、繁栄のみの
”未来運命”を 創造して行くがよい。

その善き未来運命の建物を建てる地均(じなら)しとして、
一度は練成会に参加して、浄心行を受け、

以上あげたような色々の”中間業 ”を紙に書いて懺悔し
『甘露の法雨』の集団読誦の中に、
その懺悔の神と共に悪しき”中間業”を 消去してしまうがよい。

   (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1363

            <感謝合掌 令和2年9月13日 頓首再拝> 

観客のいない劇場の独り芝居 - 伝統

2020/09/17 (Thu) 16:48:02


        *Web:かんながら(2020年09月09日)より
             ~ひとり劇場

あなたは自分が運がいいと思いますか?

運がいい人とはどのような人か知ってますか?

運がいい人とは、「自分は運がいいと思っている人」です。


そうすると、いいことしか起きなくなる。
なぜなら、起こることはみんないいことだと思っているから。

すべては思い込みなので、アベッチはこちらの思い込みを生きています。

これが幸せの秘訣。


この世に客観的現実などというものはなく、
何もかも主観が捉えて解釈し、
それぞれが自分独自の世界を作っているのです。

何が起きているかが人の苦悩を作り出しているのではなく、
起きたことをどのように捉えたかが苦しみを作ります。

苦しみの大きさは、その人の思い込みの強さに比例していると言えます。


もっとユーモアの視点で現実を見てみませんか。

何一つ断定できることなどなく、
見方次第でどのようにでもなってしまうのだから。


人生とは、誰もいない劇場で、観客の目を気にしながら
一生懸命に演じている独り芝居のようなもの。

脚本も演出も主役もぜんぶ自分がやっています。


そして驚くべきは、誰もその芝居を見ていないということ。
完全な独りよがりの深刻な物語です。

そこを見抜けば、あとは笑うしかありません。
人生のすべては冗談のようなものだったと。

あなたが自分に仕掛けた壮大な冗談です。

な~んだ、そうだったのか。

あとは寝て暮らすもよし。

一生懸命働くもよし

遊びまくるもよし

道徳的に生きるもよし


好きに生きればいいだけです。


とは言え、いまだってあなたは好きに生きていますけどね。

あなたが生きたいように生きているのが、いまの人生です。


なのにいまのままでは満足ではないという人がいたとしたら、
思いと行動が一致していないから。

無意識にたくさんの「べきだ」や「ねばならない」を生きているから。


それこそが、観客のいない劇場の独り芝居なのです。

            <感謝合掌 令和2年9月17日 頓首再拝> 

《「材料出尽くし」は「お終い」である》 - 伝統

2020/09/19 (Sat) 17:10:31


          *「真理」第9巻生活篇第5章(P121~122)より

一つの善き事件が起って、魂が悦ぶと、また次に悦ぶような事件が起って来る。
それは心が悦びの波長が起れば類を以って集まるの原理に従って、
類似の悦びの事件が起ってくるからである。

之に反して、一つの不幸な事件が起って悲しみに心が掻き乱されるると、
また相ついで不幸な事件が起って来る。
これもまた類似の波長が互いに相(あい)招(よ)ぶ原理によるのである。

だから、「悪い事は重なって来るものだ」と言う。

併し、そう考えて「不幸」の来ることを心に描いて予期しておれば
更にまた類似の「不幸」がやって来る惧(おそ)れがあるから、
不幸が来たら、心をクラリと一転して明るい想念の方へ心を
振り向けることが必要である。

これが「難有れば有り難しと思え」と云う諺がある所以である。

形にあらわれたる不幸は、過去の自分の心が描いた「不幸」が象(かたち)に
あらわれて消え行く姿であるから、「材料出尽くしはお終い」と悦んで、
心を光明に転ずべしである。

            <感謝合掌 令和2年9月19日 頓首再拝> 

今日から幸せな気持ちになれるコツ - 伝統

2020/09/22 (Tue) 22:26:46


      *Web:今日も良いことがあるように(2019/02/15)より

《幸せな気持ちの読者さんから》

   ふらっと入ったコンビニでこの本を見つけ、
   「『ハッピーになろうよ。』って一体どんな本なんだ?」と何気なく買いました。

   今日は一人で晩ご飯。ご飯を食べ終え、
   はじめはこの本をペラペラめくりながらテレビを見て・・・

   しかし読み進めていくうちにどんどん本に引き込まれて、
   テレビを消して、あっという間に読んでしまいました。

   読み終えたらなんだかわからないけれど幸せな気分で、
   この気持ちを誰かに伝えたくて、友達にメールをし、
   こんなお手紙まで書いてしまいました。

   私は、去年の9月に結婚しました。

   結婚してすぐの頃は、

   (中略)

   ちょっとしたことがとても楽しく幸せでした。

   しかし、日が経つにつれ、変化のない毎日に

   「ご飯を作ってあたり前、掃除をしてあたり前、私って何だろう・・・」

   と思うようになってしまいました。

   (中略)

   大好きな仕事をやめ、毎日毎日、だんなさんの為に・・・
   「私は一体何なの~!!」とストレスがたまり、イライラ、イライラ

   私がイライラしているので、だんなさんとも喧嘩の毎日でした。

   しかし、ふっと思ったのです。

   「私は文句ばかり言うけれど、だんなさんは毎日文句を言わず、
    一生懸命お仕事をしている、これではいけない!!」と・・・

   そして、私は何てぜいたくなんだろうって。

   それから考え方を変えてみると、幸せはいっぱいころがっていて


   朝起きたら、だんなさんが隣で寝てる 《幸せ》

   歯磨きしたら、同じスピードでゴシゴシしてた 《幸せ》

   お弁当作ったら、全部食べてくれた 《幸せ》

   今日も無事に帰ってくれた 《幸せ》


   私は幸せに囲まれていたんだ~と思いました。

   そして、私にこんなに沢山の幸せをくれるだんなさんに
   感謝しなくてはならないと思いました。

   今日は、だんなさんは会社の方と飲みに出掛けていないので、
   明日、朝一番に「ありがとう~!!」って言おう!! (^^)

   毎日、沢山の幸せをくれるだんなさんと、
   今、こんなに素敵な気持ちにして下さった中井俊已先生に感謝、感謝

   この本に出逢えて本当によかったです。
   ますます幸せになれそうです。

   ありがとうございます。

   (この文字のまわりには、10個くらいのハートの絵が飛んでいました・・中井)

   急にお手紙を書いてしまってごめんなさい。
   どうしてもお礼の気持ちが伝えたくて書いてしまいました。

   中井先生、ありがとう!!

   SK


《「幸せな気持ちになれるコツ」を学ぶ》

では、皆様、私たちは、SKさんのお手紙から、
「幸せな気持ちになれるコツ」を学んでいきましょう。

自分で「これではいけない」と思う状態にいるとき、
その状態を変えるには、何かきっかけが必要ですよね。

人と会うこと、お話を聞くこと、本、映画・・・何がきっかけとなるかわかりません。

SKさんの場合、きっかけは、たまたまコンビニで見かけた私の本でした。

(ラッキーでしたね、お互い・・・)

幸いにSKさんは、『ハッピーになろうよ。』を読んで素直な気持ちになれました。
(たぶん、もともと素直な人なんだと思います)

そして、自分自身とまわりの人を見つめ直す時間が持てたのだと思います。

すると、不平不満でイライラしている自分に対して、
まわりの人(だんなさん)が、どれだけ自分を大切に思ってくれているかに気づけました。

日常の何気ないことのなかにも、幸せの種は、いっぱいあることにも気づけました。

そうすると、

「私は幸せに囲まれていたんだ~」

と、感謝の気持ちでいっぱいになれたのです。

さらに、その感謝を表わそうと決心すること、
実際に、お友だちや見知らぬ著者にもその気持ちを伝えることで、
もっと幸せな気持ちになれたのではないでしょうか。


以上を短くまとめると・・・

 ●自分とまわりの人を素直に見つめ直す。(反省する)

 ●自分の幸せに気づく。(恵まれていることに目を向ける)

 ●まわりの人に感謝する。(感謝を伝える)

そうすると、ますます「幸せな気持ちになれる」のです。



《ふと思い出した感謝の話》

ところで、いま、関係ありそうな話を思い出しました。

昔、ある神父さんに聞いた実話です。

・・・・・・・・・・

   戦後間もない、日本が貧しかった頃のことです。

   来日したその神父さんは、教会の子どもたちに何かのご褒美で
   オレンジジュースをおごってあげました。

   当時、ジュースはめったに飲めない貴重なものでした。

   子どもたちはとても喜び、
   「ありがとう、ありがとう・・・」と涙を流しながら飲んだそうです。

   しかも、子どもたちは、1本のジュースを分け合って・・・。

   それから数十年経って、日本は豊かになりました。

   その同じ神父さんは、教会の子どもたちに何かのご褒美で
   オレンジジュースをおごってあげました。

   もちろん一人に1本ずつのジュースをです。

   すると、子どもたちの何人かが文句を言いました。

   「なあんだ、オレンジか。神父さ~ん、グレープジュース、ないの?」

   「あたし、コーラがいいなあー」

   
というお話です。

つまり、物質的に豊かでも、
いま与えられているものに感謝できない人は、幸せな気持ちにはなれない。

逆に、

いま与えられているものに感謝できる人は、
物質的に貧しくても、幸せな気持ちになれるのです。

わたしたちも、日々、何かを与えられています。

ときには、思いがけずご褒美をもらうことがあるでしょう。

神様から・・・

私にとって、SKさんのお手紙は、
神様からいただいたご褒美(オレンジジュース?)でした。

できれば、誰かと分け合いたいと思いました。

読んでくださってありがとうございます。

    まわりの人、そして当たり前のことに感謝しよう。

   (https://lucky.t-nakai.work/2019/02/15/thinking-24/

            <感謝合掌 令和2年9月22日 頓首再拝> 

《神の恵みを具体化するには》 - 伝統

2020/09/25 (Fri) 18:43:12


          *「真理」第9巻生活篇第3章(P70)より

神の恵みを物質的なものだと考えると迷信になります。
神は霊的実在ですから、その恵みも、霊的なものであります。

それはあなたの内に宿る「生命(せいめい)」であり、「霊」であり、
「智慧」であり、「善意」であり、「調和」であり、「創意」であり、
形そのものではなく、形の元になるものであります。

そしてもし誰でもが神の御心に随って生活しようとするとき、
此等(これら)の諸徳(しょとく)を使うことができ、それを適当に使うとき、
それが物質界に具体化して、形ある恵みとなってあらわれて来るのであります。

善意にそむき、調和を破り、愛の道に背(そむ)き、智慧を裏切り、
創意をはたらかせず、旧態依然としたり、事物を愛を以って処置しなかったり、
ヤケクソで調和を破ったりいたしましたら、決して此(これ)らの霊的な
恵みは現実界に具象化しては来ないのであります。

先ず幸福になろうと思ったら上記の徳を実践して御覧なさい。

            <感謝合掌 令和2年9月25日 頓首再拝> 

辛いことはいずれハッピーエンドになる - 伝統

2020/09/29 (Tue) 19:03:25


      *Web:今日も良いことがあるように(2019/06/15)より

《辛いことは、いずれ笑えるようになる》

『人生で大切なことはすべて「書店」で買える』とい書の著者である
千田琢哉さんは、作家で次代創造館の代表で
イノベーション・クリエイターという肩書きの人です。

千田さんは、東北大学に入るまで漫画ばかり読んで、
1冊の本も読んだことがない人でした。

それが、本屋さんで間違って手にとった1冊の本がきっかけで、
大学4年間に、10000冊の本を読むほどの本好きな人になったのだそうです。

以来、読書がいかに人間を成長させるかを実感するようになりました。

「とにかくたくさんの良い言葉のシャワーを浴びることだ」と主張し、
いま自著をどんどん書いている人です。


▼ところで、千田さんが本屋さんでたまたま出逢った本って何でしょう?

その後の人生をガラリと変えてしまった本ですから、
千田さんにとっては、運命の本です。

気になりますよね。

それは、中谷彰宏さんの『昨日までの自分に別れを告げる』だそうです。


▼この本は私も読んだことがあります。

元気がでてくる良い本です。

前置きがだいぶ長くなってすみません。

この本に出てくる次の文章が「辛いことはいずれハッピーエンドになる」という
アイディアが浮かんできた直接のきっかけなのです。


   「コメディアンは、自分の不幸がネタになります。
    不幸な目に出会うと、涙を流しながら、微笑むのです。
    『これで、ネタができた』 と。

    人は皆、人生のコメディアンです。
    神様の前で、一幕の喜劇を演じているのです。
    辛いことに出会ったら、ネタができたと喜びましょう。

    そのネタで、いちばん最初に笑うのは、あなた自身なのです。」


▼なるほどなあ、と思いました。

辛いことがあっても、過ぎてしまえば、いずれ笑い話になります。

時間はかかるでしょうが、「あのときがんばっていてよかったなあ」
と思える日が、必ずやって来るのです。


《人生は、きっとハッピーエンド》

▼それに、「神様の前で、一幕の喜劇を演じているのです」という
文章にも共感できます。

シェークスピアも言っていたように、
人間は皆、人生という舞台の俳優に似ていますね。


そこで演じる劇を誰かが見てくれているのです。

生まれてから死ぬまで、ずっと見てくれているのは、神様。

神様は、どこか遠くにいるのではなく、近くにいます。


たとえば、目の前の人、と言えば、もちろん、異論はあるでしょう。

でも、意識していてもいなくても、人間には、多少、神様の現存があるのです。


▼目の前の人を神様だと思って接すると、自分の何かが変わってきます。

その人の嫌なところだけでなく、いいところが見つかるようになります。

その人に喜んでもらおうとするようになります。

もっとその人を大切にするようになります。

目の前の人を笑顔にしようとすると、
いま自分に辛いことがあっても、それはいずれ喜びに変わります。


▼ちょっと論点がずれてきたので、戻しましょう。

辛いことも楽しいことも人生には不可欠です。

辛いことなんかないほうがいいと思って当然ですが、
それでも人生全体には必要なのです。

辛いことがあるから、人間は成長もするし、助け合いもするのです。

幸いこの人生という舞台では、必ず辛いこともあります。

それでいいのです。


光のあたる部分だけでなく陰の部分があるから素晴らしい絵画になるように、
辛いことがあるから人生全体が輝くのです。

最後には、「終わりよければすべて良し」と思えるようになっています。

私たちの人生はハッピーエンドになるのです。

     いま辛いことも幸せにつながっている。(^.^)

【出典】中谷彰宏著『昨日までの自分に別れを告げる』

   (https://lucky.t-nakai.work/2019/06/15/thinking-86/

            <感謝合掌 令和2年9月29日 頓首再拝> 

なぜ日本では幸福を感じる人が少ないのか? - 伝統

2020/09/30 (Wed) 19:35:19


          *Web:宇宙の兄弟たちへ(2020.09.29)より

日本は世界でもまれな治安のよい豊かな国で暮らし、
汚職もそれほどなく、自由な政治の中で生きていながら、
なかなか幸せと感じて生きている人の少ない国でもあります。

では、どうして日本人は幸せをあまり感じられないのか
を考えてみたいと思います。

人間が幸せと感じる時はどんな時かというと、ほとんどの場合、
今までよりも何かしら状況が良くなった時が多いでしょう。

たとえば、以下のような事があります

職探しをしていてなかなか見つからなかったのが、ようやく仕事に就けた時

学校に行きたくても行けなかったのが、
行けるようになって勉強出来るようになった時

病気なのにお金がなくて病院に行けなかったのに、行けるようになった時

雨風が吹き込む小さな建物に住んでいたのが、
しっかりした屋根のある建物に住めた時

電気もガスも無い暮らしだったのが、
これらのライフラインが整った生活を送れるようになった時

いつもひもじい思いをしていたのに、毎日三食を食べられるようになった時

政治犯として拘束されることなく自由に政治の批判を出来て、
参加することも可能である時

これらの生活の改善や向上を体験した時には、とても嬉しいものでしょう。

きっと幸せを感じる事と思います。

ですが、振り返って見ると、上記で取り上げた事態は、
日本に生まれた人のほとんどは生まれながらに得られているものが多い
のではないでしょうか。

日本は失業率も低いですし、義務教育の就学率もほぼ100%あります。

医療保険がありますので、。
病気になったら簡単に病院に行って診察を受けられます

そしてちゃんとした屋根のある家で、電気やガスの通った暮らしをしています。

こう見ていると、世界の人が幸せと感じる状況を、
日本人は当たり前のように享受していることが分かります。

満たされている部分が多いと、
そこから増すところは少なくなりますので、
あまり幸せを感じられなくなるという事態が生じてきます。

貧しくて学校にも行けない国の子どもたちからすれば、
学校に通って勉強できるのは幸せですが、
日本人の子どもにとっては当たり前でむしろ嫌だと思う事も多いでしょう。

全体の生活水準が高くなったがために、
置かれている環境のありがたさが見えなくなります。

ですので人間は、ふりかえってみて
感謝をし直さないと道に迷ってしまいます。

今ある事への感謝を忘れると、
幸せ感も失われていって、だんだんと不幸感覚が強くなってしまいます。

時折振り返ってみて、
現状へのありがたさに心を向けないといけないのです。

そしてもう一つ上げるとすると、
日本人はボランティアなどの社会貢献には消極的である点があるでしょう。

日本人は偽善的な行為などを嫌いますので、
ボランティアなども表立って出来ずらくしています。

人間は世の中のお役に立つことをして、
それで自分の存在意義を再確認し、
感謝されることで喜びを得られるものです。

ですので積極的に他の人のお役に立つことをしないでいると、
幸せ感覚も失われていってしまうでしょう。

       (https://www.spacebrothers.jp/2020/09/blog-post_29.html

            <感謝合掌 令和2年9月30日 頓首再拝> 

《幸福を招ぶ波長は転ずる道》 - 伝統

2020/10/01 (Thu) 19:13:02


          *「真理」第9巻生活篇第5章(P122)より

どんなに不幸が重なって来ても、心が明るい方向に転ずることが、
次に来る、「不幸」の波長への共鳴を断ち切り、
「幸福」の波長に乗りかえることになるのである。

「こんなに不幸なのに明るい心に乗りかえることができるか」と思う人があるかも
知れないが、どんなに不幸の最中にあっても、あなたが盲人(もうじん)でなければ
盲人よりは幸福だと云うことは事実であり、その事実の方へ心の眼を転ずれば、
心が悦べないことはないのである。

心が悦んで「明るい波長」を獲得すればもう《しめた》ものである。
その波長によって、明るい波長のものが次々と招び寄せられて来ることになるのです。

そのほか、幸福の方へ心を転じようと思ったならば随分材料は沢山ある。

私達は、日光を空気を水を食物を
・・・みずから製造しないのに多量に与えられているのである。
・・・それらを感謝しようと思えば感謝し切れないほどの恵みである。

・・・

<参照Web>
伊勢ー白山 道(2020-10-01)
感謝の有無で分かれて行く
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/1c264eafce1430cf5d12242df2d1996e

            <感謝合掌 令和2年10月1日 頓首再拝> 

《常に幸福になる道》 - 伝統

2020/10/04 (Sun) 19:51:48


          *「眞理」第2巻基礎編第6章(P130)より

取越し苦労を止めようではありませんか。
人間は「今」幸福な思いを起しておれば、「今」その人は幸福なのです。
過去を捨てましょう。

明日(あす)になったら明日の「今」を幸福だと思いましょう。
そして明後日(あさって)になったら明後日の「今」を幸福だと喜びましょう。

そうしたら、貴方は永遠に幸福なのではありませんか。
人間の一生は「今」の連続なのですから
「今」さえ幸福の思いを常に持ち続けることが出来たら
永遠に幸福なのであります。

腹を立てないように致しましょう。
人の欠点を(導くため以外には)見つけないように致しましょう。

嫉妬の心を起さないように致しましょう。
不平の心を起さぬように致しましょう。

腹立ちやアラ探しや、嫉妬の心や、不平の思いを起す毎に、
貴方は取返しのつかぬ損害をあなたの心と肉体とに与えているのであります。

            <感謝合掌 令和2年10月4日 頓首再拝> 

前世から現世、未来世に繋がる幸不幸の連鎖 - 伝統

2020/10/14 (Wed) 15:02:28

       *Web:宇宙の兄弟たちへ(2020年10月11日)より

先日は「お釈迦様の悟りとは何だったか?」という記事を書きました。

仏教の開祖であるお釈迦様が、はじめに悟られた内容を紹介しました。

簡単に言うと苦楽の中道と、人間には過去世(前世)、未来世があり、
苦の原因があって結果を受けている連鎖があると悟られたわけです。

人間は過去・現在・未来の三世を生きる存在であり、
そこには原因結果の法則が厳然とある事を伝えています。

ひとはなぜ自分がこのような目に合うのだと不満を持つことがあり、
世の中は理不尽のように見えますが、実際には過去に
その因を作っていて、現在その報いを受けているのです。


そうした因果の理法がある事をお釈迦様は教えました。


この教えからさらに論理が展開していって、
初期の教えである四諦・八正道が説かれます。

四諦というのは四つの真理ということで、苦・集・滅・道の四つを言います

まず苦というのは、人生の真実を知らないまま、
この世に縛られて生きている状態が苦であるという真理です。

たとえば死んだら終わりだと考え、
肉体欲をみたす快楽こそが幸せだと思って生きているような人生は、
実は苦しみであるとするものです。

世の中にはあの世を否定して、
唯物論を信じ、死〇ば終わりだとする考えに生きる人が多くいます。

  *〇:ね

そのように魂の真実を知らず、無明に生きている事こそ
苦であると知る事が苦(苦諦)です。


そしてその苦しみを生みだしている原因を知る事、無明を知り、
囚われを発見することが集(集諦)です。

苦には原因があって生じているわけです。

その原因には、人生の真実を知らない無明がありますし、
この世への執着によって苦しみを生みだしている事があります。

そうした苦の原因を発見していく事が集諦です。


さらに苦の原因を滅していこうとする事を滅(滅諦)と言います。

苦しみの原因を断って、安らぎの境地に到達しようと決意することです。

修行の心や菩提心とも言えます。


最後に、苦の原因を滅する原理として、
八正道を実践することが説かれています(道諦)。

苦しみの生存から抜け出すために、
八つの正しい道を実践し、安らぎの境地に達することを目指します。

この八正道というのが、
正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の八つの事です。

八正道を実践していく事で中道の生活が送れるということです。

そして八正道の実践により、悪い種をまかずに良い種をまいて
その結果を得るという考えです。

自分の思いや行動などを正していく中で、
よい未来が訪れるとするものです。


こうした正しさの実践にこそ、
苦の原因を断ち、明るい未来を開いていく秘訣があります。

善い思いと行いは、善い結果を生じ、
悪い思いと行いは、悪い報いを受ける事となります。

因果の理法があることを悟る事が、
真実への目覚めの第一歩となるでしょう。

   (https://www.spacebrothers.jp/2020/10/blog-post_11.html

            <感謝合掌 令和2年10月14日 頓首再拝> 

「今を幸せに思う」ことが「幸せ」になるための方法 - 伝統

2020/11/03 (Tue) 22:41:22


       *「苫米地式「幸せ脳」のつくり方」苫米地英人・著 より

(1)自分の前に幸せがあるから「幸せだ!」と認識するのではなく、
   自分が「幸せだ!」と認識するからこそ、幸せが自分の前に現れる。

(2)世の中のすべてのことは、自分の脳で情報処理した結果、認識したこと。

(3)「幸せ」とは、追い求めるものではない。
   まず、「今を幸せに思う」ことが「幸せ」になるための方法。

(4)二つの重要なことと結論

  ①「幸せ」は、人によって異なる⇒「幸せ」は自分でつくり出している
  ②「幸せ」は、多岐にわたる  ⇒「幸せ」は、定義できない
  ↓結論
 
  ①「幸せ」とは、幻想でしかない
  ②「幸せ」思った瞬間から「幸せ」になれる

(5)トレーニング

  ①自我を見つめる「空観」トレーニグ  ・・・止観法

  ②悩みを見つめる「空観」トレーニグ
    「幸せ」も「不幸せ」も「悩み」もすべての情動は、
    「自分の心」がつくりだしている。
    仏教では「心」も空。「心」は定義できない。
    すべての悩みは自業自得。
    悩むことはムダ!

  ③全てが幻だとわかる「空観」トレーニグ
     ・すべては幻 素粒子の集まり
     ・今を意識する ・・・これは仏道の禅瞑想(四念処)の1,2だと思う

  ④モノに役割を持たせる「仮観」トレーニング
    「仮」の役割は自分で自由に選択できる

  ⑤情動を利用した「仮観」トレーニング
    「〇〇できてうれしい!」と本気の妄想をする

  ⑥いまを最高に「幸せ」と思うトレーニング
    いまが理想的という理由を考えるようにクセをつける(生き方)
 
(6)より多くの人が幸せになほうが自分も幸せになる。

            <感謝合掌 令和2年11月3日 頓首再拝> 

本当の幸せ - 伝統

2020/11/05 (Thu) 22:54:35


          *「そのままでいい 100万いいね!を集めた176の言葉」
            田口 久人・著(P47)より

好きな人と一緒になっても
欲しかった物を手に入れても
たくさんお金を持っていても

幸せになれるとはかぎらない

幸せになるのに条件はない

誰かと比べなくてもいい

まわりを気にしたり
自分をごまかそうとすれば
幸せは遠ざかっていく

自分が本当に求めているのは
何なのかを考える

何もなくても幸せにはなれる
幸せを感じる心があるかどうか

            <感謝合掌 令和2年11月5日 頓首再拝> 

不幸な人と幸せな人の違い - 伝統

2020/11/19 (Thu) 23:19:10


        *田口 久人

不幸な人 自分にないものばかり気にする
幸せな人 自分にあるものに目を向ける

不幸な人 他人のためだけに時間を使う
幸せな人 自分のために時間を使う

不幸な人 人から好かれようとふるまう
幸せな人 嫌われても気にしない

不幸な人 周りに期待しすぎる
幸せな人 自分の力を信じる

不幸な人 やるべきことにとらわれる
幸せな人 やりたいことをやる

不幸な人 準備しているうちに諦める
幸せな人 今すぐ動き出す

不幸な人 過去にしがみつく
幸せな人 未来を見据えている

幸せは他人から与えられるものではなく
自分から生み出していくもの
自分を幸せにできる人は他人も幸せにできる

  (http://inouetomoyo.blog.fc2.com/blog-entry-809.html

            <感謝合掌 令和2年11月19日 頓首再拝> 

本当の幸福 - 伝統

2020/12/28 (Mon) 23:49:36


        *「光明道中記」(12月28日《幸福成就の日》)より

【実相を悟るものに不足の感じは起こらない。(『生命の實相』第一巻)】

人間は誰でも幸福に成りたい。
しかも多くの人達は幸福に向う道を誤まっているのである。
或る人たちは幸福と快楽とを混同している。

そして幸福になろうとして快楽を得ようとし、
快楽を追求して結局得るところのものとては幸福ではなくて、
苦痛であったと云う場合が多いのである。

仏者は五官の快楽を、瘡面(かさぶた)の痒きを掻くに喩えたことがある。
また渇者が塩水を飲んで渇を医(い)やすに喩えたことがある。

五官の快楽を求める習慣を得るときは、それを得なければ淋しいし、
得れば尚一層、得なければ淋しいこと、阿片中毒の如き状態となる。

阿片中毒者は阿片の奴隷であるし、
五官の快楽を追求せねば淋しい人達も、五官の奴隷である。

金銭の欲望を追求し、追及し、飽くことなき渇欲に
心身を疲労せしめている者も金銭の奴隷である。

本当の幸福は五官の快楽や、金銭の集積で得られないこと、
本当の幸福は阿片の吸引では得られないのと同じである。

本当の幸福は愛と深切と思いやりと、些(ささ)やかな事物の奥にも輝いている
天地の恵みを見ることである。

若し魂の眼(まなこ)が開かなかったならば幸福は何処にもない。

            <感謝合掌 令和2年12月28日 頓首再拝> 

名言・格言「ありがとう」で幸せになる - 伝統

2020/12/31 (Thu) 22:08:56

感謝の名言・格言「ありがとう」で幸せになる

    作家、中井俊已:ブログ「今日も良いことがあるように」

https://www.youtube.com/watch?v=eyaBQM3BZM8&feature=youtu.be


            <感謝合掌 令和2年12月31日 頓首再拝> 

【人生がレモンを投げつけたら】 - 伝統

2021/01/03 (Sun) 19:52:17

      *Web:メルマガ「人の心に灯をともす」(2020.12.28)より

   (マーク・レクラウ氏の心に響く言葉より…)

   幸せになるうえで心の姿勢は非常に重要である。

   心の姿勢によって物の見方が大きく変わるし、対応の仕方も変わる。

   人生のルールを受け入れれば、苦しみは減る。


   人生は笑いと涙、光と影でできている。

   悪い出来事が起こっても、
   それに対する物の見方を変えることによって
   受け入れなければならない。

   自分の身に起こることはすべて、試練であると同時に機会でもある。


   たとえ最悪の状況でもプラス面を見よう。

   どんなに悪い出来事の中にもよいことが隠されている。

   とはいえ、それを発見するには時間がかかるかもしれない。

   繰り返すが、大切なのは、人生で何が起こるかではない。

   自分がそれにどう対応するかが人生をつくりあげるのだ。


   人生は一連の幸せな瞬間と悲しい瞬間で成り立っているが、
   それぞれの瞬間を最大限に生かすかどうかは、あなた次第である。

   たとえば、失業したとき、
   それをきっかけに新しい扉を開くかどうか。

   あるいは、離婚したあと、いつまでも不幸な思いを引きずるか、
   それをきっかけに新しいパートナーとの出会いを求めるか。


   「人生がレモンを投げつけたら、
    それに砂糖を混ぜてレモネードをつくれ」という古い格言がある。

   物の見方というのは、言うなれば味付けのことだ。

   人生は味付け次第で甘くもなれば酸っぱくもなる。


   健全な心の姿勢の例を紹介しよう。

    ●間違いを犯したら、それから学ぶ。

    ●自分が知らないことがあることを認める。

    ●困ったときは勇気を出して助けを求める。

    ●今までのやり方を変えて新しいことに挑戦する。

       <『習慣を変えれば人生が変わる』ディスカヴァー
               https://amzn.to/38Gt8pc >

             ・・・

本書にこんな言葉があった。

●いいとか悪いというのはなく、
 そのように考えるからそうなるのだ(シェイクスピア)

●楽観主義者はドーナツを見て喜び、
 悲観主義者はドーナツの穴を見て悲しむ
        (オスカー・ワイルド/イギリスの作家)

●悲観主義者とは、チャンスがドアをノックしても
 「うるさい」と嘆く人のことだ(オスカー・ワイルド)


日々日常に起こる出来事に対する見方、考え方で、
我々は、人生を変えることができる。

「最高の人生」にすることもできるし、
「最悪の人生」にすることもできる。


それが考え方の習慣だ。


常に物事のいい面を見るのか、悪い面を見るのか、という習慣だ。

ドーナツの穴を見て嘆くのか、ドーナツの全体を見て喜ぶのか。


たとえ最悪の状況になったとしても…

そこにプラスの面を見ることができる人でありたい。

         <感謝合掌 令和3年1月3日 頓首再拝> 

「霊(みたま)さきはえ」のみが人間の幸福なのである - 伝統

2021/01/04 (Mon) 23:27:08


      *「光明道中記」(1月4日《神われに生き給う日》)より

 【幸福とは神の実現である。そのほかに人間の幸福はない。
                   (「生命の實相」第十一巻)】

「生きとし生けるものを生かし給える御祖神
元津神霊(みおやがみもとつみやま)ゆ幸(さきは)え給え」

「幸(さきは)え」は「咲(さ)き生(は)え」であり、
「割(さ)き延(は)え」であり、神の生命の顕現である。

「霊(みたま)さきはえ」のみが人間の幸福なのである。

人間の幸福は富を実現することではない。
名声を挙げることでもない。

神の生命(いのち)を顕現することである。

梅の花は咲き出でることが幸福である。

それは名声を博するがためではないから
奥山にいても依然として芳しく咲き匂うのである。
それは金銭のためでないから、
盆栽として売られなくとも咲き出でるのである。

梅の花はただ咲き出で、人間はただ与えられた使命を生きる。
幸福そのなかにあり、悦びその中にあり、楽しきこと限りなし。

若(も)し人が労苦して、そこに悦びが感じられなかったならば、
それはその人が第二義的なものを求めている証拠である。

働きそのものが第一義的目的であり、
働きの中に生命が延び、霊魂が進歩する。
第二義的なものは、そのときは値打があるように見えても、
その価値には永遠性がない。

            <感謝合掌 令和3年1月4日 頓首再拝>

暗い生活、偽りの快感からは、本当の幸福は生まれぬ - 伝統

2021/01/06 (Wed) 19:52:01


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月6日)より抜粋

たえず活(はたら)いているということが喜びの源泉である。
活(はたら)かないものは、何か自分の内部から気がとがめるあるものを感ずる。
この気がとがめる囁きをごまかすために多くの人は外面を麻酔する誘惑に身を投ずる。

「小人(しょうじん)閑居すれば不善をなす」というのは、働かないものが内部に
感ずる良心の囁きをごまかすために誘惑に身を委(まか)せることをいう。

酒や麻酔薬で内部の囁きをごまかしてみても本当の幸福は来ぬのである。
ごまかしの生活の中には必ず何か暗いものがある。

本当の幸福というものは暗い生活からは生まれぬ。

暗い生活をごまかしごまかしして偽りの快感らしい生活を送るのは、
湿疹(しっしん)の瘡蓋(かさぶた)の痒きを掻(か)いてごまかすところの快楽である。
掻けば掻くほど、魂は爛(ただ)れ、みぐるしい膿血(のうけつ)が流れるのである。

            <感謝合掌 令和3年1月6日 頓首再拝>

幸せは自分で決める - 伝統

2021/01/12 (Tue) 00:14:11


          *「そのままでいい 100万いいね!を集めた176の言葉」
            田口 久人・著(P48)より

いつまでも続く幸せはない
いつまでも続く不幸もない

どんなに大切にしても失うこともある
どんなに苦しくてもときが解決することもある

大切なのは今の自分が
どちらなのかを意識すること

いつの間にか失わないように
勝手にあきらめてしまわないように

幸せかどうかは自分が決める

            <感謝合掌 令和3年1月11日 頓首再拝> 

幸せの遺伝子と心の在り方 - 伝統

2021/01/13 (Wed) 19:04:25


       *Web:ひかたま(光の魂たち)(2021年01月10日)より

国によって、
幸せに感じる人が多い国と、幸せに感じる人が少ない国があります。

今までは、国民の幸せ度は、
その国の政治・経済状況や環境、疾病率など
主に外的な要因で決まると思われていました。


ブルガリアと香港の大学の共同研究で
人のDNAに幸せ遺伝子があることが
「Springer's Journal of Happiness Studies誌で発表されています。

この研究では、
世界価値観調査(世界各国の社会文化的、道徳的、宗教的、政治的価値観に関する調査)
から国ごとの幸せ度を算出し、さらに
エール大学の遺伝子データベース、気候、病原菌の保有状況、経済状態など
さまざまな角度から検討を加えてDNA配列を調査しています。

そして、各国の幸福度と
DNAに存在するA対立遺伝子との間に強い相関関係があることが判明したのです。

A対立遺伝子を有している国民が多い国では、幸せと感じる割合が多い
という結果でした。

一方で
経済や政治、疾病率などからは、
幸福度との強い相関は見られなかったそうです。

そして、幸せ度を上げる要因は、
外的な要因よりも、心の持ちようにあると言うことが明らかになったのです。

遺伝子によって性格に影響があることは良く知られています。

好奇心の多い人やすぐに怒りやすい人など
その人の性格には遺伝子である程度その素質があるようです。

たとえば、ドーパミンD4受容体の遺伝子の中には
特定の48塩基からなる反復配列がありますが、
人では反復回数に2~11回のバリエーションがあることが知られています。

この回数が多いほど好奇心が強いのです。

犬でも、このような遺伝子配列と性格の関係は知られています。

たとえば、犬のグルタミントランスポーター関連遺伝子のなかに、
攻撃性に関連する部位があります。
その部位の塩基配列がT/T場合、攻撃性が強くなる傾向があります。

絶対服従を求められる盲導犬では、ほとんどがこのT/T配列を持っていません。
そのため、反抗期や感情的爆発は起こりにくいのです。


幸せ遺伝子を持っている人ほど、幸せを感じやすい。


でも、それは感受性の問題であって、
幸せ遺伝子があるなしに関わらず、誰もが幸せ度をアップさせることができるのです。

幸せを決めるのは
結局は、自分の心。



The Huffington Post に
科学が証明したすぐに幸せになる方法という記事が載りました。

この図では、縦軸が「幸せ度数」、横軸は「努力レベルと時間レベル」です。

上に行くほど、幸せ度が高くなります。

https://www.huffingtonpost.jp/2014/01/22/boost-happiness_n_4642225.html?utm_hp_ref=japan


幸せ度の高いものは、

人に優しくすること
感謝の日記をつけること
走ること
ボランティア

次いで、
仔犬と遊ぶ
セックス
瞑想
笑顔でいる
笑う
など。


どれもお金や物ではなく、
他人と比較することでもありません。

心の内面を楽しく明るくする行為ばかりです。



幸せ度アップに大切なことは、
自分のハートを中心におくことと
感謝の気持ちをいつも持つこと。


自分のハートが中心になければ
幸せの基準を、他人との比較にしてしまいます。

人よりもいい物を持って人よりもいい生活をする。

見た目は華やかで幸せそうに見えますが、
実は、それほど不幸なことはありません。

いずれ、物質的だけでなく、心まで不幸に陥るはずです。

実際に、日本でも
いつも怒ったり、不幸な人は
他人と比較したり、人の目を気にする人たちばかり。

競争社会では他人と比較することで、
優越感や幸福感を得ようとする傾向があります。

でも、他人との比較は明らかに有害です。


幸せは、競って獲得するものでもないし、
狭い社会の中で他人よりも優越感を味わうことでもなければ、
人から奪うものでもありません。


他人の目を気にする人は、
心から信頼できる人間関係も築けずに、
その時点で幸せから遠ざかっています。


外の世界に幸せを求める人たちは、
常に娯楽や快楽を探しつづけます。

でも、外界の刺激からくる幸せは一時的なもの、
慣れればさらに強い刺激が欲しくなります。
その繰り返し。


いつ気がつくのでしょう?


真の幸せを外の世界に求めるのは、
自分の部屋に大切にしまってある宝石を、
家の外に出て探しているようなもの。

いくら探しても見つかることはありません。

宝石のありかを思い出した人からみると、外で探すことは無駄な行為に思えます。

世間の常識に従ったり、他人によく見えようと見栄を張ったり、
競争したり、自分の頭脳を駆使するよりも、
自分のハートに素直に従えばわかること。


自分の内側に至福を求める人は常に幸せです。



人は、あらゆる場面において
いつでも幸せか不幸せか選択していくことができます。

他人の目ばかり気にしている人は、
自分のハートに従うことはありません。

幸せは外界に起こるものではなく、
自分の内面に起こるものという基本的なことを自覚すれば、
外の世界の比較や他人の目に翻弄されることはありません。


そして、感謝の心は、幸せ度をさらに最高点までアップさせます。


世界の幸福度調査で、
何も持たないアーミッシュの人たちの幸福度は、
フォーブス誌で認定された世界のトップランクの富豪たちの幸福度と
同等との結果が出ています。

それは、他人の悪いところを見るのではなく、
良い点をしっかりと評価して いることと、
日常生活での小さなことにいつでも感動したり感謝しているからです。


私たちが幸せに暮らせるのは、限りない支えのおかげです。

着るものも、住む場所も、
あらゆる道具も誰かが考えて作ってくれたもの。

肉体として存在できるのも、
毎日命を捧げてくれる動植物、すべてを育む地球や太陽のおかげです。

人は支えられて生きていることを自覚したら、いつも感謝を忘れない人になります。

そして人間関係もよりよいものになっていきます。

遺伝子の研究でも示されたように、
幸せは、物質ではなく、心の在り方。

だから物をいくら求めても真の幸せに到達できません。

それは、太陽光を両手で捕獲しようと試みるようなもの。


誰もが知っていることなのに、真に理解されていません。

  (http://shindenforest.blog.jp/archives/83790686.html

            <感謝合掌 令和3年1月13日 頓首再拝> 

幸福の感染する日 - 伝統

2021/01/21 (Thu) 01:24:27


           *「光明道中記」(1月20日)より

【心に善き言葉を食して心を幸福にすれば肉体は健康化し運命は良化する。
                         (『生命の實相』第一巻)】

幸福は感染する。病気が感染するばかりでなく幸福は必ず感染するものである。

家庭の一人が不幸せになった時、
その家全体は何となく不幸の雰囲気に包まれ初(そ)める。
その一人の不幸が堤に穿(うが)たれた蟻(あり)の孔(あな)のように
全体の幸福を押し流して了うこともあるものである。

だから一人だけ不幸でいても好いと云うようなものではない。
自分一人が悲しみのために全体を不幸に陥れて好い権利はない。
悲しみが感染するものならば、悲しむ者はその悲しみを他の人に伝えることを、
伝染病を予防するが如き注意深さを以て避けなければならぬ。

悲しみのある時には、神にその悲しみを訴えよ。
神は光であるから悲しみの暗(やみ)は必ず消える。

悩みのある時には、神にその悩みを訴えよ。
神は悦びであるから、その悩みは悦びに必ず変る。

腹の立った時には人に手紙を書いてはならぬ。
必ずその手紙に剣があって相手に立腹を伝染するのである。

腹の立ったときには

「腹の立つことは何もない、大調和が実相である」と念じて神想観せよ。

            <感謝合掌 令和3年1月20日 頓首再拝> 

「既に自分は幸福である」と繰返し唱えよ。 - 伝統

2021/02/02 (Tue) 00:14:14


        *「光明道中記」(2月1日《賞め讃える日》)より

【真に幸福になろうと思うものは、既に自分が幸福であることを知らねばならぬ
                        (『生命の實相』第一巻)】

「既に自分は幸福である」此の言葉を繰返し唱えよ。
「既に自分は幸福である」と。

毎日それを繰返し重ねて行くことによって、
その人は現実生活に於いても本当に幸福になるのである。

呟くことを止めよ。
自己の不幸を口にすることを止めよ。
自己の病を口にすることを止めよ。

今ある運命を喜んで受けよ。
友は悪口を言われる毎に悪しき友となり、汝に仇(あだ)する者となるであろう。

運命も、それを呟く者には仇する者となり、
それを賞め讃える者には幸福を齎(もたら)す味方となるであろう。

世界は、観られたる通りの世界であり、呼ばれたる通りの世界である。

「アダムが生物(いきもの)に名づけたる所は皆其名となりぬ」(創世記第一章)

吾等は此の世界を幸福の世界と名(なず)けようと、
不幸の世界と名けようと、自由なのである。
吾等は自分の名(なづ)け具合によって此の世界を幸福にも不幸にもすることが
出来るのである。

これから吾等は此の世界を楽しい世界と呼ぼう。

            <感謝合掌 令和3年2月1日 頓首再拝>

幸と福 - 伝統

2021/02/10 (Wed) 23:53:03


         *「安岡正篤・一日一語」(1月24日~25日)より

幸と福①

「さいわい」にも幸と福(福)と二字ある。
学問的にいうと、「幸」というのは幸いの原因が自分の中にない、
偶然的な、他より与えられたにすぎない幸いを幸という。

たまたまいい家庭に生まれたとか、
思いがけなくうまいめぐり合わせにぶつかったとかいう、これは幸。
これは当てにならない。

・・・

幸と福②

そうではなくて原因を自分の中に有する、
即ち自分の苦心、自分の努力によってかち得たる幸いを「福」という。

福という字がそれをよく表しておる。
示偏(しめすへん)というのは神さまのことだ。

示というのは上から光がさしている、神の光、叡智の光を表す。

旁(つくり)は「収穫を積み重ねた」という文字だ。
農家でいうならば俵(たわら)を積み上げるという文字。
神の前に蓄積されたるものが「福」である。

            <感謝合掌 令和3年2月10日 頓首再拝>

【幸運を招く発展繁栄の法則】 - 伝統

2021/02/17 (Wed) 23:58:02


       *メルマガ「人間力」(2021.2.17)より

───────────────────

著書『あなたは絶対!運がいい』
『あなたの運はもっとよくなる!』
などが累計250万部を超える
ベストセラーの人気作家・浅見帆帆子さん。

人生は考え方・行動によって
いくらでも変えることができるといいます。
浅見さんに学ぶ人生がうまくいく人の条件とは?

───────────────────

人生がうまくいく人の条件として、

「いまこの瞬間を楽しむこと」

ってすごく大きな要素だと思います。

例えばお客様と会っている時のコーヒーの味一つ、
あるいはそこに来るまでの道に咲いていた花一輪にも
「おいしいな」「美しいな」と楽しめること。

だから夢を叶える秘訣は、ずばりプロセスを楽しむことだと思います。

夢や目標を持つ意味は、それを達成することだけではなくて、
半分はその途中で起こる出来事や人との出会いによって
自分を成長させることにあるんですよね。

夢や目標って達成することにこだわり過ぎると、
それに執着してしまって、逆に遠のいていくんです。

「この数字を達成しないとダメな人間だ」とか

「この夢が叶わないと幸せになれない」

と思い込んでしまって息苦しくなる。

そう思ってしまった瞬間にワクワクしなくなり、
その苦しいイメージを引き寄せ始めるんです。

最近よく
「浅見さんって全然マイナスのことを考えないんですか」
と聞かれるのですが、

私も人間なので「こうなったらどうしよう」と思うことはあります(笑)

感情がマイナスに振れた時、プラスに持っていく工夫を
自分ですることが大事だと思うんです。

尊敬する人に会いに行くとか、元気になる音楽を聴くとか、
好きな映画を見るとか、何でもいいんです。

強運な人は共通してみんな平常心ですが、
それはマイナス感情を抱かないのではなく、
自分で自分の心をこまめにケアして、プラスにする努力をしていると思います。

これは本の中にも書いたのですが、
いいことが続いた後には必ず悪いことがやってくると
思っている人って結構多いんですよね。

でも、運は上がったから下がるというものではありません。

もし、いいことの後に悪いことが起こるとしたら、
たぶん次の3つの理由ですね。

(1)次は悪いことが起こるのではないかと、自分で思っている。

(2)よいことが起こったのは、すべて自分の力だ
   と思って感謝が足りない。

(3)何かを犠牲にして我慢したからこそ、うまくいったと思っている。
  (そう思い込んでいると、犠牲がなくてはうまくいかない人生になる)


高いレベルで生きている人ほど、「幸せ感度」が高いんですよね。

何でもありがたいと感じられるからこそ、
小さな危険信号にもすぐに気がついて、
「これを通して自分に何かを教えてくれているんだ。
こんなに早くに気がつけてよかった」と思えるんです。

            <感謝合掌 令和3年2月17日 頓首再拝>

幸福は求めるものではなく育むもの - 伝統

2021/02/21 (Sun) 15:20:42


      *Web:宇宙の兄弟たちへ(2021年2月21日)より

だれしも幸福を得たいという思いがあります。

しかし、必死になって追い求めても、
なかなか得られないものでもあるでしょう。

『幸せの青い鳥』のチルチルとミチルの兄妹のように、
様々な世界を捜し求めても幸福は得難いかも知れません。

すぐに得ようとすれば、
それは幸福ではなくて快楽を求めることとなります。

安易に得られるものは快楽であり、
それはやがて真の幸福を蝕んでいくものになります。

競馬やパチンコなどギャンブルにのめり込むのも
快楽を求めるからであり、お酒やたばこも快楽の一種と言えるでしょう。

なかには麻薬に手を染めて人生をダメにしてしまう人もいます。

有名人でも麻薬の使用で捕まって、
今まで築いてきたものを失う人は後を絶ちません。

また異性についても安易な関係を結ぶと、
トラブルのもとになったり、人生を狂わせるようになります。

このように手っ取り早く幸福を得ようとすると、
それは快楽であり、人生をダメにしていく事が多いです。


本当の幸福というものは、
このように安易に手に入れようとするものではなくて、
自らの足元に植えて育てていくものでしょう。

植樹をしていくように、自らの足元に木をうえて、
絶えず肥料や水やりをして、時間をかけて徐々に育てていくものです。

すぐに手に入れようとすれば、
世界をさ迷って見つからないか、
安易に手に入る快楽を得るようになります。

しかし、本当に幸福を手に入れるためには、
少しづつ育てていかなければならないでしょう。

そのため苦労や努力も必要になってきます。

結婚したり子育てをするのもそうでしょう。

結婚や出産は苦労も多くなりますが、
それをあえて買ってでも幸福の木を育てているのだと思います。

理性的に考えれば苦労を自ら買って出ているように見えますが、
苦労して育てていく事が幸せに通じているのでしょう。

そのように真の幸福というものは、どこかを捜し求めても、
また安易に手に入れようとしても得られるものではなく、
自らの足元に育てていくものだと思います。

https://www.spacebrothers.jp/2021/02/blog-post_21.html

            <感謝合掌 令和3年2月21日 頓首再拝>

通過儀礼=イニシエーションの霊的意味 - 伝統

2021/02/25 (Thu) 13:33:37


       *Web:宇宙の兄弟たちへ(2020年10月19日)より

通過儀礼というのは人生の時期を区切って、
新しい段階に進むための儀式などを言います。

ある一定の決まった儀礼をおこなう事によって、
今までと違う、新たな段階へと進むことを自覚させる意味があったでしょう。

現代ではこうした通過儀礼という考えが気薄となってきて、
人々は人生の各時期を明確に意識しなかったり、
自覚が薄れる事に繋がっているのかも知れません。

もちろん個人個人の事情がありますが、
社会全体として様々な問題が出てきているのも、
通過儀礼が無くなって来ている事も一因となっているかも知れません。


そこで古来の日本での通過儀礼について述べてみて、
霊的な観点からも述べてみたいと思います。

まずこの世へ生まれ出た誕生から話をします。

子どもが生まれて三日目、あるいは七日目になると
雪隠参りをする地域も関東地域ではあったようです。

雪隠とは厠=トイレの事で、トイレの神様にお参りするというものです。

これはトイレというのはこの世とあの世の境になっていて、
生まれてきた子どもにこの世=現世にいる事を自覚させ、
神様に魂を入れてもらいためだと言われます。

ちなみに妊娠とトイレとの関連は他にも全国的にあり、
たとえば妊婦がトイレをきれいに掃除すると
綺麗な子供が生まれるとする伝承があります・

人気となった「トイレの神様」という植村花菜さんの歌でも、
トイレには綺麗な神様がいて、綺麗にしていると美人になれる
という話が歌詞になっています。

    植村花菜 - トイレの神様
       https://www.youtube.com/watch?v=cwYD_kwq9P8


トイレに存在する神様という考えはありますが、
実際には特定の神様というよりも、
祀ってい欲しいと思っている霊存在などがいて、
それらが人々の思いに引き寄せられて来たりしている事も多いのかなと思います。

必ずしも言われている神様に関わる者だけでなく、
ご先祖の霊であったり、近くで祀られていたような祠に関するような霊が
来られている場合があるのでしょう。

トイレに神様が必ずしもいらっしゃるわけではありませんが、
トイレを綺麗にしておくと、不浄になりやすい場所ですので、
悪い気を溜めない事になって、結果的に良いことなのだと思います。

神様がいるという事で、それだけ疎かにせず、
綺麗にしておくことが大切だという教えでしょう。


次に日本では男の子は生まれてから32日目、
女の子は33日目に初宮参りをする地域が多いようです。

地域を見守る氏神様に生まれたことをご報告にうかがいます。

この初宮参りでは、額に「犬」や「小」という文字を
紅で書くという風習の地域もあるそうです。

これはもともと、魔よけの意味で墨を使って
額にバッテン「×」の印をつけていたことが由来だったようです。

この「×」の記号がいつしか「犬」等の文字に置き換わってきたようです。


霊的には額に何を書くかは重要ではなく、
きちんと氏神様にもご報告し、
お守りいただける印ともなっているという事でしょう。

余談ですが、キリストが青森県の新郷村に到来したという伝説がありますが、
この村では、生まれて間もない子供を外に出すとき、
子供の額に墨で十字を書くという風習が古くから伝わっているのだそうです。

これはキリスト教の印というよりも、
日本に古来からある額にバッテン「×」を書く風習が残っていたのかも知れません。


次に生後100日の記念には「お食い初め」を行います。

おもに鯛、赤飯、お吸い物、煮物、香の物の5品を用意する所が多いようです。

これらの食事を子どもに食べさせる真似をします。

これは子どもが食べ物に困らなくなるようにとの願いが込められた儀式です


続いて「歯固め石の儀式」を行う所もあります。

二個の小さな石を用意して、それに箸で触れ、
その箸を今度は赤ちゃんの歯茎に触れさせるというものです。

これは丈夫な歯が生え揃うようにとの願いを込めた行事です。

儀式事態に意味は無いかと思いますが、
子どもを思う気持ちをあらわした行事という事ですね。


そして毎年3月3日は女の子、5月5日は男の子の祝をします。

3月はひな人形を飾り、5月は鯉のぼりをそれぞれ飾ります。

ひな人形は良い結婚が出来るように
、鯉のぼりは出世出来るようにとのそれぞれの願いがあるのでしょう。


次に七五三もあります

三歳の男女の子、五歳の男の子、七歳の女の子が、
氏神様に成長のご報告と感謝をし、健康を願ってお祓いをする儀式です。

地域によって年齢や男女の違いがあります。

このように幼いころにお宮参りをしたり儀式が多いのも、
それだけ昔は幼いころに亡くなるケースが多かったからでしょう。

まだ医療が発達していなかった昔は、乳幼児の死亡率が高く、
七歳まで生きられることがありがたかったのだと思います。

子どもが7歳を過ぎると、子ども組に入れられるところもあったそうです。

年長者に習いながらいろんな行事をおこないます

身体も十分に育ち、
親から離れて社会勉強をする時期に入っている事を示すものでしょう。


そして次に成人式があります。

今は成人式というと20歳に行われています。

もともと成人の儀式は、13歳から15歳ころまでに行われていたそうです。

男の子はその頃に元服式が行われ、女の子は裳着という儀礼がありました。

昔はそれで子ども時代から卒業し、大人になるとされていたわけです。

成人の儀では厳しい通過儀礼を通って、
大人になる覚悟を自覚させるものが世界的にあり、
いまは娯楽となっているバンジージャンプも、
もとは成人の儀で行われていたものでした。

こうした成人の儀式を行う事で、
子ども時代が終わって、大人になる事への自覚を促しています。


成人した者たちは、次は結婚が待っています。

結婚した男女を祝うための儀式が世界各地にあります。

現在でも教会や神社などで結婚式を挙げる人も多いでしょう。

独身だった時代から離れ、これからは夫婦で生きていく事を示す儀式です。

神仏の前で約束する結婚式を行うのは霊的にも意味があると思います。


ただ男女がカップルになって付き合う場合には、
色情面で波長を落とす場合があるでしょう。

それが皆から祝福される儀式を行い、正式に認められることで
そうした問題が解消されていくと思います。


結婚後には妊娠と出産が待っています。

妊娠すると五か月ほどで腹帯を巻く習慣がありました

もともと子(ネズミ)日につけていたそうですが、
時代が下ると戌(イヌ)日につけるようになったそうです。

ネズミもイヌも多産ということで、それにあやかった儀式です。

これ自体に意味は無いでしょうが、
人々の安産と多産を願った思いが込められた行事という事ですね。


そして日本では厄年という考え方があります。

男性は数えで25歳と42歳、女性は数え19歳と33歳になります。

これらの年を本厄といい、その前後を前厄、後厄と呼びます。

この時期は身体の生成の循環において、
病気になりやすい時期に当たっているからとする考えもあります。

そのように健康に気をつけたり、
人生を振り返る時期と考えるといいかと思います。

厄年について霊的意味があるかというとおそらく無いでしょう。

厄年には悪いことが訪れるというものでもありません。


ただ人間の身体はその頃に不調が現れる生命のサイクルはあると思いますので、
体調などに気をつける時期であると思った方がいいでしょう。


働き盛りだった時期から、次は隠居の時期になります。

長男に家督を継がせて、自身は隠居の身となるのです。

女性の場合には、子どもの嫁さんなどに引き継ぎます。

地域によってはお嫁さんにしゃもじを渡す儀式もあるようです。

次の世代に仕事を引き継いでいきます。


現代では財産などの引継ぎをすると税金がたくさんかかってしまうため、
生前に家を引き継いだりすることも少なくなっていると思います。

また今は地方に住んでいた人も仕事で東京などの都会に出ていく事も多いため、
居住空間が別となるところも多いでしょう。

現代では親から子に引き継ぐという習慣は廃れていこうとしているようです。

そして60歳になると還暦の祝がありますし、
88歳には米寿祝など、長寿を祝う儀式があります。

他にも白寿とかいろんな祝いはあって、
お年寄りが大切にされるのは良いことです。

よくない時期には姥捨て山など、お年寄りを捨ててしまう事も起こっているので、
長寿を祝えるというのは社会がとても良いことです。

日本も将来は高齢化が進んで、若者が減っていってしまう現象が
このままだと起こるため、また姥捨て山のような高齢者を切り捨てる制度が
出てこないとも限りません。

長寿を祝える世の中であって欲しいものです。


そして人生の最後には死の儀式があります

日本では地域によって「魂呼び」といって
息を引き取った人の名前を大声で叫ぶというものがあります。

これは魂にもう一度肉体に戻ってこさせるためのものでしょう。

すでに亡くなってしまった場合には、もう無理かもしれませんが、
あの世とこの世をさ迷っているような時には、
その人の親しい人が名前を呼んであげると、
この世に戻ってくる場合もあります。

死の淵に立っている魂は、あの世へ帰るか、地上へ戻るか
迷っている事もありますので、その時に名前を呼ばれると戻る事もあります。

これは臨死体験者の証言でもあり、
川の向こう岸にすでに亡くなった故人が迎えに来ていたのですが、
後ろから自分の名前を呼ぶ声が聞こえたので、振
り返ってみると病院のベッドに戻っていて、
家族が周りを囲んでその人の名前を呼んでいたのだと知ります。

このように名前を呼ばれたから戻ってきたというケースはあります。


ただ、あの世の光の世界は、本当に気持ちの良い世界で、
至福に満ちている所だったのが、大声で名前を呼ばれて、
苦痛の多いこの世に呼び戻されたため、
「なんで呼び戻したんだ!」と怒られるケースもあるようです(笑)

また「末期の水」というのも、
もとは生き返ってもらいたいという思いから行われていたようです。

その他に枕元にご飯を置いて箸を二本たてる風習もありますが、
これはかつては雑穀ばかりで白米はなかなか食べられなかったため
、亡くなった時にはせめて白米を食べさせたいという
供養の思いから来ているようです。

ご遺体は旅装束を着せて棺に入れられます。

これは今からあの世への旅に出る事を示しているものです。


死後には初七日や四十九日など法要を行います

これは死者の魂があの世の旅をして、
無事に浄土(天国)へ行けるためになされるもので、
仏教では四十九日で次の世界へ移行すると考えられます。

実際にはどうかというと、亡くなられた方の魂は、
ある程度の期間はこの世に留まっていて、遺族などの様子を見ている事があり、
それが大体四十九日までには終わるようです。

人によってばらつきはあるかと思いますが、
四十九日ころにはあの世のへと旅立っている事が多いようです。

ただ、あの世を信じていないような方は、
死後もスムーズにあの世に旅立ちませんので、
この世に留まり続けている場合があるようです。

四十九日が終わった後も、一年忌や三年忌、そして三十三年忌まで続いて、
これをもって弔い上げとなります。

日本では古来からの考えとして、
この年忌が過ぎる間に、故人の霊は祖霊と一体となっていくと考えます。

そして祖霊の一部が肉体に宿って
新たな子どもとして誕生してくると考えられています。


霊的真相からすると、祖霊と一体化するのではなく、
人霊は個々人としての意識をもってあの世に住み、
また時期が来たらこの世へと生まれ変わる輪廻転生を繰り返す存在です。

この世とあの世を行き来するというのはその通りです。

このように儀式には霊的にも何らかの意味が含まれていたり、
それほど意味の無いものも確かにあります。

何かの参考になりましたら幸いです

   (https://www.spacebrothers.jp/2020/10/blog-post_19.html

            <感謝合掌 令和3年2月25日 頓首再拝> 

人間には誰かを幸せにできる宝がある - 伝統

2021/02/26 (Fri) 15:21:45

        *Web:今日も良いことがあるように(2019/03/29)より

《輝くものがある》

   体が不自由な人や知的障害者には、
   どこかぴかっと光り輝くものがあるような気がする。

   知的障害はあるが、気立てがよいとか、
   疑うことを知らないとか、体が不自由でも、
   人の痛みを素早く感じ得るとか、感受性が豊かだとか、
   本当に宝と言えるものを秘めている人びとが少なくないのだ。

                三浦綾子著『忘れえぬ言葉』


三浦綾子さんは、若い時に生きていくことの虚無感から
自殺未遂をはかり、その後、13年間闘病生活を強いられた人です。

その経験から彼女は言います。


   「わたしは人の役に立たず、ただ迷惑をかけるだけの存在であった。
    がしかし、この寝たきりの廃品のようなわたしを
    友人たちは、毎日見舞いにきてくれた。

    わたしはただ話を聞いているだけだが、それだけで、
    見舞う人が励まされ慰められるという逆の現象が幾度もあった。

    人間は品物ではない。人間は廃品ではないとつくづく思うう。」
   
            三浦綾子著『太陽はいつも雲の上に』


《自分の中に宝物をもっている》

学校に勤めているとき、クラスの子どもたちを連れて、
老人ホームや病院に身寄りのないご老人の慰問に行ったことが何度かあります。

そこで、劇を披露したり、お話を聴きに行ったりしました。

このようなとき、勉強の成績の振るわない子の方が不思議とはりきるものです。

ご老人たちには、いつもとても喜んでもらえました。

でも、そのご老人たちの喜んでいる姿に接して、
たぶん、もっと喜んでいたのが子どもたちであり、担任のわたしでした。

わたしたちは、みな、誰かのために役立つことで
生きがいを感ずるものです。

小さな子どももご老人も、身体の完全な人もそうでない人も、
どんな人もすべてです。

見た目だけではよくわからないし、
数字に表われることはないのでしょうが、
人間には、誰かを幸せにできる特別の宝を、
一人一人、もらっているのだと思います。


    自分のもらったもので人を幸せにしよう。


誰でも誰かのために役立つことができます。(^.^)

【出典】三浦綾子著『忘れえぬ言葉』(小学館)
    『太陽はいつも雲の上に』(講談社)

   (https://lucky.t-nakai.work/2019/03/29/thinking-40/

            <感謝合掌 令和3年2月26日 頓首再拝> 

明るい人には常に幸福がつき纏(まと)う - 伝統

2021/03/06 (Sat) 23:56:07


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月6日)」より

明るさはあらゆるものに喜ばれる。

招かれないでも明るい人は、光線のようにどこへ行ってもそこで喜ばれる。
招かれても暗い人は、どこへ行ってもやがては嫌われる。

明るい人には常に幸福がつき纏(まと)い、暗い人には常に不幸がつきまとう。

            <感謝合掌 令和3年3月6日 頓首再拝>

幸福はただ《自分で》掘り出すことにある。 - 伝統

2021/03/12 (Fri) 23:46:08


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月12日)」より

持ち主もなく宝物がいたるところに埋(うず)められている。
誰もそれを掘り出さないだけだ。

幸福になる道はただ《自分で》掘り出すことにある。

            <感謝合掌 令和3年3月12日 頓首再拝>

幸福とは心の一つの状態である - 伝統

2021/03/14 (Sun) 21:34:38


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月13日)」より

幸福になりたければ、まず自分が幸福になれである。
あたりまえのことがあたりまえである。噛みしめれば味がある。

注意すべきは、幸福とは心の一つの状態であるということである。
金殿玉楼の中にいて、輾転(てんてん)反側して眠れない人もいれば、
弾丸雨飛の中にいて喜びいっぱいの人もある。

            <感謝合掌 令和3年3月14日 頓首再拝>

幸福は無我の中にある - 伝統

2021/03/16 (Tue) 21:12:28


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月16日)」より

幸福は無我の中にある。従うことの中にある。

幸福が我欲の中や、強情我漫の中にあると思っている間は、
その人の心に悪魔が忍び込んでいるのである。

無いものを「有る」と主張する嘘つきが悪魔である。

            <感謝合掌 令和3年3月16日 頓首再拝>

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