伝統板・第二
悪なし ② - 伝統
2020/06/02 (Tue) 04:46:34
*伝統板・第二「悪なし」からの継続です。
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7688241
「悪」をその眼の中に直視することにより、征服し得るのである
*「光明道中記」(6月2日《恐れずに所信を貫く日》)
【闇に対しては光をもって相対せよ。
非実在を滅するものは実在のほかに在(あ)らざるなり。(『甘露の法雨』)】
悪は無いと云うことと、悪を征服することとの問題が時々混同せられる。
彼らは悪が有(あ)るからこそ征服しなければならぬのではないかと言う。
併し私に言わせれば、悪は無いからこそ征服し得るのである。
暗は無いからこそ光によって征服し得るかのようにである。
光が如何にして暗を征服するかの過程をよく眺(なが)める時、
吾等は教えられるところが非常に沢山あることを発見する。
光は暗をみとめてその進軍を遠慮すると云うことはない。
光は驀(まっしぐ)らに暗に向かって進むのである。
光が暗に向かって進軍するとき暗は消える。
進軍は行(ぎょう)である。
「本来『悪』無し」とは、悪に対して卑怯にも眼を閉じて、
「悪」を見ることを避け、それに触れることを避けて、
「触らぬ神に祟りなし」式に行動することではない。
「悪」をその眼の中に直視するのである。
偽存在(にせもの)はその眼をじっと視詰(みつ)められると、裁判官の前に
引き出された罪人のように眼を外(そ)らして、其処にいたたまらなくなるであろう。
光に視詰められるとき暗は消えるのであって、
暗を消す方法は、暗なんてどうせ無いのだからとて
灯(あかり)を点(とも)さないことではない。
<感謝合掌 令和2年6月2日 頓首再拝>
《他(た)の「悪」に対して如何にすべきか》 - 伝統
2020/07/09 (Thu) 04:46:00
*「真理」第9巻生活篇第5章(P135~136)より
仏教で忍辱(にんにく)と言って六波羅蜜のうちに一つに数えられる
徳行(とくこう)は、理不尽に辱(はず)かしめを受けたり
冷酷な扱いを受けることに腹を立てずよく忍ぶことであるが、
これをキリスト教では、「七(なな)たびを七(なな)十倍たび赦せ」と
云うように教えているのである。
私たちは常に、他(た)の人々が自分の意に反する行為をするのを
咎(とが)めることなく、相手は相手の立場に於いて、それをそのように
なすべき因縁になっている理を知って赦さなければならないのである。
併(しか)し決して相手の「悪」を放任せよと云うのではない。
若し彼が「悪」を為すならば、「悪」をなすような因縁になっていることを
気の毒に思い、その因縁から解放されるように祈ってやり、
諫言(かんげん)すべきものならば諫言し、教化すべき者ならば教化して
愛を以て善導するよう努めなければならない。
<感謝合掌 令和2年7月9日 頓首再拝>
凡て心の眼を開いて見れば「悪」なるものは存在しない - 伝統
2020/08/06 (Thu) 04:49:41
*「光明道中記」(8月6日《娑婆即寂光土と悟る日》)より
【神の創造は皆完(まった)きものである。(『生命の實相』第十一巻)】
「世界に非道が充ちていると云うことは、歴史と同じように
それよりも更に古い文学さえも同じように、否あらゆる文学中の最も古きものなる
祭司の宗教と同じように古い嘆きである」
とカントは言っている。
けれども生長の家は、世界には何ら非道なことは存在しないと言うのである。
それは存在するものは「道」ばかりであるから、
それが少なくとも存在する限りはそれは「善」であり、
それが「善」でない限りに於て、それは如何に存在するように見えようとも、
それは「非道」即ち「道の欠乏」「道の無」をあらわしているに
過ぎないとするのである。
カントも此の世界が如何に見えようとも
「人間を本性(即ち普通に生まれついている通りの)から身体(しんたい)が
健康なのが当り前だと見做さねばならぬ如く、人間をその本性上から
精神的にも健全にして善なりと見做してはならない理由はない」
と言っている。
すなわち世界及び人間の本質はそれ自身「善」であると云うことである。
釈迦はこれを「一切衆生仏性あり」と言い、
「山川草木国土悉皆成仏」と言ったのである。
凡て心の眼を開いて見れば「悪」なるものは存在しない。
これ第一にして最後の真理である。
<感謝合掌 令和2年8月6日 頓首再拝>
《悪があらわれても悪を見てはならない》 - 伝統
2020/08/22 (Sat) 04:34:59
*「眞理」第2巻基礎編第6章(P167~168))より
若し誰かが悪いことをしたと云う報告が来たならば、
すぐその人を悪しざまに思うことなく、
又、叱ったり、怒鳴ったり、罵(ののし)ったりすることなしに、
「悪く見えたその相(すがた)」は仮りの相であって実相(じつのすがた)ではないこと、
彼の実相(じっそう)は完全円満であって決して悪い事をするような人でないことを、
じっと心に描いて念ずるようにするのが好いのである。
やがて彼の悪い相(すがた)は消えて完全な相(すがた)があらわれ始めるのである。
若し何か面白くない事件が起ったならば、
「今はあの事件は悪いような相(すがた)をあらわしているけれども、
あれは途中の経過であって、必ず良くなるより仕方がない」と念じて、
最善の努力を尽すならば、その事件は必ず好転して、
好い結果を生むようになるのである。
併し事情が好転するように誠心(まごころ)をつくして努力することを忘れてはならぬ。
<感謝合掌 令和2年8月22日 頓首再拝>
《過去の悪は既に無いのである》 - 伝統
2020/12/24 (Thu) 05:01:35
*『 生長の家 』(昭和25年7月24日)の法語より
過去に行いたるすべての悪しきことは
霊に属せざるものであるから なげくことはないのである。
それらは 「 肉体無 」 を悟って
キリストと共に肉体を抹殺したものには
もはや 「 肉体無 」 となったものである。
一度 肉体の無を悟った後には キリストと共に復活して
「 吾は決して罪なきものである 」 ということを
知らなければならないのである。
不幸なる記憶の中に、
汚れたる記憶の中に、
悲しき記憶の中に、
自らを埋葬してはならないのである。
キリストは ラザロの如く
汝を死の櫃(ひつ)から立たしめ給うのである。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12
<感謝合掌 令和2年12月24日 頓首再拝>
《神のみ心の中には悪はない》 - 伝統
2021/01/17 (Sun) 02:54:34
*「眞理」第2巻基礎編第6章(P172)より
神が人間に対して望みたまう處の御意(みこころ)は、
人間の幸福と健康と裕かさと善徳とである。
神が人間に対して不幸や病気や貧乏を望み給うものである
と考えるのは、間違である。
信仰篤いと考えられている人間が、ともすれば受難礼讃に陥って、
人間は苦しまなければ神は喜び給わないのだと考えて苦行をしたり、
病気や不幸に陥ったとき、「み心の如くならしめ給え」と祈って
、恰も「み心」の中に病気や不幸があるかの如く考えているらしいのは、
まことに残念なことであるのである。
病気、不幸が見舞って来た時、「み心の如くならしめ給え」と神に委ねるのは、
病気、不幸は、み心に反した「我」の心のあらわれであると悟り、
み心にまかせたら病気や不幸がおのずから解消することを知って、
神にまかせるのでなければならぬ。
<感謝合掌 令和3年1月17日 頓首再拝>
悪はあるように見えても本来ない - 伝統
2021/01/20 (Wed) 04:54:32
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月20日)より
悪は《ある》ように見えても本来無い。
この真理が人間の魂に沁みこんでしまうまでは人間は本当には幸福にもなれないし、
本当に赦すこともできないものである。
本当に常にその人の生活が幸福であり、本当に赦すことのできる人は
「悪はあるように見えても本来ない 」と悟った人ばかりである。
言葉や筆でそのことを説くことができるだけではまだ足りない。
魂の底にそれを沁み入らせなければならぬ。
毎朝起きた時および、何事か起こったときには必ず
「悪はあるように見えても本来ない 」と10遍ずつ唱えるがよい。
これはどんな禁厭(まじない)の言葉よりも人間を光へ導く神呪(しんじゅ)である。
<感謝合掌 令和3年1月20日 頓首再拝>
悪しきものは存在しない - 伝統
2021/01/23 (Sat) 02:43:01
*「光明法語」(1月23日)より
《在(あ)るものはただ神のみと思念せよ》
人々よ、よき言葉を語れ。
悪しきことばに惑わされること勿れ。
悲観的なことばを発するな。
悲観的なことばに惑わされること勿れ。
ことばは種であるから悪しきことばは言わぬがいい。
悪しきことばを聞いたならば直ちに心の中でそれを打消すことである。
人もし悪しきことばを語るともその人を非難するな。
人の悪しきことばは吾が心の中にある隠れたる所の想念の影であると思いて
自ら明るくなるように反省せよ。
神のみが實在であるから悪しきものは存在しないものだと否定せよ。
<感謝合掌 令和3年1月23日 頓首再拝>
《悪魔は存在しないのである》 - 伝統
2021/02/11 (Thu) 04:51:57
*「眞理」第2巻基礎編第6章(P173~174)より
唯(ただ)善のみなる「神」以外の何者かが存在すると考えることは
間違った考えであり、正しい信仰ではないのである。
古き、曲解されたるキリスト教に於いては、神と悪魔とが相対立して
争っているなどと云う信仰をもっているのであるが、
神以外に何者かが存在すると云う事になるならば、
神は絶対者ではなくなるのである。
神と悪魔とが、恰も某(あ)る国と某る国とが対立している如く、
対立して争っていると云う信仰から人生に不幸が起って来るのである。
「悪魔(サタン)よ去れ!」と云う言葉は、
「悪魔は無い!」と云う意味を行動的に言いあらわしたものに過ぎないのである。
悪魔と云うのは「自分の心が物質的なものに執われた状態」を
擬人化して表したものである。
<感謝合掌 令和3年2月11日 頓首再拝>
《悪と云うものはない》 - 伝統
2021/02/21 (Sun) 02:42:13
*「光明法語」(2月21日)より
世の中に絶対悪と云うものはない。
悪い様に見えてもそれは必ず善くなるのもである。
首になったら、屹度なお一層よい位置があたえられるか、
尚一層よい儲けが得られるものである。
そう信じて、その与えられた立場、境遇による一切を悦び受けて、
感謝しながら全力を盡すときそうなるのである。
しかしそう信じない者が可哀相である。
私は盗難にかかって、貯蓄して資金をためてから光明思想を弘めようと
思っていた愚かさをさとって、今直ぐ光明思想をひろめ出したので
生長の家が大きくなったのである。
<感謝合掌 令和3年2月21日 頓首再拝>
神から悪しきものが、来るという考えを捨てよ。 - 伝統
2021/04/02 (Fri) 04:46:37
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月2日)」より
偶然は一つもない。
もし偶然があるとすれば神の摂理の及ばぬ事物が
どこかにあるということを認めなければならぬ。
そしてこれは神の全智に対するはなはだしい冒涜となるであろう。
偶然と考えられるもののうち、
善き一半は神より来たり、悪しき一半は「心の法則」より来たる。
神は悪しきものを与え給わないから、
悪しきものは神の最初の創造の世界にはないのである。
神から悪しきものが、貧しさが、病気が、苦難が来るという考えを捨てよ。
それらは神から来るのではない。
審判(さばき)は子にゆだねられているのである。(「ヨハネ伝」)
われわれは神の子であるから、
われわれ自身の潜在意識の審判(さばき)が「心の法則」として、
「三界は唯心の所現」として現われるのだ。
<感謝合掌 令和3年4月2日 頓首再拝>
《過去の悪は既に無いのである》 - 伝統
2021/04/21 (Wed) 03:28:06
*『生長の家』(昭和25年7月24日の法語)より
過去に行いたるすべての悪しきことは
霊に属せざるものであるから なげくことはないのである。
それらは 「 肉体無 」 を悟って
キリストと共に肉体を抹殺したものには
もはや 「 肉体無 」 となったものである。
一度 肉体の無を悟った後には キリストと共に復活して
「 吾は決して罪なきものである 」 ということを
知らなければならないのである。
不幸なる記憶の中に、
汚れたる記憶の中に、
悲しき記憶の中に、
自らを埋葬してはならないのである。
キリストは ラザロの如く
汝を死の櫃(ひつ)から立たしめ給うのである。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12
<感謝合掌 令和3年4月21日 頓首再拝>
実在の世界において「悪い」ものはない - 伝統
2021/05/17 (Mon) 02:11:48
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月17日)」より
おかげが無いという人々よ。まずすべての人々と和せよ。
他(ひと)をも赦し、自分をも赦せ。そして再び罪を犯すことなかれ。
罪を罪と知ったとき、もうなんじの罪は消えたのである。
「和」の足らぬ心を「おかげの無い心」という。
その不平の心がまたしても「和」のない心である。
「和」とは実相の完全さを「“そのまま”受け取る心」である。
現象を見てグズグズいう心は「和」ではない。
神の創造(つく)り給える世界に「悪」はないと
「そのまま受ける心」が「和」なのである。
いっさいの事物は“そのまま”で調和しているのである。
調和していないがごとく見えるのは仮現にすぎない。
なんにも実在の世界において「悪い」ものはない。
<感謝合掌 令和3年5月17日 頓首再拝>
害心を持つものは本来無い - 伝統
2021/05/22 (Sat) 04:32:15
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月22日)」より
すべての人はわがために遣わしたまえる兄弟です。
一人もわれに対って害心を持つ者はこの世にないのである。
もし害心をもってわれに挑んでくるものがあったならば、
自分が害心を心に描いた反映であって、
そんなものは本来無いのである。
<感謝合掌 令和3年5月22日 頓首再拝>
「本来『悪』無し」とは、悪」を直視し、光を進軍させることにより消えることをいう - 伝統
2021/06/02 (Wed) 02:55:57
*「光明道中記」(6月2日《恐れずに所信を貫く日》)より
【闇に対しては光をもって相対せよ。
非実在を滅するものは実在のほかに在(あ)らざるなり。(『甘露の法雨』)】
悪は無いと云うことと、悪を征服することとの問題が時々混同せられる。
彼らは悪が有(あ)るからこそ征服しなければならぬのではないかと言う。
併し私に言わせれば、悪は無いからこそ征服し得るのである。
暗は無いからこそ光によって征服し得るかのようにである。
光が如何にして暗を征服するかの過程をよく眺(なが)める時、
吾等は教えられるところが非常に沢山あることを発見する。
光は暗をみとめてその進軍を遠慮すると云うことはない。
光は驀(まっしぐ)らに暗に向かって進むのである。
光が暗に向かって進軍するとき暗は消える。
進軍は行(ぎょう)である。
「本来『悪』無し」とは、悪に対して卑怯にも眼を閉じて、
「悪」を見ることを避け、それに触れることを避けて、
「触らぬ神に祟りなし」式に行動することではない。
「悪」をその眼の中に直視するのである。
偽存在(にせもの)はその眼をじっと視詰(みつ)められると、裁判官の前に
引き出された罪人のように眼を外(そ)らして、其処にいたたまらなくなるであろう。
光に視詰められるとき暗は消えるのであって、
暗を消す方法は、暗なんてどうせ無いのだからとて
灯(あかり)を点(とも)さないことではない。
<感謝合掌 令和3年6月2日 頓首再拝>
「悪」は存在しない、決して心に「悪」を予想しない - 伝統
2021/06/13 (Sun) 05:03:42
*「光明道中記」(6月13日《絶えず明るく微笑する日》)
【言葉の力によって認めるものだけが存在に入る。(『生命の實相』第ニ巻)】
恐怖の正体は「悪」の存在を予想する念である。
念は吾々の「生命」より発する波動であって「生命」そのものと融合して、
体内と、外界とに、自分の「生命」に一連関せる環境を作り上げる。
体内の環境を内的環境と呼び、外界の環境を外的環境と言う。
血流、消化状態、内分泌の状態などは内的環境であり、
外界境遇貧富等は外的環境である。
内的環境も外的環境も共に自己生命の「念」の延長であり、
客観化(かたちにか)したのであるから、
自分の「念」によって支配されるのである。
「念」に悪を予想するところの恐怖心が、
肉体に悪影響を与え、外界に悪環境をつくるのは当然である。
されば、決して心に「悪」を予想することなかれ。
「悪」は存在しないのである。
ただ予想したときそれが形にあらわれて、
あるかの如く視(み)えるに過ぎない。
静かに、「自分に近づきつつある物」を幸福の使者として微笑をもって迎えよ。
自分に近づきつつある物は、結局「幸福の使者」と変ずるであろう。
立対(たちむか)う者は自分の心の反影(かげ)である。
<感謝合掌 令和3年6月13日 頓首再拝>
凡て心の眼を開いて見れば「悪」なるものは存在しない - 伝統
2021/08/06 (Fri) 04:50:24
*「光明道中記」(8月6日《娑婆即寂光土と悟る日》)より
【神の創造は皆完(まった)きものである。(『生命の實相』第十一巻)】
「世界に非道が充ちていると云うことは、
歴史と同じようにそれよりも更に古い文学さえも同じように、
否あらゆる文学中の最も古きものなる祭司の宗教と同じように古い嘆きである」
とカントは言っている。
けれども生長の家は、世界には何ら非道なことは存在しないと言うのである。
それは存在するものは「道」ばかりであるから、それが少なくとも存在する限りは
それは「善」であり、それが「善」でない限りに於て、それは如何に存在するように
見えようとも、それは「非道」即ち「道の欠乏」「道の無」をあらわしているに
過ぎないとするのである。
カントも此の世界が如何に見えようとも
「人間を本性(即ち普通に生まれついている通りの)から身体(しんたい)が
健康なのが当り前だと見做さねばならぬ如く、人間をその本性上から
精神的にも健全にして善なりと見做してはならない理由はない」
と言っている。
すなわち世界及び人間の本質はそれ自身「善」であると云うことである。
釈迦はこれを「一切衆生仏性あり」と言い、
「山川草木国土悉皆成仏」と言ったのである。
凡て心の眼を開いて見れば「悪」なるものは存在しない。
これ第一にして最後の真理である。
<感謝合掌 令和3年8月6日 頓首再拝>
「悪はあるように見えても本来ない」 - 伝統
2022/01/20 (Thu) 04:48:44
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月20日)より
悪は《ある》ように見えても本来無い。
この真理が人間の魂に沁みこんでしまうまでは人間は本当には幸福にもなれないし、
本当に赦すこともできないものである。
本当に常にその人の生活が幸福であり、本当に赦すことのできる人は
「悪はあるように見えても本来ない 」と悟った人ばかりである。
言葉や筆でそのことを説くことができるだけではまだ足りない。
魂の底にそれを沁み入らせなければならぬ。
毎朝起きた時および、何事か起こったときには必ず
「悪はあるように見えても本来ない 」
と10遍ずつ唱えるがよい。
これはどんな禁厭(まじない)の言葉よりも
人間を光へ導く神呪(しんじゅ)である。
<感謝合掌 令和4年1月20日 頓首再拝>
《悪と云うものはない》 - 伝統
2022/02/21 (Mon) 04:39:17
*「光明法語」(2月21日)より
世の中に絶対悪と云うものはない。
悪い様に見えてもそれは必ず善くなるのもである。
首になったら、屹度なお一層よい位置があたえられるか、
尚一層よい儲けが得られるものである。
そう信じて、その与えられた立場、境遇による一切を悦び受けて、
感謝しながら全力を盡すときそうなるのである。
しかしそう信じない者が可哀相である。
私は盗難にかかって、貯蓄して資金をためてから光明思想を弘めようと
思っていた愚かさをさとって、今直ぐ光明思想をひろめ出したので
生長の家が大きくなったのである。
<感謝合掌 令和4年2月21日 頓首再拝>
実在の世界において「悪い」ものはない - 伝統
2022/05/17 (Tue) 07:27:34
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月17日)」より
おかげが無いという人々よ。まずすべての人々と和せよ。
他(ひと)をも赦し、自分をも赦せ。そして再び罪を犯すことなかれ。
罪を罪と知ったとき、もうなんじの罪は消えたのである。
「和」の足らぬ心を「おかげの無い心」という。
その不平の心がまたしても「和」のない心である。
「和」とは実相の完全さを「“そのまま”受け取る心」である。
現象を見てグズグズいう心は「和」ではない。
神の創造(つく)り給える世界に「悪」はないと「そのまま受ける心」が「和」なのである。
いっさいの事物は“そのまま”で調和しているのである。
調和していないがごとく見えるのは仮現にすぎない。
なんにも実在の世界において「悪い」ものはない。
<感謝合掌 令和4年5月17日 頓首再拝>
害心を持つものは本来無い - 伝統
2022/05/22 (Sun) 07:32:53
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月22日)」より
すべての人はわがために遣わしたまえる兄弟です。
一人もわれに対って害心を持つ者はこの世にないのである。
もし害心をもってわれに挑んでくるものがあったならば、
自分が害心を心に描いた反映であって、
そんなものは本来無いのである。
<感謝合掌 令和4年5月22日 頓首再拝>
悪は無いからこそ征服し得る。悪を直視し、光を進軍させよ - 伝統
2022/06/02 (Thu) 09:28:48
*「光明道中記」(6月2日《恐れずに所信を貫く日》)より
【闇に対しては光をもって相対せよ。
非実在を滅するものは実在のほかに在(あ)らざるなり。(『甘露の法雨』)】
悪は無いと云うことと、悪を征服することとの問題が時々混同せられる。
彼らは悪が有(あ)るからこそ征服しなければならぬのではないかと言う。
併し私に言わせれば、悪は無いからこそ征服し得るのである。
暗は無いからこそ光によって征服し得るかのようにである。
光が如何にして暗を征服するかの過程をよく眺(なが)める時、
吾等は教えられるところが非常に沢山あることを発見する。
光は暗をみとめてその進軍を遠慮すると云うことはない。
光は驀(まっしぐ)らに暗に向かって進むのである。
光が暗に向かって進軍するとき暗は消える。
進軍は行(ぎょう)である。
「本来『悪』無し」とは、悪に対して卑怯にも眼を閉じて、
「悪」を見ることを避け、それに触れることを避けて、
「触らぬ神に祟りなし」式に行動することではない。
「悪」をその眼の中に直視するのである。
偽存在(にせもの)はその眼をじっと視詰(みつ)められると、裁判官の前に
引き出された罪人のように眼を外(そ)らして、其処にいたたまらなくなるであろう。
光に視詰められるとき暗は消えるのであって、
暗を消す方法は、暗なんてどうせ無いのだからとて
灯(あかり)を点(とも)さないことではない。
<感謝合掌 令和4年6月2日 頓首再拝>
決して心に「悪」を予想することなかれ - 伝統
2022/06/13 (Mon) 09:51:43
*「光明道中記」(6月13日《絶えず明るく微笑する日》)より
【言葉の力によって認めるものだけが存在に入る。(『生命の實相』第ニ巻)】
恐怖の正体は「悪」の存在を予想する念である。
念は吾々の「生命」より発する波動であって「生命」そのものと融合して、
体内と、外界とに、自分の「生命」に一連関せる環境を作り上げる。
体内の環境を内的環境と呼び、外界の環境を外的環境と言う。
血流、消化状態、内分泌の状態などは内的環境であり、
外界境遇貧富等は外的環境である。
内的環境も外的環境も共に自己生命の「念」の延長であり、
客観化(かたちにか)したのであるから、
自分の「念」によって支配されるのである。
「念」に悪を予想するところの恐怖心が、
肉体に悪影響を与え、外界に悪環境をつくるのは当然である。
されば、決して心に「悪」を予想することなかれ。
「悪」は存在しないのである。
ただ予想したときそれが形にあらわれて、
あるかの如く視(み)えるに過ぎない。
静かに、「自分に近づきつつある物」を
幸福の使者として微笑をもって迎えよ。
自分に近づきつつある物は、結局「幸福の使者」と変ずるであろう。
立対(たちむか)う者は自分の心の反影(かげ)である。
<感謝合掌 令和4年6月13日 頓首再拝>
神の創造には、一物も「悪い物」はない - 伝統
2022/07/25 (Mon) 05:04:26
*「光明法語」(7月25日《適時、適所、適人》)より
生長の家は毒物を食しながら、心で「これは毒物ではない、栄養食品である」と
思念しながら食べたら、毒が変じて栄養となると云うのではない。
心が完全に働けば、本来食物でない物(毒物と仮に称す)を食べなくなるのである。
そして食物の分量や質の配置なども適当となり、すべてが《ある》べきところに
《ある》ように適当におかれると云うのである。
神の創造には、一物も「悪い物」はないのであって、悪く見えるのは、
それを置く場所と時と人とが適当でないからにすぎない。
<感謝合掌 令和4年7月25日 頓首再拝>
絶対力に触れるとき、悪が自然に消え去る - 伝統
2022/08/13 (Sat) 10:59:07
*「光明道中記」(8月13日《弥陀の本願ありがたき日》)より抜粋
【光明念波は「類に非ざる念波」を反撥して災害から逃れる。
(『生命の実相』第十三巻)】
弥陀の救いの本願は、大実在の御意志であるが故に、
弥陀の本願をさまたぐるほどの悪は存在し得ないのである。
弥陀の本願力の前には「肉体」の滅不滅は何らの障礙にはなり得ない。
そこに生長の家の説く阿弥陀仏に至心廻向すれば
「肉体そのまますくわれている、此処がこのまま極楽浄土になる」
と云う真理が裏付けられるのである。
宇宙大実在の我を救いたまわんとの本願の絶対力の前には
何物も礙(さ)えぎることが出来ないと云うのは真理である。
そこに『歎異鈔』の
「他の善も要にもあらず」「悪をもおそるべからず」の根拠がある。
本願の絶対力に触れるとき、無限燭光の光に触れて暗黒が消え去るように、
「他力の善」がおのずから自然に行われて悪が自然に消え去る意味である。
<感謝合掌 令和4年8月13日 頓首再拝>
「悪はあるように見えても本来ない」 - 伝統
2023/01/20 (Fri) 08:31:37
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月20日)より
悪は《ある》ように見えても本来無い。
この真理が人間の魂に沁みこんでしまうまでは
人間は本当には幸福にもなれないし、
本当に赦すこともできないものである。
本当に常にその人の生活が幸福であり、本当に赦すことのできる人は
「悪はあるように見えても本来ない 」と悟った人ばかりである。
言葉や筆でそのことを説くことができるだけではまだ足りない。
魂の底にそれを沁み入らせなければならぬ。
毎朝起きた時および、何事か起こったときには必ず
「悪はあるように見えても本来ない 」
と10遍ずつ唱えるがよい。
これはどんな禁厭(まじない)の言葉よりも
人間を光へ導く神呪(しんじゅ)である。
<感謝合掌 令和5年1月20日 頓首再拝>
《悪と云うものはない》 - 伝統
2023/02/21 (Tue) 07:47:05
*「光明法語」(2月21日)より
世の中に絶対悪と云うものはない。
悪い様に見えてもそれは必ず善くなるのもである。
首になったら、屹度なお一層よい位置があたえられるか、
尚一層よい儲けが得られるものである。
そう信じて、その与えられた立場、境遇による一切を悦び受けて、
感謝しながら全力を盡すときそうなるのである。
しかしそう信じない者が可哀相である。
私は盗難にかかって、貯蓄して資金をためてから光明思想を弘めようと
思っていた愚かさをさとって、今直ぐ光明思想をひろめ出したので
生長の家が大きくなったのである。
<感謝合掌 令和5年2月21日 頓首再拝>
実在の世界において「悪い」ものはない - 伝統
2023/05/17 (Wed) 07:03:53
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月17日)」より
おかげが無いという人々よ。まずすべての人々と和せよ。
他(ひと)をも赦し、自分をも赦せ。そして再び罪を犯すことなかれ。
罪を罪と知ったとき、もうなんじの罪は消えたのである。
「和」の足らぬ心を「おかげの無い心」という。
その不平の心がまたしても「和」のない心である。
「和」とは実相の完全さを「“そのまま”受け取る心」である。
現象を見てグズグズいう心は「和」ではない。
神の創造(つく)り給える世界に「悪」はないと
「そのまま受ける心」が「和」なのである。
いっさいの事物は“そのまま”で調和しているのである。
調和していないがごとく見えるのは仮現にすぎない。
なんにも実在の世界において「悪い」ものはない。
<感謝合掌 令和5年5月17日 頓首再拝>
悪は無いからこそ征服し得る。悪を直視し、光を進軍させよ - 伝統
2023/06/02 (Fri) 10:10:28
*「光明道中記」(6月2日《恐れずに所信を貫く日》)より
【闇に対しては光をもって相対せよ。
非実在を滅するものは実在のほかに在(あ)らざるなり。(『甘露の法雨』)】
悪は無いと云うことと、悪を征服することとの問題が時々混同せられる。
彼らは悪が有(あ)るからこそ征服しなければならぬのではないかと言う。
併し私に言わせれば、悪は無いからこそ征服し得るのである。
暗は無いからこそ光によって征服し得るかのようにである。
光が如何にして暗を征服するかの過程をよく眺(なが)める時、
吾等は教えられるところが非常に沢山あることを発見する。
光は暗をみとめてその進軍を遠慮すると云うことはない。
光は驀(まっしぐ)らに暗に向かって進むのである。
光が暗に向かって進軍するとき暗は消える。
進軍は行(ぎょう)である。
「本来『悪』無し」とは、悪に対して卑怯にも眼を閉じて、
「悪」を見ることを避け、それに触れることを避けて、
「触らぬ神に祟りなし」式に行動することではない。
「悪」をその眼の中に直視するのである。
偽存在(にせもの)はその眼をじっと視詰(みつ)められると、
裁判官の前に引き出された罪人のように眼を外(そ)らして、
其処にいたたまらなくなるであろう。
光に視詰められるとき暗は消えるのであって、
暗を消す方法は、暗なんてどうせ無いのだからとて
灯(あかり)を点(とも)さないことではない。
<感謝合掌 令和5年6月2日 頓首再拝>
「悪」を予想することなかれ。「悪」は存在しないのである - 伝統
2023/06/13 (Tue) 06:55:30
*「光明法語」(6月13日《絶えず明るく微笑する日》)
【言葉の力によって認めるものだけが存在に入る。(『生命の實相』第ニ巻)】
恐怖の正体は「悪」の存在を予想する念である。
念は吾々の「生命」より発する波動であって「生命」そのものと融合して、
体内と、外界とに、自分の「生命」に一連関せる環境を作り上げる。
体内の環境を内的環境と呼び、外界の環境を外的環境と言う。
血流、消化状態、内分泌の状態などは内的環境であり、
外界境遇貧富等は外的環境である。
内的環境も外的環境も共に自己生命の「念」の延長であり、
客観化(かたちにか)したのであるから、
自分の「念」によって支配されるのである。
「念」に悪を予想するところの恐怖心が、
肉体に悪影響を与え、外界に悪環境をつくるのは当然である。
されば、決して心に「悪」を予想することなかれ。
「悪」は存在しないのである。
ただ予想したときそれが形にあらわれて、あるかの如く視(み)えるに過ぎない。
静かに、「自分に近づきつつある物」を幸福の使者として微笑をもって迎えよ。
自分に近づきつつある物は、結局「幸福の使者」と変ずるであろう。
立対(たちむか)う者は自分の心の反影(かげ)である。
<感謝合掌 令和5年6月13日 頓首再拝>
凡て心眼で観れば「悪」なるものは存在しない。これ第一にして最後の真理である。 - 伝統
2023/08/06 (Sun) 07:57:04
*「光明道中記」(8月6日《娑婆即寂光土と悟る日》)より
【神の創造は皆完(まった)きものである。(『生命の實相』第十一巻)】
「世界に非道が充ちていると云うことは、
歴史と同じようにそれよりも更に古い文学さえも同じように、
否あらゆる文学中の最も古きものなる祭司の宗教と同じように古い嘆きである」
とカントは言っている。
けれども生長の家は、世界には何ら非道なことは存在しないと言うのである。
それは存在するものは「道」ばかりであるから、
それが少なくとも存在する限りはそれは「善」であり、
それが「善」でない限りに於て、それは如何に存在するように見えようとも、
それは「非道」即ち「道の欠乏」「道の無」をあらわしているに
過ぎないとするのである。
カントも此の世界が如何に見えようとも
「人間を本性(即ち普通に生まれついている通りの)から
身体(しんたい)が健康なのが当り前だと見做さねばならぬ如く、
人間をその本性上から精神的にも健全にして善なりと
見做してはならない理由はない」
と言っている。
すなわち世界及び人間の本質はそれ自身「善」であると云うことである。
釈迦はこれを「一切衆生仏性あり」と言い、
「山川草木国土悉皆成仏」と言ったのである。
凡て心の眼を開いて見れば「悪」なるものは存在しない。
これ第一にして最後の真理である。
<感謝合掌 令和5年8月6日 頓首再拝>
「悪はあるように見えても本来ない」 - 伝統
2024/01/20 (Sat) 11:48:05
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月20日)より
悪は《ある》ように見えても本来無い。
この真理が人間の魂に沁みこんでしまうまでは
人間は本当には幸福にもなれないし、
本当に赦すこともできないものである。
本当に常にその人の生活が幸福であり、本当に赦すことのできる人は
「悪はあるように見えても本来ない 」と悟った人ばかりである。
言葉や筆でそのことを説くことができるだけではまだ足りない。
魂の底にそれを沁み入らせなければならぬ。
毎朝起きた時および、何事か起こったときには必ず
「悪はあるように見えても本来ない 」
と10遍ずつ唱えるがよい。
これはどんな禁厭(まじない)の言葉よりも
人間を光へ導く神呪(しんじゅ)である。
<感謝合掌 令和6年1月20日 頓首再拝>
《悪と云うものはない》 - 伝統
2024/02/21 (Wed) 09:54:14
*「光明法語」(2月21日)より
世の中に絶対悪と云うものはない。
悪い様に見えてもそれは必ず善くなるのもである。
首になったら、屹度なお一層よい位置があたえられるか、
尚一層よい儲けが得られるものである。
そう信じて、その与えられた立場、境遇による一切を悦び受けて、
感謝しながら全力を盡すときそうなるのである。
しかしそう信じない者が可哀相である。
私は盗難にかかって、貯蓄して資金をためてから光明思想を弘めようと
思っていた愚かさをさとって、今直ぐ光明思想をひろめ出したので
生長の家が大きくなったのである。
<感謝合掌 令和6年2月21日 頓首再拝>
神から悪しきものが、来るという考えを捨てよ。 - 伝統
2024/04/02 (Tue) 11:32:56
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月2日)」より
偶然は一つもない。
もし偶然があるとすれば神の摂理の及ばぬ事物が
どこかにあるということを認めなければならぬ。
そしてこれは神の全智に対するはなはだしい冒涜となるであろう。
偶然と考えられるもののうち、
善き一半は神より来たり、悪しき一半は「心の法則」より来たる。
神は悪しきものを与え給わないから、
悪しきものは神の最初の創造の世界にはないのである。
神から悪しきものが、貧しさが、病気が、苦難が来るという考えを捨てよ。
それらは神から来るのではない。
審判(さばき)は子にゆだねられているのである。(「ヨハネ伝」)
われわれは神の子であるから、
われわれ自身の潜在意識の審判(さばき)が「心の法則」として、
「三界は唯心の所現」として現われるのだ。
<感謝合掌 令和6年4月2日 頓首再拝>