伝統板・第二

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ひかりの一日一言63~愛と祝福の言葉の力 - 伝統

2020/06/01 (Mon) 04:28:39

この「愛と祝福の言葉の力」は
「眞理」第2巻基礎編第7章(P182~206)からの謹写です。



ひかりの一日一言《1日》

《1日 原因結果の法則》

蒔いた種は生(は)える。
蒔かない種は生えぬ。
瓜(うり)の蔓(つる)には茄子は生(な)らぬ。

これは原因結果の法則である。

蒔いた種は、蒔いた以上に増大して刈り取ることになるのである。

ラジオの波長を合わすのも同じことである。
たった1回波長を合わせておいたら、その波長の放送はどれもこれも
全部アンテナにかかって来てそれが実現するのである。

何よりも大切なことは、
貴方の精神の全体的な波長が明るいと云う事である。
明るい所に心の波長を合わせて置いたら凡(あら)ゆるよい物が、
その心のところに集まって来て実現するのであります。

人の富を贅沢だと思ってはならない。
それは富を否定する心であるから自分の富も否定せられる。
すなわち自分も富むことができなくなる。


          *「眞理」第2巻基礎編第7章(P182~183))より

       <感謝合掌 令和2年6月1日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《2日》 - 伝統

2020/06/02 (Tue) 04:39:16


《2日 人に祝福を与えるの幸福》

蒔いた種が刈り入れられるのであるから、
他(た)を祝福したならば、自分がまた祝福せられることになるのである。

しかし自分自身が祝福せられん事を欲して人を祝福するならば
それらは既に、報いを求めて与えるのであるから、
幾分商売主義に堕することになるのである。

そのような報いを求めることなしに
ただ相手の幸福のために祈るべきである。
これが本当の祝福を与える事になるのである。

本当は人を祝福した《あと》で来る報いよりも、
祝福を与えつつあるその事自身が幸福感そのものであって、
与える者は「受くる者」よりも一層幸福なのである。

祝福は本来、魂(たましい)的なものであるから、
物を与えるよりも価値は高いのである。


          *「眞理」第2巻基礎編第7章(P183))より

       <感謝合掌 令和2年6月2日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《3日》 - 伝統

2020/06/03 (Wed) 04:09:52

《3日 生長の家祝福班のこと》

併し、「自分が彼に与えた」と思っている限り、その祝福は、
まだ純粋無我の祝福ではない。
従って最高の祝福だと言うことは出来ないのである。

一切の祝福の本源は「神」であるから、「自分が祝福を与えた」と
いうような傲慢な考えは本物ではないのである。

「自分が神の祝福のパイプにならせて頂きました。有難うございます」
と云う心境にならなければならない。

最近、「生長の家祝福班」と云うのが出来て、各戸の門前に立って
合掌して『甘露の法雨』又は「七つの燈台の點燈者の神示」を
朗読して歩く行事が行われることになった。

彼らの「天使(てんのつかい)」として「神の喇叭(ラッパ)」として
祝福して歩くところが尊いのである。

自分自身が祝福して歩くのではないのである。


          *「眞理」第2巻基礎編第7章(P183~184))より

       <感謝合掌 令和2年6月3日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《4日》 - 伝統

2020/06/04 (Thu) 04:41:41


《4日 神の愛の循環について》

自分が神のパイプになって祝福の流れを他(ひと)に注ぐならば、
水道のパイプがその蛇口から水を注ぎ出すとき、水源地の水が直ちに
そのパイプに新しく流入して来るように、

そのパイプになった人に流れ入って来て、其処に祝福の無限循環が
行なわれるのである。

すべて与えるものは与えられるのは、こちらが、その報いを期待
しなくても循環的に自然に来るのは、電流の配線がプラスと、
マイナスとが円環的につながれたときにのみ電流が完全に
流れるのと同様であるのである。

神の愛の円環的回路を断ち切ってはならない。
吾々は神の愛が電流の如く流れる回路(サーキット)に
ならなければならない。


          *「眞理」第2巻基礎編第7章(P184~185))より

       <感謝合掌 令和2年6月4日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《5日》 - 伝統

2020/06/05 (Fri) 04:04:09


《5日 先ず如何に多く祝福されているかに目覚めよ》

無限に祝福が与えらえていても、それを自覚することが出来ない人がある。
無限に愛を注がれていても、それを自覚することが出来ない人がある。

そんな人は祝福を与えられていながらも、祝福を与えられていないのと
同様であり、愛を与えられていないのと同じことである。

すべて自分の心に受けたものだけが、
その人にとって存在に入(はい)るのだからである。

されば、吾々は、自分が与えられている祝福がどれほど大(おお)い
なるものであるかに先ず気がつかなければならないのである。

気がついた後(あと)には、直ちに感謝しなければならぬ。
感謝は祝福を与えかえすことになるのであって、
祝福の愛の円環的回路をつなぐことになるのである。


          *「眞理」第2巻基礎編第7章(P185~186))より

       <感謝合掌 令和2年6月5日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《6日》 - 伝統

2020/06/06 (Sat) 04:32:46

《6日 神に感謝するには行動を伴わねばならぬ》

感謝したとき、感謝は輝き出すのである。
祝福に対して感謝がないときは、プラスの電源に配線は結んだが、
マイナスの電源には配線を忘れているようなものである。

マイナスの電源にも線をつなぐことによって、
プラスの電源から電流が流れ入(い)って来るのである。

献(ささ)げるのはマイナスになるから損だからといって
献(ささ)げることを忘れている者は、
プラスの供給も与えられなくなって来るのである。

感謝でも祈りでも、行動を伴わぬものは空念仏である。

神に感謝するならば、その感謝の実現として、神の人類救済運動に
対して実際に協力を行なう行動を伴わななければならないのである。

祈りも唯(ただ)、坐っているだけではいけない。
行動しつつ実現しなければならぬ。


          *「眞理」第2巻基礎編第7章(P186))より

       <感謝合掌 令和2年6月6日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《7日》 - 伝統

2020/06/07 (Sun) 03:56:03


《7日 お経を流して歩くには》

人の家の門前(もんぜん)に立ってお経を読んでも、
そのお経を流して歩くことによって自分の生計(くらし)を立てようと
思ってお経を読むのだったら、それは取引勘定であり、商売であり、
不純な利己的観念が混じっているのであるから「無我に祝福」と
言うことは出来ないのである。

すべて吾々の行為は、外形は同じであっても
中味がニセモノであってはならないのである。

人の家の門前に立ってお経を読むには、何物をも求めないで、
ただその家の幸福を祈ってあげるための読経であると思い、
それを実践するときに自然に不思議な教化力をあらわすことになるのである。

相手が自然に感謝したくなるような祝福の権威を顕わさねばならぬ。


          *「眞理」第2巻基礎編第7章(P186~187))より

       <感謝合掌 令和2年6月7日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《8日》 - 伝統

2020/06/08 (Mon) 03:56:32


《8日 生命(せいめい)の高さと、低さと》

その人の生命(せいめい)が「高い」感じがするためには、
その人の生命(せいめい)が、他(た)のために献(ささ)げられたる
生命(せいめい)でなければならぬ。

その人の生命(せいめい)が、「低い」感じがするときには、
その人の生命(せいめい)が「利己的」になった時である。

「高い」感じと「低い」感じは理論ではなく、
本能的に誰もが知っているのである。

「自分の得が行くように」何でも得ようと思うときには、
何だか自分が卑しく感じられるのである。

自分が損してでも人を救けようと試みたり、社会のためや、人類のために
尽くそうとする人を見ると、吾々は尊敬したくなるのである。

それは他(た)に献げられたる生命(いのち)になっているからである。

かくの如く他(た)に献げられた生命(いのち)は高まった感じがするのである。


          *「眞理」第2巻基礎編第7章(P187~188))より

       <感謝合掌 令和2年6月8日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《9日》 - 伝統

2020/06/09 (Tue) 04:43:37


《9日 神のみが価値であるから、神が表現されただけ高く感ずる》

このような生命(せいめい)に高いと卑(ひく)いとの
価値判断が生ずるのは何故であろうか。

生命(せいめい)は「神」であり、神は愛であるからである。
そして愛は「他(た)のために生命(いのち)を与える」
ことであるからである。

神は実に報いを求めず人に与え給うているないか、
太陽の高熱の豊かなる恵みを、無限に与えられている空気の恵みを、
無尽蔵の海の水を・・・。

数えれば限りない恵みである。

太陽の光を、空気を、海水を・・・
それを単なる物質だと思っているかも知れないが、
それは決して単なる物質ではないのである。

それは与えても与えても止(や)まない神の愛の、
報いを求めない恩恵であるのである。

愛のある所に神は顕れ、神のみが真実の価値であるのである。


          *「眞理」第2巻基礎編第7章(P188~189))より

       <感謝合掌 令和2年6月9日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《10日》 - 伝統

2020/06/10 (Wed) 04:31:34


《10日 最高の与え方は祝福して与えることである》

神の祝福を受けるには、先ず自分が他(た)を祝福しなければならぬ。

類は類を招ぶからである。
人を憎むものはみずからも憎まれ、人を審くものはみずからも審かれ、
人を悪しざまに罵る者はみずからも亦悪しざまに罵られるのである。

その代わりに人を祝福する者は、他(た)からも祝福されるのである。
愛は交流し、祝福は交流する。

祝福と云うのは、単なる「与える」以上のものである。
それは祈りを伴う与え方である。

物を与えるにも軽蔑して「投げつけるように与える」のもあれば、
「憐れんで与える」のもあり、「強制されて与える」のもあれば
「報いを求めて与える」のもある。

併し「祝福して与える」のは、相手を尊敬して「神の子」たる
実相の顕現するよう祈って与えることである。


          *「眞理」第2巻基礎編第7章(P189))より

       <感謝合掌 令和2年6月10日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《11日》 - 伝統

2020/06/11 (Thu) 03:50:29


《11日 実相の完全さを礼拝して呼び出すのが祝福である》

祝福の根元となる真理は、

「汝は神の子であると云うことである。」
「既に神の子として、すべての善きものを汝は与えられている」

―― この実相を礼拝して、相手からその実相の善さを呼び出すことである。

「お前は是々(これこれ)のものが足らぬから与えよう」と云う与え方は、
「憐れんだり、軽蔑したり」してあたえるのであるから、
祝福して与えると云う部類には入らないのである。

人間は「神に於いて、すべてのものは根本から与えられている」のである。

しかしそれは実相に於いて斯(か)くの如く与えられえているのであって、
それを現象化する際に於いては人間がその「現象化の法則」を
如何に使用するかの自由はまかされており、

祝福は実相に於いて潜在する「善さ」を呼び出す最高の法則である。


          *「眞理」第2巻基礎編第7章(P190))より

       <感謝合掌 令和2年6月11日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《12日》 - 伝統

2020/06/12 (Fri) 04:35:39


《12日 感謝と祝福はその人の人格の匂いを高める》

既にすべての善きものは与えられているのである。

しかしそれを現象界にあらわし得ると否とは、
その与えられている事物に感謝すること、又は祝福することである。

感謝と祝福とは単に喜ばしき事物を
現象界に呼び出す働きをするだけではなく、
その人の人格を高め、雰囲気を善くするのである。

感謝と祝福とはその人の全人格を、
柔かく温かく浄(きよ)きものとするのである。

感謝のない人間、他(た)を祝福することを知らない人間ほど
粗雑な感じのする人間はないのである。

祝福の一面は礼賛することである。
神を讃えるということは神を祝福することである。

現在与えられている事物を讃美することは
その事物を祝福することになるのである。


          *「眞理」第2巻基礎編第7章(P190~191))より

       <感謝合掌 令和2年6月12日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《13日》 - 伝統

2020/06/13 (Sat) 04:39:02


《13日 先ず神を祝福せよ》

キリストが教えた主の祈りの冒頭に

「天にま我らの父よ。み名をあがめしめ給え」

とあるのは、神をあがめ、讃美し、祝福することが
本当の祈りであるという実例である。

神を賛美するならば、神の世界(実相の世界)にあるところの
すべての悦ばしき事物と自然に波長が合うようになるのである。

波長が合えば、別に「求める」心がなくとも、
自然にそれが現象界にあらわれて来るのは、
ラジオ・セットと同じことである。

ラジオ・セットは波長を合わしさえするならば、
別に求めなくても、放送局から放送されるすべての番組が、
現象界に聴き得るようにあらわれて来るのである。

神を讃美し、事物を讃美し、人を讃美することが大切である。


          *「眞理」第2巻基礎編第7章(P191~192))より

       <感謝合掌 令和2年6月13日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《14日》 - 伝統

2020/06/14 (Sun) 03:46:40


《14日 あなたと同車した人々を祝福すること》

電車に乗っても、汽車に乗っても、

「神よ、此処に同車している人たちが生長の真理に導かれまして、
 本当に幸福になりますように」

と暫く目を瞑(つむ)って繰り返し祈り又は念じてあげることは
同車している人々を祝福してあげることになっているのである。

それは心の中で「コトバ」を念ずるが故に、それはコトバで、その人がやがて
真理に導かれて救われる種を播(ま)くことになるのである。

「コトバは種なり」 と言われている所以(ゆえん)である。

イエスは又 

「天地は亡(う)せん。されど我が言(ことば)は亡(う)せず」

とも言っている。

あなたが善念の言(ことば)で、同している人々を祝福し、
その人々の幸福を祈ってあげた事は、それが種となり、発芽して
其の人が実際救われるまで決して亡(ほろ)びることはないのである。


          *「眞理」第2巻基礎編第7章(P192~193))より

       <感謝合掌 令和2年6月14日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《15日》 - 伝統

2020/06/15 (Mon) 04:45:36


《15日 実相を現象界にあらわすには》

実相の世界とは、神の造りたまうた其の儘の世界である。

神は「霊」であるから実相世界の事物は「霊」で成り立っているから
肉眼には見えないのである。

それは恰(あたか)も放送の電波があっても、
電波の世界は肉眼には見えないようなものである。

それを肉眼に見えるようにあらわすには電波をブラウン管に当てて
それを光の波に変化しなければならない。
これがテレビの装置である。

その時、放送の電波に波長を合わせないと、その電波を捉える事が出来ないから、
無論 光の波に変化することは出来ない。

人間の心は、実相世界の霊波を、その波長と同調することによって
それを捉え。それを肉眼に見えるように顕すテレビ・セットの働きを
するのである。

我々がもし神の造り給うた霊の世界に完全に波長を合わすことが出来るならば、
この現象界に実相世界其儘(そのまま)の完全な世界が現れて来るのである。


          *「眞理」第2巻基礎編第7章(P193)より

       <感謝合掌 令和2年6月15日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《16日》 - 伝統

2020/06/16 (Tue) 03:21:23


《16日 第一印象の悪い人を祝福せよ》

人間は実は「三重の人間」である。

中味は「実相の人間」であり、外層は「肉体の人間」であり、
「心」はその中間の層をなしていて、「中味の人間」を「外層」に現す
「扉」または「レンズ」の働きをするのである。

その「心」の働きを「コトバ」と云うのである。
「心」はコトバによって念じ、その念によって
外層の人間を賦彩(ふさい)するのである。

だから「心で念ずる言葉」は余程吟味しなければならない。

いやしくも人に出会って、
「この人は善くない人だ」などと思ってはならない。

尤(もっと)も、その相手の人が悪念を懐いている場合には、
第一印象として「この人は善くない」と感じられても、そんな場合には、
殊更(ことさら)にその実相の善さを心に描いて
「この人は神の子で善人だ」と祝福してあげるべきである。

その祝福の念が徹底すれば、その人の仮相としてのよくない相(すがた)は
消えてしまって、本来の善良なる人間があらわれて来るのである。

祝福が中途半端で徹底しない場合には、
祝福しながら相手からだまされることもあり得る。


          *「眞理」第2巻基礎編第7章(P194))より

       <感謝合掌 令和2年6月16日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《17日》 - 伝統

2020/06/17 (Wed) 04:46:40


《17日 愛の力を増大するには》

常に人々を祝福する習慣をつける場合には
その人が他(ひと)を祝福する愛の能力が増加して来るのである。

「愛する」とは単に「可愛い」と云う感情ではないのである。

「愛の力」とは相手を祝福する能力である。
愛の力が強いと云うことは相手を祝福する力が強いと云うことである。

重いものを持ち上げる練習を常に積んでいる時には
筋肉の力が発達して来るのと同じように、

感情では「可愛い」とも「好きな」とも感じない相手であっても、
その人を「祝福する言葉」を常に心で唱えるようにするときには、
その人の「愛」の力は増加して来るのである。

一例を挙げれば、繰り返し繰り返し、精神を統一して、

「神よ、この人がやがて生長の家に触れて 魂 までも救われますように」

と念ずるが如きことを毎日重ね行なう時は、
其の人の愛の力は増大するのである。


          *「眞理」第2巻基礎編第7章(P195))より

       <感謝合掌 令和2年6月17日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《18日》 - 伝統

2020/06/18 (Thu) 04:49:05


《18日 天国の門を開くための祈り》

吾々が相互の紛争を解決するために神に祈る場合に、
みずからを傲慢にも正しいとして主張し、相手を罪ありとして
咎める心で祈っても、神からの祝福は吾々に天降って来ないのである。

人を咎める心は神の祝福が天降って来るところの天国の門を
閉鎖してしまうことになるのである。

相互の紛争を解決するための祈りは、神の愛と智慧と調和とを讃美し、

「神の愛が天降って来て、自分も相手も共に幸福になることが出来ますように。
 神の智慧はすべての人に処を得せしめ給い、彼も私も倶(とも)に
 幸福になるように円満解決の道を見出し給う。

 神の完全なる護りに感謝いたします」

こう云う風に、彼をも幸福になるよう祈る時、
天国の門がひらかれるのである。


          *「眞理」第2巻基礎編第7章(P195~196))より

       <感謝合掌 令和2年6月18日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《19日》 - 伝統

2020/06/19 (Fri) 04:47:35


《19日 人間の脳髄は一種のラジオ・セット》

人間の心は、常に脳髄意識と云うラジオ設備をもって、自分自身の
想念感情を周囲に対して放送しつつあるものである。

その想念感情の強度に応じて、それは遠隔の地に達するものもあれば、
近距離にしか達しないものもある。

併しいずれにせよ、吾々は数億の人々から放送されつつある
思想感情の波に取り巻かれているのである。

吾々はそれを、恰(あたか)もラジオの波が肉眼には見えないのと
同様に肉眼では見ることが出来ないが、自分の精神波動の波長が合う
ものを自己に感受して何となく感ずることが出来るのである。

そして、自分の感受した放送精神波動が病的なものであれば、
自分が病的な不快感を何となく感ずるし、

感受した波長が光明輝くものである場合は、
自分の精神が自然に明るくなるのである。


          *「眞理」第2巻基礎編第7章(P196~197))より

       <感謝合掌 令和2年6月19日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《20日》 - 伝統

2020/06/20 (Sat) 04:47:23


《20日 「祝福」の功徳について》

人間の脳髄をラジオ・セットであると考えて、吾々が他(た)を祝福する
想念を起すと、それが遠くにまで波及して、他(た)の人々に幸福な
愉悦の感情をおこさせることになる理由がよく分かるのである。

「健やかなる者は医者を要せず」とイエスは言ったが、

みずから健全なる思想を有し、明るい感情で伸び伸びと生活している者には、
「祝福」の感情はそれほど珍しく感じられないが、

その人が不健康にも憂鬱になり、暗い感情の虜となっている時に、
祝福の感情の放送を受けることは全く砂漠にオアシスを発見したような
悦びに満たされ、それを契機として、
暗い生活から明るい生活に転向し得る事もあるのである。

これは眼に見えない功徳を施しつつあるのである。


          *「眞理」第2巻基礎編第7章(P197~198))より

       <感謝合掌 令和2年6月20日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《21日》 - 伝統

2020/06/21 (Sun) 04:20:43


《21日 みずからの「祝福」の足らぬことを反省せよ》

吾々は常に神を讃美し、人々を祝福しなければならないのである。
また間断なくすべての「事物」に対して、
「汝は神の顕現としてただ吾々に善のみを与えるのである。有りがとうございます」
と心の中で唱えながら呼びかけることが必要である。

どんな難問題が出て来ようとも、その事を祝福することによって
其の問題の解決の緒(いとぐち)を得ることが出来るのである。

若しあなたが、これは宿命として自分に課せられた苦難であるとあきらめてしまうならば、
あなたはその苦難を自分の念(こころ)で固定させてしまうから、
その苦難を解決する道を見出すことは出来ない。

自分が事物を祝福しようが足りないためにこんな苦難が来ったと反省して
一切万事を祝福するとき解決の鍵が見出される。


          *「眞理」第2巻基礎編第7章(P198))より

       <感謝合掌 令和2年6月21日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《22日》 - 伝統

2020/06/22 (Mon) 04:36:43


《22日 賃銀のために働く者は奴隷である》

神は勤務時間と云うようなものを有ち給わないのである。
神は常に働き給う。
されば私も常に働くのである。

どうして人間は勤務時間外は働きたくないと言うのであろうか。
又、出来るだけ働く時間を少なくして賃金を多く得たいと思うのであろうか。

人間の生命(せいめい)は活動するために、
「働く」ために地上に生れたのであるから、
「働く」ときだけが自分の生命(いのち)なのである。

全然その人が働かなくなったとき、その人は死んだも同様である。
働くと云うことは、本当は賃金の報酬を得るためではなく、
自分の使命を果し、他(た)の人を幸福にしてあげるための営みである筈である。

賃金を得るために働く者は、如何にその賃金が高くとも
それは売られたる生命(せいめい)、即ち奴隷の生命(いのち)である。

観点を変えるとき、働きが悦びにかわるのである。


          *「眞理」第2巻基礎編第7章(P199)より

       <感謝合掌 令和2年6月22日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《23日》 - 伝統

2020/06/23 (Tue) 04:31:59


《23日 言葉は重大なる行為である》

千の説法よりも、一つの実行だと言う人がある。
こう言う人は、言葉が最大の実行だと云う事がわからない人である。

日蓮の辻説法も一つの実行である。
キリストの路傍伝道も一つの実行である。

言葉を出すことによって、それは実現の種子が蒔かれつつあるのである。

マレンコフが一言(ひとこと)言うと
金偏(かねへん)株が暴落し、多くの財界人が致命傷を受け、
某(あ)る大臣が興奮して「バカヤロウ」と失言すると衆議院が解散し、
国中の人々が投票所に脚(あし)を運んで、誰か自分の期待する人の氏名を書くのである。

そして、その氏名を書いた人に議会に出て貰いたい理由は、
議会で発言して欲しいからである。

言葉が世界を動かし、人類を動かすのである。
説教を止めて実行せよと云うのは一知半解の人の言うことである。


          *「眞理」第2巻基礎編第7章(P199~200)より

       <感謝合掌 令和2年6月23日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《24日》 - 伝統

2020/06/24 (Wed) 04:32:03


《24日 言葉なき行動は無機物に過ぎぬ》

若し言葉が無しに、汝の頭に打撃が加えられたならば、
それは風で飛んで来た屋根瓦にでも打たれたように、
何の恨みも憎みもないであろう。

若し「馬鹿野郎」と云う言葉とともに汝の頭に打撃が加えられるならば、
それは怒りとなり、憎みとなり、呪いとなって、それは、彼が完全に
赦し切るまでは悪業循環して尽くることがないのである。

言葉(想念をも含む)なき実行は、無機物の打撃の如く、
それは長く印象し継続する実行とならないのである。

代議士の当落も言葉によって定(き)まるのである。
何を彼が喋るか。彼の名前(コトバ)はどの程度知られているか。
どの程度、彼のコトバが国民の心に印象せられたか等々・・・。

          *「眞理」第2巻基礎編第7章(P200~201)より

       <感謝合掌 令和2年6月24日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《25日》 - 伝統

2020/06/25 (Thu) 04:07:25


《25日 コトバによって国民の幸不幸は定まる》

一国の政治が如何に行われるか、
(それによって国民全体の幸不幸は定まるのであるが)
それは議会で代議士が何を議決するかによって定まるのである。

議決とはコトバで決定することである。
そして決定せられたものが、法律として文字に表された「言葉」となるとき、
それは八千万の日本国民の行為を強制する力を持つのである。

言葉が如何に実行力の強いものであるかと云うことがこれで分るのである。
「宗教家よ、説教するよりも実行せよ」と云う人があるが、
宗教家の実行は、説教することが第一でなければならない。

釈迦もイエスも農耕もしなかったし、大工の仕事もしなかったが、
ただ説教だけをしたのである。

しかしその説教は今も全世界の人類を動かしつつあるのである。


          *「眞理」第2巻基礎編第7章(P201~202)より

       <感謝合掌 令和2年6月25日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《26日》 - 伝統

2020/06/26 (Fri) 04:31:43


《26日 もっと大きく発言せよ》

過去に就いて言うこと勿れ。
過去は既に過ぎ去ったのである ―― これは一面の真理である。
しかしそれは全面の真理ではないのである。

一切の過去は「今」の一点に収約せられて、
未来に大きくも小さくも展開せんとする契機を孕む「今」なのである。

だから「過去」は大いに反省して忌憚なく自己批判し、
改むべきものは改めなければならないし、
社会にうったうべきところは、大いにうったえねばならないし、
かく愬(うった)えることによって、社会の枢要の位置にあるものの心を
目覚めしめて、それを正しく導くことが出来るのである。

一燈園の西田天香氏は議会に於いて便所掃除を実行したであろうが、
6年間何の発言もしなかったので、国民代表としては何の実行もないと云うので、
その次の参議院選挙では落選したのである。

吾々は不言実行よりも身口意の三業(さんごう)の実行を尊ぶのである。


          *「眞理」第2巻基礎編第7章(P202)より

       <感謝合掌 令和2年6月26日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《27日》 - 伝統

2020/06/27 (Sat) 04:28:50


《27日 言葉が世界の平和を決定する》

善き言葉の発言は「祝福」となり、悪しき言葉の発言は「呪い」となる。
議会に、もっと善き言葉を発言する国民代表を送ることが必要である。

議会で発する言葉がよくなれば政治がよくなり、
政治がよくなれば、内に於いては国民がよくなり、
外に於いては国際的関係が改善し、
人類が戦争のために悩まされることがなくなるのである。

しかも政治家を動かすには、与論を喚起しなければならない。
与論を喚起するには言論の力にまたなければならない。

まことに言葉が世界の平和を決し、言葉が戦争を終結せしめ、
言葉で相互の親善が高まり、言葉で国策が決定し、言葉で宣戦が布告され、
言葉でストライキが起り、言葉で貿易が振興する。


          *「眞理」第2巻基礎編第7章(P203)より

       <感謝合掌 令和2年6月27日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《28日》 - 伝統

2020/06/28 (Sun) 03:43:51


《28日 祝福する者が祝福せられる》

あなたが心を集注して思うものがあなたの生活に実現し、
それがあなたの運命を決定するのである。
何に精神を集注するかが、あなたの運命をよくも悪くも決定するのである。

あなたは他(ひと)を「祝福」することに心を集注していますか。
それとも他を呪ったり、憎んだりすることに心を集注していますか。

それによってあなたの運命も祝福されるか、
呪われるかの岐(わか)れ目になるのである。

「おのれにせられんと欲する如く人に為せ」と云う教えも
「己れの欲せざる所を人に施す勿れ」と云う教えも、

結局は人を「祝福せよ、汝等も祝福せられん」と云う真理を
裏表から述べられたものであるのである。

毎時毎刻、人々を祝福せよ。
そして仕事をなすときにも、それを祝福しながらそれを為せ。


          *「眞理」第2巻基礎編第7章(P203~204))より

           <感謝合掌 令和2年6月28日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《29日》 - 伝統

2020/06/29 (Mon) 04:42:04


《29日 問題解決の鍵は先ず心の調和にあり》

若し何か問題が起ったときには、
その問題を、混乱したままの心で解決しようと試みるより先に、
自分の心を振返って見ることである。

自分の心があらゆる人に、物に、事に対して
祝福の心を有っていたかどうかと反省せよ。

問題が起る前には必ず心の中に問題が起っているのである。
即ち心の中の問題が反映して現実的事実を紛糾に導いているのである。

すべての人々に先ず感謝せよ。
そしてすべての人々が皆神の子であって完全であることを祝福せよ。

そして現在あらわれているすべての事象は、
わが心の有様(ありさま)をお示し下さっている
観世音菩薩の示現であるとして感謝せよ。

徹底的に感謝したとき、次なる道が拓かれて来るのである。


          *「眞理」第2巻基礎編第7章(P204~205))より

       <感謝合掌 令和2年6月29日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《30日》 - 伝統

2020/06/30 (Tue) 04:36:16


《30日 心も練習する必要がある》

やがて、あなたの生活におとずれて来る幸福と不幸とは、
あなたが毎日何を如何に考え、如何なる感情で生活しておられるか
と云う貴方の「想い」の種が芽を噴き実を結んで来るのである。

吾らは自己の思いを常に祝福に満ちたものたらしめる
練習を積まなければならない。

事毎(ことごと)に感謝する練習をしなければならない。

最初は、それでも時々不平の思いが湧いて来るかも知れないが、
「悪いものを神は決して造り給わないのであるから、悪いものは無いのだ」と、
否定し否定し、すべて感謝するよう、心の練習をするのがよいのである。

若し、悪い事態がおこって来た場合には、
「どうして悪い相(すがた)が顕れているのであるか」と反問して、
それは過去の自分の「心」の具象化であるから、
その「心」の力は具象化することによって消えつつあるのだと感謝し、
且つ、過去の心の過ちを再び繰り返さないように心にちかうことによって
事態は必ず好い方に向うのである。


          *「眞理」第2巻基礎編第7章(P184~185))より

       <感謝合掌 令和2年6月30日 頓首再拝>

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