伝統板・第二

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祈り(5) - 伝統

2020/05/15 (Fri) 03:55:21

《不断の祈り》

        *「光明法語」(5月15日)より

「常の祈り」が大切である。
所謂る「不断念仏」「平生業成(へいじょうごうじょう)」である。
平生(へいぜい)の祈りの業(ごう)が成就して、現象界に現れるのである。

朝起きれば、「寝ている間にも呼吸をなさしめ給い、血液を循環せしめたまい、
夜中自分の生命を護り給うた神よ、有難うございます」と神に感謝し、
「一夜を暖かく眠らせ給うた布団よ有難うございます」と感謝して起きるのである。

今与えられている事に充分感謝しないでいて、次の善きものが与えられると
云うことはあり得ない。

感謝することによってのみ、今与えられたものの充分の価値が享受出来る。


・・・

<関連Web>

(1)本流宣言掲示板「人は何のために「祈る」のか (4612)」
    → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=965

(2)光明掲示・第一「祈りとは」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1417 (消滅)

(3)光明掲示板・第二「「不断念仏」「平生業成」」
    → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2014(消滅)

(4)伝統板・第二「祈り」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6818447

(5)伝統板・第二「祈り(2)」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7543475 

(6)伝統板・第二「祈り(3)」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7738427

(7)伝統板・第二「祈り(4)」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7866654

            <感謝合掌 令和2年5月15日 頓首再拝>

《仕事をなす時の祈り》 - 伝統

2020/05/18 (Mon) 04:35:01


        *「光明法語」(5月18日)より

「わが仕事はわれとわが家族と全人類の福祉のための祈りである」。
常に仕事をなさんとする時には目をつぶりてかく祈りてから始めよ。
仕事のあいまに、「仕事が祈りである、祈りが仕事である」と念ぜよ。

かくすれば仕事の質が上がり、量が殖え、新しき智慧が発現し、
仕事に新生面がひらかれるのである。
思わぬ間違いが発見され故障に到らずにすむのである。

「仕事よ有りがとう。この仕事は神のみ栄えである」と念ぜよ。
かくすれば神のみ栄えの顕現として立派な仕事が成就するのである。

            <感謝合掌 令和2年5月18日 頓首再拝>

《飲食をなす時の祈り》 - 伝統

2020/05/19 (Tue) 04:33:01


        *「光明法語」(5月19日)より 

食事のときには、「神の生命と愛とが食物の形となって吾に栄養を与え、
我が生活をして神の光栄をあらわさし給う」と念じて食せよ。

飲料をとるときには「わが過ちて人を憎み、恨み、憤りたる罪をこの飲料にて洗い流し、
再びかかる罪を繰返すことなきしるしとして之を飲む」と念じて飲むが好いのである。

不平や不快や憤り恐怖を感じながら食物をとることは唾液の中に毒素をつくり、
それを服(の)んでいると同じである。

食事は不味くなり消化不良となり、身体を不健康にするのである。

            <感謝合掌 令和2年5月19日 頓首再拝>

祈りは父子相互の霊交である - 伝統

2020/05/22 (Fri) 04:35:44


         *「生長の家」(昭和26年5月1日の法語)より

祈りは、吾が内在の神が、宇宙の大神に近づくところの道である。

即ち「神の子」が「親様」へ霊交するところの方法であるのである。

祈りによって、神の感情を和(やわ)らげ、神から御利益(ごりやく)を
懇請し得るのだと思ってはならないのである。

祈りによって吾々の魂が神に振向けられ、
自分の魂の波長が神に志向することによって神の波長に同化されて来、
神を変化するのではなく、自分の心境が変化せしめられ、
それによって心の法則に随(したが)って、現象的御利益もあらわれて来るのである。

神を説き服(ふ)せ、甘言(かんげん)によって誘惑して、
神を動かし神から御利益を得ようと思ってはならない。

・・・

<参考>

昭和48年やまと新聞「新 一日一話」掲載
伝統板・第二「やまと新聞「新 一日一話」」2016/01/04 (Mon) 08:41:40
http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6676503

「幸福を招く365章」第12項<祈りを生活に処方して>(P222)に収載
伝統板・第二「ひかりの一日一言⑳~祈りを生活に処方して 」
http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7058416

            <感謝合掌 令和2年5月22日 頓首再拝>

《神に祈るときは純粋な心でないと可けません》 - 伝統

2020/05/24 (Sun) 04:50:56


          *「真理」第9巻生活篇第3章(P82~83)より

あなたが神に何かを願うときには、できる限り利己的な考えを
払いのけることが必要です。

これが神の電流に摩擦を生じて火災を起こしたり、
感電死したりしないために必要なのでありますす。

そして自己の心を出来るだけ高く馳せて愛の心、慈悲の心、
公けにために尽くす心、調和の心、赦しの心、感謝の心、
不平を言わぬ心になって、神そのものの霊的流れに融合してしまう
ことが必要です。

神の霊的流れのなかには悪も災害もありませんけれども、不純な心を
もって神に祈れば、その不純物が霊的流れと摩擦を起して其処に
熱を起したり火災が起ったり、色々不都合なことが起こってくるものです。

其の実例がスター・デーリー著『人類の福音』(Good News)に
沢山出ております。

            <感謝合掌 令和2年5月24日 頓首再拝>

祈りの効果を増す「神への手紙」 - 伝統

2020/05/28 (Thu) 04:14:53


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月28日)」より

われわれの魂の底なる希望を実現する祈りを、紙に書いて神に訴えるようにする時、
その祈りの実現性がいっそう多くなるということはグレン・クラーク教授の著書の中にも
書かれている事実である。

生長の家の信徒の中にも欲する事物を紙に書いて壁面に掲げ置き、常にそれを眺めて、
そのすでに成就せる有様を心に描いて感謝する気持を起こしているとき、
その希望が成就せる実例はずいぶんたくさんあるのである。

ある婦人は一大難関に出会(でくわ)して、人間力ではどうしてよいかわからない時、
突如として神に頼もうという感じが湧き起こり、神に対して手紙を書きはじめたのである。

「神よ、あなたは無限智であります。無限愛であります。無限力量であります。
あなたは無限の愛をもってわたしを導いて下さいます。あなたは無限の智慧をもって
わたしがこの難関を切り抜ける道を教えて下さいます…」
それから具体的な問題をこまごまとその神様に送る手紙の中に書きはじめたのである。

すると、自分一人でどうしようかと思いまどう心の騒ぎがしだいに落ちついてきて、
神とともに、その事件について対処する道を考えているような安らかな気持になってきた
のである。

そのうちに事件の全貌がハッキリしてきた。
何が問題の重要な部分であるか、何が問題とするに足りない部分であるかが
ハッキリしてきたのである。

その神への手紙を書いているうちにはまだ完全にその問題は解決せず、
解決の緒(いとぐち)が見えていただけであったが、
その3日後にはすべてのことが順調に進行して万事解決したのである。

病気の時に神にこれに類する手紙を書いて、急に病気が快方に向かった実例があるのである。

神に手紙を書くことによるこれらの功徳が起こる原因は、
それを書いているうちに心が完全に神に向かうことになるからである。

そして「吾れ神と偕(とも)に在り」という自覚が起こってき、
そのために心の平和が回復し、神の叡智に波長が合うようになってき、
したがっていっさいの問題が順調に解決するようになるのである。

ただ、祈っているだけでもむろん効果があるのであるが、
15分間以上も雑念なしに完全に神に心を振り向けて祈ることはやや困難な人が多いのである。

しかし手紙を書くとなれば、30分はおろか1時間以上も神に対して心を集中することができる。
そのために神との一体感がいっそう起こりやすく、効果もそれに従って多いのである。

            <感謝合掌 令和2年5月28日 頓首再拝>

祈りには心境が変ることを先(ま)ず願え - 伝統

2020/06/02 (Tue) 04:49:15


         *「生長の家」(昭和26年5月2日の法語)より

自分の心境だけの御蔭を頂くのである。
神を拝みたおしても駄目である。

と云っても神に祈るなと云うことではないのである。


神に祈ればその間だけでも、神の方へ心が振向けられ、
自分の心が感化せられる、それこそが真の御利益である。

心境さえ変われば、心の法則によって物質的御利益は自然にあらわれるのであるから、
寧(むし)ろ、物質的なものを心に描いてそれに心を集注するよりは、

「 神よ、みこころの如くならしめ給え 」

と神の方へ心を振向けることを専(もっぱ)らにする方が、
心境の変化のためには一層よいのである。


神想観の実相・無限智・無限愛・無限生命の世界を心に描く祈りは
この意味で最もよいのである。

・・・

<参考>

昭和48年やまと新聞「新 一日一話」掲載
伝統板・第二「やまと新聞「新 一日一話」」2016/01/05 (Tue) 08:49:08
http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6676503
(若干の言葉の補正があります)

「幸福を招く365章」第12項<祈りを生活に処方して>(P223)に収載
伝統板・第二「ひかりの一日一言⑳~祈りを生活に処方して 」
http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7058416

            <感謝合掌 令和2年6月2日 頓首再拝>

真心による、神への祈り - 伝統

2020/06/07 (Sun) 04:27:37


       *『 生長の家 』(昭和25年5月10日の法語)より
        ~ 【 神の扉は暴力では開けない 】

まず神の扉を開くことが第一である。

神の扉は 暴力では開けない。
我(が)の力でも開けないのである。

それは感謝によって開かれ、愛念によって開けるのである。

与えれば与えられる。
自分がまず与える心をおこすことである。

 「神よ、私はあなたに私自身を与えます。
  私の肉体を 私の心を私に属する凡ゆるものをあなたに与えます。

  私の肉体をあなたの欲し給(たま)うが如(ごと)くお使い下さい。
 
  私の心をあなたの み心のままにお導き下さい。

  私の仕事をあなたの管理の下にお導き下さいませ 」

こう 真心から祈ることが必要である。

            <感謝合掌 令和2年6月7日 頓首再拝>

神への祈り - 伝統

2020/06/08 (Mon) 04:20:29


       *「光明道中記」(6月8日《祈りに始まり祈りに終る日》)より

【祈りに始まり祈りに終るとき、心の中に滞(とどこお)りがなくなり
 自由自在の境涯になる。        (『生命の實相』第一巻)】 

  
神様、あなたは全ての渾(すべ)てでいらっしゃいます。
あなたは一切のところに充ち満ちていらっしゃいます。

あなたは智慧でいらっしゃいます。
あなたは愛でいらっしゃいます。
あなたは生命でいらっしゃいます。

あなたのお造りになった世界には
罪も病も死も一切の不幸も争いもないのでございます。

其処には既に、
日本天皇陛下に中心帰一せる天国浄土が実現しているのでございます。

神意(みこころ)の天に成るが如く地にも成らせ給え。
実相の世界の既に完全なるが如く現象の世界をも完全ならしめたまえ。
中心帰一の天国を地上にも来(きた)らしめ給え。

みこころの実現するための道具として私をお使い下さい。
間違いなくみこころを行ずることが出来ますように
あなたの智慧を私に流れ入らしめ給え。
私をお導き下さい。

どれだけ働いても労(つか)れませねようにあなたの生命を私に注いで下さい。
すべての人々を赦し、赦すだけではなく、
すべての人々に感謝出来ますように、あなたの愛を私に流れ入らしめ給え。

自壊作用なくして理想世界が実現しますように。

すでにわが願いがあなたに聴かれたることを感謝いたします。

            <感謝合掌 令和2年6月8日 頓首再拝>

神への正しい祈り方 - 伝統

2020/06/17 (Wed) 04:55:05


         *「光明道中記」(6月17日《正しく祈る日》)

【利己的行動によって快楽を掴(つか)もうとすれば、却(かえ)って魂の平和を失う。
                           (『生命の實相』第四巻)】

神の心に従って物を考え、神の心に順(したが)って生活を行ずることが
吾等のこの世に生まれた使命である。
人類の考え方や、或るグループの考え方に従うのではないのである。

吾々が神想観によって事物の成就を願うときには
「金」を与え給えと云うように願ってはならないのである。

「金」は使い方によっては善ともなるが、使い方によっては又悪ともなるのである。
「金」の来ることのみを願って、正しい使い方を願わない場合には、
「金」は集って来たけれども、それが何らの利益に使用することも出来ず、
却って悩みの種になるであろう。

世間の金持の中には随分そんな不要な「金」を集めて、
子孫親戚たちを争いの渦中に投じたり、
自分を不要に堕落せしむるためにその「金」を使っている人もある。

それを考えて見るならば、
「金」のみを神想観で求めることが如何に下らないことであるかが判るであろう。

「金」がそんなにも欲しいならば、それは人類の心に従うて物を考えているからである。

吾々は神の心に従うて考えねばならぬのである。

「人を救い得るように吾が生命(いのち)をお使い下さい。
そしてそれに必要な一切の設備と費用とをお恵み下さい」と。

            <感謝合掌 令和2年6月17日 頓首再拝>

《短時間の祈りを度々繰り返すこと》 - 伝統

2020/07/05 (Sun) 04:31:25


         *『 生長の家 』(昭和32年5月18日の法語)より

   神想観は普通1回30分間朝晩行なうのでありますが、30分間と、
   まとまった時間が得られない人にとってはもっと短い時間の祈りを
   1日10回乃至20回行なうがよいと思います。

   神想観は観法ですから一定時間の持続を必要としますけれども、
   祈りはもっと短い時間で事足りるのであります。

   祈りが純粋であるためには、
   「幼な児」の心、完全なる謙抑(へりくだり)の心、
   無我の心にならなければなりません。

   「神よ、み国を来たらしめ給え。み心の天に成るが如く地にも成らせたまえ。
   わが欲することを求むるに非ず。み心を・・・み心を・・・み心を・・・」

   こう念じて、自己を思わず、何事をも何物をも求めず、心をひたすら、
   「自己臍下丹田の神」にふり向け、御心のかすかなる響きをも、素直に
   聴き漏らすまじと熱心に傾聴する気持ちをもちつづけること1回3分間
   ――― これを毎日10回乃至20回繰り返すのです。


    (『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P301~302>に収載)

            <感謝合掌 令和2年7月5日 頓首再拝>

”世俗的願い”と”崇高なる魂の願い” - 伝統

2020/07/12 (Sun) 04:52:00


       *「生長の家」昭和51年6月3日の法語)より
        ~「我れ世に勝てり」

イエスは自分が磔(はりつけ)の刑に遭うべき前途を予見したときに
ゲッセマネで祈るとき 、

先ず「願わくはこの苦き盃(さかずき)をわ れより取り去り給え」

と祈っているのである。

この願いは”肉体の願い”である。

誰でも十字 架上に釘つけられて槍で刺されることを願う肉体はあり得ない。
誰の肉体でも、肉体は苦しみを避け楽を得ようと欲するのである。

しかし、やがてイエスは
「されど我が意(こころ)を成 さんとするには非ず、みこころの如くならしめ 給え」と、
”別の言葉”を以って祈っているの である。

「”苦き盃”(困難)を取り去り給え 」という前半の祈りは
”肉体の願い”であり、 ”世俗的願い”である。

しかし、
「されど我が 意(こころ)を成さんとするには非ずみこころ の如くならしめ給え」
という後半の祈りは、肉体的自我を放棄し、その”世俗的願い”に打ち勝ち、
人類の罪の身代わりとなる崇高なる魂の願いに身を捧げる決意ができたとき、
彼は”世俗的願い”に打ち勝ったのである。

そこに真の生き甲斐を感じ、彼は「我れ世に勝てり」と宣言したのである。

            <感謝合掌 令和2年7月12日 頓首再拝>

祈りによって「 神の力 」をわがものとせよ - 伝統

2020/07/21 (Tue) 04:33:36


       *「生長の家」昭和25年6月4日の法語)より

イエスの生活は、間断なき祈りの生活であったのである。

祈りとは、神に心をふりむけることである。

弟子の眠っている間にも、イエスは山にのぼって 一人静かに祈ったのである。

そこから 彼の色々の奇跡の伴う愛の生活が実現して来たのである。

彼は祈りによって 神にふりむき、
神から無限の力を汲(く)み出して来る所の方法を
知っていたのである。

だから 彼は無数の奇跡をなし得たのであり

「 吾と父とは一体なり 」 といっているのである。

            <感謝合掌 令和2年7月21日 頓首再拝>

何のために貴方(あなた)は祈るか - 伝統

2020/07/23 (Thu) 04:56:13


      *『 生長の家 』(昭和26年6月8日の法語)より

吾々は祈りの目的を反省して見ることが必要である。


自分の富を殖(ふ)やすために祈っているのか、
自分の肉体を健康にするために祈っているのか、

その富がただ自己の物質的栄華のためではなく、
多くの人々に役立たんがために、

或いは神の栄えをあらわさんがために、
また自己の魂の向上のために祈っているのであるか、

其処(そこ)に、祈りが成就すると否との差別が生ずるのである。

神の栄えをあらわし、多くの神の子(人類)を幸福にせんがための祈りが、
神に祝福せられないと云うことは有り得ないのである。

            <感謝合掌 令和2年7月23日 頓首再拝>

既にある善き霊波を捉えよ - 伝統

2020/08/10 (Mon) 04:53:41


       *『 生長の家 』(昭和26年6月10日の法語)より

祈りの成就する根本には、
既に神の「恵福(めぐみ)」の放送(霊波が遍在する)があると云うことである。

その霊波は三次元空間的存在ではないから、
霊波そのままは肉眼では見ることが出来ないが、

吾々の心の波が受信装置となるときには、三次元以上の世界の霊波が、
三次元世界に影を映して物質化してあらわれて来るのである。


心の波の種類に従って
われわれが自分の身辺に現象し出して来るものが異なって来るのである。


先ず善き事を実現するには、善き事のみを心に思うようにしなければならない。

多くの人は善き事よりも、悪しき事の方を多く考えたがる
心の習慣性を有(も)っているのである。

  (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127

            <感謝合掌 令和2年8月10日 頓首再拝>

《『祈りの科學』を読みなさい》 - 伝統

2020/08/23 (Sun) 04:28:49


       *「真理」第9巻生活篇第14章(P384~385)より

祈りと云うことは懇願することだと間違えているために
時々間違えられた祈りが行なわれるのです。

或る人は自分の良人が死んだときのことを想像しますと、
迚(とて)もたまらないものですから、
「神よ、私の良人を死なせないで下さい」と一心に祈りました。

やがて其の良人は死にました。
祈りはきかれなかったかのようです。
併(しか)しこれは祈りが《きかれた》のです。

「祈り」と云うことは「心の内に常に深く念ずる」ことなのです。

「良人が死にませねように」と一心に念じた人の心のなかには
「良人の死」が深く念じられていたので、「良人の死」が実現したのです。

これと同じように「この病気を癒やしたまえ」と祈りながら癒えないことが
随分あるのは、その祈りによって「既に癒えたり」の観念が得られないので、
却(かえ)って「吾は重き病なり」と念ずることになっているからです。

            <感謝合掌 令和2年8月23日 頓首再拝>

祈りと健康の関係 - 伝統

2020/08/30 (Sun) 15:16:31

       *「光明法語」(8月29日)より

カレル博士は肉体に解剖的な結果を引起すところの精神状態の一種として
「祈り」の精神状態を指摘している。

博士は

「それは哲学者や科学者には分かりもしないし、達することも出来ないが、
心の純真な人は、神をまるで太陽の熱や、友達の如く容易く感ずることが出来る」

と言っている。

特に博士が指摘した健康を改善する祈りは
「先ず全く捨我、捨我なき状態たる事を要する」。

自分の病気を癒し給えると祈るよりも
他の人々の為に祷る祈りが効果を現すのである。

            <感謝合掌 令和2年8月29日 頓首再拝>
            <感謝合掌 令和2年8月30日 頓首再拝>

吾の祈りは神に通ず - 伝統

2020/08/30 (Sun) 18:54:16

       *「光明法語」(8月30日)より

カレル博士は言う、

「総じて祈る人は、自己が治癒することを願うものではない。
 祈る人は他の人々の為に祈る。
 この種の祈りは、その条件として自分を放擲(ほうてき)すること、
 即ち一種の禁欲、没我の高い精神を要する。

 謙遜な人々、無知な人々、貧しき人々は、富める人々や、知識ある人々よりも、
 その可能性が一層ある。祷(いの)りが時として奇跡を起こすのは斯う云う訳である」

と。

自分の病気の癒える事を常に念ずる者は病いを心の描くから却って癒えないのである。

            <感謝合掌 令和2年8月30日 頓首再拝>

《お蔭をほしい人たちに》 - 伝統

2020/09/07 (Mon) 03:39:02


          *「真理」第9巻生活篇第5章(P134~135)より

肉体や物質のお蔭を希望する前に、霊の賜物を神に求めねばならない。
肉体や物質は「霊」の影であるから、「霊の賜物」が整ったら自然に
肉体のお蔭も物質のお蔭も、「霊の賜物」の反影として整うのである。

先ず吾々は「神の子」として相応しい徳行(とくこう)ある人」と
なることを祈らねばならない。

「魂の向上」「真理に対する一層深き理解」「心の平和」「神の如き慈悲」
をしてそれを実行する「勇気」と「力」とを祈らねばならない。

そのとき必要に従って健康も来り、事業の隆昌も来(きた)るのである。

「健康にして下さい」「商売繁昌させて下さい」などと
自分の利益ばかり祈るのは下(げ)の下(げ)である。

影をつかんでも、影はカラ(空<くう>)であるから、影の因(もと)で
あるところの実相の諸徳を成就しないかぎり、お陰は得られても結局、
しばらくの間に消えてしまうのである。

お蔭の得られる人が少ないのは、影ばかり追求する人が多いからである。

            <感謝合掌 令和2年9月7日 頓首再拝>

「萬民豊楽の祈り」 - 伝統

2020/09/14 (Mon) 02:51:04


        *Web:谷口雅春先生に帰りましょう・第二(2020年09月10日)より

   (昭和35年、当時の沖縄教区の幹部が
    「台風や水飢饉の場合、どのような祈りをしたらよいでしょうか?」との
    お伺いを立てたところ、
    尊師から「次のような祈りを実修しなさい」とのご教示がありました。)


 龍宮の大神にまします生長の家の大神、

 大神の尊き深き御愛念をもて、

 台風並びに降雨を司(つかさ)どり給う、

 龍神に詔(みことのり)したまいて

 〇〇地方に適応(ふさわ)しき五風十雨(ごふうじゅうう)の所を得さしめ給い

 諸人(もろびと)たちの水飢饉を救い給い

 台風による被害なからしめ給いて

 五穀豊穣、萬民豊楽の大神の御栄えを

 この國に恵ませ給え、顕わし給えと

 畏み畏みて祈り奉る。


 (https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/mode=res&log=3087

            <感謝合掌 令和2年9月14日 頓首再拝>

祈りの効果をデール・カーネギー著『道は開ける』から考える - 伝統

2020/09/17 (Thu) 04:11:56


       *Web:今日も良いことがあるように(2019/07/01)より

《デール・カーネギーの母親~祈りの力》

いつの時代も、母親は偉大なものです。

母親なくしては、どんな偉大な人物も生まれず育ちません。

たとえ、世に名前がでることはなくても、苦難のなかで夫を助け、
立派に子どもを守り育てていく母親は、それだけで賢母だと言えるでしょう。


世界的なベストセラー『道は開ける』や『人を動かす』の著者、
デール・カーネギーの母親もそんな人でした。


カーネギー一家は、アメリカ合衆国のミズリー州の貧しい農家でした。

その地では、大洪水によってトウモロコシ畑や牧草地が
数年は害をうけることもありました。

毎年のように豚がコレラで死に、死骸を焼かねばならないこともありました。


そのような土地柄で、デール・カーネギーの両親は、
一日に十六時間も精一杯働きましたが、借金に追われどおしでした。

畑は抵当にとられ、いくら働いても利子の支払いさえもとどこおりがちでした。
銀行は、父親を悪しざまに罵り、畑を取り上げると脅しました。

そのとき父親は四十七歳でしたが、三十年間も働きつづけた結果が、
借金と屈辱の日々だったのです。

父親は、悩み、身体をこわしました。

医者は、カーネギーの母にこの分だとあと半年はもたないと告げました。

父親は川に身を投げて自ら死ぬことを考えました。

しかし、彼が思いとどまったのは、
彼の妻、カーネギーの母親のおかげだったと、後に語っています。


母親は、神様を愛して、その掟を守っていれば何もかもよくなると信じ、
毎日祈りをささげていたのです。

母親は、毎晩寝る前に、聖書の一章を朗読する習慣をもっていました。
そして、働きながら賛美歌を歌う人でもありました。


   平和、平和、くすしき平和よ

   神よりたまえるくすしき平和よ

   わが魂をとわにおおい給え

   つきせぬ愛の大海の中


「苦闘に心痛に満ちた歳月のあいだ、母は決して悩まなかった。
 母は心の悩みをすべて神に訴えていた」(『道は開ける』)

「母は正しかった。最後には、何もかもうまくいった。
 父はその後四十二年間幸福に暮らして、八十九歳で亡くなった」(前掲書)

洪水、疫病、借金も、彼女の勇ましい魂を屈服させることはありませんでした。

彼女は祈ることによって、自らを救い、夫、そして家族の窮地を救ったのです。

母親が子どもに与える影響は大きいものです。

カーネギーが後に、自らの苦難にも耐え、
人々の悩みを克服するような名著を書くことができたのは、
この母親のおかげでもあるでしょう。


《偉人や成功者の祈りについての言葉》

世界の偉人や成功者の中には、
祈りの効果を知り、実践していた人が少なくありません。

『道は開ける』に出てくる祈りについての名言です。


   神が見ていてくださるのだから、
   最後にはきっとうまくいくのだと信じていました。
   不安になる理由など、なにもありません。

         ヘンリー・フォード(フォード・モーター創業者)



   祈りがなけば、私はとっくの昔に正気を失っていた。

             マハトマ・ガンジー(インド独立の父)



   深い信仰心や祈りには、不安や悩み、恐怖を打つ消す力がある。

            デール・カーネギー(作家・社会教育家)



人間には、誰でも弱さ、欠点、失敗があります。

しかし、赤ちゃんが親から愛されるように、
私たちも神にこそ愛されているのです。

神を信頼するなら、私たちは決して見捨られません。

神が共にいる限り、恐れも不安も消えていきます。

自分の道を勇気をもって前に進むことができます。

困難があっても、必ずや目的地に着けます。


祈るとは、神に自分をゆだね、神と対話しながら、
神と共に人生を歩むということです。

・・・・・・・・・・・・・・・・

【出典】デール・カーネギー著『道は開ける』

    (https://lucky.t-nakai.work/2019/07/01/custom-78/

            <感謝合掌 令和2年9月17日 頓首再拝>

《面白からぬ人が眼についた場合》 - 伝統

2020/09/20 (Sun) 04:43:21


          *「真理」第9巻生活篇第14章(P388~389)より

若しあなたが過って悪しざまに人を批評しようとする心が動き出して来たならば、
自分の視野の狭いのを恥じましょう。

そして神に対して自分の視野の狭いことを、
包容力の乏しいことをお詫びしましょう。

そしてもっと愛深く、思慮深くなり、
理解力と心の視野とがもっと広くなりますように
神に祈ることに致しましょう。

外見がどうあろうとも、外見ばかりを見てはなりません。

人の悪評がどうあろうとも悪評を信じてはなりません。
外見の人間や噂の人間を信じないで
「内在の人間」「真の人間」を見て信じましょう。

すべての人間には「神」が宿っており、その「神」こそ本当の「彼」であり、
その「本当の彼」が今あらわれの途上にあると信じ、速やかに「本当の彼」が
表面にまであらわれて来ますように、彼を《愛する心で》祈ってやりましょう。

            <感謝合掌 令和2年9月20日 頓首再拝>

《祈りは如何なる働きをするか》 - 伝統

2020/09/22 (Tue) 04:59:13


          *「真理」第9巻生活篇第14章(P389~390)より

祈りは神の心を動かすために行なうのではなく、
実相に今此処にある天国状態を、現象の世界に持ち来すための
受け入れ態勢を自分の心のなかに作るために行なうのです。

祈っておりますと、心が平和に明るくなり、信仰が高まり、
心が落ち着いて来て、心に新しい視野がひらけて来るのです。

恰度(ちょうど)、映写機械のレンズが曇らず、ピントが鮮鋭(せんせい)に
なると同じで、現象界に、実相界の完全な相(すがた)が映って来ることに
なるのであります。

神に祈っていると神の導きがあなたに入って来ます。

神は常に無限の智慧を私たちに降り濺(そそ)いでいたまうのですけれども、
こちらの心のレンズが曇っていてはそれを受けとることができないのであります。

祈りは、自分自身の心のレンズの曇りを取り去り、心を澄明(ちょうめい)に
してくれますので、神からの智慧の導きがインスピレーションの形で
あらわれて来るのです。

            <感謝合掌 令和2年9月22日 頓首再拝>

《祈りは内在の神を展開する》 - 伝統

2020/10/04 (Sun) 05:05:45


        *『 生長の家 』(昭和26年5月19日の法語)より

   祈りの効果と云うものは、神を説得によって感動せしめるのではなく、
   祈りの深まることによって、神われと共にあり、神われに来りたまいて、
   われを通して働き給うていると言う自覚が深まると云うことである。

   この自覚の深まるに従って、内在無限の神性が展開し出(い)で
   何事も順調に行われるようになり、身体に於いては内在無限の
   自然療能力が発現して、病気も速やかに癒(い)えるのである。

   自分を圧倒するような困難、迚(とて)も助からぬと云うような病気
    ― こんな時には、暫(しばら)く人間的思慮を止(や)め、
   神の前に跪(ひざまづ)いて神のはからいの前に
   全自己を投げ出すべきだ。

   其(そ)の時、「我(が)」の障礙(しょうげ)が消え、
   神の力が発現するのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110

            <感謝合掌 令和2年10月4日 頓首再拝>

神と共に静かに語れ - 伝統

2020/10/08 (Thu) 04:06:41


        *「光明法語(10月8日)」より

人間が神の生命から生まれた神の子である以上、
神と共に静かに語る時間を持つと云う事は、
親子が静かに語る時間を持つと云う事であって
是非とも必要なる当然の行事である。

祈りの時間とか神想観の時間とか神と語る時間である。

神より頂いた生命は、神に感謝して、
自己の時間の何分の一かは純粋に神と語る対話する為に捧げなければならぬ。

また神から与えられた供給は、その何分の一をば、神に捧げなければならぬ。
宗教や社会事業に捧げる事がそれである。

            <感謝合掌 令和2年10月8日 頓首再拝>

正しい祈り - 伝統

2020/10/10 (Sat) 04:22:58


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月10日)より

祈る場合に、まずその祈り求めるものが、正しいかどうかを省みよ。
正しいということを窮屈な意味にとってはならない。

(1)その求めるものは建設的なことであるか。
   破壊的なことは正しい願いではない。

(2)だれかを豊かにすることであるか。
   (だれかを乏しくならせることは正しい願いではない)

(3)だれかを不幸に陥れたり、損失を与えたりするものではないか。

(4)この世に混乱を起こしたり、
   だれかの感情を掻き乱したりするものではないか。

これらの自己反省してみて、
それのテストに及第するものであれば、祈ってよいのである。

そしてその祈りの言葉は、宇宙的な創造力によってバックされ
実現の途上にあると信じてよいのである。

           <感謝合掌 令和2年10月10日 頓首再拝>

祈りの2つの種類 - 伝統

2020/10/12 (Mon) 04:33:36


          *「光明法語(10月12日)」より

祈りには2つの種類がある。

自力的な祈りと他力的な祈りと。
基督教的に云えば洗礼のヨハネ式祈りとイエス式祈りのとの区別である。

山伏的な修験者的な行(ぎょう)により天国(又は幸福)を
地上に来(きた)そうとする自力の行は断食水行野蜜を食(くら)いて
粗衣粗食をした洗礼のヨハネによく顕れている。

仏教でも聖道門の行者は自力的精進によって
仏陀(さとり)の境地に達しようとした。

併し法然や親鸞やイエスは、仏の本願力又は神の恩寵によって
「与えられた天国」を受けようとした。

・・・

相対的祈りと絶対的祈り

          *「光明法語(10月13日)」より

洗礼のヨハネ的祈りは、彼が祈ってやろうと云う相手に対して思念を集中し、
その思念の力によって相手の悩みを撃退しようとする方法である。
これは自分の思念と相手の悩みとが対立的になるのである。

「悩み」は無いのではなくして、「悩み」を「ある」として認め、
それに対抗する光明の念を念送する事によって相手の悩みを抹殺するのである。

イエス的な祈りの方法は、相手の悩みも病いも見ないのである。
ただ、神の国の義(ただ)しきとを観るのである。
観るのも自分が見るのではなくて自己に宿る神が観るのである。

           <感謝合掌 令和2年10月12日 頓首再拝>

効果を挙げる祈りの精神状態 - 伝統

2020/10/13 (Tue) 04:44:26

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月13日)より

祈りと思念は宇宙の大自療力に触れるところの道である。
しかし祈っても思念しても治らない人もあるのはなぜであろうか。

祈りはけっして口先だけの業(わざ)ではないのである。

それは精神を高揚したる状態であり、信仰の高調したる状態であり、
ハッキリと神の恵みを確認したる状態であり、健全なる想念の持続したる状態であり、
悪の存在を全的に否認して、神の存在のみを全的に承認したる状態であるからである。

だからこの精神状態に達しえない祈りや思念においては、必ずしも完全に
効果を挙げることができないのである。

キリストが「もし芥子種ほどの信だにあればこの山に動いて海に入(い)れと言うと
いえども必ず成らん」といった所以である。

           <感謝合掌 令和2年10月13日 頓首再拝>

祈りの効果は、自分の心の調節いかんにある - 伝統

2020/10/14 (Wed) 04:58:39


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月14日)より

ラジオが鳴り出すのは、
ラジオ・セットそのものの中の機構の調節によるがごとく、
祈りが効果をあらわすのも、自分の心の調節いかんにあるのである。

われわれがラジオ・セットの調節を誤って、
ラジオが鳴り出さないときにも、
放送局の放送はプログラムのとおりに《ある》と同じように、

われわれの心の調節を誤って、
神の恵みが現実世界にあらわれてこない時にも、
依然として神の恵みは、宇宙に充つること
あたかもラジオ波(なみ)のようにである。

祈らないでも神の恵みは充ち満ちているが、
本当の祈りによってその心境になったとき現実世界に、
その恵みがテレビジョン化して現われてくるのである。

           <感謝合掌 令和2年10月14日 頓首再拝>

神の力を得る祈り - 伝統

2020/10/15 (Thu) 04:43:28


          *「光明法語(10月15日《神を讃美する祈り》)」より

天の父われに在(いま)してみ業(わざ)を成し給う式の祈りは、
天の父のみ業の荘厳極(きわま)りなく美しき事を認め、
ただ讃(ほ)め称(たた)えるだけで好いのである。

観と讃嘆である。

此の種の祈りは長時間やってもつかれる事はない。
天の父の無限の力が流れ入って却って心気爽快、再生の思いがするものである。

聖書によれば、イエスは常に暁方(あけがた)に山に入って長時間祈っていたらしい。

彼はそれによって力を得、実際病いを治す時には、
「神が成し給う」と思うだけで、祈りもしないで、
「起ちて歩め」と言ったようである。

            <感謝合掌 令和2年10月15日 頓首再拝>

「祈り」は願望実現が目的でない - 伝統

2020/10/22 (Thu) 04:50:55


          *「光明法語(10月22日)」より

神様にまかす位ならば、「祈り」の必要はない。
「祈り」をするのは自分の願いをかなえる為であって、
祈りに志向性はつきものである。

自分の願いがないならば「祈る」必要はない
 ―― と考えるのは間違いである。

「祈り」と云うものは、
「親なる神」と「子なる人間」との人格的交わりとして
欠くべからざる人間の行事なのである。

だから、潜在意識の深き願いは、神のみこころでなくても
「心の影」として実現するのである。
だから、欲するものを実現するばかりが祈りではないのである。

            <感謝合掌 令和2年10月22日 頓首再拝>

祈りに就いての箴言集 - 伝統

2020/11/06 (Fri) 04:56:04


        *『白鳩』(昭和25年8月号 巻頭言)より

 ◇祈りは、霊が真理に対して真理を語る言葉である。
                 (ベイリー)

 ◇真に深く祈る者にして、
  その祈りから何も得られなかったと云う者は一人もない。
                 (エマースン)

 ◇祈りはあらゆる誘惑と戦うための防壁となる美徳である。
                 (セント・バーナード)

 ◇吾が言葉は高くあがれども吾が想いは低く沈む。 
  想念の伴わぬ祈りは神の国には達しない。
                 (シェクスピア)

 ◇困難と思い煩いは私に駆りたてて祈りに赴かしめ、
  祈りは困難と思い煩いを駆りたてて追い出すのである。
                 (メランチソーン)

 ◇祈りは強力なる力である。 
  何故なら、祈りは神をそこに引きつけ、
  神自身をそこに繋ぎとめるほどの力があるからである。
                 (マルチン・ルーテル)

 ◇魂の底深き祈りは必ずかなえられるのである。
                 (グレン・クラーク)

 ◇祈りと信仰とは、二つ揃うて
  霊的力を自分に流れ入らしむる通路をつくることになるのである。 
  それによって生ける生命の霊水は吾らに流れ入って吾らの内に宿るのである。 

  物質科学が絶望を宣言しても、神は絶望しないのである。 
  心の眼を高くあげて汝の神癒を祈るべし。 

  如何なる悪人と雖も、神がその人の罪を赦し、
  その人を復活せしめ得ないほどの悪人はないのである。 

  如何なる病気と雖も神がそれを癒し得ない程の病気はないのである。 
  如何なる貧者と雖も神のみ手がひとたび触るれば富者となるのである。 

  神はすべての渾てなる宝庫である。 
  その宝庫をひらくものはあなた自身であり、それをひらく鍵は信仰である。
                (ジャックソン・メモリアル病院宗教部長
                   エフ・エッチ・ブュッフホルツ博士)

 ◇「彼は悪いから、彼を拝んで直してやろう。」 と思っているかぎり、
  何時までたっても彼は善くならないのである。 
  何故ならそれは先ず、「彼が悪い」 とみとめているのであるから、
  みとめている念力に支えられて、いつまでも彼の悪は消えないのである。
                (谷口雅春先生著 『叡智の断片』より)

  (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19379315.html ~消滅)

            <感謝合掌 令和2年11月6日 頓首再拝>

「声」と「コトバ」 - 伝統

2020/11/15 (Sun) 04:43:24


       *「光明法語」(11月15日の法語)より

祈りには自力の祈りと、他力の祈りとがある。
自力の祈りは、洗礼のヨハネの如く 「曠野(あらの)に叫べる声」 である。
曠野とは、そこに神の生命が満ちていないと云う意味である。

人と人とは個々に孤立していて、
神の生命によって互いにつながっている自覚がないのである。
互いに呼び交わす声は、声にとどまり、
互いに意味が疎通する 「コトバ」 にはなっていない。

互いに意味が疎通するには一人の生命の動きが神と云う共通の媒介によって
他の人々の生命の動きと共感しなければならぬ。

            <感謝合掌 令和2年11月15日 頓首再拝>

感謝の祈り、自然に実相の流露(りゅうろ)する祈り - 伝統

2020/11/26 (Thu) 04:51:06


       *『 生命の實相 』第30巻聖典講義篇(P243)より

祈る必要も何もない、
そのままで人間は神の子であり救われているのになぜ祈るかと申しますと、
先刻 申しました実相に調和した念を起こすためですが、

いっそう進むと自分が神の子である円満完全な実相を悟ると
自然にありがたくて、それを唱(とな)えずにはおれなくなる。

そういうぐあいの祈り、
仏教ならば常住坐臥(じょうじゅうざが)の念仏というものにならないと
本当の祈りではないのであります。

            <感謝合掌 令和2年11月26日 頓首再拝>

《一切衆生のための祈り》 - 伝統

2020/12/01 (Tue) 04:57:40


        *「光明道中記」(12月はじめの祈り)より

わが毎朝念ずる衆生のための祈り――

私の生命は宇宙の生命と一体である。
されば吾は宇宙の凡てのものを知っているのである。

わが生命は神と一体なるが故に、わが欲(おも)うところは、
神必ずこれを成し給うのである。

光が昇れば隈なくすべての所を照らすが如く、
暗(やみ)のあるところにわが光明思念は必ず
行き亘り、悩みのあるところにわが念ずる光明の言葉は満ち亘るのである。

われは光明思念をすべての悩みありと迷える人々に送る。
送るに随って人々の悩みは消えるのである。

与えれば与えるほど殖えるのが法則であるが故に、
このことによって吾が光明は愈々輝き、
吾が健康は愈々増進するのである。

病める者、悩める者、重荷を負える者に、
われは「光明思念」の導管より生命の水を送るのである。
「今より後、罪も病も死も貧も争いも一切の不調和もなし」

われは今「光明思念」を放送する。わが光明思念は、
われを通して流れ出でたる神の生命であるから、
その光明思念は宇宙全体に充ちひろがり、すべての悩める者を癒すのである。

神よ、わが祈りを聴き給いしことを感謝します。

            <感謝合掌 令和2年12月1日 頓首再拝>

神と《とも》に祈る - 伝統

2020/12/08 (Tue) 04:38:15


       *「光明法語」(12月8日の法語)より

神よ、生きとし生ける者を生かし給える吾等の《みおや》なる神よ。
わたし自身の本来のものでない願いを、わが胸より去らしめ給え、
わが心を浄め給え。
わが魂の切なる願いのみを願うことが出来る様になりますように  

                       <今日の祈り>

自分が真に何をもとめているかを知らない人が随分多いのである。
そして自分のものでないものを憧れ求め、
それが成就しないからとて嘆き悲しみ、
それが成就したからとて図に乗って悪く働く。

ああ迷える人々よ。

            <感謝合掌 令和2年12月8日 頓首再拝>

祈りについて - 伝統

2020/12/26 (Sat) 06:31:53


       *「幸福をひらく鍵」(P277~279)より

兒安ひろ子 

  私はまだ、この教えを受けましてから一ヶ月にしかなりませんのですが、
  祈りのことについてお教え頂きたいのでございます。

  前に古代仏教、真言密教、禅宗などの教えをうけたこともあるのですが、
  生長の家の御指導を頂いた方から〝こうして下さい〟というふうな
  懇願の祈りは我の祈りだときいたりしまして
  ・・・・・・少し迷っているのです。


谷口

  『祈りの科学』『私はこうして祈る』という本がありますから
  参考になさったらよろしいでしょう。

  祈るというのは、命(いのち)で宣(の)べるということです。
  命の底深く念ずることが祈りということになるのです。

  仏教では祈るという言葉を使わないで、念ずるというのです。
  南無阿弥陀仏というのも、極楽へひきとって下さいと頼むのじゃないので、
  あれは仏を念ずる、つまり阿弥陀仏に南無する、即ち阿弥陀仏と
  融会して一体でございますという意味です。
 
  ところが人間は人格的存在ですから、ただ阿弥陀仏と一体でございます
  と念ずるだけで満足出来る人もあれば、満足出来ない人もいるわけです。

  それで、「神」という宇宙に充ち満ちている本体と、
  個人なる「人間」とが一つになる実感を得るための方便として、
  人格的にお願いしたりする。

  「一体感をうるために、祈る」お願いするというような
  祈り方があるわけなのです。

  人格的交流の祈り方ですね。



兒安 

  自分のお願いごとでもいいのでしょうか?


谷口

  宇宙の本体というものは、宇宙に充ち満ちている一つの法則ですから、
  法則に祈ってみてもきかないということになる。

  例えばラジオでも、波長を合わさないでいて、沢山賽銭でも供えて
  ”どうぞ、これが鳴るようにして下さい”って拝んだって
  鳴りやしないでしょう。

  波長さえ合わせたら、賽銭も何も供えないでも鳴るでしょう。

  だから本当は、念ずることによって
  心の波長を神に合わせることが祈りなのです。

  しかしそれまでの手続きとして”神様どうぞ”とお願いした極致に
  ”ああ、これによって神様が来てくださって一つになれた”
  という感じに誘導していく、そして波長が合うということになるのです。

  ですから、頼む形式の祈りも時として効果があるし、
  頼まないでも、一つという自覚がでてきたら、
  それでも効果があるわけです。


兒安 

  お頼みしてもいいわけですか。
  例えば家の中が調和いたしますようにとか・・・


谷口

  ”調和いたしますように”と言うのもよろしいが、
  それでは根本的に「調和していない」という考えをつかみますから
  心でその「不調和」を認めて把むから
  なかなか調和しないことになりがちです。

  ですから、

  ”調和していないのは、私の心の影であります。
   皆さんはもう既に調和しているのにそれを調和していないと見る
   私の心がまちがっているのでございます”

  という風に、反省を自分にもってきて、
  相手はもう既に調和していると拝まして頂く。
  そうすれば、よくなります。


兒安

  それから私は、一寸感情が動いても、下痢するのでございます。
  始終・・・


谷口

  あなた、よく肥えてられるから下痢する方がよろしい。
  感情が動くと、いくらか毒素ができるから、
  下痢してそれをすぐ排泄する自然良能が起こるのですから、
  その下痢を有難いと感謝すればよいのです。

            <感謝合掌 令和2年12月26日 頓首再拝>

新年の祈り - 伝統

2021/01/01 (Fri) 09:50:21

新年の祈り

       *谷口雅春先生に帰りましょう・第二(2020年09月11日~破邪顕正)
        昭和35年の年頭に発表された「新年の祈り」

早朝起き出でて口を漱(すす)ぎ、顔を洗って、戸外に出(い)でよ。
しかして天地四方を拝せよ。東西南北、それぞれに二拍手。

瞑目して次の如く念ぜよ。


天地の一切のものに感謝し奉ります。

昨年中、あなたたちは神の生命のあらわれとして
私たちに恵みを与えたまい、
魂の生長に役立ちくださいました事を感謝致します。

あなたたちはすべて私たちと同じく神の自己顕現であらせられます。

だから貴方たちと私たちとはすべて兄弟姉妹でありますから
決して互いに害するということはありませぬ。

水は私たちの渇(かわき)をいやし身を浄め
食物を調理するに役立ちたまいまして、
決して洪水が堤防決潰(けっかい)のようなことを
起したまうことはありませぬ。

地はよろずのよき作物を生い茂らしたまい常に豊作を約束したまいます。

太陽はつねに暖かき光を適当に与えたまい
常に決して干天(かんてん)つづきということはありませぬ。

火はわたしたちを温めたまい食物をやわらかく
煮沸(しゃふつ)したまい私たち人類に食物を調理して与えたまいます。

今年一年かくの如き地上天国を実現したまう
神のめぐみを年頭にあたって感謝いたします。

ありがとうございます。ありがとうございます。

・・・

年頭に際して  四方拝の祈り

昭和43年1/1号より。
 
               谷口雅春先生


(天地四方に二拍手して合掌礼拝する。
なるべく早朝の日の出に向いて瞑目して次の如く念ずる)

われ天地四方を礼拝す。天地四方、六合ことごとく神の顕現なり。

われ天地四方を礼拝す。天地新たに生まれたり。

新しき天と地、金波羅華の姿をもって 
実相世界より天降りきたるをわれは見る。

金波羅華の中心座に、すめらみことの御座ありて、
日の大神の御霊これに坐し給うを見る。

日の大神の御霊により後光燦然として輝き出でて六合を照り徹らせり。

六合照徹、光明遍照。
六合照徹、光明遍照。・・・・・・(繰り返す)
(日の大神の御ひかりを瞼の裡に凝視しつつ静かに深呼吸して、
日の大神の霊気を全身に吸い込む気持ちとなる)

日の大神の霊われに流れ入りて、わが生命(いのち)と成り給えり。
わが生命は日の大神の生命なり。

わが生命は日の大神の生命なり。最早われ生くるに非ず、
日の大神のいのちわれに在って生くるなり。

われ天照大御神様の顕現にましますすめらみことに帰一し奉る。

ありがとうございます。ありがとうございます。

http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7666745
2018/01/01 (Mon) 08:39:10

・・・

新年の祈り

          *谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱(2014年01月01日)
           『理想世界』昭和59年1月号

   (早暁、東天に向かい、二拍手、合掌。 四方拝。 招神歌を朗々と高唱する)

   (祈り)


 『神よ、われを新たなる者とならしめ給え。

 この天地を新たなるものとならしめ給え。

 人類の迷いの雲を破って、実相の光をこの現象界に射し入れ給いて

 真に価値ある秩序の世界を実現せしめ給え』


   (思念)


 『われ新しき天と地とが実相世界より、今此処に天降り来たるを見るのである。

 過去の迷いにとざされた暗き天地は過ぎ去ったのである。

 新しき天と地とが、

 聖なる神授のスメラミコトを中心として百官もろもろの司と共に天降り来て、

 地上に永久泰平の世界が既に実現せるを見るのである。

 見よ、すべての人々 “神の子” の自覚を得て、

 互にその使命とする処に歓喜していそしみて、秩序整然、 

 争う者なく、相食む者なく、苦しき者なく、貧しき者なく、病む者なく、

 全人類すこやかに、神を仰ぎ見、スメラミコトを瞻仰して、

 まことに地上天国は既に実現しているのである。

 有りがとうございます。 』


   (この思念を約30分間繰返す)

    (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=118

            <感謝合掌 令和3年1月1日 頓首再拝>

祈り - 伝統

2021/01/20 (Wed) 04:45:43


      *Web:かんながら(2020年12月28日)より

瞑想は愛の波動に包まれていきますし、
愛の中に入ると瞑想の静けさに出会います。

この二つは入り口が違うだけで、同じものの両面なのだと思います。


祈りは、この二つがさらに高まったときに訪れる神への入り口です。

愛はハートチャクラに、
そして祈りはスロートチャクラに関係しています。


神社に行って願い事をするのは悪いことではありませんが、
正確に言えば祈りではありません。


祈りは何かを叶えるための手段ではなく、
祈り自体が結果だからです。

願い事を祈る場合は、
祈りそのものより願い事の内容のほうが重要になっています。

祈りが願望成就の手段になっているわけです。


祈りとは与えるものです。

何を与えるのかと言えば、
一番わかりやすいのが感謝を与えるということ。


摩訶不思議な力によって、
今日もこうして生かされていることを感謝する。

ただただ感謝する。


それが祈りです。

  (https://abetoshiro.ti-da.net/e11780733.html

            <感謝合掌 令和3年1月20日 頓首再拝>

祈りによって得たヒントは直ちに実行せよ - 伝統

2021/02/06 (Sat) 02:38:19


         *「あなたは自分で治せる」(P95~96)より

「祈りの結果を楽しもう。その結果があらわれるまでは喜べない」
と云うのでは、喜ぶべき結果は顕れて来ないでありましょう。

今を喜ばなければなりません。
喜べば喜びが来るでありましょう。

そして正しき順序をもって事を行なって行くことです。
一事に多くの事を心を散乱させてはなりません。
第一の事を第一にして、着々として事を運んで行くべきでありましょう。

麓(ふもと)から一歩々々上がって行く行くことが必要です。
頂上のみが眺望が好いのではないのであります。
麓や山腹の眺めも美しいのです。

「今、心の開くところ、浄土はひらかれる」のであります。

今、祈りによって得られたる暗示、又はヒントを実践しなければなりません。
祈りを通じて神が与え給うた暗示を実践しないで放置するときには、
今後いくら祈っても神は何らのヒントも与え給わないようになり勝ちであります。

又、祈りによって得られた善き考えは、今すぐ実行したときに有効な考え
なのでありまして、10分間のちには却って不幸を齎(もたら)す考えでも
あるかも知れないのであります。

「今、この踏切を渡れ」と云う暗示も、その時渡って安全なのでありまして、
それから10分後に渡ったのでは、列車に轢(ひ)かれることも
あり得るのであります。

祈りと「今を生かす」ことは一体になるべきで、
そうでなければ祈りの効果が逆転してしまう事もあります。

            <感謝合掌 令和3年2月6日 頓首再拝>

祈りが正しく聞き届けられるスピリチュアルな作法 - 伝統

2021/02/20 (Sat) 04:24:57


          *Web:宇宙の兄弟たちへ(2021年2月10日)より

祈りとは何かと考えてみると、
つまりは神様、あるいは神近き高級霊への願いであり、
希望を語る電話のようなものだと思います。


電話の場合は相手に正しくかけるために、
電話番号を正確に押さなければなりませんが、
祈りにおいても、正しく届けられるために、
いくつかの要点があるでしょう。

そのひとつめは、祈る際には謙虚な姿勢でなされるべきだと思います。

神仏の前にあって、己を低くして祈るということが必要でしょう。

神様を裁くような、あるいは不満をぶつけるような気持ちで
おこないのはよろしくないですね。


二つ目としては、ご自身の心の汚れを取り払うこと、
穢れをはらって清らかな心で対面するということです。

古来から、滝に打たれたりなど、身を清めて
神仏の前に進み出るという考えがあり、
それは肉体を綺麗にするということでありますが、

もっとも必要なのは、外面の身体ではなくて、
心の汚れを落とすということです。

ですので誤った考えや気持ちを反省し、懺悔してから、
祈りの場にいどむのが正しいでしょう。


三つ目として挙げられるのは、
願いをかなえることを強いるような思いでいてはいけないということです。

この世で起こる出来事の背後には、
実に様々な意味が含まれているために、地上の人間には、
そのおこる意味のすべてを理解することはできません。

それなのに、これだけ願ったのだから叶えてくれとか、
対等の気持ちで挑むべきではないでしょう。

お祈りするときは神仏に成否は一任し、
最後は御心のままになさることを受け入れなくてはなりません。

イエス・キリストと呼ばれるお方も、十字架にかかるまえには、
ゲッセマネの園と呼ばれるところで
血の汗を流して祈られたといわれています。

「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。
 しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」

このようにイエス様も十字架を避けたいという願いをもって
祈っていたのですが、最後はご自身の意思ではなくて、
天の父のみこころのままにと結んでいます。

このように天の計画があって、
どうしても地上の人間の思い通りには進まないこともあるでしょう。

最後にはみこころに委ねるという気持ちも必要ではないかと思います。

    (https://www.spacebrothers.jp/2016/01/blog-post_6.html

            <感謝合掌 令和3年2月20日 頓首再拝>

《常に善き事を思念しましょう》 - 伝統

2021/03/06 (Sat) 05:01:40


          *「眞理」第2巻基礎篇第1章(P7~8)より

「思念する」と云うことは、
神想観その他の観法(かんぽう)を行う時のみに
「思念している」のではないのであります。

吾々は何か「思っている時」「考えている時」には
「思念している」のであります。

「思うこと」「考えること」がすなわち「思念する」ことであり、
「祈る」ことであります。

「思う」ことは「思念する」ことであり、「祈る」ことであります。

「祈る」の「イ」はイノチ又はイキ(息)と云う意味であり、
ノルは「宣(の)る」と云う意味ですから、
「祈る」とは「イノチでノベル」即ち「心で思う」と云うことと
同じであります。

不幸な事を常に心で宣(の)べていながら、
僅(わず)か15分間位、所謂(いわゆる)「神に祈って」
「神よわれに幸福を来らしめ給え」と祈っても効果が少ないのは、
常に「不幸」を思う時間の方が長いからであります。

            <感謝合掌 令和3年3月6日 頓首再拝>

《食事のときの祈り》 - 伝統

2021/03/24 (Wed) 06:37:30


          *「真理」第9巻生活篇(P167~168)より

一口ひと口を

「神様の食物、ありがとうございます」

と感謝しつつ食べるのです。

食事中に、悲観的なこと、憎んでいる人々の話、
不快なことなどを思わないように、また語らないようにしましょう。

一口づつ感謝することは練習しているうちに
段々できるようになります。

練習を積まないうちに、到底できないと悲観したり、
失望して中絶してはなりません。

せめて1週間試みて御覧なさい。
屹度何らかの程度で結果が得られ、そして其の次も
続けてやろうと云う勇気がでて来ます。

食膳の祈りには、合掌して瞑目し、神想観のときのように、
神の智慧と愛と生命(せいめい)と供給と喜悦(よろこび)と調和とが
充ち満ちておることを念じ、

「その生かす力が食物の形をとって
自分に供給されるのであります。ありがとうございます」

と念じてから

食物を、神が料理人として自分に供給された愛と生命(せいめい)と
癒やす力の結晶であると思って食するが宜しい。

            <感謝合掌 令和3年3月24日 頓首再拝>

徒らに祈りを反復するな - 伝統

2021/03/25 (Thu) 02:38:23


           *「光明法語」(3月25日)より

イエスは『祈るとき、徒(いたず)らに言(ことば)を反覆すな。
彼らは言多きによりて聴かれんと思うなり』と教えている。

これは言を反覆してはいけないと云う意味ではない。
『徒らに反覆』しては役には立たぬのである。
言葉多く執濃(しつこ)くからみつくように懇請するから神がききたもうと思うのは
間違いである。

念佛三萬遍でも好いし、臨終の一念佛でも好い。

ただ言葉多きがゆえにきかれると思うのは、
言葉少なければきかれぬと云う恐怖心が内在する現れとも言える。

思念の言葉を反覆するのは、自分の心の波長を調整する為である。

            <感謝合掌 令和3年3月25日 頓首再拝>

スピリチュアルな願いの実現 祈りは聞き届けられている - 伝統

2021/03/27 (Sat) 02:15:23


         *Web:宇宙の兄弟たちへ(2021年3月20日)より

ある方を見たときに、ふとビジョンが浮んできて、
それは神社などにある鳥居の上に白い鳥がとまっていて、
その鳥が空に飛んでいくというものでした。

その方はずいぶん深い悩みの中にいらしたようですが、
このビジョンは、その方の祈りが天に届いていることを現す
ビジョンだったのだと思います。


祈りは必ず霊的存在の元へと届けられている作法であります。


ポジティブな祈りは守護霊様、指導霊様などに届き、
ネガティブな祈りは、闇の存在へと通じます。

祈っても目に見えたり、耳に聞こえて反応がすぐに出てこないので、
聞き届けられているか疑問に思われるかと思いますが、
やはり、強く願ったり、祈ったりすると届いていると言えます。

そのひとが安易に願いを実現しようと、努力を怠っていたり、
褒められないような生活態度をしていては、
守護霊なども実現に協力しないでしょう。

謙虚に努力して、日々精進を怠らない方であれば、
守護霊も感心に思って、祈りを叶える為に働かれるでしょう。

またはネガティブな思いの強く出る方でも、
思いを実現していくこともあります。

ネガティブな念は、闇側、ネガティブな存在へと通じ、
そうしたモノが協力して働くことがあります。

人の不幸を願ったり、人が苦しんだり悲しんだりしている姿をみて
喜ぶような思いを持つとそうしたネガティブな方向へと傾いてしまいます。

もっと積極的に、人を呪うという様な行為をしてしまうと、
ネガティブな存在と通じてしまい、縁が出来てなかなか離れられなくなるため、
絶対にしないようにしましょう。

祈りは、感謝し、自らを正し、人を許し、
愛するための作法として用いられるのが一番間違いの無いものだとおもいます。

  (https://www.spacebrothers.jp/2014/04/blog-post_9463.html

            <感謝合掌 令和3年3月27日 頓首再拝>

われ祈れば天地応(こた)える - 伝統

2021/04/01 (Thu) 04:52:23


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月1日)」より

なんという歓びであろう。
自分の棲んでいる宇宙には、
自分の意志に反対する意志は一つとして存在しないのである。
 
なぜなら、自分は神の子であり、宇宙生命は神御自身であり、
宇宙は神の支配下にあるからである。

われ祈れば天地応(こた)える。

神は常に我が祈りに応えたまい、
我がために処を備え給い、宝を備え給い、時を得せしめたまい、
すべての必需物(なくてはならぬもの)を与えたまうからである。

            <感謝合掌 令和3年4月1日 頓首再拝>

《善(よ)き言(ことば)の創化力を祈りに利用せよ》 - 伝統

2021/04/02 (Fri) 04:53:05


         *『 生長の家 』(昭和49年4月1日の法語)より

   “ ことば ”は アイディアを乗せた生命の波動であり、
   アイディアに描かれたる事物を 生命エネルギーを組み立てて
   創造する本質であり、材料であり、力である。

   それゆえに 何を“ ことば ”で唱えるか、
   何を“ ことば ”で念ずるかによって、
   その人の運命が支配され、

   善きアイディアを内容とする“ ことば ”を毎日念ずることにすれば、
   家庭は調和し、事業は繁栄し、家庭及び自分の健康は増進するのである。

   最近(昭和四十九年当時)発行された『 ジュニア希望の祈り 』というのは
   小中学生の年齢の児童たちが、“ 善き言葉 ”で毎日念ずることによって、
   健康で、善良な性格の、成績優良な子供になるための
   “ 祈り ”につかう、簡単な“ことば”を集めたものであるから

   子供をお持ちの方は、是非一冊をひとりひとりの子供のポケットに入れてあげて
   必要に応じて、どの言葉で祈るがよいかを辞書をひくように検索し得るよう
   小見出しをつけて工夫されたものである。

   大人の人たちの祈りのためには『 私はこうして祈る 』という本があるから、
   それによって検索して適当なコトバでお祈りになるとよいと思う。

   しかし本号には読者がすぐに利用できる短い“ 祈りの言葉 ”を書いて
   皆さまに差し上げることにした。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=125

            <感謝合掌 令和3年4月2日 頓首再拝>

《祈りとは人格的交わりである》 - 伝統

2021/04/08 (Thu) 03:09:26


        *「光明法語」(4月8日)より

祈りと云うものは必ずしも結果をもとめて祈るものではないのである。
祈りは「神」と「神の子」との人格的交わりである。

神から与えられた生命であるところの「神の子」なる人格は、
親なるところの神に心を転回して、神と人格的に交わる時間を持つことは
是非共必要なところの行事である。

それ自身が荘厳きわまりなき処の行事であって、
結果があるとか無いとかの問題ではなく、
直接的にそれ自身が目的である。

神から生れた人間にとっては、
神へ生命(いのち)を転回し振り向けることは、
唯嬉しい行事である。

            <感謝合掌 令和3年4月8日 頓首再拝>

《喜悦の祈り》 - 伝統

2021/04/10 (Sat) 04:55:48


         *「光明法語」(4月10日)より

神に祈るときは喜びの感情を以って祈るべきである。
神に対して泣きついてはならない。

若し、久し振りに逢った実子が其の親に対して、自己の不幸を嘆き訴えたならば、
その親は実際好い気持ちがするであろうか。
またかかる実子は親孝行だと云えるだろうか。

親に会ったとき、唯会うだけで嬉しい感情に満たされるのが
親孝行の子供ではないであろうか。

神に対して泣き言を訴えるな。
私は幸福です。健康です。豊かに暮らしていますと言え。

これが本当の親孝行の「神の子」の祈りである。

           <感謝合掌 令和3年4月10日 頓首再拝>

《酒は飲まぬ方が好い》 - 伝統

2021/04/11 (Sun) 02:20:58


         *「光明法語」(4月11日)より

祈りをする時には茶断ちの如き「断ち物」は要らないのである。
祈りは親に会う時であるから憔悴したる如き顔付をして見せるな。

寧ろ神の恵みであるすべてのものを豊富にとり、顔を剃り、脂(あぶら)を塗り、
髪を梳(くしけず)って元気な顔をして祈るべきである。
全て明るい心持は明るい事物を引き寄せるのである。

併し酒は飲まぬ方が好い。
酒を飲むと一時気分を明るくするが、それは麻酔剤であるから
一時の心の暗さを誤魔化すのであって、次が乱れて来る。

生活に節度がなくなり、
節度がない事を豪傑ぶって自慢にするようになる。

           <感謝合掌 令和3年4月11日 頓首再拝>

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