伝統板・第二

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法則としての《神》 ④ - 伝統

2020/04/26 (Sun) 04:37:20

《神は法則である》

      *「光明法語」(4月26日)より

神は法則である。
『甘露の法雨』には「神は宇宙を貫く法則」であると書かれている。

法則は秩序である。秩序性は一定の規則があると云うことである。
生命は一定の秩序あるところのみ出現し、秩序が破るれば生命は姿を消すのである。

動物は本能によって其の秩序性を守って生活し、
人間は自主的統制によって其の秩序性を守って健康に生活する。

人間の自由とは無秩序のことではなく、
自由意志と自由選択とによる完全なる自己統制である。

孔子の所謂(いわゆ)る「心の趣く所に随って矩(のり)を超えず」である。


・・・

<参考>

(1)伝統板・第二「法則としての《神》①」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6532750

(2)伝統板・第二「法則としての《神》②」からの継続です。
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6957478

(3)伝統板・第二「法則としての《神》 ③」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7708844

         感謝合掌 令和2年4月26日 頓首再拝>

《神は法則であり偏頗はない》 - 伝統

2020/04/30 (Thu) 04:53:17


       *「光明法語」(4月30日)より

種子(たね)を植えて恐怖なしに土地に委ねることが出来るのは、
法則が支配していることを知っているからである。
法則の支配を信じなければ恐怖するほかはない。

神は法則であり、蒔いた種子の通りの芽を出さしめるのであり、
例外なしにそうであるから吾々は恐れる必要がないのである。

罪人が蒔いても善人が蒔いても法則によれば同じ種子には同じ植物が生えるのであるから、
どんな罪人も、善き種子をこれから蒔けば善き植物が間違いなく生ずるのである。

何も恐るることはないのである。
神は法則であり偏頗(へんぱ)はない。

            <感謝合掌 令和2年4月30日 頓首再拝>

《あなたは種蒔く人》 - 伝統

2020/05/12 (Tue) 04:31:52


          *「真理」第9巻生活篇第2章(P42)より

あなたの好むところの種子(たね)をお蒔きなさい。
あなたの欲する事物を心に描いて、それを”種子(たね)”として
”法則の世界”にお蒔きなさい。

健康を欲すれば、朝起きて、あなたの一日の生活のはじまる最初の5分間、
寝床の中でよろしいから「私は神の子で健康だ」と想念しなさい。

それが欲する事物の”想念”の種子(たね)を蒔くことになるのです。

”神の子で健康だ”と言わなくても唯「私は健康だ」と念じて宜しいが、
神と云う観念と連合しますと、神ほど偉大なものはないと云う潜在意識が
誰にでもありますから、その偉大な力にバックされて健康であると云う
感情がつよく揺り動かしますから一層効果が多いのです。

念ずることは「私が××を想う」と云うように、「私」と「××」とが
離れているので力が少ないのです。

「自分自身が神の生命(せいめい)だ」と云う端的な自覚が自己の生命(せいめい)の
うちに感情的に昂揚されるように念ずることが大切です。

            <感謝合掌 令和2年5月12日 頓首再拝>

《人間自身の心の調整が必要です》 - 伝統

2020/05/21 (Thu) 04:51:57


          *「真理」第9巻生活篇第2章(P49)より

法則と云うものは、肉眼では見えません。
吾々が見るのは法則が働いた軌跡、結果としての現象を見るばかりです。

従って法則と云うものは、物質界の法則でも、心の法則でも
結局は「見えない力」であって霊的なものです。

霊的なものだけが原因者であり、原動力であって、
肉眼で見えるものは結果に過ぎません。

その結果を吾々は色々と努力し工夫して移動することはできます。
しかし原因を除かなければ、結果は除いた後(あと)へ復々(またまた)
続々としてあらわれますから、根本的な救済とはならないのです。

根本的救済を得るにはどうしても原因に迫ることが必要です。

法則と云い霊と云い大生命と云い、色々の名称を用いますけれども、
結局は「心」です。

「大生命なる神」の「心」があらわれるために
人間の心を調整しなければなりません。

            <感謝合掌 令和2年5月21日 頓首再拝>

神は人格であると同時に法則である - 伝統

2020/06/08 (Mon) 03:59:09


    *『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月8日)より

親がその子に対して、善きものをあたえたくない場合を考えて見れば、
その子が親不孝の場合である。

間断なく親の言い付けに叛(そむ)き、親の意志に反して、
与えたる富はただ他を害する為のみに使う様な場合には
親はその善きものを与える事をさし控えるであろう。

それは神を擬人的に人格的に考えたのであるが、
神は人格であると同時に法則なのである。

その両面を見落としては真に神を理解したことにはならない。
神は超個性的法則であると同時に人間的な人格を備えてい給う。

それ故に神の子なる人間も人格を備えているのである。

            <感謝合掌 令和2年6月8日 頓首再拝>

法則とは何ぞや - 伝統

2020/07/23 (Thu) 04:46:53


       *「光明法語」(7月22日~23日)より

七月ニ十ニ日の法語 生長の家と科学

生長の家は科学を否定しない。
寧ろ精神と物質との間に科学的法則を見出す。
だから精神科学といわれる所以である。

今迄は物質と物質の間のみに法則を見出して、
精神と物質との間に相互の因果関係があると云う事を忘れていた。

物質の法則の上に精神の法則の優位があるのは、ただの物理化学的法則以上に
それに精神が働きかけた時、物質はただの物質ではなく肉体となり、霊妙なはたらきを
現し、自然の物理化学的変化以上を有意志の変化にかえて了(しま)うのである。

・・・

七月ニ十三日の法語 法則とは何ぞや

法則とは物理化学の法則でも、精神の法則でも、神のはたらきの「道」である。
かかる「道」を通って、霊が、生命が、はたらくのである。

霊が、生命が、創造力が、働くところの「道」「方法」を知らないときに
吾々は生命の創造力の「道」に邪魔物を、知らず識(し)らずに置くことになる。
そこに生命の創造力は閉ざされ、病気を生じ、不幸を生じ、禍を生ずることになる。

科学とはかくの如き「道」を発見して、生命の創造力を豊かにる流露(るろ)
せしめんがためのものである。

            <感謝合掌 令和2年7月23日 頓首再拝>

二つの法則 - 伝統

2020/07/24 (Fri) 04:34:57


       *「光明法語」(7月24日)より

人生には、精神の道と、肉体の道とが互いに縄のように交わりながら進んでいる。
吾々は心の法則の中にも住んでいるし、物質の法則の中にも住んでいるのである。

毒物(本来食物として創造(つく)られていない物の意であって、それは他の用途に
使えば毒物ではない。本来毒物は何もない)を食すれば胃腸を害し消化力を減ずるのは
物質の法則によるのであるが、

心配したり、腹立ったり、不快な思いをしながら食べるとき
胃腸を害し、消化力がにぶるのは心の法則によるのである。

            <感謝合掌 令和2年7月24日 頓首再拝>

神に於いては無法則 - 伝統

2020/07/26 (Sun) 04:11:34


       *「光明法語」(7月26日)より

神は決して「法則」と云うようなもので自縄自縛されてい給うような方ではない。
その意味に於いて、神自身から言えば、「無法則」である。

しかし、神はその創造活動があらゆる方面において調和し、秩序だっているから、

それを人間の方から見ると、
神の創造は「法則」と云う「道」を通って行なわれるように見えるのである。

精神の法則も、物質の法則も
「一(ひとつ)」の神の調和した創造の二面であるから、
互いに調和しているのである。

不調和に見えるのは観察が足らなぬのである。

            <感謝合掌 令和2年7月26日 頓首再拝>

法則は神の顕現 - 伝統

2020/08/08 (Sat) 03:24:10


       *「光明法語」(8月8日)より

人間の頭脳が、自然を研究するに従ってそれを支配する法則が段々徐々にわかれば、
自然を構造したところの知性(神)は、吾々人間の頭脳知よりも
遥かに発達した知性であると言わなければならない。

「神」と言うと迷信くさく思う人があるが、
「法則」と言えば、科学者も信仰しているものである。

『甘露の法雨』には、神の事を「宇宙を貫く法則」と書かれている。
すべての事物は法則によって支配されている。

併し法則をば必ずしも「物質法則」に限る必要はない。

            <感謝合掌 令和2年8月8日 頓首再拝>

物質科学の目的 - 伝統

2020/08/14 (Fri) 03:03:49


       *「光明法語」(8月14日)より

物質を研究する科学は、その研究が次第に深くなるに随って、
その奥に横たわる法則や秩序や、
智慧なしには構造することが出来ない微妙複雑なる構造に、
驚異の眼(まなこ)をみはるに到り、

此処についに、
物質の奥底にあって一切のものを構造する本源者「霊なる神」を
みとめずにはいられなくなるのである。


凡(およ)そ「法則」とは神が人間にわざと利用しやすきよう、
常に普遍妥当なる形においてあらわれたものであって、
結局「法則」を研究する科学は神を研究することになるのである。

            <感謝合掌 令和2年8月14日 頓首再拝>

宇宙の法則の一貫不動性 - 伝統

2020/09/16 (Wed) 04:07:37


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月16日)より

宇宙には動かすべからざる法則が支配しているのである。

その法則は人間が作った法律のようにごまかしたり、
くぐり抜けたりできぬものであり、
絶対に終始一貫かわらざるものであるのである。

もしこの宇宙の法則の一貫不動性というものがなかったならば、
太陽系統は成り立たず、人類の生活は成り立たないことになるのである。

終始一貫性はある意味では純潔の美徳であり、ある意味では誠実の美徳である。
宇宙は純潔と誠実との美徳によって支えられているというも過言ではないのである。

人間もこの宇宙に存在する以上、誠実と純潔との美徳なければ、
大宇宙の生活と波長が合わないのである。

人生に繁昌成功せんとするには純潔と誠実とが必要である。

             <感謝合掌 令和2年9月16日 頓首再拝>

因果応報 - 伝統

2020/10/01 (Thu) 04:21:30


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月1日《必ず成功する日》)より

【生命が主であって一切の形相は従である。(『生命の實相』第八巻)】


他に損失を与えて自分が肥え太るのは成功の捷径(ちかみち)のようであるが、
それは失敗の捷径であり、窮乏に陥る近道である。

投機によって成功せんとする者はその轍をまた踏むに過ぎない。
何故なら、投機に於ては、実質的に何物も生産しないのであるから、
利益を得た半面には必ず損をした者があるからである。

損をする者があることによって儲かる事のみ考える者は、必ず最後は損をする。
或は必ずその悪業の応報として最後が悪くなるものである。

日露戦争時の成金いずこにありや、第一次欧州大戦時の成金今いずこにありや。
若しありとすれば彼はただ他人の損によって自分が利益を得ること以外に、
何か人のために貢献したものに相違ないのである。

因果はめぐる、応報は昭々として晦ますことは出来ないものである。
血を吸うて肥える蚊は必ず蚊燻(いぶ)しの攻撃を受けなければならない。

(一)生かすために斬る破邪の剣は尊ばれる。
(二)自己を護るための剣は許される。
(三)併し他を犠牲にして自己を拡張するために剣をとる者は剣によって滅びる。

「剣」と言ったのは喩(たとえ)である。

一言一行悉くこの方面に漏れるものは一つもない。

           <感謝合掌 令和2年10月1日 頓首再拝>

すべては「100%の法則」 - 伝統

2020/10/26 (Mon) 04:42:02


      *「大丈夫だよ、すべてはうまくいっているからね」
                斎藤一人・著(P62~63)より

あなたに起こる出来事。
それはしあわせなこともあれば、不幸なこともあると思います。

それらすべての出来事に対して「これは100%、自分の責任なんだ」
と思えたとき、自分の人生を100%コントロールすることが
できるようになるんです。

これを『100%の法則』といいます。


たとえば部長がいつもあなたにばかり怒るんだとしたら
「部長が悪い」とみるのではなく、
「私の中に部長を怒らせるなにかがあるんだ」とみる。

そういう目を持つと、
「確かに部長はすべての部下に怒ってわけじゃない」
ということがわかりますし、

「ならば怒られないようにするにはどうすればいいか」
ということもわかるんです。

自分が何回も騙(だま)されるんだとしたら、
「自分が騙されるのを見抜けない」とか、
なにか騙されやすいところがあるはずです。

とにかく、この「100%の法則」は
自分に起こる出来事を100%、自分の責任だとみる法則なんです。

これがもし、50%は自分も悪いけど、相手も50%悪いんだとしたら、
あなたの人生は相手に50%支配されていることになります。

相手が90%悪いんだとしたら、
相手はあなたの人生の90%を握ってることになるんだよね。

ところが100%自分の責任だとすると、自由度も100%になります。

だから自分の人生を100%自分のために生きようとするなら、
この「100%の法則」を知っておいたほうがいいのです。


   人生でなにが起きても、原因のすべてを自分目線で見つめてみること。
   そこには学ぶべきことが必ずあるからね。

           <感謝合掌 令和2年10月26日 頓首再拝>

摂理と云うこと - 伝統

2020/10/27 (Tue) 04:39:37


          *「光明法語(10月27日)」より

神の波長に合わぬと言っても、その場合、
神が人間を罰し給うのではないのである。

光に対して眼をつぶっている者が「暗い」のは、神罰ではなくして、
理としてそれが出て来るのである。

そして「暗く」して打突(ぶつ)かり、頭を打って痛いと思って、
その人が眼をひらいて、そして方向転換するのは、
神が頭をなぐったのではなくて、自分が頭をぶつけたのであり、
そして自然に眼がひらくのは、「理」として自然に来るのである。

これを「摂理」と言う。
不幸に出遇(であ)ったと思っている時に神の導きがある。

           <感謝合掌 令和2年10月27日 頓首再拝>

神罰はない、ただ法則による展開である - 伝統

2020/10/28 (Wed) 04:44:34



          *「光明法語(10月28日《神罰ではない》)」より

病気をした為に神を知ったと言い、
災難を受けたために神信心をするようになった。
これは神の導きであったと言う人がある。

これは摂理であり、「理」であり、
神が自由意志をもって、導かんがために、
病気や不幸を課したのではない。

「理」にしたがって、心の通りの姿が、
肉体や境遇に反映してあらわれるのである。

眼をとじていれば暗いが、その暗いのは「理」に従って暗いのであって、
神罰によって暗いのではない。

暗くて頭を打つのも「理」にしたがって頭を打つのであって神罰ではない。

           <感謝合掌 令和2年10月28日 頓首再拝>

「理」は神から来る - 伝統

2020/10/29 (Thu) 04:38:30


          *「光明法語(10月29日)」より

「理」はどこから来たかと言うと、神から来たとも言える。

しかしそれは神罰と云うものを課するために神がつくったものではなく、
むしろ神御自身が人間によって利用できるように
「一定不変」の形になってあらわれ給うたものである。

自然界の法則も同じである。
神は「自由の本体」であるから変幻自在である。

しかし「変幻自在」では人間は神を利用することが出来ないのである。

それで神は一定不変の法則となり、一方では「科学の法則」となり、
一方では「心の法則」となってあらわれたのである。

           <感謝合掌 令和2年10月29日 頓首再拝>

「理」に順応せよ - 伝統

2020/10/30 (Fri) 04:49:20


          *「光明法語(10月30日)」より

高圧電線に触れて傷つくのも、
機械の歯輪(はぐるま)にはさまれて傷つくのも、
食い過ぎて胃を悪くするのも、

「科学の法則」にふれたからである。

腹が立ったり、悲しんだり、取越苦労をして病気になるのは

「心の法則」にふれたからである。

食いすぎて胃病になっても別にそれは神が罰を当てたのではない。
それは「理」によってなっているのであって、
「理」に逆らったからに過ぎない。

省みて「理」に順応して、
高圧電線にふれる時にゴムの手袋をはめ、
歯輪(はぐるま)の間に手を入れず、
食べすぎねば傷つくことはない。

           <感謝合掌 令和2年10月30日 頓首再拝>

原因結果の法則 - 伝統

2020/11/14 (Sat) 05:04:08


       *『 生長の家 』(昭和26年7月12日の法則)より
        ~《繁栄への道》

   繁昌(はんじょう)は 一日にして来らず、
   それが単なる偶然の好運であるかに見えても、

   必ず過去に蓄積されている 善き想念、善き言葉、
   善き行為、善き感情 が現実化して生ずるのである。

   すべての 想念、感情、言葉、行為 の結果は
   実現しないではいないのである。

   それは 原因結果の法則 である。


   原因結果の法則には、
   物理化学的な法則 と、心の法則 とがあるのである。

   大抵(たいてい)の人は物理化学的法則 のみを知っていて、
   心の法則 を知らないのである。

   繁栄せんと欲する者は、顧客に対して よき想念、善き感情、深切な注意、
   行き届いたサービスの精神 を揮(ふる)い起さなければならないのである。

   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/f0b648755f87462c2d6035c9abd6ae7a

           <感謝合掌 令和2年11月14日 頓首再拝>

《精神は肉体を支配する》 - 伝統

2021/02/26 (Fri) 03:16:27


          *「眞理」第2巻基礎篇第1章(P23~24)より

この世界は法則の支配している世界である。
物質には物質の法則があり、精神には精神の法則がある。

人間は物質面と精神面との両面を備えているから
両方の法則に支配されているのです。

だから「物質界の法則」を全然は無視することは出来ないのです。

自動車でも乱暴にドライブすれば早く破損します。
それと同じく人体も乱暴に使えば早く破損するのは当然です。

だと言って生命(せいめい)も精神も備えていない自動車と、
生命(せいめい)も精神も備えている人体とは異なるのです。

人体は、「生命(せいめい)」によって物質面と精神面とが
互いに連繋しているのであり、
そして精神面が物質面より上位にあって物質面を支配している。

即ち精神が「歩こう」と思えば物質の脚(あし)が動くようにです。
此処に精神の力が肉体の健康を支配する理由の一端が分りましょう。

だから精神力が旺盛であれば肉体を健康にする事もできるのです。

           <感謝合掌 令和3年2月26日 頓首再拝>

《神から功徳を得るには神の法則に従わねばならぬ》 - 伝統

2021/02/28 (Sun) 06:38:48


           *「光明法語」(2月29日)より

電気の働きによって、電燈を得、電熱を得るためには、
吾等は電気の法則に従わねばならぬ。

神の働きによって色々の功徳を得る為には、吾々は神の法則に従わねばならぬ。
神の法則とは、『与える通り与えられる』と云うことである。

若し与えられなかったら祝すべきである。
それはなお天の倉に蓄えられて増殖しつつあるのだからである。
その報いが遅ければ遅いほどそれは複利計算で神様から利子がつけられるであろう。

一方に与えて置いたら、軈(やが)て予想もしない他のところから
無限の供給がやって来ると云うことである。

           <感謝合掌 令和3年2月28日 頓首再拝>

法則と云うものは、「見えない力」であって霊的なものです。 - 伝統

2021/03/13 (Sat) 04:59:44


          *「真理」第9巻生活篇第2章(P49)より
            ~《人間自身の心の調整が必要です》

法則と云うものは、肉眼では見えません。
吾々が見るのは法則が働いた軌跡、結果としての現象を見るばかりです。

従って法則と云うものは、物質界の法則でも、心の法則でも
結局は「見えない力」であって霊的なものです。

霊的なものだけが原因者であり、原動力であって、
肉眼で見えるものは結果に過ぎません。

その結果を吾々は色々と努力し工夫して移動することはできます。
しかし原因を除かなければ、結果は除いた後(あと)へ復々(またまた)
続々としてあらわれますから、根本的な救済とはならないのです。

根本的救済を得るにはどうしても原因に迫ることが必要です。

法則と云い霊と云い大生命と云い、色々の名称を用いますけれども、
結局は「心」です。

「大生命なる神」の「心」があらわれるために
人間の心を調整しなければなりません。

           <感謝合掌 令和3年3月13日 頓首再拝>

物質は法則の現われ - 伝統

2021/04/11 (Sun) 02:34:29


      *『 生長の家 』(昭和25年3月4日の法語)より

法則は材料であり、人間が創造者である。

だからどんな物質でも、それ自身は法則の現われであって、
毒になるとか薬になるとかというような自性(じしょう)はないのである。

砒素(ひそ)といえども それは必ずしも毒薬ではないのである。
それはその使いようによっては強壮剤ともなるし、害虫の駆除剤ともなるのである。

物質は自分自身で 「 自分は毒薬だ 」 と
自分自身の本性(ほんせい)をきめることはできない。

人間がそれを毒薬にもし、強壮剤にもするのである。

だから物質には自性はなく、人間が主動者であるのである。

http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/25a640bde42dfa983ee64d5754436f6c

           <感謝合掌 令和3年4月11日 頓首再拝>

《神は法則である》 - 伝統

2021/04/26 (Mon) 04:43:32


        *「光明法語」(4月26日)より

神は法則である。

『甘露の法雨』には「神は宇宙を貫く法則」であると書かれている。

法則は秩序である。秩序性は一定の規則があると云うことである。
生命は一定の秩序あるところのみ出現し、秩序が破るれば生命は姿を消すのである。

動物は本能によって其の秩序性を守って生活し、
人間は自主的統制によって其の秩序性を守って健康に生活する。

人間の自由とは無秩序のことではなく、
自由意志と自由選択とによる完全なる自己統制である。

孔子の所謂(いわゆ)る「心の趣く所に随って矩(のり)を超えず」である。

           <感謝合掌 令和3年4月26日 頓首再拝>

法則に支配されている世界 - 伝統

2021/04/30 (Fri) 02:58:56


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月30日)」より

ああ驚嘆すべきかな、自然の過程が驚くべき数学的精確さを保てることよ。

あらゆるエネルギーの法則、エネルギーの交換、化学的結合分解ことごとく
一定の法則に支配されている。

これを見るも、この世界が単なる精神なき物質の集合だとどうしていえよう。
なぜこの世界の一切の事物が数学的正確なる法則に支配されているのだろうか。

それは物質はいわゆる「物質」にあらず「理念」の表現であるからである。
「物質なし」とは常識的捉われの物質観を破摧して、
一挙に背後の理念を掴ましめんがための喝であったのである。

ここにおいて「一切の《もの》に和解せよ」「一切の《もの》に感謝せよ」の教えが
生きてくるのである。

            <感謝合掌 令和3年4月30日 頓首再拝>

物質の法則は神の法則か - 伝統

2021/05/26 (Wed) 04:52:35


        *『生命の實相』第13巻倫理篇上(P64~65)より

なお、このほかに神の一元を認めつつ、
神が物質世界と心の世界との両方を創造したのであって、

物質の法則も神の法則であって、
「愛の法則」も「神の法則」であるとして、
「物質の法則」と「愛の法則」とを対立させる観方があります。

が、この観方によります場合には、おうおうにして
「愛の法則」が「物質の法則」に打ち毀やぶられることになるのであります。

たとえば、寒中、河中(かちゅう)においてまさに溺れんとする
小児を救う愛の行為をしたために、かえってその愛の行為をした人が
肺炎にかかって死ぬというような場合や、

肺病を看護したためにかえって肺病が伝染して
自分が先に死ぬというような場合があります。

この場合、ついに「物質の法則」は結局「愛の法則」に打ち克つことになった
という結論になりますが、この「物質の法則」が神の定めた自然界の法則だ
ということになりますと、物質の法則に従う者は神の法則に従うのである、

寒中に小児の溺れるのを助けないことは神の法則に従うのである。
肺病患者を世話しないことは神の法則(すなわち物質の法則)に
従うことになるというようなことになるので、

「愛の法則」は全然蹂躙(ふみにじ<じゅうりん>)られて、
この世は物質の法則によって勝ち負けが決せられ、
地上には天国も理想世界もない、ただ薄情な、巧者に
物質の法則を立ち廻る者が勝利を得るというような
不合理な世界になってしまうのであります。

だから《「物質の法則」というようなものを神の法則だと認めている限りは、
「愛の法則」などというものはこの世界に確立することはできないのであります》。

本当に「愛の法則」の確立する世界を認めるには「物質は本来無い、
したがって物質の法則も本来無い、物質の法則とはひっきょう
『念の具象化の法則』であって、念が変われば物質の化学的反応も変わるのである。

寒中、水中に飛び込めば風邪を引くと思う人は風邪を引くが、
そういう『念(ねん)』を持たない人は風邪を引かない。

結核菌にふれると肺病になるという『念』をもっている人は肺病になるが、
そういう『念』をもたない人は結核菌に触れても一向病気にならない。

その人が愛の行為によって病(やまい)となるかならぬかは、
物質の法則という『神の法則』によるのではなく
『念の具象化の法則』による」という生長の家独特の世界観に
ならなければならないのであります。

愛も神の法則であり、物質の法則も神の法則であるなどと
中途半端なことをいってるようなことでは、
真(しん)に「神の法則」、「愛の法則」などというものはわからないし、
物質的法則を無視して断じて愛行につくという決心がなかなか湧いてこない
のであります。

「生長の家」の世界観になってきまして、
愛の行為が人間を肺炎にしたり結核にしたりするようなことは断じてない、
という自覚に到達しえてのみ、断じてわれわれはまっしぐらに
愛行(あいぎょう)の中に飛び込みうるのであります。

            <感謝合掌 令和3年5月26日 頓首再拝>

生長の家と科学 - 伝統

2021/07/22 (Thu) 04:27:34


        *「光明法語」(7月22日)より

生長の家は科学を否定しない。
寧ろ精神と物質との間に科学的法則を見出す。
だから精神科学といわれる所以である。

今迄は物質と物質の間のみに法則を見出して、
精神と物質との間に相互の因果関係があると云う事を忘れていた。

物質の法則の上に精神の法則の優位があるのは、ただの物理化学的法則以上に
それに精神が働きかけた時、物質はただの物質ではなく肉体となり、霊妙なはたらきを
現し、自然の物理化学的変化以上を有意志の変化にかえて了(しま)うのである。

            <感謝合掌 令和3年7月22日 頓首再拝>

法則とは何ぞや - 伝統

2021/07/23 (Fri) 03:43:48


        *「光明法語」(7月23日)より

法則とは物理化学の法則でも、精神の法則でも、神のはたらきの「道」である。
かかる「道」を通って、霊が、生命が、はたらくのである。

霊が、生命が、創造力が、働くところの「道」「方法」を知らないときに
吾々は生命の創造力の「道」に邪魔物を、知らず識(し)らずに置くことになる。
そこに生命の創造力は閉ざされ、病気を生じ、不幸を生じ、禍を生ずることになる。

科学とはかくの如き「道」を発見して、生命の創造力を豊かにる流露(るろ)
せしめんがためのものである。

            <感謝合掌 令和3年7月23日 頓首再拝>

二つの法則 - 伝統

2021/07/24 (Sat) 04:22:14


        *「光明法語」(7月24日)より

人生には、精神の道と、肉体の道とが互いに縄のように交わりながら進んでいる。
吾々は心の法則の中にも住んでいるし、物質の法則の中にも住んでいるのである。

毒物(本来食物として創造(つく)られていない物の意であって、それは他の用途に
使えば毒物ではない。本来毒物は何もない)を食すれば胃腸を害し消化力を減ずるのは
物質の法則によるのであるが、

心配したり、腹立ったり、不快な思いをしながら食べるとき
胃腸を害し、消化力がにぶるのは心の法則によるのである。

            <感謝合掌 令和3年7月24日 頓首再拝>

神に於いては無法則 - 伝統

2021/07/26 (Mon) 04:31:14


         *「光明法語」(7月26日)より

神は決して「法則」と云うようなもので自縄自縛されてい給うような方ではない。
その意味に於いて、神自身から言えば、「無法則」である。

しかし、神はその創造活動があらゆる方面において調和し、秩序だっているから、
それを人間の方から見ると、神の創造は「法則」と云う「道」を通って行なわれる
ように見えるのである。

精神の法則も、物質の法則も「一(ひとつ)」の神の調和した創造の二面であるから、
互いに調和しているのである。

不調和に見えるのは観察が足らなぬのである。

            <感謝合掌 令和3年7月26日 頓首再拝>

心の法則と物質の法則との調和 - 伝統

2021/07/27 (Tue) 02:15:56


       *「光明法語」(7月27日《行く処必ず安全》)より         

爆弾に中(あた)っても死なないと云うのは神の法則の自己破壊であって、
そんな事が尊いのではない。

爆弾の中らぬような所へ、自然に、心の働きで、自分の身体(からだ)が行っている
事が、心の法則と物質の法則との調和である。

毒を飲んでも死なぬのではなく、毒など自然に飲まなくなる事が、
心の法則と物質の法則との調和である。

天災地変や列(汽)車の顛覆が起こっても大丈夫と云うのではなく、
天災地変や列(汽)車の顛覆の所などへ立ち寄らぬ様になるのが
心の法則と物質の法則との調和である。

            <感謝合掌 令和3年7月27日 頓首再拝>

法則は神の顕現 - 伝統

2021/08/08 (Sun) 04:53:17


           *「光明法語」(8月8日)より

人間の頭脳が、自然を研究するに従って
それを支配する法則が段々徐々にわかれば、
自然を構造したところの知性(神)は、
吾々人間の頭脳知よりも遥かに発達した知性であると言わなければならない。

「神」と言うと迷信くさく思う人があるが、
「法則」と言えば、科学者も信仰しているものである。

『甘露の法雨』には、神の事を「宇宙を貫く法則」と書かれている。
すべての事物は法則によって支配されている。

併し法則をば必ずしも「物質法則」に限る必要はない。

            <感謝合掌 令和3年8月8日 頓首再拝>

物質科学の目的 - 伝統

2021/08/14 (Sat) 04:45:19


           *「光明法語」(8月14日)より

物質を研究する科学は、その研究が次第に深くなるに随って、
その奥に横たわる法則や秩序や、智慧なしには構造することが出来ない
微妙複雑なる構造に、驚異の眼(まなこ)をみはるに到り、

此処についに、
物質の奥底にあって一切のものを構造する本源者「霊なる神」を
みとめずにはいられなくなるのである。


凡(およ)そ「法則」とは神が人間にわざと利用しやすきよう、
常に普遍妥当なる形においてあらわれたものであって、
結局「法則」を研究する科学は神を研究することになるのである。

            <感謝合掌 令和3年8月14日 頓首再拝>

宇宙の一貫不動性の法則に波長を合わす - 伝統

2021/09/16 (Thu) 04:52:31


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月16日)より

宇宙には動かすべからざる法則が支配しているのである。
その法則は人間が作った法律のようにごまかしたり、
くぐり抜けたりできぬものであり、
絶対に終始一貫かわらざるものであるのである。

もしこの宇宙の法則の一貫不動性というものがなかったならば、
太陽系統は成り立たず、人類の生活は成り立たないことになるのである。

終始一貫性はある意味では純潔の美徳であり、
ある意味では誠実の美徳である。

宇宙は純潔と誠実との美徳によって支えられている
というも過言ではないのである。

人間もこの宇宙に存在する以上、誠実と純潔との美徳なければ、
大宇宙の生活と波長が合わないのである。

人生に繁昌成功せんとするには純潔と誠実とが必要である。

          <感謝合掌 令和3年9月16日 頓首再拝>

因果応報の法則 - 伝統

2021/09/17 (Fri) 04:52:33


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月17日)より

宇宙の終始一貫せる法則の中には、因果応報の法則がある。
原因あれば必ず結果があるという法則である。

いかに狡猾に原因だけを造っておいて、結果だけをのがれようと試みても、
結果は早いか遅いか、あるいは他の形態をもってするか、
いずれにせよその人に報いてくるのである。

イエスが5つのパンと小さき肴(さかな)2つを5千人に分け与えて
なお12の籃(かご)にパンの余りが残っていたという奇跡が行なわれたときに、
なぜそのような奇跡があらわれたのであろうか。

それは愛のゆえに分け与えたこと、
そして「廃(すた)るものなきよう擘(さ)きたる余りを集めよ」
というイエスの教えを実行したからである。

無限供給を念じさえするならば、物の余りを粗末にしてもさしつかえない
と思うのはまちがいである。

             <感謝合掌 令和3年9月17日 頓首再拝>

《因果昧まさず・平衡の法則》 - 伝統

2021/10/11 (Mon) 04:55:37


        *『 理想世界 』(昭和43年7月29日の法語)より

   「平衡の法則」が厳然として作用することを知るならば、
   危機は国外にあるのではなく、国内にあることを知らねばならない。

   毎年三百人の胎児を虐殺してきて平然たるように国民を規制している
   優生保護法を改正することをしないで、ベトナムの戦争が悲惨だなと
   言っているのは、自己の良心を晦まして注目を他に移しているに過ぎない
   のである。

   大人は自己の快楽を愉しむために、弱者(胎児)を殺しても良いという様な
   卑怯な残虐を天網がいつまでも許していることはないのである。

   それを改めなければ日本の大人の大部分が胎児と同様一網打尽的に
   災害を受ける時が来るのは「平衡の法則」によるのである。

   それが天災の形で来るか、人災の形で来るかは私は知らないが、
   悔い改めねば、因果の法則によって必ず来るに相違いない。

    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7756090

             <感謝合掌 令和3年10月11日 頓首再拝>

【作用と反作用の法則】 - 伝統

2021/10/14 (Thu) 04:43:41


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2021.10.12)より

   (アンソニー・バーグランド氏の心に響く言葉より…)

   あなたは毎日、自分で意識するかどうかに関係なく、
   世の中になんらかの働きかけをし、
   その結果を受け取っています。

   たとえば、人に親切にすれば笑顔が返ってくるし、
   不親切にすれば冷たい反応が返ってきます。

   これは「作用と反作用の法則」と呼ばれるものです。

   作用と反作用のあいだには時差が生じることもありますが、
   誰もこの法則を逃れることはできません。


   自分が幸せになりたいなら、
   世の中によい働きかけをしなければなりません。

   自分さえよければそれでいいと思って
   世の中によい働きかけをするのを怠れば、
   遅かれ早かれその報いは自分に返ってきます。

   それは個人だけではなく企業にもあてはまります。

   社会に貢献する企業は長期にわたって繁栄を享受しますが、
   人を不幸にしてでも儲かればいいと考える企業は
   一時的には繁栄してもやがて必ず衰退します。


   世の中によい働きかけをしましょう。

   我欲を捨てて
   人びとの喜びと幸せのために奉仕する精神を持つことです。

   奉仕の精神を実践すればするほど、
   あなたはやがて物心両面で豊かになります。


   アインシュタインは、こう言っています。

   「人間の最も崇高な行為は、支配することではなく奉仕することである」


   《自分の幸福だけを考えていると、不幸になる
     他人の幸福を考えれば、自分も幸福になる。》

     <『人生が変わる習慣』ディスカヴァー
                https://amzn.to/3oXOKHo

          ・・・

稲盛和夫氏が「成功の要諦(致知出版社)」という
本の中で、『シルバー・バーチの霊訓』について書いてあった。


『昔、ロンドンのある町医者が友人10人ほどを呼んで、
 毎週末、自宅で交霊会をやっていました。

 町医者自身が、自分の身体に霊魂を呼び入れられる
 霊媒(れいばい)だったのです。

 その交霊会には、いつもシルバー・バーチと名乗る
 アメリカインディアンの霊が出てきます。

 その霊の言葉を集め出版されたのが『シルバー・バーチの霊訓』です。

 私は当時から先進国であったイギリスの首都ロンドンで、
 しかもインテリである医者が霊媒になって交霊会をしていたという
 事実に興味を引かれてこの本を入手したのですが、

 その中にわずか数行ではありますが、
 因果応報について述べているところがありました。

 シルバー・バーチの霊は言います。

「因果応報を疑っている人もいるだろう。
 だが、私がいるところから、みなが生きている現世を見ると、
 一分一厘(いちぶいちりん)の狂いもなく、
 原因の通りの結果が出ている」』


あの世の世界から見ると、一分一厘の間違いもなく、
「因果応報の法則」が発生するという。

「因果応報の法則」とは、
善いことをすればよい結果が生じ、
悪いことをすれば悪い結果が生まれるということ。


まさに、「作用と反作用の法則」だ。

「感謝すれば感謝される」
「許すものは許される」
「愛すれば愛される」
「嫌えば嫌われる」
「憎めば憎まれる」…。


それを小林正観さんは、宇宙の法則として
「投げかけたものが返ってくる(投げかけないものは返ってこない)」という。


「投げかけたものが返ってくる」

どんなときも、善きことを投げかける人でありたい。

             <感謝合掌 令和3年10月13日 頓首再拝>

摂理と云うこと - 伝統

2021/10/27 (Wed) 04:50:40


          *「光明法語(10月27日)」より

神の波長に合わぬと言っても、その場合、神が人間を罰し給うのではないのである。
光に対して眼をつぶっている者が「暗い」のは、神罰ではなくして、
理としてそれが出て来るのである。

そして「暗く」して打突(ぶつ)かり、頭を打って痛いと思って、
その人が眼をひらいて、そして方向転換するのは、

神が頭をなぐったのではなくて、自分が頭をぶつけたのであり、
そして自然に眼がひらくのは、「理」として自然に来るのである。

これを「摂理」と言う。
不幸に出遇(であ)ったと思っている時に神の導きがある。

             <感謝合掌 令和3年10月27日 頓首再拝>

「理」にしたがって、心の通りの姿が、肉体や境遇に反映してあらわれる - 伝統

2021/10/28 (Thu) 04:46:55


          *「光明法語(10月28日《神罰ではない》)」より

病気をした為に神を知ったと言い、災難を受けたために神信心をするようになった。
これは神の導きであったと言う人がある。

これは摂理であり、「理」であり、神が自由意志をもって、導かんがために、
病気や不幸を課したのではない。

「理」にしたがって、心の通りの姿が、肉体や境遇に反映してあらわれるのである。
眼をとじていれば暗いが、その暗いのは「理」に従って暗いのであって、
神罰によって暗いのではない。

暗くて頭を打つのも「理」にしたがって頭を打つのであって神罰ではない。

             <感謝合掌 令和3年10月28日 頓首再拝>

「理」は神から来る - 伝統

2021/10/29 (Fri) 04:52:42


          *「光明法語(10月29日)」より

「理」はどこから来たかと言うと、神から来たとも言える。
しかしそれは神罰と云うものを課するために神がつくったものではなく、
むしろ神御自身が人間によって利用できるように
「一定不変」の形になってあらわれ給うたものである。

自然界の法則も同じである。
神は「自由の本体」であるから変幻自在である。
しかし「変幻自在」では人間は神を利用することが出来ないのである。

それで神は一定不変の法則となり、一方では「科学の法則」となり、
一方では「心の法則」となってあらわれたのである。

          <感謝合掌 令和3年10月29日 頓首再拝>

「理」に順応せよ - 伝統

2021/10/30 (Sat) 04:52:24


          *「光明法語(10月30日)」より

高圧電線に触れて傷つくのも、機械の歯輪(はぐるま)にはさまれて傷つくのも、
食い過ぎて胃を悪くするのも、「科学の法則」にふれたからである。

腹が立ったり、悲しんだり、取越苦労をして
病気になるのは「心の法則」にふれたからである。

食いすぎて胃病になっても別にそれは神が罰を当てたのではない。
それは「理」によってなっているのであって、「理」に逆らったからに過ぎない。

省みて「理」に順応して、高圧電線にふれる時にゴムの手袋をはめ、
歯輪(はぐるま)の間に手を入れず、食べすぎねば傷つくことはない。

          <感謝合掌 令和3年10月30日 頓首再拝>

《神から功徳を得るには神の法則に従わねばならぬ》 - 伝統

2022/02/28 (Mon) 05:06:05


           *「光明法語」(2月29日)より

電気の働きによって、電燈を得、電熱を得るためには、
吾等は電気の法則に従わねばならぬ。

神の働きによって色々の功徳を得る為には、吾々は神の法則に従わねばならぬ。
神の法則とは、『与える通り与えられる』と云うことである。

若し与えられなかったら祝すべきである。
それはなお天の倉に蓄えられて増殖しつつあるのだからである。
その報いが遅ければ遅いほどそれは複利計算で神様から利子がつけられるであろう。

一方に与えて置いたら、軈(やが)て予想もしない他のところから
無限の供給がやって来ると云うことである。

          <感謝合掌 令和4年2月28日 頓首再拝>

《神は法則である》 - 伝統

2022/04/26 (Tue) 07:25:19


      *「光明法語」(4月26日)より

神は法則である。
『甘露の法雨』には「神は宇宙を貫く法則」であると書かれている。

法則は秩序である。秩序性は一定の規則があると云うことである。
生命は一定の秩序あるところのみ出現し、秩序が破るれば生命は姿を消すのである。

動物は本能によって其の秩序性を守って生活し、
人間は自主的統制によって其の秩序性を守って健康に生活する。

人間の自由とは無秩序のことではなく、
自由意志と自由選択とによる完全なる自己統制である。

孔子の所謂(いわゆ)る「心の趣く所に随って矩(のり)を超えず」である。

          <感謝合掌 令和4年4月26日 頓首再拝>

「神は法則である」と云うことを知り、法則にまかせる - 伝統

2022/04/28 (Thu) 08:01:12


       *「光明法語」(4月28日《信仰の本質は「知る」にある》)

神に対する信仰を深めるためには、神は法則であると云うことを先ず知ることである。

種子を植えるにしても、それが必ず生えるという信仰がないと
種子を途中で掘り返して結局芽が出ないであろう。

それと同じく、神を信ずると云うことは、
法則が先ず此の世界を支配していると云うことを「知り」、
法則にまかせると云うことである。

即ち「知り」て「まかせる」のが信仰であって、
信ずるとは「知らないから、出鱈目に信ずる」と云うような
アヤフヤなものではないのである。

信ずるとは「真に知る」ことである。

          <感謝合掌 令和4年4月28日 頓首再拝>

《神は法則であり偏頗はない》 - 伝統

2022/04/30 (Sat) 07:19:50


       *「光明法語」(4月30日)より

種子(たね)を植えて恐怖なしに土地に委ねることが出来るのは、
法則が支配していることを知っているからである。
法則の支配を信じなければ恐怖するほかはない。

神は法則であり、蒔いた種子の通りの芽を出さしめるのであり、
例外なしにそうであるから吾々は恐れる必要がないのである。

罪人が蒔いても善人が蒔いても法則によれば同じ種子には同じ植物が生えるのであるから、
どんな罪人も、善き種子をこれから蒔けば善き植物が間違いなく生ずるのである。

何も恐るることはないのである。
神は法則であり偏頗(へんぱ)はない。

          <感謝合掌 令和4年4月30日 頓首再拝>

《進歩の法則に支配されている人生》  - 伝統

2022/05/08 (Sun) 07:26:21


        *「光明法語」(5月8日)より

人生は進歩の法則、無限生長の法則によって支配されているのであるから、
旧態依然たるものは、次の新しきものによって取って代わられる。

商売のやり方でも、旧態依然たるものは新しき経済戦術によって
新商売をやる者には必ず圧倒される。

かくて職業を失うに到るとも、職業を失う者は幸いなるかな。
神は彼に新しき職業と、新しき環境を与え給うことによって、
新しき面から、彼の魂をみがき得る機会を与えたまうのである。

旧生活の破壊に失望することなく新しき位置と職業を与え給えと祈れば好いのである。

          <感謝合掌 令和4年5月8日 頓首再拝>

ワンランク上の因果の話 - 伝統

2022/05/20 (Fri) 06:42:55

幸運の近道切符・斎藤一人さんのひとり言(2021/06/03)
https://www.youtube.com/watch?v=ZuAxts6iNvE

          <感謝合掌 令和4年5月20日 頓首再拝>

神は人格であると同時に法則である - 伝統

2022/06/08 (Wed) 07:19:09


       *『光明法語』(6月8日)より

親がその子に対して、善きものをあたえたくない場合を考えて見れば、
その子が親不孝の場合である。

間断なく親の言い付けに叛(そむ)き、親の意志に反して、与えたる富はただ他を害する為
のみに使う様な場合には親はその善きものを与える事をさし控えるであろう。

それは神を擬人的に人格的に考えたのであるが、神は人格であると同時に法則なのである。
その両面を見落としては真に神を理解したことにはならない。
神は超個性的法則であると同時に人間的な人格を備えてい給う。

それ故に神の子なる人間も人格を備えているのである。

        <感謝合掌 令和4年6月8日 頓首再拝>

《神の法則は人間を豊かにするにある》 - 伝統

2022/07/06 (Wed) 07:30:54


       *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P247~248)より

神の法則は、神の子たる何人(なんぴと)も、、
神の子らしく豊かに生活し得ると云う事でなければならないのです。

神は決してケチではありません。
神は決して空気を、吾々が吸い過ぎたら足りなくなるような
丁度一パイと云う風には与えておられません。

海の水も吾々が飲み過ぎたら足りないと云うように
少なくは与えられておりません。
海水は冷凍すれば、純水のみが析出されて飲料となります。

日光もゆたかに与えられていて、
あまり物を干(ほ)しすぎたら足りなくなると云う風には
少なくは与えられておりません。

現在の世界の貧窮状態は神の供給が実に豊かである
と云うことを自覚しないで、神の物資を一方に停滞させて
融通無礙を妨げているその結果として
斯(か)くあらわれているのであります。

神の無限供給を信じて、働きを与え合い、物資を分ち合いさえすれば、
無限の物資は次から次へと恵まれて来るのであります。

        <感謝合掌 令和4年7月6日 頓首再拝>

物理化学的法則と精神の法則 - 伝統

2022/07/22 (Fri) 07:15:09


       *「光明法語」(7月22日《生長の家と科学》)より

生長の家は科学を否定しない。
寧ろ精神と物質との間に科学的法則を見出す。
だから精神科学といわれる所以である。

今迄は物質と物質の間のみに法則を見出して、
精神と物質との間に相互の因果関係があると云う事を忘れていた。

物質の法則の上に精神の法則の優位があるのは、
ただの物理化学的法則以上にそれに精神が働きかけた時、
物質はただの物質ではなく肉体となり、霊妙なはたらきを現し、
自然の物理化学的変化以上を有意志の変化にかえて了(しま)うのである。

        <感謝合掌 令和4年7月22日 頓首再拝>

法則とは何ぞや - 伝統

2022/07/23 (Sat) 08:15:51


       *「光明法語」(7月23日)より

法則とは物理化学の法則でも、精神の法則でも、神のはたらきの「道」である。
かかる「道」を通って、霊が、生命が、はたらくのである。

霊が、生命が、創造力が、働くところの「道」「方法」を知らないときに
吾々は生命の創造力の「道」に邪魔物を、知らず識(し)らずに置くことになる。
そこに生命の創造力は閉ざされ、病気を生じ、不幸を生じ、禍を生ずることになる。

科学とはかくの如き「道」を発見して、
生命の創造力を豊かにる流露(るろ)せしめんがためのものである。

        <感謝合掌 令和4年7月23日 頓首再拝>

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