伝統板・第二 2533494

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審判(さば)く心なかれ ②

1:夕刻版 :

2020/04/22 (Wed) 20:26:08

    *伝統板・第二「審判(さば)く心なかれ」からの継続です。
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6972631



《人の心の傷を突衝(つつ)くな》

         「光明法語」(4月22日)より

スター・デーリーはどんな強盗の首魁(しゅかい)でも
彼の名前を聞けば顫(ふる)え上がる程に、膽(きも)の据わった泥棒であった。

併し獄舎の中で大衆を相手に説教しようと演壇にたった時には、
その膽の据わりはどこへやら、ボーッとして周囲が見えなくなり、
一語も発する事が出来ない程に恐怖心を感じたのであった。

生命(いのち)の奪い合いでは恐れないデーリーが演壇が恐ろしいのは
臆病のせいであろうか。
時として人には到底克服出来ない嫌悪や不快や恐怖をいだく心の傷があるものである。
そう云う心の傷は労ってやるべきで攻撃すべきではない。

            <感謝合掌 令和2年4月22日 頓首再拝>
2:伝統 :

2020/06/13 (Sat) 19:06:58


       *『 生長の家 』(昭和26年5月15日の法語)より

外見にあらわれている悪(病気、悪意、不調和等)を
存在すると思ってはならないのである。


それは実在するのではなく、「あらわれ」ているに過ぎないのである。

「あらわれ」と云うものは相対的関係で、そう見えるに過ぎないのである。

こちらの心が変われば「あらわれ」は変化して見えるのである。


あらゆる病気、不調和、悪意などは、神が創造らないのであるから、
真に存在するものではないのである。

現象(あらわれ)を見て心がひっかかってはならない。


人を審判く心は、痛みや、狭窄(きょうさく)や、胃潰瘍や、出血性の病気や、
高血圧病の原因である。

            <感謝合掌 令和2年6月13日 頓首再拝>
3:伝統 :

2020/06/17 (Wed) 20:58:44


        *Web:かんながら(2020.03.23)より


もし誰かから

「愛とは何ですか?」

と聞かれたとしたら


「愛とは裁かないこと」

と答えることだろう。



愛とは裁かないこと


愛ではない人たちは、朝から晩まで何かを、そして誰かを裁いている。

もちろん自分自身のことも。


それがあまりにも日常化しているので、
自分がそうしていることに自覚を持てていないことが普通だ。

無意識に繰り返されているから。


このような中で生きていると、
反転して自分が他人に裁かれることが怖くなる。

これが「他人の目」の正体だ。


他人の目から自由になるには、自分の中から裁きを捨てること。

早い話が、愛は他人の目が消えているのだ。


人が自然体でいられないのは、愛がないから。

人が率直に言葉を伝えられないのは愛がないから。

そして愛の反対が怖れだ。

自然体でいられないのも、率直になれないのも、すべて怖れから生じている。



特に日本と言う国は、裁くということに魅了されている。

TVを見れば正義の人たちが、生贄を断罪する。

それが悪いというのではなく、視
聴者の娯楽として人気があるからそれはそれでいい。


しかしその娯楽性はあまりにも暗い。

なぜそれが娯楽になるのかは、長くなるからまた別の機会に説明しよう。


ちょっと想像してほしい。

もしあなたが誰からも裁かれないとしたら、どんなに自由かと。

その自由の中に愛が育つ土壌がある。

怖れの土壌には、愛は育たない。

ここがジレンマだからリトリートのような機会が必要になる。


僕はいつか、愛の村を建設するかもしない。
そこに暮らすたった一つの条件は愛だ。

たとえば今日の話で言えば、裁かないようにすることではなく、
裁きが消えた人たちによる共同体。

いまの社会が人間を幸せにしないことを知った以上、
幸せな社会の成功例を作ってみたい。

そのためには深い洞察と、人間としての成熟が求められる。

その成熟が愛だ。

    (https://abetoshiro.ti-da.net/e11486331.html

            <感謝合掌 令和2年6月17日 頓首再拝>
4:伝統 :

2020/12/02 (Wed) 23:38:54


           *「光明道中記」(12月2日)より
            ~真理を諦(あきら)かにする日

  【善業を積むとは私的でない利己的でない行いをすることである。
                       (『生命の實相』第二巻)】

宗教とは自分を諦(あきら)め行く真理である。

諦めるとは自分を思いあきらめてしまうことでもなければ、
自分を誤魔化すことでもない。
人間は時とすると、対向者が出て来る場合には、相手の欠点を探すために、
自分の手許がお留守になることが有り勝である。

そんな時に其の人は相手から打ち込まれて、お面(めん)をとられ、
お小手(こて)をとられても知らないで、まだ偉そうに構えている事がある。

多くの剣道の名人は、塚原卜伝もそうであったように、
敵を斬(き)るために剣を学ばず、
ただ自分を完(まっと)うせんがために学ぶように教えたのである。

剣でさえも、敵を斬るために学ぶのではなく、
自己を完うせんがために学ぶのである。

では真理は人を批(う)つために学ぶのではなく、
自己を完うし更に人をも完うせんがために学ぶのである
と云うことを知らなければならない。

他の欠点を斬り審判(さば)こうと思っている限りに於て
自分の欠点に気が着くものではない。

時々地方の支部から、近接地の支部のやり方の悪いことを指摘して、
「何とかして貰わないと、あれではあの行持(おこない)では、
羊頭(ようとう)を揚げて狗肉(くにく)を売るものです。
光明を揚げて暗黒を売るものです」と云う報(しら)せを頂く。

欠点と云うものは指摘して直るものなら簡単だが、
唯、私は泪(なみだ)を嚥(の)むほかない。

         <感謝合掌 令和2年12月2日 頓首再拝>
5:伝統 :

2020/12/03 (Thu) 23:40:02


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月3日)より

どんな善いことが書いてあっても、
それが自分の魂を養う糧だとして受け取ることが
できない人は気の毒な人である。

甲は曰く、
「これは乙を誡(いまし)めるために書いてあるのだ。
 乙の野郎奴(やろうめ)、先生に誌上でやっつけられている、よい気味だ。」

乙は曰く、
「これは甲を戒(いまし)めるために書いてあるのだ。
 甲の野郎奴(やろうめ)、この文章を見て反省するがよい。」

こんな心境で読んだら、
どんなよい教えでも人を争わす種になるばかりである。

わたしはただ真理を書くのみであって、
何人(なんぴと)をやっつけるために書いているのではない。

真理はそれ自身で尊いのである。

         <感謝合掌 令和2年12月3日 頓首再拝>
6:伝統 :

2021/01/15 (Fri) 20:52:14


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月15日)より

いいかげんな聴きようをして、物事を批評してはならぬ。
紙1枚の差が霄壤(しょうじょう)の差である。
今日一日ひとを審判(さば)かないようにしたいものである。

ものの善し悪しは、よくその結果の良否を見て判断しなければならぬ。
この点において「果実を見てその樹(き)の善悪(よしあし)を知れ」
と言ったキリストは正しい。

「この畳のありてこそ、やぶれたるかやぶれざるかのいうことはあれ、
本来無(な)からん畳をば何とか論ずべき、持戒もなく破戒もなし。」
                     (伝教大師『末法燈明記』)

            <感謝合掌 令和3年1月15日 頓首再拝>
7:伝統 :

2021/01/29 (Fri) 00:48:50


       *「光明法語」(1月28日)より

人をさばくこと勿れ。
人はそのことばや行ないによってさばいてはならないのである。
實相に於いて彼を見なければならないのである。

人を實相によってよき人であると見ることが出来たならば
その人はよき人と現れるのである。

もしその人がよき人と現れなかったならば、それは相手が悪いのではなく、
自分自身が實相を見る力の修練が足りなかったからなのである。

あらゆる人間にキリストなるものが宿り、佛性が宿り、
すべての人間が神の子であり、佛の子であることを自覚する時
どこにも悪しき人はいないのである。

            <感謝合掌 令和3年1月28日 頓首再拝>
8:伝統 :

2021/02/21 (Sun) 00:15:01


         *「光明道中記」(2月20日《雪が融ける日》)より 


【他が自分に対して薄情である場合は、自分自身に何か暗い冷たさがある思え。
                      (『生命の實相』第四巻)】

温かいストーブの周囲にはおのずから人が集る。人を拝めば人が集る。

荒木松衛さんが、熊本県立白川学園と云う不良児の感化院で
園長をしていられたときに一人の生徒が脱走した。

その時、荒木さんは風邪を引いて寝ていられたが、

「私の懐は温かいのだ。生徒よ帰って来い。
私はこの温かい心で汝を抱擁するのだ」

という意味の思念をせられたら、
脱走した生徒が急に帰園したくなって帰って来た
という話を聞いたことがある。

若し、他が自分に対して薄情であり冷淡であるならば、
それは自分の中に「温かさ」がないからである。
暗い冷たい世界からは何人(なんぴと)でも逃げ出そうとするものである。

また内心に温かいものを持ちながらでも、
他(ひと)を責め、人を指す心を起すとき、
それは相手を追い出す心になる。

如何に多くの愛深き妻が、良人を責める心を起したがために、
その良人が堕落の淵に堕ちたであろう。

だから「他を責める心、人を刺す心は人を逐(お)い出す心」
(『生命の實相』第二巻))であり、

「他の欠点をあげたい心が既に神に背(そむ)いた心である」
(『生命の實相』第五巻))と示されている。

            <感謝合掌 令和3年2月20日 頓首再拝>
9:伝統 :

2021/04/08 (Thu) 00:36:33


       *『 生長の家 』(昭和49年4月7日の法語)より

   【 祈り 】

   【 神は“ 人を審くこと勿(なか)れ、
   人を秤(はか)りたる量目(はかり)にて
   また汝も審かれん ” と仰せられました。

   私は今後、決して人の善悪を現象の姿を見て
   判断しようとは思わないのである。

   すべての人間は “ 神の子 ” であり、
   悉く皆、神の善徳を、実相のうちに
   包蔵しているのである。

   私は常に人を観るに、その実相完全の姿のみを観て、
   感謝し礼拝し讚嘆するのである。

   それ故に、人もまた私を見るのに、実相の円満完全な姿のみを見て、
   私を賞め讚え礼拝してくれるのである。

   その結果、私には、常に一層実相の完全な相(すがた)があらわれ、
   一層よくなるほかはないのである。

   ありがとうございます。 】


   あなたが若(も)し人を見て、その欠点を見出し、
   それを批難し攻撃したい感情が起って来たならば、
   此の祈りを思い出しなさい。

   そして、“ 私は神の子 ” であるから、
   人を見るのに神の子なる実相のみを
   観ることが出来るのである。

   人の欠点を観て、それを攻撃批難しようという心が起って来たのは、
   これは私の“ 本当の心 ”(実相の心)ではない。

   それは“ ニセモノの心 ”であるから、
   そんな心の惑わしに引っかかる事なく、
   あの人の実相の完全を観る力を私は本来授けられているのである
   と思い返して

   あの法華経にある「 常不軽(じょうふきょう)菩薩 」のように、
   現象の姿を一時見ないために肉眼をとじて、
   心に相手の完全な相(すがた)を描いて
   心で礼拝し讚嘆するようにつとめなさい。

   屹度(きっと)相手たるその人の性格や行動に変化が起り、
   立派な人になって頂けます。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=125

            <感謝合掌 令和3年4月7日 頓首再拝>
10:伝統 :

2021/04/14 (Wed) 19:31:43


       *『白鳩』昭和47年4月号より

   聖典の読み違いがあってはいけない ― 悪を否定し善を肯定する審判
 
   ある誌友が肺結核をわずらっていたが、
   『生命の實相』 の “人間無病の哲学” に触れて癒された。 

   そこで歓喜し報恩のために、この人は地方講師の試験をうけて、人々を指導し、
   かれによって救われた人もたくさん出て来たのであるが、

   此の人はある日キリスト教の聖書の 
   『マタイ伝』 にある山上の垂訓を読んだのである。 

   それにはこのように書いてあった。

   「なんじら人を審くな。 審かれざらん為なり。 
   己がさばく審判きにて己もさばかれ、己がはかる量にて己も量らるべし。 
   何ゆえ兄弟の目にある塵を見て、おのが目にある梁木を認めぬか」

   これを読んだとき此の人は心が痛んだのであった。 

   この人は病人を指導する際に、「あなたの此の心の持ち方が悪い」 といって
   その心の欠点や感情の歪みを指摘し、それを是正させることによって
   多くの病人を癒して来たのであった。

   併し爰には、イエスは 「なんじ人を審くな」 と教えていられる。 

   「審く者は審かれるのだ。 私は神の審判をまぬがれることは出来ない」 
   かれは斯う思うと、もう人を指導することが出来なくなり、
   心が自責に満たされてどうすることも出来なくなった。 

   そしてその後は心が内向的になり陰気が内に篭るようになり、
   それが肉体に具象化してついに肺結核の虜となって死んでしまった。


   これは聖書の読みちがい、意味のとり間違いから来ているのである。 

   自分の立っている心の立場から見て、
   自分ひとり善しとして他を批難攻撃する場合は、
   その審きはよくないのである。

   それ故に 「何ゆえ兄弟の目にある塵を見て、
   おのが目 〈自分の見る立場〉 にある梁木を認めぬか」 
   とイエスは続いて説いていられるのである。

   「ここは正しい道ではありません」 と真理の立場から
   盲目の人の歩む道を正しく導いてやる審きは、神の愛のあらわれなのである。

 
   人を審判いてもよい場合があるのである。

   それは梁木が視界を曇らせている自分の心の目で見ないで、
   真理の輝く目で 〈真理の立場から〉 見て、

   これは真理、これは非真理と審判するのは、
   善と悪とを明瞭にし、実相と仮相とを区別し、

   悪が 「われ存在す」 と主張するのを、
   「悪を神はつくらないから、如何に悪があるかの如く姿を
   あらわすとも、汝は存在しないぞ」 

   と審判を下す。

   これこそ正しい審判であり、イエスは常にこの種の審判を為し給い、

   ラザロの 「死」 があると自己主張するときも、「死せるに非ず、眠れるなり」 と 
   “死” を否定する審判をすることによって、
   ラザロを復活せしめたりしていられるのである。

   そして最も正しき審判は 「キリストの再臨による最後の審判」 であるが、
   この 「最後の審判」 についての正しき解釈は  
   『秘められたる神示』 の本の中に詳しく書いたから参照せられたい。

      http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/18921530.html (消滅)

            <感謝合掌 令和3年4月14日 頓首再拝>
11:伝統 :

2021/04/21 (Wed) 13:54:21


         *「光明法語」(4月21日)より

若し彼が聖フランシスがしたように、また光明皇后がなし給うたように、
癩(らい)病患者の膿血に接吻する事が出来なかったならば、
彼の愛は乏しいのであるだろうか。

人間には生れつき、又は或る習慣的な後天的な影響から、
迚(とて)もそれに触れることが出来ないところの、
見るだけでも慴気(おぞけ)を顫(ふる)うような相手があるものである。

或る人は蚯蚓(みみず)が恐ろしくて触れることが出来ない。
或る人は蜘蛛(くも)が恐ろしくて触れることができない。
そのように或る人は到底癩(らい)病患者に触れることが出来ないのである。

            <感謝合掌 令和3年4月21日 頓首再拝>
12:伝統 :

2021/06/29 (Tue) 00:09:56


          *「光明道中記」(6月28日)より抜粋

【わが教は審判く道ではないのだ。礼拝の道だ。包容の道だ。
                  (『生命の實相』第十一巻)】

自己を高く見せる為に他を鋭くさばくものは禍(わざわい)なるかな。
高く上らんとする者は低くせられ、
謙(へりくだ)りて栄えを神に帰する者は高くあげられん。

世の禍の因(もと)の80%は嫉妬心なり。
嫉妬心は比較の心なり、相対心なり。相対的価値は、見る立場によって変化す。
相対的価値によって高く挙げられたるものは、相対的事情の変化によって低く
貶(おと)されん。

されば人を相対的価値によって論議する勿れ。

            <感謝合掌 令和3年6月28日 頓首再拝>
13:伝統 :

2021/07/27 (Tue) 13:58:13


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2021.02.23)より

   (元ノートルダム清心学園理事長、渡辺和子氏の心に響く言葉より…)

   「外見と心」、この二つも必ずしも相反するものではない。

   私たちは相手に見せることの出来ない心を、
   物で表し、態度で示し、言葉に表現して相手に伝えようとする。

   これは、心と体を併せもつ人間の宿命といえる。

   キリストがお嫌いになったのは偽善であった。

   醜いものを内にもっていながら、もっていないかのように見せかけ、
    人の弱さを糾弾するファリザイ人、偽善者たちに対して、

   キリストはあからさまに、その嫌悪を示された。


   ある日のこと、姦淫の現場を押さえられた女性が
   キリストの前に引き立てられてくる。

   モーゼの律法に従ってこの女を石打ちの刑に処すべきか、
   それとも憐みをかけて釈放すべきかと、
   ファリザイ人たちはキリストに、二者択一を迫る。

   釈放せよと言えば、神の掟をないがしろにすると責められるであろうし、

   石打ちにせよと言えば、日頃、罪人を赦せ
   と説いている自らの訓えに背くことになる。

   この、絶対絶命の窮地を、キリストは相手の意表を突く返答で切り抜け、
   さらに、人間の行動に先立つ心、目に見ない思いこそ、
   裁かれるべきものであるということをものの見事に示されたのであった。


   「あなたたちの中で、罪のない人がまずこの女に石を投げなさい」

   キリストは、この女をどうするのかとの問いには答えず、
   石を投げる“資格”を相手に問いただしている。

   それに応えるかのように、石を投げることなく、
   一人去り、二人去って、残ったのは、
   女とキリストだけになった時、キリストは女に向かって、

   「私もあなたを罰しない。行きなさい。これからはもう罪をおかさないように」

   と言われたのであった。


   ただ一人、女に石を投げる資格をもっていたにも
   かかわらず、キリストは投げなかった。

   しかし、厳しくさとしている。

   「これからはもう罪をおかさないように」

   罪そのものに対しては厳しく、罪人に対しては、
   あくまでも優しいキリストであった。

   「私がいつも、この度のように、助けてやれるわけではないのだよ」

   と、きっとキリストのまざなしは語っていたことであろう。

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          ・・・

昨今、マスコミやSNSで芸能人や有名人の罪を
必要以上に攻める傾向がある。

キリストの言うように、「我々の中で、罪のない人がいるだろうか?」。

自分のことをさておいて、人の罪ばかりをなじったり、
非難するのは、あまりに無責任すぎる。

他人事だとよけいに激しい言動になるのは、
マスコミやSNSの常だが、それにしても人を傷つける言葉が飛び交っている。


終戦直後、日本ではこんな事件があった。

1947年(昭和22年)10月、東京地方裁判所の
山口良忠判事(34歳)が、栄養失調のために死亡した。

法律違反の闇市で食料を買うことを拒否し、
正式な配給の食料だけで生きようとしたためだった。

山口判事本人は、闇市で食料を売ったり買ったりしている
庶民を「食糧管理法」違反で裁く立場にあったので、
法律を守る立場から、法律違反のヤミの食料に
手を出すわけにはいかないと考えた。

つまり、日本国民は当時、山口判事以外はすべて闇市で
食料を購入するという法律違反をしていたということだ。


現代でもそれは同じだ。

どんな小さなことであれ、法律違反を一度もせず、
人の道に反する道徳規範を破っていない、
と言いきれる人はひとりもいないだろう。


「裏を見せ 表を見せて 散るもみじ」という良寛さんの歌にあるように、
人は、善と悪、正と邪、真と偽、明と暗、陽と陰、実と虚、等々の「裏と表」を見せ、
それらを時によりさらけ出して生きている。

罪は厳しく問われるべきだが、
「そこから先は神の領域」なのかもしれない。


誰かを非難したくなったとき、我が胸に手を当てて自問したい…

人を裁く資格があるのだろうか、と。

            <感謝合掌 令和3年7月27日 頓首再拝>
14:伝統 :

2021/08/12 (Thu) 01:45:57


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月11日)より

人間たちが互いに憎み合い、互いに悪口を言い合うのが
わたしには不思議でたまらないのである。

憎みや悪口の中には地獄があり、
愛と讃め言葉の中には天国浄土があるということを知っていながら、
それらの人々は憎み、かつ悪口を言い合っているのである。

互いに排斥し合う者は「生長の家」の誌友ではないのである。
いわんや「生長の家」の講師ではない。
それは地獄の役員であり、閻魔の庁の衛丁(えいてい)ぐらいのところだろう。

「生長の家」のためにならないからといって、
ある人を排斥するのはまちがっている。

「生長の家」はそんな小さなものではない。
生長の家のためにならない人間などは世の中にないのである。

毛虫でさえも世の中に何か貢献している。
いわんや毛虫に幾億倍優っている人間においておやである。
ある人間を毛虫のように思って排斥する人は、
その排斥する方の人自身が毛虫のような心をもっているのである。

毛虫が人に嫌われるのは、自分を衛(まも)るために
人の不快がる装いをして平気なことである。

自分を衛るために、人の迷惑になる悪口を言う人は毛虫の心である。

      <感謝合掌 令和3年8月11日 頓首再拝>
15:伝統 :

2021/09/03 (Fri) 03:47:50


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月2日)より

すべての事物は、想念の具象化であるから、われわれ自身のうちに、
自己でも他人(ひと)でも、呪ったり、憎んだり、不完全だと責める想念を
起こしてはならないのである。

この真理を、キリストは「我らに負債(おいめ)ある者を我らの免(ゆる)したる
ごとく、我らの負債(おいめ)をも免(ゆる)し給え」と祈るように教えたのである。

だいたいひとに罪を着せて、「あいつは悪い奴だ」と思っていて、
自己に幸福が来るはずはないのである。
なぜなら「類をもって集まる」「類は類を招く」のが心の法則であるからである。

「人を呪わば穴二つ」という諺のとおり「人を罪する心」をもっているかぎりは
「自分を罪する」(すなわち自分を不幸にする)何者かがあらわれて来るのである。

      <感謝合掌 令和3年9月2日 頓首再拝>
16:伝統 :

2021/10/24 (Sun) 04:18:19


        *『生長の家』(昭和23年9月4日の法語)より

また次のような 他を にくむ心を起こしてはならない。

(1)嫉妬心(しっとしん)( 人の成功ねたむ心 )。

(2)猜疑心(さいぎしん)( 人が自分に悪意や軽蔑心をもっていないかと疑う心 )。

(3)悪意。

(4)憎悪。

(5)人の不幸を喜ぶ心。

(6)人の失敗をせせら笑う心。

他に対して 憎悪、悪意、嫉妬、猜疑、人の不幸を喜ぶ心、
人の失敗を痛快に思う心を起すことは、
それは いずれも他を害する心であるから、
一種の爆弾の如く 他に悪念波を送る。

同時に 自分の内に 先ず自分を害する 「 悪念波 」 を発生して自分を害する。

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

      <感謝合掌 令和3年10月23日 頓首再拝>
17:伝統 :

2021/12/03 (Fri) 04:22:52


           *「光明道中記」(12月2日)より
            ~真理を諦(あきら)かにする日

  【善業を積むとは私的でない利己的でない行いをすることである。
                    (『生命の實相』第二巻)】

宗教とは自分を諦(あきら)め行く真理である。

諦めるとは自分を思いあきらめてしまうことでもなければ、
自分を誤魔化すことでもない。
人間は時とすると、対向者が出て来る場合には、相手の欠点を探すために、
自分の手許がお留守になることが有り勝である。

そんな時に其の人は相手から打ち込まれて、お面(めん)をとられ、
お小手(こて)をとられても知らないで、まだ偉そうに構えている事がある。

多くの剣道の名人は、塚原卜伝もそうであったように、
敵を斬(き)るために剣を学ばず、
ただ自分を完(まっと)うせんがために学ぶように教えたのである。

剣でさえも、敵を斬るために学ぶのではなく、
自己を完うせんがために学ぶのである。

では真理は人を批(う)つために学ぶのではなく、
自己を完うし更に人をも完うせんがために学ぶのである
と云うことを知らなければならない。

他の欠点を斬り審判(さば)こうと思っている限りに於て
自分の欠点に気が着くものではない。

時々地方の支部から、近接地の支部のやり方の悪いことを指摘して、
「何とかして貰わないと、あれではあの行持(おこない)では、
羊頭(ようとう)を揚げて狗肉(くにく)を売るものです。
光明を揚げて暗黒を売るものです」と云う報(しら)せを頂く。

欠点と云うものは指摘して直るものなら簡単だが、
唯、私は泪(なみだ)を嚥(の)むほかない。

      <感謝合掌 令和3年12月2日 頓首再拝>
18:伝統 :

2022/06/28 (Tue) 15:24:21


          *「光明道中記」(6月28日)より抜粋

【わが教は審判く道ではないのだ。礼拝の道だ。包容の道だ。
                  (『生命の實相』第十一巻)】

自己を高く見せる為に他を鋭くさばくものは禍(わざわい)なるかな。
高く上らんとする者は低くせられ、
謙(へりくだ)りて栄えを神に帰する者は高くあげられん。

世の禍の因(もと)の80%は嫉妬心なり。
嫉妬心は比較の心なり、相対心なり。相対的価値は、見る立場によって変化す。
相対的価値によって高く挙げられたるものは、相対的事情の変化によって低く
貶(おと)されん。

されば人を相対的価値によって論議する勿れ。

            <感謝合掌 令和4年6月28日 頓首再拝>
19:伝統 :

2022/11/11 (Fri) 13:27:12


       *「光明道中記」(11月11日《我慢の消ゆる日》)より

【自分を完全に生かすことは、ニセ者の自分を殺すことよりはじまる。
                       (『生命の實相』第十巻)】

自分が偉い偉いと思っているのは「我慢」と言って、「我」の一種の展開である。
人間は「我慢」が無くなったときに内在の仏があらわれ、内在の神があらわれる。
この時が悟ったのである。

そして「我慢」が出たとき仏が隠され、神が覆われる。
隠覆(いんぷく)を無明(まよい)と言う。
その時には悟が晦(くら)まされたのである。

一度悟ったから永遠に悟ったなどと思うのは間違である。
砂糖も水を加えて加熱すると飴になるが、
一度飴になったと思って保存して置くと、
いつの間にか砂糖に還元しているいることがある。

人間も聖典を加えて長養加餐(ちょうようかさん)すると、
我が無くなって仏の境界に入るが、一度悟ったと思って
そのまま放置して置くと、元の我が出て凡夫になっていることがある。

聖胎長養(しょうたいちょうよう)が必要なのはそのためである。
白隠禅師が大悟十八回小悟は数知れずと言われたのもそのためである。

我欲、我慢、我執が出たら、
元は悟っていても今はもうその悟が晦まされているのである。

我慢の心が出て、人を礼拝する心の代りに、
人を審判(さば)く心になったとき、
その人は地獄の鬼の心になったのであり、閻魔の心になったのである。

          <感謝合掌 令和4年11月11日 頓首再拝>
20:伝統 :

2022/11/12 (Sat) 14:18:25


  *「光明道中記」(11月12日《人を審判(さば)かぬ日》)より

【自分を標準にして人を審判く限り、人の心に平和は来ない。
                (『生命の實相』第十一巻)】

キリストが磔刑(はりつけ)になったときに
「他(ひと)を救いて己を救い得ざる者よ」と
言って嘲笑したユダヤ人があった。

キリストは受難の前、ゲッセマネの園で
血の汗を流した程苦しんだと云うことであるし、
十字架の上にあっても「神よ、神、我を捨て給うか」と悲鳴を挙げた。

五官で観る者は、その血の汗を観、その悲鳴を聴き、
キリストは悟っていなかったと言って嘲笑するであろう。

悟るとは何であるか。
そこに神が顕れることではないか。

では悲鳴は神であるか、血の汗は神であるか。
悲鳴は神ではない。血の汗は神ではない。
無論それは悟ではない。

それはキリスト自身が言ったように、人類の罪の代贖(みがわり)である。
人類の罪がそこに血の汗となり、悲鳴となって、
音を立てつつ壊(くず)れ落ちたのである。

悲鳴は神ではなく、血の汗も神ではないが、
挺身して人類の代贖者(みがわりもの)に
なろうと決意したイエスの《愛が神なのである》。
然(しか)り、愛が神なのである。

従容(しょうよう)として、莞爾(かんじ)として
微笑して死に就(つ)き得ようとも、
愛なくば其処に神はいないから、悟もなく、仏もいないのである。

苦しんでも好い、泣き叫んでも好い、
愛を晦まさないこと、閻魔の心にならないことが大切である。

「神よ、彼らを赦したまえ、彼らは為すべきことを知らざるなり」
落涙霏々(らくるいひひ)たり。

          <感謝合掌 令和4年11月12日 頓首再拝>
21:伝統 :

2022/12/02 (Fri) 14:44:43


    *「光明道中記」(12月2日《真理を諦(あきら)かにする日》)より

  【善業を積むとは私的でない利己的でない行いをすることである。
                       (『生命の實相』第二巻)】

宗教とは自分を諦(あきら)め行く真理である。

諦めるとは自分を思いあきらめてしまうことでもなければ、
自分を誤魔化すことでもない。
人間は時とすると、対向者が出て来る場合には、相手の欠点を探すために、
自分の手許がお留守になることが有り勝である。

そんな時に其の人は相手から打ち込まれて、お面(めん)をとられ、
お小手(こて)をとられても知らないで、まだ偉そうに構えている事がある。

多くの剣道の名人は、塚原卜伝もそうであったように、
敵を斬(き)るために剣を学ばず、
ただ自分を完(まっと)うせんがために学ぶように教えたのである。

剣でさえも、敵を斬るために学ぶのではなく、
自己を完うせんがために学ぶのである。

では真理は人を批(う)つために学ぶのではなく、
自己を完うし更に人をも完うせんがために学ぶのであると云うことを
知らなければならない。

他の欠点を斬り審判(さば)こうと思っている限りに於て
自分の欠点に気が着くものではない。

時々地方の支部から、近接地の支部のやり方の悪いことを指摘して、
「何とかして貰わないと、あれではあの行持(おこない)では、
羊頭(ようとう)を揚げて狗肉(くにく)を売るものです。
光明を揚げて暗黒を売るものです」と云う報(しら)せを頂く。

欠点と云うものは指摘して直るものなら簡単だが、
唯、私は泪(なみだ)を嚥(の)むほかない。

         <感謝合掌 令和4年12月2日 頓首再拝> 
22:伝統 :

2022/12/03 (Sat) 14:25:17


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月3日)より

どんな善いことが書いてあっても、
それが自分の魂を養う糧だとして受け取ることが
できない人は気の毒な人である。

甲は曰く、

「これは乙を誡(いまし)めるために書いてあるのだ。
 乙の野郎奴(やろうめ)、先生に誌上でやっつけられている、よい気味だ。」

乙は曰く、

「これは甲を戒(いまし)めるために書いてあるのだ。
 甲の野郎奴(やろうめ)、この文章を見て反省するがよい。」

こんな心境で読んだら、
どんなよい教えでも人を争わす種になるばかりである。

わたしはただ真理を書くのみであって、
何人(なんぴと)をやっつけるために書いているのではない。

真理はそれ自身で尊いのである。

            <感謝合掌 令和4年12月3日 頓首再拝>
23:伝統 :

2022/12/14 (Wed) 13:18:51


       *「光明法語」(12月14日)より

イエスは審判いたから、とうとうその反対論者や審判かれた祭司や
パリサイ人などの謀略にかかって磔刑(はりつけ)にせられたのである。

イエスは「モーゼ蛇を挙げしが如く人の子も挙げらるべし」
とみずから預言して
其の預言の通りになるように行動したのである。

イエスには磔(はりつけ)に架(かか)かることが
自己の切なる魂の奥底の願いだったのである。
魂の奥底の切なる願いは必ず成就する。

彼の生涯は若し彼があんなに神経的に他を審判かなかったならば十字架に
かからなかっただろう点が多々ある。

            <感謝合掌 令和4年12月14日 頓首再拝>
24:伝統 :

2023/01/15 (Sun) 06:35:12


     *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月15日)より

いいかげんな聴きようをして、物事を批評してはならぬ。
紙1枚の差が霄壤(しょうじょう)の差である。
今日一日ひとを審判(さば)かないようにしたいものである。

ものの善し悪しは、よくその結果の良否を見て判断しなければならぬ。
この点において「果実を見てその樹(き)の善悪(よしあし)を知れ」
と言ったキリストは正しい。

「この畳のありてこそ、やぶれたるかやぶれざるかのいうことはあれ、
 本来無(な)からん畳をば何とか論ずべき、持戒もなく破戒もなし。」
                     (伝教大師『末法燈明記』)

            <感謝合掌 令和5年1月15日 頓首再拝>
25:伝統 :

2023/01/28 (Sat) 06:59:49


       *「光明法語」(1月28日)より

人をさばくこと勿れ。
人はそのことばや行ないによってさばいてはならないのである。
實相に於いて彼を見なければならないのである。

人を實相によってよき人であると見ることが出来たならば
その人はよき人と現れるのである。

もしその人がよき人と現れなかったならば、それは相手が悪いのではなく、
自分自身が實相を見る力の修練が足りなかったからなのである。

あらゆる人間にキリストなるものが宿り、佛性が宿り、
すべての人間が神の子であり、佛の子であることを自覚する時
どこにも悪しき人はいないのである。

          <感謝合掌 令和5年1月28日 頓首再拝>
26:伝統 :

2023/03/12 (Sun) 07:18:48


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.1.29)より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   心の不健康は、「他者を責める」か「自分を責める」か、
   そのどちらかによって生まれます。

   他者を責めれば、攻撃的になり、
   時には人を殺したり、傷つけたりします。

   自分を責めれば、うつ状態になります。

   そのどちらも、現象を否定しているところから始まり、やがて、
   「なぜ?」「誰のせい?」と問いかけるようになります。


   聖書の中に

   「汝(なんじ)、なぜかなぜかと問いかけることなかれ」

   という言葉があります。

   よく相談や質問をされる方は、「なぜ、なぜ」とおっしゃいますが、
   問いかけた瞬間に、問いや相談の形をとって、
   その現象を否定しているのです。

   自分の身に降りかかってくることについて問いかける必要はありません。

   それはそれでよし、と思い、

   「夕行・たんたん
    ナ行・にこにこ
    ハ行・ひょうひょう
    マ行・もくもく」

   で生きていくとラクです。


   例えば、不登校の子どもがいたときに、
   「これは誰のせいか」と追及し始めてしまうとキリがなくなります。

   夫が怒鳴っているから、
   夫婦関係が悪いから、
   甘やかして育てたから・・・・・・。

   原因を求めても問題は解決しません。

   誰も責めず、現象を否定せず、

   「風に吹かれて、川に流されて」
 
   生きていけば、 それでいいのです。

   「淡々と生きる」ということです。


   好きだから、嫌いだから、という生き方の他に、

   三つめの生き方として
 
   「やるハメになったらやる」 というのがあります。

   それが「風に吹かれて、川に流されて」という意味です。

   私は毎日、しゃべりたくて講演会をやっているわけではありません。

   頼まれてしょうがなくなり、やるハメになったから、
   ただ素直に「ハイよ」と言ってやっているだけです。

   それだけでけっこう面白い人生が 展開していきます。

       <『神さまに好かれる話』知的生き方文庫>

        ・・・

人は肯定的になったときだけ、元気が出る。

夢を見ることができ、冒険的になれる。

しかし、否定的になったとき、力がなくなる。

他人のことを許容できなり、守りに入る。


肯定には、「笑い」や「許し」がある。

そして、面白がったり、楽しんだり、喜んだり。


否定には、「不機嫌」や「不寛容」、「怒り」がある。

そして、物事にとらわれ、執着し、責める。


否定の対極にあるのが、「行雲流水」という言葉。

空を流れる雲や、川を流れる水は、
一箇所にとどまることはないし、常に表情を変え、変化している。

流れる雲や水のように、物事に執着せず、
自然のなりゆきに任せて行動すること。


また、雲水(うんすい)とは、この行雲流水の略だが、
諸国を修行してまわる禅僧のことをいう。

ひとつところにとどまらず、行脚(あんぎゃ)するさまを言う。

行脚は、根無し草のようにただフラフラと歩きまわることではなく、
何事にも、飄々(ひょうひょう)として、こだわらず、淡々と生きることだ。


責めず、否定せず、淡々と生きる人でありたい。

           <感謝合掌 令和5年3月12日 頓首再拝>
27:伝統 :

2023/06/28 (Wed) 08:23:05


       *「光明道中記」(6月28日)より抜粋
         ~《審判(さば)き心を捨つる日》

【わが教は審判く道ではないのだ。礼拝の道だ。包容の道だ。
                 (『生命の實相』第十一巻)】

自己を高く見せる為に他を鋭くさばくものは禍(わざわい)なるかな。
高く上らんとする者は低くせられ、
謙(へりくだ)りて栄えを神に帰する者は高くあげられん。

世の禍の因(もと)の80%は嫉妬心なり。
嫉妬心は比較の心なり、相対心なり。相対的価値は、見る立場によって変化す。
相対的価値によって高く挙げられたるものは、相対的事情の変化によって低く
貶(おと)されん。

されば人を相対的価値によって論議する勿れ。

           <感謝合掌 令和5年6月28日 頓首再拝>
28:伝統 :

2023/08/11 (Fri) 11:20:55


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月11日)より

人間たちが互いに憎み合い、互いに悪口を言い合うのが
わたしには不思議でたまらないのである。

憎みや悪口の中には地獄があり、
愛と讃め言葉の中には天国浄土があるということを知っていながら、
それらの人々は憎み、かつ悪口を言い合っているのである。

互いに排斥し合う者は「生長の家」の誌友ではないのである。
いわんや「生長の家」の講師ではない。
それは地獄の役員であり、閻魔の庁の衛丁(えいてい)ぐらいのところだろう。

「生長の家」のためにならないからといって、
ある人を排斥するのはまちがっている。

「生長の家」はそんな小さなものではない。
生長の家のためにならない人間などは世の中にないのである。

毛虫でさえも世の中に何か貢献している。
いわんや毛虫に幾億倍優っている人間においておやである。
ある人間を毛虫のように思って排斥する人は、
その排斥する方の人自身が毛虫のような心をもっているのである。

毛虫が人に嫌われるのは、自分を衛(まも)るために
人の不快がる装いをして平気なことである。

自分を衛るために、人の迷惑になる悪口を言う人は毛虫の心である。

      <感謝合掌 令和5年8月11日 頓首再拝>
29:伝統 :

2023/11/10 (Fri) 14:13:19


          *「光明道中記」(11月10日)より抜粋
           ~人の欠点を見ず、深切な語(ことば)を使う日

心が鋭くなると云うことに自戒しなければならぬ。

人々よ肉体の病気よりも
人は自分の心が他(ひと)を咎(とが)めたくなる心病に
罹(かか)っていやしないかを警戒せよ。

その人の心病は今形に出ないからとて
いつの日にか形に出ないことを保証し得るであろう。

高慢は禁物である。

          <感謝合掌 令和5年11月10日 頓首再拝>
30:伝統 :

2023/11/11 (Sat) 10:50:13


       *「光明道中記」(11月11日《我慢の消ゆる日》)より

【自分を完全に生かすことは、ニセ者の自分を殺すことよりはじまる。
                       (『生命の實相』第十巻)】

自分が偉い偉いと思っているのは「我慢」と言って、「我」の一種の展開である。
人間は「我慢」が無くなったときに内在の仏があらわれ、内在の神があらわれる。
この時が悟ったのである。

そして「我慢」が出たとき仏が隠され、神が覆われる。
隠覆(いんぷく)を無明(まよい)と言う。
その時には悟が晦(くら)まされたのである。

一度悟ったから永遠に悟ったなどと思うのは間違である。
砂糖も水を加えて加熱すると飴になるが、
一度飴になったと思って保存して置くと、
いつの間にか砂糖に還元しているいることがある。

人間も聖典を加えて長養加餐(ちょうようかさん)すると、
我が無くなって仏の境界に入るが、一度悟ったと思って
そのまま放置して置くと、元の我が出て凡夫になっていることがある。

聖胎長養(しょうたいちょうよう)が必要なのはそのためである。
白隠禅師が大悟十八回小悟は数知れずと言われたのもそのためである。

我欲、我慢、我執が出たら、
元は悟っていても今はもうその悟が晦まされているのである。

我慢の心が出て、人を礼拝する心の代りに、
人を審判(さば)く心になったとき、
その人は地獄の鬼の心になったのであり、閻魔の心になったのである。

          <感謝合掌 令和5年11月11日 頓首再拝>
31:伝統 :

2023/11/12 (Sun) 15:47:43


          *「光明道中記」(11月12日)より

【自分を標準にして人を審判く限り、人の心に平和は来ない。
               (『生命の實相』第十一巻)】

キリストが磔刑(はりつけ)になったときに
「他(ひと)を救いて己を救い得ざる者よ」と言って
嘲笑したユダヤ人があった。

キリストは受難の前、
ゲッセマネの園で血の汗を流した程苦しんだと云うことであるし、
十字架の上にあっても「神よ、神、我を捨て給うか」と悲鳴を挙げた。

五官で観る者は、その血の汗を観、その悲鳴を聴き、
キリストは悟っていなかったと言って嘲笑するであろう。

悟るとは何であるか。
そこに神が顕れることではないか。

では悲鳴は神であるか、血の汗は神であるか。
悲鳴は神ではない。血の汗は神ではない。
無論それは悟ではない。

それはキリスト自身が言ったように、人類の罪の代贖(みがわり)である。
人類の罪がそこに血の汗となり、悲鳴となって、
音を立てつつ壊(くず)れ落ちたのである。

悲鳴は神ではなく、血の汗も神ではないが、
挺身して人類の代贖者(みがわりもの)になろうと
決意したイエスの《愛が神なのである》。

然(しか)り、愛が神なのである。

従容(しょうよう)として、
莞爾(かんじ)として微笑して死に就(つ)き得ようとも、
愛なくば其処に神はいないから、悟もなく、仏もいないのである。

苦しんでも好い、泣き叫んでも好い、
愛を晦まさないこと、閻魔の心にならないことが大切である。

「神よ、彼らを赦したまえ、彼らは為すべきことを知らざるなり」

落涙霏々(らくるいひひ)たり。

          <感謝合掌 令和5年11月12日 頓首再拝>
32:伝統 :

2023/12/02 (Sat) 15:01:48


           *「光明道中記」(12月2日)より
            ~真理を諦(あきら)かにする日

  【善業を積むとは私的でない利己的でない行いをすることである。
                    (『生命の實相』第二巻)】

宗教とは自分を諦(あきら)め行く真理である。

諦めるとは自分を思いあきらめてしまうことでもなければ、
自分を誤魔化すことでもない。
人間は時とすると、対向者が出て来る場合には、相手の欠点を探すために、
自分の手許がお留守になることが有り勝である。

そんな時に其の人は相手から打ち込まれて、お面(めん)をとられ、
お小手(こて)をとられても知らないで、まだ偉そうに構えている事がある。

多くの剣道の名人は、塚原卜伝もそうであったように、
敵を斬(き)るために剣を学ばず、
ただ自分を完(まっと)うせんがために学ぶように教えたのである。

剣でさえも、敵を斬るために学ぶのではなく、
自己を完うせんがために学ぶのである。

では真理は人を批(う)つために学ぶのではなく、
自己を完うし更に人をも完うせんがために学ぶのである
と云うことを知らなければならない。

他の欠点を斬り審判(さば)こうと思っている限りに於て
自分の欠点に気が着くものではない。

時々地方の支部から、近接地の支部のやり方の悪いことを指摘して、
「何とかして貰わないと、あれではあの行持(おこない)では、
羊頭(ようとう)を揚げて狗肉(くにく)を売るものです。
光明を揚げて暗黒を売るものです」と云う報(しら)せを頂く。

欠点と云うものは指摘して直るものなら簡単だが、
唯、私は泪(なみだ)を嚥(の)むほかない。

      <感謝合掌 令和5年12月2日 頓首再拝>
33:伝統 :

2024/01/15 (Mon) 14:35:59


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月15日)より

いいかげんな聴きようをして、物事を批評してはならぬ。
紙1枚の差が霄壤(しょうじょう)の差である。
今日一日ひとを審判(さば)かないようにしたいものである。

ものの善し悪しは、よくその結果の良否を見て判断しなければならぬ。
この点において「果実を見てその樹(き)の善悪(よしあし)を知れ」
と言ったキリストは正しい。

「この畳のありてこそ、やぶれたるかやぶれざるかのいうことはあれ、
本来無(な)からん畳をば何とか論ずべき、持戒もなく破戒もなし。」
                     (伝教大師『末法燈明記』)

            <感謝合掌 令和6年1月15日 頓首再拝>
34:伝統 :

2024/04/22 (Mon) 13:30:28


         「光明法語」(4月22日)より

スター・デーリーはどんな強盗の首魁(しゅかい)でも
彼の名前を聞けば顫(ふる)え上がる程に、膽(きも)の据わった泥棒であった。

併し獄舎の中で大衆を相手に説教しようと演壇にたった時には、
その膽の据わりはどこへやら、ボーッとして周囲が見えなくなり、
一語も発する事が出来ない程に恐怖心を感じたのであった。

生命(いのち)の奪い合いでは恐れないデーリーが演壇が恐ろしいのは
臆病のせいであろうか。
時として人には到底克服出来ない嫌悪や不快や恐怖をいだく心の傷があるものである。
そう云う心の傷は労ってやるべきで攻撃すべきではない。

            <感謝合掌 令和6年4月22日 頓首再拝>

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