伝統板・第二

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光を灯す③ - 伝統

2020/04/21 (Tue) 03:25:42

《暗の中にも光を見る者は幸いなるかな》

        *『 生長の家 』(昭和25年4月21日の法語)より

   吾は今日より殊更(ことさら)に明るき精神も以て
   生活せんことを期するのである。

   明るさは明るさをよぶのである。
   神は光であるから明るき精神をもっている者のみに波長が合うのである。

   吾はどんな失敗にも失望しないのである。
   凡ゆる失敗とみえる時に成功がみえるのである。

   キリストの最後の最も大なる失敗は
   「 十字架にかかる 」 と云うことであったのである。

   然(しか)し彼は十字架にかかることによってのみ
   人類を救済することができたのであり、
   復活して永遠の生命を得ることができるのであり、
   不幸の中に不幸のみをみるのは信仰なき者のことである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13836857.html (消滅)

・・・

<関連>

(1)伝統板・第二「光を灯す①」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6649683

(2)伝統板・第二「光を灯す②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7166594

            <感謝合掌 令和2年4月21日 頓首再拝>

光を観る - 伝統

2020/05/03 (Sun) 04:52:34

        *『幸福の原理』(P90~91)より

光明思想と云うものは、
要するにそういう暗黒の中にいても光を観る思想であります。

どんな暗黒の中にいても光はあるのです。
防空の為に燈火管制で全然真っ暗である。
空に星すらないと云う時でも、じっと見つめているとだんだん物が見えて来る。

それは暗黒と云う鬼があるのではないのであって、ただ光が乏しいだけなのです。

しかし全然光がないのではない。
光は必ず何処かから射して来ているから、じっと見つめていると、
きっと明るく見えて来るのであります。

そして最初はハッキリ見えなかった道が明るく見える。
暗い中に道がハッキリ見えて来る。此處に植木が植わっている。
此處に家がある、とちゃんと見えるようになって来るのであります。

吾々も心の眼をじっと開いて、
人生の暗黒の中に立ってじっとそれを見詰めていますと、
どんなに暗い暗い中にも何だか光が見えて来るのです。
明るいものが見えて来るのです。

暗いと云うものは実際ないのであって、
自分の心さえ本当に開いたらどんなにでも明るくなって来るのであります。

じっと夜の中でも見つめていると明るいように、
人生も暗黒の中をじっと見詰め見詰めしている内には、
ふくろうのように真っ暗な中にをってもハッキリ光が見えるようになって来る。

そしてこの世界はこのまま光明燦然たる極楽世界だとわかって来るわけなのです。

http://www.geocities.jp/taka19602001/taka19602001-15.htm(消滅)

            <感謝合掌 令和2年5月3日 頓首再拝>

毎日1時間真理の光で心を照らせ - 伝統

2020/05/14 (Thu) 04:53:52


       *『 生命の實相 』第2巻實相篇(P70~71)より

毎日1時間ずつ「真理の光」で自分の心を照らす ――
それにはどうしたらよいかというと『生命の實相』のように
生命の真理を書いた本を読むのが一等よいのであります。

われわれの「生命」とは「神の子」であります。
神の分身(わけみ)、分魂(わけみたま)がわれわれの「生命」であります。

だから決してわれわれは病気になれない本性をもっているのです。

このわれわれの尊い無限力の神の子としての本性を知ることが
真理を知るのであって、真理を知れば知っただけの力が出るし、
知らなければ知らないだけの力しか出ないのであります。

仮にわれわれが百万円の金を財布に入れて持って歩いていましても、
十円しかこの財布にはないと信じている限りは、
十円以上のものを買う力は、湧いて来ないでありましょう。

この財布に二十円あると知ったときにわれわれははじめて
二十円のものを買う力が湧いて来る。
三十円あると知ったら三十円のものを自由にする力が湧いて来る。
百万円あると知ったら百万円のものを買って自由にする力が湧いて来る。

それと同じことでわれわれの生命は徽菌に負ける力しかないのだと思っている限りは
黴菌に負けるだけの力しか出て来ないのであります。

肺病になると思えば、肺病になるほどの力しか出ないし、
胃病になると思えば胃病になるほどの力しか出ないし、
腎臓病になると思えばまたそれだけの力しか出て来ないし、
糖尿病になると思えばまたそれだけの力しか出て来ないのであります。

            <感謝合掌 令和2年5月14日 頓首再拝>

《暗黒から光明に転向すること》 - 伝統

2020/06/14 (Sun) 03:53:43


         *『 生長の家 』(昭和32年5月16日の法語)より

   神から来る智慧と能力と生命力と、あらゆる善きものとの
   供給を、少しも絞らずに豊かにそれらを受けよと思うならば、

   自己中心・利己主義の心を止(や)め、愛他的の心を起こし、
   心を寛大にして他(た)を赦すと共に、
   すべての人々に調和と善意の心を持ち、
   自己をも”罪”の観念に依って縛らないようにしなければなりません。

  「罪」は「包み」であり「隠覆(いんぷく)」であり、
  「光」に向かわず、「光」に背を向けている状態に過ぎません。

  「悔い改め」と云うのは「ああ、今まで私は光に背を向けていた、
   間違っていた、済まなかった」と気がついて、
   クルリと向きをかえて光に面することを言うのです。

   暗黒から転向して光に向かうことが完了しなければ、
   本当に「悔い改め」が完了したのではありません。

   いつまでも暗い方を向いて「自分は悪かった、悪かった」と
   自己責罰の感情に捉われているのは「悔い改め」ではありません。


    (『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P299~300>に収載)

            <感謝合掌 令和2年6月14日 頓首再拝>

心を明るく持てよ - 伝統

2020/06/15 (Mon) 04:50:41


      *『 生長の家 』(昭和26年5月17日の法語)より

心の明るさと云うことが第一に必要である。

神に祈って効果がない場合、
概(おおむ)ねその人に心の明るさが欠乏している場合が多いのである。


神は光であるから、神の波長に合うためには先(ま)ず明るい心が必要である。

すべての恐怖や心配や取越苦労などを“かなぐり”捨てて、
神に全的にまかせ切ることが必要である。


「私は朗らかである。私は神の子であるから、親様なる神が 私のすべての事を
 見戍(みまも)り給うから、私は神にすべてをまかせて、心平和である。
 すべての事は必ずよく成就するのである。」

と時々、眼を瞑(つぶ)って念ずるようにし、
心の平和と朗らかさとを回復するがよいのである。

            <感謝合掌 令和2年6月15日 頓首再拝>

光のみの世界を観るには - 伝統

2020/07/03 (Fri) 04:57:38


       *『 生長の家 』(昭和26年5月31日の法語)より

神の愛は吾等を取り巻いてい給うのである。

何事が起って来ようとも、それは現象であり、
心のスクリーン上に映った映画の一断面に過ぎないのである。

映画の一断片にどんな不幸なことが顕れていようとも、
そんな事に心とらわれてはならないのである。

吾々は常に光源に振り向くことによって、
光ばかりの世界を見ることが出来るのである。

若(も)し吾々が光ばかりの世界を見ることが出来ないならば、
それは途中の妄念のフィルムに下らないことが描かれていて、
その光の照り渡ることを妨(さまた)げているのである。

汝(なんじ)の妄念を取り去れ。
憤りを去れ。
憎みを去れ、
不平を去れ、
悲しみを去れ、

唯、感謝せよ、唯、光のみの世界を見るであろう。

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110 )

            <感謝合掌 令和2年7月3日 頓首再拝>

”心”を光明面に向くよう切り換 えよ - 伝統

2020/07/19 (Sun) 04:47:49


      *「生長の家」(昭和51年6月7日の法語)より

自分の”心”が暗黒の方向へ向いているか、
光明の方向へ向いているか、
自分の心を顧みなさい。

そして暗黒の方向へ向いておれば光明の方向へ心を切り換えなさい。

”心”という電車が、あなたの”心”の向くところへ
回転して行ってあなたを運ぶのです。
それを”運命”と人はいうのである。

『愛と光 との生活』(新選谷口雅春法話集第八巻)の77貢には次のように書かれている。

暗黒な気分 になった時には必ずこの本をひらいて、
その一 節をお読みなさい。
必ず心が明るくなり、運命が明るい方向に回転してまいります。

「諸君よ、必ず諸君の心の中に”光明”のみを描け、
 必ず諸君の心の中に成功のみを描け。
 心に描くことは、心の世界に種子を蒔いたことになるのです。

 そうして、心に”光明”の種子を 蒔いて置いてから、
 その手入れをし、施肥(こ やし)を一所懸命にやるように、
 形の世界ででも、出来るだけ勉強し、出来るだけ働き、
 前進 前進、ただ前進、ただ伸びることのみを知って 、
 一寸の暇もなく間断なく進むのです・・・・ ・・」

            <感謝合掌 令和2年7月19日 頓首再拝>

「光」の方へ振向くには - 伝統

2020/08/18 (Tue) 03:49:35


       *『 生長の家 』(昭和32年5月17日の法語)より
        ~《「罪」より転向するとは?》

   「光」に向きかわるには
   「神」の方へ完全に向き変わらなければなりません。
   「過去の悪」や「過去の罪」の方へ向いて、
   グジグジ思いわずらってはなりません。

   神は貴方を常に赦していられるのに、
   貴方自身が貴方をゆるさないような事では、
   貴方自身が神に背いていることになります。

   光に面したとき、すでに暗黒(やみ)は存在し得ないように、
   あなたが神の方へ完全に向き返ったとき、
   最早「罪」も「悪」も存在しないのです。

   しかし本当に「光」の方へ振向くのにはどうずればよいのでしょうか。

   一方に於いて破壊的な暗黒的な想念感情を起こさないようにする
   と同時に、他方に於いて神に祈ることです。神想観を行ずることです。

   神以外の何かをもとめる祈りは、本当の祈りではありません。
   神以外の何かを目的とする神想観は本当の神想観ではありません。

   「神よ、み国を来(きた)らしめ給え、み心の天に成るが如く、
   地にも成らしめ給え。」

   これこそ純粋なる祈りであります。


    (『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P300~301>に収載)

            <感謝合掌 令和2年8月18日 頓首再拝>

吾は太陽の日を生きる - 伝統

2020/08/28 (Fri) 04:19:30


       *『生長の家』(昭和25年6月11日の法語)より

吾は今日太陽の日を歩むのである。
それは輝く喜びの日である。

吾は神の子であるから吾が生活は完全であり
凡ゆる点に於いてととのうているのである。

何故(なぜ)なら神に守られ、
神の智慧に導かれているからである。

輝く太陽の日に生まれたる吾は幸いなるかな。
吾は輝く太陽の子である。

吾は神とともに心あかるく平和である。

常に今、吾は完全であり、幸福に満たされているのである。

吾何をか憂れえんや、
暗(やみ)よ消えよ、
吾は光である。

吾は太陽の子である。

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2

            <感謝合掌 令和2年8月28日 頓首再拝>

実相そのままの明るさにならねばならぬ - 伝統

2020/09/27 (Sun) 02:21:57


    *「光明法語」(9月27日《明るさの善徳》)より

あらゆる善徳を備えていると見える善人でも、
心に明るさを失っている者は真の善人ではない。

あらゆる悪徳の中で「暗い」と云う事はすべての善を悉く覆して
反対効果に変じてしまう程の力をもっているものなのである。

心に明るさを持つと云う事は、大生命の貫流するパイプを掃除するにも似ている。
心が暗いと云う事は、大生命の貫流するパイプをつまらせて置く様なものである。

大生命を自分の内に流れ易くならしめるのが明るさの徳である。

何事にも執(とら)われない自由自在な実相そのままの明るさにならねばならぬ。

            <感謝合掌 令和2年9月27日 頓首再拝>

《1週間でもよいから心を明るく感謝することを実行してみなさい》 - 伝統

2020/10/13 (Tue) 04:52:51


          *「眞理」第2巻基礎編第6章(P155~156))より

神は光の神であり、無礙光の仏であり、暗(やみ)を照らす光である。
神の救いを受けようと思うならば、光の心を起さなければならないのである。

光の波長は光の波長を受け、暗(やみ)の波長は暗の波長を受けるからである。

「光の心」と云うのは「明るい心」である。
光明思想と云うのは人間を明るい心に導く思想である。

多くの病人は大抵暗い心をもっているのである。
暗い心は暗いもの、陰気なもの、病的なものを引き寄せるのである。
多くの病人は厭世家であり、厭世家は身体が弱いのである。

心が感謝で満たされ、明るい心になったとき、
どんなに自然療能が増加して、速やかに病気が癒えはじめるかは、
病人よ、それを1週間だけでも実行して見給え。

ただちにその効果がわかるのである。

            <感謝合掌 令和2年10月13日 頓首再拝>

常に心を光明で照り輝かす - 伝統

2020/10/27 (Tue) 04:43:24


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月27日)より

神は光である。
われらが神を心に念じ、わが内に神を感ずるとき
われらの心のうちに光明が点ぜられるのである。

光が点ぜられたならば、
その室(へや)の中にあるいっさいのものがハッキリ見えるように、

われらの心に光が点ぜられたら、
われらが神の世継としてすでに与えられているすべての
善き物を、眼の前にハッキリ見出すことができるのである。

具体的に「あれ」「これ」と求むるよりも、
常に心を光明で照り輝かすことの方が必要である。

           <感謝合掌 令和2年10月27日 頓首再拝>

《常に明るい寛大なる精神を養成しなさい》 - 伝統

2020/11/09 (Mon) 04:24:35


          *「眞理」第2巻基礎編第6章(P158)より

明るい朗らかな心は健康に必要なばかりではなく、
富と繁栄にも必要なのである。

明るさは、幸福を呼ぶのである。
明るいところに人が集って行くのは、単にネオン灯や、
電灯の光の下に人々が集って来ると云うだけの意味ではないのである。

万物は明るい処で栄え、暗いところでは
ジメジメした菌類や蘚苔類が育つに過ぎないのである。

栄えようと思う者は、運命に対して呟くな。
運命に対して明るい微笑と感謝と、愛念とを送るようにせよ。
其処から、ゆたかなる供給の流れが、
あなたの運命に流れ入るようになるのである。

愛念と、感謝と、明るい微笑とは健康のために必要なばかりではなく
あらゆる運命の好転に道をひらく鍵であるのである。

            <感謝合掌 令和2年11月9日 頓首再拝>

《あなたの表情を明るくする習慣を養え》 - 伝統

2020/11/17 (Tue) 04:58:40


       *『 理想世界 』(昭和42年7月15日の法語)より

   私たちが常に養成しておかなければならない良き習慣は、
   常に明るい心を持ち、明るい表情をする習慣である。

   この世界には“類を以って集まる”という法則が存在するのであって、
   明るい心をもっておれば明るいものが集まって来、
   明るい運命が訪ずれて来るのである。

   眉の間に皺をつくったり、鼻の上部に縦皺をつくって、
   いつも険しい表情をしているような習慣は、その人に、やがて不幸を喚びよせる
   霊波をもって世界に通信しているようなものである。

   少年時代から常に自分の表情を明るく、
   人から懐かしがられる習慣をつくって置けば
   将来必ずその人の運命は発展するのである。

            <感謝合掌 令和2年11月17日 頓首再拝>

《事物の光明面・内在の意義を見ること》 - 伝統

2020/11/30 (Mon) 04:53:19


        *『 理想世界 』(昭和42年7月17日の法語)より

   明るい語調で返事をし、明るい語調で話をする習慣をつけると同時に、
   常に明るい心をもつ習慣をつけて置くことは、
   運命に対して不死身の性格を養うことになるのである。

   明るい心は、どんな不幸も吹き飛ばしてしまって
   幸福を呼び寄せる事になるのである。

   どんな時にも、事物の明るい面を見、不快なことや不幸なことが起こって来ても、
   それの奥にあるところの深い意義を考えて、思い直して見るようにするならば、
   人生には到るところに良き教訓が漲っているのであり、

   自分に対して辛く当る人も、自分を鍛えて下さる鉄槌であり、
   観世音菩薩が夜叉の仮面をかぶって私を善導して下さるのだと思えば、
   明るい感謝の心をもって、万事を迎えることができるのである。

   これも常にそのように心懸けているならば、それが心の習慣となり、
   すべての人に、事に、物に和解して、万事が円滑に搬んで、
   何事も順調に行くことになるのである。

   http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6956412

            <感謝合掌 令和2年11月30日 頓首再拝>

本質は光り輝いている - 伝統

2020/12/02 (Wed) 03:19:39


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月2日)より

ここに1個の高貴なダイヤモンドがあるとする。
それが人の邪念に涜(けが)されなかったら、それはそのまま貴いのである。

ダイヤモンドの美はそれ自身で貴い。

が、それをある人に示したとき、

甲は、「今頃こんなものを指につけていたら贅沢だと言われるだろう」と言った。

乙は、「わたしがつけていたら、どうせあれは贋(まが)い物だろう
    と人が言うでしょう」と言った。

丙は、「わたしがそれをつけていたら、どこかできっと盗んで来たんだろう
    と人が言うでしょう」と言った。

甲はそれに「贅沢」という名をつけ、
乙はそれに「贋(まが)い物」だという名をつけ、
丙はそれに「盗み」という名をつけたのである。

かくして無上の価値を持った宝石も、
心なき人の手に触れるとき、それはすでに宝石でなく、
「贅沢」となり、「贋(まが)い物」となり、「盗み物」となったのである。

しかし、これらの批評にかかわらず、
ダイヤモンドは依然としてそれ自身の光輝をもって輝いているのである。

            <感謝合掌 令和2年12月2日 頓首再拝>

「光明」と「全托」 - 伝統

2020/12/10 (Thu) 02:46:46


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月10日)より

「神」より確かなものはない。
「神」からすべてのものが与えられないのは、「光明」に転向していないか、
その頼りかたが「全托」の境地に達していないからである。

「光明」に転向せずして、「神」にまかせている者も与えられないし、
光明に転向しても、自分でいろいろ小知才覚を弄(ろう)するものも
与えられないであろう。

            <感謝合掌 令和2年12月10日 頓首再拝>

積極、建設的で明るい気持ちになる - 伝統

2020/12/21 (Mon) 07:02:35


      *「光明道中記」(12月21日《心の岩戸開きの日》)より

【どうでも好いことに何時(いつ)までもかかわるな。
 生命は貴(とうと)い。(『生命の實相』第十一巻)】

心を支配すること。
何をおいても心を支配すること。
明るい気持に常になるように心掛けること。

ただそれだけを常に心掛けるだけでも、
あなたの運命は輝かしいものに転じて来るであろう。
あなたの健康は従来よりも前進して来るであろう。

神は光明遍照であると云うことを知らなければならない。
光明のないところ、明るさのない処には神は在(い)まさないのである。
心に光明を満たす時、万物が生き生きと蘇生(よみがえ)って来るのである。

神は一切所に充ちていられるのであるが、
心の天岩戸の開かないところにはその光は射し込まないのである。

『古事記』に書かれているのは虚(うそ)ではない。
天之宇受女命(あめのうずめのみこと)の明るい舞踊に触発され八百万神々の
明るい笑いが暗黒の世界に、日の光を射し込ましたのである。

吾々は明るいと共に、積極的でなければならないし、
建設的でなければならない。

積極的な者は一時は失敗するかも知れないが、
その失敗は必ずや経験の上に何物かを獲得せしめるので、
結局は失敗ではないのである。

明るいばかりで此の世を笑いで吹き飛ばすだけでも完全だと言えない。

明るい上に積極性があり、更に建設的であることを要するのである。

            <感謝合掌 令和2年12月21日 頓首再拝>

《心で光を見る》 - 伝統

2020/12/29 (Tue) 04:53:01


       *「光明法語」(12月29日)より

福山市三吉町の木工業横山勇君はこんな体験談を語った。

「私の妻は一方の眼の瞳に星がかかって、
その星がしだいに大きくなり失明した状態になっていた。

6月に尾道市に生長の家の講習会が開かれたとき聴講に来た。
第一日の講習を受けた翌日は眼が痛み出して二日目の講習会には出席出来なかった」。

これは迷いの自壊作用である。

「第三日には痛みが和(やわら)らぎ出席したが、
何かの拍子に手が眼の繃帯に触れて繃帯の位置がズレると、
星に瞳孔が閉ざされて見えなくなっていた眼が見え出した」。

心が一変して光を見る心になったからである。

            <感謝合掌 令和2年12月29日 頓首再拝>

《万物の奥に光を見よ》 - 伝統

2020/12/30 (Wed) 04:56:04


       *「光明法語」(12月30日)より

光は天地間に充ち満ちておれども、
其の光を百パーセント完全に見る者は聖者である。

多くの人たちはその光を一部しか見ていないのである。

心の眼を開いて見よ。
到る処に光は充満している。

空気には神の生命がかがやいているのである。
空気を吸っていることは神の生命を吸っていることである。

水には神の愛が輝いているのである。
水を飲むことは神の愛を飲むことである。

食には神の恵みが輝いている。
これを食することは、神の恵みを食することである。

        <感謝合掌 令和2年12月30日 頓首再拝>

生命には光が必要なのである - 伝統

2021/01/01 (Fri) 06:44:14


     *「生命の實相」第37巻幸福篇上(1月1日)」より抜粋

 われわれを生かすのは明るい思想である。
 さし昇る朝日のごとくさわやかな思想である。
 さし昇る朝日のごとくさわやかな精神こそ日本精神である。

 生命は暗黒の中にも光を見る。
 暗室に置かれたる豆もやしは、外から洩れるわずかな光を求めて、
 光の方へ光の方へと向いていく。

 そして光のない間は細く長くかよわく貧弱に伸びて行くにすぎないが、
 ひとたび光を得たときには、太くしっかりと逞しく勢いよく生長する。
 生命には光が必要なのである。

 光が全然ないときには、伸びかかった豆もやしも数日間で枯れてしまう。

 再び言う。生命には光が必要なのである。

        <感謝合掌 令和3年1月1日 頓首再拝>

論争は不要、光を輝かせば暗(やみ)は消える - 伝統

2021/01/09 (Sat) 04:33:48


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月9日)より

他(ひと)から悪く言われても論争はしないがよい。
理窟はどうにでもつけられる。
理論の上では、盗人(ぬすびと)にも三分(さんぶ)の理がある。

それぞれにはまた別の立場があるからである。

相手の悪を認めて悪に対して論争するのは相手をいっそう興奮せしむるだけである。
相手を興奮せしむれば、いかに善なる論旨も相手の心に入(い)るものではない。

相手の悪をわれわれの心の中で認めないことにし、
われわれはただ正しい真理を説き、所信を実行すればよい。

ただ真理に従順にして、然(しか)り然り、否々(いないな)でよい。
光を輝かせば暗(やみ)は消える。
これは永遠に渝(かわ)ることなき真理である。

暗(やみ)を実在するかのごとく思って、暗(やみ)と戦うから、
硝煙(しょうえん)濛々(もうもう)として
天日(てんじつ)をくらますようになるのである。

            <感謝合掌 令和3年1月9日 頓首再拝>

「光」のみの世界に躍進しなければならぬ - 伝統

2021/01/12 (Tue) 02:49:48


      *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月12日)より抜粋

苦しみ、悲しみ、腹立ち起こるもとは一つの立場に執することである。
一つの立場に執するかぎり、八面玲瓏珠のごとく、
すべて明るく円成(えんじょう)するというわけにはゆかぬ。

われわれは立場を超えて「無」の中に跳入し、「無」を超えて、
さらに「光」のみの世界に躍進しなければならぬ。

われわれの棲む地球は一つの象徴(シンボル)である。
地上の一点に執していてはこの世界は陰もあり光もある。
真空圏に跳入したとき、そこは絶対無の真空に達する。

真空を超えてさらに高くこう翔(しょう)するとき
われわれは光明一元の世界に入(はい)るのである。

            <感謝合掌 令和3年1月12日 頓首再拝>

すべての人間の眼の光が澄んで来たら、世の中に争いがなくなる - 伝統

2021/01/14 (Thu) 02:56:45


           *「光明道中記」(1月14日《微笑を楽しむ日》)より

【顔が膨れ上がるのは心に不平不満を持つ膨れた心の現(あらわれ)である。
                       (『生命の實相』第一巻)】

優しい眼を見ていると心が静かになって来る。
険しい眼を見ていると心が険しくなって来る。
微笑を含んでいる顔は世の中で最も貴いものの一つである。

赤ん坊の眼は美しい。
価値の創造は手先(たなすえ)の技(わざ)ではない。
先ず心が澄むことである。
眼の光が澄むようにならなければ、その人はまだ本物ではないのである。

澄んだ中にも色々の光がある。
その光が色々の内容を語っている。

智慧で輝いている眼、威相で輝いている眼、
慈愛に輝いている眼、みんな尊き眼である。
すべての人間の眼の光が澄んで来たら、世の中に争いがなくなる。

争いの愚かさに人間が懲りて来たからとて
永久平和が来るようにでも思うのは愚かなことである。

世界大戦で、全世界の人類は戦争の悲惨には飽きて来ている筈だけれども
戦争を止めようとは思っていない。また戦争時代に生きていたすべての人間は、
5、60年もすれば死んで地上にいなくなる。

やがて戦争を知らぬ人間が地上に蔓(はびこ)り戦いを始めるだろう。

人間の眼が澄んで来ない限り駄目である。

            <感謝合掌 令和3年1月14日 頓首再拝>

先ず光を見出すこと - 伝統

2021/01/16 (Sat) 04:26:12


    *「光明道中記」(1月16日《本当の幸福を把(つか)む日》)より

【ただよえる雲の彼方にまんまるに澄み切る月ごわが姿なる。
                      (『生命の實相』第十一巻)】

雲を幾ら積んでも光は出て来るものではない。
肉体の快楽、五官の楽しみ、富の集積
 ―― それらは多くなればなるほど人生に光が出て来るように思って
夫(それ)を積んで見る人は沢山あるが、
いずれも幸福を見出してはいないのである。

幸福は先ず光を見出すことにある。
自分が光であると云うことを先ず知ることである。
光がなければ雲は重なれば重なるほど黯澹(あんたん)として淋しくなるばかりである。

智慧のない、愛のない、我利我利亡者が金を蓄めているほど黯澹たるものはない。
光がさし昇れば雲の”ある”無しは問題にはならぬ。

人間の「光」は自分が照らす愛であり智慧であることを知るべしである。
自分が「愛」でなければ積み重なっているすべての持物は、
光のない荒涼な暴風(あらし)の日の雲のようなものに過ぎない。

自分に智慧がなければ、持てるすべての物は
氷山と衝突して難破する船のようなものである。

神は愛である、我は愛である。
神は智慧である、我は智慧である。

            <感謝合掌 令和3年1月16日 頓首再拝>

光への道 - 伝統

2021/01/17 (Sun) 02:45:29


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月17日)より

世俗のことに心を捉われず、
世俗のことにそのまま熱心になれるのが悟りである。

外部的な成功に心を捉えられず、
今ある与えられたる仕事を心を磨く糧として実行するのである。

光への道は最も手近の道である。
光への道は最もやさしき道である。

虚名はわれわれの魂をくらまし、虚利はわれわれの魂を空虚にする。

            <感謝合掌 令和3年1月17日 頓首再拝>

【自己内在の光】 - 伝統

2021/02/01 (Mon) 05:02:35


      *「光明道中記」二月「天地そろう」はじめの言葉 より

吾々の『生長の家』は毎号、
諸君自身の内に宿る力を指示するために発行されるのである。

他に依頼心を持つ者は躓くであろうが、
自己の内に埋蔵されたる宝庫へ幸いに振向く人は救われるであろう。

救いの力は諸君自身の内にあるばかりであって、
わたしはその在(あ)り所(か)を指示するだけである。

吾々の光明思想になった結果病気が治ると云うのも、
諸君自身がそう云う思想になった結果であって
わたしはただ指(ゆびさ)すのみである。

文章の力による指し方は可也り上手であるので、
文章の力で病気を治したとも謂い得るが、
精(くわ)しく言えば文章の力は、よく諸君の心を振向けただけである。

そこに自己内在の無限の力を見出すのは
諸君自身の力であって私の力ではないのである。

光栄は諸君自身の「内」にこそ帰せられるべきものであって、
私は喇叭(らっぱ)であり、指南車である。

指を月と間違え私の書いた符号を本物と間違える者は
実相を見ることが出来ないでああろう。

私はただ諸君を振向かすために文章で叫ぶだけに過ぎないのである。

私を尊敬せずに真理をこそ尊敬せられたい。

            <感謝合掌 令和3年2月1日 頓首再拝>

光明方面を見よ。 - 伝統

2021/02/09 (Tue) 02:43:50


           *「光明道中記」(2月9日《陰を見ぬ日》)より

【陰を見るな。光明方面を見よ。見た方面が強くあらわれる。
                     (『生命の實相』十一巻)】

現象界はすべて明暗の交錯で出来ている。
光明一元は実相世界のことである。

現象界で暗い方面ばかり探していたら、どんな輝かしい美人でも
足の裏から覗いて見たら暗い半面はあるのである。

人生を暗いと思って嘆く人よ、人生は暗いのではない。
貴方の人生を覗くところの角度が暗い角度から覗いているのである。

太陽が落ちた後の暗澹たる世界を嘆くよりも、
太陽のさし昇る光明燦爛たる曙を想望して喜ぶがよい。
太陽を想望する人の心の中には、既に太陽があるのである。

心に太陽が無くてどうして太陽の射す明るい世界を見ることができよう。
心に太陽を持つ者は、やがて現実の世界に太陽の差し昇るのを見るであろう。

子供を育てる時にも、子供の美点のみを見て誉めるようにするならば、
その子供の美点は伸びる。常に夫は妻を誉め、妻は夫を誉めよ。
そこからこそ幸福な家庭が来る。

            <感謝合掌 令和3年2月9日 頓首再拝>

あなたの心は光か闇か、見分けるポイント - 伝統

2021/02/19 (Fri) 04:33:32


       *Web:宇宙の兄弟たちへ(2021年2月17日)より

人の心というのは自由自在で、
天国的な心境に向いているかと思えば、
次の瞬間には、地獄に通じるような思いを発します。


こうした自由な想いの結果として、
天国的な思いの光と、地獄的な思いである闇との、
大きく二つに分かれていきます。

皆さんが光と闇の、どちらを向いているかを、
簡単に見分けるポイントを述べて見たいと思います。

それは他人を見て、その人の幸せを喜べるか、
あるいは不幸を願うかの違いにあります。

たとえば女性であれば、素敵な衣装を着ていたり、
自分より綺麗な人を見て、ステキだと思えて祝福できるか、
あるいは、何か文句をつけてけなしたくなるか、
二つの思いに分かれていくでしょう。

男性であれば、自分より同期が早く出世したり、
事業などで成功する姿を見て、よかったねと思えるか、
あるいは、悔しくて嫌になったりする思いに分かれます。

このように、自分より先を行っていたり、
成功している人を見て、自分もうれしくなるか、
それとも悔しく思うかの違いが出てくるでしょう。

あるいは、自分よりも不足していたり、
貧しかったりする人を見て、サポートしてあげたくなったり、
自分に出来ることをしてあげたいと思う場合と、
見下したり、不幸を喜ぶような思いが出てくる場合があります。

人の喜びを見てともに喜べ、
人の悲しみに共に涙する光に向かう人と、
人の喜びを悔しがり、人の悲しみを喜びとする闇に落ちていく人がいます。

光に向かうか、闇の中に落ちていくかは、
その人の思いの方向性次第であり、
それが死んだ後でも向かう世界が違ってきます。

 ( https://www.spacebrothers.jp/2017/10/blog-post_29.html )

            <感謝合掌 令和3年2月19日 頓首再拝>

吾々の内部には「光」が宿っている - 伝統

2021/02/26 (Fri) 03:13:43


        *「光明道中記」(2月26日《常に微笑する日》)より   

【光の行くところ暗はない。私の行くところに穢れはない。
 私が周囲の穢れで汚れるようなような者だとは思って貰いたくない。
                    (『生命の實相』第十六巻)】

これは同じ本にある「耶蘇伝」の一節である。
此の言葉はキリストの言葉として茲(こ)に言われているけれども、
「光の行くところ暗はない」と云うことは、
吾々自身に就いても亦言わるべきことなのである。

キリストは彼の時代に「光」の代表者として出現した。
しかし、その「光」は吾々自身の内にも宿っているのである。

このことをキリストは
「われ往きて汝等に来るなり」(「ヨハネ伝」十四章)と言ったし、
釈迦は「一切衆生仏性あり」(「涅槃経」)と言ったのである。

吾々の内部には「光」が宿っている。

吾々はその「光」を枡の下に置くから可(い)けないのである。
吾々の周囲が暗いのは自分自身のうちに「光」が宿っていないからではなく、
その「光」を高く掲げることを忘れたからである。

われみずからを「光」であると観ぜよ。
「われ明るし」と自分自身の心に告げよ。
そこから明るい世界が開けて来るであろう。

常に微笑せよ、少なくとも今日一日常に微笑せよ。

            <感謝合掌 令和3年2月26日 頓首再拝>

倒れた其の瞬間に光を見よ。 - 伝統

2021/02/28 (Sun) 06:36:24


        *「光明道中記」(2月28日《金剛不壊の日》)より 

【常に光を見よ。暗を見ること勿れ。
 常に昇り行く姿を想像し、墜落する姿を想像するな。(『向上読本』)】

倒れた其の瞬間に光を見よ。

どんな人でも一度や二度は躓かない者は稀である。
併し躓いたとき、倒れ切ってしまう者と、倒れ切らない者とがある。
此の区別が人間の幸不幸を左右するのである。

不倒翁(ふとうおう)とは倒れない人のことではなく、
倒れても起き上がる人のことである。

形は倒れても、倒れた前と、一度倒れてまた起き上った人とは
その魂の深さに於て、その体験の深さに於いて、相違するものである。

人は倒れることが目的ではないが、
倒れてすらも人生は常に獲得(ゲイン)のほかはないのである。

倒れてすらも吾々は其処に唯「獲得」のみを見出すのである。
斯う云う人はどんな激しい運命もその人を挫折さすことは出来ない。
こんな人を金剛身と言い不壊身と言うのである。

風邪を引くたびに身体が弱くなると思う人もある。
光明思想は風邪を引くたびに身体が強くなると思うのである。

熱が出るのは全身の細胞分子の振動数の増加であるから新陳代謝の向上である、
と思うのが光明思想である。

             <感謝合掌 令和3年2月28日 頓首再拝>

他者の中に光を見る - 伝統

2021/03/07 (Sun) 03:34:37


       *Web:かんながら(2020年11月25日)より抜粋

他者を光として見ることは、
自らが光であることを認めることに繋がっています。

相手を光として見るというのは西洋的な表現ですが、
日本人も知らずに生活習慣としてやっていますよね。


お辞儀がそれです。

お辞儀は、相手の中の仏性に対してやっています。

だから目上も目下もなく、みんな会えばお辞儀をします。


横綱と平幕力士の対戦も、対等なお辞儀から始まります。



今日もあなたの中に鎮座するブッダに

ご挨拶。

    (https://abetoshiro.ti-da.net/e11747778.html

            <感謝合掌 令和3年3月7日 頓首再拝>

眼をひらけば、神の光が輝いている - 伝統

2021/03/09 (Tue) 02:49:24


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月9日)」より

これほど神の光が輝いているのに不幸というものがどこにあるか。

ただなんじの心が鎖(とざ)しているからにすぎない。

眼をひらけば、そこはすでに天国である。

            <感謝合掌 令和3年3月9日 頓首再拝>

《百万燭光の光》 - 伝統

2021/03/27 (Sat) 02:36:28


      *『生活の智慧365章』(第1部生命の泉)第1篇(P6) より

あなたはもっと自由にならなければなりません。

過去の不快な出来事や、憎しみや悲しみや、
恥辱(ちじょく)や嫌悪(けんお)や
一切の心の傷から自由にならねばなりません。

そして心の底から愉(たの)しくなり平和にならねばなりません。
そこであなたはそれらを忘れるために努力します。

「あの憎しみを忘れよう』と思って一所懸命努力しますが、
そうしてもそれを忘れられないという人があるのです。

それは物を一杯積んである土蔵の中で、
小さな蝋燭(ろうそく)で照らしているようなもので、
中々心の倉が全部明るくならないで、倉の中の整理が進まないのと同じである。


小さな蝋燭の光とは、自分の自力的な小我の努力も効果が
全然ない訳ではないけれども、偉大なる力はないのである。

神の方へ振り向きなさい。
神は巨大な力をもっていられて、譬えば百万燭光の電灯のようなものである。
神の光に照らされたら一切の暗黒は消えてしまうのである。

            <感謝合掌 令和3年3月27日 頓首再拝>

《暗の中にも光を見る者は幸いなるかな》 - 伝統

2021/04/21 (Wed) 03:23:19


        *『 生長の家 』(昭和25年4月21日)より

   吾は今日より殊更(ことさら)に明るき精神も以て
   生活せんことを期するのである。

   明るさは明るさをよぶのである。
   神は光であるから明るき精神をもっている者のみに波長が合うのである。

   吾はどんな失敗にも失望しないのである。
   凡ゆる失敗とみえる時に成功がみえるのである。

   キリストの最後の最も大なる失敗は
   「 十字架にかかる 」 と云うことであったのである。

   然(しか)し彼は十字架にかかることによってのみ
   人類を救済することができたのであり、
   復活して永遠の生命を得ることができるのであり、
   不幸の中に不幸のみをみるのは信仰なき者のことである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13836857.html (消滅)

            <感謝合掌 令和3年4月21日 頓首再拝>

闇の中で光を灯していく - 伝統

2021/05/05 (Wed) 04:43:29


       *Web:宇宙の兄弟たちへ(2021.04.05)より

人生には暗く見えるような時があります。

闇夜に放り出されたかのように、
暗くて冷たい時が人生には訪れます。

絶望にあった時、苦難に立たされた時、
目の前が真っ暗になって、一瞬で暗くなる時があります。

そうした闇の中にあることで、闇が濃いほどに、
その中で輝く光は強く輝いて見えるものです。

白昼の太陽が燦燦と輝いている時には、
光を灯しても誰にも気づかれないでしょう。

昼間にはあなたの持っているローソクの光に
誰も気づかないかも知れません。

ですが、闇の中にあるからこそ、光りは輝いて見えます。

闇の中にあるからこそ、
自らの希望の光を、霊的光を灯していくべきです。

私たちは順調な時には、自らを省みることも少ないでしょう。
今までにやり方を改めることもなく、
そのまま進んで行こうとします。

ですが、人生で壁にぶつかった時、暗闇の中に置かれた時に、
あらためて光をもとめるようになります。

それはまやかしの光であってはいけません。

求めるべきは偽りの輝きではなく、真の光を求めるべきです。

偽りの光とは、この世的なものを言います。

物質的なものであったり、金銭や地位、名誉などを求める心です。

この世にあるものはすべて移ろい行くものであり、はかないものなのです。

それを自分を輝かす光と思ってしがみ付いていると、
いつしかモノとともに脆くも崩れていくでしょう。


真実の光とは、真の霊的光です。

真理の光を理解し、受け入れることで、あなたの心に光が灯ります。

真理の光は減る事もなく、消えることもなく、滅びることがありません。

永遠にあなたのうちで輝くでしょう。


イエスが「わたしが与える水はその人の内で泉となり、
永遠の命に至る水がわき出る」と言ったのはこの事を指します。

人生の暗闇の時期のこそ、
この光は大切であり、あなたが頼りとなるものです。

この光と共に生きるものは幸いなり。あなたは生ける水を飲むものである。

その水はあなた自身を潤し、周りの人々の渇きをも満たすであろう。

https://www.spacebrothers.jp/2021/04/blog-post_5.html

            <感謝合掌 令和3年5月5日 頓首再拝>

悪を消す光 - 伝統

2021/05/22 (Sat) 04:23:45


      *谷口清超【著】:『智慧と愛のメッセージ』より

この世の中には「善」と「悪」とがあって、それがお互いに
争い合っていると考える人があるが、本当はそうではない。

何故なら神様は「善」のみをつくり給い、
「悪」はおこしらえにならなかったからである。

そして神様のおこしらえにならなかった「悪」はナイからである。


ところが、実際には、「善」も「悪」もあるように見えるが、
これは「光」と「闇」との関係と同じである。

光のみがこしらえられたのであって、闇はこしらえられたわけではない。
ただ、光のとどかぬところが、闇のごとく見えるのである。


けれども、神様は、「善」をこしらえることに不足されたわけではなく、
凡ゆるところをことごとく完全におつくりになった。
そこで、実は「闇」のごとき「悪」はナイのである。

ナイけれどもアルように見える。
それは吾々の見方がすみずみまでゆきとどかないからである。

あたかも、「光」がみちあふれていても、
目を閉じておれば、暗く見えるようなものである。


光を見るためには、パッチリと目をあけて見なければならない。
そのように我々が「心の眼」を開いてみると、
「善」ばかりが見えて、「悪」は消えるのである。

「そんなバカなことが・・・」
と反対する人がいるかも知れないが、それは、
目を開いたら光が見えると言われても、
「そんなバカなことが・・・」
と言ってシッカリ目を閉じている人のようである。

論より証拠、「心の眼」を開けばよい。
たちまちにして「悪」はきえて、「善」のみがあらわれてくるであろう。

では、「心の眼」を開くにはどうすればよいか。
先ず、相手の立場に立って考えてあげることである。

そうすればきっと、悪と見えた人の心にも、
善がやどっていることが判るであろう。

だましたり、うそを言ったり、乱暴したりする人も、
心の底からそれがよいと思ってやっているのではない。
「そうするほかなかったのだ・・・」と、心では泣いている。


その奥底の心をみる立場に立てば、
相手は本当はいい人であったのだということが判る。

ただ、「どうすればよいかを知らなかった」かわいそうな人たちである。
だから、我々は、相手をにくむ必要はない。

教えてあげ、なぐさめてあげ、導いてあげればよい。

「悪」を消すには「悪口」や「罵り」ではだめだ。
「絶対善」をもってのみ、「悪」をけすことができる。

それはちょうど、「闇」を消すには
「光」をもってくればよいようなものである。

http://michie-h.jugem.jp/?cid=80

            <感謝合掌 令和3年5月22日 頓首再拝>

【人に光を当てる】 - 伝統

2021/06/08 (Tue) 04:11:31


        *メルマガ「人の心に灯をともす」(2021.01.30)より

   (藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…)

   《どんな人でも完全ではない。
    その人の欠点だけをひろえば誰でも悪人になる。

    悪人でもその長所だけを見つめたら善人ともいえる。

    困った石、邪魔な木でも配置をかえたら見事な庭の助けとなる。

    工夫と寛容が人を活かす》(松下幸之助)


   松下電器産業(現・パナソニック)の創業者であり、昭和を代表する実業家。

   松下氏は十歳の時、父親の事業が失敗、
   尋常小学校の卒業を待たずに大阪の火鉢屋に丁稚奉公し、
   そこから一代で世界屈指の家電メーカーを育て上げた
   希代(きたい)の経営者として知られ「経営の神様」と呼ばれました。


   「人に光を当てる」を経営の基本とした氏は
   社員の長所を見て短所は見ない「人を活かす経営」に腐心されました。

   その人使いの妙は紹介した言葉からも
   窺(うかが)い知ることができます。

        <『人生心得帖』致知出版社
             https://amzn.to/3oBK8mR >

            ・・・

中国の唐代の詩人の李白のこんな言葉があります。

《天 我が材(ざい)を生ず 必ず用(よう)有り》

天は自分という人間を生んだ。

天が生んだ自分は必ず自分にしか果たせない役割、使命があるはずだ、
という意味です。

李白の詩は今日まで千年以上にわたり人々に口ずさまれてきました。

その李白の人生観が窺(うか)がえる言葉です。


20代の青年の集まりで、この言葉を紹介した時、全員の目が輝きました。

若い人たちはこういう言葉を求めているのだと思いました。

良い言葉は人の心に灯をつけるもののようです。

味読したい言葉です。

(以上、本書より抜粋)


事実はひとつだが、それを見る人によって、
それは幸せのタネともなるし、不幸のタネともなる。

すべては、モノの見方や考え方で決まる。

どこに焦点を当てるかだ。


松下幸之助氏の有名な言葉がある。

「子どもの頃は貧乏で一家離散、 病気がちで体が弱く、
 学歴もない(小学校中退)人だった。でも、だから成功できた」

貧乏、病気がち、無学歴、という3つの困難。

並の人間なら、そのうちの一つでもあったら、ペシャンコになってしまう。

それを乗り越えたがゆえに、大きな仕事を成し遂げた。


また、「明珠在掌(みょうじゅたなごごろにあり)」という禅の言葉がある。

誰もが、はかり知れない価値のある宝物をすでに持っている。

そんな貴重な宝が、自分の手の上に載っているではないか、と。


まさに、

「天が生んだ自分は必ず自分にしか果たせない役割、使命があるはずだ」

ということ。


「人に光を当てる」

自分にしか果たせない役割、使命を探したい。

            <感謝合掌 令和3年6月8日 頓首再拝>

明暗の二途 - 伝統

2021/06/21 (Mon) 02:26:22


        *谷口清超先生著『純粋に生きよう』より

多少表面的には損をしても、心配はいらない。
善い行いをし、信仰を深めれば、将来は明るいのである。
何故なら現象の損失は真の損失ではなく、一時的縮小であり、
その間に得た「生きた経験」がモノを言うからである。

ある人は病を得、ある人は受験や仕事で失敗した。
しかしその前に「魂を進歩向上」させ得た人の失敗は、実は成功である。
彼は必ずより偉大となり、より充実した人格を作り上げる。

けれども失敗を失意と無気力で迎えた人は、より一層の深みにはまり込む。
人生にはどんな時にも、向上と下降との二つの途が用意されている。
だからひたすら向上の道を歩め。光に向かって進もうではないか。

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/3298

            <感謝合掌 令和3年6月21日 頓首再拝>

いつも心に太陽を - 伝統

2021/07/13 (Tue) 03:43:26


【クレヨン社公式】2021年最新レコーディング【いつも心に太陽を2021】
https://www.youtube.com/watch?v=C2fgh6J8Beo

作詞:柳沼由紀枝
作曲:柳沼由紀枝
編曲:加藤秀樹


ずっと遠い昔 確かに愛されてた記憶思い出して
生まれたての君を花束のように抱いていたパパがいた
小さな事でいい 楽しかった事をひとつ思い出して
友達の事でも朝日に胸ふるわせた日のことでもいい


  どんな寂しかった人も忘れないで
  命は宇宙の力の 祈りと祝福を受けて生まれてきたということを...


優しくて懐かしい泣きたくなるような記憶を抱きしめたら
君はいつの日にも一人きりじゃなかった事に気づくだろう


  本当にやりたかった事や好きだったものを口に出してみて
  失くしかけていた夢は胸の奥 そっと息づいてる

子供の日に埋めた宝物のような記憶を見つけたなら
もっと正直にもっと自分を信じる事できるから
あたたかい記憶は赤く君の心にともる勇気になる
哀しみの夜が訪れても足元照らす希望になる
子供の日に埋めた宝物のような記憶を見つけたなら
もっと正直にもっと自分を信じる事できるから

思い出して 忘れないで 生きるわけを


<参照>

公式 クレヨン社は『まだ』ここにいる。
https://blog.ap.teacup.com/crayon/267.html

クレヨン社「いつも心に太陽を」 / Crayon-sha "Itsumo Kokoro-ni Taiyo-o" (1990)
https://www.youtube.com/watch?v=ZwRzZbxSFvE

            <感謝合掌 令和3年7月13日 頓首再拝>

《魂の全域を神の光で照しましょう》 - 伝統

2021/07/26 (Mon) 04:38:27


          *「眞理」第2巻基礎篇第1章(P6~7)より

肉体の「我(が)」と云うものは
なかなか執濃(しつ)いものでありまして、
それは悪いと知りながら、「これ位のことは」と思って、
自己免許をしてしまう。

その「これ位のことは」で失敗してしまうのであります。

あなたの全生活の隅々までも、残る隈(くま)なく、
神の智慧の光で照していると云う風にしなければなりません。

あなたの心に「神」の光を迎え入れねばなりません。

唯一ケ所でも神の光に照らされない場所があっては、
其処のみはジメジメとして黴菌がわくのであります。

あなたの魂の扉を全開(ぜんびら)きにして、
あなたの魂のあらゆる部分に神の光の行き届かない所が
ないようにしようではありませんか。

「わが生命(いのち)はわが生命(いのち)ならず、
 天地(あめつち)の貫く祖神(みおや)の生命(いのち)」
と繰り返し御念じください。

            <感謝合掌 令和3年7月26日 頓首再拝>

眼をひらいて真相を見よ。そこに光り輝く世界を見出すであろう - 伝統

2021/08/01 (Sun) 04:40:48


         *「光明法語」(8月1日 健康と祥福とは万人具有)より

誰でも皆、最善の健康と最善の祥福とを楽しむことが出来るのである。
何故なら人間は皆神の子であるからである。

それが出来ないのは、神の子たる実相を自覚しないか、
神の子たる生活を生活しないからである。

健康と祥福とは、特別に或る人にのみ与えられたる恩恵ではない。
眼をひらいて天地の真相を見よ。
そこに光り輝く光明の世界を見出すであろう。

眼を開いて自己生命の実相が「神の子・円満完全」であることを見よ。
病いや不幸に心の眼を振り向けても光は見えない。

            <感謝合掌 令和3年8月1日 頓首再拝>

《周囲を照す光となれ》 - 伝統

2021/08/26 (Thu) 04:54:55


          *「眞理」第2巻基礎篇第3章(P87)より

周囲の人々を精神的に照らすところの光(ひかり)となれ。
微笑(びしょう)を周囲に投げかけるだけでも
それは周囲を照らす光となるのである。

罵(ののし)ったり、叱ったりする言葉のかわりに、
賞(ほ)めたり、感謝したり、激励する言葉を投げかけることは
周囲を照らす光となるのである。

人を悦ばす言葉を毎日言うように試みなさい。
人を叱ったり、憎んだりする言葉を発したときよりも、
自分の幸福感は増すでしょう。

叱るよりも、感謝して、賞めた方が自分も楽しいし、
その人の能率は増加するのである。

人の間違いの重荷を自分自身の背に背負ってはならないのである。

人の間違いは、赦さなければならない。
そして愛情によって激励すべきである。

          <感謝合掌 令和3年8月26日 頓首再拝>

「神は光り」にして少しの暗きところなし - 伝統

2021/09/26 (Sun) 05:00:34


        *「生命の實相」第39巻仏教篇(P100~103)より

次に掲ぐるヨハネの言葉のごときは生命の直接把握であります。


   太初(はじめ)より有りし所のもの、我らが聞きしところ、目にて見し所、
   つらつら視て手触(さわ)りし所のもの、即ち生命(いのち)の言葉につきて、
   ―― この生命すでに顕われ、われら之を見て証(あかし)をなし

   その曾(かつ)て父と偕(とも)に在(いま)して今われらに顕われ給える
   永遠の生命を汝らに告ぐ、……我らが彼より聞きて、また汝らに告ぐる
   音信(おとずれ)は是(これ)なり、即ち“神は光にして少しの暗き所なし”。
                        (「ヨハネ第一書」第一章)



病める者よ、

「神は光にして少しの暗き所なし」

この言葉を瞑目して十遍、百遍、千遍となえよ。

おのずから自己の身辺光にて満ち、
天国浄土ここにありとの観念が生まれてくるに相違ないのであります。

病まざる者も、健康なる者も、悩める者も、悩まざる者も、
この言葉を瞑目して唱えよ。

神は単に病める者のみの神ではないからであります。

かくのごとき真理の言葉を繰り返し唱える時、
言葉の力にて次第に存在の実相が
「光明そのものであって少しの暗き所なき」事実が
ハッキリ自覚されてくるのであります。

光明思想とわたしが名づけたところのものは、
この「神は光りにして少しの暗きところなし」という
直接体験の宗教的真理であって、

人間は神の子であるから「少しも暗きところなし」であり、

したがって罪もなければ病もなく、また不幸災難もないのであります。

神はこの真理を神の子なる人間に知らせたいが、
人間は五官知(へびのちえ)によって実相覚を失い、
(すなわちエデンの楽園追放状態にいて)

人間をただの肉体と思っていて、どうしても、
人間が本来罪なき無病の光明的霊的存在だということを悟らないのであります。


イエスはこれを嘆いて次のように言っておられます。

   「なんじら聞きて聞けども悟らず、見て見れども認めず、此の民の心は鈍く、
   耳は聞くに懶(ものう)く、目は閉じたればなり。」
                    (「マタイ伝」第13章14~15)

われわれは「聞きて聞かず、見て認めざる」五官の感覚をまず否定し去らなければ、
生命の実相(ほんとのすがた)も、存在の実相(ほんとのすがた)も、
《真に見》《真に知る》ことができないのであります。

どんなに病気のために肉体が、
内臓が、皮膚が、骨が、腐爛しているように見えようとも、
われわれは五官感覚のこのような証明を信じてはならないのであります。

現象は「現われの象(すがた)」であって、それは存在の実相ではない。


真理は仏教もキリスト教も一つであります。
『法華経』にあるように、「衆生劫尽きて此の世の焼くると《見るときも》、
《わが浄土は安穏なり》」であります。

この世が諸君の眼の前で壊滅し去り、見渡すかぎり焼け野原に見えようとも、
それは現象であって、実在の実相ではない。

われわれは神を信じなければならないし、神の造り給いしところの実在世界の
完全に美(うる)わしく妙(たえ)なる実相と、そこに住む人間そのものの
完全に健康にして豊かなる実相を知らなければならないのであります。

それには五官の感覚と人間知とが邪魔するのであります。

けれども「肉なる人間」より「霊なる人間」へ、
「病みかつ死する人間」より「絶対無病にして不死なる久遠人間」へ
生まれ更り、

しかして復活するためには
五官の証明を「ウソだ」「虚妄だ」「虚仮不実だ」と否定し去り、
肉眼に見えなくとも、神の造り給うた《そのまま》の世界が光明に満ち、

神の造りたまえる《そのまま》の人間が、
円満無病完全なる霊なる久遠人間であることを
まず信じなければならないのであります。


諸君は五官の証明を、肉体の証明を、真実だと思いがちであるが、
これはまったくウソのことである。ごらんなさい、

五官には太陽は朝な朝な東より西へ出(い)でると見えるけれども、
実相は太陽が出るのではない。
地球がその逆方向に自転しているのではありませんか。

肉体に病気があるように見え、
諸君の運命に不幸があるように見えるのもそのごとく、
想念の波が反映してそう見えるだけであって、

想念を変化したならば、不幸は消え、病気は消える。
消えるほかにしかたがない。

しかしわれわれの想念はどうしても、
五官の印象を基にして組み立てられやすいから、
眼に見える不完全なる姿を非存在として否定することと、
「人間・神の子」の真理を教えられるままに
幼児の心で信ずることが必要であります。

イエスは、幼児の心で「完全久遠人間の実相」を悟ることを躓かす場合にはむしろ
「その眼を抜きて棄てよ」とまで極言していられるのである。

肉体の否定、五官知の抹殺こそ、実相知に復帰する鍵であります。

それで見えると思っている肉眼を抉(えぐ)り棄て、
これこそ幼児の智慧(実相智)の獲得の唯一の条件だと
イエスは言っておられるのであります。

          <感謝合掌 令和3年9月26日 頓首再拝>

常に心を光明で照り輝かす - 伝統

2021/10/27 (Wed) 04:58:54


     *『生命の實相』幸福篇下第三十八巻(10月27日)より

神は光である。
われらが神を心に念じ、わが内に神を感ずるとき
われらの心のうちに光明が点ぜられるのである。

光が点ぜられたならば、
その室(へや)の中にあるいっさいのものがハッキリ見えるように、

われらの心に光が点ぜられたら、
われらが神の世継としてすでに与えられているすべての善き物を、
眼の前にハッキリ見出すことができるのである。

具体的に「あれ」「これ」と求むるよりも、
常に心を光明で照り輝かすことの方が必要である。

           <感謝合掌 令和3年10月27日 頓首再拝>

行手(ゆくて)の光を見ながらに真直に進む - 伝統

2021/11/13 (Sat) 03:18:10


          *「眞理」第2巻基礎篇第1章(P20)より
           《人生に失敗する原因は》

人は時々寂寥感(せきりょうかん)におそわれて天涯孤独、
身も心も何処にも頼るところもない淋しさに
打ちひしがれる事がある。

それは自分の心が大生命の「生かす法則」から
ハミ出している時に起る感情である。

若し吾々がラジオのダイヤルを廻して波長を合わすように
大生命放送局の「生かす波長」に自分の心を同調させるならば、
吾々は新しい調和を見出し、劣等感は消え去ってしまうのです。

人生は長い墜道(トンネル)の中を進んで行くようなもので、
行手(ゆくて)の光を見ながらに真直(まっすぐ)に
進んで行かなければならないのです。

若し吾らが眼をつぶって光を見ず、
真直(まっすぐ)に進んで行かなかったならば、
必ずトンネルの側面の壁に打(ぶ)っつかって怪我するのです。

これが人生に於ける色々の失敗と失意との原因である。

           <感謝合掌 令和3年11月13日 頓首再拝>

本質は光り輝いている - 伝統

2021/12/02 (Thu) 04:58:43


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月2日)より

ここに1個の高貴なダイヤモンドがあるとする。
それが人の邪念に涜(けが)されなかったら、それはそのまま貴いのである。

ダイヤモンドの美はそれ自身で貴い。

が、それをある人に示したとき、

甲は、「今頃こんなものを指につけていたら贅沢だと言われるだろう」と言った。

乙は、「わたしがつけていたら、どうせあれは贋(まが)い物だろうと
    人が言うでしょう」と言った。

丙は、「わたしがそれをつけていたら、
    どこかできっと盗んで来たんだろうと人が言うでしょう」と言った。

甲はそれに「贅沢」という名をつけ、
乙はそれに「贋(まが)い物」だという名をつけ、
丙はそれに「盗み」という名をつけたのである。

かくして無上の価値を持った宝石も、心なき人の手に触れるとき、
それはすでに宝石でなく、「贅沢」となり、「贋(まが)い物」となり、
「盗み物」となったのである。

しかし、これらの批評にかかわらず、
ダイヤモンドは依然としてそれ自身の光輝をもって輝いているのである。

            <感謝合掌 令和3年12月2日 頓首再拝>

《心で光を見る》 - 伝統

2021/12/29 (Wed) 05:00:39


      *「光明法語」(12月29日)より

福山市三吉町の木工業横山勇君はこんな体験談を語った。

「私の妻は一方の眼の瞳に星がかかって、
 その星がしだいに大きくなり失明した状態になっていた。

 6月に尾道市に生長の家の講習会が開かれたとき聴講に来た。
 第一日の講習を受けた翌日は眼が痛み出して
 二日目の講習会には出席出来なかった」。

これは迷いの自壊作用である。

「第三日には痛みが和(やわら)らぎ出席したが、
 何かの拍子に手が眼の繃帯に触れて繃帯の位置がズレると、
 星に瞳孔が閉ざされて見えなくなっていた眼が見え出した」。

心が一変して光を見る心になったからである。

            <感謝合掌 令和3年12月29日 頓首再拝>

《万物の奥に光を見よ》 - 伝統

2021/12/30 (Thu) 06:31:12


      *「光明法語」(12月30日)より

光は天地間に充ち満ちておれども、
其の光を百パーセント完全に見る者は聖者である。

多くの人たちはその光を一部しか見ていないのである。

心の眼を開いて見よ。
到る処に光は充満している。

空気には神の生命がかがやいているのである。
空気を吸っていることは神の生命を吸っていることである。

水には神の愛が輝いているのである。
水を飲むことは神の愛を飲むことである。

食には神の恵みが輝いている。
これを食することは、神の恵みを食することである。

        <感謝合掌 令和3年12月30日 頓首再拝>

地球に降り立った光 スピリチュアルメッセージ - 伝統

2022/01/04 (Tue) 01:30:01


         *Web:宇宙の兄弟たちへ(2022年1月3日)より

人間の本質とは、この地球に降り立った光です。


光そのものが積極的な善であり、闇を払うものです。

善を広げ、闇を払うことこそ光の使命であります。

そして、光は物事を明らかにし、真実を知らしめる存在です。

暗闇の中にあっては、何物も判別することはかなわないでしょう。

光が掲げられてこそ、
人は物事を見分けて、判別することが可能となります。

光は積極的な善であり、世を照らす者です。

そして光は、世の中に温もりを届けます。

もしも地球に日の光が射さなければ、
世の中は凍てついた世界となるでしょう。

光は大地を温め、海を温め、生き物たちを温めます。

それは光のうちに、愛の波動があるからです。

光が相手に熱を与えるのは、その根底に愛が含まれているからです。


私たちは、この世に降り立つ、小さなローソクの光のようなものです。

その光は小さくとも、情熱によって、
周りへと次々と光を灯し、広めていくことが出来ます。

はじめは小さな光であったものが、
次々と広まっていき、多くの地域を照らしていけます。

光そのものの中に、私たちの本質とは何であるのか、
私たちのなすべきことが含まれているといえます。

光とは何であるかを知ることが、私たち自身を知ることであり、
光の性質を探求することが、私たちの使命をも発見していくことなのです。


https://www.spacebrothers.jp/2020/08/blog-post_29.html

        <感謝合掌 令和4年1月4日 頓首再拝>

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