伝統板・第二

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昭和の日(5) - 伝統

2020/04/12 (Sun) 03:42:21

今月(4月)の29日は「昭和の日」です。

令和の御代になり、ますます昭和の御代の印象は薄れておりますが、
昭和天皇を偲び、昭和天皇に関するエピソードを紹介してまいります。

            ・・・

その言葉に‥米国が膝から崩れ落ちた!
『俺達は天皇陛下というものを‥誤解していた!』
世界が感動する「日本の天皇陛下」という存在とは?いったい?《永久保存版》


https://www.youtube.com/watch?v=Mapc4o9x8SA

・・・

<関連Web>

(1)光明掲示板・第一「昭和の日」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1500

(2)生長の家光明掲示板・第二
   《 昭和の日をお祝いする集い 》 4月29日 :明治神宮会館 (7755)
    → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=1551 (消滅)

(3)伝統板・第二「(4月29日)は「昭和の日」」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6477200

(4)伝統板・第二「昭和の日②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7554592

(5)伝統板・第二「昭和の日(3) 」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7742498

(6)伝統板・第二「昭和の日(4) 」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7858601

           <感謝合掌 令和2年4月12日 頓首再拝>

昭和天皇、天皇家と国民の真実の関係 - 伝統

2020/04/13 (Mon) 04:55:45


        *メルマガ「リアルインサイ(2014年04月29日 )」より


4月29日は「昭和の日」ですね。

ご存知の通り、昭和天皇の誕生日です。

GHQによる徹底した洗脳工作、戦後ほぼ大半が左翼化したメディアや
教育機関による情報によって、
昭和天皇に対する認識、天皇家に対する認識も、大きく歪められています。

本日は、この大切な日に、

ほんとうの昭和天皇、天皇家と国民の真実の関係について、シェアしたいと思います。


自らのことを後回しにしてでも、
国民の幸せを願う昭和天皇のお心は、
さらに驚くような形で表れています。


----------------------
昭和天皇は防空壕で暮らしていた


1945年5月、米軍の完全に国際法違反の非人道的爆撃により、
東京は焼け野原となり多くの一般市民が犠牲となった。

皇居も明治宮殿他27棟が全焼。

陛下は

「そっか焼けたか。
 これでやっと皆と同じになった」

とつぶやいたそうです。

住まいを失った陛下は防空壕で暮らす様になった。

陛下が暮らしていた防空壕は地下深く掘られた御文庫付属室。
水が染み出しポタポタ落ちる。
スーツを吊るして置くと、一両日で絞れる程の水を含む酷い湿気だったと言います。

侍従の者が

「こんな場所に住まわせては置けない」

と御所の新造を提言するも

「世の中には住む家の無い人も居るのに、
 私はこれだけの物が有るのだから」

とアッサリと却下。

戦後の混乱期を乗り越え、世はミッチーブーム。

昭和34年、日本国民は皇太子殿下、美智子妃殿下の御成婚を華やかに祝う。

その時ですら、昭和天皇、香淳皇后は防空壕で暮らして居た。

それからさらに2年、終戦から16年経過して、
やっと新たに建てられた「吹上御所」に移られた。

「こんな良い家に住める様になったのも、皆んな国民のお陰だ」

とおっしゃられた。

陛下は、還暦を迎える歳になっていた。

私は、この「昭和天皇と防空壕」の話しを知った時、涙が溢れた。

外国の元首は
「国民が苦労をしていても自らは豊かさと威厳を持った暮らし」が当たり前。


日本だけです「国民と共に苦労をする元首」は

日本人に生まれて良かった。
天皇陛下は日本の誇りです。

----------------------


そして、
こうした昭和天皇のお心を、
当時の日本国民は、よくよく理解していました。


----------------------
世界を驚かせた昭和天皇の巡幸

戦後間もない昭和21(1946)年 2月から約8年間かけて、
昭和天皇は国民を励ますために日本国中を巡幸された。

天皇を迎える日本国民の姿に、世界中のインテリが驚いた。

「君主制は敗戦に耐えられない」のが世界の歴史の常識。

敗戦国の君主は、国民に殺害されるか国外逃亡が当然だった。

天皇が巡幸を始められた当時は、戦争が終った直後で、
銃などの武器はいたるところに残り、警備もほとんどない。

敗北した国の治世者が、
こんなにも危険な状況に 身をさらした前例はない。

世界は、天皇は殴られ、刺され、 銃で撃たれ、命を奪われるのは
間違いないと確信していた。

ところがそこには
驚くべき日本国民の姿があった。

何処へ行っても天皇は群集に歓迎され、もみくちゃにされる。

涙を流し「天皇陛下、万歳、万歳」と
歓迎を受けるその姿に、世界中が驚いた。

それほどまでに日本国民は天皇を愛し、尊敬していた。

日本人と天皇との結びつきは
神話の時代から脈々と続いている。

----------------------

<関連>

・世界の‥「度肝」を抜く!
桁違いの民度の日本人『全国巡幸をした昭和天皇』
あの時代の‥天皇陛下と日本人の関係が日本を復興させた‥《永久保存版》
https://youtu.be/O6_UM0hsHfI

           <感謝合掌 令和2年4月13日 頓首再拝>

開戦の詔書 - 伝統

2020/04/14 (Tue) 04:53:44


《開戦の決断と天皇》

「ところで戦争に関して、この頃一般で申すそうだが、
 この戦争は私が止めさせたので終った。

 それが出来たくらいなら、なぜ開戦前に戦争を阻止しなかったのか
 という議論であるが、なるほどこの疑問には一応の筋は立っているようにみえる。

 如何にも、尤もっともと聞こえる。

 しかし、それはそうは出来なかった。

 申すまでもないが、我国には厳として憲法があって、
 天皇はこの憲法の条規によって行動しなければならない。

 またこの憲法によって、国務上にちゃんと権限を委ねられ、
 責任をおわされた国務大臣がある。

 この憲法上明記してある国務各大臣の責任の範囲内には、
 天皇はその意思によって勝手に容喙ようかいし干渉し、
 これを制肘(せいちゅう)することは許されない。

 だから内治にしろ外交にしろ、憲法上の責任者が慎重に審議をつくして、
 ある方策をたて、これを規定に遵したがって提出して裁可を請われた場合には、
 私はそれが意に満ちても、意に満たなくても、よろしいと裁可する以外に
 執るべき道はない。

 もしそうせずに、私がその時の心持次第で、ある時は裁可し、
 ある時は却下したとすれば、その後責任者はいかにベストを尽くしても、
 天皇の心持によって何となるか分からないことになり、
 責任者として国政につき責任をとることが出来なくなる。

 これは明白に天皇が、憲法を破壊するものである。
 専制政治国ならばいざ知らず、立憲国の君主として、
 私にはそんなことは出来ない」

(『侍従長の回想』、藤田尚徳、中公文庫)

◆容喙する: 横から差し出ぐちをする。
◆制肘する: 自由な行動を妨げる。

    (http://www.chukai.ne.jp/~masago/kaisen.html

・・・

開戦の詔書

https://dajya-ranger.com/patriot/imperial-proclamation-of-war/#outline__3

・・・

<関連>

・まさか!世界が衝撃を受けた
‥その内容「開戦の詔書」で天皇陛下が伝えた真実とは‥? 
※開戦の詔書を何処よりも分かりやすく解説します!《永久保存版》
https://youtu.be/9VMec-GjrQ4

           <感謝合掌 令和2年4月14日 頓首再拝>

「終戦の詔書」~玉音放送 - 伝統

2020/04/16 (Thu) 03:32:23



・その内容に‥米国が驚愕した!
『俺達は‥とんでもない事をしてしまった‥』
玉音放送で天皇陛下が伝えたかった真実とは?
「玉音放送を何処よりも分かりやすく解説します!」《永久保存版》

  → https://youtu.be/kQPFY1tNhT4


     *Web:終戦の詔書(口語訳付き)
          https://www.buzzfeed.com/jp/keiyoshikawa/gyokuon2019


           <感謝合掌 令和2年4月16日 頓首再拝>

戦わざれば亡国、戦うもまた亡国 永野修身元帥 - 伝統

2020/04/17 (Fri) 04:54:34


      *Web:ねずさんのひとりごと(2019/08/24)より抜粋

戦時中の元帥(げんすい)で海軍大将、
第二十四代聯合艦隊(れんごうかんたい)長官、
第三十八代海軍大臣、
第十六代海軍軍令部(ぐんれいぶ)総長という
「海軍の三長官全てを経験」した唯一の軍人が永野修身元帥です。

(中略)

我が国の歴史の中で、昭和16年(1941年)にはじまる大東亜戦争は、
たいへん大きな重みを持った事件です。

その大東亜戦争がいよいよ開戦という方向に向かったとき、
終始一貫して戦争に反対したのが、当時海軍の軍令部長だった永野修身元帥です。

彼は太平洋まで出て米国と直接対決するという案に、
「あまりにも博打すぎる」と、猛反対をし続けています。


最終的には、山本五十六らが「太平洋に出て行くという作戦が通らなければ
連合艦隊司令部一同が総辞職する」と永野に詰め寄り、結果とし永野も折れました。

けれど永野元帥は、むしろ南方資源地帯の確保と、
本土防衛を主軸とした漸減邀撃作戦でいくべきとの考えでした。


このことは、戦争が終わってみての結果論で見れば、永野案の正しさが歴然とします。
なぜなら大東亜戦争において、日本はあまりにも太平洋に戦域を広げすぎていたからです。

(中略)

さて永野元帥は、海戦にも太平洋エリアの広域防衛戦にも反対しました。
けれど最終的に真珠湾攻撃並びに太平洋の島々への出撃を許可されています。


開戦間近な昭和16年9月6日のことです。
昭和天皇の前で御前会議が開かれました。

この席で昭和天皇は、

「外交が主か、戦争が主か」

と閣僚たちに尋ねられました。

及川海相が
「重点は外交にある」と答えました。

すると昭和天皇は懐から紙片を取り出され、御自らお読みになられました。

 【よもの海 みなはらからと思ふ世に など波風の たちさわぐらむ】

明治天皇の御製です。

四方の海は、みんな同じ人間、同じ家族であり兄弟なのに、
どうして争いの波風が起こるのだろうか、という歌です。


昭和天皇のこのお言葉に、列席した閣僚たちは、
全員、ただうなだれるより言葉がありませんでした。
沈黙が続きました。

陛下が平和を望むお気持ちを、閣僚たちは全員、痛いほどわかっているのです。
けれど、米国の日本に対する戦争への挑発は、
もはや引き返すことのできない所まできていました。

それでもなお平和を、外交による事態の好転をと、
昭和天皇は求められておいでなのです。

陛下の前で、
「それでも戦争せざるをえないです」などと誰が言えましょう。

言おうとしたら涙がとめどなくあふれてしまう。
まともに言葉なんて話せなくなる。


このとき、日本を代表する英才であり、すべての情報を知り尽くした
日本の最高責任者たちが、陛下の御前で、声もなくうなだれ、
涙をこらえるしかなかったという事態は、私達は重く受け止める必要があります。

それは「日本がそこまで追いつめられていた」ということだからです。


当時の閣僚たちは、いまの内閣とは違います。
鍛え上げられた、先の先まで見通す力を持ったプロたちです。

なかでも軍の出身者は、日清、日露の戦争や、第一次大戦、
日華事変等を経由した歴戦の勇士たちでもあります。

そしてその歴戦の勇士たちは、同時に可愛い部下や、
愛する友たちを目の前で失った悲しみの経験を持つ人たちでもあります。


当時の新聞は無責任に、

「最早日米開戦止む無し!」
「鬼畜米英」
「進め!一億火の玉だ」

などと、特大の見出し文字で国民世論をあおっていました。

しかし、新聞というのは、ただの流行通信です。
あおって売れれば担当者は出世し、企業業績が上がり、株価も上がるのです。

けれども古来、そうして好き勝手な報道をしていたメディアが、
報道の「アオリ」によって生じた結果について何らかの責任を取ったという話は、
聞いたことがありません。


一方、軍人というものは、戦えば、そこにあるのは自分の死であり、部下の死です。
戦いの結果は、常に自己に責任として降りかかるのです。

戦うなら、勝たなければなりません。
けれど敵は世界最強の米英です。
国力も軍事力も、当時の日本の百倍以上の力があります。

そういう相手と戦って勝利を得なければならないのです。
どれだけ多くの犠牲を払うことになるのか。

幾度も検討を重ねながら、その決断をするまでの苦しみ、
部下を失わなければならない悲しみ、そういう諸々のことと、
当時日本の置かれた厳しい現状の狭間の中で、彼らは苦しみ抜いていたのです。

しばしの静寂あと、

昭和天皇は海軍軍令部総長の永野修身元帥に発言を求められました。

永野元帥はしばしの沈黙のあと、ようやく重い口を開いて答えました。

そのときの言葉です。

「アメリカの主張に屈服するというのは、
 日本が亡国の憂き目に遭うということです。

 しかし戦うのもまた亡国であるかも知れません。

 戦わないなら国が滅び、
 戦ったとしても国は滅びる。

 けれど戦わずに国が滅びるというのは、
 日本民族が、身も心も永遠に国を失うことになります。

 もし戦い、護国の精神に徹するなら、
 たとえ戦いに勝てなかったとしても、
 祖国を護るという日本精神が残ります。

 そうすれば私たちの子孫が、
 必ず再起し、あるいは三起する。

 統帥部としては、もとよりあくまでも
 外交交渉によって平和的解決を望んでいます。

 けれどもし、不幸にして開戦と決し、
 陛下の大命が発せられるようなことになるなら、
 勇躍戦いに赴き
 最後の一兵まで戦う覚悟でございます。」

(中略)

当時、日本が欧米列強に呑み込まれる、
すなわち戦わず負けることを承諾するということは、
日本人全員が、白人の奴隷となることを意味していたのです。

そうなれば民族の誇りもなにもあったものではなくなります。
誇りどころか、日本人には一切の私権がなくなり、教育も奪われ、
日本人は米英の植民地奴隷に成り下がる。

それが当時の「世界の常識」だったのです。


そして永野軍令部総長は、とても大切なことをここで語られています。
それは開戦に先立ち、

「たとい戦い勝たずとも、
 祖国護持の精神がのこり、
 われらの子孫は
 かならず再起三起するであろう」

と述べたことです。

ここでいう子孫というのは誰のことでしょう。
いまの日本に生きる私たち、ひとりひとりのことです。

(中略~チャーチルの言)

(中略~旅順要塞攻略戦での若き日の永野修身による提案と採用)

永野修身は、若い頃から常に才能を磨き、新しい技術に挑戦し、工夫し、改善し、
周囲の者と協調し、これを実現にまで漕ぎ着けるだけの徳を持っていたのです。

さてその永野元帥、若い頃からたいへんに義侠心が強かったそうで、
一時は清水次郎長一家に本気で弟子入りしようとされたのだそうです。

侠気がある、ということは、人の悲しみや辛さをわがこととして理解し、
同苦し、一緒に泣き、一緒に笑う男気がある、ということです。

そんな永野は、大東亜戦争のさなか、軍令部総長としての実務は次長以下に任せ、
自身は戦没者の墓碑銘を日々、書き連ねていたといいます。

大東亜戦争で散華された英霊は二百三十六万柱です。
なぜ「柱」というのかといえば、散華された英霊の皆様は、
日本の神々となられたからです。

「柱」というのは神を数える際の数詞です。

そしてその神々は、今を生きる私たちに、

「俺たちは祖国を守るために死を選んだ。
 日本は亡国の危機に陥るかもしれないが、
 君たちは祖国護持の精神を持ち、
 必ず再起三起せよ」

と語りかけてくれているのです。

そのことを永野修身元帥の言葉が見事に象徴しています。

戦後、東京裁判において永野元帥はA級戦犯とされました。

(中略)

彼は、(東京)裁判を通じ、そうした「自らにとって有利になる弁明」を
一切しませんでした。

そればかりか、「真珠湾攻撃の責任の一切は自らにある」と明言しました。
戦死した山本らに真珠湾の責任を押しつけるような発言さえも一切しませんでした。

その姿に、米国海軍大将のジェームズ・リチャードソンは、

「マーシャル永野こそ、
 真の武人である」

と、惜しみなく絶賛しています。

いま、永野修身元帥は、靖国神社に祀られています。

     (https://nezu3344.com/blog-entry-4233.html )

           <感謝合掌 令和2年4月17日 頓首再拝>

昭和天皇の和むエピソード~その1 - 伝統

2020/04/23 (Thu) 05:00:12


       *Web:昭和天皇の和むエピソードまとめ より

《皇太子時代》

(1)5歳の頃正月に小児科医から屠蘇を勧められ試飲したものの、
   悪酔いして寝正月を過ごす破目になり、以後だめになったと伝わっている。


(2)学習院初等科時代、

   「尊敬する人は誰か?」という教師の質問に対し、
   生徒の全員が「明治天皇」を挙げたのに対し、
   裕仁親王一人だけ「源義経」を挙げた。

   教師が理由を聞くと、「おじじ様の事はよく知らないが、
   義経公の事はたかがよく教えてくれたから」と答えた

    *「たか」は養育係の足立たか(後の鈴木貫太郎夫人)のことです。


(3)学習院時代、学友たちがお互いを名字で「呼び捨て」で
   呼び合うことを羨ましがり、御印から「竹山」という名字を作り、
   呼び捨てにしてもらおうとした。(この提案に学友が従ったかどうかは不明。)

    *御印は「若竹」


(5)皇太子時代にイギリスを訪問したとき、ロンドンの地下鉄に初めて乗車した。

   このとき改札で切符を駅員に渡すことを知らず、
   切符を取り上げようとした駅員ともみ合いになり
   (駅員は、この東洋人が日本の皇太子だとは知らなかった)、
   とうとう切符を渡さず改札を出た。

   この切符は後々まで記念品として保存されたという。

           <感謝合掌 令和2年4月23日 頓首再拝>

昭和天皇の和むエピソード~その2 - 伝統

2020/04/26 (Sun) 06:19:37


       *Web:昭和天皇の和むエピソードまとめ より

《天皇時代》

(1)アドルフ・ヒトラーから当時ダイムラー・ベンツ社の最高ランクだった
   メルセデス・ベンツの770K(通称:グロッサー・メルセデス)を
   贈呈され乗っていたが、非常に乗り心地が悪かったため好まなかったと
   伝わる。

(2)巡幸での炭鉱訪問の際、労働者から握手を求められたことがある。
   この時にはこれを断り、「日本には日本らしい礼儀がありますから、
   お互いにお辞儀をしましょう」という提案をして実行した。

(3)アメリカからの使節が皇居新宮殿について感想を述べたとき、
   「前のはあなたたちが燃やしたからね」と皮肉を返したと伝わる。

(4)皇居の畑で芋掘りをしていた時、日本では滅多に見ることのできない
   珍しい鳥であるヤツガシラが一羽飛来したのを発見。
   侍従に急ぎ双眼鏡を持ってくるように命じた。

   事情のわからない侍従は
   「芋を掘るのに双眼鏡がなぜいるのですか」と聞き返した。

   この時のヤツガシラは香淳皇后が日本画に描いている。

(5)戦後の全国行幸で多くの説明を受けた際、
   「あ、そう」という一見すると無味乾燥な受け答えが話題になった。

   ただしこの受け答えは後の園遊会などでもよく使われており、
   説明に無関心だったというよりは単なる癖であったと思われる。

   本人も気にして「ああ、そうかい」と言い直すこともあった。

(6)「同感の時には、体を乗り出すか、
   『そう』のところが『そーう』と長くなる」とのこと。

   この「あ、そう」と独特の手の上げ方は非常に印象的で、
   国民に広く親しまれた。
   過去には、タモリが声真似をレパートリーとしていた。

(7)埼玉県立さきたま史跡の博物館を行幸したとき、
   ガラスケースの中の金錯銘鉄剣を見ようとしたとき、
   記者団が一斉にフラッシュをたきその様子を撮影しようとしたところ、
   「君たち、ライトをやめよ!」と記者団を叱った。

   フラッシュがガラスに反射して見えなかったのを怒ったものである。

(8)ある田舎の小学校に天皇陛下がおみえになる、ということで
   何とかおもてなしをしなきゃ、と思いながらも食糧に乏しく、
   やむをえず、ふかしたさつまいもを恐る恐る出したところ、
   陛下が思いのほかこれを気に入られた。

   後に陛下が皇居で「さつまいもが食べたい」と言われたところ、
   コックさんが「皮がついたままお出しすることはできない」と思い、
   皮を全部むいてお出ししたところ、陛下はションボリして
   「皮がおいしいのに…」と言われたとさ。

(9)晩年、足元のおぼつかない天皇を思いやって
   「国会の開会式には無理に出席しなくとも……」の声が上がった。

   ところが天皇は「むしろ楽しみにしているのだから、
   楽しみを奪うようなことを言わないでくれ」と訴えた。

(10)スポーツに関しては
   「幼いときから色々やらされたが、何一つ身に付くものはなかった」
   と発言した。

(11)海の生物が好きであり、
   臣下との会話で海の生物の話題が出ると喜んだという。(中略)

   釣った魚は研究のため、全て食べる主義であった。
   終戦直後には
   「ナマコが食べられるのだから、ウミウシも食べられるはずだ」と、
   葉山御用邸で料理長にウミウシを調理させ食した
   (後に「あまり美味しい物ではなかった」と述べた)という。

(12)帝は毒に配慮してフグを食す事を禁止されていたが、
   「フグを食べてみたい」と側近に言ってみるのが好きだった。

   侍医などは、帝の「なぜ、ダメなのか」という下問に答えられず、
   困ったりしていた。

   しかし、これは帝の好きな冗談らしく、帝自身、
   フグは食べられ無いと言う事は理解していたらしい。

(13)大の相撲好きで有名だが、贔屓の力士については
   質問されても決して明かさなかった。

   贔屓の力士を言えば世間が騒ぎ色々な人に迷惑がかかると配慮した。
   でも、実は蔵間のファンだったと推定されている。

(14)見学した新幹線の運転台が気に入り、侍従に時間を告げられても
   しばらくそこから離れなかったこともある。

   訪欧時にもフランスで鯉の餌やりに熱中し、
   時間になってもその場を離れなかったエピソードがある。

(15)昭和天皇の謁見を受けたアメリカの「フォード」元大統領は、
   体の震えが止まらなかったと回想している。

           <感謝合掌 令和2年4月26日 頓首再拝>

昭和天皇の和むエピソード~その3 - 伝統

2020/04/28 (Tue) 05:06:08


       *Web:昭和天皇の和むエピソードまとめ より

《ご家族》

(1)香淳皇后のことは「良宮」(ながみや)と呼んでいた(中略)。
   夫婦仲は円満であった。
   結婚当初から、当時の男女として珍しく、手をつないで散歩に行くことがあった。


(2)皇の手の爪を切るのは、皇后が行っていた。
   侍医が拝診の際に、天皇の手の爪が長くなっていることを指摘すると
   「これは良宮(ながみや)が切ることになっている」と、
   医師に切らないよう意思表示した。


(3)はじめ皇女が4人続けて誕生したときには側近が側室を勧めたほどだが、
   これに対し「良宮でよい」と拒否した。

   側室候補として華族の娘3人の写真を見せられたときも
   「皆さん、なかなかよさそうな娘だから、相応のところに決まるといいね」
   と返答し写真を返した。


(4)第一皇子である継宮明仁親王が誕生した際には、
   香淳皇后と親王を見舞い「よかったね」と声をかけ退出した後、
   すぐ引き返し、再び同様に声をかけ皇后の労をねぎらった。


(5)1987年(昭和62年)9月に行われた天皇の手術後の第一声も
   「良宮はどうしているかな」であった。


(6)ひげを蓄えたのは、成婚後からで「成婚の記念に蓄えている」とも「
   男子、唯一つの特権だから」とも、その理由を説明している。

   他方、1986年(昭和61年)以降文仁親王が口ひげをたくわえはじめたときには
   「礼宮のひげはなんとかならんのか」と苦言を呈した。

   (https://matome.naver.jp/odai/2139029225611679201 )

           <感謝合掌 令和2年4月28日 頓首再拝>

昭和天皇に仕えた最後の料理番~「昭和の日」に学ぶ~ - 伝統

2025/04/29 (Tue) 12:23:19


      *メルマガ「人間力」(2025.4.29)より


●致知出版社の人間力メルマガ2025.4.29
─────────────────

昭和天皇の最後の「料理番」を務めた谷部金次郎さん。

陛下の質素な食生活、
初めてお会いできた時の感動、
崩御された時の悲しみ……

谷部さんのお話からは、
激動の時代を乗り越えられた
昭和天皇の温かいお人柄が偲ばれます。

─────────────────

【谷部】

料理人として陛下にお会いできる機会はまずありません。
いつも女官さんを通して陛下の感想が私に伝えられました。

ただ、陛下にお仕えした26年間の中で
1度だけ直接お目にかかることができました。

菊栄親睦会という、皇族と旧皇族の方々による
年に1回の催しの席でのことです。

その頃、私は大膳課に入って5、6年が経っており、
陛下のお食事も作り始めていました。

立食形式のそのパーティーで、
私は天ぷらの係になりました。
黙々と天ぷらを揚げていると、
目の前に陛下がお立ちになっていました。

この時初めて陛下に直接こうお声を掛けられました。

「穴子としそを」

「はい、かしこまりました」

そう返事はしたものの、頭の中は真っ白。

緊張して手は硬直し、小刻みに震えて、
穴子としそがうまく箸で掴めません。

どうにか揚げなくては、
と震える右手をおさえるように左手を添えながら、
なんとか油の鍋に入れました。

ところが、衣と葉がバラバラになってしまい、
見る影もありませんでした。

それでも陛下は天ぷらの出来栄えを
気にするご様子もなく、喜んで召し上がってくださいました。

その時、私はその場に倒れそうなくらい力が抜けていました。

戦後生まれの私は、
正直なところそれまで陛下を
特別な存在と思ったことはありませんでした。

ところがこの日、陛下の穏やかながら威厳のあるお姿に接し、
自分はなんと小さい存在なんだと
圧倒されそうになったのです。

生涯この方おひとりのために
お仕えしようと誓ったのはこの時です。

陛下は、思いやりに溢れたお方でした。

例えば人から物をいただかれた時には
贈り主の心を無駄にしないような扱い方をなさり、
常に相手の立場に立って ものごとをお考えになっていました。

お食事に関してもご自身のお言葉の影響力を
分かっていらっしゃったので、
食べたい物もお言葉にはされませんでした。

しかし、おいしい時は必ず
「おいしかった」と伝えてくださり、

一度箸をつけた料理は残さずきちんと
お召し上がりになるなど、
私たち料理人にも細かい心配りをされていました。

私は、そんな陛下の豊かな人間性にますます惹かれていました。

・ ・ ・ ・ ・

陛下が倒れられたのは、昭和63年。
お食事を吹上御所までお運びした数時間後のことでした。
この時のショックはいまも忘れられません。

陛下が最後に口にされた料理は
どのような献立だったのか、
いまでも思い出せないくらいです。

それからも陛下のご様態は
一向にいい方向には向かわず、
大膳課も最悪の事態に備えていました。

昭和64年1月7日早朝、ついにその時が来ました。

せめて最後のお別れのご挨拶をしたいと、
女官さんの後をついて行き、
御簾の向こう側で永遠の眠りにつかれた陛下に
深々と頭を下げました。

私の料理に「おいしかったよ」
と言ってくださる陛下には2度と会えないと思うと、
魂が抜けていくような気がしました。

御大葬が終わり、私は次の行き先も決まらぬまま、
大膳課を辞める申し出をしました。

子どもたちはまだ5歳と3歳、
家を買ったばかりでローンもだいぶ先まで残ったまま。

しかし、自分がお仕えするのは
昭和天皇おひとりのみという私の意志は、決して揺るがなかったのです。

大膳課を辞めた私は、テレビ番組や自宅、
大学で料理を教えるようになりました。

仕事は変わっても、おもてなしの心が
料理を作る上での原点であるという思いは変わりません。

陛下から学んだ思いやりの心を
多くの人に伝えることが、
いまの私の使命と思っています。

(※本記事は月刊『致知』2007年3月号
特集「命の炎を燃やして生きる」より一部を抜粋・編集したものです)

           <感謝合掌 令和7年4月29日 頓首再拝>

昭和天皇|激動すぎた87年の生涯 - 伝統

2025/04/29 (Tue) 14:34:02

昭和天皇|激動すぎた87年の生涯。マッカーサーが驚愕した天皇の言葉とは?!
【太平洋戦争】
あゝ、激動ノ時代ヲ。( 2025/02/26 )
https://www.youtube.com/watch?v=OCH48VLzGOI

           <感謝合掌 令和7年4月29日 頓首再拝>

「昭和100年」の記憶 昭和天皇の富山県内訪問 振り返る - 伝統

2025/04/30 (Wed) 03:52:48

「昭和100年」の記憶 昭和天皇の富山県内訪問 振り返る
KNB(2025.4.29)
https://news.ntv.co.jp/n/knb/category/society/knb0f6da33ada04b8ea47eab8db2a9cc05

https://news.yahoo.co.jp/articles/d29a0d6520f8f200e8155d9cf8f16aec56683c06

           <感謝合掌 令和7年4月29日 頓首再拝>

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