伝統板・第二 2563176

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人類光明化 ②

1:伝統 :

2020/03/12 (Thu) 04:11:45

       *伝統板・第二「人類光明化」からの継続です。
          → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7097424 


神様と二人で  ―  素直に「ハイ」と実践

        * 『生長の家』(昭和63年11月号)より
           ~生長の家広島教区講師 澤 ユキエ

生長の家の大真理にふれて、何時の間にか早50年が経ちました。

生長の家とのご縁は、ねばり強く強引にすすめられて、
仕方なく出かけていった生長の家の講習会場でできました。 
今も、その時の光景が生き生きと心のスクリーンに映し出されてきます。

本部講師 吉田國太郎先生(故人)の光明燦然と、
まばゆいくらいに輝いておられるお姿を拝し、
アッと驚き、息をのみこんだ一瞬の出会いでありました。 

生れて初めて聞く真理の言葉
  ―  砂が水を吸い込むように、全心身が感動で打ちふるえました。

もの心ついてより、病弱だった私は「この肉体が私だ」と思っていただけに、
「この肉体が自分ではなく、生命の入れ物が肉体で、本当の自分は神の子であったのか」と、
それまで心の中に眠っていた神が目覚めて、歓喜し一切の病が消滅して行きました。

 
講演の最後に言われた 

「神想観なくして生長の家人と言うことなかれ。 聖経読誦もまたしかり。 
働くことは、はたを楽にする愛行。 
この三行を毎日実践すれば、必ず幸せに、そして健康になる。 
もし1ヶ月やってみて変化のない時は、この首でよかったらさしあげましょう」 
 
とまで確約された力強いお声が、今もここにありありと聞えて参ります。

 
当時、憎まれ嫌われながらも、首に縄をつけて真理への道案内をして下さった
荒谷忠様は、今は故人となられましたが、その後、私は主人の転勤で、
島根県、山口県と移動する間中も、報恩感謝のつもりで生長の家の人を訪ねて行き、
光明化運動にささやかながらも役立てさせて頂くことができました。

“おすすめ申すは菩薩の行”の実験台となった私は、
荒谷さんのねばりを教えられたものです。 

“一人出家すれば九族天に生まる”どころか、
行く先々で真理を伝えさせて頂くことにより、
“暗”と“病”が消えて行きました。

『生命の實相』 頭注版22巻 にある「智慧の言葉」にこんなところがあります。 

「明るさに輝いた生活、魂の喜べる生活。 
 心にも行ないにも暗い影が一抹もない生活。 
 あなたの生活はこれでなければならぬ」

本来の私は何時も明るく、例え悲しいこと、苦しいことがあっても人に見せず、
顔で笑って心で泣くことがあり、お茶目で歌が大好きでありました。 

当時は、まだ講師ではありませんでしたが、 
「真理は誰のものでもない、みんなの宝、無限の世界。 
 配給しても配給しても少しも減らない」 ということもよく分かりました。

地方講師を受験しましたのは、昭和35年、宇治別格本山で行われた詳密講習会の時でした。 
その後、講師として、また教区の白鳩会幹部として光明化運動に頑張って参りました。

昭和37年、この地を終着駅として住居を定めてもう20数年余。

故清水キミコ・前教区白鳩連合会長からは、 
「週1回の最寄会も、もし来る人がいなければ神様と二人で始めよ」  
とご指導をいただきました。 

「ハイ」と受けてやってみると、なるほど次々に神様が人を招集して下さり、
その中から幹部、講師がどんどん誕生、
支部長、地区連合会長、地区総連会長となっていきました。 

神様が人を選び、それぞれの人の個性を生かし、育てて下さったのです。

「聖歌隊もハイ」 「母親教室もハイ」 「若鳩の集いもハイ」 で始めさせて頂きました。 
私は、「ハイ」と中心帰一して、素直に実践するだけでした。

その道中においては、「実生活は捨ててはならぬ、捨てねばならぬ」 の真理が
充分に理解出来ず、人知れず苦しみ悩んだこともありました。 

しかし何事もやりぬくことによって、「通過できてよかった」と思った時は、
生長の家における停年の時が来ていました。

現在は、早朝行事、誌友会、講演会の会場主として役立たせて頂くとともに、
後輩の道しるべとなり、家庭では、主人と結婚の完成を目指しながら、
光明化運動に邁進しています。

  (https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/f164420660dec1fedd801a53885480ab )


          <感謝合掌 令和2年3月12日 頓首再拝>
2:伝統 :

2020/03/24 (Tue) 04:26:02

 
           *「昭和42年 新年祝賀式」における御言葉 より

自分が救われたいと思っている人は、まだ信者ではないので、
人を救う側に立って、はじめて信者であり神様の側に立つので ・・・・・ 
ただ神誌を読んで、ああいい思想だ、これを応用して、自分が健康になり、
自分の仕事が繁昌して、なんて考えている人は、まだ未信者であるといわねばなりません。

今は国家にとっても重大な時でありますから、自分だけが助かるのではなく、
人に施す側になっていただきたいと切に思うわけであります。

人を施す側になるのでも、自分が神様の御用をしてやっているのだというように、
傲慢な考えをもっては、本当にお蔭はいただけないのであります。 

神様から御用をさせていただく、その使命をおゆるし頂く、
それを光栄として人を救うことに励むのですね。

神様からさせて頂くこの光栄、この有難さですね。 
この境地になって道を弘めて行くということに本当の法悦という悦びが出て来るのです。 
こういう態度が信仰には尊いのです。

http://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p4.html
07/25/13

          <感謝合掌 令和2年3月24日 頓首再拝>
3:伝統 :

2020/04/15 (Wed) 04:27:33


        *『白鳩』(昭和47年4月号)より

   一人の人の “信仰” 又は “信念” という “心” の力は、
   その人の周囲に影響を及ぼすのである。 

   しかし、その影響範囲には限度があるので
   自分の受持区域以上に達しなかったという例がある。

   それ故に各人は各人それ自身の心相応の運命を受けるのであって、 
   「戦争は無い、戦力はいらない。 本来、実相に於ては敵はないのだから」  
   と‘その人’が信じ、その‘念ずる人’の数が少なければ、
   日本全体にその “心の平和” の影響を具体化することはできないのである。

   だから同志同信の人々を殖やすために組織をつくり、団体の心の力が協同して、
   世界平和に貢献しなければならないから、

   読者諸氏には、単なる読者になるだけでなく、
   組織の中に入って協力して下さいと御願い申上げるのである。

      (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/18455330.html 消滅)

          <感謝合掌 令和2年4月15日 頓首再拝>
4:伝統 :

2020/04/26 (Sun) 04:41:55


           *「光明道中記」(4月26日)より

【吾々の徳と云うものは既に吾が実相の中にあるのです。吾が実相が神であって、
 その中に万徳が既に備わっているのです。    (『生命の實相』第十七巻)】


私の写真を頒布するのは私の写真を《拝ましめる》ためではない。
それは、私たち夫婦を懐かしがって時々私たちの写真を見たくなる人たちのお部屋に、
写真となってお伴したいからである。

写真収入の幾らかは本部維持費に一部になっているのであろう。
信者たちに私の肖像を拝ましめるためならば第一本部道場に掲げて置くべきであるが
本部道場には私の写真は1枚も掲げていないのである。

各地方の教化部に掲げられている私たちの写真もその教化部の責任者が個人として私
を懐かしがって、写真代を出して自発的に求められたものばかりである。

見本を写真部にでも出して置けばもっと申込者があると思うが、写真の善悪良否を
考えて求める人のところへは私は行きたくないので、
私は最も非効果的な宣伝方法で写真を頒布しているのである。

私の養母(はは)は98歳で亡くなられたが、生きているとき
私の肖像写真が頒布されているのを聞いたとき、
「雅春も近頃は身売りしているそうじゃ」と嘆息された。

私は私の写真を拝ましめるところか身売をしているのであった。
ただその身売りが人類光明か運動の経費を造るために使われるので
普通の身売と異(ちが)う。
私は衆(しゅう)のために身売するものである。

          <感謝合掌 令和2年4月26日 頓首再拝>
5:伝統 :

2020/04/27 (Mon) 04:05:25


           *「光明道中記」(4月27日)より

【わが身忘れて神様にみんな献げるとは、我が身は無いと云う実相を知ることです。
                        (『生命の實相』第十七巻)】

生長の家は肉体無しの教である。
何時でも『殻』の捨てられないような人は生長の家ではないのである。
人は何処までも真理の公僕でなければならないのである。

私は今もそれを心掛ているのである。
「私は教祖ではない」とは『生命の實相』の中にもあるし、
「生長の家の歌」の中にもある。

私は真理の宣布機関として生長の家本部なる組織を造ったが、
少しもそんな組織の主宰者として何時までもいたいとは思わないのである。
何時でも時期が来たら後継者に譲る準備が出来ているのである。

生長の家の地方の教化を司っている人たちもその心掛でいて欲しいと思う。

「《私が》教化した」とか「《私の》造った地盤だ』とか言い出したら、
もうその人は生長の家の思想ではない。

生長の家の思想は無我の思想であるから
「《私が》」とか「《私の》」とかのない生活である。

他の宗教では暫く継続的に教化していると、時とすると自分の信者を作ることがある。

真理への信者でなくして自分の信者を造ってその勢力を張ろうとするとき、
その人は真理から墜落したものとなる。

そんな人で高所から墜落して死んだ人もある。

          <感謝合掌 令和2年4月27日 頓首再拝>
6:伝統 :

2020/06/15 (Mon) 04:55:53


          *「光明道中記」(6月15日《一人必ず救う日》)

【至上の愛は神と偕(とも)なる時、おのづから出来る愛である。
                    (『生命の實相』第十一巻)】


「われ」と云うものは今日こそもう滅(な)くなったのである。
我(が)は無い、我欲も無い、我見も無い、我に属する一切のものもない。
「われ」が滅くなったとき其処にあらわれるものはただ神である。

神ばかりである。
われは無い、神ばかりである。
吾が面する世界は神の世界である。

わが坐する位置は神が我を按(お)きたまうた位置である。
わが擁する財は神が我にあずけたまいし財である。

わが位置をわが事のために使ってはならない。
わが財をわが事のために使ってはならない。
光明思想を弘(ひろ)めること。

人を救(たす)けるために、神の愛を顕すためには、
光明思想を弘めるにも優(まさ)りて良き方法は無いが故に、
私は光明思想を弘めるための私の能力と位置と財とを全部ささげているのである。

形ある財は費やされて消えて行くものである。
百円硬貨一枚は一人にそれを与えて一日の食料にも足りないのである。

併し、一枚の百円硬貨に当たる一冊の『生長の家』誌によって
起上(たちあが)った人がどんなに数多きことであろう。

職業を与え、財を与え、医療費を与えるのも慈善であるが、
職業の源泉、財福の源泉、自然良能の源泉である光明思想を与えることは
一層の善事である。

          <感謝合掌 令和2年6月15日 頓首再拝>
7:伝統 :

2020/06/16 (Tue) 03:28:17


        *「光明道中記」(6月16日《知ったら直(す)ぐ行う日》)より

【真理を生活上にそのまま生きると云うことが、道を知って道を行なうことである。
                         (『生命の實相』第十一巻)】

思念の力は如何に強くあろうとも「我(が)」の思念の力では駄目である。
強く欲する事物を心に描いてそれが実現せることを心に念ずるならば、
それは「実相永遠の秩序」に調和しない事でも実現するであろう。

併しその実現は永遠性のないものである。

痩せる方が健康である体質の人が、栄養剤や或る肥満法で肥えて見たのと同じである。
やがてその肥満状態が急激に消滅する時が来り、
その過渡期に著しき衝動(ショック)を受けるであろう。

初めから無理に肥えもせず、当り前で続いている方が、
その人にとって幸福であったであろう。

人類が今悩んでいるのは、人類全体の念が悩んでいるのである。
世界的惨害は人類大多数の誤れる念の具象化である。

吾々は炬火(たいまつ)を携えて歩む人のように、
暗黒の中にいても光明思想を携えて歩むならば自分の周囲は明るいであろう。

併し、自分の周囲のみが明るくとも、それで満足するならば
要するに吾々は利己主義である。

吾々は自分の携えている炬火(たいまつ)の火で、
人の尚(なお)燃えていない炬火(たいまつ)に火を点(つ)けねばならぬ。
人類の一人ひとりに光明思想の火を点けねばならぬ。

          <感謝合掌 令和2年6月16日 頓首再拝>
8:伝統 :

2020/07/13 (Mon) 04:47:54


        *「真理」第9巻生活篇第14章(P399~400)より

神を信じ神を愛するとは、
単に本を読んで 真理を悟るだけでは 足りないのである。

神が霊であり、神が愛であることを 悟るならば、
その悟りは 愛の実践によって 裏附けられなければ ならないのである。

神を愛するとは 本尊の前に 跪(ひざまず)き、ぬかずいて、
自分の利益が来るように祈ることではないのである。

神を愛するとは、人類を愛することである。
人類を愛するとは、手近にいる人々の苦しみや悩みを救うことである。

物質をあたえて隣人の苦しみを救う方法もあるが、
これは与えられた物質が無くなるとまた再び苦しみや悩みが
あらわれて来るから恒久の救いと云う訳には行かないが、
為さないより為す方が好いのは当然である。

併しこれは社会事業家や慈善家のなす方法である。

宗教家は、「真理」を与えて 
人類の苦しみや悩みの根本なる迷いを除くのである。

苦しみや悩みの根本が 除かれれば、
その人は永遠に救われた人となるのである。

          <感謝合掌 令和2年7月13日 頓首再拝>
9:伝統 :

2020/07/31 (Fri) 04:44:59


         *『 理想世界 』(昭和43年6月18日の法語)より

   釈尊は成道第十四日目にはじめて自己の悟れる宇宙の真理実相が、
   中心帰一の蓮華蔵世界であり、その中心に日宝王地が存在して、
   それに依ってその存在が安定している事、恰も太陽系の中心に太陽と言う
   中心があって太陽系全体の存在が安定しているが如く、

   原子にはその中心に原子核と言う中心があってその存在が安定しているが
   如くであるとして、日本国の存在を暗に示されたのであるけれども、
   当時の印度人に、そのような象徴的謎が解ける筈もないので、

   普賢菩薩ひとりにしか華厳経の深義を悟ることが出来なかったので、
   華厳の真理はその後久しく説かれないで竜宮海に秘められていたのであった。

   しかし今や、時節到来、竜宮の大神・塩椎の大神(又の御名は住吉大神)
   によってその深義が開顕されることになったのである。

   それが生長の家の人類光明化運動であり、
   日本の実相顕現運動である訳である。

   この運動を理解して参加する人悉く普賢菩薩の分身である。

   諸君自身が普賢菩薩なのである。

   (http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7735767

          <感謝合掌 令和2年7月31日 頓首再拝>
10:伝統 :

2020/08/05 (Wed) 04:53:40

        *『 理想世界 』(昭和43年6月19日の法語)より

   仏教には顕教と密教とがあり、顕教とは経典の文字の表面に顕れたる
   表面の意義其の儘に説く教えであるが、

   密教とは秘かに経典の文字と文字との間に、行と行との間に秘められている
   所謂る文底秘沈の真理を開講するところの教えであるのである。

   普賢菩薩とは釈尊在世当時にあらわれた一人の菩薩であるという風に、
   文字の表面だけに解するのは顕教である。

   併しながら吾々はそれを密教的に解釈して、
   普賢菩薩とは、人々に普く宿るところの“賢”(聡明の叡智)であって、
   その聡明の叡智の開けた人々は悉く普賢菩薩であるのである。

   華厳経でも、法華経でも、釈尊はこれを説き了られた時に、
   あとは普賢菩薩に「お前にこの真理を渡すから、よろしく頼む」
   と言う風に付嘱(ふぞく)していられることである。

   普賢菩薩が印度に釈迦在世中に生まれたひとりの人間であるならば、
   たった一人の人間に、その広宣を頼んでみても、
   その人間が死に絶えたら、あとは何とも致し方ないのである。

   普賢菩薩とは一人の人間ではなく、普く人に宿る“賢”なる
   叡智(即ち最高理性)を開顕した全ての人であるのである。

   かくて普賢菩薩に、華厳経の真理も、法華経の真理も、ともに伝えられ、
   その広宣がゆだねられた時、その真理が人類全体を光明化し、
   地上に蓮華荘厳の実相世界が顕現することになるのである。 

   (http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7735767

          <感謝合掌 令和2年8月5日 頓首再拝> 
11:伝統 :

2020/12/01 (Tue) 04:59:58


           *「光明道中記」(12月1日)より

  【自分の全力を出し切れば其処に無限の力が生ずる。(『生命の實相』第四巻)】
   
自分の親しい人が人類光明化の陣営から去ったとて、
その去った人に義理立てして吾らの同志から脱落しないでほしい。

吾々は世界を覆っている暗黒思想と戦っている光明思想の戦士達である。
吾等は幾多の戦友、百万人の戦友の屍(しかばね)を踏み超え、
踏み超えして進まねばならないのである。

斃(たお)れた戦友に義理立てする道は、戦友と同じく落伍することではない。
尚(なお)一層の元気を奮い起して人類暗黒化の敵陣に跳(おど)り込み
人類の敵を撲殺することに在る。

吾々は全世界を蔽う暗黒と戦わねばならぬのである。
「暗黒」が吾々の共同の敵である。

イエスは自分の人類光明化の軍勢から脱落して往った同志を
“迷える一匹の羊”に譬えて、その一匹の羊が再び同志の陣営に還って来る
ように、どんなに探求するかを、迷わざる九十九匹の羊を放置しておいて、

その一匹の迷える羊を探しに出かけるではないかとも言い、
まだ脱落した同志を家出していた放蕩息子に譬えて、
その放蕩息子が父の御許に還って来た時には、

父は家出しないで父の御許に忠実に仕えていた他の兄弟たちのことは放っておいて、
還って来た息子のために祝宴を催し、その指に宝石の指輪をはめてやって歓迎する
ではないかといっている。

我らが脱落した同志の復帰を歓迎するのも斯くの如しであるのである。

          <感謝合掌 令和2年12月1日 頓首再拝> 
12:伝統 :

2020/12/03 (Thu) 04:44:29


           *「光明道中記」(12月3日)より

【隠れたるところにて人を賞め得る人となれ、
 其の人の心境は朗(ほがら)かである。
                   (『生命の實相』第十巻)】

私は第二次世界大戦が欧州に勃発した時の日記に次のように書いている。

「すべて私の責任なのである。私はみずから顧みて恥じるほかない。
考えて見れば欧州の天地で、
ヒットラーが英仏を向うに廻して戦っている姿も私の心の影である。

私が『ヒットラーよ、もう戦争を止めてくれ』と言ったら、
ヒットラーが『ハイ』と答えて戦争を止めてくれるほどになれないのは、
まだ私の力が足りないからなのである。

力が足りないのは偉さの徴候ではない。
私がまだそれほど偉くなれないのは私が悪いからである」

私はそんなにまだ偉くなれていないのである。
まだまだこれからだと思う。
光明思想が世界に弘(ひろ)がることを待ちかねている。

光明思想を弘めている誌友のなかでまだ家庭が調和せず、
「何とか指導して貰いたい」と云う愬(うった)えが
私のところへ時々来るのは悲しいことである。

併し、わが実相哲学は直(ただ)ちにこうした悲しみから、
また私を立ち上がらせて、その人のために祈ることができるのである。

実相は皆”神の子”の兄弟で、争っていないのである。

          <感謝合掌 令和2年12月3日 頓首再拝> 
13:伝統 :

2021/02/05 (Fri) 02:13:25


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月5日)」より

一人の先覚者が現われてある教義や主義綱領を掲げて民衆の賞讃を博していると、
その同じ教義や主義綱領を自分は前から称えていたと言って、
その団体の人員を浚(さら)って行ったり、同じ主義綱領をほんの少しばかり変更して
自分の方が優っているといって崇拝を自分の方へ集めようとする者がある。

牛後(ぎゅうご)となるより鶏口(けいこう)となれという小才子(こざいし)が多いから
この世は乱れるのである。人間はなぜ大同団結をしないのだろう。

30年黙って一つの団体の牛後(ぎゅうご)に喜んで活動しうる人は、
ついにその団体で押しも押されぬ人物になることができるのである。

明智光秀のような才子はいくら多くとも世が乱れるばかりである。
ついに天下をとったものは徳川家康であったことを知らねばならない。

           <感謝合掌 令和3年2月5日 頓首再拝>
14:伝統 :

2021/02/12 (Fri) 04:48:33


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月12日)」より

わたしは御影町(みかげまち)および住吉村に住んでいたとき、
たびたび住吉神社に参拝して人類光明化のために祈願をつづけたものである。
そこころからわたしは雑誌『生長の家』を書きはじめたのである。

その後、生長の家神と申し上げるは塩土老翁(しおつちのおじ)、筒男神(つつのおのかみ)で
あらせられると知らされ、ハットしてその端倪(たんげい)すべからざる因縁に驚いたのである。

塩土神とは水火津霊(シホツチ)の神である。
水の霊(陰の原理)と火の霊(陽の原理)とを津なぎ結びて、一切を生み出す「生みの神」である。

だから塩土神(住吉神社・塩釜神社に奉斎)は古来安産の神として称せられ、
エホバ神の「懐妊(はらみ)の劬労(くるしみ)を増すべし、汝は苦しみて子を産まん」という
宣言を覆して、子を産むのに無痛分娩なることを実証したのである。

生長の家の教えを聞いてそのとおりに守るものは無痛分娩であるのはそのためである。
塩釜大神(しおがまのおおかみ)とは水火醸神(しおかみのかみ)として
陰陽交叉(いんようかみあ)いて生み出す神という意味である。

生長の家神を拝みたければ住吉神社に参るがよし、塩釜神社に参拝するのもよい。
われわれの団体は無宗派の万教帰一を説く団体であるから、
拝殿もなければ御祈祷をするということもない。

ただ書籍、講演、放送、直接指導等によって老病死を克服する教化団体である。

           <感謝合掌 令和3年2月12日 頓首再拝>
15:伝統 :

2021/02/13 (Sat) 04:52:33


           *「光明道中記」(2月13日《人に物を施す日》)より

【誰にでも基督の心、釈迦の心はある。それを出すとき彼の心は天地にひろがる。
                        (『生命の實相』第六巻)】

誰も本当は施主になりたいのである。
乞食にはなりたくない。施主になりたい。
受ける人になるよりは与える人になりたい。

それは与えると云うのは自己拡大の感じを与えるからである。

併し与える人ばかりでは、
受ける人がなかったら、此の世はまた淋しいことだと思う。

それは貰う人のない生産のようなものである。
生産は購買によって成立ち、施主は受ける人によって成立つ。

私は今迄与える事ばかり考えていて、
誌友をして施主にならしめる機会を与えないことに努力してきた。

これは今迄の宗教は信者を施主にして、
その施物(せもつ)に寄生して生活する傾向が
あったのを粛正するための反動であったと謂える。

信徒の一部に、自分は書物の顧客で人類光明化の協力者だ
と云う感じが乏しいのはそのためである。
自己を与えないもの、自己を献げない相手には永続的な魅力が感じられない。

そこで聖使命会が結成せられ、自分自身が人類光明化のシテである
という主体性の自覚の発生と共に信徒は情熱をもって
真理を宣布して下さることになったのである。

何事で、献げだけの生き甲斐が感じられるのである。

           <感謝合掌 令和3年2月13日 頓首再拝>
16:伝統 :

2021/03/11 (Thu) 07:07:09


          *『生命の實相』教育実践篇上(P187~188)より

ヨハネが福音書を書いた時分には 
「言葉は神なり《き》」であって、もうすでに言葉は神ではなかった。

それはどういう意味であるかといいますと、
言葉は、《実相の言葉》と《嘘の言葉(つまり迷いの言葉)》との
二種類があるのであります。

「言葉は神である」というのは、実相の言葉、すなわち善き言葉が神であって、
善き言葉を使う時、この善き言葉の力によって創造(つく)られるものは
すべて善きものであるということであります。

 
それが反対に、本来の善き言葉が汚され歪められて、
われわれが神の言葉、実相の言葉を使わなくなり、悪しき言葉を使う時、
その言葉の力によってこの世は乱れ、汚れ、天災地変、その他(た)
家庭争議などと、災い多き、悪しき現象となって現れてくるのであります。

 
この時、もう「言葉は神なり」ではなく、
「言葉は悪魔なり」になっているのであります。

 
それで生長の家の人類光明化運動とは、人類の言葉を浄(きよ)めて、
ほんとうに神の言葉にするということであって、人々の言葉を、
本来の神より発する言葉、実相より発し実相を讃える言葉にしてしまおう
というのが目的で、これこそわれらの人類光明化運動の究極の目的なのであります。

本来われわれは神の子であり、その実相は神であります。

この実相より発する言葉は必ず善ならざるを得ないのであります。 
すべての人みな神の子でありますから、すべてこれ善人なるべきはずであります。

ところがこの世の中には必ずしもことごとく善人の姿をした人間ばかりはいない。 
またそのことごとくが神の子らしい幸福さを備えていないというのは、
とりもなおさず実相から出た言葉がこの世界を形造っていないからであります。

実相ならざる言葉、罪とか、病とか、死とか、本来ないものを、
あるかのごとく装(よそお)っている言葉が
この世の中を占領しているからであります。

そこでわれわれの使う言葉を実相の言葉
 ―― 神より出(い)でた浄(きよ)まった本来の善き言葉のみに還元したならば、
実相の言葉によって、すべてのものが実相の姿をこの世の中に現わしてきて
たちどころに地上に天国浄土が湧出するというわけであります。

           <感謝合掌 令和3年3月11日 頓首再拝>
17:伝統 :

2021/03/30 (Tue) 02:21:42


         *『 人生を前進する 』( P148 )より

最も多く赦す者が最も偉大なるリーダーと成り得るのである。

最も多く愛する者が最も偉大なるリーダーとなり得るのである。

最も多く奉仕する者が最も偉大なるリーダーと成り得るのである。

最も多く與(あた)える者が最も偉大なるリーダーとなり得るのである。

最も多く稱(ほ)め得るものが最も偉大なるリーダーとなり得るのである。

http://meikyou123.livedoor.blog/archives/4983114.html

           <感謝合掌 令和3年3月30日 頓首再拝>
18:伝統 :

2021/04/04 (Sun) 04:39:29

   
       *『理想世界』(昭和46年4月号)より

   創始者への恩を背かず、創始者の発見した真理の基礎の上に立ちながら、
   単なるその亜流にならずに、独創的な業績あげ、世界の文化に貢献しつつ、

   世界の渦の中に巻き込まれて個性を失うようなことはせず、
   更に一層大きく発展させるものこそ
   真に創始者の弟子だということが出来るのである。

   真理は中心であり、
   創始者はその中心の周囲に自己の時間の許す限りの輪を描く。

   彼の人生の時間には限りがあるから、
   ある程度以上に大きな円を描くことはできない。 

   次に続くものが、創始者の円の上に同じような円を重ねて描く。 
   そして一歩もその円周は創始者のそれよりも大きくならないならば、
   これが所謂亜流である。

   しかし同じ中心を周って図を描きながら創始者よりも包容面積の広い同心円を描く。 
   更にその次に続く者は一層直径の広い同心円を描く。 
   それは同心円であるから真理の中心から逸脱する事はない。

   こうして多数の後に続く者がより一層包容面積の広い同心円を描きながら、
   その真理から拡がっていく。 

   しかもその同心円は中心から外れていないから
   自然にひとつの中心に集まる組織となっていて、その団結が崩れる事がない。

   そしてその同心円を
   仮に黄色とか緑色とか紫色とかに着色してみると美しい図柄ができる。 

   その各々異なる色合いがその後継思想家の個性を表現するものと理解すればよい。

        → http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19694729.html (消滅)

           <感謝合掌 令和3年4月4日 頓首再拝>
19:伝統 :

2021/04/16 (Fri) 04:10:31


        *『白鳩』(昭和47年4月号)より

   一人の人の “信仰” 又は “信念” という “心” の力は、
   その人の周囲に影響を及ぼすのである。 

   しかし、その影響範囲には限度があるので
   自分の受持区域以上に達しなかったという例がある。

   それ故に各人は各人それ自身の心相応の運命を受けるのであって、 
   「戦争は無い、戦力はいらない。 本来、実相に於ては敵はないのだから」  
   と‘その人’が信じ、その‘念ずる人’の数が少なければ、
   日本全体にその “心の平和” の影響を具体化することはできないのである。

   だから同志同信の人々を殖やすために組織をつくり、
   団体の心の力が協同して、世界平和に貢献しなければならないから、

   読者諸氏には、単なる読者になるだけでなく、
   組織の中に入って協力して下さいと御願い申上げるのである。

          http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/18455330.html (消滅)

           <感謝合掌 令和3年4月16日 頓首再拝>
20:伝統 :

2021/04/27 (Tue) 04:46:17


           *「光明道中記」(4月27日)より

【わが身忘れて神様にみんな献げるとは、我が身は無いと云う実相を知ることです。
                        (『生命の實相』第十七巻)】

生長の家は肉体無しの教である。
何時でも『殻』の捨てられないような人は生長の家ではないのである。
人は何処までも真理の公僕でなければならないのである。

私は今もそれを心掛ているのである。
「私は教祖ではない」とは『生命の實相』の中にもあるし、
「生長の家の歌」の中にもある。

私は真理の宣布機関として生長の家本部なる組織を造ったが、
少しもそんな組織の主宰者として何時までもいたいとは思わないのである。
何時でも時期が来たら後継者に譲る準備が出来ているのである。

生長の家の地方の教化を司っている人たちもその心掛でいて欲しいと思う。

「《私が》教化した」とか「《私の》造った地盤だ』とか言い出したら、
もうその人は生長の家の思想ではない。

生長の家の思想は無我の思想であるから
「《私が》」とか「《私の》」とかのない生活である。

他の宗教では暫く継続的に教化していると、時とすると自分の信者を作ることがある。

真理への信者でなくして自分の信者を造ってその勢力を張ろうとするとき、
その人は真理から墜落したものとなる。

そんな人で高所から墜落して死んだ人もある。

           <感謝合掌 令和3年4月27日 頓首再拝>
21:伝統 :

2021/05/18 (Tue) 03:42:27


        *『白鳩』(昭和40年12月号) より

現象人間の肉体というパイプは小さなパイプであるから、
神の大生命が流れるといってもその力には限界がある。

それゆえに個人としての人間は、あらゆる方面に悉く救いの手を
差し延べることは、一時にはできないのである。

しかし瀧の水量は限られているといっても、
その瀧は瀧として与えられた容量にしたがって落下するとき、
全体の風景を引き立たせ生かすことができるのである。

あなたの力に、或る限界があり、現在それほど大きく
人類及び国家に貢献することができないにしても、
あなたが人類国家に尽くすことによって国家全体ひいては
人類全体を生々とし、引き立たせることができるのである。

個人の力は小さいように見えても、それは生命界全体とのつながりがあるので、
一人の無我献身が人類全体の光となることができるのである。

https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=3184
2021年01月13日

           <感謝合掌 令和3年5月18日 頓首再拝>
22:伝統 :

2021/06/15 (Tue) 05:10:20


         *「光明道中記」(6月15日)より

【至上の愛は神と偕(とも)なる時、おのづから出来る愛である。
                    (『生命の實相』第十一巻)】


「われ」と云うものは今日こそもう滅(な)くなったのである。
我(が)は無い、我欲も無い、我見も無い、我に属する一切のものもない。
「われ」が滅くなったとき其処にあらわれるものはただ神である。

神ばかりである。
われは無い、神ばかりである。
吾が面する世界は神の世界である。

わが坐する位置は神が我を按(お)きたまうた位置である。
わが擁する財は神が我にあずけたまいし財である。

わが位置をわが事のために使ってはならない。
わが財をわが事のために使ってはならない。
光明思想を弘(ひろ)めること。

人を救(たす)けるために、神の愛を顕すためには、
光明思想を弘めるにも優(まさ)りて良き方法は無いが故に、
私は光明思想を弘めるための私の能力と位置と財とを全部ささげているのである。

形ある財は費やされて消えて行くものである。
百円硬貨一枚は一人にそれを与えて一日の食料にも足りないのである。

併し、一枚の百円硬貨に当たる一冊の『生長の家』誌によって
起上(たちあが)った人がどんなに数多きことであろう。

職業を与え、財を与え、医療費を与えるのも慈善であるが、
職業の源泉、財福の源泉、自然良能の源泉である光明思想を与えることは
一層の善事である。

           <感謝合掌 令和3年6月15日 頓首再拝>
23:伝統 :

2021/06/16 (Wed) 02:40:01


         *「光明道中記」(6月16日)より
           ~知ったら直(す)ぐ行う日

【真理を生活上にそのまま生きると云うことが、道を知って道を行なうことである。
                         (『生命の實相』第十一巻)】

思念の力は如何に強くあろうとも「我(が)」の思念の力では駄目である。
強く欲する事物を心に描いてそれが実現せることを心に念ずるならば、
それは「実相永遠の秩序」に調和しない事でも実現するであろう。

併しその実現は永遠性のないものである。

痩せる方が健康である体質の人が、栄養剤や或る肥満法で肥えて見たのと同じである。
やがてその肥満状態が急激に消滅する時が来り、
その過渡期に著しき衝動(ショック)を受けるであろう。

初めから無理に肥えもせず、当り前で続いている方が、
その人にとって幸福であったであろう。

人類が今悩んでいるのは、人類全体の念が悩んでいるのである。
世界的惨害は人類大多数の誤れる念の具象化である。

吾々は炬火(たいまつ)を携えて歩む人のように、
暗黒の中にいても光明思想を携えて歩むならば自分の周囲は明るいであろう。

併し、自分の周囲のみが明るくとも、それで満足するならば
要するに吾々は利己主義である。

吾々は自分の携えている炬火(たいまつ)の火で、
人の尚(なお)燃えていない炬火(たいまつ)に火を点(つ)けねばならぬ。
人類の一人ひとりに光明思想の火を点けねばならぬ。

           <感謝合掌 令和3年6月16日 頓首再拝>
24:伝統 :

2021/07/30 (Fri) 04:47:27


    *『生命の實相』第38巻幸福篇(下)(7月30日)より

はじめに精神科学や光明思想に救われながら、
やがてそれに自分が救われなくなり落伍する人々が多いのはなぜであろうか。

ウィリアム・ジェイムズはその著『宗教的体験の種々相』の中に

「最善の悔い改めは神の道を一心不乱に前進して、
 今までありし罪と自分との関係についていっさい忘れてしまうことである」

と言っているが、これらの光明思想の落伍者は、
神の道に一心不乱に突き進むことを忘れているのである。

「彼らは光明思想に触れる。
 それによって引き上げられ、それの与える恵福を満喫する。
 そしてただそれを受けるだけで、周囲の人々にその恵福を頒ち与えることを
 忘れ、そしてそれゆえにそれを失ってしまう」

とボールトン・ホール氏は言っている。

真実確保しうるものはただ他に与えた部分だけであるのである。

ある人が真理に対する理解を得たとする。
そしてそれが自分の苦痛や、病気や、不幸を解除することができた
としてもそれは大したことではないのである。

自己の苦痛や悩みを救うだけに真理が使われるならば、
それはただ、利己的目的だけにすぎない。

利己的目的そのことが真理に反いているのであるから、
やがてその真理は自殺状態に陥って自分自身をも救いえなくなるのである。

真理は「私」してはならないのである。

真理を知らされたということは、それを他の人々に伝えるために
知らされたのだということを知らなければならない。

人類のまず目覚めなければならないことは、
個々人として孤立した存在ではないということである。

われわれは自他一体の存在であるから、
この世の中に一人でも不幸な人が存在するかぎり、
真に自分は幸福になることはできないのである。

1本の歯が痛むだけでも全体の肉体は痛むのである。

宇宙全体が一体に自分の生命(せいめい)と連関をもっていると知るとき、
その1本の歯にも比すべき一人の人間が苦しんでいるとき、
自分の生命(せいめい)もまた苦しむのである。

「真理とは何ぞや」(「ヨハネ伝」第18章36)とピラトはイエスにきいた。
イエスは黙然である。
それは言葉巧みな講釈ではないのである。

自分を捕えに来た獄吏の耳の傷を癒し、弟子の足を洗い、
自分を磔けにした人々の幸福のために神に祈り、
そして従容として十字架につくことである。

かく真理は愛の実践を要求するのである。

愛を実践する者のみ「王」であり、永遠に復活するのである。

            <感謝合掌 令和3年7月30日 頓首再拝>
25:伝統 :

2021/09/01 (Wed) 04:36:07


        *「光明道中記」(9月1日《心澄み切る日》)より抜粋

【雑念妄想は念仏を妨げず、虚の念は本来無い念である。(生命の實相第九巻)】


その信仰の心は自我の心で信心するのではなく、
学問の力で信心の念が起こるのではなく、
経文やその注釈の力で信心の念が起こるのではなく、

「信心」と云うものは如来が廻施(えせ)する
(如来の力が廻り施される)のであるから
学問がなかったら救われない、

経文の解釈によくつうじていなかったら救われない
と云うような議論は言うに足りない。

誌友会に出ても色々の真理の書の文章を批判し、此の書には斯う書いてある。
自分はこの方の方に共鳴するとか何とか、甲論乙駁する人たちがあるが、
そう云う人々は解釈によって救われよとする人であって、自力の行である。

他の色々の本に斯う書いてある、彼(ああ)書いてあると言って
誇り顔に言う人は、また別の新しい説き方をする人があったら
直ぐ信仰が崩(くず)れて了うのである。

救われるのは「実相」により、念仏によるのであるから、
誌友会に臨んでは理窟を言うよりも、ただ有りがたく救われている体験を
謙遜に語り合い、互いに讃嘆すべきである。

            <感謝合掌 令和3年9月1日 頓首再拝>
26:伝統 :

2021/09/21 (Tue) 04:57:03


       *生長の家(昭和25年8月21日の法語)より

生長の家が段々大規模にひろがって行くにつれて、
その布教活動が忙しくなり、次第に専門的に布教のみによって
生活する者が殖えて来るのである。 

この事は悦ばしいことであると同時に警戒すべき事でもあるのである。

秋田の田代君や、大曲の伊東次男君が自分に立派な職業があるのに
其の職業を抛擲して生長の家の布教活動専門に従事してくれる
と云う報告をきいて私は感激すると同時に、

近頃次第に殖えて行く生長の家地方講師の中には、
布教することを生活費を稼ぐためにやっていると云う
非難のある人々のことを思い浮べて、
私の考えを此処に書いて置きたいのである。

私は職業的宗教家と云うものを好まないのである。 
御布施の多寡によって読経の長短を加減したりして、
自分の宗教活動を金銭の多寡によって切売するようになったとき、
それはもう純粋の宗教活動ではなく、宗教の教義販売業になるのである。

私は既成宗教の教師たちがその方面に堕落して行くのを残念に思い、
自分の生活は会社で働いて其の月給で生活し、
その月給収入の大部分を割いて本部活動に奉仕していたのであって、
これが生長の家の本来の教師の相であったのである。

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=25

            <感謝合掌 令和3年9月21日 頓首再拝>
27:伝統 :

2021/09/23 (Thu) 04:51:42


       *生長の家(昭和25年8月22日の法語)より

宗教活動は、それによって自分の生計を営むためのものではなく、 
「自己の生活の幾部分でもささげられるだけ捧げる」生活 
〈即ち菩薩業〉 であるべきであるのである。

宗教とは 「業」 であって献げたる部分だけが 「宗教活動」 である。 

だから私は、官庁への色々の届出にも、
その業種のところに 「宗教業」 とは書いたことはない。 

私はいつも 「著述業」 と書いて置くのである。

宗教家と云う者はあり得るにしても宗教業と云うものがあってはならないのである。

            <感謝合掌 令和3年9月23日 頓首再拝>
28:伝統 :

2021/09/24 (Fri) 05:00:15


       *生長の家(昭和25年8月23日の法語)より

   新しい宗教が起ってその宗教活動がひろがるにつれて、
   発信、返信、講演、人生相談の受付などのことがあまり忙しく
   なるので、他の職業の片手間に奉仕しているだけでは
   時間も労力も足りなくなる。 

   それで私は、私の手足となり、私の労力奉仕の身代りとなってくれる
   人々を必要とするに到り、その役目の人を置き、私の労力に得られる
   収入から其人たちに生活費を払うことにしたのである。 

   これが現在まで続いている所謂る 「本部員」 の出来る
   出発点であったのである。

   だから今でも、本部員は、私の労力奉仕の代弁者であり
   決して給料のために働いている人々ではない。 

   極めて質素な生活に安んじていて、地方講師の収入の多い人たちよりも
   ズッと僅かな報謝金を教団から頂いているのである。

   そして本部員が布教に出て謝礼でも受けた場合は、
   一度、神に返す意味で教団へその収入全部を奉納する。 
   そして生活に必要なだけを神から頂くのである。 

   だから本部員の生活は極めて質素である。 
   だからもっと贅沢に生活したい人は本部員を止めて
   指圧療法や触手療法や姓名判断の先生になったりする。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=25

            <感謝合掌 令和3年9月24日 頓首再拝>
29:伝統 :

2021/09/25 (Sat) 04:47:10


       *生長の家(昭和25年8月24日の法語)より

これに反して地方講師と云う方々は、
本来本部員として私の代弁者として活動する人ではなく、
本部の教えの信者であるのである。 

そして此の教えによってお蔭を受けた報恩のために、
自分の仕事の余暇の時間をさいて、その教えを伝えたいと思って、
所定の講師試験を受けて合格した人々である。

この種の人は最初は報恩のための布教活動であったけれども、
その教えが好いために、各地で招ばれる数が殖えると、
その方の聴講者からの御礼が殖える。 

すると最初、報恩のための布教活動だったのが、その礼で自分の生活を立てたくなる。 
そして実際それで自分の生活を立てる。 すると、最初の報恩のための
布教活動と云うこととは全然反するものとなり、
先生の教えを切売りして自分の生活を立てるようになる。 

報恩の 「伝える」 生活が、自分に 「受取る」 生活になるのである。

それでも教えは立派だから教えられる人は助かる。 
そのうちに自分が信者を獲得し、地盤を作ってやったと云うような増上慢の心になる。 
人はたすかるが自分は地獄に堕ちるようになる。 

報恩心はわすれられて、自分の収入の多くなるように
独立して別に自分の教団でも建てたくなる。

  或る僧問ふ。 「如何なるか是れ地獄の始め?」

  老師答ふ。  「金を儲けたるが地獄の始めなり。」

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=25

            <感謝合掌 令和3年9月25日 頓首再拝>
30:伝統 :

2021/09/27 (Mon) 03:51:07


       *「生長の家」(昭和25年8月25日の法語)より

多勢の人々に道を説くことは必要であるが、
自分が純粋の道心を失って利慾、名慾などのために、
自分が地獄餓鬼の生活に堕ちてしまっては、
本が定まらないから、末長くつづくと云うことはないのである。

肉体の病気を治すことも必要であるが、
人間の心が ―― 自分の心が ―― 直ると云うことが必要である。 

‘わし’が、‘わし’の力で喋って、
‘わし’が報謝を受けて生活するのであって、
‘わし’が此の教化部を維持してやっているのだなどと
考えるようになったとき、その講師は地獄の境目から
今将にどん底に落ちようとしているのである。

人の肉体の病気を治しながら、
自分が利慾の心の病気にかかるのは惜しい事である。 

だから梁の武帝が 
「お寺に夥しい供養をしているが、この功徳は如何」 とたずねた時に、
達磨大師は 「無功徳」 と答えたのである。

「わしがしている」 と傲慢な気が出ている武帝の慢心を摧破されたのである。

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=25

            <感謝合掌 令和3年9月27日 頓首再拝>
31:伝統 :

2021/12/01 (Wed) 05:03:29


      *「光明道中記」(12月1日《同志愛に徹底する日》)より

  【自分の全力を出し切れば其処に無限の力が生ずる。
                     (『生命の實相』第四巻)】
   
自分の親しい人が人類光明化の陣営から去ったとて、
その去った人に義理立てして吾らの同志から脱落しないでほしい。

吾々は世界を覆っている暗黒思想と戦っている光明思想の戦士達である。
吾等は幾多の戦友、百万人の戦友の屍(しかばね)を踏み超え、
踏み超えして進まねばならないのである。

斃(たお)れた戦友に義理立てする道は、戦友と同じく落伍することではない。
尚(なお)一層の元気を奮い起して人類暗黒化の敵陣に跳(おど)り込み
人類の敵を撲殺することに在る。

吾々は全世界を蔽う暗黒と戦わねばならぬのである。
「暗黒」が吾々の共同の敵である。

イエスは自分の人類光明化の軍勢から脱落して往った同志を
“迷える一匹の羊”に譬えて、その一匹の羊が再び同志の陣営に還って来る
ように、どんなに探求するかを、迷わざる九十九匹の羊を放置しておいて、

その一匹の迷える羊を探しに出かけるではないかとも言い、
まだ脱落した同志を家出していた放蕩息子に譬えて、
その放蕩息子が父の御許に還って来た時には、

父は家出しないで父の御許に忠実に仕えていた他の兄弟たちのことは放っておいて、
還って来た息子のために祝宴を催し、その指に宝石の指輪をはめてやって歓迎する
ではないかといっている。

我らが脱落した同志の復帰を歓迎するのも斯くの如しであるのである。

            <感謝合掌 令和3年12月1日 頓首再拝>
32:伝統 :

2021/12/03 (Fri) 04:54:37


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月3日)より

どんな善いことが書いてあっても、それが自分の魂を養う糧だとして受け取ることが
できない人は気の毒な人である。

甲は曰く、「これは乙を誡(いまし)めるために書いてあるのだ。
乙の野郎奴(やろうめ)、先生に誌上でやっつけられている、よい気味だ。」

乙は曰く、「これは甲を戒(いまし)めるために書いてあるのだ。
甲の野郎奴(やろうめ)この文章を見て反省するがよい。」

こんな心境で読んだら、どんなよい教えでも人を争わす種になるばかりである。
わたしはただ真理を書くのみであって、
何人(なんぴと)をやっつけるために書いているのではない。

真理はそれ自身で尊いのである。

            <感謝合掌 令和3年12月3日 頓首再拝>
33:伝統 :

2021/12/09 (Thu) 04:49:54


      *「生長の家」昭和23年9月7日の法語)より

生長の家の集りは、
人の善を見出してそれを讃える会でなければならぬ。

そして教理の研究は
学術的に正確な理性をもって行わなければならない。

感情に走って 他を批難する様なことがあってはならない。


メンタル・サイエンスでは次の事を悪徳の中に数えている。

(1)人の悪を見つけること。

(2)陰口をきくこと。

(3)ゴシップをすること。

(4)皮肉や嫌味を云うこと。

(5)人の悪を批議する事。即ち切りさばく心を起すこと。

以上のようなことを誌友会でやってはならぬ。

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

            <感謝合掌 令和3年12月9日 頓首再拝>
34:伝統 :

2022/02/05 (Sat) 04:55:45


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月5日)」より

一人の先覚者が現われてある教義や主義綱領を掲げて民衆の賞讃を博していると、
その同じ教義や主義綱領を自分は前から称えていたと言って、
その団体の人員を浚(さら)って行ったり、同じ主義綱領をほんの少しばかり変更して
自分の方が優っているといって崇拝を自分の方へ集めようとする者がある。

牛後(ぎゅうご)となるより鶏口(けいこう)となれという小才子(こざいし)が多いから
この世は乱れるのである。人間はなぜ大同団結をしないのだろう。

30年黙って一つの団体の牛後(ぎゅうご)に喜んで活動しうる人は、
ついにその団体で押しも押されぬ人物になることができるのである。

明智光秀のような才子はいくら多くとも世が乱れるばかりである。
ついに天下をとったものは徳川家康であったことを知らねばならない。

           <感謝合掌 令和4年2月5日 頓首再拝>
35:伝統 :

2022/02/06 (Sun) 04:48:40


           *「光明道中記」(2月5日強くなる日)より

【救われねばならぬような弱者なる人間は、
この世に存在しないと云う思想が光明思想である。(『生命の實相』第十三巻)】


同情されたい心は同情されなければならぬような境遇、不幸、病気を招く
ということが『生命の實相』第九巻にも書いてある。

人間は同情さるべき弱者なる肉体人から、一切の同情的世界を超克し去りたる
超人の自覚にまで高揚せしめるのが生長の家である。

どこにそんな甘い生長の家があるか。
人間の甘さが、人間の涙もろさが、
これまで人間をどれだけ堕落させて来たことだろう。

”人間・神の子”の自覚があっても、
甘える心を棄てなければ”神の子”の完全な実相は顕れない。

「生長の家が本当に人類を救うために出現したものならば、私を救って戴きたい。
私は本を読みたくとも金なき者である。私に『生命の實相』を無料贈呈して欲しい。
若し贈呈出来なかったら生長の家が人類を救済するために出現したと云うのも
真っ赤な嘘であると信ずる」

こんな手紙を諸方から時々来る。
そういう甘い考えを、依頼心を叩き伏せるのが救済である。

高き救済は甘さを超克した峻厳である。
愛深く峻厳と、峻厳なる寛容とが人間の進歩に必要である。

獅子は千仭の谷へと仔を墜す。

            <感謝合掌 令和4年2月6日 頓首再拝>
36:伝統 :

2022/02/11 (Fri) 04:51:19


           *「光明法語」(2月11日)より

「人の悪評をつたえるのは、人からその名声を奪う盗罪である。
 人を嘲笑するのは人の尊敬の念を殺す殺人である。
 盗みとは物質ばかり盗むのだと考えてはならないのである」と
ガードナー・ハンチング氏は言っている。

人間がそのゴシップ中で人を賞めることばかりをやっていたならば、
どんなにか此の世天国になるであろう。

誌友会が段々衰微して来るのは、いつも所謂る常連ばかりが集って
真理の話はもうすでに言い飽きたと云うので、
人の噂話ばかりを始めるからである。

人の噂をするよりは神を讃めたたえる話をせよ。

            <感謝合掌 令和4年2月11日 頓首再拝>
37:伝統 :

2022/02/12 (Sat) 02:58:52


     *「光明道中記」(2月12日《神一元を悟る日》)より

【托鉢は物を乞うかわりに、相手に惻隠の心、憐れみの心、慈悲の心を起させる。
 即ちそれは仏性を施したことになるのである。(『生命の實相』第九巻)】

生長の家発祥当時、財の奉納を信者から乞わないことにした。
私は托鉢的な行持(ぎょうじ)を省いて了(しま)って何物も
本部は信者から乞わないことにした。

所がその弊害があらわれて来た。
信者を称して吾々は信者と言わないで誌友と言っていたのであるが、
その誌友本部発行の書籍の購買者と云う形をとっていた。

従って吾等は托鉢と云う乞食(こつじき)的形式を去った代りに、
信者は慈悲深き「施主」であることの代りに、書籍販売所の「顧客」の形をとることになった。

「施主」は惻隠の心の表現であるが、「顧客」は営利主義の表現となり易い。
自分は「顧客だ」と無意識に思っている誌友たちは、病気が治ったら、
薬を止(や)めると同様な気持で、月刊雑誌の購読を止める人が出て来た。

本山が「乞食(こつじき)」的立場で、相手を「施主」にしたのが今迄の宗教であった。
私は本山を「乞食」にせね為に信者を顧客の如くしてしまったとすれば、それは失敗である。

清くなることは甚だ難しい。
それから信者みずからが人を救う喜びのために会費を持ち寄る聖使命会が出来た。

乞食も施主もない、販売者も顧客もない。
神一元の世界が本当の世界である。

            <感謝合掌 令和4年2月12日 頓首再拝>
38:伝統 :

2022/02/13 (Sun) 02:32:14


      *「光明道中記」(2月13日《人に物を施す日》)より

【誰にでも基督の心、釈迦の心はある。
 それを出すとき彼の心は天地にひろがる。(『生命の實相』第六巻)】

誰も本当は施主になりたいのである。
乞食にはなりたくない。施主になりたい。
受ける人になるよりは与える人になりたい。

それは与えると云うのは自己拡大の感じを与えるからである。

併し与える人ばかりでは、受ける人がなかったら、
此の世はまた淋しいことだと思う。

それは貰う人のない生産のようなものである。
生産は購買によって成立ち、施主は受ける人によって成立つ。

私は今迄与える事ばかり考えていて、
誌友をして施主にならしめる機会を与えないことに努力してきた。

これは今迄の宗教は信者を施主にして、
その施物(せもつ)に寄生して生活する傾向があったのを
粛正するための反動であったと謂える。

信徒の一部に、自分は書物の顧客で
人類光明化の協力者だと云う感じが乏しいのはそのためである。
自己を与えないもの、自己を献げない相手には永続的な魅力が感じられない。

そこで聖使命会が結成せられ、
自分自身が人類光明化のシテであるという主体性の自覚の発生と
共に信徒は情熱をもって真理を宣布して下さることになったのである。

何事で、献げだけの生き甲斐が感じられるのである。

            <感謝合掌 令和4年2月13日 頓首再拝>
39:伝統 :

2022/06/15 (Wed) 07:01:41


       *「光明道中記」(6月15日)より

【至上の愛は神と偕(とも)なる時、おのづから出来る愛である。
                    (『生命の實相』第十一巻)】


「われ」と云うものは今日こそもう滅(な)くなったのである。
我(が)は無い、我欲も無い、我見も無い、我に属する一切のものもない。
「われ」が滅くなったとき其処にあらわれるものはただ神である。

神ばかりである。
われは無い、神ばかりである。
吾が面する世界は神の世界である。

わが坐する位置は神が我を按(お)きたまうた位置である。
わが擁する財は神が我にあずけたまいし財である。

わが位置をわが事のために使ってはならない。
わが財をわが事のために使ってはならない。
光明思想を弘(ひろ)めること。

人を救(たす)けるために、神の愛を顕すためには、
光明思想を弘めるにも優(まさ)りて良き方法は無いが故に、
私は光明思想を弘めるための私の能力と位置と財とを全部ささげているのである。

形ある財は費やされて消えて行くものである。
百円硬貨一枚は一人にそれを与えて一日の食料にも足りないのである。

併し、一枚の百円硬貨に当たる一冊の『生長の家』誌によって
起上(たちあが)った人がどんなに数多きことであろう。

職業を与え、財を与え、医療費を与えるのも慈善であるが、
職業の源泉、財福の源泉、自然良能の源泉である光明思想を与えることは
一層の善事である。

           <感謝合掌 令和4年6月15日 頓首再拝>
40:伝統 :

2022/06/16 (Thu) 07:37:30


    *「光明道中記」(6月16日《知ったら直(す)ぐ行う日》)より

【真理を生活上にそのまま生きると云うことが、
 道を知って道を行なうことである。  (『生命の實相』第十一巻)】

思念の力は如何に強くあろうとも「我(が)」の思念の力では駄目である。
強く欲する事物を心に描いてそれが実現せることを心に念ずるならば、
それは「実相永遠の秩序」に調和しない事でも実現するであろう。

併しその実現は永遠性のないものである。

痩せる方が健康である体質の人が、栄養剤や或る肥満法で肥えて見たのと同じである。
やがてその肥満状態が急激に消滅する時が来り、
その過渡期に著しき衝動(ショック)を受けるであろう。

初めから無理に肥えもせず、当り前で続いている方が、
その人にとって幸福であったであろう。

人類が今悩んでいるのは、人類全体の念が悩んでいるのである。
世界的惨害は人類大多数の誤れる念の具象化である。

吾々は炬火(たいまつ)を携えて歩む人のように、
暗黒の中にいても光明思想を携えて歩むならば自分の周囲は明るいであろう。

併し、自分の周囲のみが明るくとも、それで満足するならば
要するに吾々は利己主義である。

吾々は自分の携えている炬火(たいまつ)の火で、
人の尚(なお)燃えていない炬火(たいまつ)に火を点(つ)けねばならぬ。
人類の一人ひとりに光明思想の火を点けねばならぬ。

           <感謝合掌 令和4年6月16日 頓首再拝>
41:伝統 :

2022/10/29 (Sat) 09:43:19


     *『生命の實相』第25巻教育実践篇上(P187~188)より

ヨハネが福音書を書いた時分には
「言葉は神なり《き》」であって、もう言葉は神ではなかった。

それはどういう意味でいいかといいますと、
言葉は、《実相の言葉》と《嘘の言葉(つまり迷いの言葉)》
との二種類があることです。

「言葉は神である」というのは、
実相の言葉、すなわち善き言葉が神であって、
善き言葉を使う時、この善き言葉力によって創造(つく)られるものは
すべて善きものであるということであります。

それが反対に、本来の善き言葉が汚(けが)され歪(ゆが)められて、
われわれが神の言葉、實相の言葉を使わなくなり、悪しき言葉を使う時、
その力によってはこの世は乱れ、汚(けが)れ、天災地変、
その他家庭争議などと、災(わざわ)い多き、悪しき現象となって
現れてくるのであります。

この時、もう「言葉は神なり」ではなく、
「言葉は悪魔なり」になっているのです。

 
それで生長の家の人類光明化運動とは、
人々の言葉を浄(きよ)めて、ほんとうに神の言葉にする
ということであって、人々の言葉を、本来の神より発する言葉、
実相より発し実相を讃える言葉にしてしまおうというのが目的で、
これこそわれらの人類光明化運動の究極の目的なのであります。

本来われわれは神の子であり、その実相(じっそう)は神である。

この実相より発する言葉は必ず善(よ)からざるを得ないのであります。

すべての人みな神の子でありますから、
すべてこれ善人あるべきはずであります。

ところがこの世の中には
必ずしもことごとく善人の姿をした人間ばかりはいない。

またそのことごとくが神の子らしい幸福(こうふく)さを
備えていないというのは、取りもなおさず実相(じっそう)から出た
言葉がこの世界を形造(かたちづく)っていないからであります。

実相ならざる言葉、罪とか、病とか、死とか、
本来ないものを、なんだかのごとく装っている言葉が
この世の中を占領しているからであります。

それでわれわれの使う言葉を実相の言葉
―― 神より出(い)でた浄(きよ)になった本来の善き言葉のみに
還元したならば、実相の言葉によって、すべてのものが実相の姿を
この世の中に現すわいてきてたちどころに地上天国に浄土が湧出する
というわけであります。

           <感謝合掌 令和4年10月29日 頓首再拝>
42:伝統 :

2022/11/16 (Wed) 07:34:41


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月16日)より

法(ほう)があっても法はコトバであるから
説く者がなければ法は成就しない。
説く者があっても聴かせる者がなければ成就しない。

法は真理の法体であり、コトバである。
これを説く者は仏である。

成仏とは仏が法(しんり)を説き始めたことである。
大通智勝如来といえども法を説くまでは成仏しなかったのである。

仏法を説くとも、
これを聴取させる媒介者がなければ衆生の耳に入らないのである。
その聴取の媒介者 ―― 取次者が僧である。
衆生それを聞いて法を行じて仏成就す。

法、仏、僧、衆生・・・・・と次第に法が循環するのが転法輪である。

           <感謝合掌 令和4年11月16日 頓首再拝>
43:伝統 :

2022/11/22 (Tue) 07:34:37


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月22日)より

今日はわたしの誕生日である。

この誕生日にわれわれの団体の指導精神となるところのものを
書いておくのも無駄ではあるまい。

われわれを指導する者は、たった一つ神の意志である。
神は人の悪口(あっこう)を言うことを許さないもである。
悪口を言ったとき、その人はもはやわれわれの同志ではないのである。

しかしわれわれは寛大である。
一度悪口を言った人でも、再び神の意志にしたがって、
人々を賞め讃(たた)え感謝しあうことができるようになったら、
われわれはいつでもその人をわれわれの同志として迎えるのである。

「悪」は積極的存在でないから、それが「悪かった」と気がついたとき
たちまち消えてしまうのである。

過去を過去として過ぎ去らしめよ。
われわれは日々新生するのである。
新しく生れる者は、他(ひと)の旧(ふる)き悪に捉われるものではない。

われわれの同志は、同志としての権利と義務とを自覚しなければならぬ。
それは、一日でも早く光明思想によって目覚めた者は、神から一日早く光明思想を
生活に行ずべく指名せられたる者であるということである。


われわれの指導者は「神の意志」であるから、神がわれわれにかく行ずべく
光明思想を知らせ給うた以上は、この無上の指導者の意志に従わねばならぬ。

われわれは一日早く光明思想を知らされたがゆえに、後至者(あとよりきたるもの)に
一人でも多くこの光明思想を次に伝うべき義務を有する者である。

義務は、われわれに対してあるのではなく、「神の意志」に対してあるのである。
そしてその義務を遂行するための協同体としてわれわれの教化団体はあるのである。


誌友会や、白鳩会や、その他の集会で ある一人が他(ひと)悪口を言った場合には、
それに対して相槌を打つことは、われわれの協同体においては禁ぜられている。

ある人が某(それがし)の人の「悪」を言った場合には
われわれの協同体に属する人の言うべき答えは
「いいえ、あのひとはけっしてそんな悪い人ではありません。あの人は本当によい人です」
と証言することである。

すべての人が、一人の人を「善人」であると証言するならば、
その人がたとい「善」から踏み外れようとしていた場合でも、
言葉の力によってその人は「善」にまで呼び戻されて来るものである。


われわれの協同体は「神の意志」によって組織されているのであるから、
定(さだ)められたる役役はそれぞれの上置されたる位置の者に
絶対に服従しなければならぬ。

たとい自己の意見が上置者の意見と相異していようとも
「そのまま素直にありがた」とそれに対して従順に従うのが「神の意志」である。
この場合、上置者は私人として上置せられているのではない、
公の意志によって上置せられているのである。

理窟はどうにでもつき、また立場にしたがって意見はどうにでも変わるものである。
意見は立場の変わるだけ複数にあるであろう。
いちいちの意見を主張していたら紛糾を重ねて収拾することができなくなるだろう。

ただ上置された時は、その下(しも)のものに対して絶対の命令権を持ち、
下(しも)の者は絶対の従順をもってそれに服するとき、
そこに「神の意志」が行じられるのである。

有利に見える「我(が)」の意見を通すよりも、不利に見える上置者の命令に
黙々服従する方が、神において価値が認められるのである。

定(さだ)められたる勤務時間には1分間でも遅刻なく必ず出勤すべきものである。
それは仕事の分量のためではない。仕事の分量のためならば自宅でたくさん仕事を
してきて出勤は遅刻してもよいであろうが、そうではない。

それは法則に従順であるためと、法則を定(さだ)めたる上置者に対する
従順の美徳のためである。
美徳は仕事に上置せられる。

さらにわれわれ協同体においては厳重である。
定(さだ)められたる出勤時間よりも十数分も早く出勤して、
定刻が来るまでに自分の室(しつ)や自分の机の回りを掃除して、
室と机に感謝し、定刻が来るとともに直ちに仕事を始められるように
準備するほどの者でないと、われわれの協同体の役員ということはできないのである。

われわれの協同体ではみんなそれをやっているし、
われわれはそれを尊敬しているのである。
われわれの協同体のこういう習慣に反対である者は、
いつの間にかわれわれの団体にはいづらくて去って行くのである。

ヒットラーは
「規則の侵犯は自由の損失と国民性の破壊を招来することになつ」と言った。

われわれの協同体は理想によって「神の意志」を行ずるために集まってできたのである。
われわれはこの協同体に属することを名誉とし、みずから進んで
その仕事に生命(せいめい)を献(ささ)げているのであって
一人として報酬のために、生計のために集まっている者はない。

報酬は協同体から与えられているが、それはその人の働きが協同体の意志すなわち
「神の意志」に協(かな)っていることが認められているからである。
報酬は結果であって目的ではないのである。

もし報酬が目的である人がまちがえて内部へ来るならば、
間もなくそういう人は恥ずかしくなって去ってしまうのである。

われらは名誉と矜持(ほこり)とをもってわれわれの協同体に属しているのである。

われわれはわれわれの属している協同体の世話になったり寄生したりする者ではないし、
またそうあってはならないのである。

われわれの属している協同体は、人類光明化の公な使命を現実にまで持ち来たす
ために選ばれた団体なのであるから、この協同体の世話をやくことは
矜持(ほこり)であるから、この団体に加わっているのであって、
逆にこの協同体から何かの利益を得るためでも、寄生するためでもないのである。

われわれはこの協同体をより大きく、より力強く、より立派に築き上げることに
「神の意志」を感じ使命を感じているものである。

自分はこの協同体に寄生し、私利を貪ろうとする者や、
この神の意志を行じようとする協同体に害を与えようとする者には、
いつでも全力をもって闘う用意ができているのである。

われらの本部が巍然として美しく聳(そび)え立つことは、
形は内容の影とするならば、われわれの内容が次第に巍然として聳えてきたことを
表わしているのである。

これはわれらの本部であってわたしの本部ではない。


われわれの同志は外に対して強くならなければならぬ。
内部に対して寛大でなければならぬ。

寛大であってもルーズであってはならぬ。
寛大とルーズとは似ているけれども根本的に異なるのである。

われらは内に黙々としてジムを抜目ない注意深さで執(と)るが、
外に向かっては猛烈なる闘志をもって光明思想の普及をなすべく働きかけるのである。
内に黙々たる従順さのある者は尊敬せられ、外に対して猛烈なる働きを示す者は
讃嘆せられる。


わたしは個人的な理由で、わが協同体に属する何人にも差別待遇を与えない。
差別があるのは能力と天分と置かれたる役割とに「おける等差によるのであって、
この等差あるによって協同体の仕事が順調に運びうるのである。

私的感情で偏愛することも偏憎することもありえない。
何人もわたしから一番愛されていると信じてさしつかえないのである。

何人(なんぴと)も一番愛されながら別々の位置に置かれ、
いろいろの役割が分担せしめられているのである。

           <感謝合掌 令和4年11月22日 頓首再拝>
44:伝統 :

2022/12/01 (Thu) 04:19:25


           *「光明道中記」(12月1日)より

  【自分の全力を出し切れば其処に無限の力が生ずる。
                    (『生命の實相』第四巻)】
   
自分の親しい人が人類光明化の陣営から去ったとて、
その去った人に義理立てして吾らの同志から脱落しないでほしい。

吾々は世界を覆っている暗黒思想と戦っている光明思想の戦士達である。
吾等は幾多の戦友、百万人の戦友の屍(しかばね)を踏み超え、
踏み超えして進まねばならないのである。

斃(たお)れた戦友に義理立てする道は、
戦友と同じく落伍することではない。

尚(なお)一層の元気を奮い起して
人類暗黒化の敵陣に跳(おど)り込み人類の敵を撲殺することに在る。

吾々は全世界を蔽う暗黒と戦わねばならぬのである。
「暗黒」が吾々の共同の敵である。

イエスは自分の人類光明化の軍勢から脱落して往った同志を
“迷える一匹の羊”に譬えて、その一匹の羊が再び同志の陣営に還って来る
ように、どんなに探求するかを、迷わざる九十九匹の羊を放置しておいて、

その一匹の迷える羊を探しに出かけるではないかとも言い、
まだ脱落した同志を家出していた放蕩息子に譬えて、
その放蕩息子が父の御許に還って来た時には、

父は家出しないで父の御許に忠実に仕えていた
他の兄弟たちのことは放っておいて、還って来た息子のために祝宴を催し、
その指に宝石の指輪をはめてやって歓迎するではないかといっている。

我らが脱落した同志の復帰を歓迎するのも斯くの如しであるのである。

           <感謝合掌 令和4年12月1日 頓首再拝>
45:伝統 :

2022/12/03 (Sat) 07:45:04


           *「光明道中記」(12月3日)より

【隠れたるところにて人を賞め得る人となれ、
 其の人の心境は朗(ほがら)かである。
                   (『生命の實相』第十巻)】

私は第二次世界大戦が欧州に勃発した時の日記に次のように書いている。

「すべて私の責任なのである。私はみずから顧みて恥じるほかない。
考えて見れば欧州の天地で、
ヒットラーが英仏を向うに廻して戦っている姿も私の心の影である。

私が『ヒットラーよ、もう戦争を止めてくれ』と言ったら、
ヒットラーが『ハイ』と答えて戦争を止めてくれるほどになれないのは、
まだ私の力が足りないからなのである。

力が足りないのは偉さの徴候ではない。
私がまだそれほど偉くなれないのは私が悪いからである」

私はそんなにまだ偉くなれていないのである。
まだまだこれからだと思う。
光明思想が世界に弘(ひろ)がることを待ちかねている。

光明思想を弘めている誌友のなかでまだ家庭が調和せず、
「何とか指導して貰いたい」と云う愬(うった)えが
私のところへ時々来るのは悲しいことである。

併し、わが実相哲学は直(ただ)ちにこうした悲しみから、
また私を立ち上がらせて、その人のために祈ることができるのである。

実相は皆”神の子”の兄弟で、争っていないのである。

          <感謝合掌 令和4年12月3日 頓首再拝> 
46:伝統 :

2023/01/13 (Fri) 07:31:03


       *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月13日)より

高邁な超越的立場を持する者も、時として戦うことがある。

凝り固まった相対的立場にいる者は一切包容の立場をも、
一つの別の相対的立場と思いちがえて反撃してくることがあるからである。

生長の家がどの宗教をもそれぞれの立場において宜(よ)しとして未だかつて一度も
排斥したことがないのに、生長の家を新しく興った一派の宗教として反撃するものが
あったのも同じような理由からである。

しかし、今となっては生長の家のあらゆる宗派に対する
寛容な全包容的立場を理会しない者はほとんどない。
どの宗派も生長の家に好意をもっているし、生長の家がとり来たった宗教に
実生活に生かす《やり方》をおのおのの宗旨に取り入れない宗派はない。

すべて宗教は生活を離れた時に概念の遊戯となる。
宗教が生活を離れるのは時代を離れるからである。
時代を離れるとき禅行も天魔の行となり、念仏も無間地獄の門となる。

禅行そのもの念仏そのものが、天魔地獄の行門(ぎょうもん)ではない。
時代を離れたところに禅行も念仏も死の行となる。
生かさぬものは宗教ではない。

隻手の拍手よく三千大千世界に響くといえども、実生活を救いえない座禅もあり、
死骸に念仏することのみを知って、生きた人間には念仏どころか同業を嫉妬し、
瞋恚(しんい)の炎を燃やす僧侶もあったが、
今はそれがだんだんなくなったのは喜ばしい。

われわれは生きた人間にお念仏申す心にならねばならぬ。
念仏とは、相手に合掌して仏をその相手から拝み顕(だ<あらわ>)すことである。
常不軽菩薩の行である。

            <感謝合掌 令和5年1月13日 頓首再拝>
47:伝統 :

2023/02/05 (Sun) 07:29:16


           *「光明道中記」(2月5日強くなる日)より

【救われねばならぬような弱者なる人間は、
この世に存在しないと云う思想が光明思想である。(『生命の實相』第十三巻)】


同情されたい心は同情されなければならぬような境遇、不幸、病気を招く
ということが『生命の實相』第九巻にも書いてある。

人間は同情さるべき弱者なる肉体人から、一切の同情的世界を超克し去りたる
超人の自覚にまで高揚せしめるのが生長の家である。

どこにそんな甘い生長の家があるか。
人間の甘さが、人間の涙もろさが、
これまで人間をどれだけ堕落させて来たことだろう。

”人間・神の子”の自覚があっても、
甘える心を棄てなければ”神の子”の完全な実相は顕れない。

「生長の家が本当に人類を救うために出現したものならば、私を救って戴きたい。
私は本を読みたくとも金なき者である。私に『生命の實相』を無料贈呈して欲しい。
若し贈呈出来なかったら生長の家が人類を救済するために出現したと云うのも
真っ赤な嘘であると信ずる」

こんな手紙を諸方から時々来る。
そういう甘い考えを、依頼心を叩き伏せるのが救済である。

高き救済は甘さを超克した峻厳である。
愛深く峻厳と、峻厳なる寛容とが人間の進歩に必要である。

獅子は千仭の谷へと仔を墜す。

            <感謝合掌 令和5年2月5日 頓首再拝>
48:伝統 :

2023/02/11 (Sat) 07:28:11


        *「光明法語」(2月11日)より

「人の悪評をつたえるのは、人からその名声を奪う盗罪である。
人を嘲笑するのは人の尊敬の念を殺す殺人である。
盗みとは物質ばかり盗むのだと考えてはならないのである」と
ガードナー・ハンチング氏は言っている。

人間がそのゴシップ中で人を賞めることばかりをやっていたならば、
どんなにか此の世天国になるであろう。

誌友会が段々衰微して来るのは、いつも所謂る常連ばかりが集って
真理の話はもうすでに言い飽きたと云うので、
人の噂話ばかりを始めるからである。

人の噂をするよりは神を讃めたたえる話をせよ。

        <感謝合掌 令和5年2月11日 頓首再拝>
49:伝統 :

2023/02/12 (Sun) 05:00:13


      *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月12日)」より

わたしは御影町(みかげまち)および住吉村に住んでいたとき、
たびたび住吉神社に参拝して人類光明化のために祈願をつづけたものである。
そこころからわたしは雑誌『生長の家』を書きはじめたのである。

その後、生長の家神と申し上げるは塩土老翁(しおつちのおじ)、
筒男神(つつのおのかみ)であらせられると知らされ、
ハットしてその端倪(たんげい)すべからざる因縁に驚いたのである。

塩土神とは水火津霊(シホツチ)の神である。
水の霊(陰の原理)と火の霊(陽の原理)とを津なぎ結びて、
一切を生み出す「生みの神」である。

だから塩土神(住吉神社・塩釜神社に奉斎)は
古来安産の神として称せられ、

エホバ神の「懐妊(はらみ)の劬労(くるしみ)を増すべし、
汝は苦しみて子を産まん」という宣言を覆して、
子を産むのに無痛分娩なることを実証したのである。

生長の家の教えを聞いてそのとおりに守るものは
無痛分娩であるのはそのためである。

塩釜大神(しおがまのおおかみ)とは水火醸神(しおかみのかみ)として
陰陽交叉(いんようかみあ)いて生み出す神という意味である。

生長の家神を拝みたければ住吉神社に参るがよし、
塩釜神社に参拝するのもよい。
われわれの団体は無宗派の万教帰一を説く団体であるから、
拝殿もなければ御祈祷をするということもない。

ただ書籍、講演、放送、直接指導等によって
老病死を克服する教化団体である。

           <感謝合掌 令和5年2月12日 頓首再拝>
50:伝統 :

2023/02/13 (Mon) 04:54:47


   *「光明道中記」(2月12日《神一元を悟る日》)より

【托鉢は物を乞うかわりに、
 相手に惻隠の心、憐れみの心、慈悲の心を起させる。
 即ちそれは仏性を施したことになるのである。
                 (『生命の實相』第九巻)】

生長の家発祥当時、財の奉納を信者から乞わないことにした。
私は托鉢的な行持(ぎょうじ)を省いて了(しま)って何物も
本部は信者から乞わないことにした。

所がその弊害があらわれて来た。
信者を称して吾々は信者と言わないで誌友と言っていたのであるが、
その誌友本部発行の書籍の購買者と云う形をとっていた。

従って吾等は托鉢と云う乞食(こつじき)的形式を去った代りに、
信者は慈悲深き「施主」であることの代りに、
書籍販売所の「顧客」の形をとることになった。

「施主」は惻隠の心の表現であるが、
「顧客」は営利主義の表現となり易い。

自分は「顧客だ」と無意識に思っている誌友たちは、
病気が治ったら、薬を止(や)めると同様な気持で、
月刊雑誌の購読を止める人が出て来た。

本山が「乞食(こつじき)」的立場で、
相手を「施主」にしたのが今迄の宗教であった。

私は本山を「乞食」にせね為に信者を顧客の如くしてしまった
とすれば、それは失敗である。

清くなることは甚だ難しい。
それから信者みずからが人を救う喜びのために
会費を持ち寄る聖使命会が出来た。

乞食も施主もない、販売者も顧客もない。
神一元の世界が本当の世界である。

           <感謝合掌 令和5年2月13日 頓首再拝>

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