伝統板・第二 832167

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現象無しとは ②

1:伝統 :

2020/03/03 (Tue) 02:56:18

    *伝統板・第二「現象無しとは」からの継続です。
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6994730


現象を否定し、実相を肯定せよ

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月3日)」より

しかし人間が現に苦しんでいる事実をどうするか。

人間よ、もし、なんじが病であり、不幸であり、苦しみがあると思うならば、
眼を瞑(つむ)って、「そんなものは神が造らなかったのだ。《無い人間が無い苦しみ》を
苦しんでいるごとく今まで自分はまちがって空想していたのだ」と心に念じて、
現在のその病を、苦しみを、悩みを、否定してしまえ。

否定が完全の極に達したら肉体が変化を起こす。
境遇が変化を起こす。
周囲の人々の自分に対する冷淡が熱意に変ずる。

いかに《ある》かのごとく感覚に見えるとも、
感覚は実在の《ほんとのすがた》を見るものではない。
『甘露の法雨』にあるように、「感覚はただ信念の影を見るにすぎない」のだ。

《無い人間》が《無い苦しみ》を苦しんでいたことの愚かなことよ。

おお! 《無い人間》が《無い苦しみ》を苦しんでいたのか、と思い直すだけでも、
この苦しみにちぢかまっていた《肉体の人間》が「本当の私」ではなかったのだと思うだけでも、
生きる力が内から湧き出て来るではないか。

これが否定の妙用である。

慈悲とは抜苦与楽すなわち「苦の否定」と「楽の肯定」である。
苦を否定したならば次には楽を肯定すべしである。

苦しみは《ある》かのごとく見えても、
《無い人間》が《無い苦しみ》を苦しんでいるのであるから
自分は今もうすでに完全である。病気もない。苦しみもない。

かく真に肯定して立ち上がるものには、
すでに病気は《なく》、苦しみは《なく》、不幸は《ない》。
アリと見たのは自分の信念の錯覚であったことがわかるだろう。

無いものは無いのだ。
この言葉を百篇心の中で唱え、いかに悪しきものがアルがごとく見えようとも
断乎として心の力で否定し去れ。

            <感謝合掌 令和2年3月3日 頓首再拝>
2:伝統 :

2020/03/13 (Fri) 04:30:20


        *『真理』第九巻生活篇(P261~262)より

健全にして、何らの欠陥なき肉体は、神の構想せられた設計そのままに、
その設計が現実化したものである。

その永遠にかわることなく健全な設計が現実化する過程に於いて、
肉体心(こころ)の想念が、神の本来の構想をゆがめることになり
不健康が現れる。

たとえば、自然の景色は非常に素晴らしいが、自働焦点式カメラで
その景色を撮影する場合、その時の撮影者の気持ちで、手がふるえたりして、
不完全な写真が出来るようなものである。

不完全な写真は現象界の不完全な場合(肉体の病気などをも含む)の
譬えである。

如何に写真に不完全さが現れていても、実物の景色は立派であるのと
同じように、如何に現象的に、不幸や災難や病気が現われていても、
その人の実相(じつのすがた)は完全である。

現象にあらわれた病気や不幸を《あり》と思う者は
下手に撮った写真を見て、実物は不完全だと
思いがちのようなものである。

            <感謝合掌 令和2年3月13日 頓首再拝>
3:伝統 :

2020/03/25 (Wed) 04:55:35


        *『 生長の家 』(昭和40年3月25日)より

   「 霊の世界 」に於ける「 神の想念 」による創造は、
   純粋無雑に、ただ神によって創造せられているが故に、
   それは至美(しび)至善(しぜん)妙楽(みょうらく)完全円満の世界である。

   その完全の世界が「実相世界」である。

   イエスが「 御心(みこころ)の天に成るが如く地にもならせ給え 」と祈ったときの
   「 既に天に成る完全世界 」(神の国)である。

   しかし、それは「天国」であり、「霊の世界」であるがゆえに、
   肉眼には見えないので、恰(あたか)もテレビ装置に於いて肉眼に視(み)えない
   放送電波をブラウン管という「認識のための形式」の面に於いて、
   肉眼に視える形にあらわすのと同じように、

   私たちの生命は時間空間という「 認識の形式 」を“ 心でつくって ”、
   その形式面上に具象化して見るのである。

   そのような「 認識の形式 」を通して見る其(そ)の途上に於いて、
   あらわれる形に歪(ゆが)みがでて来たのが、色々の現象界にあらわれる
   擾乱(じょうらん)であり、混乱であり、病気であり、災害である。

   それは恰もテレビに故障を生ずると、画像が歪んで崩れてくるのと同じである。

   心でつくった「認識の形式」であるから、
   その画像(現象界の出来事)の歪みを直すには、
   心を直して、神からの放送電波に波長を合わすほかはないのである。

   受像のチャンネルを直さないで歪んだ画像を正しくしようと、
   いくらテレビ・セットに祈ってみても、何の効果もないのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121

            <感謝合掌 令和2年3月25日 頓首再拝>
4:伝統 :

2020/04/09 (Thu) 01:58:41


       *Web:かんながら(2020年02月01日)より

(前半略)

今日伝えたかったのは、睡眠中に見る夢から覚めるのと、
人生の中で起きる目覚めは、ほとんど同じだということ。

そして両方とも目覚める前は、夢を夢だと自覚できていないということ。


いまあなたが人生と呼んでいるもの、
そこに登場する家族やその他の人々、やっている仕事、
それらがうまくいっていようといまいと、目覚めてみれば何の違いもありません。


いい夢も、悪夢も、夢は夢だから。


人生がうまくいっていると感じている人は、まだ当分夢を見続けることでしょう。

その夢が終わってほしくないはずです。


もちろんいい夢の中でも、日々の心理的ストレスや、問題や悩みは尽きないはずです。

夢とはそういうものです。


でも自分が得たと思っているものに酔っているので、その夢を手放したくありません。

しかも皮肉なことに、この世の富を手に入れてからは、
次元を超えた富を得たいと願うので、目覚めを追求し始めます。

あれもこれも全部欲しいと言うわけです。


でも無理な話です。

目覚める夢を見ることはできても、それは目覚めではないからです。



一方、人生がうまくいっていないと感じている人はどうでしょう。

悪夢を見ている人です。


その悪夢が耐えられない所まで来た時、違う言い方をすれば完全に絶望した時、
突然にして夢から覚めることがあります。


そのような意味から言えば

「苦しむ者は幸いなり。天の王国は彼らのものだ」

となります。




あるいは死期を悟った時、夢を夢として見抜くこともあるようです。


豊臣秀吉の辞世の句

「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」


とことん辛い時は、これも夢だと思えば少し救いがありますね。

そしてそれは気休めではなく真実なのです。


上手くいっている人は、そのまま夢を見続ければよろしい。

いずれにせよ永遠には続かないのだから。


どっちだっていい。

しょせんは神の手のひらの中。



だから全部、お・ま・か・せ



南無阿弥陀仏

     (https://abetoshiro.ti-da.net/e11427564.html

            <感謝合掌 令和2年4月9日 頓首再拝>
5:伝統 :

2020/04/22 (Wed) 04:32:08


          *「真理」第9巻生活篇第3章(P85)より

すべての悪しき出来事は、恰(あたか)もあなたが幼い子供であって
左右の父母(ふぼ)に抱かれて安全に眠りながら、恐ろしい夢を見て
うなされているのと同じようなものであります。

実相(じつのすがた)はあなたは父母(ふぼ)に護られて安全である
のであって、何か恐ろしい不安なものと見えたのは、実際それが
《ある》のではなく、夢を見ていたのに過ぎないのであります。

現象界はありと見えるけれども念波投影ですから、映画の世界の
ようなもので、実際それがあるように見えながら本当に《ある》世界
ではないのです。

そんな移り変わる世界の変動に悲しんで見たとて何の甲斐がありましょう。

あなたが夢にうなされているとき、その夢から覚ましてあげるために、
父母(ふぼ)はあなたの本当の名を呼ぶでしょう。

するとあなたは目覚めて、今まで見ていた悲劇は夢であったと知り、
現実に父母(ふぼ)に護られている自分を知るのです。

あなたを夢から覚ましてあげるあなたの本当の名は「神の子さん」
と云う名なのです。

父母(ふぼ)は被仰(おっしゃ)います
「前は神の子だから何も心配いらないのですよ」と。

            <感謝合掌 令和2年4月22日 頓首再拝>
6:伝統 :

2020/05/04 (Mon) 03:54:15


       *Web:かんながら(2020年03月27日)より

もしいま、どうしようもないほどの不安に苛まれている人がいたとしたら、
次の言葉を自分に言い聞かせてください。


「これもまた過ぎ去る」


あらゆることは、現れた瞬間すでに後ろ姿です。

嬉しいことも悲しいことも、すべては過ぎ去っていきます。


いままでの人生でも、
袋小路にはまってしまった経験は何度もしてきたはずです。

そのときの経験はどこに行きましたか?

すべては過ぎ去って消えてしまいました。


「これもまた過ぎ去る」

この言葉はあらゆることへの救いです。


いまあなたの人生物語は苦境の中にあるのかもしれません。

昔の輝かしい物語を懐かしむこともあるでしょう。


苦境の中のあなたと、輝かしい中のあなたは何が違うと思いますか。


答えは

「何も違いません」


物語の内容が違うだけで、それを見ているあなたは同じです。


この感覚を思い出したら、どんなときでも平安がやってきます。

本当の自分は、物語の内容に一切影響されていないことを知るからです。



人生で起きるあらゆる問題の原因は一つです。

それは、観客である自分と物語の主人公である自分が合一してしまったこと。

観客のあなたが、いつのまにか物語の登場人物になってしまったことによります。


映画を見ている時とよく似ています。

主人公が絶体絶命のピンチになって、見ている自分も緊張の極致に達した時、

「あ、これは映画だ」

と思い出すことで、急に安堵感がよみがえってくるようなものです。

それまで物語の中で抱えていた問題が、一瞬のうちに消えて無くなります。


人生と呼ばれる一連の現象も同じことです。

あなたは「見ている人」であり、登場人物ではないのです。


この気づきが安らぎをもたらし、物語をスムーズにしていきます。

外に出て大空に向かって両手を広げ、大きく深呼吸してみましょう。

空は今日も空をやっています。

何億年もずっと同じままです。

この地上で何が起きても、空はいつも空をやってきました。


空から見れば、何も起きていないのと同じこと。


それは本当のあなたそのものです。


あなたは空です。

あなたは空(くう)なのです。

本当のあなたから見れば、この世は何も起きていません。


いまはまだ登場人物と同化しているので、
何を言われているのか分からないかもしれません。

でも大丈夫。

分かろうと、分かるまいと、真実は変わらないから。


断定的に言えることがあります。

あなた(空)は、永遠に安全だということ。


いまはまだ、もう少し夢(物語)を見ていたいんでしょ?

実際の話、あなたはまだ目覚めたくないのです。


OK,OK!

見たいだけ見ていたらいいです。


でも僕はこうしてちょくちょく邪魔に入ります。


「おーい! 目を覚ませ! それは夢だぞ~!!」

ってね。


だって苦しそうな夢を見ているみたいだから、起こしたくなるんですよ。

不安に苛まれている人に対しても、おせっかいを焼きたくなります。


趣味はこれしかないし(^^;)

   (https://abetoshiro.ti-da.net/e11490597.html )

            <感謝合掌 令和2年5月4日 頓首再拝>
7:伝統 :

2020/05/14 (Thu) 04:55:57


        *「希望を叶える365章」(P208)より抜粋

現象の個々の「善き物」に心を捉えられて、それに執着していると、
現象は無常であるから、いつかは、捉(つか)まえているものが減少したり、
滅びたり、衰えたり、消えてしまったりするものである。

現象界は映画のような影であるからやがて「終(おわり)」が来る。
終(おわり)が来ても映画作者の創作力が衰えない限りは、
もっとよい映画が後(あと)に楽しめるように、消えた現象の「善き物」の
次には一層よき現象があらわれて来るから失望しないでよいのである。

            <感謝合掌 令和2年5月14日 頓首再拝>
8:伝統 :

2020/07/15 (Wed) 04:43:21


http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6994730
 2018/08/13 (Mon) 20:01:52
 現象なしの自覚について ~その3 からの続き)

      *「生命の實相」第24巻質疑篇(P96~97)より

「現象はない」とか「病気はない」とかいう言葉は、
語法が不穏当であるとかいって注意して下さるのはありがたいが、
毒性峻烈なヨードでもヨード剤として特殊の分子構造のうちに結合せしめて
ヨードを安定せしめたときには無害有効となるがごとく、

「無」の字の効果は峻烈であっても、わたしの書きまたは話す
特殊の文章組織の中に結合せしめたときに効力が最も卓絶した薬物となるのであります。

それで、『生命の實相』を読む人にはその人の心の中に、
こちらで処方した「無」の字の一定刺激を連続的に与える方が
効果がよいのであります。

それで、生長の家で説いている「無」の字や、「現象は《ない》」という語だけを
抽出してその「無」の内容や効能を理屈でいろいろ詮議しても「無」の字の効果は、
わたしの執筆全体にひろがっていて、はじめてヨード剤のように効果を現わします
のですから、単に「無」の字や「現象はない」の語句だけを抽出して語句の適否を
非難することは見当外れです。

ヨード剤でもその成分中のヨードだけを抽出して激毒性であると言って批評してみても、
ヨード剤全体が効果を現わせばその薬は優良であるではありませんか。

薬剤に併用禁忌の薬があります。
たとえば鉄剤を飲んでから、タンニンを含有するものを飲むと、
鉄とタンニンとが結合して、吸収不能のタンニン鉄になるのであります。

生長の家で「病気は《ない》、老死は《ない》、不幸は《ない》、
あるように見えても現象は《ない》」と言いきるところに飲み易い
(無学者にも解り易いの意)美妙な言葉の鉄剤となるのですが、
その「《ない》」という言葉に茶々を入れる批評を読むときには、
その「茶々」の中にはタンニンが含まれていますので、
そのタンニンがせっかくの「《ない》」という言葉の鉄剤と結合して
吸収不能のタンニン鉄となり、読者の心に「無」の字の吸収を不完全ならしめ、
心の鉄剤の効果を薄めますので、わたしはこれを避けたいと思っているのであります。

            <感謝合掌 令和2年7月15日 頓首再拝>
9:伝統 :

2020/08/02 (Sun) 03:59:38


      *「生命の實相」第24巻質疑篇(P97~99)より

近ごろ、生長の家思想の有名なると効果の顕著なるにつれて、
その全体の思想を踏襲して、包装や名称だけを加えて、
一旗あげてみようとし、

かつあまり同じことを書いても受売りであると一見わかるので、
同じ意味を異なる文章で書き表わし、「何々会」等という別異の名称で
雑誌などを出される方がありますが、

そういう雑誌の文章は「無」の字の言葉の調合法がちがうので、
わたしの処方した「言葉の鉄剤」に「茶々」を入れることになります。

茶々を入れられるとその人の心のうちで、「無」字のバランスがこわれるので
『生長の家』を読んで万事好転していた人が、その種の雑誌を併用したために
「無」字の鉄剤の吸収率が鈍ってふらつく人があります。

そうしてその種の、雑誌の現象はあるとかないとか論じてある文章を読んだ日には、
心のバランスが破れてなんとなく不安で、会社にいても思うように
仕事が運ばなかったり、集金が集まらなかったり、
ついぞ起こらなかった歯痛が起こってきた人などもあります。

 
「無」を説くのは仏教でも、一燈園でも説いている。
キリスト教でも解釈の仕様によれば「無」を説いているのです。

生長の家と、それらの宗教とどこがちがうかと言いますと、
「無」字の扱い方が「ない」と易しく言いきって、
その「ない」がわたしの文章全体の流れの上に巧みに
効果的に織り混ぜられていて、

古今に多く類例を見ないような、読む人のこころに端的に作用して、
病を即座になおすほどに心の解放を与え、「無」を説くとも隠遁的にならず、
厭世的にならず、かえって積極的な活動力を与える点にあるのであります。

 
むつかしい複雑な「無」の理論をお読みになりたければ
仏典にはいくらでも複雑なものがありますから、
『大乗起信論』でも、『大般若経』でもお読みになるとよいと思います。

 
この問題については「善き樹はよき果実を結ぶ、果実を見てその樹の良否を知れ」
というキリストの言葉でお答えしたいと思います。

理屈でその樹は悪い果を結ぶはずだという理論が通りましても、
実際その樹が善き果を結ぶ場合には理論の方にまだ気づかれない欠陥があるのです。

理論で宗教で病気が治るはずがないと結論されても、
実際に治る以上はその理論の気のつかないところに真理があるのです。

 
真理というものは多数決の理屈で定まるものではありません。
そういう論議を読むのに費やす時間がありますならば、
言葉をよく調合せしめたる

――「無」字を巧みに調剤してある聖典『生命の實相』を幾度でも繰り返し読んで、
少しでもいっそう深く悟りに入られるよう希望致します。

            <感謝合掌 令和2年8月2日 頓首再拝>

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