伝統板・第二 2559511

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幼児教育 ④

1:夕刻版 :

2020/02/12 (Wed) 00:34:09

あなたの子どもを成功人間にする 12の言葉~その1

       *「トータルパーソンの子育て」万代恒雄・著(P51~58)

【私はとくべつな人~自尊心を育てよう】

私たち日本人は、ほとんどの場合、どこに住んでいても、
同じ顔、同じ言葉の中で生活をしています。

学校の制服も同じ、毎日の食事も似たようなものです。
いつの間にか、皆同じ、という感覚が育ってしまって、
自己の確立がなかなかできません 。

日本人にとって安心できるときは、皆と一緒に行動しているときなのです。

”旅の恥はかき捨て”という諺のように、
人前で恥かしいことも、知る人のいない旅先では平気でできるのです。

海外旅行のとき外国のホテルの廊下を、ステテコ姿で平然と歩きまわる県会議員さんの
団体に出会ったとき、この人たちのバッジの誇りはどうしたのかと思ったことがありました。

日本の常識は外国の非常識などといわれるのは、
その根本に自尊心が確立されていないという問題がひそんでいます。

自尊心という、良い意味でのプライドをもって生きていないと、
平気で他人の名誉致損をすることになります。

最近、よく話題になるプライバシーの侵害などということも、
本当に自分の人生に自尊心をもって生きている立派な人は、
そのことの故に、決して他人のプライバシーを侵害したりはしないものなのです。

自尊心を失っている人聞は、いくらでも、卑しい人生に堕落しますし、
それは、どれほど大学教育を受けていても関係のないことです。

これは、教育以前に身につけるべき基本的なものなのです。

偉大な聖書の中に、

「私たちは神の作品であって、良い行ないをするために
イエス・キリストにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、
その良い行ないをもあらかじめ備えて下さったのです」(エペソ二章十節)

とあって、私たち一人一人は、それぞれが神の《作品》であって、
《製品》とは違っていることを明記しています。

作品というものは、一点物であり、他に同じものが無いことを意味しますが、
製品ならば同じものが他にいくらでもあることになるのです。

このことは、個人個人が、それぞれ違った存在だと
意識しなければならないことなのです 。

そのためでしょうか、人は顔も違うし、指紋も違うし、
同じ人は二人と世界に存在しない事実をはっきりと認めなければなりません。

自分と同じ人が存在しないなら、自分はもっと誇り高く生きるべきであると、
誰しもが考えるはずなのです。
このことは、偉そうにすることとは別のことです。

つまり、”私はとくべつな人”なのです。

きて、私はとくべつな人なのだとの自覚があることは、
平凡な人生の中でも、何か自分自身は創造的な人生をつくり上げる責任がある
といった想いが心の中に存在することになり、
それが人生の超爆剤になることは容易に考えられることです。

私は、人が成功する要素として必要なことの一つは”他人と同じことをしない”
ということが条件であると語るのですが、
これは成功するための賢い方法でもあるのです。

いずれどの世界でも、同じことをやる他人がいては、
それに勝たねばならぬという負担ができてしまいますし、
新しい困難が生じてくるのです。


自分以外に誰も手につけていないことをしていれば、それだけで成功してしまうのです。

私が海外伝道で二万人の大集会をしたから、海外伝道者として成功している
といわなくても、それが千名しか集めていなくても成功していると確実にいえるのは、
他に誰もしていないことだからです。

この誰も手をつけていないことを見つけるのは、
自分がとくべつな人であるとの意識によることが大きいのです。


ところが、「自分は駄目だ」と思うのならば、
このとくべつというのはなかなかでてこないのです。

とてつもない金持ちの子どもとか、貴族の家族などは、周囲からその意識をいや応なし
に植えつけられるものですが、ごく普通の一般庶民はこの点で恵まれていないのです。


やはり、子どものときから、親が機会のある毎に角度を変えて
いいきかすことが必要だし、効果があると思うのです。


私の子どものころの記憶で、父親はとくべつに偉い人で権威者でした。
食事のとき、父親の前には、子どもたちには無い、美味しいものが、
二皿ぐらい余分に用意されていました。

子どもたちの羨望のまなざしに対して、母親は口ぐせのように
「お父さんは偉いのですよ」と私達にいうのでした。

私が6年生になったときの夕食のことでしたが、突然、父が何を思ったのか、
マグロの刺身(子どもたちは一回も食べたことはありませんでしたが)を一切とると
私の皿の上にのせてくれました。

そして、「兄ちゃんも6年生になったから一切やろう」といったのです。

すかさず母は「まだなまものは駄目です」といって、
マグロを横どりして七輪の上の綱の上で焼きました。
刺身は小さな焼きざかなになってしまいました。

しかし、私は妙にうれしくて、自分の存在を強く認められた感じがしました。
弟や妹の前で、自分が偉くなった感じでした。


父の出張のときには、いつも私が代わりに父の席にすわらされていましたし、
学校の成績が悪くてとくべつにガミガミいわれていたのも、やはり、
とくべつな人としての教育のためであったのかと考えられるのです。

このとくべつ意識は、さまざまな形をとって私の生涯の中で顔を出し、
人格形成の役に立ったように思います。


社会の中で、とくに難しい牧師という仕事を選んでからも、
とくべつな牧師になりたいとの意識は完全に心の中にありました。

他人と同じことをするのは避けようとする思いは、強かったと思うのです。

そんな思いは、聖書の学びの中で、神に選ばれている自分というものを発見して以来、
さらに強くなって、動かない人生の信念にとなっていったことも、
面白い心の成長といえるのです。

とくべつな人には、とくべつな人生が用意されなければならないと自覚できれば、
その人の生涯の成功は約束されたようなものです。

・・・

・・・

<関連Web>

(1)伝統板・第二「幼児教育」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7859435

(2)伝統板・第二「幼児教育②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7881952

(3)伝統板・第二「幼児教育③」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7919016

             <感謝合掌 令和2年2月11日 頓首再拝> 
2:伝統 :

2020/02/13 (Thu) 00:11:27


       *Web:今日も良いことがあるように(2019/02/25)より

子どもに親の愛情を示したり、子どもとの関係を良好にしたり、
子どもを伸ばしたりできる言葉です。

子どもの存在をまるごと受け入れて肯定する言葉は、
子どもに親から愛されていることを強く実感させます。

小さいうちから何度も言ってあげたい言葉です。


(1)大好きだよ

   子どもは親から愛されていると感じるなら、
   自分自身に心の安らぎをもちます。

   親から自分が好かれていると感じる子どもは、
   自分自身を好きになれます。

   親の気持ちは言わなくても子どもはわかっていると思いがちですが、
   はっきり言ってあげなければ伝わりません。

   それに子どもは何度でも聞きたいのです。

   「おまえが好きだよ」「とっても好きだよ」「大好きだよ」と。

   「大好きだよ」は、子どもを笑顔にする魔法の言葉です。


(2)宝ものだよ

   子どもは親からどう思われているか、とても気になります。
   自分はダメ子で、親から嫌われているのではないかと思うと、
   ひどく落ち込みます。

   親が子どもをどれだけ大切に思っているかを、
   やはり言葉で伝えましょう。

   「あなたはお母さんの宝ものよ」
   「お父さんの宝ものだよ」
   「大切な宝もの」
   「一番の宝ものだよ」

   子どもに安心感を与え、子どもの自尊心を育てていきます。


(3)生まれてくれてありがとう

   悲しいことに、ある子どもは自分が誰からも愛されていないと思うとき、
   「生まれて来なければよかった」と悲観することがあります。

   でも、これは親の愛情の
   伝え方、言葉のかけ方によって解決できることです。

   子どもが誕生したときのことを思い出してみましょう。

   親は身体がふえるほどの感動をもって喜んだのではないでしょうか。

   その小さな命の輝きに目を見張り、うるませ、
   あふれるほどの愛情をもって抱きしめたのではないでしょうか。

   子どもをまるごと受け入れ祝福するためにも「誕生日おめでとう」

   そして、「生まれてくれてありがとう」は、

   1年に1度は言いたい言葉です。


(4)いつもあなたの味方だよ

   子どもは自分を応援してくれる人がいてこそ、
   安心して、成長していけます。

   たとえ、自分が間違っても許してくれる、
   自分がいじめられても守ってくれる、
   そんな人がいれば子どもは様々な不安や恐れを乗り越え生きていけます。

   「いつもあなたの味方だよ」

   「お母さん、お父さんは、どんなことがあっても味方だよ」

   そんなメッセージは、子どもに安心感を与え、生きる力を与えます。
   親の愛を感じながら、失敗を恐れずに積極的に生きていけます。


(5)あなたが誇らしいよ

   ときどき、親が言ってあげたい言葉です。
   「親として君が誇らしいよ」「君の親でよかったよ」

   きっと子どももこう思うでしょう。
   「ぼく(私)も、お母さん、お父さんの子でよかったな」
   「お父さん、お母さんの子で誇らしい。そして、うれしいな」


(6)信じてるよ

   人間には信じられることが必要です。

   自分の言ったことを信じてくれる人が必要です。

   自分のしたことを信じてくれる人が必要です。

   自分は信じられていると感じることが必要です。

   だから、ちゃんと言葉で聞きたいときがあります。

   「信じてるよ」「おまえを信じてるよ」って。
   自分を信じてくれる人がいれば、
   人は自分も他人も信じることができます。

   それが自信になり、信頼になります。


(7)運がいいね

   運がいい人は、どんなときも自分は運がいいと考えています。

   「おかげさまで、いつもいいことが起きる」

   「このピンチを通して、きっと道が開けてくる」

   「今日も、ラッキーだなあ」

   常日頃からそう考える人は、
   どんな状況にあっても、それをプラスに考えます。
   そして、感謝の気持ちを忘れません。

   「運がいいね」とは、ことあるごとに子どもに言ってあげたい言葉です。

   生まれたそれだけで、「運がいいね」と言っていいのです。


(8)あなたのままでいい

   神様は一人ひとりの人間を違う存在、
   ユニークな存在にお創りになりました。

   この世に誰ひとりとして同じ人間はいません。
   私たちはほかの人とはまったく違う存在です。

   誰でもその人らしい良さをもっています。
   人と同じようにできなくてもいいのです。
   人と違っていていいのです。

   「違っていていい」

   「そのままでいい」

   「あなたのままでいい」

   互いの違いを認めあうことで、豊かな心が育ちます。

   ( https://t-nakai.work/2019/02/25/word-s-3/  )

           <感謝合掌 令和2年2月12日 頓首再拝>
3:伝統 :

2020/02/13 (Thu) 23:39:12


       *「トータルパーソンの子育て」万代恒雄・著(P59~61)

【大きくなるのは楽しいんだ~積極性を育てよう】


子どもが成長するのは、体だけではありません。
ご存知のとおり、頭脳のほうもめざましい勢いで成長しています。

私がいつも驚くのは、子どもたちの言葉を身につける能力のすばらしさです。

大人がどれほどの努力をしても、外国語が自分のものにならないのと比較してみて、
誰でもこの事実に目をとめないわけにはいきません。


しかし、同時に、心も育っていることを忘れてはなりません。

子育ては、心を育てることを含んでいます。


その心が、積極的に物事をとらえる心であるか、消極的なそれであるかは
人生を左右する重大事なのです。

誰の目からみても、積極人生が有利であることは
分かりきった常識になっているのにもかかわらず、
実際の人生では思うようにならないと嘆く人が実に多いことも事実です。

とにかく積極人生のメリットは、いくら書いても限りがないほどあります。


私のブラジルでの親友ピント牧師は、私の十年に及ぶ海外伝道の名脇役で、
私の通訳として活躍し、今では世界に通用する大牧師で、
日曜日には五千人以上の人々の集まる大教会を牧会しています。


彼の両親は牧師ですが、彼は父親に、いつも「挑戦的に生きろ」と
声をかけられて育てられてきたのでした。


若いころ、彼は牧師の仕事は嫌だと親の元を逃げだして、キャバレーの用心捧になります。
そこで彼は、体質にまでなっている積極性を発揮してメキメキ頭角をあらわし、
さらに楽器に手を出して独学でピアノ、アコーデオン、ギターに至るまで、
結構、素人ばなれするほど上達してしまったのです。


彼の両親は心を痛めて彼の回心を祈りつづけていたのでしたが、
あるとき、彼が深酒をくらって喧嘩して半死半生の目に合って倒れていたのを、
たまたま通りかかった知り合いの人がびっくりして助け出し、
意識不明の彼を父親の教会にかつぎ込んできたのです。

それがちょうど、教会でお祈りの会を聞いて信者たちが祈っている最中だったので、
一同騒然としましたが、同時に全員が神のすばらしい祈りに対する応答に感謝したと
言うのです。


さて、彼は意識を回復したとき、
どうして自分が父の教会の中にいるのか見当がつかなかったのです。

しかし、事の推移を語って聞かされ、すべてが神の手の中にあって、
人の目の前から逃げても、神の手からは絶対に逃げられないことを悟るのです。

彼は、そこで見事な回心をしました。

悪に強かった彼は、善にも強く、今度は猛烈に牧師になる勉強を始めたのでした。

彼が神学校を出て3年目、問題のあった老牧師が引退して誰も引き受け手のない
教会の牧師として悪戦苦闘しているとき、私との初めての出会いがありました。

ロスアンゼルスで彼と初めて会って以来3年目に、
私はそのとき約束した通りにブラジルを訪れました。

彼にとっては信じられないことだったのです。
地球の裏側から、世界でも珍らしいぐらいクリスチャンの少ない日本という島国から、
約束したとおり姿をあらわして、これから十回は絶対に来ると宣言する私の眼の中を
のぞき込んで彼は、「僕は、その言葉を信じる」と呟くようにいったものでした。

その約束通りに2回目のブラジル伝道のとき、
彼の心の中にある積極的な心に火がつきました。

彼は「万代牧師を自分の兄と思って従うので、その成功の秘密を全部教えてくれ」
というのです。そして彼は、自分の子どもたちに私のことを、
「アンクル・ジェームス(ジェームスおじさん)と呼べ」と命令しました。
実をいうと私のクリスチャン・ネームは英語でジェームスというのです。

彼は、自分の家のすべてを私に開放しました。

私が彼の町で潜在するときは、子どもたちを居間のソファーの上に寝かせて
私の個室を獲保してくれて、決してホテルに宿をとることを許きないのです。

私が、「ブラジルで英語のしゃべれる牧師はほとんどいないのだから、
英語で説教ができるようになってくれ」というと、彼はどうして学んだのか
間違いなく英語で説教できるようになっていました。

私は、彼に日本旅行をプレゼントしました。
彼が松山の空港に降り立ったときの得意満面の笑顔は、積極人聞の勝利の笑顔でした。

それからの彼は、すべてがこの調子で、この十年間で、文句なしのブラジルで
一、二位を争う、世界的な牧師になっているのです。

彼にとって、あらゆるチャンスが扉を聞いて待っているような感じがするのです。

この間、いくつもの苦難や困難や障害がやって来たことも事実で、
何回となく国際電話で語り合ったこともありました。

それでも、彼は一回も弱音をはいて消極的になることなく、
前向きに受けとめて進んで行ったのです。

彼はブラジルのサクセス・ストーリーの主人公ですが、
とりたてて能力があるわけでもないのに、彼の積極性が正しく生かされて、
彼は好運をつかんだことを私はこの目で見、
当事者として、真実の証しのできる唯一の証人なのです。


このような力は、ただ頭の回転が速いとか学校の成績がよいなどといった能力とは、
次元の違う偉大な能力であることが分かります。

これは、学校などで身につけようとしても、そこは、ある意味での競争社会ですから、
一人だけが、スターになって訓練しようとしても無駄なことです。

こんなことこそ、子どもは王様、という特権を発揮できるときに、
親が身につけさせる能力の一つだと考えるべきなのです。

           <感謝合掌 令和2年2月13日 頓首再拝>
4:伝統 :

2020/02/15 (Sat) 00:44:08


       *「トータルパーソンの子育て」万代恒雄・著(P65~72)


【魔法の言葉~礼儀正しい心を育てよう】


カウンセリングをしながら、私は、あらためて言葉のもつ不思議な力、
それも人生を左 右してしまう偉力に目をみはるのです。

言葉は、人聞が社会生活をするための最大の道具であり、
言葉のもつ力をどれほど力説 してみても尽きることはありません。

子どもを教育するといっても、それは言葉によってなされていくのです。

子どもが、どのような言葉で教育され、
また、どのような言葉を身につけて成長してい くかということは、
そのまま生涯を決定することになるのです。


今の時代において、生き甲斐とか、やる気とかいうことが話題になるのですが、
これらの問題をとりまく渦の中に、言葉ということが案外、忘れられているように
思います。


私たちは、自分が普段、何気なしに使っている言葉とか、
自分をとり囲んでいる人々の使っている言葉というものが、
人生を支配していることに気づいていないのです。

人々との交際の中で、いつまでも離れたくないような雰囲気をもっている人が
ときどきいますが、それは、その人の言葉のもつ面白き、魅力が
私たちの心を離さない理由なのです。



反面、対面していて、嫌な感じの人は、例外なく言葉の悪き、
その内容の低き、が原因になっているのです。

「言葉で失敗しない人がいたら、その人は、
からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です」(ヤコブ三章二節)

とあるように、言葉は人生において重大な責任をもっているのです。

成功している人との対話が、期待できるしたのしいのは、
そこに、聞く人の心に感動を湧かすようなものが存在しているからであり、
それが言葉によって表現されることを聞く側が待っているからです。

言葉を大別すれば、「積極的なことば」と「消極的なことば」との
二つに分けられるでしょう。

そのどちらを選ぶかによって、
人生を成功と失敗のいずれかに色分けできると思うのです。


そして積極的な言葉こそ、成功者の言葉なのです。

それは、語るその人自身の内面を燃やすだけではなく、
聞くすべての人を、モティベー卜して同じ方向に前進きせる力をもっています。
言葉の武器は人生の戦場での最大の強力な武器なのです。

聖書は、さらに神の言葉の偉力について次のように語っています。

「神の言葉は生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、
たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目きえも刺し通し、
心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます」(へブル四章十二節)

こうして考えてみると、日々の生活の中で不用意に口にする言葉の害毒を知ると同時に、
有益な言葉のメリットをも判別できるものとなることは、大事なことであると
気づくはずなのです。

実は、このことが、自分の人生の大事きに気づいたことであり、
どのような言葉の生活をすることが必要か分かってくるのです。

人の幸福だとか、悲しみとか、そのようなものも、
自分をとりまく言葉の世界がもたらしたものなのです。

ときどき「今日はどうして気持ちが楽しいのかな」と考えたりするとき、
そこには、すばらしい人との出会いがあり、有益な会話があったことに気づくことが、
しばしばあります 。

反対に、他人との一つの嫌な言葉のやりとりが、
一日中、気分を重くすることは誰でもが経験していることです。

私の人生でも、たびたび、言葉による失望と言葉による励ましを、
重大な危機に経験しました。

初めて四国の松山に開拓のため出かけたとき、
西も東も分からぬ私は、当然の常識として、
長く土地に住みついている先輩の牧師に挨拶に出かけました。

彼らは一様に、私の無謀きにびっくりしたようすでしたが、あるとき、
一番年輩の先輩牧師に、この地での開拓の可能性について質問したことがありました。


彼の返事は、
「まず、十年ぐらい石に噛じりついたつもりで頑張れば、
十人ぐらいの信者は君ならできるかも知れない」
というものでした。

それでは、全然、だめだといわれているのと同じことです。

信徒もいないし、教会もないし、金もなければ、友だちもいないという状況ですから、
こんなことを先輩からいわれるのだったら、相談するのではなかったと後悔しました。

しかし、そのときは若くて反骨精神のかたまりみたいなところがあったので、
「今までの牧師は駄目かも知れないが、僕ならやれる」と勝手にきめたのと、
「この難しい田舎の都市で成功したら、もうこわいものなしになる」と考えたら腹がすわって、
やる気が起きてきました。


次に私の人生を変えた言葉は、
初めの娘が生まれて七十日目に白血病で死んだときのことです。

原因不明のこの血液のガンに、どうして娘がなったのか私には分かりません。
私は牧師として、一週間の断食の祈りによって、いやしを求めつづけました。

私の祈りは空しく響くだけで応答なしの状況で、十月十日、娘は死にました。

これは大きなショックでしたし、私にとっては、今まで、多くの人々の病のための祈り
が答えられるのを経験していましたから、私も何か奇績が起こると期待していました。

そのとき、私は世界的大伝道者、T・L・オスボーン師に
電報を打って祈りの依頼をしておりました。


娘の死を知って、彼より一通の電報が私のもとにとどきました。
それは、英語の電報でしたが、短いもので次のように書かれてありました。

「コレハ、キミノシンコーノハイポ クデ アル・オスボーン」

この電文を手にして、私はふるえていました。
この悲しみのときに、一言の慰めの言葉もなく、”君の信仰の敗北だ”とは
あまりにも無茶な話ではないか。僕は断食もした、徹夜の祈りもした、
私の心の中には悔しきで一杯でした。

しかし、しばらくして、平静きがもどってくると、
この文の意味が分かりかけてきました。
私は自分の敗北を認めたくなかっただけのことです。

この人生を戦場だと考えれば、戦死者も出るし、負傷者だって出る。
それを泣き悲しんでいて戦いができるはずがない。

今回は戦に負けた。
しかし、今度は皮を切らして肉を切り、肉を切らして骨を断てばよいのだと気づくと、
涙が乾きました。

オスボーン先生の言葉は、
私の魂を生かす厳しい鞭となった言葉なのだと理解できたのです。

人から励ましのことばで人生を走りぬいてきた私は、
今は、人々を励まし、やる気をおこすことを仕事としていることは不思議なことです。


幼児のときから、積極的な言葉にとり囲まれて生きるのなら、
その人の人生は、何によっても弱音を吐かない力強いものになるでしょう。

子どもを憶病な弱気人間にするのも、問題に挑戦する強気人間にするのも、
親の責任だと思えば、教育のやりがいも充分にあることでしょう。

           <感謝合掌 令和2年2月14日 頓首再拝>
5:伝統 :

2020/02/16 (Sun) 00:29:12


      *Web:脳外科医 パパさんの子育てブログ(2017年7月5日)より

息子が生後5カ月になって意識する幼児教育を簡単におさらいしてみたいと思います。

1.たくさん話しかける

  たくさん話しかけることは、子どもが日本語を覚えるのに非常に大切ですよね。
  夫は帰宅後息子に今日の出来事をいつも話しています。

  その中には、難しい単語がたくさん出てきますが、
  それは意外といい刺激になるのではないでしょうか。

  息子は聞いているのどうかは不明ですが。。。
  でも、話しかけは息子のコミュニケーション能力の発達にも一役買うと思います。

  最近は、息子の名前を呼ぶとふりかえるので
  たぶん自分の名前が分かるようになってきているのかなと感じる今日このごろです。


2.色彩が豊かな絵本を見せる

  幼児の脳は後ろから発達してくると言われています。
  つまり、後頭葉から発達してくるのです。

  後頭葉とは、視覚をつかさどる脳ですから、
  色彩が豊かな絵本は子どもの脳をよく刺激してくれます。

  うちでは、「しましまぐるぐる」を息子に見せています♪
  息子に見せると目をまん丸くして食い入るように見てますよ。
  たぶん、かなり物珍しいんでしょうね。

  「しましまぐるぐる」
  https://www.amazon.co.jp/%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%90%E3%82%8B%E3%81%90%E3%82%8B-%E3%81%84%E3%81%A3%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%AB%E3%81%82%E3%81%9D%E3%81%BC-%E6%9F%8F%E5%8E%9F-%E6%99%83%E5%A4%AB/dp/4052031113/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1499932715&sr=8-1&keywords=%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%BE%E3%80%80%E3%81%90%E3%82%8B%E3%81%90%E3%82%8B


3.クラシック音楽をかける

  幼児の脳は後ろから発達し、その後側頭葉が発達してくるんです。
  側頭葉は主に聴覚を担います。
  その他に、言葉を理解する領域(Wernicke野)も司っています。

  ですので、音楽を聞かせることは息子の脳の発達にとって非常に大切だと感じています。
  また、クラシックを聞きながら夕飯を食べるのって、
  まるで高級レストランにいるようでとってもリラックスして、
  優雅な気持ちにもひたれてしまい、一石二鳥ですよ♪オススメ♪


4.テレビを見せない

  テレビはたしかに息子を黙らせる、夢中にさせるには役に立ちますが、
  わが家では極力見せないようにしています。

  その理由の一つは、子どもの頃からテレビに慣れさせてしまうと、
  いっつも釘付けになってしまい家族の会話がなくなってしまうからです。

  わたしも子どもの時に帰宅後すぐにテレビを見るクセができてしまっていて
  両親や兄弟との会話が少なくなりお互いが日頃どう感じているかなどの
  コミュニケーションがとれなかった時期があったのを非常に残念に思っていました。

  息子にはそのような思いをさせたくありません。


  二つ目は、テレビから流れる話し言葉は、
  両親が話しかける言葉に比べて子どもの頭の中に残らないそうです。

  語彙力の向上につながらないそうです。


5.たくさん息子と触れる

  以前、パパイニシアティブの本にも記載しましたが、
  子どもと触れ合うことによってオキシトシンが分泌され、
  体にとっても良い影響を及ぼします(健康増進、自信がつく、血圧低下など)。

  ですので、夫は帰宅後できる限り、息子と触れ合うことを意識して過ごしているようです。


以上、わたしが現在意識して行っている幼児教育というか子育てをご紹介しました。

  ( http://www.shimoda-blog.com/2017/07/05/seigogokagetsu_youjikyouiku/ )

           <感謝合掌 令和2年2月15日 頓首再拝>
6:伝統 :

2020/02/16 (Sun) 23:38:31


         *Web:DIAMOND online(2020.2.7 )より抜粋

(1)生まれてすぐに音を聞きわけられる

  ①人間の知能には言語能力が重要な役割をはたしている。
   いったん子どもが言語能力の習得を始めると、その能力は見る間に伸びていく。

  ②言語の習得はじつに複雑な過程を経る。
   語彙を増やすだけではなく、同じ音と見なされる音の集まり(音素)や
   単語の社会的意味(そこに込められた情緒的な意味合い)なども学ばなければならない。

   乳児は、言語のこうした特徴を驚くほど早い時期から追っている。

  ③生まれたときから、あなたの赤ちゃんはあらゆる言語の音を聞きわけることができるのだ。


(2)「生後6ヵ月から12ヵ月」が重要

  ①ほかの言語を聞きわける窓の扉は、生後6ヵ月で閉まりはじめる。
   そして生後12ヵ月を迎える頃、赤ちゃんの脳は、
   その後の人生でほかの言語を習得するか否かの決断をすでにくだしているのだ。

  ②ほかの言語に対して扉を開けたままにしておく手法はひとつしかない。

   交流を通じて言葉を伝えるのだ。
   本物の人間が部屋に入っていき、子どもに向かって直接、
   その言語を話さなければならないのだ。

   子どもの脳がこの交流を認知すれば、脳内のニューロンが
   その第二言語を音素などを含めてすべて記録しはじめる。

   こうした認知作業をおこなうには、脳は生身の人間から情報満載の刺激を得て、
   その刺激を相互にやりとりしなければならない。

   ( https://diamond.jp/articles/-/227918 )

           <感謝合掌 令和2年2月16日 頓首再拝>
7:伝統 :

2020/02/19 (Wed) 19:58:48


        *Web:DIAMOND online(2020.1.24 )より抜粋

   〇言葉の種類と数、どちらもたいせつだ。

   〇話すと、子どものIQが向上する。


(1)親が子どもに話しかけるほど、たとえ生後間もない新生児であっても、
   子どもの言語能力は向上し、向上するスピードも上がる。

   1時間に2100語を使うといいらしい。

(2)話す単語(名詞、動詞、形容詞などのほかにも、ある程度の長さがある
   複雑なフレーズや文を含む)の種類もまた、会話にでてくる単語の数と同様に重要だ。

   肯定的な反応をたくさん示すのもいい。

(3)言葉を使ってやりとりをしていれば、自然と言語能力を伸ばすことができるのだ。

   赤ちゃんをよく見て、口にしている言葉を真似よう。
   笑い声や顔の表情も真似してみよう。

   赤ちゃんが自分なりの言葉を発しようとしていたら、大げさに反応しよう。

(4)赤ちゃんはおとなのような受け答えはできないものの、しっかりと聞いている。
   それが子どもにとってはいいことなのだ。

   たとえ収入といった重要な変数の影響をとりのぞいたあとであっても
   乳幼児の時代から話しかけていれば、わが子のIQを上げることもできる。

   3歳を迎える頃には、親(おしゃべりなグループ)から
   しょっちゅう話しかけられていた子どもは、

   親(無口なグループ)からあまり話しかけられていなかった子どもと比較して、
   IQのスコアが1.5倍高かった。

(5)親から肯定的に、豊富な語彙で、頻繁に話しかけられていた子どもは、
   ほとんど話しかけられなかった子どもの2倍ほどの量の単語を知っていた。

   小学校に通うようになると、そうした子どもは会話の少ない家庭の子どもと比べて、
   読む、綴る、書く能力がはるかに高かった。

(6)だが、これだけは肝に銘じてもらいたい。

   あなたのお子さんの脳にいい影響を与えるには、生身の人間が必要であることを。

   だから声帯を鍛えようではありませんか。
   ポータブルのDVDプレーヤーでは役に立たないし、
   お宅のテレビにサラウンドスピーカーがついていたってダメなのだ。

   あなたの声帯が、ものを言うのだから。

     (https://diamond.jp/articles/-/226286 )

           <感謝合掌 令和2年2月19日 頓首再拝> 
8:伝統 :

2020/02/20 (Thu) 23:40:17


         *「0歳からみるみる賢くなる55の心得」
             久保田カヨ子・著(P46~49)より抜粋
           ~ 生きるための力を早く身につけさせよう

思いやりの心を育てる
――自らの生を喜び、
「感謝の心」をはぐくむ心得1


母子ですごす時間が長い長子は、
他の人の心を読む、思いやる、察することのできる子に育てることが大切です。


やさしい子に育てるには、親がやさしいだけではいけません。

親に厳しさがなく、いつも笑顔ばかりだと、
子どもはその笑顔からしか親の内面を察知できず、
結局子どもは、お母さんの心を察することのないまま、
甘やかされることだけを身につけてしまいます。

乳児が、もし泣き始めたら、
まず、どこか痛いところがあって泣いているのではないかと注意します。

手足を硬直させて泣くときは、手を胸元に持っていき、静かに押さえつけます。
子宮の中にいたときの丸まった姿勢に近づけるのです。

そうやって、泣きやむまで静かに抱きしめるだけでいいのです。
抱きあげて、揺するのは、やめましょう。

これは、“泣き虫ベビー”にしてしまうことになります。
抱いて揺らして泣きやんでも、決して、乳児が喜び、安心しているのではありません。


静かに落ち着かせて、自分のいまの状態を知らせることが大事で、
もう半年も経てば、それが赤ちゃん本人への思いやりにつながるのです。

生きるための力を、早く身につけさせるわけです。

           <感謝合掌 令和2年2月20日 頓首再拝> 
9:伝統 :

2020/02/21 (Fri) 23:41:44


       *「トータルパーソンの子育て」万代恒雄・著(P73~78)


【わたしのおうちは楽しいおうち~愛の心を育てよう】

「たとえ私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれる
ために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません」(コリント一・十三章三節)

愛がなければ、何の役にも立たないとの言葉ほど、愛の重要性を語るものは、他にありません。

この愛という最も大きなもののために、人はすべてを投げ出してきましたし、
この愛を 崇高な目標にして人類は進んできました。

しかし、反面、このことほど、多くの謎を人々に提供し、
多くの問題を提起してきたものも他にありません。

愛は人類永遠のテーマなのです。

誰もが、愛を語り、愛を信じていますが、
その本質はどうしても、つかみにくいようです。

それは、私たちが、本質的な愛から離れて自己中心的な、
ご都合主義的なゆがめられた愛の中に生きているからなのです。

だからこそ、何か社会でも問題が起きると、やがてそれは、
愛の不足が原因であると気づいて、やりきれない感情になってしまうのです。

私たちが、愛を論じるとき、それが単なる議論の上でなされるとき、
それは果てしなくつづくもので終わることはありません。

だが聖書は、

「人がその友のためにいのちを据えるという、
これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハネ十五章十三節)

と語っていて、このテーマは、論ずるべきことより、
実践すべきこととしてとらえるべきことが示きれています。

この本では、私は信仰的なことを語ることを目的としていませんから
これ以上ペンを進めませんが、愛の実行が、すべてをギクシャクさせているのだなあ
と感じることが多くあります。


私の友人の牧師で、自分の実子以外に二人も養子をもらって育てている人がいます。
こんなことは、日本では考えられないことです。

アメリカなどでは、自分に子どもがすでにいても、可哀想な子どもを養子にして、
少しでも幸福を分けようとしている家族があります 。

そうしたことは、単なる思いつきゃ、同情では決してできないことです。
これは、人聞 の一生にかかわることですから大変なことです。

その彼が私に、「絶対に自分の子どもと同じようにはならないよ」と語ったとき、
私は自分の今までの甘い考え方に釘をきされたような思いがしました。

他人の子どもを一緒に愛をもって育てたら、同じになってくれると考えるのは
素人考えであって、子どもには、生まれてきた背景もそれぞれ違っていることだし、
そこには解明されていないことも含めて、複雑な要素がからみ合ってくるのです。

それに親の側にしたって、自分の子も、他人の子も全然かわらないというのは
嘘だと思うし、彼のいうとおり”同じように見られない””同じように感じられない”
といったところに本当に人間としての苦悩があるのです。


しかし、それでも、親のない子どものために親になってあげようとする、
その心の中には、やはり人類の一番尊い財産である「愛」が息づいているのです。

私たちの教会では、よく未信者の方々が、結婚式を申し込んでくるのですが、
そのときはもちろん引き受けてあげることにしています。

そのとき式で語る牧師の説教のテーマに「愛」というのがありますが、
それはギリシャ語を通して、本当の「愛」のあり方を知ってほしいとの願いをこめて
語るのです。

ギリシャ語でエロスという語があります。
これは、肉慾、情慾の意味ですが、日本語では、愛の意味に受け止めている人がいますが、
これは間違っています。

相手の人の美しきに魅かれていても、それはエロスの愛で、
本質的なものではないということなのです。

次いで、フィレオ!という語があって、博愛といった意味ですが、
社会では同情的な感情、友情的なものを含めて、愛情と錯覚することがあるので
注意しなければなりません。

最後に、アガペーというギリシャ語があって、犠牲愛、つまりキリストの十字架の愛を
語っているのですが、すべからく、結婚はこのアガペーの愛がなくては意味がない
ということと、お互いが、お互いのために犠牲になる覚悟の中から、
真実の愛が生まれるのだと語るのです。


やはり、本当の愛の存在しない家庭の中からは、
愛の心のある子どもは育たないと思うのです。

愛もまた子どもたちが学習して身につけるべき重大テーマなのです。

そして、愛は、自己に死んで生まれた愛であればあるほど、人の魂を生き返らせる力を
愛の心の豊かきは、人をひきつける豊かきとも共通するものです。


そして、愛は、自己に死んで生まれた愛であればあるほど、
人の魂を生き返らせる力を内に秘めているものです。

こんな愛をもっている人が、社会の中で光り輝かないはずはないし、
人聞が成功するための隠された要素だと私は信じています。

愛というもののすばらしさを、子どもはまず生まれ育つ家庭の中で知らされるのです。

           <感謝合掌 令和2年2月21日 頓首再拝>
10:伝統 :

2020/02/22 (Sat) 23:27:55


         *「0歳からみるみる賢くなる55の心得」
             久保田カヨ子・著(P20~21)より抜粋
           ~ 生きるための力を早く身につけさせよう


なぜ、わざわざ離乳食をつくるんですか?
――日本式伝統育児で
「生き抜く心」をはぐくむ心得4


赤ちゃん用品売り場には、かわいらしいすりこぎや裏ごし用のザル、
すり下ろし器がセットになったさまざまな“離乳食調理グッズ”があります。

2、3歳の子を持つお母さんの中には
「離乳食づくりが一番イヤだった」と言う人もいます。


いったいいつから、わざわざ離乳食をつくるようになったのでしょうか。

昔のお母さんは自分たちの食事をチュチュッと口の中でかみ砕いて、
それをわが子に与えたものです。

歯が生(は)える前なら、虫歯ができることを気にしなくていいでしょう。

お母さんの唾液には、母乳にも含まれている“抗体(こうたい)”が入っています。

抗体には、私たちの身体を病原体から守る大切な働きがあります。
お母さんの口の中の食べ物を赤ちゃんに与えることで、
お母さんの抗体を赤ちゃんに伝えることにもなるわけです
(ただし、抗生物質を服用したり、感染症にかかっているときは別です)。

「大人用の食事ではアレルギーに対応できない」と言う人もいるかもしれません。

本当にいま、アレルギーのある子が増えています。

しかし、「あれもこれも食べられない」と言っていては、
緊急時にサバイバルできません。

少しずつ慣らしてアレルギーを少なくすることも、
親が与えてあげられる“生き抜く知恵”なのです。

           <感謝合掌 令和2年2月22日 頓首再拝>
11:伝統 :

2020/02/23 (Sun) 23:48:11


        *Web:DIAMOND online(2020.1.29 )より抜粋

《夫婦ゲンカが子どもに及ぼす影響》

親がケンカしている現場を見れば、
子どもがストレスを感じることくらい、どんな親でも知っている。

だが、親のケンカに反応を示す子どもの年齢は、研究者の予想よりはるかに低かった。

6ヵ月未満の乳児でも、なにかがおかしいことを察知できる。
成人と同様、生理学的な変化―血圧、心拍数、ストレスホルモンの上昇など―を見せるのだ。

赤ちゃんの24時間蓄尿検査を実施すれば、
親の夫婦ゲンカの程度を推定できるという説まであるほどだ。

赤ちゃんや幼児がケンカの内容を理解しているとはかぎらないけれど、
なにかがおかしいことには明確に気づいているというわけだ。

 
ストレスは行動にもあらわれる。
感情的に不安定な家庭で育てられている赤ちゃんは、
新たな刺激に積極的な反応を示したり、みずから気持ちを落ち着けたり、
ストレスを感じたあとに立ちなおったりするのが苦手になる
―つまり、自分の感情をうまくコントロールできなくなるのだ。

ストレスホルモンが骨の形成を妨げるため、
赤ちゃんのちっちゃい足でさえ、きちんと成長しない場合もある。

こうした赤ちゃんが4歳になる頃、そのストレスホルモンの量は、
感情的に安定した家庭で育てられた子どもの2倍近くに達する場合があるほどだ。

悲しい話だ。だって、こうした悪影響は払拭することができるのだから。


《まずは安心できる環境を用意しよう》

たとえ重度の心的外傷を与えられる家庭で育ったとしても、
その乳児が生後8ヵ月未満である場合、思いやりをもって
しっかりと養育する環境に置かれれば、
たった10週間ほどでストレスホルモンを調節する能力を改善できるのだ。

だから、夫婦仲が悪い親はまずボクシングのグローブを床に置き、和解に努めよう。
夫婦の反目がずっと続けば、子どもは長期にわたりストレスを感じた人間が
とりがちな行動を見せはじめる。

そうした子どもは不安障害やうつ病に苦しむリスクがきわめて高くなる。
そしてストレスによって免疫系が正常に機能しなくなり、風邪をひきやすくなる。

そのうえ、同じ年頃の子どもと対立しやすくなる。
集中力が弱くなり、感情をうまく制御できなくなる。

また、安定した家庭で育てられた子どもよりIQが8ポイントほど低い。

ほかの子どもたちと比べると高校を中退しやすく、卒業できたとしても成績は悪い。

この不安定な家庭環境に親が終止符を打ったとしても
子どもは長年、その代償を払いつづける。


《子どもの目の前で仲直りしよう》

夫婦ともに感情が安定していて、夫婦間の争いが日常的にない家庭であろうと、
ときにはケンカすることもあるだろう。

 
だが研究によれば、子どもの目の前で夫婦ゲンカを繰り広げるよりも、
夫婦が仲直りをする現場を見せないほうが、子どもに大きいダメージを与えるそうだ。

 
多くの夫婦が子どもの前でケンカをするけれど、
仲直りは子どものいないところでこっそりとしている。

だが、たとえ幼い時期であろうと、いつも親が傷つけあう光景ばかりを見て、
包帯を巻きあうところを目撃しない場合、子どもの認知機能がゆがんでしまう。

 
夫婦がケンカをしたあと、互いに手当てをするところを意図的にはっきりと見せておけば、
フェアに戦う方法と仲直りをする方法、その両方の手本を子どもに示せるのだ。

     (https://diamond.jp/articles/-/226701 )

           <感謝合掌 令和2年2月23日 頓首再拝>
12:伝統 :

2020/02/27 (Thu) 23:46:28

       *「トータルパーソンの子育て」万代恒雄・著(P79~87)

【決めるの私~決断力を育てよう】

私の子どものころの楽しみの一つは、親につれられてデパートの大食堂に行くことでし た。
欲ばりの私は、あれも、これもとウインドーの中の見本をみて迷いました。

私の失敗の思い出の一つは、
山盛りだと思って注文した”ざるそば”が実は上げ底であったことでしたが、
何を食べたいのか自分で決定できないことは決してありませんでした。

かえって、一品ではなくて、二品も注文してほしくて叱られた経験があります。
このごろの子どもたちは、デパートの食堂の前で、”何を食べたいの”と聞かれると、
”別に”と気のない返事が帰ってくることが多いのです。

これは食べるものが豊富になったことも原因の一つでしょうが、
総体的に、自分で決断する力が足りないようです。


ひとかどの青年になっても、自分の進学する大学を決めかねているのをみると
将来が案じられます。

決断力がないということは、別の面では、他人の思いすなわち流行に弱いということです 。

テレビ・ゲlムのソフトが大人気で、高価なものなのに何千万本も売れて、
それを買うためにお庖の前に何百メートルもの列ができるというのも異常な現象です。.

遊びにしても、仕事にしても、自分で選ぶことのできないのは不幸なことです。


大学の入試まで、そのときの流行があって、自分がどの様な仕事につきたいのか、
自分で決断できなくて、簡単に人の意見に支配されてしまうのです。
その結果は満足できない人生を創ってしまうことになるのです。

決断力をもっ人聞のメリットを少し考えてみると、次の様になります。

《無駄のない人生》

人生は時の流れですから、はっきりいえば一瞬も無駄にできないのです。

時間がないないといっている人も、
案外ぐずぐずしていて時間を浪費していることが多いのです。

人生に完全を求めることは無理なのですが、
もっと良いことがあるかも知れないと思って、なかなか決断できない場合もあるのです。

決断の速い人は、時の流れの中で、
他人との間に、そのことによって差をつけるができるのです。


成功は鼻の差であるとよくいわれます。

ざまな競走のとき、それが、0.01秒の差でも優勝するわけですから、
一瞬のおくれも許きれないのです。

私は、決断力がその微妙な差をつくり出すのだと思っています。
決断しなければ、何もらないし、無駄な時が流れるばかりです。

私の人生でも、大きな成功のきっかけは、
すべてが決断することによって始まっているを見るのです。

私が仕事をしている六階建ての教会は、サイズこそ大きくありませんが、
市の一等地の四つ角に建てられたスマートなものです。

誰だってピルを建てるなら一等地にしたいのは当然のことです。
この土地は時価の半額で、売り出されていました。
それもそのはず、この土地は地主にとって悩みの種だったのです。


ここには二階建の十五部屋ある古い木造の旅館がありました。
持ち主は、十数年も前に、手がつかないのです。
暴力団と知らずに借したばっかりに困りはてていました。
そのままでは、誰も恐れて買い手がつかないのです。


私が手付金をもって買いたいと申し出たとき、銀行と持ち主は相談して、私に、
手付金を入れるときに同時に、私のものとして登記して欲しいとの意向をのべたのです。

これは明らかに買手の私をその話から逃きないための方法でした。
そのようにしてしまえば、一カ月以内に私はどうしても残金の決済をする義務が
生じるからです。

私が牧師だから、悪いことは決してしないというのが彼らの目のけけどころでした。

私は誰にも相談する余裕がないことですし、非常に困りました。
この突然の申し出の返事には、たったの十分間の余裕しかありませんでしたが、
私は買うことを決断して、すぐ登記がされました。

もし、暴力団が退去してくれなければ、その土地は無用の長物で、
自分の土地を税金だけ払いつづけて使えないことになるのです。
しかも、土地購入資金は、全額借入金なのですから、どうやって返済するかという
難問もあります。

決断することは、ときとしては恐ろしいことでもあるわけですが、
決断とは、そのようなものです。

不安と複雑な心境の中での決断でしたが、
その夜中に暴力団は夜逃げしてしまったのです。

夜逃げした理由は、私が購入したこととはまったく関係のないことで、
暴力団聞の抗争が原因でした。

たった半日の出来事で、私はその当時の金で六千万円を儲けたことになってしまいました。

決断が幸運を生んだのです。

私が明日まで返事を引きのばしていたら、絶対に売ってもらえませんでしたし、
今の教会はなかったことになります。


人生には、いくつも決断するべき瞬間が来るのですが、このときに正しい決断をする
能力があれば、人生は成功するのが当然になるのです。


《あきらめがつく》

人聞のすることは、すべて満点ではありませんから、ときには失敗もあります。

決断力の鈍い人は、いつまでも、失敗をひきずって歩くことになって、
苦い思いが消えることがありません。

私にも今まで人生に何回も、そんな経験があります。

そのすべては、やはり決断力で不幸の鎖をたち切ってきました。

若い青春時代の思い出に、牧師になることを決意した私にとって、少々の反対が周囲に
起こったことは、予想していたことですから、あまり意に介しませんでしたが、
結婚するつもりの女性からの強烈な反対には弱りました。


彼女が、私の信仰に反対とでもいうのなら苦しむこともありませんが、
同じクリスチャンで、すべてを理解してもらっていると信じていただけに
かなりのショックでした。

しかも、彼女は社長の娘で、”別に無理して牧師にならなくても、どんどん教会でも
建てて協力する立場がいいじゃないの”といわれると、牧師のなんたるかも
あまり知らない私じとっては、反論する力もないような具合で、困り果てました。

ハムレットのように、右か左かと迷ったあげく私は、
とにかく牧師になりたいと決断しましたが、それは急な決断であったために、
家からは勘当される破目にもなりました。


その決断で、その当時の私の夢も幸福も、すべて吹き飛んでしまいましたが、
今になって思えば、それは成功人生への輝かしい第一歩ともなったのです。

しばらくの問、いろいろなことで失意の中にありましたが、
自分で決断したことだからということであきらめもつきました。

”後悔先に立たず”といった諺がありますが、
後悔しない人生の秘決は決断することにあるのだと思います。

自分の人生は、自分が責任をとるのだと分かれば、
大事な人生のポイントの数々で、決断できない人は成功を望めません。

この決断力は、”わたしが決めるのだ”という習慣を
幼いときから身につけることによって自分のものになります。

私は子どものとき、中国の上海市に生活して、
幸い豊かな暮らしをさせてもらっておりました。
家には中国人でしたが、何家族かが、たとえば料理人、運転手といった形で働いていました。

私の遊び友達は、多くの場合、これらの使用人の子どもたちでした。

当然のことながら、私はガキ大将でした。

彼らは親から、ご主人の坊ちゃまをいじめてはいけないといわれているわけでしたから、
私が子どもたちをたたいて泣かしたことはあっても、いじめられることはありませんでした。

そこで、遊びの決定権は私がもっていたので、何でも決めるのは私だったのです。

感覚は、その後もつづいていて、敗戦後、引き揚げ者として、例外なく苦労の道を
たどったどったときも、高校、大学の進学からアルバイト、それに身の回り品の購入、
人生のまで他人に相談したことは一度もないし、全部、自分で決断して進んできました。

人々と相談することのできるのは、幸せなことです。

決断を自分でする人間にならないと人生は輝きを失い、つまらぬものになり、
あなたは空気の抜けたゴム風船のようになります。


人生のすべてを決めるのは私なのだということを、子どもの意識に植えつけてあげましょう。

           <感謝合掌 令和2年2月27日 頓首再拝>
13:伝統 :

2020/02/28 (Fri) 22:09:30


        *「家庭教育のみちしるべ」(P6)より

《赤ん坊にも規律は必要》

”赤ん坊に規律正しくお乳をやるということ、
規則正しい時間に便通をさせること、
それらは人間に最初の規則正しさを教えることになるのである。

規則正しい授乳と用便とは、人生に一つの法則があり、権威があり、
それに従うときに自由と快感とを得るものであることを
赤ん坊に教えこむことになる。”

               (新しい結婚 二〇九頁)


”にこやかに笑う習慣の機嫌のよい子供を養成するには、
にこやかに笑っている時にのみお乳をやり、抱いてやり、あやしてやる習慣を、
生れたときから直ぐ習慣づけることです。・・・

授乳時間をー定した場合は、特にー回にたっぷり飲ませることが必要です・・・。
授乳中眠りそうになったら、ホッペをつつくか、乳首をひっぱるか、ゆするかして
腹ーぱいのませてから、静かに寝かせます。

               (新しい結婚 二七ニ頁)

           <感謝合掌 令和2年2月28日 頓首再拝>
14:伝統 :

2020/02/29 (Sat) 19:24:30


        *谷口雅春先生・著「家庭教育のみちしるべ」(P10)より

子供に歯が生えかけてきたら、母乳以外のものを食べてよい自然のしるしです。
……7ヵ月ころから御飯をー粒位ずつ食べさせ……
毎日一粒くらいずつ分量をふやしてまいります。

そうすると誕生満1ヵ年位にはも
御飯を小さい茶碗に1ぱい位は食べるようになります。

こうすると簡単に母乳をやめさせることができますし、
胃腸も固形物になれて栄養が十分にとれます。

またお粥から次第に固い御飯にして行く方法もあります。

               (新しい結婚 二八四頁)

           <感謝合掌 令和2年2月29日 頓首再拝>
15:伝統 :

2020/03/01 (Sun) 18:58:03


         *『赤ちゃん教育』頭のいい子は歩くまでに決まる!
           ~久保田式育児法(久保田メソッド)

(35)離乳食のスタートは赤ちゃんが教えてくれる。
   食卓に参加させる。
   大人が食事をするとき、赤ちゃんも同席させる。

   お母さんのそばで、いつも赤ちゃんが食卓の上を見渡せるように工夫する。
   大人の食事動作で、赤ちゃんも口を動かしたり、よだれを流したり、
   口を吸ったりしだしたら、離乳食開始。

(36)少量から毎日、少しずつ量を増していくこと。
   同じ材料のものではじめることが大切。

(37)新しい食べものを与えるのは「午前中」にしましょう。
   けっして一度に新しいものを2種類与えないこと。

   2種類以上のはじめての食品を与えてしまうと、
   もし結果が悪かったら、どちらの品が悪い原因かわからなくなる。

   新しい材料のものを与えるのは午前中にする。
   食べて3~4時間で症状(下痢や嘔吐)が出てくるのが普通なので、
   夜になって結果があらわれては処置が遅れるため。

(38)おしゃぶり、歯がためは、自然食品にしましょう。
   スルメ、だし昆布の効用。

   赤ちゃんの喉にすべりこんで「ゲボー」と
   奇声を発することがあるが、あわてない。

   大きく長いだし昆布やスルメの端をつかんで、
   ゆっくりと引っ張り出してあげればOK.

   ( http://www.shimoda-blog.com/2017/07/24/akachankyouiku3/ )

           <感謝合掌 令和2年3月1日 頓首再拝>
16:伝統 :

2020/03/09 (Mon) 19:34:41


    *「光明道中記」(3月9日《父母の恩を知る日》)より抜粋

【執愛は捉われている愛である。「愛の愛たるは愛に非ず」。
                   (『生命の實相』第十一巻)】


子が生まれたとき父母に感謝せよ。
育児の根本は報本反始(ほうほんはんし)にある。

科学的な育児法がどんなに巧みに行なわれても、若しその若き父母が、
その老いたる自分の父母に感謝し得ない時には育児の根本は覆われて了うのである。

最初に生まれた子供がどんなに可愛いからとて、
その愛に溺れて、無暗に抱きかかえたり、頬ずりしたりして、
折角安静に眠っている赤ん坊の神経を掻きみだしてはならない。

昔から「総領(そうりょう)の甚六(じんろく)」などと言って
長男は頭が鈍(にぶ)かったり、祖父(じい)さん祖母(ばあ)さんに
育てられた子供が「甘え手(た)」で我儘(わがまま)で始末が可(い)けない場合が
多いのは、生まれた最初からあまり抱きかかえ過ぎるからである。

赤ん坊の言葉は「泣く」ほかないのであるから、
泣いたからとて必ずしも抱いてはならない。

           <感謝合掌 令和2年3月9日 頓首再拝>
17:伝統 :

2020/03/11 (Wed) 00:03:05


         *「光明道中記」(3月10日《愛と大調和の日》)より

【自分の心だけの事物しか自分の運命に引き寄せることが出来ない。
                     (『生命の實相』第四巻)】

赤ん坊はお乳を飲みたい時にも泣くし、眠い時にも泣く。

お乳を飲みたい時には、唇の表情はお乳を飲む時の格好に幾分
顫動(せんどう)せしめながら泣くものである。
眠いときには瞼(まぶた)を半ば閉じて眼の表情を眠そうにして泣く。

突然火のつくように泣くのは、どこか急に痛みか痒(かゆ)みが出て来たときである。
針が身体に刺さっていないか、虫が螫(さ)していないか調べて見る必要がある。

お腹が急に痛む場合にも急激に泣く。
その場合、生後1ヵ月以上の赤ん坊なら涙が出るのが普通である。

同じように急激に泣いても、癇癪(かんしゃく)泣きの場合には
涙は出ないで足を踏(ふ)んばらせたり、手を憤ったように頑張らせたりして泣く。

肉体は心の影であるから、表情を観察しておれば
容易に何の感情で泣くのか判るものである。

癇癪泣きの時に愛慰(あや)すような習慣を附けてはならない。
抱いては一層可(い)けない。

癇癪立てて泣きさえすれば何事でも叶うのだと云うよう我儘な習慣は、
泣きさえすれば抱いたり乳を飲ませたりする母親が最初に子供に養成したのである。
何でも最初が肝腎である。

嬰児(あかんぼ)だから何も分らないと思うのは間違である。
最初の我儘の習慣は大抵生れて15日以内に附くのである。

           <感謝合掌 令和2年3月10日 頓首再拝>
18:伝統 :

2020/03/11 (Wed) 21:52:08


           *「光明道中記」(3月11日》)より
            ~随所作主(ずいしょにしゅとなる)の日

【自分の立場からのみ見ずに、相手の立場からも見よ。(『生命の實相』第八巻)】


最初の教育は、赤ん坊が善き態度をとったら、
善き感触を与えられると云う経験を通して行なわれるのである。

赤ん坊が悪しき態度を示したときに良き感触を与えられるならば、
その赤ん坊は悪しき態度のみを示すようになるであろう。

泣いたときに抱いて優遇したならば、
その赤ん坊は泣いたら優遇されると知って泣き虫に育つのである。
癇癪を起したときに優遇されるならば、自分の要求をきいて貰えない時に、いつでも
往来の真ん中で大の字に寝そべって泣きわめいて、親を困らす子どもになるだろう。

泣かぬ子に自分の児を育てようと思うならば、
赤ん坊が泣く時にはそれが痛みの表情でない限り、
無関心で放置する習慣をつけるべきである。

そして赤ん坊がにこやかに機嫌の好い時こそ、
お乳をやり、又時には抱いてやっても好い。

泣いている時に「おお、そうかそうか」と言って如何にも可愛気に愛慰(あや)すならば、
泣きさえすれば愛撫(あいぶ)してくれるものだと赤ん坊は思い違いをするであろう。

癇癪を立てている時に機嫌をとるために愛撫するならば、
赤ん坊は愛撫して貰いたくなると癇癪を立てるであろう。

           <感謝合掌 令和2年3月11日 頓首再拝>
19:伝統 :

2020/03/12 (Thu) 20:07:10


        *「光明道中記」(3月12日《時間を大切にする日》)より

【時間は心一つで長くも短くもなるもので、一定した真の存在ではない。
                          (『生命の實相』第十一巻)】

乳飲児(ちのみご)があるので本を読む暇がないと言う母親がある。

子供を有つようになったから、家の掃除も碌々出来ず、家の隅々には埃が積り、
自分の着物さえもどろどろで身躾(みだしな)みなどすっかり出来ずに、
急に老けていく若い母がある。

乳飲児があるので世話がかかって時間が無いと言う母親は
本当に時間がないのではなく、時間を作らないのである。
そんな母親は始終赤ん坊に泣かれて、始終赤ん坊を抱いているか、
始終不規則にお乳を飲ますかし勝ちだ。

乳児に抱き癖をつけると抱かない時は冷遇されたと思って頑固に泣き通すものである。
子供を愛しているようで、子供を泣き虫に我儘に育てる親はこんな母親である。

そしてその子供が成長してから、
「自家(うち)の子は、どうして斯う我儘だろう?」と呟く。
母親よ、御自分が子供をそう作ったのである。

1回にお乳を飲ませる時間は、母親の乳房*の状態と、赤ん坊の吸う力との相互関係で
定(き)まるのだから一定し難い。併し1回30分間を超えない方が好い。
少しずつ長時間に亙(わた)って飲ませると間食をしているのと同じ結果となる。

赤ん坊は半ば吸った頃から眠りを催すから、そんな時は赤ん坊の口の縁(ふち)を
指で突(つつ)き乍(なが)ら飲ませると、又強く吸いはじめる。

           <感謝合掌 令和2年3月12日 頓首再拝>
20:伝統 :

2020/03/13 (Fri) 23:21:55


        *「光明道中記」(3月13日《軌道に乗る日》)より

【人生は神の永遠の生命が五官に触れる形式に現わされたものでなければならぬ。
                          (『生命の實相』第七巻)】

赤ん坊に規律正しくお乳をやると云うこと、
規則正しい時間に便通をさせること、
それらは人間に最初の規則正しさを教えることになるのである。

規則正しい授乳と用便とは、人生に一つの法則があり、権威があり、
それに従うときに自由と快感を得るものであることを
赤ん坊に教え込むことになるのである。

即ちそれは「服従は自由なり」の古聖の金言を實生活の上に示し、
周囲と調和することことが、
自分の伸びる道であることを実生活に於いて知ることが出来るようになる。

子供を自主的な立派な人間に育てるのは必要だが、
暴君に育てることは禁物である。

実的な立派な人間とは法則を破る人間ではなく、
法則を発見し、法則を利用する人間なのである。

科学者は自然界の法則を発見し、それを利用するとき本当の自由を得る。
自然界の法則を利用するとは法則に違(たが)うことではなく、
法則に従うことなのである。
凡そ、自由とは法則に従うところから来る。

内部の法則が外在の法則と全く一つになって運行するとき、
丁度機関車の内部の力が、軌条(レール)の則(のり)とがぴったり合ったとき、
自由になめらかに運転するのと同じようなものである。

あまり自由に甘やかして育てた子供が墜落するのは、
幼児から法則を無視することを教えたからである。

           <感謝合掌 令和2年3月13日 頓首再拝>
21:伝統 :

2020/03/14 (Sat) 20:15:47


           *「光明道中記」(3月14日《自然を拝む日》)より

【不健康は自然の生命の流れが何かの不自然で塞がれたことである。(『百事如意』)】


人間を造ったのは「自然」である。
自然を静かに観察する時は、何が生命を活(い)かすものであり、
何が生命を抑えるものであるかが判る。

生後7か月程にして幼児に歯が生えて来ることは何を意味するか。

その頃には固形のものを与えても好い証拠である。
併し歯は全部まだ揃っていない。
それは全部の食物がまだ固形物では可けない証拠である。

上部の門歯(もんし)は一体の肉(歯ぐき)から二つだけ先に生える。
それは父母が先に立っていることをあらわしている。

親の家を出たり、親が死んだり、親しく親の家にいない者は
門歯が虫歯になったり折れたりし易いものである。

生後7か月頃から、御飯を十粒ずつ毎日一粒ずつ殖やしながら
食事に混えて与えるのは胃腸の鍛錬法になるものである。

この方法を過(あやまち)なく行なうときは、
離乳時にお粥を特別与える必要はなくして、
直(ただち)に固形物に移り得るものである。

歯の形を見よ。
人間は何を食する生物であるか。

門歯8枚は菜食動物の歯、犬歯(けんし)4枚は肉食動物の歯、
残り20枚は臼歯(きゅうし)であって穀食を搗(つ)きくだくように設計せられている。

人間は菜食が好いか肉食が好いかは、自然を観察すれば好い。
32枚の歯のうち4枚だけが肉食の歯であるから、
肉類は全食量の 1/8 を適量とする。

           <感謝合掌 令和2年3月14日 頓首再拝>
22:伝統 :

2020/03/22 (Sun) 23:34:39


           *「光明道中記」(3月22日《注意ぶかき日》)より

【殺す者は死に、生かす者は生きる。(『生命の實相』第六巻)】

赤ん坊が泣いた時に時計を見る習慣は好いことである。
それが実際空腹で泣くのか、他の原因で泣くのか
区別する一つの適切な標準となるからである。

授乳後1時間半以内で泣くときには、それは空腹ではない。
用便を催(もよう)して来たか、既に用便して股間が不快なと云うことを
知らせているかしているのである。

寝小便の習慣は、嬰児の最初の用便の訴えを聞き流して、
襁褓(おむつ)の湿った感覚を不便と感じない程慣れさせて了ったところに起因する。
その子供は、小便は寝床で用達するべきものと考えているのである。

だから食事時間でないのに赤ん坊が泣くときは襁褓(おむつ)取換を請求していると
思い、襁褓(おむつ)を取替えてやるべきである。

若し其の時襁褓(おむつ)が濡れていなかったら、3分間下半身を空気浴するつもりで
赤ん坊を便所で支えて「シー」の言霊(コトバ)の力で排尿を誘導して見るべきである。
巧みに習慣をつければ生まれてから数回のほか襁褓(おむつ)を濡らさずに済ませる事
も出来る。

赤ん坊は生後数日間は殆ど小便しない。
2週間後から3ヵ月迄は毎日約14回、6ヵ月迄は16回である。

股間が乾いている事が当り前で、濡れているのが異常だと判り、
採尿は便所であるのは正しいので、寝床でするのが間違だと知れば、夜尿は無くなる。

           <感謝合掌 令和2年3月22日 頓首再拝>
23:伝統 :

2020/03/23 (Mon) 23:47:44


        *「光明道中記」(3月23日《人に深切をする日》)より

【世話をする人も世話される人も皆一つの神から出ている。(『生命の實相』第八巻)】

赤ん坊はまず口の触覚から発達し、同時に用便の感覚が発達する。
これがなければ生存できないからである。

手の存在を自分自身感覚するのはそれからずっと後らしいが明瞭には判らない。
赤ん坊は手を何に使うものであるかを最初は自覚しないのである。
偶々(たまたま)指が口に触れたとき、口は触れるものを吸う本能が発達しているので、
自分自身の指を吸う。その時にはじめて口に触れた自分の手を感覚する。

その時の筋肉感覚の記憶によって、そう云う筋肉感覚を起したときに、
吸うものが口に触れると云うことを、もう一遍やって見ようとして手を動かす、
すると又、何物かが(指)口に触れて吸い得る。

それは喜びには違いないが、指そのものの目的は口によって吸われる為にあるのではない。
それは明らかに目的に背反している。

自分の肉体を玩弄(がんろう)する習慣と云うものは外界に積極的に伸びる人間の
生命力を、内部方向に退嬰(たいえい)せしめる傾向があるもので、
肉体玩弄の習慣を養うときは子供は神経質に育つものである。

決して赤ん坊が口に指を入れるのを許してはならない。
指を口に入れようとする時、指を引いて妨げられることが重なれば、
この方向へは手が行かないものだと思って、手を口の方向へ動かさなくなる。

           <感謝合掌 令和2年3月23日 頓首再拝>
24:伝統 :

2020/03/24 (Tue) 22:47:35


       *「光明道中記」(3月24日《小事大切の日》)より

【目前の小事をゆるがせにしてはならぬ。(『生命の實相』第十一巻)】

類は類を招(よ)ぶ心の法則からして、
子供部屋には円満な形のものばかりを置くようにしなければならない。

手の運動をただ口へ運ぶだけにのみ発達せしめるのは愚かなことである。
手を動かし足を動かしているうちに自分のみならず、自分に繋(つば)がって
他物が動くと云うことを教えるのは、幼児に対する最初の「自他一体」の教育である。

着衣は出来るだけ運動し易いものを選んで自由に運動し得るようにする事が肝腎である。
自分で物を撮(つま)むことの出来ない頃は、幼児自身の手にゴム風船のようなものを
縛り付けてやって、自分の手の運動につれて他物が動く喜びを味わすのである。

風船の色などは赤とか青とか紫とか黄色とか別々のを併列せしめて、
その色々を各別に指(ゆびさ)して色の名称をハッキリと述べて動かす。
言(ことば)は力であるから、各別の色彩に対して別々に名称を与えられることに
よって、今迄赤、青、紫、黄と雑然としていたものが、各々別々の存在として
印象せしめられる。

この事は色彩の感覚の訓練になり、同時にそれは幼児の心全体の生長に役立つ。

赤ん坊は大きな音を聞かすか周囲の人が恐怖を教え込まない限りは恐怖しない。

           <感謝合掌 令和2年3月24日 頓首再拝>
25:伝統 :

2020/03/25 (Wed) 20:38:37


     *「光明道中記」(3月25日《断じて心を動揺させぬ日》)より

【人が如何なる罪を犯そうとも、わが怒ることはそれにも優(まさ)る悪徳である。
                         (『生命の實相』第四巻)】

驚風(きょうふう)などと言って赤ん坊が夜間突然目を覚まして泣く習慣が
始まったりするのは、屹度親の心の中に驚風が捲(ま)き起っているのである。
親子は一体であるから、親が先ず心の平和を取り戻すことが必要である。

赤ん坊を愛することは必要であるが、赤ん坊自身に対し、彼が家族の中で
特別に重要な存在であって、どんな我儘を言っても肯(き)かれるものであるとの
感じを与えては可(い)けない。

規律が赤ん坊の周囲で厳重に行なわれており、どんなに嘆いても、駄々を捏(こ)ねても、
時間が来なければお乳を貰うことも出来ないし、利己的動機からは規律は決して打ち破る
ことが出来ないことを生活の中でそれとなく自覚せしむるようにしなければならぬ。

併し、愛は深くなければならぬ。
親を冷淡だと思わせてはならない。
愛されてはいるが、すべての人間は平等に愛せられねばならないことを
赤ん坊の時から知らせて置くことは必要である。

大抵の家庭では赤ん坊のときには、彼のみが特別に愛されているような事実を経験
せしめられながら、次第に長ずるに従って其の「特別な寵愛」が一般的な区別ないものに
低下してくるので、それを愛の冷却と取間違えて親を恨むようになるのである。

           <感謝合掌 令和2年3月25日 頓首再拝>
26:伝統 :

2020/03/26 (Thu) 23:40:42


       *「光明道中記」(3月26日《感謝生活の日》)より

【憤怒、憎悪、恐怖、罵詈(ばり)―― 其の他すべての悪徳は自分を傷つける。
                        (『生命の實相』第十一巻)】

赤ん坊がお乳を吐いてもそれは必ずしも病気ではない。

それは赤ん坊の胃袋は真直であって食道から縦に立った御酒徳利(おみきどくり)の
ような形になっていて、胃袋の上を圧(おさ)えたり、身体の位置が悪かったり、
少しく動揺を与えたら溢れ出易くなっているからである。

これは吐乳(とにゅう)と言うよりも溢乳(いつにゅう)と言うべきで病気ではない。
溢乳は大抵まだ飲んだ乳が固まっていないが、本当の吐乳は概(おおむ)ね飲んだ乳が
豆乳状に凝固して出る。吐乳しても、発熱や、便の異状がなければ病気ではない。

併し凝固した吐乳があったら信頼出来る医者に診(み)て貰うが好い。
前日良便があったと云っても次に出る便が不消化で腐敗しているかも知れない。
浣腸をして宿便の良否を調べて貰うが好い。

同時に心の持ち方を正しくしなければならない。
お乳は天の恵(めぐみ)であるのに、それを吐き出すのは天の恵をおろそかにした象徴が
あらわれているのである。

何か目上の人と争っていることはないか。
何か人の深切を衝(つ)き戻すようなことをしていることはないか。
夫婦争っているようなことはないか。

深く反省して見て、自分の「逆様(さかさま)に戻す」ような心と生活を
如実に改めなければならぬ。

両親の感情が激動した直後、
子供が疫痢(えきり)や麻疹(はしか)に突然罹(かか)るような実例が度々ある。

           <感謝合掌 令和2年3月26日 頓首再拝>
27:伝統 :

2020/03/27 (Fri) 22:49:08


     *「光明道中記」(3月27日《生長の喜びの日》)より

【与える時はただ与える喜びの為に与えよ。自分は与える程生長する。
                          (『生命の實相』第四巻)】

赤ん坊を叱るのは無意味なことである。
「これをしては可(い)けません」と云う命令が赤ん坊に理解されるのは
生後9ヵ月頃からだと云うことを調べた人が言っている。

親たちが叱るつもりで大きな声を出せば赤ん坊は唯恐怖するだけのことである。
此の世に悪意を抱いている或る敵対者があると云う不快な恐怖的印象は、
幼年時の心の傷としてその児童の潜在意識に残り、その児童を大人になってから
後までも、臆病な身に仕上げるのである。

生後1年までの赤ん坊がしてはならないことを若しするならば、
ただ静かに、そう云う行動の出来ぬように、そう云う行動をすれば、
味わいが苦(にが)いとか、その方向へ手をやろうとすると屹度何物かが来て
その手を止めるとか、何か自動的に作用する法則があることを知らせるのが好い。

叱る代わりに優れたる宗教的音楽を聴かせることは
赤ん坊の情操教育に大変必要なことである。
これには蓄音機を利用するが好い。

また良き書物を読んで聞かせることは、その書物の言葉が、たとい赤ん坊にとって
理解し得ないものであるにしても、内容に伴う読む人の音律や、
その音律に伴う感情やは、結局以心伝心赤ん坊に伝わって、
赤ん坊の感情生活を生かすのである。

           <感謝合掌 令和2年3月27日 頓首再拝>
28:伝統 :

2020/03/28 (Sat) 19:54:14


        *「光明道中記」(3月28日《無我従順の日》)より

【その日その日が宗教生活である。自己を生かす事が宗教生活である。
                        (『生命の實相』第十一巻)】

生後1ヵ年になると離乳して、柔らかいお粥から徐々に固いお粥に移らせても好いが、
7ヵ月頃から少量の固形食で慣らせたる子供ならば大人と同じ食物を与えても好い。

子供に偏食する習慣を養成してはならぬ。
子供の偏食は実は親自身の偏食の反映であるから、親が子供の前であの食物を残し、
此の食物を残しながら、子供にばかり偏食をしてはならぬ強いても無効である。

親が食物を残すまいと思うならば、残る程の分量を食膳に出さないことが適当である。

「これはお好き、お嫌い? 嫌ならこれにしましょう」などと言っている母が、
世の中には沢山あるが、これは親自身が子供を偏食に誘導しているようなものである。

子供は模倣するものであるから、食物は先ず親が口に入れて如何にも美味しい有様を
示し、「サア坊やもお喫(あが)り! 迚(とて)も美味しいわ」と云うように
誘導するのである。

食膳に手を洗う習慣をつけるのは好いが、ただ無邪気に何の意味もなく洗わせるのが好い。
黴菌の話をしたり、手を洗わなかったら此の世の中には眼に見えない恐るべき敵が
充満していて、それが直に吾々を襲って来ると云うような恐怖心にまで子供の心を
駆り立ててはならない。

           <感謝合掌 令和2年3月28日 頓首再拝>
29:伝統 :

2020/03/29 (Sun) 23:51:17


      *「光明道中記」(3月29日《自己を自覚する日》)より

【今幸福でない者は笑いの分量が足りなくないか顧みよ。(『生命の實相』第八巻)】

子供が食物に好き嫌いを示すのは、時には親の心があまりに事物や人間に対して
好き嫌いな偏り心を有(も)っているときにそうなることがある。

親自身が自己の愛憎好悪の偏り心を捨てねばならぬ。
子供を責めてはならぬ。
みずからがみずからを知るように誘導しなければならぬ。

食物は好悪によってたべるのではなく、飢えを充たすために食べるのだと云うことを
知らせねばならぬ。食欲がなかったら、偏食であったりするのは病気以外のときは、
過食のために空腹でないからである。

御機嫌をとって欲しさに食物の好悪を言いはじめる。
好悪を示して食べなければサッサと食膳を片付けて、
又次の食事時間に同じ食物を出すのである。
それを食べる迄同じ食物を出す。

我儘を言わせてはならぬ。
子供が規律を覚えるのは、最初は食習慣によるのであるから、お十時を与え、
お三時(やつ)を与えるにしても一定の時間以外には与えてはならぬ。

併し、完全に食欲不振で、元気がなく、空腹にになっても何も食べようとしない時には、
医者に診(み)せて病気の有無を検(しら)べて適当の処置をとる。

本当に病気かどうかは神想観を常にしている人なら胃腸部に掌(て)を当てて見れば
掌の蟻走感(ぎそうかん)で判る。

           <感謝合掌 令和2年3月29日 頓首再拝>
30:伝統 :

2020/03/30 (Mon) 23:23:30


        *「光明道中記」(3月30日《積極進展の日》)より

【幼き心に少しでも歪んだ姿を、不快な姿を印象させるな。(『生命の實相』第七巻)】

生後1年頃からは、食物は自分自身で食べるように練習させるが好い。

少しぐらい零(こぼ)すかも知れぬが、それを拾ってやってはならぬ。
零して自分で拾うことが運動感覚の訓練にもなり、
従って児童の精神全体の訓練にもなるのである。

またそれによって依頼心が放(な)げ棄てられ、
自分のことは自分ですると云う良習慣の形成にもなる。

食物を零したときに叱らないで、
零さない時と、上手に拾った時とに賞めてやるようにするが好い。
「零しては可(い)けません」と言ってもまだ運動機能が充分発達しないから零す方が
当り前なのである。

それを余り叱るようにすると、
「自分は劣等者だ」と云う劣等感を児童が有(も)つようになる。
劣等感をもつようになった児童は将来生活上に不利なハンディキャップを
担(にな)わされる。

どこへ往っても「私は駄目だ」と考え易い ―― それを成長後矯(た)め直すのは
不可能ではないが、可成(かなり)な努力を要するのである。

「しては可けません」と常に言っている家庭では行為に対する欲望を常に
抑圧せられるから、それが鬱結(うっけつ)して反抗児が養成される。
厳格な家庭で反抗児が出るのはそのためである。

では、子供が悪いことをしたら「XXさん、これして頂戴」と言って、
別の「して欲しい仕事」へ注意を転ずる。

           <感謝合掌 令和2年3月30日 頓首再拝>
31:伝統 :

2020/03/31 (Tue) 19:42:15


      *「光明道中記」(3月31日《平らかな心の日》)より抜粋

潔癖の習慣は不潔の習慣よりも大人になってから強迫観念に附纏(つきまと)い、
一生涯を恐怖心の中に暮らさせることもあり勝である。

子供の前で親が恐れた態度を示してはならぬ。

偏食の子供、卵を食べれば必ず下痢を起したり、
肉類か野菜かどちらかを嫌って食べない子供、

こんな子供をその家庭から引離して、林間学校とか、夏期キャンプ生活とかで、
児童ばかりの集団で、ほかに食する物のない共同食事の生活をすると治ることがある。

他の子供が美味しく食べて見せるからである。

           <感謝合掌 令和2年3月31日 頓首再拝>
32:伝統 :

2020/04/05 (Sun) 23:35:52


       *「トータルパーソンの子育て」万代恒雄・著(P88~94)


【大きなことができるんだ~自信を育てよう】

自分の仕事に自信のない人、自分の能力に自信のない人、自分の家庭に自信のない人、
いたるところに自信のない人々が溢れています。

自信のない人の行く先は、他人の悪口をいって溜飲を下げるか、
自信のある人の真似をしてコピl人間になり下るかのいずれかです。

自信をつけていくことは、人生を成功させるための重大な要素になります。

いまだかつて、自信なしに成功人生を手にした人はいません。
たまに何かの偶然で、大金をつかんだり、思わぬ幸運を手にする人が、
ごくわずかですがいます。

しかし、自信がないので、せっかくの祝福も逃がしてしまいます。

では自信をつけるためにはどうしたらよいのでしょうか、

そのためには、何事によらず、小さい事でよいから
やり遂げて成功する喜ぴを手にすることです。

失敗の経験から、自信は生まれてきません。
失敗は成功の母だからといって、
失敗ばかりの人生からは自信のある人生は出てきません 。

人生の勝利者はいつでも、誰でも自信満々の人々です。
日本人はだいたいにおいて、外国語に弱いのが普通です。
英語などは、中学から大学まで十年間も勉強していて、挨拶もできないのです。


つまり、外国語に対して自信がないのです。
その理由は、発音がうまくないとか文章の組み立て方に自信がないというのです。

しかし、英語を学ぶときの最低の要求は、とにかく英語が通じるということでしょう。
それならば、私は、英語会話を学んだら、
アメリカに出かけてしゃべるというようなことはやめるべきだと思います。

相手が親切な外人で、発音を訂正きれたりすると、
気の弱い人は、たちまち自信を喪失してしまいます。

そこで、英語の腕だめしは、東南アジアに旅行するに限ります。
東南アジアの人々にとっては英語は外国語ですし、
彼らは私たちの下手な英語の発音などまったく気にしていません。

彼らとて平気で、自国語のナマリをまる出しでしゃべります。
自分の英語が相手に通じたというだけで、あなたは心から愉快になることでしょう。

発音が良いのにこしたことはないけれども、
それよりも、英語アレルギーを克服して、自信をつけたほうが勝ちです。

私はこの方法で英語に対して自信をつけて以来、
とうとう世界中の伝道に21年間もかけて、世界中に友達をつくっています。

牧師先生の中には、私より英語の実力のある人、発音の美しい人は
いくらでもいると思います。
しかし、世界で日本人牧師として、毎年何千、何万の大会衆を集めて
伝道集会を成功さている牧師は、他に一人もおりません。
これは、自信がないとできない事なのです。

私の息子は「お父さんは、少ない単語で自分のいいたいことを自由自在に語れる天才だ」
などとほめているのか、馬鹿にしているのか分からぬことをいいますが、
とにかく、英語で説教させたら、絶対に誰にも負けないとの自信を私はもっているのです。

私は日本人なのだから、英語に日本語のナマリがあったとしても当然のことで、
恥しくもなんともありません。

むしろ、日本人の私が外国人とまったく同じにしゃべるほうが
気持ちが悪いのではないかと考えているのです。

英語の自信が、私を世界に引き出してくれた陰れた力なのです。

この私が、告白すると第一回目の大学の受験で、
英語が苦手で失敗したことがあるといえばおかしいと思うでしょうが、事実なのです。

しかし、それを克服できたのは、ロンドンの橋の下の乞食だって
英語をしゃべっているのにと考えたのと、自分は今まで決して敗けたことがないのに、
このことだってやれるとの自信でした。

ですから、今になってさらに確信するのは、子どものころにもった小さな自信の経験は、
それを糧にして育ててみると、人生で大変な成功の下地になるということです。

日本人は、完全主義的なところが多くあるので、自信をつけるにしても、
完壁でないと思っているので失敗しやすいのです。


私が十九歳のときに、英語会話学校で夜間週に三回の勉強を始めましたが、
その仲間には、英語弁論大会で優勝したり、英語塾を経営したりして、
その道の専門家として活躍している人がおりました。

彼らは英語に自信があるので立派なものですが、私にはとてもそれはできません。
完全な英語の自信なんかありません。

しかし、英語を使って世界中を歩きまわって、
自分の仕事を思う存分にこなす自信はあるのです。


ですから他人と較べて、自信をつけなくても、自分が心の中で「自分はこれでやれる」
と確信して堂々としていることができれば、それは立派な自信となります。

自信というものの合格ラインなどはないのです。

世の中には、一流大学を出て、他人から見ると何の不足もないのに、
オドオドして人の顔色ばかりみながら生きている人もいれば、
高校も出ないで、堂々とビジネス界で自信満々生きている人もいるのです。

会社の社長のほうが、社員より頭がいいと思ったら大間違いで、
いわゆる優秀な人材が、社会の中で生き抜く自信がないばっかりに、
自分の能力を、自分のしたいことのために用いることをしないで、
自信のある人のために奉仕しているのが現状なのです。

証拠に、自分の社長にはまったくかなわないと敬服して仕事をしている人が、
どれほどいるか考えてみて下さい。

多くの社員は、能力で負けると思っていないのですが、
自分がその立場になる自信がなけのことです。

この自信は、幼児のときから身につけることが最善です。

赤ん坊が、初めて自分の足で数歩、歩けたときのうれしそうな顔を想い出して下さい。
それは、自信をつける一歩なのです。

           <感謝合掌 令和2年4月5日 頓首再拝>
33:伝統 :

2020/04/08 (Wed) 18:41:25


        *「0歳からみるみる賢くなる55の心得」
           久保田カユ子・著(P32~33)より

なんでも「いけません」と言う親がいますが、私は、

「よほど危険なことでない限り、逆になんでもやらせてみてください」

と言います。いろんな刺激を受けることで、脳は発達します。

たとえば、紙を破る面白さを見つけた子どもには、
破られてもいい新聞などを与えて破らせましょう。

「破る」「引き裂く」「ちぎる」は、
手や指の動かし方や力の入れ具合のいいトレーニングになります。


また、壁にお絵描きをされそうになったら、「ダメ!」と言いたくなりますが、
壁にお絵描き用の紙を貼っておけば、「好きな絵を描いてごらん」と言えます。

壁に貼った紙に、ひざの屈伸を使って上下になにかを描くのは、
イスに座って机上の紙に描くのとは違い、手や足だけでなく、
《目の上下運動にもなるのでおすすめ》です。

小麦粉粘土や泥んこ遊びなども、
「やってはいけません」
と言う前に、

「やってごらん」
と言えるような環境をつくってあげましょう。

ふだんの生活では味わえないような感触に存分にふれることは、
皮膚感覚を鍛えるためにも非常に有効なのです。

子どもが面白がるものを用意して、どんどんやらせましょう。

           <感謝合掌 令和2年4月8日 頓首再拝>
34:伝統 :

2020/04/15 (Wed) 14:05:01


       *「トータルパーソンの子育て」万代恒雄・著(P95~100)


【協調性を育てよう~私をたすけてくれる人】

社会を住みやすくしているのは、お五いの心の中にある協調性です。
単純な表現をすれば、みんなと仲好くやっていく精神です。

人間は先入観や固定観念の固まりのようなものですから、これらのものによって、
勝手に思い込んだり、判断して多くの得るはずの利益を失っているのです。

社会的動物とさえいわれている人聞のことですから、自分のもっている先入観や固定観念
をすてて、可能なかぎり、多くの人々との良い交りが保てて、人生のすべての面で協調
していくことができれば、人生成功の可能性は非常に高くなります。

協調するということは、妥協することとは別のことです。

妥協は、自分の意志を曲げることになりますから、人生は面白くなくなります。

しかし、協調することを、妥協だと思っている人がいます。
それで、せっかく成功する機会を逃がしている人も多いのです。

人生は、その時期その時期によって、協調する人々は違ってくるでしょうが、
自分を助けてくれる人をもたずに成功の道を進める人はいないはずです。

自分を助けてくれる人は、家族を始めとして、その人次第で、いくらでも世界に
その輪を広げることが可能になるでしょう。

(中略)

聖書に、

「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。
 これが律あり、予言者です」(マタイ七章十二節)

マルコ四章二十四節の中には

「あなたがたは、人に量ってあげるその量、自分にも量り与えられ、
 さらにその上に増し加えられます」

とあります。

自分から進んで、人々のためにつくしてあげる精神は、
結局、自分を助けてくれる人々分の周囲に集めているのと同じことになるのです。

(中略)

この世の最大の財産の一つである愛ですら、愛されることを求めるならば、
まず愛する先決であると知れば、自分から進んで人を助ければ、
私をたすけてくれる人々が集てくるのが人生だと、幼児のときから
身に覚えさせることの重要性は、誰にも理解できることでしょう。

           <感謝合掌 令和2年4月15日 頓首再拝>
35:伝統 :

2020/04/18 (Sat) 19:00:26


        *「子育ての気づき」木村藤子・著(P26~31)より

子供になんでもやりたい放題にやらせるのではなく、
やっていいことよダメなことはしっかり小さな頃から
教えていかなくてはいけません。

そのけじめを教えることが、子育ての第一歩。

成長する過程で、人との和合ができるようになるために、
我慢の大切さ。これを教えなくてはいけません。

ために床や地べたに寝そべって大声で喚きながら
駄々をこねて泣いている子どもがいますよね。

これは、子どもが小さい頃からやってはいけないことを
教えていないから、子どももやりたい放題になってしまうのです。

親がそういったことをしっかり教えないと子どもは親に対する敬意を失い、
やがて年上の人すべてに対しても敬意を払えなくなります。

いろいろと教えられるうちに少しづつ親が自分にとってどういう存在
なのかということを意識していき、その中で知恵、知識を得ていく
わけですから、親が何を教えるかということは本当に重要なことなのです。

子どもが2歳ぐらいになると、何かにつけて「いや! 」を連発し、
自己主張が強くなる”イヤイヤ期”と呼ばれる時期に入ります。

しかし、根気負けをしてはいけないのです。

どれだけイヤイヤとこちらの言うことを聞かなくても、
ダメなものはダメときっちり教えていかなければいけません。

そうすれば、子どもはやがて道理を考えるようになるでしょう。

そのときに大事なことは子どもが何を言いたいのか、例え言葉幼くて
通じなくても、こちらもしっかりと聞いてあげようとする姿勢を
見せることです。

           <感謝合掌 令和2年4月18日 頓首再拝>
36:伝統 :

2020/04/23 (Thu) 14:28:49


        *「赤ちゃんの脳を育む本」久保田競・著 より

(1)子育てほど面白いものはない!これぞ女の特権

   今後の日本の将来を担う子どもを育てることは、何よりも大切な「社会活動」です。
   日々成長していく赤ちゃんを育てることは、とてもやりがいのある仕事です。

   会社の一歯車として働く以上の喜びです。


(2)オムツを替える時は必ず声をかける

   「オムツを替えて気持ち良くなったね」と気分のいいことを表わす言葉を
   何度も繰り返してあげましょう。

   たとえ、言葉の意味はわからなくても、
   母親の声の調子や表情で、それがどんな意味を持っているのかを
   神経回路は理解しているので、赤ちゃんの表情も豊かになってきます。

   核家族で昼間はお母さんと赤ちゃんだけという家庭では、
   意識して赤ちゃんに声をかけてあげましょう。


(3)「いない いない ばあ」は記憶力を鍛える

   「いない いない~」と言ってる間、
   そこにお母さんの顔があったことを覚えておくので、
   記憶力を鍛えるトレーニングとして、とても有効です。

   ですから、赤ちゃんをあやすだけではなく、
   知的な発達を促す遊びとして重要な意味を持っているのです。

   何かに視線を集中し、物事を期待して待つという行動は
   前頭連合野の訓練に最も適しています。


(4)「にぎる、つかむ、ひねる、つまむ」は0歳から

   脳の司令塔、前頭前野がその指を使ってどのくらいの力をいつ出すか、
   という指令を出すと、それが脳の運動野というところに伝わり、
   そこから手や指へ、その情報が伝達されて、手が動くようになっています。

   ですから、0歳の時から「にぎる、つかむ、ひねる、つまむ」といった
   手や指の運動を繰り返しやらせてください。

   また、それをさせる素材も、木綿やニットの布、タオル、ボタン、
   ゴムのボール、スポンジなど様々な手触り、様々な形の物を使いましょう。


(5)三原色を知る

   赤ちゃんが最初に認識できるのは赤、青、黄の三原色です。
   次に黒、白、いろいろと複雑な色が区別できるようになってきます。

   最初は色の名称を覚えさせるのではなく、まず、色を認知させ、
   同じ色と違う色を区別させていきます。

           <感謝合掌 令和2年4月23日 頓首再拝>
37:伝統 :

2020/04/24 (Fri) 14:54:44


        *「赤ちゃんの脳を育む本」久保田競・著 より

(6)箸や鉛筆などは正しく使っている様子を何度も見せる

   箸や鉛筆などはいきなり持たせず、
   まずは正しく使っているのを何度も見せることです。

   これは、ミラーニューロンシステムを鍛えることになります。
   ミラーニューロンシステムとは、動作、行動を見て、理解して、
   マネをするシステムで、

   マネをすることは創造性の発達を促し、
   前頭連合野の発達につながっていきます。


(7)「抱っこ」よりも「おんぶ」がいい理由

   子どもに何か新しいことを教えるときは、
   親が同じ方向を向いて見本を見せることが大切です。

   抱っこだと親の動作を逆向きに赤ちゃんが見ることになりますが、
   おんぶだと、子どもは親と同じ方向を向いています。

   ですから、親の動作を見ながら、子どもは頭の中にそのしぐさをインプットして、
   そのままマネできるのです。
   脳内のミラーニューロンシステムが働くわけです。


(8)「どっちが好き?」と、質問する

   例えば、絵本や図鑑を見ている時など、いろいろな機会に、
   「どっちが好き?」と子どもに聞いてみてください。

   自分で好きなものを選ぶことは、自分の意見を主張するための訓練になります。


(9)「歩く」より「止まれ!」を覚えさせよ

   外は車や自転車など危険がいっぱいです。
   靴をはいて外を歩くようになれば、「止まれ!」と
   言ったら止まれることが自分の命を守ることにもつながります。

   歩き出すと同時に「止まれ!」と言ったら、
   止まれるようにしつけることが大切です。


(10)どんどん外に出かけよう

   赤ちゃんとの外出は、準備が大変で、どうしても家にこもりがちになりますが、
   できるだけ、いろんな景色を見せて、さまざまな音を聞かせて、
   刺激を与えてあげましょう。

   デパートや商店街、公園などには、
   ふだん家の中では見られないものがいっぱいあります。

   また、赤ちゃんが直接触れることのできる砂場や水遊び場は、
   皮膚感覚を鍛える絶好のチャンスです。

           <感謝合掌 令和2年4月24日 頓首再拝>
38:伝統 :

2020/04/25 (Sat) 14:30:21


        *「赤ちゃんの脳を育む本」久保田競・著 より

(11)単語だけではなく、必ず、「文」で話す

   子どもは自分を映す鏡のようなものです。
   お母さんが正しい日本語でいろんなことをどんどん話してください。

   「いちご」「たまご」などの単語だけではなく、
   「このいちごは大きいから切って食べようね」
   「今日はたまごで何を作ろうかな」というように、

   必ず「文」で話すようにしてください。


(12)話す時は視線を合わせ、言葉と表情で伝える

   生まれたばかりの赤ちゃんでも、
   ぼんやりと物がみえていることがわかってきましたが、

   視野はとても狭いので、なるべく赤ちゃんの顔に近づいて、
   目線を合わせて話しかけましょう。

   言葉だけでなく、お母さんがどういう表情で話しているのかを
   伝えるためにとても重要なのです。


(13)匂いの感覚を覚えさせるコツ

   できるだけ多くの匂いをかがせてほしいと思います。
   匂いに敏感な子どもに育てるには、赤ちゃんのころから
   匂いについて意識した話かけをすることです。

   「ごはんだよ。美味しそうな匂いだね」
   「このいちご、熟れ過ぎて変な匂いがするよ、かいでごらん」など。

   できるだけ、「臭い」とか「イヤ」とは最初から言わないように。
   臭いイヤなものと頭の中で分類されないようにするためです。


(14)紙を破る

   紙を破るというのは高度な手の動きです。
   両手を上手に動かして、指先で力を加減しないとうまくいきません。

   手の動かし方や力の入れ方など学んでいきます。

   はじめは縦にも横にも破りやすい薄紙や新聞紙で練習し、
   できるようになったら、様々な種類の紙でやってみましょう。

   また、大きな紙を使って、両手を大きく開きながら、
   出来るだけ長く引き裂く練習もしてみましょう。


(15)テレビは好きな番組だけ見せる

   テレビは、言葉と映像のシャワーで、
   「見る、聞く、話す」ことの訓練として有効です。

   親子で一緒に、感想を言い合ったりしながら見ましょう。

   何時間もつけっぱなしで、テレビに子守りをさせるのは感心しません。
   好きな番組とその前後10分くらいを目安にテレビをつけましょう。


   (https://allabout.co.jp/gm/gc/184263/ より抜粋)

           <感謝合掌 令和2年4月25日 頓首再拝>
39:伝統 :

2020/04/26 (Sun) 18:57:28


       *「トータルパーソンの子育て」万代恒雄・著(P101~107)

《包容力を育てよう》

心の広い人は、成功の王道を歩く人です。

人の心は無限大の広がりをもっていると思うのですが、
その心を狭くしてコソコソ生きている人が多くいます。

人聞は、その字の如く、人と人の間に住むものとして存在しているのであって、
何をす るにしても人間と人間とのかかわり合いなしにできることは一つもありません。


人が自分の人生を充実させ、成功させようと思っているならば、
人間を好きにならないとお話しになりません。


そして、友だちの輪を広げることなのです。
私たちが社会生活を送っていますが、それは人々の集合体なのです。
そこで得られる多くの人々の協力がどれほど重要なものかを考えてみる必要があります。


成功の人生は、自分一人で創り上げることは不可能なのです。
その意味で一人でも多くの友人をもてる人は幸せな人です。


聖書には、

「あなたの隣人を自分と同じように愛せよ」(マルコ十二章三十一節)

とありますが、これは、

「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」

という第一の命令に次ぐものとして、人類に与えられているものです。

隣人とは友人ですが、自分を愛するように隣人を愛きねばならぬほど、
隣人は大切なものなのです。


自己中心的な生き方をしていると、友人をつくることは不可能です。
愛をはじめとして、あらゆる良いものを隣人と分け合えば、友人は必ずできるものです。


外国に旅行してみて、国内のニュースでもよく耳にするジャパン・パッシングの実体に
ついて触れてみると、それは、「日本は私たちの友人ではない」といった感覚なのです


日本が世界から一目を置かれている理由がただ金がある、
物質が豊かであるといったことでは、本当の友人ではないのです。

やはり友人は、精神的な喜びや、悲しみを共有しないと駄目なのです。

それは、豊かな包容力の問題でもあります。

国際化が叫ばれ、それが常識となっているこのごろ、
私たちは世界の人々を友人としなければ生きていけなくなっているのです。

私たち日本人がこの面での認識を改革しなければならない出来事が、
最近ニュースになっていました。

(中略)

日本は、世界に友人をつくることを真剣に考えないと、世界の孤児になってしまいます。

私たちは個人としても、国家としても、もっている愛を、
そして物を分け合ってゆけば友だちが自然にできるのです。

そして、その友は、私たちの成功の手伝いをよろこんでしてくれるものなのです。

友人を犠牲にしてまで成功してみても、ちっとも価値はないし、
そのような成功は持続しないものです。

(中略)

よその固と外交関係(友達つき合い)をもたない国で、繁栄する国はどこにもありません。

国家はやはり人々の集合体ですから、人々が明るくて、友だちを大切にする性格であり、
習慣が身についていることは、国家としての性格を決定するためにも大切なことなのでしょう。

(中略)

この国(アメリカ)では、友人は自分でつくるものなのです。
誰かが、声をかけてくれるのを待っていたら、孤立してしまうかも分かりません。


日本人のスマイルは声になりませんが、アメリカ人の笑顔は声が伴っています。
日本人のほうは、好意を示すにとどまりますが、
アメリカ人のほうは友だちになってしまいます。

この差は非常に大きいものです

(中略)

幼児のときから、友人を大切にすること、友人をつくることなどの
人生での技術を身につけさせるのは親の責任なのです。


このことの上手にできる子どもは、いつのまにか
社会での指導者になる素地をもつことなるのです。

           <感謝合掌 令和2年4月26日 頓首再拝>
40:伝統 :

2020/05/01 (Fri) 23:14:58


      *「光明道中記」(5月1日《万物を礼拝する日》)より

【神を愛すると云うことは万物を敬虔に愛すると云うことである。
                        (生命の實相第十巻)】 

幼児は生後11ヶ月乃至誕生2ヶ月までの間におのずから立って歩く。
幼児体操と云うようなものを幼児の発育促進や健康法のためにやっている人もあるが、
やるのも好いが、やらなくても好い。

人間は人工の体操によって歩くようになるのではないことは、何に教えられなくとも
動物は脚(あし)で立ち、歩み、鳥類は飛翔することが明らかである。
人間が歩行するのは赤ん坊が乳房を吸い鳥類が飛翔すると同じに自然の本能である。

幼児の歩行運動が生得的な本能によるのであるが、
訓練によってなるか学者の定説がないと言って、
歩行準備体操などを課するのは愚かな蛇の知恵である。

近頃諸所で開かれる赤ん坊審査会で一等賞を得たような生長の家誌友の赤ん坊などは、
光明思想で家庭全体が明るいことのほかは自然に放任した結果であって
決して体操を課したのではない。

幼児体操そのものに私は反対するのではない。
筋肉は運動せしむるほど発達するからである。

併し幼児体操を幼児に課するような父母は大抵「神」又は「自然」に対する信頼の念が
なく、其(その)人には「人工」の外(ほか)には頼るものがないから、
何か落度はないかと常に心配しすぎて、神経過敏に幼児に心配の念を送り過ぎ勝ちである。

親が心配し過ぎると子供は虚弱になる。

           <感謝合掌 令和2年5月1日 頓首再拝>
41:伝統 :

2020/05/02 (Sat) 19:07:11


        *「光明道中記」(5月2日《自己の内部の力を信ずる日》)より

【神を信ぜよ。生命を信ぜよ。自分のうちに宿る生命が神であることを信ぜよ。
                          (生命の實相第十巻)】

体操より肝腎なのは、自然の努力で運動を起そうと衝動が
内部から起り得るように誘導することである。

半身不随の大人が生長の家で治った実例のなかには他に頼らないで、
自分に要(い)るものは、歩行が不自由でも何でも、自分の力で持ってくると云うように
決心し、且つ環境からそうしなければならぬように仕向けられた結果である場合が多い。 

児童の歩行や運動の練習なども、肉体的体操などよりも這(は)い出さずには
いられなくなるような、歩かねばならなくなるような目的物を前方に置いたり、
賞(ほ)め言葉で激励する方が一番好い。

幼児が起ち上って歩行するのは一つの新しき冒険であり、
その冒険の完成は大いに言葉を以て喝采せらるべきである。

それによって児童は何事を新に実行するにも世評の喝采を得るもので
あることを知り、大人になってからの自信を増すのである。

幼児を揶揄(からか)っては可けない。

最初に試みた動作が不慣れなために、大人から見て多少滑稽(こっけい)に見えようとも、
それを軽蔑するような、滑稽視するような語調で笑うならば、
世間は自分の動作を常に嘲笑するものだと云う観念を植附けられて
引込思案(ひっこみじあん)の人間が養成される。

           <感謝合掌 令和2年5月2日 頓首再拝>
42:伝統 :

2020/05/04 (Mon) 20:02:10


        *「光明道中記」(5月4日《争いを捨てる日》)より

【喘息はイキが激しく擦れ合う病気にて、スレ合う心、争う心、呪う心の象徴である。
                          (『生命の實相』第九巻)】

子供は親を模倣するものである。
その模倣は親の表面の生活の模倣と、親の内面の感情と両方がある。

親が愉快に喋らない習慣の家庭に育った子供は、憂鬱で陰気臭くて明朗さがない。
両親が感情(いき)の奥で衝突した生活を送っている家庭の子供は、時として蓄膿症で
あり、アデノイドがあり、或は20歳までに肺結核で斃(たお)れる傾向がある。

それは子供の模倣性だと考えられないこともない。
それは両親の「感情(いき)の奥」の葛藤を、
呼吸(いき)の奥であるところの鼻の奥や肺臓の奥に具象化する。

この意味に於て子供の肉体は親の念の具象化の舞台である。

親の悲しみの念が反映して子供が寝小便することもある。

子供が口を開いて眠っている時には
両親はこれによって呼吸(いき)の奥に故障があることを発見し、
これによって自分たち夫婦の精神の奥に葛藤があることを反省し、
それを是正すべきである。

両親が感情上の葛藤を経験しながら、
その子供が呼吸器を患っているから治して欲しいと訴えても、
感情上の葛藤そのものが、呼吸器病の内面的本質であるから治る筈がない。

           <感謝合掌 令和2年5月4日 頓首再拝>
43:伝統 :

2020/05/05 (Tue) 23:40:37


        *「光明道中記」(5月5日《謙遜を以て貫く日》)より

【強がりは本当は弱いのである。上手がりは本当は下手なのである。
                        (『生命の實相』第十二巻)】

子供の不従順の原因は父母の命令の不一致から来ることもある。

母親が「斯うせよ」と言う場合、父親が「そんなことをしなくて可い」と言えば
子供は去就に迷って了い、結局権力者の方へ附いてしまって、
母親を馬鹿にするようになって了う。

子供の前ではどちらでも一方の親が命令した言葉に、
こう一方の親が賛成するようにして命令が二途(と)に出てはならぬ。

仲の悪い夫婦の中に出来た子供は、
両親の一人ずつがその子供に、父や母相互の不平を訴えることがある。
そんな場合、子供は親の権威を無視するようになって不従順になる。

「そんなことをしたらお父ちゃんに言附けますよ」と言う母親があるが、
こんな母親は自分には何の権威もないと云うことを表現しているに過ぎない。
従って子供は母親を馬鹿にして言うことを肯(き)かなくなる。

また一旦命令を出して置きながら、それに従わないでも、ただブツブツ
口叱言(くちこごと)を言っているだけでは、母の命令は「馬の耳に念仏」と同じようで、
子供に何の権威もないものとなる。

滅多に叱言は言わぬか、一旦命じたことは断乎として従わせる習慣をつけねばならぬ。

           <感謝合掌 令和2年5月5日 頓首再拝>
44:伝統 :

2020/05/06 (Wed) 20:02:43


    *「光明道中記」(5月5日《拝んで人の苦難を看(み)のがす日》)より

【突き当たったら目が覚める。突き当たらすのも慈悲の道だ。
                        (『生命の實相』第十二巻)】

「一度だけは我慢してあげましょう」こう言って
自分で自分の命令を撤回してしまう癖をつければ、命令は徹底しなくなる。
一度が大切であって、一度許せば今後許さない時には
却って逆恨みをするようになるものである。

「あれほど言ってもまだ言うことを肯(き)かぬのですか、
お前のような強情なものはない」と言うならば、
その子供は親の言った通り強情になって了うだろう。

まだその上、「お前の強情にほとほと困って了う」と言えば、
親の無能の表白ともなり、強情の勝利ともなる。

「この前も、お前はこうだった、あの時もお前はこうだった」と、
旧悪までも曝(さら)け出して叱るのは、本人に「悪」を印象せしめるか、
幾つも挙げているうちには「あの時には私の方に理由がある」と思えることもあり、
却って、親や教師の方が無理を言っているような感じを与えて、
子供を益々反抗させる虞(おそれ)がある。

子供の能力で出来ない事を命ずるな。
そんな命令は実行が出来ないから、子供を不従順にするようなものである。

           <感謝合掌 令和2年5月6日 頓首再拝>
45:伝統 :

2020/05/08 (Fri) 22:22:50


       *「光明道中記」(5月8日《愛して放つ日》)より

【執愛は捉われている愛である。「愛の愛たるは愛に非ず」とも言える。
                       (『生命の實相』第十一巻)】

子供を無理にあやまらせるものではない。
もう今後一切そんなことはしませんと誓わしてもならない。

大人自身あやまることの不快と、一度禁煙を誓っても幾度でも煙草(たばこ)が
廃(や)められない大人が沢山あることを考えれば
「誓う」と云うことが何にもならないと云うことが判るであろう。

一度誓ってそれを犯したら、それは「自分は誓を破(やぶ)った罪人だ」と云う自覚の念に
いつも付きまとわれた人間になり、自信力を失うか、毒を喰(くら)わば皿まで式に、
「どうせ汚(けが)れた身体(からだ)だからもっとやろう」と云うようになるかする。

また、守れるかどうか判らないことを誓わせるのは嘘つきを奨励しているのと
同じことになる。
あやまるのを好まぬ子供にあやませると、
今度は嘘をついてあやまる不快を免れるようとする。

子供に正直の美徳を教え込もうと思うならば親自身が子供の前で嘘をついてはならぬ。
子供の前で居留守を遣う親は沢山ある。
子供にだけ嘘をついてはならぬと言って自分が嘘を言う親は二重に嘘をついている
のである。

人間は本当のことを言いたいのが本性(ほんしょう)だから、
本当を言っても叱られないとなれば却って本当のことを言う。

           <感謝合掌 令和2年5月8日 頓首再拝>
46:伝統 :

2020/05/10 (Sun) 18:40:20

ありがとう お母さん


https://www.youtube.com/watch?v=DwpJx4z0Xhg

《歌詞》

お母さん あなたは てんし
お母さん かがやく たいよう
お母さん ああ いとしの お母さん


お母さん だけど ときには
お母さん きぶんわるくて
お母さん ああ だいきらい お母さん


いま ないたカラスが わらうように
こころは コロコロかわるけど
生まれて しばらくの あいだだけは
ごめんなさい わたしの わがまま


だから お母さん あなた なしでは
お母さん いきてゆけない
お母さん ああ いのちの お母さん


お母さん きずついたなら
お母さん わらって ちょうだい
お母さん いたいの
いたいのいたいのとんでけ お母さん


お母さん おおきくなれば
お母さん いつかさよなら
お母さん ああ いとしの お母さん


ありがと お母さん

           <感謝合掌 令和2年5月10日 頓首再拝>
47:伝統 :

2020/05/12 (Tue) 22:59:26


        *「光明道中記」(5月12日《そのまま完全を悟る日》)より

【生長の家では万人のうちにただ神の子の存在を見る。(『生命の實相』第四巻)】

2番目の子供が生まれて間もなく幼い長男又は長女が食欲不振を起すことがあるならば、
それは親の愛が2番目の子供に移って、もう自分は顧みられないのだと云う失望と、

病気の状態を表したら再び自分を構ってくれるかも知れぬと云う希望と、
或はまた乳児と同じように母親のお乳を飲ましてくれるかも知れないと云う
予期作用とで病気を起している場合が多いのである。

親が驚いてその病気の子供にのみ掛かり切りになるならば、
子供は得たり賢しとその病気を継続することによって、
自分にのみ親の愛を繋ぎ止めて置こうとするようになるものです。

フロイドは「子供というものは重病に罹(かか)ったふりどころか死んだ仮病さえ
あらわすことが出来る」と言って、26時間もたべず痙攣を起して瀕死の状態でいる
2歳の児童を抱き起こして「さあ立っていられるだろう、貴方は病気じゃないんだ」
と言うと、

突然その子供の痙攣が治って、子供は「お父さん」と叫びながら父親のところへ駆け寄って
15分も泣いていたが、忽(たちま)ちコーヒーとパンを食べたいと言い出した ――
と云う実例を掲げている。

親は何番目の子も全て一様に愛しているのだと云うことをよく会得させること。

           <感謝合掌 令和2年5月12日 頓首再拝>
48:伝統 :

2020/05/14 (Thu) 21:39:20


        *「光明道中記」(5月14日《応変自在の日》)より

【人生百般の修行は随処作主(ずいしょさしゅ)の工夫にある。
 随処作主とはその時その場の主人公となることである。(『生命の實相』第十三巻)】

多勢の前で一人だけ賞(ほ)める事は、賞められない兄弟(又は人々)の嫉妬の的に
その人を置く事になる。賞められない多勢は希望を失って勉強しなくなり、親や教師に
対して反感を持つ。

若し平等に兄弟を扱わねばならぬ場合には、不平等のように見えても、
実は不平等ではないことを説明してやらねばならぬ。

即ち今生まれた乳児だけにお乳をやって、前の児(こ)にお乳をやらない場合には、

「あなたは赤ちゃんの時にはそうせられたのです。歯のない赤ちゃんはお乳を飲むほかに
生きることが出来ないのでお乳を飲ませるのです。特別に赤ちゃんばかりを可愛がる
のではありません。あなたには歯が生(は)えているから、お乳よりも塊(かたまり)の
食物の方が栄養になるのです。

赤ちゃんにはお乳を飲ませることが可愛がることになるし、あなたには塊の御飯を
たべさせることが可愛がることになるのです。神様はみんなに同じものを与えるもの
ではありません。梅の樹には梅の花を与え、桜の樹には桜の花を与えているでしょう」

こう云う話をして、みんなには夫々(それぞれ)の立場があり不平等の中に
平等に愛されていることを知らせねばならぬ。

           <感謝合掌 令和2年5月14日 頓首再拝>
49:伝統 :

2020/05/16 (Sat) 23:48:54


       *「トータルパーソンの子育て」万代恒雄・著(P108~112)より

《真理に聞く心を育てよう》~みんなのいうことをよく聞こう

成功するのは、どんな人なのか、と考えてみると、
多くの解答があると思いますが、特殊な技術とか芸術とか、
それらの格別な専門のことで名を成した人を除いてみると、

普通の場合は、ごく普通の常識人です。

独断的に物事を判断する人は、
世の中から歓迎されないし、祝福も集まってきません。
それは偏食する人の健康状況が悪いのと同じ理由です。

多くの良き友に固まれ、豊かな常識をもち、
人々からの尊敬を集めるのが成功者であると定義しても、間違いないようです。


私は二十年間にわたって、毎年毎年、世界に出かけて、
いろいろな社会の中で、人々と接してきましたが、
成功している人は、例外なく、非常に心の単純な人が多いということです。


ですから、その人がたとえば、成功している会社の社長だとしても、
黙っていたら気づくことがないぐらいで、
まるで子どものように愉快で単純な人なのです。

成功している人は、その周囲が勝手に祭り上げて偉くしてしまうのだと分かります

どのように今は立派な人でも、初めからそうではなかったのであって、
特別な人ではなかったのです。

しかし、その人は”聴く耳”をもっていたといえます。

耳は私たちが、生きていくための情報を受け入れる重大な器官です。


これは、もっぱら、外の情報を受け入れるためのものですが、
心が高慢なために、加えて注意が散慢であるために、
せっかく入ってきた情報を逃がしてしまうことが、いくらでもあるのです。

”聞くことに速く、語ることにおそく”あれば、
人との交りで失敗することも少なくなるはずです。

イスラエルの歴史で有名なソロモン王の物語りの中で、
彼が王として選ばれたときに神に祈った祈りが聖書に記録されていますが、
彼は

「善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えて下きい。
さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか」

というもので、彼は神の真理の声を聞きわける心を求めたのでした。

このことは神の御心にかなって、神は彼に対して次のように語られています。

「あなたがこのことを求め、自分のために長寿を求めず、自分のために富を求めず、
 あなたの敵のいのちを求めず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける
 判断力を求めたので、今、わたしはあなたのいったとおりにする。

 見よ。わたしはあなたに知恵の心と判断する心とを与える。
 あなたの先に、あなたのような者はなかった。
 あなたのあとに、あなたのような者も起こらない。

 その上、あなたの願わなかったもの、富と誉れとをあなたに与える。
 あなたの生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶものはひとりもないであろう」
  (一列王記三章九~十三)

つまり、ソロモンは神の真理に聞く耳をもっていたために、
彼の求めていなかった世界一の富をも手に入れ、誉れをも与えられているのです。

有名な予言者サムエルについて、彼が指導者として育っていく過程において、
少年サムエルは宮に預けられて生活していたのですが、
夜中に、神が「サムエル」と呼ばれたとき彼は、「はい、ここにおります」といって
祭司エリのところに走って行ったとあります。

エリは、「私は呼ばない、帰って、おやすみ」といったので、サムエルは戻って寝ました。

こんなことが、二度、三度あったとき、祭司エリは、
これは神が少年を呼んでおられることを悟って、今度呼ばれたら
「主よ、お話し下きい、しもべは聞いております」と申し上げなさい、
とサムエルに教えるのです。

そして、いよいよ主が少年に語りかけられたとき、サムエルが
「お話し下さい。しもべは聞いております」と応えた話は有名な聖書の物語りです。


聖書の中の有名な人物は、
やはり神の声を聞くことのできる従順な心の持ち主であったのです。

聞くということと、服従するということは、車の両輪のようなものであって、
聞き従うことにより、真理は大きな力を発揮するといえるでしょう

           <感謝合掌 令和2年5月16日 頓首再拝>
50:伝統 :

2020/05/17 (Sun) 23:19:05


         *「光明道中記」(5月17日《何物にも恐れぬ日》)より

【対人恐怖症は自分の欠点を看透(みす)かされるのを恐れ、
 また自分を価値以上に見られたい念から起る。(『生命の實相』第九巻)】

幼児は、心理学者の調べたところによれば、
倚(よ)りどころを急に外(はず)した時とのほかには恐怖を感じない。

人間恐怖は父親が大声で怒鳴り附けることに端を発する。

暗黒の恐怖は、暗黒の中へ出たとき、「そら恐ろしい! 」と大人たちが騒ぎ立てたり、
暗がりで便所に行くときに木枯(こがらし)が雨戸をガタガタ言わせたり、
暗闇(くらやみ)で雷鳴をきいた時などに端を発する。

人間恐怖や人見知りは突然急に大人の喧噪(けんそう)な世界へ
幼児を連れ出したのが原因で起ることがある。

子供の友達が親ばかりである場合には、その子供は他の人間を疑うようになり内気になる。
そして他の人間は自分に危害を与えるものだと考え勝になるもので、非社交的な人間が
出来上がって了う。

子供には是非とも子供のお友達が必要なのである。
近所に子供がなくて子供のお友達が得られない場合には幼稚園にあげることが必要である。

其処で子供は、人間には幾種類もの人間があって色々の感情や態度で生活しているもの
であり、譲歩しなければならぬ場合や、主張しなければならぬ場合のあることを
覚えるのである。

           <感謝合掌 令和2年5月17日 頓首再拝>

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