伝統板・第二

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礼拝の教え ③ - 伝統

2020/02/08 (Sat) 02:42:44

合掌のこころ

      *『一流の母・妻・子を作るには』より

拝む心になったら、自然に掌が合わされる。
自然に両掌が合って頭が下がってくる。

掌が合うのは互に一つに融け込む心が形になって現れたのです。

互に一つに融け込んだ姿には、
神がそこに顕れているから自然に頭が下がるのです。

ミレーの『晩鐘の絵』を見ると、
黄昏を拝んでいる農夫の姿がまたとなく尊い。

あれは拝んでいるのであって、祈っているのではありません。

あれは一つに融け込んでいるいるのです。
萬物と一つに融け込んでいるのです。
融け込まないものには深味がない。

深味があるのは、そのに神が顕れているからです。

拝まれるものにも神が顕れますが、
拝む姿には一層神が顕れるものです。

何のために何かのご利益のために拝むというのではありません。

神とは火水(かみ)即ち陰陽一つに拝み合った姿なのです。

神が顕れたら拝まないではいられなくなるのです。
何かの為ではない、神が現れれば互いに拝むのです。

皆さん、互に拝み合っておられますか。

    ( https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/17668311.html 消滅)

・・・

<関連Web>

(1)伝統板・第二「礼拝の教え ①」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6778863

(2)伝統板・第二「礼拝の教え ②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7633219

          <感謝合掌 令和2年2月8日 頓首再拝>

他人の偉大さがわかる人になれ - 伝統

2020/02/27 (Thu) 02:34:32


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(P23~25)より

ひとの優劣を自分の尺度で推し測ってはならない。
自分が愚劣な心を持つから、ひともまた愚劣であろうと思ってはならない。

自分が動物的な欲望の支配下にあるから、
ひともまたかくのごとくであろうと思ってはならない。
自分のうちに悩みがあるから、世界中の人はすべて悩んでいるのだと思ってはならない。

本当に他人の偉大さがわかる者は、自己がそれだけ偉大であるのである。
自分の魂の高揚しただけのものを、われわれは他において見るのである。

釈尊のすぐれた人格を知る者は、自己のうちに存在する釈尊がそれを知るのである。

釈迦やキリストといえども、時には悩み、苦しんだであろうと考える者は、
聖者を引きずり下ろして自己と同等のレベルに置こうとする卑怯者である。
彼は一種のエディプス・コンプレックスの虜囚(とりこ)なのである。

自分よりすぐれた者の存在を知ることが、
自己の驕慢心にとってたえがたい屈辱感になるのである。

われわれは、かくのごとく、ひとを引きずり下ろす醜(みにぐ)き心を去り、
自己があくまでも向上して、美しき人類の理想を成就することによって
聖者と等しきレベルにまで到達しなければならないのである。

大海に溺れつつあるある者どもが、お互いに他を引き下ろして、それによって、
自己が浮き上がろうとするのは醜悪である。

他を賤しめ軽んずることによって、
ひそかに自己を偉大ならしめようと努力するくらい
みじめな動物的行為はないのである。

他を軽んずることは、自己を軽んずることである。
他を醜くすることによって、まっさきに自己が醜くなるのである。

『従容録』には自分の口を血に染めて他人に吹きかけると書かれている。

常不軽菩薩は、すべての人々を仏様(ほとけさま)だと言って拝んだのである。

釈尊は山川草木国土有情非情すべてことごとく仏なりと観ぜられたのである。
わたしだけが偉大だとも、彼だけが仏で、他は俗物だとも観じたのではなかったのである。

われわれはすべての人々を自己と同等のレベルにまでコキ下ろす劣悪を知っている。
しかしさらにそれよりやや進歩した劣悪として、特定の人々のみを尊敬するが、
他はことごとく”うじ虫”奴(め)らであると思う愚かさを知るのである。

それはただ、自己のうちに、他の偉大さをみとめる美点のあることを誇示し、
それによって自己を偉大ならしめ、さらに他を軽んずる快感をも
同時にむさぼろうとする鵺(ぬえ)的存在である。

山川草木皆これ仏であると拝む仏様からは縁の遠い人々である。

          <感謝合掌 令和2年2月27日 頓首再拝>

生命を礼拝する日 - 伝統

2020/03/08 (Sun) 04:24:55


           *「光明道中記」(3月8日)より

【愈々(いよいよ)の時が来れば無限の力が出る。爾(なんじ)の内に宿る力を信ぜよ。
                         (『生命の實相』第十一巻)】

1個の蒸気機関(エンジン)でもそれを制作するには相当の智慧が要る。
それだのに400兆のエンジンを互いに繋ぎ合して1個の如く統一して
運転するにはどんなにか優れたる智慧が要ることであろう。

蒸気機関(エンジン)が煙を吐く如く、400兆の細胞は老廃物と云う煙を吐くのだ。
その煙を逃がさないと細胞は窒息して了うのである。

人体のように400兆台もあるエンジンが肉眼で見れば間隙の見えないほど
《ぎっしり》密集している場合に、その煙である老廃物を逃がす装置を工夫するのは、
恐らくどんな大技師でも、現在のような機械工学の発達では出来なかろうと思う。

それを巧みに成就しているのが人間の《生命力》である。

人体の煙である老廃物を気体の形で逃がす為に、生命力は極めて狭い容積の中に、
長さ50m、幅10m にも当る肺臓内の面積を拵(こしら)え、
液体状で老廃物を流し出す為には、極めて巧みな静脈管やりんぱ管を造った。

細胞を人工培養して人体のりんぱ管のような複雑な組織なしに、
老廃物を流し去るにはその細胞群の大きさの2千倍の清浄液を必要とする、
当り前なら2千人入りの浴槽で細胞を毎時洗っている作用で、
殆んど容積のない血管及びりんぱ管にて行なっている。

          <感謝合掌 令和2年3月8日 頓首再拝>

相手の神性を拝み、そのまま放つ - 伝統

2020/03/16 (Mon) 02:24:15


    *「光明法語」(3月16日《愛は繁昌の基(もとい)である》)より抜粋

愛によって育てられる子供は健康に育つ、
けれども愛とは執着することではない。

愛は相手の神性を拝むのである。

愛は相手を弱き者としていたわることではないのである。

相手を完全なものとして、其のまま放つのである。

信と敬と解放とである。

          <感謝合掌 令和2年3月16日 頓首再拝>

生命の実相を礼拝せよ - 伝統

2020/03/30 (Mon) 05:00:28


       *『生命の實相』第7巻 生活篇(P30~31)より

諸君よ、今日かぎり、
他人の悪にしばられないところの高貴な心を自分のうちに取戻そう。 

他人が悪を犯したからって、自分がなぜ不幸にも、憎しみの歯輪で
噛みくだかれなければならないのであろう。 

あなたの心は他人の悪の餌食となって食われてしまわねばならないような
一片の肉塊ではないのである。 

あなたの心は何物にもしばられないで、
それ自身で幸福になりうるということを知らねばならぬ。

自分の心の高貴をとりもどせよ。 自由と独立とを奪回せよ。 
相手が下劣なことをすると思うならば、下劣な者と対等になって
争うことの愚を知らねばならぬ。 

相手が愚劣になったとき、自分もまた、高貴の階段から降りていって
愚劣と肩を並べねばならぬということはないのである。


しかし、自分の高貴を自覚し、他人の下劣に伍せないために
 ―― 言い換えればみずからのみを潔しとし、
他を傲然と見下ろすために許しの王座に上るものは、
なお本当には自己の生命を伸び伸びと生かすことができないのである。 

それは 『生長の家』 の生き方ではない。 

かかる生き方は、自己が高く上がれば上がるほど、他がいっそう低く見える。 
彼は自己の心のうちに他の醜さを常にえがいて暮さねばならぬ。 
自己が高くあがればあがるほど、自己の心のうちを他に対する軽蔑や
非難の声でみたさねばならぬ。 

彼はいつの間にか放下していたと思っていた人生のカスを
自分のうちに充満せしめることになる。


『生長の家』 の礼拝主義はそんなたんなる寛大主義ではない。 
また自己のみが高くあがる独善主義でもない。 
それはほかの見せかけの他人の悪にとらわれない。 

その人の表面にどんな悪があらわれていようとも、
その人の本質を見るのである。 
その人の本質にある神を見るのである。

どんなに人々が悪を犯そうとも、
その人の本質は神の子であって汚れていない。 

どんなに紙幣が手垢に汚れていようとも、
それは金貨に価する内在価値をもっている。 

諸君は百円札が汚れているからとて、その内在価値を疑うか。 

しからば諸君は人間がどんな罪に汚れているからとて、
その内在価値 ―― 神の子としての価値を疑ってはならない。


かくのごとくして『生長の家』は万人のうちに、
ただ神の子の存在のみを見る。

          <感謝合掌 令和2年3月30日 頓首再拝>

どこにいても神を拝することはできる - 伝統

2020/04/16 (Thu) 02:59:27


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月16日)」より

「山頂に達しないでも、麓(ふもと)の一歩一歩にも星の光は射す。」

どこにいても神を拝することはできるのである。いずこにも天国がある。

渓川(たにがわ)のせせらぎに宿る星の光にも、
草の葉末(はずえ)の露(つゆ)に宿る星の光にも天国は宿っている。

どんな茅(あばら)屋にも美があるがゆえに、
ある種の画家は好んで賤(しず)が伏屋(ふせや)の美を描き、
彫刻家はそれほど美人でもない婦人の裸体像を堂々と出品し、
ロダンはことさらに「鼻欠けの像」を彫刻する。

            <感謝合掌 令和2年4月16日 頓首再拝>

すべての生物を拝む祈り - 伝統

2020/05/17 (Sun) 02:53:52


       *『理想世界ジュニア版』(昭和51年6月号)より
        (粟野真弘のblog<2020年05月10日>)

神さま、すべての生物は
神さまの 生命が、宿って生まれて来たのでありますから、
すべての生き物と人間とは兄弟姉妹であります。

したがって、
すべての生物は、どんなバイキンのようなものも
決して人間を害したりいたしません。
 
すべての生物は、人間を神の子の中の一番すぐれた長子であるとして
尊敬し、われわれの為になるものばかりであります。
 
味噌も醤油も酢も漬物も皆、わたし達の小さい兄弟のバイキンが
おいしくしてくれたものであります。
 
ありがとうございます。

  (http://blog.livedoor.jp/mmmawano550121/archives/54609629.html より転写)

            <感謝合掌 令和2年5月17日 頓首再拝>

《実相の完全さを礼拝せよ》 - 伝統

2020/06/15 (Mon) 04:58:31


      *『 生長の家 』(昭和44年12月3日の法語)より

   万物に内在する絶対価値を見出すには、
   浮雲(ふうん)のように去来する現象の不調和な姿に、
   心を引っかからせてはならないのである。

   浮動変化して常なき有様が ー 時には現象の表面に
   不完全な様相をあらわすような事があっても、それは唯、
   外見であって、内には完全円満な“ 如来 ”を蔵するものである。


   その内に埋没せる“ 如来 ”は、
   外面の不完全さのみを見ていては 現れて来ないのである。

   どんなに不完全に見えても、その外見に眼を閉じて、心の眼をひらいて、
   実相の完全さを見るとき、

   それをジッと見詰めて礼拝する毎日をつづけるとき、
   “ 内在の如来 ”の完全さがあらわれて来るのである。

   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/7f575134098da0c0f7b97d38f01fab3f

            <感謝合掌 令和2年6月15日 頓首再拝>

人類互に拝み合え - 伝統

2020/06/25 (Thu) 04:15:44


        *『 生長の家 』(昭和26年5月23日の法語)より

何故(なぜ)、人類が幸福と平和とを望みながら、
不幸と擾乱とに巻き込まれて行くかと云うと、
互いに人間が神の子であることを本当に信じないからである。

互いが相手を悪意に満ちているものであり、
こちらを害するに違いないと疑うがゆえに、
その疑う想念の具象化として相手は益々悪しき状態にあらわれ、
ついに重大なる結果を来(きた)すのである。

現象を見て分析し、此処(ここ)に相手の悪があるとみとめて
対応策を考えているような事では駄目である。

彼を悪であるとしてこちらが憎めば、
相手もこちらを悪であるとして対抗して来るのである。

人類全体が人間を神の子として互いに拝むようにならなければならぬ。


    (『幸福を招く365章』第11項(P235~236) に収載)

            <感謝合掌 令和2年6月25日 頓首再拝>

すべての人に宿る「神」を拝む - 伝統

2020/07/12 (Sun) 04:40:12


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月12日)より

あの利益、この利益と求めている者にもお蔭はあることはあるが、
割合にお蔭が少ないものである。

なぜなら現象に捉われて、
生命それ自身の自由自在さを失ってしまいやすいからである。

あの利益、この利益と求めるものは近眼(ちかめ)である
 ―― 心の近眼(ちかめ)である。

孑孑(ぼうふら)を追い求めるよりも呑舟(どんしゅう)の大魚(たいぎょ)を
求むるに若(し)かずである。
すべての利益が与えられているのに、
あの利益、この利益と求むるには及ばないのである。

神はすべてのすべてであるから、神をわが内に見出せば、
「すべてのもの」はおのずから調(ととの)うのである。
何よりも、まず「神」である。

その「神」が自分の内部に宿っているのに、
多くの人は未だ自分自身を拝んだことがなかった。
自分自身に感謝したことがなかった。
幸福な人が少なくて、不幸な人が多いのも、そうした理由から当然のこと事である。

見よ!  まず自分のうちに宿る神を!
われらはまず自分自身のうちの「神」を拝むことを教え、
自分自身のうちの「神」に感謝することを教える。

かくのごとくして、われらはしだいに進んで
各人自身のうちに「神」を宿したまうた本源の神を拝むことを知るのである。

            <感謝合掌 令和2年7月12日 頓首再拝>

ひたすら相手の実相たる“内在の如来”を礼拝するのが生長の家人の生き方 - 伝統

2020/07/29 (Wed) 04:53:39


       *『生長の家』(昭和44年12月号)より
        ~縁なき衆生は度しがたし

迷いの中に苦しみ悩みながら、こちらが救けてあげたいと思うけれども、
宗教とか信仰とかいうものに興味のない人がたくさんある。 

このような人を救うにはどうしてあげたらよいのであろうか。

 
釈尊はこういう人の事を「縁なき衆生は度し難し」と仰せられた。 
「度す」というのは「済度する」ことである。 

実相光明世界 ― 即ち「彼岸」に度してあげたいけれども、
「縁」即ち触れ合う、機会が無いということである。 

肉体は互に触れ合い、目に触れてはいるけれども、
「機」即ち「心のはたらき」が互に「会う」ことがないのである。 

それは恰も、ラジオ放送電波は現実に今此処に到達しているけれども、
放送電波と受信機との波長があわないので、
いくら「善き助言」を放送してあげても、
彼らは波長の合わぬラジオ・セットのようなもので、
心の触れ合う機会がないのである。

 
では、本当に「縁なき衆生は度し難し」なのだろうか。 
「縁なし」といって放置して見殺しにしておいて、よいものだろうか。 

現象面では波長が異なり、肉体は触れ合っていてすらも、
心は互に断絶していて互に触れることが出来ないかも知れないけれども、
実相は彼らも亦 “神の子” であり、本来 “仏性” であり、
彼らの生命の根元的な面に於ては互に密接に“一体”なのである。 

だから彼らを救ってあげようと思えば
彼らの生命の根元的な面で彼らと接触すればよいのである。 

即ち、彼らの「実相」の円満完全さを心で凝視し
礼拝する行事をつづけるのがよいのである。 

彼らにも“実相の完全さ”が宿っているのである。 

彼らの肉体は“実相”の波長には
全然波長の合わない迷妄の波長を起しているために、
“実相”と“肉体”との間が相互断絶していて“実相”は隠覆されて、
恰も眠ったような状態になっているのである。

 
私たちが彼らを救わんがために、
彼らの「実相」の円満完全さを凝視して礼拝するのは、
その眠っている「実相」に対して、波長の合う霊波を起して
「実相」を霊波で叩いて目を醒まさせて
「実相」のハタラキを表面にあらわすためなのである。

 
実相礼拝の行事によって、
恰も「縁なし」と見える衆生の仏性を目醒めしめようと
せられた方が、法華経の“常不軽菩薩”なのである。 

この菩薩は「われ常に軽んぜず」と唱えて、いかなる浮浪者でもヤクザでも、
また彼を石をもって打擲しようとした者すらをも、

「あなたの実相は“如来”でいらっしゃいます。
 当来必ずその如来の実相のあらわれる方であります」

といって、ひたすら相手の実相たる“内在の如来”を礼拝したのである。

生長の家人の生き方は、この常不軽菩薩の生き方をすべきである。

https://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p16.html
December 10, 2013, 7:07 am


  (『 生長の家 』(昭和44年12月8日~10日の法語)

        <感謝合掌 令和2年7月29日 頓首再拝> 

《実相の完全さを礼拝せよ》 - 伝統

2020/08/13 (Thu) 04:51:47


      *『 生長の家 』(昭和44年12月3日の法語)より

万物に内在する絶対価値を見出すには、
浮雲(ふうん)のように去来する現象の不調和な姿に、
心を引っかからせてはならないのである。

浮動変化して常なき有様が ー 時には現象の表面に
不完全な様相をあらわすような事があっても、それは唯、
外見であって、内には完全円満な“ 如来 ”を蔵するものである。


その内に埋没せる“ 如来 ”は、
外面の不完全さのみを見ていては 現れて来ないのである。

どんなに不完全に見えても、その外見に眼を閉じて、心の眼をひらいて、
実相の完全さを見るとき、

それをジッと見詰めて礼拝する毎日をつづけるとき、
” 内在の如来 ”の完全さがあらわれて来るのである。

   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/7f575134098da0c0f7b97d38f01fab3f

        <感謝合掌 令和2年8月13日 頓首再拝> 

一夜の宿を乞うたが断られたが、途中振り返り、幸を祈り拝む - 伝統

2020/08/27 (Thu) 04:59:12


           *『人生の秘訣365章』第8篇(P200~201) より
             ~祈りは、このようにしてきかれる

金光教の高橋正雄先生は、最早故人になられたが懐かしい人のひとりである。
その機関誌『生(せい)』の中に書いておられたが、

或る人が四国遍路をして、もうとっぷり日が暮れて来たが、
田舎道で宿屋など見つからないのである。
一軒の百姓屋のような家を見つけて、そこの戸を叩いて一夜の宿を乞うたのであった。

百姓屋の主人が出て来て
「泊めてあげたいけれども、都合が悪いことがあるので、帰って下さい」
というのであった。

遍路の旅人は仕方なしに家から出て数十メートル程あるき出したが、
何を思ったか、振り返ると、その家の方を向いて合掌した。
そして、こういって祈ったというのである。

「この家の人が私を泊めてくれないのは、
 物質的に乏しいか、精神的に乏しいかどちらかに違いありません。
 神様どうぞこの家の人たちを、物質的にも精神的にも裕にならせてあげて下さい。
 ありがとうございます」

旅人はこのように祈って踵を返して歩き出した。

すると間もなく、後方(うしろ)から旅人を呼ぶ声が聞えた。
旅人は振り返ってみると、先刻、宿を断った主人であった。

主人は
「先刻は失礼なことを申しましたが、あなたが、行きかけて振返って私の家を
 拝んで下さったのを見ると、どうしても私はあなたを泊めてあげずにはいられない
 気がしましたので、どうぞ戻って来て泊まって下さい」というのであった。

「本当の和解」というものはこのようなものである。
冷たくされた相手の人の幸福を神に祈ってあげることである。

本当に祈りが徹底すれば敵と見えた者も強力な味方となるのである。

        <感謝合掌 令和2年8月27日 頓首再拝>  

すべてを覚体と観、礼拝し、お礼を言う - 伝統

2020/10/21 (Wed) 05:06:43

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月21日)より

真に存在するものは、すべて「神」によってつくられたのである。
「神」は《いのち》であるから、すべての物は《いのち》をもっている。
神は「自覚」であるから、すべての物は「自覚」をもっている。

それをわれらは気づかなかったのである。

机には自覚がないと思ってお礼を言わなかったし、
蒲団も、椅子も、書籍も、ペンも、鉛筆も、茶碗も、大根も、
・・・すべて自覚がないと思ってお礼を言わなかったのである。

それどころか、人間にさえも自覚がないもののようにお礼を言わない人がある。

もっとも面と向かい合ってはお礼を言わない人はないようだが、
それはその人の「自覚」すなわち覚体に対してお礼を言っているのではなく、
五官に対してお礼を言っているのである。

だから五官に見えない処では悪口(あっこう)を言う。
こんな人間は『生長の家』の読者であっても、生長の家の家族ではない。

人間を覚体として認める人は、
五官に見えないところからでもお礼を言い、
見えないところからでも拝めるのである。

           <感謝合掌 令和2年10月21日 頓首再拝>

相手を覚体として礼拝し感謝するところに和解がある - 伝統

2020/10/22 (Thu) 05:04:05


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月22日)より

岩も、木も、石も、煉瓦も、水も、火もことごとく覚体である。
すべてのものに仏の生命(いのち)が生き、神の智慧が輝き、
天地の愛が顕れているのである。

天変地変を恐れるものは、
きっと、岩にも、木にも、石にも、煉瓦にも、水にも、火にも、
・・・お礼をいったことのない人たちに相違ない。

「汝ら天地一切のものと和解せよ」というのは
天地一切のものが、すべて覚体であるという
前提があってのことである。

覚体でなければ、和解のしようがない。ただその機械的暴力に
従うか、それを利用するか、征服するか、征服させられるかのほかはない。

和解とは、征服、被征服を絶した問題であって、
相手を覚体として礼拝し感謝するところに和解があるのである。

           <感謝合掌 令和2年10月22日 頓首再拝>

人間の鉱脈を掘り当てるには、人間に内在する神性を礼拝する - 伝統

2020/10/26 (Mon) 04:58:58


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月26日)より要約抜粋

わたしの市岡中学校時代の同窓のひとり(A氏)が逢いに来た。

(中略・・・A氏は、ある鉱業会社の鉱山部の技師をしており、
      鉱脈透視の霊能を得ており、
      出資者が欲しいとのことでの来訪であった)


(谷口雅春先生のA氏へ忠告①)

「鉱脈を透視するのもよいが、人間の鉱脈を透視することが肝要です。
 この人なら君に協力してくれるという。」

(A氏は、自分は多くのことを知っており、
 上司の部長はつまらない男だ、と言う)


(谷口雅春先生のA氏へ忠告②)

「君は能力もあるし、学問もある。それでいて協力者がないというのは、
 君は君の能力に高慢になって人を見下すというところがある。

 君は僕の本を読んでもピンと来ないと言うけれども、
 霊魂や心の波や、近代の新興物理学などのことは
 君は僕よりよく知っているかもしれないけれども、
 そのために大事なところを見のがしてしまう。

 そら『天地一切のものと和解せよ』という大切な第一ページを。
 すべて和解と調和と感謝の中から、ものを生み出す力が出て来る。
 君はまず部長を拝むところから始めねばならぬ・・・」

(A氏は、部長は何を言っても信じない。
 こんな部長を拝むことはできない、と言う)


(谷口雅春先生のA氏へ忠告③)

「そこを拝むのが生長の家の生き方である。
 能力を拝むとか、形を拝もうとか思うから拝めないのだけれども。
 人間に内在する神性を礼拝する。

 どんな人間にも、そのバックには尊いものがある。
 それを拝むようにすれば、部長も君を拝んで協力を
 求めてくるにちがいない」

「一切衆生に宿る仏性神性というものを拝むようにすれば、
 どんな人間でも、その仏性神性が顕われる。
 これは否定できない真理なんだ。
 君は協力者を求めているが協力者はすでにある。

 君の地位をもっていて君の能力を持っていて
 協力者がないというのは、ただ君が相手を軽蔑する悪い癖があるから、
 ”すでに”ある協力者が見出さないだけなんだよ」


(A氏のように特殊な)高い能力の持ち主で、
協力者という人間の鉱脈を掘り当てぬ人もたくさんある。
人間の鉱脈を掘り当てるのは、そんな特殊な霊能も、学問もいらない。

ただ今を忠実に生きることにあるのである。
米粒に百千の細字を書くのが偉いのではない。
あたりまえのことがあたりまえにできるのが偉いのだ。 

奇跡に見とれている間に
大切な生命(いのち)を掏(す)られぬことが肝要である。

           <感謝合掌 令和2年10月26日 頓首再拝>

人の本質を礼拝せよ! - 伝統

2020/11/02 (Mon) 04:42:59


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月2日)より

怒り、憎み、恐怖、嫉妬、利己心、冷酷・・・等々は
いずれも「生命(せいめい)」に対する背反である。

みずから癒えんとする者および他(ひと)を癒やさんとする者は、
これらの心を捨てて愛をもって置き換えなければならぬ。

善人を愛するだけではなんにもならぬ。
悪人をも愛すると言っても悪を容認する意味ではない。

悪人は本来「不当有(ふとうう)」であるから、悪人と見えていても、
実は何かのまちがいでそう現れているだけであるということを知り、
その人の本質を礼拝して疑わぬことである。

           <感謝合掌 令和2年11月2日 頓首再拝>

現象で批評せず、愛による行いであることを拝む - 伝統

2020/11/09 (Mon) 04:17:53

     *「光明道中記」(11月9日《そのまま素直に有難い日》)より

【人生の悩み苦しみは病気の痛みと同じ、神の子たる真性を顕す働きである。
                       (『生命の實相』第二巻)】

或る講師が地方で講演した。
講演の最中にその講師は嘔吐をし、下痢を催した。
それでもその講師はその講演をつづけたし、
その夜の大講演会にも出て講演したのであった。

生長の家の講師ともある者がどうしてあんなに肉体に不調和を顕すのだろう。
それで生長の家も権威はないではないかと云う投書が来た。

成る程、講師の権威と云うものは嘔吐(へど)を吐いたら無くなるし、
嘔吐を吐かなければ権威があるらしく見えるし、
それでは、そう批判する人もまるで現象に振り廻されているのではなかろうか。

そう批評して来た投書家も
心で「痰唾(つば)を吐きかけて」いればこその批評である。

肉体に何か間違ったものを食べて嘔吐するのは治す作用(はたらき)であるが、
心に不快なものを見て、言葉の痰唾(つば)を吐く者は何と批評せらるべきものか。

すると又、弘法大師は即身成仏と悟った高僧だと『生命の實相』に書いてあるのに、
何故(なぜ)大患に罹ったか、返答して欲しいと云うような投書も来ている。

そうして現象でそんなに点数がつけたいのであろうか。

点数をつける代りに嘔吐はきながらでも講演を続けて下さるその心を
もっと拝めるように私はなりたい。

           <感謝合掌 令和2年11月9日 頓首再拝>

みんなを拝めるのが悟であり、審判(さば)くのが悟ではない - 伝統

2020/11/10 (Tue) 04:56:13


          *「光明道中記」(11月10日)より
           ~人の欠点を見ず、深切な語(ことば)を使う日

【人生に傷つける人、疲れたる人に何よりも必要なのは光明を与える言葉である。
                       (『生命の實相』第四巻)】

完全に悟らなければ人に道を伝えることは出来ないと云うことは間違である。

道を伝えることはその人の「行(ぎょう)」であり、
「行」あってその人が浄(きよ)まり、
「行」あってその人の生命が生き進みつつあるのである。

完全に悟らなければ人に道を伝えたら可(い)けないと言ったら、
日本国中で道を伝える資格のある人は幾人あるであろうか。

また完全に悟らなければ、その人の生命は「行」をして可けない、
生命が生き進んでは可けないと言うべきものではない。

みんなを拝めるのが悟であり審判(さば)くのが悟ではない。
途中の鼻高は審判(さば)きたがるし、悟った人は拝むばかりである。

講師が来ても何か落ち度がないかと鵜の目、鷹の目で見詰めている人は
鵜のような人であり、鷹のような人である。

仏のような人は、どこからでも拝んで光を見出すが、
隙(すき)をねらっている人はどこからでも隙を見出すであろう。

心が鋭くなると云うことに自戒しなければならぬ。

人々よ肉体の病気よりも人は自分の心が
他(ひと)を咎(とが)めたくなる心病に
罹(かか)っていやしないかを警戒せよ。

その人の心病は今形に出ないからとて
いつの日にか形に出ないことを保証し得るであろう。

高慢は禁物である。

           <感謝合掌 令和2年11月10日 頓首再拝>

拝む心が神の心 - 伝統

2020/11/20 (Fri) 05:02:08


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月20日)より

拝むという心が失われたときに、万事は価値が失われる。
拝んでいる人の心が神の心である。
拝んでいる心がその人から退陣したら、
その人の中に神が在(まし)まさぬことになったのである。

こんな文章を読んだからとて、「あいつは近頃拝む心になっていないから駄目だ」と
他人の悪さを批評するような人がもしあったら、その人自身がまた拝む心を
失ったということになるだろう。

           <感謝合掌 令和2年11月20日 頓首再拝>

拝んで生かすことで、無限の力が出てくる - 伝統

2020/12/03 (Thu) 04:55:09


     *『生命の實相』第29巻「女性教育篇」(P109~110)より

いっさいの事物を観るに、これは釈迦牟尼仏の生命が顕現しているのだ、
とわかりましたならば、一枚の紙でも粗末にできない。

それに内在する百パーセントの力を発現させることになります。
一枚の紙といいますけれども、一枚の紙でもこの本当に拝む心で
手紙をお書きになるといたしましたならば、
その一枚の紙がどんな働きをするかしれない。

それはお守りみたいな神秘的な働きをして
その手紙を受け取った人の病気が治ることもある。

あるいは一枚の手紙によって何万円という金を貸してくれるかもしれない。
この一枚の紙ですら、それをいかに拝んで生かしたかということに、
無限の力が出てくるわけであります。

生長の家で物質はないないと言うのもそこであります。

物質はないというのはこれは紙であるから、
物質であるから粗末にしようというのでは、
その「無い」に捉われたのであります。

われわれは一切の事物を見るに神の生命だと見れば無限の価値が出ますが、
これは何グラムの目方で何と何との原素が寄り集まってできたものである、

これは単なる物質であると見れば、それだけの価値しかないのであります。
ところが、紙を物質と見ない人は
往々この一枚の紙を無限の力に変化することができる。

この一枚の紙に手紙を書く、愛の念波をこめて書けば、
これが何万何十万の人の命を生かすようにも変化する、
そうすると本来物質という限定されたものは何もないのでありまして、
われわれが拝む程度にこの物質の価値が変化するのであります。

これが物質がないと知った人のできる手品で、
無一物中無尽蔵という手品であります。

「無一物」といっても、着のみ着のままになれというのではありません。
「物質なし、ただ神のみある、ただ仏のみある」と知ることです。

それがわかると、われわれは何を見ても、本当にこれを拝まずにはおられない。
いっさいのものはそれを拝むとき、物質ではないところの物質以上の
無限の神の大生命の力を現わしてくるのであります。

およそ生長の家の「物質はない」という言葉は非常に尊い、
やさしい、しかもむつかしい言葉でありまして、
往々誤解されるのでありますけれども、
こういうふうに考えていただけばその大要は掴めると思うのであります。

           <感謝合掌 令和2年12月3日 頓首再拝>

人々互いに拝みあう日 - 伝統

2020/12/07 (Mon) 03:45:47


           *「光明道中記」(12月7日)より

【家庭でよき人たれ。家庭で尊敬されず喜ばれない者の価値は知れている。
                     (『生命の實相』第十一巻)】

地獄、餓鬼、畜生、修羅、天上の生活がどんなものであるかは既に述べた。

この5つの生活を同時に備えつつ、
どの生活でも選べる自由があるのが人間の生活である。
その意味に於いて人間の生活は尊いのである。

併し人間の生活は、
前(さき)の5種類の生活のうちどれでも選べるだけではなく、
なお一層尊い生活が選べるのである。

それはどう云う生活であるかと言うと、仏の生活である。

仏の生活とは拝み合いの生活である。
人間互いに拝み合っているときその人の生活は仏である。

自分の一群(サークル)だけ拝み合っていても、
派閥を造って拝み合い、吼(ほ)え合いするのは猛獣の生活である。

ギリシャ神話には半人半獣の怪人があるが、半仏半獣の怪人が世の中にあって、
自分の属する宗団だけでは拝み合い、他の宗団に対しては歯を剥き出しているのがある。
派閥を造り徒党を組むと云うようなことから吾々は超越しなければならないのである。

宗教新聞を見て気の毒に思うことは、
何宗内局の紛争とか、管長の更迭などに関する勢力争いなどが
大抵毎日書かれていることである。

宗教者よ、まずみずからの紛争を解決せよ。

           <感謝合掌 令和2年12月7日 頓首再拝>

すべての人のうちに天才を見て、それを拝みだす - 伝統

2020/12/27 (Sun) 05:04:47


       *「眞理」第2巻基礎篇第11章(P292~293)より
         《人類は自分の心の中にある》

彼は自分の中(うち)にあり、自分は彼のうちにある。
すべて自分と彼とは相即相入しているのである。

即ち私の心が彼の中(うち)にあり、
彼の心が私の中(うち)にあるのである。

かくて人類相互の一体感は成就するのである。

だから、彼が「赤」と見るものを自分も亦、「赤」と見るのである。
人類は一体なのである。

彼の栄えることは自分の栄えることである。
人間は互いに嫉妬してはならないのである。

人は、自分のうちにのみならず、すべての人のうちに天才を見て、
それを拝み出(だ)さなければならないのである。

如何なる劣等者のうちにも優秀なる天才を見出さなければならない。
如何なる罪人(ざいにん)と見ゆる者のうちにも
聖者を見出さなければならない。

           <感謝合掌 令和2年12月27日 頓首再拝>

すべての事物をただ有難く拝まさせて戴く心になる - 伝統

2021/01/15 (Fri) 03:39:39


    *「光明道中記」(1月15日《新天地開ける日》)より抜粋

愛に眼覚めること、愛の心を起すこと、神の愛を感ずること、
大自然の愛を感ずること、人の愛を感ずること、
すべての物と事とに内在する愛を感ずること

 ―― 一言にして言えば、
すべての事物をただ有難く拝まさせて戴く心になることが
此の月の毎日の課題であったのである。

有難く思わなかったことがあったら、
それは其の事物に有難さが宿っていなかったからではなかったのである。
自分が有難さを見る眼を開いて見なかったからに過ぎない。

「机さん有難う」「空気さん有難う」「御食事有難う」「日光有難う」
「お父さん有難う」「お母さん有難う」 

斯う声を掛けてみれば、万物ただ有難いことが判るのである。

            <感謝合掌 令和3年1月15日 頓首再拝>

「霊の人間」が生長して来ますと、どの人をも尊び、おがむ心がわいて来る - 伝統

2021/03/10 (Wed) 05:01:24


        *『眞理』第3巻初學篇(PP123~124)より
         ~悟った人間ほど謙遜になる

「本当の人間」 ―― 「霊の人間」が発達してまいりますと、
その人は「わたしは偉いぞ」などと云って偉がらなくなります。

それは自分が「神の子」であると云うことがわかって来ますから、
偉いのが当たり前ですから、それを云ったり、
見せびらかしたりする必要がなくなるからです。

「霊の人間」が生長して来ますと、
相手の人々も、皆、肉体のように見えていましても
「霊の人間」だと云うことがわかってまいりますから、
どの人をも尊び、おがむ心がわいて来るものなのであります。

だから皆の人々を拝んで、丁寧に深切に取扱いますから、
自分が傲慢になるなどと云うことはないのであります。

相手が乞食であっても、片輪であっても、人種がちがいましても、
病人でありましても、落第生でありましても、
それは外にあらわれたる形のことでありまして、

その内に、実相の人間(霊の人間、神の子たる人間)があることを
本当に見ることが出来ましたならば、
どんな人間でも尊敬することが出来、
丁寧深切にしてあげることが出来るのであります。

そして人に深切丁寧にしてあげるだけ、

その人に宿っている「神の子」が発現して、
だんだん其の人自身が立派になるのであります。

            <感謝合掌 令和3年3月10日 頓首再拝>

神を拝み出せ - 伝統

2021/03/27 (Sat) 02:39:19


        *「光明日訓」平成30年版(10日)より
         ~他(ひと)を賞(ほ)めるように 自分をも賞めよ

諸君よ、自身をはずかしめるな。
互(たがい)に喜んで愛し合え。


自分をはずかしめる者は、神の子をはずかしめる者だ。

他を拝むように自分をも拝め。自分にやどる神を拝み出せ。
言葉に出して自分が神の子だという自覚を強めよ。

人間はみんな神の子だと自覚したとき本当に神の子らしくなれる。

『 光明日訓 谷口雅春先生 真理の言葉 』 平成30年版  光明思想社
☆ 住 吉 大 神 浄 め 給 う ☆
https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/4f247c5bb2f1664c72f219835774f7ca

            <感謝合掌 令和3年3月27日 頓首再拝>

どこにいても神を拝することはできる - 伝統

2021/04/16 (Fri) 03:55:43


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月16日)」より

「山頂に達しないでも、麓(ふもと)の一歩一歩にも星の光は射す。」

どこにいても神を拝することはできるのである。いずこにも天国がある。

渓川(たにがわ)のせせらぎに宿る星の光にも、
草の葉末(はずえ)の露(つゆ)に宿る星の光にも天国は宿っている。

どんな茅(あばら)屋にも美があるがゆえに、
ある種の画家は好んで賤(しず)が伏屋(ふせや)の美を描き、
彫刻家はそれほど美人でもない婦人の裸体像を堂々と出品し、
ロダンはことさらに「鼻欠けの像」を彫刻する。

            <感謝合掌 令和3年4月16日 頓首再拝>

自分の中にそして人の中にいる神を拝み切る - 伝統

2021/05/03 (Mon) 02:56:39


      *「人生読本」(《幸福になるには》P136~137)より

よくあることです。
「苦しい時の神だのみ」と申しまして、自分が困りきると
今までは見向きもしなかった神様に頼みたくなる心が、
どこからともなく湧いて来るものです。

しかし、自分は神様に生かされている神の子だということを
知らないで、いくら拝んでみても、あまり御利益がないものです。

それよりか、自分は神様に生かされている神の子だ、
神様が自分の中に生きていてくださるのだ
、神様には病気も、一切の悪いことも、苦しいことも、
お与えになることはないはずだ、
私はそうした立派な神様に、今こうして生かされているのだと知って、
「神様ありがとうございます!」と喜ぶのです。

 
こうして、自分の中に生きていてくださる神様を拝むのです。
拝んで、拝んで、拝みきるのです。

「神様に生かされているのだ。ありがたい!」と、
自分の中に生きていてくださる神様に、
朝から晩まで御礼を言う気持ちになるのです。

 
こうした生き方を続けてゆきますと、
自然に神様のような善い生活ができてくるのです。

言いかえればとてもうれしい、楽しい、その日その日が始まって来るのです。

自分の中の神様を拝む心になり、
また人の中にも神様がいられるのだと拝む心になりますと、
自然に強情っぱりが除(と)れてゆきます。

そうなれば、神様はいつでも私達を助け通しで、
いつも嬉しい、善いことばかりができて来るのです。

            <感謝合掌 令和3年5月3日 頓首再拝>

六方拝 - 伝統

2021/06/24 (Thu) 04:18:16

祝福と感謝で福を呼ぶ 令和時代の六方拝

      *Web:はせくらみゆき公式チャンネル より
           https://www.youtube.com/watch?v=eyrzb89KXFA


≪令和時代の「六方拝」のやり方≫

0 
東の方角を向いて手を合わせ、
まず、今の自分に感謝する。

1 
東の方角を向いて手を合わせ、
両親をはじめ、ご先祖さまに感謝と、祝福を送る。
  

2 
西を向いて手を合わせ、
家族から始まる横の拡がりに感謝と祝福を送る。

3 
南を向いて手を合わせ、
あなたの人生に影響を与えてくれた恩師やマスター(歴史上の人物や
不可視の存在でもOK)たちに感謝と祝福を送る。

4 
北を向いて手を合わせ、
友人や仲間から広がる、地球上のすべての人に感謝と祝福を送る。

5 
天を見上げて手を上にかざし、
いつも見守ってくださっている天の存在たちに、感謝と祝福を送る。

6 
地を見つめて手を下にかざし、
地球と自然、そこに住む動植鉱物、人も含め、
ありしものすべてに感謝と祝福を送る。


次に、その地球を宇宙から眺めるイメージをして、
まるごと自身のハートの中に入れ、
再び、自分に感謝と祝福を送り、一日を過ごす。

最後に、また東の方向に戻って、
「今日もよろしくお願いします」
とか、
「今日はありがとうございました」
などと加えてもOK.


※ 感謝の言葉は
「ありがとうございます」など。

祝福の言葉は、
「どうぞ幸せでありますように」とか、
「あなたに祝福を贈ります」など、

自分でしっくりくる言葉をあてはめてくださいね。

https://ameblo.jp/hasekura-miyuki/entry-12614817182.html

            <感謝合掌 令和3年6月24日 頓首再拝>

自分を含め、すべての人に宿る「神」を拝む - 伝統

2021/07/12 (Mon) 04:54:40


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月12日)より

あの利益、この利益と求めている者にもお蔭はあることはあるが、
割合にお蔭が少ないものである。

なぜなら現象に捉われて、
生命それ自身の自由自在さを失ってしまいやすいからである。

あの利益、この利益と求めるものは近眼(ちかめ)である
 ―― 心の近眼(ちかめ)である。

孑孑(ぼうふら)を追い求めるよりも
呑舟(どんしゅう)の大魚(たいぎょ)を求むるに若(し)かずである。

すべての利益が与えられているのに、
あの利益、この利益と求むるには及ばないのである。

神はすべてのすべてであるから、神をわが内に見出せば、
「すべてのもの」はおのずから調(ととの)うのである。
何よりも、まず「神」である。

その「神」が自分の内部に宿っているのに、
多くの人は未だ自分自身を拝んだことがなかった。
自分自身に感謝したことがなかった。

幸福な人が少なくて、不幸な人が多いのも、
そうした理由から当然のこと事である。

見よ!  まず自分のうちに宿る神を!
われらはまず自分自身のうちの「神」を拝むことを教え、
自分自身のうちの「神」に感謝することを教える。

かくのごとくして、われらはしだいに進んで
各人自身のうちに「神」を宿したまうた本源の神を拝むことを知るのである。

          <感謝合掌 令和3年7月12日 頓首再拝>

独尊の絶対価値を天地の万物一切に見出して拝む - 伝統

2021/07/21 (Wed) 05:00:15


        *『生長の家』(昭和44年12月号)より
          ~天上天下唯我独尊の自覚

正しい信仰というものは、
釈尊が尼蓮禅河畔で迷いを去って悟りのひらかれた時のように 
「天上天下唯我独尊」 と知ることであり、

キリストがヨルダンの河畔でサタンの誘惑を退けて自己の神性を知り 
「われ神の子」 と宣言されたように、

あなたも亦、 「われ神の子、天上天下唯我独尊」 と悟ることなのである。


この 「天上天下唯我独尊」 の自覚は、
決して利己主義でも個人主義でもないのである。 

自己〈自個〉の内に “独尊” の絶対価値をみとめるとき、
はじめて “他個” の中にある “独尊” の
絶対価値を見ることができるのである。 

自己の内に絶対価値を見出し得ないような者が、
どうして、“他個” のうちに絶対価値をみとめて、
それを礼拝することができるであろうか。



「天上天下唯我独尊」 の自覚は、
「有情・非情同時成道」 の悟りに連なるのである。 

自分だけが “独尊” であって、
他のものは悉く自分より下等なものであるというような 
“自己”中心的な “他個”軽蔑的なものの考え方は
凡そ悟りから遠いものなのである。

 
“有情” 即ち “情(こころ)あるもの” も、
“非情” 即ち “情なきもの”〈無機物〉 に至るまでも
悉く、同時に “道” の現成であるということが 
「有情・非情同時成道」 である。 

“道(コトバ)” は天地に満つる “法(ほう)” であり、 
「太初に道あり」〈ヨハネ伝〉の “道(コトバ)” であり、
“法身の如来” であり、天地の理法であり、 “神” なのである。

かくして有情・非情を “法身の如来” が
そこに姿を顕されものであるとして見るとき、

天上天下唯我独尊の自覚は、何処にも傲慢のかげもなく、
その独尊の絶対価値を天地の万物一切に見出して拝むことができるのである。


万物に内在する絶対価値を見出すには、
浮雲(ふうん)のように去来する現象の不調和な姿に、
心を引っかからせてはならないのである。 

浮動変化(ふどうへんげ)して常なき有様が
 ―― 時には現象の表面に不完全な様相をあらわすような事があっても、
それは唯、外見であって、内には完全円満な “如来” を蔵するものである。

その内に埋没せる “如来” は、
外面の不完全さのみを見ていては現れて来ないのである。 

どんなに不完全に見えても、その外見に眼を閉じて、心の眼をひらいて、
実相の完全さを見るとき、それをジッと見詰めて礼拝する毎日をつづけるとき、 
“内在の如来” の完全さがあらわれて来るである。


実相は既に円満完全であるという真理を前提として立って、
その円満完全さは観じて礼拝することによって現実となるのである
という方法論を毎日の生活に応用すれば、生活が裕かになり、
教育に応用すれば子供が良くなり、治病に応用すれば、健康が増進するのである。

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/yu0529/mode=res&log=116

          <感謝合掌 令和3年7月21日 頓首再拝>

すべてを覚体と観、礼拝し、お礼を言う - 伝統

2021/10/21 (Thu) 04:46:03


     *『生命の實相』幸福篇下第三十八巻(10月21日)より

真に存在するものは、すべて「神」によってつくられたのである。
「神」は《いのち》であるから、すべての物は《いのち》をもっている。
神は「自覚」であるから、すべての物は「自覚」をもっている。

それをわれらは気づかなかったのである。
机には自覚がないと思ってお礼を言わなかったし、蒲団も、椅子も、書籍も、ペンも、
鉛筆も、茶碗も、大根も、・・・すべて自覚がないと思ってお礼を言わなかったのである。

それどころか、人間にさえも自覚がないもののようにお礼を言わない人がある。

もっとも面と向かい合ってはお礼を言わない人はないようだが、
それはその人の「自覚」すなわち覚体に対してお礼を言っているのではなく、
五官に対してお礼を言っているのである。

だから五官に見えない処では悪口(あっこう)を言う。
こんな人間は『生長の家』の読者であっても、生長の家の家族ではない。

人間を覚体として認める人は、五官に見えないところからでもお礼を言い、
見えないところからでも拝めるのである。

           <感謝合掌 令和3年10月21日 頓首再拝>

相手を覚体として礼拝し感謝するところに和解がある - 伝統

2021/10/22 (Fri) 05:04:47


     *『生命の實相』幸福篇下第三十八巻(10月22日)より

岩も、木も、石も、煉瓦も、水も、火もことごとく覚体である。
すべてのものに仏の生命(いのち)が生き、神の智慧が輝き、
天地の愛が顕れているのである。

天変地変を恐れるものは、きっと、岩にも、木にも、石にも、煉瓦にも、水にも、火にも、
・・・お礼をいったことのない人たちに相違ない。

「汝ら天地一切のものと和解せよ」というのは天地一切のものが、すべて覚体であるという
前提があってのことである。覚体でなければ、和解のしようがない。ただその機械的暴力に
従うか、それを利用するか、征服するか、征服させられるかのほかはない。

和解とは、征服、被征服を絶した問題であって、
相手を覚体として礼拝し感謝するところに和解があるのである。

           <感謝合掌 令和3年10月22日 頓首再拝>

人の本質を礼拝せよ! - 伝統

2021/11/02 (Tue) 04:38:06


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月2日)より

怒り、憎み、恐怖、嫉妬、利己心、冷酷・・・等々は
いずれも「生命(せいめい)」に対する背反である。

みずから癒えんとする者および他(ひと)を癒やさんとする者は、
これらの心を捨てて愛をもって置き換えなければならぬ。

善人を愛するだけではなんにもならぬ。
悪人をも愛すると言っても悪を容認する意味ではない。

悪人は本来「不当有(ふとうう)」であるから、悪人と見えていても、
実は何かのまちがいでそう現れているだけであるということを知り、
その人の本質を礼拝して疑わぬことである。

           <感謝合掌 令和3年11月2日 頓首再拝>

現象で批評せず、愛による行いであることを拝む - 伝統

2021/11/09 (Tue) 04:57:06


     *「光明道中記」(11月9日《そのまま素直に有難い日》)より

【人生の悩み苦しみは病気の痛みと同じ、神の子たる真性を顕す働きである。
                       (『生命の實相』第二巻)】

或る講師が地方で講演した。
講演の最中にその講師は嘔吐をし、下痢を催した。
それでもその講師はその講演をつづけたし、
その夜の大講演会にも出て講演したのであった。

生長の家の講師ともある者がどうしてあんなに肉体に不調和を顕すのだろう。
それで生長の家も権威はないではないかと云う投書が来た。

成る程、講師の権威と云うものは嘔吐(へど)を吐いたら無くなるし、
嘔吐を吐かなければ権威があるらしく見えるし、
それでは、そう批判する人もまるで現象に振り廻されているのではなかろうか。

そう批評して来た投書家も
心で「痰唾(つば)を吐きかけて」いればこその批評である。

肉体に何か間違ったものを食べて嘔吐するのは治す作用(はたらき)であるが、
心に不快なものを見て、言葉の痰唾(つば)を吐く者は何と批評せらるべきものか。

すると又、弘法大師は即身成仏と悟った高僧だと『生命の實相』に書いてあるのに、
何故(なぜ)大患に罹ったか、返答して欲しいと云うような投書も来ている。

そうして現象でそんなに点数がつけたいのであろうか。

点数をつける代りに嘔吐はきながらでも講演を続けて下さるその心を
もっと拝めるように私はなりたい。

           <感謝合掌 令和3年11月9日 頓首再拝>

みんなを拝めるのが悟であり、審判(さば)くのは悟ではない - 伝統

2021/11/10 (Wed) 04:45:46


          *「光明道中記」(11月10日)より
           ~人の欠点を見ず、深切な語(ことば)を使う日

【人生に傷つける人、疲れたる人に何よりも必要なのは光明を与える言葉である。
                       (『生命の實相』第四巻)】

完全に悟らなければ人に道を伝えることは出来ないと云うことは間違である。

道を伝えることはその人の「行(ぎょう)」であり、
「行」あってその人が浄(きよ)まり、
「行」あってその人の生命が生き進みつつあるのである。

完全に悟らなければ人に道を伝えたら可(い)けないと言ったら、
日本国中で道を伝える資格のある人は幾人あるであろうか。

また完全に悟らなければ、その人の生命は「行」をして可けない、
生命が生き進んでは可けないと言うべきものではない。

みんなを拝めるのが悟であり審判(さば)くのが悟ではない。
途中の鼻高は審判(さば)きたがるし、悟った人は拝むばかりである。

講師が来ても何か落ち度がないかと鵜の目、鷹の目で見詰めている人は
鵜のような人であり、鷹のような人である。

仏のような人は、どこからでも拝んで光を見出すが、
隙(すき)をねらっている人はどこからでも隙を見出すであろう。

心が鋭くなると云うことに自戒しなければならぬ。

人々よ肉体の病気よりも人は自分の心が
他(ひと)を咎(とが)めたくなる心病に
罹(かか)っていやしないかを警戒せよ。

その人の心病は今形に出ないからとて
いつの日にか形に出ないことを保証し得るであろう。

高慢は禁物である。

           <感謝合掌 令和3年11月10日 頓首再拝>

拝む心が神の心 - 伝統

2021/11/20 (Sat) 05:00:14


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月20日)より

拝むという心が失われたときに、万事は価値が失われる。
拝んでいる人の心が神の心である。
拝んでいる心がその人から退陣したら、
その人の中に神が在(まし)まさぬことになったのである。

こんな文章を読んだからとて、「あいつは近頃拝む心になっていないから駄目だ」と
他人の悪さを批評するような人がもしあったら、その人自身がまた拝む心を
失ったということになるだろう。

           <感謝合掌 令和3年11月20日 頓首再拝>

人々互いに拝みあう日 - 伝統

2021/12/07 (Tue) 04:57:27


           *「光明道中記」(12月7日)より

【家庭でよき人たれ。家庭で尊敬されず喜ばれない者の価値は知れている。
                     (『生命の實相』第十一巻)】

地獄、餓鬼、畜生、修羅、天上の生活がどんなものであるかは既に述べた。

この5つの生活を同時に備えつつ、
どの生活でも選べる自由があるのが人間の生活である。
その意味に於いて人間の生活は尊いのである。

併し人間の生活は、
前(さき)の5種類の生活のうちどれでも選べるだけではなく、
なお一層尊い生活が選べるのである。

それはどう云う生活であるかと言うと、仏の生活である。

仏の生活とは拝み合いの生活である。
人間互いに拝み合っているときその人の生活は仏である。

自分の一群(サークル)だけ拝み合っていても、
派閥を造って拝み合い、吼(ほ)え合いするのは猛獣の生活である。

ギリシャ神話には半人半獣の怪人があるが、半仏半獣の怪人が世の中にあって、
自分の属する宗団だけでは拝み合い、他の宗団に対しては歯を剥き出しているのがある。
派閥を造り徒党を組むと云うようなことから吾々は超越しなければならないのである。

宗教新聞を見て気の毒に思うことは、
何宗内局の紛争とか、管長の更迭などに関する勢力争いなどが
大抵毎日書かれていることである。

宗教者よ、まずみずからの紛争を解決せよ。

           <感謝合掌 令和3年12月7日 頓首再拝>

生きた宗教 - 伝統

2022/01/13 (Thu) 05:01:51


    *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月13日)より抜粋

われわれは生きた人間にお念仏申す心にならねばならぬ。

念仏とは、相手に合掌して
仏をその相手から拝み顕(だ<あらわ>)すことである。

常不軽菩薩の行である。

            <感謝合掌 令和4年1月13日 頓首再拝>

感謝が仏であり、慈悲が仏であり、拝むこころが仏である - 伝統

2022/01/19 (Wed) 04:29:25


     *「光明道中記」(1月19日《万物有り難く合掌する日》)より

【そのままで既にその本来相が仏であり神の子である。(『生命の實相』第六巻)】

そのまま有難いと拝むこころが仏である。
仏はどこに在るかと探して見ても判らないが、
有難いと汝が感謝している心がそのまま仏である。

感謝が仏であり、慈悲が仏である。
仏が隠れた相(すがた)が鬼である。
鬼と云うものが別にあるのではない。仏が隠れたのが鬼である。

死んだら鬼に成ると云うのは、死ぬとは生命が其処から離れたと云うことに他ならぬ。
生命が現れたら鬼は自ら消えるのである。

お前は鬼のような心をしている ―― と言われたら、
大抵の人間は「そんな筈はない」と言って驚く。

併し「貴方はそれでは感謝と慈悲とに充たされているか」と訊くと
「そうではありません」と答える。

感謝に充たされていない者は鬼なのである。
慈悲に満たされていない者も鬼である。

今日から鬼である事を止め、今日から仏にならんとするのは大いなる進歩である。

         <感謝合掌 令和4年1月19日 頓首再拝>

一切を拝む朝  - 伝統

2022/02/27 (Sun) 04:48:47


       *『女性の幸福365章』(P6)より

人間であることの目覚めの朝である。
人間が神の子であることを自覚する朝である。

一切を拝む朝である。
四方杯拝の朝である。

万物がすべて神の顕現であることを知ることが出来る朝である。
自己の神性があらわれなければ、
対人、対物、対境が神であることがわからない。

松は久遠生命の常盤(ときわ)に枯れざる永遠の生命の象徴である。

今日(きょう)から私たち家族は死すべきものとは思わないのである。
永遠不滅の神のいのちが今此処に生きているものだと思うのである。

目出たし、目出たし。


竹は中空である。
心が空っぽである象徴である。
常に私達は心が空っぽでなければならない。

どんな悲しみも、心の中につかんではならない。
どんな悩みも既に影を消したのである。

新しい年が来たのである。
新しい日が来たのである。

竹はまた「物質は本来ない」の象徴である。
「肉体は本来ない」の象徴である。

魂のみが人間である。

魂の悦びのみを求めよう。
其処から肉体の悦びも、魂の悦びの反映として、
得られることになるのである。

         <感謝合掌 令和4年2月27日 頓首再拝>

どこにいても神を拝することはできる - 伝統

2022/04/16 (Sat) 03:36:43


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月16日)」より

「山頂に達しないでも、麓(ふもと)の一歩一歩にも星の光は射す。」

どこにいても神を拝することはできるのである。いずこにも天国がある。

渓川(たにがわ)のせせらぎに宿る星の光にも、
草の葉末(はずえ)の露(つゆ)に宿る星の光にも天国は宿っている。

どんな茅(あばら)屋にも美があるがゆえに、
ある種の画家は好んで賤(しず)が伏屋(ふせや)の美を描き、
彫刻家はそれほど美人でもない婦人の裸体像を堂々と出品し、
ロダンはことさらに「鼻欠けの像」を彫刻する。

         <感謝合掌 令和4年4月16日 頓首再拝>

すべての人間を慈愛深き父母兄弟と拝む - 伝統

2022/06/30 (Thu) 07:22:27


     *「光明道中記」(6月30日《問題解決・感謝の日》)より抜粋

神がすべての渾(すべ)てであるが故に、
今、あなたは自分を空しくして神に一致するが故に、
神の叡智に導かれて失敗すると云うことはあり得ないのである。

あなたは、此の世界を「我が家(や)」と呼び、
すべての人間を慈愛深き父母兄弟と拝まなければならない。

衝突は自分を空しくしない処より起こり、
他を父母兄弟として拝まない処より起る。

           <感謝合掌 令和4年6月30日 頓首再拝>

内なる神を拝み、本源なる神を礼拝する - 伝統

2022/07/12 (Tue) 07:32:55


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月12日)より抜粋

神はすべてのすべてであるから、神をわが内に見出せば、
「すべてのもの」はおのずから調(ととの)うのである。
何よりも、まず「神」である。

その「神」が自分の内部に宿っているのに、
多くの人は未だ自分自身を拝んだことがなかった。
自分自身に感謝したことがなかった。

幸福な人が少なくて、不幸な人が多いのも、
そうした理由から当然のこと事である。

見よ!  まず自分のうちに宿る神を!

われらはまず自分自身のうちの「神」を拝むことを教え、
自分自身のうちの「神」に感謝することを教える。

かくのごとくして、われらはしだいに進んで
各人自身のうちに「神」を宿したまうた本源の神を拝むことを知るのである。

          <感謝合掌 令和4年7月12日 頓首再拝>

物は拝んで使い、活かしきる - 伝統

2022/09/18 (Sun) 09:50:06


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月18日)より

物は大切にしなければならぬ。
「物質は無い」ということは、「何にもないのだからゾンザイにしてもよい」
ということではない。

それは「物質と見えているものも実は物質ではない、神の生命(せいめい)、
仏の慈悲があらわれているのであるから、大切にそれを拝んで使わねばならぬ」
という意味なのである。

いかなる物も「神物(しんぶつ)」であり、「仏物(ぶつもつ)」であるから、
廃(すた)らして捨ててはならないのである。それは冥加(みょうが)にあまる
ことであり神仏の加護の波長に合いかねるのである。

糞尿と見えるものも、落葉(おちば)と見えるものも、いったん用立ち終わった
と見えるものも、それを保存し利用厚生に役立たしめねばならぬ。

             <感謝合掌 令和4年9月18日 頓首再拝>

人間に内在する神性を礼拝する - 伝統

2022/10/26 (Wed) 07:29:14


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月26日)より要約抜粋

わたしの市岡中学校時代の同窓のひとり(A氏)が逢いに来た。

(中略・・・A氏は、ある鉱業会社の鉱山部の技師をしており、
      鉱脈透視の霊能を得ており、
      出資者が欲しいとのことでの来訪であった)


(谷口雅春先生のA氏へ忠告①)

「鉱脈を透視するのもよいが、人間の鉱脈を透視することが肝要です。
 この人なら君に協力してくれるという。」

(A氏は、自分は多くのことを知っており、
 上司の部長はつまらない男だ、と言う)


(谷口雅春先生のA氏へ忠告②)

「君は能力もあるし、学問もある。それでいて協力者がないというのは、
 君は君の能力に高慢になって人を見下すというところがある。

 君は僕の本を読んでもピンと来ないと言うけれども、
 霊魂や心の波や、近代の新興物理学などのことは
 君は僕よりよく知っているかもしれないけれども、
 そのために大事なところを見のがしてしまう。

 そら『天地一切のものと和解せよ』という大切な第一ページを。
 すべて和解と調和と感謝の中から、ものを生み出す力が出て来る。
 君はまず部長を拝むところから始めねばならぬ・・・」

(A氏は、部長は何を言っても信じない。
 こんな部長を拝むことはできない、と言う)


(谷口雅春先生のA氏へ忠告③)

「そこを拝むのが生長の家の生き方である。
 能力を拝むとか、形を拝もうとか思うから拝めないのだけれども。
 人間に内在する神性を礼拝する。

 どんな人間にも、そのバックには尊いものがある。
 それを拝むようにすれば、部長も君を拝んで協力を
 求めてくるにちがいない」

「一切衆生に宿る仏性神性というものを拝むようにすれば、
 どんな人間でも、その仏性神性が顕われる。
 これは否定できない真理なんだ。
 君は協力者を求めているが協力者はすでにある。

 君の地位をもっていて君の能力を持っていて
 協力者がないというのは、ただ君が相手を軽蔑する悪い癖があるから、
 ”すでに”ある協力者が見出さないだけなんだよ」


(A氏のように特殊な)高い能力の持ち主で、
協力者という人間の鉱脈を掘り当てぬ人もたくさんある。
人間の鉱脈を掘り当てるのは、そんな特殊な霊能も、学問もいらない。

ただ今を忠実に生きることにあるのである。
米粒に百千の細字を書くのが偉いのではない。
あたりまえのことがあたりまえにできるのが偉いのだ。 

奇跡に見とれている間に
大切な生命(いのち)を掏(す)られぬことが肝要である。

           <感謝合掌 令和4年10月26日 頓首再拝>

人の本質を礼拝せよ! - 伝統

2022/11/02 (Wed) 08:12:03


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月2日)より

怒り、憎み、恐怖、嫉妬、利己心、冷酷・・・等々は
いずれも「生命(せいめい)」に対する背反である。

みずから癒えんとする者および他(ひと)を癒やさんとする者は、
これらの心を捨てて愛をもって置き換えなければならぬ。

善人を愛するだけではなんにもならぬ。
悪人をも愛すると言っても悪を容認する意味ではない。

悪人は本来「不当有(ふとうう)」であるから、悪人と見えていても、
実は何かのまちがいでそう現れているだけであるということを知り、
その人の本質を礼拝して疑わぬことである。

           <感謝合掌 令和4年11月2日 頓首再拝>

現象を批評するのではなく、本質を礼拝する - 伝統

2022/11/09 (Wed) 07:13:59


       *「光明道中記」(11月9日《そのまま素直に有難い日》)より

【人生の悩み苦しみは病気の痛みと同じ、神の子たる真性を顕す働きである。
                         (『生命の實相』第二巻)】

或る講師が地方で講演した。
講演の最中にその講師は嘔吐をし、下痢を催した。
それでもその講師はその講演をつづけたし、
その夜の大講演会にも出て講演したのであった。

生長の家の講師ともある者がどうしてあんなに肉体に不調和を顕すのだろう。
それで生長の家も権威はないではないかと云う投書が来た。

成る程、講師の権威と云うものは嘔吐(へど)を吐いたら無くなるし、
嘔吐を吐かなければ権威があるらしく見えるし、
それでは、そう批判する人もまるで現象に振り廻されているのではなかろうか。

そう批評して来た投書家も心で「痰唾(つば)を吐きかけて」いればこその批評である。
肉体に何か間違ったものを食べて嘔吐するのは治す作用(はたらき)であるが、
心に不快なものを見て、言葉の痰唾(つば)を吐く者は何と批評せらるべきものか。

すると又、弘法大師は即身成仏と悟った高僧だと『生命の實相』に書いてあるのに、
何故(なぜ)大患に罹ったか、返答して欲しいと云うような投書も来ている。

そうして現象でそんなに点数がつけたいのであろうか。
点数をつける代りに嘔吐はきながらでも講演を続けて下さるその心を
もっと拝めるように私はなりたい。

           <感謝合掌 令和4年11月9日 頓首再拝>

拝む心が神の心 - 伝統

2022/11/20 (Sun) 07:39:09

     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月20日)より

拝むという心が失われたときに、万事は価値が失われる。
拝んでいる人の心が神の心である。
拝んでいる心がその人から退陣したら、
その人の中に神が在(まし)まさぬことになったのである。

こんな文章を読んだからとて、
「あいつは近頃拝む心になっていないから駄目だ」と
他人の悪さを批評するような人がもしあったら、
その人自身がまた拝む心を失ったということになるだろう。

           <感謝合掌 令和4年11月20日 頓首再拝>

仏の生活とは拝み合いの生活である、仏の生活を選択せよ - 伝統

2022/12/07 (Wed) 07:56:06


       *「光明道中記」(12月7日《人々互いに拝みあう日》)より

【家庭でよき人たれ。家庭で尊敬されず喜ばれない者の価値は知れている。
                     (『生命の實相』第十一巻)】

地獄、餓鬼、畜生、修羅、天上の生活がどんなものであるかは既に述べた。

この5つの生活を同時に備えつつ、どの生活でも
選べる自由があるのが人間の生活である。
その意味に於いて人間の生活は尊いのである。

併し人間の生活は、前(さき)の5種類の生活のうち
どれでも選べるだけではなく、
なお一層尊い生活が選べるのである。

それはどう云う生活であるかと言うと、仏の生活である。

仏の生活とは拝み合いの生活である。
人間互いに拝み合っているときその人の生活は仏である。

自分の一群(サークル)だけ拝み合っていても、
派閥を造って拝み合い、吼(ほ)え合いするのは猛獣の生活である。

ギリシャ神話には半人半獣の怪人があるが、
半仏半獣の怪人が世の中にあって、
自分の属する宗団だけでは拝み合い、
他の宗団に対しては歯を剥き出しているのがある。

派閥を造り徒党を組むと云うようなことから
吾々は超越しなければならないのである。

宗教新聞を見て気の毒に思うことは、
何宗内局の紛争とか、管長の更迭などに関する勢力争いなどが
大抵毎日書かれていることである。

宗教者よ、まずみずからの紛争を解決せよ。

           <感謝合掌 令和4年12月7日 頓首再拝>

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