伝統板・第二
心の力 ③ - 伝統
2020/02/05 (Wed) 02:30:19
あなたの運命はあなたの心次第
*『如意自在の生活365章』(P60)より
人は”神の子”であり、神から完全な自由を与えられているのである。
そして人間自身の運命を支配する力は”想念”と”感情”とである。
わたしたちは想念感情を道具として自分の運命をつくりあげる。
むろん、行動を伴う必要があるが、本当に自分の想念感情が強く動けば
おのずからそれは言葉となり、動作となり、行動となってあらわれてくるのである。
自分の想念感情が行動を起こして、それが言葉となり、
行動となって周囲に影響を与え、
千波万波を起こして自分の運命を決定するのであるから、
わたしたちは自分の不幸について何人をも非難することはできないのである。
自己の運命が面白くないならば、自分がいかに感じ、いかに想い、
いかなる言葉を発したかを反省してみて、
すべてを動かす行動の本源であるものを変化するようにつとめれば、
その変化の程度に応じて、その人の運命は改善されてくるのである。
すべて現象にあらわれてくることは結果であって、
結果を支配するものは心の中にあるのである。
・・・
<関連Web>
(1)伝統板・第二「心の力」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7089178
(2)伝統板・第二「心の力 ②」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7773474
<感謝合掌 令和2年2月5日 頓首再拝>
《心は位置をかえる力である》 - 伝統
2020/02/17 (Mon) 04:57:56
*「真理」第9巻生活篇(P23~24)より
心は力であります。
心は与えられた観念の通りに、事物を構造し、配列し、
位置をかえる力をもっているのです。
あなたの心に「映画を見よう」と云う想念を起こしますと、
あなたの心は肉体を動かして、映画館のある位置に運んで行こうとします。
それと同じく「私は胃が悪い」と云う観念を持っていますと、
新しい細胞が古い細胞にかわるとき、
その細胞を「胃が悪い」と云う位置に排列するのです。
だから、若し現在、何か病気があらわれている人は、
その病気の観念をもちつづけている限り、その病気がつづくのです。
薬を服(の)んで治る場合は、薬の化学的効果と同時に、
その薬を服むのを契機として「この薬を服んだら健康になる」と云う
暗示が潜在意識に与えられ、病的観念が除かれるからです。
<感謝合掌 令和2年2月17日 頓首再拝>
《無意識の心的影響》 - 伝統
2020/02/19 (Wed) 05:01:36
*「光明法語」(2月19日)より
吾々の人々に与うる影響は、意識的に与うる影響よりも、
無意識的に与えている影響の方が強いのである。
意識的に相手に好(よ)き影響を与えようとして一所懸命相手に深切丁寧をつくしても、
心の中に反感や、嫌悪の念や、けむたがるような感じをもっている限りは、
相手は決してこちらに対して好感をもってくれるものではないのである。
世間によくある姑を恐れつつ、しかも形の上では丁寧慇懃をきわめながらも、
却ってギコチない感じを姑にあたえて、姑からいじめられている嫁の如きはそれである。
<感謝合掌 令和2年2月19日 頓首再拝>
すべては自分の心の状態次第 - 伝統
2020/03/05 (Thu) 03:35:20
すべては自分の心の状態次第~人間の心を「ゴムボール」に例えて
*「あの世に聞いた、この世の仕組み」(第6章)雲黒斎・著より抜粋
(1)ゴムボールを指で押して凹(へこ)ませても、
正常な状態なら反発して元の状態に戻りますが、
長期間圧力を掛けた状態にすると、
手を放しても反発せず、凹んだままになってしまいます。
心が元気がない状態というのは、ゴムが硬化して凹みのとれにくい状態です。
(2)うつ病は、一度空気が抜け、凹んでボロボロになってしまった自分は、
凹みっばなしでいるしかないんだという、
固定化された思考から抜け出せない状態だ。
(3)ゴムボールの「内側」ど真ん中、中心部に「あなた」がいます。
そう、「心」の内側に「体」があると思ってみてください。
「自分(内)」と「自分以外(外)」を分ける壁、
その境界線が、この「ゴムボール」です。
このゴムボールは「常識」「価値観」「先入観」「劣等感」「警戒心」など、
それまでの人生で自らが築き上げてきた「思考」によってでき上がっています。
(4)あなたはいま、ゴムボールに包まれています。
このゴムボールは、あなたの心理状態に合わせて、その性質を変化させます。
あなたが愛とやさしさにあふれ、心に温かな熱をもっているときや、
情熱の炎を燃やしているとき、ゴムボールは、その内側にある熱によって
大きく大きく膨張します。
ゴムは、大きく膨らむために、柔軟性をもたせていきます
(柔軟性が高まるほどに、大きく膨らむことができます)。
内部空間は広がり、のびのびと躍動的に動き回れる「余裕」が生まれます。
また、その壁は徐々に薄くなり、透明度を増していきます
(風船を思い浮かべていただければイメージしやすいかもしれません。
風船は、膨らませるほどにゴムが薄くなり、透明度を増して
向こう側がよく見えるようになりますよね)。
透明度を増すほどに、世界の本当の姿、ありのままの姿が、
ゆがみなく見えるようになります。
だから、どんな状況変化にも柔軟に対応でき、
新しい経験にも意欲的にチャレンジしていけます。
(5)逆に、あなたが外界からのストレスに怯(おび)え、防御態勢に入っているとき。
自分を外界のストレスから守るため、あなたはその壁を、厚く、硬くすることで、
防御壁を頑丈にしようとしてしまいます。
ゴムを厚く、硬くするため、ボールは収縮します。
ボールが収縮し、壁が厚くなったことによって、透明度を失っていきます。
だから、見るものすべてが不明瞭となり、
「あるがまま」をとらえることができません。
内部空間が圧縮されていることと、壁による光の遮断によって、
その中の温度は寒々しさを増していきます。
また、狭くなったことで、体を小さく小さく丸めなくてはなりません。
余裕はなくなり、不自由さを痛感します。
あらゆることに消極的になってしまいます。
<感謝合掌 令和2年3月5日 頓首再拝>
《肉体は「心」が自己表現する道具です》 - 伝統
2020/03/19 (Thu) 05:03:55
*「真理」第9巻生活篇第2章(P33)より
吾々の肉体の細胞は常に陳(ふる)い物が搬(はこ)び出され、
新しいものと置きかえられております。
これは新陳代謝と称して何人(なんぴと)も知っている事実であります。
肉体から言うならば数か月のうちに吾々は別人になるのです。
しかも肉体の全細胞全組織が交代して別人になってしまっていましても、
「自分」と云う自覚はなくならないのです。
一貫して一つの「自分」と云う自覚が持続して存在するのは「人間」
と云うものは「物質的肉体」ではなく、「物質的肉体」を通して
「一(いつ)」自覚(心)を発現しているものだと云うことが分るのです。
だから人間とは「心」であって、肉体は「心」が自己表現するための
道具だと云うことになります。
肉体と云う「物質」が常に変化しつつあるのに、その同じ人間の
個性的容貌や、皮膚の性質や指紋などが変化しないのは
同じ「心」の表現であるからです。
<感謝合掌 令和2年3月19日 頓首再拝>
人生を意のままにする力 - 伝統
2020/03/31 (Tue) 04:41:40
*「心。人生を意のままにする力」稲盛和夫(著)より
(1)人生で起こってくるあらゆる出来事は、
自らの心が引き寄せたもの。
(2)心に何を描くのか。
どんな思いをもち、どんな姿勢で生きるのか。
それこそが、人生を決めるもっとも大切なファクター。
(3)利他を動機として始めた行為は、そうでないものより成功
する確率が高く、ときに予想をはるかに超えためざましい
成果を生み出してくれます。
(4)人生の目的は、心を磨き、他に尽くすこと。
(5)目の前に現れた状況がいかに過酷なものであっても、それに
対して恨んだり、卑屈になったりせず、つねに前向きに対処
していく──
それこそが、すばらしい人生を生きる秘訣なのです。
(6)よいときも悪いときも感謝の思いで受け止める。
(7)怪我をしたなら、「ああ、これぐらいの程度の怪我ですんで
よかった。体が動かせないほどの惨事にならずにすんだ」と
思う。
病気であっても、「これぐらいの病気で、手術でよくなって
よかった」と喜ぶことです。
災難が起こったということは、業が消えたということです。
だからこそ、大きなことはもちろん、ごく小さなことで
あっても、それによって業がなくなったことを「喜ぶ」べき
なのです。
(8)自分をとりまくあらゆるものに支えられ、助けられて
生かされている ── そのように考えたら、私たちはまず
生きていることに感謝しなければなりません。
(9)自分がもつ才能や能力は、けっして自分の所有物ではなく、
それはたまたま自分に与えられたものにすぎない。
だからこそ、それを自分のためだけに使うのではなく、
世のため人のために使うようにしよう
── そう考えることにしたのです。
(10)私たちが自分のものと考えているものはみんな、
現世における一時的な預かりものにすぎません。
(11)会社であれば、まず社員の幸福のために努力を重ね、それが
実現できるようになったら、次はお客様や取引先、そして
まわりの地域へと貢献する対象を広げ、やがては社会全体を
幸福に導くように尽くしていく。
(12)開発を成功させる秘訣は、「あきらめない」こと。
(13)企業再生の第一歩は考え方を合わせること。
(14)損得ではなく、「人として」正しいかどうかで判断する。
(15)正しい判断は“魂”がもたらしてくれるもの。
<感謝合掌 令和2年3月31日 頓首再拝>
すべては意(こころ)より成る - 伝統
2020/04/16 (Thu) 02:51:34
*Web:ツキを呼ぶ感謝のことのはブログ(2009年8月10日)より
お釈迦様の論語といわれる「法句経」は423句で構成されています。
この法句の第一、第二のお言葉にはこうあります。
「意(こころ)こそもと」
すべては意(こころ)より成る 意(こころ)こそすべてのもと
けがれたる意(こころ)もて かたらいまたふるまえば
苦しみはたえまじ わだちの車にそうごとく
すべては意(こころ)より成る 意(こころ)こそすべてのもと
清らかな意(こころ)もて かたらいまたふるまえば
楽しみはつきせず 影の形にそうごとく
お釈迦様は、法句経のまず最初で、
人の人生に起こる幸、不幸、運、不運はすべて、
自分の意思によって決まっていると説かれているのです。
人生を明るくするのも、暗くするのも、歓びあふれた幸せなものにするにも、
暗く悲しく不幸せにするのも自分の意(こころ)次第と宣言しているのです。
そして、
「意(こころ)を言葉にし、行動に表した時に、人生の現われが起こる」
これがこの世の仕組みだと教えてくださっているのです。
この法句は、
汚れた意(こころ)を持って言動し、行動すれば、
あなたの人生に苦しみが絶えることはなくなる。
それは牛車の車にわだちがぴったりと付き添ってゆくようなものである、
と言っています。
その一方で、清らかな意(こころ)を持って言葉とし、行動をすれば、
楽しみは尽きることのない人生となる。
それはまるで人から決して離れることのない影のように、常に憑き従うのである、
と述べられています。
この人生を決定する大切な、意(こころ)を
清らかにするためにはどうすればいいのでしょうか。
それは「執着」をしないよう、心掛けていくことです。
イヤなこと、悲しいこと、つらいことが起こっても、
それをギュッとつかみ、長く握りしめないようにすることです。
「執着」にからめとられてしまわないようにする、良い方法があります。
私は毎朝、このことを心に宣言しています。
この世を生きて行くのだから、イヤなこと、悲しいこと、つらいことは
起こったり、見たり、聞いたりする。
その時は、私は、それに対して、しっかりと向き合っていく。
しかし、どんなことに遭おうと、見ようと、聞こうとも、
私の心は、決して「汚れる」ことはない。
「清い」ままで、いかなることも、何人も汚すことはできない
と宣言し、心に決めるのです。
臨済宗の山田無文老師が生前、この法句経の“意こそもと”について、
ある女性の生き方をあげて、紹介されていらっしゃいました。
長く私の心に残っているお話でしたので、そのままごここで紹介させていただきます。
霊雲院の檀家に、ある夫人がいられる。
最も古い目白女子大の出身であるが、
今日八十の高齢をもってなお矍鑠(かくしゃく)として家庭裁判所につとめ、
社会のひずみを治す医者として、往診に暇ない人である。
結婚して初めて生まれた長男が小児麻痺で、いわゆる精薄児として生まれられた。
その子を抱えて若い夫人は、どんなに悩まれたことであろう。
苦悶の末ついに求められたのは宗教であった。
まずA宗教の門を叩かれた。
その宗教では、「そういう障害のある子供の生まれたことを
神の恩寵(おんちょう)だと思え、そのためにあなたが教会へ来て
教えを聞くようになったのだから」と教えられたが、
いくら考えても、この不憫(ふびん)な幼子を抱いて神の恩寵とは頂けなかった。
次にB宗教に走ると、その宗教では
「それは先祖を祭っていない祟(たた)りだから、先祖の霊を厚く弔(ともら)え」
と教えられたが、これも納得いかなかった。
もし自分が先祖だったら、どんなに苦しくても、
子孫に祟(たた)るような非情なことはしないであろう。
最後に、主人の坐禅の師である霊雲院の宗徹和尚のところへ連れてこられた。
宗徹和尚は茶を呑みながら、いとも無造作に
「それはなあ、仏さまからのおあずかりした大切な子じゃぜ、大事にしてあげや」
と言われた。
その一言で、あれほど悩み抜いた夫人の意(こころ)が
初めて納得いったというのである。
禅というものは難しいものだとばかり敬遠して、
主人がいくら奨めてもお訪ねする気になれなかったが、
たったこの一言で一切の悩みが解決したのである。
仏さまからおあずかりした子なら自分の責任ではない。
大事にしてあげましょうと、安心して育てられるようになった。
そして後から生まれる子供たちにもよく言い聞かせ、
「兄さんは仏さまからおあずかりした大切な兄さんだから、大事にしましょう」
と言うて、家中で温かく育てられた。
今日五十すぎても、よだれをくって
「ああ! ああ!」と言うておるような兄さんであるが、
みんなが大事にして、ご家庭の中は至極円満で、老後を楽しんでいられるのである。
先日、久しぶりにお目にかかると、
「この頃は兄ちゃんが一番よく働いてくれます」と言われる。
それは近年小児麻痺や精薄児を抱えたお母さん方が多くなって、
「いっそ、この子と心中してしまいたい」ほど悩まれた揚句、
この兄ちゃんの話を聞いて、わざわざ訪ねて来られ、
その幸福な姿を見て、みんな感激し、母も子も救われるというのである。
障害のある子を持って、それを仏さまのおあずかり子と正直に受け取り、
温かく育てられた、夫人の意(こころ)こそ清らかであったと思う。
幸福は影の如く、今も夫人の姿に添うて離れない。
(http://kansya385.blogspot.com/2009/ )
<感謝合掌 令和2年4月16日 頓首再拝>
「思い」は、人だけでなくモノにも影響を与えている - 伝統
2020/05/02 (Sat) 04:38:03
*メルマガ「成功への道しるべ」(2020年4月15日)より
私自身に期待する
◆ 米国アリゾナ州フェニックスにあるある教会が電話帳から、
その町の住人160人を無作為にリストアップし、その内の80人に
90日間お祈りをし、残りの80人には何もしませんでした。
そして90日後に、160人に次のような電話をかけたのです。
「私たちは教会の者ですが、お宅を訪問して、あなたが今抱えて
おられる様々な問題について、ご一緒に祈らせて頂けませんか、
もしよろしかったらお伺いいたします」
その結果、お祈りをした80人のうち、69人が「お願いします」と
反応してくれました。
その中の45人は、家の中に招き入れお茶でもてなしてくれたのです。
一方祈らなかった80人の内、来てくださいと言ったのはたった1人でした。
◆こんな事例もあります。
*教師にあらかじめ、ある特定の生徒に、彼は著しい成績を示すだろうと
云っておくと、教師の期待が無意識の内に影響して、その生徒は急速に
著しい向上を示したのです。
*中村メイ子さんのご主人神津義行氏は音楽家として活躍されてきました。
なぜ音楽家になる道を選んだかについて次のような話をされたことがあります。
私の周りに音楽家として活躍したり、
音楽に特別な関心をもっていた人間は一人もいません。
小学生の時、同じクラスに著名な音楽家のクラスメートがいて、
先生は私をその生徒と勘違いされていたのです。
多分そのことが原因で、私は段々と音楽に興味を持ち始め、
音楽の道に進もうと思うようになったようなのです。
◆「思い」というのは目には見えませんが、
物体でありエネルギーを持った存在であることが、
科学の面(特に量子物理学)から解明されつつあります。
SMIをはじめ、あらゆる成功哲学のプログラムが示唆していることは
基本的に同じです。
即ち、実現したいことを強く思い、それを反復することによって、
ものごとは成就されていくといういことです。
◆「思い」は人だけでなくモノにも影響を与えているようなのです。
*不滅のゴルファー、ジャック・ニクラウスはボールに意志を働かせている
と思わざるを得ないような奇跡をしばしば起こしました。
彼の予期と期待の力が並外れて強かったことがうかがえます。
*長年お付き合いさせていただいているお菓子のデパート“よしや”の
創業者神吉武司氏は、毎朝出勤されると配送センターにあるお菓子に
「お菓子の皆さん、ありがとうございます」と大きな声で何回も反復されます。
ある朝、お菓子が「僕を出荷してもお金がもらえませんよ!」と言ったのです。
出荷しところやはり代金が回収できなかったのです。
詳細は略しますが、このことが結果的には大きな利益をもたらしています。
◆「予期と期待の力」はあらゆることに働きます。
一番忘れてはならない対象は「私自身」です。
ところが見えないせいもあって、
自分自身に期待することを忘れていることが多いのです。
そして無意識の内に「実現して欲しくないこと」を思い、
ネガティブなことの実現に期待する力を活用しています。
そこで、まず「ありがとう」の言葉を反復するのです。
「思い」は後からついてきっます。
「ありがとう」の反復によって思いを強め
「予期と期待の力」を強めることが出来ます。
そのようにして私自身に「ありがとう」の魔法をかけるのです。
編集後記
■「星の王子さま」中の一文思い出します。
「いちばんたいせつなものは目に見えないだよ。とても簡単なことだ。
ものごとはね、心で見なくてはよく見えないんだよ」
目に見えないもの
予期と期待の力、パーソナリティー、愛、友情、熱意、感謝、ヤル気、電気、
磁力、引力等々、確かにいずれも大切なものばかりです。
<感謝合掌 令和2年5月2日 頓首再拝>
《最初の10日間の心の訓練》 - 伝統
2020/05/08 (Fri) 04:45:28
*『 生長の家 』(昭和32年5月25日の法語)より
自分の「心」を支配することは結局、
自分の「人生」を支配することになります。
「心」は「意馬心猿」などと云って
最初は中々扱いにくい奔馬のようなものであります。
併し、それも、つとめて自分の想う「想い」を吟味し、
悪しき事、暗き事を思わぬような習慣附けを致しますと、
よく訓練された馬のように自由自在に
それを支配することができるようになるのです。
もっともこれは意志の問題であります。
最初の数日又は10日間は思うように「心」を支配し、
「想念」を吟味し選択することができないでも、
意志を以って、
「我れ断じて暗黒なこと、不安なこと、悪しき事を思わず」
と大決心をもって、
明るきこと、快きこと、善きことのみを思うように努力しますと、
ついには心に習慣性がついて明るきこと、快きこと、善きことのみを
思うようになれて来ます。
(『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P308~309>)
<感謝合掌 令和2年5月8日 頓首再拝>
《不景気を心に思うな》 - 伝統
2020/05/14 (Thu) 04:51:50
*「光明法語」(5月14日)より
祈りというものが
短時間の言葉で神に所謂(いわゆ)る「祈り」を捧げるものであると
思うのは間違いである。
「祈り」と云うのは魂の底ふかくその人が生命で宣(の)べているところのもの
であるから、今朝(けさ)「神の無限供給が自分に流れ入る」と念じながら、
ラジオ放送や新聞記事で世間の経済恐怖をきいて、
「こんなに不景気になってはたまらない」などと考え、
または人と人との噂話に不景気や物質の不足を話しているようなことでは、
それは「不景気」や「物質不足」を祈り顕わしているようなものである。
<感謝合掌 令和2年5月14日 頓首再拝>
《心は「実相」と「現象」とをつなぐパイプである》 - 伝統
2020/06/05 (Fri) 04:24:20
*『 生長の家 』(昭和32年5月8日の法語)より
また心は一種の「パイプ」に喩えることが出来ます。
そのパイプの一端は「実相」(無限供給の世界)につながっているのです。
パイプのもう一方の端は「現象世界」につながっているのです。
そして「供給」は、常に豊かなる「実相」から
現象世界に流れ下っているのです。
そしてそのパイプに其の流れが妨げるようなものが何一つなかったならば、
豊かなる供給は常に現象世界に流れ出て来るのです。
ところがパイプ中に何かがつまります。
悲しみが詰り、憤(いかり)が詰り、不平が詰り、
憎みが詰り、欠乏が詰る。
すると、それが流入パイプをふさぐ邪魔物になって、
実相世界の無限の供給を妨げるものとなるのです。
私たちが若し、この神の無限供給 ―― 智慧の供給、愛の供給、
生命(せいめい)の供給、富の供給、歓喜の供給、調和の供給を
邪魔しさえしなければ、無限に楽しい極楽浄土が
此の儘地上に実現するのです。
(『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P292>に収載)
<感謝合掌 令和2年6月5日 頓首再拝>
一切を受け容れる心、弾力性のある心が必要 - 伝統
2020/06/06 (Sat) 04:41:00
*「光明道中記」(6月6日《心やわらかになる日》)
【調和した念を蓄積すれば健康寿福が現れる。(『生命の實相』第十二巻)】
柔かい心で一切を受け容れること。
上等のバネ附き褥(クッション)のように、羽根布団のように、
柳の枝が風を受けるように一切を調和して受容れる心になりたいものである。
弾力性のある心こそ必要である。
一時は強いようでも相手と衝突して
脆(もろ)くも折れて了うような心にはなりたくないものである。
弾力ある心はすべてが調和して相手と自分とが調和して共同動作をなすのである。
柔かくなること。 調和ある心を為すこと。 調和ある動作をすること。
先ず他に譲ること、譲り得ないならば、次に弾ね返す力を失って了うであろう。
譲るときは人は自分に好意を感ずるだろう。
その好意を感じているときに、自分の方は相手を弾ね返すのである。
而(しか)もその弾ね返し方が非常にやわらかであるので、
相手はこちらが弾ね返したかどうかに気がつかない位である。
相手は弾ね返されながら、そのことに就いて快感を感ずるであろう。
柔かく弾ね返す褥(クッション)のように。
調和から万事が生れ、調和から万物育つ。
調和とは譲り切りに、崩れて了うことではない。
弾ね返す力がなければならない。
<感謝合掌 令和2年6月6日 頓首再拝>
《神から与えられた「生命(せいめい)」はその絞りようでどんな形にも変化する》 - 伝統
2020/06/12 (Fri) 04:46:01
*『 生長の家 』(昭和32年5月14日の法語)より
私たちの一挙手一投足が、神の智慧の流入を受け、神の智慧に導かれ、
自分自身が神の指定したまえる軌道の上におのずから載っているとき、
私たちは幸福感に満たされるのです。
しかし其の様な状態になるためには如何にすべきでありましょうか?
再び「水道の水」とゴム・ホースの喩えをもって話すことに致しましょうか。
ゴム・ホースから噴出する水は、ホースの先に色々の形の孔(あな)のあいた
金具をつけて、水の出方を絞ることによりまして、水は太い噴水のようにも、
細い噴水のようにも、霧のようになっても出ます。
そのホースの向け方によって、火事を消す働きにもなりますし、
家中水浸しにしたり、自分の顔にまともに水を浴びることにもなります。
その水は建設的にも破壊的にも使えるのです。
私たちは神から与えられたる「生命(せいめい)の水」を
破壊的に使うことを止めて、建設的に使うようにしなければなりません。
(『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P298>に収載)
<感謝合掌 令和2年6月12日 頓首再拝>
《生命(せいめい)の輸送管をふさぐ汚物》 - 伝統
2020/06/13 (Sat) 04:46:29
*『 生長の家 』(昭和32年5月15日の法語)より
私たちが、破壊的なことを思ったり語ったりするとき、
事物の暗黒面を語ったり思ったりするとき、
また私たちが利己主義の心を起こしたり、高慢な心を起こしたり、
恐怖したり、不平の念を起こしたり、自己憐愍の感情に捉えられたり、
人を憎んだり、恨んだり、悪しざまに批評して鬱憤をはらしたり、
無駄な持越苦労や取越苦労に自分の生命力を浪費したりするとき、
私たちは神から与えられた「生命(せいめい)の水」を破壊的に使う
ことによって浪費しているのです。
これらの破壊的な想念感情は、此の世界を美しい花園にするための
「生命(せいめい)の水」を流通させるゴム・ホースに、汚物をもって
栓をすることになるのです。
其処から精神的にも肉体的にも経済的にも色々の故障が起こって来るのです。
私たちは此のような心の塵をもって生命(せいめい)の輸送管を
つまらせないようにしましょう。
(『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P299>に収載)
<感謝合掌 令和2年6月13日 頓首再拝>
《心に他を呪ってはならない》 - 伝統
2020/07/11 (Sat) 04:38:07
*「真理」第九巻(P60)より
過去の自分の失敗をクヨクヨ歎いたところで何んになりましょう。
また過去の他人の過ちにいつまでも呪いを送り、憤激を続けていたとて何になりましょう。
失敗を心で描けば、次の失敗が自分の行動の内に現れて来るのです。
他の人の過ちに憤激すれば、憤激は攻撃精神であり破壊衝動でありますから、
何かと激突して事物が破壊するような結果を招くのです。
多くの不幸が、日常生活の些細な事柄から、自動車の衝突、墜落する飛行機への乗り合わせ、
工場における負傷、さては戦争にいたることごとく、人間の自己破壊衝動から起こるもの
であることが、最近の心理学では証明されるに至ったのです。
他人を攻撃する心を起こしますと、その攻撃衝動は動・反動の法則によりまして、
弾丸が飛ぶまでに薬きょう自身が破壊すると同じように自己を破壊するのです。
<感謝合掌 令和2年7月11日 頓首再拝>
あなたの運命は自身の心が造る - 伝統
2020/07/14 (Tue) 04:46:36
*『女は愛の太陽だ』(P26~27)より
美貌よりも表情の善さが男性を魅きつけるのである。
表情も態度もジェスチャーも一種のコトバである。
しかも表情は、自分の心情をあらわすコトバである。
うまれつき美貌でないからとて歎くことはないのである。
コトバは創造主である。
明るきよき表情は、よき運命を引き寄せるのである。
1分1秒間といえども、自分の心に“暗い影”をおとしてはならない。
心に描かれた“暗い影”はただちに形に化して表情としてあらわれると同時に、
現象化して、自分の運命となってあらわれるのである。
<感謝合掌 令和2年7月14日 頓首再拝>
心の「絞り」を調整する - 伝統
2020/07/18 (Sat) 04:49:12
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月18日)より
写真を写すにも、絞りを調整することによって、
その写真が上手に写ったり下手に写ったりするのである。
それと同じく現世をよくするには心の「絞り」を調整することが必要である。
内部が整うて、外界が整うのである。
何か外界に悪しきことが起こったら、まず内部を調整すべきである。
<感謝合掌 令和2年7月18日 頓首再拝>
”心” が運命の原点である - 伝統
2020/07/24 (Fri) 04:43:04
*「生長の家」(昭和51年6月6日の法語)より
~運命は課せられた労役ではない
運命というものを他から課せられた労役だと 思ってはならない。
”運命”を物質でつくった 革輪(ベ〇ト)が回転させている
「物質の歯車 」であるなどとは考えてはならない。
*〇:ル
”運命の 原点”は”自分の心”にあるのである。
”心” が運命の原点である。 ”運命の原点”である”自分の心”が
明るく輝けば、明るい運命が自分に向ってやって来るのである。
何よりも大切なのは”自分の心”を明るくす ることである。
部屋が暗いと思っていたが、実は自分が自分所有の電燈をともさなかったからだ
と気がつく人は幸いである。
誰でも自己の内に無限燭光(しょっこう)の ”霊の灯(ともしび)”が
決意を以てスイッチ を入れれば輝くような霊の実相の霊源をもっているのである。
(http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1363)
<感謝合掌 令和2年7月24日 頓首再拝>
心が完全に動くと、適時、適所、適人となる - 伝統
2020/07/25 (Sat) 04:26:23
*「光明法語」(7月25日)より
~ 適時、適所、適人
生長の家は毒物を食しながら、心で「これは毒物ではない、栄養食品である」と
思念しながら食べたら、毒が変じて栄養となると云うのではない。
心が完全に働けば、本来食物でない物(毒物と仮に称す)を食べなくなるのである。
そして食物の分量や質の配置なども適当となり、すべてが《ある》べきところに
《ある》ように適当におかれると云うのである。
神の創造には、一物も「悪い物」はないのであって、悪く見えるのは、
それを置く場所と時と人とが適当でないからにすぎない。
<感謝合掌 令和2年7月25日 頓首再拝>
自分の心通りのものが引き寄せられる - 伝統
2020/07/27 (Mon) 03:45:39
*『生長の家』(昭和25年6月14日の法語)より
吾は 吾が内に吾が求むるもののすべてをひきよせ、
すべてを生みだす力があることを知ったのである。
もし悪しきものが目の前に現れて来た時には、
それは自分の心の中に、それらをひきよせる心の波があるからだと知れ。
現象の悪しき姿にとらわれて、それを払いのけようとして
心にその 「 悪しきもの 」 を描く限り、「 悪しきもの 」 は去らないのである。
神を思いおこせ。
かくの如(ごと)き悪しきものは、存在せずと念ぜよ。
然(しか)もいつまでも念ずる必要はないのである。
「 み業は神がなし給う 」 と信じて、後は 神に任せきれ。
<感謝合掌 令和2年7月27日 頓首再拝>
物質の原因は心である - 伝統
2020/08/02 (Sun) 03:42:54
*「光明法語」(8月2日)より
原因あって結果来る。精神科学も物質科学も同様である。
物質科学は物質にのみ原因をもとめるが、
吾らは、その物質は如何にして生じたるかを追求し、
それがエネルギーの波動であることを明らかにし、
そのエネルギーの波動は、智慧あり秩序ある
エネルギーの波動であることを明らかにし、
智慧あり秩序あるエネルギーとは、
物質的なるものではなく、心的なるものであることを明らかにし、
心によって物質の変化することを明らかにし、
心によって健康と運命をと支配するのである。
<感謝合掌 令和2年8月2日 頓首再拝>
心の中の複雑混迷 - 伝統
2020/08/03 (Mon) 04:28:42
*「光明法語」(8月3日)より
精神科学の研究家は、病気の大部分は殆どすべて心に根源を発し、心によって病み、
心によって癒される事を知る。
併しながら、それは決して、「病気になる」と思ったから病気になり、
単に「病気は無い」と想ったから治ると云う様な単純なものではない。
病気なんて一切考えないのに病気になった人もあり、心はその儘で一時治る人もある。
人間の心の内部にはもっと複雑な混輻輳(コンプレックス)があるのである。
この混雑輻輳(ふくそう)極まりなき心の解剖とその浄化こそ真に癒す道である。
<感謝合掌 令和2年8月3日 頓首再拝>
病気の種と土壌 - 伝統
2020/08/04 (Tue) 04:43:09
*「光明法語」(8月4日)より
病気のもとは、概ね複雑なる感情の抑圧から来る。
恐怖、不安、嫉妬、憤怒、悲哀、貪欲、惜しみ、憎み、口惜しさなどが
心の中には《ほどかれ》ないで残っているのが原因である。
子供の時の心的印象や、親からの衛生思想や、社会全般の通念や、そんなものが種子(たね)と
なり、その時その時の感情の混雑がその種子を培う土壌となって発芽する。
友人の話しや、家族親戚などの噂などが肥料となることもある。
時とすると通俗医学書の病気の露骨不快な説明も病気発芽の促進剤となる。
<感謝合掌 令和2年8月4日 頓首再拝>
形の病気は内部の動揺の影 - 伝統
2020/08/06 (Thu) 04:43:59
形の病気は内部の動揺の影
*「光明法語」(8月5日)より
時とすれば、新聞広告にある栄養剤の広告や病状の説明やが、
知らず識らず「病気」の観念を植えつけて病気を起こす事もある。
健康に対する注意を与えられて、
その注意が却って病気の恐怖を植え付ける事もある。
植え付けられた病念の種子が、形の世界に芽を出して病気となるのである。
形の病気は内部的心の動揺の影である事が多い。
名医にかかるとか、舶来の新薬とかを用いると、
その事による注意の転換と安心とか、
内部的心の動揺を一時しずめて病気を治す事もある。
・・・
外部治療の効果は
*「光明法語」(8月6日)より
如何なる外部治療も、根本的に其の人の内部精神の
不安動揺その他の混輻輳(コンプレックス)を治療する事は出来ない。
ただ内部精神の混乱より来る結果を修正するのである。
その修正だけでも尊い事であるから
医術を攻撃する事も非難する事も要(い)らない。
ただ医術を信頼するのあまり、内部精神の混乱動揺を
そのまま解決しないで置く事が悪いのである。
医術で結果を修正せられて、一時病気が去った様に見えながら、又再発するのは、
心の中にある病的種子が根本から抜き取られていないからだ。
<感謝合掌 令和2年8月6日 頓首再拝>
「心」の中にある運命 - 伝統
2020/08/13 (Thu) 04:35:53
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月13日)より
一つの結婚に破れて、「惜しいことをした。あそこまで進んでいたのに。
あの人が要らぬ口添えをしたからだ」などと後悔する者は愚かなる者である。
成らない結婚は、それは成らないことによってそれは良かったのである。
だれかの少しの口添えくらいで破壊するような結婚は砂の上に建てられた家のようなもので、
結婚してからも少しの風波に揺られると破壊したかもしれないのである。
結婚してから、夫婦関係を破壊するのは遅すぎる。
破壊するなら婚前のちょっとした問題で破壊したが良かったのである。
物の成ると成らざるとは、「誰かがどう言った」などのことに原因があるのではない。
不思議なその人おのおのの「心」の中にある運命が招(よ)び寄せる力が、
ある運命を反発し、ある運命を磁石のように吸い寄せるのである。
<感謝合掌 令和2年8月13日 頓首再拝>
心の王国を征服する - 伝統
2020/08/14 (Fri) 03:00:10
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月14日)より
世界を征服することは偉大であるが、
まず自分の心の王国を征服することはいっそう偉大である。
ます自分の心の王国を征服し、自分の心に真理を実現すれば、
一家に平和は来たり、一家に平和来たれば近隣相和す。
近隣相和せば、一町一村に平和来たり、
一町一村に平和来たれば、一群一県に真理来たる。
一群一県に真理来たれば、国家はじめて正法に立脚し、
国家正法に立脚すれば四隣の国おのずから相和し、
四隣の国おのずから相和せば、もって世界の平和を招くに足るのである。
<感謝合掌 令和2年8月14日 頓首再拝>
心は、微生物や病菌にも影響を与える - 伝統
2020/08/16 (Sun) 04:03:35
*「光明法語」(8月15日~16日)より
八月十五日の法語 微生物と念の感応
近頃、柴田酵素や渡辺酵素で肥料を速成して、
その施肥効果により二倍増産三倍増産を得る事が可能であると説くものがある。
実際試みて何等効果がなかったと言うものもあり、効果著しかりしと言うものあり、
批評まちまちであって一定の結果を得ない。
農事試験場では実際上効果なしとして一旦否定したるも、
此の種民間の評判高き故、もう一度実験して見ると云うことである。
酵素は微生物の生産物である。
微生物は人間の念に感応し易い。
念によって効果を異(こと)にするは当然である。
・・・
八月十六日の法語 斯く心は病菌に作用す
嘗て、千葉大医科と、慶応大医科とで、チフス菌は鼠の腸内にて殺菌消化されて
形を止めなくなると言い、一方は然らずと言い、両大学にて各々実験を行い、両方とも自己の
主張する通りの実験の結果を得、孰(いず)れにも勝敗決せずして物別れになった事があった。
同一程度の重症の結核患者で、一方は暗く悲哀と絶望の精神をもち、
他方は明るく楽天的なる精神をもったとせよ。
明るき楽天的なる精神の者は快方に向かい、
悲哀と絶望に沈みたる者の結核菌は益々繁殖して病は増悪する。
<感謝合掌 令和2年8月16日 頓首再拝>
「心」が万事に先行する - 伝統
2020/08/22 (Sat) 04:32:53
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月12日)より
列車に乗ってその列車が転覆したからといって、
その列車に乗せた駅員が悪いのではない。
転覆するような列車に乗るのは、乗ったその人自身に
その列車に乗るようになっている「心」があったからである。
「心」が万事に先行するとういうことを知る人は不幸に逢っても、
他を憎んだり恨んだりするものではない。
自分の「心」がそれを造ったということを知っているからだ。
列車に乗って不慮の災難に逢うことも、
人の口車に乗って不幸に陥ったり物事が失敗に終わるということも、
「乗る」のは、自分がその乗物に引きつけられて乗ったのだから、
自分自身の「心」の中に原因があるのである。
他(ひと)が「悪い、悪い」と思っている人は、
要するに責任を他(た)に転嫁する卑怯者のことである。
人間は強くなるにしたがって、いっさいの原因を自分自身に帰するようになる。
そして聖者と言われるほどの人になると、衆生の一人でも
まだ苦しんでいる者があると自分自身の責任だと感ずるものである。
世界のすべての人類が「光明思想」を知らず、また知っても十分実践せず、
不幸に沈淪(ちんりん)している者があるのは、
わたしの宣伝が足りないからなのである。
皆わたしの罪なのである。
<感謝合掌 令和2年8月22日 頓首再拝>
心に化粧せよ - 伝統
2020/08/24 (Mon) 03:52:14
*「光明法語」(8月23日~24日)より
八月二十三日の法語 容貌を美しくするには
ロックフェラー研究所の外科医長カレル博士は言う、
「容貌の特徴は、皮膚の下の脂肪の中で動く筋肉の状態で定まる。
是等(これら)の筋肉の状態は吾々の思想感情の状態によって定まる。
人は各々望み通りの顔附(かおつき)表情をする事が出来る。
けれども其の顔附、表情をば永久に被(かぶ)っているわけには行かない。
併し、吾々の知らない間に吾々の顔附は
心の状態によって少しずつ作られて行くのであり、
年をとるにつれて益々はっきりと
人間全体の感情や欲望や希望一切の看板の様になる」と。
・・・
八月二十四日の法語 心に化粧せよ
誰でも容貌の美を希わない者はないであろう。
顔は吾々の心の鏡である。
白粉(おしろい)でいくら塗っても、
その精神の下劣さは隠すことは出来ない。
「顔は精神の活動よりも、もっと深いものを現す。
人間の顔には、その人間の悪徳や、美徳や、理性や、知識や、
愚かさや、感情や、最も隠された性癖や、さらにその上の全肉体の構造や、
質や、生理的、心理的病気の傾向まで現れる」
とカレル博士は更に言っている。
誰も隠すことは出来ないのである。
天知る、地知る、自分知るである。
<感謝合掌 令和2年8月24日 頓首再拝>
愛憎を離れた平等の本心 - 伝統
2020/08/27 (Thu) 04:45:36
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月27日)より
愛するも憎むも心であるが、それは本心ではない。
愛憎の心は妄心である。
妄心とは本来”ない”心である。
本心は愛憎を離れた心である。平等の心である。
愛憎を離れた平等の本心のみ、よく自己の心中の敵を殺し、
自己の内なる敵を殺す者よく自己の外に敵手を必殺する。
無敵流の兵法の極意はここにある。
<感謝合掌 令和2年8月27日 頓首再拝>
《先ず「心」を変えて御覧なさい》 - 伝統
2020/09/03 (Thu) 04:43:25
*「眞理」第2巻基礎編第6章(P176~177))より
貧乏や病気や不幸は存在しないと云っても、
それは体験として感じられるものであるから、それを否定するのは
人生を否定するものだと云う反対論をとなえる人もある。
けれども、「体験」とは一体何であろうか。
「心」が原因であり、「体験」は結果なのである。
だから「心」が変化するならば「体験」も変化して来るのであるから、
「体験」と云うガッチリした不変の塊が存在すると云う訳ではないのである。
あなたの心を一変させて御覧なさい。
家族同士の間は実に仲良く楽しい状態になります。
会社のすべての人に喜ばれるようになります。
昇進が早くなります。
思わぬ資本家が来て新しい事業を勧めてくれたりします。
商売に新しいルートが開かれ、すべてが好都合にまいります。
このように心が変われば体験がかわるのであるから、
体験として如何に貧乏や病気や不幸が感じられていても、
それは「無い」と断言して差し支えないのである。
<感謝合掌 令和2年9月3日 頓首再拝>
《客観世界は自分の心の具象化である》 - 伝統
2020/09/12 (Sat) 03:27:36
*「眞理」第2巻基礎編第6章(P179~180)より
この世界は波動の世界であって、
波動が形にあらわれて映画のようにあらわれているのである。
其処には類似の波長のものが相集って来て、
それがやがて形にまで実現するのは、テレビのようなものである。
その波動を招(よ)びよせるのは、自分の心の波長であるから、
謂(い)わば自分の心の波動の具象化が客観世界であるのである。
だから自分の心を変化せずにおって客観世界を変化しようと思っても、
決して客観世界は変化しないのである。
位置を変え、場所をかえて見ても
矢張り同じような状態が其処にあらわれるのは、
自分の心の波長と同じものを引き寄せるからである。
習慣的に如何なる波長を自分が起しているかそれが問題である。
常に神想観して心の習慣的波動を明るくしなければならぬ。
<感謝合掌 令和2年9月12日 頓首再拝>
《心を明るくすること》 - 伝統
2020/09/19 (Sat) 04:23:44
*「眞理」第2巻基礎編第6章(P109~110)より
何事が起って来ようとも、一度や二度失敗しようとも、
明るい魂の人々は、それによって屈服せしめられてしまう
と云うことはないのである。
失敗には失敗の原因があり、
その失敗の原因を知ることそのことが、
次に失敗しなくなる前提となるのである。
失敗は成功の基(もとい)と云うことは
千挫百折(せんざひゃくせつ)しようとも、
明るい心の持主に於いてのみ言い得ることである。
すべて躓(つまづ)きと云うものは暗い処に起るのである。
心の中に灯(ひ)を点(とも)しているものは、どこに躓き石があるか
と云うことをいち早く知ることが出来るのである。
心の暗い者にはそれが出来ない。
心の暗いものは「類を以て集る」と云う心の法則に従って、
兎(と)もすれば、却って暗い暗い処へ引き寄せられ、
みずから進んで躓き物に引っかかって顛落(てんらく)することになるのである。
<感謝合掌 令和2年9月19日 頓首再拝>
《自己に打克つ者が最大の強者である》 - 伝統
2020/09/29 (Tue) 04:46:03
*「眞理」第2巻基礎編第6章(P116)より
自己の心を支配する者のみ、
自己の運命を支配することが出来るのである。
人間の心は誠に複雑なものであって、
自分の心の中に自己を不幸や貧乏に突き落とす「自己破壊」の
獅子身中の虫のような心があるのである。
これをカール・A・メニンジャーは「おのれに背くもの」と言っている。
この「自己破壊」の心が、中(なか)から催してくるところの破壊活動が
謂わば「癇癪」であったり、「叱言(こごと)」であったり、
「同情を求める心」であったり、「病気になりたい心」であったり
「懶(なま)けたい心」であったりするのである。
この「自己破壊の心」は、「本当の自分の心」ではないけれども、
自分の中(うち)から催して来るから、往々にして
「自分自身の願(ねがい)」であるかの如く錯覚される。
自己に克つ者は最大の強者であると言うのは
自己破壊の「ニセモノ」の自分に打ち克つからである。
<感謝合掌 令和2年9月29日 頓首再拝>
物質の粒子の配列をかえるのは 心の力 - 伝統
2020/10/13 (Tue) 04:55:14
*『生長の家』(昭和25年6月25日の法語)より
自分が神の子であり、
内在のキリストこそ 自分自身であるということが自覚されるならば
すべてのことは よき方向に動き始めるのである。
もし吾々の健康が思うようにならぬならば
自分が神の子であるという信仰がたらぬ結果にすぎぬのである。
すべて物質の分子や、原子や、原子を構成している電子等は、
それ自身では自由に運動することができないのであって、
それを支配する波によって動いているのであるということは
新しき物理学の教える所である。
物質の微粒子の集りでできている肉体も
心の波によって どうにでも変化するのである。
(http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2)
<感謝合掌 令和2年10月13日 頓首再拝>
精神は互いに感応する - 伝統
2020/10/18 (Sun) 04:54:46
*「光明法語(10月18日)」より
眠っている子供の枕元で数学の公式を幾度も唱えて聞かせて、
覚めてからその数学の公式を思い出させると完全に暗誦し得たと云う実例もある。
リーテル・ブルバンクは自分の妹に会いたいと思うとき手紙を書かないで、
思念で「今日はお前に会いたいんだが」と念じたら必ずその次の列車で
その妹はブルバンクのところへやって来たと伝えられている。
夫婦の思いが互いに感応した実例は沢山ある。
妻があやまる気になったとき、夫が妻に済まぬと思うようになった例も多い。
<感謝合掌 令和2年10月18日 頓首再拝>
心の照準は現在意識 - 伝統
2020/11/08 (Sun) 04:33:00
*「光明法語」(11月8日の法語)より
「我みずからにては何事もなし得ず、
天の父われに在(いま)してみ業をなさしめ給うのである」
とイエスは言った。
癒すのは「天の父」即ち神であり、われではないのである。
われは、心の照準を定めて引金を引くだけである。
心だけ正しい方向にむけて神の力の自働するのに任せて置けば好いのである。
みわざは内在の爆発力がなし給うのである。
内在の爆発力とは、神である。
照準を定めるのは現在意識であり、
現在意識の志向を潜在意識の中まで落すのが、
「引金を引く」ということである。
<感謝合掌 令和2年11月8日 頓首再拝>
「心はすべての造り主」 - 伝統
2020/11/23 (Mon) 05:01:03
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月23日)より
人間の心の思いは動力であることを知らなければなりません。
心に描いたことが形にあらわれるのであります。
このことは何度繰り返しても繰り返しすぎるということはないくらい
重大な問題なのであります。
キリストは「まず神の国と神の義(ただしき)を求めよ。
その余(よ)のものは汝らに加えらるべし」
と教えられました。
具体的に現実世界に善きものが現れてくるに先立って
まず心の世界に、神の国を描くことが必要なのであります。
「もし芥子種ほどの信だにあらばこの山に動いて
海に入れと言うといえども必ず成らん」
とキリストが言われたのも、
実現に対する信仰が心の世界に打ち建てられれば、
神の国にあるいっさいのものがこの世に実現するということであります。
すべての地上の建造物は、
まず建築家の心の内に描かれたものが実現したのであります。
原子爆弾といえども科学者の心の内に描かれたものが実現したのであります。
「心はすべての造り主」と言われている所以(ゆえん)であります。
物質はみずから自発的に動いて一定の形をとることはできません。
湯呑みが勝手に歩いたり、万年筆が勝手に動いて文章を書く
ということもありません。
ブランシェット(心霊現象の自働書記でお筆先を書く道具)が
自働して文字や絵を書くのは、その道具が勝手に動くからではなく、
それを動かす霊があるからです。
われわれの肉体細胞の成分が一定の姿に配列されて
健康になるのも病気になるのも皆心の働きです。
<感謝合掌 令和2年11月23日 頓首再拝>
心の波を道具として、神の子の理念を実現せよ! - 伝統
2020/11/24 (Tue) 03:21:06
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月24日)より
生命(せいめい)なき物質と、生命ある有機体との間にはけざやかな相異があるのである。
それが等しく炭素と水素と酸素と窒素等の化合物であるにしても、それに生命(いのち)
が宿らない間は、その分解・結合の状態はいつまでも無機物的な方向において行なわれる。
いったん、それに「生命(せいめい)」がやどるとき、全然異なる分子の分解・結合が
行なわれ、一定の「理念」(または精神的原型)にしたがってあるいは
絢爛(けんらん)たるバラの花となり、
清楚(せいそ)なる百合(ゆり)の花となる。
イエスはその生命(せいめい)の力の不可思議さを見よという意味で
「野の百合はいかにして育つかを見よ」と言ったのである。
すべての生物は、野の百合にせよ、垣根のバラにせよ、
そこに「生命(せいめい)」が宿っているのである。
「生命(せいめい)」の一つの特徴は、物質の分子の配列を、自己の「理念」または
「精神的模型」の秩序にしたがって、新しく再配置する力をもっていることである。
それは物質それ自身の性質を利用しつつ、新たに自己の理念または精神的模型を
造形しゆくこと、あたかも美術家が、絵の具それ自身の性質を利用しつつ、
自己の内にある「美の精神的模型」の姿を造形してゆくようなものである。
宇宙精神の低次にして、受動的あらわれたる物質は、宇宙精神の高次にして
優位なるあらわれなるいわゆる「生命(せいめい)」に対してはただ素材を
提供するのみであって、物質が生命(せいめい)
を左右することはできないのである。
逆に生命(せいめい)は自己の「心の波」を道具として、
物質の分解・結合の状態を変化し、自己の理想を表現するのである。
野の百合のごとき比較的低き植物階級の生命(せいめい)にしても、
物質それ自身の配列状態を克服して自己の理念の姿を表現することができているのに、
人間という宇宙精神の最高顕現たる生物が物質の世界を克服して、
健康の上にも、経済の上にも発明の上にも自己の理念の姿を表現することが
できないということはありえないのである。
諸君の健康が薄弱であったり、経済的に窮迫したりするのは、
「人間」の天爾(てんに)の「神の子」たる「完全模型」をみずから主張しない
からであって、それは『法華経』にある大通智勝如来が十劫の間(あいだ)道場に
坐してなおさとりを開かなかったのと同じである。
大通智勝如来は、本来全能の大通力と全智の智勝(ちしょう)とをそなえていながら
みずから進んでそれを自覚しないから、自分の実相の完全さがあらわれないに
すぎないのである。
諸君がひとたび自己内在の大通力を自覚しそれを実現しうることを信じて、
たゆみなく精進努力をつづけるならば必ずやあらゆる方面において
人間完全・神の子実相が実現するに相違ないのである。
<感謝合掌 令和2年11月24日 頓首再拝>
いかに「自分発振」でよき運命をつくるのか。 - 伝統
2020/12/09 (Wed) 04:41:46
*メルマガ「人間力」(2020.08.06)より
~『致知』9月号(2020.09月)
思いは現実化する、とは昔から多くの先賢が説いてきたことです。
それを量子力学の分野から説明し、
塾やセミナーで多くの方の人生を好転させてきたのが、
開華GPE代表理事の村松大輔さんです。
(村松)
キーワードは「自分発振」です。
私が人生を模索する中で出合った量子力学という学問では、
意識や感情にはちゃんと実体があって、
フォトンという素粒子でできていることが明らかにされています。
私たちは普段から無意識のうちに
フォトンに意識や感情という情報を載せて発振、
つまり波を飛ばしているんです。
ですから「嬉しい!」と思えば、
フォトンも嬉しいの振動を帯びて発振され、
「ムカつく!」と思えば、ムカつくのフォトンが発振されていきます。
(―― 目には見えなくても、
自分の思いに応じた素粒子が常に発振されているのですね。)
(村松)
ゼロポイントフィールドというすべての根源となる場から、
瞬間、瞬間に生み出されているんです。
ですからこの部屋の中にも、テレビの電波や携帯電話の電磁波と共に、
いろんな意識や感情を帯びた素粒子、フォトンが飛び交っているんですよ。
そしてフォトンが波として飛んでいくと、「共振」といって、
同じような周波数の波が反応して返ってきます。
先ほどの譬えに補足して説明すれば、
「嬉しい!」という高い周波数のフォトンを発振する
と嬉しい現象が共鳴して返ってくるし、
「ムカつく!」という低い周波数を発振すれば
ムカつく出来事を呼び寄せてしまう。
結局、私たちの人生は
自分が発振した波の通りに現実化しているわけです。
・・・
<参照Web>
【自分発信】量子学的生き方 村松大輔のブログ
https://ameblo.jp/daimular208729/
<感謝合掌 令和2年12月9日 頓首再拝>
心の世界に価値を実現する - 伝統
2020/12/13 (Sun) 04:42:14
*「生命の實相」幸福篇下巻(12月13日)より
唯一の成功とは価値あるものを実現するということである。
みずから省みよ。
なんじは今の生活において、今の行為において、今の思いにおいて、
価値あるものを実現しつつあるか。
価値あるもの以外のものを追求しつつあったならば、
即刻その生活を更(あらた)めなければならぬ。
では、実現とは何であるか。
物質状態に現われることのみを実現と観るときには、
人間は物質目的のみの追求者となって、
心的態度は一種の功利的手段となり、唯心論者でありながら、
いつの間にか唯物論者に堕(だ)していることがあるものである。
価値の実現とは《心の中にある》ことを知らねばならない。
オスカー・ワイルドの言ったように、
ロンドンの霧は詩人がこれを詩に表現したときに、
初めてその価値が実現したのである。
《それまでにも》ロンドンの霧は《物質としては》存在したのであるが、
心がそれを認めない間は、ロンドンの霧は《価値》としては
存在しなかったのである。
価値だけが価値であって、そのほかのものは価値がない。
このことが判明したならば、物質そのものを追求することは
愚かなことであることがわかるであろう。
われらは心の世界にさえ価値を実現すればよいのである。
価値は心の世界にのみある。
われらは愛と美と善と智慧と赦しと寛容と・・・
それらの心の中の価値を心の中に実現しさえすればよいのである。
それは主観的価値(こころだけのかち)のみであって、
客観的価値(ものそのもののかち)ではないと考える人もあろうが、
そうではない。
客観(もの)は主観(こころ)の投影(かげ)であるから、
主観(しゅかん)が成就したら必ず客観(きゃっかん)が成就するのである。
主観(しゅかん)の価値が成就しないで、
客観(ものだけ)の成功を希(こいねが)うものは、
やがて土崩瓦解(どほうがかい)してしまうのである。
<感謝合掌 令和2年12月13日 頓首再拝>
心の世界に価値が成就することから、本当の成功が得られる - 伝統
2020/12/14 (Mon) 06:42:00
*「生命の實相」幸福篇下巻(12月14日)より
静かに省みて、心が喜べるのが成功である。
心にやましい何物かが感じられるかぎりは、まだ心の世界に価値が成就していない。
たといそれが形の世界で成功したように見えていようとも、
それは砂の上に建てられたる楼閣のごときものである。
ただ価値のみが価値である。
人の世に何か《ため》になることを成すこと。
それは物質的に残るべき何物でなくともよい。
それを措いて成功はない。
本当の成功は、偶然でも僥倖でもない。
われわれの心の中に把持されたる決意であり、決意の持続である。
それは偶然とか僥倖とかいうものによって左右されるような他動的なものではない。
それは今、みずからが決意したとき得られるのである。
<感謝合掌 令和2年12月14日 頓首再拝>
調和の心と、強さの心 - 伝統
2020/12/23 (Wed) 04:43:23
*「光明道中記」(12月23日《明朗歓喜の日》)より
【 朗らかに笑って生きよ。陽気の充ちた家は必ず生長する。
(『生命の實相』第四巻)】
人間の貧しき原因は、彼の心の不調和より来るのである。
彼の心の弱さより来るのである。
心不調和なれば、事業に於いても仕事に於いても
精確なる判断をすることが出来ない。
また適当に物事を推し進めることが出来ない。
すること為すこと不適当となるのである。
心弱ければ最後の踏ん張りがきかないで
肝腎のところで崩折(くずお)れて了うのである。
また心弱ければ思い切るべき時、思い切ることが出来ず、
果断である時に果断であることが出来ない。
失敗すべきことに何時(いつ)までも恋々としていて
新生面を開くことが出来ない。
成功の要素として欠くべからざるものは、
調和の心と、強さの心とである。
では調和の心は如何にして養い得るか。
すべての隣人と調和することである。
先ず自分の家族、親類等と仲よくなることである。
これらの人々と調和することによってのみ、
吾々は神と調和することが出来るのである。
神と調和することによって、神からの叡智が流れ入る。
神からの叡智が流れいることによって、
押し進むべき時には勇敢に押し進み得、
退(しりぞ)くべきときには調和して退き、
思い切るべきときには果断に断念し得るのである。
<感謝合掌 令和2年12月23日 頓首再拝>
脳髄から発する精神力は、生命の前哨戦に立つ斥候のようなもの - 伝統
2021/01/06 (Wed) 06:22:12
*「光明道中記」(1月6日《父と偕(とも)にある日》)より
【我れみずからは何事もなし能(あた)わず、
父は子を愛してその為す所を悉く子に示し給う。(ヨハネ伝)】
精神力とか心の力とか言われるものは、語(ことば)の使い方にもよるが、
概(おおむ)ね本源の力を指すものではない。
それは本源の力が脳髄的ラジオセットに触れて副次的に反射して生じた力である。
それはラジオセットに生じた一種の電磁気的波が
放送局の波を捉えて吾々に美しい音楽を聞かせてくれるかのように、
宇宙本源の霊の力を捕捉(キャッチ)する媒介になる。
併し、吾々の心が何事をも為すのではなく、それによって捕捉せられたる
宇宙本源の霊の力がすべての事を為すのである。
所謂る精神力が第一次的生命そのものでないのは、
脳髄を破壊すれば精神力はあらわれなくなるので明らかである。
併し、精神力が消えようとも、脳髄を創造(つく)った力は消えるものではない。
精神力が現れない前に脳髄が造られたのである。
甲の脳髄が破壊されて、甲の精神力が消えたときにも、脳髄を創造ったところの
神秘なる生命力はまた乙の脳髄、丙の脳髄を創造り出すのである。
脳髄から発する精神力は、生命の前哨戦に立つ斥候のようなものなのである。
併し斥候だからとて軽んじてはならない。
斥候の指し示すところへ本隊は導かれて進む。
<感謝合掌 令和3年1月6日 頓首再拝>
知ることは力である - 伝統
2021/01/23 (Sat) 02:37:17
*『 生長の家 』(昭和24年1月6日の法語)より
知ることは力である。
どんな立派なラジオセットがあってもスイッチを入れることを知らず、
波長を合わすことを知らなければ、なんの役にも立たぬ。
吾々は想念を如何に持つべきか、想念とはどんな力があるかという事を
充分知ってそれを使わなければならない。
すべて肉体の病気は無論のこと、
貧乏も、家庭の不調和も、社会的不調和も
悉く心の力を知らないからおこる。
釈迦が 「 知っておかす罪よりも知らずにおかす方の罪が重い 」 といったのも
無知の罪が、知りながら犯す罪よりも甚だしい害を与えるからである。
https://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12018768.html(消滅)
http://meikyou123.livedoor.blog/archives/4983079.html
<感謝合掌 令和3年1月23日 頓首再拝>
すべてを受ける心は既に強い心である - 伝統
2021/02/15 (Mon) 02:23:43
*「光明道中記」(2月15日《卑怯を捨てる日)より
【自己弁護したい心は卑怯なる潜在意識の作用であって、多くの人を病気にしている。
(『生命の實相』第四巻)】
同情を求めたい心は病気を招き、不幸を招び寄せる。
みずからを弁護したい心は弱者の心である。
それは既に弱き心であるが故に肉体も傷つき、病気に罹る。
それは既に病気の心であるが故に、そんな心の持ち主が病気に罹り易いのは当然である。
すべてを受けると云う心の中には、すべてに対抗するだけの強い自覚がある。
すべてを受ける心になったとき病気が治り易いのは、
すべてを受ける心は既に強い心であるからである。
「お前がこんなことをしたからこんな結果になった」とは、
家庭でも会社でもよくあり勝(がち)な争いの原因である。
そんなに罪を押しつけられたら、進んで罪を引き受けようと思っていてすらも
反抗的に「私にそんな責任はありません」と言いたくなる。
彼が「失敗(しま)った」と思っているとき、
尚追求するのは武士の情(なさけ)を知らぬものである。
彼が「失敗(しま)った」と思って悔恨の情にかられているとき、
「君が悪いのではない、私が悪いのだ」と他から言われたならば、
その人は何ぼう感激して善に復帰するだろう。
<感謝合掌 令和3年2月15日 頓首再拝>
《無意識の心的影響》 - 伝統
2021/02/19 (Fri) 04:51:55
*「光明法語」(2月19日)より
吾々の人々に与うる影響は、意識的に与うる影響よりも、
無意識的に与えている影響の方が強いのである。
意識的に相手に好(よ)き影響を与えようとして一所懸命相手に深切丁寧をつくしても、
心の中に反感や、嫌悪の念や、けむたがるような感じをもっている限りは、
相手は決してこちらに対して好感をもってくれるものではないのである。
世間によくある姑を恐れつつ、しかも形の上では丁寧慇懃をきわめながらも、
却ってギコチない感じを姑にあたえて、姑からいじめられている嫁の如きはそれである。
<感謝合掌 令和3年2月19日 頓首再拝>
空想の世界で自分自身の感情を弄ぶことがないように - 伝統
2021/02/27 (Sat) 04:48:59
*「光明道中記」(2月27日《人を疑わぬ日》)より
【婦人に於ける病気はその原因を辿ってみると、概ね感情生活に起因する。
(『百事如意』)】
私が関西へ移転するかもかも知れぬと云う記事があったので、
若し先生に関西へ移転せられたら、私の熱心が足らぬからであるから、
自殺すると言って手紙を寄越した人があった。
私はその手紙を見ないで内容を秘書から話して貰っただけであって、
その人のことを男性であると思っていた。
この人は度々栞(しおり)に日本画をかいたり、
押し花を封じ込んだりして無名の「一誌友」として
手紙を寄越す人なのである。
暫くすると、同じ筆蹟で
「先生にあんなに手紙を差し上げたのは純粋な宗教的思慕の念
であったのに、それを求愛であると誤解せられたのは誠に心外である
から、この手紙を以て生長の家との訣別の辞とする」
と云う手紙が来たのである。
今度の手紙の内容で女性であることが始めて私に判ったのである。
どちらにしても私に何の関係もない空想の産物である。
時として女性と云うものは、空想の世界で、
自殺や、恨みや、憤(いか)りを創作して楽しむものでのである。
空想の世界で自分自身の感情を弄ぶのが此の種の人の病気なのである。
当り前のことが当り前に喜べるようになる迄
その人の病気は癒えないのである。
<感謝合掌 令和3年2月27日 頓首再拝>
《先ず心の平和を求めよ》 - 伝統
2021/03/13 (Sat) 04:57:31
*「眞理」第2巻基礎篇第1章(P4)より
心の平和の中にはすべてのものが含まれているのである。
「心さえ平和であれば、貧乏で食べる物がなくても好いと言うのか。
それは貧乏の苦しみを知らざるものである」
と私に反撃して来た人があった。
真に心の平和のある処には必ず繁栄の智慧が湧いて来るのである。
イライラして、慌(あわただ)しい心で繁栄する方策を考えよう
と思っても、その考えた計画は、そのイライラしさを反映した
「てんやわんや」のものとなって決してスラスラと遂行出来なくなるのである。
心の平和の下(もと)で企画される仕事は、
明るい太陽の下(もと)で仕事をするように行き届くのである。
心に平和がなくてする仕事は
太陽のない暗(くら)がりでする仕事のように
不完全な見残しがあるのである。
<感謝合掌 令和3年3月13日 頓首再拝>
どんな破損でも摩滅でも「心」で細胞を修繕し得る - 伝統
2021/04/07 (Wed) 04:56:19
*「光明道中記」(4月7日《必ず知人一人を光明化する日》)より
【五官に顕れる状態で喜悲(きひ)する者は
五官を信じているので神を信じていない。(『生命の實相』第十一巻)】
眼は物を視(み)ない、耳は音を聴かない、脳髄は《もの》を考えない。
視るのは心であり、聴くのは心であり、考えるのは心である。
心は自分の便宜のために眼を創造し、耳を創造し、脳髄を創造したのである。
ここに言う「心」とは脳髄から出る作用ではない。
脳髄を設計したところの「心」である。
それは脳髄以前の「心」であるから「生命」と同意義に解しても可(よ)い。
「生命」は《常に》ある。
併し脳髄は破壊する。眼球も破壊する。聴官も破壊する。
併し、破壊するものは《常にある》ものではない。
途中から造られたもの、暫定的なもの、ただの機関に過ぎないもので、
「生命」そのものではない、「人間」そのものではない。
人間は死なないものである。
常に破壊しつつある機関の中にあってそれを操縦しながら、
永遠に死なないところの機関手が「人間」なのである。
その機関の材質は、「固定的な物質」で出来ているものならば、
それが摩滅し、摩損したときに取換に不便であるかも知れぬが、
それは「エーテル」と一時科学者が名付けたところの
「無」を材質として、それを心の波でどんな形にでも造構したものであるから、
どんな破損でも摩滅でも「心」でそれを修繕し得るのである。
<感謝合掌 令和3年4月7日 頓首再拝>