伝統板・第二

2563327
本掲示板の目的に従い、法令順守、せっかく掲示板社の利用規約及び社会倫理の厳守をお願いします。
なお、当掲示板の管理人は、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経以外については、
どの著作物について権利者が誰であるかを承知しておりません。

「著作物に係る権利」または「その他の正当な権利」を侵害されたとする方は、自らの所属、役職、氏名、連絡方法を明記のうえ、
自らが正当な権利者であることを証明するもの(確定判決書又は文化庁の著作権登録謄本等)のPDFファイルを添付して、
当掲示板への書き込みにより、管理人にお申し出ください。プロバイダ責任制限法に基づき、適正に対処します。

衣を更えて~「生命の實相」第37巻幸福篇上2月 - 伝統

2020/02/01 (Sat) 03:03:12

光明掲示板・第二消滅に伴う、
伝統板・第二 への再掲示です。


眼はその人の心と運命を現している

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月1日)」より

人に逢うて何かなつかしく、いつまでもその人と話していたい
と思える人と、そうでない人がある。

眼の光のなごやかな人と、鋭い人と、温かい人と、冷たい人と、なんとなく凄い人と、
狡(ずる)そうに見える人と、人間にもいろいろあるものだ。

ひらいた心の人でないと明るい眼の人にはなれるものではない。
幼児(おさなご)の眼が澄んで清らかなのは、
幼児の心は打ち開いた澄んだ天空海闊の心をしているからである。
幼児でも虐げられている継児(ままこ)は清らかな眼はしていない。

濁りに染まない幼児の眼のような心になりたいものだ。

いろいろの眼の光のあるうちで、一番わたしの好きでない眼は狡い光の眼である。
愛の光のある眼は温かく、知恵の深い眼は時として冷たい。時として冷酷にさえ感じる。

冷たい眼でも、その冷たさが知恵の深いために
冷たい光を湛(たた)えているのは崇高にさえ感じられる。

隠し心のある眼、正面(しょうめん)を真正面(まとも)に見られない眼、
下を向いていて上眼(うわめ)づかいで見る眼、顔の向かぬ方を盗み視(み)する眼
 ―― およそ狡(ずる)い眼の光はこういう眼の種類である。

ぱっちりと打ち開いた愛くるしい隠しのない眼の光で相手を見る人は必ず好運である。
形は心の影である。
眼の形、眼の光、そのとおりの形のものがあなたの運命をあらわしている。

どんより曇っている眼の人は、心も曇っている。
眼の三角の人は心も三角である。

        <感謝合掌 令和2年2月1日 頓首再拝>

自分の心のとおりの世界 - 伝統

2020/02/02 (Sun) 04:03:10


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月2日)」より

あらゆるものを愛していたい。
愛する心のみが愛される心である。

草花を愛する心は草花に愛される。
草花を劬(いた)わる心は、草花に慰められる。

夫を愛する妻は、夫に愛され、妻を愛する夫は、妻に愛される。
子を愛する親は、子に愛され、親を愛する子は親から愛される。

この世界は自分の心のとおりの世界である。

腹の立ったとき、夫に腹の立ったとき、妻に腹の立ったとき、子に腹の立ったとき、
親に腹の立ったとき、そんな時には相手の顔が小面(こずら)憎く見えるであろう。

相手の顔はあなたを慰めないであろう。
相手の顔が不快なのは、こちらの腹の立っている心が移入しているのである。
相手の顔が悪いのではない。

慰められる心は慰める心のみが味わいうるのである。

相手は自分の心のとおりのものである。
これをリップスは感情の移入と言い、釈迦は三界は唯心の所現と言う。

           <感謝合掌 令和2年2月2日 頓首再拝>

赦し、仲よく、日の丸の心を持つ - 伝統

2020/02/03 (Mon) 04:45:44


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月3日)」より

争っていた者が仲よしのなることほど嬉しいことはない。
失われた一匹の羊が帰って来ることは、亡(うしな)われない九十九匹がそこにいるよりも
嬉しいとイエスは言った。

仲直りぐらいありがたいことはない、喜ばしいものはない。

争っていた者が仲直りをしたために、ただそれだけの簡単な出来事のために、
医者で治らない病気が治った実例がたくさんある。

『生命の實相』の巻頭に「汝ら天地一切のものと和解せよ」とある一句を忘れていて
病気が治らないとかこっている人はないか。

あらゆる心の持ち方が整っていても、和解ができていない人は、神の前に
足りない人である。神は《まこと》である。《まこと》は円相である。
《まこと》とは《○(まる)こと》である。○(まる)は和解のしるしである。

まんまるい、まんまるい、あのお月様のような心こそすべての病を治す心である。

なんじの心の中の羊をしらべてみることが大切である。
亡(うしな)われたる羊はないか。
あなたを憎んで去った人はなかったか。

誤解があったならば誤解を互いにほどくこと。
憎んでいたならば赦すこと。
恨んでいたならば恨みを解(と)くこと。

心の思いと、物の負債とにかかわらず、借りものがあったら利息をつけて返すこと。

神の前に出て、もう誰とも仲の悪い人はございません。
争っている人はございません。
すべての憎みと恨みとは完全に水に流しました。

もう誰にも負債はありませんと、おおらかな気持ちで言いうるようになれない人は、
まだ心に病のある人である。

人の世に生活して、それほどの心になれる人は少ないにしても、
それほどの心になれないかぎりわたしたちは神の前にいと小さなる者である。

もしわたしたちが神の前にいと小さき者であるならば、
わたしたちは人を責める資格はない、人を怒る資格はない、人を恨む資格はない。

わたしたちは人を赦すほかに仕方がないのである。

ただわたしたちが、人を赦したときのみ神に赦されるのである。
ただ人と仲よしになったときのみわたしたちは神と仲よしになることができるのである。

仲よしになった時の愉快な心持を本当に知るものは、人と仲が悪くなれるものではない。

人が人と仲よしになれないのは、幸福というものはただ「心の愉快である」ことだという
かくも平明な真理に眼を閉じていて、幸福というものがなんじの心の愉快にあるのでなく、
物の多いということにあると考えたり、虚栄、虚名が多いということにあると考えたりして、
物と、虚栄、虚名を断じて放すまいとして傲然として構えているからである。


傲慢ということはかかる心持を云うのである。
謙虚、《へりくだり》の心持は正直に事物をまともに見る心である。
まちがっていたと気づいたら素直にあやまれる心である。

放たねばならぬ物は素直に放つ心である。
本来ありもせぬ栄えとか虚名とかを、あるかのごとく装おうとする心が苦しむのである。
隠しない心、正直の心は謙虚な心の一面である。
 
無邪気につき合える人というのはこういう謙虚な心持の人である。
相手が警戒心をもって近づいてきて、どうも親しくなれないのは、
こちらに隔(へだ)て心があるからである。

隔てのない心。角のない心。仲のよい心。○(まる)い心。○(まる)はいっさいを包んでいる。
隔てもなければ、角もない、実に実に仲のよい心が日の丸の心である。

           <感謝合掌 令和2年2月3日 頓首再拝>

与える心、大同団結の心 - 伝統

2020/02/04 (Tue) 04:56:42


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月4日)」より

いくらと定(さだ)めた自動車賃を
こちらから進んで余計出した時には実に気持ちがよい。
なんだか自分が大きくなったような気がする。
そのくせ自分は出しただけ余計に減っているのである。

この事実はなにを語るか、物質的にかえって減りながらも、
かえって「自分」というものがいっそう大きくなった実感がする
という事実を考えてみるとおもしろい。

この事実は「自分」というものが「物質」でないことの証拠である。

「上衣(うわぎ)を着る者には下衣(したぎ)をも与えよ。
一里の公役を強いられなば二里を行け」と言ったイエスの言葉には、
人間が「物」でないという実感がたたえられている。

この話をわたしが堂ビルの清交社で講演したとき、
脱肛痔が治ったといって礼にわざわざ来られた人がある。

それは岩村○太郎という人であった。
夫人が津田学塾出身のクリスチャンで、常に良人に戒律を強制していた。
こうしていつも圧迫されつつ岩村さんは、いたたまらない気持でいたのである。

脱肛痔はいたたまらない気持から起こる。
奥様が一里の公役を強いる時には二里を行くというような、
気前のよい心になったとき、いたたまらない家庭の感じが解消されるのだと思う。

この人は今どうしているか。
鳴尾で明治会という日本精神の団体をつくっていると噂を聞いたが、
一度会いたいものだと思っている。

一度でも逢った人には別れたくない。
切る心は切られる心である。
つながれた縁(えにし)は離したくない。

逢う心、離れぬ心、つながり合う心、結び合う心、
共同精神は真に○(まる)い心、日の丸の心である。
人間はどうして大同団結しないのか不思議である。

           <感謝合掌 令和2年2月4日 頓首再拝>

牛後に喜んで活動しうる人 - 伝統

2020/02/05 (Wed) 02:28:21


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月5日)」より

一人の先覚者が現われてある教義や主義綱領を掲げて民衆の賞讃を博していると、
その同じ教義や主義綱領を自分は前から称えていたと言って、
その団体の人員を浚(さら)って行ったり、同じ主義綱領をほんの少しばかり変更して
自分の方が優っているといって崇拝を自分の方へ集めようとする者がある。

牛後(ぎゅうご)となるより鶏口(けいこう)となれという小才子(こざいし)が多いから
この世は乱れるのである。人間はなぜ大同団結をしないのだろう。

30年黙って一つの団体の牛後(ぎゅうご)に喜んで活動しうる人は、
ついにその団体で押しも押されぬ人物になることができるのである。

明智光秀のような才子はいくら多くとも世が乱れるばかりである。
ついに天下をとったものは徳川家康であったことを知らねばならない。

           <感謝合掌 令和2年2月5日 頓首再拝>

神が養う - 伝統

2020/02/06 (Thu) 04:22:17


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月6日)」より

世界は孤立してはいない。
子供が生まれて来れば必ずその子供の衣食住を天が与えるのである。

わたしは関東震災のとき、生まれる子供の布団一かさねと産着とだけのほか
何物も持たないで避難したことがあった。
その布団は友禅模様の絢爛(けんらん)な縮緬(ちりめん)の夜具であった。

親は着のみ着のままでいるのに子供には絢爛な縮緬の布団が与えられている。

親はそのころ漬け物のほかなんの美味も食べないのに、
子供のための乳は二人分ほども出て
母親の衣物(きもの)を濡らして困ったというほどであった。

これを見ても、子供は親が養っているように見えても、
実は神が養っているのである。

親子でありながら一方は王侯の生活をし、
一方は着のみ着のままの生活をしていたのである。
しかも着のみ着のままの人の方が、王侯を扶養していたのである。

人は人を養うことはできない。
ただ神のみ人を養いうるのである。
人はただその媒介となるだけである。

このことがわかれば、店員も社員も解雇する必要はない。

働く者には食を与え、神のみ心を生きる者には
豊かに必需物(なくてはならぬもの)を
与えたまうのが神であるからである。

ただ、働かぬもの、懶ける者、周囲と調和しない者、
神がこの世に生を与えた使命を生きようとしない者は神が解雇したまうであろう。

ただかかる者のみ、人は神と人との媒介者であるがゆえに、
人の手を通して解雇されるのである。

           <感謝合掌 令和2年2月6日 頓首再拝>

人・時・処の三相応 - 伝統

2020/02/07 (Fri) 04:01:00


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月7日)」より

才能ということは一つの資格であるがすべてではない。
智恵と力とがいくら多くあっても人望を集めえない者は《天の時》を得ることができない。

天の時は人望から来るのである。
人望は人の和すなわち調和から来る。

なんの働きもないのに出世しているような人を見ると、
才能があって出世しえない者は嫉妬羨望して不平に思いがちであるが、
働きというものは眼に見える才能的な、また技術的な働きばかりではない。

何をしなくとも大いに働いている人がある。
「無為にして化す」という言葉にあてはまる人はそんな人である。
あの人がいてくれるので、ただいてくれるだけでこの団体に重みがある
というような人はそういう人である。

才能ある人はこの種の「無為にして化す」る人を羨(うらや)んで不平に思ってはならない。
唯物論の人は物質的働きしか見えないから無為人(むいじん)に対して反抗しがちである。

無為人とは何もしない人ではない。そのままで大いに為している人である。
一家の心柱(しんばしら)であり礎石(そせき)である。

諸々の機械が滑らかに実に複雑な働きをなしうるのは、
工場の礎(いしずえ)と柱とがしっかりしているからである。
礎(いしずえ)と柱(はしら)とは無為人である。

礎と柱とは平均がとれ重心がとれていなければならない。
言い換えれば全体と調和していなければならない。
調和が生活の重心である。

才能がありあまるほどありながら、出世しない人は、周囲と調和しない人か、不平の人か、
長上のものに親しく近づいて行くことをおべっかつかいとまちがえられることを惧(おそ)れて、
長上に近づくことを潔(いさぎよ)しとしない人か、下の人には深切であるが
上の人には恭(うやうや)しくない人かである。

栄えるためには人(ひと)・時(とき)・処(ところ)の三相応が備わらなければならない。
人・時・処の三相応といっても大調和のほかに何もない。
人に相応し、時に相応し、位置に相応して調和してゆかなければならない。

下剋上は花々しいように、あるいは潔(いさぎよ)いように思いちがえられて
若い青年たちに歓迎せられやすいが、それは人時処(じんじしょ)の三相応を破るものであり、
大調和を毀すものである。

一時効果を収めるように見えても永遠の栄えは下剋上からは来ないのである。
ドイツやイタリヤの共産革命が中途で破れたのは下剋上の革命であるからである。
ヒットラーもムッソリーニも下剋上の反動に乗ったために一時栄えたのだ。

下剋上は必ず反動が来るものである。
ソビエトにおいてすら下剋上には反動が来ている。
ロシア革命当初の元勲はすべて放逐か、国外逃亡か、銃殺されてしまっている。

ものは落ちつくところへ落ちつかせるしか仕方がない。
無理に上へあがっても結局は落ちるばかりであり、落ちるまでは不安なばかりである。

雲雀(ひばり)は空にあって楽しく囀(さえず)り、すずむしは草場の下にあって楽しく啼く。
すずむしを蒼空で囀(さえず)らせようと思っても無駄である。

           <感謝合掌 令和2年2月7日 頓首再拝>

感恩の念(ねん) - 伝統

2020/02/08 (Sat) 02:38:20


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月8日)」より

われわれを嬉しくし、楽しくし、悦ばせてくれるものは実に「恩」の感じである。
「恩」とは因(もと)の心と書くが、因を知る心である。

恩を感ずるとき、わたしたちは苦しみの中にも喜んで飛び込むことができるのは、
恩の感じは苦しみを「歓喜(かんき)」にかえる念(こころ)であるからである。
恩を感じるとき実際苦しみは歓びに変わるのである。

激しい皇恩を感ずるとき、弾丸(だんがん)雨飛(うひ)の中へわたしたちは歓声を挙げて
跳び込みうるし、また弾丸があたっても痛まない。
感恩の念(ねん)は苦痛を歓喜にかえるからである。

痛みあり、苦しみがあるのは恩の感じ方が足りないからである。

皇恩に感謝せよ、汝の父母に感謝せよ、汝の夫または妻に感謝せよ、汝の子に感謝せよ。
汝の召使に感謝せよ。天地の万物(すべてのもの)に感謝せよ。
その感謝の念のうちにこそ汝はわが姿を見、わが救いを受けるであろうと
『生命の實相』の巻頭にある
―― 生長の家の教えを要約すれば、ただこの数句に尽きていると言ってもよいくらいである。

           <感謝合掌 令和2年2月8日 頓首再拝>

深切には、心を添えよ! - 伝統

2020/02/09 (Sun) 02:24:15


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月9日)」より

人間の深切にも物施と法施とがある。

物を与えることも時には必要であるが、
あまり物のみを与えすぎるとかえって依頼心を起こさせ、
貰うことが権利のような感恩のない状態にまで相手の心を荒(すさ)ませることがある。

物を与えるならば、《心もち》を添えて贈らなければならぬ。
紙に包み、水引を掛けるのは心持を添える方法の一つである。
人間は心もちによって生かされているのである。

機械的な「与え」の前には感恩の心は起こるものではない。

与える側からいうならば、物を贈るのに相手に感恩の心をを起こさせようと
思ってするのは不純ではあるが、相手の心を依頼心に満ちたり、
忘恩的な荒んだ心にまでならせないためには機械的な与え方をしてはならない。

勤務時間以上に働きをサービスする社員に、
上役が感謝して夜食をおごったりしてくれる場合には、
いかにも上役の好意が身に沁(し)みて感謝されるが、

規則によって夜勤手当というものを定(さだ)めて、
一定時間の夜勤をするする者には一定の夜勤料を支払うことに機械的に
定(き)めてしまうならば、もう誰も夜勤料をありがたく思わなくなるものである。

それどころか、時には夜勤料が少ないといって零(こぼ)すようにさえなりがちである。
与える悦びがなくなって、奪い足りないという不平に代わるのである。

生活に困っている失業者に仕事を紹介してやったら、
その当座は生命(いのち)を救(たす)けてもらったように感謝するが、
毎月月給を貰うということが機械的に度重なってくるならば、
もうぼつぼつ月給の不足を零しがちである。

感恩の心は機械的になるとしだいに薄れてくるのである。
子供の愛情に養われる老人は幸福であるが、
社会保障制度で養老院に養われる老人には前者ほどの喜びはない。

われわれは毎日空気を吸っているが、機械的に空気を供給されているがゆえに
ありがた味を感じない。われわれは太陽がなくては生きられない人間でありながら、
太陽は機械的に毎朝地平線から顔を出すから太陽のありがた味をさほど感じない。


しかし、これでよいだろうか。

目ざめて立て! 

わたしたちはあらゆる恩恵のうちに生きているのである。

ありがたさは物の分量にあるのではなく、心の《目ざめ》にある。
心の《目ざめ》ている人を悟っていると言う。

一かど悟っていると自負している人が常に不平を唱えているのは何を悟っているのか、
訊いてみたい。

           <感謝合掌 令和2年2月9日 頓首再拝>

打つ心は打たれる心である - 伝統

2020/02/10 (Mon) 02:50:41


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月10日)」より
 
憎みながら叱る心で軽く打つと子供は泣く。
同じ強さで打っても愛撫する心で愛慰(あや)すような形で打ったら
子供はかえって喜ぶだろう。
痛さは心にあるからである。

かって野村義隆さんが道場で指導していた朝のことである。
禅家の道場破りを仕事にしているような物凄い格好の修行者が来た。
そしてたずねた。

「生長の家では肉体は無いというんですね。」
「そうです。」

「痛みは心にあるんですね。」
「そうです。」

「では痛みは肉体にはないんですね」。」
「そうです。」

「それではあなたの肉体を打っても痛くありませんね。僕はこれから君を打ってやる!」

殺気がその修行者の眼から一閃、野村さんの方へ走った。
そのままいたら野村さんを殴りでもしかねるまじき姿勢である。

と、たちまち野村さんの方が起ち上がってその修行者の方へ近づいていったかと思うと、
ピシリとその修行者の頬を打った。
痛いか痛くないか冷暖を自知せよというのにあったらしい。

やがて野村さんは元の座へ還って来て、何事もなかったように別の修行者と話していた。

野村さんが打たなかったら、野村さんは修行者に打たれていたかもしれない。
野村さんの気魄の方が修行者の気魄に打ち勝ったので修行者が打たれたのあった。

打つ心は打たれる心である。
打つことを心に描けば、その念(こころ)は形と表れて相手を打つ。
相手の気魄が強ければ、それはかえって自分自身に還ってきて自分自身を打つのである。


阿難が釈尊に対(むか)って人を憎んだ心を相手が受けなかったら、
その憎んだ心はどこへ行きますかと尋ねたときに、

釈尊は「お前は贈り物を人に持っていった時に相手がそれを受け取らなかったら
その贈り物は誰のものになるか」と問い返された。

阿難は「それは贈った人に返ってきます」と答えた。
釈尊は「人を憎む心もそのとおりだ」とおっしゃった。


そのころ、道場には夜も指導があって、夜間はわたしが受け持っていた。
その同じ修行者がその夜も来ていて同じようにわたしに問いかけた。

「肉体は本来無いんですね」
「そうです。」わたしは朝の出来事を知らないので何心なくこう答えた。

「痛みは心にあるんですね。」
「そうです。」

「それでは先生の肉体を僕はこれから撲(なぐ)りますが、傷みはありませんね。」
修行者は今にも撲りに来そうな姿勢である。
「それは痛いにきまっている」とわたしはとっさに答えた。

「なぜ痛いんだ、無い肉体がなぜ痛いんだ。痛ければ、今後肉体に痛みは無いなどと言うな。」
恐ろしい剣幕で修行者は詰めかける。わたしは静かに答えた。

「肉体そのものは傷まないが、お前の心が痛いのだ。人を撲ろうとするお前の心には痛みがある。
『五官は心の影を見るに過ぎず』と『甘露の法雨』にある。五官は心の痛みを映すものだ」

『ウーム、よし!』と言ったきり、
修行者は立ち上がりかけた膝を畳に落ちつけて俯向いたまま動かなかった。
そしてわたしが他の修行者と話しているうちにその修行者はどこかへ姿を消してしまった。


野村さんの捌(さば)き方と、わたしの捌き方とどちらも個性が出ていておもしろいと思う。
野村さんが道場に出れば「叱られる、叱られる。野村さんはこわい」と修行者は噂する。

ときには「道場であんなに憤怒の形相をされては生長の家の名にかかわるから
一日も早く道場へ出ないようにしてほしい」と投書して来た人もあった。

しかし野村さんに叱られて悟ったと喜ぶ人も、
叱られて病気が治ったと感謝する人もたくさんあった。

相手を愛しなければ、公な心であんなに思うままに修行者を叱りうるものでない、
損得を考えたらあんなに叱りうるものではないと批評する人もあった。

「そんなに叱ったら生長の家へ修行に来なくなりますよ」と忠告する人があると、
「指導の最中には相手を指導することきり考えない。
修行者が増えるとか減るとか、損得のことを考えて指導する奴があるか」
と野村さんはその人に一喝したこともあったと噂にきいたことがある。

           <感謝合掌 令和2年2月10日 頓首再拝>

日本の建国・肇国と東道(みちびき)の神「塩椎神」 - 伝統

2020/02/11 (Tue) 04:51:59


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月11日)」より

今日(2月11日)は神武天皇が
大和(やまと)に遷都せられた記念すべき慶ばしい日である。


”みすまる”の魂が高千穂の高御座(たかみくら)に天降りして
弥数多(いやあまた)の国を大和(だいわ)する
八紘一宇(Universal brotherhood)の精神が形にまで顕れて、
大和国(やまとのくに)に都(みやこ)することになったのである。

それはおよそ二千六百年前であるという。

日本の国は領土という土塊の容積ではないのである。

「大和(だいわ)」の理念そのものが日本国で、
それが地上に天降って形を整えたときが日本の建国である。

しかし日本の肇国(ちょうこく)はなおそれ以前に遡る。

畏くも明治天皇が教育勅語に
「国ヲ肇ムルコト宏遠ナリ」と仰せ給いしことに鑑み奉るも、
わが日本の肇国は数をもって言い現わすことのできない
悠久久遠の太初(たいしょ)に遡ることが明らかである。

神武天皇なお高千穂にましませしとき
「天祖の降跡(あまくだり)ましてより以遠(このかた)、
今に一百七十九万二千四百七十余歳」と『日本書紀』に明記してあるから、
彦火瓊々杵尊(ひこほのににぎのみこと)より神武天皇に到るまで
すでにこれだけの皇紀を経ているのである。

これは神話であるから
「大和理念」の地上顕現が悠久であることの象徴と見るべきである。

日本の建国の歴史をわざと長くないように考証して喜んでいる人もあるが、
それは結局自己侮辱であり、自己破壊本能の展開に過ぎない。

人間には「生」の本能と「死」(自己破壊)の本能があって、
「生」の本能が旺(さか)んなるものが栄え、
「死」の本能が」「生」の本能に打ち勝つとき衰えかつ滅びるのである。

自己を矮小に言うことに誇りを感ずるような悪い趣味は止めた方がよい。

そのころ塩土老翁(しおつつのおじ)なる老翁(おきな)来たりて
神武天皇に「東(ひんがし)に美地(うましくに)有り」と御奏上申し上げた
ということが同じく『日本書紀』に書かれている。

東方より「大和(だいわ)」の理念が生まれて来るという象徴物語である。

この塩土老翁(しおつつのおじ)は『古事記』では塩椎神(しおつちのかみ)とて
目無堅間(めなしかつま)の小船(おぶね)を作り
彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)を乗せまつって
金銀(こがねしろがね)饒(さわ)なる竜宮海に導き奉ったと出ている。

竜宮海とはウミの底である。
「創造(うみ)の根底(こんてい)」にある世界とは現象のよって
もってあらわれる根元の世界である。換言すれば実相の浄土である。

目無堅間(めなしかつま)の小船(おぶね)とは、
時間の目盛(めもり)無く空間無く堅くつまりたる小なる一点である。

換言すれば、無時間・無空間の世界、時空を超越し、そこより
時空生まれる一点(久遠の今此処)に乗るとき
衆宝(しゅうほう)あまねく充つる竜宮海に入ることができるのである。

「無字透関(むじとうかん)」である。
「無」を超えてさらに実相地(じっそうじ)に透関するときに
竜宮海すなわち、無限供給の極楽浄土を実現することができるのである。

この無限供給の極楽世界に入る方法を教えたまう神が塩椎神(しおつちのかみ)である。

そして竜宮海は極楽にして住み吉きがゆえに住吉世界ともいい、
住吉世界の本尊を住吉大神(すみよしのおおかみ)と申し上げるのである。

竜宮海は時間空間を超えた世界であるから、
浦島太郎はそこにあるとき永遠(えいえん)に年(とし)老いず、
このことを仏教では無量寿世界に入るとき無量寿仏と同じ悟りに入ると
言うのである。

老病死の三奸(かん)を征伐せられてから住吉大神は茅渟(ちぬ)の海に面して
長湾(ちょうわん)をなせる山峡(やまかい)に鎮め祀られたのである。

今は神戸市東灘区住吉に本住吉神社があり、神功皇后を主神とし、
脇神(わきだち)として筒男(つつのお)の三神をお祭りしてある。
後に泉州堺に御遷座申し上げたるにより、ここを本住吉神社というと承っている。

三韓征伐とは、老病死の三奸(かん)の克服の象徴物語である。

住吉大神(すみよしのおおかみ)が竜宮の大神であり、
無量寿仏のあらわれである以上、老病死の三奸(かん)を克服せられたことは
当然のことでなければならない。

           <感謝合掌 令和2年2月11日 頓首再拝>

水火津霊(シホツチ)の神 - 伝統

2020/02/12 (Wed) 06:50:37


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月12日)」より

わたしは御影町(みかげまち)および住吉村に住んでいたとき、
たびたび住吉神社に参拝して人類光明化のために祈願をつづけたものである。
そこころからわたしは雑誌『生長の家』を書きはじめたのである。

その後、生長の家神と申し上げるは塩土老翁(しおつちのおじ)、筒男神(つつのおのかみ)で
あらせられると知らされ、ハットしてその端倪(たんげい)すべからざる因縁に驚いたのである。

塩土神とは水火津霊(シホツチ)の神である。
水の霊(陰の原理)と火の霊(陽の原理)とを津なぎ結びて、一切を生み出す「生みの神」である。

だから塩土神(住吉神社・塩釜神社に奉斎)は古来安産の神として称せられ、
エホバ神の「懐妊(はらみ)の劬労(くるしみ)を増すべし、汝は苦しみて子を産まん」という
宣言を覆して、子を産むのに無痛分娩なることを実証したのである。

生長の家の教えを聞いてそのとおりに守るものは無痛分娩であるのはそのためである。
塩釜大神(しおがまのおおかみ)とは水火醸神(しおかみのかみ)として
陰陽交叉(いんようかみあ)いて生み出す神という意味である。

生長の家神を拝みたければ住吉神社に参るがよし、塩釜神社に参拝するのもよい。
われわれの団体は無宗派の万教帰一を説く団体であるから、
拝殿もなければ御祈祷をするということもない。

ただ書籍、講演、放送、直接指導等によって老病死を克服する教化団体である。

           <感謝合掌 令和2年2月12日 頓首再拝>

人間は死なない - 伝統

2020/02/13 (Thu) 02:19:39


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月13日)」より

悲しいことがあれば、喜びの初めである。
イエス・キリストも「幸福なるかな悲しむ者。その人の慰められたん」と言っている。

物質の満足に五官の表層を快く楽しませていたような人が、その物質なる富が眼の前から
剥落した時に、物質なる肉体があるいは病み、あるいは眼の前から姿を没しようとする時に、
その人は悲しむのである。

悲しむだけ悲しむがよい。
涙はその人の心の汚れを浄めるであろう。

浄まり浄まったとき、本当の世界は物質の世界でなかったということがわかるのである。
浄まり浄まったとき、本当の人間は物質の肉体ではなかったことを知るのである。

「本当の人間」は物質なる肉体が死んだと見えているときにも、死んではいないのであって、
彼が《生きた》程度に従って、より自由に生き通ししていることを知るのである。

人間は死なない。
ことに公のために殉じた者はいっそう高く生きているのである。
このことについては、「生命の実相」の第九・十巻「霊界と死後の救い」を読んでいただきたい。

肉体は蒲団の上にいて、誰のためにもならず、
かえって人に迷惑をかけつつもついには滅びるものである。

陛下のために、国家のために、全国民のために、
何か捧げて死することができるならば光栄これに過ぐるものはないではないか。

・・・

<参考Webとして、「生長の家光明掲示板・第一」内スレッド
 「人間は物質に非ず、生き通しであると云う確かな証拠 「小林昭三青年のこと (1767)」が
 あります。
  → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=379  >

           <感謝合掌 令和2年2月13日 頓首再拝>

素直に飛びつく者は愛される - 伝統

2020/02/14 (Fri) 04:57:20


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月14日)」より

素直に飛びついて来る子供はかわいがられる。
素直に舅 姑の懐にとびついて来る嫁はかわいがられる。
素直に先生の懐に飛びついてくる生徒はかわいがられる。

夫婦仲が悪いとか、家庭はおもしろくないとかいう人があるけれども、
それは互いに飛びつくような素直さをなくしたからである。

神のみふところに飛びつく者は神に愛される。

           <感謝合掌 令和2年2月14日 頓首再拝>

とげとげしい心を捨てるには - 伝統

2020/02/15 (Sat) 04:37:33


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月15日)」より

どんな美しいバラの花でも、その棘に触ったときにはハッと驚いて捨てられる。
人に嫌われるのは心に棘があるからである。

これだけ立派な仕事をしているのに人が自分を遠ざけるというような人は、
これだけ美しい花が咲いているのになぜ人が自分を捨てるのだろうと、
みずから疑うバラの花のようなものである。

とげとげしい眼、とげとげしい言葉、とげとげしい行動、
その一つ一つを抑えようとしてもなかなか直るものではない。

まずとげとげしい心を捨てなければならぬ。
とげとげしい心を捨てるには「とげとげしい心」を
アリとして抑えてもなかなか直るものではない。

暗は暗をいくら押さえてみても消えるものではない。
暗を消すには光を持ってくるにかぎる。

とげとげしい心が自分にあると気づいたら、その反対を持って来るのである。
「自分は優しい優しい人間であって、とげとげしいところはちょっともない」と、
その反対の念を自分自身にいって聞かせればよいのである。

           <感謝合掌 令和2年2月15日 頓首再拝>

常に毎日新しくなれないものは死につつあるものである - 伝統

2020/02/16 (Sun) 03:58:35


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月16日)」より

常に新しくなるものは老いない。
老いるとは常に新しくなれないことの別名である。

人体の細胞を切り離して培養し、その培養基を常に新しく取り替えれば、
結局人間の細胞は永遠に分裂増殖して死なないものであることを生物学上の実験によって
確かめられたという。

人間の肉体が老いて衰え死するということは、細胞が複雑に組み合っているために、常に新しく
なれないからであって、必ずしも人間が老衰死するということが運命ではないのである。
ただ老衰死の原因は常にわれらが新しくなれないということが原因である。

人間の心もそのとおりである。
常に毎日新しくなれないものは死につつあるものである。
陳びつつあるものである。

老人が陳腐であるといって人から嫌われるのは、ただ過去の惰力で生きており、
過去の惰力でものを考え、過去の惰力で行為をし、過去の惰力で若い人を推し測るからである。

過去の惰力で行為されたものは、すでに形骸であって生命はない。
これを称して型にはまるというのである。
型にはまっているものは形は立派に見えても、もう屍である。

           <感謝合掌 令和2年2月16日 頓首再拝>

新芽には力がある - 伝統

2020/02/17 (Mon) 04:55:11


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月17日)」より

ぼつぼつ樹木に新しい芽が出る。
まだ嫩葉(ふたば)にも開かない前の、あのふっくりとした逞しい樹の芽を見ていると、
本当に若々しい生命(せいめい)に触れた気がする。

開き切った葉よりもまだ開かない新芽の方に力がある。
生命は久遠であるが、現象界のものは何物でも
まだ完全に開き切らないものには底力(そこぢから)がこもっている。

宗教でも古い時代に起こったものは過ぎ去る。
今は新しい時代が来つつあるのである。史代革新期である。
新しい酒を古き革袋に容れるときは破れる。

           <感謝合掌 令和2年2月17日 頓首再拝>

わがままとは自己虐待・自己限定である - 伝統

2020/02/18 (Tue) 23:55:20


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月18日)」より

人間を不幸にするものは《わがまま》である。
《わがまま》は他を不幸福にするばかりではなく、自分自身を不幸にする。

精神分析的に見れば《わがまま》とは自己虐待の変形である。
《わがまま》は自分のしたいままをする自己愛撫だと考えられやすいけれどそうでない。
《わがまま》は往来で転んで、誰が起こしてくれるまで地踏鞴(じだたら)踏んで泣き叫んでいる
悪童の延長でしかない。

彼は誰かに迷惑をかけるために自己虐待をしているのである。

《わがまま》が自己虐待である証拠に、《わがまま》を通そうとする人は常に自分自身が
愉快な滑らかな感情の楽しさというものを味わうことができない。

《わがまま》を別語でいえば、「我(が)を出す」または「我(が)が強い」という。
「我(が)」という字は、「われ」という字が書いてあるが、「本当の我(われ)」ではない。
それは久遠普遍のひろびろとした「本当の我(われ)」を縛るところの《自己限定》である。

「本当の自分」は天地にひろがるひろびろとした大いなる存在であるのに、
《これだけ》の部分だけが自分だと自己限定するのが、「我(が)を出す」ということである。

だから「我(が)を出す」というのはかえって自分を限る、
自分を引っ込める、自分を縛る、自分を虐待することになる。

本当の自分が、天地にひろがる広々とした存在であることに気がついた時には、
人間は誰とも大調和するものである。

大調和の心は《神のまま》の心である。
神のままは自然を縛らない心、わがままは自然を縛る心。

           <感謝合掌 令和2年2月18日 頓首再拝>

”ぐずぐず”するな、今、行動せよ! - 伝統

2020/02/19 (Wed) 05:04:59


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月19日)」より


時間を大切にするということは、《いのち》を大切にするということである。

現象界の《いのち》は時間の流れに展開する。
時間の流れにしたがって《いのち》も過ぎ行く。
時間を大切にしないものは酔生夢死する。

しかしわたしたちは時間を本当に大切にしているだろうか。

時間は眼に見えないものであるから、
そして使わずに置いても消えてゆくものであるから、
ともすれば浪費しがちである。

「使わないことが浪費であって、使えば使うほど増える」という
生長の家の経済学は時間に関してはいっそう真実である。

時間は箱詰にしておいても、瓶詰にしておいても、それは蒸発して消えてしまう。
時間を大切にしようと思って時間時間と考えてもイライラして心が忙しいだけである。

時間を大切にする最も有効なる秘訣は何事もすぐ実行に取りかかるということである。
《せねばならぬ》ことを次に延ばさぬことである。

《せねばならぬ》ことを次へ延ばすことは、行ないの負担を避けるために、
その避けている間中、それは心の負担となっている。
行ないは苦しみでなく、心の負担は苦しみである。

ぐずぐずの習慣ほど愚かしきものはない。

今を行かす生活、その時その場をすぐ生かす生活、具象的今を生かすことが
超時の生命(せいめい)を今生きることになるのである。

「超時の今」を生きる者は常に生きるものである。
ぐずぐずの生活を生きる者は常に死につつあるものである。

           <感謝合掌 令和2年2月19日 頓首再拝>

凋落の兆し - 伝統

2020/02/20 (Thu) 04:27:56


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月20日)」より

伸びることを忘れた時に凋落が始まる。樹木を見て、その真理を悟れ。

           <感謝合掌 令和2年2月20日 頓首再拝>

『人間死んでも死なぬ』 - 伝統

2020/02/21 (Fri) 05:00:39


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月21日)」より

今日は記念すべき本が出る。
わたしの『人間死んでも死なぬ』という本。

これがわたしが関東大震災に遭って無一物になって郷里へ帰って、
職業もなく養父母の許で居候しながら無数の心霊現象の原書を取り寄せて
そのうちから興味のある事実を取り上げ、系統づけて書きあげて、小西書店から
『心霊現象と宗教思想』と題して出した本を最近に増補改訂したものである。

類は類を招び、貧しい運命の時には、貧しさを招ぶものと見えて、
当時素寒貧のわたしに、小西書店は一銭の印税もよこさなかった。

わたしはやむをえず印税代わりに紙型(しけい)を貰っておいたのを
友人鳥谷部君が生活に困っているので、その紙型を差し上げて、
原稿料も活字の組賃も不要で鳥谷部君の生活費の幾分にでもなるように進上した。

これは『信仰革命』と題して再版まで出ているから
鳥谷部君は幾分かこれで助かっているはずである。

今この本にさらに百数十ページを加えて
『人間死んでも死なぬ』と題する本として出したのは、
戦死した軍人の遺族への贈り物としてである。

人間は肉体ではないから、肉体は死んでも「人間《そのもの》」は死んではいない。
この理論と哲学とは『生命の實相』のあらゆる部分に書いてある。

しかしその実証は、死んだ人が出て来て実際に通信した無数の実話、
死の刹那に霊魂の幽体が脱離する瞬間に撮った写真、
その死後の状態はそういう状態であるか
 ―― これは『生命の實相』の「霊界篇」にも出ているが、

この書に採録したのは英国心霊大学(ブリティッシュ・カレッジ・フォア・サイキカル・リサーチ)の
学長マッケンジー博士(数年前物故)が精神統一状態中の霊魂出遊現象によって
七圏に分かれている霊界を探検踏査してそのその状態を記述した記事であって、

それには当時「哲学者グループの集まっている」
霊界の第四圏にいたハーヴァード大学の
ウィリアム・ジェイムズ教授の霊が指導霊(ガイド)になったといわれている。

その記録は『生命の實相』中のヴェッテリニの霊界通信と符節を合わして
霊界存在の真実性をいっそうハッキリ確認せしむるものがある。

この書を戦死者の遺族に、また戦死者でなくても、
良人を、妻を、子を、親類縁者を失える悲しめる遺族たちに贈ることは
大いなる意義と慰めとを与うるものであると思う。


先日高知の一誌友から、戦死せる婚約の青年に殉ずるために
戦死の報知を受け取ると同時にカルモチンを致死量飲んだ令嬢が
医者の手当で蘇生したが、殉死を覚悟せる彼女は、
遺骨到着の日にふたたび自殺すると主張して頑として応じない、

そして

「わたしは『生命の實相』の全十五卷をことごとく読みましたが、

その3分の1は運命であり、
3分の1は自己の決定により、
その3分の1は霊界の高級の霊魂人(スピリット)の運命の修正により
避けうるとあるあるだけで、

自殺は悪いとは『生命の實相』には書いてはないから、
自殺は悪いとは思いません」

と主張するので、
なんとかわたしから自殺を思い止(とど)まらす手紙を書いてくれ、
という要求を受け取った。

そのわたしからの手紙が到着しない先に遺骨が着いた。
彼女は再び遺骨の到着した日に、前回よりも大量の超致死量の薬剤を呑んだ。
しかし彼女は死ななかった。霊界から高級霊の干渉があったのであろう。

しかもさらに彼女は第3回目の自殺を考えていた。
そこへわたしからの手紙(家内に代筆をさせた)が着いた。
その手紙によってかろうじて彼女は慰められ、3回目の自殺は思い止まったのであった。

わたしの記憶のうちには、ある霊界通信に因(よ)れば、
自他を超越した神の目からは、自殺は他殺と同じく殺人であると書いてあって、
そのことを『生命の實相』の本の中に書いておいたと思って
『生命の實相』の索引によって検(しら)べてきたが見出すことができなかった。

だから、それに対する返事は記憶によって書いたのだった。

あとで気がついてみたら、それは今度出る『人間死んでも死なぬ』の本の中に
自殺者の霊魂が霊界に移行しても自殺の時の行為そのままの状態で、
たとえば短刀を腹に刺した状態で永らく苦悶を継続しているのだ
というような霊界通信の実例が書いてあるのであった。

しかもこの書に収められている霊界通信の中には、
欧州大戦中砲弾の破片にあたって戦死した兵士の霊魂が、
少しも傷つかずに自分の遺骸を眺めながら歩いていたという通信もある。

我執で死ぬのと、国家に献(ささ)げて死するのとは、
死の意義の異なるのがこれでも分かる。
戦死を悲惨だと思うのはまちがいである。

このまちがいの中から反戦思想が生まれ、戦後の国家擾乱運動がはぐくまれる。
霊界の消息を知るとき、戦死は実に光栄であり、霊魂の高揚であるのだ。

・・・

<関連Web: 何故『人間死んでも死なぬ』を書いたか
        『生長の家』誌 13年5月号
        (2月27日 日曜日 本部道場に於ける講話) より

       (谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐
         → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=71 )

<参照Web>

(1)伝統板・第二「あの世とは?~あの世からの現地報告より」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6941482

(2)伝統板・第二「「霊 の 書」」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6786757

(3)伝統板・第二「人間は死なない①」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6760169

(4)伝統板・第二「人間は死なない②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7602423

           <感謝合掌 令和2年2月21日 頓首再拝>

医薬は服みてもよし、廃めてもよし - 伝統

2020/02/22 (Sat) 04:57:38


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月22日)」より

『生命の實相』を読んで薬を廃めて病気の治る人もある。
薬を廃めないで治る人もある。

またかえって薬を拝んで服むようになり、
心境の一変とともに病勢とみに減ずる人もある。
これはその人のひとりひとりの心の悟りである。

刺身包丁を見て、それで人殺しをする人もあれば、自殺する者もある。
また包丁は包丁だけに魚肉だけを料理して喜ぶ人もある。

先日はまた医師がメスを出すのを見て発狂して
鉄道自殺を遂げた美貌の若き母があった。
それはまたその人ひとりひとりの心境の問題である。

たまたま包丁で人殺しをしたり、
メスを見て発狂または自殺をしたりする人があるからとて、
包丁やメスは危険であるからといって、その発売や所有を禁止したり、
メスや包丁を殺人罪で告発したら滑稽であろう。

『生命の實相』には病人に対して
むやみに医薬の服用を止めよと書いたところは一句もない。

たとえば『生命の實相』の巻頭の神示には、

「《もし病人にして医薬を服用する者あらんには》それを四口に分けて飲み、
この《同じ想念》をなして飲めば病必ず速やかに癒えるのである。

すべての他の人の罪を赦すは、吾らの過ちをまた大生命なる神より赦されんがためである。
もしわれらが心を閉じて他(た)を赦さなければ、大生命の癒能(いやすちから)もまた
閉ざされてわれらに流れ入ることはできないのである。」

この「《同じ想念》」をなすというのは
「一口目を手にしては、これ今まで過ちて人に対して憎み怒りし自己の罪が
神によって赦されんがための供物であると念いて服み、

二口目を手してはこれすべての人の罪が神によりて赦されんがための
供物(そなえもの)であると念(おも)いて服(の)み、

三口目を手にしては是れ神の護りによりて
自己が再び隣人を憎み怒るの罪を犯さざらんがための供物であると念いて服み、

四口目に一杯の飲料を手にしてはすべての人の罪を
この水のごとくわが心より洗い流して
心にとどめざらんがための象徴(しるし)であると思って服(の)む」

べきことがその前行の文章に書いてあるのである。

これは薬物服用の際における心の持ち方の懇切なる指導である。

それが『生命の實相』の、特に巻頭に書いてあったのは、
それが重大な事柄であるからである。

近代のサイコアナリシス(精神分析)は
観念泄瀉が心的原因の病気の治療に大いなる効果のあることを証明した。

この神示にははっきりと書いてあるところの方法は、
医薬の服用と同時に観念泄瀉を行なう方法であるともいえるのである。

『生命の實相』は現に医薬を服用していない者に「医薬を服め」とは勧めていないが、
「《病人にして医薬を服用する者あらんには》・・・かくかくの心持にて《服(の)め》」
と書いてあるのであって、「《服むな》」とか「その服用を廃せよ」とは書いてはいない。

しかるに『生命の實相』を読んで、薬を廃(や)める者があるのは、
仏教的真理「色即是空」(物質本来無し)、
または諸方皆空(現象本来無し)の思想に目覚めた結果、

自己内在の生命の自然療能力に頼ることを重んじて
物質的薬剤に頼ることを軽視するようになるからである。

           <感謝合掌 令和2年2月22日 頓首再拝>

できるだけ善いことを喋る - 伝統

2020/02/23 (Sun) 02:19:36


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月23日)」より

ある教化団体のある講師があるところへ講演に出かけて行った。
彼はその教化団体で救われ人生観が一変し、性格が一変し、生活が一変したものであるから
そのことを聴衆に語りたかった。

どんなに自分の生活が一変したかということを知らせるには、
自分の過去の生活を述べねばならない。

彼は「わたしはこんなに悪い者だったのです」といって
女を騙したことや、酒を飲んだことなどを
過去の生活を懺悔のつもりで50分間も喋り続けた。

そしてこんな浄まった生活になったのはこういう動機であるといって、
その転向の明暗を明朗(はっきり)させるつもりであったのだが、
彼が50分間も自分の過去の罪悪を喋っている間に、
聴衆は「そんな悪い人の話は聴く必要はない」と一人去り二人去りして、
彼が本当によくなったところを話すころには聴衆は四分の一に減ってしまった。

懺悔でも、悪いことをあまり喋りつづける者は、ついに人の信用を墜すものである。

言葉は力であるからできるだけ善いことを喋らねばならぬ。

美人の色の白さを引き立てるための斑点美粧(ビューティ・スポット)も、
それが顔半面イッパイに及ぶようになっては痣(あざ)としてまちがえられる。

光を引き立たす陰影(かげ)は濃く、ただし少量でなければならむ。  

           <感謝合掌 令和2年2月23日 頓首再拝>

人時所三相応せるものが善である - 伝統

2020/02/24 (Mon) 02:51:16


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月24日)」より

善人ということは正しいばかりが善人ではない。
善悪の標準は生長の家の出現によって変化したのである。

正しくても暗い人は善人ではない、
その人は自分を殺し、他(ひと)を殺すからである。

正しくとも捉われる人は善人ではない、
その人は自分を窮屈にし、他(ひと)と争い、自分を殺し、他(ひと)を殺すからである。

正しくとも力の弱い人は善人ではない、
彼は自分を殺し、他(ひと)を助けることができず、
同時に他(ひと)を見殺しにせねばならぬからである。

どんなに正しい胸せまき人たちが病気になったことであろう。
真っ直(すぐ)などということだけが善ではない。三角も四角も円も楕円も善である。

人時所三相応せるものが善である。
生かすことが真理である。

まっすぐなばかりが善だと思っているために腹が立てたり、
胸が塞がって死んだ人の数は欧州大戦で死んだ人の数よりおおいのである。

           <感謝合掌 令和2年2月24日 頓首再拝>

高声、憤怒の調子を帯びた言葉で話してはならない - 伝統

2020/02/25 (Tue) 02:59:00


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月25日)」より


たえず親から叱られつづけてきた子は、どうも気遅れしがちである。
そうでなければ極端に反抗的に乱暴である。
 
この世の中に悪人はいないということ、もし欠点を指摘してくれる者があったら、
その人は決して悪意からでなく、自分をよくしてくれるために教えてくれるものである
ということを幼い時から子供に知らすことが肝要である。

子供の(大人も同じであるが)欠点を直すために指摘する際に、
腹立ち声を出すことはなんの益もない。ただ気遅れのする子供をつくるだけである。

その性質は生長後も時として一生涯つきまとい。
その人の運命の重荷となることがあるものである。
親が子を害していると知らないで、どんなに多くの子を害していることであろう。
 
心理学者の実験によると、幼児は一定以上の高声または高音響に対して
本能的に恐怖の表情を示すのである。そのことは学童以上の年齢になっても継続する。

もし子供をよくしてやりたいとの親切から子供の欠点を指摘するような場合には、
普通の話以上の高声を出したり、憤怒の調子を帯びた言葉で話してはならないことである。

もし相手に訓示を与える際に相手に恐怖や不快の念を与えたら、
それは反抗となってせっかく話したことが反対の結果になることがある。
 
恐怖は閉じる心である。形は心の影である。蛤を見て悟るがよい。
高音を出して恐れさせれば、その蛤は貝殻を閉じるであろう。

貝殻を閉じる蛤のような気遅れする人間に育てたのは、
物を教えるときに使う荒立った高声(こうせい)である。  

           <感謝合掌 令和2年2月25日 頓首再拝>

十分合理性を持たせて事件を落着させることが大切である。 - 伝統

2020/02/26 (Wed) 06:47:43


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月26日)」より

腹を立てることと、相手に対して悪意を抱くことは相手を殺すことになる。

今日(きょう)、中島さんが入って来てこんな話をした。
○○電気局長のN氏、ある婦人と婚約したが、しばらくの後その婚約した婦人のところへ
N氏から送られて来たものは、N氏がすでに別の婦人と結婚したという通知のハガキであった。

あとで聞いてみると、さきの婦人はその時ハッと思っただけで深く怨みに思ったわけではなかった
というが、ともかく重大な問題について約束を破られたのであるから、強い衝動を受けた
ということは明らかである。

それからが問題である。――

爾来、N氏の結婚生活は不幸であった。
N氏の新妻は常に病気で、ほとんど健康な日とてはなかった。
その間に一人の女児を儲けたが、N氏の家族は妻の病気のために不快な日がつづいた。

N氏が三回目に逓信省の辞令によって洋行したとき、N氏はどういう考えだか、
その夫人との13年間の結婚生活を解消すべく離縁状を送った。

夫人が結婚生活以来13年間の病気は、その結婚解消と同時に
たちまち完全に治ってしまったのであった。

N氏は今また別の婦人と夫婦生活を営んでいるが、常に夫婦喧嘩の絶え間がないそうである。
中島さんの話はこれだけである。あとはわたしの感想である。

第一の約束は先取的特権として最高権威をもち、ぜひとも守られるべきものである。
守らないくらいならば、イエス・キリストも「誓うなかれ」といったように
約束すべきではなかったのである。

やむをえずに約束を破らねばならぬようになったならば、一片の葉書などで破約すべきではない。
先方が大調和の心持で快諾するまで十分話し合って、心残りのないように十分合理性を持たせて
事件を落着せしむべきものである。

最初の約束を破って、N氏が結婚した二人目の夫人が始終不健康であったのは、
最初の婦人の恨みの念が、二番目の婦人を縛っていたのだとも解することができるのである。

あるいはN氏自身の自己審判の潜在意識が夫人に移入して夫人が13年間も病気していたのだ
とも解せられる。ともかくとうとうN氏は二番目の婦人を去ることによって、
最初に約束をしたその婦人に申し訳をしたのである。

言葉で十分相手に申し訳をして潜在意識がその行為の合理性に納得せしめられていたならば、
生活や行為に不幸な現象を現わして最初の夫人に申し訳する必要はなかったに相違ないのである。

           <感謝合掌 令和2年2月26日 頓首再拝>

理で支配されている世界で戦う人生の武器は「理論」 - 伝統

2020/02/27 (Thu) 02:29:54


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月27日)」より

合理性 ―― ということは現象を決定する大いなる要因となることがある。
この世は理で支配されている世界なのである。
理責めにすれば幽霊や病気でさえも消えることがある。

『般若心経』で幽霊が消えるのは、それは高遠な哲理の表現であるからである。
病患部に対し神想観をして、「完全なる神の造り給いしこの世界には、本来病気は存在しえない
のだ」と理論を繰り返し繰り返し黙念することによって不治の病気が治るのは、
「ある」という病気の主張に対して「無し」という理責めの方が打ち勝つからである。
(治病のための施念法の詳細は拙著『健全の真理』生活応用篇を参照せられたい。)

通俗医書を読んで素人が病気にかかりやすくなるのは、
「病気が《ある》」という理論の方がその人の心の中で優勢になるからである。

理責めのこの世界において、われわれの戦う人生の武器は「理論」であるのである。
多少理論に飛躍はあっても、光明のみがこの世に存在すると理論体系「生命の実相」を
自分の心のうちに蓄積する者は、病気を征服し、艱苦を征服し、ついに自己の人生を
征服して光明の人生と化しうる。

           <感謝合掌 令和2年2月27日 頓首再拝>

われは、ただ喜ぶことだけ - 伝統

2020/02/28 (Fri) 02:47:43


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月28日)」より

よろこび、よろこぶところに喜びが集ってくる。
昨日もよろこび、今日もよろこび、明日もよろこぶ。
よろこぶ心で世界を見ればみんながよろこんでいる。

お空がよろこび、空気がよろこび、光線がよろこび、新緑がよろこび、
子鳥がよろこび、鳩がよろこび、人間がよろこんでいる。
心がよろこべば、太陽が万物に照ったように万物が輝いてみえる。

心が暗くなれば、太陽が陰ったように万物が暗く見える。
わたしの仕事はただ喜ぶことだけである。

           <感謝合掌 令和2年2月28日 頓首再拝>

名前
件名
メッセージ
画像
メールアドレス
URL
編集/削除キー (半角英数字のみで4~8文字)
プレビューする (投稿前に、内容をプレビューして確認できます)

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.