伝統板・第二

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英霊の言乃葉 ⑦ - 夕刻版

2020/01/01 (Wed) 18:15:35

靖国神社社頭掲示~令和2年1月


大和魂

陸軍兵長  吉田稔 命

昭和20年1月20日
フィリピン ルソン島ラウニオン州にて戦死
群馬県桐生市小曾根町出身 24歳



出陣に際して一筆申し上げます。

当地にて明日への英気を養ひ西代旅館には、いといと御世話様になり
愈々出発も真近(まじか)になり、こんばんは一同十数名にて
質素な出陣の指揮を施行し実に愉快な一時(ひととき)でした。

この上は大いに神州の正気(せいき)を振り起して、
断固聖戦完遂の道に向かって邁進し、万一の場合は従容として
死に就く覚悟で御座います。

 7月28日晩

                     稔 より

父上様

  身はたとひ南の海に散らむとも

    永遠(とわ)に生きなむ此の大和魂  

   ( https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html )

            <感謝合掌 令和2年元日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成31年1月 - 伝統

2020/01/02 (Thu) 17:55:55


愛児への便り

陸軍大尉 木目田知 命

昭和十九年ニ月二十八日
ニューギニア・ウエワクにて戦病死
東京都南多摩郡南村出身
四十二歳

  → https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/2a5d69e95b9762bd1841f50327e18ff0

           <感謝合掌 令和2年1月2日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成30年1月 - 伝統

2020/01/03 (Fri) 18:23:04


思ひ出の日

陸軍曹長 川本 重俊 命

昭和二十年三月八日 
ビルマ、チャウピュー県カンゴー付近にて戦死
兵庫県武庫郡御影町出身 
二十八歳


御無沙汰致しました。

相変はらず御両親始め皆元気の事と思つてゐますが、
随分寒さもきつい事でせう。俊征も寒さに負けず大きくなつてゐますか。

こちらは相変はらずの暑さで、皆は特にむしむししてゐて一日中汗が滲んで、
毎日洗濯と水浴に追はれている様です。

然し皆元気で頑張つてゐるから安心して下さい。

こちらで正月元旦に写した写真が出来上がつたので、
郵便で今日送りますが、この葉書よりは大分遅れる事でせう。

一枚は松の代はりに椰子(やし)の葉で飾つた門松を背景に
日章旗(にっしょうき)を中に立てて、隊長殿、森川大尉殿を中心にして。

別の一枚は、裸で餅つきの風景を撮つたのですが、
残念ながら臼(うす)が下にきれて見えなくなりました。
後ろに写つてゐるマンゴの樹が、今を盛りと香りを放つてゐます。

来月あたりには、実が熟して来て兵隊を喜ばせる事でせう。

(中略)

俊征も近く満一年、可愛い姿を偲んでゐます。
昨年の今日の寒さを思ふにつけても皆さんの健康を案じてゐます。

呉々も御自愛、俊征の養育にも充分注意して間違ひの無い様。

三月七日 思ひ出の日

            ・・・

『1月拝殿掲示』
       
  明治天皇御製

       神祇  (明治35年)

     やすからむ世をこそいのれ天つ神
     くにつ社に幣をたむけて

 ( http://sukurari1945.blog48.fc2.com/?m&no=3720 )

           <感謝合掌 令和2年1月3日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成29年1月 - 伝統

2020/01/04 (Sat) 19:07:01


母上様

陸軍伍長 舩崎 一義 命 

昭和二十年三月三十日
ソロモン諸島ブーゲンビル島バインにて戦死

熊本県天草郡深海町出身 
二十七歳


お母上様、二十余年間何一つの孝行もできず随分と永らくお世話になりました。
もとより、この身は天皇陛下に捧げしもの
毛頭生還を期せず。

一義は笑つて如来様やお父上の浄土に参ります。
白木の箱が届いたら、良くやつたと褒めてやつて下さい。

村長様始め村の皆々様に厄介になつたと、呉れぐれも宜しく伝へてくださいませ。
お父上に別れ、又兄に別れる妹弟を立派に養育してやつて下さい。
ではお母上様、何卒老後は一層健康に注意されて随分と達者でお過ごしくださいませ。

さやうなら。
                                      
           一義
お母上様


・・・

『1月拝殿掲示』
       
  明治天皇御製
           新年祝      (明治45年)

     新年(にひどし)をいはふあしたはちはやふる
     神代にかへるここちこそすれ

 (http://sukurari1945.blog48.fc2.com/?mode=m&no=3331

           <感謝合掌 令和2年1月4日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成28年1月 - 伝統

2020/01/05 (Sun) 19:08:53


父上様

陸軍兵長 福島 實 命 

昭和十九年一月十日
フィリピンにて戦死

佐賀県神埼郡東脊振村出身 
二十六歳


拝啓、その後父上他御一同様には、御変はりなく元気の事と思ひます。
實も相変はらず元気ですが、先日敗残兵の敵弾に右肩を見舞われ、
目下手厚く看護を受けてゐます。傷は浅く心配御無用です。

左は自分が作った詩です。
あまり良くできてゐませんが、御送り致します。
時候柄御自愛専一。
                        
                  敬具

                                     

父上様


武人は名を惜しむ 
咲いて大和の山桜 散って九段の宮柱

千代八千代 栄える大和仰ぎ見る 
君のめぐみのいとどたふとし

千代八千代 敵は幾万来たれども 
びくともしまじ大和魂

支那海の波路の上に父恋し


http://seirei.org/?p=719

           <感謝合掌 令和2年1月5日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成27年1月 - 伝統

2020/01/06 (Mon) 18:43:57


遺書

陸軍軍曹 本 多  正  命

昭和十九年二月二十四日
マーシャル諸島ブラウン島にて戦死

東京都新宿区牛込改代町出身 
二十四歳


妹へ

呉々も身体に注意して俺の分まで母さんに孝養を尽してくれ。

古来の日本婦人の如く、又、母さんの様に我を強く内に蔵して

しとやかな日本婦人になる様修養してくれ。

よき母こそ日本を実に興隆させる原動力になる事を自覚して。

言ふなかれ一髪のみと我が魂は

  七度生まれ祖國守らば

                         正

澄子殿

   ( http://seirei.org/?p=677 )

           <感謝合掌 令和2年1月6日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成26年1月 - 伝統

2020/01/07 (Tue) 19:40:13



書き遺す事

陸軍上等兵 吉野浩藏命

昭和二十一年一月三十日
ソ連シベリヤセミノフカ地区
第十二収容所にて戦病死

新潟県柏崎市比角出身  
二十一歳


此の期に及んで何も書き遺す事も御座なく候へども、
此の世の名残に一筆書き残し候。

万一小生戦死の報行くも、小生は欣然(きんぜん)として国難に殉じ、
笑って帝国の礎石となり候間、決して嘆く間敷(まじく)候。

顧れば生を受けてより二十年、只御厄介になるのみにて、
何一つとして親孝行も致さず、今更ながら後悔の外無之(これなく)候。

然しながら忠孝一本とか君に忠なる事、即ち親に孝と存じ候。

我軍の戦況、愈々不利に相成候へども、
小兵等は日本の国民として情勢の如何に拘らず全力を尽して、
自己の任務に邁進すべきと存じ候。

夜青白き月光の木陰よりもるゝを見れば、
想ひは遠く故郷の空にはしり申し候。

小生の亡き後も皆様には、帝国軍人の遺族として見苦しき事のなきやう、
勝利の日迄仇敵米英の撃滅に邁進致され度候。
簡単乍(なが)ら右を以て遺書と致し候。
 
昭和二十年六月二十一日 十四時
      箇山(済南の南約十五里)にて
      雨の音を聞きつゝ
                          吉野浩藏

・・・

『1月拝殿掲示』

  御  製

       歌会始御題  風     (平成4年)

    白樺の堅きつぼみのそよ風に
    揺るるを見つつ新年(にひどし)思ふ

   (http://sukurari1945.blog48.fc2.com/?mode=m&no=1843 )

           <感謝合掌 令和2年1月7日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成25年1月 - 伝統

2020/01/08 (Wed) 21:16:45


元気でやって参ります

海軍少尉  束原政春命

昭和二十年一月二十日
台湾南方洋上にて戦死

青森県青森市大字栄町出身
二十五歳


四年目の正月を遂に、内地で迎へる事が出来ました。
正月早々、某方面へ出撃、又一働きする機会に恵まれました。

元気でやって参ります。
家の方もみんな元気で、土産ばなしでも待ってゐなさい。
時々、亡き戦友の仏前へ参って下さい。

荷物は、鉄道便で不要の物全部送ります。
破れた靴下やシャツが入ってゐますから、修繕して使って下さい。
大したものはないですが、何かの足しになるでせう。

荷物の中に手入してないものや、洗濯してないものがある予定ですから、
よろしく御保存方御願ひします。

みんな体を大事に働き、勉強する事。
では、又便りします。

不 備
束原政春
  束原悦子殿

 酒の肴等送ってしまったのでしたら仕方ありませんが、未送付なれば送らずに下さい。

・・・

『1月拝殿掲示』

   御製

   歳旦祭         (平成17年)

    明け初むる賢所(かしこどころ)の庭の面(も)は
    雪積む中にかがり火赤し

  (http://sukurari1945.blog48.fc2.com/?mode=m&no=1402 )

           <感謝合掌 令和2年1月8日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成24年1月 - 伝統

2020/01/09 (Thu) 19:42:17


雑煮も汗を出して腹一杯戴きました

陸軍伍長  松浦義一命

昭和十八年一月十日
ソロモン群島ガダルカナル島
タサワロングにて戦病死

愛知県東春日井郡小牧町出身
二十五歳


前略。
待ち遠しかった内地からの第一信の航空便、先月二十七日に受取りました。
余りの嬉しさに幾度もくも読み返しました。

実に、便り程いいものは有りません。
お手紙によって故郷の様子もよく分り大変喜んで居ります。
大分寒くなった様子ですね。
此方も先月は大分朝夕冷えましたが、一月になってからは寒い日はありません。

(中 略)

次に十六年の元旦は討伐中に迎へ、実に感慨無量なものがありました。
正月の三日間も実に愉快に送りました。
雑煮も汗を出して腹一杯戴きました。

兵舎の前の門松も実に堂々たるものです。
この門松の前で写真を撮って戴きましたから、
これも出来次第お送り致します。

次に同封の写真二枚は任地に到着間(ま)もなく撮って戴いたものです。
御笑納下さい。
それから、この外まだ色々の写真がありますが、これ等も追々御送り致します。
兎(と)に角(かく)、写真の通りの元気さですから御安心下さい。(後略)

一月四日

義 一
 父 上 様


 ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/6b4331095c6d5784b3ee0f010d286270 )

・・・

『1月拝殿掲示』

 皇后陛下御製

    歌会始御題      (平成19年)

   年ごとに月の在りどを確かむる
   歳旦祭(さいたんさい)に君を送りて

   (http://sukurari1945.blog48.fc2.com/?mode=m&no=836 )


           <感謝合掌 令和2年1月9日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成23年1月 - 伝統

2020/01/10 (Fri) 20:53:41


遺書

陸軍伍長  清水誠藏命

昭和十八年一月十六日
ガダルカナル島セキロ河東方にて戦死

静岡県志太郡島田町出身  二十四歳


お母さん、最后の書をしたためます。
入営前及び入営后の今日に至るまで、何等孝行らしい事も出来得ず、
御世話になるばかりでした。

あの歴史的香港攻略戦には、途中矢つき病魔に倒れたは日本男子として、
又日本軍人として此の上もなきはづかしき事と、
病院の寝台の上にて涙にぬれて眠れない夜も数日続きました。

スマトラ攻略を終へ、将又香港の汚名をそそぐべき最后の御奉公する時節到来。
靖国神社にて対面出来る事も、遠からぬ事と思ひます。
何卒宜敷く御願ひ致します。

此れだけ書けばもう言ふ事はありません。
喜んで死んで行ったと、弟妹等にも言って下さい。

では、今度靖国神社にての再会楽しみに待って居ります。

誠 藏
母上様

  ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/9df3e90e3b3bca88d7b52be84a0d0232 )

・・・

 『1月拝殿掲示』
 明治天皇御製
    新年 (明治37年)

 朝づく日とよさかのぼる大空に
 のどかなる世の年たちにけり

  (http://sukurari1945.blog48.fc2.com/?mode=m&no=366 )


           <感謝合掌 令和2年1月10日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成22年1月 - 伝統

2020/01/11 (Sat) 21:10:52


僕は唱歌が下手でした

陸軍憲兵曹長 佐藤 源治命

昭和二十三年九月二十二日
ジャワ島バタビヤにて法務死

岩手県出身 三十二歳


一、僕は唱歌が下手でした
  通信簿の乙一つ
  いまいましさに人知れず
  お稽古すると母さんが
  やさしく教へてくれました

ニ、兄弟みんな下手でした
  僕も弟も妹も
  唱歌の時間は泣きながら
  歌へばみんなも先生も
  笑って「やめ」といひました

三、故郷を出てから十二年
  冷たい風の獄の窓
  虫の音聞いて月を見て
  母さん恋しと歌ったら
  みんなが泣いて聞きました

四、僕のこの歌聞いたなら
  母さんきっとうれしさに
  頬すり寄せて抱き寄せて
  「上手になった良い子だ」と
  ほめて下さることでせう

(昭和二十三年六月三日)

  (https://murauchi.info/weblog/2010/01/bokuha_shoukaga_hetadeshita.html )

           <感謝合掌 令和2年1月11日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成21年1月 - 伝統

2020/01/12 (Sun) 20:03:12


悠久の大義に生きたり

陸軍准尉 中山 義雄命

昭和二十一年一月十日
ソ連ハラグン収容所にて公務死

東京都港区芝西久保櫻川町出身 三十二歳


徒らに嘆くを止めよ。
吾笑ひて悠久の大義に生きたり。

児孫の養育及教育は妻たる然して母たる
御身の責務たり。吾が生前の言葉の如く、
立派なる御国の吾子の教育をせられたし。

男の子なれば、士官学校に入校せしむべく、教育せられたし。
女の子なれば結婚期に細かく心遣ひて、幸福なる家庭の主婦とすべし。

残せし資産は有効に使ひて、教育を怠ること勿(なか)れ。
父母の孝養は吾に代りて誠意之(これ)をなすべし。
資産の中、伍阡圓は父母様にお渡し申上ぐべし。

(中略)

吾子は吾と心得、亦お国の御宝と心得て
時に秋霜烈日、時に慈愛以て臨まれたし。
                      謹 言
昭和十九年八月二十三日
                  中 山 義 雄

 ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/824a0697f0e1c391368caacfb19709ba )


           <感謝合掌 令和2年1月12日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成20年1月 - 伝統

2020/01/13 (Mon) 19:52:31


出陣に際して

海軍大尉 塚本太郎命

昭和二十年一月二十一日
中部太平洋方面にて戦死

茨城県稲敷郡龍ヶ崎町出身 二十二歳


父よ、母よ、弟よ、妹よ、
そして永い間はぐくんでくれた町よ、学校よ、さようなら。
本当にありがとう。
こんな我ままものを、よくもまあほんとうにありがとう。

僕はもっと、もっと、いつまでも皆と一緒に楽しく暮らしたいんだ。
愉快に勉強し皆にうんとご恩返しをしなければならないんだ。
春は春風が都の空におどり、みんなと川辺に遊んだっけ、夏は氏神様のお祭りだ。
神楽ばやしがあふれてる。

昔はなつかしいよ。
秋になれば、お月見だといってあの崖下に「すすき」を取りにいったね。
あそこで、転んだのはだれだったかしら。

雪が降り出すとみんな大喜びで外へ出て雪合戦だ。昔はなつかしいなあ。
こうやって皆と愉快にいつまでも暮らしたい。

喧嘩したり争ったりしても心の中ではいつでも手を握りあって
――然しぼくはこんなにも幸福な家族の一員である前に日本人であることを
忘れてはならないと思うんだ。

日本人、日本人、自分の血の中には三千年の間、
受け継がれてきた先祖の息吹きが脈打ってるんだ。 

(中略)

至尊の御命令である日本人の血が湧く。永遠に栄あれ祖国日本。
みなさんさようなら――元気で征きます。

 昭和十八年十二月十日

  ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/816818164e40b3c38881e678ec196239 )

           <感謝合掌 令和2年1月13日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成19年1月 - 伝統

2020/01/14 (Tue) 19:39:31


「愛しきものへ」


陸軍中尉  山下 瀞 命(みこと)

昭和19年12月7日 
サイパン島にて戦死
静岡県出身  23歳



  父上母上様 

瀞は幸者でした 
喜んで笑って行きました 
最大の親孝行も致しました 
安心して行きました

専門教育迄受けさせて戴き我儘をやって来ました
故郷の山河、浜名の湖水に、遠州灘に、瀞の魂は幸福に寝っています。

姉様楽しき日を御祝致します

満雄、後は頼んだぞ 

士郎、俺の分まで孝行してくれ 

益雄、しっかり勉強して偉い人になれよ 

多可士、御母様の手伝をしなさいよ 

悟朗よ、益雄、多可士の面倒を見てやれよ

瀞様は皆を何時もあの青空で見ていますよ

     一億の人に一億の母あれど  吾が母に優れる母あらめやも

御母様古賀幸子様に宜しく御伝へ下さい
                        では さやうなら

 ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/a93a122e3601d550b550d628f1247c1f )

           <感謝合掌 令和2年1月14日 頓首再拝>拝>

靖国神社社頭掲示~令和2年2月 - 伝統

2020/02/01 (Sat) 23:54:08


さよなら花ちやん


陸軍上等兵  餌取 哲夫 命(みこと)

昭和19年10月14日 
中華民国湖南省郡陽県にて戦禍死
大阪府和田氏光町出身  25歳


会ひたかったけれど、会へずに行きます。
子供の顔もみたいけれどもこれも運命だ致し方ない。

 今日あたり発たとうと思つてゐるとこへ、電報が飛び込んできた。
まさかこんなに早く来るとは思はなかったので一寸まごついた。
お前や子供の事ばかりが頭に浮かんで熱病につかれたやうな気がする。

 まあしかし愚痴はよさう。
お前も僕の妻らしく、あつさり諦めて、待つてゐておくれ。
日頃の僕の注意をよく守つてね、母上の事もよろしく頼みます。

(中略)

 お前の写真ももらつたよ。戦友が良い女房を持つていると、
羨ましがつてゐた。真つ赤になつたけれど、やはり嬉しかつた。
当分は手紙出せないと思ふけれど、やがて出せるやうになつたらどしどし出す。
赤ん坊の写真撮れるやうになつたら撮つて頼む。
どんな顔しているかな楽しみだよ。

(中略)

 花ちやん、だけど今一度会ひたいねえ。しかしこれは誰も悪くないんだ。
やはり運命のいたづらだよ。そのことはもう言うふまい。
そのうち矢の如き光陰を送る事ができるよ。

 さよなら花ちゃん、さよなら〇子、さよなら僕の第二世君。元気でね。元気でね。
僕ももう軍人らしく何も言はない。たのむよ、たのむよ。

                               哲夫

花子殿

   ( https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html )

           <感謝合掌 令和2年2月1日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成31年2月 - 伝統

2020/02/02 (Sun) 23:11:26


遺書


陸軍上等兵  有馬 英治(ひではる)命(みこと)

昭和19年7月18日 
マリアナ諸島にて戦死
和歌山県和歌山市橋向町出身  37歳


家事に関しては、もはや指示する事は無い。
再三支持する如く無理せず生活せよ。
お前の両親には自分にかわって十分孝養盡せ。

(中略)

たとへ今後いかなる事が有ろうとも決して驚かず、
只一途(いちず)に子供の生長を楽しみに生計を立てよ。

子供の親として又、夫して及ばす乍(なが)ら責任を盡せる
今日、何ごとも心残りは無い。
あとは二世(にせい)を契りし、お前に総てを頼む。

勇躍国難の為、妻子を顧みず一路南方に向かふ。

(中略)

いかなる遠地に有るとも又、万一の事が有り国家の為に死するとも
父は夫は、お前たち親子の幸福を祈り、
身辺を護り居る事を決して忘れるな。

では進退を大切に愚かな父も子供を思へば、涙一滴静かにおとす。
再び願ふ子供のことを。


                      英治より

ツネ子へ

   ( https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html )
https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/5de98a0aaafb4389eb4b20ab6d0d5e91

           <感謝合掌 令和2年2月2日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成30年2月 - 伝統

2020/02/03 (Mon) 22:22:55


遺書

陸軍歩兵軍曹 相本 友輔 命

昭和十三年四月二十三日     
北支・山東省黄塾付近にて戦死
山口県都濃郡下松町出身 
二十九歳
 

母上様、三十歳の今日まで長い間養育下さいまして、
何の御恩に報ゆる事も出来ず残念です。

天皇陛下の為に戦死します。
かねてより覚悟はしてをります。

卑怯な真似は決して致しません。
母上の日頃よりの教訓は守ります。

笑つて死にます。勝史や妻の事、母上の後援なくては立たぬものです。
祖父母は、もはや年老いてをります。
一家円満に暮らされますやうに。

私亡き後は勝史や妻は頼りなき者です。
今まで通り懇切な御愛顧を願ひます。

(中略)

末永く祖父母と仲良く暮らされるやうにと、靖国神社より神となつて護ります。

                     陸軍歩兵伍長 相本友輔

 母上様

・・・

『2月拝殿掲示』
       昭和天皇御製
           社頭神拝  (昭和20年)

  風さむき霜夜の月に世をいのる
  ひろまへきよく梅かをるなり

http://sukurari1945.blog48.fc2.com/blog-entry-3776.html


           <感謝合掌 令和2年2月3日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成29年2月 - 伝統

2020/02/05 (Wed) 00:13:28


豆まきの絵ありがたう


海軍大尉 高橋 武男 命 

昭和二十年五月八日
フイリピンルソン島にて戦病死
千葉県香取郡神代村出身 
四十四歳


佐衛子 お手紙と豆まきの絵ありがたう よくかけて居ります
みんなげんきでやつて居るところが よく分るやうです
お父さんはよろこんで居ります

たてやまはまだたいへんさむいさうですね それでもだれもかぜを
ひいた人もなく みんなげんきでよいです
お父さんもげんきではたらいて居ります

せつぶんの豆は お父さんにおくつてくれなくてもよいです
お父さんは おふねでせつぶんの豆をたべました
ぐんかんには お豆もお正月のおもちもあります

みんなおりこうさんなので 
お父さんほんとにうれしくおもつて居ります 

これからもよくおべんきゃうをして 
よくおべんきゃうができるやうになりなさい

お母さんのいふことをよくきくと 
ふゆやすみにいなかへつれてゆくさうです 
よくおべんきゃうをして みんないなかへつれていつてもらひなさい

さむくなるから かぜをひかないやうにきをつけなさい

お父さんもピンピンして げんきではたらいて居ります

                         お父さんより
佐衛子へ

・・・

『2月拝殿掲示』

       明治天皇御製

           寄国祝      (明治38年)

     うけつぎてまもるもうれしちはやふる
     神のさだめしうらやすの国

    (http://sukurari1945.blog48.fc2.com/?mode=m&no=3350

    (http://sukurari1945.blog48.fc2.com/blog-entry-3350.html

           <感謝合掌 令和2年2月4日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成28年2月 - 伝統

2020/02/05 (Wed) 23:28:44


遺言状

陸軍伍長 西田 義雄命 

昭和二十年二月二日
フィリピンルソン島にて戦死

福岡県福岡市馬出出身
二十五歳


天皇陛下の御為に戦死す。

武人の面目にして男子の本懐なり。

若木の花に薫る我が挺進工兵隊、
国防の第一線に立ちて職責の重(じゅう)且(か)つ大なるを思ふ。

ただ感激と感謝のみ。

父母様に先立つも君に忠ならば、また親に孝なり。

私の戦死を喜ばれたく。

兄亡き後は、弟妹相助けて兄の分まで孝養を尽されたし。

終はりに臨み父様母様の御健康を切に祈る。


陸軍挺進工兵隊  義雄

https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/3642d7c69027a9b0cae6cc7830ce2749?fm=entry_awp

           <感謝合掌 令和2年2月5日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成27年2月 - 伝統

2020/02/06 (Thu) 23:46:17


遺書

陸軍中尉 相良安次郎命

昭和二十年一月十九日
フィリピンルソン島にて戦死

熊本県熊本市寺原町出身
二十五歳


母上様 色々御世話になりました。
安次郎は名実共に日本一の野砲兵を率ゐ、
赤鬼青鬼共を討ち平らげに征きます。

生を享けて一番重大であり、亦名誉ある小隊長として
幾十人の兵達と生命を倶にします。

総反攻を叫ばれてより待つこと暫し、常に冷静沈着事に当たる覚悟です。

母上様を始め皆様方も充分御身体を御大切に相成り、
御幸福に過されん事を切望します。

最後に直臣兄上、榮子姉上を始め皆様に
安次郎の生前うけましたる御厚情に対し厚く御礼申し上げます。
では靖國で。

                        安次郎

母上様

・・・

<関連Web:英霊の声(H27/02)
       http://seirei.org/?p=675 >

           <感謝合掌 令和2年2月6日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成26年2月 - 伝統

2020/02/07 (Fri) 23:24:39


妹への便り

海軍二等整備兵曹 宗像富男命

昭和十九年二月六日
南洋群島にて戦死

福島県石川郡蓬田村出身 
二十四歳

喜久ちゃん、しばらく。御無沙汰しましてすみません。
私もますます元気で御国の為に働いてゐますが、喜久ちゃんは元気ですか。
さうして毎日学校に通ってゐますか?

月日の経つのは早いものですね。御別れしてから早二年。
その間によく先生の言ふ事、御父さん御母さんの言ふ事を聞いて立派に、
そして大きくなったでせう。

あへるものだったら本当に逢ひたいです。
今はいそがしいから学校から帰ると子守でせう。
でも子守をしながらでも良く勉強しなくてはだめですよ。

コウちゃんも元気でせう。
みんな仲良く暮しなさいね。
では又、何時(いづ)れ。

・・・

『2月拝殿掲示』

     皇后陛下御歌

       歌会始御題  立     (平成25年)

    天地(あめつち)にきざし来たれるものありて
    君が春野に立たすに近し

  (http://sukurari1945.blog48.fc2.com/?mode=m&no=1882


           <感謝合掌 令和2年2月7日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成25年2月 - 伝統

2020/02/08 (Sat) 23:33:00


大義に生きんと覚悟致して居ります

陸軍少佐 橋詰良直命

昭和二十年二月二十四日
東部ニューギニア・イロップにて戦死

新潟県中頸城郡板倉村出身
二十五歳


皇紀二六〇四年の新春を迎へ、謹みて新年を賀し奉ります。
御両親様には、愈々御壮健にてお暮らしのことと推察致し喜んで居ります。

当方面戦況益々緊迫を告げ、元旦と雖(いえど)も
全てを忘れて新年を祝することも出来ず、頭は常に戦場に馳せて居ります。

敵情急速に変化を来し、今や敵を至近の距離に迎撃せんとして居ります。
或はこれにて最後となるかも知れませんが、決して犬死はせん覚悟であります。

目下、某要職に就いて居ります。
部下も或は沢山戦死をするでありませう。
部下のみを殺しは致しません。

○○と運命を倶(とも)にし、身命の存する限り一意宿敵撃滅に邁進致します。

幼にして父母の膝下(しっか)を離れ、何等孝養を尽し得ざりしは
甚だ残念に且、心残りではありますが、大義に生きんと覚悟致して居ります。

兄さん弟には宜敷くお伝へ下さい。
近所の皆様に宜敷く。
猶、私戦死の時は伊藤様にのみお伝へ下さい。

ここに最後のお便りをなし、お別れ致します。

敬 具


 ( https://devlin.blog.so-net.ne.jp/2013-03-04-1 )

・・・

『2月拝殿掲示』

   大正天皇御製

   馬上雪         (大正3年)

    降り積る雪をけたてゝつはものも
    駒もいさめり靑山のはら

   ( http://sukurari1945.blog48.fc2.com/?mode=m&no=1429 )

           <感謝合掌 令和2年2月8日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成24年2月 - 伝統

2020/02/09 (Sun) 23:44:18


娘たちへ

陸軍伍長  山田 進命

昭和二十一年二月十五日
ソ連ウスリー州にて戦病死

東京都淀橋区諏訪町出身
四十歳


明代、靖子へ
お前達は、父亡き時は母は病身の事故(ことゆえ)、
心配を掛けぬ様、お祖母様の処にて育てて戴け。

それで明代は、もう大きいのだから自分の事は自分でやる様。
自分で出来ぬ事以外は、他人に頼まぬ様、堅く是を実行せよ。

靖子は、祖母と母や伯父伯母皆様の言ふ事を聞いて大きくなる様。

そして、お前達は少なき姉妹なれば、一生仲良く暮す様。

身体を大切にせよ。
自分の身体と思ふな。
世の為、神様より御預かりして居るものと思へ。

では、父はお前達を何時も守って居るよ。

父より

・・・

『2月拝殿掲示』

 香淳皇后御歌

    社頭寒梅      (昭和20年)

   御民らのこころさながら紙垣の
   さむさにかちて梅も咲くらむ

   ( http://sukurari1945.blog48.fc2.com/?mode=m&no=882 )

           <感謝合掌 令和2年2月9日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成23年2月 - 伝統

2020/02/10 (Mon) 23:30:58


遺書

陸軍少尉  前田健三命

昭和十九年二月二十四日
中部太平洋方面にて戦死

三重県鈴鹿市一ノ宮町出身 三十二歳


御両親様へ

只、一人ノ幸子ヲ北満迄寄コシテ下サッタ事ヲ、常ニ感謝シテヰマス。
少シノ孝養ヲ尽ス事ナク、カへッテ御心配バカリオカケシテ、申訳有リマセン。

若クシテ夫ニ離レタ幸子。
幼クシテ父ト別レタ富美子及来春生レテクル子ノ
好(よ)キ父母トナリ、祖父母トナッテ、軍人ノ妻トシテ遺児トシテ、
立派ナ日本人ニ育テラレル様、御願申上ゲマス。

私ハ今何ノ心配モナク、笑ッテ散リマス。


幸子へ
結婚以来二ヶ年、其ノ間軍人ノ常トハ言ヒナガラ、
何等夫トシテノ愛情ヲ傾ケル事モナク、別レルノヲ御詫スル。
充分健康ニ注意シ、御両親ニ孝行ヲシ、子供ヲ有為(ゆうい)ノ士ニ育テラレヨ。

常ニ幾多靖國ノ神トナラレタ人、及其ノ妻、子ノ事ヲ思ヒ修養シ、
婦徳ヲ収メラレヨ。
次ハ、靖國ノ社頭デ会ハウ。


富美子及来春生レル子へ
父ヲ知ラナイ諸子ハ、可愛想デアルガ、身体ヲ鍛ヘテヨク勉強シ、
母ノ言フ事ヲ守ッテ立派ナ日本人ニナレ。
母ハ若クテ父ニ別レ、御身等ノ為ニ強ク生キ、
凡(あら)ユル苦難ノ道ヲ歩ンデキタノデアルカラ、
充分孝養ヲ尽クシ、イツイツ迄モ労(ねぎら)ッテクレ。

父ハイツモ諸子ノ幸福ヲ祈ッテヰル。

<参考:https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/d6e29916c8097b0ad85017eebc0a59da >

           <感謝合掌 令和2年2月10日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成22年2月 - 伝統

2020/02/12 (Wed) 00:37:25


遺 書

海軍大尉 松枝義久命

昭和二十年二月二十日
比島 コレヒドール沖にて戦死

福岡県出身 二十四歳


生ヲ皇国ニ享ケ天恵洽(あまね)クシテ楽々悠々タル二十有余年
君恩ノ宏遠深厚ナル一死以テ酬イントシテ余リアルモノニ候
義久斯(ここ)ニ大任ヲ拝シ恐懼感激措(お)ク處ナク唯々身ノ
光榮ニ戦(おのの)クモノニ候

一髪尚軽ク君命ノ重ナル今日程痛感セル事ハ御座ナク候
身更ニ生還ヲ期セズ 親ニ先立ツ不幸ノ罪何卒御許シ下サレ度候

鶴脚ノ如ク細キ赤坊ニ米汁トギスマシテ含マセラレ
或ハ病魔ノ拂(はら)ヒニ時ヲ屡(しばしば)シテ
御両親様ニハ幾度カ御心配ヲオカケ申候

義久今日ノ姿誠ニ御両親様ノ賜ニ候

兄上様姉上様弟妹ニ対シ我生涯ノ恩ヲ謝スルト共ニ
小生ニ代リテ忠孝ヨク致サルベク御願仕候

此ノ度ノ戦争ハ百年戦争ニ候ヘバ忠ヲ楠氏ニ比シ孝ヲ尊徳ニ比サルベク候

永ラク御付合ヒ下サレタ皆々様ニ対シ宜敷ク御伝ヘ下サレ度 
尚若キ可愛ユキ数百ノ部下ノ御遺族ニ対シマシテハ誠ニ気ノ毒ニ候ヘバ
小生ニ代リテ深ク謝シ下サレ度候
最後ニ謹ンデ大日本帝国ノ萬歳ヲ御祈リ申上候

  昭和十九年十月                 義久

御両親様

たのしみは 彼方の空の紅を たゞ一すぢに 思ひ込むとき

https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/572c87ec3371c7f7650f1cbb91e69f5f

           <感謝合掌 令和2年2月11日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成21年2月 - 伝統

2020/02/13 (Thu) 00:17:36


靖國の宮に帰ります

陸軍中佐 岩村宏朗命

昭和二十年二月二十一日
ニューギニア島にて戦死

秋田県平鹿郡睦合村出身 二十八歳


御両親様 
(前略)
大和男児に生れ、軍人となるを得、
今や皇國非常の秋(とき)に方り邦家(ほうか)の為、
鴻毛(こうもう)にも比すべき数ならぬこの身を捧げ得るを、
宏朗は無上の光栄と存じて居ります。

(中略)

何れの日か赫々たる武勲の下、靖國の御社に帰る事になると存じますが、
若し武勲御気に召さば、忠孝の児に一掬(いっきく)の香(こう)を
手向(たむ)けて頂きますれば、私には此の上なき喜びであります。

(中略)

國家多事多端の秋、偸安(とうあん)も許さざる今日に於て、
御両親様の御辛苦も大なるものありとは存じますが、
宏朗の魂魄(こんぱく)は止りて皇城を守り、
御両親様を御守り致すことでありませう。

御心強く思召下さい。
今となりましては更に申上げて遺す言葉も御座いません。
遙かに南溟(なんめい)より御両親様の御健康を御祈り申上げ居ります。

            頑児 宏朗

  ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/46fa108c16b693bb38263fbb6ed0c50f )

           <感謝合掌 令和2年2月12日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成20年2月 - 伝統

2020/02/13 (Thu) 23:44:34


出発に際して

陸軍軍曹 亀田榮藏命

昭和二十年二月十六日
フィリピン群島ルソン島
コレヒドールにて戦死

東京都赤坂区新坂町出身 二十九歳


美栄子へ

兄に代りて弟妹を世話し父母に仕ふ。責任重且つ大なり。
責任は人を鍛ふ。天與の試練なり。
負けてはならぬ、きと負けて居られず。

率直に言ふ。
平生兄の言酷なりし点ありたるも激して言ひたるわけならず。
美栄子の強くなる事幸福を祈るの一念より発す。

日本女性たるもの感奮せざるべからず。
兄の努力足らず美栄子に苦労をかけたり、恥ぢ入るのみ。
心からお詫びす。

されど未だ兄の目より見て苦労ずれして
苦労に負けたるの感拭ひきれざる様なるは終生の遺憾なり。
兄の妹ならもっと反駁力ある筈なり。

今後苦労は倍加すべし。
されど美栄子に強さを願ふ兄の気持も倍加す。
期待に副ふ事を切望す。

身だしなみ。女らしさ。しかも強さ。
むずかしき事なれど修養すべし。

以上。兄

( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/58b89e9d5432668dd948881b51a38211 )

           <感謝合掌 令和2年2月13日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成19年2月 - 伝統

2020/02/15 (Sat) 00:46:30


日本遺族通信 平成19年2月15日号
  → https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/efabf69180bfa89e61aa35d76f42085f


           <感謝合掌 令和2年2月14日 頓首再拝>

軍医・高木兼寛、海軍を救う - 伝統

2020/02/24 (Mon) 18:36:59


      *メルマガ「 Japan On the Globe」( R02.02.23)より

全兵員の3分の1もの脚気患者が出るという危機から海軍を救うために、
高木兼寛は命を懸けた実験に取り組んだ。



1.日本海軍に衝撃を与えた脚気患者の大量発生

  クルーズ船での新型肺炎の蔓延で、船内という密閉空間での感染症が
  いかに恐ろしいか知らされたが、同じ恐怖を戦前の我が先人たちも味わったことがある。

  明治15(1882)年の京城事変では、朝鮮宮廷のクーデーターで日本大使館も襲われ、
  政府は邦人保護のために軍艦5隻を仁川沖に派遣した。
  それに対抗して清国も戦艦3隻を派遣して、睨(にら)み合いとなった。

  この時、日本の五隻の軍艦内では多数の脚気(かっけ)患者が発生し、死亡する者もいた。
  もしも清国軍艦と交戦状態となったら、日本の各艦には戦闘に応じる人員はわずかで、
  たちまち危機に瀕することはあきらかだった。

  日本側はこのような事態を清国側に気付かれないよう、
  元気な水兵を集めて艦上でしきりに訓練させた。

  脚気は心不全により、足のむくみ、しびれが起き、
  最悪の場合は心臓発作を起こして死亡に至る。

  江戸時代の元禄年間には江戸で大流行をしたため「江戸わずらい」と呼ばれ、
  激しい脚気が流行した京都では、短期間に死ぬので「三日坊」とも言われた。

  欧米にはない病気で、明治9(1876)年に来日して東京帝国大学医学部で教えていた
  ドイツ人医師ベルツは黴菌による伝染病と考えていた。

  明治天皇は皇后とともに軽い脚気に罹(かか)られた事があり、
  内親王のお一人を脚気が亡くされている事から、脚気専門病院の設立をしてはどうか、
  と政府に伝え、破格の金額を下賜されていた。

  政府も予算を投じ、明治12(1879)年に脚気病院が設立されたが、
  有効な治療法が見いだせなかった。

  海軍病院の軍医・高木兼寛(かねひろ)は、毎日、脚気患者に接していたことから、
  なんとしてもこれらの患者を救わねばならないと、自らこの大問題に取り組むこととした。

  改めて記録を調べてみると、明治11(1878)年には海軍の総兵員数4,528名のうち、
  脚気患者は1,485名、32.8%にも上っていた。
  これではいくら最新鋭の軍艦を揃えても戦えない。

  京城事変での危機的状況は、今に始まったことではなかったのである。


2.「命を救うような医者になりたい」

  兼寛は、嘉永2(1849)年、現在の宮崎県宮崎市高岡町の大工の家に生まれた。
  幼い頃から勉強熱心だったため、周囲の懇切な計らいで、
  鹿児島の蘭学塾に入り、オランダ医学を学んだ。

  慶応4(1868)年に戊辰戦役が始まると、兼寛は薩摩藩小銃九番隊付の医者として従軍した。
  その際に出会った阿波藩の御典医・関寛斎の手術を見て驚いた。
  関は長崎でオランダ海軍軍医ポンペについて西洋医学を修め、最新の外科手術に長じていた。

  ある戦闘で一人の兵士が右背に銃弾を受け、血が止まらない。
  兼寛は銃創は手当てできないため、戸板に乗せて後方の治療所に運んだ。

  そこで出てきた関は、小刀(メス)で胸を切り開き、
  長い鋏(ピンセット)を使って、巧みに銃弾を取り出した。
  兼寛には神技に思えた。
  自分もそんな手術をして、命を救うような医者になりたい、と思った。

  戦争が終わって鹿児島に戻った兼寛は、赴任してきたイギリス人医師に医学を学んだ後、
  明治5(1872)年に海軍病院での勤務を始めた。

  そこでの診療の腕と語学力を買われて、明治8(1875)年には
  イギリスの名門セント・トーマス病院医学校への留学を命ぜられた。
  医学研究のためにイギリスに留学するのは、兼寛が初めてだった。

  セント・トーマス病院はイギリスで最も古い由緒ある病院であった。
  そこで刻苦勉励を続けた兼寛は、首席の成績をとり、外科、産科、内科の医師の資格を得て、
  ついには外科医としての最高の学位を得て、教授になる資格まで与えられた。

  明治13(1880)年に帰国した兼寛は海軍病院長に任ぜられ、
  海軍軍医の世界を牽引していく事が期待された。

  その兼寛にとって海軍の大きな脅威となっていた脚気の問題に取り組む事は、
  当然の責務であった。


3.なぜ、外国の港に碇泊している間は発病しないのか。

  兼寛は、いろいろ調べているうちに興味深い事実を見いだした。
  明治8(1875)年に軍艦「筑波」が太平洋を横断する練習公開をした記録によると、
  ホノルル、サンフランシスコに碇泊している間は発病者は一人も出ず、
  帰途につくと急激に増えていた。

  明治11(1878)にシドニーなどを訪問した際も、碇泊中は発病者はなく、
  帰途に患者が出るという同じ傾向が現れていた。

  彼は「つくば」に乗っていた士官から詳細を聞いた。
  碇泊中は乗組員たちは交替で上陸し、街を歩き、名所を見物して回る。

  「皆、喜んでおりましたが、上陸して食堂で出されるパンを主食とした洋食だけは、
  辟易(へきえき)している者が多くおりました」と士官は笑いながら言った。

  もしかすると、と兼寛は思った。「筑波」がサンフランシスコやシドニーに碇泊中、
  脚気患者が出なかったのは、上陸して洋食を食べたからではないか。
  そして帰途の艦内ではもっぱら和食だけだったので、多くの者が発病したのではないか。

  伝染病なら、外国の港に碇泊している間も、患者が発生してもおかしくない。

  さらに調べてみると、海軍病院に入院している脚気患者は水兵ばかりで、
  士官はきわめて少ないことに気がついた。
  そこで彼は、水兵たちの艦内と兵舎内での食事状況を視察した。

  当時の水兵たちは食費を金銭で受け取っていたが、
  米飯ばかり食べて副食は節約し、貯金をしていた。
  米飯という炭水化物ばかりで、魚などのタンパク質はきわめて少ない。
  ここに原因がありそうだった。


4.明治天皇への言上

  ちょうどその頃、冒頭に記した京城事変での脚気患者の大量発生事件が起こり、
  海軍医務局副長になっていた兼寛は、帰還した各艦から運び出された多くの患者を見て回った。
  病状が悪化して死亡するものが続出していた。

  海軍省に戻った兼寛は、局長に「お願いがあります」と切り出した。
  「士官、兵とも洋食に切り替えたら、必ず良い結果が出ると考えます」

  局長の許しを得て、兼寛は川村・海軍卿(大臣)に上申書を書き、
  幹部が集まった将官会議で自ら説明した。

  しかし洋食に切り替えるには、食費が大きく膨らむ、兵たちの洋食への抵抗がある、
  などの難題から、「将来、兵食制度を改定することにほぼ内定」という
  先送りで終わってしまった。兼寛は深く落胆したが、あきらめなかった。

  その後、兼寛は政府の要人に会う機会があると、かならず、脚気問題が急務であることを説いた。

  ある日、前内務卿の伊藤博文にも説いた所、
  「陛下は、常日頃、非常にこのことをご心配なさっておられる」として、
  明治天皇に拝謁して、直接、言上する機会を作ってくれた。

  明治16(1883)年11月29日、兼寛は川村海軍卿に伴われて、皇居に参上した。

  「残念ながらこの病気の本体はなにもわかっておりません」と述べた後、
  食事が原因であるとの自説を述べ、
  「願わくは陛下の御英断により、速やかに改良いたして下さいますよう伏してお願い申し上げます」
  と、深く頭を下げた。

  天皇のお顔に感動の表情が現れているのを見て、兼寛の目には涙が浮かんだ。

  「いい話をきいた。海軍のために一層努力するように」とのお言葉に、
  兼寛は再び頭を深く下げた。

  その様子に、川村は、これから遠洋航海に出る予定の「筑波」で
  兼寛が建言していた実験を行うことを決意した。


5.「国家の存亡にかかわる重大事であるので」

  しかし、「筑波」の予定航路はハワイ、ウラジオストック、釜山を回るという短いもので、
  真の実験とするためには、その年、ニュージーランド、チリ、ペルー、ハワイという
  大航海を行い、乗組員378名中150名が発病、23名もの死者を出した軍艦と
  同じ航路を採らなければ意味がない、と考えた。

  そのためには莫大な費用がかかり、さすがの川村も難色を示した。
  実験のための予算増額を大蔵省が受け入れるはずもなかった。
  兼寛は、川村の許可を得て、直接、大蔵卿・松方正義に嘆願した。

  松方は「私の一存ではどうにもならぬ」と言いつつ、
  参議の伊藤博文公にお願いしてはどうか、と勧めた。

  伊藤に説明すると、「陛下も深く御憂慮されていることでもあるので」と根回しをしてくれ、
  出航が間近となった時期に大蔵省から「国家の存亡にかかわる重大事であるので」と
  異例の許可がなされた。その結果を聞いて、兼寛は体が熱くなるのを感じた。

  「筑波」の艦長以下、乗組員たちも、兼寛の提案した試験航海を切望していた。
  一同は兼寛とともに献立表を何度も作り直し、それに合わせた食料調達にかかった。


6.「ビョウシャ 一ニンモナシ アンシンアレ」

  明治17(1884)年2月3日、「筑波」は品川沖から出航した。
  その航海は海軍のみならず、天皇をはじめ政府要人の注視の的となっていた。

  もし従来と同様に「筑波」に脚気患者が続出すれば、
  天皇に偽りを述べ、国家予算を浪費した罪を問われて、
  海軍を追放されることもありうる。
  自ら腹を切らねばならない事態も十分、考えられた。

  彼は夜も目が冴えてなかなか眠れず、眠りに落ちても
  「筑波」の至る所に脚気患者が寝ていて、死者を布に巻いて海中に水葬する光景を
  何度も夢に見た。

  食欲が衰え、痩せた。出勤前に、神社に行って長い間、祈りを続けた。

  3月21日にニュージーランド国オークランド港に着いた「筑波」からの報告が、
  ようやく5月28日に届いた。

  肉やミルク、ビスケットを十分に摂った兵員たちは、出発前よりも健康になり、
  きわめて軽い脚気患者が4名出ただけだった。

  しかし、問題はこれからだった。
  前回大量の脚気患者が出たのは、ペルーからハワイまでの航海中だった。

  10月9日夕刻、川村海軍卿から使いが来て、至急、来るように命ぜられた。
  兼寛は不吉な予感に襲われながら、川村の許に急いだ。

  川村は『筑波』艦長がチリからハワイに到着して打った電信文を見せた。

  「ビョウシャ 一ニンモナシ アンシンアレ」

  通信文の文字が涙でぼやけた。歯をくいしばり、嗚咽がもれるのをこらえた。
  「よかったな。高木君」。そういう川村の声もうるんでいた。
  「病者一人もなし」の電文は、兼寛の命も救ったことを、川村は感じているに違いなかった。

  海軍省内も沸き返った。

  「筑波」の献立は、海軍全体に展開された。
  約7千人の海軍総人員のうち、明治16年には患者総数1,236名、死亡者数49名だったのが、
  兵食改革が全面的に行われた18年には患者数わずか41名、死亡はゼロ、
  という画期的な成果が得られた。

  これが後の日清・日露両戦役での海軍の奮闘の基盤となった。


7.陸軍の日清日露における深刻な影響

  しかし、この明らかな成果を認めない輩が多かった。
  当時のヨーロッパではドイツのコッホなどが中心となって、
  炭疽菌、結核菌、コレラ菌などを発見していた。

  東京帝国大学も陸軍も医学修業のために、ドイツに人材を次々と送り込んでいた。
  脚気を病原菌による伝染病と考える先入観はここから来ていた。

  彼らにとっては、兼寛の対策は何も理論的な裏付けのない民間療法に過ぎなかった。
  臨床を重視するイギリス医学自体を見下していた。

  兵食改革でいかに脚気患者が減ろうと、それはたまたま伝染病が下火になった時期と
  偶然に一致しただけだと強弁した。

  コッホなどに師事して帰朝した森林太郎(鴎外)が、細菌説の中心人物となった。
  森は厳密な実験を行って、陸軍の白米を主食とする兵食が最優秀であると主張した。

  明治27(1894)年から翌年にかけての日清戦争では、
  海軍の出動人員3,096名中、脚気にかかったのは34名、死者はわずか1名だった。

  一方、陸軍は朝鮮派兵から台湾平定までの戦死者・戦傷死者1,270名に対し、
  脚気で死亡したのは3,944名と実に3倍以上、発病者に至っては34,783名に上っていた。

  実は日清戦争前には、多くの部隊は国内では麦飯を採用して、
  脚気患者はほとんど見られなくなっていた。

  しかし、陸軍中枢部は森林太郎の兵食実験を信じて、戦線では全軍に白米を主食として補給した。
  その結果がこれである。

  陸軍の中でも、この甚大な被害に批判の声も上がったが、
  あくまで細菌説に固執する陸軍中枢は、戦前に脚気患者が減少したのは
  兵舎の環境が改善されたからであり、戦争中に激増したのは現地が不衛生であったからだ
  と言い張り、批判者を左遷までした。

  この頑迷さは、日露戦争でさらなる悲劇を招いた。
  出動した陸軍の総人員110万名のうち、脚気患者21万名以上。
  戦死者約4万7千名に対して、脚気で死亡した者は2万8千名近くに及んだ。

  陸軍に対する批判が巻き起こった。

  悲惨な状況を目の当たりにしている現地軍では米に粟、小豆、麦をまじえるようになった。
  寺内陸軍大臣も自らも脚気に悩まされて麦飯を常食にしていた事から、
  戦争途中で麦飯の給与を命じた。


8.歴史の最後の評価

  こうした中でも、細菌説の中心にあって白米供給にこだわっていた森林太郎は、
  日露戦争後、陸軍軍医総監、陸軍省医務局長と軍医のトップに登りつめた。

  しかし、同様のキャリアを積んだ人々が男爵、子爵に補せられているのに、
  森にはついにその声があがらなかった。

  一方、兼寛は、東京帝国大学と陸軍からの厳しい敵視を浴びつつも、
  明治天皇が自分を認めてくれているという事を心の支えに、屈辱に耐えた。
  そして生前に男爵に補せられ、大正9(1920)年の逝去の日には従二位に叙された。

  兼寛の業績は欧米でははるかに高い評価を与えられた。
  コロンビア大学やフィラデルフィア医科大学から名誉学位を送られた。

  さらに兼寛の業績から、オランダのエイクマンが
  ビタミンBを発見して、ノーベル医学賞を受賞した。
  ビタミン発見の歴史において、兼寛は先駆的な業績をあげた研究者として顕彰されている。

  日清日露と多くの脚気による死者を出しながらも、
  保身のために細菌説にこだわった陸軍中枢部に対し、
  ひたすら兵員の命を救うために、自らの命をも掛けた航海実験を敢行した兼寛に、
  歴史は最後には正当な評価を与えたのである。 (文責 伊勢雅臣)

           <感謝合掌 令和2年2月24日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~令和2年3月 - 伝統

2020/03/01 (Sun) 19:07:24


遺言書

陸軍歩兵軍曹  齊藤東一 命

昭和13年11月11日
中華民国 湖南省 江山坪にて戦死
福井県南條郡神山村出身 23歳


一、大君へ命を捧げて出征出来る健全なる身体を造って下さった
  父母様の恩は征途直前にあたり益々うれしい。

一、皆々、大君の恩、国家の恩、一時も忘れてはなりませぬ。

一、再び故郷に足を入れぬ覚悟。

一、名誉の戦死をしたなれば、墓碑は山根の田の隅(すみ)に
  林さんの墓に並べて建てて頂きたい。

一、家の事は何も心配する事はない。
  唯(ただ)皆々及び一族の反映と和楽を希望する。

一、私が戦死したなれば、後は昭三にして頂きたい。

一、お父様お母様ありがたう、では行って来ます。
  私は一人で皆々様の分も働いてきます。

一、一族の皆様ご壮健でお暮しを願ひます。


天皇陛下万歳

  昭和十二年九月二日

                         齊藤東一

齊藤庄左エ門様
家族へ 

    (https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html )

           <感謝合掌 令和2年3月1日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成31年3月 - 伝統

2020/03/02 (Mon) 18:56:26


遺書

陸軍伍長 森 浅吉命

昭和二十年三月ニ十九日
モルッカ諸島モロタイ島 にて戦死

兵庫県 飾麿郡家島町出身 二十九歳



その後も達者で暮らしてゐる事と思ふ。
俺も相変はらず元気だ。安心してくれ。

和子、本当にお前に苦労かけてすまん。
俺は感謝してゐる。
弘子も大きくなってゐるだろうね。

どうか弘子を強く元気に育ててやってくれ。
俺は安心して行く。

(中略)
何時かの、あのお祭りの夜の思ひ出が、俺れの頭の中に深く残っている。
お前もきっと何か想ひ出してゐるだろう。

いやいや今は、こんな馬鹿な事を考えてゐる時ではない。
現在の俺は一命を国家に奉げた身だ。
お前も元気で、銃後の妻として立派に働いてくれ。

俺は笑って南海の地に行く。

お父様やお母様に宜しく。
お叔母様にも宜しく頼む。

俺の事は少しも心配するな。
遠き南海の空から、皆様の健康と幸福を祈ってゐるだろう。


                       森 浅吉

和子殿

  ( https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html ~平成31年3月)

 *参考Web
  → http://blog.whoselab.com/modules/d3blog/details.php?bid=3393

           <感謝合掌 令和2年3月2日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成30年3月 - 伝統

2020/03/03 (Tue) 19:22:39


遺書

陸軍伍長 西川久治命

昭和二十三年三月十六日
台湾台北市方面にて戦死

東京都下谷区入谷町出身 二十歳


拝啓

父上様、母上様、永い間お世話になりました。
十九歳の今日まで何一つ孝行をできず、本当に申し訳ございません。

自分もいよいよ、待ちに待った南方の第一線へ行く事ができる
ようになりました。もとより生還を期せず、一死君国に報いる覚悟です。
今度こそはきっと立派な孝行を致します。

大君の為にきっとやります。

では父上様、母上様には、自分の事には御懸念無く、
お元気にて末永く御繁栄の事を祈ります。

(中略)

では最後に、御一統様の御健康を祈ります。

 遺歌(自作)

  身はたとひ砕け散るとも君が代を
    思ふ心の一すじに


  今日の日待ちて惜しみし我が命
    愛機と共に今ぞ咲くらん

 昭和十九年十二月三日

                    西川久治 

  ( https://www.yasukuni.or.jp/history/will.html ~平成30年3月)

・・・

 明治天皇御製
           春來日暖  (明治3年)

  ふく風ものどかになりて朝日かげ
  神代ながらの春をしるかな

  (http://sukurari1945.blog48.fc2.com/?mode=m&no=3794 )

           <感謝合掌 令和2年3月3日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成29年3月 - 伝統

2020/03/04 (Wed) 19:38:04


遺言


陸軍少尉 戸倉 勝人 命 

昭和二十四年十月二十三日
ソ連ハバロフスクにて戦病死
山口県下関市豊浦出身 
四十五歳

皇國の御為この身を捧ぐること、予てよりの願望なるも
召されて軍人として戦陣に死所を得るは、
本懐これに過ぎたるものなし。


 母上

今よりは靖国の杜に参り候。
御健勝祈り上候、生前の御恩今こそ御礼申し上候。


 緑子 勝禮 純子へ

父は皇國の為、戦争に征く。
汝等は母様や祖母様の訓へを守って強い立派な日本人となり、御國の為に尽しなさい。
父は何時でもお前達の成長を見て居ります。


 春子へ

母上によく仕へ子供達を私の気持ちのやうに伸び伸びと育てて貰ひたい。

(中略)

その後、困難なことがある場合は、何事によらず勝馬に相談すること。
                                                    
以上

 昭和十八年八月十三日

 勝人 誌

  ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/2f2dfd6ad279630c79b07c91b0c2ff91 )

・・・

『3月拝殿掲示』
       

   明治天皇御製

       神祇      (明治44年)

     ちよろづの神のみたまはとこしへに
     わが國民をまもりますらむ

   (http://sukurari1945.blog48.fc2.com/?mode=m&no=3385 )

           <感謝合掌 令和2年3月4日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成28年3月 - 伝統

2020/03/05 (Thu) 19:56:43


芳子さんへ


陸軍兵長 的場 裕 命 

昭和十八年八月六日
ソロモン諸島コロンバンガラ島
西北方約十粁海上にて戦死

香川県綾歌郡陶村出身 
二十九歳


コクミンガクコウノ イチネンセイ ゲンキデ

ベンキヨウ スルンダヨ 

ミナミノウミハ キレイデス サンゴノハヤシガ

キレイダヨ コカゲハ スズシイヨ 

ツバメガ スイスイ トンデユク

ヨシコガ ガクコウヘ ユクコロハ ツバメガ

ナイチヘ カヘルダロ

チイサイ ノブコヤ タカヨシト ナカヨク

アソンデ ヤルンダヨ

ヨシコサンヘ


                以上


 ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/40c513dd56252466aa61c7d8b0cbfea8 )

           <感謝合掌 令和2年3月5日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成27年3月 - 伝統

2020/03/06 (Fri) 18:48:03


遺書

陸軍兵長 山下光雄命

昭和十九年四月六日
ソロモン諸島にて戦死

三重県三重郡菰野町出身 
三十七歳


まい日 元気で学校へ通って居ますか 
学校では先生のおっしゃることをよく聞いてよく学び
元気で遊びなさい

お家へかへったら かならず其の日先生からおしへ
ていただいたことをよく習っておきなさい

おばあさんやお母さんの言ひつけをよく守りなさい

お父さんが居なくともよく勉強をすれば 中学校へ
入れてくださいますから
そしてりっぱな日本人になりなさい

お父さんはお前と四日市の駅でわかれて りっぱな
兵隊さんになって居ます
じきに戦場へ出かけてアメリカやイギリスの兵隊を
みんなヤッツケてやります

おとうさんが りっぱなてがらを立てて金しくんし
ょうをもらふのと 穆がよく勉強して先生からほう
びをもらひ級長になるのと きょうそうをしませう

からだを大せつにして よくべんきょうをしなさい
さよなら
                     父より
穆(あつし)君へ              

   ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/4adcecc11d14ec2b8684991f94fd6442 )

           <感謝合掌 令和2年3月6日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成26年3月 - 伝統

2020/03/07 (Sat) 19:06:11


笑って護国の花と散ります


陸軍上等兵 高山晴次命

昭和十七年三月七日
ビルマ国ペグーにて戦死

香川県小豆郡四海村出身  
二十四歳


母上様。
長らく御世話に成りました。

此の二十一年間、何一つ喜ばし、又、安心させた事もなく、
只御心配ばかり掛けまして誠に申訳御座居ませんが、
日本男子と生れて国防の第一線に立ち、男として一花咲かせます。

東洋永遠平和の為、散らして行きます。
此れ日本男子の本懐で有ります。

すでに母上様も入営当初より御覚悟は出来て居る事と思ひますれば、
私も何一つ思ひ残す事なく、笑って護国の花と散ります。

なほ、もし私の骨が帰ったなれば只一言、よく死んで呉れた。
あっぱれと褒めて下されば、なほ嬉しく思ひます。

私の石碑は、ほんの印(しるし)だけで結構です。
故、残金は全部国防献金して下さい

(中略)

茂君も丈夫で、立派な帝国海軍軍人と成って、海に活躍せられん事を祈る。
孝江も真面目に働いて良き夫に付き、幸福に暮らされん事を草葉の陰より祈る。

又、兄上様一同に色々と心配を掛けた晴も、
だうやら一人前の日本男子と成った様です。
私も此れに越したる喜びは有りません。

だうか母上様をよろしく御頼み致します。 (後略)

                              晴 次
母兄弟妹様

( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/a3ce181f7fbd7e6aa537f113c23db2f5 )

・・・

『3月拝殿掲示』

     大正天皇御歌

       待 花           (大正3年)

    わが園の並木のさくら咲かむ日を
    今日か明日かとまつが楽しさ

    (http://sukurari1945.blog48.fc2.com/?mode=m&no=1914

           <感謝合掌 令和2年3月7日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成25年3月 - 伝統

2020/03/08 (Sun) 19:16:29


決シテ涙ヲ流シテ下サイマスナ


海軍少佐 天野一史命

昭和二十年三月十九日
九州東南方海面にて戦死

奈良県吉野郡黒瀧村出身
二十五歳


御父母上様

私ハ此ノ様ナ拙文デモ、今度戦地ヘ出タラ再ビ御出会出来ヌモノト思ヒ、
真心コメテ書ク事ノ出来ル資格ニナッタカト思ヘバ、
本当ニ感謝ノ念デ胸ガ一杯デアリマス。

中学以来航空ニ志シ、父母ノ了解ヲ待タズ色々ナ心配ヲカケ、
決戦ガ血戦ヲ生ンデ、昨夏全学徒ヨリ飛行予備学生ガ募集サレルヤ、
小生ノ応募ヲ許シテイタダイタ時ノ喜ビ、
先祖代々ヨリ伝ハル至誠尽忠ノ赤キ血ハ躍ルヲ覚ヘマシタ。

而シテ時ハ早クモ一年ハ流レ、
艦爆隊士官トシテ近ク決戦ノ大空ヘ飛立ツ事ト相成リ、本ヨリ生還ハ期セズ。

(中 略)

想フニ此ノ年マデ私ヲ教育シテ下サレ、父母ノ慈愛ノ下ニ過シタ生活ハ、
私ハ本当ニ幸福デアリマシタ。

私ハ此ノ御恩返シハ、只々一身ヲ国ニ捧ゲテ立派ナ死ニ方ヲスレバ、
御両親モサゾカシ喜ンデ下サル事デセウ。

一史戦死ノ報ガアリマシテモ、決シテ涙ヲ流シテ下サイマスナ。

一史ノ写真ニ只一言「良クヤッテ呉レタ」
ト言ッテ下サレバ、私モ大手ヲ振ッテ靖國神社ヘ行ケマス。

我々青年士官ガ頑張ラナクテハ、他ニ誰ガ元ノ日本ニ戻ス事デセウ。

想ヒ出ハ尽キズ。
又、想ヒ出セバ想ヒ出ス程胸ガ一杯デス。
何卒、今マデノ不孝ヲ御許シ下サイ。

御両親様モ御体大切ニ、余生ヲ御送リ下サイ。

  昭和十九年八月二日 
      午後四時半 於 書院

御両親様ヘ
   出陣ニ際シ
                   
                       海軍少尉 天野一史

・・・

 『3月拝殿掲示』

   皇后陛下御歌

   慰霊碑に詣づ(硫黄島)   (平成6年)

    慰霊地は今安らかに水をたたふ
    如何ばかり君ら水を欲りけむ

    (http://sukurari1945.blog48.fc2.com/?mode=m&no=1463 )

           <感謝合掌 令和2年3月8日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成24年3月 - 伝統

2020/03/09 (Mon) 19:25:50


遺書

陸軍少尉 南 正夫命

昭和十八年三月三日
ニューギニア島ラエ東北方
約四五哩海上にて戦死

大阪府北河内郡星田村出身
二十四歳


大東亜戦争今ヤ酣(たけなわ)ナリ。
我モ亦、帝国軍人トシテ壮途ニ上ル。
固(もと)ヨリ生還ヲ期セズ。

サレバ予メ此処(ここ)ニ遺書ヲ記シ、
以テ謹ミテ南家御一同ニ示サントス。


我生ヲ禀(う)ケテ、ココニ二十有三年。
其間南家ノ長男トシテ祖父母、父母様方ノ此(この)上(うえ)ナキ
御慈(いつく)シミヲ受ケ、誠ニ浮世ノ苦難ヲ知ラヌ、
多幸ナル生涯ヲ送リ得タリ。

コレ偏(ひと)ヘニ、我ガ祖先就中(なかんずく)、
祖父母様父母上ノ山ヨリモ高ク、海ヨリモ深キ御恩ナリト厚ク御礼申上候。

然ルニ我、此処ニ死ス無窮(むきゅう)ノ恩ニ報イルニ
夭折(ようせつ)ヲ以テスルハ、深ク我ノ遺憾トスル所ナリ。

サレド我ハ今、天皇陛下ノ御楯トシテ皇国ニ殉ジタルナリ。
然モ忠孝一本ハ我国道義ノ精粋(せいすい)ナレバ、
皇国ニ殉ズルヲコソ親ニハ孝ナレト謂ハン。

我ハ心身一切ノ力ヲ尽クシ、
従容(しょうよう)トシテ悠久ノ大義ニ生キタルナリ。

幾(こいねがわ)クハ此ヲ以テ、
我ノ親ニ対スル最大ノ孝ナリト思召(おぼしめし)下サレヨ。

我ガ死ヲ聞カバ、孫ヨ倅(せがれ)ヨ良クヤッタリト御褒メ下サレ度候。

(中 略)

 大日本帝国万歳  南家万歳


    辞  世

花ト咲キ 花ト散ル身ノ 我ナレハ
      カネテコノ日ヲ 待詫ヒシナリ

頓首
昭和十七年一月七日                 正 夫

南家
御一同様

 (https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/e1a909cb33c6b09863528b6fa4171766 )

・・・

『3月拝殿掲示』

  御製
       硫黄島      (平成6年)

    戦火(いくさび)に焼かれし島に五十年(いそとせ)も
    主なき蓖麻(ひま)は生い茂りゐぬ
             (*蓖麻-トウゴマ。種子からとれるのがひまし油)

     (http://sukurari1945.blog48.fc2.com/?mode=m&no=938

           <感謝合掌 令和2年3月9日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成23年3月 - 伝統

2020/03/10 (Tue) 23:31:27


硫黄島からの近況報告


海軍少佐  高野與三郎命

昭和二十年三月十七日
硫黄島にて戦死

神奈川県横須賀市坂本町出身 三十九歳


拝啓、無事御帰還の事と遙察致して居ります。
新聞で既に御覧の通り、司令が退隊されて三日後の大挙空襲に際し、
味方指揮官がB‐24に体当りを敢行、見事一機撃墜致しました。

思はずあの指揮所から万歳を絶叫しました。
司令退任前、是非一度お見せしたかったと語り合って居ります。

その後は、三十機の新「レコード」でやって来ますが、
こちらのHA射撃精度向上に連れ、敵の高度も次第に高くなり、
被害も次第に少くなって居ります。

気候も次第に良くなり、一般の健康状態も良好となり、
士気大いに揚って居ります。

殊に、最近次々と挙る神風特別攻撃隊の体当りの戦果に感奮し、
全員肉迫挺身の意気に燃えて居ります。

お蔭様を以て十一月一日、大尉に進級致しましたから何卒御安心下さい。

   (中  略)

先夜は又、第二照射空隊が見事照射捕捉して司令官より色紙を賜る等、
各部共次第に技量の向上を認められ、之(これ)全く和智司令の御教訓を旨とし
精進したる賜物と、只々感謝致して居ります。

北○○島にも近くMG増勢の予定にて、最早(もはや)出発準備完了致して居ります。
先づは近況御報告迄で。

十一月三日

                             高野與三郎

和智大佐殿

机下

  ( https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/496f8afa302b1456f67a21dd9cbd2b4e )

・・・

<参照Web>
銀座一丁目ブログ(2011-3-2)
http://blog.whoselab.com/modules/d3blog/details.php?bid=1313&uid=3

           <感謝合掌 令和2年3月10日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成22年3月 - 伝統

2020/03/11 (Wed) 21:41:04


涙の出る限り泣いてください


海軍大尉 橋 本 光 雄 命

昭和二十年三月十一日
インドシナ東方海上にて戦死

福島県双葉郡久之浜町出身
二十六歳


光雄、このたび海軍予備学生に志願中のところ、
採用予定者として一週間の後、家郷を出でんとす。

(中略)

世人或は云はん。
何も大学まで進みながら、最も危険なる航空に志願せずともよろしからんにと。
されど大学は立身出世の為の大学にあらず。

祖国日本なくして大学なく、祖国なくして家もなし。

(中略)

世人或は云はん。
光雄一人くらゐ志願せずともよろしからんにと。
されど皆かく考へるに至らば、最後には祖国を護る者、
遂に一人も残せざるに至るべし

(中略)

光雄は祖国の急を救ふため、男子の本懐として雄躍征って参ります。

(中略)

光雄が死ぬときは
天皇陛下萬歳
大日本帝国萬歳
と呼んだら、すぐ心の中で母ちゃんと呼びます。

心の中で呼んでも母ちゃんにだけは聞こえる様に呼びます。

(中略)

人様の居らぬ所ではいくら泣いても良いです。
お父さんは怒るかも知れませんが、
お父さんだって泣きたいのを男だから痩せ我慢して居るだけでせう。
かまはぬからお二人で涙の出る限り泣いてください。

(中略)

生涯(こしかた)を光雄(われ)の将来(ゆくへ)に捧げたる
母が慈愛(なさけ)に何と報(こた)へん

(中略)

昭和十八年九月一日

御両親様

     ( https://japansdf.com/archives/787 )

   (https://blog.goo.ne.jp/goodtyan11221/e/153d8c79f258208c87876455e457e92b

・・・

『3月拝殿掲示』

御製 硫黄島(平成6年)

「精根を 込め戦ひし 人未だ
 地下に眠りて 島は悲しき」

      (http://blog.whoselab.com/modules/d3blog/details.php?bid=1079&cid=1&uid=3

           <感謝合掌 令和2年3月11日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成21年3月 - 伝統

2020/03/12 (Thu) 19:57:11



心身一片の雲なき気分です


陸軍大尉 寺村 義夫命

昭和二十年三月二十七日
比島ルソン島クラーク山中にて戦死

滋賀県彦根市芹橋町出身 二十八歳


御両親様

前便にて色々申上ました通り、何ら思ひ残す事もありません。
北條からの母上様の御便り入手致しました。
何から何まで都合よく、本当に小生、幸福者でした。

父上様には愈々御健勝に長生きして下さい。
二十有七年の御教育、今こそ義夫身を以て具現(ぐげん)致します。
今、故国を離れるに当り、この決戦に参兵出来る身を喜ぶのみです。

戦局、正に皇國(こうこく)興廃(こうはい)の関頭(かんとう)に立ちました。
征(ゆ)きます。攻めてく攻め抜きます。

(中略)

本当に心身一片の雲なき青空の気分です。

征きし報、伝はらば大いに祝って下さい。

では 征きます 御達者で             義夫

御両親様


・・・

明治天皇御製

「花」(明治38年)

「近からば わが庭ざくら 北支那の たむろに折りて やらましものを」

  (http://blog.whoselab.com/modules/d3blog/details.php?bid=849&uid=3 )

           <感謝合掌 令和2年3月12日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成20年3月 - 伝統

2020/03/13 (Fri) 22:55:54


遺 書

陸軍歩兵伍長 福田誠一命

昭和十四年三月十日
支那江蘇省山後村附近にて戦死

広島県安芸郡倉橋島村出身 二十五歳


弟進へ
進よ、兄は戰争に行く二度と会ふ事は出来ぬ、
進よ、兄が戰死と聞いたなら内の責任は君の双肩にあり、
父母によく仕へ立派な人間になって呉れ、兄の墓を建てゝ呉れ、
兄が最後の願ひだ、

君は生活に苦しむと言ふ事は無いと思ふが立派に暮して呉れ、
何事も打勝つと言う事だ、
父母を頼む、

これから社会へ立つのだ、一歩一歩進み行けよ。


妹富美子へ
富美子よ、君は勝氣なるが故に兄は心配をする、
女の道は只實直に進むのだ、君の今の病氣に負けてはならぬ、
恋愛に落ちるので無い、今君の責任は大である、
君故にお父さんは心痛して居る、何事も父に打明けて相談せよ、
わからぬ父では無い、

早く病氣を治して良い家に嫁いて呉れ、
君の顔を一目見たいが会はずに兄は征く、
君の花嫁姿は何処かの地下で手をたゝいて嬉んで見て居る。

  (https://ameblo.jp/maximum-the-chicken/entry-10232920785.html

           <感謝合掌 令和2年3月13日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成19年3月 - 伝統

2020/03/14 (Sat) 20:10:29


「嫁ではなく、我子と思つて」

海軍工作兵曹長 小笠原嘉明 命

戦艦「大和」乗艦 昭和二十年四月七日
九州坊ノ岬南方沖合にて戦士
愛知県出身 二十九歳


我、軍人としての本分を立派に果し、
神風大和艦上に最期を飾るは、
我、無上の譽れと深く心に銘記し笑つて死すものなり。


御両親様、妻愛子は良嫁になかりしが、我の妻で御座居ます。

夫婦の契を立て、二世を誓ひし以上は、
我と一心同体なりし事は申す迄もないと存じまする。
ましてや我は國難に殉じる軍人です。
其の家族が軍人の家族らしからぬ事、此の世に多しと承り、
此に一言遺書を記すものなり。

(中略)

一、里方へ歸るも可なれど、里方にては御迷惑せられますれば、
  我家にゐては居辛く本人としては我家を出て静かに自活したき希望なれば、
  本人の希望通りに自力自活の道に進む様御願ひ申し上げます。

  其の上にて再婚の道有ればお進め下さい。
  再婚致す迄は愛子の籍は我が妻として置て戴きたくお願ひ申し上げます。

一、人間は感情の動物なれば、憎きやつと思へばだんだんと遠ざかり、
  可愛がれば愛子とても孝養せなくてほならなくなると我は存じますれば、
  嫁とは思はず、我子と思はれまして可愛がつて下さいます様御願ひ申し上げます。

(後略)

  (http://ryuzoji358.hatenablog.com/entry/2017/12/02/130231 )

           <感謝合掌 令和2年3月14日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~平成18年3月 - 伝統

2020/03/15 (Sun) 23:20:48


海軍少佐 篠崎眞一命

横須賀海軍航空隊
昭和十九年六月二十九日内南洋方面にて戦死
東京都出身 二十四歳


「玲子」

玲子は日本一、否世界一の妻なりと思ってゐる。
苦勞のみかけ、厄介ばかりかけ、何等盡し得なかった事済まなく思ってゐる。
四月十五日以来僅な月日であったが、私の一生の半分に價する月日であった。

父母に孝養を盡してくれ、私の分迄。
私に逢ひ度くば空を見よ、飛行機を見よ、軍艦旗を見よ。
私は其処に生きてゐる。

結婚のすべての手續き、六月十二日に横空で完了して置いた。
くれぐれも後を賴むよ。

私の出来なかった事も玲子には出来る。
後顧の憂、一つなく征ける身の幸福を感謝してゐる。

最愛の玲子、御身を常に見守ってゐるよ。

  (http://hossy.cocolog-nifty.com/gentle/2006/03/post_03cf.html )

           <感謝合掌 令和2年3月15日 頓首再拝>

靖国神社社頭掲示~昭和47年3月 - 伝統

2020/03/16 (Mon) 19:09:43


「獄中より最後の願ひ」

陸軍憲兵准尉 藤井 力 命

昭和二十一年四月二十二日 上海にて法務死 

徳島島麻植郡鴨島町出身 四十一歳

一、私は敏子を離別します。
一、敏子に再婚させて下さい。
一、私に成仏させて下さい。

私は敏子が現在の不幸に打勝つて再婚し、母となり幸福になつた時成仏出来ます。
その他に成仏はありません。

追善供養は不要です。

お父様、お母様、敏子をいたはつてやつて下さい。
彼女が涙もかれてしまひ、精も根もつきる程の不幸に落したのは私です。

亦悪い星の下に生れた私であり敏子でありました。
どうかいたはつて下さいませ。

最後の願はこれ丈です。
彼女が戦火の中に身を挺して来てくれたのも
斯うなる私に天が与へた最後の御慈悲であつたことでせう。

私は人生の喜びも、彼女によつて与へられました。

収容せられても此の淋しい獄舎にて、暖い便りや衣類を送つて呉れ、
その愛情につゝまれて居ります。

私の心は幸福でした。

前後の事情は彼女がお父様、お母様に報告して呉れませう。

皆様にも、もう会へませんが、左様なら 左様なら。

お父様お母様御長生下さい。御機嫌よく。

三月二日    力
お父様

お母様


http://ryuzoji358.hatenablog.com/entry/2017/12/02/130231

https://nisinojinnjya.hatenablog.com/entry/20080422

           <感謝合掌 令和2年3月16日 頓首再拝>

Re: 英霊の言乃葉 ⑦ - qfmeqwnplrMail URL

2020/08/29 (Sat) 03:50:47

伝統板・第二
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