伝統板・第二

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今・ここ ④ - 伝統

2019/12/18 (Wed) 04:32:19

「今」の瞬刻を生きる日

           *「光明道中記」(12月18日)より

【尊敬されたい者は、ひとを尊敬せよ。世界は正札(しょうふだ)であって掛引きはない。
 支払っただけのものが自分に返って来る。(『生命の實相』第七巻)】
 
過ぎ去った花やかさを追うこと勿れ、
未来はそれよりも一層華やかなる運命が待っているであろう。

過ぎ去った悲しみを喞(かこ)つこと勿れ、それは既に無きものなのである。

犬は良人に分かれても、もうそんな良人を懐かしがらないし、自分の生んだ子を、
一匹、一匹と他の人に与えられても、もう明日は別離の悲しみを忘れてしまった
如くに見えるのである。

しかしこれは犬が諦(あきら)めが好いからでもなく、
犬が過去の好さをいつまでも追うことの愚かさを悟ったからでもない。
また過去は「既に《ない》」と達観したからでもない。
犬はその心の感じが人間ほどに発達せず、人間ほどに鋭感(デリケート)で
ないからである。

私が、人間に対して、過去を追うなと教えるのは、
人間に対して犬の如き低位の感覚度になれと言うのではないのである。

人間は過去も懐(おも)い、未来も想いめぐらし、痛みも感じ、苦しさも感ずるだけの
デリケ-トな心の琴線を有(も)ちながら、それを《感じ得ない》のではなく、
感じ得るにも拘(かかわ)らず、意識的努力によって、感ずべき波と、
感じてはならない波とを区別して、それを避け得る。

鈍感なのではなく、鋭感であって、鋭感に支配されず、鋭感を支配する。

・・・

<関連Web>

(1)「“本流宣言”掲示板」内スレッド「人生の時間銀行 」
   → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=1357  →(消滅)

(2)「光明掲示板第一」内スレッド「「今」を全力を出して戦いとれ」。
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=302

(3)「光明掲示板第二」内スレッド「“今”を生かせということ (28)」
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=16  →(消滅)

   「伝統板・第二」内スレッド「“今”を生かせということ (光明掲示板第二)」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7926275

(4)光明掲示板・第三「今を生きよ! (135)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=58

(5)光明掲示板・伝統・第一「今が時なり (54)」
   → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=35

(6)伝統板・第二「今・ここ①」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6458155

(7)伝統板・第二「今・ここ②」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6924605

(8)伝統板・第二「今・ここ ③」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7707876

           <感謝合掌 令和元年12月18日 頓首再拝> 

「今」を全力を出して戦いとれ - 伝統

2020/01/07 (Tue) 03:25:53


        *『生命の實相』第7巻生活扁(P56)より

「生長の家」の兄弟よ。

今があなたの時なのだ。

今!

実に今だ!

今のほかに時はない!

兄弟よ。今あなたに与えられているすべてのことを
今断々乎として敢行(かんこう)せよ。

今あなたに可能であると見えることをなんのためらいもなしに今実行せよ。

これが「生長の家」の生き方だ。

そして生命の生長の法則にかなう道だ。

           <感謝合掌 令和2年1月7日 頓首再拝>

「今」を全力を出して戦いとれ② - 伝統

2020/01/23 (Thu) 04:39:01


        *『生命の實相』第7巻生活扁(P56~57)より

今できることは今できるのであって、
ほかの時にできるかどうかはわからない。

今が懸命だ。

今の可能にぶっつかれ、「今」をあなたの思うままに占領せよ。
そこから未来の展望(ながめ)がひらけてくるのだ。

躊躇(ちゅうちょ)したり、グズグズしていてなんになろう。
躊躇逡巡(ちゅうちょしゅんじゅん)は時間を失うばかりだ。
時間を失うことは生命を失うことだ。

今よりもいっそう便宜(べんぎ)なときが来るかもしれぬと思うな。
今が、今与えられている可能に対しては一等便宜な時なのだ。

「機会」という神様は前額(ぜんがく)にだけ髪の毛があって、
後頭部には髪の毛がないと言われている。

「機会」の神様と正面衝突して、その神様の前額の髪をひっ掴(つか)め。
これが生長の秘訣であるのだ。

           <感謝合掌 令和2年1月23日 頓首再拝>

「今」を全力を出して戦いとれ③ - 伝統

2020/02/07 (Fri) 04:06:06


        *『生命の實相』第7巻生活扁(P57)より

もっと便宜な機会が来るかもしれぬから、その時にしようなどと思うな。
実際またいっそう便宜な機会が来るかもしれぬ。

しかしいっそう便宜な機会ばかりを待ちのぞんでいる者は、
最善の機会をさえもっと待っていたら
最々善の機会が来るだろうと思って、のがしてしまう。

そんな人には永久に最善の機会は来ないのだ。
だから「今」を全力を出して戦いとれ。

「今」を十分自分のものとせよ。

           <感謝合掌 令和2年2月7日 頓首再拝>

「今」を全力を出して戦いとれ④ - 伝統

2020/02/25 (Tue) 03:03:10


        *『生命の實相』第7巻生活扁(P57)より


われらが今できる仕事に全力をあげてぶっつかって進む時、恐れることはない。
目先にかえって失敗があらわれてこようとも、それがなんだ。

失敗だと言うことを止めよ。
失敗とはなんぞや?

われらの望むところは、われらに宿っている「生命の生長」することではないか。
「生命」ができるだけ豊富な経験を積んで生長することが本当の成功である。

境遇が便利で安穏でノラクラ居眠りできるような状態になることは、
われらの欲するところではないのだ。

「生命」であるところのわれらにとっては創造が悦びだ。
生長が喜びだ。
固い運命の岩石に「自己」を彫刻して行くことが喜びだ。

これが「生長の家」で言う本当の生長だ。

           <感謝合掌 令和2年2月25日 頓首再拝>

「今」を全力を出して戦いとれ⑤ - 伝統

2020/03/06 (Fri) 04:53:01


        *『生命の實相』第7巻生活扁(P57~58)より

この生長主義をあてはめて考えるとき、われらにとっては
成功はもはや未来に遠く約束されている希望ではないのである。

境遇のいかんにかかわらず、環境のいかんにかかわらず、
刻々瞬々が生長であり、成功である。

今、何人も生長しうるように決定されているのである。
今、何人も成功しうるように決定されているのである。

なんたる幸福ぞ!

されば「生長の家」では諸君の今もてる全生命を躊躇なく、
「今」に集中して活動せよと宣言するのである。

           <感謝合掌 令和2年3月6日 頓首再拝>

「今」を全力を出して戦いとれ⑥ - 伝統

2020/03/18 (Wed) 02:25:57


        *『生命の實相』第7巻生活扁(P58~59)より


わたしはいま「全生命を今に集中せよ」と言った。
これがまた重要なことである。

キリストは「明日のことを思いわずらうなかれ」と言ったし、
そのほかの多くの宗教の教祖たちも、取り越し苦労をいましめている。

そして近代の心理学は、ついにこの宗教の教祖たちの教えが
実に真理にふれていることを裏書きしたのである。

精神を一事物に集中すればするほど、その事物に対する判断は明らかになる
ーこれは心理学の発見した法則である。

だから、精神が未来の不安定の憂慮(ゆうりょ)や恐怖から離れて、
今に集中したとき驚くべき精神力が発揮される。

かくのごとく集中せる精神は、レンズを通じて焦点に集中した光のごとく輝きわたる。
こうして今の瞬間に集中した心の判断は、決して当面の事物を善き方向に
押し進めずにはいないであろう。

これを別の立場よりみるとき、われわれにとって「生きる」とは
「今」よりほかに別の時がないということである。

われわれは過去を動かすことはできない。
われわれは「今」という媒介(なかだち)を通さずには未来を動かすことはできない。

だから、われわれがもし過去のことを歎(なげ)いたり、
未来のことを思いわずらったりするならば、
それだけ自分の「今」に集中すべき生命が浪費されるほかに効能はない。

「今」が浪費されるとき、われわれの「生命」の生長はそれだけ遅れる。
それは「生長の家」の生長主義にかなわない。


           <感謝合掌 令和2年3月18日 頓首再拝>

「今」を全力を出して戦いとれ⑦ - 伝統

2020/03/30 (Mon) 04:57:43


        *『生命の實相』第7巻生活扁(P59)より

われわれが「今」を十分に生き、完全に生きえたという自覚ほど
自己にとって喜ばしい感じはほかにはないであろう。
それは「生長の歓喜」であり、「生命の讃歌」である。

かかる歓びのうちにこそ「生命」は生長しゆく。
しかしかくのごとき歓びは、今与えられている生命を、能力を、
今の瞬間に集中して利用した者のみの味わいうる歓びであって、
今をナマケている者の到底味わいえない歓びであるのだ。

未来の計画をたてることは、現在せねばならぬ努力の方向を決定するためにのみ
必要であって、それ以外にはなんの要(よう)もない。

どの方向に努カしようと決定した以上は、取り越し苦労は不要である。
一心不乱、自分の生命をその仕事に与えきる。

完全に自分の生命を与えきったとき自分の生命はその仕事と一つになる。
鞍上(あんじょう)人なく鞍下(あんか)馬なしとはかくのごとき境地を言うのであって、
この境地に達したとき仕事も至微至妙(しみしみょう)の域に達するし、
みずから自身の生命も最も長足(ちょうそく)に生長をとげうるのだ。

この鞍上人なく鞍下馬なしの妙境に達する事は精神を
完全に「今」の瞬間に集中する人にして、初めて可能なのである。

「今」のカの偉大なることよ!

           <感謝合掌 令和2年3月30日 頓首再拝>

「今」を全力を出して戦いとれ⑧ - 伝統

2020/04/11 (Sat) 03:20:34


        *『生命の實相』第7巻生活扁(P60)より

諸君よ、人間の創作したこの世のいっさいの高貴なるもの、価値あるもの、
美しきもののほとんどすべては、この「今」の把握を中心にして生まれたのである。

「今」を完全に引っ把(つか)め。
「今」を完全に生ききれ。
「今」を完全に押し進めよ。

「今」という武器をもって大いなる未来を戦いとれ。
諸君が、「今」を十分に生ききろうとするには、
目的に対して全生命を与えきらねばならぬ。

それは何に対しても同様である。
仕事をする時には仕事に全生命を与えきらねばならぬ。
愛するときには愛するものに全生命を与えきらねばならぬ。

それは一心不乱だ。
右顧左眄(うこさべん)してはならぬ。
精神統一である。

あらゆる方向に小出しにされ、散漫(ちらばら)になっていた生命を
一ヵ所にあつめて相手のものと一つになってしまえ。

そのために諸君は、必要あらば「背水の陣」をもわれから進んで布くべきだ。

           <感謝合掌 令和2年4月11日 頓首再拝>

「今」を全力を出して戦いとれ⑨ - 伝統

2020/04/24 (Fri) 02:55:57


        *『生命の實相』第7巻生活扁(P60~61)より

諸君が何をしようとするにも、
自已の生命を相手に与え切るということはまったく必要だ。
よく生きようと思うものは全生命を与えきらねばならぬ。

よき仕事をしようと思うものは全生命を与えきらねばならぬ。
戦いに勝とうと思う者は全生命を与えきらねばならぬ。
愛しようと思うものは全生命を与えきらねばならぬ。
成功しようと思うものは全生命を与えきらねばならぬ。

生命を与えるときには、ケチケチと小出しにしようと思うな。
これ以上はたらいては明日はくたびれ過ぎて困るだろうなどと思うな。
生命は汲めば汲むほど滾々(こんこん)と清水のように湧いてくるものだ。

それは宇宙的な大生命に水脈が通っているのだ。
われわれの生命は、われわれの精力は、
使うだけ減ってしまうような固定した分量のものではない。

精カを使って精力が消耗するような結果が生ずるのは、
精力は費やせば費やすだけ減るものだという先入観念にとらわれている結果か、
全生命を与えきったような一心不乱の純粋統一状態になりきらない結果であるのだ。

純粋統一状態になって仕事をせよ。
そこから無限の力が湧いてくる。

しかし、この仕事をするときに精神を純粋統一状態におくには、
目的物にしいて一心不乱になるだけでは足りないのである。

あらゆる種類の心のアセリから自分の心を解きはなって、
自由に伸び伸びと「生命」を仕事の上に遊ばせなければならぬ。

それは実に仕事の三昧(まい)であり仕事の遊戯化である。
天人が雲の上を遊行(ゆぎょう)するように「生命」は仕事の上を遊行する
 ー ここにこそ「生命」の最も豊かな生長があるのである。

諸君がこのいっさいのアセリを絶した伸び伸びとした
「生命」の遊行状態の境地に達するには、自己と神との本当の関係を自覚し、
至慈至愛(しじしあい)の大生命の摂理を信頼しなければならぬ。

そこで諸君に神と人間との関係を自覚さすべく出現したのがこの「生長の家」である。

           <感謝合掌 令和2年4月24日 頓首再拝>

【まさに、今という時代】 - 伝統

2020/05/07 (Thu) 03:25:22

      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2020.04.25)より

   (ひすいこたろう氏の心に響く言葉より…)

   吉田松陰

   高杉晋作

   野村望東尼

   ジョン万次郎

   坂本龍馬


   「サムライ」の語源は「さぶらふ」という動詞です。

   「さぶらふ」とは「大切なものを守る」という意味です。

   自分の命を超えて大切にしたいものを見出し、
   そこに生きる理由を見出した5人。

   その意味において、この5人を「サムライ」と表現させてもらいました。


   「カッコいいって、こういうことだ!」

   そんな生き方を貫いた5人の生き方に惚れるとき、
   あなたのなかに「生きる理由」が立ち上がってくる仕掛けです。

   「生きる理由」、それを本書では「ココロザシ」と呼んでいます。


   この本は、何も歴史を知ってもらうための本ではありません。

   美しく生きたサムライを題材に、
   あなたの未来を最高、最良、最強にシフトするための物語です。


   いま、この星は、ありとあらゆるところで行き詰まりをみせています。

   再び、時代は風雲を告げ、幕末のような混乱期に突入しています。

   「現代」と「幕末」は、伝染病のコレラが上陸したり大地震がきたり、
   不思議なほどリンクしシンクロしています。


   「幕末」を知ることで、いま何をすべきか、
   「未来の兆し」もまた見えてくるわけです。

   何もかも行き詰っていた幕末は、
   すべてを新しくするチャンスになったのです。

   そして、いまこそ新たな「革命」が求められているのです。

   そう、今度は僕らが、カッコいいサムライになるときなんです。


   100年後の人たちはいうことでしょう。

   いまという時代は、幕末なんてもんじゃないくらい激動期だったんだ、と。

   いわば、ドラマでいうと、すべてが変わる
   一番おもしろい時代(シーン)を僕らは生きているんです。


   ライフスタイル、生き方、制度、すべてが激変した幕末。

   ちょんまげが切られ、着物から洋装になり、
   殿様からいまの議会制民主義にといった具合に
   何もかもが変わった明治維新には、時代に取り残され、
   時代に翻弄されたまま人生を終えた人たちがたくさんいました。

   だからこそ、激動の幕末のケースを知り、
   どうすれば新世界をつくっていけるのかを見出してほしいのです。


   時代に翻弄されるか、時代を創造していく側にまわるか。


   あなたを、新世界のニューヒーロー(サムライ)にする。

   それがこの物語の最大のミッションです。


   一緒に最高の未来を迎えにいこう♪

   心は安心、安定を求めますが、魂は違う。

   魂は成長を求めています。

   魂は進化を求めています。

   いまこそ進化が問われている激動の時代です。


   《人生で一番大事な日は二日ある。
    生まれた日と、なぜ生まれたかがわかった日である》(マーク・トウェイン/作家)


   <『人生最後の日にガッツポーズして死〇るたったひとつの生き方』A-Works>

    *〇:ね

           ・・・

この本の巻頭にはこんな言葉が書いてある。

『命とは「時間」のことです。
 こうしてページをめくる間にも、あなたの寿命は縮まりました。

 100年後、あなたはこの星にいません。

 死ぬと決まっているのに、なぜ、僕らは生まれてくるのでしょう?

 人生の最後の瞬間、これまで得たモノ、すべてを手放すのが人生のゴールです。

 しかし、人生最後の瞬間、持って還れるものがひとつだけあります。

 それが…「思い出」です。

 人生最後の日、あなたはどんな「思い出」を持って還りたいですか?』


「いまという時代は、幕末なんてもんじゃないくらい激動期」

この大変革期に生まれてきた我々には、どんな使命があるのだろうか。

ひとりひとりに、何らかの使命があり、大きな意味があるはずだ。


ITの変革、デジタルの社会に突き進んでいく中、
まさに今、コロナの大きな問題が起きた。

おそらく、今年から来年にかけて、多くの企業や店がバタバタと倒産する
100年に一度の大変な時代になるだろう。


幕末では、時代の変革に取り残された人たちが続出した。

だが反対に、それを乗り越え、激的に変化し、進化した人たちも多くいる。

だからこそ、この今、乾坤一擲(けんこんいってき)、のるかそるかの大勝負のとき。


「一期は夢よ ただ狂え」(閑吟集)

所詮、人生は短い夢のごとし。

だからこそ、ただひたすら、狂ったように勝負する。

そして、たとえ倒れたとしても、前のめりになって倒れる。


最後の最後まであきらめず…

自らを進化させ続けたい。

           <感謝合掌 令和2年5月7日 頓首再拝>

只今の時 - 伝統

2020/05/30 (Sat) 04:14:20


現在(只今の時)は過去の終わりにあらずして、

新しい将来への「スタート」であり、

無限の可能性をはらむ自己完成への始である。

        『平澤興一日一言』-致知出版社


今この瞬間が終わったら二度と戻らない。
既に過去になりますが、その過去があるから今の現在があり、未来に繋がります。

自己完成の為に今が必要です。

未来は無限の可能性があります。

でも、その可能性だけ見て今充実しなければその未来も余り明るくないです。

只今によって未来は変えることが出来ます。

    (https://www.2ps.co.jp/?/board/read/1795 より転写)

           <感謝合掌 令和2年5月30日 頓首再拝>

天国は「今」を生かすにある - 伝統

2020/06/26 (Fri) 04:35:10


          *「光明法語」(6月26日)より

「日々是好日」と云うのは趙州和尚の垂示である。

”Every day is best day in the year ”
(毎日毎日が1年中で最も良き日である)
とエマースンは言っている。

達人の言うところ古今東西を通じて同じである。
天国は「今」を生かすとき其処に現前する。

真の幸福は高価な貨幣を支払わずとも得られる。
鳥にとっては樹の枝と空中とが天国であり、
魚にとっては海中と藻の間が天国である。
生物それぞれに天国が異なる。

海魚おどって鳥の天国に到らんとして木に昇れば即ち死す。
他(ひと)の華(はな)を美しいと羨んではならぬ。

           <感謝合掌 令和2年6月26日 頓首再拝>

今始める人だけが本当に事物を始めうる - 伝統

2020/06/29 (Mon) 04:46:58


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月29日)より

日記をつけかけてからすでに6カ月間たった。
振り返ってみると、ずいぶんいろいろなことが書いてある。
一度にこれだけのことを書けといっても書けるものではない。

零細の時間を利用して日記つけていると、
いつの間にか纏まった感想集ができているのである。

気がついたときに今始める人だけが本当に事物を始めうるのである。
明日から、または来年正月から始めようと思っているような人は
結局始めない人であるであろう。

老年で恩給退職になって、経済的にも時間的にも余裕ができるようになったら
『生長の家』を発行しようと思っている間は、
『生長の家』は発行できなかったのである。

今、このまま、ここに生命的にも経済的にも無限力があるのだ! 
との自覚で、現象的には余裕のない中から、気がついて
即刻始めたのが『生長の家』である。

日記一つつけることが億劫でできないようなことでは、
何一つ大事ができないであろう。

           <感謝合掌 令和2年6月29日 頓首再拝>

「今」を生かせ - 伝統

2020/07/01 (Wed) 04:47:55


       *「光明法語」(7月1日)より

人ひとたび決意したる以上は、決して退くべからず、「今」すぐ着手すべし。
1分間を争うなり。
今、夏だと思っていても秋が来る。

「今」して宜しき事も1分間後には悪しきことあり。
今踏切を渡れば安全なるに、1分間のちには汽車にひかれることあり。

今日(きょう)すべき事を明日(あす)に延ばすな。
明日には明日の使命がある。

冬に樹の葉落ちるも冬の「今」を生かしているのであって、
決して懶(なま)けているのでも延ばしているのでもない。

着々として春咲くべき花の用意が整うているのである。

           <感謝合掌 令和2年7月1日 頓首再拝>

今を自覚し、行動を起こす - 伝統

2020/07/08 (Wed) 04:54:45


        *『 生長の家 』(昭和29年5月11日の法語)より
         ~《自覚と目的と行動と》

   今、神が私を祝福したもう。
   この「今」の自覚が大切なのである。
  
   常に「今、ここに神が吾とともにあり給うてわれを祝福し護りたもう」
   と念じ、信ずることが大切であるのである。

   次には、「今」既にわが求むる事物は実際にここに与えられているのだ
   と信ずることが必要である。

   かくて、「神とともにある力」が第1に確認され、
   次に、何を得べきかが定められ ―― それが実際にある
   ということが確認されたわけで、

   その次には「その既にあるもの」を得るように行動することによって、
   それが現実に得られることになるのである。

   いくら信念を持ち、目的物を定めても、実際に行動を起こさなかったら、
   その目的物は自分の方へ飛び込んでは来ないのである。

   https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2270

           <感謝合掌 令和2年7月8日 頓首再拝>

今眼前の仕事に誠心をつくす  - 伝統

2020/07/21 (Tue) 04:30:33

  

       *「生長の家」(昭和29年5月23日の法語)より
        ~《自分の使命を知るには》

   神が「汝これを為せ」と吾々に使命をハッキリ与へ給うまで
   何事もしないで待っていることでは機会を逃してしまうのである。

   吾々の最後の究極的使命は、
   遥か遠くに雲の中に霞んでいる景色のようなものであって、
   吾々が今一歩一歩前進しなければ、その使命が何であるかわからないのである。

   一歩前進すれば一歩だけ前方の景色がハッキリして来るのである。

   今目の前に横たわるあなたの仕事を忠実に実行することは一歩前進することになり、
   それだけ本当の「使命」に近づきつつあるのである。

   まだその「使命」が何であるかがハッキリ判らなくとも、
   それは前進すればするほどハッキリして来るのであるから、
   そんなことは別に気にかけずに、今眼前の仕事に誠心をつくすことだ。

   https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2321
 
           <感謝合掌 令和2年7月21日 頓首再拝>

今日一日かぎりの生命(いのち)と思えよ - 伝統

2020/08/19 (Wed) 04:09:28


        *『生長の家』(昭和25年6月3日の法語)より

毎朝起きた時に、今日一日きりの生命であると思いて生活せよ。

明日はないのである。

今日はまだ惰(なま)けていても好(よ)いとか、
罪を犯しても好いとかいう様な甘い考えを捨てなければならないのである。

今日一日善にすすむ道が如何(いか)に辛(つら)くとも
今日一日と思えばそれですむのである。

未来の長さを心に描いて
重荷を感ずることはいらないのである。

「 一日の労苦は 今日一日にてたれり 」 であるのである。

どんなことでも 今日一日と思えば
出来ないことはないのである。

   (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2

        <感謝合掌 令和2年8月19日 頓首再拝>

いま、「ここ」にいる - 伝統

2020/10/06 (Tue) 04:23:08


      *Web:かんんがら(2020年10月04)より抜粋


   いつも私が「ここ」にいて

   過ぎていくのよ 楽しいことも悲しみも


私が「ここ」にいる
と言った時の「私」とは、
通常自覚している自己(マインド)のことではありません。


そもそも自己は「ここ」にいることなどできません。

自己はいつも思考が想像する
「ここ以外の場所」を彷徨っているからです。


「ここ」にいるのは、あなたの実存です。

思考さえも見届けている純粋意識。

それが本当のあなたであり、歌に登場する「私」です。


   過ぎていくのよ 楽しいことも悲しみも


全ては過ぎ去っていきます。

しかしマインドの中では過ぎ去っていません。
マインドは何にでもしがみついて自分のものにしてしまいます。

私はあれをした、これをした。
あの人にあんなことをされた。

そうやって人生という物語がさらに綴られていくのです。


過ぎ去っていくものを過ぎ去らせるには、起きることとの距離が必要です。

そこに巻き込まれてしまえば、過ぎ去ることはできません。


「ここ」にいるというのは、巻き込まれないということ。

ところが人は何にでもすぐに巻き込まれます。


誰かがあなたに失礼な態度を取れば、その経験の中に巻き込まれます。
誰かを好きになれば、その関係の中に巻き込まれていきます。

そのたび、人は「ここ」から離れて、物語の中に入っていくのです。


「ここ」にいるというのは覚醒しているということ。
過ぎていく夢(物語)に影響されていないということです。


これが瞑想の本質です。

瞑想中に湧いてくる思考に巻き込まれていないこと。
思考が織りなす物語の登場人物になっていないこと。
その物語の内容がなんであれ、ただ見届けていること。


瞑想中に湧く思考がいけないのではありません。

その思考と距離を保っている状態が瞑想です。


それは日中活動しているときも同じで、
目の前で起きている出来事に巻き込まれることなく、
ただ見届けていることができたら、それは瞑想的生き方となります。


禅寺での修行も、このこと以外にはありません。

   (https://abetoshiro.ti-da.net/e11695535.html )

        <感謝合掌 令和2年10月6日 頓首再拝>

いまここを生きる - 伝統

2020/10/19 (Mon) 04:33:53


       *Web:かんながら(2020年10月09日)より

いまここを生きると言いますが、いまを生きていない人は一人もいません。

なぜならいましか存在せず、誰一人いま以外にいる事はできないからです。


ところがここで問題となるのは、
人はあるがままのいまにはいないということ。

大抵の場合は、

こうあるべきのいま、
こうできたはずのいま、

こうでなければならなかったとか
なぜこうなってしまったのかとか、

ありもしないことを投影したいまを生きているのです。


そうやっていまにないものに集中することで、
いまここにあるものから目を逸してしまいます。

その結果いまが希薄になっていきます。


いまが希薄になった分、すでにいま無条件に与えられている
安らぎや、満足感、充足感が失われます。

そしてそれらが失われた分だけ、

こうあるべきだとか、
もっと何か出来たはずだとか、
またそのような幻想がいまを覆ってしまうのです。


このような悪循環が多くの人に起きています。

何度も繰り返しますが、
あるがままのいまを生きること以外に大切なことはありません。


まずは幻想のベールを脱いで、あるがままのいまに落ち着く、

そして目の前のいまに、心を込めて対応していく、

これが生きる極意であり、これ以上はないのです。


いまどうしたらいいかの知恵は、すでにあなたの中に携わっていて、
誰かの指導を受ける必要もありません。

終わったことや先のことを最小限にして、目の前のいまを生きる。

その時、どこに不安や後悔が入り込む隙があるでしょう。

大丈夫。

あなたが生きているのではなく、
あなたという現象も含めて生かされているのだから。

だから余計なことは考えずに、目の前のいまを生きましょう。

お腹が空いたらご飯を食べるだけのことです。

    (https://abetoshiro.ti-da.net/e11701109.html

        <感謝合掌 令和2年10月19日 頓首再拝>

《「 今 」 を完全に生きよ》 - 伝統

2020/11/03 (Tue) 05:00:58


       *『 生長の家 』 (昭和26年7月10日の法語)より

   あなたの生命(いのち)の内には 神の霊が宿っているのである。
   神の霊は 唯(ただ)勝利するほかはないのである。

   過去に何があろうとも、それは今日の魂の前進の準備となったのである。
   過去の失敗に捉われるな。
   形の一進一退のうちに 魂は必ず前進して行くのである。

   今を生かせ。

   神を信じ、神に祈りつつ 今を全力を出して生きるのである。

   「 今 」 は実相世界に既にあるところの勝利が
   現実世界にあらわれて来るところの門であるのである。

   「 今 」 を支配するものは
   過去の失敗を勝利にかえ、魂の進歩にかえ、
   未来永劫に ただ悦(よろこ)びの生活を送ることが出来るのである。


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/776fdceb9039fb5d186d29d1946ce6ba

・・・

<参照>

本当の事実(真理)ならば、科学も追随して来ます
2019-09-16 11:34:52 | Weblog伊勢ー白山 道
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/6800b904847f54e035d82103b6dc99ff

        <感謝合掌 令和2年11月3日 頓首再拝>

「今」を生かせ - 伝統

2020/11/18 (Wed) 05:04:02


         *『眞理』第二巻基礎扁第九章(P243~244)より

あなたの前に現れて来る時々刻々を、
「今」よりほかに為すべき時はないと信じて
「今」を生かして使う者は永遠に楽しく生きることが出来るのです。

「今」の時を、歓びと、愛と、仕事と勇気をもって生きることです。

勇気を持て、愛を持て、歓びを持て、
而して今為すべきことを明日に延ばさず、
今それを行うことであるのです。

多くの人は「今」なすべきことを
次の時に、次の日に、次の月に荏苒(じんぜん)それを延ばしてしまう
ことによって、時間がない時間がないとつぶやいている人が多いのです。

実は時間がないのではないのであって、時間を生かさないからです。

今を悔いなく生きよ。

過去について思い煩うこと勿れ、未来に就(つ)いて思い煩うことなかれ。

刻々瞬々が「今」のみを生きるとき
無限に悦びに満たされた毎日となるのである。

        <感謝合掌 令和2年11月18日 頓首再拝>

人は今の中にしか存在したことがないのに、今を生きたことがありません。 - 伝統

2020/12/07 (Mon) 03:32:59


       *Web:かんながら(2020年12月06日)より

たったいまあなたが何を考えていたのであれ、
それはあなたの頭の中にあるストーリーに過ぎません。

たとえそれが確かな事実に基づいていると思っていることでも、
これから先の理想の世界に関することでも同じです。

それらは睡眠中に見ている夢同様に夢なのです。


人はいまの中にしか存在したことがないのに、
いまを生きたことがありません。

物心ついてから死ぬまで、ずっと夢の中にいます。

すでに大抵の夢は悪夢になっていて、しかも夢だと思っていません。


いま僕が言っていることも、
何かの比喩くらいにしか受け取れないことでしょう。

しかしこれは事実です。

これ以外に事実はないのです。


あなたが目覚めないのは、自分が眠っていることに気づかないからです。

いくら大声で同じことを繰り返し伝えても、
五感からの情報を確かなものとしている限り、わかるはずもありません。


どう思われようと、これだけは伝えておきます。

「あなたは夢の中にいます」


そこから抜け出る道は多くありません。

それが瞑想でありヨーガですが、それらは教えではなく、
体験的に夢を夢として見抜く道です。


実践しかないのです。

  (https://abetoshiro.ti-da.net/e11758883.html

        <感謝合掌 令和2年12月7日 頓首再拝>

永遠の今を生きる日 - 伝統

2020/12/08 (Tue) 04:41:07


           *「光明道中記」(12月8日)より

 【今日いちにち心乱さず神性の自覚に生きよ。(『生命の實相』第十二巻)】

人間の成功の程度は形の大きさではないのである。
「宇宙の《いのち》」を今生きているとき、
「今」の瞬刻に永遠無量の《いのち》を生きているのである。

永遠無量の《いのち》を生きることに比ぶれば、
形や大いさによって計られる成功は、
どんな大なる成功であろうとも取るに足りない。
太陽の前の星のようなものである。

《今》の瞬間に永遠の《いのち》を生きようとせず、ただ権力の増大や、
名誉の高揚や、自己の勢力範囲の拡大のために目指されたる成功は、
その成功の範囲が如何に大きかろうとも、
宇宙大にくらぶれば、いと小さきものである。

では今の瞬刻に永遠の《いのち》を生きるにはどうすべきか。
外面的働きから見れば同じ仕事をしているかも知れない。
併し、内容が更正(うまれかわ)らなければならないのである。

その仕事の動機が自己拡大のためではなく、
何らか相対的な対抗気分によるからでなく、
自己の権力増大のためではなく、ただ神への献身のために、
人類相愛の無我奉仕のためにその仕事が遂行されねばならないのである。

かかる無我奉仕にはおのずから外的成功が伴うが、それは随伴現象に過ぎない。

        <感謝合掌 令和2年12月8日 頓首再拝>

“今”を生かせということ - 伝統

2020/12/17 (Thu) 04:42:55


       *人生の秘訣を語る~谷口雅春先生
         昭和四十五年三月二日午後、
         『人生を見つめて』をテキストとしての講義
                                         
私たちが「“今”を生かせ」といったり、或いは又「“今”に生きる」
といったりする其の“今”というのは、

そのような現象時間の流れの中にある“現在”というようなものを
上手に生きようという簡単な意味じゃないのであって、
その過去・現在・未来の一切がいまここに把まれているところの
”久遠即今”の生命を生きよであるのである。 

「これを握れば一点となり、これを開けば無窮となる」と聖経に書かれている
ところの“無窮”が常にあるところの“今”の一点であるのです。

現象時間の流れの中で“無窮”を生きようと思うと肉体の寿命は
無窮には生きられないけれども、

今”の一点に”久遠”の絶対時間を生きると、
過去も現在も未来も今此処に一つに把まれてしまう、
ということになるのであります。

そうすると、吾々は今此処の自己の内に過去も現在も未来も把んでいるから、
過現未が自分の掌中にあるのです。

普通、過去は変化することが出来ないというけれども、
過去も変化することができる。

そこから吾々は真理を自覚すれば過去の業を消すことができる
ということがわかる。



未来は無論、これから起こるのだから変化できる。

現象の流れの中にあるものは、全部こうして自分の内に“心のハンドル”を
もって把んでいるんですから、吾々が欲して変化できぬものはない。

吾々は、現象に対しては幻術師の立場にある。
現象は仮現(けげん)であって、心の現わすところであるから、
心によって自由に変化することが出来るのであります。

さて、この「“今”を生きよ」という“今”は、

唯今説明しましたように、過去・現在・未来という現象時間の流れの
うちの“現在”を生きよというような浅い意味での
“今”ではないのであります。

過去・現在・未来のすべての時間がその内に握られており、
其処から過去・現在・未来が発して来るところの

“本源の”、”源の今”、
“永遠を内に含む今”を自己の掌中に握ることであります。

この“永遠を内に含む今”が “永遠の今”、 ” 今即久遠”、
”久遠即今”、“未発の中”というものなんです。

http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7993594
道産子さま投稿
2020/09/02 (Wed) 07:58:55
~2020/09/03 (Thu) 08:35:22

        <感謝合掌 令和2年12月17日 頓首再拝>

「今」の瞬刻を生きる - 伝統

2020/12/18 (Fri) 02:19:51


      *「光明道中記」(12月18日《「今」の瞬刻を生きる日》)より

【尊敬されたい者は、ひとを尊敬せよ。
 世界は正札(しょうふだ)であって掛引きはない。
 支払っただけのものが自分に返って来る。(『生命の實相』第七巻)】
 
過ぎ去った花やかさを追うこと勿れ、
未来はそれよりも一層華やかなる運命が待っているであろう。

過ぎ去った悲しみを喞(かこ)つこと勿れ、
それは既に無きものなのである。

犬は良人に分かれても、もうそんな良人を懐かしがらないし、
自分の生んだ子を一匹、一匹と他の人に与えられても、
もう明日は別離の悲しみを忘れてしまった如くに見えるのである。

しかしこれは犬が諦(あきら)めが好いからでもなく、
犬が過去の好さをいつまでも追うことの愚かさを悟ったからでもない。
また過去は「既に《ない》」と達観したからでもない。

犬はその心の感じが人間ほどに発達せず、
人間ほどに鋭感(デリケート)でないからである。

私が、人間に対して、過去を追うなと教えるのは、
人間に対して犬の如き低位の感覚度になれと言うのではないのである。

人間は過去も懐(おも)い、未来も想いめぐらし、
痛みも感じ、苦しさも感ずるだけのデリケ-トな心の琴線を有(も)ちながら、
それを《感じ得ない》のではなく、感じ得るにも拘(かかわ)らず、
意識的努力によって、感ずべき波と、感じてはならない波とを区別して、
それを避け得る。

鈍感なのではなく、鋭感であって、鋭感に支配されず、鋭感を支配する。

        <感謝合掌 令和2年12月18日 頓首再拝>

「今」天地一新したのである - 伝統

2021/01/02 (Sat) 06:48:01


       *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月2日)より

すんだことの中に生活せず、「今」のなかに生活せよ。

「今」は常に生きている。
「今」の中にはあらゆるものが輝いている。
「今」は常に新しく、「今」は常に喜びに満ちている。

過去にどんな悲しいことがあったにしても、それについては思い煩うな。
「今」天地一新したのである。
もう別の天地に生きているのである。

過去に寒風に吹き暴(さら)されたことを嘆かないで、
「今」梅の花は喜びに満たされて咲いている。
梅の花よりも尊く強く逞しきが人間である。

喜ぶべきことしかないのが人生である。

           <感謝合掌 令和3年1月2日 頓首再拝>

《未来は今日の想念の中にある》 - 伝統

2021/01/20 (Wed) 05:01:36


        *『 生長の家 』(昭和25年7月22日の法語)より

   今なすべきことを明日にのばすな。
   明日なすべきことの準備を今ととのえよ。
   昨日のことを思い煩うな。

   今時々刻々自己の完全なる生命を生ききれ。
   未来は今日の想念の影である。
   過去の暗黒は今光で照らせば光明に化するのである。

   今を生きないものは永遠に生きることはできないのである。

   肉体のことに思い煩うな。
   今生きよというのは今魂のことを生きよということである。

   イエスは神の国と神の国の義を求めよ、
   その余のものは汝らに加えらるべしと教えたのである。

   自分の生命を時々刻々神にささげたるものとしなければならない。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12

           <感謝合掌 令和3年1月20日 頓首再拝>

一瞬一瞬を大切に生きる - 伝統

2021/02/08 (Mon) 02:23:58


      *メルマガ「人間力」(2021.2.6)より

───────────────────

9歳で歌手デビューを果たし、
歌手人生で世に出したヒット曲は数知れず。
日本歌謡界の女王・美空ひばりさんの生き方を、
小林正観さんのお話から学びます。

一瞬一瞬を大切に生きたその姿勢は、
皆さまの人生をよりよくするヒントになるでしょう。

───────────────────

美空ひばりさんはずっと歌を歌ってきました。

自分のわがままで何をしたいとはほとんど言いませんでした。
こうせざるを得ない状況でやるはめになったことを、
そのまま淡々と、ああだこうだ言わないでやってきただけ。

自分の意思で、自分のわがままで生きてきたのではない。

いつの間にか知らないうちに女王に祭り上げられて、
すごい人ということになったけれども、
彼女は自分のやりたいことを押しとおすために
人をかきわけ押しのけて女王にのし上がったのではありません。

やらされることを「はいはい」と言ってやってきたら
女王と言われるようになって、歌謡界の最高峰に立っていた。

それを思い出したときに、
美空ひばりは本当に万感の思いを込めて
『川の流れのように』を歌ったのだと思います。


皆さんにちょっと質問します。

今日寝て起きたらいつでしょう?

今日寝て起きたら「あした」と思った人がいるかもしれませんが、
今日寝て起きたら「今日」です。

「あした」という日は永久に来ない。

今日の今この瞬間が私たちの目の前に存在するだけで、
「あした」という日は永久に来ません。


今日の今この瞬間に目の前のこと、人、物を大事にしない人は、
「あした来る人を大事にすればいいや」と思っている間に、
目の前の人がいなくなってしまうのです。

「ああ、あの人を大事にしてあげればよかった」

と、その去っていった人を一生懸命おもんばかっているうちに、
目の前にいた人が「じゃあね」と言って、
また去っていくわけです。

そういうふうに、ずっと思い出、過去を追いかけている。


今日の今この瞬間だけ。

私たちはものすごく大きな広がりの時間・空間の中で
生きているように勘違いしていまずけれど、
私たちが生きているのは、この瞬間瞬間、この刹那刹那だけ。

だから、大事にできる人は目の前に存在する人だけ。

そして、大事なこと、人、物というのは、
きのう存在したわけではなく、あした存在するわけでもなく、
今目の前に存在する。

そのことが自分の人生の中で最も大事なことなのです。

だから、「大事な人」はいない。
すべての人が大事だとわかってくるわけです。

※本記事は致知出版社刊『宇宙を味方にする方程式』(小林正観・著)
より一部抜粋したものです

           <感謝合掌 令和3年2月8日 頓首再拝>

「超時の今」を生きる - 伝統

2021/02/19 (Fri) 04:45:49


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月19日)」より

時間を大切にするということは、《いのち》を大切にするということである。

現象界の《いのち》は時間の流れに展開する。
時間の流れにしたがって《いのち》も過ぎ行く。
時間を大切にしないものは酔生夢死する。

しかしわたしたちは時間を本当に大切にしているだろうか。

時間は眼に見えないものであるから、
そして使わずに置いても消えてゆくものであるから、
ともすれば浪費しがちである。

「使わないことが浪費であって、使えば使うほど増える」という
生長の家の経済学は時間に関してはいっそう真実である。

時間は箱詰にしておいても、瓶詰にしておいても、それは蒸発して消えてしまう。
時間を大切にしようと思って時間時間と考えてもイライラして心が忙しいだけである。

時間を大切にする最も有効なる秘訣は何事もすぐ実行に取りかかるということである。
《せねばならぬ》ことを次に延ばさぬことである。

《せねばならぬ》ことを次へ延ばすことは、行ないの負担を避けるために、
その避けている間中、それは心の負担となっている。
行ないは苦しみでなく、心の負担は苦しみである。

ぐずぐずの習慣ほど愚かしきものはない。

今を行かす生活、その時その場をすぐ生かす生活、具象的今を生かすことが
超時の生命(せいめい)を今生きることになるのである。

「超時の今」を生きる者は常に生きるものである。
ぐずぐずの生活を生きる者は常に死につつあるものである。

・・・

<参照>Web
伊勢ー白山 道(2021-02-18)
聖なる10日間の始まり
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/100077e1c5da58c32da5be9ee7d131ea

           <感謝合掌 令和3年2月19日 頓首再拝>

今此処の一点に全實在を把握せよ - 伝統

2021/03/05 (Fri) 04:25:13


        *「生長の家」(昭和23年2月号)より

『生長の家』を米国光明思想の受売りだと思っている人もあれば、
古事記の解釈より出現したる日本古道を本とすると考えて人もあり、
クリスチャン・サイエンスを祖述したものだと考えている人もある。

併し、その何れも正鵠を得ていない。
叙述の素材は以上のいずれよりも引用してあるし、仏教の諸経典更に
老子、孔子、孟子、菜根譚や心霊学の諸著書から博引傍証してある。
   
併し、それを渾然融合せしめたものは、

今此処の一点に全実在を把握する

特殊の悟りである。


今・此処の一点 ― 時間・空間未発の一点に久遠生命を把握する深さは
ニュー・ソートやクリスチャン・サイエンスには見られない。
  
よく似た所まで往っている人もあるが、それでも〃Here and Now〃位か
〃Eternal Now〃位の所である。
『神の国は汝の内に在り』と云うイエスの言葉が、それ故に空転するのである。

今・此処・我が渾然一体となって、
肉体無の無字の一点に全実在を把しなければ、
『汝の内』とは『外』に対する『内』になって真の意味は把めない。

『汝の内』とは『外』に対する『内』でもなければ、
肉体に対する『心』でもないのである。

   
『心』に幸福を思い浮かべたら、その人は既に天国にいるのも同様であるから、
キリストは『神の国は汝の内にあり』と云ったのだと云うよう に
解するのは余りにも浅い解釈である。
   
『汝の内』とは『外』に対するものではなく、
『内外打成一片の生命』の端的であり、實相である。

『内外打成一片』の今此処に真に神の国があり、天国がある。
心身脱落・脱落心身である。心身一切が十字架にかかるのである。
   
ニューソートにはこんな境地はない。

心もなく、身体もなく、からだもなく、心もなく、一切があるがままに脱落する。
それをそのままと云う。
   
『そのまま』と云うような言葉は外国語には翻訳が困難である。
それに適当した概念がないと云うことである。
   
そのままは不来であり、不去である。
そのままにして肉体無しと悟る。
   
敢えて肉体の抹殺を必要とせず今、此処に、
無時・無空間の生命の實在を悟るのである。

これをキリストの十字架の真義とする処に、西洋哲学と東洋哲学との一致を見出す。

クリスチャン・サイエンスやニュー・ソートにない教えで
生長の家にある教えは中心帰一の思想である。

多くの病人が一家の中心たる良人に対する反抗心で起こっている。

頭痛を訴える婦人は医師の判断では脳髄の中に出来ている腫物にあると云うことを、
脊髄液をとって検査することによって診断した。
   
ところが良人に対して絶対無我になる事をすすめて
良人に対する不平の心を取り去るように教導したのである。
話しているうちにその婦人のなやましき頭痛はやまってしまい、
それ以来その頭痛は再発することがなかったのである。
  
上に従順なる思想、中心者に服従の思想を戦犯的思想だと考えるのは間違いだ。
   
平和愛好の天皇陛下の御意思を曲げて横車を押して戦争を始めたのは
軍閥であった事を戦争裁判は暴露しつつある。
   
陛下の『平和に事を解決せよ』との御心に真に従順に従う心
 ― 即ち上意に素直な心 ― があったならば、
戦争は起らなかったに相違ない。
   
8月15日に日本が無条件降伏を行って、
上陸連合軍に対して何ら抵抗も暴動も演じなかったのも、
国家の中心者に従順である心からである。

   ( http://blog.livedoor.jp/seimeinojissoh/archives/28655808.html )

           <感謝合掌 令和3年3月5日 頓首再拝>

ストップ!! ~ 目覚めは「いま」「ここ」 - 伝統

2021/03/25 (Thu) 02:26:31

      *Web:かんながら(2021年02月17日)より

非二元の世界を、二元の言葉で表さなくてはならない所に限界があります。

言葉は二元の道具でしかありません。

言葉は常に間接的なものだからです。


それに引き換え、非二元はダイレクトな世界。

すなわち直接体験なのです。

正確に言えば、昨日も話したように直接体験ingです。



それは、「いま」と「ここ」に目覚めているということ。

それ以外にありません。


なにか特別な世界があって、そこを目指しているのではないのです。

人は修行やレッスンを通して何かに行き着こうとします。

それが禅の修行であれ、奇跡のコースであれ同じこと。


そして何かを目指している時、自我はとても満足します。

自分は正しいことに向かっているというわけです。

でもどこにも向かっていません。


あえて目指すべき地点を言えば、
「いま」と「ここ」を、まさにいま感応しているということ。

それは常に「いま」あります。


ストップ!!



自我はとても巧妙でずるがしこい。

自我は自我を克服しようとさえするから。


自分がいないという事実に目覚めるのは、あなたではないのです。

ただ、目覚めだけが残ります。


実際にいまも目覚めだけがあります。

あなたはいままでも、いまも、これからも、
目覚めた純粋意識であり、それ以外だったことはありません。

でも自分はそれ以外の何かだという夢が続いていて、
その自分を生きているつもりになっているだけです。


だからといって、修行や奇跡のコースなどが無意味だということではなく、
それらの実践自体が「結果」だということを忘れなければ役に立ちます。

そして同時にあらゆる行動も、それ自体が結果だということに留意すれば、
あなたは「いまここ」にいます。


人生のあらゆる経験は目覚めのための機会であり、
人生という物語を超えていくことだけが人生の存在理由なのです。


なぜ言い切れるのかは、あなたが目覚めたときに分かります。



そしてくどく伝えておきたいのは、あなたはすでに目覚めているということ。

だから何の心配もないのですが、誰もがそのことを見失ってしまったようです。




「喝!!」


https://abetoshiro.ti-da.net/e11830968.html


           <感謝合掌 令和3年3月25日 頓首再拝>

【今いるところから始めよ】 - 伝統

2021/04/12 (Mon) 03:12:24


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2021.02.18)より

   (ひすいこたろう氏の心に響く言葉より…)

   《今いるところから始めよ。持っているものを使え。できることをするんだ》

                (アーサー・アッシュ/黒人テニス選手)


   実に人生に奇跡を起こすのは、そう難しいことじゃないんです。

   0.1%で人生は変わるからです。

   昨日よりも今日、0.1%でいいので、
   人生が楽しくなる方向へ一歩ずつ踏み出し続ければいいのです。

   毎日0.1%ずつ変化すると、どうなると思いますか?

   5年後には、6倍変化したことになります。

   10年後にはなんと、38倍もの変化です。

   38倍って、年収で計算したら、いかにすごいことかわかりますよね?

   2倍可能性が広がるだけだってすごいことです。

    0.1%の積み重ねで人生は大きく変わるのです。


   大リーガーのイチロー選手が言ったとおり、
   「小さいことを重ねることが、とんでもないところに行くただひとつの道」
   なのです。

   この0.1%の変化というのは、ほんとうに小さなことでいいんです。


   ホスピタリティが定評のリッツカールトンホテルの元日本支社長の高野登さんは、
   今日着た背広を、1日の最後に「今日も一日ご苦労様」と声をかけて
   洋服ダンスにかけることを続けていくだけでも、
   全く違う存在になるとおっしゃっています。

   靴も毎日ではなくても、磨いて木型にいれて下駄箱にしまう。

   そんな小さな行動パターンでいいので、自分の習慣にできると、
   今度は、まわりにも気が配れるようになるといいます。

   そういう些細なことを意識しているホテルマンが20人いるのと、
   していない人が20人では、
   ホテル全体の雰囲気が全く違ったものになるのだとか。


   小さな、当たり前のことでも続けていくことで当たり前のレベルが上がる。

   それだけで感性は磨かれると高野さんはいいます。


   共著者である、石井しおりさんも、
   小さなことを続けることで、思わぬ変化につながったことがあります。

   わたし(石井)は毎日残業に疲れ果て、眠れなくなり、
   読書が一切できなくなってしまった時期が数年ありました。

   それまで大好きだったのに、どうして本が読めないのか、
   自分でもわかりません。

   そんなときに「ハッピーな人々の秘密」という本を
   たまたまめくってみたら、ある言葉が飛び込んできました。

   脳卒中になり、大好きなサックスの演奏ができなくなってしまった、
   87歳のミュージシャン、モーリス・ワシントンの言葉です。


   「もうサックスが吹けなくなってしまったからね… 
    これからは歌うことにしたんだ!」


   すごく心に響きました。

   病気で楽器が演奏できなくなった。

   それは変えられない事実。

   ならば、歌えばいいって。

   どんなときでも、
   人は可能性を見つけることができるんだって、
   それは87才になっても。

       <『常識を疑うことから始めよう』サンクチュアリ出版>
 
           ・・・

多くの人は、自分にはたいした才能などない、と思っている。

今活躍している天才と呼ばれるようなプロのスポーツ選手で
あっても、そこに到達するまでしてきた努力の時間総計を
みれば、誰もが「天才ではなく努力だった」と納得するだろう。

これは、一流の芸術家、売れているタレントや、
成功した起業家等々にも言えることだ。


《天才とは、ただ、努力の継続ができる人のことをいう》
               (エルバート・ハバート)


才能とは、努力を継続することができた人に与えられた特権。

そして、継続を習慣にしてしまえば、努力もいらなくなる。


《今いるところから始めよ。持っているものを使え。
 できることをするんだ》


隠れた才能や宝は自分の中にある。

自分の中の宝を見つけ…

コツコツと地道な継続を積み重ねることができる人でありたい。

           <感謝合掌 令和3年4月12日 頓首再拝>

時間を超える - 伝統

2021/04/26 (Mon) 04:35:57

      *Web:かんながら(2021年04月12日)より

あるとき、ホーリースピリットからダイレクトメッセージが届いた。

「残念なお知らせですが、あなたに未来はありません」


どひゃ、それを言う?

たしかに年齢的にも将来を描きにくくなってきたけれど、
ホーリーちゃんが言っているのはそういうことじゃない。

実際に未来など存在していないってことだ。


このことを見抜いたとき、
人は初めて 「いま」 に帰ってくることができます。

そして探していた全ての宝が、未来にではなく、
目の前の 「いまここ」 にあったことを知るのです。


それが時間を超えるということ。

いつも明日に向かって生きてきた自分に気づき、
足を止めて いま を生きる。

先のことは完全にお任せして、いま を感じきる。


特別さを全部捨てて、普通の自分が普通の現実の中に寛ぐ。


すると、すでにたどり着いていたことを見出すことでしょう。

誰一人例外はありません。

  (https://abetoshiro.ti-da.net/e11895137.html

           <感謝合掌 令和3年4月26日 頓首再拝>

【今という瞬間を大切に】 - 伝統

2021/05/14 (Fri) 04:48:15


        *メルマガ「人の心に灯をともす」(2021.05.09)より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   3人の方から、相談を受けました。

   「2年間、就職活動をしているのですが、まったく採用されません。
    どうしたらいいでしょうか?」という30代男性。

   「早く結婚したいのですが、どうしたらいいでしょうか?」という30代女性。

   「末期ガンで余命3ヵ月なのですが、どうしたらいいでしょうか?」という50代女性。

   この3つの質問に対して、私は、同じ回答をしました。


   「今、『自分がどういう状況に置かれているのか』について
    感想を持つ必要はないし、評価論評はいりません。
    今、自分がやるべきことは、自分の目の前にいる人を大事にすることです。

    やるべきことがあったら、それをやればいい。
    結婚も就職も死も、今、目の前にないのだから、
    考えなくてよいのではありませんか」


   ガンであと3ヵ月の命なら、それをどうやって
   半年、1年と伸ばそうかを考えるのではなく、
   3ヵ月の間に「どれだけの人に喜んでもらえるか」をひたすら考えればいい。

   「3ヵ月後に死ぬ」ことに、関心を持たなくていいのです。

   日々の一瞬一瞬を楽しんで生きていれば、
   余命がどれくらいあろうと、関係がありません。


   「結婚すること」ばかり考えている人には、誰も結婚を申し込みません。

   結婚のことしか考えていないので、
   目の前の人、こと、ものを大事にしていないからです。

   結婚相手であろうと、なかろうと、目の前にいるすべての人に対して、
   「自分のできること」を一所懸命やっていたら、
   必ず誰かの目にとまるはずです。


   2年間、無職の男性は、
   「自分に合った仕事がわからない。どんな仕事を選べばいいのか?」と
   言い続けていましたが、
   仮に私が社長でも、彼を採用することはなかったでしょう。

   なぜなら彼は、「まったく笑わない」し、「無表情」だし、
   「自分から話しかけない」からです。

   もし彼が、笑顔で挨拶をして、みんなにおもしろい話をして、
   目の前のやるべきことをやっていたら、
   彼に興味を持つ経営者が雇ってくれたかもしれません。


   私たちは、過去のことも、未来のことも考える必要はありません。

   私たちの人生は、3秒前も、2秒前も、1秒前も過去です。

   この瞬間だけが「今」です。

   だとすれば、過ぎてしまった過去について考える必要はありません。

   また、「明日」という日は、永遠に訪れません。

   一晩寝て、起きたら「今日」です。


   「念」という文字は、「今」の「心」と書きます。

   「念」とは、
   今、目の前にいる人、目の前にあることを大事にする心のことです。

   「過去」を悔やむことはなく、「未来」を心配することもなく、
   「念を入れて生きる」。

   「念」を入れた生き方は、必ず「未来」につながっていくでしょう。


   今、目の前にいる人を大事にする、
   目の前にやるべきことがあったら、ただ、ひたすら大事にやっていく…。

   私たちにできることは、ただ、それだけのようです。

        <『ありがとうの神様』ダイヤモンド社
                https://amzn.to/3bf0q0O >

             ・・・

「さしあたる事柄のみをただ思え、過去は及ばず、未来は知られず」

という中村天風師の言葉がある。

お釈迦さまも、過去も未来も考えず、
「ただ今日なすべきことをなせ」とおっしゃった。

我々には、今日、ただ今しかないのに、そのことを忘れてしまう。


「一大事とは、今日ただ今のことなり」

という、白隠禅師の師であった正受老人の言葉がある。


今、ここに集中し、この瞬間を大事にすること。

それが、目の前の人にいる人を大事にし、喜ばせること。

そして、今やるべきことを大事にして、それを淡々とこなしていくこと。


この、今という瞬間を大切にして生きていきたい。

           <感謝合掌 令和3年5月14日 頓首再拝>

“今”を生かせということ - 伝統

2021/06/17 (Thu) 04:45:00


       *「人生の秘訣を語る」より
        ~昭和45年3月2日午後、
         『人生を見つめて』をテキストとしての講義


私たちが「“今”を生かせ」といったり、或いは又「“今”に生きる」
といったりする其の“今”というのは、

そのような現象時間の流れの中にある“現在”というようなものを
上手に生きようという簡単な意味じゃないのであって、
その過去・現在・未来の一切がいまここに把まれているところの
”久遠即今”の生命を生きよであるのである。 

「これを握れば一点となり、これを開けば無窮となる」と聖経に書かれている
ところの“無窮”が常にあるところの“今”の一点であるのです。

現象時間の流れの中で“無窮”を生きようと思うと肉体の寿命は
無窮には生きられないけれども、

今”の一点に”久遠”の絶対時間を生きると、
過去も現在も未来も今此処に一つに把まれてしまう、
ということになるのであります。

そうすると、吾々は今此処の自己の内に過去も現在も未来も把んでいるから、
過現未が自分の掌中にあるのです。

普通、過去は変化することが出来ないというけれども、
過去も変化することができる。

そこから吾々は真理を自覚すれば
過去の業を消すことができるということがわかる。


未来は無論、これから起こるのだから変化できる。

現象の流れの中にあるものは、
全部こうして自分の内に“心のハンドル”をもって把んでいるんですから、
吾々が欲して変化できぬものはない。

吾々は、現象に対しては幻術師の立場にある。
現象は仮現(けげん)であって、心の現わすところであるから、
心によって自由に変化することが出来るのであります。

 
さて、この「“今”を生きよ」という“今”は、唯今説明しましたように、
過去・現在・未来という現象時間の流れのうちの“現在”を生きよ
というような浅い意味での“今”ではないのであります。

過去・現在・未来のすべての時間がその内に握られており、
其処から過去・現在・未来が発して来るところの

“本源の”、“源の今”、“永遠を内に含む今”を
自己の掌中に握ることであります。

この“永遠を内に含む今”が “永遠の今”、 ” 今即久遠”、
”久遠即今”、“未発の中”というものなんです。

http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7993594
道産子さま投稿記事
2020/09/02 (Wed) 07:58:55
~2020/09/03 (Thu) 08:35:22

           <感謝合掌 令和3年6月17日 頓首再拝>

天国は「今」を生かすにある - 伝統

2021/06/26 (Sat) 04:51:49


       *「光明法語」(6月26日)より

「日々是好日」と云うのは趙州和尚の垂示である。

”Every day is best day in the year ”
 (毎日毎日が1年中で最も良き日である)
とエマースンは言っている。

達人の言うところ古今東西を通じて同じである。

天国は「今」を生かすとき其処に現前する。

真の幸福は高価な貨幣を支払わずとも得られる。
鳥にとっては樹の枝と空中とが天国であり、
魚にとっては海中と藻の間が天国である。
生物それぞれに天国が異なる。

海魚おどって鳥の天国に到らんとして木に昇れば即ち死す。
他(ひと)の華(はな)を美しいと羨んではならぬ。

        <感謝合掌 令和3年6月26日 頓首再拝>

今始める人だけが本当に事物を始めうる - 伝統

2021/06/29 (Tue) 03:02:17


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月29日)より

日記をつけかけてからすでに6カ月間たった。
振り返ってみると、ずいぶんいろいろなことが書いてある。
一度にこれだけのことを書けといっても書けるものではない。

零細の時間を利用して日記つけていると、
いつの間にか纏まった感想集ができているのである。

気がついたときに今始める人だけが本当に事物を始めうるのである。

明日から、または来年正月から始めよう
と思っているような人は結局始めない人であるであろう。

老年で恩給退職になって、経済的にも時間的にも余裕ができるようになったら
『生長の家』を発行しようと思っている間は、
『生長の家』は発行できなかったのである。

今、このまま、ここに生命的にも経済的にも無限力があるのだ! 

との自覚で、現象的には余裕のない中から、
気がついて即刻始めたのが『生長の家』である。

日記一つつけることが億劫でできないようなことでは、何一つ大事ができないであろう。

           <感謝合掌 令和3年6月29日 頓首再拝>

「今」を生かせ - 伝統

2021/07/01 (Thu) 04:53:40


         *「光明法語」(7月1日)より

人ひとたび決意したる以上は、決して退くべからず、「今」すぐ着手すべし。
1分間を争うなり。
今、夏だと思っていても秋が来る。

「今」して宜しき事も1分間後には悪しきことあり。
今踏切を渡れば安全なるに、1分間のちには汽車にひかれることあり。

今日(きょう)すべき事を明日(あす)に延ばすな。
明日には明日の使命がある。

冬に樹の葉落ちるも冬の「今」を生かしているのであって、
決して懶(なま)けているのでも延ばしているのでもない。

着々として春咲くべき花の用意が整うているのである。

           <感謝合掌 令和3年7月1日 頓首再拝>

《「永遠の今」を生きる者に急ぐことはない》 - 伝統

2021/07/27 (Tue) 02:23:12


        *「眞理」第2巻基礎篇第3章(P54~55)より

急いではならない。
急ぐ心は摩擦を起し、事物を破壊し、途中で息切れがすることになる。

事業ををやっても其の通りだし、相場をやっても其の通りである。

肉体の病気も急ぐ心から起る。

息切れがする病気、喘息や、肺臓や心臓の病気、
常習下痢などの心理的原因の一つは
(一つと云うのは是れ以外の要素も加わって発病すると云う意味である)
急ぐ心から来(く)る。

急ぐ心を捨てた時、
それらの病気(不幸、不調和)を支えていたところの
一本の柱が捨てられるから病気(不幸、不調和)が癒えてしまうか、
非常に軽減するかするのである。

吾等が現象界の須臾(しゅゆ)の存在ではなく
「永遠(えいえん)」の座に「今」生きていることを知れば
急ぐ必要はなくなるのである。

           <感謝合掌 令和3年7月27日 頓首再拝>

過去は過ぎ去る 未来はわがもの - 伝統

2021/09/04 (Sat) 05:04:59


       *『 生長の家 』(昭和25年8月2日の法語)より

現在の如何なる自分の状態も
悉く自己の過去の想念の結果でないものはないのである。

自分自身を 如何にみとめたか、
他人を 如何にみとめたか、
此(こ)の世界を 如何にみとめたか。

その想念が種子となって生長し咲き出(い)でた花が
現在の状態であるのである。

現在を歎(なげ)いてはならないのである。
現在は過去の想念の投影であり、
過ぎ行きつつあるものなのである。

未来は現在の想念の投影であり、
これから造りつつあるものなのである。

過去と現在とを歎かず、
未来の幸福のために今善き念を蒔(ま)け。

        <感謝合掌 令和3年9月4日 頓首再拝>

「今」を完全に生きれば、その人に不幸はない - 伝統

2021/09/18 (Sat) 04:56:44


          *「眞理」第2巻基礎篇第3章(P55)より
           ~常に心を明朗にすること

心配することは要(い)らない。
過去はもう既に過ぎ去ったのであるから
「持越(もちこし)苦労」をする必要はないのである。

未来はまだ来ないのであるから
「取越(とりこし)苦労」をする必要もないのである。

心配は心に「不幸」を描くことであるから、
心配すればするほど「不幸」が現象界にあらわれて来る
原因をつくることになるのである。

「今」を完全に生きれば、その人に不幸はないのである。

その人は他’た)の人がいたずらに過去を嘆いている間に一歩を前進し、
いたずらに未来を心配している間に二歩を前進するからである。

そして心が明朗であれば良き智慧が湧(わ)いて来(く)るから
事業に躓(つまず)きがなくなるし、

心が明朗であれば血液が浄まって
抗病力が強いから病気に罹(かか)らないのである。

        <感謝合掌 令和3年9月18日 頓首再拝>

《今此処にある極楽を見よ》 - 伝統

2021/10/10 (Sun) 05:02:37


        *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P226~227)より

食物(しょくもつ)をたべ、飲料を飲む。
それがどうして吾々の生命(いのち)となったり、
「考える力」となったりするのだろう。

物質が生命(いのち)に変り、「考える力」に変る。
これを行う不思議な力が「神」なのである。

神が吾々の内に宿っていたまうのであって、
遠くに求める必要はないのである。

ただそれは肉眼で見えるところの、
縦(たて)横(よこ)厚みの次元の世界でないがゆえに、
それを此の地上の制約から遥かに隔(へだ)たりたる世界として
形容しなければならないので、

遥かに高き「天国」と称したり、高天原(たかあまはら)と形容したり、
十万億土の彼方にある極楽世界と説いたりしたのである。

今此処に神が在(いま)し、
今此処に天国があり、今此処に極楽浄土があるのである。

しかし内在の天国浄土は波長の合わないラジオ波(なみ)が
今此処にあろうとも感じられないこと無限の遠さにあるのと
同じであるから、これを十万億土の彼方(かなた)と謂う。

        <感謝合掌 令和3年10月10日 頓首再拝>

《「今」を生かせ》 - 伝統

2021/10/29 (Fri) 05:03:06


        *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P243~244)より

あなたの前にあらわれて来る時々刻々を、
「今」よりほかに為すべき時はないと信じて
「今」を生かして使う者は永遠に楽しく生きることが出来るのです。

「今」の時を、歓びと、愛と、仕事と勇気とをもって生きることです。

勇気を持て、愛をもて、歓びを持て、
而(しか)して今為すべきことを明日に延ばさず、
今それを行うことであるのです。

多くの人は「今」なすべきことを次の時に、次の日に、次の月にと
荏苒(じんぜん)それを延ばしてしまうことによって、
時間がない時間がないとつぶやいている人が多いのです。

実は時間がないのではないのであって、時間を生かさないからです。

今を悔いなく生きよ。

過去について思い煩うこと勿れ、
未来について思い煩うことなかれ。

刻々瞬々が「今」のみを生きる時
無限に悦びに満たされた毎日となるのである。

        <感謝合掌 令和3年10月29日 頓首再拝>

《「今」を生きるのが幸福の道》 - 伝統

2021/11/03 (Wed) 04:57:28


       *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P244~245)より

あなたの内に宿っている力を「今」に集中したときにのみ、
最大の能率を発揮することが出来るのです。

あなたの内に宿っている力は
あなたの想念の向うところに振り向けられるのでありますから、
過去や未来に「心」を集中しているときには、
力は過去や未来に分散されてしまって
それだけ「今」に集中する力が足りないことになります。

従って成績はあがらず、碌な仕事は出来ないと云うことになります。

今に生命(せいめい)を集中するとき
「今」の一点は「久遠無限」に通ずるがゆえに
無限の力が湧き出でて来ることになるのです。

過去のすべての不快な記憶を拭(ぬぐ)い去りなさい。
過去は既に過ぎ去ったのです。

未来の不安を捨てなさい。

すべてのものは実際に来て見ると、
「死」でさえも左程(さほど)のものではないのです。

「今」を生きよ。

        <感謝合掌 令和3年11月3日 頓首再拝>

《時間を精確に実行せよ》 - 伝統

2021/11/18 (Thu) 04:35:03


      *『 生長の家 』(昭和24年8月21日の法語)より

   運命をよくする要素としての熟慮断行の次に来るものは、
   時間の正確さということである。

   今の一瞬に全生命をかけることが必要である。

   時間が不正確でのんべんだらりとしている生活は
   能率が上がらないし、従って又成果が得られないのである。

   5分間の遅刻が大勢を決することがある。
   5分間以前には無事に通れた踏切を
   5分後に通ると汽車に轢(ひ)かれることもある。

   今良いことも一分後には悪いこともあるのである。

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12832008.html (消滅)

        <感謝合掌 令和3年11月18日 頓首再拝>

「 今 」 を使い切るようにせよ - 伝統

2021/11/26 (Fri) 04:55:10


      *『 生長の家 』(昭和24年9月5日の法語)より

大器晩成といわれる通り、多くの天才は必ずしも早く発現しないのである。

樟(くす)の大木は 数千年かかって驚くべき巨樹となるが、
その代り弱い葦(あし)のようには、
一年の中(うち)に大人になってしまわないのである。

人も同じように 今発達しないからといって
歎(なげ)くにはあたらないのである。

今もてる能力を最大限に使っておれば
その次の能力が伸びてくるのである。

今与えられたる境遇に於いて、
最大のサービスを捧(ささ)げておれば、
次に 尚(なお)一そう大いなる能力が発展し、

尚一そう自分にとって希望を満足せしめる環境が
開かれてくるのである。

気が短いようなことでは駄目である。
一つ知ったことを一つ行えば 次の智慧が又生れて来る。

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31

        <感謝合掌 令和3年11月26日 頓首再拝>

永遠の今を生きる日 - 伝統

2021/12/08 (Wed) 04:59:51


           *「光明道中記」(12月8日)より

 【今日いちにち心乱さず神性の自覚に生きよ。(『生命の實相』第十二巻)】

人間の成功の程度は形の大きさではないのである。
「宇宙の《いのち》」を今生きているとき、
「今」の瞬刻に永遠無量の《いのち》を生きているのである。

永遠無量の《いのち》を生きることに比ぶれば、
形や大いさによって計られる成功は、
どんな大なる成功であろうとも取るに足りない。
太陽の前の星のようなものである。

《今》の瞬間に永遠の《いのち》を生きようとせず、
ただ権力の増大や、名誉の高揚や、
自己の勢力範囲の拡大のために目指されたる成功は、

その成功の範囲が如何に大きかろうとも、
宇宙大にくらぶれば、いと小さきものである。

では今の瞬刻に永遠の《いのち》を生きるにはどうすべきか。
外面的働きから見れば同じ仕事をしているかも知れない。
併し、内容が更正(うまれかわ)らなければならないのである。

その仕事の動機が自己拡大のためではなく、
何らか相対的な対抗気分によるからでなく、
自己の権力増大のためではなく、

ただ神への献身のために、
人類相愛の無我奉仕のために
その仕事が遂行されねばならないのである。

かかる無我奉仕にはおのずから外的成功が伴うが、
それは随伴現象に過ぎない。

        <感謝合掌 令和3年12月8日 頓首再拝>

「今」“われ神の子なり”と思いなさい - 伝統

2021/12/13 (Mon) 04:48:23


          *「眞理」第2巻基礎篇第3章(P88~89)より
           ~《自己を新しき光に照して》

あなた自身を新しき真理の光を以て眺(なが)めよ。

あなたの過去の生活がたとい如何(どう)であろうとも、
あなたの経歴がどうであろうとも、
そんなことは問題とするに足りないのである。

自分自身を過去の続きだと思うから
過去に縛られるようなことになるのである。

過去は既に過ぎ去ったのである。

来(きた)るべきあなたの生活の鍵は、
あなた自身が「今」握っているのである。

「今」が時間空間十字交叉のスクリーン上に、
あなたの想念に描いたものを投影し出すための中枢の一点であるのである。

「今」“われ神の子なり”と思いなさい。
あなたは神の子なのです。

今、あなたは幸福なのだと思いなさい。
貴方は既に今幸福なのです。

「今」を感謝なさいませ。

        <感謝合掌 令和3年12月13日 頓首再拝>

「今」の瞬刻を生きる日 - 伝統

2021/12/18 (Sat) 04:59:30


           *「光明道中記」(12月18日)より

【尊敬されたい者は、ひとを尊敬せよ。
 世界は正札(しょうふだ)であって掛引きはない。
 支払っただけのものが自分に返って来る。(『生命の實相』第七巻)】
 
過ぎ去った花やかさを追うこと勿れ、
未来はそれよりも一層華やかなる運命が待っているであろう。

過ぎ去った悲しみを喞(かこ)つこと勿れ、それは既に無きものなのである。

犬は良人に分かれても、もうそんな良人を懐かしがらないし、
自分の生んだ子を、一匹、一匹と他の人に与えられても、
もう明日は別離の悲しみを忘れてしまった如くに見えるのである。

しかしこれは犬が諦(あきら)めが好いからでもなく、
犬が過去の好さをいつまでも追うことの愚かさを悟ったからでもない。
また過去は「既に《ない》」と達観したからでもない。

犬はその心の感じが人間ほどに発達せず、
人間ほどに鋭感(デリケート)でないからである。

私が、人間に対して、過去を追うなと教えるのは、
人間に対して犬の如き低位の感覚度になれと言うのではないのである。

人間は過去も懐(おも)い、未来も想いめぐらし、痛みも感じ、
苦しさも感ずるだけのデリケ-トな心の琴線を有(も)ちながら、
それを《感じ得ない》のではなく、

感じ得るにも拘(かかわ)らず、意識的努力によって、感ずべき波と、
感じてはならない波とを区別して、それを避け得る。

鈍感なのではなく、鋭感であって、鋭感に支配されず、鋭感を支配する。

        <感謝合掌 令和3年12月18日 頓首再拝>

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