伝統板・第二

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人間の自由 ② - 伝統

2019/12/18 (Wed) 04:25:57


       *伝統板・第二「人間の自由」からの継続です。
          → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6872118


完全の自由の本体(神)をわがものとせよ

       *「光明法語」(12月18日《神をわがものとせよ》)より

完全の自由を得るには「完全の自由の本体」をわがものとしなければならぬ。
「完全の自由の本体」とは全知全能なる神のみである。

全知全能なる神をわがものとしたときにのみ「完全な自由」が得られる。

全知全能をわがものとするには小智小能を捨てなければならぬ。
すなわち自分の「我的欲望」を捨てなければならぬ。
自分の小さい知恵を握っている限り、どんな大きいものがあっても握るわけには行かぬ。

大きいものを握るには、今まで握っていたものを先ず離すことだ。

           <感謝合掌 令和元年12月18日 頓首再拝>

『霊的実在』としての自覚への更生 - 伝統

2019/12/22 (Sun) 04:54:45


         *「光明法語」(12月22日《新たに生まれる》)より

知恵の樹の果を食べたときアダムとイヴとはエデンの楽園から追放せられた。

人間は自分自身を五官の感覚で観て『物質』の塊だと思い出したときに
自由自在の境涯(楽園)から追放せられたのである。

『物質』とは霊の自由に対する障礙であるからである。

だから吾々が真に自由自在の境涯になろうと思うならば
吾々は『新たに生れ』なければならないのである。

物質的存在としての自覚から『霊的実在』としての自覚への更生である。

これをキリストは『人あらたに生れずば、神を見ること能わず』
(『ヨハネ伝』第三章三)と言ったのである。

           <感謝合掌 令和元年12月22日 頓首再拝>

人間の心の自由 - 伝統

2020/01/31 (Fri) 04:49:35


       *「光明法語」(1月31日《常に善念を把持すべし》)より

神は人間に完全なる自由を与えたのである。

幸福も不幸も健康も病気もその外(ほか)なにものでも
諸君は心に描くことが出来るのである。
そこに完全なる人間の心の自由があるのである。

心に描けば法則が自働して心に描いたものを形に現してくれるのである。
諸君は自分の運命の構図を書くことが出来る。
そして好きな所に花咲かせ鳥をうたわせることが出来れば
又すきな所に地震も津波も大暴風(あらし)もおこすことが出来るのである。

全ての人々に愛念を起こすべし。

すべての悪を否定せよ。

善のみ汝の心を集中せよ。善のみ来(きた)るであろう。

           <感謝合掌 令和2年1月31日 頓首再拝>

《人間は外界に左右されては自由人ではない》 - 伝統

2020/04/07 (Tue) 02:19:56


        *『 生長の家 』(昭和25年4月7日の法語)より

   外界にしばられている限りは
   人間は決して自由人だということはできないのである。

   吾々は外界を超えなければならないのである。

   内界によって外界を完全に支配することができた時にのみ
   自分が自分で自分の運命の主人公となったのである。

   今自分の肉体の力は如何に弱くとも
   それを本当の自分が弱いのだと思いあやまってはならないのである。

   本当の自分は 自己に宿る 「 久遠のキリスト 」 であり、
   自己に宿る 「 久遠の釈迦(しゃか) 」 であるから、
   すべての不幸をこえ、死をさえもこえる所の力をもっているのである。

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13786946.html(消滅)

           <感謝合掌 令和2年4月7日 頓首再拝>

《仮相》にまどわされず、完全な相のみを見ることで、真に自由を得る - 伝統

2020/04/24 (Fri) 02:47:27


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月24日)」より

人間は真理を知ることによってのみ本当の自由を得るのである。
「真理」とはマコトのコトワリである。
マコトはミコトであり、コトバであり、「真実(ほんと)の事」であり、実相である。

コトワリとはコトバすなわち神より分け出(いだ)されたる象(かたち)である。
すなわち「真理を知る」とは、神と神より出でたるいっさいの事物の《真象》すなわち
《実相》を知ることである。

単なる現象すなわち《仮相》にまどわされてはならないのである。
仮相はどんなに醜くそれが《ある》かのごとく見えても、仮の相(すがた)であり、
真実でないから、それはウソの相(すがた)であり、ニセモノの相(すがた)である。

ニセモノは本物ではなく、アルかのごとく見えてもないのであるから、
そんなものに頓着することなく、ただ「実相」のみを実在として、
その完全な相のみを見るようにしてゆけばよいのである。

かくすればもろもろの障礙はおのずから消えてしまい、人間は真に自由を得るのである。

多くの人たちが不幸であり、不自由に縛られているのは、
結局、実在もしない「悪」とか「不完全」とかをあるかのごとく考え、
それに執し、それに捕捉され、心を混乱に陥(おとしい)れ、
外見の「悪」の渦巻きの中にまき込まれてしまうからである。

そんな時に「悪」の存在を見ないで、「起きよ、汝の床をとり上げて歩め」と
われらに棒喝を与えてくれ、巻きこまれた迷いの纏絡(てんらく)から
切りはなしてくれるのが、「真理」のコトバなのである。

            <感謝合掌 令和2年4月24日 頓首再拝>

真の自由を得るには真理を知ることが必要なのである - 伝統

2020/05/07 (Thu) 03:40:35


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月7日)」より

人格の本質は「自由」ということである。

それゆえにわれわれは常に今あるよりもなおいっそうの自由を得んことを念願し、
今あるよりもなおいっそうの自由を得た時に幸福感を味わい、
今あるよりも自由が少なくなった時に不幸の感に打たれるのである。

われわれは戦後祖国の民主化によって多くの自由を獲得したのである。
しかし、われわれは外からの自由は得たけれども
内なる暴君「にせものの我」の支配下にあって、
完全なる自由はなかなか得ている者は少ないのである。

この「内なる暴君」は
地球上のいかなる残虐の君主よりもなお苛酷にわれらを苦しめるのである。

そしてこの暴君の支配を受ける時われわれはみじめとなり、恐怖にみたされ、
猜疑にさいなまれ、憤怒に傷つけられ、貪欲に蝕まれ、傲慢によってみずから傷つき、
あらゆる不幸がおそいかかってくるのである。

われわれはこの暴君の支配から脱しないかぎりは真に自由を得ることはできないのである。
しかし真の人間である自分は決してかかる暴君の奴隷となって苦しめられるようには
できていないのである。

われわれはこの真の自分を発見し、
それに完全なる自由を与えなければならないのである。
真の自由を得るには真理を知ることが必要なのである。

だから、イエスは「真理は汝を自由ならしめん」と言っているのである。

神は宇宙の創造の最後の最高の完成者として人間を神の像(すがた)
―― 換言すれば神の完全自由の具象化 ―― として造ったのである。
そしてあらゆる万物を支配する権利を与えられたのである。

これが真の人間の使命である。
この使命を果たす者が、完全な人間であるのである。

その完全さを神想観によって自覚する時
人間はその実相の完全さを実現することができるのでる。

釈迦は『法華経』においてすでに仏であるところの人間を説いたのである。
自己の内に宿るところの「真の人間」を自覚する時あらゆる不完全は消え去り、
不調和はなくなり、仏すなわちいっさい苦悩から解脱したところの人間が成就するのである。

しかしその自覚を文字(もんじ)の表面に触れるだけですでに得たりと思い、
増上漫に陥ってはならないのである。

正しき戒律を守ることと、精進努力と、禅定的工夫と、愛行と、忍辱(にんにく)と、
真理の書の読誦と、六派羅蜜の修行とが必要である。

           <感謝合掌 令和2年5月7日 頓首再拝>

《人間は生長をも拒む自由をもっている》 - 伝統

2020/05/09 (Sat) 04:23:57


       *「光明法語」(5月9日)より

種子(たね)の中にはその生長に必要なる要素を周囲の太陽、空気、水分、地中から
吸収して自己をして発芽せしむる力を蔵しているのである。

それと同じく人間も己の魂の生長に必要な凡ゆる要素を
自己の周囲から吸収する力を持っているのである。

併し種子は、その生長に必要な要素に置かれるとき、
「自分は発芽することを欲しない」とその生長を阻む自由はもっていないのである。

ただ人間のみ自由意志をもっていて自分を生長させもし、
退歩せしめすることが出切るのである。

           <感謝合掌 令和2年5月9日 頓首再拝>

人間は、想念の自由、感情の自由、意志の自由、言葉の自由、行動の自由を有する - 伝統

2020/05/16 (Sat) 04:44:56


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月16日)」より抜粋

宇宙にあるあらゆる理念のうち全包容的最高理念が人間である。
だから人間は万物を従わせ、万物を生かし、
万物をその使命のところに配置する権能を有するのである。

人間が人間としての価値と存在の意義は、自己選択をなしうるということにあるのである。
万物を従わせるとは、自己選択をなしうることである。
曰く、想念の自由、感情の自由、意志の自由、言葉の自由、行動の自由ということである。

毎日、毎時、毎分、毎秒、毎瞬、われわれは何を想うか、いかなる感情を起こすか、
何を意志するか、何を言論するか、何を行動するかの自由を持っているのである。
その自由のゆえにこそ人間の尊厳が存在するのである。

かくのごとき自由は機械にはもちろん、単なる動物にすら存在しないところのものである

           <感謝合掌 令和2年5月16日 頓首再拝>

すべては与えられている、それを顕すのは人間の自由 - 伝統

2020/05/25 (Mon) 04:46:52


        *「光明法語」(5月25日)
          《既に与えられているものを完全に利用せよ》

神の有ち給えるすべての富は既に汝に与えられているのである。
それをみずから取るか遠慮して取らないかは自分の自由である。

次のものを求むるよりも前に、既に与えられているものを完全に保有し、
感謝し、それを働かせているかいないかを反省すべきである。

既に与えられているものに感謝し、既に与えられている自分の富を、愛を、能力を、
深切を、充分人に与え、且つ働かせてこそ、新たなるものを求むるべきである。

その時にこそ神が既に豊かに与えたまうている物を取る力が出来ているのである。

           <感謝合掌 令和2年5月25日 頓首再拝>

人間の自由とは、“霊的自由”であり“神の子としての自由”である - 伝統

2020/07/15 (Wed) 04:48:37


    *「奇蹟の時は今」アディントン(著)・谷口雅春(訳)(P19)より

「人間は環境は奴隷として造られたものではないのである。
環境こそ人間の被造物であるのである」とベンジャミン・ディズレーリは言ったのである。

聖パウロは

「キリストは自由を得させん為に我らを釈(と)き放ちたまえり。
 されば堅く立ちて、再び奴隷の軛(くびき)に繋がるな」(ガラテヤ書第5章1節)

といっているのである。

茲に言う“自由”とは“霊的自由”であり“神の子としての自由”である。

わたし達すべては、今こそ立ち止まりて、脚下照顧し、
人間は環境の奴隷としてその絆に縛らるべきものでもなければ、
人間関係をも含む色々の条件にも屈従しなければならぬような者ではないことを想起せよ。

然り、時には、肉眼には如何にも現実に存在するかのように見える
肉体の症状にさえも屈従して奴隷の絆に繋がれる必要はないものなのである。


人間が自由であるのは、“神の子”であり、
至上者(いとたかきもの)の子であるからである。
それであるから、己が人生、己が環境を支配する権を与えられているのである。

今まで自縄自縛していた自分自身の直ぐ今此処に、
“神の子”としての実相の自由があることをわれわれは見ることができるのである。

ひとたび、われわれが、自己内在の自由を見出すならば、
外界は常に内部の自由に一致したものとなるのである。

それを奇蹟と見るならば、それはまことに奇蹟である。
まことに奇蹟の時は今であるのである。

           <感謝合掌 令和2年7月15日 頓首再拝>

人間には自由が与えられ、その自由を「正しく」使う責任が与えられている - 伝統

2020/09/10 (Thu) 02:52:38


          *「眞理」第2巻基礎編第6章(P127~128)より
           ~《先ず正しく考える事から出発せよ》

人間が動物と異なる尊厳さは、彼が動物と異り、
考えることの自由を有する事なのである。

考えることの自由とは、出鱈目を考えても好いと云う意味ではない。
自由であると云うことに、「正しさ」が伴わない場合には、
それは赤ん坊に日本刀を振り廻させる自由を与えるのと同じことであり、
自動車に交通整理信号を無視して走る自由を与えるのと同じことになるのである。

「自由」を与えられたと云うことは同時に、
その自由を「正しく」使う責任が与えられているのである。

何よりも大切なのは「正しく考える」と云うことである。
「考える」と云うことは、すべての言動の根因(もと)になるのであるから
「正しく考える」と云うことは正しく行動する基(もとい)となるのである。

           <感謝合掌 令和2年9月10日 頓首再拝>

《「良心の自由」の本当に意味するもの》 - 伝統

2020/12/16 (Wed) 02:22:59


        *『 理想世界 』(昭和42年7月22日の法語)より

   ”良心”というものは人間に宿るところの“普遍的神性”の囁きであって、
   万人共通の善悪の規準をもっているのである。

   だから、「殺す勿れ」「盗む勿れ」という風に人類共通の判断を下すのである。

   その判断を正確に実行することが、「良心の行使の自由」であって、
   その良心の判断を色々に胡麻化して、「殺すこともよい、盗むこともよい、
   ウソをつくのもよい、私の良心は、自由自在に時によって判断をかえる自由がある
   のである。これが憲法に定められている良心の自由である」などというのは、
   実は「良心の自由」を失って「良心の麻痺」である。

   「良心の自由」と「良心の麻痺」とは全然異なるのであろう。

   自由を確保した良心は、磁石が一定の方向を示すが如く、常に一定の行為の規準を示す。

   しかし麻痺した良心は、常に一定した規準を示すことなく、磁性を失い、
   磁性が麻痺した磁石の如く、常に一定の方向を示さず、出鱈目な方向を示すのである。

           <感謝合掌 令和2年12月16日 頓首再拝>

完全の自由の本体(神)をわがものとせよ - 伝統

2020/12/18 (Fri) 01:58:44


       *「光明法語」(12月18日《神をわがものとせよ》)より

完全の自由を得るには「完全の自由の本体」をわがものとしなければならぬ。
「完全の自由の本体」とは全知全能なる神のみである。

全知全能なる神をわがものとしたときにのみ「完全な自由」が得られる。

全知全能をわがものとするには小智小能を捨てなければならぬ。
すなわち自分の「我的欲望」を捨てなければならぬ。

自分の小さい知恵を握っている限り、
どんな大きいものがあっても握るわけには行かぬ。

大きいものを握るには、今まで握っていたものを先ず離すことだ。

           <感謝合掌 令和2年12月18日 頓首再拝>

完全なる人間の心の自由がある - 伝統

2021/01/31 (Sun) 02:32:24


        *「光明法語」(1月31日《常に善念を把持すべし》)

神は人間に完全なる自由を与えたのである。
幸福も不幸も健康も病気もその外(ほか)なにものでも
諸君は心に描くことが出来るのである。
そこに完全なる人間の心の自由があるのである。

心に描けば法則が自働して心に描いたものを形に現してくれるのである。
諸君は自分の運命の構図を書くことが出来る。
そして好きな所に花咲かせ鳥をうたわせることが出来れば
又すきな所に地震も津波も大暴風(あらし)もおこすことが出来るのである。

全ての人々に愛念を起こすべし。
すべての悪を否定せよ。
善のみ汝の心を集中せよ。善のみ来(きた)るであろう。

           <感謝合掌 令和3年1月31日 頓首再拝>

真の自由 - 伝統

2021/02/27 (Sat) 04:59:00


        *『生命の實相』第13巻倫理篇(P66~67)より

「愛行の生活も、物質的環境が逆えば不幸な実際生活を生む」とか、
愛行の生活と物質の法則とが相衝突する時、
愛行の生活が、物質の法則に打ち破られ、悲惨に打ち挫ひしがれて、
惨々に叩き据えられてしまうということになりますと、
人間は外界から押し寄せる物質的盲目的力に左右されている
ということになりますので、

《本当の自由は得られない》ということになります。

「行為者の本当の自由」というものが確立しなければ、
人格的行為というものは成り立たないのであります。

人格的行為というものが成り立たず、
機械的行為というものならば善も悪もないのであります。

心だけ正しければ、
外界はその心のとおりに現われなくとも「善」である。

人格の自由というのは「心だけの自由」のことであって、
外界の自由ということではないというようなことになれば、
内外一貫した人間の道徳的自由というものは存在しなくなり、
自由といい善というのはひっきょう、心の中ではかなく描かれた
空想にすぎないということになります。

それでは人間の「善」というものは《本当には》成り立たない。

《現実には》成り立たないということになります。

ところが、《われわれが外界にも生きていく上に》善を云爲(うんい)し、
魂が一種の善ただしさを要求し、「善」とか、「人道」とか、
「愛」とか、「憐憫」とかいうものに関心をもたずにいられない
というのは、自己の存在の根底において、

われわれは内界において自由であるとともに、
外界においても自由であるとの根本自覚をもっているからであります。

           <感謝合掌 令和3年2月27日 頓首再拝>

本当の自由を得るには - 伝統

2021/04/06 (Tue) 04:20:22


       *『 生長の家 』(昭和25年4月6日の法語)より

   《如何(いか)なる暗黒に面しても自分は人を憎まない》

   如何に周囲のものが辛くとも、如何に悲しみがおそいかかって来ようとも、
   吾(われ)は決して そんなことによって人を憎むことはないのである。

   そのような不完全な姿が現われて来るのは、その不完全を通してさえも
   「 完全なる本当の存在の実相 」 をみる力を
   吾(わ)が魂に養(やしな)わしめんがためであるのである。

   吾々が困難に対して自分自身が しばられなくなった時にのみ
   本当に吾々は自由を得たということができるのである。

   みせかけの不完全な状態に苦しまなくなり、
   黒雲の奥に輝いている太陽をみて感謝する心境になった時にのみ
   その人は本当に自由になったのである。


   → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13786899.html (消滅)

           <感謝合掌 令和3年4月6日 頓首再拝>

《人間は外界に左右されては自由人ではない》 - 伝統

2021/04/07 (Wed) 04:58:41


        *『 生長の家 』(昭和25年4月7日の法語)より

   外界にしばられている限りは
   人間は決して自由人だということはできないのである。

   吾々は外界を超えなければならないのである。

   内界によって外界を完全に支配することができた時にのみ
   自分が自分で自分の運命の主人公となったのである。

   今自分の肉体の力は如何に弱くとも
   それを本当の自分が弱いのだと思いあやまってはならないのである。

   本当の自分は 自己に宿る 「 久遠のキリスト 」 であり、
   自己に宿る 「 久遠の釈迦(しゃか) 」 であるから、
   すべての不幸をこえ、死をさえもこえる所の力をもっているのである。

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13786946.html(消滅)

           <感謝合掌 令和3年4月7日 頓首再拝>

真理を知ることによってのみ本当の自由を得る - 伝統

2021/04/24 (Sat) 04:40:10


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月24日)」より

人間は真理を知ることによってのみ本当の自由を得るのである。
「真理」とはマコトのコトワリである。
マコトはミコトであり、コトバであり、「真実(ほんと)の事」であり、実相である。

コトワリとはコトバすなわち神より分け出(いだ)されたる象(かたち)である。
すなわち「真理を知る」とは、神と神より出でたるいっさいの事物の《真象》すなわち
《実相》を知ることである。

単なる現象すなわち《仮相》にまどわされてはならないのである。
仮相はどんなに醜くそれが《ある》かのごとく見えても、仮の相(すがた)であり、
真実でないから、それはウソの相(すがた)であり、ニセモノの相(すがた)である。

ニセモノは本物ではなく、アルかのごとく見えてもないのであるから、
そんなものに頓着することなく、ただ「実相」のみを実在として、
その完全な相のみを見るようにしてゆけばよいのである。

かくすればもろもろの障礙はおのずから消えてしまい、人間は真に自由を得るのである。

多くの人たちが不幸であり、不自由に縛られているのは、
結局、実在もしない「悪」とか「不完全」とかをあるかのごとく考え、
それに執し、それに捕捉され、心を混乱に陥(おとしい)れ、
外見の「悪」の渦巻きの中にまき込まれてしまうからである。

そんな時に「悪」の存在を見ないで、「起きよ、汝の床をとり上げて歩め」と
われらに棒喝を与えてくれ、巻きこまれた迷いの纏絡(てんらく)から
切りはなしてくれるのが、「真理」のコトバなのである。

            <感謝合掌 令和3年4月24日 頓首再拝>

真に自由を得る - 伝統

2021/05/07 (Fri) 04:47:08


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月7日)」より抜粋

人格の本質は「自由」ということである。

それゆえにわれわれは常に今あるよりもなおいっそうの自由を得んことを念願し、
今あるよりもなおいっそうの自由を得た時に幸福感を味わい、
今あるよりも自由が少なくなった時に不幸の感に打たれるのである。

われわれは戦後祖国の民主化によって多くの自由を獲得したのである。
しかし、われわれは外からの自由は得たけれども
内なる暴君「にせものの我」の支配下にあって、
完全なる自由はなかなか得ている者は少ないのである。

この「内なる暴君」は
地球上のいかなる残虐の君主よりもなお苛酷にわれらを苦しめるのである。

そしてこの暴君の支配を受ける時われわれはみじめとなり、恐怖にみたされ、
猜疑にさいなまれ、憤怒に傷つけられ、貪欲に蝕まれ、傲慢によってみずから傷つき、
あらゆる不幸がおそいかかってくるのである。

われわれはこの暴君の支配から脱しないかぎりは真に自由を得ることはできないのである。
しかし真の人間である自分は決してかかる暴君の奴隷となって苦しめられるようには
できていないのである。

われわれはこの真の自分を発見し、
それに完全なる自由を与えなければならないのである。
真の自由を得るには真理を知ることが必要なのである。

だから、イエスは「真理は汝を自由ならしめん」と言っているのである。

            <感謝合掌 令和3年5月7日 頓首再拝>

《人間は生長をも拒む自由をもっている》  - 伝統

2021/05/09 (Sun) 04:54:16


       *「光明法語」(5月9日)より

種子(たね)の中にはその生長に必要なる要素を
周囲の太陽、空気、水分、地中から吸収して
自己をして発芽せしむる力を蔵しているのである。

それと同じく人間も己の魂の生長に必要な凡ゆる要素を
自己の周囲から吸収する力を持っているのである。

併し種子は、その生長に必要な要素に置かれるとき、
「自分は発芽することを欲しない」と
その生長を阻む自由はもっていないのである。

ただ人間のみ自由意志をもっていて自分を生長させもし、
退歩せしめすることが出切るのである。

            <感謝合掌 令和3年5月9日 頓首再拝>

自己の内に含む要素のどれを発揮するかは人間の自由である - 伝統

2021/05/10 (Mon) 02:42:53


       *「光明法語」(5月10日の法語《人間は神的実現》)

人間は神の造りたまえる最後の最高の自己実現であるから、
人間以下のあらゆる動物の段階の各要素を自己の内に含んでいる。

最後の最高の神的実現にまで生活を高めることも出来れば、
あらゆる種類の動物的状態も実現することも出来るのである。

肉欲食欲のみに快感を求めるものは、
人間でありながら動物の状態に退歩することである。

仏典にも人間の内部には、地獄、餓鬼、畜生、人間、天人の各要素を
自己の内部に包蔵すると説かれている。

その要素のどれを発揮するかは人間の自由である。

            <感謝合掌 令和3年5月10日 頓首再拝>

内外両面相貫いた自由が人間にはある - 伝統

2021/06/25 (Fri) 03:05:53


        *『生命の實相』第13巻倫理篇上(P67)より

『創世記』の第一章に、その作者が霊感によって人間の本性を描いて、
人間は神の像(すがた)に創造(つく)られ、
すべてのものを支配する権能を与えられていると説(と)いているように、
われわれはいっさいのものを外界をも完全に支配する自由を与えられている
のであります。

外界と内界とを対立させて、善なる主体が悪なる客観に働きかける
というような考えをしている限りにおいては、
人間には内外両面相貫いた自由はない、

内外両面相貫いた本当の自由のないところには、
内外両面相貫いた善というものは存在しないということになり、
そこにはただ「空想だけの善」が、現実世界では惨めに
「蹂躙ふみにじられた善」しか存在しないことになります。

だから、人の世に内外両面、主客相貫いた「善」というものの
価値と権威を確立するには、

《心の自由は同時に行為の自由であり、
 心に描かれたことは必ず客観世界にも実現する、
 心の世界と客観世界とはただ一つのものの両面である》

―― 客観世界は心の世界の影であるという、
「生長の家」の諸説に基づいてこなければならない。

倫理学は要するに、「生長の家」に来なければ主客両面、
内外相貫いたその本当の根拠がつかめないということになるのであります。

            <感謝合掌 令和3年6月25日 頓首再拝>

与える喜びのためのみに真理を伝えることの出来る人こそ本当の自由人 - 伝統

2021/07/16 (Fri) 06:41:08


        *『人生を見つめて』より
         ~真理の公共性

真理は個人のものではない。 

真理は神のものである。

真理を知らされたということは、神から真理を授けられたのであり、
何のために授けられたかというと、
諸君は、真理を他に伝えるに相応しい “霊の選士” として選ばれたからである。

真理を自己の健康のためのみに、自己の富の増大のためのみに、
自己の事業の成就するためのみに ・・・・・ 
その利己的目的のためのみに使うならば、それは公けのために
授けられた宝を私用のためのみに壟断するものだと言わなければならないのである。 

こんな場合には、入信当時有効にはたらいていた 
「心の法則」 という鍵も、いつの間にか宝の倉庫を
開くことができなくなるのである。

真理は公共的なものだということを知らなければならないのである。 
公共性に働かせないとき、その握っている真理もあたかも
 「魂」 の脱けた形骸となるのである。

公共的なものは、これを公共的に使うとき益々多くの実を結び、
人類を光明化する天使(てんのつかい)としての能力も殖えて来るのである。 

だから生長の家の誌友となり、或は 『生命の實相』 を読み、
真理を知らされた者は、一人が必ず百人の人を救済せねばおかぬ
という大決心をもって、この真理を、自分の知人、友人、近隣の人たち、
電車、汽車等にて触れ合う人たちに伝えて、

神から 「真理」 をまかされた霊の選士としての
自己の使命を完うしなければならないのである。

真理を自己のためのみに使って、肉体の健康を得、
事業を成功させて富を増殖したところが、
彼は決してまだ本当に 「真理」 を知ったのではない。 

何故なら彼は、真理の公共性を知らないからである。 
それは肉体の健康、富の増殖という物質的なことに
心を奪われている点において、

彼はまだ 「物質の奴隷」 であって、
真理を知って 「自由」 となったのではないのである。 

奴隷は決して自由人ではないからである。
真に自由人となるためには、
そような物欲から解脱しなければならないのである。 

そして何物をも求めず、ただ 「与える」 という心境になった時にのみ、
何物をもつかまないで自由になったのである。

「真理」 さえも 「自分のもの」 として掴んではならないのである。 
ただ与える喜びのためのみに真理を伝えることの出来る人こそ
本当の自由人であり、霊の選士としての本分を満たすものだ
ということが出来るのである。

http://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p6.html
August 9, 2013, 8:07 am

            <感謝合掌 令和3年7月16日 頓首再拝>

自由意思のある処(ところ)に自分の責任がある - 伝統

2021/09/05 (Sun) 04:57:29


       *『 生長の家 』(昭和24年8月3日の法語)より

一切万事吾(われ)より出(いで)て、吾に帰る。

すべて自分の周囲におこることには自分自身に責任があるのである。
他に責任を課するものは弱者である。

我々の周囲には無限のものが与えられているが、
どれをとるかは自分の自由意思である。

神は空の鳥にまかずからずとも食物を与え給(たま)うたが
その口ばしの中に食物を投げ入れはしなかったのである。

食物の選択は鳥自身の自由意思である。又 鳥自身の努力である。

努力のあるところすべて発達があるのである。

         <感謝合掌 令和3年9月5日 頓首再拝>

人間は、善と悪の世界にて、自分で選択しうる自由を持っている - 伝統

2021/09/08 (Wed) 04:45:53

    *「光明法語」(9月8日)より
       ~ 人間の荘厳と尊厳

人間のみが意識をもち、自由意志によって自己の美と荘厳と全と完全さを
自分の選択によって表現することが出来る。
爰(ここ)に人間は初めて神の最高完全たる顕現たるを得るのである。

人間の自由とは、善なるを得ると同時に
悪(善の否定)なるをも得る自由だとも言い得る。

一方的に「善しか出来ない」と定められていたならばそれは一種の機械である。
かくて人間は、悪(不健康等)をさえ表現し得る。

併し、吾らは何もかかる否定的なものを選択する必要はないのである。

           <感謝合掌 令和3年9月8日 頓首再拝>

自由意志があり得ないならば、善悪はあり得ない。 - 伝統

2021/09/09 (Thu) 04:44:12


        *「光明道中記」(9月9日《善業有りがたき日》)より

 【祈ってから五官に証拠を求めるな。
  祈ったとき既にそれは成就している(『生命の實相』第ニ巻)】

過去に「つくれる罪」の機械的流転によって
一切のものが内部から催して来るのであったならば、
其処に自由意志はあり得ない。

自由意志があり得ないならば、善悪はあり得ない。

汽車が疾走中大風吹き来って自由意志ならずして転覆して千人を殺傷しようとも、
その汽車には自由意志がなき故に罪悪とはならないのである。
極端な宿業観は人間の道徳を否定する。

『生命の實相』第五巻には、
宿業1/3、自由意志1/3、高級霊1/3、となっている。

           <感謝合掌 令和3年9月9日 頓首再拝>

人間の霊的解放 - 伝統

2021/12/13 (Mon) 04:51:20


        *『 生長の家 』(昭和25年9月8日の法語)より

先ず吾々の知らなければならない事は、

「 自分とは何であるか 」

と云うことである。

自分を「物質」だと知る限りに於いて
その人は「物質的存在」としての制約を受けるのである。

そして自分を霊的存在として自覚し得た程度に随(したが)って
その人は解放され、自由を得るのである。

「人は自己の信ずる通りのところのものとなる」のである。

宗教は病気治しでも家運隆昌術でもないが、
「 自己とは如何なるものか 」 を知らしめる結果、

人間が霊的に解放され、その随伴的効果として
家運隆昌も起れば肉体の健康をも得られるのである。

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

           <感謝合掌 令和3年12月13日 頓首再拝>

《完全の自由を得るには》 - 伝統

2021/12/17 (Fri) 04:59:20


          *「光明法語」(12月17日)より)

金があっても買えないものがある。
善き妻、善き子は金があっても買うことは出来ない。
快楽は金で買い得る事があるが、真の幸福は金では買い得ないものである。

金があっても良いインスピレーションは買い得ないし、
完全の自由は求め得られない。
金に執着している限りその人は金に縛られる。

釈迦は金貨が山の中にかくされているのを見て、
「あそこに毒蛇がいる」と言ったそうである。

金が尊いのではない。

完全の自由が尊いのである。
完全の自由があれば何でも得られる。

           <感謝合掌 令和3年12月17日 頓首再拝>

《神をわがものとせよ》 - 伝統

2021/12/18 (Sat) 04:55:40


          *「光明法語」(12月18日)より)

完全の自由を得るには「完全の自由の本体」をわがものとしなければならぬ。
「完全の自由の本体」とは全知全能なる神のみである。

全知全能なる神をわがものとしたときにのみ「完全な自由」が得られる。

全知全能をわがものとするには小智小能を捨てなければならぬ。
すなわち自分の「我的欲望」を捨てなければならぬ。

自分の小さい知恵を握っている限り、
どんな大きいものがあっても握るわけには行かぬ。

大きいものを握るには、今まで握っていたものを先ず離すことだ。

           <感謝合掌 令和3年12月18日 頓首再拝>

真理を知ることによってのみ本当の自由を得る - 伝統

2022/04/24 (Sun) 07:34:59


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月24日)」より

人間は真理を知ることによってのみ本当の自由を得るのである。
「真理」とはマコトのコトワリである。
マコトはミコトであり、コトバであり、「真実(ほんと)の事」であり、実相である。

コトワリとはコトバすなわち神より分け出(いだ)されたる象(かたち)である。
すなわち「真理を知る」とは、神と神より出でたるいっさいの事物の《真象》すなわち
《実相》を知ることである。

単なる現象すなわち《仮相》にまどわされてはならないのである。
仮相はどんなに醜くそれが《ある》かのごとく見えても、仮の相(すがた)であり、
真実でないから、それはウソの相(すがた)であり、ニセモノの相(すがた)である。

ニセモノは本物ではなく、アルかのごとく見えてもないのであるから、
そんなものに頓着することなく、ただ「実相」のみを実在として、
その完全な相のみを見るようにしてゆけばよいのである。

かくすればもろもろの障礙はおのずから消えてしまい、人間は真に自由を得るのである。

多くの人たちが不幸であり、不自由に縛られているのは、
結局、実在もしない「悪」とか「不完全」とかをあるかのごとく考え、
それに執し、それに捕捉され、心を混乱に陥(おとしい)れ、
外見の「悪」の渦巻きの中にまき込まれてしまうからである。

そんな時に「悪」の存在を見ないで、「起きよ、汝の床をとり上げて歩め」と
われらに棒喝を与えてくれ、巻きこまれた迷いの纏絡(てんらく)から
切りはなしてくれるのが、「真理」のコトバなのである。

            <感謝合掌 令和4年4月24日 頓首再拝>

《人間は完全なる自由》 - 伝統

2022/04/25 (Mon) 07:33:26


      *「光明法語」(4月25日)より

本能によって他動的に支配さるるものは機械であり動物である。

蚕が食物の選択を本能によって完全に行い、
桑の葉のみを食して食中毒をするなどと云うことのないのに、

人間が食物を本能によって選択せず、
自由心の選択にまかせられていて時々食中毒をするのは

人間は完全なる自由を与えられていて、
「善」にさえも強制せられるものではないことをあらわしている。

食慾をも、性慾をも自己統制し得て、過不及なく錯誤なく
これらを最も健全に支配する処に人間の尊厳がある。

            <感謝合掌 令和4年4月25日 頓首再拝>

《人間は生長をも拒む自由をもっている》  - 伝統

2022/05/09 (Mon) 10:23:15


       *「光明法語」(5月9日)より

種子(たね)の中にはその生長に必要なる要素を
周囲の太陽、空気、水分、地中から吸収して
自己をして発芽せしむる力を蔵しているのである。

それと同じく人間も己の魂の生長に必要な凡ゆる要素を
自己の周囲から吸収する力を持っているのである。

併し種子は、その生長に必要な要素に置かれるとき、
「自分は発芽することを欲しない」と
その生長を阻む自由はもっていないのである。

ただ人間のみ自由意志をもっていて自分を生長させもし、
退歩せしめすることが出切るのである。

            <感謝合掌 令和4年5月9日 頓首再拝>

執着を脱して始めて自由 - 伝統

2022/07/06 (Wed) 07:26:53


       *「光明法語」(7月6日)より

「我はいと勝(すぐ)れた者である。一切のものに執着しない。
 慈愛(じあい)悉(ことごと)く解脱してみずから覚(さと)る」。

これは釈迦が菩提樹下で悟りを開いて
いと静かに鹿野苑(ろくやおん)の方へ歩まれた時、
異学の優陀(うだ)と云う者が、

釈迦の容貌気色清浄(ようぼうけしきせいじょう)
妙(たえ)にして面光照りわたりたるを見て
訊ねた時に答え給うた言葉の一節である。

「われはいとすぐれたる者だ」とみずから宣言せられたのであるが、
その何がいと優れたる者であると云うと、
一切のものに執着しない事、あらゆる愛を盡(ことごと)く解脱している
ことであった。

           <感謝合掌 令和4年7月6日 頓首再拝>

人間のみが意識をもち、自由意志による選択によって表現することが出来る - 伝統

2022/09/08 (Thu) 07:38:31

      *「光明法語」(9月8日《人間の荘厳と尊厳》)より

人間のみが意識をもち、自由意志によって自己の美と荘厳と全と完全さを
自分の選択によって表現することが出来る。
爰(ここ)に人間は初めて神の最高完全たる顕現たるを得るのである。

人間の自由とは、
善なるを得ると同時に悪(善の否定)なるをも得る自由だとも言い得る。

一方的に「善しか出来ない」と定められていたならばそれは一種の機械である。
かくて人間は、悪(不健康等)をさえ表現し得る。

併し、吾らは何もかかる否定的なものを選択する必要はないのである。

           <感謝合掌 令和4年9月8日 頓首再拝>

《完全の自由を得るには》 - 伝統

2022/12/17 (Sat) 07:48:14


      *「光明法語」(12月17日)より

金があっても買えないものがある。
善き妻、善き子は金があっても買うことは出来ない。
快楽は金で買い得る事があるが、真の幸福は金では買い得ないものである。

金があっても良いインスピレーションは買い得ないし、
完全の自由は求め得られない。
金に執着している限りその人は金に縛られる。

釈迦は金貨が山の中にかくされているのを見て、
「あそこに毒蛇がいる」と言ったそうである。

金が尊いのではない。

完全の自由が尊いのである。
完全の自由があれば何でも得られる。

            <感謝合掌 令和4年12月17日 頓首再拝>

《神をわがものとせよ》 - 伝統

2022/12/18 (Sun) 11:15:33


      *「光明法語」(12月18日)より

完全の自由を得るには
「完全の自由の本体」をわがものとしなければならぬ。

「完全の自由の本体」とは全知全能なる神のみである。

全知全能なる神をわがものとしたときにのみ
「完全な自由」が得られる。

全知全能をわがものとするには小智小能を捨てなければならぬ。
すなわち自分の「我的欲望」を捨てなければならぬ。
自分の小さい知恵を握っている限り、
どんな大きいものがあっても握るわけには行かぬ。

大きいものを握るには、今まで握っていたものを先ず離すことだ。

         <感謝合掌 令和4年12月18日 頓首再拝>

《常に善念を把持すべし》 - 伝統

2023/01/31 (Tue) 07:41:07


       *「光明法語」(1月31日)より

神は人間に完全なる自由を与えたのである。
幸福も不幸も健康も病気もその外(ほか)なにものでも
諸君は心に描くことが出来るのである。
そこに完全なる人間の心の自由があるのである。

心に描けば法則が自働して心に描いたものを形に現してくれるのである。
諸君は自分の運命の構図を書くことが出来る。
そして好きな所に花咲かせ鳥をうたわせることが出来れば
又すきな所に地震も津波も大暴風(あらし)もおこすことが出来るのである。

全ての人々に愛念を起こすべし。
すべての悪を否定せよ。

善のみ汝の心を集中せよ。
善のみ来(きた)るであろう。

            <感謝合掌 令和5年1月31日 頓首再拝>

自由とは法則に従うところから来る - 伝統

2023/03/13 (Mon) 04:41:41


     *「光明道中記」(3月13日《軌道に乗る日》)より抜粋

【人生は神の永遠の生命が五官に触れる形式に現わされたもの
 でなければならぬ。 (『生命の實相』第七巻)】

実的な立派な人間とは法則を破る人間ではなく、
法則を発見し、法則を利用する人間なのである。

科学者は自然界の法則を発見し、
それを利用するとき本当の自由を得る。

自然界の法則を利用するとは法則に違(たが)うことではなく、
法則に従うことなのである。

凡そ、自由とは法則に従うところから来る。

内部の法則が外在の法則と全く一つになって運行するとき、
丁度機関車の内部の力が、軌条(レール)の則(のり)とが
ぴったり合ったとき、
自由になめらかに運転するのと同じようなものである。

          <感謝合掌 令和5年3月13日 頓首再拝>

真理を知ることによってのみ本当の自由を得る - 伝統

2023/04/24 (Mon) 05:01:53


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月24日)」より

人間は真理を知ることによってのみ本当の自由を得るのである。
「真理」とはマコトのコトワリである。
マコトはミコトであり、コトバであり、「真実(ほんと)の事」であり、実相である。

コトワリとはコトバすなわち神より分け出(いだ)されたる象(かたち)である。
すなわち「真理を知る」とは、神と神より出でたるいっさいの事物の《真象》すなわち
《実相》を知ることである。

単なる現象すなわち《仮相》にまどわされてはならないのである。
仮相はどんなに醜くそれが《ある》かのごとく見えても、仮の相(すがた)であり、
真実でないから、それはウソの相(すがた)であり、ニセモノの相(すがた)である。

ニセモノは本物ではなく、アルかのごとく見えてもないのであるから、
そんなものに頓着することなく、ただ「実相」のみを実在として、
その完全な相のみを見るようにしてゆけばよいのである。

かくすればもろもろの障礙はおのずから消えてしまい、人間は真に自由を得るのである。

多くの人たちが不幸であり、不自由に縛られているのは、
結局、実在もしない「悪」とか「不完全」とかをあるかのごとく考え、
それに執し、それに捕捉され、心を混乱に陥(おとしい)れ、
外見の「悪」の渦巻きの中にまき込まれてしまうからである。

そんな時に「悪」の存在を見ないで、「起きよ、汝の床をとり上げて歩め」と
われらに棒喝を与えてくれ、巻きこまれた迷いの纏絡(てんらく)から
切りはなしてくれるのが、「真理」のコトバなのである。

          <感謝合掌 令和5年4月24日 頓首再拝>

《自由とは濫用ではない》 - 伝統

2023/04/25 (Tue) 05:01:36

        *「光明法語」(4月24日)より

人間の尊厳は、物質を自己の内に包容しながら物質の奴隷とならず、
物質を超えつつ物質を支配し得る所にある。

物質の法則の中にありながら、物質の法則を知ることにより、
物質を超えて之を支配し得る所にある。

彼が物質の奴隷となり、肉の奴隷となる程度に従って
彼は「動物」的低位の存在にまで退歩する。

「動物」は本能によって機械的に動く。
彼の性的生活も本能によって一定の交尾期のみに働く。

人間は一定の交尾期がなく完全に自由選択にまかせられている。
自由の特長は濫用と云うことではなく自己統制にある。

          <感謝合掌 令和5年4月25日 頓首再拝>

《人間は生長をも拒む自由をもっている》 - 伝統

2023/05/09 (Tue) 07:53:33


       *「光明法語」(5月9日)より

種子(たね)の中にはその生長に必要なる要素を
周囲の太陽、空気、水分、地中から吸収して
自己をして発芽せしむる力を蔵しているのである。

それと同じく人間も己の魂の生長に必要な凡ゆる要素を
自己の周囲から吸収する力を持っているのである。

併し種子は、その生長に必要な要素に置かれるとき、
「自分は発芽することを欲しない」と
その生長を阻む自由はもっていないのである。

ただ人間のみ自由意志をもっていて自分を生長させもし、
退歩せしめすることが出切るのである。

          <感謝合掌 令和5年5月9日 頓首再拝>

人間は内部にある要素のどの要素を発揮するかは自由である - 伝統

2023/05/10 (Wed) 06:52:11


       *「光明法語」(5月10日《人間は神的実現》)より

人間は神の造りたまえる最後の最高の自己実現であるから、
人間以下のあらゆる動物の段階の各要素を自己の内に含んでいる。

最後の最高の神的実現にまで生活を高めることも出来れば、
あらゆる種類の動物的状態も実現することも出来るのである。

肉欲食欲のみに快感を求めるものは、
人間でありながら動物の状態に退歩することである。

仏典にも人間の内部には、地獄、餓鬼、畜生、人間、天人の各要素を
自己の内部に包蔵すると説かれている。

その要素のどれを発揮するかは人間の自由である。

          <感謝合掌 令和5年5月10日 頓首再拝>

想念、感情、意志、言葉、行動の自由のゆえにこそ人間の尊厳が存在する - 伝統

2023/05/16 (Tue) 05:06:57


     *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月16日)」より抜粋

宇宙にあるあらゆる理念のうち全包容的最高理念が人間である。
だから人間は万物を従わせ、万物を生かし、
万物をその使命のところに配置する権能を有するのである。

人間が人間としての価値と存在の意義は、
自己選択をなしうるということにあるのである。
万物を従わせるとは、自己選択をなしうることである。

曰く、想念の自由、感情の自由、意志の自由、言葉の自由、
行動の自由ということである。

毎日、毎時、毎分、毎秒、毎瞬、われわれは何を想うか、
いかなる感情を起こすか、何を意志するか、何を言論するか、
何を行動するかの自由を持っているのである。

その自由のゆえにこそ人間の尊厳が存在するのである。

かくのごとき自由は機械にはもちろん、
単なる動物にすら存在しないところのものである

          <感謝合掌 令和5年5月16日 頓首再拝>

人間の荘厳と尊厳 - 伝統

2023/09/08 (Fri) 12:29:36


      *「光明法語」(9月8日)より

人間のみが意識をもち、自由意志によって
自己の美と荘厳と全と完全さを
自分の選択によって表現することが出来る。

爰(ここ)に人間は初めて神の最高完全たる顕現たるを得るのである。

人間の自由とは、善なるを得ると同時に
悪(善の否定)なるをも得る自由だとも言い得る。

一方的に「善しか出来ない」と定められていたならばそれは一種の機械である。
かくて人間は、悪(不健康等)をさえ表現し得る。

併し、吾らは何もかかる否定的なものを選択する必要はないのである。

           <感謝合掌 令和5年9月8日 頓首再拝>

無我のところに自由はある - 伝統

2023/09/15 (Fri) 12:11:27


    *「光明法語」(9月15日《我でやれば失敗する》)より

頭脳の知恵にのみ訴えて、大生命の導きを受ける方法を講じない者は、
本店の指導を全然除外して支店のみで勝手に振舞おうとするにも似ている。

それは時には好い事もあるであろうが、
時には本店の方針にそむく事によって、
除名されたり閉鎖を命ぜられたりする事もありうる。

吾々の真の自由は、大生命の流れを大生命その儘の方向に、
自発的に向かう事によってのみ遂げられるのである。

真の服従のあるところに自由はあり、真に無我のところに自由はある。

           <感謝合掌 令和5年9月15日 頓首再拝>

《完全の自由を得るには》 - 伝統

2023/12/17 (Sun) 09:56:39


      *「光明法語」(12月17日)より

金があっても買えないものがある。
善き妻、善き子は金があっても買うことは出来ない。
快楽は金で買い得る事があるが、真の幸福は金では買い得ないものである。

金があっても良いインスピレーションは買い得ないし、
完全の自由は求め得られない。
金に執着している限りその人は金に縛られる。

釈迦は金貨が山の中にかくされているのを見て、
「あそこに毒蛇がいる」と言ったそうである。

金が尊いのではない。

完全の自由が尊いのである。
完全の自由があれば何でも得られる。

      <感謝合掌 令和5年12月17日 頓首再拝> 

《神をわがものとせよ》 - 伝統

2023/12/18 (Mon) 09:57:43


      *「光明法語」(12月18日)より

完全の自由を得るには
「完全の自由の本体」をわがものとしなければならぬ。
「完全の自由の本体」とは全知全能なる神のみである。

全知全能なる神をわがものとしたときにのみ
「完全な自由」が得られる。

全知全能をわがものとするには小智小能を捨てなければならぬ。
すなわち自分の「我的欲望」を捨てなければならぬ。
自分の小さい知恵を握っている限り、
どんな大きいものがあっても握るわけには行かぬ。

大きいものを握るには、今まで握っていたものを先ず離すことだ。

      <感謝合掌 令和5年12月18日 頓首再拝> 

完全なる人間の心の自由がある - 伝統

2024/01/31 (Wed) 10:23:42


      *「光明法語」(1月31日《常に善念を把持すべし》)より

神は人間に完全なる自由を与えたのである。
幸福も不幸も健康も病気もその外(ほか)なにものでも
諸君は心に描くことが出来るのである。
そこに完全なる人間の心の自由があるのである。

心に描けば法則が自働して心に描いたものを形に現してくれるのである。
諸君は自分の運命の構図を書くことが出来る。
そして好きな所に花咲かせ鳥をうたわせることが出来れば
又すきな所に地震も津波も大暴風(あらし)もおこすことが出来るのである。

全ての人々に愛念を起こすべし。
すべての悪を否定せよ。
善のみ汝の心を集中せよ。善のみ来(きた)るであろう。

           <感謝合掌 令和6年1月31日 頓首再拝>

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