伝統板・第二

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真理の生活 ⑥ - 伝統

2019/12/16 (Mon) 04:43:38

天地応え、宇宙動く決意こそわがものでなければならぬ。

        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月16日)より

決意だけではまだ本物ではない。
信念を伴った決意でなければならぬ。

「実相を観ずる歌」はわれらの決意と信仰を語るものだ。

「われ祈れば天地応(こた)え、
われ動けば宇宙動く。」

天地応え、宇宙動く決意こそわがものでなければならぬ。

・・・

<関連>

(1)伝統板・第二「真理の生活 ①」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6971129

(2)伝統板・第二「真理の生活 ②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7583747

(3)伝統板・第二「真理の生活 ③」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7707100

(4)伝統板・第二「真理の生活 ④」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7796617

(5)伝統板・第二「真理の生活 ⑤」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7854421

            <感謝合掌 令和元年12月16日 頓首再拝>

自分の過去の妄執を斬れ - 伝統

2019/12/19 (Thu) 04:57:45


       *「光明道中記」(12月19日《妄執を斬る日》)より抜粋

【妻の非難の念波は良人(おっと)の心を淋しくする。また良人を病気にする。
                         (『生命の實相』第六巻)】

憎んでいなくとも斬らねばならぬことがある。
愛していても斬らねばならぬことがある。

歌舞伎座で、「天一坊と大岡越前守」の芝居を観たら、
此の創作での天一坊は吉宗将軍の本当の落胤なのである。

しかし吉宗の愛の故に、それが本当に落胤だとわかったら、天下みだれ、
将軍家の家庭みだれ、由々しき大事に立到ることを先覚して、
「落胤ではありませぬ」と大岡越前が苦衷をしのんで言う。

吉宗将軍は「わしに瓜(うり)二つの姿形をしていると云うが、そうであるか」と訊く。
大岡越前は一寸躊躇して「左様でございます」と言う。
「無礼者奴が! わしに生き写しとな。斬れ 」と言う。

愛しているが故に自分の実子を斬れと言ったのだ。
 
斬れ!  自分の過去を。

            <感謝合掌 令和元年12月19日 頓首再拝>

明るさ、積極性、建設的 - 伝統

2019/12/21 (Sat) 04:14:41


       *「光明道中記」(12月21日《心の岩戸開きの日》)より

【どうでも好いことに何時(いつ)までもかかわるな。生命は貴(とうと)い。
                      (『生命の實相』第十一巻)】

心を支配すること。
何をおいても心を支配すること。
明るい気持に常になるように心掛けること。

ただそれだけを常に心掛けるだけでも、
あなたの運命は輝かしいものに転じて来るであろう。
あなたの健康は従来よりも前進して来るであろう。

神は光明遍照であると云うことを知らなければならない。
光明のないところ、明るさのない処には神は在(い)まさないのである。
心に光明を満たす時、万物が生き生きと蘇生(よみがえ)って来るのである。

神は一切所に充ちていられるのであるが、
心の天岩戸の開かないところにはその光は射し込まないのである。

『古事記』に書かれているのは虚(うそ)ではない。
天之宇受女命(あめのうずめのみこと)の明るい舞踊に触発され八百万神々の
明るい笑いが暗黒の世界に、日の光を射し込ましたのである。

吾々は明るいと共に、積極的でなければならないし、建設的でなければならない。
積極的な者は一時は失敗するかも知れないが、
その失敗は必ずや経験の上に何物かを獲得せしめるので、結局は失敗ではないのである。

明るいばかりで此の世を笑いで吹き飛ばすだけでも完全だと言えない。

明るい上に積極性があり、更に建設的であることを要するのである。

            <感謝合掌 令和元年12月21日 頓首再拝>

後味のよいことを考える - 伝統

2019/12/25 (Wed) 04:03:36


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月25日)より

憎みを考えるものではない。
話題をそういう問題から常に避けるようにしなければならぬ。
常に、愛のことを、深切のことを、心に残る後味のよいことを
考えるようにしなければならぬ。

ピシリと相手をやっつけても、そのあとで心が後味の悪さで苦しむようでは、
その相手に負けているのである。

勝つとは、後味までも歓べることである。

            <感謝合掌 令和元年12月25日 頓首再拝>

《人間はすべからく偉大なれ》 - 伝統

2019/12/26 (Thu) 02:39:25


        *「光明法語」(12月26日)より

神は無限の富者であり、宇宙に満つる偉大者である。

神は決して神の子たる人間に最低限度の生活などを強要してはいられないのである。
人間はただ大根や馬鈴薯を辛(かろ)うじて食べるために生きているものではない。

神の偉大さを実現せんがために生まれて来たのが人間である。
須(すべから)く偉大なる事に着眼し、偉大なる生活を送らなければならぬ。

夜、人の知らぬ間に降りて大地や草木を霑す夜露の様な隠れたる生活も尊いが、
ナイヤガラの瀑布やグランド・キャニオンの峡谷も美しく尊いのである。

            <感謝合掌 令和元年12月26日 頓首再拝>

難癖をつける習慣をやめよう - 伝統

2019/12/29 (Sun) 04:07:59


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月28日)より

「勝てる」という自信はよいが、「負けまい」という焦燥は自分自身を殺すものである。
「勝てる」という自信はその人を寛大にし、「負けまい」という焦燥は人に難癖をつけて
不条理に蹂躙(ふみにじ)ろうとする。

難癖をつける心は、一方に相手の立派さを認めながら、それを強いて逆に蹂躙(ふみにじ)ろうと
するのであるから、その人の心中は自己葛藤に満たされる。

自己葛藤は自己自身を粉砕し、自己の人格を低卑にし、自己の健康を傷つける。
この場合、人格の低卑と健康と不良とは同意義である。

・・・

        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月29日)より

人々よ、今日(きょう)から他(ひと)に難癖をつける習慣をやめようではないか。

あなたがもし他(ひと)に難癖をつける習慣を改めるならば、
あなたの周囲がきっと前よりもいっそう輝き出すだろう。

世界が明るくなるであろう。
人々もあなたにまた難癖をつけることをやめるであろう。
世界が広々とした海闊明朗な世界になるであろう。
全体があなたを祝福し、あなたは今よりも幸福になるであろう。

呟く歌や悲しむ歌を雑誌などに書いている人を見るごとに、
わたしはその人をかわいそうと思わずにはいられないのである。

いたるところに眼を開けば光が充ち満ちているではないか。


   観終わり東(ひんがし)の空を見てありき燃ゆるがごとく雲流れけり

   太陽も大空も樹(き)も空も鳥もすべて生きてあり生かされてあり

            <感謝合掌 令和元年12月29日 頓首再拝>

【悪口を言われたとしても言い返さない】 - 伝統

2020/01/10 (Fri) 04:38:48


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2020.01.07)より

   (斎藤一人さんの心に響く言葉より…)

   《悪口を言われたとしても言い返さない。
    そういう人にいいことは起こるんです》

   そもそも悪口は言った方が負けなんです。

   いくら相手からどんな言葉を言われても、自分は悪口を言わない。

   そうすれば、自分にいいことが起こる。

   これは、ひとつの法則です。

   それから、人をバカにしたり、威張ったりするのもよくないよ。

   自分の庭に不幸の種をまいているのと、同じだよ。



   《運は1回使ったら、おしまいではありません。
     自分で「運がいい」と思っていれば、いい運はずっと続きます。》

   クジに当たったら、「これで運を使っちゃった」とか言っちゃダメだよ。

   「次も当たる」「もっと当たる」「またいいことがある」と思うことだよ。

   いい運は、ずっと続くんだよ。

   いいことが起きたら、まだまだいいことが起こるというサイン。

   ラッキーは続くと思って、次を楽しみにするんだよ。



   《生きることも死ぬことも楽しい経験だよ。》

   一人さんはね、この世で生きることはこの上なく楽しいと思っている。

   刺激にあふれて、大切な仲間がいて、いろんな体験ができるからね。

   だけど、死後の世界も素晴らしいことを知っているの。

   死ぬことは本来、これ以上ないくらいの幸福感にあふれた心地よいことなんです。

   だから、死ぬこともワクワクしている(笑)。

   この世も、あの世も、楽しいところだよ。

   だから、今は楽しくいきることなんです。



   《急いで成長しなくてもいいんだよ。
    まだまだ先は長いから、ゆっくりでいいの。
    魂には、永遠に「死」なんてないんだから。》

   人は何回も生まれ変わります。

   だから、肉体は滅びても、永遠の魂を持っているんです。

   ということは、そんなに急いで成長することはないの。

   先は長いんだからね。

   自分のペースでいいんです。

   ゆっくりゆっくり上に行くことだね。

            <『斎藤一人一日一語』ぴあ>

          ・・・

価値観は時代ととも大きく変わる。

離婚についてだけでなく、仕事における転職や副業そして、
終身雇用などについての考えた方や価値観も昔とは
大きく変わっている。

ITやAIなどのデジタル革命が起きたことによる
意識の変化にもすごいものがある。


昔は多く覚えることができる人が重宝されたが、
今はそれより、創造性があり斬新な発想ができる人が
もてはやされる。

なぜなら、今は、わからないことがあれば、
誰でもすぐにスマホで調べることができるからだ。


しかしながら、それとは逆に昔からずっと変わらないこともある。

それが、人間関係や生き方の極意。

たとえば、「悪口を言われたとしても言い返さない」とか、

「運は1回使ったら、おしまいではない」とか、

「生きることも死ぬことも楽しい経験だよ」とか、

「急いで成長しなくてもいいんだよ。まだまだ先は長いから、
 ゆっくりでいいの」とか。

そして、一人さんの言っているような、
これらの変わらないことは、なかなか学校では教えてくれない。

教科書にも載っていない。

だからこそ、社会に出てから我々はそれを学ぶ必要がある。

昔からの変わらない価値観を学び、
そして同時に時代と共に変わる価値観も学ぶことができる人でありたい。

            <感謝合掌 令和2年1月10日 頓首再拝>

《その所に於いて生き切れ》 - 伝統

2020/01/15 (Wed) 04:34:01


         *「光明法語」(1月15日)より

すべての人は神の子であるから、
必ず何か特殊のその人でなければならない才能が宿っているのである。

その才能を伸ばしさえすれば必ず自己は幸福となり、世界も亦、
それによって幸福を得るのである。

その才能とは何であるか、自己に与えられている才能が何であるかが
自分に解らないときには、現在の仕事と環境に於いて、
自分の出来るだけの力を尽くして精出せばよいのである。

全て既に与えられている所のものを充分感謝してそれを生かせば、
必ずそれは真の自己の才能を伸ばす所の踏み台となり、第一歩となるのである。

            <感謝合掌 令和2年1月15日 頓首再拝>

《惰性的安定感に堕ちてはならぬ》 - 伝統

2020/01/16 (Thu) 04:48:18


          *「光明法語」(1月16日)より

新しい想念を入れることが出来ず、変化すべき時に変化に抵抗し、
新しき経験が自分の生涯に入(い)り来(きた)ることを拒む人間には
進歩はない。

この種の抵抗は前途に対する不安恐怖の念から来る。
今までやってきたことが一番安全だという
愚かしき固定概念に支配されているからである。

もしすべての人類がかくの如き固定概念に支配されていたとしたならば
この世界にも人間にもどんな進歩も発達も得られなかったのである。

現在の状態の崩壊することは悲しいことのように見えるけれども
それは却(かえ)って進歩と幸福への契機である。

            <感謝合掌 令和2年1月16日 頓首再拝>

《新鮮なる生命感に満ち溢れよ》 - 伝統

2020/01/17 (Fri) 04:10:57


        *「光明法語」(1月17日)より

新しい環境は新しい飛躍を生むのである。
新しい環境がなければ生命は溌溂として生きて来ないのである。

新しき環境に於いて新しき夢は描かれ、
新しき経験は始まり新しき事物は発生し
幸福と新しき文化は構成される。

今汝の心を開いて新しき世界に対処せよ。
新しきものを拒絶する勿れ。

新しきものは汝を新しく生かさんが為に
神から遣わされたところの天の使いである。

如何なる変化が起ろうとも木枯らしが吹荒(ふきすさ)ぶとも
春は旋(やが)て来るであろう。

満目霄壤(まんもくしょうじょう)、荒涼たる風光の中に
一陽来復の桜花爛漫たる春が用意されているのである。

            <感謝合掌 令和2年1月17日 頓首再拝>

【悪口を言われたとしても言い返さない】 - 伝統

2020/01/29 (Wed) 04:00:17


        *メルマガ「人の心に灯をともす」(2020.01.07)より

   (斎藤一人さんの心に響く言葉より…)

   《悪口を言われたとしても言い返さない。そういう人にいいことは起こるんです》

   そもそも悪口は言った方が負けなんです。

   いくら相手からどんな言葉を言われても、自分は悪口を言わない。

   そうすれば、自分にいいことが起こる。

   これは、ひとつの法則です。

   それから、人をバカにしたり、威張ったりするのもよくないよ。
   自分の庭に不幸の種をまいているのと、同じだよ。



   《運は1回使ったら、おしまいではありません。
    自分で「運がいい」と思っていれば、いい運はずっと続きます。》

   クジに当たったら、「これで運を使っちゃった」とか言っちゃダメだよ。
   「次も当たる」「もっと当たる」「またいいことがある」と思うことだよ。

   いい運は、ずっと続くんだよ。
   いいことが起きたら、まだまだいいことが起こるというサイン。

   ラッキーは続くと思って、次を楽しみにするんだよ。



   《生きることも死ぬことも楽しい経験だよ。》

   一人さんはね、この世で生きることはこの上なく楽しいと思っている。
   刺激にあふれて、大切な仲間がいて、いろんな体験ができるからね。

   だけど、死後の世界も素晴らしいことを知っているの。
   死ぬことは本来、これ以上ないくらいの幸福感にあふれた心地よいことなんです。
   だから、死ぬこともワクワクしている(笑)。

   この世も、あの世も、楽しいところだよ。

   だから、今は楽しくいきることなんです。



   《急いで成長しなくてもいいんだよ。まだまだ先は長いから、ゆっくりでいいの。
    魂には、永遠に「死」なんてないんだから。》

   人は何回も生まれ変わります。
   だから、肉体は滅びても、永遠の魂を持っているんです。

   ということは、そんなに急いで成長することはないの。

   先は長いんだからね。
   自分のペースでいいんです。

   ゆっくりゆっくり上に行くことだね。

        <『斎藤一人一日一語』ぴあ>

          ・・・

価値観は時代ととも大きく変わる。

離婚についてだけでなく、仕事における転職や副業そして、
終身雇用などについての考えた方や価値観も昔とは大きく変わっている。

ITやAIなどのデジタル革命が起きたことによる
意識の変化にもすごいものがある。


昔は多く覚えることができる人が重宝されたが、
今はそれより、創造性があり斬新な発想ができる人がもてはやされる。

なぜなら、今は、わからないことがあれば、
誰でもすぐにスマホで調べることができるからだ。


しかしながら、それとは逆に昔からずっと変わらないこともある。

それが、人間関係や生き方の極意。

たとえば、「悪口を言われたとしても言い返さない」とか、

「運は1回使ったら、おしまいではない」とか、

「生きることも死ぬことも楽しい経験だよ」とか、

「急いで成長しなくてもいいんだよ。まだまだ先は長いから、
 ゆっくりでいいの」とか。

そして、一人さんの言っているような、
これらの変わらないことは、なかなか学校では教えてくれない。

教科書にも載っていない。

だからこそ、社会に出てから我々はそれを学ぶ必要がある。

昔からの変わらない価値観を学び、
そして同時に時代と共に変わる価値観も学ぶことができる人でありたい。

            <感謝合掌 令和2年1月29日 頓首再拝>

小言を思わず、言わない - 伝統

2020/02/06 (Thu) 04:19:02


       *「光明道中記」(2月6日《一切に感謝謝する日》)より

【天気に小言を言うな。すべてについて小言を言うな。小言はすべて暗い気分を招く。
 暗い気分は病気と不景気のもとだ。(『生命の實相』第十一巻)】


「あなたは心に不平を持っているから、
それを直さなければ、その病気は治らないでしょう」と、
道場へ来た人に助言してあげることがある。

すると「私は決して不平など心に持ったことはありません」と答える人が多い。
そう云う人は、自分の心に反省がないのである。

負債があるのに負債のあることに気附かず、
借金があるのに借金をしていることに気附かぬ人である。

そんな人は恐らく借金を払おうとしない人だろうし、
自分の悪癖(あくへき)を直そうとしない人で、
最も始末に了(お)えない種類の人間である。

そんな人が道場から帰る時間になって雨でも降って来たなら
直ぐ「チェッ雨が降って来て弱った!」と言って
天気の小言を言う現場を度々見せられているのである。

不平を持たぬ心とは、どんな事が起っても小言を言わぬ、小言を思わぬ心である。

観世音菩薩とは「世音(せおん)」即ち「世間の念波」を観じて、
その念波そのままの姿を以て顕れたまう菩薩である。
だから千手であったり、十一面であって、三十三相随宣(ずいぎ)変貌するのである。

自分が腹立っている時に周囲が自分に腹立った相(すがた)をするなら、
その周囲の相が観世音菩薩である。

            <感謝合掌 令和2年2月6日 頓首再拝>

陰を見ぬ日 - 伝統

2020/02/09 (Sun) 02:21:17


           *「光明道中記」(2月9日)より

【陰を見るな。光明方面を見よ。見た方面が強くあらわれる。(『生命の實相』十一巻)】


現象界はすべて明暗の交錯で出来ている。
光明一元は実相世界のことである。

現象界で暗い方面ばかり探していたら、どんな輝かしい美人でも
足の裏から覗いて見たら暗い半面はあるのである。

人生を暗いと思って嘆く人よ、人生は暗いのではない。
貴方の人生を覗くところの角度が暗い角度から覗いているのである。

太陽が落ちた後の暗澹たる世界を嘆くよりも、
太陽のさし昇る光明燦爛たる曙を想望して喜ぶがよい。
太陽を想望する人の心の中には、既に太陽があるのである。

心に太陽が無くてどうして太陽の射す明るい世界を見ることができよう。
心に太陽を持つ者は、やがて現実の世界に太陽の差し昇るのを見るであろう。

子供を育てる時にも、子供の美点のみを見て誉めるようにするならば、
その子供の美点は伸びる。常に夫は妻を誉め、妻は夫を誉めよ。
そこからこそ幸福な家庭が来る。

            <感謝合掌 令和2年2月9日 頓首再拝>

責任を喜ぶ日 - 伝統

2020/02/11 (Tue) 04:43:41


           *「光明道中記」(2月11日)より

【罪を他に帰するは、自分を土偶(でく)人形にすることである。
                      (『生命の實相』第二巻)】

責任回避は生長の家の生き方とは大凡(おおよそ)反対のものである。
宗教的生活とは、すべての結果に対して
其の原因を自分に反照して自分自身を浄(きよ)める生活である。

自分が若し他から害を受けたことを承認するならば、
それは既に自己が弱者であることを自己確認したのである。

そして自己が弱者であることを自己確認する位ならば、
他から害を受けたことに就いて呟くことなかれ。

弱き者は結局他から害を受けるほかはないのであるからである。
若し汝が弱者であるならば、原因を他動的なものに帰してはならない。
若し自身が不幸であるならば、自己を傷つけたものは自分のほかにないと自分自身に語れ。

いずれにしても他を恨み、他を憤(おこ)るべき理由は一つもないのである。

最大の優強者は自己を以て宇宙の一切の事物に責任ある者だと自覚を持つ聖者である。

世の中の人々が、まだ全部、光明思想によって救われ切らないのは、
自分の罪だと私は言いたい。

            <感謝合掌 令和2年2月11日 頓首再拝>

《後ろから卑怯に斬るな》 - 伝統

2020/02/12 (Wed) 06:46:20


           *「光明法語」(2月12日)より

本人のいない前で悪口を言うのは実に卑怯な行為である。
若し相手が悪いのならば本人に直言すべきである。

若し相手に悪がないのに虚構して悪口するのであれば尚一層卑怯である。
誰も警戒していないのに後ろからバッサリやるのは昔から“悪ざむらい”の所行である。
本人のいないところで悪口言うのは後方からバッサリ斬るのと同じことだ。

そんな行為は常に自分と神との間を遮断するものなのである。

そんなことは愛深き神の波長と会わないのである。

幸福になろうとする者は人の美点を賞めることから始めよ。

            <感謝合掌 令和2年2月12日 頓首再拝>

人の悪口を言わず、不運をかこたぬ - 伝統

2020/02/13 (Thu) 02:11:33


         *「光明法語」(2月13日《自己の不運をかこつな》)より

不深切、残忍、卑怯、殺人、盗罪ーそのようなことは神の愛にそむくのである。
神は愛であるから、神の愛にそむく一切の行は神と波長が合わないのである。

吾々が人の悪を決して云わないことに決心し、
それを実行した時に屹度その人は運が向くのである。
更に自分の不運をかこたぬことにしたら一層運が向くだろう。

他人の不運(悪口)を呟くのも、どちらも神の子をけがす罪なのである。
キリストはすべての罪は赦されるけれども聖霊をけがす罪は赦されないと言っている。

聖霊の出生である人間の悪口を言ってはならぬ。

            <感謝合掌 令和2年2月13日 頓首再拝>

武士の情(なさけ)を知る - 伝統

2020/02/15 (Sat) 04:35:34


        *「光明道中記」(2月15日《卑怯を捨てる日》)より抜粋

「お前がこんなことをしたからこんな結果になった」とは、
家庭でも会社でもよくあり勝(がち)な争いの原因である。

そんなに罪を押しつけられたら、
進んで罪を引き受けようと思っていてすらも
反抗的に「私にそんな責任はありません」と言いたくなる。

彼が「失敗(しま)った」と思っているとき、
尚追求するのは武士の情(なさけ)を知らぬものである。

彼が「失敗(しま)った」と思って悔恨の情にかられているとき、
「君が悪いのではない、私が悪いのだ」と他から言われたならば、
その人は何ぼう感激して善に復帰するだろう。

            <感謝合掌 令和2年2月15日 頓首再拝>

《自分を見苦しく広告してはならない》 - 伝統

2020/02/27 (Thu) 02:28:04


           *「光明法語」(2月27日)より

吾々の生活は一言一行が広告である。
それは「此処にこんな人がいる」と云うことを広告して歩いているのだからである。

怒りっぽい人は「此処にこんな怒りっぽい下らない人間がいる」と広告をしているのだし、
ニコニコした人は「此処にこんなニコニコした人がいる」と広告しているのである。
膨れっ面は、不平な人を広告しているし、泣き面は悲しい心持を広告しているのである。

何のために諸君はそんなに自分の見苦しい面ばかりを広告してあるくのか。
それは人生を見苦しくし、諸君自身の値打を下げる。

            <感謝合掌 令和2年2月27日 頓首再拝>

自己の使命感を生かせ  - 伝統

2020/03/02 (Mon) 04:03:08


           *「光明法語」(3月2日)より

或る有名な音楽家のところへ一人の娘がたずねて来て、
どうしたら自分は早くラジオに出られるようになりますか。
オペラのシンガーになることが出来ますかとたずねた。

その有名な音楽家は答えた。

「どんな天才でもそのような気持ちで天才を伸ばすことは出来ません。
歌手が歌手として成功するためにはどんな苦労をしてでも歌を立派に歌いたい
と云うような一念にならねばなりません。

かくて其の一念不動の決意によって音楽が自分自身をさえも
魅するような上手さに達した時他の人々をも魅することが出来るのである」と。

            <感謝合掌 令和2年3月2日 頓首再拝>

使命感と天分を目的とせよ - 伝統

2020/03/03 (Tue) 03:01:04


           *「光明法語」(3月3日)より

名声や金儲けを目的にしているのは本道(ほんみち)ではない。
それは天分のない証拠だと言えるのである。

私が早稲田の文科にいたとき、その分科が甲クラス乙クラスとに分かれて、
乙クラスは専門に文学のみを修業して中等学校の英語教師たる資格を抛棄(ほうき)する。

甲クラスは若し文学で飯が食えねば
英語教師に無試験検定でなれる資格を保留することにしたのである。

その時、乙クラスにみずから進んで入学をした者は僅か数名だったが、
彼らは文壇でとも角有名人になった。

西条八十、木村毅、細田民樹、細田源吾、鷲尾雨工・・・・・等々。

            <感謝合掌 令和2年3月3日 頓首再拝>

一事を見て万事を判断してはならぬ - 伝統

2020/03/06 (Fri) 04:50:53


           *「光明法語」(3月6日)より

霊的の事物は霊的に理解してのみ其の真実意を汲み取ることが出来るのである。

だから自分が霊的に発達した程度に随って、
聖書でも仏典でも本当に理解することが出来るのである。
生長の家の教えも同じことである。

郡盲象を評するような調子で、色々に理解したり批評したりしているけれども、
象には耳もあり、牙もあり、脚もあり、胴体もある。

牙に触れたものは猛獣だと思うかも知れないが、実は至極おとなしい動物であり、
その象牙も彫刻すれば素晴らしい価値が出て来る。

            <感謝合掌 令和2年3月6日 頓首再拝>

悪事を断ち切る道 - 伝統

2020/03/07 (Sat) 04:54:41


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月7日)」より

悪事はさらに悪事を生む。
善事はさらに善事を生む。

幸福者とは悪事を未だ犯さなかった人のことではない。
悪事が次に悪事を招(よ)ぶのを断ち切ることのできた人だ。

悪事を断ち切る道は、この悪事をしているのは本当の「私」でないと知ること。
そして本当の「私」でない者に、今日かぎり断じて加勢しないと決心することにある。

            <感謝合掌 令和2年3月7日 頓首再拝>

自己弁護する自分は「本物の自己でない」 - 伝統

2020/03/08 (Sun) 04:19:41


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月8日)」より

自己弁護をする者は、まだ本当に真理を求めているものではない。

「本当の自己」は常に昭々として輝いており、弁護してかろうじて
その尊厳の保たれるようなさもしい存在ではない。

弁護しなければならぬような自己は、
ただその「弁護しなければ尊厳が保てぬ」という理由だけで
「本物の自己でない」ことを証明している。

            <感謝合掌 令和2年3月8日 頓首再拝>

人生を値切るなかれ! - 伝統

2020/03/18 (Wed) 02:16:54


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月18日)」より

人生は値切ってはなりませぬ。

対手(あいて)を値切るものは自分自身をも値切られる。

            <感謝合掌 令和2年3月18日 頓首再拝>

人生を花をもって飾り、讃えましょう - 伝統

2020/03/19 (Thu) 04:56:40


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月19日)」より

人生を花をもって飾りましょう。
縮かんでしまってはなりません。

死人があるからとて、バラの花は咲くように神様から美を与えられているのです。
地上に悲惨があればこそ、われわれはいっそう地上を美しく飾らねばなりません。
委縮するものはついに国を滅ぼすのです。

元気にその日その日を生き、元気に人生を讃(たた)えましょう。

            <感謝合掌 令和2年3月19日 頓首再拝>

《心に善事のみを描きましょう》 - 伝統

2020/03/22 (Sun) 02:22:48


          *「真理」第9巻生活篇第2章(P37~38)より

悪を心に描くことは、此の肉眼に見える第二次創造の世界に
「悪」を主題とする映画を映し出すことになるのです。

そして実相(神の第一次創造の世界)は完全でありながら、
多くの人々は其処に不幸が実現していると見るのであります。

不幸にして多くの人々は、自分の欲するところの、健康とか豊かさとか幸福とかの
善き有様を心に描かず、ただ「不幸なことがでて来やしないか」と恐怖して
「不幸」を心に描きますから、その心に描いた通りの「不幸な事件」が
相継いで出現して来るようになるのであります。

しかも残念なことに、吾々の住んでいる世界は、印刷、ラジオ、テレビ等の発達により、
間断なく周囲から「言葉の力」で”好ましくない事柄”が存在すると云う暗示が与えられ、
まるで強力な催眠術家に取り囲まれているような有様ですから、外部から来る「不幸」の
暗示を拒絶するようにつとめねばなりません。

            <感謝合掌 令和2年3月22日 頓首再拝>

わたしは道であり、花びらであり、太陽であり、宝庫である - 伝統

2020/03/24 (Tue) 04:15:47


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月24日)」より

わたしの行くところに道がひらかれる。
わたしは道である。

わたしの行くところに花びらが撒かれる。
わたしは花びらである。

わたしの行くところに太陽が照り輝く、わたしは太陽である。

わたしの行くところに必ず宝庫が開かれる。
わたしは宝庫である。

この世の中が思うようにゆかないという人は、わたしと同じ心持になるがよい。
険(けわ)しきは平らかにせられ、難(かた)きは易しきに打ちかえられる。

            <感謝合掌 令和2年3月24日 頓首再拝>

真理とともに立つ - 伝統

2020/03/27 (Fri) 04:59:57


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月27日)」より

ひとがなんとおん身を批評しようとも、
おん身は毅然として真理とともに立たねばならぬ。

おん身は真理がいっさいのよろこびの源泉であることを知らねばならぬ。

一等悪いことは眼先の他の批評に捉えられて、
真理の永遠の評価の前で無価値になってしまうことである。

            <感謝合掌 令和2年3月27日 頓首再拝>

心配事など取るに足らぬ - 伝統

2020/03/28 (Sat) 04:22:48


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月28日)」より

人間が心配していることは、すべて小さな重要でないことについてである。
真に重要なことの前には人間はかえって大胆に勇敢になるものである。

戦場に出れば人間はもう心配などしている暇がない。

心配していることそのことが、おん身の考えている事柄が
じつに小さな採るに足らぬことであることの証拠である。

これを知ったらあらゆる心配が消えてしまうであろう。

            <感謝合掌 令和2年3月28日 頓首再拝>

一歩一歩の前進 - 伝統

2020/03/29 (Sun) 04:08:29


        *谷口清超先生著『伸びゆく日々の言葉』(P124)より

いくらあせっても、実力以上のものが出て来るわけではない。
実力以上にみせかけても全く無駄である。
一言、一句、一瞬の動作の中に、あなたの「実力」がとび散るのだ。

それ故、表面を飾ることをやめよ。
労をいとうて、功ばかり求めるな。

コツコツと努力すれば、それだけの収穫は必ずある。
何故ならあなたの実力が向上するからである。

本来力はいくらでもある。

それを出すためには、ただ練習、訓練あるのみだ。

一歩一歩前進せよ。

一日五十里を歩く飛脚も、一歩一歩を重ねて歩き続けるのである。

            <感謝合掌 令和2年3月29日 頓首再拝>

人生と云う食膳に上り来る出来事をありがたく食する - 伝統

2020/03/31 (Tue) 04:52:21


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月31日)」より

必需物(なくてならのもの)はすべて与えられている。
必需物(なくてならのもの)は一つの事物ではない。一つの事物にのみ執着する者は、
自分の人生に流れ入って来る「神の与えた必需物(なくてならのもの)」を拒むものである。

世に肥(こ)えることのできない児童に偏食者というのがある。
食膳に上がったものをそのままありがたく受け入れない。
アレかコレかの選択が多すぎる者である。

食膳の食物(しょくもつ)をすべてありがたく拝んで食べる者の
胃腸病は治って肉体が肥えてくるように、

自分の人生に流れ入(い)ってくるいっさいの事件を喜んで受け、そのすべてから滋味を吸収し、
去り行くコースには執着せず、新たに人生の食膳に上(のぼ)り来るものを
また新たに合掌して受け、食する者はついには人生の豊かなる肥満者となるのである。

            <感謝合掌 令和2年3月31日 頓首再拝>

与えられた以上に発展工夫する者は常に新しく、常に老いない - 伝統

2020/04/04 (Sat) 01:59:54


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月4日)」より

環境が彼の表現欲望を強いて抑えつけるならば、
人間は狂乱状態に陥るか、ヒステリーになるか、
生命(せいめい)が委縮して病気になるかする。

ロシアのある囚人の刑務の一つとして
終日2つのバケツに同じ水を交互に空(あ)けかえる仕事を課したときには、
その囚人は気が狂ったという。(ドストエフスキー『死人の家の記録』)

これは仕事が強制として課せられて
「自己自身の生命」を表現するなんらの道を与えられなかったからである。

またある精神病者は、
自己の好む仕事に熱心に従事せしむることによって治ったという。
彼はその「仕事」の中に「自己」を表現する道を見出したからである。

自己創造のない「仕事」は人類を窒息または狂死せしめ、
自己創造のある「仕事」は人類の生命を伸び伸びせしめ、
たえず自分に生気を吹き込み、たえず自分を若返らしめる。

「仕事」が面白くない人は、その仕事に自分の生命を打ち込まないからである。
自己創造をしないからである。いかなる仕事の中にも自己創造ができる。
仕事に愛を持つとき、愛は生み出す力であるから自己創造となる。

与えられただけの仕事のみをするところに自己創造はありえない。
仕事を愛して、与えられた以上にその仕事の発展のために工夫するところに
自己創造があるのである。

与えられただけの仕事だけしかしない人はロシアの囚人に甘んずる人である。
彼はただ生命を擦(す)り減らし、老いゆくのみである。
今ある立場において、与えられた以上に発展工夫する者は常に新しく、
常に老いない者である。

            <感謝合掌 令和2年4月4日 頓首再拝>

《如何(いか)なる暗黒に面しても自分は人を憎まない》 - 伝統

2020/04/06 (Mon) 02:08:06


       *『 生長の家 』(昭和25年4月6日の法語)より

   如何に周囲のものが辛くとも、如何に悲しみがおそいかかって来ようとも、
   吾(われ)は決して そんなことによって人を憎むことはないのである。

   そのような不完全な姿が現われて来るのは、その不完全を通してさえも
   「 完全なる本当の存在の実相 」 をみる力を
   吾(わ)が魂に養(やしな)わしめんがためであるのである。

   吾々が困難に対して自分自身が しばられなくなった時にのみ
   本当に吾々は自由を得たということができるのである。

   みせかけの不完全な状態に苦しまなくなり、
   黒雲の奥に輝いている太陽をみて感謝する心境になった時にのみ
   その人は本当に自由になったのである。


   → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13786899.html(消滅)

            <感謝合掌 令和2年4月6日 頓首再拝>

《あなたの職業は斯うして見つけましょう》 - 伝統

2020/04/11 (Sat) 03:15:40


          *「真理」第9巻生活篇第3章(P63)より

神が人間を地上に生み給うた限り、人間にはそれぞれ天分があります。
天から与えられた「才能」と、その才能によって人生に貢献すべき
人生に於ける「位置」とが与えられているのです。

多くの人々が自分が働く場所がないと不平を言うのですが、
それは”自分が働く場所”を外にもとめるからであります。

先ず自分の内に”自分の人生に貢献する位置”を求めることが
先でなければなりません。

そして”自分が人生に貢献する位置”を自分自身の嗜好と能力に於いて
人生に貢献するように努力すべきであります。
それが「道心に衣食あり」と云う意味であります。

心を外に向けず、自分の中に自分のあるべき位置と
為すべき職業とを見出すのです。

            <感謝合掌 令和2年4月11日 頓首再拝>

道心に衣食あり - 伝統

2020/04/13 (Mon) 04:26:57


          *徳久 克己・著『心の持ち方一つ』 より

谷口先生の随行をして、汽車にのっていた時に、私は思い切って

「先生、職員のなかには、老後のことを心配している人がいたり、
 若い人のなかには、子供の教育費の心配をしたりする人がいますが、
 どのように答えたらよいのでしょうか?」

このような、ブシツケな質問をいたしました。 
すると先生はニコニコお笑いになりながら、まことにオダヤカなお声で、
汽車の窓の外を指しながら、

『徳久君! そこに雀や烏が飛んでいるだろう! 雀や烏は給与はもらっていないよ』

こう言われました。 私は本当にビックリしました。 
雀や烏が給与をもらっている。 ということを聞いたことがないし、
また、雀や烏の給与のことなど、考えたこともありませんでした。 

あの時の、私の顔はポカンとして、バカのような顔をしていたにちがいありません。 
私の考えていた世界と、ぜんぜん別の世界のことを、先生は言われたのです。 
先生は、私とは別の世界に住んでおられるような感じでした。 ポカンとしている私に、

『雀や烏は、老後の貯蓄もしていないよ!』

こう言われました。 
私はドギモをぬかれたような気がしました。 雀や烏は給料ももらわず、
老後の貯蓄もしていないが、生きているし、死滅してしまわないでいる。 

そうだ、全く、そのとおりだ、と私の心は大きく動揺しました。 その時、

『 “道心に衣食あり” と言ってね、神さまのお仕事をさしていただいていれば、
 生活には、困らないものだよ! 』  と教えてくださいました。 

 
「道心」 というのは、仏道を信仰する心でありまして、神を信ずる心でもあります。 
仏・神を本当に信じている者には、衣食は与えられるものである、ということです。 

雀や烏、そしてネズミでも給料ももらわず、元気に生きているのだから、
人間が生活に困るはずはない。 まして、人間のなかでも、神・仏を信じ、
神・仏のお仕事をしている者が、衣食に困るはずはないということです。

微笑をたたえながら、もの静かに私に真理を教えてくださる、
先生の御言葉をお聞きしながら、先生から、深い深い信仰を、
ジカに伝えられたような感動をおぼえました。 

私は、まだまだ、神を本当に信じていなかったのだ、と反省しました。

神様を本当に信じて、神様のお仕事をさしていただいていれば、
生活のことや、老後のことなど考える必要はないので、
今、与えられた仕事に、全力をつくしていさえすればよいのだ、
ということを教えられました。 

職員のなかの一部の人が、私に給料や老後のことを尋ねたのを、
私が気にしていたということは、私自身も、その職員の人びとと
同じ考えがあったのだ、ということもわからしていただきました。

http://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p9.html
08/30/13

            <感謝合掌 令和2年4月13日 頓首再拝>

生命は前進するのみ - 伝統

2020/04/17 (Fri) 04:39:52


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月17日)」より

見えない間に生長する、進歩が今眼に見えなくとも生命は必ず前進しているのである。

今爛漫と咲いている桜花も、実は枯木のごとく見えていた冬の日に
その「花の美」を貯えていたのである。

沈滞期に本当に沈滞してしまったと思って、
悲観してその生長を続けない桜の木は枯れてしまうのである。

人間もまたかくのごときものである。
 
沈滞期に屈せざる心の明るさと、努力を継続せしむる意思の力と、
その意志の力を持続せしむる感激の押し出す力とを失わない者はついに大成するのである。
 
事業を成すのも、道を(みち)成(じょう)ずるのも同じことである。

「海も波のごとく動揺するものは風にさらわれて打ち上げられん」

            <感謝合掌 令和2年4月17日 頓首再拝>

【謙虚な気持ちで自分をアピールする】 - 伝統

2020/04/21 (Tue) 03:05:47


        *メルマガ「人の心に灯をともす」(2020.02.27)より

   (ジェリー・ミンチントン氏の心に響く言葉より…)

   自分を世間に売り込みたい人は大枚をはたいて広報担当者を雇い、
   さまざまなメディアに自分の存在をアピールしてもらう。

   しかし、ほとんどの人は広報担当者を雇う経済的余裕がないから、
   自分で売り込むことが必要になる。


   もしあなたが一生懸命に才能を磨いてきたなら、
   それを人びとに知ってもらうことはなんら間違っていない。

   もちろん自慢したり大口をたたいたりすることは慎まなければならない。

   しかし、本当に自信があるのなら、
   謙虚な気持ちで自分をアピールすることはとても大切だ。


   内気なために自己PRが苦手な人でも、練習すればできるようになる。

   内気な性格は努力次第で直るものだ。

   何度もリハーサルをしたあとで、勇気を出して相手に自分を売り込むといい。


   あなたの才能は人々に知ってもらって初めて有効に活用できる。

   自分だけしか知らないのなら、
   いくら才能を磨いたところで何の役にも立たない。


   政治家、科学者、発明家、著述家として幅広く活躍した
   ベンジャミン・フランクリンは、「天は自ら助くる者を助く」と言っている。

   自分をアピールすることは、自らを助ける最高の方法のひとつである。


   《自分が磨いてきた才能は積極的にアピールしよう。
    謙虚な気持ちは忘れないまま、人びとに知ってもらおう。》

        <『自分の価値に気づくヒント』ディスカヴァー携書>

           ・・・

斎藤一人さんの「花として生きる」という話がある。

『花は花として、目立たなければいけない。
 そして、花として生きる。

 「目立ってはいけない」という人もいるけど、社会に出たら目立たないとね。

 花は花として、目立たなければいけないんです。

 人の人生は一回きりです。

 それは、神さまがパーティーにご招待してくれたようなもの。

 「素敵だね」といわれるような姿でパーティーに出て、どこが悪いんですか?

 自分はどんどん素敵になるんだ、と。

 一度きりのパーティーにご招待を受けたのだから
 引っ込んでいられるか、そう思ってください。

 そして、花として生きるんです。』


どんなに価値があり魅力的な商品をつくったとしても、
それが世にまったく知られてなかったら、それは無いのと一緒。

これは、人も同じ。

どんなに能力があり、知恵やアイデアがあったとしても、
誰もその人を知らなかったら、その人はいないのと一緒。


「花は花として、目立たなければいけない」

だからこそ、たった一度の人生、引っ込んでいられるか、と。


謙虚な気持ちで自分をアピールすることはとても大事だ。

            <感謝合掌 令和2年4月21日 頓首再拝>

《謙(へりくだ)る者は高くあげられる》 - 伝統

2020/04/30 (Thu) 04:56:01


         *「生長の家」(昭和25年4月30日の法語)より

   凡ゆる美徳の中で 謙りが もっとも大なる美徳であることを知ったのである。
   謙るものは 高くあげられ、傲(おご)るものは 低くおとされるのである。

   吾は神の前に謙り、自分が空しきものであることを知り、
   神の前に自分の中にあるものは
   ただ神の力のみであることを告白するのである。

   神は 吾が力であり、吾が生命であり、吾が智慧であり、
   吾を 生かし給い、吾を導き給うのである。

   謙る時 大いなる力が 自分の中に天降ってくるのを感ずるのである。
   吾が力というものは 少しもないのである。

   吾 神の恵みに深く感謝するのである。

   今月一ぱい神さまが導き給いしことを感謝致します。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13864515.html(消滅)

            <感謝合掌 令和2年4月30日 頓首再拝>

《親切丁寧と云うこと》 - 伝統

2020/05/01 (Fri) 04:47:41


        *「光明道中記」5月はじめの言葉 より

どんなに『生命の實相』を読んでも、法話を聴いても、
それが日常生活の茶飯事にすら顕れるようにならなければ駄目である。

聴いただけで生活に顕れて来ない真理は、
名前を聞いただけで食べない料理と同じ事である。
それでは吾等の生命は餓えて了うしか仕方がない。

「深切丁寧」と云うことが道を行ずる上に第一のものである。
「深切丁寧」とは、凡てのものを深く愛し、切に礼する心である。
一枚の紙も、一粒の米も、深く愛し、切に礼することによって生きてくるのである。

不健康とは、深く愛し、切に礼する心の欠乏である。

物質を不親切に、無造作に、抛げやりに扱うと云うことを、
物質に執われない美徳のように思っている人があるかも知れぬが、
実はそれこそ、一切のものを観るに「物質」として観ているのであるから、
却って其の人は唯物論者であり物質観に捉えられているのである。

すべての事物を見るに、一塵のうちにも仏の国土あり、如来説法したまうと見るとき、
日常生活の茶飯事にも深切丁寧が滲潤する。

この意味に於て「行」が大切である。

            <感謝合掌 令和2年5月1日 頓首再拝>

《進歩の法則に支配されている人生》  - 伝統

2020/05/08 (Fri) 04:40:48


       *「光明法語」(5月8日)より

人生は進歩の法則、無限生長の法則によって支配されているのであるから、
旧態依然たるものは、次の新しきものによって取って代わられる。

商売のやり方でも、旧態依然たるものは新しき経済戦術によって
新商売をやる者には必ず圧倒される。

かくて職業を失うに到るとも、職業を失う者は幸いなるかな。
神は彼に新しき職業と、新しき環境を与え給うことによって、
新しき面から、彼の魂をみがき得る機会を与えたまうのである。

旧生活の破壊に失望することなく新しき位置と職業を与え給えと祈れば好いのである。

            <感謝合掌 令和2年5月8日 頓首再拝>

霊感多きで、慢心するなかれ - 伝統

2020/05/13 (Wed) 03:59:21


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月13日)」より

『伝燈録』巻八、南泉普願の章に
「南泉いわく、『老僧修行のちからなくして、鬼神に覰見(ちょけん)せらる』」とある。

南泉和尚が修行の力なくして鬼神(霊界の諸霊たち)からまだ姿が見えたので、
鬼神からいろいろの霊力を授かっていたのを恥じるというのである。

人の病気を霊力で治しえたからとて、
その人の心境が、そしてまた修行がすばらしいというのではないという意味である。

道元禅師は『正法眼蔵』行持の巻、五祖の章に、このことを注釈して

「向来の仏祖のなかに、天の供養をうくるおおし。しかあれども、
すでに得道のとき、天眼およばず、鬼神たよりなし。そのむねあきらむべし」

と悟しておられるのである。

今までの仏教の教祖のなかに、天人級の諸霊の供養をうけて、
いろいろ神通力を発揮した者もあるけれども、真実、仏道の悟りを得たならば、
天人の霊眼にも見えないし、鬼神すなわち諸霊の憑(かか)り来ることはない。

その深き意義を明らかに考究せよという意味である。

いろいろの予言ができたり、病気治しができたり、天眼通がひらけたりするのは、
ある階級の諸霊の感応によって得られるのであるから、
まだ最高級の悟りに達していないのだから注意せよと道元禅師は言われたのである。


そして道元禅師は、五祖の章の結末を

「しるべし、無修の鬼神に覰見せらるるは、修行のちからなきなり」

と叱咤していられる。

本全集『生命の實相』第九巻の「霊界篇」にあるヴェッテリニの霊告によっても、
低級の霊は人間界の雰囲気の近くに生活しているから、現実界にあらわれる以前に
地上に渦巻く雰囲気を感知して、高級霊よりもいっそうよく予言などが的中するのだ
と示されている。

高級霊はおおむね地上の物事に執着しないから地上の人びとを訪れることなく、
おおむね低級霊が地上の人々を訪れるのである ―― もっともそれはそれぞれの
霊的因縁によることであり、それぞれの使命のあることであるが ―― 
したがって霊感などがあまり多くあることを慢心してはならないのである。

むしろ霊感多き人は南泉和尚のように

「老僧修行のちからなくして鬼神に覰見せらる」と

修行の足らざるを反省すべきである。

道元禅師は、行持の巻第十五に伽藍の守護神が

「われきく覚和尚この山に住すること十余年なり。
つねに寝堂に到りて和尚を見んとするに能わず」

と嘆いたと書いている。

  ・・・

*覰見(ちょけん)=うかがい見る

           <感謝合掌 令和2年5月13日 頓首再拝>

《暗黒の時には黎明が近づいている》 - 伝統

2020/05/23 (Sat) 04:35:34


        *『 生長の家 』(昭和32年5月1日の法語)

   あなたの心の想い(これを想念と云います)を積極的に、建設的に、
   明るい方向に、常に保つように心懸けなさい。

   外観が如何に悲観的に破壊的に見えようとも、
   外観の暗黒さに心を奪われてはなりません。

   事件が破壊的に進行していることは、
   何か新しい建築がはじまろうとしていることの証拠です。

   あなたの焼け跡の地面でも、恐らく其の焼け跡に何かを建築する計画のあるまでは、
   焼け跡にある色々のものを毀しはしなかったでしょう。
   また折角、建っている家を毀すときには、
   屹度もっと大きな新しい計画があるからでしょう。

   だから今ある事物が毀れて行きつつあるのを悲しんではなりません。
   外見の暗黒さに心を引っかからせはなりません。
   常に明るい実相を見るのです。

   暗い心をもってはなりません。
   明るく愉快に現在に、誠実をもって実行を続けると必ず道が開けて来るのです。

    (『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P285~286>)に収載

           <感謝合掌 令和2年5月23日 頓首再拝>

【神様はどういう人が好きか】 - 伝統

2020/05/24 (Sun) 04:29:44


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2019.11.15)より

   (天才コピーライター、ひすいこたろう氏の心に響く言葉より…)

   《僕の義務は猛烈に楽しむことだ。》(オスカー・ワイルド/詩人・作家)


   「神様は、どういう人が好きだと思いますか?」

   ある有名な神社の神官さんの講演で、そんな問いが投げかけられました。

   神様は、どういう人が好きなんだろう?

   きれい好きな人?
   誰にでも優しくできる人?


   あれこれ考えていると、その神官さんは言いました。

   「神様は、面白い人が好きなんです」

   意外な言葉に驚きました。


   なぜ神様は、面白い人が好きなのか。

   それは、「古事記」の岩戸隠れの神話に答えがあります。

   スサノオという神様がやんちゃをしたせいで、
   太陽の神様であるアマテラスが岩のほら穴に引きこもってしまい、
   この世界が闇に覆われてしまったという「岩戸隠れの神話」。

   すねてしまったアマテラスは、何をやってもほら穴から出てきてくれません。

   困った神様たちは、なんと岩戸の前で楽しく踊り、お祭りをし始めた。

   すると、その楽しそうな笑い声につられて、
   絶対に出てこなかったアマテラスが岩戸から顔を出したのです。


   その瞬間、みなの顔(面)がいっせいに光で白くなりました。

   それが「面白い」の語源に。


   さらにそのとき、神々は手(た)を伸ばして(のし)、喜びを表現しました。

   それが「たのしい」の語源になった。


   光が閉ざされ世界が闇夜(やみよ)になったときに、
   日本人は、踊り、楽しむなかで、光を取り戻しました。

   だから、神様は面白い人が好き。

   そう神様は、楽しんでいるあなたを見るのが好きなんです。


   親が子を想う気持ちと一緒。

   どんな状況であろうと、僕らのたったひとつの義務は、面白がることです。

       <『3秒でハッピーになる超名言100』ディスカヴァー>

            ・・・

本書の中にこんな話があった。

『世界各国の宗教の代表者が集う宗教会議で、ある社会哲学者が、
 日本の神道の宮司さんに質問をした。

「私はたくさんの儀式に参加したし、神社も見学させていただいたが、
 そのイデオロギーがどうにもわからない。あなたがたがどういう神学を
 もっておられるのか理解できないのです」

要はニッポンの神は理解できんと。

答えはこうでした。

「イデオロギーなどないと思います。私どもに神学はありません。
 私たちは踊るのです」

ニッポンは神も踊る。

人もまた踊るのです。』


小林正観さんはこんなことを書いている。

「神様は、面白がる人には、どんどん面白いこと、
 楽しがる人には、どんどん楽しいことが、
 幸せがる人には、どんどん幸せなことを、くださるみたいなのです。

 さらに、さらに重要なこと。

 感謝する人には、感謝したくなるような現象を、次々に降らせるみたいだ。

 愚痴をいう人には、愚痴をいいたくなるような現象を、次々に降らせるみたいだ。

 その人が“好きで言い続けている言葉”をもっともっと言いたくなるように、
 現象をセットしてくださるようなのです」《神さまに好かれる話・三笠書房》



どんな些細なことでも、そこに面白さや楽しさを見出す人は、
一緒にいて面白いし、楽しい。

だから、面白がる人には、面白い人がどんどん集まってくる

反対に、いつも不機嫌で、ニコリともしない人のまわりには、
不機嫌でつまらない人しか集まらない。


どんなときも、面白がって、楽しがる人でありたい。

           <感謝合掌 令和2年5月24日 頓首再拝>

《誰にでも失敗はある、失敗に悲観するな》 - 伝統

2020/05/27 (Wed) 04:33:04


        *『 生長の家 』(昭和29年5月3日の法語)より

   誰でも、どんな能力のある人でも、現象界にそれを応用する場合には、
   10の成功のうちには2つや3つは旨く行かぬ事柄があるものである。

   どんな横綱でも百場所のうち15日間を
   全部を勝ちはなすことは出来ないのと同じ事である。

   そのような場合に「旨くいかなかった」場合だけを心にとめて、
   「自分はダメだ!」と思い込んでは
   劣等感を増加するばかりだと言う事になるのである。

   いっぺんの失敗でも、百遍心に繰り返せば、
   百遍自分の心に印象されることになるのである。

   こうして、いっぱんの失敗は、それを思い起こすたびに、
   百倍、千倍、萬倍に印象されることになる。

   そして、これが劣等感の原因になる。

   だから、劣等感を無くしようと思ったならば、
   失敗をしたことを嘆く事を止めて
   成功した事を数える方が良いのである。

   https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2245

           <感謝合掌 令和2年5月27日 頓首再拝>

《失敗をいかに取り扱うか》 - 伝統

2020/05/28 (Thu) 04:10:07


        *『 生長の家 』(昭和29年5月4日の法語)より

   失敗を考えず、成功したことばかり考えて有頂天になっているのでは、
   脚下照顧を忘れることが起こる。

   却下をしっかりとみつめて行かなければ
   断崖絶壁から奈落底へ墜落するかもしれない。

   そこで失敗は再び奈落底へ墜落しないために
   何事かを教えているということを知らなければならない。

   「失敗」を見るに、自分の「能力の低い証拠」として見ないで、
   今後の「成功」を約束するための「教科課程」として、
   「何故にこれは失敗をしたか、その原因を知れ」という問題が出たとして、
   その失敗の「原因」を検討して、再びその原因を繰り返さないようにすれば、
   「失敗の原因」がなくなるから「結果としての失敗」もなくなる。

   失敗を自分の「無能力」と連想させないで、
   将来の成功を約束する「教科課程」と見る事が必要である。

   https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2248

           <感謝合掌 令和2年5月28日 頓首再拝>

天の声に耳傾け、眼下を浄めよ。 - 伝統

2020/06/04 (Thu) 04:51:00


       *「光明道中記」(6月4日《天の声を聴く日》)より

【念は「無」を材料として地上に様々の相を現す働きをなす。
                     (『生命の實相』第十一巻)】


心を澄まして天の声に耳傾けよ。
天の声は必ずあなたを導くであろう。

天の声の導きにゆだねるとき其処には嶮しきは平かとなり、不調和は調和となり、
苦しみは楽しみに変わり、煉獄の火は天国の芳葩(はなびら)に変ずるであろう。

さればこそ試練は本来存在しなかったのである。
みずから好んで天の声を聴かず、実在の調和ある相(すがた)から
離れるようにしている状態が試練であるに過ぎない。

まず眼下を浄めよ。何処(いずこ)に自分の心が立っているか。

何処(いずこ)に自分の心が立っているか。
利己心の上に立っているものは、利己心は「本来無い心」であるが故に、
崩れる基礎の上に立つものである。

自分の欲望の上に立つ者は愚かなるかな。
そう云う狭い立場の上に大きな建築物は建たないのである。
まず立場を大きくし、大きな基礎工事の上にこそ大事業を打ち建つべきである。

「私ならぬ立場」超個人的な立場、人類的な立場、全体的な立場、
国家的な立場に於て吾々は立たねばならぬ。

若し此の基礎工事を自分自身の生活に於て誤っているならば、
あなたは今日から出直さねばならぬ。

           <感謝合掌 令和2年6月4日 頓首再拝>

生活が本当になったとき心が落ちつく - 伝統

2020/06/06 (Sat) 04:39:00

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月6日)」より

生活が本当になったとき心が落ちつく。
心が落ちつかない間は、自分の生活が据わるべき処に据わっていないからである。

機械でも据わるべきところへ据わったら、震動も少ないし、摩擦も少ないし、
心棒が焼けつくということもないのである。

心を落ちつけるのも大切であるが、
心の方からばかり抑えつけても不安が去らないのは、
生活が落ちつくべきところに落ちついていぬのである。

ごまかしの生活をしながら心ばかり落ちつかせようと焦ってもしかたがない。

正しい生活、悔いのない生活、いつ死んでもよい生活をしていたら、
どんなことがあっても落ちつけるのである。

           <感謝合掌 令和2年6月6日 頓首再拝>

先ず人生観を変えよ - 伝統

2020/06/07 (Sun) 04:30:44

     *『 生長の家 』(昭和26年5月10日の法語)より

人生が思うようにならないとか、健康が思うようにならないとか云うものは、
自己の想念を変化し、自己の人生観を変化し、
生活感情全体が変化しなければならないのである。


先ず自己が神の子であることを信じ、
神の全能の力がわが内に宿っていることを信じ、

神の創造り給える環境が常に自分に対して
微笑(ほほえ)みかけていて下さることを信じ、

楽観的な気持をもって、
自己内在の力を出来るだけ出すようにするならば、

事業に於いては新しき機会が、
健康に於いては新しき活力が、おのずから目覚めて来って、
輝かしい成功と健康とを実現することが出来るのである。

   (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110 )

           <感謝合掌 令和2年6月7日 頓首再拝>

《流れる水は腐らない》 - 伝統

2020/06/09 (Tue) 04:51:47


        *「生長の家」(昭和29年5月12日の法語)より

   どんなに清らかな水でも
   流れずにじっと溜まっていたら腐ってしまう時が来るのである。

   どんなに繁盛している職業でも常に一層改善される方法を研究し、
   注意深く一層能率を挙げ、一層よき物を提供するように努力を払わなければ、
   流行に遅れるし、新しき設備は他に設けられ、
   自分の事業は退転するより仕方がなくなるのである。


   「人間」そのものの養成も同じ事である。

   百年1日の如く、その「人間」そのものが進歩しないでは、
   その人間は陳腐くさくなってしまい、世界の進歩におくれてしまい、
   世の中から顧みられなくなってしまうのです。

   絶えず進歩する者は心が常に新しいから
   老いることも少なく常に健康でありうるのである。

   https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2273

           <感謝合掌 令和2年6月9日 頓首再拝>

欲望について - 伝統

2020/06/11 (Thu) 03:42:48


      *Web:かんながら(2019年05月25日)より

精神世界を学んでいると戸惑うことがあります。

それは自分の中から絶え間なく現れる欲望についてです。

お金や健康はもちろんのこと、先日お話しした性欲も含めて、
我々の生活は欲望によって展開しているようにも見えます。


ところがほとんどの聖者が欲望を否定します。

だから、あるときふと考えてしまう。

「このままでいいのだろうか」

これからは何かの修行に勤しんで欲望を滅却しなければ、
意識が高みに上れないのではないかと思うのです。



しかし欲望との戦いは、最後は敗北に終わります。

どうやって命の欲求を克服しようというのでしょう。


そもそも欲望は、本当に人類の成長の妨げなのでしょうか。

もし欲望が無ければ、文明化された生活もなかったのではないでしょか。


欲望とは何でしょう。

それは拡大したいという衝動です。

どこまでもお金や成功を追いかける人がいますが、
彼らの衝動の背後にあるのは、拡大欲求です。

より大きな家、より大きな力、活動の制限が無くなり、
より大きな自由を得られると感じます。

お金や成果そのものが欲しいのではなく、
自分を拡大したいという欲求がそうさせるのです。

お金だけでなく、権力や名声など多くの欲望も
みな背後に同じ欲求を隠しています。


さて問題はここからです。

お金がいくらあっても、本当に欲しかった拡大は実現しないからです。

むしろ外側の富が増えれば、
内側の貧しさがコントラストのように浮かび上がってきます。

そこで、さらなるお金が必要になります。

しかも冨も成功も束の間のこと。
その人が死んで数十年もすれば、みんな忘れてしまうことでしょう。

大騒ぎして掴んだ名声も、いまの成功者たちに取って代わられています。

すべては束の間の夢。

中には富への追及に幻滅を感じて、神を探究する人も出てきます。

しかしそれも新しいゴールを約束するだけで、
実際にはどこにも連れていってくれません。

対象が変わっただけで、欲望の本質は何も変わっていないのです。

欲望自体は悪いものではないけれど、
その欲望の対象を追究しても、どこにも行きつきません。


欲望とは生きようとするエネルギー。

それはまさにいまの創造性。
そのパワーに従って自分を表現するのです。

対象と一つになるくらいの純粋な欲望は、
すでに対象を超えて、自由な創造性に変化しています。

それがサマーディ(三昧)であり、まさに神の力のことです。

欲望を対象への執着ではなく、自由に自分を創造する力として使っていくこと。

それが生きるということであり、人生とは「いまを生きること」です。

   (https://abetoshiro.ti-da.net/e11114872.html )

           <感謝合掌 令和2年6月11日 頓首再拝>

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