伝統板・第二

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魂磨き(光明掲示板・第二) - 伝統

2019/12/07 (Sat) 12:56:59

光明掲示板・第二 消滅により、
『魂磨き』の伝統板・第二への再掲示です。

魂磨き

《すべての境遇・環境は魂をみがく”場”である》

      *「神と偕に生きる真理365章(P139~140)」より

すべての人間の境遇や環境や周囲の人々の態度、行動というようなものは、
みんなその人にとって自分の魂を磨くために、一番適当な所へ神様が
その人をおいているのであります。

どんなダイヤモンドの原石でも、光輝燦然たる宝石に磨きあがってしまったら、
もう何時(いつ)までも磨く工場に置いとかれる筈はないのであります。

完全に磨かれおわったら、貴い宝石として、人に見えるところの立派な
ショーウィンドーに飾られて光を放つのであります。

人間も魂が磨かれる間、色々の問題にでくわして、摩擦を受けるけれども、
その修行を完了すると、別の楽しい幸福な境遇に移転させられるわけであります。

しかし、その境遇の修行からまだ充分卒業しない間に、「この境遇は辛い」と
いって逃げ出して、別の所に行っても、

やっぱりその人の心が、同じ魂の汚れの程度であるとすれば、矢張り前と同じような、
磨きをかけるために前と相似た色々の問題が、研磨の材料として、
その人に降りかかって来るということになるのであります。

・・・

<関連Web>

(1)「生長の家“本流宣言”掲示板」内)のスレッド。

  ①人生は魂修行の場
   → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=89   

     (消滅を確認H26.8.5)

  ②地球は魂修行の学校 (2925)
   → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=575   
                            
     (消滅を確認H26.8.5)

(2)「生長の家光明掲示板・第一」内スレッド「「魂の約束」 (6284)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1185  

         <感謝合掌 平成25年8月26日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月7日 頓首再拝>)

体験に失敗はない - 伝統

2019/12/08 (Sun) 12:40:46


        *『生活の智慧365章』(P216~217)より

過去について思い嘆くこと勿れ。

過去は既に蚕が、一眠ごとに脱ぎ捨てた皮のようなものであり、
蝉の抜け殻みたいなものである。過去の殻の形が如何にあろうとも、
それは現在の自己にとって何のかかわりもないことである。

真に自分にとって大切なことは、脱ぎ捨てた過去の殻が如何なる形をしているか
と云うことでなく、その殻の中にあって如何に自分の魂が生長を遂げたかと云うことである。

如何なる困難も、如何なる失敗も、
決して完全なるマイナスと云うものは人生には全然ないのである。

エジソンは千百の実験に失敗した後一つの発明を完成しても、その千百の実験を
「失敗」と呼ばないで、「斯(こ)うしたら、斯うなる」と云う実験のデータを
得たのであるから、それだけ自分は進歩したのだと言ったそうである。

         <感謝合掌 平成25年8月29日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月8日 頓首再拝>)

生きて生きおおす道 - 伝統

2019/12/09 (Mon) 14:08:40


        *中山靖雄・著「すべては今のためにあったこと」(P86~89)より

人間の魂は「たま」と「しい」二つでひとつです。
そして、人が死ぬ時は、「たま」と「しい」が分かれて「しい」を地上に落とし、
「たま」だけが天井に昇っていきます。

「浮かばれる」ということですね。
命が長かろうが、短かろうが、命をまっとうして、納得して上がった魂は浮かばれます。

こういう命を「天寿」をまっとうしたといいます。
「天寿」はすべてが終わって天へ帰ることです。
長かろうが短かろうが生きた長さに関係ありません。
役割を終えて帰っていくのです。

「天寿」をまっとうすることが大事なことであり、
みんなが天寿をまっとうし天に帰えればいいのです。

「たま」を持たされてきた私たちの魂は、本当の役割を知っています。
そのとおりに生きると、自分も天も喜ぶことを知っているのです。

天寿をまっとうするとは、「みたま」の世界のことです。
みたまは、自分がやることを知っている。

それは植物でいうと「種」と一緒なのです。
種の中には、根のことも、幹のことも、葉のことも、花のことも全部入っている。
種の中には全部あるのだけれど、芽が出たり、花が咲いたり、目に見える形で現われないと、
その中に何があるのかわかりません。

それでも、たとえ見える形になっていなくても、種にはすべてのものが入っているのです。
これを私は「種に秘められたる花の確かさ」と言っています。表に見えなくても現われて
いなくても、その人ならではの花(役割)がたしかに込められているからです。

これを知っていると、見えるものに振り回されず、自分のみたまどおりの生き方がしやすい。
また、目に見える形や、自分が納得できる形では現われていないかもしれないけれど、確実に
私たちの中で、根を張り、花を咲かせるものが秘められており、それを私たちは知っている
はずなのです。

しかし、「勝手気ままな思いの自由」が、自分勝手な目的を持ち、それができないと
自分はダメな人間だと決めつけてしまうことがあります。
自分の人生はダメだとしてしまうこともあります。

「生まれただけですごいんだ。生きていることは素晴らしい」こういうことをしっかり
わかっていないと、何かができるかできないかで自分を判断してしまい、価値がないと
思ってしまうのです。そして自分で自分の人生を終わらせたくなってしまう。

自分で人生を終わらせてしまう行為は、心である「しい」がもっとも強い状態になっている
時です。自分だけしか見えていない状態です。「たま」に「しい」がしっかりついてしまい、
天に戻れない。だから、自分は天に帰れなくなると言われているのです。

私たち大人はこういう「命の世界の理(ことわり)」を、
今の子どもたちに伝えることが大事です。

「この道は、散って花咲く道ではなく、生きて、生きて、生きおおす道である」

この言葉を多くの人にお伝えしたいと思っています。
自らの命を絶つことは自分の世界です。

天の世界は、「何があっても、生きて、生きて、生きおおすことが本当なのです。
肉体があるからこそ、この世の中でお役に立つことができる」のですから。

「生まれただけですごいんだ、生きていることは素晴らしい。お空のどっかの遠くから、
ずっと続いた命があるよ。すっと続いた命がある」

このことを、自死した人になぜわかってもらえなかったのかと祈り、今生きている人は、
どうぞ天寿をまっとうするまで生きてくださいと毎日祈っています。

「天寿」とは、自分のままで、自分の本来の役割を全部やりおおして天に帰ることなのです。

         <感謝合掌 平成25年9月2日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月9日 頓首再拝>)

地上は人間の魂を磨くための生活学校である - 伝統

2019/12/10 (Tue) 13:29:35


        *『聖経 真理の吟唱』<“今”を完全に生きぬく祈り>より

神は無限の智慧であり給う。
神は天地の一切のものと人とを造り給い、それを無限の智慧によって、
たがいに調和ある適当のところに配置し給うたのである。

それゆえにすべての生きとし生けるものは、もし自分自身が、迷いによって
逸脱しなかったならば、そのもの、その人にとって最も適切な“場”に置かれているのである。

それ故 私は今与えられた位置と生活の“場”とを決して不足に思わないのであり、
この時、この“場”において、感謝しつつ自分の仕事にいそしむのである。

人間が地上に生を享けてきたのは、
この地上でなければ自分の魂を磨くことのできない
特殊の条件が地球世界には整っているからである。

地上は人間の魂を磨くための生活学校であるのである。
この学校を卒業すれば私は次のもっと高級な天体の世界に生まれ変わって行くのである。

今地上に生を享けている限りは、そのような未来世のことや、
自分の前世の生活のことなどは考える必要はないのである。

今、ここに与えられたる生活の“場”において、私は全力を尽くすだけである。
この“今”の生活の“場”が私の魂の修行に最も適当な生活学校なのである。

“今”この環境にいて私が 全力を尽くしているならば、
やがてこの生活学校を卒業するであろうから、
私は 今より一層「高級」な生活学校に移転するであろう。

その一層「高級」な魂の生活学校ともいうべき環境は、
今の環境よりも必ずしもラクなということはないのである。

それは、中学が小学よりもラクなというわけではなく、
また大学が中学よりもラクなというわけでないのと同じことなのである。
しかし一層高級な学科はじっとかみしめれば、低い学科よりも味わい深いものがあるのである。

平凡単調な学科がラクであるにしても味わい深いものでなく、
高級複雑な学科が一見むつかしいけれども、かえって応用無限で味わい深いように、
人生もまた、魂 の進歩にしたがって、いろいろの高級な学科にあたる問題が提出され、
それを一つ一つ解いて行くことに魂の進歩と、魂の無限の悦びが感じられてくるのである。

私は、今、大いなる神の御智慧に導かれてこの地球世界において、
わが魂の進歩のために最も適当な“場”が与えられているのであると
いうことを確認するのである。

それゆえに、その生活環境にどのような複雑な問題が提起されてこようとも、
私は狼狽することはないのである。

私の今の魂の程度において解決できないような問題は、
神は決して今の時点における私に与え給うことはないのであるから、
私は どんな問題でも感謝して受け、その問題が、自他ともに幸福で、
すべての人々に寄与するように解決するための努力をつづけるのである。

今、私は神と偕なる自覚の下に、まことに平和と幸福と裕かさを享受するのであります。

ありがとうございます。

         <感謝合掌 平成25年9月18日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月10日 頓首再拝>)

天から与えられた役割はみな尊い - 伝統

2019/12/11 (Wed) 12:39:15


     *中山靖雄・著「すべては今のためにあったこと」(P110~114)より

みたまを生きることとは「役割」をまっとうすることでもあります。
「籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草履を作る人」という言葉があります。
人の役割の尊さを伝える言葉として使われてきました。

組織になると、役割がありますね。
役割には上下はないのですが、うっかりすると、立派な役割とそうでない役割がある
というふうに思ってしまうことがあります。

たしかに、役割には「陽の当たる役割」と「陽の当たらない役割」があります。
しかし、それは「立派さ」とは関係ないのです。ここが大事なんですね。

たとえば私が講演で人様の前でお話させていただくと、陽が当たっているように見えます。
反対に、どれだけ立派な方が客席で聞く役割をしていただいても、陽が当たらないわけです。

新入社員の研修の時に、私はよく「新入社員の方々は、足の裏みたいなものです」と
申し上げます。「その組織の中では一番下なのですよ」とお伝えするのです。
そして、「社長は、顔みたいなものだ」と言います。

もしかしたらみなさんは、顔がよくて、足の裏が悪い、と考えられるかもしれません。
しかし、必ずしもそんなことはないのです。

お風呂に入る時、どこから入るかというと、だいたい足の裏から入るでしょう。
最後まで入っているのも足の裏でしょう。
顔なんて一生お風呂に入れないのですからね。

こうして必ず、どんなものも、その場その場で、陽の当たるところと、陽の当たらない
ところが、織りなしているのです。「役割」が「立派」なのではなく、その「役割」を
どうとらえて生きるかによって、「人生の立派さ」が変わってきます。

「役割」をいいふうにとらえて生きることができるか、できないかというのは、
「自分があるか、ないか」というところに関わってきます。天から与えられた「役割」
として、天に使ってもらう、という思いが大事なのですね。

これは、自分の頭を使って考えて動く世界ではなく、
おのずとここへ来てみたらうまくいったとか、天に誘ってもらう世界です。

天からふと思わされることに「はいはい」と、素直にそのとおりさせてもらっていたら、
次にやることはこれ、とか、次の場所がここ、というようになっていく、使ってもらえたら
ありがたい、と思っている人が、天に対して、「自分がやります」と手をあげたら、
その都度「役割」をいただけるのです。

「籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草履を作る人」というように、
自分ではどうにもならない与えられた役割があります。

草履を作る人にとっては、この草履をいかに、籠を担ぐ人が心地よく履けるかとか、
長持ちをするかとか、それにおいては日本一だと思えるようなものを作る、というのが
最高の努力目標であり人生です。

草履を作る人が籠に乗る人になるように努力をするより、その人はずっと幸せなのです。

籠を担ぐ人は、編んでくれた草履に感謝しながら、籠に乗る人が喜んでくれるように
体を鍛えたり、自分のできることで貢献しようとします。

また、籠に乗る人は乗れるだけの自分でないと、いつでも転げ落ちるわけです。
また周囲のことを考え、心配りできるような人でないと籠には乗れないのですね。

このように、それぞれの役割があることを教えてこそ、
「ああ、そうなんだなぁ、自分の役割はここなんだ」と喜べると思うのです。

今はおしなべて「なんでもなれるよ」と言い、そして「こういう努力したらいいんだよ」
と教えるので、非常に不幸な時代だと思います。

草履を編むのが本当に好きで、その道を極めたたいと思っているのに、周りからは、
「なんで籠に乗る人になりたいと思わないのだ! どうしてがんばらないのだ! 」と
責められて、そのうちに籠に乗れなかった自分はダメなんだ、と思ってしまう、
というようなことがあると思うのです。

今の時代は、自分の役割が見えにくくなっています。
本当に自分にぴったりくるものを感じる前から「こっちがいいよ」と、
示されるのが早すぎるのです。

自分が心地よくて、命が喜ぶことはこれなんだと、つかんでいく前に頭から入ってしまう
のですね。頭の世界から離れて、それぞれ自分の役割を生きていくことが大事なんです。

         <感謝合掌 平成25年9月22日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月11日 頓首再拝>)

魂が地上に生を受けて高きに達する祈り - 伝統

2019/12/12 (Thu) 14:01:27


        *『聖経 続真理の吟唱』(P256~259)より

人間は神の子であり、神の全智と全能と偏りなき完(まった)き愛とを
自己の内に”種子(しゅし)”として植えつけられているのである。

”種子”の内には神のすべての御徳が潜在的に秘められているのであるけれども、
それが時間・空間の世界に発芽してから、父母の恩愛を受け、環境を土壌として
いろいろの体験を肥料とし、神の摂理に護られながら、

次第に茎を伸ばし、葉を繁らせ、周囲の明るさを日光として吸収し、
時としては苛辣と見える困難に鍛えられながら、内に宿る仏性・神性を長養して、
その魂は深さと広さとを増して大枝・中枝・小枝を茂らせ、万だの蕾をつけて、
ついに爛漫たる華をひらき、更に完き美しき結実を見るに至るのである。

魂の生長の道程は長くて、ある期間は坦々たる道を晴々(せいせい)たる青空をながめながら
快き旅を続けることもあるが、時には険難にして岩石突こつ峨々たる山路を喘ぎながら、
或いは躓き、或いはまた倒れては起き上がりつつ、次第に山嶺(さんてん)に近づいて
行くのである。

平坦の道も、険難の道も、いずれも、その人の魂の長養のために、そして性格の鍛錬のために
必要なる教材として、親さまから課せられたる修学であり、訓練であり、その修学訓練を経る
ことによって、その人の性格は陶冶せられ、外光りではなく内からなる奥深き光を放つように
なるのである。

色々の艱難を”敵”だと思い、”障害”だと思って、それを憎んだり、
それから逃げ出そうと思ってはならないのである。

艱難を敵だと思えば、艱難は害する敵の如くあらわれ自己を時として傷つけるが、
艱難は自分の魂を研(と)ぎ鍛えるための学習であると考え、それを素直に受けて、
その艱難が自分に神が何を教えようとしあらわしていられるかを知ろうとして努力するとき、
その時、その艱難の体験は光を放って、自分自身の魂を祝福する神の愛のあらわれである
ことを証明するに至るのである。

人生に於ける色々の障害と見える事物も、事件も、
本来”障害”であるものは何一つ神は創造し給うてはいないのである。
すべては祝福と教養の世界である。

高き魂をもつ高級霊はみずから進みて心身障害児となって生まれ、普通よりは一層嶮しき
苛烈なる体験を経つつ、普通の安楽生活よりも急速にその魂を進歩させるのである。

ゆるやかに進む者は遅速の乗り物に乗るように少ない振動しか受けないが、
急速に走る乗り物は地上の乗り物でも、空中を飛ぶ飛行機でもその騒音も振動も
はげしいのである。

されども、それだけ速やかに魂は目的の高度に達し、
約束の天国浄土に到着することができるのである。

”神の子”には何事も何者も本当にあなたを害するものとてはないのである。

この真理を知らしめ給いし神に感謝いたします。

         <感謝合掌 平成25年9月28日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月12日 頓首再拝>)

おのれの魂を美しきものへ磨き上げる - 伝統

2019/12/13 (Fri) 14:20:50


        *稲盛和夫が語る「幸せな人生の送り方」
         (週刊朝日  2013年11月15日号)より抜粋

仏教的な思想では、魂は輪廻転生(りんねてんしょう)していくと考えられています。
私の魂は、稲盛和夫という肉体を借りて現世に姿をあらわし、肉体が滅びたとき
新たな旅立ちを迎えます。

ですから、人生というのは、善きことを思い、善きことを行うことにより、
魂を磨き上げるための期間なのかもしれません。

現世の荒波にもまれ、自分の魂を磨くことで、生まれたときよりも
美しい魂になっていなければ、この世に生まれた価値はないのではないか、
と思っています。


         <感謝合掌 平成25年11月14日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月13日 頓首再拝>)

人のお役に立つことが役割 - 伝統

2019/12/15 (Sun) 13:38:57


   *中山靖雄・著「すべては今のためにあったこと」(P116~118)より

昔、中国へ講演に行った時のことです。
その時、日本語が話せる中国人の講師の先生がこういう話をされました。

その先生は600人の青年の前で、「あなたの仕事は何ですか? 」と聞きました。

そしたら前に座っていた方が、「水道の配管工事をやっています」と答えました。
すると先生は、「それは仕事の種類でしょう? あなたの仕事は何ですか? 」
とさらに聞かれたのです。

「いや、水道関係の仕事をしています」
「それは職種でしょう? あなたの仕事は何ですか? 」

さて、みなさんだったら、なんと答えられますか? 

私も「修養団という社会教育団体で、青少年教育の活動をやっております」と、
こう答えると思うのです。

しかし、この中国人の先生は青年に向かって、

「『人のお役に立つことをやっています』。これがあなたの仕事でしょう? 
『それは何を通してですか? 』と言われてはじめて、『水道の配管工事を通じてです 』
となる。これが本当ではありませんか? 」

と言われたのです。水道の配管工として人々のお役に立っていると心から思えた時、
仕事に対する思いが変わってきます。この職業は自分の役割としてやらせてもらって
いると、気づくことが大事だということなのです。

すべての仕事が尊くて、ありがたい、いい仕事なのです。まずは、人の役に立つことを
心に置いて、自分の役割をそれぞれがやること。ここのところが非常に大事です。

「あなたの仕事は何ですか? 」と聞かれた時、「水道の配管工です」と答えると、
うまい水道の配管工さん、下手な水道の配管工さんというのが出てくるし、
儲かっている、儲かっていないという良し悪しの比較の世界になってしまう。

「あなたの仕事は何ですか? 」
「人のお役に立つことです」
となると、どんな職業もありがたいものになるのです。

たとえば、教師をされているなら、
「私の仕事は人のお役に立つことです。それは小学校の教師を通じてです」
となります。

すると、難しい子どもが来た時も、この子によって、大きなお役に立つことを
やらせていただけるのだな、という思いになる。

こういうことがきちんと原に収まった時に、さまざまな出会いが
自分を生かしてくれるのだということも気がつけるのです。

昔はそれぞれが自分のできることで「はたを楽にする」という考えがありました。
それが、「傍(はた)」を「楽(らく)」にする、「はたらく=働く」ことだったのです。

「私はみんなのために、みんなは私のために」という世界が本当なのです。
どんな仕事もこう言いきれたら、仕事への視点が変わってきますね。

・・・・・

なぜ人間は仕事を嫌うか

             *「人生読本」(P188~189)より

人間は妙な習慣がありませして、どういうものか仕事をする事を嫌う人が多いのであります。
仕事をしたら損だという間違った観念がどうして起こったかは知りませんが、恐らく仕事と
いうものは強制させる事から、その反動的に起こってきたものであろうと思います。

仕事が嫌になるのは、人から強制されたと思うからで、
人間の生命というものは自由というものを求めておりますから、
自由に反して、これからお前は金で雇ってあるから働けというように縛られた気持ちになると、
どうも仕事をするのが面白くなくなるのであります。

しかし、働いてお金を貰うからとて、お金に縛られて強制せれるのだなどとは考えないで、
ただ仕事そのものを考えて、それを熱心にやる、あるいはこれは自分が神様から授かった尊い仕事で
ある、これで自分の生命(いのち)を伸ばしていただくありがたい勉強であると考えれば、
どんな仕事も、縛られたというような不快な感じなしに喜んでやれるようになるのであります。

勉強という言葉は、「努め強(し)いる」と書いてありますから、
勉強というだけでも嫌いな人がありますが、それを勉強だと考えずに、
自分の生命の伸びる唯一の機会であると喜ぶようにすることが肝腎であります。

「神は今に至るも働き給う」と聖書に書いてありますが、
私達は神の子ですから働きが神の子の使命であり、
働きが神の子の本然(そのまま)であります。

働かなければ神の子の生命は伸びないと分かったら、
自分の生きる道は働くしかないという事になるわけであります。
言い換えると、仕事をする事その事が自分を伸ばす仕事であって楽しいと思うようにならなければ、
人間は本当に発達するものではないのであります。

         <感謝合掌 平成25年12月4日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月15日 頓首再拝>)

磨かれれば光る - 伝統

2019/12/16 (Mon) 12:42:19


      *「feel blue こころが元気になる贈り物」秋月菜央・著(P10)より

恥をかくと 慎重になる
叱られると 成長する
失敗すると 賢くなる
欠点があると 謙虚になる
騙されると 人を見る目が養われる
嫌われると 愛される努力をする
フラれると 人にやさしくなる
傷ついた人は 思いやりを知る
孤独を知った人は 強くなる


つまずいた分だけ
苦労した分だけ
人は磨かれてゆく
そうして いつか
ピカピカに光

         <感謝合掌 平成25年12月23日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月16日 頓首再拝>)

すべての体験は善なり - 伝統

2019/12/17 (Tue) 18:35:09


《体験の受け方について》

          *「生活と人間の再建」(P215~216)より

多くの人々がそれが必要な程度よりもその生活を困難ならしめるのは、
魂の向上に欠くべからざる条件として自己に来たる所の体験を善と認めずして
悪と認めて逃れようとするために起こるのである。

若し真理を求めて、神に祈りつつ新生活に入りつつある魂にとっては
其の人に来たる所のどんな経験も悪なるものは決してないのである。

これらの人にとっては根本的にはそんな恐るべき事件は現れないのである。
尤(もっと)も生長の家に入った人には何事も悪いことは絶対に起こらないと
私は言おうとするのではないのである。

過去の想念が或る時間経過の後(のち)に現象界にあらわれて来るのであるから、
その人の過去の心の持ち方によって、現在或いは何らかの事件がその人の運命に現れると
云うことは誰にもそれを許さなければならないのである。

併しそれによって過去は形に表現される事によって消えて行きつつあるのである。
私が言わんとする事は祈りによって神にまで魂を注ぐ人は、聖霊に依る導きによって
其の人の遭遇する体験が、神の無限の智慧と愛と力に依って修正されて行くので、
それは悪しく見えつつ決して悪ではあり得ない。

究極的に見て唯(ただ)善であるのみだと云うことである。
それが若しその起こる事件が悪と見えるならばそれは単に仮面に過ぎないか、
我々の心に受け取り方が間違っているのである。

何故なら神の無限の智慧と愛と力とに依って我々に持ち来たされる所のものは、
何事にせよ善の外にあり得ないからである。

これのみが真理であるが故に、総ての人生に起こる出来事を我々は神の祝福の表現であると
観じて素直に受けて其の意義を汲み取らなければならないのである。

仮令(たとい)それがどんなに暗く見えようとも、我々が斯(か)くの如き心的態度で
体験を受容する時、我々は自分に来たる総ての経験がただ善ひとすじの途(みち)にまで
展開しし行きつつあることを見出すのである。

・・・

《すべての体験は善なり》

          *「生活と人間の再建」(P216~217)より

我々は人生の行路に於いて、時々は予想外の出来事にぶつかり、
失望や、困難や、見せかけの損失に出会うことがあるであろう。
併しながらこれは決してその人の魂の進歩にとって悪ではないのである。

何故ならば、唯一の善は、魂の進歩のみであるからである。

我々がそれらの体験する困難を困難として受けずに、それを祝福して感謝して受け、
それと協調して生活するならば、一見困難と見えるものが、極めて善なる結果をもたらし、
一層高く一層善きものに転ずる飛石(とびいし)となるのである。

斯くの如くして神に結ばれている限り、我々は人生には何ら悪は起こらないということを
見出し、唯(ただ)善のみを見ることが出来るのである。

併しこのためにじゃ常に神に祈り、神想観をし、神の智慧の導きを受け、
自己に来たる経験を神からの祝福として感謝して受けなければならない。

         <感謝合掌 平成26年1月8日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月17日 頓首再拝>)

魂の計画 ~ 葉 祥明 (画家・詩人) - 伝統

2019/12/18 (Wed) 14:36:56


        *「おたんじょう おめでとう」(P54~55)より

人は誰も、意味もなく、この世に生まれてくるのではありません。
すべての人が、その人なりの課題や目的をもって生まれてくるのです。
たまたま偶然に、母となる人のおなかに宿った訳でもないのです。

生まれる時代と国と場所。境遇、環境、そして時期はすべて、
その子がやってきた別次元で、入念に計画されたものです。

それらは後に振り返ったとき、
「自分の人生は、あらかじめ仕組まれた、精巧なジグソーパズルのようなものだったんだ! 」
とわかるのです。そのピースの一つでも欠けたら、人生の図案は完成しないものなのです。

親・兄弟・姉妹・友人・知人、仕事、通る道、駅、電車、バス、あらゆる立ち回り先、
そして、そこで起こるさまざまな出来事、出会いや別れ、喜び、悲しみが、深いレベルで
計画されているのです。

もちろん、人には自由意思があります。人生は無数の選択によって形づくられていきます。
しかし、どのような道を辿ったとしても、それはより大きな魂の計画にしたがって展開するのです。

親子の絆がそのような壮大なスピリチュアルなものだと知ったら、
誰しも身が引き締まると同時に、深い感動にとらえられるでしょう。

         <感謝合掌 平成26年1月13日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月18日 頓首再拝>)

【人生をジックリ味わう】 - 伝統

2019/12/19 (Thu) 19:34:50


        *メルマガ「人の心に灯をともす(2014年03月07日)」より

   (足立幸子氏の心に響く言葉より…)

   何のために肉体を持って地球に来たのかと言いますと、「味わうため」なのです。
   肉体を持つことによって、感覚も感情も持ちます。

   『ベルリン天使の詩』という映画があるのですが、
   この映画は天使の側から見た時は画面が白黒に映り、
   人間の側から見た時はカラーで映るのです。

   そして天使がサーカスに出ている女性に恋をして、女性の体に触るのですが、
   肉体がないので触覚もありませんから、女性の体が柔らかいのか硬いのか、
   冷たいのか暖かいのかわらかないわけですよ。

   それでどうしても感覚を味わいたくて、羽を捨てて堕天使になって、
   冬のベルリンに降り立つという話なのです。

   天使が人間として初めて、ホットコーヒーを飲みます。
   そしてカップに触って、「熱いというのは、こういう感じなんだ」と知るのですね。


   このように肉体を持つことによって感覚や感情を持つわけで、私達は
   「楽しいとはどういうことか、悲しいとはどういうことか、苦しいとはどういうことか」と、
   味わうために肉体を持って地球に来たのですから、ジックリ味わった方がいいと思います。

   楽しいことならジックリ味わうのですが、
   イヤなこととなると急に人のせいにして逃げてしまいますが、

   イヤなことも味わうために地球に来たのですから、
   ジックリ味わって、そしてそれをクリアーして次に行くのがいいですね。

   逃げるとやり残しをつくるわけで、それは絶対いつかやらなければいけないのです。
   次に来た時には、段々きつくなっているような感じがします。

   来たことは全部意味があって来たのですから、いっさい逃げないで、
   来た時に全部受け入れて、じっくり味わった方がよろしいのではないかと思います。

   例えば、トラブルは、自分を成長させるために来るのですね。
   『深い部分の自分』が、「そろそろ成長させてやろう」ということで、問題を与えるのです。

   ですからイヤなことが来れば、
   「これをクリアーすれば、また次にジャンプ出来る」と考えられるといいですね。

   そしてクリアー出来ないような問題を、引き寄せるわけがないのです。
   同じ波動どうししか同調しませんから、
   その方の器(うつわ)に相応(ふさわ)しい問題しか来るわけがありません。

   でもたまに、一人ではクリアーできないような問題も確かに来ます。
   でも、本当に一人では無理な場合には、サポートしてくださる人を引き寄せます。
   それで、なんなくクリアーしてしまいます。

   ですから逃げなければ、本当に奇跡のようなことが簡単に起こりますから、
   とにかく逃げないで受け入れて下さい。

         <『あるがままに生きる』ナチュラルスピリット>

      ・・・・

地球は、行動の星であり、具体的な実践の場。

行動とは、見る、聞く、話す、味わう、触るという五感をフルに活用し、
具体的に体を動かして何かを行うこと。

当たり前のことだが、行動するには肉体が必要だ。


我々は「味わうため」にこの地球にやってきた、という。

楽しみも苦しみも、喜びも悲しみも…

いいも悪いも、その中にひたりきり、文句を言わずに、ジックリとそれを味わえる人でありたい。

         <感謝合掌 平成26年3月10日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月19日 頓首再拝>)

すべてを、自分の魂を磨く研磨剤となす - 伝統

2019/12/20 (Fri) 19:27:44


         *「青年の書」第5章(P53)より

吾々は現象に於ける不幸を不幸と思ってはならないのである。
多くの人の中(うち)、現象界に於いてあらゆる持ち物を失ってしまったために
本当の自分を見出した人もあるのである。

圧搾機は菜種の種子から純粋の菜種油をしぼりだすのである。

人生の幸不幸は外からやってくるものではなくして、
外からやってくるものをいかに受けるかにあるのである。

それを感謝して喜びうける者には、苦痛が苦痛でなくなり、困難が困難でなくなり、
それをもって自分の魂を磨く研磨剤となし、それが結局、
自己を成功さす土台となすことができるのである。

凡ての栄養物を隆々とした美しき筋肉に変化するのは吾々の腕に荷(か)せられたる重荷である。

魂が美しく発達するのも、あらゆる場面にのぞんで機略縦横なる機才が発達するのは、
安易な生活からではなく人生の重い責任を喜んで果たすことによってである。

             <感謝合掌 平成26年4月6日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月20日 頓首再拝>)

地上生活学校への入学 - 伝統

2019/12/21 (Sat) 15:48:58


            *『生活の智慧365章』(P97~98)より

宇宙の本源でありところの大生命界を“海”と考えるならば、
吾々はその海面に浮かび上がった一つ一つの波だとも考えることができるのである。

併し、波は次の瞬間には消えてしまっているけれども、
人間の生命(せいめい)は須臾(しゅゆ)にして消えるものではないのである。

仏教者の或る人は、肉体を盃にたとえ、盃に海水を盛ったように肉体に大生命の一部を汲み
入れたのが人間であるが、その盃が壊れると、盃の中の海水は大海原の水と一如になって
しまうのと同じように人間の肉体がこわれると、その人の生命(せいめい)は個性も何も
なくなって、”宇宙の霊”に帰一してしまうという風に説く人があるけれども、
それは間違いである。

善人も悪人も、修行をした人も修行をしない人も、
肉体の死後は、全然、同一の大生命海に融けこんでしまうのだったら、何のために、
吾々は切実に道を求め、魂の向上を願うような衝動が内部から起こってくるのであろうか。

そのような不合理のことはある筈はないのである。

吾々の肉体は霊魂が地上に於いて或る修行をし、或る使命を果たすための”法服”又は
”作業服”であって、肉体が人間そのものではないから、肉体が死滅しても霊魂は個性を失って
しまうことはなく、また別の肉体を着て地上生活学校に入学してくることになるのである。

             <感謝合掌 平成26年4月20日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月21日 頓首再拝>)

長生きと霊魂の高下  - 伝統

2019/12/22 (Sun) 12:48:32


            *『生活の智慧365章』(P152)より

長生きする者、必ずしも霊魂の進歩が高いと云うにはきまっていないのである。
地上の修行が完了しないために、いつまでも同じ学級にとどまらせられているために、
地上生活が長引いている如き長生きもある。

つまり4か年に卒業するはずの大学を7年間もかかって
卒業するのんびりした学生もあるようなものである。

長生き必ずしものんびりではない。

10数年間も、或は20数年間も病苦と闘いながら、
その受苦(といっても、それは学課であるが)の本当の意義がわからないために、
尚寿命が尽きず、苦しみながら此の世の生活を終え得ない霊魂もあるのである。


しかしまた霊魂がみずから進んで苦痛の科目を励むことによって、
急速に霊魂の進歩を得べく、肢体不完全に生れて来たり、
小児麻痺の後遺症で肢体不自由の中で修行している高級な霊魂もある。

ただ一概に、長生きだとか、健康だとかで、その人の霊魂の高下を判断することはできないし、
病苦であえいでいるからとて魂が低いという訳でもないのである。

             <感謝合掌 平成26年4月25日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月22日 頓首再拝>)

人生の目的は魂の向上にある - 伝統

2019/12/23 (Mon) 18:52:59


    *『光明法語』(五月の法語「神に全托する」)(P97~5月1日の法語)より

人生は魂の向上の過程である。
魂の向上とは「内在の完全なる実相」がより多く次第に開舒(かいじょ)することである。

魂の向上にはあらゆる人生の面に触れることが必要であるのは、
歯を磨くにもあらゆる角度から磨かなければならないのと同様である。

従って吾々の触れる人生の面は時々変化するのは
別の角度から磨かれる必要があると云うことである。

新しい人生の展開、新しい境遇の展開は、今ある境遇の行き詰まりから生ずる。

だから今ある境遇が行き詰まるのは新しい善き運命の先触れだと信じて感謝すべきである。

             <感謝合掌 平成26年5月1日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月23日 頓首再拝>)

人それぞれに修行がある - 伝統

2019/12/25 (Wed) 18:53:26


         *「幸福を招く365章」(P20)より

誰でも自分の境遇は他の人のそれに比べて条件が悪いように考えたがるものであるが、 
それは卑怯な考えであり、或る意味では自分の苦難を誇張して自慢するこころであるから、
受難礼賛(じゅなんらいさん)の心であるから、却って苦難を呼び寄せることにもなるのである。

すべての人々はそれぞれの鍛錬(たんれん)の場が与えられているのであるから、 
第三者が考えるように他の人もそれほど楽ではないのである。 
しかしどんな困難もその人の受ける心境の上達するに従って楽になって来るのである。 

算術も最初は楽ではなかったが、楽になった頃には、その人は算術を卒業したのである。 
しかし算術を卒業した人も代数(だいすう)や幾何(きか)は又楽ではないが、 
やがてすべてが楽になる時が来る。 

それが、人生体験の卒業と云うものである。 

             <感謝合掌 平成26年5月6日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月25日 頓首再拝>)

ダウン症を通して魂を急速に進化させる「高級霊」 - 伝統

2019/12/26 (Thu) 18:49:32


Web:生長の家相愛会父親教室より
《自閉症やダウン症など、生来から障害を持った子供たちは
 何のために生まれてきたのでしょうか?》

以下に重要部分を抜粋して紹介させていただきます。

(1)生長の家では、
   「人間は肉体ではなく、霊的存在・魂であり、その本質は神の生命の表れ、
   『神の子』である」と教えられています。

   肉体はどんな障害を持っていても、その魂はみな『神の子』なのです。
   それは生き通しであり、人生は肉体という有限な存在を通して『神の子』の生命を
   表現する“訓練の場”として、何度も生まれ変わって学ぶ場なのです。

(2)どんな訓練でも、習得の度が増してくると、
   より困難なことにチャレンジするようになります。

    たとえば山登りでも、初心者は易しい、低い山から始めます。
    しかしベテランになってくると、それではもの足りず、
    より険難な高い山に登りたくなる。

    じつは魂や人生にも同じことが言えるのであり、
    様々な人生の訓練を積み重ねた“高級霊”なのです。

(3)この時、魂が高きに達するのは本人だけではありません。
   その家族も本人を通して急速な魂の進化を遂げます。
   そのために同じ家族として、選び、選ばれて生まれたのです。

   また、家族も介護やお世話を乗り越えるだけの精神的強さを必ず持っている。
   なぜならそのための“魂の訓練”を前世までに済ませている“高級霊”だからです。

(4)聖経版「続真理の吟唱」“魂が地上に生を受けて高きに達する祈り”

  《 高き魂をもつ高級霊はみずから進んで心身障害児となって生まれ、
   普通よりは一層険しき苛烈なる体験を経つつ、普通の安楽生活者よりも急速にその魂を
   進歩させるのである。

   ゆるやかに進む者は遅足の乗り物に乗るように少ない振動しか受けないが、
   急速に走る乗り物は地上の乗り物でも、空中を飛ぶ飛行機でもその騒音も震動も
   はげしいのである。

   けれども、それだけ速やかに魂は目的の高度に達し、約束の天国浄土に到着することが
   できるのである。
   “神の子”には何事も何者も本当にあなたを害するものとてはないのである。》 

   *この祈りの言葉については、本スレッド内記事
    「魂が地上に生を受けて高きに達する祈り (1253)(2013年09月28日 (土))」で
    確認することができます。

   *Web:生長の家相愛会父親教室
     →(http://www.sni-honbu.or.jp/father/kougi/kougi0906k.htm) 

   ・・・

(ダウン症)関連Web

(1)Web:生長の家(2010/09/01)より

   《ダウン症の高校生が“絵織物”の個展》
   → http://www.jp.seicho-no-ie.org/seishimei/201009/201009_08_01.html

(2)Web:プラス思考の人生(2014/3/10(月) )より

   《「生まれてきてくれてありがとう」 天使からの贈り物 ダウン症の恵子を授かって》

   公益財団法人「新教育者連盟」の月刊誌『生命の教育』の平成25年7月号より

   → http://blogs.yahoo.co.jp/hiyodori78/66872091.html

             <感謝合掌 平成26年5月15日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月26日 頓首再拝>)

魂の究極の目標 - 伝統

2020/01/06 (Mon) 15:00:22


(ある自転車屋さんの話)

       *メルマガ「人の心に灯をともす(2014年01月07日)」より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   ある自転車屋さんの話なんですが、
   今、自転車というのは、スーパーマーケットとか量販店だとかで
   すごく安く売ってますよね。

   わざわざ専門店に買いに来る人が少なくなってしまって、
   これからどうしたらよいだろうか、という相談を受けたんですね。

   私は「喜ばれる存在になること、それだけですよね」って言いましたら、
   その人は自分なりに考えてこういう結論を出しました。

   「修理の大好きな自転車屋」っていうのを名刺に入れ始めたんです。
   そしたら、毎日、たくさんの修理を頼まれるようになったそうです。

   で、その修理をやっていった結果として、
   「修理を頼んできた人たちも自転車を買い替えるときには、
   うちの店に来てくれるようになりました」って話していました。

   だって、自転車という商品そのものは、どこの店でも同じようなものでしょう。
   そしたら、お客さんが来るかどうかは、その店、その人に関わりたいと
   思うかどうかなんです。

   それに、スーパーや量販店では多分、修理してくれないですよね。
   ちょっと壊れても、「買い替えたら、安いんだから」って言われそうです。

   その人は、どんなに安い修理でも全然いやがらずにニコニコしながらずーっと
   「修理の大好きな自転車屋さん」をやり続けた。

   すごく頼みやすい人になったんです。


   実は、頼みやすい人、頼まれやすい人というのは、
   もうひとつ別の言い方で言いますと“人徳”というのですが、
   “人徳”イコール、“人格者”ですね。

   結局、人が集まるような人格になってしまえば、
   必ずやそこで商売が成り立つわけですから、仕事というのはまさに人格の延長なんです。

   自分の周りでいかにたくさんの人が喜んでくださるか、喜ばれる存在になるか。

   どうしてこんな簡単なことを世の中で教えなかったんでしょうか。

   人間が、この世に生命をもらった意味というのは
   「人格を磨く」というこの一点だけで存在しています。

   人格を磨くというのは、経済的に成功するとか、社会的に地位や名誉を得るとか
   いうことではなくて、いかに自分の存在がたくさんの人から喜ばれるか、ということです。

   それが、魂の究極の目標なんです。

   でももし、あのときに彼が「もう自転車屋なんて時代遅れでダメだ」って
   愚痴や泣き言を言っていたら、多分商売もたちゆかなかったと思うんですけれど

   「喜ばれる存在になりたい。お金のことは考えずに、ただ修理をやっていこう」
   って決めた。
   その決め方がとても美しいですよね。

   そんな彼を見たときに、
   神さまだったら「絶対、味方したい」って思うんじゃないでしょうか。

   もちろん、いい結果というのは、1回2回ではすぐには出てこないかもしれませんが、
   できる限り続けていたら、これまでとまったく違う世界の住人になるみたいです。

   「人生ってこんなに面白かったのか」って思うほどの醍醐味を味わえるようですね。

         <『宇宙が味方の味方道』弘園社>

    ・・・

人を寄せつけない、ピリピリした雰囲気の人がいる。

そういう人には見えないバリアがあるから、人から何かを頼まれることはない。

偉そうだったり、暗くて、愚痴や悪口が多い人も同じだ。


気さくで、明るくて、前向きで、笑顔の人は、頼まれ事の人生を歩む人だ。

頼みやすい人は、“人徳”のある人。

そして、魂の究極の目標は、「人格を磨くこと」


人に喜ばれる存在でありたい。

             <感謝合掌 平成26年5月29日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和2年1月6日 頓首再拝>)

人生は魂修行の場 - 伝統

2020/01/07 (Tue) 14:41:35


        *「あなたは必ず救われる」藤原敏之・著(P139~142)より

ものには裏と表とがあるように、
人生観にも表(実相)から観た人生観と、裏(現象)から見た人生観とがあります。

この自分の側(現象面)から見た人生観でありますが、
それは人生とは魂修行の場であり、道場であるとする観方であります。

私達の霊魂は永遠に不滅でありまして無限に向上し続けているのであります。


(中略)


どんな問題でも、ちょっと大変だと思われるような事件でも、
ああ私の魂の修行のために、向上のためになくてはならない尊い問題が今与えられたのだ、

これは私に必ず解決する力がある証拠だと信じて 「ありがとうございます」 と
感謝して受けたとき、どんな問題でもスラスラと解決するのであります。

人間はもともと神の子であって無限力が与えられてありますから、
どんな問題でも逃れようと思わず、「ありがとうございます」
と感謝で受けたとき必ずよくなるのであります。

向う倍力といって、逃れようと思わなければ、五の問題が与えられたら必ず十の力が湧き、
十の問題が与えられたらニ十の力が湧いてきて必ず処理できるのであります。

このことを信ずることが大切であります。

すべて何でも他人と比べるぐらい無駄なことはないのであります。

人間の不幸の原因はみんなこの比べたがる心から起こるのであります。

比べることは相対でありますから、不足はあっても感謝などありません。

感謝とは絶対のもの、必要なものとして、
また神様からの授かりものとして受ける心であります。

「私だけが何故であろうか」と考えるとき、ある力も失われて苦しみは増すばかりであります。

             <感謝合掌 平成26年7月4日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和2年1月7日 頓首再拝>)

虐待死した子もみんな親を愛している - 伝統

2020/01/10 (Fri) 12:23:41



       *『あの世を味方につける生き方』美鈴・著(P54~57)より

(1)虐待されている子どもたちに接し霊視をすると、とても勇敢な光にあふれる魂の記憶、
   宿命ドリルの中にお父さん、お母さんの未熟な部分を立派な魂へと導く課題も含めて、
   この世に生まれてきていることがわかります。

   その場合、わざとお父さん、お母さんの未熟な部分を自分の性格に取り入れて生まれて
   くるので、両親は子どもを見ていると、鏡に映った自分の未熟さを見せられている
   ようでイライラして、ついきつく当たってしまうのです。

(2)虐待されて亡くなった子どもたちに、
   お父さん、お母さんを恨んでいる子は一人もいません。

   それどころか、みんな口をそろえて「お父さん、お母さんに悪いことをしちゃった・・・。
   私がもっと早く、未熟な部分に気づいてもらえるように努力すれば、お父さん、お母さんは、
   こんなにつらい思いをしなくて済んだのに・・・」と純粋なメッセージを送ってくるのです。

(3)幼くして亡くなるこの世にショートステイを決めて生まれた子どもたちの高級な魂は、
   自分の寿命を知っています。

   ですから、お父さん、お母さんの未熟さを早く解消しようと必死になるのですが、
   自分の寿命が近づくなか、どうしてもそれに気づいてもらえないときは、最後に、
   ”大好きな両親の手にかかって寿命を迎える”という究極の選択をするのです。

   こうすることで、両親は否が応でも法律で裁かれ、
   反省し更正するというチャンスを頂くからです。

(4)自分の親が「許せない、愛せない」という子どもは、そういう悩みとは裏腹に、
   心の声は「もっとお父さんに認めてほしい」「もっとお母さんに愛してほしい」と
   聞こえてくるのです。

(5)私たちは、現世の学びをまっとうするためにふさわしい両親を、
   あの世でじっくり時間をかけて選んできたのです。

   私たちは自分の魂の器をよく知っています。魂の器に耐えられないような宿命は
   設定しませんし、自分の手に負えないお父さん、お母さんは選んできません。

(6)人は他人から言葉で指摘されて「はい、そうですか」と動ける生き物ではありません。
   自分より優れている人の姿を見て、やっと自分の未熟さに気づいて、前向きに改善し、
   努力するのです。

             <感謝合掌 平成26年7月23日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和2年1月10日 頓首再拝>)

【学びにきている】 - 伝統

2020/01/13 (Mon) 13:15:29


         *メルマガ「人の心に灯をともす(2014年07月31日)」より

   (東京大学医学部教授、矢作直樹氏の心に響く言葉より…)

   見えない世界の代表選手に輪廻転生という仕組みがあります。
   生まれ変わりに関する仕組みというわけですが、そのシステムがどうなっているのか、
   死亡から再誕までのメカニズムに関してはさまざまな解釈があり、
   その情報を掲載するだけで数冊の本ができてしまうほどです。

   要するに、何となくわかるようで、その本質が誰にもわからないのです。
   
   多分、亡くなった方々はあちらの世界で「何だ、そういうことだったのか」と、
   皆さん一様に腑に落ちていることでしょう。

   これまでに多くの人による体験談、それに基づく資料が出版物などの形を通じて
   多数残されており、現在も国内外で輪廻転生や臨死体験に関する情報が発表されて
   いますので、そういう貴重な資料に注目して学び続けてはいかがと思います。

   どの表現物、創作物でも共通して訴求されること、
   それは輪廻転生や前世という存在を踏まえて、

   私たちが皆「(この世に)学びにきている」という事実です。

   それは今回限りじゃない、これまでも数多くあったし(回数にこだわる必要なし)、
   今回の人生以後もありますよということです。

   これまでの人生、そして今回の人生も、それぞれにミッション(使命)があることを
   意識すれば、前回、または前々回、あるいはそのもっと前の人生で、
   自分が何者だったのかという議論にはほとんど意味がないことがわかるでしょう。

   自分は特殊な存在、自分は選ばれた人、そういう意識がいかにバカバカしいか
   という事実にそろそろ気づかないといけません。

   今回の人生が終わっても、まだまだ先は長いのです。

   何度も転生し、神様と一緒に多彩なエピソードを重ねているのだと感じます。

   私たちは生きているのではなく「生かされている」のです。
   それは自分がどんな状況にあっても絶対に忘れてはなりません。

   神様、摂理、大いなる存在…呼び方はさまざまあれども、
   私たちが今、この世で暮らしているのはそういう存在の恩恵、つまりおかげです。

   神様と一緒にエピソードを重ねているのだと述べましたが、
   エピソードには良いことも悪いこともあります。

   エピソードは淡々と起きるだけですが
   それを私たちが「良い、悪い」と勝手に判断しているだけです。


   自分がなぜ、こういう立場で生まれてきたのか、今なぜこういう状況にあるのか、
   そういうことの一つひとつにまで意味があります。

   なぜ人間は生まれて死ぬのか、どうして生きているのか、素朴な疑問ですが、
   そこに意味を見出すことはとても大切です。


   ボーイスカウト日本連盟の初代総長となった後藤新平氏が
   スカウト運動の本質について問われた際、

   「人のお世話にならぬ様(よう)、人のお世話をする様、そして酬(むく)いを求めぬ様」
   (自治三訣・さんけつ)と言いました。

            <『いのちが喜ぶ生き方』青春出版社>

            ・・・

斎藤一人さんは、よく、

「この地球という星は、行動の星だ」、という。

つまり、自分の身体を使って、実際に行動してみなければ何もわからないし、結果も出ない。
行動せずただひたすら待っていても、状況は一つも変わらない。

人生において最も大切なことは、昨日より今日、今日より明日と
日々精進を重ね、成長し続けること。

つまり、日々学び続け、行動しつづけること。


「(この世に)学びにきている」

日々精進を重ねたい。

             <感謝合掌 平成26年8月7日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和2年1月13日 頓首再拝>)

肉体的な苦しみは進歩のしるし - 伝統

2020/01/14 (Tue) 14:19:29


《重病や障害に苦しむ方へ》

        *「生きがいの創造―“生まれ変わりの科学”が人生を変える」
                           (P260~262)より


「死後の世界」や「生まれ変わり」の研究からは、障害や病気を持って生まれてくること、
あるいは人生の途中で障害や病気を持つ事が、他の誰のせいではなく、
自分自身で計画した試練であり試験問題である事がわかっています。

自分を襲った障害や病気には重要な意味があり、その試練に打ち勝てば
「成長」という大きな「ご褒美」が用意されていること、また次の人生では、
再び完全な身体として生まれ変わるのが自由自在であることも証明されています。

(中略)


「重い精神病や肉体的な障害などのように、深刻な問題を持つことは、進歩のしるしである。
こうした重荷を背負うことを選んだ人は、大変強い魂の持ち主だ。
なぜなら、最も大きな成長の機会が与えられるからである。

もしも、普通の人生を学校での1年間だとすれば、
このような大変な人生は、大学院での1年間に相当する。

退行催眠をかけると、苦しい人生の方がずっと多くあらわれてくるのは、そのためである。
安楽な人生、つまり休息の時は、それほど意味をもたないのである」

                  (マイアミ大学教授 ブライアン・L・ワイス博士)



そう、障害や重病を抱えている人は、たいへん強い魂で、
すばらしく高度な試験問題に挑戦している、勇気にあふれたチャレンジャーなのです。

今回の人生で、その問題に挑戦することを選んだのはあなた自身であり、
誰のせいでもありません。

そして、この問題の中で自分がどのような言動をとればいいのか、
正解は、あなたの心の奥にあるはずなのです。

その正解は、あなたが心の奥で望んでいるのは、
まわりにの人々に八つ当たりすることでもなく、暗く沈んだ毎日を送ることでもないはずです

あなたが心の奥で望んでいるのは、「生きがいの源泉」を手に入れることではありませんか?

             <感謝合掌 平成26年8月13日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和2年1月14日 頓首再拝>)

些事も行う心の態度に魂の進歩がある - 伝統

2020/01/15 (Wed) 12:34:10

            *『女の浄土』(P15)より

毎日の生活の小事を親切丁寧に誠心を尽くす実践の中に、魂の進歩があるのである。

自分の前におかれたる小さな仕事を熱心に、
「神から興へられた仕事」として行き届いて実行することが
人間に課せられた第一次の使命なのである。

その第一次の使命を無事に卒業することによって
自分の生涯の究極目的として「神から興へられた第二次の使命」に
人間は近づいて行くことが出来るのである。

炊事、洗濯、掃除その他、一寸見ればただの雑事で
無価値な仕事のように見えるかも知れないけれども、

仕事そのものの重要性如何の問題ではなく、
自分の心が、その仕事をどのやうに扱うかの心境如何によって、
自分の魂に異なる点数がつくのである。

どんなつまらなく見える仕事でも感謝して行なうがよい。 

             <感謝合掌 平成26年8月19日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和2年1月15日 頓首再拝>)

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