伝統板・第二

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ひかりの一日一言57~善と愛との充満せる世界 - 伝統

2019/12/01 (Sun) 03:48:11

この「善と愛との充満せる世界」は
「眞理」第9巻生活篇第12章(P315~343)からの謹写です。



ひかりの一日一言《1日》

《1日 神は本当にあるのでしょうか》

無神論者はこの世に充ち満ちている
人間の不幸、病気、災難、闘争、弱肉強食等の事実を見て、
若し神があるならどうしてこんな不完全な世界を造ったのか。

若し神が愛であるなら、どうしてこんな残酷な世界を造ったのか。
神はあるにしてもそれは「愛」ではないのではないか。

「愛」であるなら、
「愛」を実現するための「力」が欠乏していつのではないか。

神は、「完全」デア、「愛」であり、「智慧」であり、
「全能」であると云うのはただの空想であったのかと
神を求める人は叫ぶ。


無神論者は、「そんなものは空想に過ぎないのだ。神なんてないのだ。
現実の苦しさに、そんなものを空想して、その空想の中に逃避している
のが宗教を信じている愚か者だ」と嘲笑(あざわら)います。

本当に神があるのでしょうか、
私たちは自分で考えて見たいと思います。

          *「真理」第9巻生活篇(P315~316)より

       <感謝合掌 令和元年12月1日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《2日》 - 伝統

2019/12/02 (Mon) 04:39:50


《2日 人生の不幸はどうして起ったのでしょう》

神があるかないかを考える前に、
人間には何故色々と不幸な問題が起こるのか考えて見ましょう。

どこかに間違いがあるのではありませんか。
彼らは物質が多ければ幸福が来ると思って
物質を追求しすぎているのではあちませんか。

個人間の紛争にしても、国際間の問題にしても、利権とか、領土とか
権力と云うのはすべて物質についての領有権、支配権の問題で、
互いに同じ人類である兄弟が血を流しているではありませんか。

そうすれば、此の世の不幸を無くする根本的問題は、
物質そんなに執着するほどの価値のあるものだと云うことを
知らせることにあるのでしょう。

物質に対する領有権を争わなくなったら、戦争もなくなりますし、
階級闘争もなくなります。

資本家の飽くなき貪欲もなくなり、働く人が”もっと賃金を”と
叫ぶ必要もなくなるのではありませんか。

もっと考えて見ましょう。


          *「真理」第9巻生活篇(P316~317)より

       <感謝合掌 令和元年12月2日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《3日》 - 伝統

2019/12/03 (Tue) 04:42:57

《3日 貧しさは心の中にある》

私たちの幸福と平和とは物質の多寡によるものではないのです。
二千年前の生活よりも現代の最低線を生きている人の方が
豊かな生活を送っているのです。

二千年前の王様はラジオを聞くことができなかったけれども
現代の最低線の人ですらラジオを聴くことができるのです。

数え上げれば無数に古代の王様よりも
豊かな事実を挙げることができます。
しかも王様は富んでいて、
現代の最低線の人々は貧乏だと云う気がするのです。

それは何故でしょうか。
富んでいるとか、貧しいとか云うのは
物質の分量によるのではなく、比較の感じなのです。

自分が2万円の月給を貰っていても他(た)の殆どすべての人が
5万円の月収があれば、自分は貧しい感じがして来るのです。

そこに嫉妬の感情、羨(うらや)みの感情が
多少ともまじっています。

物質に関係して嫉妬や羨(うらや)むところに
争いの因(もと)があるのです。


          *「真理」第9巻生活篇(P317)より

       <感謝合掌 令和元年12月3日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《4日》 - 伝統

2019/12/04 (Wed) 03:35:51


《4日 一切の不幸は人間が物質に執着した結果です》

物質への執着は人間を縛ります。
つかんだならば、つかんだそのものに逆に縛られるのです。

嫉妬や羨(うらや)みの感情は人間を縛るのです。
そして生命(せいめい)が自由を失い、自由を失った人間は
自分で自分を破壊するために争い闘うのです。

こんな不幸は神が造ったのではなく、
人間が迷いによって物質に執着した結果なのです。
神様に責任はないのです。

物質に執着するのは何故であるかと言いますと
物質は”心の影”だと云う真理を知らないからなのです。
つまり自覚が足りないのです。

物質は”心の影”だとわかったら、心を整理することによって
物質を自由に変化することが出来ると云うことを悟りますから、
物質に執着しなくなります。

物質を欲すれば心を整えよう、自分の心の持ち方の何処が
悪いのだろうと反省するようになりましたら、
人間は争う前に善念を起こすようになるでしょう。


          *「真理」第9巻生活篇(P318)より

       <感謝合掌 令和元年12月4日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《5日》 - 伝統

2019/12/05 (Thu) 04:42:55


《5日 先ず神の国の義(ただきしき)を求めよ》

では、心をどの方向に向ければ、物質も整うようになるのでしょうか。

「先ず神の国と神の国の義(ただきしき)を求めよ、
其の余のものは汝等に加えらるべし」

とイエスは教えられました。

神の国にある、神の秩序を先ず求めることが大切なのです。
実相の世界は単なる平等でも、単なる空無でもありません。
単なる混沌や平等の世界には生命(せいめい)はあらわれないのです。

現象界にも実相世界の秩序があらわれ、《あるべきもの》が
《あるべき》所に整然と配列されたとき、其処に生命現象が
あらわれて来るのであります。

生命現象は創造のハタラキであり、生み出しの働きでありますから、
《あるべきもの》が《あるべき》所に秩序整然と配列されたとき、
産業工場でばあったならば生産性が向上し、家庭に於いては、
その家庭が幸福に、健全に発展し、善と福とが同時に成就する
ようになって来るのであります。


          *「真理」第9巻生活篇(P318~319)より

       <感謝合掌 令和元年12月5日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《6日》 - 伝統

2019/12/06 (Fri) 04:38:41


《6日 善と福とは一致》

善と福とを一致しないと思っている人があります。

善を生活に直心(じきしん)を以実行するのが「徳」でありまして、
「徳」と云う字は「直(じき)」「心(しん)」を「彳(ぎょう)」ずると
云う組み合わせになっているのであります。

ところが「徳」と云うものは「自己犠牲」だと誤解している人があります。
「自己」と「他(た)」とは同じく共に「神の子」でありますから、
「自己」を「他(た)」より重んずる理由もなく
「他(た)」のために「自己」を犠牲にしなければならいと云う理由も
ないのであります。

大体、神様は実相世界を大調和の世界におつくりになったので
ありますから、「神の国の義」即ち「実相世界」の正しき秩序の
あらわれた現象世界に於いては、一方が他方のために損をすると
云うような犠牲が必要ではないのであります。

先ず私達は、「本当の正しい世界は犠牲を必要としない世界だ」と
云うことを自覚しなければなりません。


          *「真理」第9巻生活篇(P319~320)より

       <感謝合掌 令和元年12月6日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《7日》 - 伝統

2019/12/07 (Sat) 03:51:04


《7日 「徳」は決して「自己犠牲」を必要としない》

「徳」とは自己犠牲を必要とするものだというような考えが、
あなたの潜在意識の何処かにありますと、
個人の潜在意識は宇宙の潜在意識につながっており、

自分の願望するところのものを宇宙意識に伝え、
宇宙意識は一切の所に遍満していて、その願望にふさわしきものを、
その人のところへ持って来てくれますから、

自己犠牲を必要とするような事件がその人の身辺に集まって来て
その人は不幸になるのです。

「徳」と「福」とは両立しないという
潜在意識の観念を打ち破らなければなりません。

そのためには『生命の實相』を繰り返し繰り返し読んで、
「神の国」即ち「実相世界」には犠牲がない、

従って「実相世界の秩序」があらわれたら現象世界にも犠牲がなくなり、
共存共栄の世界があらわれて来るものだということを
潜在意識の底の底までも徹底せしめることが必要なのです。


          *「真理」第9巻生活篇(P320~321)より

       <感謝合掌 令和元年12月7日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《8日》 - 伝統

2019/12/08 (Sun) 03:45:45


《8日 自己処罰で造る不幸災厄》

現象世界にあらわれる人生の不幸は、「自己処罰」であることが多いのです。

「徳」の反対は「罪」でありますが、
「罪」は処罰によって償われると云うのが人類に共通する意識であります。

その処罰による償いを自己が進んでしようと云うのが
自己処罰であり、それは善意から発する或る「潔(いなぎよ)さ」で
ありますから、その点で、自己処罰や自己犠牲をする人には、
吾々は或る「潔(いなぎよ)さ」を感ずるのであります。

けれども、自己処罰や自己犠牲の根底には、神のつくりたまえる世界に
自己処罰を必要とするような「罪」とか「悪」とかが存在すると云う
 ―― 錯誤観念が存在し、その「迷い」が原因となって、
不幸や苦痛や災難があらわれて来ているのであります。

あんな善人がどうして、
不幸に見舞われるのかと疑問をもつ人があります。

実相の完全さを知らない善人は却って
自己犠牲や自己処罰を自分で造るのです。


          *「真理」第9巻生活篇(P321~3222)より

       <感謝合掌 令和元年12月8日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《9日》 - 伝統

2019/12/09 (Mon) 04:04:40


《9日 「悪」や「不幸」は人間が製作した映画である》

人間が自分の錯誤観念や、自己犠牲で不幸や病気や災難をつくるのですから、
これは神様の責任の問題ではないのです。

そうすると、「神が善であり愛であり全能であるならば、何故この世に
不幸や、病気や災難があるのだろう? 」と云う疑問の余地はなくなる。

一切の悪や不幸は人間の所造であって、しかもその人間が造るところの
現象世界と云うのは、人間が製作者となって造った映画のような
「現れている象(かたち)の世界」であって《実在ではない》ので
ありますから、

「神のつくった世界に悪や不幸が実在すると云うのは何故か」と云うような
疑問の入(い)り込む余地はなくなるものです。

「実在の世界」のみ「神のつくり給える世界」であり、「実在の世界」には
常に、善と悪とが満ちているのであり、その実在の善と福とを現象世界に
実現する過程に於いて、吾々の錯誤観念と、正しき秩序を破ったためとで
「悪」や「不幸」が現れるのです。


          *「真理」第9巻生活篇(P322~323)より

       <感謝合掌 令和元年12月9日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《10日》 - 伝統

2019/12/10 (Tue) 04:21:55

《10日 不幸・災難は実相の秩序を破ったのが原因》

実相世界の秩序と云うのは、父が父であり、母が母であり、
男性が男性であり、女性が女性であり、妻が妻であります。

子が子として生活をせず、子としての秩序をあやまり、
親不孝を致しますと、その家庭には不幸があらわれます。

これは人間の行為が邪魔して神の国の義(秩序)が
其の儘あらわれないからです。

まだ妻が妻としての位置を守らず嬶(かかあ)天下になったり、
良人に不従順になったりすると、その家庭には又不幸があらわれます。

それは、《あるべきものがあるべき位置》にある秩序を破ったからです。

現象世界の不幸や病気や災難はすべて、このように、
人間そのものが実相の秩序と異なることをするからです。

戦争による不幸なども、実相世界はすべて神の子ばかりで
互いに拝み合い扶け合って調和しているのに、
その秩序と異なることをしたからです。


          *「真理」第9巻生活篇(P323~324)より

       <感謝合掌 令和元年12月10日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《11日》 - 伝統

2019/12/11 (Wed) 04:35:33


《11日 幸福なる世界を現実にするには》

だから現実世界を幸福に健康に何らの不幸も災難もなく
生活するために先ず必要なことは、

物質は心の影であると云うことを知り、物質の奪い合い心を改め、
まず心を如何に正しく変じ、その変じた心によって
如何に行動すべきかを決定すべきである。

その行動は、実相世界の秩序の通りに、
親は親の如く、子は子の如く、夫は夫の如く、妻は妻の如く、
その位置に従って正しく行動すべきです。

若し悪平等に陥って、悪平等の権利主張を民主主義だと間違って、
各々 我欲を主張すれば、其処に争いが起り、不幸があらわれて
来ることになるのです。

更に潜在意識の底にある「自己処罰」や「自己犠牲」の観念を
拭い去るために、『生命の實相』を繰り返して読むと同時に、
神想観を毎日行事なくてはなりません。


          *「真理」第9巻生活篇(P324~325)より

       <感謝合掌 令和元年12月11日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《12日》 - 伝統

2019/12/12 (Thu) 03:18:37


《12日 潜在意識の改造について》

宗教には色々の経典があり、その文字も意味も立派でありますが、
それを頭脳の表層で理解するだけでは、潜在意識中にある自己処罰や
自己犠牲の考えや、誰かが不幸にならなければ他(た)の人は幸福に
なれないろ云う観念が消えて無くならないのであります、

其処に、人類が皆幸福生活を送るには、どうしても潜在意識の底から
それらの錯誤観念を逐(お)い出す方法を講じなければならぬ
理由があるのであります。

その潜在意識の改造は結局潜在意識が表面に浮かび出て最も感受性が
鋭敏になっている時に「実在の世界の完全さ」「その罪も無く、
自己処罰も、自己犠牲も必要としない大調和さ」を潜在意識に印象
するようにすべきであります。

その潜在意識が表面に出て印象を受け易いときは、朝目がさめた瞬間、
将(まさ)に眠りに入(い)ろうとする瞬間、神想観等によって
精神統一が完全に行われ雑念が消えた瞬間等であります。


          *「真理」第9巻生活篇(P325)より

       <感謝合掌 令和元年12月12日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《13日》 - 伝統

2019/12/13 (Fri) 04:35:38


《13日 人間は肉体ではない》

人間は、肉眼で見えている通りの物質的存在ではないのです。
人間は、その実相は霊的存在である。

それは時間・空間に於ける立場から、感覚と云う面を通して見るから、
人間は単なる物質的存在であると見えるのである。

しかし見えると云うことは其の通りに「ある」と云うことではない。

たとえば映画のスクリーンに映っている姿は、スクリーンと云う
空間面に於いて一定の時間の流れを通して見るから、そう見えるから、
そう見えるだけであって、その本質(又は実相)は、
”光の波”そのものに過ぎない。

それと同じように、人間も肉眼や触覚で感覚的に映して見るから、
「人間は肉体だ」と見えるけれども、その実質又は実相は
「霊」そのものである。

だから私たちは1日1回や2回位は”肉眼”と瞑(と)じて、
「映った姿」を見ることを止(や)めて、「霊」そのものなる
”実相”を見る練習をしなければならない。


          *「真理」第9巻生活篇(P326)より

       <感謝合掌 令和元年12月13日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《14日》 - 伝統

2019/12/14 (Sat) 04:29:47


《14日 肉眼を瞑(と)じて実相覚で”聖なる人間”を見ましょう》

肉眼その他(た)の感覚のみでもって”人間”を見る人にとっては、
”霊なる人間”などと云うものは単なる幻みたいなものであり、
又単なる空想に過ぎないと考えられるのであるけれども、

神想観をして実相画覚をもって観ずるならば、”肉なる人間”は
逆に幻の如く消え去ってしまって、其処には唯々(ただただ)
霊的波動としての人間を観ることになるのである。

肉体は所詮は滅び行くもの、刻々(こくこく)体温をつくって
燃え尽きるつつあるものであり、”霊なる人間”のみ永遠の存在である。

次の如く念じましょう。

「我は神の霊の大海に棲む。
神の霊われに流れ入りてわが生命(せいめい)と成りたまう。
わが生命(せいめい)は宇宙に満つる神と一体であるのである。

神わが内にあり、神の内に我あり。
神と我とは分かちがたく一体である。
我は大いなるものなるかな。

み空の太陽も月もみなわが生命(せいめい)の内にありて輝けり。
我は宇宙と一体である。
だから何事も成さんと欲しても成らざることはないのである」

          *「真理」第9巻生活篇(P325)より

       <感謝合掌 令和元年12月14日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《15日》 - 伝統

2019/12/15 (Sun) 04:17:08


《15日 無我になって神の導きに随いましょう》

『天使の言葉』には「人間は神より出でたる光なり」と書かれています。
人間の本質は神より出でたる霊光の波動なのです。
それは神より出でたるものですから、神の御意志を表現するのが使命なのです。

自分自身の”我(が)”を表現するために肉体を使ってはなりません。
”我(が)”を表現するために肉体をつかえば、それは本来の目的に反するものですから、
其処に摩擦が生じ、苦痛や悩みがでて来るのは明らかです。

自分の”生命(いのち)”のように見えても、自分の”生命(いのち)”ではない。
神の”生命(いのち)”なのですから、神の”生命(いのち)”の発現するように
無我になってしまったら何事もスラスラと運ぶようになるのです。

だから常に神想観を行ずるときには、
「神の智慧が流れ入(い)って我(わ)が生活を導きたまうように」と念ずるべきで
あって「わが智慧で欲する通りに物事を実現せしめ給え」と祈るべきではありません。


          *「真理」第9巻生活篇(P327~328)より

       <感謝合掌 令和元年12月15日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《16日》 - 伝統

2019/12/16 (Mon) 04:37:28


《16日 神は空間的制約の中にはない》

精確に言うならば、”神そのもの”を欲する以外に物質的な何物かを
欲するための神想観は本当の神想観ではありません。

それは寧(むし)ろ物質観と言うべきものです。

既に今此処に霊的天国はあり、すでに此処に神の恵みが充満しており、
既に自分が”神の子”であるのに、その上私たちは何を求むできでしょうか。

ただ我々は既に今此処に与えられている霊的天国を悟り、既に今此処に
与えられている霊的な”神の恵み”を悟りさえすればよいのです。

それを悟るために、現象界に見えている”不完全なもの”に
眼を瞑(と)じて実相の完全な姿を諦視するのです。

あなたの内に神の”全生命(ぜんせいめい)”が宿っているのです。
神の生命(せいめい)は”霊”であり、無限であります。
それは眼に見えないのです。

それは3次元の空間的制約に閉じ込められていないのです。
だから芥子(けし)の一粒の中にも神の全生命(ぜんせいめい)は
あるのです。

況(いわ)や人間の中には神の全生命(ぜんせいめい)があるのです。


          *「真理」第9巻生活篇(P328~329)より

       <感謝合掌 令和元年12月16日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《17日》 - 伝統

2019/12/17 (Tue) 04:35:56


《17日 先ず”神の国”を求めましょう》

「神の国は汝の内に在り」とイエスは言われました。
そして「神の国を求めたらその余のものは汝らに加えられる」とも言われました。

外界は内部の影ですから、内部を省みて整えることなしに、
外部から幸福が来ると思ってはならないのです。

内部とは”自分の心”のことであります。

神想観によって、心に”完全なる実相”を描いて、その投影として
自然に内から催して来る意欲を自然のままに働かすようにすればよいのです。

影を実物の前に置いてはならないのです。

大抵の人々は「物質的に都合のよい状態を得るために神に祈るとか、神想観する」
のですが、物質は、”影”ですから、”影”を先に求めるやり方は、
物事が逆であります。

物質的幸福を求める心を去って、神を実現すべく求め、ただ”神の完全さ”と
”神の国の完全さ”のみを瞑想するはよいのです。

「その結果、物質界が旨く行きますか」とあなたは尋ねるのですか。
それでは、まだあなたは物質界を先に求めたいのですか。


          *「真理」第9巻生活篇(P329~330)より

       <感謝合掌 令和元年12月17日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《18日》 - 伝統

2019/12/18 (Wed) 04:20:46


《18日 私達の 魂 の真実の願いについて》

私達の 魂 の奥底から湧き上がって来る真実の願いであったら、
それは必ず成就するものなのです。

但し、あなたの願望が必ずしも本当に 魂 の奥底から湧き上がって来る
真実の願いであるとは請け合いません。

感覚の表面をかすめる皮層な表面(うわつら)のニセモノの
誘惑であるかも知れません。

だからあなたの願いが起ったら、それが真に 魂 の奥底から起って来た
願いであるかどうかをテストなさい。

そのテストの標準となるものは、
第一、その願いが成就することによって、他(た)の誰人(だれひと)をも
傷つけることがないかどうかを反省して見るのです。

自分の願いが成就することによって他(た)の人が傷つくような願いは、
実相の深いところから湧き上がって来た願いではありません。

何故(なぜ)なら「実相の世界」では”一切の生物処(ところ)を得て、
争うものなく相食むものなく”一切の生物の願いが調和しているからで
あります。


          *「真理」第9巻生活篇(P330~331)より

       <感謝合掌 令和元年12月18日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《19日》 - 伝統

2019/12/19 (Thu) 04:47:34


《19日 真実の願いは祈れば叶えられる》

その願いが、自分の実相の 魂 の底から来る真実の願いであるかどうかの
第二のテストは、その願いを成就することによって、自分の 魂 が向上するか
どうかを考えて見ることであります。

たとえば、或る人が金(かね)を得たいと願います。
「金(かね)を得たい」その事は善でも悪でもありません。

その金(かね)を得たい願いが成就したら、その人は何をしますか、
女遊びにそれを使うと云うのであったら、その”金(かね)を得たい”願いは、
自分の実相の 魂 の深いところから出て来た願いではありません。

その金(かね)によって学資を得、それによって自己の 魂 を向上させ、
その 魂 の向上によって人類に貢献したいと云うような深遠な願いが
其の奥にあるのでしたら、それは実相の 魂 の底にある願いですから、

その用途希望をとなえて「既にこれは実相の世界に於いて成就している
のですから、現象の世界にも必ず成就します。有難うございます」
と祈りなさい。

その祈りは成就します。


          *「真理」第9巻生活篇(P331~332)より

       <感謝合掌 令和元年12月19日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《20日》 - 伝統

2019/12/20 (Fri) 04:48:34


《20日 祈りの成就は自己の心境の移動による》

祈りの成就は、外なる神の応答によってなされると云うよりも、
自己の内なる心が「今ある心境」から「祈りの成就する心境」に
移動することによって成されるのです。

その移動は”頓得”の悟りに似た状態に於いて、頓(にわか)に
行なわれることもあるけれども、頓(にわか)に急激に得られた移動は、
時計の振り子のように逆方向に振り戻らされて退転しやすいものである。

蟻が大勢で徐々に物を運んで行くように、着実に一歩一歩漸進(ぜんしん)
して行った移動(即ち心境の向上)は、退転することが少ないのである。

だから毎日、毎週、毎月、毎年、永遠につづけて神想観を怠らず、
心境が向上へ向上へと漸進(ぜんしん)して行くように努力すべきである。

かくて漸進(ぜんしん)的に魂が向上し、漸進(ぜんしん)的にその
心境の向上の反映として、運命や事業が好転して行った場合は、
その好転は著実(ちゃくじつ)である。



          *「真理」第9巻生活篇(P332~333)より

       <感謝合掌 令和元年12月20日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《21日》 - 伝統

2019/12/21 (Sat) 04:04:18


《21日 我(が)の願いなき祈り》

大抵の人間は、願いを成就する祈りの体験によって、
自己に内在する神又は仏性をさとるに到ります。

しかも斯くさとることによって、
やがて自己の願いを成就する祈りを祈らなくなるのです。

それが 魂 の一大飛躍であります。

かくて一毫(いちごう)も自己の願いや欲望をもつことなく
神の聖座に近づくのです。

その時に小さなる自己の希望した願いなどは到底比較にならない程の
神からの恵福(けいふく)を受けることができるのです。

その神からの恵福(おかげ)はただ自分のための恵福(おかげ)ではなく、
神が神自身に与え給うた恵福(おかげ)となるのです。

それは自分のみの喜びたるに止(とど)まらず、神自身の喜びとなり、
万人に喜ばれる恵福(けいふく)となって展開するのです。

”自分”が、”自分のもの”とならず、神の道具となり、
万人に神の祝福を持ち搬(はこ)ぶ伝道者となるのです。


          *「真理」第9巻生活篇(P333~334)より

       <感謝合掌 令和元年12月21日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《22日》 - 伝統

2019/12/22 (Sun) 04:51:39


《22日 神に心を振り向けよ》

病いに悩める人々よ。
あなたの心の眼(まなこ)を神に振り向けよ。
心があなたの患部に向けるなかれ。

神は無限の生かす力、癒やす力をもってあなたの内に宿っていられるのです。
神を遠くにあるものと思ってはならない。

神は宇宙に満ち、今此処に満ち、あなたの内に満ち、
あなたを生かし癒やしていられるのです。

夜眠っている間にも、消化作用も、循環作用も、泌尿作用も・・・
すべて行われているのです。

その大いなる力に信頼なさい。
その大いなる力に感謝なさい。

あなたに毎日あなたの内部に働いていて下さる神に
あなたは感謝が足りないのです。

あなたが仕事が出来ぬほどに重病でしたら、それは却って幸いです。
何故なら仕事がないから感謝に熱中することができるからです。

念々ただ感謝の言葉を心のうちでとなえなさい。
其処から癒やす不思議な力が活発に発現してくるのです。
次の如く念じなさい。


          *「真理」第9巻生活篇(P334)より

       <感謝合掌 令和元年12月22日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《23日》 - 伝統

2019/12/23 (Mon) 04:39:00


《23日 神と一体の自覚を得るために念ずる言葉》

「私が今、神と一体であることを自覚したがゆえに、
最早人生に何の恐れもないのである。
私は常に神に感謝するのである。

毎日毎日がわが向上の一歩一歩である。
私は如何なる状態があらわれて来ようとも、それが自分を導き、
自分を高める試金石であるとして勇敢に立ち向かうのである。

吾が行く処に常に吾を守りたまう神が付随していたまうのである。
私は、神と一体なるがゆえに勇気そのものである。

私は今神に感謝するのである。

神は私を守りたまい、恐怖を除きたまい、あらゆる問題を快刀乱麻を
断ち切るように明快に解決し得る智慧を与えたまうのである。

神は、われを守りたまう砦(とりで)であり、
われを導きたまう水先案内でありたまう。

此の大いなる愛の神、智慧の神なる宇宙大生命を私は一時(ひととき)と
雖も忘れると云うことはないのである。

だから私は常に平和であり、勇敢である。」


          *「真理」第9巻生活篇(P335)より

       <感謝合掌 令和元年12月23日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《24日》 - 伝統

2019/12/24 (Tue) 04:43:35


《24日 われは環境より偉大である》

人生の目的は、神を地上に顕現し、神の国を地上に実現することであるのである。
この目的が自覚の上に確立していなかったならば、
吾々は目的のない彷徨者になってしまうのである。

彷徨者になってしまうならば、ルンペンのように生き甲斐が感じられなく
なるのは自然の成り行きである。

生活の悦びは山頂を目指して刻々と進んで行く目標があるからである。
高く上(のぼ)るほど視界は開けて展望はひろくなる。
そして生活の悦びは倍化して来るのである。

自己に宿る「神」を刻々一層深く自覚せよ。
神との一体感を深めるために常に心を神に振り向けよ。

”自分は神の子である。神をこの世に実現するのが目的である”と
暇ある毎に、自分の心に囁きかけよ、境遇に屈従するようなものは
神の子ではないのである。

境遇が何だ。
環境が何だ。

あらゆる境遇よりも環境よりも偉大なる者が神の子である。
だから私たちは常に次の如く念ずるがよいのである。


          *「真理」第9巻生活篇(P335~336)より

       <感謝合掌 令和元年12月24日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《25日》 - 伝統

2019/12/25 (Wed) 03:57:01


《25日 善のみに心を振り向ける神想観の念じ方》

「私は、今日(こんにち)、善なるもの、美なるもの、光なるもの、愛なるもののみに
心を振り向けるのである。悪は私の心の視野から去ったのである。
醜なるもの、暗黒なるもの、憎悪、怨恨等は私の心の中から去ってしまったのである。

心のうちに思うものが実現するのであるから、今後、私の身辺には、善なるもの、
美なるもの、光なるもの、愛なるものが実現するのである。

心配や恐怖や取り越し苦労はわが心の中に座を占めることはできないのである。
ただ神のみ、わが心の中に座を占めたまうて、其処より、善なるもの、美なるもの、
光なるもの愛なるものを放射したまうのである。

私はその事を自分の心に、言ってきかせることを怠らないのである。
われは神の子である。神はわが内に宿り給う。
わが内に宿りたまう神は宇宙遍満の神である」


          *「真理」第9巻生活篇(P336~337)より

       <感謝合掌 令和元年12月25日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《26日》 - 伝統

2019/12/26 (Thu) 02:34:46


《26日 繁栄のための祈り》

繁栄を得ようと思ったならば、先ず今まで与えられているものが、
どんなに少しばかりであろうともそれに感謝することである。

感謝は「今ゆたかである」と云う心の表現であるから、
「ゆたかなる心」は「ゆたかなるもの」を引き寄せることになるのである。

そして

「自分と神と一体なるがゆえに、今後とも供給がゆたかであって、
神から無限の富が流れ入ることを信じます」

と念じるのがよいのである。

そして最後に

「神から与えられた供給を決して無駄にはいたしませぬ。
必ず、神の地上天国実現の目的に使わして頂きます。
神よ、その最も聡明なる使い方を知らしめ給え」

と祈り、最後に感謝の念をのべるのである。

いくら無限供給が来てもその聡明なる使い方がなければ駄目であるから、
最後の祈りが大切である。


          *「真理」第9巻生活篇(P337~338)より

       <感謝合掌 令和元年12月26日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《27日》 - 伝統

2019/12/27 (Fri) 03:11:57


《27日 時間を上手に使うには》

物事が順調に行かぬのは、物事が充分出来ない内にはじめたり、
順序が転倒したり、時をまちがえたりするからです。

時をまちがえるのは、その物事を我(が)の智慧でやろうとするからです。
すべての物事を神の智慧によって管理せしめよ。

神はすべての事の運(はこ)びを、もっとも順序よく配列したまい、
エネルギーを節約し、時間を最も有効に使い得(う)るよう
導き給うのである。

「神よ、あなたの智慧を以って、わが仕事の順序を教えたまえ。
すべての事物を、最も適当にして有効なる時間と場所に於いて実行せしめ給え。
あなたは私に必要な時間を豊かに与え給うているのですから、
私は決して時間に追い回されることはありませぬ。ありがとうございます」
と最後に感謝するのです。

時間と云うものは下手に使えば、為すところなく過ぎ行くものです。
上手に使えば今の時間の2倍ほど仕事が出来るものです。


          *「真理」第9巻生活篇(P338~339)より

       <感謝合掌 令和元年12月27日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《28日》 - 伝統

2019/12/28 (Sat) 04:44:06


《28日 物事が順調に行かぬ時には》

折角頼んで置いた仕事を、頼まれた人が豊満なやり方をして失敗した。
物事がイスカの嘴(くちばし)のように齟齬(くいちが)う、
全くもって腹が立って仕方がないと云うような時に、イライラして
神経を興奮させて見たとて却って事態が悪くなるばかりです。

そう云うような時には、自分の内に宿っている”神”を
ジッと心で見つめるのです。
そして神がわが内に鎮座したまい、すべて必要なる”心の平和”と
”智慧”と”力”とを与えたまう心の内深く念ずるのです。

動揺している波を見ていれば、心も動揺し、船酔いするかも知れません。
それと同じく、動揺する現象を見て心を動揺させてはなりませぬ。

現象界が動揺する時ほど、自己の内に無限の智慧と力とを有したまう神が
宿っていることを心に思い起こして、その”無限の智慧”と”力”に
精神を集中し、心の平和を先ず取り戻すことです。


          *「真理」第9巻生活篇(P339~340)より

       <感謝合掌 令和元年12月28日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《29日》 - 伝統

2019/12/29 (Sun) 04:01:31


《29日 肉体に病気があらわれたら?》

「この肉体は決して単なる問題ではないのである。
神の霊の表現としての問題であるのである。
だから肉体は外見は物質のように見えるけれども、その本体は霊である。

霊であるから単なる物質のように黴菌に蝕まれてボロボロになる
と云うが如きとは決してないのである。

若し結核菌に蝕まれて肺臓に浸潤が出来たり、
空洞ができたりしていることがレントゲン写真に写ろうとも
決して恐れることはないのである。

それは本来の”完全なる霊体”の上に、自分の”心の動揺”の影を
映して、それを具象化しているに過ぎないのである」

このように眼をつぶって心を静かにして一心に念ずること、
一日数回、一回ニ十分位せよ。

そして病気の症状を気にするよりも、
その症状の原因である「自分の心」に振り向けよ。

暗い陰気な心はないか。
腹立てたり、イライラしたり、心配したり、
恐怖したりしたことはないか。

若しあれば其の心を捨て去って、神の方へ心を振り向け、
神との一体感を起して心の平和を確立せよ。


          *「真理」第9巻生活篇(P336)より

       <感謝合掌 令和元年12月29日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《30日》 - 伝統

2019/12/30 (Mon) 04:04:59


《30日 いつの間にか墜落している》

光明思想を常に生活から外してはなりません。

多くの読者が、既に「生命の実相はわかった! 」と言って墜落しました。
併し、白隠禅師でさえも「大悟18回、小悟は数知れず」と言われました。

「もう悟った」などと増上慢の心を起こしてはなりません。
いくら頭に光明思想を理解したからと云って、それを単に記憶していることと、
実際に光明思想を生きていることとはちがうのです。

光明思想はよく覚えているが、忽(たちま)ち暗黒な気持ちに襲われたり、
イライラした感情の虜(とりこ)になったり、利己的な心を起こしたり、
荒々しい語調で人に話したりするのでは、光明思想を生活しているのでは
ありません。

しかも日常そんな生活を送りながら、「自分は光明思想を知っているのだ」
と思って反省がないのでは救われる道がありません。

毎月の雑誌は、その反省を与え、知っていながら暗黒思想に
いつの間にか墜落している人々を救い上げるための言葉の力として
是非読まなければならない魂の糧(かて)なのです。


          *「真理」第9巻生活篇(P341~342)より

       <感謝合掌 令和元年12月30日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《31日》 - 伝統

2019/12/31 (Tue) 02:18:10


《31日 「愛」はすべての人をよくします》

一切の不調和がでて来るのは、
神から出て来るのでも実相から出て来るのでもないのです。

神は円満完全であり、実相も円満完全なのですが、
その上を私たちの「愛」に欠乏せる心の波が覆いかくして、
その円満さを見えなくしているに過ぎません。

「愛」が私たちの心のうちにあらわれて来たら、
自然に万物は調和するようになるのであります。

何か不調和なことがあらわれて来たときには、
自分に本当の”愛”があったかと反省してみることが大切です。

スター・デーリーは「愛は獄舎の扉さえ開く」と言っています。

”愛”がないから思いやりばなく、腹が立ったり、恨んだりするのです。
相手の立場になってあげたら、人間は皆なんらかの淋しさを背負って
生きているのですから、淋しさをまぎらすために何か色々と
やらずにはおれないのです。

淋しいのは愛して貰えないからです。

愛してあげて下さい。
すべての人はよくなります。


          *「真理」第9巻生活篇(P342~343)より

       <感謝合掌 令和元年12月31日 頓首再拝>

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