伝統板・第二

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神の導き ② - 伝統

2019/11/30 (Sat) 04:59:36

       *伝統板・第二「神の導き」からの継続です。
         → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6901784

《神の声を聴くには》

        *「生活と人間の再建」第1章(P5~9)より

神は「静かなる小さき声」にて吾らに語り給うのである。
その静寂(せいじゃく)なる声は、たかぶる人の心の耳にはきかれないのである。

それを知ることなくして、
ただ徒(いたず)らに「吾神の子なり」との命題を知ったからと
て直ちに自分の全身全霊が神の子の波長にあうわけではないのである。

それにも拘(かかわ)らず、「吾神の子なり」と知った以上は、
自分の考えることは悉(ことごと)く神より出でたる正しき思想である
等(など)と考え、深き先人の言葉にきくことを敢(あえ)てせず、

自(みずか)らの低き思想を以(もっ)て
すでに足れりとする自己満足の如(ごと)きは、
これから発達途上にある青年達にとってもっとも恐るべき災いなのである。

キリストが

「汝(なんじ)らひるがえりて幼児(おさなご)の如くならずば
天国に入(い)るを得じ」と云った如く、

幼児(おさなご)のすなおさに復(かえ)って
先人の言葉を素直にとり入れてよく咀嚼(そしゃく)しよく吸収するもののみ
「天国にて大いなるもの」となることを得(う)るのである。

青年の心の固さは寧(むし)ろ美点ではなくして欠点であるのである。
固いものよりも柔かいものが強いのである。

幼児は柔かい精神をもつが故(ゆえ)に速(すみや)かに言語でも覚えるのである。
幼児は霊感にみたされており、その成長は、青年よりも尚一そう速かなのである。

幼児は自己をてらうことなく、自己弁解することなく、
自分の尊大を維持せんがために
言葉巧みに詭弁(きべん)を弄(ろう)することもなく、
ただすなおに謙遜に一切のものを受け容れるのである。

彼は単純であり、純粋であり、柔和であり、
そのままであり、謙(へりくだ)りであり、
虚飾や自己弁解や名誉慾(よく)などにしばられるということはないのである。

かくの如き幼児の心のみ平和であり、静寂であって、
神の「静かな小さき声」をきくことができるのである。

凡(およ)そ偉大なる人格とは、極(きわ)めて謙遜なる人格であるのである。
謙遜なるもののみが神の偉大なる導きを受けることができるのである。


凡そこの世の中の不幸と葛藤とは謙遜ならざる人々の、
即ちキリストの所謂る「柔和なる者」ならざる精神の摩擦より生ずるのである。

「《おれ》がこれをした」「吾これをなせり」かく信じて
しかしてその報酬に自分を主張せんとする。

かくて権利と権利の主張は互いに衝突し、
摩擦して争いを生ずる因となるのである。

世界の平和を来たすにはかくの如き傲慢と尊大と自我拡張の心とを
除かねばならないのである。

真に「柔和なる者」決して自ら高き地位や重大なる役目につこうとしないのである。
真に偉大なる人は、自分について又自分自身の働きについて吹聴したり、
恩に着せたりすることはないのである。

凡(あら)ゆる場面に於いて彼は自分よりも他人をば高き位地に推し出そうとする。
そして自らは低きについて、下からそれらの人を却って押し上げてやることに
喜びを感ずるのである。


諸君はスター・デーリーの生活を紹介した
『愛は刑よりも強し』をおそらく読んだであろうが、
あの中に出てくるライファーの如き生活が本当の柔和なる生活であるのである。

彼は人を助けても《自分が手柄をした》とは思わないのである。

それは、《神の愛を現すため》にしたのであり、
その行為によって《自分自身が救われるがため》に「させて頂くのである」
というような謙遜の心持を常に失わないのである。

彼は病人を治すにしても、自分が病人を治す力があるなどとは認めないのである。
相手が病人であるのは、自分の心の中に尚「病気」があるのであるから、
相手の「完全な姿」を完全にみる力がないから相手が病気に現れているのであると、
自ら謙りて相手の完全な姿を拝ませて頂くのである。

自分はこのライファーの生活態度に著しく心を打たれたのである。
自分はすべての人間がこのようになってくれることを望み、
このようになってくれることによってのみ世界の平和が確立すると思うのである。

自分は『愛は刑よりも強し』の本を校正しながら幾度も、同じ文章を繰り返し読んで、
自分も斯くなりたいと大息しつつ感じたのである。


真に偉大なる人はライファーの云うが如く謙遜であって
何ら自分の功績に対して特殊の権利を主張しようとはしないのである。
彼は謙遜であるが故に、自分が認められないことが何ら不平ではないのである。

彼はほめられようとは思わない。
彼は神に対して常に謙っているのであって、

《神の栄光を現すことが尚足りないことを
ひたすらに神の前におそれているのである》。

自分の功績を誰かが誉めてくれなくとも、
誰かがあやまって彼を却って悪しざまに批評しようとも、
それは彼にとって何ら彼の心を傷つけることにはならないのである。

彼は尚自己が神の栄光を完全に現し得ないことを恥じる、
そして、実相においては如何なる批評も如何なる誹謗も自己を傷つけるものではない
ということを知っているから動じないのである。

人のまちがった考えは自分の真の値打ちを何ら傷つけることはできないことを知って
却って心は常に平和であるのである。

かくの如き真に偉大なる柔和が現代の青年には欠けているのではないかと思う。
この柔和なる精神なくして世界の平和は到底招来することはできないのである。

           <感謝合掌 令和元年11月30日 頓首再拝>

《天の使とは》 - 伝統

2019/12/10 (Tue) 04:26:15


         *「光明法語」(12月10日)より

「『われ汝が無花果(いちじく)の樹の下におるを見たり
と言いしに因(よ)りて信ずるか、汝これよりも更に大いなる事を見ん』

また言い給う

『まことに誠に汝らに告ぐ、天ひらけて人の子のうえに
神の使たちの昇り降(くだ)りするを汝らは見るべし』
                 (「ヨハネ伝」第1章末節)。

預言が出来たり、透視が出来たりすることが尊いのではない。

それより尚尊いのは、人の子のうえに神の使たちの昇り降りすること
即ち人間が神霊の顕現であり、「神の霊波」が昇り降りすることである。

「神の霊波」を人格的に表現して、「天の使」と言ったのである。

           <感謝合掌 令和元年12月10日 頓首再拝>

神われに語りたまふ詩 - 伝統

2019/12/26 (Thu) 03:08:24


         * 『生長の家』(昭和40年8月)より

    神はわれにかたり給ふ
    あなたが私を必要とするならば
    わたしは既にあなたの其処にある

    あなたは私を見ることはできないが
    あなたは私の光によつて萬物を見ることができるのだ

    あなたは私に触れてゐるとは知らないが
    わたしはあなたの手の中で働いてゐる

    どんな方法で私があなたの中で働くかを
    あなたは理解することができないが
    わたしはあなたの中で働いてゐる

    あなたは私をみとめることはできないが
    わたしはあなたの中で働いてゐる



    わたしは単に不可思議な霊象でもなければ
    神秘的な存在でもない
    ただ絶対の静寂である

    自我を去れ  その時に
    あなたは、私が〃本当のあなた〃だといふことがわかるのである

    それはただ感じるのだ  信仰だ

    しかし其処に私はゐる
    私を聴くことができ  答へることができる

    あなたが私を必要とする時に
    わたしは既に其処にある

    たとひあなたが私の存在を否定しようとも
    わたしは既に其処にある



    たとひあなたがどんなに孤独の感に襲はれるときにも
    わたしは常にあなたと偕にある

    わたしはあなたの父であり  母である
    常にあなたと偕にある

    わたしは愛であり 愛そのものである
    あなたが愛するとき
    わたしは常に其処にある

    わたしは平和であり  何人をも憎まない
    たとひあなたが憎しみの感情を起してゐるときにも
    わたしはあなたの内にあつて
    その敵でさへも愛してゐる


    わたしは平和であり
    其処に戦ひが演ぜられてゐやうに見えてゐるときにも
    其処に無限の平和がある

    あなたがわたしの内に深く沈潜して来るとき
    其処に常に無限の平和が用意されてゐる


    あなたがわたしを信じない時にも
    わたしはあなたが〃神の子〃で
    かならず立派なものであることを信じてゐる

    目覚めるがよい
    あなたの〃神の子〃たる實相に
    あなたの信仰がグラツクとも
    わたしがあなたを信じる信仰は
    決してぐらつくことはないのである


     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・


   この詩にあるように神は常にあなたと偕にあるのである。

   悲しみの来るときにも、寂しさが見舞うときにも、
   その奥には神があって、わたしたちの魂が鍛えられることを
   じっと愛の眼をもって見詰めておられるのが、神なのである。

   悲しみの来るとき、寂しさ見舞うとき、
   神はあなたの心が完全に神にむかわないことを、
   悲しんでいられるのであり、寂しく思っていられるのである。

   (https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/18204682.html ~消滅)

           <感謝合掌 令和元年12月26日 頓首再拝>

《常に神吾を導き給うと信ぜよ》 - 伝統

2020/01/11 (Sat) 03:47:14


        *「光明法語」(1月11日)より

朝目覚めたとき、不快の思いを起こすな。
今日その日が、いままでありし日のどの日よりも祝福されたる日であると信ぜよ。

而(しか)して「今日はあらゆる日のうちで一番幸福な日である」と
言葉に出して20回ずつ唱えよ。
然らば、毎日毎日が、その日までの凡(あら)ゆる日よりも
幸福な日となることが出来るであろう。

また汝ら仕事にかかるとき又は出勤するとき、
「神様、この日一日を神様の完全な御智慧(みちえ)にて導き給いて
過ちなからしめ給え」と祈れ。

しかして神が必ず導き給うと信ぜよ。

然らばその日一日じゅう過ちはないであろう。

           <感謝合掌 令和2年1月11日 頓首再拝>

《神霊に導かれて》 - 伝統

2020/01/14 (Tue) 04:13:13


         *「光明法語」(1月14日)より

今日吾が内に神の霊みちたまう。
吾が肉体にも吾が周囲に起る事件にも神の霊みちたまう。
それを今更の如く感ずるのである。

わが肉体を生かしたまうものは神の霊であり、
わが周囲を動かしたまう者も神の霊である。

わが肉体は今新たな新鮮なる活力を得つつあるのであり、
わが周囲に起る事件は神の智慧に導かれて
実に清らかに進行しつつあるのである。

われは周囲に何事が起って来ようとも思い煩うことはないのである。
何故なら、それは神の智慧に導かれていて
万事がよくなるほか致し方がないからである。

           <感謝合掌 令和2年1月14日 頓首再拝>

《神常に吾に宿り給うと信ぜよ》 - 伝統

2020/01/20 (Mon) 03:50:25


        *「光明法語」(1月20日)より

吾が全ての願いは吾が中(うち)に宿り給う神が内よりもよおし給う願いである。

されば吾が願いは決して成就しない事はないのである。
吾と神と一体であるという事を自覚するが故に
如何なる願いも必ず成就しないということはないのである。

吾は吾が中に宿る神のもよおしに対していと素直にそれに従うのである。
神よりの導きは内からも外からも来るであろう。

吾に何事でも勧めてくれる人は神が遣(つか)わし給いし天の使(つかい)である。
吾は素直に外の導きにも内の導きにも従うのである。

吾はあらゆるものにすなおに喜びをもって従うのである。

           <感謝合掌 令和2年1月20日 頓首再拝>

神は如何なる難問をも解決し給ふ - 伝統

2020/01/31 (Fri) 04:55:05


          * 『生長の家』(昭和40年8月)より

若し、突然、あなたの身体に異常を覚えたとき、
若し、突然、あなたの事業に何らかの躓きを感じたとき、
あなたはどうするであろうか。

恐怖しますか。
次々と起るかもしれない色々の故障や躓きを想像して
心配し、恐怖し、不安に閉じ込められますか。

そんな時に第一になすべきことは、
あなたの恐怖や不安を取除くことなのです。

恐怖や不安で満たされている心境で、行動をとるならば、
その恐怖すべき状態を現実化するような方向に
あなたは行動することになるのです。

それは蛇に睨まれて恐怖した蛙が、敏速に跳びはねて逃げればよいものを、
逃げることをしないで、じりじり蛇の口に近づいて行くのと同じようなことです。

あなたが恐怖して予想したところのものを、
あなたはわざわざ現実化するために行動することになるのです。


不幸が自分に蔽いかかって来るように感じられたとき、
第一になすべきことは恐怖の念を取る去ることなのです。

それには第一自分の心を恐怖すべき予想の方に振り向けないで、
神の方へ振向けることなのです。

そして『神は全智全能であり給い、神の子たる自分を護り給い、導き給う。
神の力は如何なる出来事よりも偉大であり、神の智慧は如何なる問題も
解決し得るのであるから、その問題を私は神の智慧によって容易に解決し得るのである。
神は今全智全能の叡智によって導き給う。ありがとうございます』 
   
と繰り返し念じて恐怖心がなくなり、
自身に満ちみちて来た時に思い浮かぶことを実行するがよい。

  
事実が躓いて来た時には、
事業が今まで自分に与えて来た恩恵に対して感謝が足りないで、
唯、その事業から《甘い汁》を吸って来たに過ぎなかったことを反省して、
その事業に感謝するがよい。

時代の推移や経済構造の変化や新しい発明等によって、
過去に繁栄していた事業でも衰微して来て、販路が益々縮まることもあり得る。
   
常に神想観して神の叡智を受けている者は、
その移り変わりに速やかに対処して自分の事業に新しい転換を与えることができる
のであるが、神想観による『叡智の受信』を怠ったり事業に対する感謝を忘れたり
していると行き詰まることになるのである。

併し、今からでも遅くない。
今までの事業を止めるにしても、方向転換するにしても、
その事業に感謝し、而してのち、神想観を毎日怠らず実修することにして
神の叡智の導きを受信してそれに従えば、
新たに活路をひらくことができるのである。


   (https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/18217878.html)(消滅)

           <感謝合掌 令和2年1月31日 頓首再拝>

神に相談して仕事をする - 伝統

2020/02/16 (Sun) 04:00:37


       *『希望を叶える365章』(P60)より

常に自分の行為又は仕事を、
「自分だけ」でやることなしに、神に相談し、
神の智慧の導きを受け、神が人類に幸福を与え給う
神業の一環としてそれを為すのがよいのである。

「自分だけ」でやった行為は、
どんなにそれが立派な仕事であっても「我」の行為であり、
広大なる意義への連関はないのである。

そして、それは如何にすぐれたる智慧で行っても、
我(が)の智慧ではどこかに見落としがあり、
先が見えず、やがて躓く時が来るのである。


何事を行うにも、その仕事が、神の人類救済の仕事
(又は人間に何らかの幸福を与える仕事)として、
神御自身の祈りと連関して、
祈りの中に於いて計画し、遂行するならば、

神の智慧には誤算がないから行き詰まることがないのみならず、
自分の仕事が、単に個人的価値ではなく、
「神の仕事」としての意義と価値とを有(も)つことになり、
其処に本当に生き甲斐というものが感じられることになるのである。

また“「神」と称(い)う「無限価値」との連関に於いて我れ仕事を為す”
と云う自覚があるとき、仕事に対する深い悦びが湧いて来て、
仕事の“退屈さ”ということがなくなり、
精神的にくたびれる程度が少なくなるのである。

           <感謝合掌 令和2年2月16日 頓首再拝>

《すべては神の導きである》 - 伝統

2020/02/22 (Sat) 04:52:54


           *「光明法語」(2月22日)より

どんな事でも神の導きと思えば感謝出来るのである。
人間知恵で突進している場合、それの方向転換が必要であっても、人間知恵ではわからぬ。
そんな時、思わぬ事件が起って、その方向転換させて下さるのが神の導きである。

何よりも大切なのは常に神を信ずること。神に祈ること。
どんな紛糾した複雑な問題でも解決せられないと云うことはない。

人間の知恵に於いては全部の人を幸福にすることは迚(とて)も出来ない、
誰かを犠牲にしなければならぬ時でも、神は全部の人を幸福に出来るのである。

           <感謝合掌 令和2年2月22日 頓首再拝>

《すべての善き発見は天界からの神徠である》 - 伝統

2020/03/14 (Sat) 04:53:35


          *「真理」第9巻生活篇第2章(52~53)より

化膿菌を培養基で培養実験しているときにたまたまペニシリン族の放線菌の
胞子が飛び込んで其処で繁殖したとき、培養中の化膿菌の聚落(コロニー)が
消滅していたのを見た実験者はペニシリン族の放線菌からの分泌生産物が
化膿菌等を滅殺する力があると云うことに「気がついた」のです。

それに気がつかないで、単に雑菌が繁殖したと思ってその培養基を
棄(す)ててしまったら、この驚くべき治療効果のある薬剤を発見することが
できなかった筈です。

発明でも発見でもすべての創意工夫と云うものは「気がつく」と云う
ところからでて来るのです。

他(た)の人が気のつかないところに鋭敏に気がつくのは
インスピレーションによるのです。

雲がかかっていても太陽は照らそうとしているように
神は吾々に常にインスピレーションを与えようとしていられるのである。

常にインスピレーションを受け得るように心の曇りをとることが必要です。

           <感謝合掌 令和2年3月14日 頓首再拝>

心を澄ましてききましょう - 伝統

2020/03/28 (Sat) 04:28:56


       *『女性の幸福365章』 (P20)より

言葉で想念感情を正しき平和な方向にコントロールするための
最も善き方法は祈りである。

神に一日一回又は数回、神の想念の中に自己を没入せしめ、
神に自己の想念を融合せしめてから、
再び現実生活に心を蘇生(よみがえ)らせてから日常生活を送ることにすれば、
自然に神に導かれて間違のない生活を送ることができるようになるのである。



心を澄まして、天の声に耳をかたむけよ。
天からは無限のよき智慧が降ってくるのである。

創作家が終日終夜、自分の心を切り刻むように苦闘して
何のインスピレーションも感じられないときに、その苦闘の心を捨てて
神に振り向き、自分の心を放ち去ったときに、
よき構想が思い浮かんで来ることは度々(たびたび)
経験されることである。

「われは我が戦いを戦えるに非ず、神のつくりたまえる歌を
神と共によろこびもて与えるなり」

というような心境になって日々生活することが必要である。

生活の遊戯三昧はこれである。

           <感謝合掌 令和2年3月28日 頓首再拝>

《わが家を天国浄土にする祈り》 - 伝統

2020/04/09 (Thu) 02:17:30


        *『 生長の家 』(昭和49年4月9日の法語)より

   【 祈り 】

   【 わたしは今、静かに神の御前(みまえ)に座して神想観を修し、
   自己に宿り給う生命の本質が“ 神 ”であることを自覚するのである。

   神われに在り給い、われ神の内にあるのである。
   内外ともに神であり、私は神と一体なのである。

   神は善であり、全智であり、全能であり、無限愛であるから、
   愛に背くもの、智慧に背くもの、善に背くものは
   何一つ此の世に存在しないのである。

   神と一体である自分が今住んでいる我が家は
   まことに“神の国”であり、天国浄土である。 】


   あなたは平和を求めるとき、調和を求めるとき、
   そして一切の不調和を消し去って、
   自分の住む世界を天国浄土とならしめたい時、
   上のごとく念ずるがよいのである。

   そして自己の全生活と、全心身とを神の中に投げ入れ、
   没入させるがよいのである。

   更に自分の家族たちに何か不完全に見えることがあるにしても、
   人間的知恵をもって、
   その不完全の存在を認めてそれを匡(ただ)そうとしないで、

   神の叡智の導きにそのまま委(まか)せ切って、
   神のおはからいにその人間又は問題を完全にお預けするとき、
   神にまさる知恵はないのであるから、どんな問題もスラスラと解決し、
   どんな人間も、神の子の実相があらわれて善化するに至るのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=125

           <感謝合掌 令和2年4月9日 頓首再拝>

声無き声を聞くためには - 伝統

2020/04/23 (Thu) 04:57:55


       *「日常生活の中の真理}(P98~99)より

自分の腹の中にごもくがあっては聞くことができない。

我をすて「無」になリ「零」になってすみきった心になってしまってしまう。

(中略)

それよりもなお大切なことは
神様があなたがたひとりひとりに「何をしてくれ」
と求めていられるかと言うことです。

「今、神様は私に何といって呼びかけているか」

と一日のうちに何度か振り返って見て

「この行いは神様が私に“せよ”と言っていられることだろうか・・」

と反省してみることです。

心の耳を澄まして神様の声を聞くようにすることです。

神想観のときに、神様があなたに呼びかける
声無き声を聞くつもりになりなさい。

 (http://igaiganet.seesaa.net/article/216042135.html より転写)

           <感謝合掌 令和2年4月23日 頓首再拝>

神の霊的囁きを直観によって聞く - 伝統

2020/05/04 (Mon) 04:18:38


       *『生活の智慧365章』
        (第1部生命の泉)第1篇(P17~18) より

《神を呼ぶ習慣》

問題がない時にも常に神を呼べ。
問題がある時にも常に神を呼べ。

神は呼ばなくとも常にあなたを取り巻き、あなたの内にあり、
あなたを導こうとしていられるのだけれども、あなたが、
神を呼ぶ習慣をつけていないと、イザというとき神の声がきこえないのである。

神は霊であるから、その御声は”霊の声”であるから、
肉の耳ではきこえないのは当然である。

常に神想観して、神を呼び神の霊的囁きを直観によって聞くことができる
練習を積んでおくことが必要なのである。

何事があっても現象は単に「結果」にすぎないのである。
「結果」ばかりをいくらいじくり廻しても「原因」を解決しておかなければ、
結果の処理によって、一時的に現象が解決しても、また「原因」の
自然的順序として同じような結果があらわれて来るようになるのである。

その「原因」解決の道は、心を神に振向けて、神の導きにより心を解決する
ほかなないのである。

           <感謝合掌 令和2年5月4日 頓首再拝>

《神の導きには時間の要素がある》 - 伝統

2020/05/05 (Tue) 04:46:22


      *「光明法語」(5月5日)より

神のみこころに対立せる祈りは決して成就しないのである。
されば問題を常に、神のみこころの中に預けることが必要である。
神は吾々の脳髄知よりも常に一層よきものを知りたまうのである。

神の「みこころの展開」(即ち神の導き)には一段一段と階段を昇って行くが
如きものがあるのである。

最初の頃は階段は低くして、到底自分の求むるものとは同じではないと思えるけれども、
それは次なる最後の階段に達するための踏段(ふみだん)となるのであるから、
急いで我を出して頭脳知でやると失敗(しくじ)る。

           <感謝合掌 令和2年5月5日 頓首再拝>

《実相から来る智慧》 - 伝統

2020/05/15 (Fri) 04:00:47


       *『生活の智慧365章』(第1部生命の泉)第2篇(P37~38) より

吾々の生命(せいめい)はその実相に於て「個」にして同時に「普遍」であって、
自他圓融一如であるから、眼耳鼻舌身より来る五感の声に耳をかさずに、
実相から来る智慧の声に耳を傾けるならば、そしてその導きに素直に従うならば、
必ず平和と調和と相互扶助との道を見出すことができるのである。

実相の導きに背反して、ただ頭脳智だけによって、自分の利益を得ようとすると、
必ず其処に摩擦や闘争を生ずることになるのである。

だから我々は常に重大なる事を行なうにあたっては、単に頭脳の智慧に従うことなく、
神想観を修して実相智の導きを受けるがよいのである。


必ずしも神想観を修しないでも、その人が、きわめて自然な
身心脱落・脱落身心のような、「そのまま」の心境である場合には、
自然に実相そのままの智慧があらわれ、現象に捉えられて
間違いをやることもないのであるけれども、

普通の場合、吾々は、眼耳鼻舌身の五官智にとらわれて、物事を判断し、
「個」の利益のみに執しようとするきらいがあるので、
色々の摩擦や争闘や不安恐怖があらわれて来るものであるから、
常に神想観を実修して、実相の智慧を呼び出すようにすることが大切である。

           <感謝合掌 令和2年5月15日 頓首再拝>

邪霊の導きに注意を - 伝統

2020/05/31 (Sun) 03:27:09


《「無念」必ずしも「無念」ではない》

          *「真理」第9巻生活篇第5章(P115~116)より

恐怖や心配や立腹や貪欲や、興奮のときに
思い浮かべた計画に碌なものはありません。

こんなときには悉く人間の浪立ちさわぐ心の波長にさえぎられて、
より高き霊的世界から来るところの、明朗にして健全な、建設的な
アイデア(想念)の波長を受信することができないのであります。

若しあなたの心が純粋で清い想念にのみ満たされているならば、
あなたは、ただ「神よ」とか「わが神よ」のただ一言(ひとこと)だけで
完全に神と感応道交することができるのであります。

それなら何も考えずに「無念」になれば、神の霊的波動が完全に受信できるか
と言いますと、必ずしも、そうは行かないのであります。

現在意識が「何も考えなくなる」だけで好いのなら、眠ってしまえば
「何も考えなくなる」のですが、潜在意識は常に何かを習慣的に考えています。

従って現在意識がただの「無念無想」になっているときには
往々にして「浮遊の霊」に感応することがあります。

・・・       

《「無念無想」以上のもの》

          *「真理」第9巻生活篇第5章(P116~117)より

其処で、「無念無想」以上のものが要求される。
或る年ロッフェと云う外人で、南洋に開教された或る教祖の伝道者である
と称して来た人があった。

その教祖は無学であるのに、凡ゆる世界の経典聖書の文句を滔々と引用して
真理を説くので誠に超人間的・神人合一の人である。

耳で聞いたり、文章を読んだりするだけでは脳髄の表層に真理が理解される
だけで、本当の真理は「魂から魂へ直伝」するほかはない、それで教祖は
教えの本を書かず、ただ一人と一人と対坐して、精神統一をして、
無念になると、既に悟っている指導師の霊が修行者の霊の実相によびかけて、
修行者の霊を目覚めしむる。

ロッフェはその教祖から直伝を受け、霊の実相のひらけた者であるから、
対坐せる相手の実相を目覚めしめる霊能を備えているから、ひとつその直伝
を受けて見て冷暖自知されるがよいと言った。

諸君はこの説をそう思うか?

・・・

《「無念無想」か「善なる神への一念不動」か》

          *「真理」第9巻生活篇第5章(P117~118)より

ロッフェは通訳と一緒に私の宅に来て右のような話をしてから、

「対坐して精神統一するときには修行者は、出来るだけ無念無想になって
何も念じない方がよい。肉体脳髄の迷っている心でいくら善い言葉を念じても、
それは、煙で煙をはらうようなもので無駄であるから、

脳髄の努力は放棄して”無念”になっていると、指導師の霊がその霊力で
心の煙をはらってくれて、修行者本来の実相(じっそう)の霊を目覚めされて
くれ百事如意になる」

と言うのである。

ロッフェと私とは暫く通訳を介して議論したのであった。

私は「ただ”無念”になって精神統一していると、自分の意識に”選波能力”
がなくなるから、どんな”迷っている霊”の感応でも受けて危険であるから、
やはり”神は無限の智慧、愛、生命(せいめい)・・・”と念じて心をそれに
集中して、それ以外の霊波には感応しないようにしている方がよい、
即ち君の霊的修行法よりも神想観の方がすぐれている」と主張した。

諸君は、どちらの説が正しいと思われますか?

・・・

《霊術を受けて霊動の起こる場合には?》

          *「真理」第9巻生活篇第5章(P118)より

ロッフェの言うところも中々論理的であって、通訳に来た其の青年は
ロッフェの説に動かされた。

そして、もう一人の生長の家の誌友と共に、ロッフェの其の無念無想流の
霊的感応霊術を受けて見る気になった。

私は其の青年に。ロッフェの感応術を受けたときに起こる状態を
参考に知らせてくれるように頼んだ。

その青年からは

「自分は眼をつぶって静かに何も考えないようにしていると、
ロッフェの何か呪文のような言葉を唱えるのが聴こえる。
そのうちに、自分自身は何をしようとも思わないのに、感電するような
ブルブルと云う顫動(せんどう)全身に起こって幾分恍惚になって来た」

と云う意味の報告が来たのである。

ロッフェは此の現象を

「修行者は何の努力もしないのに術者から修行者の霊を目覚めしめる」

と云うことに解釈して神秘がらせるのだとわかった。

諸君は斯う云う現象が起こって来たときに有難く思ってはなりません。

・・・

《修行中の大霊動は危険である》

          *「真理」第9巻生活篇第5章(P119)より

わたしは其の青年に手紙で注意してあげた。

「そう云う霊術を修行することはまことに危険である。
 無念無想になっている場合、霊的顫動(せんどう)が身体(からだ)に
 起こるのは、術者が被術者に霊的磁気を送る場合又は妖魅(ようみ)に
 感応した場合、感じられるのであって、君の内在の実相が目覚めるため
 ではないのである。

 烈しく霊動の起こる場合には術者に憑依している司配者の眷属(グループの
 霊魂)が、被術者が無念無想で、そんな選波能力を放棄しているのに乗じて、
 自由に憑依して来て霊動を起こすのである。

 その眷属の霊魂が高級の善霊なら結果がよいが、低級の迷霊(めいれい)で
 ある場合には危険であるから、そういう修行はやめた方がよい。

 キリストがヨルダン河畔で修行したとき、又釈迦が尼蓮禅河畔で修行した
 とき出て来たサタンとか、波旬(はじゅん)とか云う悪魔の霊が来て
 誘惑したと云うのは、そう云う迷霊が来て、断食水行静坐をして修行中に
 聖者に大霊動を起こしたことである。」

・・・

《邪霊に感応しないためには?》

          *「真理」第9巻生活篇第5章(P120~121)より

ところがロッフェの修行で冷暖自知するときが来たのである。
その霊的感応術を受けた通訳の青年は発狂したし、
も一人の青年は結核で倒れたのである。

断食水行静坐合掌の修行中に、何故このような霊動現象が起こるかと云うと、
断食水行の修行によって、肉体を苦しめると、その人の肉体面の比重が軽くなり、
霊的面の比重が重くなるのである。
(「比重」と云う語は比喩的に言うのであって秤で量られる目方ではない)

それによって霊肉のバランスが破れ、肉体の力がおさえられて霊的発動力が
強くなる。従って以前から其の人に感応していた諸霊(善霊のこともあれば
邪霊のこともある)が発動して霊動を起こすのである。

合掌は陰陽の霊気を交流せしめるので、其の人の生命磁気の発動を盛んなら
しめ、ラジオ・セットに電流のスイッチを入れたのと同じように、
外来の霊波に感応しやすくする。

斯う云う色々の条件で、霊波に感応し易くなっている時、無念無想で、
選波能力を失って邪霊に感応するとこんな結果に陥る。

善霊が発動する場合は稀(まれ)ではあるが、時にはあって、
その場合には、教祖的に高き真理を語ることがある。

           <感謝合掌 令和2年5月31日 頓首再拝>

《神の智慧を受け取るためには》 - 伝統

2020/06/04 (Thu) 04:58:32

       *『 生長の家 』(昭和29年5月7日の法語)より

   もし、我々が計画に智慧を欠いていたために失敗したのであったならば、
   「自分は智慧が足りない。もう駄目だ」などとは考えないで
   智慧をグングン自分に流し入れるようにしたら良いのであります。

   実際そんな事ができるかと疑う人があるかも知れませんが、
   それは何でもありません。

   宇宙には無限の智慧が満ち満ちているのであります。
   その智慧を自分に汲み取れば良いのです。

   そのためには、神想観のときに次のように祈ると宜しい。

   「神よ、私の生命をあなたが私に使命づけられた仕事のために捧げます。
   その使命を遂行するために必要な智慧を私に与えたまえ。」

   このように一心に祈ってから暫く、その智慧の流れ入るのを受けるつもりで、
   「受身」の心で静かに精神統一して待つが宜しい。

   https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2256

           <感謝合掌 令和2年6月4日 頓首再拝>

先ず神の智慧に導きを願えよ - 伝統

2020/06/14 (Sun) 04:10:10


        *『 生長の家 』(昭和26年5月16日の法語)より

一日の仕事を始むる前に、神に導きを求めてその仕事を行うようにすることは、
よき仕事を行う上に是非とも必要なことであるのである。


「 神の智慧 流れ入りて わが仕事を運ぶ道を導き給う 」 と時々瞑目して心に念じ、

神の智慧に常に接触しながら仕事を運ぶようにすると失敗はないのである。


神の智慧に接触するには、
決して複雑、多言の祈りの言葉を要するものではないのである。

神の智慧に振り向いて、
「神よ」又は「父よ」と称えて心が平和に本当に落着いて、
神の心と波長が合えばよいのである。

又、時々「日々読誦三十章経」をひらいて、その思念の言葉を念ずるも好い。

・・・


<参照>

「日々読誦三十章経」

伝統板・第二
http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6505730

谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=101

谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐「真理に就いての瞑想」
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=17


「日々読誦三十章経」の由来
http://blog.livedoor.jp/seimeinojissoh/archives/39176778.html

           <感謝合掌 令和2年6月14日 頓首再拝>

何が神の導きかの判断について - 伝統

2020/06/17 (Wed) 04:59:47


        *『 生長の家 』(昭和26年5月18日の法語)より

心に催して来ることが神の導きか、我の導きかどちらかであるかと云うことを
決定する標準と云うものがあろうかと問われることがある。

何でも自分の心に催して来ることが神の導きだと
思えば大変な間違いを演ずるかも知れない。

神の導きは、神の利己主義ではないから、
自他一体の幸福になるような願いは神の導きなのである。


自分の願いは

利己主義でないか、
愛にかなうか、

他に迷惑を及ぼさないか、
自己欺瞞(ぎまん)ではないか、

向上の道にかなうか、

反動的感情にかられていないか、
冷静な判断に因(もとづ)くものか ― 

若(も)しこれらの反省によって正しいと考えられるものは
神の導きと考えて好(よ)い。

           <感謝合掌 令和2年6月17日 頓首再拝>

神はすべての渾(すべ)て、神の叡智に導かれ、すべてを拝む - 伝統

2020/06/30 (Tue) 04:45:59


     *「光明道中記」(6月30日《問題解決・感謝の日》)より抜粋

全体を離れた自分と云うものもなければ、神から離れた自分と云うものもない。
すべて神のものである。
神以外に何ものもないのだと知るとき世界が一変する。

神がすべての渾(すべ)てであるが故に、
今、あなたは自分を空しくして神に一致するが故に、
神の叡智に導かれて失敗すると云うことはあり得ないのである。

あなたは、此の世界を「我が家(や)」と呼び、
すべての人間を慈愛深き父母兄弟と拝まなければならない。

衝突は自分を空しくしない処より起こり、
他を父母兄弟として拝まない処より起る。

           <感謝合掌 令和2年6月30日 頓首再拝>

神、われを導き給う - 伝統

2020/07/10 (Fri) 04:37:49


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月10日)より

われを導くものは神である。(これは私自身だけのことを言っているのではない)
すべての人間は「われを導くものは神である」と自覚しなければならない。

神の国に到る「道」は、自分のうちにある。
われは「道」なり ―― とイエス・キリストは言っている。

「われは真理なり、道なり、生命(いのち)なり、われによらずして神の国に到りし者なし」
とは肉体イエスのことではない。
万人の”うち”に宿る真理なるキリスト(Chrisut Ideal)のことである。

静かに瞑目してわが内に無限の叡智が宿っていることを黙然せよ。
そこから、その日その日なすべき「道」が示される。
彼は「智慧」であり、「道」であり、われらの内に宿ってい給うのである。

           <感謝合掌 令和2年7月10日 頓首再拝>

守護霊から導きを得るためには - 伝統

2020/07/27 (Mon) 03:36:22


         *Web:宇宙の兄弟たちへ(2020年7月24日)より

皆様には一人一人に守護霊という存在がいる事を聞いたことがあるでしょう。


全ての人に守護霊はいて、導きを与えています。

ただ、地上の人間があまりに唯物的であったり、エゴの殻が固い場合には、
守護霊との繋がりが切れたような状態になっていたり、
守護霊が目覚めていないような状況もあります。

唯物的で、あの世や霊などを信じない、
霊的な事は認めないと頑固になっていると、
守護霊とは繋がりが出来ていないこともあります。

正しく守護霊から導きを得るためには、まずはその存在を認める事が大切です。

目に見えない存在がいて、いつも自分を見守って入れていると信じていると、
守護霊も働きかけがしやすくなります。

まったく信じないような人、霊など認めないような人の場合には、
やはり導きにくいところがあるでしょう。

ですので、守護霊様から導きを得るためには、
まずはその存在を信じる事が大切です。

そして日々に感謝をしていると、よりその人のために働きやすくなります。

「守護霊様、いつも見守っていただいてありがとうございます」と、
このような思いをいつも持っていると、
彼らも地上にいるものを助けやすくなります。

そして進路などや何かに悩んでいる時に、
ふとその答えが浮かんでくる経験する機会も出てきます。

自分のこころの中に答えが浮かんできたり、
あるいは友達の口を通して、今求めている事が伝えられることもあります。

あるいは電車に乗っている時にふと見た広告の中にとか、
たまたまつけたテレビでの会話の中にヒントを得られることもあります。

守護霊さまが何らかの導きのためのヒントを与えられるようになります。


その時に、「これは守護霊様の導きに違いない」と分かり
「ありがとうございます」と心の中で感謝すると、
あたたかな気持ちに包まれることがあります。

これは守護霊様も分かってくれてうれしいと伝えてきているのです。

あまりエゴで凝り固まったり、不信や我欲で見ていると
曇りが生じてしまいますから、正しい導きを得られない可能性があります。

こころを透明にして、素直に導きを得られるようになってくるといいでしょう。

   (https://www.spacebrothers.jp/2020/07/blog-post_24.html )

           <感謝合掌 令和2年7月27日 頓首再拝>

「内に宿り給う神」の聖なる導きによる運命の修正 - 伝統

2020/08/12 (Wed) 06:59:32


        *『 生長の家 』(昭和32年5月22日の法語)より
          ~《神と偕にあれば災難は自然にのがれる》

   「生長の家」の誌友の中には、最初の計画を愈々(いよいよ)
   その日になって已むを得ず変更しなければならぬようになり、

   その変更がなかったら非常な災難に遭う筈だったが
   救われたと云うような実例が度々あります。

   木星号の飛行機が三原山に激突墜落した時にも、
   その飛行機に乗る筈であったのに乗らないで助かった
   山上新太郎氏のような実例であります。

   ノモハンの日ソが衝突してその日本部隊が全滅したとき、
   生長の家の一人の誌友は恰度その時、肋膜炎に罹ってノモハン進駐の
   予定の行動を止む得ず変更して入院していました。

   生長の家の信者なのに病気に罹るなんて妙だし、
   恥ずかしい事だと考えていたところが、やがて彼は病院にて、
   自分の部隊が全滅したことを知ったのです。

   若し入院していなかったら、戦線に出ていて
   全滅の仲間入りをするところだったのです。

   これなどは「内に宿り給う神」の聖なる導きによって、
   故意に運命が修正せられ、
   病気になって病院に逃避せしめられたのであったのです。

       *『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P305~306>に収載

           <感謝合掌 令和2年8月12日 頓首再拝>

【 神は最善の道を知り給う 】 - 伝統

2020/08/25 (Tue) 04:28:00


      *『 生長の家 』(昭和25年5月31日の法語)より

忙しい時程、心が落ち着かなければならない。
自分がその仕事をするのだと思ってはならない。

「 わが内に宿る神がこれをなさしめ給う 」 と

心の中に数回唱える様にしてから、仕事をするがよいのである。

わが仕事は吾(わ)が仕事ではないのであって
神がなさしめ給うのであると知る時。

それが たとい思う様に行かなくとも
神が今日これを完了せしめ給わないことが
神の み心であると悟ることによって、

仕事が完成しないでも、落ちつく事ができるのである。

汽車にのりおくれたために、危害から救われた人もある。

品物を売りそこねたために、あとから儲(もう)かる人もある。

 (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132 )

           <感謝合掌 令和2年8月25日 頓首再拝>

大生命の導き - 伝統

2020/09/13 (Sun) 02:56:53


        *「光明法語」(9月13日)より

吾らの生活が大生命の創造に歩調を合わすことをするならば、
大生命は吾々を導いてくれるに相違ないのである。

大生命はみずから大自然を創造すると共に、
大生命の自主的支点とも称すべき吾々「人間」をつくって、

「人間」かれ自身に自主独立に創造することをまかせている。

大生命は「人間」に強制することはないが、
大生命は「人間」に対して、恰も総本店のようなものであるから、
「人間」が新しき創造に際して指導をもとめるならば、
指導も惜しむものではない

           <感謝合掌 令和2年9月13日 頓首再拝>

実相界から神の導きを得る - 伝統

2020/09/21 (Mon) 04:59:36


      *『 生長の家 』(昭和32年5月9日~10日の法語)より

  《すべての「善き物」と「幸福」は「実相」から来る》

   多くの人達は、内を調(ととの)えずして、外からの栄養剤や薬物をもって
   健康を保とうとし、外物を色々と工夫して幸福を得ようとし、外的な技巧や工夫で
   繁栄を来たそうとしますけれども、それは結局不結果に終わるのです。

   何故ならそれは、「実相」(無限供給の世界)から流れ来るパイプの内に、
   その「供給」を求めずして、外に何かを工夫すれば「供給」が流れ入るだろうと
   考えているからです。

   それは喩えば、水源池から来るパイプの外から水道の水は流れてこないと同じように、
   「実相」から来るパイプ以外からは何の供給が来る筈もないからです。

   私たちは、すべての善き物を唯、
   「神」からのみ、「実相」からのみ得ることが出来るのです。

   では「神」に祈ってばかりおり、「実相」を観じてばかりおれば、
   何も行動しないでもよいかと云うと、決してそうではありません。

   では、どうすればよいか?
   考えて下さい。

    (『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P293>に収載)



   《神の智慧を頂くこと》

   私たちは本当の幸福は、
   外的な技巧や工夫によって得られるのではないと云っても、
   現象界で現象的努力をするなと云うのではありません。

   現象界でする努力が、実相界から流れ入る智慧によって、
   実相界の「完全な状態」を現象的に現像する工程として、
   自然法爾に流露して来る「自然の努力」になる事が
   必要なのであります。

   実相界からの智慧を遮断されたる「人間的工夫」ほど
   愚かなものは無いのです。
   それは賢(さか)しらに見えつつ却って失敗するのです。

   私たちの努力は自力で計らう努力でなくて、
   神の智慧が「自分」と謂うパイプを通して流れ入り、
   神の智慧に計らわれえている努力にならないと可(い)けないのです。

   即ち、計らわずして計らわれている其の儘自然のハタラキに
   ならなければ可(い)けないのです。

   先ず仕事や勉強を始める前に暫く祈って、
   神の智慧と能力を頂いてから始めましょう。

    (『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P294>に収載)

           <感謝合掌 令和2年9月21日 頓首再拝>

神の波長に合わす - 伝統

2020/09/24 (Thu) 03:45:12


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月24日)より

働いても働いても成功しないのは、
その働きの方向が、まちがった方向または無駄な方向、
あるいは、能率少ない方向に向かっているからである。

かく誤った方向にその動きが向けられるのは、
それは神の智慧に導かれないからである。

神の智慧に導かれないのは、神の心と波長が合わないからである。
神の心と波長が合わないのは、神に祈らないからである。

神に祈るということは、神の霊波に心を振り向けるということであって
感応すべき波を選ぶ選波の努力である。

祈ってもきかれないのは、
心を神に振り向けるけれども、信仰が少ないのと、
明るい心がないために神の波長に自分の心が合わないからである。

             <感謝合掌 令和2年9月24日 頓首再拝>

《霊の波動に波長を合わす》 - 伝統

2020/10/08 (Thu) 04:14:53


     *『生活の智慧365章』(第1部生命の泉)第1篇(P6~7) より

神は祈らなくても、祈っても、頼まなくても、頼んでも、
常に吾らに恵みを与えておられ、愛と智慧の光で照らしておられるのである。

放送局のテレビの放送のようなもので、テレビセットをそなえていようが、
そなえていまいが、チャンネルを合わしていようが、合わしていなかろうが、
常に恵みを霊的波動で送っていられるのである。

しかし放送局の電波の波長に合わさなければ、その波長を受け取ることができない
のと同様に、吾々が完全に神の恵みを受け取ろうと思うならば、
神の霊的波動を合わさなければならないのである。


神は”霊”であり、”物質”ではないから、神の恵みは霊的波動で出来ているので
あり、それに吾らが波長を合わしたとき、テレビの電波が形にあらわれて来るように
現象世界に形をもってオカゲとしてあらわれて来るのである。

ところがオカゲ信心では却(かえ)ってオカゲが現れて来ないのです。

何故(なぜ)ならオカゲ信心は利己的心であり、神様は利己主義でないから、
利己心が神の霊波に同調する筈はないのである。

オカゲ望まぬ心になったとき、本当に良きオカゲが得られるのである。

             <感謝合掌 令和2年10月8日 頓首再拝>

真に神に導かれる人となることが大切 - 伝統

2020/10/29 (Thu) 04:48:43


    *「光明道中記」(10月29日《断然決意の日》)より抜粋

大切なのは「神に導かれる」と云うことである。

信仰深くして、神と偕(とも)なりとの自覚を以ているばかりでなく、
真に神に導かれている人にして、機に臨み変に応じ
自由自在の叡智を有っている人でなければならない。

而もかくの如き人でも、
人の信義を裏切ることを極度に厭う人でなければ終を完うしない。

             <感謝合掌 令和2年10月29日 頓首再拝>

常に神の智慧の導きを受けよ - 伝統

2020/11/11 (Wed) 04:53:47


           *「神と偕に生きる365章」(P326~327)より
            ~あなたの内在する”天の父”について

常に神の智慧の導きを受けよ。

何事を始めるに当っても、「自分の力で念じたら顕れるのだ」と
自力一辺倒で念じたのでは、自力に限りがあるから、力の足らぬことがあり、
折角、念ずる言葉が実現しないことがあるのである。

それ故に何事を祈るにも、念ずるにも神を招ぶことを忘れてはならないのである。

”生長の家大神” 又は ”住吉大神” と神名をハッキリ呼ぶ方がよいのである。 

”生”は”時間”をあらわす縦の線であり、
”長”は”空間”をあらわす横の線である。

家は時間・空間十字交叉の現実宇宙をあらわすのであって、
生長の家大神とは宇宙の大神であり、黙示録第一章にあらわれたる 
”永遠のキリスト” である。

神名を称えてから念ずるならば、それは《自力の祈り》とならないで、
神と倶に祈ることになるのであるから、その祈りの実現力は非常に強力なのである。


キリストとは一人の人間の固有名詞ではないである。

それは”宇宙本源の救世主”であり、イエスに宿っていたところの”天の父”であり、
イエスが「我れみずからにて何事をも為し得ず、天の父われに宿(いま)して
御業(みわざ)を成さしめ給うなり」といったところの”天の父”である。

それは”天の父”であるから、イエスのような若い姿ではなく、
また瘠(や)せさらぼうた繊弱な姿でもない。

それは白髪の老翁なる”父”の姿であり、
永遠に強健なる体躯のイメージをもって顕現せられるのである。

使徒ヨハネは小亜細亜のオアトモス島に流謫(りゅうたく)せられているとき、
祈りのうちにその姿を見て、黙示録の第一章にその姿を描いたのである。

この永遠のキリスト(永遠の救いの根源者)は常にあなたの内にあって、
あなたを護り導いておられるのであるが、ある特殊の問題についてお伺いするならば、
特にそれについての導きがあるのである。

             <感謝合掌 令和2年11月11日 頓首再拝>

程よい温かさと水の如き柔らかさの中に神の導きがある - 伝統

2020/11/29 (Sun) 05:06:26


     *「光明道中記」
      (11月29日《心、水の如く柔らかくなる日》)より

【生命は常に生きている。吾々の生命は進んで行く、停止はない。
                       (『百事如意』)】

生きているものは温い。

あまり熱くても生命は死に、あまり冷たくても生命は隠れる。
激しすぎてもならないし、熱し過ぎてもならないし、
冷たすぎても、無頓着過ぎてもならないのである。

調和した温かさこそ必要である。
激せず、熱せず、冷たくもならず、
程よく温かいところに生命は大きく顕れる。

天は高きを以て低きを埋める。
水は上より下を満たし、山は崩れて低地をうずめる。

自然は《ひとり》高からんとする者を崩して
低く謙(へりく)れるものに与えんとするのである。

だから高からんことを願わずして、低きに与えんとするものは
却って天の道に護られて力が強いのである。

水は低きにつこうとするが故に力が強い。
水は柔かであるが故に力が強い。

水が若し硬ければ蒸気となって諸種の機関を動かすことが出来ない。
水が若し硬ければ滝となって降ることが出来ない。
水が若し硬ければ落差によって水力電気を起すことは出来ない。
水が若し硬ければ蒸気になって空中に飛び上がることは出来ない。

水の偉大さはその柔かさにあり、人間の偉大さも亦(また)柔かさにある。

          <感謝合掌 令和2年11月29日 頓首再拝>

《良心は汝にやどる神の囁(ささや)きである》 - 伝統

2020/12/02 (Wed) 03:22:16


       *『 生長の家 』(昭和25年7月18日の法語)より

   常に高尚なる理想のみを描け。

   心にかえりみて
   これは卑しいと思うものに
   心をふりむけてはならない。

   汝の魂が何が尊いかということを
   よく知っているのである。

   汝の内なる魂のささやきを
   無視してはならない。

   神は 汝の魂の内にあるのである。
   良心は 汝の魂の内なる神のささやきである。

   高き理想は 汝の内にやどる神のみこころである。

   良心をくらますものは
   汝の魂をくらますものである。

   常に高き理想を描きて邁進(まいしん)するものは、
   常に神につかえている者である。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12

          <感謝合掌 令和2年12月2日 頓首再拝>

《霊の波動に波長を合わす》 - 伝統

2020/12/15 (Tue) 05:01:03


       *『生活の智慧365章』(第1部生命の泉)第1篇(P6~7) より

神は祈らなくても、祈っても、頼まなくても、頼んでも、
常に吾らに恵みを与えておられ、愛と智慧の光で照らしておられるのである。

放送局のテレビの放送のようなもので、テレビセットをそなえていようが、
そなえていまいが、チャンネルを合わしていようが、合わしていなかろうが、
常に恵みを霊的波動で送っていられるのである。

しかし放送局の電波の波長に合わさなければ、その波長を受け取ることができない
のと同様に、吾々が完全に神の恵みを受け取ろうと思うならば、
神の霊的波動を合わさなければならないのである。


神は”霊”であり、”物質”ではないから、神の恵みは霊的波動で出来ているので
あり、それに吾らが波長を合わしたとき、テレビの電波が形にあらわれて来るように
現象世界に形をもってオカゲとしてあらわれて来るのである。

ところがオカゲ信心では却(かえ)ってオカゲが現れて来ないのです。

何故(なぜ)ならオカゲ信心は利己的心であり、神様は利己主義でないから、
利己心が神の霊波に同調する筈はないのである。

オカゲ望まぬ心になったとき、本当に良きオカゲが得られるのである。

          <感謝合掌 令和2年12月15日 頓首再拝>

良きメンターを心の中に持つ - 伝統

2020/12/29 (Tue) 04:45:15

人生の難問に答える良きメンターを心の中に持つ事の霊的意味

       *Web:宇宙の兄弟たちへ(2020.12.16)より

人生でなかなか答えのでない難問にぶつかったり、
こうした時はどうすればいいのか?と迷う時もあるはずです。

たとえば今はコロナで経営が厳しいですから、
経営者の方は今後どうすべきか頭を抱えている事でしょう。

そうした難問にぶつかった時には、
良きメンターをこころに持つ事です。

メンターとは、よき助言者であり、
心の支えとなる人物、人生の師匠などです。

もちろん生きている人物でそうしたメンターを持つ事も大切ですが、
今回はそうではなくて心の中に持つメンターです。

つまり実際にお会いしたり、指示を仰げる方とは限らず、
自分が尊敬している人物で、この人だったら適切な判断を
してくれるに違いないと考える人物です。

こころのメンターは、何も今生きている人物でなくてもいいのです。

すでに亡くなられている方でも、
尊敬できる方を心のメンターにしていくとよいでしょう。

会社勤めをしていても、
どのような判断を下せば迷う時もありますし、
女性であればどのような男性と付き合えばよいのかと
迷う時もあるでしょう。

そうした時に、心の中で相談できる相手をつくるのです。


たとえば経営についてであれば、
経営の神様と言われた松下幸之助さんに心の中で相談して、
「もし松下幸之助さんであればどう判断するだろうか?
何と答えてくれるだろう」と想定します。

そうするとこころの中で答えが浮かんでくる事があります。

実は、心の中で問いかけていると、
霊的な存在が感知して答えを降ろしてくれることがあるのです。

ご本人そのもととは必ずしも行かなくても、
それに近い人物が、何らかの導きを与えてくれる事があります。

これは一般的に守護霊さまではなくて、
指導霊さまという呼び方をします。

守護霊様は、あなたの事を見守る家庭教師のような存在ですが、
指導霊様は専門分野を指導する教官のような方です。

人にはそれぞれ得意不得意がありますから、
学校の授業でも、数学が得意な先生もいれば、
日本史が得意な先生もいるでしょう。

そのように個別の問題について得意な方がいます。

霊的にも同じように、得意な分野をもつ指導霊様はいらして、
その指導を受ける事で適切な判断を下せることがあるのです。

その時に、心の中で思い浮かべるのは、
その分野の問題に適切な回答をしてくれそうな方を
イメージすることです。

経営の事であれば、先ほど述べた松下幸之助さんなどが
いらっしゃいますが、逆に勉強について幸之助さんに相談しても
あまり分からないかも知れません(笑)


その人それぞれに得意としている分野がありますので、
それから外れた問題についてはイメージして相談しても、
的外れな回答になるかも知れないので避けた方がいいでしょう。

そしてメンターとして思い浮かべる方は、
その方の生き方が模範となるような人物で、
理想とする生き方をされた方がいいです。

有名人や偉人の方であっても、
悲惨な人生を歩んだり、
最後は自殺される方などもいらっしゃいます。

そういう方をメンターとして持っていると、
自分もそうした方向に進んで行く可能性があるため、
気をつけた方がいいでしょう。

考え方も優れているとともに、
人生も素晴らしい理想とするような方を
メンターとして持たれた方がいいです。

そうした方を心の中に思い浮かべて、
目の前にいると思って相談してみるのです。

するとどのような答えをしてくれるか受け取って見ましょう。

自分では思いつかないような
意外な答えが浮かんでくるかもしれません。


まずはどのような方を理想とし、
メンターとする人物を決めてください。

出来たらその方に関する情報になるべく触れるのがいいでしょう。

その方の伝記や関連する本などが出ているのであれば、
そうしたものに長く触れておきます。

すると相手の方の霊と繋がりが深まってきますので、
ご指導を頂ける機会も出来てくるでしょう。

迷った時には一度試されてみる事をお勧めします。

  (https://www.spacebrothers.jp/2020/12/blog-post_16.html

          <感謝合掌 令和2年12月29日 頓首再拝>

《神霊に導かれて》 - 伝統

2021/01/14 (Thu) 02:59:59


        *「光明法語」(1月14日)より

今日吾が内に神の霊みちたまう。
吾が肉体にも吾が周囲に起る事件にも神の霊みちたまう。
それを今更の如く感ずるのである。

わが肉体を生かしたまうものは神の霊であり、
わが周囲を動かしたまう者も神の霊である。

わが肉体は今新たな新鮮なる活力を得つつあるのであり、
わが周囲に起る事件は神の智慧に導かれて
実に清らかに進行しつつあるのである。

われは周囲に何事が起って来ようとも思い煩うことはないのである。
何故なら、それは神の智慧に導かれていて
万事がよくなるほか致し方がないからである。

          <感謝合掌 令和3年1月14日 頓首再拝>

《内界と交通する法》 - 伝統

2021/02/21 (Sun) 02:47:23


        *『生活の智慧365章』(第1部生命の泉)
           第1篇(P21) より

日常生活の動きの世界に我々が翻弄せられている限りに於ては、
色々の出来事の、あれこれへと常に心が乱動して、
外界に振り廻される生活ばかりになってしまって、
自己の内界との交通が杜絶(とぜつ)するために、

内界の叡智からの導きを受けることができないで、
思わぬ失敗や災難に出遭うことがあります。

吾々は一日のうち30分間位は是非とも「静坐」して、
外界の色々の事件や状態からの暗示及び誘惑から離れ去り、
内界と直通する道を常に開いて置くことが必要であります。

それには神想観を毎日1回又は朝夕実修することが大変効果があります。

坐禅のような修行も効果があります。

          <感謝合掌 令和3年2月21日 頓首再拝>

《霊の波動に波長を合わす》 - 伝統

2021/03/07 (Sun) 04:18:56


        *『生活の智慧365章』(第1部生命の泉)
            第1篇(P6~7) より

神は祈らなくても、祈っても、頼まなくても、頼んでも、
常に吾らに恵みを与えておられ、愛と智慧の光で照らしておられるのである。

放送局のテレビの放送のようなもので、テレビセットをそなえていようが、
そなえていまいが、チャンネルを合わしていようが、合わしていなかろうが、
常に恵みを霊的波動で送っていられるのである。

しかし放送局の電波の波長に合わさなければ、その波長を受け取ることができない
のと同様に、吾々が完全に神の恵みを受け取ろうと思うならば、
神の霊的波動を合わさなければならないのである。


神は”霊”であり、”物質”ではないから、神の恵みは霊的波動で出来ているので
あり、それに吾らが波長を合わしたとき、テレビの電波が形にあらわれて来るように
現象世界に形をもってオカゲとしてあらわれて来るのである。

ところがオカゲ信心では却(かえ)ってオカゲが現れて来ないのです。

何故(なぜ)ならオカゲ信心は利己的心であり、神様は利己主義でないから、
利己心が神の霊波に同調する筈はないのである。

オカゲ望まぬ心になったとき、本当に良きオカゲが得られるのである。

          <感謝合掌 令和3年3月7日 頓首再拝>

行き詰った時にはこうせよ - 伝統

2021/03/08 (Mon) 03:10:38


           *「光明法語」(3月8日)より

何事でも行き詰まったならば、
その仕事を行き詰まったときの焦燥の感じで続けてはならないのである。

しずかに眼をつぶって、「宇宙の本源」に帰ることである。

言い換えれば、

「神はすべてであり、神は調和であり、完全であるから、
不調和な出来事は決して存在しないのである。
この見せかけの不調和は太陽の前の雲霧のように、
もう間もなく晴れるのである。心配はいらぬ」

と数回思念し心を整えてから仕事を始めるのが好いのである。

紛失物をさがす時にも心を整えてから探すが好い。

          <感謝合掌 令和3年3月8日 頓首再拝>

《幸福の国に第一歩を印(しる)して》 - 伝統

2021/03/26 (Fri) 02:17:27


          *「眞理」第2巻基礎篇第1章(P14~15)より

吾々が「病気」のことを全然思わなくなったとき、
「健康」を実現する第一歩に入ったのである。

吾々が「貧乏」のことを全然思わなくなったとき
「富裕」の門に第一歩を踏み入れたのである。

吾々が失敗のことを全然思わなくなったとき
「成功」の国に第一歩を印したのである。

しかし第一歩だけであっては完全と言うことはできない。

吾々は行動の方向を変えなければならないのである。
行動の方向を正(ただ)すには神の智慧が必要なのである。

「稼ぐに追いつく貧乏なし」の諺(ことわざ)は
既に古いのである。

稼いでも稼いでも貧乏に追っつかれるのは、
その行動が神の智慧に導かれず、
貧乏小路(びんぼうこうじ)を迂路(うろ)ついているからである。

やはり神想観又は神によって神へ自分の心の窓を開くことが必要である。

          <感謝合掌 令和3年3月26日 頓首再拝>

神秘な力は存在する - 伝統

2021/04/20 (Tue) 04:44:06


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月20日)」より

イタリヤの彫刻家チェリーニは
ある事件で法王のためにサン・アンジェロ城に禁錮せられた。

彼は悲しんで自殺しようとした瞬間、
ある不思議な見えない力が突然彼の身体(からだ)を
捉えて一間ばかり投げとばしたので、チェリーニは気絶した。

その晩、夢に不思議な青年が現われてチェリーニに自殺を思い止まるように説教したので、
チェリーニはついに自殺を思い止(とど)まったのだという。

神秘な力は存在するものなのである。
唯物論では、生命の世界はわからない。

            <感謝合掌 令和3年4月20日 頓首再拝>

《神の導きには時間の要素がある》 - 伝統

2021/05/05 (Wed) 04:50:50


       *「光明法語」(5月5日)より

神のみこころに対立せる祈りは決して成就しないのである。
されば問題を常に、神のみこころの中に預けることが必要である。
神は吾々の脳髄知よりも常に一層よきものを知りたまうのである。

神の「みこころの展開」(即ち神の導き)には一段一段と階段を昇って行くが
如きものがあるのである。

最初の頃は階段は低くして、
到底自分の求むるものとは同じではないと思えるけれども、
それは次なる最後の階段に達するための踏段(ふみだん)となるのであるから、
急いで我を出して頭脳知でやると失敗(しくじ)る。

            <感謝合掌 令和3年5月5日 頓首再拝>

心を落著(おちつ)けよう - 伝統

2021/05/24 (Mon) 04:56:53


          *「眞理」第2巻基礎篇第14章(P375)より
            ~《此処に処世の秘訣がある》

或る人が或る難問題に行き当ってその解決の道が見出されないので
悩みながら道を歩いておりますと、
交通整理の十字街(よつかど)にやって来ました。

交通巡査が立っていて、其処に、

「止れ、よく見て、心を落ち着けて」

と云う交通整理の看板が建っていました。

彼は立ち佇(どま)りました。
そして周囲をよく見て、心を落著(おちつ)けました。

「そうだ、自分は無暗に歩いては可(い)けない。
 自動車に轢(ひ)かれるかも知れない」と思いました。

其の時、彼の心が変ったのです。
彼は気がついたのです。

彼は

「自分の人生を無暗に歩いて来た。
 自分はよく周囲を見ないで急いで歩いていたのだ。
 もっと心を落著(おちつ)けよう。
 そして神様の智慧の導きを受けて最初から再出発するのだ」

と思いました。

此処に処世の秘訣がある。

            <感謝合掌 令和3年5月24日 頓首再拝>

心を澄まして天の声に耳傾けよ - 伝統

2021/06/04 (Fri) 04:45:36


    *「光明道中記」(6月4日《天の声を聴く日》)より抜粋

【念は「無」を材料として地上に様々の相を現す働きをなす。
                  (『生命の實相』第十一巻)】

心を澄まして天の声に耳傾けよ。
天の声は必ずあなたを導くであろう。

天の声の導きにゆだねるとき其処には嶮しきは平かとなり、
不調和は調和となり、苦しみは楽しみに変わり、
煉獄の火は天国の芳葩(はなびら)に変ずるであろう。

さればこそ試練は本来存在しなかったのである。

みずから好んで天の声を聴かず、
実在の調和ある相(すがた)から離れるようにしている状態が
試練であるに過ぎない。

            <感謝合掌 令和3年6月4日 頓首再拝>

神の導きを受けて生活を出発する - 伝統

2021/06/22 (Tue) 04:50:48


        *『栄える生活365章』(P19)より

毎朝、30分間を神想観の時間として神と対坐せよ。
神を自己の内に招じ、神を自己の指導者とし、
神の導きを受けてその日の生活を出発せしめよ。

毎朝の、神と偕に坐す30分間は、決して無駄に失われることなく、
神の導きを受けて生活する一日は、常に平安に、憂えなく躓きなく、
悦びと感謝に満たされて、何事もスラスラと順潮に事がはこび、
健康と繁栄とは結局あなたのものになるに相違ないのである。

神を自己の内に招(しょう)じて、
神を顧問として生活が行われるとき、
自分自身のすべての物事に対する考え方や観方が異なってくるのである。

そして自分自身の考え方が異なって来るとき、
“外界の事物”の動きが変わって来るのである。

結局“外界の事物”は本当は外界にあるのではなく、
自分の心の反映に過ぎなかった事が判ってくるのである。

そして、険(けわ)しき道は平らかとなり、難事は解決し、
すべては円滑に事がはこび、調和おのずから備わる事になるのである。

            <感謝合掌 令和3年6月22日 頓首再拝>

神、われを導き給う - 伝統

2021/07/10 (Sat) 04:18:27


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月10日)より

われを導くものは神である。
(これは私自身だけのことを言っているのではない)
すべての人間は「われを導くものは神である」と自覚しなければならない。

神の国に到る「道」は、自分のうちにある。
われは「道」なり ―― とイエス・キリストは言っている。

「われは真理なり、道なり、生命(いのち)なり、
 われによらずして神の国に到りし者なし」
とは肉体イエスのことではない。

万人の”うち”に宿る真理なるキリスト(Chrisut Ideal)のことである。

静かに瞑目してわが内に無限の叡智が宿っていることを黙然せよ。
そこから、その日その日なすべき「道」が示される。
彼は「智慧」であり、「道」であり、われらの内に宿ってい給うのである。

         <感謝合掌 令和3年7月10日 頓首再拝>

《「静(せい)」の中にこそ解決はあるなり》 - 伝統

2021/07/22 (Thu) 04:37:36


          *「眞理」第2巻基礎篇第14章(P376~377)より

心が何かの事件に引っかかって動きがとれなくなったようなときには、
先ず其の引っかかっている問題から心を放してしまう事が
その事件の真相を《ありのまま》に見る心の準備の第一であるのである。

吾々が物を捜していくら抽斗(ひきだし)を引っ掻き廻しても
見つからないときに、神想観をして心を静かにしてから
《ふと》立ち上がって或る場所に行くと、その捜していたものが直ぐ其処にある
 ―― と云うような実例が随分あるものである。

失(う)せ物だけではない。
すべての紛糾した事件はその解決法が「探し物」の一種である。

問題は解決されるためにあるのだから,解決法は必ず《ある》のである。
ただそれが見つかりにくいだけである。

解決の鍵は心を平和にして「静」の中にその問題をあづけるのだ。

         <感謝合掌 令和3年7月22日 頓首再拝>

大生命の導き - 伝統

2021/09/13 (Mon) 04:54:13


       *「光明法語」(9月13日)より

吾らの生活が大生命の創造に歩調を合わすことをするならば、
大生命は吾々を導いてくれるに相違ないのである。

大生命はみずから大自然を創造すると共に、大生命の自主的支点とも称すべき
吾々「人間」をつくって、「人間」かれ自身に自主独立に創造することをまかせている。

大生命は「人間」に強制することはないが、
大生命は「人間」に対して、恰も総本店のようなものであるから、
「人間」が新しき創造に際して指導をもとめるならば、指導も惜しむものではない。

           <感謝合掌 令和3年9月13日 頓首再拝>

《危急の場合に於ける救い》 - 伝統

2021/10/12 (Tue) 05:04:18


        *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P254~255)より

神想観を深めて、その人の生命(せいめい)が、
大生命の波長と一体になっている者は、危急の場合、
人間脳髄の働きでは突然どうしたら好いかわからぬような時にも、
大生命の指導があるのである。

長野市で昭和27年10月に講習があったときに、
松代町の依田作四郎さんは、或る日、汽車(列車)に乗りおくれて
動き出した処を飛び乗って、列車の箱と箱との間に墜落したのだったが、
もう轢(ひ)かれたと思った瞬間に、何者とも知れぬ不思議な力に支えられて
プラットホームに跳(は)ね上げられていた。

ズボンの尻のところは一尺ばかり切りとられてなくなっていたが、
自分の体は微傷だも負っていなかったと云う。


又、人を救うために、教えを伝えていると、
大生命の救済力と一つになるから不思議なお蔭を得(う)ることがある。

長野市の金子廣只(ひろただ)氏は自分の娘文子(ふみこ)が
先天性股関節の脱臼で両脚ともガニ股で歩いていたが、
時間の許す限り一心に生長の家の教えを伝えていると、
一作々年の夏、気がついてみると文子は真直ぐに歩いていたのである。

           <感謝合掌 令和3年10月12日 頓首再拝>

《先ず心の眼(まなこ)を開(ひら)け》 - 伝統

2021/11/12 (Fri) 05:01:06


       *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P215)より

見るためには観なければならないし、
聞くためには聴かなければならないのである。

見ると聞くとは肉体の問題であるけれども、
「観る」と「聴く」とは心の問題である。

心を澄まし心の眼(まなこ)をひらいて
天の声に耳を傾けることが必要なのである。

心の眼(まなこ)を開けば到る処に
神の祝福が充ち満ちているのを見出すことが出来るのである。

多くの人たちは色盲と同じように、
実際にある恩恵の全部を視ることが出来ないで、
この世界を不完全に視ているのである。

汝の心の眼(まなこ)を開き、汝の心の耳を開(ひら)け、
其処に天国浄土が実現するのである。

           <感謝合掌 令和3年11月12日 頓首再拝>

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