伝統板・第二

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陳(ふる)きものおのずから謝(さ)る(光明掲示板・第二)) - 伝統

2019/11/25 (Mon) 19:28:19

光明掲示板・第二 消滅により、
『陳(ふる)きものおのずから謝(さ)る』の伝統板・第二への再掲示です。


《気尚(けだか)く生きよう!》

      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月1日)より

もっともっと気尚(けだか)く生きよう。
最も気尚(けだか)いことのほか何事も考えまい、
最も気尚(けだか)いことのほか何事も為すまい。

他(ひと)を助けよう、
他(ひと)のためになろう。
他(ひと)に愛を注ごう。
愛を注げば
愛が自分に還(かえ)って来る。

悪い人というのは本来一人もない、
地獄というものも決してない。
悪いことがそこに語られるとき
そこが地獄であり、
それを語る人が悪い人である。

汝の世界に天国浄土を実現せんと欲するならば
決して人の悪を語るな、
決して人の悪を思うな、
天国を目指しつつ人の悪を語るものは
必ずや穽(おとしあな)に陥(おちい)って地獄へと墜落せん。

            <感謝合掌 平成25年12月1日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月25日 頓首再拝>)

本質は光り輝いている - 伝統

2019/11/26 (Tue) 13:28:28

      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月2日)より

ここに1個の高貴なダイヤモンドがあるとする。
それが人の邪念に涜(けが)されなかったら、それはそのまま貴いのである。

ダイヤモンドの美はそれ自身で貴い。

が、それをある人に示したとき、
甲は、「今頃こんなものを指につけていたら贅沢だと言われるだろう」と言った。
乙は、「わたしがつけていたら、どうせあれは贋(まが)い物だろうと人が言うでしょう」と言った。
丙は、「わたしがそれをつけていたら、どこかできっと盗んで来たんだろうと人が言うでしょう」と
言った。

甲はそれに「贅沢」という名をつけ、乙はそれに「贋(まが)い物」だという名をつけ、
丙はそれに「盗み」という名をつけたのである。

かくして無上の価値を持った宝石も、心なき人の手に触れるとき、それはすでに宝石でなく、
「贅沢」となり、「贋(まが)い物」となり、「盗み物」となったのである。

しかし、これらの批評にかかわらず、
ダイヤモンドは依然としてそれ自身の光輝をもって輝いているのである。

            <感謝合掌 平成25年12月2日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月26日 頓首再拝>)

真理は裁きの材料ではない、真理はそれ自身で尊い - 伝統

2019/11/27 (Wed) 14:29:53


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月3日)より

どんな善いことが書いてあっても、それが自分の魂を養う糧だとして受け取ることが
できない人は気の毒な人である。

甲は曰く、「これは乙を誡(いまし)めるために書いてあるのだ。乙の野郎奴(やろうめ)、
先生に誌上でやっつけられている、よい気味だ。」

乙は曰く、「これは甲を戒(いまし)めるために書いてあるのだ。甲の野郎奴(やろうめ)、
この文章を見て反省するがよい。」

こんな心境で読んだら、どんなよい教えでも人を争わす種になるばかりである。
わたしはただ真理を書くのみであって、何人(なんぴと)をやっつけるために書いている
のではない。

真理はそれ自身で尊いのである。

            <感謝合掌 平成25年12月3日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月27日 頓首再拝>)

真の宗教とは - 伝統

2019/11/28 (Thu) 12:46:42


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月4日)より

真の宗教は、生を明らめ、生きる道を明らかにし、
人間の生活をして真に幸福ならしめるところのものである。

真の宗教はけっして教会や寺院で勝手に定(さだ)めて、
それを信者に強制する教条や規則ではないのである。

その意味において、かえって職業宗教家よりも、自由思想家、むしろ無宗教家と言われている人の
側に真の宗教を体得した人々があるということができるのである。
真の宗教はいわゆる宗教家の独占ではないのである。

真の宗教家はみずから真理を実践し、みずから真理の生活をいとなみ、自己の生活に真理を
実現し、神の智慧と愛と生活とを具象化するものでなければならない。

人生の行路にはいろいろの迷える人が満ちている。そして苦しんでいるのである。
ある人は病に苦しみ、ある人は経済苦に苦しみ、ある人は家庭不調和に苦しむ。
真の宗教家はかかる人々に面していかなる態度をとるべきであろうか。

彼らと同一水準に降り来たって一緒に同情の涙をかき垂れて号泣すべきであろうか。
それとも物質的な施しを与えて彼らを一時的に救うべきであろうか。

イエスはラザロの死せるを見たとき、同情の涙を流したことが聖書に書かれている。
しかしいつまでも彼は泣いていなかったのである。
「死せるにあらず、寝(い)ねたるなり」と彼は言った。

同情して涙を流すは現象面のことである。
現象面にいつまでもわれわれは執(とら)えられていてはならないのである。

直ちにひるがえって実相健全の姿を見るとき、かえってその相手は復活し救われるのである。

またイエスは病にて脚(あし)の立たぬ病人にただ「起きて床をとり上げて歩め」と言っている
のである。「ああかわいそうに! 」と言って、一緒に倒れふし泣き濡れて動けなくなっている
のではないのである。

すべての人間は神の子であるから、「起きて床を取り上げて歩む力」を持っているのである。
倒れているのは「迷い」の具象化にすぎないのである。「迷い」に同情してはならないのである。

その「迷い」を見ず、「起(た)ちて歩みうる実相」を直視して、
その力を引き出すのが真の宗教家の使命であるのである。

真の愛と「苦痛を倶嘗(ともな)め」とは異なるのである。
苦痛に同悲して相手と一緒に墜落して泥まみれになるのは真の宗教家のつとめではないのである。

            <感謝合掌 平成25年12月4日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月28日 頓首再拝>)

神への恩返し - 伝統

2019/11/29 (Fri) 14:12:57

      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月5日)より

ただ真理のみを語れ。
多言なるべからず。
多言なれば調子にのりて虚偽を語ることあるべし。

ただ優しき言葉のみを語れ。
烈(はげ)しき語調の言葉は深切より出ずる場合にも、
憎悪をもって語らるる言葉なりと誤解せられることあり。

心のうちにでも言葉に現わしても、行ないにあらわしても、人を傷つけてはならない。
誠実であれ。虚偽であってはならない。
素直に、直截に、かまえることなく、そのままの心で生活し、行ない、言わねばならぬ。

値いなしに受けようとしてはならぬ。
肉体の汗か、心の汗か、金銭か、物質的な贈物か、いずれにせよなんらかの値いを払って受けよ。
値いなしに受けたものは、いつかは奪い返されることがある。

自己の生活が気高き基礎に立つかどうか省みよ。

なんじの生活を、愛と赦しと忍耐との上に築きて、怒りと憎みとを常に支配せよ。
怒りと憎みととは神と汝とを隔てる最も大なる敵である。

常に朗らかであれ。
不快なこと、争いのこと、憎むべきこと、人の悪しきことを忘れ去れ。
忘れ上手が光明生活の第一歩である。

恩を忘れてはならない。
恩を忘れる者は根を培わない樹木の枝のごとく、
一時(じ)は生け花のごとく美しくともやがては枯れてしまうのであろう。

人に深切をつくすのが、最善の宗教である。
ただ説教師になってはならないのである。

1日、1回以上、できるだけ自分の利益にも何にもならないことで、
純粋に他(ひと)のために尽くせ。純粋で無我でつくすこと自体が神に通ずる祈りである。
無我の愛でささげたる奉仕は神に献(ささ)げたことになるのである。

自分の収入の2分(ぶ)ないし1割で、自分の救われた教えを広めるために真理の小冊子を買って
無代進呈することは神に対する恩返しとなる。与えただけが与え返されるのである。

・・・・

別の掲示板によると、この言葉の初出は、
「昭和25年3月 『生長の家』誌巻頭言」となっております。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/9

            <感謝合掌 平成25年12月5日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月29日 頓首再拝>)

自分が自分の環境の中心者 - 伝統

2019/11/30 (Sat) 14:01:33


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月6日)より

自分が自分の環境の中心者とならなければならない。

周囲によって自分が攪乱(こうらん)せられるようなことではならぬ。
周囲が悪いから自分が苦しいなどと言うな。
かくのごとく言う人は、何たる卑怯な奴隷根性なんだろう。

周囲というがごとき自分から独立せるものはない。
自分の周囲に関するかぎりは、自分が存在の中心者なのである。
まずなんじが自身の自覚を屈従せしめて、周囲がなんじを屈従せしめるのである。

奴隷となるな、屈従するな、ただし、これは剛性(ごうじょう)になれということではない。

素直に周囲の事情を感受するすることは、周囲を支配する王者となる道である。
噛みしめればどんなものにも味が出る。
周囲に攪乱せしめられるとは、落ちつきを失って、周囲の味を噛みしめ味わいえないことである。

            <感謝合掌 平成25年12月6日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月30日 頓首再拝>)

熟慮、断行せよ - 伝統

2019/12/01 (Sun) 18:49:39


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月7日)より

常に落ちついて、周囲と自分の立場を見定めた後(のち)、行動の方向を定めたら、
その方向に一路邁進しなければならぬ。

いったん決意した以上は、右顧左眄することが禁物である。
ひとの中傷にまどわされるな。

            <感謝合掌 平成25年12月7日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月1日 頓首再拝>)

神話・歴史というものは - 伝統

2019/12/02 (Mon) 12:46:56


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月8日)より

歴史というものが正確なのは、その記述された事柄に寸分のまちがいがないということではない。
豊太閤の朝鮮征伐、小早川隆景の奮戦、上杉謙信・武田信玄の川中島における一騎打ちなど、
誰も実際に見ていたわけではない。

何年何月にこんなことがあったというような大ざっぱなことはまちがいないかもしれない。
しかし些細な点ではいずれも事件の上から言えばまちがっているはずである。

昨日(きのう)の出来事を今日(きょう)書くということすら、
強調や省略が必然加わらねばならぬので、実際の出来事とははなはだしく遠ざかる。

それは画家がカンパスに収めるためにいかに景色を「切る」かの問題に似ている。
それは「切り取る」ことによって、あるいは色彩の強調によって、実物とははなはだ
遠ざかった形となりながら、かえって実物が描かれているのである。

神話と歴史はそうした意味において、実際にあった事柄とははなはだしく異なっていながら、
かえって実物が描かれているのである。神話と歴史は民族の理想でありながら、実際とは
相異しながらでも、より多く実物であるのである。

            <感謝合掌 平成25年12月8日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月2日 頓首再拝>)

無我になる - 伝統

2019/12/03 (Tue) 13:39:38


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月9日)より

まずわれわれは無我にならなければならない。
無我のみ「神の聖旨(みこころ)」を受け、神のもち給ういっさいがわがものとなるのである。

無我は「ゼロ」であって、同時に「すべて」である。

「我(が)」を放さないとき、その程度に「応じて、神の光は蔽(おお)われるのである。
「我(が)」とは、たとえば窓ガラスの埃のようなものである。

            <感謝合掌 平成25年12月9日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月3日 頓首再拝>)

「光明」と「全托」 - 伝統

2019/12/04 (Wed) 16:20:52


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月10日)より

「神」より確かなものはない。
「神」からすべてのものが与えられないのは、「光明」に転向していないか、
その頼りかたが「全托」の境地に達していないからである。

「光明」に転向せずして、「神」にまかせている者も与えられないし、
光明に転向しても、自分でいろいろ小知才覚を弄(ろう)するものも与えられないであろう。

            <感謝合掌 平成25年12月10日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月4日 頓首再拝>)

「そのまま」 - 伝統

2019/12/05 (Thu) 15:43:05


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月11日)より

「そのまま」ということは、宗教上最も深い意義をもっていることであって
魂の発達向上のためにぜひとも必要となるところの条件なのである。

「そのまま」とは工夫巧者を含まないという意味でもある。
虚飾を用いないという意味もある。
老子は樸(ぼく=アラギ)という字を使っているがそのまま素樸(そぼく)なることである。

神社の建物のように、上面(うわづら)から色彩を塗らずそのままであるという意味である。
贅沢や、虚栄を廃して両舌(りょうぜつ)綺語(きご)を用いないことでもある。

われわれは実相という文字を書いてそれに「そのまま」とふりがなをつけることがある。

英語ではシンプリシティ(simplicity)という語を用いる。
直訳すれば単純という意味になるがそれだけでは少し意味が浅いのである。
単純ということは、物が複雑に進化していないという意味があって深さが足りない感じがする
のである。

「そのまま」という語はもっと深いのである。
切り出した材木のそのままの切り口にそこの深い所からそのまま美しい木目が脈々と
見えるような深い味わいをもっているのである。

そのままの生活をなしうる人は聖者である。
なかなかそのままの生活には普通の人はなりきれない。

人がみている前では何かきまりが悪い想いがする。
足がしびれても投げだすのが気がねな気がする。
もっと行儀のよい自分であるとみせたくなる。
坐っていても足のくたびれがまことに常人以上に鍛錬を経た作法上手に見せたいのである。

ある人は自分のもっている富よりももっと富んでいるように見せたがる。
ある人は自分の学の足りないのをいかにも学者ぶろうとして未熟な新語や、
生硬(せいこう)な外来語を使ってみせたりする。
ある人は若く見せようとして白髪を染める。

どの行為にもあまりぴったりしないものが感じられる。
ぴったりするのがそのままなのである。

            <感謝合掌 平成25年12月11日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月5日 頓首再拝>)

「こその妙味」 - 伝統

2019/12/06 (Fri) 12:38:56

        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月12日)より

井上源蔵さんから「こその妙味」という題で興味ある原稿が来た。
本当に「こそ」の二字の置き所で地獄が極楽になり、極楽が地獄になるのである。
これが言葉の力というものである。

井上源蔵さんは中風で7年間半身不随で腰が海老(えび)のように曲がっていた老人であったが、
この「こそ」の妙味を体得して中風が癒え腰が伸びたのである。


(こそという言葉を自分につけたとき争いの因(もと)となる)

夫  貴様みたよなお多福婆(おたふくばば)をわしでありゃ《こそ》置いてやる
妻  わしじゃから《こそ》辛抱もするが誰が見るぞえ痩せ世帯(じょたい)

親  誰がお蔭でそうまでなったおれが学問させりゃ《こそ》
子  学問させてもみんなはできぬわしが勉強したりゃ《こそ》

地主  あれがああして暮らしてゆくもこちが畑田(たはた)を貸せば《こそ》
小作人 地主の田畑が荒れずにいるのもわしが小作をすれば《こそ》



(こそという言葉を相手につけたとき互いに仲よく和解する)

夫  外でわたしが働かれるも内をそなたが守りゃ《こそ》
妻  私みたいな不束者(ふつつかもの)をあなたなりゃ《こそ》深切に


親  あの子なりゃ《こそ》出世もしたよ苦労したのも甲斐がある
子  今日(きょう)のわたしの出世もみんな親の苦労があれば《こそ》

地主  田畑つくらず暮らしのたつのも小作する人あれば《こそ》
小作人 わが田なくても暮らしてゆけるこれも地主あれば《こそ》


 (これによって)

《こそ》と威張ってこちらにつけりゃなにをこしゃくと喧嘩腰

《こそ》とあがめて相手につけりゃにっこり笑ってあなた《こそ》

喧嘩するのも仲よくするも《こそ》の付けどこただひとつ


夫婦、親子、妻子、地主、小作人は言うにおよばず、資本家と労働者の関係も
債権者と債務者の関係もないし教師と生徒、主人と番頭、奥様と女中などの関係も
皆こうしたものであろうと思われる。


井上源蔵さんは自分の背の伸びたのを都々逸(どどいつ)に歌って曰く ―― 

   背だけのばしてもろうたこの身骨(みほね)を惜(お)しまにゃ気が楽よ
   細い道でも我(われ)から退(よ)けて人を通せば気が楽よ

   理づめ言わずに理のある事もまけてしまえば気が楽よ
   腹を立てるは至らぬからと思いいりゃこそ気が楽よ
   我意(がい)や気ままや無理いう人に勝とうと思わにゃ気が楽よ

   正直あつい寒いのいといなくはたらく人はよろず円満
   他事(ひとごと)と思えばやがてわが事よまことつくせばやがてわが事(こと)

            <感謝合掌 平成25年12月12日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月6日 頓首再拝>)

価値あるものを実現する - 伝統

2019/12/07 (Sat) 12:32:41


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月13日)より

唯一の成功とは価値あるものを実現するということである。

みずから省みよ。
なんじは今の生活において、今の行為において、今の思いにおいて、
価値あるものを実現しつつあるか。

価値あるもの以外のものを追求しつつあったならば、
即刻その生活を更(あらた)めなければならぬ。

では、実現とは何であるか。
物質状態に現われることのみを実現と観るときには、人間は物質目的のみの追求者となって、
心的態度は一種の功利的手段となり、唯心論者でありながら、
いつの間にか唯物論者に堕(だ)していることがあるものである。

価値の実現とは《心の中にある》ことを知らねばならない。
オスカー・ワイルドの言ったように、ロンドンの霧は詩人がこれを詩に表現したときに、
初めてその価値が実現したのである。

《それまでにも》ロンドンの霧は《物質としては》存在したのであるが、
心がそれを認めない間は、ロンドンの霧は《価値》としては存在しなかったのである。

価値だけが価値であって、そのほかのものは価値がない。
このことが判明したならば、物質そのものを追求することは愚かなことであることがわかるであろう。

われらは心の世界にさえ価値を実現すればよいのである。
価値は心の世界にのみある。

われらは愛と美と善と智慧と赦しと寛容と・・・
それらの心の中の価値を心の中に実現しさえすればよいのである。

それは主観的価値(こころだけのかち)のみであって、客観的価値(ものそのもののかち)ではない
と考える人もあろうが、そうではない。客観(もの)は主観(こころ)の投影(かげ)であるから、
主観(しゅかん)が成就したら必ず客観(きゃっかん)が成就するのである。

主観(しゅかん)の価値が成就しないで、客観(ものだけ)の成功を希(こいねが)うものは、
やがて土崩瓦解(どほうがかい)してしまうのである。

            <感謝合掌 平成25年12月13日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月7日 頓首再拝>)

本当の成功とは - 伝統

2019/12/08 (Sun) 12:27:43


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月14日)より

静かに省みて、心が喜べるのが成功である。

心にやましい何物かが感じられるかぎりは、まだ心の世界に価値が成就していない。
たといそれが形の世界で成功したように見えていようとも、
それは砂の上に建てられたる楼閣のごときものである。

ただ価値のみが価値である。
人の世に何か《ため》になることを成すこと。
それは物質的に残るべき何物でなくともよい。
それを措いて成功はない。

本当の成功は、偶然でも僥倖でもない。
われわれの心の中に把持されたる決意であり、決意の持続である。

それは偶然とか僥倖とかいうものによって左右されるような他動的なものではない。
それは今、みずからが決意したとき得られるのである。

            <感謝合掌 平成25年12月14日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月8日 頓首再拝>)

信念を伴った決意、素描、実行 - 伝統

2019/12/09 (Mon) 13:57:22


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月15日)より

決意、心の世界における素描(そびょう)、その素描の上に絵の具を塗る実行、
それは絵師(えかき)だけのことではない。
人生の画布(カンパス)の上に実生活の絵を描くところの人間の一生もそれである。

真に富者(ふうじゃ)となるには、「われすでに富めり」の素描を心の中に描き、
それを実践に移さなければならぬ。しかし富とははたして何であるか。

富とは決して物質の所有ではないのである。
多くの人たちは富とは物質の所有であり、物質を所有することによって生活の安全感と優越感とを
確保しうるもののように誤解しているのであるけれども、物質はそれを所有すればするほど、
生活の安全感は失われるのである。

いかにしてその所有を減らさず確保しようかということは、物質の所有者に絶えざる不安を与える
のである。さればキリストは、「富める者の天国(最大の安全感ある場所)に入(い)ことの難き
こと駱駝の孔(あな)を通るがごとし」と言ったのである。

真の富はもっと精神的または霊的なものである。
鑑賞する力の多き者は真に富める者と言うことができるのである。

山肌の美しさ、蒼空(あおぞら)に漂う白雲(はくうん)の美しさ、路傍に咲く1本の草花の美しさ、
小鳥の囀(さえず)りの美しさ・・・挙(あ)ぐれば限りなく豊富な美しさがいたるところに
満ちているのである。

それは預金帳や小切手や金庫の中で数えられる富や、大邸宅とその付属庭園で見られるごとき
有限なる狭き美しさではないのである。何よりも富とは外界の物質そのものではなく、そこから
引き出し来(く)る悦びの豊富、美の感受能力、鑑賞力の豊富さであることを知らねばならない
のである。

猫や犬に活け花の美や、彫刻の美や、絵画の美や、山脈(やまなみ)の曲線の美しさや、樹々(きぎ)
緑したたる美しさはわからない。彼等には美の感受能力乏しきがゆえに、無限に豊富なる美の宝庫の
中に入れられていてさえも、そこから美を汲(く)み出すことを知らず、ただ腐肉や、魚の骨を
さがし求め争うているのである。

しかるにあたかも万物の霊長であり、神の最高顕現なる人間が、この豊富なる美の宝庫なる人生に
生まれながら、腐肉を追い、魚骨(さかなのあら)を探しもとめる犬猫のごとく、ただ固定した
一塊(ひとかたまり)の札束(さつたば)や、物質的富のみを求めるならば、それは人間として
与えられたる至高の特権を放棄せるものと言わなければならないのである。

しかしわれらは決して、物質的富を排斥するものではないのである。
精神的にして霊的なる富がわれらにゆたかにひらかれるならば、
必ずきまって物質的富はおのずから、その反影として整うのである。

これに反して物質的富の中には必ずしも精神的霊的なる富はひらかれない。
あまり物質の所有欲に心が捉えられるとき心は物質にしばられて
他の豊かなる美を鑑賞する暇と能力とを失ってしまうからである。

真に富まんと欲するものはまず霊的精神的なる富を得なければならぬのである。

決意、素描、実行 ―― これは心が形の世界に顕(あら)われる3つの要素である。

・・・

        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月16日)より

決意だけではまだ本物ではない。
信念を伴った決意でなければならぬ。
「実相を観ずる歌」はわれらの決意と信仰を語るものだ。

「われ祈れば天地応(こた)え、
われ動けば宇宙動く。」

天地応え、宇宙動く決意こそわがものでなければならぬ。

            <感謝合掌 平成25年12月16日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月9日 頓首再拝>)

困難 - 伝統

2019/12/10 (Tue) 13:24:57

困難を恐怖するなかれ!

        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月17日)より

恐怖というものは誤解の上に築かれている。
およそ恐怖すべてものは実相には無いのである。

人は困難を恐怖するが、困難がどれだけわれらを高め上げてくれるものであるか、
その困難の功績を知らない者が多いのである。

もし、困難の功績というものを、われらが知ることができるならば、
われわれは困難を苦痛と感じなくなるであろうし、
困難に対して恐怖を感じなくなるであろう。

困難と苦痛とは異(ちが)うのである。
困難を苦痛と感ずるのはただ誤解に因(もとづ)いている。

困難は時として立派な遺産を置いて行ってくれるものなのである。

・・・

        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月18日)より

およそいっさいのものには存在の意義がある。
その人にとって不必要なものは存在しないのである。
いわんや困難に意義がないなどというはずはない。

与えられたものをその存在の意義をそのままに受け取ろうとしないとき、
そこに苦痛は起こり、悲哀が感じられるのである。

わたしはある日、鳩が板の上に卵を生んで抱卵に困っているありさまを見て、
その卵を巣皿の中に入れてやったら、慣れない鳩はその巣皿を怪しいものと思い、
「不幸」が見舞ったと思い、その卵の抱卵の期を失ってしまったことがある。

板の上に卵を生んだ鳩にとっては、そこへ巣皿が現れたということは、かえって救いの手であった
のだが、彼はそれを誤解し、恐怖し、与えられたものを素直に受けようとせず、苦痛を感じ、
呪詛を感じ、そして自己と自己の子孫の運命を腐敗せしめてしまったのであった。

困難を恐れる人間も、この鳩のごときものである。
すべて恐怖は誤解の上に成り立つのである。

静かに受けて、与えられた意義を見出せば、その人にとってそれは
あるいは運命向上の、あるいは人格向上の、あるいはいっそう健康となるための
素材であるはずのものがどんなにか多いことであろう。

・・・

        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月19日)より

避けようと思えば思うほど苦痛が来る。
そのまま受けて全力を尽くそうと決意すれば苦痛はやわらぐ。
そのまま受けることが天意に協(かな)うことであるのが、これによってもわかるのである。

進んで、巣皿の中に飛び込んで行くものは、自分も保護され、自分の子も保護されるのである。


            <感謝合掌 平成25年12月18日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月10日 頓首再拝>)

思う通りになる世界 - 伝統

2019/12/11 (Wed) 12:35:02


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月20日)より

この世はままならぬと思う者には、まことにこの世はままならぬ世界である。
これに反して、この世は思うとおりになる世界だと思う者には、
まことにこの世は思うとおりになる世界である。

環境は人間に支配されると思う者には、環境は人間に支配されるが、
人間は環境に支配されると思う者には、環境は頑としてその人の上に暴君的力を揮うであろう。

そのこと自身が環境は自分の思うとおりのものであること表している。

            <感謝合掌 平成25年12月20日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月11日 頓首再拝>)

実際の尊い体験 - 伝統

2019/12/12 (Thu) 13:53:01


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月21日)より

今日は群馬県群馬郡久留米村の誌友五十嵐伝太郎さんが本部道場に来て話された実話を
書き止めておく。

よい心境である。
そのまま素直に受けている。
拝んで受けている。

素直に受けているところに災害が災害でなくなり、
拝んで育てているところに、蚕が未曾有の成績を挙げた話である。


「私は昭和9年以来生長の家のお導きをいただきまして、いろいろ奇跡のお蔭を受けております。
昨年以来しばらく御無沙汰しておりますが、昨日(きのう)はどうも谷口先生にお礼を申さなければ
ならないような気がしまして、朝一番で参りまして、昨日(きのう)お礼申し上げようと思いました
が、他(ほか)の方のお礼の言葉がありましたので、遠慮いたしましてつい今日に延びました。

実は私は一事(じ)中風といいますか、脳溢血をやりまして、それから中耳炎と喘息はこれは
親伝来の遺伝だというやつで、いつもゼーゼー言って寒い時はほとんど自転車にも乗らず、
外出もしなかったのですが、

昭和9年、谷口先生のお山に伺って、いろいろお話をうけたまわりましてからは、もうそのことは
全然忘れてしもうて、冬でも、前橋で誌友会がありますので、そこへ行く時はどんな寒中でも
いつも自転車を飛ばします。そうして帰りはどんなに遅くなっても必ず自転車で帰ります。

あるとき上毛(じょうもう)新聞社長の篠原さんが『そんな乱暴なことをして、あんたはいいかも
しれんけれども、もしものことがあったら、あなたを当てにして喜んであつまる人を困らせはしない
か。そういうことにならぬよう自動車賃ぐらいはずむから、誌友会の日は自動車で来たらどうか』
という忠告を受けたくらいでありますが、それでもかつて怪我というものをしたことがありません。

ところがこの十五夜の晩に、夕方前橋に出ていい気持ちで帰って来て、宅(たく)のつい近くまで
来ますと、県道の岸が少し崖になっております。
そこに蚕を飼う桑がたくさん植えてあります。

そこの先の方に子供が大勢で遊んでおりましたから、それを避けようと思って、避けようとした
瞬間、どうしたものか、《ずーん》とその川縁(かわぶち)から中へ飛び込んでしまったのです。
一丈ぐらいある所なんです。

ところがその刹那の心境が実に私はありがたいと思うのです。
普通ならば『ああしまった! 』と考えるところでしょうが、その考えが『ああ神の子だ』という
ようなありがたい気がしまして、ふあふあと何か神の力に支えられながら落ちて行くような気がした。

ちょうどそこは桑の切り株が竹槍を立てたようにズラリと尖っておって実に怖いようなのです。
その中へ自転車でずっと落ち込んだ。

その刹那、こやって(両手を浮き身のように伸ばす)ふわふわと『ああ神の子だ! 』という気が
して別に何とも慌てないで落ちついていましたが、子供が『おじさんが落ちた、おじさんが落ちた』
と言うので、見ますと、なるほど落ちています。

荷物も何もそのまま、どこも怪我もありません。子供に引き上げられて、手伝ってもらってようやく
上がって来ましたが、どこを調べてみましても、どこもどうもなっていないのであります。

此の服を着ておりましたが、どこも洋服屋さんの世話にならなければならないような所もなく
帰ってきました。実に尊い。私は自分が怪我をしなかったというようなことが尊いんじゃない、

《その落ちる刹那に『しまった! 』とか『大変だ! 』という感じがなしに、ただふわふわと
『神の子だ! 』というような感じで、そこに落ちて行った。これがありがたいのです》。

これは何であろうか、長く先生のお導きをいただいておりますことによってこういう気持になること
ができたんだろう、帰りましてさっそく神想観をし、私を最初に導いてくださいました福島博先生に
お会いしまして、こういうわけで今日こそ実にありがたい体験をしました、ありがたくてしかたが
ないと言って私はお話をしたのであります。

すると福島さんは『この間からあなたはいろいろとお蔭を受けていられる。早くから蚕をしても、
人は外(はず)すというのに、あなたは安く桑を買って、誰も豊作したという人はない今年に、
いつもより1割以上も成績をあげていながら、それで谷口先生にお礼に行かないから、谷口先生に
お礼に行くように神様がそうさせたんじゃないか、早く行ってらっしゃい』と言うので、
実はこの度(たび)上京して来たような始末であります。

だいたい私は蚕のことはいくらか知っておりましたが、今日(こんにち)まで50年間蚕に従事して
おりますが、お導きをいただきましてから4、5年この方、蚕は必ずうまくゆくものであるという
確信を持たせていただいております。

それは皆さんは見られたこともないような方が多いから簡単に申しますが、いったい蚕(かいこ)と
いうものは字で書いてみると、天の虫とか、天の日の虫とか書いてあります。
それで呼び方にも『お蚕』といって必ず『お』の字をつけます。
あるいは《お蚕さん》と言い、桑を《あげる》とこう言います。

そう言うぐらいで何か神様との縁故があるように考えられています。
そうして蚕をよくするためにあちらのお寺、こちらの神様とお詣りしてあるきます。

それが本当の信心なら結構でありますが、あちらこちらと諸方の神仏を渡り歩く心持の中には
つまり確信が無い、確信を持っておらないからあちらの神様を拝みながらそれを信じきれず
こちらの仏様を拝む、そういうふうに少しもそこに固い信念がないから常に動揺しておって、
自分の『蚕は必ず豊作である』などという確信がございません。

その証拠に『蚕が当たる』などということを申します。
いったい『当たる』ということは『外れる』ということがその半面にあるので、
蚕がよくできるのは運であって確信がないのです。

ところで私が教えに入って蚕というものに信仰をもって、本当に『お蚕さん』として
『あなたは立派なお蚕さん』としてその仏性神性を拝むようにしていったところが、
当たり外れがなくなってしまった。

お蔭さまで、蚕の飼育については自分ほどの確信を持っている人は他(ほか)にあるまい
というくらいの信念をもって働かせていただくようになりました。
お蚕さんくらい、飼う人の精神波動を強く感受するものはありません。

疑えば疑うほどしかできないし、心配すれば心配するだけの結果になるし、
信ずれば信ずるだけの結果になるのです・・・」


五十嵐さんの場合は机上の空論ではなく、実際飼育上の成績であるから、それが尊いことだと思う。

            <感謝合掌 平成25年12月21日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月12日 頓首再拝>)

監房で天国を見出した体験 - 伝統

2019/12/13 (Fri) 14:16:57


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月22日)より

某市の市議であったが疑獄のため検束されていたR氏が道場へ来てわたしの講義のあとで起(た)ち
上がって次のような話をされた、その話はオスカー・ワイルドの獄中における転身と極めてよく似て
いるのですこぶる興味がある話である。


「私は一昨日生長の家本部を訪れまして、この道場へ初めて坐らせていただいたものであります。
ここで皆さんに一言体験を申し上げたい衝動に駆(か)られまして突然起ったのであります。
しかし別に自分にはなんら深い体験というほどのものはありませんのですが、
はなはだ恥ずかしいお話でありますが少しばかり申し上げたいと思います。

私はこの福岡市のものでありまして、この生長の家に由縁(ゆかり)をもったことは簡単に申します
と、一昨年の5月に市会議員の選挙がありました時に立候補しまして、私の先生をしていた方が
私の応援弁士となって働いてくださいました。幸いにして私は中位で当選しました。

私はその当時生長の家の誌友になれということをその先生から言われたのですが、雑誌の名前を
見たこともなかったので、実はあまり関心を持っていなかったのであります。それから後(のち)
1年を過ぎまして最近までも関心は持っていなかったのであります。

ちょうど6月26日だったと思いますが、突然に福岡市に非常な嵐がまき起りまして、
というのは市長選挙に絡みまして大疑惑事件が展開したのであります。

実は私は恥ずかしながらその疑惑事件に連坐しまして、もっともほとんど全部の福岡市の市会議員は
それにひっかかったのでありまして、前市長、現市長、その他ほとんど上層階級のものが全部ぶち
込まれたのでありまして、実は私はただ今保釈中でお礼に上がったのであります。

私は特に皆様に申し上げたいことは私は7月の末に未決にほうり込まれたのですが、そこに入って
おりますと、何もしないで朝から晩までただ《もの》を考えるだけであります。どうも魂の慰めが
ありません。

そこで突然思い出したのが前々から私の先生に進められていた『生命の實相』であります。
これの差し入れを頼んだところ直ちに入れてくれました。

だんだん読んでみますうちに、自分の生活に本当の嬉しさというものを見つけ出すにはどうしたら
いいかという事の谷口先生のお話が載っておりました。

それは『人を喜ばせることが結局自分の喜びである』こういうようなことが書いてありました。

私は初め《なぐり》読みしていたのですが、それが非常に胸に応えました。
あそこに入ると食べ物にはさしつかえありませんが、ただ自由が束縛されている、
魂の糧に飢えている。

そういう中でこの『他(ひと)を喜ばせることが自分の喜びである』ということを
知らされたのであります。

いろいろ考えてみますと、高島米峰さんの話が載っている本や、その他の宗教の本なんか読んだの
ですが、すべてが娑婆にある時のことが書いてあって、娑婆以外で歓びを見出すことは書いてない
―― 《あそこ》は娑婆じゃないんです ―― 

私は《あそこ》に入っている時にはどうかしてこの生活を、今この獄中生活を、もっと歓びをもって
生きられる道はないものかと考えたものであります。今時間がありませんから、早く申し上げますが、
何とかして自分の魂に慰めを与えることはできないものだろうかと思いました。


あそこに入れられると、囚人が、わたしは未決ですが、刑が決定した囚人は雑役をやらせられて
います。それが表の方に扉がありまして、そこに小さな窓がありますが、それをぴたっと堰(せ)い
たり開けたりする。

そこから水を入れたりお茶を入れたりするのですが、それがどうもだいたいああいう所に入(はい)
る囚人というものは非常に心が乱暴でありまして、入っている者に対してどうも深切でありません。
もちろん深切気のある人なんかそういう所には入らないのですが、ともかく深切でないのです。

その雑役の囚人がお茶を持って来ます。それから水を持って来ますが、水がとても大事です。
二升五合ばかり入る甕があるんですが、それがどうかしますと足らないのです。
一つの監房における1日の使用量が二升五合でなかなか尊いんです。なかなか尊いんですから少し
足りないことがあると、貴様こぼすんじゃないか、と言って興奮して怒るんです。

みんな悪いことした人が入っているのですからどうもしようがないんです。
そうして怒られると怒られた人は非常に苦しい、朝から非常に気持ちが悪いんです。

いわゆる精神の慰めというものがないから ―― そこで私は、これはなんとかしてひとつ自分を
嬉しい気分にしてみたい、せっかく生長の家の本を読ませていただいたんだからというので、
考えましてこれはひとつお礼を言ってみよう、そう思いついたのであります。

1日に3ぺんも4へんも雑役の囚人が来る。
それは、そういうときには運動が不足ですから食後の薬を貰ったりします。
そんな薬を貰うとかお茶とか貰いますときに、その囚人に対して試みに『どうもありがとう』と
言うてお礼を言ってみたのです。

お礼を言うと、最初囚人は『ふん』と言って、『なんだこの野郎』といったような顔をするんです。
初めは悲観しましたね、『こんな奴にお礼を言ってみるわたしはどうかしている、もう止めようか』
と思ったりしたのですが、『生命の實相』のは『立ち対(むか)う人の態度は自分の心の影』と
書いてある。

今まで私は増上慢といいますか、ともかく自分では市会議員だなんて傲慢な気持ちがあったので
しょう。その傲慢な《こちら》の気が相手に映って『なんだこの野郎』というのだと気がついて、
お礼を続けて言っているうちには良くなるにちがいない、

『生命の實相』を読んでいる者がそれじゃいかんと思いまして雑役囚が何か持って来てくれるたびに
『やァどうもありがとう、御苦労さん』と言って声をかけます。私は33号でありましたが、その
お礼を言うことが、二日三日四日となると自然とちがってきました。

今度は向うから『やァ御退屈でしょう、あんた市会議員さんですか。』こう向うから心安く声を
かけてくれるようになりました。

あそこでは水が実に欲しい所ですが、ことに夏の7月から8月の一番暑い盛りですから、そういう時
に向こうの方から方々一ぺんぐるっと各監房へ配水しに回ったあとで余った水をわざわざ持って来て
『Rさん要りませんか』と深切に持って来てくれるようになりました。

始めは《ぽんぽん》言っていた人たちが、今度は看守の人までが『Rさん、あなたこれは実際の話
ですがあなたは人格者ですネ』こういうのです。『あなたはなかなか社会のためにお尽くしになって
いるそうで』とこう言う。

そう尽くしもしないのですが、そう言われるとまた嬉しくなるのです。
『いや、どうもありがとう、そんなこと言われると恐縮です。』こんな返事をする。

監房は監房でも鬼は一人もいない仏様ばかりの世界と化した。
それが私には嬉しくて嬉しくてたまらないんです。

平生(へいぜい)ですと看守とかなんとかいうものは『なんだあんなものは人間の屑』だぐらいに
思っていたのですが、それがああいう所に行ってみるとかえって期待もしなかったああいう人たち
から慰めの言葉をかけられる ―― この嬉しさというものは非常なものです。

私は初めて生長の家の教えというものがいかに偉大なものであるかということをはっきり認識した
のであります。『人を喜ばせることが自分の喜びである』という『生命の實相』の教えが、本当に
分ってきたように思います。

この気持ちで一つの社会に立って行こうと、こういう決心をわたしは未決監の中で持つようになった
のであります。したがってわたしは未決監に入ったということが、私の人生、将来にとってどの
くらいよいことを教えてくれたかしれないと感謝しているのです。

わたしの審判はこれから公判をやるのですが、判決がどうあろうともそんなことの悔いは少しも
ありません。わたしは人生の最高の真理を把(つか)んだという気がするのです。これまでのような
《やるせない》というような気持ちは微塵もありません。

実は家内を伴(つ)れてひとつ東京に行って見物でもして来(こ)ようじゃないかというので、この
四日から来ておりますが、ちょうど子供が拓殖大学に行っておりますから、その後の事情を見る
かたがた上京して参ったのでありますが、

あそこに入っているうちに、私はまだ生長の家の神想観というものは我流で、ただあの招神歌(かみ
よびうた)を誦しまして、その間(かん)いろんな奇跡に逢(お)うたことがたくさんありますけれ
ども、本日は時間がありませんから申し述べませんが、

ともかく私の気持ちが、そういう一大事件に出くわしてもなおかつ、非常に朗らかであって、
今日(こんにち)もただただ御礼(おんれい)に参上したのですが、あまりに嬉しいので発作的に
ここに立ち上がって、皆さんにこんなつまらない、恥ずかしいことを申し上げるという気持ちに
なったことで、いかに私が救われて喜んでいるかということを御想像願いたいと思います。

私がああいう所に入りましても、なおかつ自分の心に幸福を感ずる道を発見した。
これから社会に出ればすべての社会生活の上にそれを実行したい。

電車に乗っても、そこにお婆さんが立っている、自分の席を開けて掛けてもらう。
あのニッコリとして『ありがとう』と言うあの喜びの顔を見る時、わたしどもは帰って晩寝るまで
それが忘れられないほどの嬉しい印象を受けることと思います。

日常茶飯事のすべてにそういう喜びを見出してゆく。
いたるところに天国が見出せるということがわかりました・・・」


道場に集っている人たちは感きわまって拍手した。
すすりないている婦人もあった。

そうだ、天国はいたるところに見出せるのだ。

            <感謝合掌 平成25年12月22日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月13日 頓首再拝>)

すべてを赦し、感謝して眠りに入る - 伝統

2019/12/15 (Sun) 13:36:24


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月23日)より

わたしの『光明の生活法』の本の携帯版が気持ちのよい形で、そんなどぎつい装飾もなしに、
ととえば夜しずかに降りて万物をうるおしてくれる夜露のように質素な、
そして典雅な形で出た。常にこの書を携帯していちいちその生活法どおり実行する者は幸いである。

この生活法を常に実行している者は常に健康であるに相異ない。
不健康とは、生活が不健康であり、思いが不健康であることの反映であるに過ぎない。
人間の実相(そのまま)は健康であるからである。

わたしは『光明の生活法』の中で就寝前の15分間の神想観の方法を説いておいたが、それを病気の
治癒に応用する場合に特に注意すべきことは、就寝前に、その日、またはそれまでの日において
呪っていた人々を釈(ゆる)し、憤(いきどお)っていた人々を宥(ゆる)し、憎んでいた人々を
恕(ゆる)し、自分の好まない人たち、反感ある人たちとその過失とをことごとく赦して眠ることで
ある。

眠っている間に最も多くの癒しの神力(自然療能)は進行するのである。

「私はもうあの人を憎んでいない。」
あの人があの時ああいう態度に出たことは、かえってわたしにとって必要なことだったのである。
わたしが彼を憎んでいたのは、わたしの観察眼が狭いために、あの人がああいう態度に出たことを、
自分に害があるように思って思いちがいしていたにすぎないのである。

本当はあの人がああしてくれたので、わたしの《ため》になったのである。

わたしはあの人に感謝する。何某(なにがし)よ、わたしはあなたに感謝する。本当に感謝する。
わたしはあなたに感謝し、あなたを祝福するものである。
ありがとうございます。ありがとうございます。

こう、精神を静かに調(ととの)えながら、繰り返し繰り返し念じて、全き平和の心境に達したとき
寝てしまうのである。一日の最後の時間を赦しと感謝とで満たすこと、それは健康に重大な関係が
あるのであるが、健康に関係がなくとも、それはそのままありがたいことではないか。

寝床(ねどこ)に入(い)れば、
すぐ次のごとく念じて感謝のうちに熟睡に入(い)るべきである ――

「枕よ、ありがとう。寝床(ねどこ)よありがとう。蒲団よ、ありがとう。寝巻よ、ありがとう。
空気よ、ありがとう・・・」となんでも周囲に見出され、思い浮かべられるすべてのものに
感謝の言葉を心のうちに唱えながら眠りに入(い)るのである。

こうすれば不眠症の人でも直ちに熟睡に入(い)ることができるものである。

            <感謝合掌 平成25年12月23日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月15日 頓首再拝>)

新天新地を心の中に呼び覚ます神想観 - 伝統

2019/12/16 (Mon) 12:40:37


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月24日)より

就寝前に人々すべてを赦し、すべてのものに感謝し、すべての過去を謝(さ)った後(のち)に、
新生活に目覚めたる今朝(けさ)のすがすがしさよ。

それこそ新しき天地の始まりである。
「旧(ふる)き天と地とは過ぎ去り、自分に過去は無いのである。
今が新生である。新しき神の生命(いのち)が天降ったのである」こう唱えつつ吸う息とともに
自分に流れ入る神の生命(いのち)を思い浮かべつつ

「私は罪なき神の子である。すでに浄(きよ)まれる者である。神の健康たる生命(いのち)、
神の喜びに満ちた生命(いのち)がわたしである。わたしは喜びそのものである。わたしは幸福
そのものである。私は健康そのものである」と繰り返し念ずるのである。

これは新天新地を心の中に呼び覚ます神想観である。

朝目が覚めたとき寝床の中で仰臥のまま念じようと思っても心が統一し難いものである。
覚めかかると同時に寝床の上に正坐合掌して、直ちに神想観に取りかかり前述のように念ずるが
よいのである。

寒い時には、褞袍(どてら)でも用意しておいて、
ずぐそれを寝巻きの上に羽織って神想観を行なうがよい。

            <感謝合掌 平成25年12月24日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月16日 頓首再拝>)

常に、後味のよいことを考える - 伝統

2019/12/17 (Tue) 18:32:12


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月25日)より

憎みを考えるものではない。
話題をそういう問題から常に避けるようにしなければならぬ。
常に、愛のことを、深切のことを、心に残る後味のよいことを考えるようにしなければならぬ。

ピシリと相手をやっつけても、そのあとで心が後味の悪さで苦しむようでは、
その相手に負けているのである。

勝つとは、後味までも歓べることである。

            <感謝合掌 平成25年12月25日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月17日 頓首再拝>)

すでに、幸福で祥益と健康とにめぐまれていると念ぜよ - 伝統

2019/12/18 (Wed) 14:34:16


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月26日)より

不幸、災厄、病気・・・ことごとく心に描かれた観念が具象化するものであるから、
不幸を喞(かこ)つなかれ、災厄を呟くなかれ、病気を愬(うった)えるなかれ。

不幸来たるごとに、災厄来たるごとに、病気が来たるごとに、
その反対の幸福を語れ、祥益(しょうえき)を語れ、健康を語れ。

すでにかく幸福で祥益と健康とにめぐまれていると念ぜよ
―― それが実現するために完全なる智慧か流入し来たると念ぜよ。

自己が不幸を、災厄を、病気を語らないばかりでなく、
他(た)の人々がかかることを語る時聴き手になってはならぬ。

もし聴き手になったならば、あなたは自己に、不幸災厄病気に対して
無防備に扉をひらいたと言わなければならないであろう。

そんな時に最もよいことは、ツンと澄まして相手との調和を悪くすることではなく、
話題を転ずることである。

            <感謝合掌 平成25年12月26日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月18日 頓首再拝>)

善き話題を - 伝統

2019/12/19 (Thu) 19:32:54


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月27日)より

善き話題 ――
彼はこんな深切なことをした。
彼はこんなに向上した。

自分はこんなに楽しいのだ。
自分は近頃大変健康だ。(まだ現象的には健康になりきっていなくともよい、こう話すのだ。)
自分の従事する事業はますます栄えてゆきつつある。

そのほか何でも、進歩、繁栄、向上、元気、光明、健康の雰囲気を伴うことが
話題として最もよいのである。

しかし顧(かえり)みよ、いかに人が相寄れば他人の悪口や不幸ばかりを口にしていたかを。
これでは人生に不幸な人が多かったのも不思議はない。

欠点を見出して責めるのが今までの教育法であった。
生長の家が出現してまったく教育がその全貌を変化したのである。

ただ児童を、社員を、店員を、賞(ほ)めることだけによって、児童が、社員が、店員が、
改善されてゆくという不思議な事実を ――
われらの同志はすでに不思議でもなく実行しつつあるのである。

しかしそれをまだ対他的教育法だとのみ思っていて、自分自身の健康法だと思っていない人の
多いことは事実である。それは教育法であるばかりではなく、実に健康法なのである。

他(ひと)を赦さぬことは、「自分の心」を赦さぬことである。
他(ひと)の欠点を見つけることは、「自分の心」を不快で塗りつぶすことである。

「峻厳なる寛容」こそその人の魂の進歩を物語るものである。
断ち切るべきは断ち切り、棄てるべきは棄てきり、しかして青天白日のごとくカラリと明瞭に
心の中に一点の雲もないようでなければならない。

いつまでも他(ひと)の欠点を見ながら、それを言い現わすこともできないで、
常にグジグジ心の中で思い煩っている者は、自分自身を切り虐(さいな)んでいる者である
とともに、相手からも見くびられて尊厳を失墜するものである。

            <感謝合掌 平成25年12月27日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月19日 頓首再拝>)

難癖をつける習慣をやめよう - 伝統

2019/12/20 (Fri) 19:25:53


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月28日)より

「勝てる」という自信はよいが、「負けまい」という焦燥は自分自身を殺すものである。
「勝てる」という自信はその人を寛大にし、「負けまい」という焦燥は人に難癖をつけて
不条理に蹂躙(ふみにじ)ろうとする。

難癖をつける心は、一方に相手の立派さを認めながら、それを強いて逆に蹂躙(ふみにじ)ろうと
するのであるから、その人の心中は自己葛藤に満たされる。

自己葛藤は自己自身を粉砕し、自己の人格を低卑にし、自己の健康を傷つける。
この場合、人格の低卑と健康と不良とは同意義である。

・・・

        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月29日)より

人々よ、今日(きょう)から他(ひと)に難癖をつける習慣をやめようではないか。

あなたがもし他(ひと)に難癖をつける習慣を改めるならば、
あなたの周囲がきっと前よりもいっそう輝き出すだろう。

世界が明るくなるであろう。
人々もあなたにまた難癖をつけることをやめるであろう。
世界が広々とした海闊明朗な世界になるであろう。
全体があなたを祝福し、あなたは今よりも幸福になるであろう。

呟く歌や悲しむ歌を雑誌などに書いている人を見るごとに、
わたしはその人をかわいそうと思わずにはいられないのである。

いたるところに眼を開けば光が充ち満ちているではないか。


   観終わり東(ひんがし)の空を見てありき燃ゆるがごとく雲流れけり

   太陽も大空も樹(き)も空も鳥もすべて生きてあり生かされてあり

            <感謝合掌 平成25年12月29日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月20日 頓首再拝>)

神の心、太陽の心、親分の心 - 伝統

2019/12/21 (Sat) 15:46:47


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月30日)より

健康が心の中にあるのみではなく、財福もその人の心の中にあるのである。

親分の心になることが、自分自身の運命を親分にまで推し進める。
いつまでも子分の根性で功(こう)を同僚の間で争い、眼を偸(ぬす)んで安らかさを
希(こいねが)っているようなことでは、その人の運命はいつまでも子分であるのであろう。

親分の心の最大なるものは、神の心である。

すべてを赦し、すべてのものを太陽のごとく照り、温(あたた)め、
みずからは光線と温熱と生命(せいめい)を投げ出すのみで、
敢(あ)えてみずからは求めぬのが神心(かみごころ)。

太陽の心。太陽の心。これが親分の心である。
かくのごとき人はよく衆(しゅう)を率(ひき)い大いに伸びるのである。

            <感謝合掌 平成25年12月30日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月21日 頓首再拝>)

【 決意の日 】 - 伝統

2019/12/22 (Sun) 12:46:34


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月31日)より

 本年最後の決意の日である。
 新しき天と地とを迎えるために潔(きよ)むべき日である。
 
 家を潔め、心を潔め、新しき花嫁の装いをした「真理(キリスト)」が釈迦が、
 その人の中に天降って来ても、その「真理(しんり)」の坐り場所がないような
 不潔なことをしておいてはならない。

 毎日の眠る前の神想観に、新しき次の日を迎えるべく、すべての人とその罪とを赦した
 と念じ、さらにその人に愛を送り祝福を送ったと同じように、今夜は眠るまえに
 いっさいの人々を赦し、

 いっさいの人々に感謝し、いっさいの事物に感謝し、感謝の念で心の中の汚れを洗い浄め、
 愛と祝福の念で、心の中を美しく装飾して、

 いつでも新しき「生命(せいめい)」の、新しき「真理(しんり)」
 の花嫁が天降って来ても招じえられるように魂の準備をして眠ろう。

 人々よ、安らかであれ。われはすべての人々に感謝する。
 よく戦ってくれた。よく働いてくれた。
 あなたたちがいてくれたのでわたしの生活が光栄あるものとなったのである。

 雷霆(らいてい)も、暴風も、山雨も、地震も、海しょう(津波)
 も、それはわたしを高めるためのものでしかなかったのである。

 われ、一切人(いっさいじん)、万事万物に感謝する。
 人々よ、平安なれ。

            <感謝合掌 平成25年12月31日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月22日 頓首再拝>)

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