伝統板・第二

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“今”を生かせということ (光明掲示板第二) - 伝統

2019/11/18 (Mon) 14:38:50

光明掲示板・第二 消滅により、
『“今”を生かせということ』の伝統板・第二への再掲示です。


『生命の實相』(第七巻<生活篇>)において、谷口雅春先生は、
「生長の家の生き方」のひとつとして、

”「今」を全力を出して戦いとれ”と説いておられます。

先代までの掲示板において、「今」に関した題材を次のように紹介してまいりました。

(1)「生長の家“本流宣言”掲示板」では、スレッド「人生の時間銀行 」として。
   → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=1357    (消滅)

(2)「生長の家光明掲示板・第一掲示板」では、
   スレッド「「今」を全力を出して戦いとれ」として。
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=302    


この掲示板(「生長の家光明掲示板第二」)においても、継続して紹介して参ります。



“今”を生かせということ

         *『無限供給の扉を開く』(P237~238)より

私たちが「“今”を生かせ」といったり、或いは又「“今”に生きる」といったりする
その“今”というのは、そのような現象時間の流れの中にある“現在”というようなものを
上手に生きようという簡単な意味じゃないのであって、

その過去・現在・未来の一切がいまここに把まれているところの
“久遠即今”の生命を生きよであるのです。

「これを握れば一点となり、これを開けば無窮となる」と聖経に書かれているところの、
“無窮”が常にあるところの“今”の一点であるのです。

現象時間の流れの中で“無窮”を生きようと思うと肉体の寿命は無窮に生きられないけれども、
“今”の一点に“久遠”の絶対時間を生きると、過去も現在も未来も今ここに一つに
把まれてしまう、ということになるのであります。

そうすると、吾々は今ここの自己の内に過去も現在も未来も把んでいるから、
過現未が自分の掌中にあるのです。

普通、過去は変化することが出来ないというけれども、過去も変化できる。
そこから吾々は真理を自覚すれば過去の業を消すことが出来るということがわかる。

未来は無論、これから起るのだから変化できる。
現象の流れの中にあるものは、全部こうして自分の内に”心のハンドル”をもって
把んでいるんですから、吾々が欲して変化できぬものはない。

吾々は、現象に対しては幻術師の立場にある。
現象は仮現(かげん)であって、心の現すところであるから、
心によって自由に変化することが出来るのであります。

さて、この「”今”を生きよ」という”今”は、唯今説明したように、過去・現在・未来と
いう現象時間の流れのうちの”現在”を生きよというような浅い意味での”今”ではない
のであります。

過去・現在・未来のすべての時間がその内に握られており、そこから過去・現在・未来が
発して来るところの”本源の今”、”源(みなもと)の今””永遠を内に含む今”を
自己の掌中に握ることであります。

この”永遠を内に含む今”が”永遠の今”、”今即久遠”、”永遠即今”、”未発の中”
というものなんです。

         <感謝合掌 平成25年8月22日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月18日 頓首再拝>)

「今」の中にすべてがある - 伝統

2019/11/19 (Tue) 12:45:22


       *中山靖雄・著「すべては今のためにあったこと」(P119~120)より

・・・

「未来」には使命はありません。
「今」の中にすべてがあります。
今のことを一生懸命やっていれば、必ず使命に出会います。

・・・

誰しも自分の人生の意味について考えることがおわりでしょう。
そして、自分の「使命」を生きたいけれど、自分の使命とはいったいなんだろうと、
頭で考えて探そうとします。

しかし、使命とは「わかるもの」ではなく、自然に「回ってくるもの」なのです。
あなたに与えられた使命は、そういう縁に自然と出会わせてもらってはじめてわかるものです。
しかし、そんな縁に会おうと思って出会えるわけではありません。

だからこそ、今、そのような「回ってくる」ご縁に出会うためには、天から与えられている
役割を喜んでさせてもらうことが大事なのです。「ああ、嬉しいなぁ。嬉しい出会いだなぁ」
と喜ぶことが自分の使命への活力になるのです。

そうしているうちに、出会った役割こそが使命だとわかり始めてきます。
そして、「ああ、そうか、ありがたいな」と思えてきます。
「ありがとう」が湧くたびに、それが使命を生きる力になっていきます。

そして、「こういう私を使ってくださって、ありがとうございます」という思いが
さらに湧き出てきます。この感謝がさらに役割の活力になっていきます。

「こういう場面を私に与えてくださってありがたいなぁ」
「こういう場面で私を活かしてくださってありがたいなぁ」
と思えば思うほど、自分の使命を「みたま」どおりに果たすことができるのです。

このように「使命」を知るためには、足元を見ることしかないのです。
足元とは、生きること、働くこと。

そしてやっぱり、「今」、「今」、「今」なのです。

足元に起こること、ふと思わされること、出会わされることを大切にし、
「これが縁なんだな」と、味わって消化していけば「使命」がやってきます。

だから今やっていることを一生懸命やっていれば、新しい「使命」に出会っていくのです。

「過去が咲いている今、未来の蕾で一杯な今」という河井寛治郎さんの歌があります。
「今」には、過去に起こったことのすべてがあります。
「今」に未来の可能性のすべてがあります。

「今こそすべて」なのです。
今ここにすべてがある。
そんな思いで味わうことです。

ともすれば、未来に使命があるように思ってしまいますが、
「今」の中に見出していくという思いがなければ、
未来が「今」になった時にも味わえないのです。

「今こそすべて」

そう思って生きる時、自分の中に使命を見出していけるのです。

         <感謝合掌 平成25年9月2日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月19日 頓首再拝>)

莫妄想 - 伝統

2019/11/22 (Fri) 13:57:19


      *「超訳 動じない心をつくる 禅の言葉」植西聡・著(P74~75)より

莫妄想(まくもうそう)~『景徳伝灯録』

  ~すぎたことや先々のことを、考えすぎなさんや。~

大正から昭和時代の思想家、唐木順三は、つぎのような言葉を残しています。

「すぎ去った過去はすでにない。未来はいまだない。
明らかにあるのは、現在だけである」(意訳)

冒頭の言葉の意味は、この唐木順三の言葉の意味と相通じるものがある。

人はすぎ去った過去について、
「どうしてあんなバカなことをしてしまったのだろうか」と思い悩みます。
しかし、その過去は「すでにない」ものなのです。

存在しないことについてあれこれ思い悩むのは妄想にすぎないというのが、禅の考えです。

また、人は、まだ来ない未来について「失敗したらどうしよう」などと思い悩みますが、
未来も「まだない」ものなのです。

これもまた、「存在しないことについてあれこれ思い悩むのは妄想にすぎない」
と、禅は一喝します。

禅は、「過去や未来のことに思い悩むのではなく、無心で現在を生きよ。
今すべきことに全力を尽くせ」と教えるのです。

過去や未来のことをいくら思い悩んだところで幸福感は得られません。
現在に全力を尽くしてこそ、幸福な人生を実現できるのです。

         <感謝合掌 平成25年9月10日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月22日 頓首再拝>)

「今此処一点」を把握せよ - 伝統

2019/11/24 (Sun) 19:00:15


           *『理想世界』昭和47年7月号 より

「生長の家」を米国光明思想の受売りだと思っている人もあれば、
古事記の解釈より出現したる日本古道を本とすると考えて人もあり、
クリスチャン・サイエンスを祖述したものだと考えている人もある。

併し、その何れも正鵠を得ていない。

叙述の素材は以上のいずれよりも引用してあるし、
仏教の諸経典更に老子、孔子、孟子、菜根譚や心霊学の諸著書から博引傍証してある。

併し、それを渾然融合せしめたものは、今此処の一点に全実在を把握する特殊の悟りである。

今・此処の一点 ― 時間・空間未発の一点に久遠生命を把握する深さは
ニュー・ソートやクリスチャン・サイエンスには見られない。

よく似た所まで往っている人もあるが、
それでも“Here and Now”位か“Eternal Now”位の所である。

「神の国は汝の内に在り」と云うイエスの言葉が、それ故に空転するのである。

今・此処・我が渾然一体となって、肉体無の無字の一点に全実在を把しなければ、
「汝の内」とは「外」に対する「内」になって真の意味は把めない。

「汝の内」とは「外」に対する「内」でもなければ、肉体に対する「心」でもないのである。

「心」に幸福を思い浮かべたら、その人は既に天国にいるのも同様であるから、
キリストは「神の国は汝の内にあり」と云ったのだと云うように解するのは、
余りにも浅い解釈である。

「汝の内」とは「外」に対するものではなく、
「内外打成一片の生命」の端的であり、實相である。
「内外打成一片」の今此処に真に神の国があり、天国がある。心身脱落・脱落心身である。

心身一切が十字架にかかるのである。
ニューソートにはこんな境地はない。

心もなく、身体もなく、からだもなく、心もなく、一切があるがままに脱落する。
それをそのままと云う。「そのまま」と云うような言葉は外国語には翻訳が困難である。
それに適当した概念がないと云うことである。そのままは不来であり、不去である。

そのままにして肉体無しと悟る。
敢えて肉体の抹殺を必要とせず今、此処に、無時・無空間の生命の實在を悟るのである。

これをキリストの十字架の真義とする処に、西洋哲学と東洋哲学との一致を見出す。
クリスチャン・サイエンスやニュー・ソートにない教えで生長の家にある教えは
中心帰一の思想である。

多くの病人が一家の中心たる良人に対する反抗心で起こっている。
頭痛を訴える婦人は医師の判断では脳髄の中に出来ている腫物にあると云うことを
脊髄液をとって検査することによって診断した。

ところが良人に対して絶対無我になる事をすすめて良人に対する不平の心を取り去るように
教導したのである。話しているうちにその婦人のなやましき頭痛はやまってしまい、
それ以来その頭痛は再発することがなかったのである。
  
上に従順なる思想、中心者に服従の思想を戦犯的思想だと考えるのは間違いだ。
平和愛好の天皇陛下の御意思を曲げて横車を押して戦争を始めたのは軍閥であった事を
戦争裁判は暴露しつつある。

陛下の『平和に事を解決せよ』との御心に真に従順に従う心
 ― 即ち上意に素直な心 ― があったならば、戦争は起らなかったに相違ない。

8月15日に日本が無条件降伏を行って、上陸連合軍に対して何ら抵抗も暴動も演じなかったのも、
国家の中心者に従順である心からである。


        <感謝合掌 平成25年9月16日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月24日 頓首再拝>)

「平常心」とは「今」のことである。 - 伝統

2019/11/25 (Mon) 19:31:57


            *『静思集』(P115~116)より

「平常心是れ道(みち)」である。
「平常心」とは「今」のことである。

太陽は『今日は雲が出ているから朝から差し昇っても何の効果もないから朝寝坊をしよう』
と言って懶(なま)けるようなことはないのである。
 
雨の降る日も、曇りの日にも太陽は出る。
これが平常心である。
朝寝をするようなことでは平常心ではない。

当り前が当り前に出来るのが平常心である。

朝、顔を洗えば鏡の前で微笑せよ。

而して
「われ幸福なり われ愉快なり、われかくの如く微笑せり」と心に思え。

その日一日、幸福に愉快に暮らす秘訣である。

大抵の人は自分自身の顔の表情を大切に心掛けないで、
それにつける白粉(おしろい)とか、頬紅(ほほべに)とか黛(まゆずみ)とか、
宝石とか謂うものを美しくしさえすれば、自分が美しくなるものだと考えているが、

膨れっ面に耳輪(みみわ)の宝石が絢爛(けんらん)と輝いていても、
それは唯(ただ)滑稽なだけである。

奥床しき微笑(びしょう)は百万円のダイヤモンドよりも高き価値がある。
誰でもを魅惑し、唯(たれ)でもを親しませ、その室(へや)の空気を明るくし
立ち対(むか)う人々を幸福にするものは、自分自身の表情であると云う事を
知らねばならぬ。

「吾れ今、新生せり。昨日(きのう)はなきなり。
今、新生せるなり。既に新しき自己なり。新しき世界なり。
吾れはすべての人々を赦したり。一切の憎み、怒り、呪い、すべて心に含みいること無し」
と念ぜよ。

「われ全ての人々を愛せん。すべての人々のために身を献(ささ)げん。」
かく念じて次の行事に移るなり。

この間(かん)1分間にて足る。
毎日1分間があなたを幸福にするのである。

        <感謝合掌 平成25年10月25日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月25日 頓首再拝>)

「即今、当処、自己」 - 伝統

2019/11/26 (Tue) 13:30:14


        *「禅が教えてくれる 美しい人をつくる『所作』の基本」
         <桝野俊明・著>(P137)より

禅に「即今、当処、自己」という言葉があります。
即今(そっこん)はたった今、当処(とうしょ)は自分がいる場所、
自己は自分自身、ということです。

少し解説すれば、

「今やらなければ、いつやるときがくる、今しかないではないか(即今)」
「ここでやらなければ、いったいどこでやる。ここしかないではないか(当処)」
「自分がやらなければ、誰がやる。自分しかないではないか(自己)」

ということです。

今、自分が置かれている場所、状況のなかで、やるべきことを、自分自身で一所懸命にやる、
それが生きていることだ、 とこの禅語はいっているのです。

生きている一瞬、一瞬が大切です。
過去を振り返ったり、将来を想像したりしている暇はありません。
やるべきこと、できることは、今、あなたがいるその瞬間、その場所にしかないのです。

「過去だ」「将来だ」と、”よそ見”をしている間にも、人生の時間は確実に流れていって
しまいます。今を見つめることを忘れたら、時は空白のままに過ぎていく ―― 
といってもいいでしょう。もったいなくはありませんか?

「放下着(ほうげじゃく)」という禅語は、なにもかも捨ててしまえ、ということです。
まさにそれ、過去も将来も放っておけばいいのです。

        <感謝合掌 平成25年11月9日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月26日 頓首再拝>)

今を活かす事は過去未来も活かす - 伝統

2019/11/27 (Wed) 14:32:10


          *「幸福を招く365章」(P127)より

今を活かすことが光明生活の一つの重要なる要素である。
明日のことを思い煩うこと勿れ。
昨日以前のことも持越苦労することはいらないのである。

一日の苦労は一日で足れりである。
今の生活そのものに全力をそそぐとき、その思い煩いに消耗するところのエネルギ-が、
逆に建設的に生かされ、新しき創造の力となり、過去の業績もそれによって
活を入れられ、生きてくるのである。

「今」を生かすとき、過去の蓄積が生きて来て、大いなる未来が創造される。

「今」を生かさないで悩み煩うことに時を費やすとき、
過去はただの醜しい残骸となり、
未来も失敗して悲しき末路を辿るより仕方がないのである。

「今」を活かすことはただ努力するだけでは足りない。
神想観して、神の叡智を受けることが必要である。

        <感謝合掌 平成25年11月21日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月26日 頓首再拝>)

今思い立ったことをすぐ実行する - 伝統

2019/11/28 (Thu) 12:50:55


       *「生命の實相」第30巻聖典講義篇(P280~281)より

「生長の家」では「今を生きよ 」という。
「今」を本当に生き切らなければ人は本当に永遠に生きることができないのであります。

生きると申しますが、われわれは生きるということは
今の他に生きる時は一つもないのであります。

過去にあなたが十分生きていたといったところが、過去において生きたという《その時》は
いつ生きたかというとその当時において今を十分生きたのであって、
その「今」の連続が持続してわれわれの生活は成り立っているのであります。

ですから、「今」生きなければ生きる時は一つもないのであります。

「これは善いことだけれども明日にしよう」などと考えているような人は、
とても成功のおぼつかない人であります。

「生長の家」へ来て病気が癒(なお)りたいという人でも、
この「今」の生活を捉えない人はなかなか治らないのであります。

たとえて言いますと、「夫婦和解せよ、病気は治る」と教えられましても、わたしの方から
和解を申し出(いで)るのは《きまり》が悪いから、向うから和解してくるまで黙っていようと
一日延ばしているような人がある。こういう人は「今」を捉えていないのです。

明日か、明後日か、その次の日かを期待している人は永遠に機会を掴むことのできない人です。

事業をするにしても「今」思い立ったからすぐする。
「今」思い立った時に、素直にこれを神が与え給うたことであるとして
ただちに実行に移りうる人は心の柔軟性を保っている人であります。

(中略)

取り越し苦労のない生活を送る秘訣は今思い立ったことをすぐ実行するにあります。

        <感謝合掌 平成25年12月3日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月28日 頓首再拝>)

この吾が「いのち」 ―― 神の生命(いのち) - 伝統

2019/11/29 (Fri) 14:15:14


          *「人生読本」(P183~184)より

時間を大切にいたしまするのも、ここにこうして生かされている生命(いのち)、
それが神の生命である、ああありがたい、何かしなければならない、
無駄にしてはならないという ――

この何とも言えない心の奥底から出る自然の自覚で、
ありがたくて自然に動かずにはおれない働きになってこなければならないのであります。

そういう心持で時々刻々を生きてゆく事にしますと、一分一分一瞬一瞬が無限の価値を
持ってきまして、どんな時にも、どんな境遇にも、あらゆる事に対して不平もなく、
みんなありがたい神様の生命(いのち)に生かさせていただく瞬間である。

今、神様の生き通しの生命を生きている。

「久遠(いきとおし)の今」を生きている、
神の永遠生命(ほろびないいのち)をこの瞬間に生きている
というありがたい心持になってくるのであります。

これが「生長の家」の生き方であります。

        <感謝合掌 平成25年12月12日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月29日 頓首再拝>)

いつだって『いま』が展開しているだけ - 伝統

2019/11/30 (Sat) 14:03:29


       *Web:【てぃーだブログ】いまここ(2013年12月14日)より 

あるとき若い魚が、長老の魚に尋ねました。

「昔から語り継がれている『海』とは、どこにあるのですか」

すると長老は言いました。

「おまえが『いま』泳いでいる、まさに『ここ』だよ」

しかし若い魚は納得しません。

「ごまかさないでください。ここはただの水です。『海』はどこですか?」


僕たちが捜しているものは、すでに『いまここ』にあります。
いままでもずっとあったし、これからもあり続けます。
だから安心してください。

いつも言っているように、僕たちは誰一人例なく、最初の最初から守られ救われています。
現象界で何が起きたとしても、本当の僕たちは安全な場所にいます。

だから今日も、不安と心配の中にいる人に伝えます。

大丈夫だよ。
本当に大丈夫だから。

足を止めて、深く息を吸って、リラックスしてごらん。

ほら、少なくとも『いま』は、なんてことないだろ?

先のことを考えるから混乱するんだ。

心配ないよ、ずっとこれからも『いま』だから。

目の前の『いま』だけを相手にして、自分が一番いいと思ったことをやっていけばいい。

結果なんか一生来ないから。

いつだって『いま』が展開しているだけ。

人生が上手くいっている人も、いっていない人も、『いま』の中では同じこと。

だから、足を止めて、深く息を吸って、リラックスしてごらん。

ほらね。

あとは、『いま』やることをやっていくだけだ。

なんとかなるよ。

大丈夫だからね。

        <感謝合掌 平成25年12月15日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月30日 頓首再拝>)

今できること - 伝統

2019/12/01 (Sun) 18:51:39


      *「feel blue こころが元気になる贈り物」秋月菜央・著(P28)より

過ぎた出来事を
悲しむ時間がある
去っていった人を
惜しむときがある
苦しい思い出に
胸を詰まらせる時間がある
それは 10分だったり
2時間だったり
半日だったりする
ときには 何日も何日も
そのことで頭がいっぱいになる
けれど そのあいだ
大切な”今”が失われてゆく


10分 過去を悔やむより
10分 今 できることをしたほうがいい
そこから 新しい何かが生まれ
そこから 未来が変わるから

        <感謝合掌 平成25年12月27日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月1日 頓首再拝>)

生長の家とは『今此処の一点に全実在を把握する』特殊の悟りである。 - 伝統

2019/12/02 (Mon) 12:49:14


         *「生長の家」昭和23年2月号 より

生長の家を米国光明思想の受売りだと思っている人もあれば、
古事記の解釈より出現したる日本古道を本とすると考えている人もあり、
クリスチャン・サイエンスを祖述したものだと考えている人もある。

併しその何れも正鵠を得ていない。

叙述の素材は以上のいずれよりも引用してあるし、
佛教の諸経典更に老子、孔子、孟子、菜根譚や心霊学の諸著書から博引傍証してある。

併し、それを渾然融合せしめたものは、
『今此処の一点に全実在を把握する』特殊の悟りである。

今・此処の一点 ― 時間・空間未発の一点に久遠生命を把握する深さは
《ニューソート》や《クリスチャン・サイエンス》には見られない。

よく似た所まで往っている人もあるが、
それでも〃Here and Now〃位か〃Eternal Now〃位の所である。 
『神の国は汝の内に在り』と云うイエスの言葉が、それ故に空転するのである。

今・此処・我が渾然一体となって、肉体無の無字の一点に全実在を把握しなければ、
『汝の内』とは『外』に対する『内』になって真の意味は把めない。

『汝の内』とは『外』に対する『内』でもなければ、肉体に対する『心』でもないのである。

『心』に幸福を思い浮べたら、その人は既に天国にいるのも同様であるから、
キリストは『神の国は汝の内にあり』と云ったのだと云うように解するのは
余りにも浅い解釈である。

『汝の内』とは『外』に対するものではなく、
『内外打成一片の生命』の端的であり、實相である。

『内外打成一片』の今此処に真の神の国があり、天国がある。身心脱落・脱落身心である。
身心一切が十字架にかかるのである。

《ニューソート》にはこんな境地はない。

心もなく、身体もなく、からだもなく、心もなく、一切があるがままに脱落する。
それをそのままと云う。

『そのまま』と云うような言葉は外国語には翻訳が困難である。
外国語に翻訳が困難であると云うのは、それに適当した観念がないと云うことである。

『そのまま』は不来であり、不去である。そのままにして肉体無しと悟る。
敢て肉体の抹殺を必要とせず今、此処に、無時・無空間の生命の実在を悟るのである。

これをキリストの十字架の真義とする処に、西洋哲学と東洋哲学との一致を見出す。

《クリスチャン・サイエンス》や《ニューソート》にない教えで生長の家にある教えは
『中心帰一』の思想である。

多くの病人が一家の中心たる良人に対する反抗心で起っている。

頭痛を訴える或る婦人は医師の判断では脳髄の中に出来ている腫物にあると云うことを、
脊髄液をとって検査することによって診断した。ところが良人に対して絶対無我になる事を
すすめて良人に対する不平の心を取去るように教導したのである。

話しているうちに、その婦人のなやましき頭痛はやまってしまい、
それ以来その頭痛は再発することがなかったのである。

上に従順なる思想、中心者に服従の思想を戦犯的思想だと考えるのは間違いだ。

平和愛好の天皇陛下の御意志を曲げて横車を押して戦争を始めたのは軍閥であった事を
戦争裁判は暴露しつつある。陛下の『平和に事を解決せよ』との御心に真に従順に従う心
 ― 即ち上意に素直な心 ― があったならば、戦争は起らなかったに相違ない。

八月十五日に日本が無条件降伏を行って、上陸連合軍に対して何らの抵抗も暴動も
演じなかったのも、国家の中心者に従順である心からである。

吉祥寺のS氏の嫁が内耳に真珠腫が出来て脳髄を圧迫するので、
放置するといつ突然脳髄の故障が起って死ぬかも知れぬと云うのであり、
手術をしようと思ったが、

その手術も脳髄に接近している部位なので重大な手術であり、躊躇しているとき、
或る人が生長の家の話をきいて見ないかと勧めてくれた。

頭の痛むのは目上に対して反抗心がある、耳の中に真珠腫のような塊が出来るのは、
目上の人に対して『我』の塊をもっていて聞きたくない心があるからとて、
そのような『我』を取去るよう指導された。話しているうちに頭痛は治り再発はしなかった。

『クリスチャン・サイエンス』はただ肉体の無を説き、病気の非実在を説くだけである。
そしてどんな病気は、どんな心の誤りだと云うことを説かなかった。
そしてクヰンビーの方法を踏襲したエディ夫人は按手して思念する療術行為的なことをやった。

エディの著書の中には粘膜の炎症は恐怖心のあらわれだと云うようなことが説かれているだけで、
各種の病気に対する心の細かい対応などは説かれていない。

これを詳しく説いているのが生長の家である。
生長の家は触手的な療術行為と誤れる虞れを避けて全然按手的触手的方法を用いることを、
その講師又は指導者に禁止し、全然教えのみを説くことにし、各々の病気に対して、
それに相応ずるような精神の持ち方を改めるように説く。それで病気が治るのである。

エディ夫人が『肉体の無』を説きながら、なぜ、触手的に患者に触れねばならなかに就いては
彼女からクヰンビー方法(メソッド)を教えて貰った講習生から盛んに反駁的質問が来たので
エディ夫人も困ってしまったが、

依然として触手的方法を捨て得なかった実情は
『世界光明思想全集・第十四冊、初期のクリスチャン・サイエンス』に詳しく書かれている。

生長の家を単なる日本のクリスチャン・サイエンスだと思ったら間違いである。
クリスチャン・サイエンスの真理も内に包容しながら、それ以上に飛躍しているのである。

エディ夫人の伝記を読む者は、彼女が如何に周囲の人々と不和であったか、
事毎に摩擦を生じ、迫害と裏切りとに取囲まれていた事を知って驚く。

そこにも生長の家の根本的中心教義たる『天地一切のものと和解せよ』の教えと
クリスチャン・サイエンスとが甚だしく相異することが示されている。

エディの主著たる『真理と健康(サイエンス・アンド・ )』の中にも
『天地一切のものと和解せよ』の思想はない。ただ物質無、肉体無、病気無、を主張するだけで、
如何なる心が如何なる病気を起すかの解明はない。

グレン・クラーク博士の著述の中には『心臓』は愛の象徴的存在であり、血液循環は歓喜の表現、
肺臓は生命の霊の流れ入り流れ出ずる表現、肝臓は真理の霊の象徴、
胃の腑の作きは調和と力の霊を受けて同化する事の表象である。

嫉妬及び憤怒、恐怖は真理の観点を損い偏寄せしめる、
それ故忽ち肉体の消化機能に激しい影響を与える ― この程度の説明しかない。

これも一面の真理であるが、
生長の家の説く様な聴きたくない心が耳の病気を起すなどの事は書かれていない。

生長の家の光明思想の根幹を流れるものは米国的な明るい光明思想であるが、
決して単なる受売りや寄せ集めでもない。

奥太利の精神分析も取入れてはいるが、
フロイドの精神分析のように神経病や神経障碍のみが治るのではなく、
実質的病気も心の改造によって治るのである。

先般、脚が充分立たない人が生長の家に入っても治らないのはどう云う訳かと、
自分以外の治らぬ人の実例も挙げて反駁して来られたが、治らぬのには治らぬ訳があるのであり、
『生命の實相』を読んでも心の変らぬ人は治らぬ。

  (<愛国生長の家>本流掲示板内の”勇気凛凛 さま”の記事より拝借いたしました。
   ”勇気凛凛 さま”のお許しをお願いいたします)
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=daityouwa&mode=res&log=115

             <感謝合掌 平成26年1月9日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月2日 頓首再拝>)

「今」の中に一切があるのである。 - 伝統

2019/12/03 (Tue) 13:41:34


         *「聖経 続真理の吟唱」(P61)より

一切を内に蔵する此の「今」は、過去・現在・未来と称せられて、流れ去り、流れ来(きた)る
ところの時間の中の「現在」を指すのではないのである。「現在」は忽(たちま)ち過ぎ去って
「過去」となる。それは常住するものではないのである。

茲(ここ)に言う「今を悟る」の「今」というのは、過去・現在・未来をその内に包蔵して、
時間の流れを超越せる「超時の今」なのである。

それは種子の中にある「生命(せいめい)」の如きものである。
種子の中には「今」既に、発根し、発芽し、葉を伸ばし、枝を生じ、蕾を含み、花をひらき、
実を結ぶ全過程が、そこに、そのまま存(あ)るのである。

北畠親房は「天地のはじめは”今”をはじめとする理(ことわり)あり」と宣言し。
金光教祖は「今、天地の開(ひら)くる音を聴け」と教えた。
黒住教祖は「生きものをつかめ」と説いた。

”生きもの”は「超時の今」の中に生動(せいどう)する”生命の実相”のことである。
この”生命の実相”を悟ることが新生である。

過去・現在・未来は過ぎ去り、過ぎ来(きた)って、常住なく、常住なきものは「本当には」
非実在のものである。「超時の今」のみが常住であり実在であるのである。
それゆえにこの「超時の今」を「常今(つねいま)」とも謂い、「中今(なかいま)」ともいう。

「超時の今」が自分の内に宿っているのである。そこに一切存在の過去・現在・未来が悉く包蔵
されていて、時来(とききた)れば、心の動きに従って、それが現象界に姿を映し出すのである。

             <感謝合掌 平成26年1月10日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月3日 頓首再拝>)

焦らず、善は急いで「今を生かせ」 - 伝統

2019/12/04 (Wed) 16:23:40


        *『生命の實相』第23巻 宗教問答続篇(P164)より
      
生長の家本部へ修行に来ている「ひとのみち」信徒がある時
「ひとのみちでは急ぐということは善くないと申しますが、

昔から『善は急げ』という諺がございます、善事は急ぐべきでしょうか。
それとも善事でも急いではひとのみちに反くことになりましょうか」と
お尋ねになったことがあった。


生長の家では、「常に時は今である」と言う。
それは今の瞬間に久遠永劫の力がかかって、動こうとしていることを知れということである。

水道の栓を一つ捻らねば永劫にその栓を捻じる時はこないのである。
われわれの行動の支点は常に「今」にかかっている。
「今」よりほかに何事も成す時はない。

「今」を見逃す者は永劫に実行の機会を見逃すことになる。
だから「善は急げ」である。

しかし、現象界は一定の時間的順序で展開するから、今水道栓を捻じっても、
ただちには浴槽の水が一杯になるものではない。
水道の栓を捻じった時、心の世界ではすでに浴槽の水は一杯になっているのである。

それが形にあらわれるには時間経過を要する。

すでに満たされている心の世界を信じないで
その時間経過を待ち遠しく焦る者は事を破壊するのである。

種子を播いた時、すでに心の世界でその種子は芽が出ている。
形の世界ではある時間経過の後芽が出る。
その時間経過を待たずに急いで土を掘り返して見る者は事を破壊する者である。

だから焦らず、善は急いで今を生かせである。

             <感謝合掌 平成26年2月24日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月4日 頓首再拝>)

かけがえのない命を、今生きる - 伝統

2019/12/05 (Thu) 15:45:33


この世の絶対不変の真理

          *メルマガ「人の心に灯をともす(2014年03月23日)」より 

   (藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…)

   この世に絶対不変の真理はあるだろうか。
   目まぐるしい変化の時代である。
   永久に変わらないものなどない、と思いがちである。

   だが、絶対不変の真理は厳然としてある。

   その第一は、「人は必ず死ぬ」ということである。
   この世に生まれて滅しない者はいない。
   いまここにいる人で、50年後に生きている人はいるだろうが、
   100年後も生きている人はいない。

 
   第二は、「自分の人生は自分しか生きられない」ということである。
   幼子(おさなご)が病気で苦しんでいる。
   親は自分が代わってやりたいと思う。
   だが、代わることはできない。

   その人の人生はその人以外には生きることができないのだ。


   第三は、「人生は一度限りである」ということ。
   人生にリハーサルはない。
   また、再演することもできない。

 
   これは地球上に人類が誕生して以来の不変の真理である。
   この事実を真に受け止める時、深い感動が湧き上がってくる。

   私たちは図らずして、奇跡のような命を、いま生きているのだ。

   このかけがえのない命をどう生きるか。
   そこに人生の道標(みちしるべ)が要る。
   古来、幾多の聖賢(せいけん)がその道標を私たちに示してくれている。

             <『人生の大則』致知出版社>

      ・・・

①「人は必ず死ぬ」

かつて、世界の王侯貴族は、不老不死の妙薬を求めて世界中を旅させた。
しかし、そのようなものは未だ見つかっていない。

生きとし生けるものにとって、年を重ねれば、老いと死は必ずやってくる。
死があるからこそ、生が鮮明になる。


②「自分の人生は自分しか生きられない」

斎藤一人さんは、冬の寒い朝、寝床で、おしっこに行きたくてどうしようもない時、
誰かが代わりに行ってくれない、という。

どんなに体重が増えてしまっても、誰か代わりにダイエットを頼むわけにもいかない。


③「人生は一度限りである」

「人生二度なし」と繰り返し言ったのは、哲学者の森信三先生。
今日やるべきことを明日に延ばさない、ということであり、
今日(こんにち)ただ今しかないのだ、という気持ちで生きること。


アメリカの9.11の同時多発テロで、有名になった、
「最後だとわかっていたなら」という詩がある。

『あなたがドアを出て行くのを見るのが
最後だとわかっていたら

わたしはあなたを抱きしめてキスをして
そしてまたもう一度呼び寄せて
抱きしめただろう


あなたが喜びに満ちた声をあげるのを聞くのが
最後だとわかっていたら

わたしはその一部始終をビデオにとって
毎日繰り返し見ただろう』


今、生きていることに感謝し、かけがいのない命を大切に、
精一杯この今を生き切りたい。

             <感謝合掌 平成26年4月2日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月5日 頓首再拝>)

<“今”を完全に生きぬく祈り> - 伝統

2019/12/06 (Fri) 12:40:55


         *「聖経真理の吟唱」(P266~269)より

神は無限の智慧であり給う。
神は天地の一切のものと人とを造り給い、それを無限の智慧によって、
たがいに調和ある適当のところに配置し給うたのである。

それゆえにすべての生きとし生けるものは、もし自分自身が、迷いによって
逸脱しなかったならば、そのもの、その人にとって最も適切な“場”に置かれているのである。

それ故 私は今与えられた位置と生活の“場”とを決して不足に思わないのであり、
この時、この“場”において、感謝しつつ自分の仕事にいそしむのである。

人間が地上に生を享けてきたのは、
この地上でなければ自分の魂を磨くことのできない
特殊の条件が地球世界には整っているからである。

地上は人間の魂を磨くための生活学校であるのである。
この学校を卒業すれば私は次のもっと高級な天体の世界に生まれ変わって行くのである。

今地上に生を享けている限りは、そのような未来世のことや、
自分の前世の生活のことなどは考える必要はないのである。

今、ここに与えられたる生活の“場”において、私は全力を尽くすだけである。
この“今”の生活の“場”が私の魂の修行に最も適当な生活学校なのである。

“今”この環境にいて私が 全力を尽くしているならば、
やがてこの生活学校を卒業するであろうから、
私は 今より一層「高級」な生活学校に移転するであろう。

その一層「高級」な魂の生活学校ともいうべき環境は、
今の環境よりも必ずしもラクなということはないのである。

それは、中学が小学よりもラクなというわけではなく、
また大学が中学よりもラクなというわけでないのと同じことなのである。
しかし一層高級な学科はじっとかみしめれば、低い学科よりも味わい深いものがあるのである。

平凡単調な学科がラクであるにしても味わい深いものでなく、
高級複雑な学科が一見むつかしいけれども、かえって応用無限で味わい深いように、
人生もまた、魂 の進歩にしたがって、いろいろの高級な学科にあたる問題が提出され、
それを一つ一つ解いて行くことに魂の進歩と、魂の無限の悦びが感じられてくるのである。

私は、今、大いなる神の御智慧に導かれてこの地球世界において、
わが魂の進歩のために最も適当な“場”が与えられているのであると
いうことを確認するのである。

それゆえに、その生活環境にどのような複雑な問題が提起されてこようとも、
私は狼狽することはないのである。

私の今の魂の程度において解決できないような問題は、
神は決して今の時点における私に与え給うことはないのであるから、
私は どんな問題でも感謝して受け、その問題が、自他ともに幸福で、
すべての人々に寄与するように解決するための努力をつづけるのである。

今、私は神と偕なる自覚の下に、まことに平和と幸福と裕かさを享受するのであります。

ありがとうございます。

             <感謝合掌 平成26年4月27日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月6日 頓首再拝>)

「今日だけは」 - 伝統

2019/12/07 (Sat) 12:35:27


       *「今すぐ『言葉』を変えましょう」佐藤由紀・著(P42~43)より

デール・カーネギーの「道は開ける」で紹介されている
シビル・F・パートリッジの「今日だけは」の抜粋です。


1.今日だけは、幸福でいよう。

  リンカーンは
  『人々は自分が決めただけ幸福になれる』
  と言ったが全くその通りである。

2.今日だけは、家族も仕事も運も、あるがままに受け入れよう

3.今日だけは、体に良いことをしよう

4.今日だけは、思考を鍛えよう

5.今日だけは、心の訓練のために3つのことをしよう。

  誰かに気づかれないように親切にしよう

6.今日だけは朗らかでいよう。

  できるだけの笑顔で、穏やかに話し、正しく、惜しげなく人を褒めよう

7.今日だけは、今日一日を生きることに集中しよう

8.今日だけは一日の計画を立てよう。

  計画通りには行かないかもしれないがともかくやってみよう

9.今日だけは、静かな時間を30分だけつくりだそう

10.今日だけは、受け取ろう。

   幸福や美しいこと、愛することを受け取ろう

             <感謝合掌 平成26年5月10日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月7日 頓首再拝>)

時は今 - 伝統

2019/12/08 (Sun) 12:31:06


6月10日は【時の記念日】です。


天智天皇10年の4月25日に漏刻(水時計)が設置され、
宮中に時がつげられるようになったのを記念するものです。

この天智天皇10年4月25日を太陽暦に直すと671年の6月10日になるため、
この日が時の記念日に制定されました。
制定は大正9年(1920年)のことです。

この日は時間の大切さを再認識する日とされています。


もっとも、日本書紀によれば漏刻は実は斉明天皇6年5月に皇太子(天智天皇、当時は
中大兄皇子)の命により既に設置されていました。しかしその日付が不明であるため、
日付の明確な天智天皇10年の方が採用されています。

大雑把な目安しか提供できない日時計に比べて水時計はどうしても精密な
時刻を測ることができるものとして重用されましたが、その発明は古く、
BC16世紀にはエジプトで既に使用されていた記録が残っています。

天智天皇の時代にこの水時計の管理をしていたのは陰陽寮の漏刻博士たち
で二人で交替で水の量をチェックして鐘や太鼓で時報を鳴らしていました。

たいへん重要な役目ですので、居眠りしたり遅刻した場合の罰は出勤停止や罷免など、
たいへん厳しいものであったようです。

なお、当時使用されていた時刻は現在私たちが使用しているような、
夏でも冬でも一定の時を刻む定時法です。

時代劇などで登場する、日出と日没の間を等分した不定時法は、戦国時代の混乱で定時法が
運営できなくなった時に代用システムとして登場したものです。

江戸時代は、時報の鐘を鳴らす役の人は機械仕掛けの正確な時計に、わざわざ不定時法用の
文字盤を取り付けて、それを見ながら鐘を打つという、まことに本末転倒なことを
していました。


このように、水は、水時計として、人々に正確な時刻を知らせるという用途でも
使われておりました。

<参考Web http://www.ffortune.net/calen/kinenbi/06/toki.htm >

天智天皇を祀る滋賀・近江神宮ではこの日、「漏刻祭」が開かれます。
  → http://oumijingu.org/publics/index/167/


・・・


アリス 『It's a Time ~時は今~』
https://www.youtube.com/watch?v=HyzR-o7Wz1U

It's a Time~時は今~

作詞・作曲:谷村新司

(歌詞)

Time Time Time It's a Time
Time Time Time It's a Time

夢を抱けと 教えてくれていた
そんな大人が いつもそばにいた

願い続ける 志だけが
次の扉を開く 鍵になる

俺達の失敗は 競い続けて 生きたこと
勝ちも負けも無いことに 気付けないままに 生きてきたこと

Time Time Time It's a Time HA~
Time Time Time It's a Time HA~

ひとり生きてく 覚悟もないままに
流れ続けて ここまで過ごしてた

孤独怖くて 群れに埋もれてた
楽に生きてく 道を選んでた

俺達の失敗は その場しのぎで 生きたこと
やさしさとは 強さだと 気付けないままに 生きてきたこと

誰と 生きたいのか 心を決める 時は今
何を 伝えたいのか その声を上げよう 今がその時

俺達の失敗は 競い続けて 生きたこと
勝ちも負けも無いことに 気付けないままに 生きてきたこと

Time Time Time It's a Time HA~
Time Time Time It's a Time HA~

・・・

(多くの人が、この歌詞のように、人生の最後の段階で悔やみ、
 さらに、照魔鏡の前で涙を流し、多くの霊人の前で懺悔するようです)

             <感謝合掌 平成26年6月10日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月8日 頓首再拝>)

【ビデオレター】 - 伝統

2019/12/09 (Mon) 14:02:22


   (曹洞宗長寿院住職、篠原鋭一氏の心に響く言葉より… )

         *メルマガ「人の心に灯をともす(2014年06月19日)」より 

   県立M高等学校の卒業式が近付いたある日、
   ビデオカメラを手にした男子生徒2人がやってきて告げた。


   「うちの高校では、毎年卒業生にビデオレターを観てもらうことになっています。
   3年間、お世話になった方や思い出に残っている人から3分間ほどのメッセージをもらって、
   卒業生全員で観るのです。

   今年は、3年間講演してくださった住職さんがノミネートされましたので、
   撮影させてください」


   笑いながら答える。

   「ノミネートとは大げさだなあ。つまり“送る言葉”だよね。身に余る光栄!
   喜んでお受けいたします」

   私は3つのメッセージを語った。


   「もう一度伝えておきます! 人生はたった一度きり。それも片道切符の旅です。
   ならば各駅停車で行こう。特急に乗ったら通り過ぎてしまう風景を、
   しっかり見ておきましょう。各駅停車の人生だからこそ身につくのです! 」


   「人生の主人公は自分です。“オシッコがしたくなった。
   でも、今、忙しいから誰か代わりに行って! ”これはできない。
   人生も同じです。人生は自分が主人公となって生きていくものなのです。
   他人に代わってもらえません」


   「人生は一人で生きられません。自分の力で生きていると思ったら大間違い。
   多くの人や物にささえられ助けられての人生です。迷惑をかけてもいい。
   そのかわり、他人からかけられる迷惑も喜んでいただくのです。
   他人とくらべることはない。堂々と自分の道を歩んで自分の花を咲かせてください!」


   私以外にも10人のビデオメッセージがあったと後日、報告される。


   卒業生が2年生の時、他校へ転勤された生物の教師O先生の登場には拍手が起こった。

   O先生は、

   「何度も教えたよね。一組の両親から生まれる子どもには、
   約70兆通りの組み合わせがあって、2つと同じものがないということ。忘れるなよ。
   君たち一人ひとりは、70兆分の1の確率で選ばれて、この世に生まれて来たんだ。
   これってすごいことだよ。こんなすごい生命を大切にするんだぞ! 」



   そして最後のメッセージになった時、映し出された人物を観て、全員が絶句した。

   いや、誰も、“なぜ?”と思った。

   実は、スクリーンから笑顔いっぱいに語りかけてきたのは、
   高校3年になったばかりでこの世を去った同窓生のA君だったからである。

   「みんな、卒業おめでとう。ボクも一緒に卒業式に出たかったけど、
   みんなが知ってる通り、脳腫瘍が悪性でさあ、あんまり長く生きられないんだ。

   だからビデオレターで卒業式に出させて欲しいって、制作委員に頼んでおいたのさ。

   絶対秘密でね。

   今日が本邦初公開!

   みんな、高校生活楽しかったね。

   校門からの坂道の桜の咲く頃までは生きて、桜吹雪の中でみんなと弁当食べたかったなあ…。

   ああ、いけない!

   卒業式だもんね。

   明るくやらなくっちゃ!

   ボク、すごく楽しい高校生活が送れて幸せだった。

   十分、人生生き切ったと思うよ。

   みんな、“生まれてきてよかった”“生きるってこんなに楽しい”と
   実感できるような人生をつくってね。

   またどこかで会おうね。

   ボク、ちょっとだけ先に行くよ!

   みんな、ありがとう!」


   誰もが泣いている。

   先生方も必死で涙をこらえておられる。


   その時、女子生徒のE子さんが立ち上がり、大粒の涙を落としながら叫んだ。

   「A君、私、生きていくことに決めた。今、死にたいぐらい苦しいけど、
   A君の言葉を聞いて、私決めた。私、死なない! 生きていく! A君、誓うよ!
   私、生きていくからね! A君、ありがとう! 」


   突然、大きな拍手が起こった。

   その場に泣き崩れた彼女に向かって全員が精一杯の拍手を送っている。

   彼女の3年間が、ひきこもりと短期登校の繰り返しであり、
   一番苦しんでいたのはE子さんであることを知っているからだ。

   仲間たちのエールを込めた温かい拍手はいつまでも続いた。

       <『みんなに読んでほしい 本当の話 第3集』興山舎 >

        ・・・

『あなたが虚しく過ごしたきょうという日は
きのう死んでいったものが
あれほど生きたいと願ったあした』 (カシコギ)


人は生まれたら必ず死ぬ。

そんなことは誰もが知っていることなのに、すぐに忘れてしまう。


もし、明日死ぬとわかったら、今のあたりまえの日常が、あたりまえでなかったことに気づく。

食事ができること、空気を吸えること、歩けること、景色が見えること…

すべてが、愛(いと)おしく、切なく、ありがたい、と気づく。


この一瞬一瞬を、大事に大事に生きていきたい。

             <感謝合掌 平成26年6月21日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月9日 頓首再拝>)

【一刹那正念場】 - 伝統

2019/12/10 (Tue) 13:26:57

 
      *メルマガ「人の心に灯をともす(2014年07月07日)」より

   (藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…)

   『一刹那正念場』

   一刹那(いちせつな)とは一瞬ということである。
   正念場(しょうねんば)は歌舞伎からきた言葉。
   一曲・一場の最も重要なところ、ここぞという大事な場面を指す。

   一瞬一瞬を人生の最も大事なところ、人生の勝負どころ、本番と捉えて真剣に生きよ、
   と教えている言葉が一刹那正念場である。


   人生は山登りに譬(たと)えらえる。
   山登りには登る人と下りる人がいる。
   それは年齢ではない。

   「90%の人は山を下りている。90%の人は力を出し切っていないからだ。
   人生の山を登っている人は10%」と言うのは人材教育家の井垣利英さん。

   なるほど、と思う。

   そういえば明治期のリーダーたちは、
   「自分が一日怠ければ、日本の進歩が一日遅れる」という気概を持って生きていた。

   当時の日本には山を登っている人が多かった、ということである。

   だから日本は日清・日露の戦いに勝利し、世界に伍していくことができたのだといえる。


   井垣さんはこうも言う。

   「1時間は1分が60回。1日は1時間が24回。ひと月は1日が30回。
   1年はひと月が12回。10年は1年が10回」。

   10年後どんな自分になっているか。

   何となくいまよりもよくなっている、と思っている人が多い。

   しかし、いまの生き方がそのまま10年後のその人の生き方であり、
   年を取った分だけ人生は下り坂になっている。

   そうならないためには、いま目の前にあることに全力を尽くすこと、
   その姿勢を習慣にすること
   ・・・井垣さんの言葉は一刹那正念場に生きる大事さを説いてあまりある。


   画壇(がだん)の孤峰(こほう)・中川一政さんが97歳の時に揮毫(きごう)した
   「正念場」の書がある。

   初めてその書を見た時の畏怖に近い感動を忘れることができない。

   この人は97歳にしてなお正念場の日々を生きようとしているのか。
   97歳になってこれからが本当の人生の正念場だと思っているのか。

   求道一筋に生きんとする人の気迫が、書には溢(あふ)れていた。

   中川さんが残された極めつけの言葉を2つ。

   「稽古(けいこ)をしてはならぬ。いつも真剣勝負をしなければならぬ」

   「一つ山を登れば、彼方にまた大きな山が控えている。
   それをまた登ろうとする。力つきるまで」


   すべての道に生きる者に不可欠の覚悟というべきだろう。

         <『月刊致知 2104年8月号』致知出版社>

        ・・・・・

松下幸之助氏はこう語った。

「人と比較をして劣っているといっても、決して恥ずることではない。

けれども、去年の自分と今年の自分とを比較して、
もしも今年が劣っているとしたら、それこそ恥ずべきことである」


大事なことは、人との比較ではなく、
自分自身が毎日少しずつでも、どれだけ進歩したか、学んだか。

今日、このただ今を怠惰に生きる人は、1年後の今日も同じように怠惰に生きる。


「一刹那正念場」

本日ただ今、この一瞬を真剣に生きてゆきたい。

             <感謝合掌 平成26年7月12日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月10日 頓首再拝>)

一度失われた時間は復(かえ)らぬ - 伝統

2019/12/11 (Wed) 12:37:05


          *「人生読本」(P178~179)

いつも午前8時午前8時には時計の針は一定の8の字を所を指しますけれども、
今日この「8時」という時間は永遠にやって来ないのであります。

午前8時というのは何回でもやってきますけれども、今日の《この時間》、
自分の生きる《この時間》という同じ時間はやって来ないのであります。

今日の《この自分》の「生きる《この時間》」というものを生かさなければ、
この私達の有する自分の生命(いのち)というものが全然ないわけであります。

ですから、いつでも、「今」が自分の生きるか死ぬかの正念場なのであります。

私達自身を生かすか殺すかの重大な時期、それが時々刻々の時間であります。

             <感謝合掌 平成26年8月2日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月11日 頓首再拝>)

今を生きよ! - 伝統

2019/12/12 (Thu) 13:55:07

          *『生命の實相』第30巻聖典講義篇(P279~280)より

実相の世界においては、すべてのものは既に、業(すで)に与えらているのだという大自覚を
得たならば、現象世界は実相世界の映しの世界でありますから心のレンズさえ曇っていなければ
必要に従って実相世界のいっさいの善き事々物々がわれらの上に加えられるのであります。

であるからわれわれは、その日その日を働けばよいのであります。
「一日の苦労は一日で足れり」であります。
「一日の苦労」といっても、別に苦労しなければいけないというのではないのであります。

一日の働きは、一日その日を十分働き切れば、
次の日の幸福はおのずから展開してくるのであります。

多くの人々は取り越し苦労をするためにいろいろ生命(せいめい)をすり減らして
寿命を縮めて病気になったりしているのであります。

ところが今日(きょう)一日だけを十分生き切るようにしていたならば心配は要らないのです。

だから「生長の家」では、「今を生きよ」という。

「今」を本当に生き切らなければ人は本当に永遠に生きることができないのであります。

             <感謝合掌 平成26年8月20日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年12月12日 頓首再拝>)

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