伝統板・第二

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もみじ輝く(光明掲示板・第二) - 伝統

2019/10/30 (Wed) 12:49:35

光明掲示板・第二 消滅により、
『光明道中記(十一月 もみじ輝く)』の伝統板・第二への再掲示です。


「秋雨(あきさめ)を聴く」

   しみじみと味えばふかし雨の音轟々(ごうごう)とも聞え淙々(そうそう)とも聴ゆ

夜明に豪雨が物凄いばかり降った。
その音を聴いていると何だか懐かしい気がするのであった。

瀑(たき)のようにも聴えるし、谿川(たにがわ)の流れのようにも聴える。
呟くようにも聴えれば、千万(ちよろず)の唇でさんざめいているようにも聴える。
尚一層激しく降り灑(そそ)ぐときには豪宕(ごうとう)な感じがする。

秋だとひとしお思うのだ。学生時代に国木田独歩の小品集『武蔵野』を抱きながら、
秋の戸山ヶ原を逍遥(しょうよう)して楢の梢(こずえ)に囁いている秋の音に耳を傾けた
ことや、秋風に特有な地を這(は)う息吹(いぶき)に、冬が近づくかと戦(そよ)いでいる
小草に見入っていた頃などを想い出した。

自然に対する眼(まなこ)をもう一度開こう。
其処には無限の宝庫がある。

自然は生きている。素直に生きている。
争ったり、凋落(ちょうらく)しているように見るのは僻目(ひがめ)である。
生かし合い、讃美し合い、献げ合い、譲り合って、悦びの涙と共に生きているのだ。

落葉樹の生命はかすかに眼立たなくなったときに最も深く生きている。

争っているように見えても皆生かし合っているのだ。

           <感謝合掌 平成25年11月1日 頓首再拝>


  (   <感謝合掌 令和元年10月30日 頓首再拝>)

手垢のつかぬ愛行をする日 - 伝統

2019/10/30 (Wed) 12:50:50


          *「光明道中記」(11月1日)より

【失敗は大したことではない。損も大したことではない。
 自己の心を乱すかみ出さないかの方が大切だ。(『生命の實相』第十一巻)】

悟りと云うことは「《わし》が」が無くなることであって、
宇宙の真理を哲学的に思弁することではないのである。

どんなに立派な成功でも、「《わし》が」の附いているものは
すべて手垢のついているものであって、
神の前に供え物とすることは出来ないものである。

「《わし》が」を捨てよ。「《わたし》が」を捨てよ。
而(しか)して全ての誉れを神に帰せよ。

手垢の附いた深切をするな。
すこしも汚れのない、手垢の附かない深切をせよ。

「《わし》が」と云う手垢の附いた愛行や深切は、それは単に愛行として、深切として、
完全なものでありえないばかりでなく、却って地獄への入口でさえあるのである。

何故なら、神に属しないものは地獄に属するものであり、
光に属しないものは暗に属するものであるからである。

「《わし》が」で手垢の附いた愛行が地獄の門であると云うのは、
「《わし》が斯うしてやった《のに》あの人はその恩を感じない」とか何とか、
不平や憎みの原因になるからである。

           <感謝合掌 平成25年11月1日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年10月30日 頓首再拝>)

旧我の消える日 - 伝統

2019/10/31 (Thu) 13:19:25


          *「光明道中記」(11月2日)

【新天新地が開かれるとは小さな「我」が脱落して、
  自由な伸び伸びした愛の世界に出ることである。(『生命の實相』第四巻)】

「《わし》が」の無くなったのが仏心である。
「《わし》が宇宙の真理を悟った」などと思っているのでは危いものである。
斯う云うようなのを我慢の悟りと言う。

道元禅師も、
「あきらかに足りぬ、自己即仏の領解(りょうげ)をもて、仏法を知れりと言うには
あらずということを」と言っていられる。

悟った人間の自己即仏と云うその「自己」なるものは旧我の自己ではないのである。
「汝等新たに生れずば神の国を見ること能(あた)わず」とキリストは言ったが、
その「新たに生れたる我」になってこそ、自己即仏と言い得るのである。

自己即仏と悟ったと言っても、一から十まであるのである。
「新たに生れる」と言ってもその肉体が母の胎内を再出入することではない。

キリストに「新たに生れよ」と言われて
「人はや老いぬればいかで斯くの如きことどものあり得べき」
と見当違いの返事をした者もあった。

「新たに生れる」とは出入のことではない。
我の脱落のことである。

           <感謝合掌 平成25年11月2日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年10月31日 頓首再拝>)

明治節、清明心の日 - 伝統

2019/10/31 (Thu) 13:20:44


          *「光明道中記」(11月3日)

【至上の愛は神と偕なる時おのずから出来る愛だ。(『生命の實相』第十一巻)】


   さしのぼる朝日のごとくさわやかにもたまほしきは心なりけり


明治天皇のこの御製を拝誦し奉る毎に朝日の如き無我の心境が思われるのである。

何故(なにゆえ)朝日はあんなにさわやかなのだろうか。

それは新たに生まれたからである。
手垢がついていないからである。

心に手垢がついていないと云うことが、
こんなにも清明(さわやか)な姿を顕わしめるのである。

太陽には我はない。そのままである。従順である。
さしのぼる時がきたとき差しのぼり、沈むときには沈んで悲しむと云うことがない。
落日を悲しいと見る者は見る人の心の反影に過ぎない。

烈々と照っても功を誇らず、常に跡をのこすことを求めず、来って驕(おご)らず、
去って悲しむと云うことがないのである。

而も一切衆生として、一物(もつ)として、その恩恵を受けないものはない。

まことに広大無辺なる姿である。

吾々の 《いのち》 は太陽より来る。
吾等太陽の如く生きんかな。
吾等は太陽の子だ。清明心の子だ。

どんな時にも光のみを見るのが日本人である。

よろこべ、勇み、楽しみ、潔(きよ)く前進せよ。

・・・・

清明心については、次のWebも参考になります。

(1)Web:日本人が理想とする心、清き明き心
       → http://blogs.yahoo.co.jp/sitiyu33/14644839.html

(2)Web:国体の本義「清明心」
       → http://blog.goo.ne.jp/daisukejigen1/e/47a5f24ffddd00e2c91ee1a27c02dfb6

(3)Web:清明心
       → http://1gen.jp/GDOH/KOKUTAI/KOKUTAI/43.HTM

           <感謝合掌 平成25年11月3日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年10月31日 頓首再拝>)

福徳円満の日 - 伝統

2019/10/31 (Thu) 13:24:02


          *「光明道中記」(11月4日)より

【完全に自分の生命を与え切ったとき自分の生命はその仕事と一つになる。
                           (『生命の實相』第四巻)】

「儲ける」の語源は「設ける」である。
設けるとは施設することであり、ものを創造することである。
創造のあるところ、「設け」があり、「儲け」があるのである。

天地の真心を受けて創造されたるものが「設けの君」である。
「もうけ」は「真受(まうけ)」である。

天地の真心を受けたときそこに価値施設が行われ、創造が行われ、自然に儲かるのである。

本来「儲け」は「設け」に伴うものであったのに、近来、資本主義の爛熟期に到達するに
及んで「設け」ずして、金銭を遣(や)り取りしたり、電話で商談を運ぶのみにて「儲ける」
と云う本末転倒の扁行為(へんこうい)が行われることになったのである。

単に商談するのみにてその間に合理的手数料以上の利潤を得るものは中間搾取と認められるし、
物質欠乏の際には異常の物価釣上で商談するものを生じ、インフレに拍車をかけるから、
物価一切の釘付を行えば、中間搾取の余地がなくなる。

私は戦争中、何月何日現在として一切の物価を公定せよと、提唱したることがある。
すると1年半後にそれが勅令で布告せられた。

戦争中でもなければ、自由世界では物価の公定は困難であるらしく、鉄道運賃、消費者米価、
郵便料金、電話料金、電気代、ガス代等す7べて高率の引上げでインフレは益々昂進しつつ
ある。

          <感謝合掌 平成25年11月4日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年10月31日 頓首再拝>)

無限供給を受くる日 - 伝統

2019/10/31 (Thu) 13:25:47


          *「光明道中記」(11月5日)より

【時間を巧みに生かす者は自己の生命を生かす者である。(『生命の實相』第四巻)】

宇宙は無限、天地は無限供給である。
神は無限の富者、人は無限の富者の後嗣者(あとつぎ)である。

「我」と云う限界を撤廃したときに、宇宙がそのまま自分のものとなるのである。
手を握れば一握(あく)の砂をも入るに足らず、手を開けば、掌上に宇宙が載るのである。

生命(いのち)の営みがあれば、そこに衣食おのずからあり、
「儲け」は「設け」であるからである。

『生命の實相』の中に、金魚を入れた水盤と、金魚を入れない水盤と2つがあって、
そのいずれにも水を満たして置けば、金魚の住んでいる水盤には速やかに藻が生えて、
金魚はそれを食して生活しているが、金魚の住まない水盤には容易に藻が生えないと云う
事実が書いてあるが、味わうべじである。

藻が生えてからあの水盤の中へ跳び込もうと思って、金魚が陸(おか)から水盤の中へ
跳び込まずにいたならば、ついに
その金魚が餓死するか窒息して了うであろう。

何も食物の無い水中へでも跳び込んで、其処に生命の《いとなみ》が始まったら、
自然と其処に藻が生えて来るのである。

《いのち》の営みは、「設け」であり、生えて来る藻は「儲け」である。
「儲け」があって働くのではない。
藻が生えてから跳び込むのではない。

          <感謝合掌 平成25年11月5日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年10月31日 頓首再拝>)

七たび我を棄てる日 - 伝統

2019/11/01 (Fri) 12:06:14


          *「光明道中記」(11月6日)より

【知らずに犯す残酷ほど残忍なものはない。(『生命の實相』第四巻)】

道場へ来てこんなことを相談した人があった。

「私の妻は盲人であります。先夫がありましたが、最初は眼が見えていたのですが
眼が見えぬようになって先夫に捨てられました。私と同じ師匠に就いて働いておりますうちに、
先方から仲人を立てて私に貰って欲しいと言うのでした。事情をきいて見ると実に可哀相な
境遇です。私はその女(ひと)が我(が)が強い女である事を知っていましたが、可哀相さに
同情して『あの我の半分でも除(と)ると云う約束をしてくれたら貰っても好い』と
申しました。

そんな我を除る位の事何でもない、素直にすれば好いのだからと仲人が言いますので、
その女を妻に貰い受けました。

ところがどうしてその我の半分でも除れてくれるどころか、一つも除ってくれません。
そしてこの我を捨てたらこの家は持って行けん、
この我を捨てる位なら離縁して下さいと申します。

それでは仕方がないから、離縁するのもお互いの為だと申しますと、
それから胸を痛めたらしいのです。

私は人に教えられ『生命の實相』を聴かしてやろうとしますと、
そんな教え聴きたくないと逃げまわります。到頭昨夜はひどい喀血を致しました。
死んでも、我は捨てられんと申すのです」

笑いごとではない、これが人間の相(すがた)なのである。

          <感謝合掌 平成25年11月6日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月1日 頓首再拝>)

自己を深く見詰める日 - 伝統

2019/11/02 (Sat) 19:57:09


          *「光明道中記」(11月7日)より

【人格こそ本当の仕事をするのである。(『生命の實相』第四巻)】

「我(が)」と云うものはそんなにも握り育てていなければならないものだろうか。
「我」と云うものを「自分」の正体だと思っているから、
捨てては生き甲斐がないと感じられるのであろう。

併しそんなに大切な思われている「我」と云うものは「本当の自分」ではないのであり、
その「本当の自分」を覆い隠し晦(くらま)すところのニセ物であるのである。

それをニセ物と知らずに「本物の自分」だと思っているから、
「我」を捨てる位なら離縁してくれても好い、
「我」を捨てる位なら血を喀(は)いても好い、死んでも好いとも思うのであろう。

「本物の自分」と「ニセ者の自分」との区別の判らぬ愚かさを「我癡(がち)」と云う。
自分を滅ぼす贋(に)せ物に《せっせと》貢ぎながら
「本物の自分」を空腹にしている愚かさよ。

生長の家の説くところは「人間即神」「我即仏」と云うことである。

その事はすっかりよく解ったと云う人があるけれども、
その「人間」なるもの、その「我」なるものが、旧我であっては何ともならぬ。
「ニセ物」であっては何にもならぬ。

「汝の悟を書き来れ」と言われて同じ文句を「我即神」と書いて来ても、
本当に悟っている人は幾何(いくばく)もない。
新に生れ更(かわ)らない我が即(すなわち)神なのではない。

          <感謝合掌 平成25年11月7日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月2日 頓首再拝>)

仕事に愛をそそぐ日 - 伝統

2019/11/03 (Sun) 15:00:30


          *「光明道中記」(11月8日)より

【仕事に愛をそそぐ者は自己内在の神を生かす事になる。(『生命の實相』第四巻)】


天地の無限供給に堰(せき)するものに我欲がある。
《我がもの》にし《たい》と云う欲望を我欲と言うのである。
我を顕揚(あらわ)し《たい》と云う欲望を我慢という。

天地間に《わがもの》と云うて無きものを、
何か《わがもの》があるように思うのを我見と言う。

天地間に《われ》と云うて無きものを
「我」と云うものがあるように思うのを我癡(がち)と言う。
我癡は真理を知らぬのである。

我慢は我癡より生じ、我欲は我見より生ずるものである。
ひとたび人間が「我」という境界を此の世界に置くや否や
此の広い世界が狭いものになって了う。

我がなければ天地間の供給みな人類のものである。

天下の資源は悉く全人類の開発に委ねられる。
資源争いや、大量殺人をする必要もない。

殲滅(せんめつ)するための火具を造るための生産力が
人類の福祉向上のための生産物を作るために振向けることが出来る。

此処は《わし》の領地だから移民して貰うまい、開発して貰うまい――
そう云う我見我欲が今度の世界戦争を惹起こしたとも言い得る。

「真理は汝を自由ならしめん」とイエスは言ったが、そのキリスト教国自身が
「我」で領土に垣を張り廻らしていて這般(しゃはん)の戦争を惹起したのであるから、
外人のキリスト教と云うものも好い加減なものである。

          <感謝合掌 平成25年11月8日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月3日 頓首再拝>)

そのまま素直に有難い日 - 伝統

2019/11/03 (Sun) 15:01:34


          *「光明道中記」(11月9日)より

【人生の悩み苦しみは病気の痛みと同じ、神の子たる真性を顕す働きである。
                             (『生命の實相』第二巻)】

或る講師が地方で講演した。
講演の最中にその講師は嘔吐をし、下痢を催した。
それでもその講師はその講演をつづけたし、その夜の大講演会にも出て講演したのであった。

生長の家の講師ともある者がどうしてあんなに肉体に不調和を顕すのだろう。
それで生長の家も権威はないではないかと云う投書が来た。

成る程、講師の権威と云うものは嘔吐(へど)を吐いたら無くなるし、
嘔吐を吐かなければ権威があるらしく見えるし、
それでは、そう批判する人もまるで現象に振り廻されているのではなかろうか。

そう批評して来た投書家も心で「痰唾(つば)を吐きかけて」いればこその批評である。
肉体に何か間違ったものを食べて嘔吐するのは治す作用(はたらき)であるが、
心に不快なものを見て、言葉の痰唾(つば)を吐く者は何と批評せらるべきものか。

すると又、弘法大師は即身成仏と悟った高僧だと『生命の實相』に書いてあるのに、
何故(なぜ)大患に罹ったか、返答して欲しいと云うような投書も来ている。

そうして現象でそんなに点数がつけたいのであろうか。
点数をつける代りに嘔吐はきながらでも講演を続けて下さるその心を
もっと拝めるように私はなりたい。

          <感謝合掌 平成25年11月9日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月3日 頓首再拝>)

人の欠点を見ず、深切な語(ことば)を使う日 - 伝統

2019/11/03 (Sun) 15:02:39


          *「光明道中記」(11月10日)より

【人生に傷つける人、疲れたる人に何よりも必要なのは光明を与える言葉である。
                             (『生命の實相』第四巻)】

完全に悟らなければ人に道を伝えることは出来ないと云うことは間違である。
道を伝えることはその人の「行(ぎょう)」であり、「行」あってその人が浄(きよ)まり、
「行」あってその人の生命が生き進みつつあるのである。

完全に悟らなければ人に道を伝えたら可(い)けないと言ったら、
日本国中で道を伝える資格のある人は幾人あるであろうか。

また完全に悟らなければ、その人の生命は「行」をして可けない、
生命が生き進んでは可けないと言うべきものではない。

みんなを拝めるのが悟であり審判(さば)くのが悟ではない。
途中の鼻高は審判(さば)きたがるし、悟った人は拝むばかりである。

講師が来ても何か落ち度がないかと鵜の目、鷹の目で見詰めている人は
鵜のような人であり、鷹のような人である。

仏のような人は、どこからでも拝んで光を見出すが、
隙(すき)をねらっている人はどこからでも隙を見出すであろう。

心が鋭くなると云うことに自戒しなければならぬ。

人々よ肉体の病気よりも人は自分の心が他(ひと)を咎(とが)めたくなる心病に
罹(かか)っていやしないかを警戒せよ。その人の心病は今形に出ないからとて
いつの日にか形に出ないことを保証し得るであろう。

高慢は禁物である。

          <感謝合掌 平成25年11月10日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月3日 頓首再拝>)

我慢の消ゆる日 - 伝統

2019/11/04 (Mon) 14:49:40


          *「光明道中記」(11月11日)より

【自分を完全に生かすことは、ニセ者の自分を殺すことよりはじまる。
                             (『生命の實相』第十巻)】

自分が偉い偉いと思っているのは「我慢」と言って、「我」の一種の展開である。
人間は「我慢」が無くなったときに内在の仏があらわれ、内在の神があらわれる。
この時が悟ったのである。

そして「我慢」が出たとき仏が隠され、神が覆われる。
隠覆(いんぷく)を無明(まよい)と言う。
その時には悟が晦(くら)まされたのである。

一度悟ったから永遠に悟ったなどと思うのは間違である。
砂糖も水を加えて加熱すると飴になるが、一度飴になったと思って保存して置くと、
いつの間にか砂糖に還元しているいることがある。

人間も聖典を加えて長養加餐(ちょうようかさん)すると、我が無くなって仏の境界に入るが、
一度悟ったと思ってそのまま放置して置くと、元の我が出て凡夫になっていることがある。

聖胎長養(しょうたいちょうよう)が必要なのはそのためである。
白隠禅師が大悟十八回小悟は数知れずと言われたのもそのためである。

我欲、我慢、我執が出たら、元は悟っていても今はもうその悟が晦まされているのである。
我慢の心が出て、人を礼拝する心の代りに、人を審判(さば)く心になったとき、
その人は地獄の鬼の心になったのであり、閻魔の心になったのである。

          <感謝合掌 平成25年11月11日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月4日 頓首再拝>)

人を審判(さば)かぬ日 - 伝統

2019/11/05 (Tue) 12:59:07


          *「光明道中記」(11月12日)より

【自分を標準にして人を審判く限り、人の心に平和は来ない。(『生命の實相』第十一巻)】

キリストが磔刑(はりつけ)になったときに「他(ひと)を救いて己を救い得ざる者よ」と
言って嘲笑したユダヤ人があった。

キリストは受難の前、ゲッセマネの園で血の汗を流した程苦しんだと云うことであるし、
十字架の上にあっても「神よ、神、我を捨て給うか」と悲鳴を挙げた。

五官で観る者は、その血の汗を観、その悲鳴を聴き、
キリストは悟っていなかったと言って嘲笑するであろう。

悟るとは何であるか。
そこに神が顕れることではないか。

では悲鳴は神であるか、血の汗は神であるか。
悲鳴は神ではない。血の汗は神ではない。
無論それは悟ではない。

それはキリスト自身が言ったように、人類の罪の代贖(みがわり)である。
人類の罪がそこに血の汗となり、悲鳴となって、音を立てつつ壊(くず)れ落ちたのである。

悲鳴は神ではなく、血の汗も神ではないが、挺身して人類の代贖者(みがわりもの)に
なろうと決意したイエスの《愛が神なのである》。
然(しか)り、愛が神なのである。

従容(しょうよう)として、莞爾(かんじ)として微笑して死に就(つ)き得ようとも、
愛なくば其処に神はいないから、悟もなく、仏もいないのである。

苦しんでも好い、泣き叫んでも好い、
愛を晦まさないこと、閻魔の心にならないことが大切である。

「神よ、彼らを赦したまえ、彼らは為すべきことを知らざるなり」
落涙霏々(らくるいひひ)たり。

          <感謝合掌 平成25年11月12日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月5日 頓首再拝>)

夫婦互いに調和する日 - 伝統

2019/11/06 (Wed) 14:36:08


          *「光明道中記」(11月13日)より

【周囲の人は自分の生活の鏡。(『生命の實相』第四巻)】

維摩が病気で寝ていたとき、文殊菩薩が病問の使者として来た。
維摩は文殊に対して、「衆生病むが故にわれ病む」と答えている。

生長の家ではあまりに病気が治りすぎるために、またあまりに現象的利益が得られるために、
現象的な利益に傲(おご)り驕(たかぶ)って、病気のないことを悟の証拠にしようと
思ったり、金の儲かることを悟の証拠にしようとするような危険がある。

これは厳重に避けなければならない錯誤である。

「従容録」第三十六則馬師不安の公案がある。
不安と云うのは病気と云う意味である。

馬師の話は七月二十一日の欄でも触れたことがあるが、馬大師が病気で寝ていた。
そこで寺の院主が「和尚(おしょう)近日(きんじつ)尊位(そんい)如何(いかん)? 」
とやった。 「近頃病気は如何(いかが)でございますか」と云う程度の問だ。

馬大師答えて曰く、「日面仏(にちめんぶつ)、月面仏(げつめんぶつ)だ」
これは「仏名経」に載せられている仏の名前であるが、
日面仏は昼を照らし、月面仏は夜を照らす。

昼は健康を表し、夜は病気を表している。
馬大師は「昼あり、夜あり、それが自然の健(すこや)かさ」と言ったのだ。
下痢あり、嘔吐あり、そのまま健康なのである。

晴天あり、雨天あり、そのまま日々好日である。
凡夫の晴天はそれに執(とら)われて慢心し、凡夫の雨天はそれに執われて悲しむ。

聖人にも雨は降るが、青空のように雨の染(しみ)を残さぬのである。

          <感謝合掌 平成25年11月13日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月6日 頓首再拝>)

執着が無くなる日 - 伝統

2019/11/07 (Thu) 14:05:26


          *「光明道中記」(11月14日)より

【雑念妄想は神想観を妨げず。雑念妄想そのまま実相を念ずれば好い。
                             (『生命の實相』第九巻)】

下痢あり、嘔吐あり、それがそのまま健康なのである。
凡夫はそれに囚(とら)われて囚人となり、
聖人は囚(かこい)の外に出てそれを見ているだけである。

「何じゃ、そんなことなら生長の家へ入るのではなかった。
生長の家に入れば現実に病気が治るのか思っていた」と
不平を言う者は率爾者(あわてもの)である。

実際病気が軽減し治っているのである。
尤(もっと)も生長の家が治すのではない。
人間には自然療能と云う大生命力が宿っていて、その儘病気が治るようになっているのである。

そして下痢あり、嘔吐あり、それがそのまま健康であると云うのは、
下痢も嘔吐も自然療能と云う大生命力の働きであるからである。

凡夫は自然療能力が霹靂(へきれき)の如くはためくのを見て戦慄し、
自己に宿る生命力を萎縮せしめて病気を更に増悪せしめるが、
悟った人はそれを有難いと見て感謝して恐れないから、自然療能力を益々増大するのである。

されば生長の家に入ってその真理の一端を知らされれば、生長の家へ入らない前よりも
病気に罹らなくなり、なっても速やかに治癒に赴(おもむ)く。

けれども病気にならないことが「悟」に必ず付随すると思っている人は、
必ず終るべき肉体の寿命が終ろうとする時、
「自分は依然として悟れなかった」と切歯扼腕(せっしやくわん)しなければならぬであろう。

          <感謝合掌 平成25年11月14日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月7日 頓首再拝>)

恐怖心が全然なくなる日 - 伝統

2019/11/08 (Fri) 18:06:29


          *「光明道中記」(11月15日)より

【恐怖心や不安は消極的に生理機能を萎縮沈衰せしめる。(『生命の實相』第一巻)】


南岳禅師、嘗て病気をしたときに、自分で斯う考えて治癒せしめたと云う話がある。
以下は禅門の大家、故秋野孝道師が話された筆記を借りるので、生長の家が主張するのでは
ないが、生長の家の説くところと同一である ――


「病と云うものは仏教から言うと業から起るものだ。業と云うものは何処から起る、
妄(まよい)から起る。それじゃその妄想(まよい)は何処から起るかと云うと心から起る。
其業を作る所から病気が起って来る。

病気は元(も)と業だ。業は元(も)と妄(まよい)だ、妄の源(みなもと)は心だ。
サア心と云うものは何だ。心は無生(むしょう)としてある。其(その)一番源となる心と
云うものは無生なものだ。全体姿形のあるものでない。

そんならば此病は何(いず)れの所より来ると観念する時、病は平癒したと云う事がある。
病を根底から直した。
それで自分の病気は心から妄となり、妄から業と云う事になって来ている事である。」


口演の速記であるから随分重複した文章になっているが、病気の本源を探ね行き、心に到達し、
心も無と知り、無いものから生じた病気も無と知り、大安心に達したとき自然療能力で病気が
治るのは今更(いまさら)始まったことではない。

          <感謝合掌 平成25年11月15日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月8日 頓首再拝>)

自在無礙の日 - 伝統

2019/11/10 (Sun) 15:51:52

          *「光明道中記」(11月16日)より

【見えないものだけが本当の存在である。(『生命の實相』第二巻)】

秋野孝道師は自分の先輩西有禅師が赤痢に罹ったときの心境と生活態度を時々話して
感嘆せられてものであった。

「西有禅師が赤痢をやった時に私は感心した事がある。看護婦が来て便器を持って尻の処へ当てて
居る。それに眼鏡を掛けて『元字脚(げんじきゃく)』という本の下見をして居った。
目が凹(くぼ)んで了って、日に何十回と下痢をするので声なども嗄(か)れて居る位。

私は見舞いに行って見ると、巡査は向うの縁側に腰を掛けて居る。私が、こんな大患で貴僧
本を見ては身体に障(さわ)るでしょう。と云うと、『ナニ見る方は見る方放(ひ)る方は放る方で
やるさ』と小さい声で言って居った。

ナカナカそんな本など見て居れる時では無いが、
其の時の老師の狂歌があったけれども忘れて了った。
老師の境涯は実に病不病を離れて了っているのであります・・・」


秋野孝道師は西有禅師の善いところへ目を向けた。
それが悟と云うものである。

見る相手方が光って見えたとき此方(こちら)が光っているのである。
見る相手が曇って見えたとき此方(こちら)が曇っているのである。

若(も)し秋野孝道師が西有禅師を評して、
「西有禅師ともあろうものが赤痢にかかるなんて何の《ざま》だ」
などと考えたとしたら秋野氏は地獄の鬼の心になったのであろうに。

          <感謝合掌 平成25年11月16日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月10日 頓首再拝>)

食を正す - 伝統

2019/11/10 (Sun) 15:53:24


鶏卵礼讃を止める日

          *「光明道中記」(11月17日)より

【汝等何を食い何を飲まんと思い煩う勿れ。(『生命の實相』第一巻)】

鶏の飼料の値段が昂騰しているのに鶏卵は
生産過剰で価格が低落して副業農家は赤字で悩んでいるとの事である。

幼少期には鶏卵は発育促進にバランスを得た栄養成分をもつのであるから
大いに食べて農家の経済を補ってあげるがよい。何しろ1個の卵殻の中にある成分だけで、
雛鳥の骨格も筋肉も内臓も脳髄も生成するだけの成分が揃っているのだからである。

併し病人や老人にとっては、あまり推奨し得る食物ではない。
それはその成分にコレステロールが含まれているからである。

コレステロールは老人に於ては血管壁に沈着して血管の硬化し、高血圧や、脳出血の原因になる。
病人にとっては消化不良では醗酵性下痢を起すことがある。
鶏卵は柔らかいから病人の食用として消化が好いなどと思っていると全然その反対である。

人間は「何を食い何を飲まんと思い煩う勿れ」が生長の家の主張である。
鶏卵食を摂(と)らなければ、また何々食を摂らなければ病人や虚弱者に栄養が摂れない
などと思うなというのである。

鶏卵以外の普通の食物にもっと栄養の多いものがザラにあり、外見は硬くとも、
硬い食物繊維が胃腸を刺激して消化液の分泌を促進する。

鶏卵を食するなら硬く茹でた方が生卵よりもよく消化する。
鳩や鶏は消化を促進する刺激剤として瓦礫や貝殻を食したりする。

・・・

日本的食物に目覚める日

          *「光明道中記」(11月18日)より

【自然は生命の源泉である。(『百事如意』)】

日本人の体位低下は、西洋人の健康増進法を直輸入したところに原因していることを
気付かぬ人が多いのは残念である。
同じ人間のようでも西洋人の健康食物と日本人の健康食物とは異なるのである。

生物の食物は、其処に生まれた周囲に生じている食物を食べるのが適食である。
同じ芋虫だと言って大根に出来た芋虫は大根の葉を食って最も生長する。
蚕は桑の葉に生じた芋虫であるから大根を食わせたら死んでしまうであろう。

西洋人と日本人との相異は、その出生せる場所が異なるから、
桑に出来た芋虫と、大根に出来た芋虫との食物の相異のように、
人間の食物も相異しなければならぬ。

日本人に西洋的食餌を押付けるのは、蚕に大根葉を食わせるのと同じである。
体位が低下し虚弱になるは、そのまま素直(与えられた場所のもの)を失って、
何を食い何を飲まんと思い煩(わずら)ったからである。

三韓征伐時代の日本人は西洋人の食物を全然食しないで純粋の日本食で玄米を食していたから、
その体躯はいまよりもズッと骨太であった。

当時の軍刀などはあまりに長身で現在の日本人はそれを引き抜くことすら困難である。
また重量も非常に重く到底現在の日本人には自由に振舞わしかねるものである。

・・・

身土不二の真理を悟る

          *「光明道中記」(11月19日)より

【消化吸収とは食べた物を「人間自身」に変化してしまうことである。(『生命の實相』第六巻))】

台湾の水牛は台湾産の稲藁(いねわら)を食うが、日本産の稲藁を与えても食わないと
云うことを台湾から来た人に聴いたことがある。

人間から見れば産地が異なっても同じ稲藁に見えるけれども、動物は本能が発達しているから、
産地の相異による自分の食物としての適不適を知っているのである。

尤(もっと)も熱帯産米は幾分パサパサしていて日本人の嗜好に適しない。
何故パサパサするかと言うと、脂肪分が少いからである。

熱帯地に住む人間には身体を熱せしうむる脂肪分が不必要であるから、
自然は熱帯地米の脂肪分を減じているのである。

茲(ここ)にも大自然が観られる。
大自然の心は熱帯地に住む人には熱帯の産物を食せよ、
寒帯の人間には寒帯の食物を食せよと云うことである。

北海道その他、寒冷の地域に行くと脂肪の多い鮭や鱒が河川を盛り上るように上って来る。
寒地の人間の食物としてあれほど身体を温める食物は他に多くないのである。

鮭や鱒は温帯の大多数の日本人には食用に供することは遠慮し、
緯度から言えば北海道と同じ又はその以北にあたるヨーロッパ方面に住む民族に輸出すべしである。

国際収支の上からも健康上からもこの方がよいのである。
魚も、果物も、成るべく自分の住む土地の附近に出来たものを食べるべし。
エネルギー危機の時代に輸送力の節約にもなる。

・・・

正食に帰る日

          *「光明道中記」(11月20日)より

【生長の家は病気を治すところではなく、病気を放すところである。(『生命の實相』第十四巻)】

国民体位低下の原因に数えられるものに砂糖の過食がある。
砂糖の過食は、人間が味覚と云う五官的快楽に諛(こ)びるための「何を食い何を飲まんと思う」
心の状態の反影としての不自然食である。

その不自然的害悪を成るべく避けるためには2つの方法がある。

成るべく自分の生活地の緯度の近いところで産した砂糖を食用にすることである。
東北地方や北海道の人なら北海道附近で採れる甜菜糖を食することである。
本州の人なら成るべく本州に近いところの沖縄方面で採れる砂糖を食すべきである。

同一の形に見える砂糖でも霊妙な感覚で感ずるならば、産地によって悉くその成分が異なるのである。
日本の精糖源は台湾、東南アジア、南米と段々日本を遠ざかって行くが、日本の需要は出来るだけ、
北は北海道の砂糖、南は沖縄産の砂糖を以てする方が、日本人の健康食に敵(かな)う。

沖縄糖の中には精製工程が不完全で手工業的製産で黒砂糖などを作っているとこともあるらしく、
それらは一層完全食として体位向上に適するものである。

菓子も「黒羊羹」のように黒砂糖のものの方が飽きが来ないのは、
成分が自然をそのままで平均しているからである。
自然が尊い。

          <感謝合掌 平成25年11月20日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月10日 頓首再拝>)

味わい深い人になる日 - 伝統

2019/11/12 (Tue) 14:01:45


          *「光明道中記」(11月21日)より

【家族に礼を言うこころになれ。(『生命の實相』三巻)】

親が死んでも泣かぬのが悟ではない。
大いに泣いて後が残らぬのが悟である。

弟子が下手に音楽を奏するならば、その下手さがよく判って不快なのが悟である。
時にはその下手さに腹が立って弟子を擲(う)っても悟である。

禅家ではよく先輩が三頓(とん)の棒や三十棒を喰わせると言うが、
雪の積った竹を叩くのは、竹を憎むからではなく竹を愛して雪を払ってやるためである。

叩かれて相手に咬み着く犬の様な心にはなりたくないものである。
と言って私は叩くことを奨励する訳ではない。

何事が起っても、淡々として空言のような顔をして空嘯(そらうそぶ)いている人には
深い味わいは感じられない。味わいの深い人は、やっぱり人間味の深い人であると思う。

じっと人を抱きしめるような思い、一緒に咽(むせ)び泣きたい思い、味方のチームが優勝した
といっては歓喜の乱舞をしたい思い、病人を見ては何とかして救ってあげたい思い・・・
現象は無いことは無いとして、心に跡を残しはしないが、その時、その時の、出て来ることに
真剣に魂の底から感じて行ける人間は味がある。

併し、いつまでもクヨクヨ思っているのは見苦しい。
文殊菩薩が維摩を病問に来たときに「不来の相で来た」と云う語があるが、
「鳥飛んで跡を残さぬ心で深く行ずる」ことが大切である。

          <感謝合掌 平成25年11月21日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月12日 頓首再拝>)

下に降(くだ)りて待つ日 - 伝統

2019/11/13 (Wed) 08:50:39


          *「光明道中記」(11月22日)より

【弱き人を力づけ善に導く道は讃えるにある。(『生命の實相』十一巻)】


今日は私の誕生日である。

旧暦にするならば10月の16日未明、十五夜の月がまだ地平線下に没せず而(しか)も朝の太陽が
さし昇って空には日月両(ふた)つながら揃っている時に、私は呱々(ここ)の声をあげた。
幼い時には誕生日を忘れていた自分も今では誕生日を多くの人が祝ってくれるようになった。

いつの間にか私はあまり押し上げられたような気がする。
自分はもっと下のところに抑下(よくげ)していたい思いで一杯である。

高座に立って講演などしたくないのである。
だけども講演に出て呉れと言われると、無下にことわることの出来ない自分である。
別に講演料を貰う私ではない。

会場整理費などは会場の借賃や光明思想普及費に使われる。
全くの私の奉仕である。
これを拒絶することは奉仕を拒絶することになるから断り切れないのである。

『老子』に「跂(つまだ)つ者は立たず」と云う言葉がある。
人はあまりに伸びることにのみ気をとられているときには、
知らず識らず跂(つまだ)っていることがあるものである。

無論「歩行する」には一時跂(つまだ)つことが必要である。
併し跂(つまだ)った跡には踵(かかと)を地につけることが必要である。
一歩一歩踏みしめること、脚下(あしもと)をよく見ること。

浮ついては可(い)けない。

          <感謝合掌 平成25年11月22日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月13日 頓首再拝>)

何事にも細心の日 - 伝統

2019/11/14 (Thu) 17:42:48


          *「光明道中記」(11月23日)より

【感情で捉われるな。激情を支配せよ、とらわれる者は皆奴隷なのだ。(『生命の實相』第四巻)】

三田の伝染病研究員だと自称する人から、某誌にたのまれて生長の家の批評を書くことになっている
から、貴書の『人間死んでも死なぬ』その他二三を読んだが、貴下に会いたい、「別に採って食う訳
でないから1時間ほど会って貰いたい」と云う妙な書き方の手紙が来た。

こんな種類の手紙は実に沢山来るのである。
有名禍とでも言うものであろう。

そこで秘書の方から、『人間死んでも死なぬ』は生長の家の主著でない、心霊現象が主になっている
事、1時間ほど会って批評するのは余りに物に徹しなさすぎるのであるから、批評するなら全集の
全巻を読んで間違わぬように批評して貰いたいと云うことなどを返事した。

すると大変感情で立腹した返事が来た。
それには「常識と礼儀を弁(わきま)えろ」と激越な語調で罵(ののし)りの言辞が連ねてあった。

野口英世博士は1個の黄血病の病原体を研究する為にでも全生命を捧げたのであった。
1時間の面会で生長の家と私とを批評する文章を雑誌に堂々と書こうと企てる此の伝染病研究員を
私は憾(お)しむ者である。

人間は黴菌よりも大いなるものである。
黴菌を研究するには数年数十年を費やしながら、今世界を動かしつつある偉大なる思想と、
その人とを簡単に批評し去ろうとするような人に私は逢いたくない。

          <感謝合掌 平成25年11月23日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月14日 頓首再拝>)

あとに苦味の残らぬ日 - 伝統

2019/11/15 (Fri) 12:29:33


          *「光明道中記」(11月24日)より

【過去を捉えて離さないのは自分の心である。
 過去の過(あやまち)を消す極意は過去から心を放つにある。(『生命の實相』第一巻)】

人間が時々好きになったり、嫌いになったりすることがある。
嫌いになるのは人間の実相が晦(くら)まされているときである。
先生でも人間が嫌いになることがあるのですかと言われると、仕方がない。

降参するほかはない。
実際人間がたまらなく嫌いになることがあるので、掛値は言わない。
偉がろうとも思っていない。

解からない人間は耐(たま)らなく嫌いであり、虫の好すぎる人間もたまらない。
功績を鼻にかける人間も耐(たま)らない。

先生でもそんなに好き嫌いがあるのですかと言われると、やっぱり、冷たいものは冷たく感ずるし、
熱いものは熱いと感ずるし、快いものは快いし、不快なものは不快だと言うほかはない。

冷たいものが熱く感じられたり、熱いものが冷たく感じられたり、
下手な音楽が上手だと感じられたりしなければ悟でないと云うのだったら
私はもう悟は御免を蒙(こうむ)りたい。

先生それでは先生は常人と同じではありませんかと言われれば、そうかも知れない。
ただ常人は一度熱いと執したら冷たい膾(なます)でも熱いと囚(とら)われるが、
私が異(ちが)うのはただ痕(あと)がのこらないことである。

          <感謝合掌 平成25年11月24日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月15日 頓首再拝>)

一歩一歩撓(たゆ)まず歩く日 - 伝統

2019/11/16 (Sat) 13:54:26


          *「光明道中記」(11月25日)より

【艱難の来る毎に吾らは生命の潜(かく)れていた力を発現する。(『生命の實相』第四巻)】

私は一歩一歩毎日歩くことだけは努めて行きたい。
私には他の人のように駆歩(かけあし)する力はない。
常に駆歩している者はついに倒れてしまうであろう。

痩我慢(やせがまん)か知らないが、ただ撓みなく日々に歩いて行く者だけが最後の勝利を得る
のだと思う。然(しか)し自分の力のみで歩いてはならない。
常に神を呼びつつ進まなければならない。

大股に歩いては長時間歩くことは出来ないのである。
犬を伴れて歩いて見るとその事がよく判る。
犬の方が人間より歩くのに疲れないし、速力なども早いのである。

人間の眼は光がなかったら見ることが出来ない。
自分の智慧で見、自分の智慧で計(はか)らって見たとて、事はなかなか成就するものではない。
神智に照らされたときのみ何事もすらすらと進行するのである。

功に誇る者が神智を失うのは、山上の水は使い切ったら補給の道がないようなものである。
功に誇ってはならない。
われみずからにて何事をも成し得ずであるからである。

若し神がいなかったら、また若し神が私を導いて下さらなかったら今日の私はないであろう。
今日の私があるのは、「私」があるのではなくて「神」がある《のみ》である。

神に感謝しないでいることは実相を晦(くらま)すものである。

          <感謝合掌 平成25年11月25日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月16日 頓首再拝>)

寛容の精神湧き出ずる日 - 伝統

2019/11/17 (Sun) 13:44:39


          *「光明道中記」(11月26日)より

【寛容、雅量の徳は潔癖の徳より上位である。(『生命の實相』第四巻)】

もっとも下にあるものは地である。
そのもっとも下にあるものの中からこそ万物が生ずるのである。
すべての動物、すべての植物、すべての鉱物悉くもっとも下にあるものから生じたのである。

もっとも下にあるものの処へ一切の栄養は集まってくるのである。
雨を地を潤し、日光は地に光を降り濺(そそ)ぐ。
すべての肥料は地へ灌(そそ)ぎかけられる。

地は一切の重味を荷って黙々としているが、
一切のものは地によって支えられて地によって生み出されたものである。

蔓(かずら)の如く一時に勢いよく伸び上がるものは威勢が好いが、冬には葉を枯らし、
風が吹けば風に飛ばされてしまう。

地はどんな風にも、どんな風水にも、どんな噴火にさえも滅びぬ。
大海の底にあっても、地は依然として地であって、その大海を支えているのである。

吾れ大地の如くならんとは私一つの念願(ねがい)である。
最も下にあらんことを希(こいねが)い、最も動かざるものであることを希い、
最も誇らざるものであることを希い、最も生み出すものとならんことを希う。

          <感謝合掌 平成25年11月26日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月17日 頓首再拝>)

現象の奥に実相を見る日 - 伝統

2019/11/18 (Mon) 14:30:55


          *「光明道中記」(11月27日)より

【心を清く空虚にせよ、心の清き者は神を見ることを得。(『生命の實相』第十四巻)】

どんな立派なものでも、浮世のものには、心を奪われまい。
浮世のものは崩れるものであるからである。

崩れるものであるからとてそれを避けまい。
崩れるものの中に実相の光明が輝いているからである。

現象を現象として追いまわすのではなく、現象の奥に実相を見出し、それを顕し、
礼拝するための行事が自分の生活であって欲しいのである。

自分と云うものが、実相でありますように、
自分と云うものが実相よりも低いものに心が捉われませぬように。

静かに日々の自分を省みよう。
速力が速いのが好いのではない。眼立つのが好いのではない。数が多いのが好いのではない。
少くも好い。実相があらわれれば好いのである。

実相はダイヤモンドのようなものであり、砂金のようなものである。
小さくとも価値高くして衆人の仰ぎ見るところのものである。
衆人に仰がるるためにダイヤモンドたらんとするのではない。

人間 固(もと)より仏、固より光明燦爛たるのである。
これを晦(くら)ましていたことを恥じ、それを諦(あきら)かにするのが日々の行事である。

          <感謝合掌 平成25年11月27日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月18日 頓首再拝>)

功成りて功に居らざる日 - 伝統

2019/11/19 (Tue) 12:43:30


          *「光明道中記」(11月28日)より

【生命は愛と智慧とによって生く。(『生命の實相』第ニ巻)】


「功成りて居らず」と云うことが大切である。
功成りてみずから高きにあろうとするから、押し落そうとするものが出て来るのである。

人は常に地下水の如くあるべく心掛けねばならないのである。
地下水は涸(か)れることは無いが、山上の水は時に涸れ、
時に山海嘯(やまつなみ)を起して万物を覆すのである。

みずから高く構えるものは、下が隙だらけで危いのである。

無欲、無執、ただ潤すことのみを心掛くべきである。
自分が大なることを欲しないで与えることのみを心掛けておれば自然に大きくなる。

潤いのある者は柔らかい。
柔らかいものでないと物を育てることが出来ないのである。

硬(かた)き土地は物を生ずることは出来ない。
石地には豊富なる植物は生じない。
柔らき土壌にして初めて物を育てるのである。

我(が)の強いものは一時その我を通し得るにしても、
その我を通したそのことが自らを破壊するもとになる。

生きているものを見よ、すべて《ふうわり》と柔らかいのである。

我が出たとき人間は死につつある。
硬くなったとき人間は死につつある。

          <感謝合掌 平成25年11月28日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月19日 頓首再拝>)

心、水の如く柔らかくなる日 - 伝統

2019/11/22 (Fri) 13:55:15


          *「光明道中記」(11月29日)より

【生命は常に生きている。吾々の生命は進んで行く、停止はない。(『百事如意』)】


生きているものは温い。

あまり熱くても生命は死に、あまり冷たくても生命は隠れる。
激しすぎてもならないし、熱し過ぎてもならないし、
冷たすぎても、無頓着過ぎてもならないのである。

調和した温かさこそ必要である。
激せず、熱せず、冷たくもならず、程よく温かいところに生命は大きく顕れる。

天は高きを以て低きを埋める。
水は上より下を満たし、山は崩れて低地をうずめる。

自然は《ひとり》高からんとする者を崩して低く謙(へりく)れるものに与えんとするのである。
だから高からんことを願わずして、低きに与えんとするものは
却って天の道に護られて力が強いのである。

水は低きにつこうとするが故に力が強い。
水は柔かであるが故に力が強い。

水が若し硬ければ蒸気となって諸種の機関を動かすことが出来ない。
水が若し硬ければ滝となって降ることが出来ない。
水が若し硬ければ落差によって水力電気を起すことは出来ない。
水が若し硬ければ蒸気になって空中に飛び上がることは出来ない。

水の偉大さはその柔かさにあり、人間の偉大さも亦(また)柔かさにある。

          <感謝合掌 平成25年11月29日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月22日 頓首再拝>)

空の徳を生きる日 - 伝統

2019/11/24 (Sun) 18:54:43


          *「光明道中記」(11月30日)より

【物質はすべて心の顕れである。物とは「心の塊」である。(『生命の實相』第九巻)】


中空(なかくう)なる竹は折れがたいのである。
それは余程(よほど)撓(たわ)んでも折れ難いのである。
空(くう)の徳である。

喬木(きょうぼく)は風に折られ、
葉あまりに繁き常磐樹(ときわぎ)は却って雪に逢えば折れてしまう。
中あまりに充実し、葉あまりに茂るときは、却って災禍(わざわい)身に及ぶ。

落葉すべき時に葉を落し、
芽をいだすべき時に新芽を出すは時を得たるもの、また策を得るたるものである。

空の中に一切があることを知らず、形のみを集めんとするものは、飽(あ)くことを知らない。
飽くことを知らないものは、満足することを知らない。
満足することを知らない者は常に不幸の者である。

すべて物は用を為すためのものであって、蓄積すべきためのものでない。
貯蓄奨励と雖(いえど)も、国家有用のことに用を為さんがためであって、
貯蓄そのものが目的でない。

用とはハタラキである。

物の本質は物に非ず、《いのち》であるから、
用をなしたときに、《いのち》は発揮され、

《いのち》は無形なものであるから、
《いのち》を発揮したとき物は無形となって発顕するのである。

《いのち》の固定したものが「物」であり、「物」が《いのち》に還元する時に
ハタラキをあらわすのである。

活動の固定化したものが「物質」であり、物質が波に還元する時電波となるが如きである。

          <感謝合掌 平成25年11月30日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月24日 頓首再拝>)

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