伝統板・第二

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実相を観ずる~「神想観」(光明掲示板・第二) - 伝統

2019/10/23 (Wed) 12:12:23

光明掲示板・第二 消滅により、
「実相を観ずる~「神想観」」 の伝統板・第二への再掲示です。


『實相のひびきを直感すること』

        *「人生の秘訣365章」(P214)より

周囲のいろいろの意見に惑わされてはならないのである。
私たちは謙虚に人々の意見を聴かなければならない。
しかし盲従したり、色々の意見に惑わされてはならないのである。

色々の意見にはそれぞれの立場から見てそれ相応の美点がある。
それらは全面的に排斥してはならないが、また全面的に盲従してはならないのである。

採るべきものは採り、不適当なものは捨離し、神想観によって實相のひびきを直感し、
そのひびきに従って、みずからの判断を最も正鵠なるものたらしめなければないのである。

神想観なるかな、神想観なるかな。

            <感謝合掌 平成25年8月24日 頓首再拝>

   (   <感謝合掌 令和元年10月23日 頓首再拝>)

神想観の諸段階とその功徳 - 伝統

2019/10/26 (Sat) 19:31:05


     *『生長の家』誌 昭和34年8月号より
      (「谷口雅春先生をお慕いする掲示板」<”明鏡さま”投稿記事>より
       拝借いたしました。”明鏡さま”のお許しをお願いいたします)


生長の家の誌友は是非とも神想観を怠(おこた)ってはなりません。

スター・デーリーは斯(こ)う言っています。

「禅定(ぜんじょう)的神想観(Meditation)は若(も)しきわめて完全に行われたならば、
それは一種の芸術と謂(い)い得るであろう。それは音楽や絵画の如く必ずしも特殊の形式に
執(とら)われる必要はないのであるが、

すべて美が形として表現されるときには、それぞれの根本的法則があるように、
メディテーションを行うにも一定の法則があり、その法則が完全に行われるときには、
意識の高揚を体験することができるのである。」

このようにスター・デーリーは言って、
その根本法則を次の7つの段階に分けて示しています ー

1.決意。
2.心身を放下すること。(緊張を解くこと)
3.精神を本尊に集中すること。
 (デーリーはCentralizationという語をつかって次の“精神統一”と区別している。
  彼は瞑目(めいもく)中の眼球を上目附(うわめつき)に額(ひたい)の上方を
  視(み)つめるつもりでキリストの姿を描いて、それに精神を一点に集中するのである)

4.精神統一。
  (Concentrationである。精神集中が一層強力となり純化されて、一切の雑念が消える
   状態である。目の裏が蒼空(あおぞら)のような感じとなる)

5.祈りの言葉の黙念。(本尊に対して欲する事物を念ずる)
6.欲する事物の成就せる有様を持続的に瞑想する。
7.既に成就せりとの強烈な自覚。

  ・・・

(1)決意

最初の「決意」と言うのは、「吾れ神想観をなす。これを為し終らざれば一歩も退かず」と
云う決意をなすことが必要なのである。

聖書にイエスが“神の子”の悟りに入(い)り給うたときに、
「四十日、四十夜、断食して、後に飢えたもう。試むる者きたりて言う、

『なんじ若(も)し神の子ならば命じて此等の石をパンと為らしめよ』答えて言い給う
『人の生くるはパンのみに由(よ)るにあらず、神の口より出(い)づる凡(すべ)ての
言(ことば)に由る』と録(しる)されたり」とあるのは、

イエスが徹底的に神想観をなそうと云う決意の示しがあらわれているのだと
言わなければならないのであります。

「四十日四十夜断食して後に飢えたもう」と云うのは四十日四十夜断食して神想観をした後に、
飢餓感が甚(はなは)だしくなったという意味であります。

「飢えたもう」と云うのは必ずしも“腹が減った”と云うような軽い意味ではありますまい。
たんに腹が減るだけなら、一二日断食しても腹は減っているのです。
だからこの場合の「飢え給う」は、たまらないほど飢餓感が激しくなったことであります。

その時にサタンが出て来て、
「お前はそんなに神の子だったら、此(こ)の石をパンとして食べたらどうですか」
と言ったというのである。

併(しか)しイエスは「唯今(ただいま)、神想観中」と言うわけで、
「神の口より出づる言葉を今受けつつあるのである」とて、
そのような肉体的飢餓感の誘惑を退けて、「神の言葉」を念じつづけたのであります。

  ・・・

メディテーションにとって次に必要な根本的法則は、
肉体的及び感情の緊張を脱落させることであって、
これを道元禅師は「身心(しんじん)脱落・脱落身心」と云う語で表現されたのであります。

これも最初から完全に行われるにはきまっていないのであります。
それは坐禅をやってみた人々の経験によって明らかであります。

スター・デーリーは次のように謂(い)う ー

「メディテーションは易々加減(いいかげん)に出来るものではないのである。
それは世界中の芸術中の最大の芸術である。だから、それを実修する人に
極度のきびしい鍛錬(たんれん)が課せられるのである。

仮借(かしゃく)なき自己の性格に対する自己批判と懺悔(ざんげ)が必要なのは
言うまでもないが、この芸術を完成せずには置かないと云う決意と、忍耐と失敗につぐ失敗や、
もうどうしたら好(よ)いかわからない杜惑(とまど)いにも屈せずに、

どこどこまでもやり遂げる“精進努力”と謂(い)う価いを払うということなしには、
その“手ほどき”さえも得られないのである。

メディテーションの深い境地に於いては、人は“自分自身”に直接対面するのである。
安光(やすびか)りの安価なニセ物の自分が露呈せられる。
善良なクリスチャンにありがちな極内密(ごくないみつ)の虚栄心のニセモノが
ニセモノ中の最も恐ろしいニセモノとして浮び上って来る。

今まで平気で語ったゴシップが恰(あたか)も殺人罪の如く思われて来る。
今まで思わず口をついて出た人の悪口がガラガラ蛇のように恐ろしいものに思われてくる。

告げ口することが恰(あたか)もジャーコール狼の出現のように見えて来る。
そして人を審判(さば)くことは恰(あたか)も夜襲うて来るハイエナのように見えて来る。」
と言っている。

こうして自己批判が徹底して今までの自分の行為や心境に直接対面して
それらが徹底的に否定され懺悔(ざんげ)されて来るのでなければならないのであります。

つまり神想観で実相を完全に観じるようになるまでに、
私たちは浄瑠璃(じょうるり)の鏡の前に立ったように心を静めて
自己の過去の心の汚れを徹底的に浄化して置くことが必要であるのであります。

この自己の徹底的批判は神想観又は祈りを繰返しているうちに益々峻厳(しゅんげん)に
なって来るのが普通で、私が『聖道(しょうどう)へ』の中で書いておいたように、
一切の肉食が残忍な行為に見えて来、呼吸するさえも多くの微生物を殺していると云う
反省にまで発展して来るのであります。

その過程に於いては私たちの潜在意識の底にひそむ傲慢(ごうまん)な虚栄心と、
肉体の自我心とが、今や謙遜(けんそん)に懺悔(ざんげ)せんとする自分に
挑戦して来ることがあります。

「誰でも肉食しているのに、どうして肉食しては悪いか」とか、
「獣肉を食するのは残酷だと言うが、お前だって魚をくっているではないか。
米粒だって生きているじゃないか。」とか云う風に肉体の自我心が言って
魂の向上を妨(さまた)げようとするのであります。

また時には内密にただ心のうちに空想で犯していた罪が想(おも)い出されて来て、
自分を“不浄の者”として叩(たた)きつけて再び起ち上がれないほどの魂の苦渋を
味(あじわ)わすこともあります。

自分の不信仰の根の深さがわかって人間的なプライドや自尊心が崩れてしまう時もあります。

こうしてメディテーションを続けている最初の或(あ)る段階に於いては
自己の無価値が痛感されて信念が滅茶滅茶(めちゃめちゃ)にあらされてもう
困憊(こんぱい)し切って、血塗(ちまみ)れのたたかいに、
もうどうすることも出来ないような心境になることもあるのであります。

若(も)し私たちが、内に潜(ひそ)む「自我の正体」を神が見給う如く見詰め、
更にそれを見詰めつつ押し進むならば、私たちは迷いの深さに、
とても実相を顕現する見込などはないと感ずるようにさえなるのであります。

しかし優れたる修行者はその中から勇敢に立上ります。
「自我の正体」をまざまざと精視(せいし)して、それに対して「「サタンよ、去れ」と
イエスが言ったように肉体的自我を否定することができます。

併(しか)し、「自我の正体」に対面したとき、それから抜け出すことをしないで、
「それほど悪いことでもないや」と、帰って来てくれることを待っている古い肉体我の
誘惑の温い腕にいだかれたくなって元の黙阿弥(もくあみ)になってしまう人たちも
随分あるのであります。

だから「“どんな事があっても精進努力をつづけて退転しないと云う決意”と云うものが
最初に是非必要だ」とスター・デーリーは神想観の過程のトップ事項に“決意”を挙げた
のであります。

  ・・・

(2)心身を放下すること。(緊張を解くこと)

次に必要な課程は「身心を放下すること」である。
「緊張緩和」と言う方が現代人にはピンと来るでありましょう。

「放つ」心境になろうとあまりも努力するがために、
却って緊張を増すことにもなるのであります。

私が発見した有効な方法は、全託の気持になり、呼吸を調(ととの)え、
呼吸に合わせて「平和であれ、静かであれ」と念ずることであります。

或(あるい)は「われ神の生命の洗礼を受く、われ神の生命の洗礼を受く」と
念じながら息を静かに静かに吸い、「われ神の生命に浄められたり、われ、新らしき者
なりたり」」と念ずると不思議に全心身が浄まって最早、罪なき者と云う自覚とともに、
「脱落身心、身心脱落」の境地に入るのであります。

肉体だけを力を抜く練習をしましても、心に罪の観念や、力(りき)みや緊張が
残っていましては、本当の緊張緩和になり得ないのであります。

こうして身心脱落の心境に入った次には、
本尊への精神集注(しゅうちゅう)を行うのであります。

  ・・・

(3)精神を本尊に集中すること。

スター・デーリーは、キリストの姿を心に描いて、それに精神集注をするのでありますが、
生長の家は万教帰一でありますから、キリスト教徒はそのようにして宜(よろ)しいですが、

浄土宗や浄土真宗の人たちは阿弥陀仏(あみだぶつ)の尊像を心に描いてそれに精神集注を
行うのもよろしいし、真言宗ならば、大日如来(だいにちにょらい)の尊像又は
「「阿字(あじ)」を心に描いて、その本尊に精神集注を行うのが宜しい。

日蓮宗の人ならば、「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」の
お曼荼羅(まんだら)を心に描いて精神集注すればよろしいし、

今まで信仰なくして最初から純粋に生長の家だけの信仰に入った人や、
「実相」の中に一切の本尊が存在すると云うことが理解された人ならば、
「実相」の大文字を本尊として心に描いて、それに精神を集注するがよいのであります。

要するに本尊への心の集注によって、本尊の御遺徳によって、
一切の雑念妄想が消え去るのであります。

  ・・・

(4)欲する事物の成就せる有様を持続的に瞑想する。

神想観の第六過程である「瞑想」は Contemplationを訳したのであります。
「黙念を持続的につづけておれば自然に瞑想になる」とスター・デーリーは言っています。

「黙念」の場合には「吾々は本尊を通して本尊の中で念ずるが、瞑想の場合には
吾々の内で吾々を通して本尊が念ずるのだ」とデーリーは注釈しています。

まことに神想観の深い状態に於ける心境を道破(どうは)したものと言えましょう。

「自分」と云うものが「神」と対立していて、「自分」が神に対して「祈る」と云う
最初の状態から段々「自分」が神に近づいて行って距離がなくなり、
ついに「自分」が神の中に入って念ずる

 ー まだその境地では、神の中に「自分」と云うものがありながら、
「「自分が祈る」と云う感じがある限り、神と「自分」と云うものの対立は消滅していない
のであります。

それが段々、「自分」が無くなり、「自分」と云うものが神に同化する境地になります。
自分と神とが一体になってしまう。

神が自分であり、神がこの肉体の中で念じておられるのだと云う境地になるのであります。

これが黙念 → 瞑想 → 既に成就せり 
との強烈なる自覚への到達と云う順序であります。

               【完】
      (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=80

            <感謝合掌 平成25年9月21日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年10月26日 頓首再拝>)

法悦の神想観 - 伝統

2019/10/27 (Sun) 19:37:09


         *『静思集』(P75)より

神は幸福の創造主(つくりぬし)、健康の創造主、歓喜(よろこび)の創造主、
一切のものの恵み主でありますから、吾々が幸福に成るためには神の恵みの中へ
飛び込めば好いのでございます。

静かに神のみ声をお聴き下さいませ。
眼を瞑って、そら、静かに、静かに。
神様のみ声が聴えるではありませんか。
 
「我れ爾(なんじ)らに全てのものを与えたり」と。

あゝ、神は既に私達に総てのものを与えて下さっているのでございます。
それから勝手に離れているのが私達だったのです。

神様のめぐみの流れの中に飛び込みましょう。

眼を瞑って!  静かに!  静かに!
あゝ、私は神の中にいる!  神さまの中に溶け込んでいる!

これが神想観でございます。

何よりも神が一切の善きものの根元であると云うことを知らなければなりません。

「我(が)」には善きものが無いのであります。
「我(が)」は、無であり、永遠の空虚でございます。
こう云う空虚な我(が)が所謂(いわゆ)る「我」なのでございます。

「我(が)」の力の誇りを捨てましょう。
あらゆる善きものは神から来ることを知りましょう。

善きものとは其処に神が現われていることなのです。
そのほかには何ものもないのでございます。

  ”天つちにまかせまつりし我身(わがみ)にはあたえ給いしことの嬉しき”
                      <黒住宗忠>

            <感謝合掌 平成25年9月27日 頓首再拝>  
  
  (   <感謝合掌 令和元年10月27日 頓首再拝>)

神のみを想い、神のみを観る - 伝統

2019/10/28 (Mon) 19:07:38


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』
       <十月「円満具足」10月7日>より

われわれは瞑想において、または神想観において、
けっして現象の不完全さと取り組んではならないのである。
神想観はただ神のみを想い、神のみを観るのである。

それは往相精進の行である。
それは上に向かって進む。

しかし神想観によって得たる真智により、
現象界に向下して方便智自在に現象界を処理するのである。

神想観中、完全円満な相(すがた)を観ずるが、その後に起こる事件の処理中には
(病気ならば回復の過程において)悪化と見える出来事が起こってくるかも
知れないのである。これを「迷いの自壊作用」と名づける。

このような自壊作用に面するとき、われわれはイエスとともに

「悲しめる者は幸いなるかな、彼らは必ずや慰められん。
神はいかなる混乱の中からも調和をもたらし給うのである」

と念ずるがよいのである。

           <感謝合掌 平成25年10月7日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年10月28日 頓首再拝>)

神想観中、誠(まこと)であれ! - 伝統

2019/10/29 (Tue) 21:16:01


          *「幸福を招く365章」(P152~153)より

神の啓示をわれ受けて

無限の智慧なる神を信じ、その神より啓示来たることを信じ、
それに従うことによって、神のみ心を地上に実践し得るものなることを信じ、
神のみ心を地上に表現することによって、地上の人類が等しく幸福となり、
同時に個人も幸福になり寿福おのずから兼ね備わるのである。

この信念の中核を成すものは「われ神の子なり」の自覚である。

「われ神の子なり」の自覚を中心として、無限の神智は流れ来り、
神との一体感によって、神の智慧と一円融によって行動することが出来るのである。

「われは神の子であるが故に、神の智慧はわれに流れ入りて、わが一挙手一投足を
導きたまうのである。われは事毎に成功し、無限の繁栄は必ず流れ入り来るのである」
神想観中に斯くの如く念ぜよ。

神想観中「なまくら」である勿れ。
真剣であり誠(まこと)であれ。
                            
           <感謝合掌 平成25年10月12日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年10月29日 頓首再拝>)

感謝の情感の神想観 - 伝統

2019/10/30 (Wed) 13:01:06


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<10月23日>より

神想観も「ありがたい」情感の神想観になってきたとき初めて尊くもあり、
荘厳であり、功徳も生ずる。

実在の本質はただの「念」だけではない。
だから念ずるだけでは実在を引き出すことはできぬ。

実在は「愛」であるから、われわれは万物に対する「愛」を起こさねばならぬ。
「愛」は相手を予想する感情であるから、「愛」は「愛」されることを望み、
「感謝」されることを望むのである。

神を愛しないでただ功利を「念」ずる神想観が功徳少なきはそのためである。

われわれはまず神を愛しなければならぬ。
「神」の前に死なねばならぬ。
「神」の前にすべてを捨てねばならぬ。

それは神が「犠牲」を要求せられるという意味ではない。
われわれの方が「神」を愛して「物質」を愛していない証拠としてである。

イエスは神を「父」と称した。
「父」という言葉の中に「子」が「父」に対する無限の情感が宿っている。

神想観の最後には必ず「ありがとうございます」と感謝の念を起こすべしである。

           <感謝合掌 平成25年10月23日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年10月30日 頓首再拝>)

神に融け入る神想観をする日 - 伝統

2019/10/31 (Thu) 13:30:28


          *「光明道中記(10月27日)」より

【健康とは筋肉の発達ではない。
 心に「私」なき聖者は常に長命である。(『生命の實相』第十二巻)】

神想観の実修にあたって、自分の欲する事物を精神統一の世界から招び出して来るために、
目的事物を強く念ずる人がある。
そしてそれは功を奏することもあれば、功を奏さぬこともある。

ただ注意すべきは「私」の凝念(ぎょうねん)の力によって
事物を現象界にあらわそうとするのは我(が)の心の力の仕事であって、
神の力の展開ではないと云うことである。

それは時にはひどく疲労を惹起せしめ又将来に愛憎の業を流転せしめることがあるのである。
何故なら「あれが欲しい」と念ずることは一種の愛憎の念であるからである。

神想観の最高の方法は、愛憎の念を動かさず、ただ実相の世界に、
神の智慧と愛と生命との充ち満ちてあるその妙なる有様を観ることである。

吾々は我の想念の力によっては、そう多くを動かし得ない。
実相の創化作用の自働によってのみ無限の力が湧いて来るのである。

ただ自分と云うものを仏(神)の家に投げ入れて、
仏(神)の方からはからわれることが正しいのである。

愛憎によって人間が註文しなければ、
欲しい事物が与えられないように思うのは神の力を信じないものである。

愛憎があればあるほど自由を失い、神の波長に合わず神想観の効果は少い。

           <感謝合掌 平成25年10月27日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年10月31日 頓首再拝>)

神想観は讚嘆行であり、礼拝行であり、感謝行である - 伝統

2019/11/01 (Fri) 12:10:37


            *「光明道中記(10月28日)」より

若し吾々が、実相なるもの、神、宇宙の本体、実在に対して、無限智、無限愛、無限生命、
無限供給、無限調和・・・等々一切の善きものを具体的に認めることが出来ないならば、
吾々の現実生活にもそれらの善きものが発現して来ないのは当然である。

何故なら外界は内界の投影に過ぎないからである。

吾等は我(が)の念力によって欲する事物を現象面に創造するのではなくして、
ただ実相妙有の相(すがた)を眺め、讚嘆し、礼拝し、感謝するのである。

神想観を我の念力の凝念法だと思っている人は全然間違であるが、
何か欲する事物を招び出すためにする行事だと思っている人も間違である。

そしてこれを一種の観念法だと思っている人は、
全然当らずと云う訳でもないが一面観である。

神想観は讚嘆行であり、礼拝行であり、感謝行である。

讚嘆と、礼拝と、感謝は、すでにその御業(みわざ)が既に成就していると云う前提の
もとに行ぜられるものである。それには成就しないかも知れぬと云う不安が微塵もない。

それは南無阿弥陀仏と称えて、信心決定(けつじょ)せると同じことである。
ただ異なるのは死後の世界に於ける救いが信心決定せるだけでなく、
神想観に於いては「今」すべての救いが信心決定せることである。

           <感謝合掌 平成25年10月28日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月1日 頓首再拝>)

神想観は吾が全身真理となる行法なり - 伝統

2019/11/03 (Sun) 15:07:30


            *『静思集』(P259~261)

全身「真理」そのものとなるとき、この一肉塊既に肉塊にあらずして、宇宙にひろがるなり。
宇宙が一身につつみ込まれてあるなり。全身が宇宙にひろがり宇宙が一身につつみ込まれてあるが
故に是れ全身に「一即多」を実現せるなり。

神想観をするときに非ずとも、一日のうち幾度(いくたび)か神想観の姿勢を為すべし。
身体疲れざること不思議なり。坐っていて疲れるは姿勢悪しき故なり。病人、いちにちのうち
十数間づつこの姿勢をとること。一日数回ならば元気回復早きなり。

神想観は病気を治すためにするものにも非ず、貧乏を治すためにするものにも非ず。
その他いろいろの功利目的を挙げるために為すものにもあらず、全身が真理と成る為なり。
全身が大宇宙そのものとつながる為なり。

病なき世界へ入(い)る為なり。
貧乏なき世界へ入るためなり。
此処、龍宮城なりと知る為なり。

七宝既に満ちてあるなり。
既に神の生命(いのち)茲(ここ)にあるなり。
また何をか求めんや。

(中略)

現象にはなお病みながら、病まざる自己を観ざるべからず、
現象には尚(なお)貧しくて而(しか)も既に無尽蔵の宝庫なる龍宮城にあることを観ざるべからず。
これわが全身を如意宝珠と悟るなり。

(中略)

肉体ありながら肉体なきなり。
肉体無しぐらいの悟(さとり)には非ざるなり。
このまま我が身(み)法身なり。此の儘我が身如意宝珠なり。

此処に肉体あるのに何故(なぜ)なしと云うやと問うが如きは心(こころ)盲(めしい)なり。

           <感謝合掌 平成25年12月24日 頓首再拝>

神想観は最高の悦び、最高の幸福 - 伝統

2019/11/04 (Mon) 14:54:57


           *「詳説 神想観」(P54~55)

現象が如何にあろうとも、ひとたび目をつぶって実相を観ずるとき、既にそこに
無限の供給があり、無限の智慧と、愛と生命と歓喜と、調和が充満している世界があるのですから、
そしてその実相の完全さは何人(なんびと)もこれを奪うことができないものですから、

実相を観ずる悦びにくらべたならば、
どんな他の喜びもこれにまさるものはないのであります。

そしてこの神想観は自分が今、その実相完全円満の世界に坐して、神の生命が流れ入って、
光明燦然と輝いている ―― その完全円満なる金剛身を観ずるというのですから、
こんな素晴らしい幸福は他にないのであります。

こうして実相の世界の完全さと、実相の人間の完全さを観想するだけでも既に無限の幸福で
ありますが、この善き想念を持続することによって現実世界に豊かにして調和せる世界が
実現し、且つ健全なる身体(からだ)が実現するのでありますから、
実相・現象ともに成就する二重の幸福が得られるのであります。

           <感謝合掌 平成26年1月9日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月4日 頓首再拝>)

『神想観』そして『招神歌』 - 伝統

2019/11/05 (Tue) 13:03:35


    *”童子 さま”のブログより拝借致しました。
     ”童子 さま”の広き心に、いつも感謝致しております。

     (『白鳩』誌 昭和22年5月号より) 

<『神想観』と米國光明思想>

米国光明思想家 グレーン・クラーク氏の祈りは 
『神よ、あなたの生命を吾に流れ入らしめ給え』(Lord fill me with Thyself) 
と云うのであります。 

デイヴアイン・サイエンスのヘンリー・ヴイクター・モルガン氏と協同して光明思想を宣伝している英国 チチエスター市のヘンリー・トマス・ハンブリン氏の著書にも同じ言葉が書かれています。

メタフイジカル・ヒーリングでは、神の生命をわが内に流れ入らせて、
神に任せ切ってしまえばもう我の計いで思い煩うことは要らないのです。 

『わがわざはわが為すに非ず』して、
おのずから神の祝福の流の中にある自分見出すことが出来るのであります。 


それは生長の家の“招神歌”第一首の 

【生きとし生けるもの生かし給へる御祖神(みおやがみ) 元つみたまゆ幸(さきは)へ給へ】 

と云う所と全く一致するのであります。


招神歌は自分のみで実修するときは高声で朗誦する必要はありません。 
『生きとし生けるものを生かしたまへる神よ、あなたの生命を吾に流れ入らしめ給え』 
と云う心で念ずる。 

そして静かにその文句を繰返し念じて、今ここに神の生命が生きているのだ。 
有難う御座います、有難う御座います と云う心になるのであります。 
その気持は唯感謝だけで他の気持は何もなくなるべきであります。 

何とか他に自分の註文をして、祈りをしなければ効かんように考えたり、神様も私の願いに
気がつかないかも知れない、私忘れていらっしゃるか知れないなどとか思って 
『神よ吾を覚え給え』 などと祈る宗派もありますが、
之では神を信じていることにはならないのです。

本当の信仰は、神様に全部をまかす。 
神様に全然『自分』と云う牙城を明け渡すのです。 

すっかり神様に城を明け渡してしまって 『今神様のみがここにまします』 
と深くそれを思念する心境に達するのです。 

【わが生くるはわが力ならず、天地を貫きて生くる祖神(みおや)の生命(いのち)】 と云う、
“招神歌”の第二首がそれであります。

この歌の心を深く繰返し念じます。 
自分の生きているのが自分の力でないことが判るのですから、

わが一挙手一投足が神様の御心のままでありますように、
自分の生活の一瞬一刻が、神様の生活の一瞬一刻でありますように、
斯う云う祈りの心が起ってまいります。 

そうすると神の生活が、吾々の一挙手一投足にあらわれ、生命の世界の素晴らしい荘厳さが生活に、今此処に内からの催しと、外からの催しとで実現する境に達するのであります。

尤も神様は自由でありますから、その生活はどんな形で現れるかも知れない。 
それは吾々の予想しないような順序を以て外の境遇から推進めて来られるかも知れない。 

どんな風に現れて来ようとも、 ‘至善なる神様からは悪いことが出てくる筈がない’、 
若し悪く見ゆることが出て来たなら、吾々の過去の方向の間違った生活又は心が転回する為の
自壊作用として現れるのであって、吾々は決して恐れることは要らないのであります。


悪と見ゆることは皆迷いの自壊する為に現れるのであります。 
それは唯真理が実現する為に出て来るのであります。 
それは恰も今まで間違った方向に歩いていた者が壁にぶつかって
自ら向きが変わるようなものである。 

悪いことは自然に消えてゆくのです。 
出て来ること、皆よい事だと信ずるのが、神への全托であり、自分がなくなる事であります。 

そうなると何でも有難く何でも美しく、何も求めるものがなく、
任せ切りの本当に澄み切った心境になるのであります。


何も求めないけれど、神様がここに生きていらっしゃる。 
神は総ての総てであるから既に自分には総てが備わっているのだ。 
自分は幸福であるより仕方がない、自分の周囲には有難いことしか起りようがない、
自分の一挙手一投足、一刻一瞬は神の営みであると感じられる心境に達するのであります。 

 
その心境を呼び出す歌が第三首目の“招神歌” 

【わが業はわが為すに非ず、天地を貫きて生くる御祖神(みおや)の権能(ちから)】 

であります。 

自分が為すのは、神が為し給うのだと云う心境です。 神我一体です。 
神我一体になるためには、『我』と云うものがあって、『神』と対立していて、
この二つが結びつくのでは駄目です。 

自分を全然、神にまで自己滅却して、神への無条件降伏をなしたとき、
進駐軍が入ってくるように神が入って来て、神のみになってしまってそのときに出て来る 
『神は全智全能で何でも出来る』 と云う大きな自覚こそ本当であり、
『我』が残っていて 『我は全智全能だ、何でも出来る』 と、考えたら増上慢であります。

 
だから吾らの祈りは 『神の生命を吾に流れ入らしめ給え、吾に神の生命を、智慧を、愛を、
実現せしめ給え。私の一挙手一投足が、神様、あなたの生命の実現でありますように』 
と云うようでなければならない。

此の無我の祈りを繰返しているうちに、 

『神我れに宿り給うて我れとして神のみ業を為さしめ給う』 

と云う自覚が出て来て、神と全く和解した心境になるのであります。 

神と対立している間は、神に対して本当に和解していないのであります。 
神への無条件降伏による神への全的和解の行事が“神想観”なのであります。 

 
第四首目の 

【天地のみ親の道を伝えんと生(あ)れましし、生長の家の大神護りませ】 

は、神想観実修の途中の心境中、悪霊の憑依などの障礙の起らないように
生長の家の神様の御降臨を願う歌であります。


皆さんは本当に毎日 『神想観』 を実修していらっしゃいますか。

一日でも 『神想観』 を止めては可けません。 

誌友の中には教法を聞いたり、聖典を読んだり、或は神に就いての議論を戦わしたりするのは
好きだけれども、神想観をやるのは好きではないと云う人があります。 

以てのほかです。

吾々は毎日神想観を修して神と離れない心境になることが必要なのです。 
でなければ、何時の間にか神様から離れた利己主義的な自分と云うもが出来上がって
しまうであります。

吾々の日常生活と云うものは、 『対立』 と見え、 『個我』 と見え、 『物質』 
と見える世界に棲んでいるのですから、どうしてもそう云う誘惑と暗示に満ちた世界であります。 その誘惑と暗示を放って置いてはいけないのです。 

吾々は一日の中、少なくとも1時間以上は 〈これを30分づつ朝晩に分けても好い〉 
神の方へすっかり心を振り向ける時間を作らなければならないのです。

その為に 『神想観』 はどうしても必要なのです。

  ・・・

 *”童子 さま”ブログ

  (1)平成25年(2013)5月23日(木)
     http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/24439047.html

  (2)平成25年(2013)5月24日(金)
     http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/24442478.html

  (3)平成25年(2013)5月27日(月)
     http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/24452142.html

           <感謝合掌 平成26年3月10日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月5日 頓首再拝>)

神想観とは、神の決算報告書を承認することにある - 伝統

2019/11/08 (Fri) 18:10:38


         *「詳説 神想観」(P48)より

神は愛であり、全智でありすべてを知り尽くし、すべての幸福を吾々に与え給うている ――
もう決算はきまっているのです。もう決算報告書は書かれているのです。
決算報告書を前にして祈って見たところが決算は殖えもしないし、減りもしないのです。

ただ吾々の役目は神から与えられた決算報告書を正しく算出することなのです。


「お前は神の子である」
「ハイハイ左様でございます」


「お前に無限万円の富を与えてある」
「ハイハイ確かに左様でございます」

これが正しい算出でありまして、これが祈りであり、神想観であります。

与えられた勘定書を精確に承認することが神想観であり、祈りであります。

           <感謝合掌 平成26年4月10日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月8日 頓首再拝>)

神想観の極意 - 伝統

2019/11/12 (Tue) 14:07:11


         *『生命の實相』第六巻聖霊篇下(P6~8)より

「生長の家」 では神想観といって、
坐禅観法によって自己の実相を観ずるような修行をいたしますから、
大変むずかしい修行のように思う方がありますが、

神想観の修行というのは、この 「ハイハイ、ありがとうございます」 の修行なので
少しもむずかしいことはないのであります。

「お前は神の子だ」 と自分の心に呼んで

「ハイハイ、わたしは神の子でございます、ありがとうございます」

と受ける行事が神想観なのであります。

神想観において

「神の生命(せいめい)がさきはえられて、
自分に流れ入って神の生命(せいめい)が自分の生命(せいめい)となる」

と観じながら静かに息を吸うのは、

「お前は神の子だ」 と自分自身に対して呼びかけ、
その事実に対して注意を促しているのと同様なのであります。

つぎに静かに腹中に息を湛(たた)えながら、

「神の生命(いかすちから)に満たされている、生かされている」

と観ずるのは、

「ハイハイ、わたしは神の子でございます、ありがとうございます」

と素直に受けることなのであります。

その間(あいだ)になんらの理屈もない、議論もない、
ただ事実の実相(ありのまま)を素直に受けるほかに何もないのであります。

(中略)

「生長の家」で「人間は神の子だ」と念じますのは、

「もう神の子である、本来神の世嗣(よつぎ)である」

と創造(せいちょう)の宇宙(いえ)の神様のおっしゃることばを

「ハイハイ、ありがとうございます」

と確認して実相をお受けすればそれでよいのであります。

その間(あいだ)に微塵も隙がない。もう救われている。
み心は実相の世界にすでに成っている ―― すでに「事おわれり」であります。

(中略)

「すでにお前は神の子である。無病である。無罪である。不苦である。不悩である」

という神示を

「ハイハイ、ありがとうございます」

と素直に受けるがよいのであります。

イエスはおおせられました。

「およそ幼児(おさなご)のごとくに神の国をうくる者ならずば、之に入(い)ることは能わず」
(『マルコ伝第十章』)と。

「生長の家」で行ずる神想観の祈りは、このように絶対他力への帰命信頼の表白でありまして、
何々の修行によって救われる資格ができるのでもなければ、祈りますからその功徳によって
救ってくださいというのでもないのであります。

           <感謝合掌 平成26年4月28日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月12日 頓首再拝>)

《神想観は吾が全身真理となる行法なり》 - 伝統

2019/11/13 (Wed) 08:55:06

《神想観は吾が全身真理となる行法なり》

         *「詳説 神想観」(P57)より


全身が天地の真理と一つなるなり。

全身が大地の真理と一つになるとき、既に全身なきなり。

天地の真理のみあり。そこに真理が顕現せるなり。

真理の全心身なり。この身このままが真理の顕現なるなり。

全身「真理」そのものとなるとき、この一肉塊すでに肉塊にあらずして、宇宙にひろがるなり。
宇宙が一身につつみ込まれてあるなり。

全身が宇宙にひろがり、宇宙が一身につつみ込まれてあるが故に全身に「一即多」を実現せるなり。


・・・

合掌の宗教的意義

         *「詳説 神想観」(P68)より


合掌は一切の面目が一つになるなり、

合掌は「一即多」の象徴なり、包容なり、帰一なり、

神我一体の象徴なり、自他一体の象徴なり、敬虔の象徴なり、

天地一体の象徴なり、陰陽調和の象徴なり、

かく座して、かく合掌して全身がそのまま真理の一魂となるなり。

           <感謝合掌 平成26年5月23日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月13日 頓首再拝>)

善のみに心を振向ける神想観の念じ方 - 伝統

2019/11/14 (Thu) 17:49:12


         *『眞理』第九巻生活篇(P336~337)より
          谷口雅春先生講話「眞・善・美の生活」より

「私は、今日(こんにち)、善なるもの、美なるもの、愛なるもののみを心を振向けるのである。

悪は私の心の視野から去ったのである。
醜(しゅう)なるもの、暗黒なるもの、憎悪、怨恨等は私の心から去ってしまったのである。

心のうちに思うものが実現するのであるから、
今後、私の身辺には、善なるもの、美なるもの、光なるもの、愛なるものが実現するのである。
心配や恐怖や取越苦労はわが心の中に座を占めることはできないのである。

ただ神のみ、わが心の中に座を占めたまうて、此処より、
善なるもの、美なるもの、光なるもの愛なるものを放射したまうのである。

私はその事を自分の心に、言ってきかせることを怠らないのである。

われは神の子である。
神はわが内に宿りたまう。
わが内に宿りたまう神は宇宙普遍の神である」

           <感謝合掌 平成26年5月28日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月14日 頓首再拝>)

神想観の姿勢 - 伝統

2019/11/15 (Fri) 12:34:09


            *『静思集』(P261~265)より

神想観をなすとき、先ず姿勢をととのえて此の全身にて神想観すべし。
なまくらな神想観なすべからず。全身が天地の真理と一つになるなり。、

全身が天地の真理と一つになる時、既に全身なきなり。
そこに真理が顕現するなり。
この身このまま真理の顕現となるなり。

かく言えば、いと難しきことかなと思う人もあるべけれども、
いと難しきことにはあらざるなり。

真理をまげることならば、いと難しきかも知らねども、
真理そのままとなるのであるから、少しも難しきことなきなり。

「至道無難」と碧巌録の公案にあるなり。

真理は難しきこと少しもなし。
ただ当り前が眞(まこと)なり。

上が上にあること、下が下にあること、
前が前になり、後(うしろ)が後になることが真理なり。

神想観の坐り方は、此の当り前なり。

足を踏みしだくは、下のものを下にあらしむるなり。
横すわり、鳶(とび)坐り、蟹股坐り等は、下のものが下にあらず横に崩れ、
左右にひろがり、前にはだかりて、真理を殺したる坐り方なり。

座禅の坐り方は理想に近きものなれども、足先が下にあらずして上にある点のみは、
下のものが上になりたる天地逆転なり。

足先を尻の下に敷きて坐褥(ざにく)の用に供すべし。
坐褥(ざにく)なくして座禅のときの如く尻が足の膝よりも位置高くなり、
上が上になり、下が下になるなり。

足が最も下に、その次は尻が下にあるなり。
足は正しくは、正三角形の台座を作るつもりで左足を右足の上に、右足の*(おやゆび)の
尖端が左足の外踝(そとくるぶし)に殆ど触れるほどにしてかさねて坐るなり。

左足の*(おやゆび)の先は、右足の内踝(うちくるぶし)の下にある窪(くぼ)みの
ところに嵌(はま)るなり。かく重ねて此の両足を坐褥(ざにく)としてその坐褥(ざにく)の
上に会陰部(えいんぶ<ありのとわたり>)を載せるなり。

   (*部の漢字は、足偏+母)

尻を後方へ引きて肛門は重ねたる足よりも後方にあらしむ。
背柱(せぼね)は前にあらず、後(うしろ)にあらず、中(ちゅう)の位置にあらしむるなり。
これを正式の坐法とす。

尻は蹠(かかと)が後方へ傾斜せる上に乗りたれば、自然の重みにて、
後(うしろ)が常に後にあろうとする傾向ありて、つとめずとも腰が伸びて坐れるなり。

慣れれば板の間に何も敷かずに1時間以上足痛むことなくしびれることなくして
このまま坐りつづくることを得べし。

膝を開かずにこの坐法を続くれば足先痛むことあり。
婦人は膝頭(ひざがしら)と膝頭との間を一握又は二握ほどの間隔にひらくべし。

されど婦人が袴(はかま)をはかぬ場合は膝を開くべからず。
両蹠(りょうあしうら)をX状に重ねてその上に尻を後方へつとめて引くように坐るべし。
X状の交差点よりも後方へ肛門をあらしめれば自然に腹の皮が上にのべるようにして坐るべし。

これ略正坐なり。
正式坐法の出来かねぬ時、又は正式坐法にて足痛む時はこの略坐法を用うべし。

強いて下腹を膨らすべからず。
尻を後(うしろ)へ引かずに、下腹に心気を凝(こ)めて腹を膨らせば、内臓が下垂することあり。
足の位置と、尻の位置とにて、自然に腹は伸びるなり。

鳩尾(みぞおち)を落すために身体(からだ)をかがむべからず。
鳩尾は下部の肋骨を上げる気持ちになれば凹(へこ)むなり。

坐(ざ)は頭を後方へ引き、後頭部に紐(ひも)をつけて神様より釣り上げられる気持ちで
頭を高くして坐すべし。


神想観の坐法はむずかしく見えて、いと易きなり。

上にある頭が最も上にあり、下にあるべき足が最も下にあり。
腹が前にあり、尻が後(うしろ)にあり、
脊柱(せぼね)は大黒柱の如く、腹と尻との中間より矗(すくすく)と立つなり。

胸に力を入れず、下重くして上軽く、頭は更に軽くして、天より釣り上げたる心持なり。

胸は空(あ)きて、胸中一物(いちもつ)もあらざるなり。腹中にも一物もなきなり。
一物なく胸に、腹に、神の生命(いのち)流れ入りなり。
静かに息して、神の生命(いのち)流れ入ると念ずるなり。


上のものが上に、下のものが下に、前のものが前に、後(うしろ)のものが後に、
中心が中心にありて全身がそのままに宇宙秩序の顕現せるなり。

全身そのままが宇宙の則(のり)なり。宇宙の真理なり。
斯(か)く坐ることが既に、全身が真理となるなり。
全身既に肉体に非ず、全身既に真理なるなり。


かくて今吾れ、合掌す。
合掌は顔の前に、中指が額の中央部に来る高さに、顔に触れざる限り出来るだけ顔に近づけて
力を入れずに合掌す。一切の面目(めんぼく)が一つなるなり。

合掌は「一即多」の象徴なり。包容なり。帰一なり。
神我一体の象徴なり。自他一体の象徴なり。
拝み合いの象徴なり。敬虔の象徴なり。
天地一体の象徴なり。陰陽調和の象徴なり。時間空間一融会(ゆうえ)の象徴なり。

かく坐し かく合掌して全身がそのまま真理の一団塊となるなり。

此の時、肉体がこのまま真理となるなり。
換言すれば既に肉体無きなり。
唯(ただ)坐ること。坐ること。坐ること大切なり。

           <感謝合掌 平成26年6月14日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月15日 頓首再拝>)

実相を観ずる - 伝統

2019/11/16 (Sat) 14:00:58

         *「生命の實相」第8巻観行篇(P2~14)

【実相を観ずる歌】


(一)
   神はすべてのすべて、
   神は完(また)き生命(いのち)、
   神は完(また)き英知(みちえ)、
   神は完(また)き聖愛(みあい)。
 
   すべてのものの内に、
   神の生命は生くる、
   神の英知は生くる、
   神の聖愛は生くる。

   神はすべてにして、
   すべて一体(ひとつ)なれば、
   よろずもの皆(みな)共通(ひとつ)の
   ちから是を生かせり。

   天地(あめつち)の創造主(つくりぬし)は、
   唯一つの神にませば、
   天地はただ一つに、
   いと妙に調和満つる。

   吾れ座す妙々実相世界、
   吾身(わがみ)は金剛実相神の子、
   万ず円満大調和、
   光明遍照実相世界。


(二)
   神は生命にして、
   吾れは神の子なれば、
   吾れはすべてを生かし、
   すべては吾れを生かす。

   神は愛にして、
   吾れは神の子なれば、
   吾れはすべてを愛し、
   すべては吾れを愛す。

   神は知恵にして、
   吾れは神の子なれば、
   吾れはすべてを知り、
   全てのもの吾を知れり。

   神はすべてにして、
   吾れは神の子なれば、
   吾れ祈れば天地(てんち)応え、
   吾れ動けば宇宙動く。

   吾れ座す妙々実相世界、
   吾身(わがみ)は金剛実相神の子、
   万ず円満大調和、
   光明遍照実相世界。


第1章 心の根本的調律法 より抜粋(P9~14)

生長の家の生き方はこれを約言すれば、調律された心の生活で成り立つのであります。


神想観とは、奥底にかくれている「傾向の心」「習慣の心」も引っくるめて
―― 全体を大実在の方へくるりと振り向けることによって、
魂の根本から平和を得ることを至上道としているのであります。

これには、ただ心の表面だけで神様と言ってみたり、阿弥陀さまととなえてみましても、
心の表面から隠れている95%の「習慣の心」までもスッカリ一つの目標へ
ひた向きにぐるりと向いてしまうことであります。
 
つまりわれわれはまず、大実在たる親さまの方へ真っ直ぐに振り向かねばならぬ。


しかしただ振り向いただけで、
レンズが半開きになっていたり、全開きになっていても曇っていたり、
邪魔物があったりしては完全に大実在のお光を受け入れることができないのであります。

この光の入るのを妨げる邪魔物はなんであるかと申しますと、顛倒妄想であります。
顛倒妄想というのは光明生命たる自己の本質を自覚せず、ありもせぬ不完全な妄想の影をある
と思って執着している迷いの念すなわち心の曇りでありまして、

たとえばレンズに曇りがありますと、いくら無限の光にとりまかれていましても、
その光を完全に受けることができないようなものであります。


この心のレンズの曇りを除(と)り去って、お光とお救いをいただく方法は、
宗教によっていろいろあることは前に述べたところであります。


わが「神想観」は、

われわれの生命(せいめい)の親様を専念専思することによって大生命に
帰一し、この身このまま大生命と一体となり、

弘法大師が「即身成仏」といわれたような円融無碍の境地となり、
一挙手一投足がキリスト教で言うところの「みこころにかなう状態」になり、
日本古神道で言うところの惟神(かんながら)の生活ができるようにならせようとする

行法であります。

この修行においては、必ずしも念を排斥せず、招神歌(かみよびうた)によって「神想観」を
守護し給うべく顕われたまいし生長の家の神を招神(しょうしん)し奉りて、

不完全な止観(不完全な精神統一)の中途の状態においてわれらに禍いせんとする陰魔(おんま)、
外魔(げま)、時魅(じみ)等の魔障を防ぎて後方の障礙(しょうげ)を全然断ち、同時に
心をひたすら大生命なる親様に集中して、なんの危なげもなく、親さまなる大生命と一体と
なる修行ができるところに特長があるのであります。

           <感謝合掌 平成26年8月3日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月16日 頓首再拝>)

『全き神のいのち』に浸りきる - 伝統

2019/11/17 (Sun) 13:49:51


       *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(P15~17)より

われを導くものは神である。(これは私自身だけのことを言っているのではない)
すべての人間は「われを導くものは神である」と自覚しなければならない。

神の国に到る「道」は、自分のうちにある。
われは「道」なり ―― とイエス・キリストは言っている。

「われは真理なり、道なり、生命(いのち)なり、われによらずして神の国に到りし者なし」
とは肉体イエスのことではない。
万人の”うち”に宿る真理なるキリスト(Chrisut Ideal)のことである。

静かに瞑目してわが内に無限の叡智が宿っていることを黙然せよ。
そこから、その日その日なすべき「道」が示される。
神は「智慧」であり、「道」であり、われらの内に宿ってい給うのである。

・・・

まのあたり、今、ここに、この身のうちに、神の”いのち”宿りいますを感じ、
神の智慧宿りいますを感じ、神の愛に取り巻かれてあることを感ずる者は幸いである。

しかしそれを感じえない者はどうしたらよいか?

 ―― なぜ彼は感じないのであるか?
 ―― 彼自身が感じないからである。

 ―― どうしたら感じるようになるか?
 ―― 彼自身が感ずるようにすればよいのである。

 ―― 感ずるようにするにはどうしたらよいか?
 ―― 感ずるということは、一つの認識作用であるから、感ずる対象と同じ波を
    こちらが起さねばならぬ。神を感ずるには、神は愛あるから、
    愛の波を自分の内に動かさねばならぬ。


静かに眼を瞑って、

「われはすべてを愛し
すべてはわれを愛す」

と「実相を観ずる歌」の一節を繰り返し念ずるがよい
―― その心のリズムのうちにわれわれは神を感ずることができるのである。

また神は「生命(いのち)」である。
すべてを生かしているのは神の生命(せいめい)であるから、われらが神を自分のうちに感ずる
ためには、すべてを生かす心を起したときに、その心のリズムの中に、その心の波長の上に、
霊感的に感応するところの神を感ずることができるのである。

だから神を心に感じようと思うならば、時々、寸暇を利用して瞑目心を静め、
「実相を観ずる歌」の一節 ――  

  「神は生命(いのち)にして
   我は神の子なれば
   我はすべてを生かし、
   すべては我を生かす」

と心の中に繰り返し繰り返し念ずるならば、「個(ひとり)」と「全体」との
つながりの意識が蘇生(よみがえ)ってきて、神を更に感ずることができるのである。

             <感謝合掌 平成26年8月7日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月17日 頓首再拝>)

神を把握し、神に浸りきれ! - 伝統

2019/11/18 (Mon) 14:43:53


       *『生命の實相』第三十八巻幸福篇下(P26~27))より


「神はすべてのすべて・・・」
眼を瞑ってかく念ぜよ。

繰り返し念じつつ自分の周囲に、そして宇宙いっぱいに、そして自分のうちに、
あらゆるいっさいのうちに、神満ちていますという思いをもって心を満たせよ。

ほかに何物をも思念のうちに求めるにはおよばない。

神はすべてであり、いっさいであるからである。

ます神を把握せよ。その人はいっさいを把握するであろう。


  ・・・


「神はすべてのすべて・・・神は全(また)き生命(いのち)」と
瞑目して繰り返し繰り返し念ぜよ。

かく念じつつ、

神の生命(いのち)が、宇宙全体に、すべてのものの内に、いっさいのものの内に、そして
「自分の内にも充ち満ち、その『全き神のいのち』にすっかり包み込まれ、それに生かされている」

との深い実感のうちに、30分間を浸りきることは極めて尊き神想観である。

病ある者はすみやかに癒されるであろう。

観中、「病を癒す」などの念を起こす必要はない。
神の生命(いのち)の中に没入しているかぎりにおいて、そこには病は無いのであるから。

         <感謝合掌 平成26年8月13日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月18日 頓首再拝>)

普遍の智慧と一つになる - 伝統

2019/11/19 (Tue) 12:47:03


     *『生命の實相第三十八巻幸福篇下』(P27)より

瞑目精神を統一して、
「神はすべてのすべて・・・神は全(また)き叡智(みちえ)」と
繰り返し繰り返し念ぜよ。

そして宇宙全体に、すべてのもののうちに、さらに自分自身のうちにも、
神の智慧充満せりと観じ神の智慧の中に溶け込んでしまうのである。

神はすべてのすべて、全てに行きわたって存在する智慧であるならば、
その智慧の中に没入するとき、われらは知らないものは一つもないのである。

現在意識が何を知らなくともわれらは恐れることは要らないのである。
現在意識は「脳髄」という個別的反射鏡の上に投光された
普遍意識(すべてに満ちて行きわたる智慧)の一部が反射し出されたる反射光にすぎない。

反射光が何を知っていようとも、また、何を知らずにいようとも、自分のうちに宿り給う
普遍意識は”すべて”を知っているのであるから、われらはこの普遍意識の中に没入し、
普遍の智慧と一つになるとき、知らず知らず万事が都合よくゆくのである。

「何でも都合よくゆく」という人は
普遍の智慧を知らず知らず”わがもの”としている人である。

普遍意識は自分のうちにも宿ると同時に、他のうちにも宿るが故に、
自分自身にみならず、他をを知らず知らずに動かしつつ、
万事都合のよい配合にまでいっさいを動かしてゆくのである。

            <感謝合掌 平成26月8月18日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月19日 頓首再拝>)

神の聖愛(みあい)を観ずる - 伝統

2019/11/22 (Fri) 14:00:22


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(P28)より

今日はさらに、「神はすべてのすべて・・・神は完(また)き聖愛(みあい)・・・」と念じよう。
そしてすべてのものの内に、宇宙全体の神の聖愛(みあい)の充ち満ちていること、
そして自分のうちにも神の聖愛(みあい)が充ち満ちていることを深き精神統一のうちに念じよう。

そして「神の愛に護られ、生かされ、育てられている」ことを念じよう。

すべての不安と恐怖とは、この神の聖愛(みあい)を観ずる神想観によって
消滅してしまうのである。

すべての自己の不安、焦燥がこの神想観によって消滅したとき、その反映として
自分の家族の精神状態が非常に円満になるものである。

そしていっさいが神の聖愛(みあい)で包まれていることを心の底深く知るがゆえに、
感覚的な麻酔的陶酔の必要が消える。飲酒癖、喫煙癖などはかかる心境に達したとき、
本当に自然に、抑制する必要なく剥落する・・・。

         <感謝合掌 平成26年8月25日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月22日 頓首再拝>)

あらゆるところに神を見出す - 伝統

2019/11/24 (Sun) 19:04:45


      *『生命の實相』第38巻幸福篇(下)(P29~30)より

神は光である。
わが室(へや)の窓の外に、
神の光は待っているのである。
倦(う)まず撓(たゆ)まず。


わたしはいつまで神がそこにいることに気がつかなかったろう。
神はわたしがその窓を開くのを待っているのだ。
神はいないのではない。
わたしが心も窓を開かなかったのだ。

―― 光はわたしの内にある
だれかが戸を叩いている。
神がわたしの家の門口(かどぐち)に来て戸を叩いているのだ。

わたしは神を求めなかったのに、
神はわたしを求めてい給うのだ。

わたしはなんという親不孝者だったのだろう。
わたしが神の膝に跳びつきさえすれば
すべてはすでに与えられているのだ。


神のないところに生命(せいめい)はない。
神のないところに美はない。
神のないところに智慧はない。
神のないところに愛はない。

生命(せいめい)があり、
美があり、
智慧があり、
愛があるということは、
そこに神が在(いま)すということだ。

すべてのものに、
自分の外(そと)に、
自分の内に。

かくてわたしはあらゆるところに神を見出すのだ。

         <感謝合掌 平成26年8月30日 頓首再拝>

  (   <感謝合掌 令和元年11月24日 頓首再拝>)

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